樋口円香「天国とは程遠く、地獄と呼ぶには温かで」 (9)


 わざとらしい咳払いが背後で響いて、そこからさらに数拍置いて「円香、今いいか」と声がした。

 振り返ればそこには私を担当しているプロデューサーがいて、何やら紙束を抱えている。


「だめです」

「え」

「私がそう言ったらあなたは、はいそうですか、と諦めるんですか」

「また、タイミングを改めるとは思うけど……だめなのか」

「いえ。夕方からのレッスンまでであれば」

「ああ、うん。長くはかからないよ。……それ、歌詞カードか? 昨日の復習してたんだな」

「……早く本題に入ってもらえますか。要件は?」

「あはは。うん、オーディションの話が来てて」

「それは、私に?」

「うん。円香個人に」

「そうですか」

「まぁ、オーディションって言っても形式は色々でさ。今回みたいに、候補の子にだけ声をかけるのもあって……」

「それが、私に」

「そう、円香に。詳しくは資料を見て欲しいんだけど」


 言って、彼は抱えている紙束をどさりと私の目の前に置いて、その上から一枚を取って、手渡してくる。

 受け取った資料をざっと斜め読みしてみれば、なるほど彼の説明どおり概ね一般的なオーディションの要項が並んでいた。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1586776997


 しかし、これまでに受けてきたオーデションと異なることもあった。

 資料の最上部中央には、私もよく知るテレビ番組のタイトルがでかでかと印字されていて、共演予定の人たちも当然私のよく知る名前が並んでいるのである。


「……これを、私に受けろ、と。そう言うんですか」

「俺はそうして欲しい、と思ってる」

「共演する方の欄、見ましたか。アイドルのこと好きじゃなくても知ってるような有名な方ばかりで」

「うん。そうだね」


 そんなことはわかっている、と言わんばかりにこの男は頷いて、続く私の言葉を待っている。


「本当にこのオーディションに私が相応しいと思うんですか」

「ああ、思う。……それに、滅多に来ないチャンスだよ」

「……。共演予定の方じゃなくても、こんなレベルの高いオーディションに来る子なんて、当然それに見合った実力のある子たちなんですよね」

「そうなるだろうなぁ」

「つまり、これまで以上に、難易度が高いわけです」

「ああ」

「勝算がない、とは思わないんですか」

「思わない。円香なら合格する。そう信じてる」

「…………本当に、勝手な人ですね。勝手なことばかり言って、勝手に期待して、勝手に信じて」

「でも、どんな結果だろうと、勝手に失望したりなんか、絶対しない」

「………………。そう、ですか」

「何があっても円香は円香で、このオーディションで決まるのはその番組に出られるか、出られないか。それだけだよ。何も生き死にを賭けてるわけじゃない」

「……言うのは簡単ですよね」

「うん。簡単だ。だから俺は今日も、無責任に円香に期待しているし、勝手に合格を信じてる。勝手、で申し訳ないんだけど」

「申し訳なく思ってるのに、顧みないんですか」

「ああ。そういう、仕事だからな」

「…………わかりました。乗せられてあげます。歌って踊る。そういう、仕事ですから」


 はぁ、とため息を吐いて資料を突き返す。

 プロデューサーは「ん」と言って受け取って、微笑んだ。


「オーディションについて、要点をまとめてメールしておいてください。なるべく早く」

「ああ。超特急でするよ」

「それから……はづきさんに伝えてください」

「レッスン室の鍵、借りていきます……だろ? もう借りてあるよ」

「……。では、早く渡していただけますか」

「うん、頑張って。あとで顔出すよ」

「結構です」


 ソファから立ち上がり、鞄を肩にかける。

 気付けば少しだけ歩調の速くなった私がいて、手のひらの中にあるレッスン室の鍵はじんわりと汗をかいていた。





 手帳から顔を上げ、視線を横にずらす。

 視界の端で、びしりとスーツを着込んだプロデューサーがビジネスバッグをぱちん、と閉めて「よし」と呟いているところだった。

 いつも以上に気合が入っていることが、私の目からでもわかる彼は、先程閉じたばかりの鞄を再び開けて、もう一度中身をあれこれ確認し始める。

 なるほど。

 あれが傍にいれば、私は冷静でいられるな。

 半分呆れながら、ソファの背もたれに体重を預けて、そう思った。


「覚悟は決まりましたか」


 いい加減に焦れてきた私は、デスクの上で深呼吸を繰り返しているプロデューサーへ声を投げる。


「ああ。円香は」

「私はいつもどおり、普通です」

「……頼もしいな」

「そう言うあなたは、今日も頼りないですね」

「情けないことに、な。……よし、じゃあ行こうか」


 彼は、じゃらりと社用車の鍵を掲げて、言う。

 それに私は無言の肯定を返して、玄関へと歩いていく彼に続いた。




 社用車に乗り込み、ややかたいシートに深く座る。

 窓の外へとぼんやり視線を放り、目を閉じた。

 やがて電子音が静かに耳に届いて、エンジンが始動したことを知る。

 とんっ、たんっ、という駐車場を出る際の振動が背中に伝わったあとは、穏やかで、心地の良い揺れのみとなった。


「円香、何か飲み物とか」

「必要ないです」


 短く辞して、言葉を続けるべく口を開く。

 すると、「現場入り前ですから」と声が重なった。


「流石、円香はもうプロだよ」

「……わかっているなら、今の問いの意味はなんなんですか」

「さぁ、なんだろうなぁ。……まぁ、オーディションが終わった頃には準備しておくから、リクエストがあれば今のうちに聞いておくよ」

「……はぁ。…………お任せします」

「了解。ミネラルウォーター、だと縁起が悪いかな」


 にやりと口角を上げて、いつかに晒してしまった醜態を茶化してくるプロデューサーには無視で以て返し、再び目を閉じた。




 しばらくして、車が後退していることを示す音が私を呼び戻す。

 瞼を上げて、窓の外の景色を見る。

 周囲に停まっている車はいかにも社用車、といった出で立ちのものばかりで、オーディションの会場に到着したのだ、とわかった。


「発声、車の中でやっていくだろ。俺は出てるから」


 声と同時くらいに、運転席のドアがばたんと閉じる音がして、プロデューサーが死角へ消える。

 こういう、気遣いができるところはあの男の数少ない長所であるな、と胸の内で少し褒めてやる。

 勿論、直接伝えることはない。

 すぅー、と息を吸って肺に空気が満ちる。

 今度は押し出して、また吸う。

 それ何度か繰り返したのちに、簡単なウォーミングアップに努めた。


 そうして、ひとしきりの準備を整えた私は覚悟を決めて、車を降りた。


「…………行けるね」

「もしかして、ずっとそこにいたんですか」

「いや、今来たとこだよ」

「もう少し、マシな嘘をついてください」


 にっ、と笑んで「大丈夫。気楽に行こう」と歩き出すプロデューサーの背中を数秒だけ眺め、ややあって私も追いかけた。




 オーデションが行われる建物へ入り、待機場所として、いくつかある部屋の中の一つに通される。

 そこでは、同じオーディションを受けるのであろう女の子たちが控えていて、思い思いの形で時間を使っていた。


 耳に届いてくる会話は、大概が不安の色を孕んでいて、私まで胸がぎゅうっとしてしまう。

 はぁ、と不安を息に乗せて吐き出して、隣のプロデューサーに視線を移す。


「なんか、いつかを思い出しますね」

「なんか、いつかを思い出すな」


 声が重なって、互いに鼻から間抜けな息が漏れる。


「あなたも、そう思いますか」

「ああ」

「みんな、みんな、うんざりするくらい一回一回に全力で」

「うん」

「結果の通知なんて、何日も先なのに、勝手に自己評価して、絶望して」

「……うん」

「暑苦しい世界ですよね」

「……でも、この世界のこと円香、案外気に入ってるんだろ」

「…………俺は分かってる、とでも言いたげな顔ですね。端的に言ってムカつきます」

「それは失礼」


 つい数時間前に、事務所で緊張をあらわにしていた男と同一人物だとは思えないほどに、彼はけろりとしている。

 この段になって、ようやく、この男は私のために緊張を演じていたのだ、と悟った。


「大丈夫だよ、円香なら。誰より頑張ってきたんだ。保証する」

「相変わらず臆面もなく歯の浮くようなことを言うんですね」

「それが仕事だからな」

「……大層なお仕事ですね。だいたい、誰より頑張ってる、だなんて誰がどうやって保証するんですか」

「俺だよ。俺がそう思ったから、俺が保証する」

「………………」


 自信たっぷりにそう言ってのける彼に、何も言い返すことができず、押し黙ってしまう。

 やっとのことで絞り出せたのは「そうですか」という情けないものだった。


「……ここ、騒がしかったら外の空気吸ってきてもいいからな。何かあれば呼びに行くし」

「余計な気を回してもらわなくて結構です」

「そうか? 遠慮せずに落ち着ける場所にいていいんだぞ?」

「はい。……ですから、ここで」

「…………なるほど」

「そのにやついた顔をやめてください。他意はないですから」

「……帰り、ケーキでも食って帰ろうか」

「結構です」

「相変わらず、手厳しいなぁ……」


 控え室のドアにノックの音が飛び込んで、間髪入れずに「十六番から二十番までの方お入りください」と扉の向こうから呼ばれた。


「出番、みたいですね」

「ああ、いってらっしゃい。信じてるよ」

「月並みな激励、ありがとうございます」

「あはは。そうだな、月並みだ。でも、世界の誰より円香を信じてる」

「………………それくらい、知ってます」

「うん」

「では、ミスター・ビリーバー。せいぜいそこで両手を合わせて私が戻るまで祈っていたらどうですか。……そうしたら、帰りにケーキに連れていかれてあげるのも、やぶさかではありませんので」

「……よし、任せてくれ。祈るのは大得意だ」


 二度目となるプロデューサーの「行ってらっしゃい」を背中で聞いて、控え室を出る。




目下のところの悩みは、戻ったときに「ただいま」と言うかどうか、それくらいだった。




おわり

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