久城一弥「据え膳?」ヴィクトリカ「喰わぬは男の恥なのだろう?」 (12)

「久城」
「ん……なんだい、ヴィクトリカ?」

第二次世界大戦終結後。
嵐が過ぎ去り、ヴィクトリカ・ド・ブロアと久城一弥は新大陸で共に暮らしていた。
こじんまりとしたアパートメントでの生活は、一弥はともかくヴィクトリカにとってはさぞこたえるだろうと思われたが、意外にも彼女は順応して快適に過ごしている。

もっとも根っからのお姫様体質であるヴィクトリカが新生活を謳歌しているのは、ひとえに根っからの苦労人であり奴隷体質である一弥の献身によって支えられていることは言うまでもなく明白であり、生活を維持するために記者としての仕事をこなし、毎日くたくたになって帰宅して家事をひと通り終えると、ソファに横たわり泥のように眠っていた。

「よかった。起きていたか」
「いや、寝てたけど……どうしたのさ」

寝ぼけ眼を擦りつつ、一弥が尋ねると。

「知恵の泉が告げているのだ」
「へぇ……なんて?」
「今夜は久城に優しくしてもらえと」

驚きに一弥はパチクリと目をしばたかせた。

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「えっと……ヴィクトリカ?」
「来たまえ」
「あ、うん」

言われた意味がわからず困惑する一弥に説明するより先に、ヴィクトリカが促す。
問答無用な彼女に付き従い、寝台へ向かう。

ぽふっと、小柄なヴィクトリカが寝転ぶ。

「なにをぼさっとしている。来い、久城」
「はあ……失礼します」

手招きされたので素直に隣に寝てみたけど。

「あのさ、ヴィクトリカ」
「なんだね、久城」
「これ、どういう状況?」

未だ事態が飲み込めない一弥の素朴な質問の答えを、ヴィクトリカは知恵の泉から得た。

「君の母国では『据え膳』と呼ぶそうだな」
「据え膳?」
「喰わぬは男の恥なのだろう?」

楽しげに口の端をつり上げるヴィクトリカはちらと久城を流し見て、露骨に誘う。
事ここに及んでようやく自らが置かれた立場を理解した一弥がゴクリと生唾を飲み込む。

「据え膳って……君、意味わかってるの?」
「もちろんだとも。同衾しているのだから」
「ど、同衾って……やめなよ、はしたない」

久城はもう困ったやら恥ずかしいやらでヴィクトリカの顔をまともに見れなかった。
どうせ、いつも通り沈着冷静さを保ちつつ、こちらの反応を見て揶揄っているのだろう。

「久城、こっちを見たまえ」
「やだよ。どうせ見たら君はこう言うんだ。おや、久城。顔が赤いぞ。熱でもあるのかねってね。そのくらい僕にだってわかるよ」
「いいから、こっちを見るんだ」

見たら絶対に馬鹿にされるとわかっている。
それでも何故だろう。抗うことは出来ない。
これが惚れた弱みと理解して覚悟を決めた。

「わかったよ……なんだい、ヴィクトリカ」

久城は見た。顔が真っ赤なヴィクトリカを。

「君、顔が赤いよ? 熱でもあるのかい?」
「測ってみたまえ」
「どれどれ……」

許可を得たので彼女の丸い額に手を置く。
ヴィクトリカは普段から体温が高いけど。
それにしても今の彼女の体温は熱かった。

「わわっ、大変だ! 君、熱があるよ!?」
「久城が隣に居るからな」
「はい? それって、どういう意味?」

もしや職場から風邪菌を拾って移してしまったかしらんと、青ざめる久城の手に彼女は。

「しばらく、こうしていたまえ」
「ヴィ、ヴィクトリカ……?」
「君の手のひらは、とても心地いい」

そっと自らの小さな手を重ねて、瞑目した。

長いまつ毛。
端正な顔立ち。
銀色の髪と、上気した薔薇色の頬。
ぷっくりとした、さくらんぼ色の唇。

目を閉じているからこそ、久城はヴィクトリカの美しさを改めて実感することが出来た。

ヴィクトリカは綺麗だ。
近頃はかわいいよりも美しさが際立つ。
ビスクドールよりもずっと生々しい。

生きた女の子であると実感した久城の視線が彼女の慎ましい胸元に注がれる。
寝巻き代わりの着物の襟元が開いている。
そこには控えめながらもたしかな膨らみがあって、ヴィクトリカの成長が感じられた。

「久城」
「わっ! な、なんだい、ヴィクトリカ」
「君は今、私の胸元を凝視しているな」
「ど、どうしてわかるの!?」
「わざと襟元を開いていたからわかる」

目を瞑ったままヴィクトリカは看破した。
いや、最初からそう仕向けていたらしい。
一弥はまんまとそのエサに釣られたのだ。

「君ね、男心を弄ぶのは感心しないな」
「何故かね?」
「だって、この状況でそんなことされたら」
「我慢が出来なくなると?」
「まあ……僕だって男だからね」

おかしい、説教をしようとした筈なのに。
こうも見透かされると、調子が狂う。
案の定、ヴィクトリカのペースであった。

「我慢は不要だ、久城」
「そんなこと言ったって物事には順序が」
「ならば接吻から始めるかね?」

接吻。
咄嗟に久城はその意味を見失う。
はて、接吻とはなんぞや。
どうすればいいのかしらん。

「なんだ、やりかたがわからないのか?」
「……君は知っているような口ぶりだね」
「もちろん、存じているとも。なにもかも」

知らぬことなどないと尊大に言ってのけ、ヴィクトリカは久城の手を口元へと運ぶ。
温かく柔らかなものが、手の甲に触れた。

「ちょ! な、なにしてるのさ!?」
「接吻に決まっているだろう」
「や、やめなよ、そんなこと!」
「……久城は嫌か?」

言われてはっとする。
ヴィクトリカの声が震えていた。
拒絶の言葉に怯えているのだ。

一弥は自らの考えなしの発言を悔やんだ。
ヴィクトリカは人一倍繊細な女の子である。
彼女を少しでも傷つけた自分が許せない。

どうすればいい。
どうしたら、ヴィクトリカを癒せるのか。
言葉では無意味だと経験から知っている。

ならば、行動あるのみ。それが日本男子だ。

「ちょっと失礼するよ、ヴィクトリカ」
「っ……」

彼女の小さな手を引き寄せて、口づけした。

「君は私に忠誠を誓っているつもりかね?」
「そんなんじゃないよ」
「では、どうして私の手に接吻した」
「君のことが好きだから」

久城一弥は騎士ではなく、ただの記者だ。
奴隷ではなく、彼女のパートナーである。
献身は義務ではなく自由意思より生じる。

「君はどうして僕の手に接吻したんだい?」
「私は……君に感謝している」
「だからその身を捧げるの? 自己犠牲で?」
「違う。そうじゃない」
「じゃあ、なんで?」
「わかって……久城」

わかりきったことを尋ねる一弥にヴィクトリカはまるで駄々を捏ねるようにぐずる。
わかってと言いながら、手に口づけをする。
しかし、一弥は甘やかすつもりはなかった。

「ちゃんと言うんだ、ヴィクトリカ」
「うう……久城のいじわる」
「その『久城』って呼びかたもやめて」
「く、久城は久城だろう……?」
「僕は君を名前で呼んでるよ」
「うう……もう許して」
「だぁめ。今夜だけは、許さない」

別に一弥は怒っているわけではない。
優しくヴィクトリカに諭しているだけだ。
そうされると、いかにプライドの高い彼女とて、無闇に反発することが出来なかった。

「か、一弥……」
「うん。なんだい、ヴィクトリカ」
「私は、君を……一弥のことが……!」

あとひといき。頑張れ、ヴィクトリカ。

「一弥のことが好き、だから……」
「だから?」
「い、今まで、言えなくて……」
「たった今、言えたじゃないか」

ヴィクトリカは頑張った。
一弥のことを下の名前で呼び想いを告げた。
努力は報われるべきである。
だから一弥は小さな身体をぎゅっと抱いた。

「ひゃっ……だめだ、一弥!」
「今更だめなんて、おかしなヴィクトリカ」
「そ、そうじゃないんだ! ふ、布団が!」
「布団?」

おや? 妙だ。布団が濡れて冷たくなってる。

「ヴィクトリカ、これはいったい……?」
「い、いいか、一弥。よく聞いてくれ」
「うん。聞かせて」
「一弥との良い雰囲気を壊したくなかった」
「だから?」
「だから私はずっと言い出せなかったのだ」
「なにを?」
「お、おしっこがしたいって……」
「フハッ!」

ああ、なるほど。要するにこれは『嵐』だ。

「フハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
「か、一弥あああああああああっ!?!!」

猛烈な勢力の嵐が吹き荒れる。
愉悦を含んだ、哄笑という名の、嵐。
その凄まじさにヴィクトリカの悲痛な叫び声がかき消され、一弥の耳には届かない。

何故だろう。
全然、ちっとも、笑い事ではないのに。
それでも、『嗤い事』としては成立する。

ヴィクトリカがおしっこを漏らした。
恐らくご自慢の『知恵の泉』から流れ出た。
そう考えると、おかしくて堪らなかった。

「ぐすんっ……一弥ぁ……私をひとりにするな」

ああ、ヴィクトリカ。
僕のかわいい、ヴィクトリカ。
君はどうして泣いているんだい?
ほら、嗤って。僕と同じように。
共に愉悦の淵に身投げしよう。

フハッ!

フハハハハハハハハハハハハハハッ!!!!

「一弥! 帰ってこい!! 私のもとへ!!」

目が覚めた。ここは、僕の居場所じゃない。

「ヴィクトリカ……?」
「ああ、一弥……よかった。また会えた」
「ごめん……ヴィクトリカ」
「もうどこにも行くな! 私のそばにいろ!」
「うん……ひとまずシーツを洗濯したらね」
「ばかっ……好き」

その晩、ヴィクトリカは世界地図を描いた。
ハートの形をしたその地図は乾いて消えて。
たしかな愛だけが、僕たちの間に芽生えた。


【GOSICK ーー知恵の泉が大洪水の巻ーー】


FIN

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