有栖川夏葉「トロピズム」 (10)


備え付けられたエアコンが、ごうごうと雄叫びを上げながら冷気を必死に吐き出していた。
窓から射し込んだ陽の光は、その健気な努力を嘲笑うかのように届く範囲の一切をじりじりと焦がす。

そんな、シーソーゲームのただ中に私たちはいた。

「暑いわね……」

もう何度目かもわからなくなったその言葉を吐き出せば、隣の運転席からも何度目かわからなくなった「暑いなぁ」が返ってきた。

全国的に記録的な猛暑となる。
確かに天気予報ではそのようなことを言っていた。
だからこそ、しっかりとした日焼け対策や十分な飲料を持って来たはずだった。

しかし、ここまでとは思っていなかった。

運転席にある車外温度の表示を見やれば、重度の風邪の時でもなければならないような数字が出ていた。

「人間だったら、インフルエンザくらいか」

私の視線に気が付いたのか、運転席の彼、アイドルである私のプロデュースを担当してくれているプロデューサーが冗談めかして言う。

「ええ。そうでなくてもきっと、すごく重症よ」
「夏葉、ちゃんと水分摂ってるか。喉が渇く前に飲むんだぞ」
「アナタこそ、しばらく飲んでないんじゃないかしら」

きゅるきゅると水筒の蓋を回して、彼に手渡す。

「これ、夏葉のだろ」
「アナタの水筒、もう空なんでしょう?」

私の言葉を受けて、プロデューサーは目を真ん丸にする。
どうやら気付かれていないとでも思っていたらしい。

「もらっちゃっていいのか」
「喉、渇いてるんでしょう? 見たらわかるわよ」

申し訳ないなぁ、と彼は呟いて水筒を軽く傾ける。
控えめな量を口に含んで、ごくりと飲み下す様をぼんやり眺めたあとで私は「アナタに倒れられる方が困るもの」と言った。


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ミュージックビデオの撮影のため、私とプロデューサーは田園風景が広がる田舎へと来ていた。

ぽつりぽつりと民家があるほかは、かなり先の山々に行き当たるまで見通せるほど一面に田園が広がっている。
最寄りのコンビニエンスストアは山を越えた先だと聞かされた時は、思わず笑ってしまったものだ。

そうした環境下での撮影は無事に終わり、私とプロデューサーは帰路についたわけであるが、そこからが問題だった。
空は澄み渡り、大きな入道雲が浮かぶ絶好の撮影日和ではあったけれど、あまりにも良い天気すぎた。

ほんの少し日向にいるだけで体力を奪われ、全身から水分が抜けていくような中で、スラックスとカッターシャツに身を包んでいたプロデューサーは私以上に疲れているに違いがなく、現にこうして私を上回る速度で飲み物を消費していた。

加えて、撮られる側である私はスタッフの人たちが何かと「有栖川さん」「有栖川さん」と飲み物や塩分、冷風機やら冷却スプレーやらで世話をやいてくれていたが、プロデューサーはそうではない。

だからこそ、彼の体調が心配だった。

けれども、そんな私の心配をよそに、プロデューサーはにこにことして「間接キス、ってやつか」とからから笑っている。

「せっかく私が心配しているのに、ふざけるなんて」
「あはは。ごめんごめん、でも大丈夫だから」

それに、と呟いて彼はゆるやかに車を減速させる。
果てしなく続くように思われた、変わり映えのしない風景の中に、ぽつんとバス停があった。


「こんなところに、バスが来るのね」
「どうだろう。もしかしたらもう廃線になってるかも。でも」
「でも?」
「いいものを見つけた」

言って、彼はエンジンをかけたまま車を降りる。手には財布が握られているところを見るに、何かを購入するつもりだろうか。

彼に続いて、私も車を降りてその後ろ姿に小走りで追いつく。

バス停の背面へとぐるりと回り込むと、そこには錆びついた自動販売機があった。

「これ、動くのよね」
「どうかな。まぁ、お金入れてみたらわかるよ」

言って、彼は財布から紙幣を取り出し投入していく。
お釣りとして吐き出されずにいるところを見るに、動いてはいるようだった。

「いけそうだ。夏葉は何飲む?」
「私はいいわよ。まだ水筒に残ってるから」
「でも、あの山を越えないとコンビニないんだぞ」

遠方に聳える山を彼は指で示す。
確かに、ここは甘えておく方が賢明かもしれない。

「じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
「さっきのお礼だと思って、な」
「間接キス、のかしら?」
「そっちはもうちょっとしっかりしたお礼をさせてくれ」
「あら、有栖川夏葉とのそれに見合うお返し、期待していいのかしら」
「もちろん。楽しみにしてくれていいよ」
「ふふ。いいわ、じゃあこの麦茶は前金ね」

指先で自動販売機のボタンを弾く。
するとほんの少しの間があってから、ごとりとペットボトルが落ちてきた。

「ほんとに、大丈夫かしら」

若干の不安が残る形で出てきたペットボトルを拾い上げる。
予想に反してひんやりと冷たく、賞味期限の表示も問題がなさそうだった。

プロデューサーは「念のため」とサイダーに加え、私と同じ麦茶を購入していた。

「それだけ買えば安心ね」
「だろ。…………あれ?」

お釣りを返却するレバーを何度も何度もがこがこと上下するも、反応はなさそうだった。

「飲まれたわね」
「飲まれてなるものか」

それから私は、残額が尽きるまで飲み物を購入し続ける彼の勇姿を見守る羽目になった。




「自動販売機で五千円も使う人、初めて見たわ」

後部座席に積み上げられている大量のペットボトルを見ながら、プロデューサーにそう言ってやると、彼は「あれ以外、方法がなかったでしょうが」と口をへの字に曲げた。

「それで、お返しっていうのは?」
「ああ。もうすぐだよ。車酔いとか、してない?」
「問題ないわよ。ふふ、心配性ね」
「そりゃあ、なぁ」

うねうねとした山道であることから、私の体調を案じてくれたのだろう。
このように、アイドルとなってしばらく経った今となっても、彼は私をガラス細工か何かのように扱う癖があった。
傍から見れば過保護と言う他ないのだが、こればかりは性分であるようで、一向に治る気配がない。
そんな彼の心配性にも、もう慣れた。
それに、私のことを思ってあれこれと手を尽くしてくれるのはありがたいことであるし、くすぐったく感じることははあれども、嫌ではなかった。
何より、私の隣に置いておくのには彼くらい心配性な方がどうにもバランスが良いらしい。

先に、先に、と一歩でも前へ進みたくてオーバーワーク気味になってしまうことが多い私に、適切な形でブレーキをかけてくれるのはいつだって彼だった。

「何、笑ってんの」
「何でもないわよ。ただ」
「ただ?」
「良い天気だと思って」

ややあって彼が「ああ」という低い声と共に頷いた。
その視線は、高く青々と広がる空ではなく私を射抜いている。

「確かに、良い天気だ」




「ごめん。眠いよな」

ヘアピンカーブの連続なども物ともせず、山道を軽やかに下っていく彼の運転をぼんやり眺めながら、ふわぁと大きくあくびをしたところ、彼が眉を下げて、困ったような、それでいて慈しむような顔をする。

「私こそ、ごめんなさい。運転してもらっているのに」
「……もうちょっとで着くはずなんだけど」

 思ったより遠かったな、と申し訳なさそうに言いながら、彼はシフトレバーをローギアに入れる。鮮やかなコーナリングで以て、角を折れると一気に視界が開けた。

眼前に広がったのは、一面の金色。見渡す限りの向日葵畑だった。
陽の光を浴びて、風を受け波打つ金色の海に一瞬にして心を奪われた私と彼は同時に感嘆の声を漏らし、目を見合わせる。

「お返しって、これ?」
「ああ。了承を得ずに連れてきちゃって申し訳ないんだけど」

どうしてこの男はこうも自分に自信がないのか、と思わずにはいられなかったが、これも今に始まったことではない。
私はそれをさらりと流し、車が停まるや否や、すぐに降りて駆け出した。

「絵画みたいだ」

私に追いついた彼がぼそりと呟く。

「絵になる、じゃないのね」
「ゴッホが生きてたらたぶん夏葉を描いたはずだ」

言いながら、彼は鞄からごつごつとしたカメラを取り出す。
「撮ってもいいか」の声に「ポーズでも、視線でも、オーダーには応えるわよ」と返す。

けれども彼は「好きにしてていいよ」と言うので、それに従って私は思うままに向日葵畑を歩いた。

大きく一歩を踏み出してみたり、踵を軸にくるりと回ってみたり。
写真集を作ってもらうときのような心持ちで気ままにしているうちに、楽しくなってきた私は、やがてカメラの存在を忘れる。




「よし。こんなとこかな」

プロデューサーの声を受け、私は彼の隣へと戻る。
気付けば全身から汗が噴き出していた。
もちろん、ふわふわと気ままに向日葵畑を舞う私を追いかけて写真を撮っていた彼も、同様だ。

「水分、ちゃんと摂りなよ」
「アナタこそ、あんまりはしゃいで倒れないで頂戴ね」
「はしゃいでたのは夏葉だろ」
「そうだったかしら」

彼の手からカメラをひったくり、撮った写真の数々を見る。
そこには、心底楽しそうに笑う私がたくさんいた。

「私、こんな顔してたのね」
「いい顔だろ」
「ええ。……なんて言うと、自意識過剰かしら」
「まだまだ謙虚なくらいだ」

にっ、と口角を上げた彼に携帯電話を向ける。
ぱしゃり、と音が響いて画面上には満面の笑みの彼と向日葵畑が切り取られた。


「タイトルは、『太陽と向日葵』といったところかしら」
「俺はそんな大層なものじゃないと思うけどなぁ」
「でも、向日葵って太陽の方を向くって言うでしょう?」
「ああ。向日性ってやつか。太陽を追いかけて首を傾ける、っていう」
「そうそう」
「でも、あれは成長中のときだけらしいよ」
「あら、そうなの?」
「うん。日中は片方の茎だけが成長するからゆっくりゆっくり傾く。そして、それが太陽の動きを追いかけてて」
「夜になると、反対側の茎が伸びて元通りになる、ということね」
「正解。だから朝になるとまたちゃんと東を向いてるってわけだ」

彼は手に持ったお茶を一息に飲み干して、ぷはぁと息を漏らす。

「けど、別の説もある」
「どんな?」
「東って、東京の方角だろ」
「ええ」
「一説には、夏葉を見てるらしい」
「じゃあ、アナタも向日葵なの?」
「かもしれない。俺も向日性がある」
「向有栖川夏葉性、ね」
「言いにくいな」
「そうね」


目を見合わせ、笑い合う。
そこに一陣の風が吹いて、金色の海を波立たせた。
「綺麗だ」と呟いた彼のその視線は、眼前の金色ではなく私を射抜いていた。

終わりです。ありがとうございました。

本日8月16日は有栖川夏葉さんのお誕生日です。
有栖川夏葉さんお誕生日おめでとうございます。

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