梨子「人魚姫の噂」 (319)

ラブライブ!サンシャイン!!SS

曜「神隠しの噂」
曜「神隠しの噂」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1573103874/)

の続編です。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1598136029


 「──果南ちゃんッ!!!!」


──彼女の傍らにしゃがみ込み、肩を揺する。


 「果南ちゃんっ!!? 果南ちゃんッ!!!!!」


絶叫に近い声量で果南ちゃんの名前を呼びかける。

でも、


 「……………………」


彼女からは一切の反応がない。


 「果南ちゃんっ!!! しっかり……!!! しっかりして……!!!」


肩を揺すっても、顔に触れても、手を握っても、反応がない。


 「はっ……!! はっ……!!! はっ…………!!!」


動悸がしてきて、息が切れる、目の前で起こっていることに現実感がない。

何が起きてる? 何が起きているの? 何が起きてしまったの……──





    *    *    *





これは、そんな終わりに向かっていく……──ある愚か者と人魚姫の物語。




──────────
────────
──────
────
──



今年も最後の月に差し掛かり、ここ内浦にも冬の季節が訪れつつある今日この頃。

そんな本日は12月4日水曜日。


千歌「……zzz」


背後からの千歌ちゃんの寝息と板書の音をBGMにしながら、ぼんやりと窓の外を眺める。

空気が澄んでいるのか、いつもよりも景色がよく見える。その上空には輪郭がぼやけて、空に低く広がっている雲たちの姿。

私が──桜内梨子が、内浦に来て初めての冬。

ここに越してきてからというもの、大抵の初めてのことにはワクワクするようになった気がするんだけど……人恋しくなるこの冬だけは、今の私には少し憂鬱だった。

──キーンコーンカーンコーン。


千歌「……はっ!」


四限の終わりのチャイムと共に、背後で千歌ちゃんが覚醒したのがわかる。


先生「それじゃ、今日の授業はここまでにします」

千歌「ありがとうございましたっ!」


先生の締めの言葉と同時に、千歌ちゃんは席を立って、そのまま教室を飛び出していく。

この光景にも慣れたもので、もはやクラスメイトどころか、先生すらもツッコミ一つ入れなくなった。


曜「……あはは、千歌ちゃん相変わらずだね」


曜ちゃんが苦笑いしながら、私に話しかけてくる。


梨子「まっしぐらって感じだよね……」

曜「あはは、そうかも」


私の言葉に同意しながら、曜ちゃんは私のすぐ後ろの席である千歌ちゃんの席に腰を下ろす。


曜「まあ、二人が今でも変わらず仲睦まじいみたいで、私は少し安心してるかな」


──二人。曜ちゃんが指しているのは千歌ちゃんと……ダイヤさんのことだ。

千歌ちゃんとダイヤさんが付き合い始めたのは、確か6月の下旬頃だと言っていたから、二人がくっついて、そろそろ半年になる。

曜ちゃんの言うとおり、二人は今でも仲睦まじい。お昼休みはさっきみたいに1秒でも早く会いたいみたいで、ちょっと微笑ましくなる。

そんな千歌ちゃんの姿を見て安心するのは私も同じだけど、今のAqoursのラブラブカップルは千歌ちゃんとダイヤさんだけではない。


梨子「そういう曜ちゃんは、いいの?」

曜「え?」

梨子「お昼休み、鞠莉ちゃんのところにいかないの?」


──9月頃、曜ちゃんは鞠莉ちゃんと付き合い始めた。

きっかけはよくわからないけど、急接近して突然くっついた印象だった。

ただ、そんな第一印象とは裏腹に、曜ちゃん鞠莉ちゃんは、千歌ちゃんダイヤさんカップルに負けず劣らずの仲良しカップルだと思う。

比較的落ち着いているためか、破竹のように飛び出す千歌ちゃんほど『夢中になっている』という印象は受けにくいものの、曜ちゃんもお昼休みは決まって鞠莉ちゃんと過ごしている。

だから、こうして教室に残っているのが少しだけ珍しい気がした。


曜「あー、えーっと。今日はいいんだ」

梨子「そうなの……?」


もしかして喧嘩中とか……? そうなんだとしたら、変に気を回してしまったのかもしれない。

ただ、そんな私の胸中を察したのか、


曜「……あ、別に喧嘩してるとかじゃないよ?」


曜ちゃんはすぐにフォローを入れる。


曜「お昼休みは職員会議があるらしくってさ」

梨子「ああ、なるほど」


考えてみれば鞠莉ちゃんは、生徒でありながら、職員でもある。


梨子「曜ちゃんも恋人が理事長だと大変だね……会いたいときに会えなくて」

曜「あはは……大袈裟だよ。都合が合わないことくらいあるって。それにさ」

梨子「それに?」

曜「鞠莉ちゃんは自分の意志で理事長をやってるんだから。私はそれを応援してあげないと」

梨子「曜ちゃん……」


会えない不安よりも、鞠莉ちゃんを信頼して、支えたいという気持ちがしっかりしているんだろうな。

なんか、恋人とのそういう信頼関係って……。


梨子「……羨ましいな」


──思わず本音が零れる。


曜「え?」

梨子「うぅん、なんでもない。それよりも、今日のお昼はどうするつもりなの?」

曜「あ、えっとね、梨子ちゃんが嫌じゃなかったら、一緒してもいいかな?」

梨子「もちろんだよ。一緒に食べよ」

曜「ありがとっ! お弁当お弁当っと~」


曜ちゃんとのお昼。なんだか久しぶりな気がして、内心少しテンションがあがってしまう。

最近は千歌ちゃんも曜ちゃんも、お昼休みは恋人との時間だと、暗黙の了解的に決まっていたから、こうして一緒にお昼を過ごせるのは純粋に嬉しかった。

他のクラスメイトと過ごすお昼も嫌ではないけど、やっぱり私にとって一番仲の良い友達は千歌ちゃんと曜ちゃんだ。

恋人との時間を大事にしてほしいという気持ちもあるけど、それでも仲の良い友達が相手をしてくれないと正直寂しい。

だからこそ、こんなたまの機会を大切にしないとね。

私も曜ちゃんに倣って、自分のお弁当をバッグから取り出そうとした、そのときだった──


 「──曜~? 居る~?」

曜「……うぇ?」


廊下の方から曜ちゃんを呼ぶ声。

二人で声の方を振り向くと、


鞠莉「チャオ♪ 曜、梨子」


目を引く金髪──鞠莉ちゃんの姿があった。


曜「鞠莉ちゃん!? 今日会議でしょ!?」


曜ちゃんは驚きの声をあげながら、鞠莉ちゃんのそばに駆け寄っていく。


鞠莉「そうだったんだけど……佐藤先生の都合がどうしてもつかなくって、放課後に変更になったのよ」

曜「そうなんだ……」

鞠莉「だから、曜居るかなと思って来てみたんだけど……もう食べてるところだった?」

曜「あ、いや……まだだけど……」


チラリと曜ちゃんがこちらに目線を送ってくる。

たぶん、一緒に食べようと自分から誘った手前、言い出しづらいってところかな。……まあ、仕方ないか。

私は教室の出入り口の前でそわそわとしている、曜ちゃんの背中に、


梨子「曜ちゃん、行っておいで」


そう声を掛ける。


曜「え、でも……」

梨子「せっかく一緒に居られる時間が出来たんだよ? 大切にしなくちゃ」

曜「梨子ちゃん……うん」

鞠莉「あ、えっと……先約してたなら、大丈夫だヨ?」


流れから察したのか、鞠莉ちゃんも少し申し訳なさそうに言うものの、


梨子「うぅん、大丈夫だよ」


あくまで私は二人を送り出そうとする。

一緒に食べることが出来ないのは残念だけど、二人の邪魔はしたくない。


曜「なんか……ごめんね?」

梨子「気にしないで。それに……」

鞠莉「それに?」

梨子「私、馬に蹴られて死にたくないし……」

鞠莉「ウマニケラレテ……?」


なんか、通じていないっぽい。うまいこと、場面に適したことわざを言ったつもりだったのに……なんだか滑ったみたいで急に恥ずかしくなってきた。


梨子「/// と、とにかく、私は大丈夫だから!」

曜「わとと……!」


何とも言えない恥ずかしさを誤魔化すために、鞠莉ちゃんと向き合っているままの曜ちゃんの背中を押す。


曜「わぷっ」

鞠莉「Oh! 曜ったら~♪ ダ・イ・タ・ン♪」

曜「いや、押されたの見てたでしょ!?」


鞠莉ちゃんに受け止められて、赤くなる曜ちゃん。


梨子「それじゃ、ごゆっくり。またあとでね」

曜「あ……うん。ありがと、梨子ちゃん」

鞠莉「梨子 Thank you.」


お礼交じりに、二人は連れ立って、教室を出て行く。

私はそんな二人の背中にひらひらと手を振り、二人が見えなくなったところで、


梨子「……はぁ」


控えめに溜め息を吐く。


梨子「お昼……どうしようかな……」


ぼんやりと呟くと──突然背後から、ポンと肩に手を置かれる。

振り向くと、


むつ「梨子……偉い、よくやった……!」


むっちゃんが親指を立てて、私を称賛してくれているところだった。


むつ「親友の恋路を応援するために、自分はいいからと言って送り出してあげる……! 漢だね……!」

梨子「いや、女だけど……」

むつ「細かいことはいいんだって! それより、お昼一緒に食べる人居ないんでしょ? 一緒に食べようよ」

梨子「それじゃ……今日もお邪魔させてもらうね?」

いつき「そんな……全然お邪魔なんかじゃないよ」

よしみ「今日も千歌も曜ちゃんも、幸せそうだねぇ……」

梨子「あはは、ホントに……」


というわけで、気を利かせて声を掛けてくれた、むっちゃん、よしみちゃん、いつきちゃんと一緒にお昼を食べる。

……まあ、ここしばらくはずっと一緒にお昼を食べているんだけどね。

もちろん、むっちゃんたちとお昼を過ごすのも楽しいから嫌とかではないんだけど……。それでも、千歌ちゃんや曜ちゃんとの時間がめっきり減ってしまったことは、やっぱり私にとっては寂しいことで、


梨子「……はぁ」


私はまた一人、小さく溜め息を吐いてしまうのだった。





    *    *    *





──放課後。

本日もいつもどおりAqoursの練習だ。

もうだいぶ日が落ちるのが早くなってきたため、普段の練習は曜ちゃんのお父さんが借りているスタジオを使わせてもらっているんだけど……。

今日は花丸ちゃんが図書委員の仕事で参加出来ないとの連絡があり、全員揃わないため、練習は学校でやって早めに切り上げることになっている。


善子「リリー、来たわね」

梨子「だから、リリー禁止って……」


私が着替えを終えて屋上に着くと、すでに他のメンバーは全員揃っていた。どうやら私が一番最後だったようだ。


ダイヤ「全員揃いましたわね」


私が来たのを確認したダイヤさんが、もう一度全員の顔を順繰りに確認したあと、


ダイヤ「本日は撤収が早いので、皆さんだらだらやらないように」


本日の一言。


果南「それじゃストレッチからいくよー」

 「「「「「はーい」」」」」


果南ちゃんの号令で、ストレッチから。

腕をクロスさせる、腕・肩のストレッチから始まり、二の腕、前屈と一通りこなしたあと、


果南「次はペアストレッチねー。二人組作ってー」


今度はペアストレッチ。


鞠莉「それじゃ、曜。マリーが全身ほぐしてあげるわね♪」

曜「お手柔らかに……」

千歌「ダイヤさん!」

ダイヤ「はい、わたくしたちも始めましょうか」


果南ちゃんの号令を受けて、さも当然のように、カップルたちが二人一組になる。

……さて私は誰と組もうかな……と考えながらも、普段から何かと絡んでくる堕天使な後輩に声を掛けようとしたところ、


ルビィ「善子ちゃん、一緒にやろ?」

善子「今日はずら丸がいないものね。いいわよ」


花丸ちゃんがお休みなためか、善子ちゃんはルビィちゃんに誘われて二人一組を作るようだ。

となると……。


果南「ありゃ、余っちゃったね」

梨子「……そうみたいだね」

果南「じゃあ、私たちでやろうか」

梨子「うん、お願いね、果南ちゃん」


残った果南ちゃんとペアになる。

誰が言い出したわけではないけど、千歌ちゃんダイヤさん、曜ちゃん鞠莉ちゃんが組むのはもはや暗黙の了解的に皆わかっていることで、残った5人の中で柔軟のペアを組む。

私は何かと善子ちゃんと組むことが多いけど、果南ちゃん、花丸ちゃん、ルビィちゃんとはやらないなんてことはなく、近くに居た人とペアを組むことが多い。

まあ……善子ちゃんは果南ちゃんと組むと、スパルタな柔軟に付き合わされるから、ちょっとだけ嫌みたいだけど……。


果南「それじゃ、前屈から。梨子ちゃん、座って」

梨子「うん」


長座体前屈のために、床に座ると、前方に最速でペアを組んで柔軟を始めていた千歌ちゃんや曜ちゃんたちが視界に入ってくる。


曜「いちにーさんしー」

鞠莉「……曜、相変わらず柔らかすぎない?」


曜ちゃんは本当に身体が柔らかい。補助なしでも、ほぼぺったり地面に上半身がくっついている。


曜「身体が柔らかくないと、飛び込みで綺麗な姿勢にならないからねー」

鞠莉「つまんない! それじゃ、マリーが変なところ触れないじゃない! もっと身体硬くしてよ!」

曜「えぇ!? 私、なんで怒られてるの!?」


理不尽だ……。一方で千歌ちゃんたちは、


千歌「いっちにーさんしー」

ダイヤ「千歌さん、だいぶ身体が柔らかくなりましたわね」

千歌「んー。毎日お風呂あがりにダイヤさんが教えてくれたストレッチやってるからー」

ダイヤ「ふふ、継続は力なり。ちゃんと続けていて偉いですわね」

千歌「えへへーでしょでしょ~? もっと褒めてー♡」

ダイヤ「すぐに調子に乗らない。続けますわよ」

千歌「はーい」


相変わらず仲良しだ。なんだか、ご馳走様と言いたくなる。


果南「梨子ちゃん、始めて大丈夫?」

梨子「あ、うん。お願い」


いけないいけない……。カップルたちに気を取られて、自分の柔軟がおろそかになっている。

ダイヤさんが言ったとおり、冬の時期は日が落ちるのも早い。沼津の練習場を使わない日はより集中して練習に取り組まないと時間がもったいない。


果南「押すよー」

梨子「はーい」


果南ちゃんに背中を押してもらい、爪先まで手を伸ばす。


梨子「いち……にー……さん……しー……」


私も最初の頃に比べると、身体も随分と柔らかくなってきたつもりだけど……さすがに曜ちゃんのようなアスリートと比べると全然だ。

手指の柔軟性だけだったら、ピアノをやっている分、Aqoursの中でも随一だと思うんだけどね……。

そんなことを考えながら、必死に身体を折り曲げていると、


 果南『……鞠莉もダイヤも、楽しそうだなぁ』

梨子「……?」


果南ちゃんが、溜め息交じりで急に呟いた。


 果南『千歌も曜ちゃんも……最近は二人にべったりだし……。話す機会も減っちゃったなぁ……』

梨子「……」


独り言……なのかな……?

考えてみれば、果南ちゃんも私同様、親友二人に恋人が出来たわけで……同じようなことを考えているのかもしれない。

……ということは、話しかけられているのかな? 同じような境遇の私に同意を求めているとか……。


梨子「……果南ちゃんも、やっぱり寂しい?」

果南「え?」

梨子「ほら、ダイヤさんと鞠莉ちゃん……」

果南「ダイヤと鞠莉がどうかしたの?」

梨子「……?」


あれ……なんか会話が噛み合ってないな。

やっぱりさっきのって独り言だったのかな……?


梨子「えっと……二人とも恋人が出来ちゃったから、二人との時間が減っちゃって寂しかったりするのかなって思って……」

果南「別に寂しいとは思わないよ。鞠莉もダイヤも、幸せそうだし」
 果南『……確かに二人ともゆっくり話す機会はめっきり減っちゃったかも……』

梨子「……?」


言ってることが前後で真逆なんだけど……。


果南「それより、梨子ちゃん。そろそろ交代しようか?」

梨子「あ、うん」


促されて、今度は果南ちゃんが座り、私が背中を押す番。


梨子「押すねー」

果南「ん、お願いー」


私が背中を押すと、果南ちゃんはどんどん前に体が伸びていく。やっぱり、スポーツマンの果南ちゃんの身体は、さすがの柔らかさだ。


 果南『梨子ちゃん……急にどうしたんだろう』

梨子「……?」

 果南『寂しいかって……そんなに顔に出てるのかな』


顔というか、声に出ているんだけど……。


 果南『それとも、心を読まれたとか? ……まさかね』

梨子「……へ?」

果南「? どうかした?」

梨子「……う、うぅん、なんでもない」

果南「そう?」
 果南『なんか、今日の梨子ちゃん……ちょっと変だな。……体調でも悪いのかな……?』

梨子「…………」


何か、変だ。


果南「よし……それじゃ、次は背中合わせのストレッチね」

梨子「う、うん」


前屈を終えて、今度は背中合わせで片方が背負うようにして、相方の背筋を伸ばすストレッチ。

背中合わせになって、お互いの腕をクロスさせる。


果南「私が先にやるねー」

梨子「は、はーい」


まず私が果南ちゃんに背負われる。


果南「いちにーさんしー」
 果南『梨子ちゃん、やっぱり軽いなぁ……ちゃんとご飯食べてるのか心配になるよ』

梨子「…………」

果南「にーにさんしー」
 果南『アウトドアな私とか千歌と違って……肌もほとんど日に焼けてなくて真っ白な綺麗な肌で、まさに女の子って感じの子だし……』

梨子「……!?///」


急に肌を褒められて、思わず背負われたまま赤面する。

赤面したまま、今度は私が果南ちゃんを背負う番。


梨子「さ、さんにーさんしー……///」

 果南『……声にちょっと覇気がないな……やっぱり、体調悪いのかな……?』

梨子「よんにー!! さんしー!!///」

 果南『うわっ、急に声大きくなった……?』


疑問は予想に、予想はだんだん確信へと迫っていく。

私、もしかして……。


果南「よし……! 次は、脇腹伸ばしだね」
 果南『これだけ声が出るなら大丈夫かな……?』

梨子「…………」


──果南ちゃんの心の声が聞こえてる……?


果南「梨子ちゃん?」

梨子「へっ!?」

果南「大丈夫? ぼーっとしてたけど……もしかして体調悪い?」

梨子「だ、大丈夫だよ!?」

果南「でも……顔もちょっと赤いし……」


顔が赤いのは果南ちゃんが急に変なこと言うから──と言いたかったけど……心の声が聞こえているかも、なんて言うわけにもいかず、私は口を噤む。


果南「……ちょっと保健室行こうか」

梨子「えっ、い、いや、本当に大丈夫で……!」

果南「ダイヤー」


果南ちゃんが少し離れたところで、千歌ちゃんと一緒にストレッチをしているダイヤさんに声を掛ける。


ダイヤ「なんですのー?」

果南「梨子ちゃん、ちょっと調子が悪いみたいだから、保健室連れてくねー」

ダイヤ「あら……わかりましたわー」

千歌「梨子ちゃん、体調悪いのー? 大丈夫ー?」

梨子「え、えっと……私は全然平気なんだけど……」

果南「それじゃ、行こうか」


果南ちゃんは私の手を掴んで、歩き出す。


梨子「あ、あの! 果南ちゃん……!」


本当に体調が悪いわけじゃないことを伝えようとするも、


果南「無理は禁物。行こう」


有無を言わさず連行される。


 果南『Aqoursには調子が悪いときに自分から言いだせない子も多いから、こういうときは少し強引なくらいがちょうどいいんだよね』

梨子「……」





    *    *    *





──果南ちゃんに手を引かれたまま、保健室へと向かう。

強引なくらいがちょうどいいとは言っていたものの、果南ちゃんは私がちゃんと付いて来られているかを、定期的に確認している。


 果南『ちょっと歩くの速いかな……もう少しペース落として……』


私の歩幅が小さいのか、果南ちゃんの歩きのペースだと少し速かったので、それは助かるんだけど……。


 果南『それにしても、梨子ちゃんって華奢だなぁ……』

梨子「……///」

 果南『手も足も細くて、真っ白だし……』

梨子「……ぅぅ……///」


先ほどから、ナチュラルに褒め殺しにあっていて、とにかく恥ずかしくてたまらない。

ただ、この褒め殺しの中でも、気付いたことがある。

さっきから、果南ちゃんの言っていることは、音で聞こえるというよりも、頭の中に響いているような感じだ。

前を歩いているせいで、口が動いていないかの確認はあまり出来ていないけど……恐らく、これは果南ちゃんが声に出している言葉ではない気がする。

理由はわからないけど、どうやら今の私は果南ちゃんの考えていることが聞こえるようになっているらしい。

顔を熱くしたまま、どうにかこうにか自分の中で考えをまとめていると──気付けば保健室に辿り着いてた。


果南「失礼します」


果南ちゃんが断りを入れながら、保健室の引き戸を引いて中に入ると、そこには誰も居なかった。どうやら養護教諭の先生は席を外しているらしい。


果南「先生不在か……まあ、いいや。梨子ちゃん、そこ座って」


果南ちゃんは椅子に座るように促しながら、引いていた手を放す。


梨子「う、うん……///」


やっと果南ちゃんの褒め殺しから解放されて、少しだけホッとしながら、椅子に腰を下ろす。


果南「うーん、体温計……見当たらないなぁ……」


一方果南ちゃんは、体温計を探しているようだ。


梨子「あの、果南ちゃん……私、本当に大丈夫だから……」

果南「もう……まだそんなこと言って……。顔真っ赤だよ? 気付いてないの?」


……気付いてます。でも、これは本当に体調不良が原因じゃないんだけど……。


果南「……んー見つからないな、仕方ない」


結局、見つからなかったのか、果南ちゃんは体温計を探すのは諦めたのか、そのまま私の目の前まで歩いてきて、


果南「ちょっとごめんね」

梨子「え? ……ひゃっ!?///」


急に自分のおでこを私のおでこに押し当ててきた。


梨子「ぁ……ぁ……///」

 果南『んー……やっぱちょっと熱ある……?』


──お陰様で。


梨子「か、果南ちゃ……///」

果南「あー、もうちょっと、じっとしててね」
 果南『……あ、近くで見ると、梨子ちゃんのまつ毛って長いんだなぁ……やっぱり美人さんだ』


せめて、検温に集中して欲しい。


梨子「……ぅ、ぅぅぅ……///」

果南「ふーむ……熱はまあ、ちょっとあるくらいかな……」


果南ちゃんが呟きながら、やっと離れてくれた──と思ったら、


梨子「ひひゃぁっ!?///」


今度は首筋辺りを両手でホールドするような形で手を添えてくる。


果南「ゆっくり息を吸ったり吐いたりしてみてー」

梨子「う、うん……///」

 果南『……脈もちょっと速いかな』


どうやら脈を測っているらしい。それはいいんだけど、果南ちゃんの顔が近過ぎる。思わず目を逸らすと、


果南「あー梨子ちゃん、目逸らさらないで」


何故か注意される。


梨子「な、なんで……?///」

果南「いいから」


こっちはよくないんだけど……。頑張って、視線を戻すと、果南ちゃんが真正面から私の瞳を覗き込んでいる。


梨子「……///」

 果南『瞳孔動揺はなし……。意識ははっきりしてるし、問題ないかな』

梨子「……?///」


どうこうどうよう……聞きなれない単語だけど、瞳孔動揺かな……?

瞳の動きを確認しているらしい。だから、目を逸らさないように言われたのかな……。


果南「咳とか、鼻水はない?」

梨子「う、うん……///」

果南「声枯れは……聞いてみればいっか。ちょっと声出してみて」

梨子「あ、あーーーー……///」

果南「うん、問題なさそうだね」
 果南『じゃあ、風邪の線はなさそうかな……。となると……』

果南「梨子ちゃん、疲れてる……?」

梨子「い、いや……その……///」


そういうことじゃないんだけど……。というか、いい加減恥ずかしい。


梨子「か、果南ちゃん……///」

果南「ん?」

梨子「そ、その……もう、脈とか……大丈夫、かなーって……///」

果南「ああ、ごめんね」


やっと至近距離で見つめられるのから解放される。


梨子「あ、あのね……本当に何もなくって……///」

果南「……本当に?」


強いて言うなら、何故か果南ちゃんの心が読めることが問題であって……。でも、心が読めるなんて言い出したら本当に救急車を呼ばれかねない。


梨子「本当に大丈夫だから……」

果南「……わかった」


何度も問題がないことを伝えると、果南ちゃんはやっと納得してくれた。


果南「ただ、まだ顔もちょっと赤いし……脈も速かったから、もう少し横になって休憩しようか?」

梨子「う、うん……」


原因は目の前の人なんだけど、実際に顔に出てしまっている以上は体調不良と捉えられても仕方ない……。

ここで突っぱねても話がややこしくなるだけなので、大人しく頷いておく。

保健室のベッドに横たわると、果南ちゃんは近くに椅子を持ってきて、ベッドのすぐ隣に座る。


梨子「果南ちゃん……?」

果南「ん?」

梨子「果南ちゃんは練習に戻っても……」

果南「心配だから、もう少しだけここに居るよ」

梨子「……そっか」


心配性だなぁと思いはしたものの、その気遣いはちょっぴり嬉しい優しさだ──この赤面と速い脈の原因が果南ちゃんなことを除けばだけど。

……それはそれとして、もう一個大きな問題がある。

もちろんそれは、何故か果南ちゃんの心が読めるっぽいということだ。

普通では絶対にありえないことだし、あまりにも唐突に始まったため、手掛かりも何もない状況……。

……あ、いや、今は聞こえないな……。条件があるのかな……?

少し自分の中で、起こっていた現象そのものを反芻してみる。

果南ちゃんの心の声らしきものが聞こえていたときって──


梨子「…………」


一つ仮説が浮かぶ。でも、実行するのはちょっと恥ずかしい。

悩みはしたものの……何の手掛かりもなく、やりすごしてしまうのも、なんだか怖い気がして、


梨子「…………ねぇ、果南ちゃん」

果南「んー?」

梨子「手、繋いでいい……かな……?///」


恥ずかしさを我慢しながら、果南ちゃんにそうお願いする。


果南「それくらい、お安い御用だよ」


すると、果南ちゃんは自分から、私の手を握ってくれる。

それと同時に、


 果南『梨子ちゃんって……もしかして、思ったより甘えんぼなのかな?』

梨子「!」


頭の中に果南ちゃんの声が響く。

──つまり、果南ちゃんの心の声を聞く条件は、『直に触れている』ということらしい。

それと同時に、果南ちゃんの口元を見ると、確かに口は動いていないことが確認できたところから、心の声が聞こえているということでほぼ間違いないと思う。

確認したいことが確認出来て満足した私は、果南ちゃんと繋いでいる手を離そうと──


 果南『それにしても……体調が悪いときに手を繋いでてなんて……昔の千歌みたいで可愛いな』

梨子「…………」


あ、あれ……? この流れで手を放すのは……無理なんじゃ……。


 果南『梨子ちゃんの手……ちっちゃくて柔らかい。改めて意識してみると、指も一本一本細くて綺麗だし……私の手とはちょっと違うかも』

梨子「…………///」


自らの意思で再び、褒め殺しの土壌に飛び込んでしまったことに気付く。

確かに果南ちゃんの手は私の手に比べると少し大きい。


 果南『それと……すごい冷たい。……冷え性なのかな?』


果南ちゃんの言うとおり──というか、思っているとおり──私は少し冷え性気味で、特に今みたいな冬場は末端が冷えてしまうことがよくある。

逆に今繋いでいる果南ちゃんの手はなんだかぽかぽかとしていて暖かった。やっぱり、普段から体を動かしている人だと、代謝がいいから体温も高いのかな……?


 果南『……なんか新鮮だなぁ。こうして梨子ちゃんに甘えられる日が来るなんて』

梨子「……///」


こっちには別の理由があったとは言え、果南ちゃんの視点から見たら私が甘えているように思うよね……。


 果南『あ……だから、さっきあんなこと言ってたのかな』

梨子「……?」


なんのことだろう……?


果南「ねぇ、梨子ちゃん」

梨子「ん……な、なに……?」

果南「梨子ちゃん……もしかして、寂しいの?」

梨子「え……?」

果南「さっき、私に……『果南ちゃん“も”、寂しいの?』って聞いてきたから……」
 果南『それってつまり、梨子ちゃん“も”、寂しかったってことだよね』

梨子「……あ」

果南「もしかして、何かあった?」

梨子「えっと……何かってほどのことじゃ……」


寂しいと思うことは、確かに最近何かと多いけど……。


 果南『……やっぱり、私相手じゃ話しづらいか』


う……。……そう言われると──思ってるだけだけど──逆に言わないのが憚られる。


梨子「……その……本当に大した話じゃないよ……。お昼休み、千歌ちゃんも曜ちゃんも、ダイヤさんや鞠莉ちゃんのところに行っちゃうから、取り残されちゃうことが多くて……」

果南「あぁ……そういうことか」

梨子「もちろん、他の友達と食べてるけど……。やっぱり、私が一番仲良しなのは千歌ちゃんと曜ちゃんだから……寂しいなって」

果南「そっか……」
 果南『……私も同じような感じだから、気持ちは痛いほどわかる……』

梨子「うん……。……やっぱり、Aqoursのメンバーは……私にとって、特別だから」

果南「それなら……同じ学年じゃないけど、善子ちゃんと一緒に食べるのは? 仲良いでしょ?」

梨子「善子ちゃんか……」


確かに、善子ちゃんと一緒に食べるのも悪くない、けど……。


梨子「善子ちゃんはルビィちゃんや花丸ちゃんと一緒に食べてるだろうし……そこに混ぜてもらうのは、ちょっとなぁ……」

果南「あー……まあ」


一年生には一年生の輪というものがある。

ルビィちゃんも花丸ちゃんも、私が一緒に食べたいと言ったら歓迎してくれるとは思うけど……。

周りの一年生からの視線が辛い気がする。わざわざ一年生の教室まで一人でお昼を食べに来る二年生って……──尤も善子ちゃんは喜々としてからかって来そうなものだけど。


 果南『私も鞠莉が居なくなって、ダイヤと顔合わせ辛い時期でも、千歌の居る教室に行こうとは思わなかったしなぁ……』


どうやら、果南ちゃんには既に心当たりがあるらしい。三年生はギクシャクしちゃってた時期があったもんね……。


果南「千歌たちにそれは言ったの?」

梨子「……言えないよ」

果南「……」
 果南『まあ……言えないよね』

梨子「寂しいけど……千歌ちゃんと曜ちゃんが、幸せそうにしてるのが嬉しいって気持ちもホントだから……」

果南「梨子ちゃん……」
 果南『確かに、ね……私も鞠莉とダイヤが幸せそうにしてるのは、素直に嬉しいし……』


果南ちゃんも友達に対して感じている気持ちは同じようだ。皆思うことで、そうするしかない……これは、仕方のないことなんだ。


 果南『……でも、やっぱり梨子ちゃんが寂しそうにしてるのは放っておけないよ……』


……ふふ。果南ちゃん優しいな。

思わず内心で笑ってしまう。

でも、そう思ってくれるだけで十分。だから、この話はこれで終わり──


 果南『……あ、良いこと考えた……!』

梨子「?」

果南「ねぇ、梨子ちゃん」

梨子「な、なに?」

果南「それならさ、明日からお昼は一緒に食べない?」

梨子「……え?」

果南「いや、なんでもっと早く思いつかなかったんだろう!」

梨子「か、果南ちゃん……?」

 果南『私は一人で寂しい、梨子ちゃんも一人で寂しい、それなら私と梨子ちゃんが一緒に過ごせばお互いWin-Winってことだよね』
果南「我ながらナイスアイディアだよ! 場所はどこがいいかな?」


気付けば、勝手に話が進んでいた。


果南「お互いの教室はまずいから……他に空いてる場所。……あ、部室ならいいんじゃないかな」

梨子「あ、うん……えーっと……」


急な展開に付いていけず、しどろもどろしていた、そのときだった──ガラッと保健室の扉が開く音がして、


 「──リリー? 果南? 大丈夫?」


人が入ってきた。この声は……善子ちゃんだ。


善子「なかなか戻ってこないから、様子見に来たんだけど……奥のベッドかしら……?」


そんな言葉と共に、カーテンが開け放たれる。


善子「やっぱり、ここに……い、た……」

梨子「?」


カーテンを開け放った善子ちゃんは、言葉を詰まらせ、


善子「ご、ごめんなさい……!」


急に謝罪する。


梨子「え?」

善子「わ、私……! リリーのビッグデーモンが果南だったなんて知らなくて……!」

果南「ビッグデーモン?」

梨子「……え?」


一瞬、謎の横文字のせいで意味が理解が出来なかったけど、ワンテンポ遅れてすぐに答えに辿り着く。

──手だ。私と、果南ちゃんの、繋がれたままの、手。


梨子「……!?///」


私は思わず、果南ちゃんと繋がれていた手をバッと離す。


梨子「い、いやその!!/// こ、これはそういうのじゃなくて!?///」

善子「じゃあ、なんだって言うの!? 保健室で逢引きしてた罪深きリトルデーモンじゃない!!」

梨子「逢引き!?///」

善子「た、体調が悪いって……ご休憩って意味で……」

梨子「そんなわけないでしょっ!?///」


この堕天使は、とんだ耳年増のようだ。それがわかる私も私だけど……。


果南「ダメだよ、善子ちゃん。善子ちゃんが言うとおり、梨子ちゃんは今休憩中なんだから……」

善子「やっぱりそうじゃない!!」


一方、果南ちゃんはあんまり意味が理解出来ていないようで、それを受けて善子ちゃんが吠える。

ああ、もう……めんどくさい……。……今はとにかく、話題を逸らそうと思い、


梨子「ねぇ、善子ちゃん。様子を見に来たってことは用事があったんじゃないの?」


努めて冷静に、問いかける。


善子「えっ、ま、まあ……そうだけど……」

果南「用事?」

善子「果南不在でダンスコーチが居ないから、梨子が問題なさそうなら、呼び戻した方がいいかなって……」

果南「ええ……? そんなの、ダイヤか鞠莉がやればいいのに……」

善子「私は果南が居ないと締まらないから、って思って来たけど……今は考えが変わった。ダイヤと鞠莉にはそう伝えるわ」

梨子「……!?」


そう言って、善子ちゃんは踵を返す。不味い、誤解されたまま善子ちゃんを逃がすわけにはいかない。


梨子「果南ちゃん! 戻った方がいいと思う!」

果南「え? でも……」

梨子「私なら本当に大丈夫だから……! 今日はただでさえ練習時間も短いんだし、呼ばれてるってことは、皆困ってるんだよ! それに、Aqoursの専任コーチと言えば果南ちゃんしか居ないと思うから!」

果南「そんな大袈裟な……」

梨子「絶対その方がいいから!!」

果南「まあ……そこまで言うなら……。でも、本当に平気……?」

梨子「大丈夫! 果南ちゃんの代わりに善子ちゃんに残ってもらうから!」

善子「え」

梨子「Aqoursの練習には果南ちゃんが必要だと思うから……戻ってあげて、ね?」


かなり強引に捲くし立てると、


果南「……わかった。それじゃ、私は先に戻ってるね」


どうにか納得してもらえたようだった。


果南「それじゃ、善子ちゃん。梨子ちゃんのこと、よろしくね?」

善子「え、ええ……」

果南「梨子ちゃん、くれぐれも無理しないように」

梨子「うん、ありがとう。果南ちゃん」


最後に一言残してから、果南ちゃんは善子ちゃんと立ち位置を入れ替えるようにして、保健室を出て行った。

果南ちゃんの足音が完全に聞こえなくなったのを確認してから、


梨子「……はぁぁぁ……」


私は盛大に溜め息を吐いた。

慣れないことをして、とてつもなく疲れた……。とはいえ、この後もう一仕事あるんだけど……。


梨子「善子ちゃん」

善子「……え、えっと……わ、私はその……果南の代わりには……。というか、ヨハネなんだけど……」

梨子「だから、本当にそういうことじゃなくて……」

善子「なら、なんで仲良く手なんか繋いでたのよ!」

梨子「そ、それは……」


確かに、それはそうだ。


善子「やっぱり、果南はビッグデーモン……!」

梨子「だから、違うって言ってるでしょ!」

善子「じゃあ、なんなのよ……」

梨子「それは、その……成り行きというか……。とにかく、いろいろあったの……」

善子「…………」


善子ちゃんは私の説明になってない説明に、眉根を顰めていたけど、


善子「……まあ、いいわ。そこまで言うなら、とりあえず納得してあげなくもないわ」


どうにか、矛を収めてくれた。


善子「それで、体調はどうなの?」

梨子「あー、えーっと……」


実は元気だと言おうと思ったけど、それを言うとますますご休憩説が真実味を帯びてしまうから、


梨子「ちょっと横になったらだいぶ楽になったよ」


一応体調を崩していた体で話すことにする。


善子「そう? ならいいけど。最近寒いから、体調も崩しやすいし、気を付けなさいよ」


果南ちゃんの言葉──というか心の声──で恥ずかしくて赤面していたら、保健室に連れていかれたなんてバレたら、それこそ馬鹿にされそう……。


善子「堕天使の闇の炎は自己回復は出来ても、他人を回復させるヒールがないのが悔やまれるわ。今のリリーでは闇に焦がされて死んでしまうし。私が天使だったころなら、すぐに回復してあげられたんだけど……」

梨子「へー……」


堕天使にはヒールがないらしい。どうでもいい新情報を適当に受け流しながら、ふと思う。


梨子「ねぇ、善子ちゃん」

善子「だからヨハネ……」

梨子「堕天使って、人の心は読めたりしないの?」

善子「無視するなぁ! ……って、え? 人の心?」

梨子「うん」


──善子ちゃんだったら、この不思議現象に心当たりがあったりしないだろうか?

何も知らない可能性も十分あるけど……それでも他の人より、こういうオカルト染みたことには詳しそうだし。


善子「くっくっく……」

梨子「?」

善子「ついに、アナタも †こちら側† に興味を持ち始めたようね……リトルデーモンリリー!」


……なんだか、面倒くさいツボを突いてしまったかもしれない。


梨子「えーと……それで、出来るの……?」

善子「そうね……テレパシーの一つや二つ、造作もないことだわ」

梨子「テレパシー……」


──ダメ元で聞いたつもりではあったけど、すぐにそれっぽい単語が出てきた。

確かにこの現象、『果南ちゃんの心の声がわかる現象』と呼称するには少し長いし、今後はテレパシーって呼ぼうかな。


梨子「それってどんな感じなの?」

善子「どんな……? えーっと……眷属のリトルデーモンの考えが手に取るようにわかる感じかしら」

梨子「眷属のリトルデーモンって?」

善子「もちろん、リトルデーモンリリー! アナタのことよ!」

梨子「……じゃあ、今私の考えてることわかる?」

善子「わかるわ。ヨハネの能力に感服しているところでしょう」

梨子「……」


とりあえず、善子ちゃんにテレパシー能力がないことは間違いないようだ。


善子「ヨハネ以外だと、あとは信頼関係の強い二人ならテレパシーを使えるって聞いたことがあるわ」

梨子「信頼関係の強い二人?」

善子「愛する者同士とか、強い結びつきのある主従とかかしら」

梨子「愛する者同士……」


つまり、私と果南ちゃんは──

変な想像をしかけて、すぐに頭の中の妄想を掻き消す。

どう考えても、私と果南ちゃんは愛する者同士ではない。

もちろん主従でもないし……。先輩後輩が関の山じゃないだろうか。

今までの果南ちゃんとのやり取りを考えても……考え、ても……。

──『それにしても、梨子ちゃんって華奢だなぁ……。手も足も細くて、真っ白だし……』──

──『……あ、近くで見ると、梨子ちゃんのまつ毛って長いんだなぁ……やっぱり美人さんだ』──

等々、さっき果南ちゃんから心の声で褒め殺しにされていたことを思い出して、


梨子「///」


一人で無性に恥ずかしくなる。

い、いや……あれは恋とか愛とかじゃなくて、ただの感想だから。

……心から褒めてくれていたのなら、素直に嬉しいけど……果南ちゃんにも他意はない……はず。


善子「リリー? 顔赤いけど……? やっぱり、まだ体調悪いんじゃ……」

梨子「だ、大丈夫っ……!///」


私は変な想像を掻き消すように、軽く首を振って、話を戻す。


梨子「え、えっと……! さっきの話、どこで聞いたの? 愛する者同士は、その……テレパシーで繋がってるって」

善子「どこ? ……どこだっけ」

梨子「えぇ……」


どうやら出典不明らしい。一気に眉唾になった。

いや、そもそもテレパシーなんて眉唾だと思ってはいるけど……──今日、果南ちゃんとの間に起こった現象さえなければなんだけどね……。


善子「……確か、夢で見た」

梨子「そっかー」


変な想像で一人恥ずかしくなって、損した気分だ。

どうやら、これはあくまで善子ちゃんの妄想の世界の中での話だったらしい。


善子「自分から聞いておいて、何よその反応!! そ、そうだ! その夢の中では千歌とダイヤが使ってた!!」


まあ、確かにその二人なら『愛する者同士』って条件には当てはまっているのかもしれないけど……。

それって、恋人同士はお互いのことをよく知っているから、テレパシーみたいに見えるってだけだよね……。


梨子「……聞いて損した」

善子「なんなのよー!! 自分から話振ってきたんじゃない!?」


善子ちゃんがシャーッと吠えた、瞬間──ガラッと保健室の扉が開く、


 「──貴方たち、保健室で何騒いでるの!」

梨子・善子「「!?」」


入ってくると同時に叱咤の声。そして、顔を顰めた養護教諭の姿。私たちが余りに騒がしくしていたから、駆けつけてきたのかもしれない。


梨子「え、えっと……すみません……」

養護教諭「騒ぎたいなら、外でやりなさい。保健室はそういうところじゃありません」

善子「あ、あのー……リリ──……じゃなくて梨子が体調不良で……」

養護教諭「こんなに騒いでいるのに?」


御尤もな指摘。


養護教諭「放課後だし、他に使ってる人も居ないから、入りびたるくらいなら大目に見るけど……騒ぐのは流石に看過できないわ」

梨子「で、ですよね……善子ちゃん、出よう」

善子「え、大丈夫なの……?」

梨子「さっきも言ったけど……もうだいぶよくなってきたから」

善子「まあ、リリーが平気なら構わないけど……」


実際、騒いでいた私たちが悪いし……。私は横になっていたベッドを軽く整えてから、先生に頭を下げる。


梨子「お騒がせしました……」

善子「騒いで、ごめんなさい……」

養護教諭「もう、保健室で騒いじゃダメよ」

梨子・善子「「はーい」」


私たちは先生に謝罪をしてから、保健室を後にした。





    *    *    *





善子「全く……リリーが変な話振るからいけないのよ?」

梨子「えー……」


あれー、私が悪いのかな……?

騒いでいたのは主に善子ちゃんだった気がするんだけど……。


善子「とりあえず、屋上戻る?」

梨子「うん、そうだね……」


体調もよくなったし──いや、もともと悪くなってないけど──それなら、練習に戻る方がいいだろう。

善子ちゃんをいつまでも付き合わせるわけにもいかないしね。

二人で一階の保健室から屋上に向かって歩く。


善子「それにしても、テレパシーねぇ……」

梨子「んー?」

善子「確かに使えたら便利よね」

梨子「……使えるんじゃなかったの?」

善子「ぼ、凡人たちの気持ちの代弁よ!」


なんか設定がブレブレだなぁ……。

階段を上りながら、私は肩を竦める。


善子「な、何よ!!」

梨子「いやぁ……堕天使ヨハネ様はすごいなーって」

善子「ちゃんと目を見て言いなさいよ!」


いつものやり取りをしながら、階段の踊り場を折り返したところで、


 「──あ、やっぱり善子ちゃんだ」


上方から声が降ってきた。声の主は──


梨子「花丸ちゃん?」

善子「あら……ずら丸じゃない」


花丸ちゃんだった。


花丸「梨子ちゃんも一緒だったんだ。二人とも、こんなところでどうしたの?」

善子「ずら丸こそ……図書委員の仕事してたんじゃないの?」

花丸「今終わったところだよ。そしたら、下の方から善子ちゃんが騒いでるのが聞こえてきたから……」

梨子「ほら……やっぱり騒いでるのは善子ちゃんだって」

善子「何よ!?」

花丸「善子ちゃんは何を騒いでたの?」

善子「騒いでないわよ! というか、善子じゃなくてヨハネだって言ってんでしょ!? ……リリーが何度言っても、私のテレパシー能力を信じないからいけないのよ」


悪いのはリアリティがない設定の方だと思うんだけど……。


花丸「テレパシー? テレパシーって……」

善子「心を読む力よ」

花丸「妖怪の覚(さとり)が使うやつ?」

善子「さと……まあ、そんな感じよ」

梨子「さとり……?」


私は花丸ちゃんの言葉に首を傾げる。


善子「あら……リリー、覚のこと知らないの?」

梨子「う、うん……」

花丸「覚は人の心を読むって言われてる、日本の妖怪のことだよ」

梨子「人の心を読む……妖怪」

善子「見た目はサルっぽいやつよね……。正直ビジュアル的にはダサいから、ヨハネのテレパシーと一緒にしないで欲しいんだけど……」


善子ちゃんはあまり好きではないようだけど……今の自分の状況に即している妖怪の話が出てきた。もしかしたら、善子ちゃんに訊く以上に何かヒントが得られるかもしれない。


梨子「花丸ちゃん、もうちょっと詳しく教えてもらっていい?」

花丸「うん、いいよ。覚は飛騨や美濃──今の岐阜県の方の妖怪で、心を読むのが特徴とされてる妖怪だよ」

善子「へー……覚って岐阜出身なのね」

花丸「岐阜の妖怪って言っても、人間の心を読む妖怪の伝承は日本各地にあって、姿形や呼称、特徴も時代や地域によって微妙に違ったりするんだけど……。飛騨・美濃以外の民話や伝承は“サトリのワッパ”って言われたりすることが多いんだって」

善子「ワッパ……? わっぱって子供のことよね? じゃあ、覚ってのは、そういう伝承とかの大ボスってことなのかしら?」

花丸「諸説あるけど、そんな感じかな」

梨子「へー……」


自分に知識がないせいか、口を挟む隙がないけど……善子ちゃんも少し興味があるようで、自然と話を広げるのに一役買ってくれている。


花丸「少し身近な逸話だと、山彦は覚がモデルだって説があるずら」

梨子「山彦……? やっほーってやつのこと……?」

花丸「うん。山に向かって叫んだ声が、反響して返ってくるのが、心を読まれたって考えと結びついて、そういう説が出来たんだと思う」

梨子「なるほど……」

善子「それにしても、覚って妖怪は人の心なんか読んで、何が目的なのかしら?」

花丸「目の前に現れ、相手の心の内を言い当てて、相手が驚いている隙に取って食おうとするみたいだよ」

善子「……食われるのは嫌ね。対処法とかないの?」

花丸「覚は目の前の相手の心は読めても、無生物の動きを知ることは出来ないから、焚火とかで木片が偶然跳ねてぶつかったりすると、驚いて逃げていくって言われてるよ」

梨子「焚火かぁ……」

善子「そう聞くと、能力の割に意外と小心者なのね……」

花丸「でも、この妖怪はいくつか狂歌が残ってるくらいには有名どころの妖怪でもあるずら。『来べきぞと 気取りて杣が 火を焚けば さとりは早く 当たりにぞ寄る』とか『人の知恵 さとり難しと 恐れけり ぽんと撥ね火の 竹の不思議を』とかね」


まとめると……人の心を読む妖怪で、弱点は焚火……ってことかな。ただ、これだけだと、そういう妖怪が居るというだけの話になってしまう。


梨子「ねぇ、花丸ちゃん」

花丸「ずら?」

梨子「その……覚が、人に取り憑いたりすることってあるのかな?」

善子「取り憑くって……憑依ってこと?」

梨子「そんな感じかな……」

花丸「うーん……妖怪って、概念的な捉え方をすることも多いからね。ありえない話ではないと思うかな」

善子「そういうもんなの?」

花丸「どっちかというと現象に近いものだからね。山彦とか木霊みたいに、姿形は見えないけど、起こっている現象に対して、実は何かが居るはずだって信じた昔の人が存在をでっちあげたものが、妖怪として伝承に残っていたりもするから……」

善子「なるほどね……人々の恐怖そのものが妖怪を作り上げてしまう、と……」

花丸「人の心から作り出されたものである以上、人に取り憑くこともあるのかなって。だから、結論としては、あり得る。かな」

梨子「そっか……」


となると、覚というのは一つの説としてはあり得るかもしれない。

むしろ、唐突に始まった現象である以上、そういう超常的な存在がいる方がいくらか説得力がある。

少なくとも、私がある日突然エスパー少女に目覚めたというのよりは、真実味がある……たぶん。


善子「でも、焚火が弱点って言われても……焚火なんてそうそうしないわよね」

花丸「あはは、そうだね……。でも、類似の妖怪への対処法として、今でも慣習的にやってることがあって──」


二人の会話に割って入るように──


 「あれ? 3人ともどうしたの?」


再び、階段の上から声を掛けられる。……今日はよく、突然人から声を掛けられる日だ……。

3人で声の方に目をやると、階段の上の方から私たちを見下ろしていたのは──ルビィちゃんだった。


花丸「あ、ルビィちゃん!」

ルビィ「花丸ちゃん、お仕事お疲れ様」

花丸「ありがとずら~」


そして、手を振りながら、花丸ちゃんとやり取りをするルビィちゃんの背後からもう一人、


果南「あれ……梨子ちゃん?」

梨子「あ……果南ちゃん……」


果南ちゃんの姿。


善子「ルビィも果南も、どうしたのよ?」

果南「どうしたのって……練習が終わって、降りてきたら皆が居ただけなんだけど……」

梨子「……え?」


言われて、窓の方を見てみると──確かに外は夕闇が迫り始めているところだった。

どうやら、話し込み過ぎたようだ……。


花丸「ずらぁ……練習終わっちゃったずら……」

梨子「ご、ごめんね。私が話を聞いてたせいで……」

花丸「うぅん、どっちにしろ、このタイミングで行っても着替えたら練習が終わっちゃうくらいのタイミングだったから……むしろ、着替え損にならなくてよかったずら」

梨子「そう言って貰えると助かるよ……」


花丸ちゃんには少し申し訳ないことをしてしまったなと思いながら、やり取りをしていると、


果南「それより、梨子ちゃん……大丈夫?」


案の定、果南ちゃんが心配そうに声を掛けてくる。


梨子「うん、もう落ち着いたから……」

果南「ならいいけど……」


保健室で騒いでいて追い出されたというのは恥ずかしいから言わないでおこう。


果南「とりあえず、部室に着替えに行こうか? 千歌たちもそのうち降りてくるからさ」

梨子「うん」


結局、今日の部活は準備体操だけで終わっちゃったな……。

とはいえ、果南ちゃんとの間に起こった謎の現象のせいで、それどころじゃなかったし……仕方ないか。


果南「……ん? どうしたの?」

梨子「え?」

果南「私のこと、見てたから……」

梨子「う、うぅん……なんでもないよ……」

果南「そう?」

善子「……やっぱり、リリー……」

梨子「だから、違うって言ってるでしょ……」


相変わらず同じことを言っている善子ちゃんに、溜め息が漏れる。これ当分は誤解されたままかもなぁ……。





    *    *    *




──その夜、私は自室で改めて考えを整理していた。


梨子「……そもそも原因はなんなのかな」


今日起こった現象について、善子ちゃんや花丸ちゃんと話したことを思い出しながら、紙に書き起こしてまとめる。


梨子「えっと……妖怪のしわざ……とか……?」


数年前に、子供たちの間で大流行した、某妖怪ゲームのようなワードが口をつく。

ざっくりしすぎな気もする。それに妖怪が関係しているかも、というのも花丸ちゃんたちが話していた覚って妖怪が今の現象に似ているからというだけだし。


梨子「まあ……他に思い当たるものもないけど……」


仕方がないから、とりあえず「覚のしわざかも?」くらいに書いておく。

あれ、でももし覚が原因なんだとしたら……今の私は覚に取り憑かれているってことなんじゃ……?

なんだか、そう思うと少し気味が悪い。

明日、花丸ちゃんに御払いでもしてもらおうかな……。

それはさておき、


梨子「次は……どういう現象か、かな」


これはずっと考えていたとおり、果南ちゃんの考えがわかるという現象。


梨子「……でも、果南ちゃん以外の人だとどうなんだろう」


もし、私に覚的なものが取り憑いているんだとしたら、果南ちゃん以外の心も読めたりするんだろうか?


梨子「発動条件は触れてるとき……」


少し今日のことを思い出しながら、考える。今日私と直接触れた人……。

………………。……果南ちゃん以外いないような。

改めて考えてみると、人間が普通に生活する上で、他人と直接触れ合う機会というのは思ったより少ない気がする。

こっちに越してきたときは、田舎の人はスキンシップが激しいな、なんて思ったりしたものだけど……。


梨子「そういえば……最近、千歌ちゃんに抱きつかれなくなったな」


考えてみたらスカートの中を覗かれたり、手を握ってくることも少なくなかった千歌ちゃんも、最近大人しい。

少しだけ、なんでかなと思ったけど、


梨子「……考えるまでもないか」


すぐに答えに辿り着く。理由は恋人が出来たからだろう。

千歌ちゃんが自制しているのか、ダイヤさんが他の子とのスキンシップを嫌がるからなのかはわからないけど……。

……それはともかく、あんなに奔放な千歌ちゃんが、目に見えて変わってしまうなんて、それほどダイヤさんが千歌ちゃんに大きな影響を与えていることは間違いない。

そして、それくらい二人はお互いを大切に想いあっていて……。


梨子「恋人……いいなぁ……」


またそんなことを口にしてしまう。

でも、羨ましいものは羨ましい。しょうがないじゃない。


梨子「私にも大切に想ってくれる人がいたらなぁ……」


ないものねだりなのはわかっているけど……ただ、自分を可愛いって思ってくれたり、綺麗って思ってくれたり、大切だ、大事にしたいって思ってくれる人がいたら、日々が潤いそう。

実際、千歌ちゃんも曜ちゃんも生き生きしているし……なんだか、最近は前以上に可愛くなった気がする。


梨子「恋は女の子を綺麗にするって言うし……」


そこまで悶々と考えていると、だんだん虚しくなってくる。

そんな手放しに私のことを褒めてくれる人なんて……。

──『それにしても、梨子ちゃんって華奢だなぁ……。手も足も細くて、真っ白だし……』──

──『……あ、近くで見ると、梨子ちゃんのまつ毛って長いんだなぁ……やっぱり美人さんだ』──


梨子「……///」


思わず頭に浮かんだ言葉を掻き消すように、かぶりを振った。

果南ちゃんのはそういうのじゃないもん。……別に口で言われたわけじゃないし。

なんだか、今日は変に果南ちゃんを意識してしまっている。……いや、それこそ渦中の人だし、意識していて当然なんだけど……。

でも……。


梨子「果南ちゃんが恋人だったら……優しくしてくれるんだろうな……」


私から果南ちゃんに感じているイメージは、それこそ優しくてかっこいいお姉さんと言った感じだ。

もし果南ちゃんが恋人だったら、リードしてくれて──


~~~~~~~~~~~~~~


果南『梨子ちゃん、じっとしてて』

梨子『へ……///』

果南『……梨子ちゃん』

梨子『ま、待って……果南ちゃん……/// そんな、いきなり……///』

果南『嫌なら……逃げてもいいよ』

梨子『……///』

果南『ふふ……ありがと。好きだよ……梨子』


~~~~~~~~~~~~~~~


梨子「──……はっ!?/// わ、私、何考えて……///」


我に返って、急に恥ずかしくなる。


梨子「そもそも、どんなシチュエーションなのよ……!///」


何、ありもしない妄想をしているんだか。


梨子「うー……///」


今日ちょっと褒められただけで──心の中でだけど──こんなに意識してしまうなんて、我ながらちょっとチョロすぎるんじゃないだろうか。


梨子「果南ちゃんに他意はないの! それくらいわかってるんだから、はい続き!」


自分に言い聞かせるように妄想を振り切って、思考のベクトルを修正。えーと、発動条件……今日私が直接触った人──


梨子「あ、よくよく考えてみたら、むっちゃん……」


そういえば、教室で曜ちゃんを見送ったあと、肩を叩かれたっけ。


梨子「……でも、あれは服の上からか……」


服越しなので、直接触られたわけじゃないとも言えなくもない。


梨子「……そもそも、服越しじゃダメなのかな……?」


考えてみれば、テレパシーが発動しているときは、大体果南ちゃんが直接肌に触れていたけど……。首筋やら、手の平やら、おでこやら。


梨子「そういえば……前屈のときも聞こえてた」


前屈時にペアが押すのは背中だけど……となると、服の上からでもテレパシーの条件は成立する?


梨子「もしくは、髪……かな」


私の髪は背中まであるから、前屈で後ろから押してもらうと、押す側の人は自然と私の髪に触れることになる。

結局条件がどっちなのかはわからないけど……とりあえず、服の上から触られていたタイミングが他にあったのかは正直よく覚えていない。


梨子「服の上からだとダメなのかは、ちゃんと確認しないとかな……」


とは言ったものの、わけのわからない現象であることに変わりがなく、正直現状では不明なことだらけだ……。


梨子「うーん……」


やっぱり誰かに相談した方がいいのかな……。ただ、相談案を考えてみて、すぐに壁にぶつかる。


梨子「……なんて相談すればいいの……?」


そもそも、私の頭の中で起こっている現象に過ぎないのに、どうやって説明すればいいんだろう。

私は果南ちゃんの考えていることがわかります、と言っても信憑性が全くない。それだと善子ちゃんの『堕天使はテレパシーが使える』と同レベルだ。

果南ちゃんに協力してもらって、考えていることを言い当てれば少しは信頼の出来る証拠になるかもしれないけど……。


梨子「自分の考えてることを、覗かれてたら……嫌だよね」


少なくとも私だったら嫌だ。

そして、そんなカミングアウトをされたら、その相手にどんな印象を抱くか。

……人間、心の中で考えていることは、普通は他人に知られたくないものなんじゃないだろうか。

そう考えると、当事者の果南ちゃんに協力を仰ぐのは、とても憚られた。


梨子「でも……放っておくわけにもいかないよね……」


触れなければテレパシーが発動することはないとは言え、これから先ずっと果南ちゃんに触らないようにするというのは、少し現実的じゃない。

何より、本当に心が読めるだけの現象なのかもわかっていない。

仮に、妖怪の覚が原因だとしたら……もしかしたら、私や果南ちゃんに危害を加えようとしているのかもしれないし……。

だから、明日以降もどうにか果南ちゃんとコンタクトを取らないといけない。

どうにか、口実を──


梨子「……あ、お昼……」


そういえば果南ちゃん、明日のお昼は一緒に食べようと言っていた。


梨子「えっと……部室に行けばいいんだっけ……」


確かそんなことを言っていたはず。

善子ちゃんが途中で入ってきてしまったため、話が中途半端に終わってしまったから、少し記憶が怪しい……。


梨子「集合場所……間違えたらまずいよね……」


……本人に聞いてみればいっか。

私はスマホの画面を点けて、LINEから果南ちゃんの連絡先を呼び出す。

果南ちゃんとLINEのやり取りって……あんまりしたことないから、少し緊張するけど……。

こういうときは簡潔に、シンプルに。意識すると、変な感じになっちゃうから。


 『梨子:果南ちゃん、今大丈夫?』


メッセージを送ると、すぐに既読が付く。果南ちゃんもたまたまスマホを触ってたのかな?


 『KANAN:なにかな?』

 『梨子:明日のお昼の集合場所を確認したいんだけど・・・部室であってる?』

 『KANAN:あってるよ~』


どうやら、自分の記憶は間違っていなかったようで安心する。

確認も出来たので、お礼を返そうとすると、


 『KANAN:梨子ちゃん、このあとって時間ある?』


と続けてメッセージが届く。このあとは、寝るくらいかな……。


 『梨子:あとは寝るだけだから、大丈夫だよ』

 『KANAN:なら、少しお話しない?』


梨子「え……?///」


急なお誘いに少しドキっとする。


梨子「……た、ただ、電話しようって言われただけで、何ドキドキしてるの……私……///」


今日はいろいろあったとはいえ、少し意識しすぎ。一旦落ち着くために、


梨子「……すぅ…………はぁ……」


深呼吸してから、返事をする。


 『梨子:大丈夫だよ❕』


返事をしたらすぐに、スマホが着信音と共に震え出した。着信に応える前に、もう一度深呼吸。変に意識しないようにしないと……。


梨子「──もしもし、果南ちゃん?」

果南『梨子ちゃん、こんばんは』

梨子「こんばんは。果南ちゃんが電話掛けてくるなんて、珍しいね」

果南『……言われてみれば、梨子ちゃんと電話ってあんまりしたことなかったね。連絡はチャットで済ませちゃうことが多かったし……迷惑じゃなかった?』

梨子「全然、大丈夫だよ」

果南『ならよかった……。ほら、今日体調悪かったでしょ? だから、どうしてるかなって思って……』

梨子「も、もしかして、心配してくれてたの……?///」


果南ちゃんの優しさを感じて、またしても少しドキっとする。


果南『そりゃまあね……。でも、声聞いたら、元気そうで安心したよ』

梨子「う、うん……お陰様で……///」


そもそも体調不良というのが、勘違いなんだけど……まあ、今更蒸し返す話じゃないよね。


果南『まあ、実は用はこれだけなんだけど……あはは』

梨子「うぅん……心配してくれてありがとう、果南ちゃん」


なんだか、些細なことでも、誰かがこうして自分のことを心配してくれるのって……ちょっと嬉しいかも。


果南『お礼言われるようなことじゃないよ、私が梨子ちゃんの声を聞きたかったってだけだし』

梨子「/// そ、そっか……///」


果南ちゃんはナチュラルに歯の浮くような台詞を言う。もちろん、その意味自体は体調の良し悪しを確認したかったという意味だというのはわかっているけど、いざそんな風に言われると少しこそばゆい。


果南『さて、梨子ちゃんが元気なこともわかったし……私は明日も朝から家の手伝いがあるから、そろそろ寝るね。梨子ちゃんも早く寝るんだよ?』

梨子「う、うん、わかった」


ちらりと時計を見ると、午後10時前を指していた。

果南ちゃんって早寝早起きなんだなぁ……。


果南『今日も冷えるから、温かくしてね』

梨子「はーい」

果南『ふふ……それじゃあ、明日のお昼楽しみにしてるね。おやすみ、梨子ちゃん』

梨子「おやすみなさい、果南ちゃん」


通話の切れた画面を見つめて、


梨子「……ふぅ……///」


思わず息が漏れる。意識しないように努めていたけど……通話が切れた今でも少しだけドキドキとしていた。

──『私が梨子ちゃんの声を聞きたかったってだけだし』──

こんな台詞を誰かから言われる日が来るとは思わなかった。……いや、そういう意味じゃないってことは理解しているつもりなんだけど。


梨子「……そういえば、千歌ちゃんも鞠莉ちゃんも、果南ちゃんって昔からモテるって言ってたっけ」


──それも、女の子からよくモテる、と。……けど、それもなんだかわかる気がした。

女の子ならつい嬉しくなってしまうようなあんな台詞を日常的に言われていたら、確かに人によってはイチコロだと思う。

少なくとも私は、果南ちゃんの台詞で胸がキュンって──


梨子「……って、これじゃ私もイチコロにされてるみたいじゃない……/// 果南ちゃんに他意はないんだって……!///」


何度この自問自答を繰り返すんだろうか。本当に今日は私は意識のしすぎだ。


梨子「早く寝よう!/// 明日もあるんだし、早く寝るように言われたし!///」


自分に言い聞かせるようにして、布団を被る。

だけど──電話して、また意識してしまったのか、心臓がドキドキしている。


梨子「……ぅぅ……///」


本当にどれだけ自分はチョロいんだと、思いながらも……この夜は、果南ちゃんのことを考えてしまって──。

結局、私はなかなか寝付くことが出来ない夜を過ごすハメになったのだった。




    *    *    *





──翌日。


梨子「……ふぁ……」


寝不足で漏れ出てくる欠伸を噛み殺しながら、私は朝からある場所に出向いていた。


梨子「失礼しまーす……」


ゆっくりと戸を開けると、


花丸「ん……? あれ、梨子ちゃん? おはよう」


花丸ちゃんがカウンターに座ったまま、本の整理をしているところだった。

──そう、私が朝から足を運んでいるのは図書室。調べ物をするならやっぱり図書室かなと思い、覚について何か書いてありそうな本を探しに来たわけだ。

わざわざ学校の図書室に赴いた理由はそれだけじゃないけど……。


梨子「おはよう、花丸ちゃん」

花丸「朝から図書室に来るなんて珍しいね。探し物?」

梨子「うん、ちょっとね……」


私はとりあえず、目的の棚へと足を運ぶ。

えっと……妖怪の類って、日本の神話とか伝説を探せばいいのかな……。

案内図を見る限り、北欧神話などの善子ちゃんが好きそうな本棚の先にあるらしい。図書室の端っこの方だ。

──この配置……あまり人気がないんだろうか。

まあ、図書室の利用者自体も少ないって、花丸ちゃんが言ってたもんね。

そんな中で妖怪や怪物の本を好んで読み漁る人もいないか。

棚を物色しながら、件の場所に辿り着くと、


梨子「……あれ?」


目的の棚はかなり本がまばらで、明らかにそこにあったはずの本はすでに貸し出されている状態だった。しかも大量に。


梨子「え……もしかして、大人気……?」


予想外の展開に困惑していると、


花丸「あ、えっとね。そこの本は、今はほとんどが生徒会室にあるずら」


と、受付カウンターの方から歩いてきた花丸ちゃんが言う。


梨子「生徒会室……?」

花丸「生徒会から、長期貸出の申請があって……。貸出の履歴を見ても、もう何年も借りる人がいなかったから、許可したんだよね」

梨子「そうなんだ……?」


つまり、ダイヤさんが借りて行ったってことかな……?


花丸「もしかして、梨子ちゃんも読みたかったの? それなら、生徒会に返却のお願い出しておくけど……」

梨子「あ、うぅん。ないならいいの」


本に関しては、あれば参考になるかも程度の考えで来ただけだったし、ちゃんと調べるならネットなり、市営図書館なり、もっと詳しく情報が手に入れられる場所がある。


花丸「それならいいけど……もしかして、昨日の話の続き?」

梨子「あ、うん……まあ、そんな感じ。話を聞いてたら、ちょっと気になっちゃって」


昨日の今日で、こんな棚の前に足を運んでいたら気付いて当然かな。

それはそうと、本がないのなら、もう一個の用事を済ませないといけない。一応辺りに人がいないことを確認してから──学校の端の図書室の更に端っこだから、そんな心配もないんだけど──話を切り出す。


梨子「ねぇ、花丸ちゃん」

花丸「ずら?」

梨子「花丸ちゃん、御払いとかって……出来る?」

花丸「御払い……?」


花丸ちゃんは小首を傾げる。


花丸「えっと梨子ちゃん、厄年……は来年だよね」

梨子「え、そうなの……?」

花丸「うん。女の子は18歳が前厄だよ」

梨子「そ、そうなんだ……じゃあ、それはそれで来年厄払いしないと……」

花丸「ただ、やるなら準備しないといけないし、じいちゃんにやってもらわないと……マルは所詮お寺の子ってだけだから」

梨子「そ、そっか……」


確かにお寺の子というだけで、御払いが出来るという考えは安直だった。


花丸「梨子ちゃん、何か心配事でもあるの……? 突然、御払いして欲しいなんて……」


まあ、それも当然の疑問だと思う。ただ、突然覚に取り憑かれているかも、なんて言うのは気が引けた。

……そのカミングアウトは私が誰かの心を読んでいることをバラすのと同義だ。

覚が関係しているのかも、まだ憶測の段階だし、ここは……。


梨子「ちょっと、最近運が悪いなって思って……」


これくらいの理由でちょうどいいと思った。

普通に運が悪くて御払いした方がいいのかなって、思っちゃうことあるもんね。実際にするほどかはともかく。


花丸「なるほど。昨日も体調崩してたらしいもんね……うーんと、そうずらね……」


まあ、体調が悪かったというのは、果南ちゃんの誤解だったんだけど……。それはともかく、花丸ちゃんは私の話を聞き納得してくれたようで、少し思案したあと、


花丸「あ、そうだ。清め塩くらいなら、梨子ちゃんでも簡単に出来るんじゃないかな」


そう提案してきた。


梨子「清め塩?」

花丸「お塩には穢れを清める力があるって言われてるから」

梨子「普通のお塩でいいの?」

花丸「確か、海水由来のお塩が良かった気がするけど……基本的には身体に振りかけるだけでお清めになるから、きっとすぐに出来るよ」


確かにそれくらいならすぐに出来そうだ。塩なら家に帰れば絶対にあるし……。


梨子「わかった。家に帰ったらやってみるね」

花丸「そうしてみて欲しいずら。他にも何か困ったことがあったら言ってね。どれだけ力になれるかはわからないけど……一応お寺の子だから、多少の知恵くらいなら貸せると思うから」

梨子「うん、ありがとう」


そこまで話をしたところで──キーンコーンカーンコーン、とチャイムの音が響く。


梨子「あ、予鈴……」

花丸「教室行かなくちゃだね」

梨子「ごめんね、朝からお邪魔しちゃって……」

花丸「うぅん、少しでも梨子ちゃんの力になれたならよかったずら」

梨子「花丸ちゃん……ありがとう」

花丸「どういたしましてずら」


とりあえず、簡単な御払いの方法だけ聞いた私は、今日も授業を受けるために二年生の教室へと戻っていくのだった。





    *    *    *





滞りなく、午前の授業を終えて、お昼休みになった。

いつもどおり、千歌ちゃんと曜ちゃんを見送った後、


むつ「梨子、ご飯一緒に食べよ~」


むっちゃんたちにお昼に誘われる。


梨子「あ、えっと……今日は部室で食べる約束してるから」

よしみ「そうなんだ?」

梨子「うん、ごめんね。また今度誘って」

いつき「わかった、いってらっしゃ~い」


今日は先約があるからね。

3人のお誘いを断って、私は部室へと足を向ける。

しかし、改めて考えてみると、お昼を食べに部室に向かっているのは新鮮かもしれない。

テレパシーの件で懸案事項こそあるものの、果南ちゃんとのお昼は純粋に楽しみだった。

──体育館を抜け、部室へと辿り着くと、既に室内には果南ちゃんの姿があった。


梨子「果南ちゃん、お疲れ様……!」


戸を開け、果南ちゃんに声を掛けると、


果南「お疲れ様」


果南ちゃんはニコっと笑いながら、私を出迎えてくれる。


梨子「果南ちゃん、早いね」

果南「授業終わってからダッシュで来たからね」

梨子「あはは、ダイヤさんに見つかったら叱られちゃうよ?」

果南「大丈夫大丈夫、叱られる前に振り切っちゃえば」


それは大丈夫とは言わないような……。


果南「それに、梨子ちゃん待たせちゃったら悪いからさ」

梨子「そんな……大袈裟だよ」

果南「でも、誘ったの私だしさ。まあ、そんなことはいいから、早く食べよう? 実はお腹減っててさ」

梨子「あ、うん」


促されて、私は果南ちゃんの向かいの席に腰を下ろす。

私が持ってきた巾着袋からお弁当箱を取り出す最中、果南ちゃんも同じようにお弁当箱を取り出しているところだった。

もしかして、私が来るまで待っていてくれたのかな。


梨子「お腹減ってるなら、先に食べててくれてもよかったのに……」

果南「んー……私が先に食べ始めちゃうと、絶対に先に食べ終わっちゃうし……私、結構食べるの速いからさ」

梨子「まあ……言われてみれば」

果南「逆に梨子ちゃんは女の子らしく、一口がちっちゃくて上品だからさ。私が待つくらいがちょうどいいんだよ」

梨子「上品……/// 別に普通だよ……///」


ご飯を食べているだけで褒められるとは思わなかった。

確かに、今まで皆でご飯を食べていたとき、千歌ちゃんや果南ちゃん、曜ちゃんは食べるのが速かった気がする。

……まあ、花丸ちゃんが群を抜いて速いんだけど。

Aqoursの中だと、善子ちゃんが一番平均的で、ダイヤさんと鞠莉ちゃんはお上品でゆっくり……なのかと思ったら、意外と善子ちゃんと同じくらいだった記憶がある。

どうやらゆっくりな所作でも、無駄がない分、食べるのが遅いと言うほどではないらしい。

一方で私とルビィちゃんは他の皆に比べると非常に食べるのがゆっくりだ。

別段、ゆっくり食べているつもりはないんだけど……。


果南「いただきます」

梨子「いただきます」


二人でお弁当箱の蓋を開けて、食し始める。

果南ちゃんのお弁当箱は、意外に小ぢんまりとしたものだった。私のよりちょっと大きいくらいかな。

ただ、本当に意外だったのは大きさよりもその中身で、たまご焼きやミートボールなどが入っている、いわゆる女子高生のお弁当らしいお弁当だった。


果南「ん?」


私がじっと観察していることに気付いたのか、


果南「私のお弁当、そんなに珍しい?」


そんな風に問い掛けられてしまった。


梨子「あ、いや……なんか、女子高生らしいお弁当だなって思って」

果南「なんじゃそりゃ……まあ、毎日お弁当に手間掛けてられないからね。自然と皆こんな感じになるんじゃない? それこそ、梨子ちゃんのお弁当も似た感じだし」

梨子「そういえば……お母さんも同じようなこと言ってたかな……」

果南「梨子ちゃんはお母さんに作ってもらってるんだ?」

梨子「うん。たまに自分で作ってるけど……毎朝は大変で」

果南「あはは、わかる。毎朝凝ったこととか絶対できないよね。朝ごはんのついでに、作って詰めてって感じだから、お弁当箱の中身も朝ごはんの延長戦みたいになりがちなんだよね」


そこまで聞いていて、気付く。


梨子「果南ちゃんは、毎朝自分でお弁当作ってるんだね」

果南「まあね、おじいの朝ごはんも作らないといけないし」

梨子「おじい……おじいちゃんの分も作ってるんだ?」

果南「まあね、他に作る人もいないし」


他に作る人もいないし……?


梨子「お母さんとかは? お店の準備で忙しいの?」

果南「ん? あれ……言ってなかったっけ? ウチ、母さんいないんだよね」

梨子「え……?」


果南ちゃんの発言に一瞬フリーズしてしまう。

ただ、果南ちゃんは固まってしまった私を見て、


果南「ああ、別に死んじゃったとかじゃないよ。両親とも健在」


すぐにフォローを入れる。


梨子「あ、ああ……そうなんだ、よかった……」

果南「今、父さんと母さんは西表島に住んでるんだよね」

梨子「イリオモテ……? ……え、沖縄?」

果南「そ。私が言うのはなんだけど……父さんも母さんも大概ダイビングバカだからさ。沖縄の綺麗な海でのダイビングを求めて、ここから出て行っちゃったんだよね」

梨子「そうだったんだ……」

果南「うん。最初は私もついていくかどうかって話にはなったんだけどね。ただ、向こうには高校もないし、後々困るってことでこっちに残ったわけ。おじいを一人残すのも心配だったしね」

梨子「でも……二人だけでお店回すのって、大変じゃない……?」

果南「まあね。だから、今じゃ半分おじいの趣味で続けてるみたいなところはあるかなぁ。あくまで私はアシスタント。ただ、おじいってダイビングの世界だとかなりの古株らしくて、そこそこ有名なんだよね」

梨子「そうなの?」

果南「なんか昔は水中写真集とかも出してたみたいで、そんなおじい目当てで来るお客さんは結構いるんだよ。まあ、この時期はさすがに暇だけど」


果南ちゃんは話しながら、たまご焼きを口に放り込む。


梨子「……」


果南ちゃんはあっけらかんと話すけど……思ったより重要なことじゃないかな、これって。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「ん?」

梨子「寂しく……ないの?」

果南「うーん……別に二度と会えないわけでもないしなぁ」


果南ちゃんはお箸の先を宙でくるくるさせながら答える。そういうものなんだろうか。


果南「それに昔から千歌が居たしなぁ。あ、まあ……そういう意味では今千歌はダイヤにくびったけだから、いつもそばに居るわけじゃないけど」


今度は肩を竦めて苦笑い。


梨子「……私だったら、寂しいかな……」


私は、お母さんともお父さんとも離れて暮らしたことがないけど……きっと、すごく寂しいと感じてしまうと思う。

それに私も両親と共に引っ越して、この地に来た人間だ。もしかしたら、果南ちゃんのように親と離れ離れになる可能性もあったのかもしれない。そんなIfを想像してしまって、なんだか他人事には思えなかった。


果南「きっとそれが普通なんだと思うよ」

梨子「……果南ちゃんは普通じゃないの?」

果南「特殊だとは思ってるかな。島暮らしなんて、鞠莉みたいな超例外を除けば、それこそ私くらいだし」

梨子「だから、寂しくないの……?」

果南「……ん、参ったな……。なんかごめんね、別にこういう話がしたかったわけじゃなかったんだけど……でも、もう慣れちゃったからさ。全然平気なんだよね」

梨子「…………」


私は思わず、食べるのを中断して、


梨子「…………本当に……?」


再度訊ねてしまう。


果南「あはは、疑われてもなぁ……」

梨子「…………」


果南ちゃんは、寂しい気持ちを声に出さない。

昨日もそうだった。心の中で寂しいと思っていても、一度も口に出してはいなかった。

今も、もし強がっているだけなんだとしたら……。


梨子「…………」


私はお箸を置いて、席を立つ。


果南「梨子ちゃん?」


私の行動に不思議そうな顔をする果南ちゃんの隣へと、近寄って──両手で果南ちゃんの手を握った。


果南「え……っと……」

梨子「……果南ちゃん、本当に……寂しくないの……?」

果南「…………」
 果南『……まあ、全く寂しくないわけじゃないけど……。でも、父さんと母さんの気持ち、わかるからな……沖縄の海はやっぱ綺麗だしね』


手を握ったら、心の声が響いてきた。

やっぱり、本当は寂しいんだ。納得するための理由は自分の中にあるのかもしれないけど……全然平気って人の思ってることじゃないよ……そんなの。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「……なに?」

梨子「……寂しかったら言ってね」

果南「いや、だから……」

梨子「ちゃんと言ってね」

果南「……」


果南ちゃんは少し困ったように、頬を指で掻いたあと、


果南「……わかった。ありがと」


観念したように、お礼を言う。


果南「なんか、見透かされたみたいだな……。でも、平気なのは本当だからね?」

梨子「うん」


みたいじゃない。見透かしたから。果南ちゃんの心の声を聴いて。

果南ちゃんが、誰にも言えないような、心の声を通じて。

──実のところ私は、このテレパシー現象は、あまり良くないことだと思っていたけど……このときから、ただただ悪いものではないんじゃないかと思い始めていた。

人間、誰かに言えない本音があると同時に、言いたくても他の人には言い出せない悩みがある。

もしかしたら……この力があれば、私は果南ちゃんの力になれるんじゃないだろうか。そんな風に、思い始めていた。


果南「……っと、ご飯食べちゃわないと」

梨子「あ、うん、そうだったね」


私は果南ちゃんに促されて、自分の席に戻る。席に着くと、果南ちゃんが真っ直ぐ私のことを見つめていることに気付く。


果南「梨子ちゃんってさ」

梨子「?」

果南「優しいんだね」

梨子「え、いや……そんなこと……///」

果南「それと、すごい照れ屋さんだ」

梨子「……///」


確かに、ちょっと褒められただけで顔が熱くなってしまうのは、世間一般的に照れ屋と言われるのかも。などと、思いながらも顔を俯かせる。


果南「ありがとう、梨子ちゃん。その気持ちだけで、私は十分嬉しいから」

梨子「果南ちゃん……。……うん」


結局、果南ちゃんは寂しいと、素直な気持ちを口にはしてくれなかったものの、私の気持ちは受け取ってくれた……ということでいいのかな。

別に無理やり言わせたいわけじゃないし、私は気持ちがわかっているんだから、今はこれで十分かな……。


果南「……梨子ちゃん」

梨子「ん……?」

果南「明日のお昼も……部室でいい?」

梨子「! う、うん!」


少なくとも、関係は前に進んでいる気はする。

進んだその先に何があるのかは、わからないけど……今はきっと、これでいい。

そう思いながら、食べたお弁当の甘いたまご焼きは──今日は何故だか一段と、甘い味付けになっている気がしたのでした。





    *    *    *





──さて、午後の授業を終え放課後になり、再び部室。いつもどおり、自然と千歌ちゃんはダイヤさんの隣に座り、曜ちゃんは鞠莉ちゃんの隣に座っている。


梨子「……お疲れ様」

果南「ん、お疲れ、梨子ちゃん」


席が空いていたのをいいことに、私もさりげなく果南ちゃんの隣の席に腰を下ろす。


ダイヤ「さて皆さん、来週からは期末テストが始まります。ですので、来週からは放課後の練習はなしになります」


全員が部室に揃ったのを確認したのか、ダイヤさんが部員たちを見回しながら、連絡事項を口にする。

確かに来週に入ると、期末テストが始まる。そうなると、練習は出来なくなる……んだけど、


千歌「……やだ。来週も練習したい」


案の定、千歌ちゃんが駄々をこね始めた。


千歌「テスト期間中は、午前で終わる分いっぱい練習できるじゃん!」

ダイヤ「ダメです。テスト期間中に部活が禁止なのは規則ですから」

千歌「生徒会長権限で」

ダイヤ「貴女は生徒会長をなんだと思っているのですか……? ダメなものはダメです」

千歌「ケチー!!」

ダイヤ「なんとでも仰いなさい。大体貴女、中間テストも酷い点ではありませんでしたか?」

千歌「……ぎくっ。……ち、中間は赤点一個もなかったし……」

ダイヤ「それは当たり前です。平均点を超えた科目は?」

千歌「…………♪~」


ダイヤさんの言葉に、千歌ちゃんは下手な口笛を吹きながら目を逸らす。


ダイヤ「ちーかーさーん?」

千歌「勉強なんて出来なくても人生困らないもん!」

ダイヤ「貴女はいつも、そうやって問題を先延ばしにする……!」


成績の話になると、何かとこういう流れになるのはもはやお決まりだ。


鞠莉「また、始まっちゃったわねぇ~」

曜「あはは……」

善子「このカップル漫才、そろそろ食傷気味なのよね……」

花丸「仲良きことは美しきかなだよ、善子ちゃん」

善子「善子じゃなくて、ヨハネ」

ルビィ「仲良きことって言っても……二人とも、ケンカの真っ最中だけど……」


メンバーはもはや呆れ気味に眺めている。


ダイヤ「期末は最低でも平均点以上を取ってもらいますわ」

千歌「なんでそんな酷いこと言うの!?」

ダイヤ「酷いのは貴女の成績です」

千歌「もう怒った! 勉強なんてしないもん! 赤点取っても、死ぬわけじゃないし!」

ダイヤ「……そうですか」


千歌ちゃんの言葉を聞いて、ダイヤさんは目をすっと細めた。


千歌「な、なに……?」

ダイヤ「そういうことでしたら、再来週の週末の予定はなしにしましょう」

千歌「え……」


ダイヤさんの言葉を聞いて、千歌ちゃんは一気に青ざめる。


千歌「や、やだ!! それは、やだっ!!」

ダイヤ「嫌と言われましても……赤点を取ったら補習で、登校しないといけませんから」

千歌「ぅ……」

ダイヤ「はぁ……残念ですわね。せっかく楽しみにしていたのに」


急に形勢逆転した二人を見て、


梨子「ねぇ、ルビィちゃん」

ルビィ「ぅゅ?」


近くにいたルビィちゃんに、耳打ちする。


梨子「再来週? 何か予定があるの?」

ルビィ「あ、うん……遊園地に行くって言ってた」

梨子「へー……なるほど」


つまりダイヤさんは、遊園地デートを盾に千歌ちゃんに勉強をさせようとしているらしい。


ダイヤ「……ですが、仕方ありませんわね。学生の本分は勉学ですから。補習の千歌さんはお留守番ということで……」

千歌「やだっ!! 絶対やだっ!!」


千歌ちゃんは全力で異を唱える。というか、もはや軽く泣いている。


ダイヤ「勉強、もうしないのでしょう?」

千歌「するっ! ちゃんと勉強するから、置いてかないで……っ」

ダイヤ「そう? じゃあ、今すぐ教室から教科書を取って来てくださいますか?」

千歌「ら、らじゃー!!」


千歌ちゃんは敬礼しながら、全速力で部室を飛び出していった。

……置き勉してること、バレてるし。

それにしても、泣くほど嫌なんだ……。まあ、デートがなくなるのは嫌か……。

私も、それくらい楽しみに思えるデートが出来ればな……。……その前に相手が居ないけど。


梨子「…………」


そのとき、チラっと頭を過ぎったのは、「誰とだったらそれくらい楽しみなデートになるかな」ということだった。

自然と私の視線は真横に座っている紺碧のポニーテールの先輩に注がれる。

そして、件の人は──


果南「…………」


窓の外を見つめたまま、遠い目をしていた。


梨子「……? ……果南ちゃん?」

果南「……ん……?」

梨子「どうかしたの……?」

果南「……あ、ああ……なんでもないよ」

梨子「……?」


なんでもないようには見えないけど……。悩み事かな……?

でも、そう言われてしまうと、これ以上は聞きづらい。


梨子「……」


私は周囲を見回してみる。


花丸「週末はマルたちも勉強会しよっか、ルビィちゃん、善子ちゃん」

ルビィ「あ、うん!」

善子「友達と勉強会……? リア充の響き……!」

鞠莉「Hmm...千歌はダイヤと、一年生は集まってそれぞれやるみたいだし……せっかくだし、私たちもやってみる?」

曜「そうだね。そうしようかな」


皆こっちは特に気にしていない……。

……。……仕方ないよね? 果南ちゃんのこと、ほっとけないんだもん。

そんな風に自分に言い訳をしながら、私はゆっくり手を伸ばして、果南ちゃんの背後から、ポニーテールの毛先にそっと触れてみる。


 果南『期末試験……どうしよう……』


よかった、毛先でも十分身体に触れていることになるみたいだ。


 果南『……でも、この流れで私も勉強出来ないとか言い出しづらい……』

梨子「……」


なるほど、そういうことか……。まあ、二人のあの攻防を見た直後だもんね……。

果南ちゃんに特別勉強が苦手というイメージはなかったけど、逆に言えば特別勉強が出来るイメージもなかった。

その上で、勉学に励むタイプというよりは身体を動かしているようなタイプの果南ちゃんが、勉強が苦手なのは別段不思議な話でもなかった。


 果南『皆、勉強会の話してるな……。でも、千歌はダイヤと、曜ちゃんは鞠莉とするみたいだし……邪魔はしたくない。……じゃあ、一年生に混ぜてもらう……? いや、それ絶対無理でしょ……』


確かにそれはきつい。私でもそれは無理。三年生の果南ちゃんからしたら尚更だろう。


 果南『梨子ちゃんは……たぶん、一人でやるよね』

梨子「……!」


そのときふと、先ほどまで窓の外を見ていた、果南ちゃんがこっちに視線を向ける。

その際、至近に居た私と、目が合った。


梨子「……///」

果南「……?」


か、果南ちゃんの顔が……近い……!!///

──じゃなくて……髪を触っていたのがバレちゃう……。

私はさりげなく、伸ばしていた手を引く。

手が髪から離れてしまったから、果南ちゃんとのテレパスは途切れてしまったけど……。

こっちから誘っても……いい、よね……? だって、果南ちゃんが今必要としてることだもん。


梨子「ねえ、果南ちゃん」

果南「ん?」

梨子「もし、果南ちゃんが嫌じゃなかったらなんだけど……」

果南「?」

梨子「週末、二人で一緒にお勉強しない……?」

果南「え?」


果南ちゃんは私の言葉を聞いて、ポカンとした顔になる。

そのまま、ワンテンポ、ツーテンポ置いてから、


果南「……もしかして、口に出てた?」


と、罰が悪そうに言ってくる。


梨子「うぅん、特に何も言ってなかったけど……他の皆はお勉強会するみたいだから、私たちもどうかなって」


嘘は吐いていない。また、心の声は聞いちゃったけど……。


梨子「……一緒にお昼の延長……ってことじゃ、ダメかな……?」

果南「……あはは、それ言われちゃったら断れないよね」

梨子「うん、それじゃ約束ね?」

果南「わかった」


果南ちゃんと週末の約束を取り付けたタイミングで、


千歌「──戻りましたっ!!」


千歌ちゃんが部室に舞い戻ってきた。


ダイヤ「おかえりなさい、千歌さん」

千歌「ダイヤさん……!! 教えて……!!」

ダイヤ「どの教科ですか?」

千歌「国語と数学と英語と理科と社会……」

ダイヤ「……全部ではないですか」


ダイヤさんは呆れながらも、千歌ちゃんに勉強を教え始める。

なんだかんだ言いながらもダイヤさん、面倒見がいいんだから……。


鞠莉「今日はこの感じだとダンス練習はなしかしらねー?」

曜「そうだね……それなら、私は衣装の続きをやろうかな」

ルビィ「あ、ルビィも手伝うね。家庭科室でミシン借りられるかな……?」


曜ちゃんとルビィちゃんは家庭科室へ、


善子「ずら丸」

花丸「ずら?」

善子「アレの歌詞ってもう出来た……?」

花丸「うん、大体」

善子「……そ、そうよねー」

花丸「善子ちゃん、もしかして苦戦してる?」

善子「はぁ!? この堕天使ヨハネがそんなことに苦慮するわけないでしょ!? というか、善子じゃないわよ!!」

花丸「はいはい、それならマルたちは図書室にいこっか? 手伝うずら」

善子「……まあ、手伝わせてやらんでもないぞ」

花丸「はいはい、ありがたきしあわせーずらー」


花丸ちゃんと善子ちゃんは作詞のために図書室へ。


果南「なら、私は振り付け考えようかな……」


果南ちゃんは身体を動かしたいのか、屋上へ行くために、私の隣の席を立つ。


梨子「あ……」

果南「ん?」


思わず漏れてしまった声に果南ちゃんが振り返った。


果南「? どうかした?」

梨子「え、あ、いや……! 振り付け決め、頑張ってね……!」

果南「うん、ありがと」


果南ちゃんは手をひらひらと振りながら部室を後にする。

私も返すように、ひらひらと手を振る。


梨子「……」


それぞれがそれぞれの役割を果たすために、持ち場へと散っていく。

──何寂しがってるんだろう、私。いつもの部活の風景なのに……。

一人そんなことを考えていると、


鞠莉「梨子はどうする?」


鞠莉ちゃんに訊ねられる。


梨子「ん……」


無性に果南ちゃんのことが気になるけど……私には私の役割があるし、気になるからって付いて回るのも、なんだかストーカーになったみたいで気が引ける。


梨子「私は音楽室に行こうかな……」


やりたい作曲作業もあるし……。今は自分のやるべきことをやろう。


鞠莉「マリーもついていっていい? 一旦打ち込みが終わったから、一度梨子に確認して欲しくて」

梨子「あ、うん。それじゃ一緒にいこっか」


というわけで、私は鞠莉ちゃんと一緒に音楽室へ。

その際、


ダイヤ「そこ、間違っています」

千歌「だって、わかんないんだもんっ!」


千歌ちゃんが涙目になりながら、教科書とにらめっこをしているのを傍目に、部室を後にする。


千歌「もう、無理!! 無理ぃ!! 頭ショートするっ!! 休憩!! 休憩させてっ!!」

ダイヤ「まだ始めて、5分も経ってないでしょう!?」


……頑張ってね、千歌ちゃん。




    *    *    *





音楽室にて、私は鞠莉ちゃんから受け取った曲を試聴する。


鞠莉「──どうかしら?」

梨子「……正直、ほぼ完成してて、私が手を加えなくてもいいかなって気がする」


鞠莉ちゃんから渡された音源は、ギター、ベース、ドラムだけのシンプルなバンドサウンドで構成された曲だった。

ただ、鞠莉ちゃんの作ってくる楽曲は激しめのロックサウンドを予想していたため、ゆったりとしたバラード調の曲には少々驚かされた。


鞠莉「よかった……久しぶりの作曲だから、ちょっと緊張してたけど……まだまだ現役だったようデース♪」

梨子「この完成度なら、アレンジもほとんどいらないかな……。鞠莉ちゃん、ここまで作曲出来たんだね」

鞠莉「Thank you♪ それでも、梨子には遠く及ばないけどね」

梨子「そんな……むしろ、これからの作曲を鞠莉ちゃんにやってもらいたいくらいだよ」

鞠莉「もう、ケンソンしすぎだヨ? あくまでAqoursのメロディメーカーは梨子なんだから♪」

梨子「ふふ、ありがとう鞠莉ちゃん。ただ、本当に助かるよ……これから全員分の作曲があるから……」


──全員分の作曲。

そう、実は今回私たちは、それぞれのソロ曲を作ろうということで、活動を進めている真っ最中。

とりあえず、全員に歌詞と曲イメージを固めて貰って、それから私が作曲という手はずになっている。


鞠莉「皆の曲の進捗って、どんな感じなの?」

梨子「えっと……歌詞が既に提出されてるのは、曜ちゃんとルビィちゃん。二人とも楽曲のイメージもはっきりしてたから、割と順調かな」


特にルビィちゃんは一番提出が早かった。

歌詞の内容と曲イメージを聞いたときは驚いたけど……。

──次に歌詞を持ってきたのは曜ちゃんだった。だったんだけど……。

これまた歌詞と曲イメージを聞いて、度肝を抜かれた。


鞠莉「んー? どうかしたの? 変な顔して」

梨子「えーと……」


これは鞠莉ちゃんに伝えてもいいのかな……?

いや、でも曲が完成したら鞠莉ちゃんも聴くことになるんだけど……。


鞠莉「ふっふっふ……」

梨子「?」

鞠莉「今梨子が考えてることを当ててあげまショウ♪ ズバリ、曜が作ったのは千歌への気持ちをイメージして作った曲だった。違う?」

梨子「……正解」


──そう、曜ちゃんが持ってきた楽曲は、まさに千歌ちゃんとのことを歌にしたモノだった。


鞠莉「まあ、曜のことだからね。きっと、そうなると思ってたのよ」


鞠莉ちゃんは腕を組んでウンウンと頷いているけど、


梨子「鞠莉ちゃんはそれでもいいの……?」


私は気になって、思わずそう訊ねてしまう。


鞠莉「ん、何が?」

梨子「何がって……」


聞き返されると逆に困る。


鞠莉「……んーまあ、そうね。少し悔しいなって思う気持ちもあるにはあるけど……曜にとって千歌は特別だから」

梨子「でも、恋人は鞠莉ちゃんなんだよね……?」

鞠莉「ふふ、もちろん♪ マリーも曜にとって特別な存在よ♪ でも、それとは違う絆があの二人の間にはあって、曜はそれをすごくすごく大切に思ってるってだけだヨ」

梨子「……怒ったりしないんだね」

鞠莉「そりゃそうよ。チカッチは曜にとって大切な人だってことはジュウジュウショーチだし。あ、それともドロドロなアイゾーゲキの方がお好みだった?」

梨子「そういうわけじゃないけど……」


正直、Aqoursのグループ内でドロドロの恋愛劇をされるのも困る。


鞠莉「変な気遣いしなくていーの。梨子は曜のイメージどおり、曲を作ってあげて? それこそ、わたしに遠慮して曲の解釈変えたりしないでよね?」

梨子「わ、わかった……」


鞠莉ちゃん、普段から曜ちゃんにべったりで独占欲が強いのかなと思っていたけど……意外とあっさりしていて拍子抜けしてしまった。

意外とそんなものなのかな……?


鞠莉「いいのよ。これが曜が辿り着いた答えだから。わたしは曜の気持ちを尊重したい」

梨子「……? う、うん……鞠莉ちゃんがそう言うなら、私からは特に言うことはないんだけど……」


まあ、鞠莉ちゃんなりに思うところがあるのかな……?

特に問題もなさそうだし、曜ちゃんの曲はすぐに完成させられそうかな……。


鞠莉「となると、あとは善子、花丸、千歌、ダイヤ、果南……それと、梨子?」

梨子「かな。……自分の曲はなんとなくイメージは固まって来てるから問題ないんだけど……」

鞠莉「花丸も歌詞はほぼ完成してるって言ってたけど、提出はまだなんだネ?」

梨子「うん、花丸ちゃんは作曲も自分でやるみたいだから」

鞠莉「花丸って作曲も出来るの……?」

梨子「作曲理論とかまではわかんないみたいけど……フレーズを歌う形で聞かせて貰って、それを私が曲にするって話になってるよ」

鞠莉「なるほどね……」


今回、全員のソロ曲を作るに当たって、作詞は全員自分でやることになっているんだけど、作曲に関しても希望者は自分で作って来てもいいということになっている。

鞠莉ちゃんは作曲が出来るとのことだったので、さっきのように打ち込みデータを聞かせて貰ったわけだ。


鞠莉「ちなみに、作曲希望者ってわたしと花丸以外にも居るの?」

梨子「あとはダイヤさんかな」

鞠莉「確かにダイヤは簡単な作曲なら出来そうだネ」

梨子「余裕があったら、千歌ちゃんの作曲もダイヤさんが手伝うって言ってたよ」

鞠莉「……あーまあ、ダイヤは独占欲強いからネ」

梨子「そうなの……?」


割とクールに千歌ちゃんと接してるように見えるんだけど……。


鞠莉「たまに二人になると、千歌の話しかしないからネ。厳しそうに見えて、千歌のこと大好きすぎなのよ、ダイヤは」

梨子「へー……」


まあ、そうじゃなきゃ千歌ちゃんがあれだけ入れ込むのも不自然だしね……。

私たちが見ていないところだと、きっとすごく仲良しなんだろうというのは想像に難くない。


梨子「まあ……ダイヤさんが千歌ちゃんの楽曲も作曲をしてくれるなら助かるんだけど……」

鞠莉「けど?」

梨子「……千歌ちゃんの曲、そもそも歌詞があがってこないからなぁ」

鞠莉「あー……」


なんで普段一番歌詞を書いているはずの人が遅いんだろうか。

全く困った話だ。

あと困ったさんと言えば……。


梨子「善子ちゃんのオーダーもちょっと困るんだよね……」

鞠莉「どんなOrderなの?」

梨子「光と闇」

鞠莉「Oh...」


イメージが漠然としている上にテーマが矛盾している。しかも、歌詞があがってきていないから、手の付けようがない。


鞠莉「まあ……Discussionを重ねるしかないネ」

梨子「だねー……」

鞠莉「善子の言ってることに困ったら、相談に乗るから」

梨子「あはは……ありがと」


鞠莉ちゃんもGuilty Kissとして、善子ちゃんがどれくらい無茶な要求をしてくるのかはよくわかっているようで……。

まあ、なんだかんだでいつも形になってるから、今回もどうにかなると思う。たぶん。

ダイヤさんはしっかりしているから、心配ないとして……。


梨子「あとは果南ちゃんだけど……」


果南ちゃんからは特に進捗の報告がない状態だ。

まあ、締切りはかなり先に設定しているから、今の段階で焦って催促するような必要はないんだけど……。


鞠莉「果南は変に考え込むところあるからねー」

梨子「鞠莉ちゃんも何も聞いてない感じ?」

鞠莉「特には……。まあ、果南は約束を破ったりはしないから、平気だとは思うよ」

梨子「そっか……鞠莉ちゃんがそう言うなら……」


果南ちゃんのことは鞠莉ちゃんの方がよくわかっているだろうし、鞠莉ちゃんがそう言うなら、このことに関して私が今から必要以上に心配してもしょうがない。


鞠莉「さて……全体進捗も確認出来たし、わたしは梨子からのお墨付きも貰ったことだし、このまま作業を進めようかしら」

梨子「うん、そうしてくれると助かるかな」


なんせ九人分の曲がある以上、一曲でも自分で作ってくれる人が居ると大助かりだからね。ここは鞠莉ちゃんに甘えよう。


鞠莉「梨子はこのまま作曲だよね」

梨子「うん、とりあえず今日中に曜ちゃんの曲を完成させちゃおうかな」

鞠莉「曜と一緒に、期待して待ってるわ♪」

梨子「ふふ、頑張るね」


手をひらひらと振りながら音楽室を後にする鞠莉ちゃんを見送って、


梨子「……よし、やろう」


私は一人作曲に取り掛かるのだった。





    *    *    *





その日の夜。

自室にて、一人ピアノに向かって作曲を進めていると……──ピロン。


梨子「ん……」


通知音を聞き、近くに置いていたスマホを手に取ると、


 『ちか★:ベランダ』


非常に雑なメッセージが届いていた。


梨子「はいはい……」


私は上着を羽織りながら、ベランダへ続く窓を開ける。

窓を開け放つと同時に、12月の冷たい風が吹き込んでくる。


梨子「さむ……」


身を縮こまらせながら、ベランダへ出て行くと、


千歌「やっほー梨子ちゃん」


御向かいさんで千歌ちゃんがひらひらと手を振っていた。


梨子「どうしたの?」

千歌「んーたまには梨子ちゃんとお話したいなって思って」

梨子「……ふーん」

千歌「え、何その反応……」

梨子「どうせ、勉強をやらないための口実が欲しいから、話しかけたんじゃないの?」

千歌「……♪~」


また下手な口笛吹いてるし……。


梨子「もう……また、ダイヤさんに叱られちゃうよ?」

千歌「赤点取らなきゃ平気平気~」


全くその自信はどこから来るのやら……。


千歌「それに梨子ちゃんとお話したかったのはホントだよ?」


それはそれで素直に嬉しいけど……。


梨子「いいの?」

千歌「? 何が?」

梨子「ダイヤさん、嫉妬しない?」

千歌「流石にダイヤさんも、ちょっとお話したくらいで怒ったりしないよ」

梨子「それならいいけど……」

千歌「……なんか、いっつも気を遣わせちゃって……ごめんね」

梨子「ん……そんな、謝られるようなことじゃないよ」

千歌「でも……」

梨子「私は千歌ちゃんがダイヤさんと幸せそうにしてくれてて、嬉しいんだよ?」


これは本心からの言葉だ。純粋に千歌ちゃんが──友達が、幸せそうにしていることは、心の底から嬉しいことだと思って、ダイヤさんとの関係を応援しているつもりだ。


梨子「だから、千歌ちゃんはダイヤさんのことを考えてあげればいいんだよ」

千歌「梨子ちゃん……。……ありがと」


千歌ちゃんは少し照れ臭そうにはにかみながら、お礼を述べてくる。


千歌「ただ、それはそれとしてね……やっぱり、梨子ちゃんには寂しい思いさせちゃってるかなって思うんだ」

梨子「ん……」

千歌「恋人が出来たからって、友達じゃなくなるわけじゃないし……」

梨子「私との友情に危機感?」

千歌「そういうわけじゃないけど……。……でもやっぱり、梨子ちゃんと過ごす時間はめっきり減っちゃっててさ。曜ちゃんも鞠莉ちゃんと付き合い始めて……なんか、梨子ちゃんからしたら私も曜ちゃんも、友情よりも恋を選んじゃって、ちょっと冷たいって思われてるんじゃないかなって……。お昼休みも一人にしちゃってるし……」

梨子「……考えすぎだよ」

千歌「そう……?」

梨子「……本音を言っちゃうと、寂しいなって思うことはあるけど……でも、千歌ちゃんも、曜ちゃんも、心の底から大好きって思える人と一緒に居て幸せそうにしてくれてることが、私はすっごく嬉しいって思ってるのも本当なの」

千歌「うん」

梨子「それに……私たちには来年もあるけど……」

千歌「…………」


私の言葉を聞いて、千歌ちゃんは軽く目を伏せた。


梨子「……だから今は、ダイヤさんとの時間を大切にして欲しいかな」

千歌「……うん」


来年になれば、三年生は卒業だ。今のように毎日会うなんてことは物理的に出来なくなると思う。

だから、今という時間を大切にして欲しい。

千歌ちゃんにも、曜ちゃんにも。


千歌「…………」


ただ、やっぱり千歌ちゃんの中では、まだ何かが引っかかっているらしい。きっとそれくらいには、私が寂しいと感じていることが伝わってしまっているんだろう。

これも千歌ちゃんらしい、優しい気遣いなんだと思う。出会ったあの時と、手を差し伸べてくれたあのときと変わらない、千歌ちゃんの優しさなんだ。

猪突猛進で、なんにも考えていないように見えて、本当はいつも皆のことを考えていて、精一杯大切にしてくれる。


梨子「──だから、幸せそうにしてくれてる今が、嬉しいんだよ」

千歌「え……?」

梨子「なんでもなーい。それに、千歌ちゃんに心配されるようなことなんて一切ないんだから」

千歌「? どゆこと?」


だから、今千歌ちゃんへ返せるものは、感謝は──この強がりでいいと思った。


梨子「私にだって、一緒にお昼を過ごす相手くらい居るんだよ?」

千歌「え!?」


千歌ちゃんが心底驚いたような声をあげた。


梨子「……そんなに驚く? 私そんなにぼっちっぽいかな……」

千歌「い、いや……ごめん。そういうわけじゃ……」


千歌ちゃんは少し、んーと思案してから、


千歌「……もしかして、善子ちゃん?」


善子ちゃんの名前を挙げる。


梨子「違うよ。果南ちゃん」

千歌「果南ちゃん……? ホントに……?」


別に嘘を吐く必要はないと思うんだけど……。


梨子「ホントだよ。お昼は果南ちゃんと過ごしてる」


まあ、今日が初めてだったけど……。


千歌「そっか……そうだったんだ……」


千歌ちゃんは感慨深そうに目を瞑ったあと、


千歌「梨子ちゃん」

梨子「?」

千歌「……果南ちゃんのこと、よろしくね」


何故かそんな言葉を続けてきた。


梨子「……え?」


……よろしくね?


千歌「果南ちゃん、頑固だから大変なところあると思うけど……すっごくすっごく優しいからさ、きっと梨子ちゃんのことも大切にしてくれると思うし」

梨子「……あ、えっと……!」

千歌「果南ちゃんほど、ほーよーりょくのある人いないからさ! 絶対絶対、梨子ちゃんとならうまく行くと思うから!」

梨子「ちょっと待って千歌ちゃん!」

千歌「ふぇ?」

梨子「なんか勘違いしてる! 今はまだ、そういうのじゃないからっ!」

千歌「今はまだ……?」

梨子「!?/// え、えっと……! と、とにかく、一緒にお昼ごはんを食べてるだけだよ!」


うっかり変なことを言いかけたものの、


千歌「…………なーんだ……そういうことか……びっくりさせないでよ……」


一応納得してもらえた模様。


千歌「梨子ちゃんが果南ちゃんと急にくっついたのかと思ったじゃん」

梨子「い、いきなり、そんなことになるわけないでしょ!?///」


正直、見栄を張った言い方した私も悪いけど……。


梨子「そ……それに……」

千歌「……?」

梨子「果南ちゃんと……こ、恋人……なんて……///」

千歌「ダメなの?」

梨子「ダ、ダメというか……///」

千歌「……?」

梨子「と、とにかく! 果南ちゃんとはそういうのじゃないから!!」

千歌「えー、怪しいなぁ~」


千歌ちゃんがニヤニヤし始めた。


千歌「梨子ちゃん、素直になってもいいんですぞ~?」

梨子「~~/// だから、本当にそんなんじゃないのっ!///」

千歌「じゃあ、なんなのさ~」

梨子「それは……」


成り行きとは言え、お互い同級生二人が付き合い始めてしまったから、一緒に過ごしている、なんて言えるわけない。

そんなこと言ったら、それこそ気を遣わせるだけだし……。ああもう……なんで千歌ちゃんに果南ちゃんと一緒にお昼食べてるなんて言っちゃったんだろう……。


千歌「梨子ちゃん、早く素直になっちゃいなよ~」


……もうこうなったら……。


梨子「それよりも千歌ちゃん」

千歌「ん?」

梨子「ソロ曲の歌詞……出来た?」

千歌「…………や、やだなー急にどうしたの?」


私の質問に、千歌ちゃんが盛大に目を泳がせ始めた。


梨子「えっとね、ソロ楽曲の作曲なんだけど……今手元にある分は終わっちゃったから、早く次の歌詞が欲しくて……千歌ちゃんなら、普段から歌詞書いてるから、そろそろ出来るんじゃないかなって」

千歌「あ、あははー、ごめん梨子ちゃん。今テスト勉強が忙しくて、そっちまで手が回ってなくてー……」

梨子「じゃあ、私と喋ってないでテスト勉強しなくちゃダメじゃないの?」

千歌「それはー……そのー……」

梨子「……ダイヤさんに言いつけちゃおうかなー。千歌ちゃん、お勉強サボって私とお話してましたよーって」

千歌「!? そ、それだけは勘弁して!? 梨子ちゃん知らないから、そういう残酷なこと言えるんだろうけど、ダイヤさん怒るとめちゃくちゃ怖いんだよ!?」

梨子「じゃあ、早く勉強しないとね」

千歌「ぅ……わ、わかったよぉ……べんきょーしますー……」


そう言うと千歌ちゃんも、しぶしぶ自室へと戻っていった。

よし……どうにかなった。

私も部屋に戻って──


千歌「あ、そうだ」

梨子「!?」


戻ろうと振り返った直後、背後から声、


梨子「勉強しに戻ったんじゃないのっ!?」

千歌「いや、最後に言っておこうかなって」

梨子「な、なに……?」

千歌「たぶん果南ちゃん、梨子ちゃんみたいな女の子らしい子、割と好きだと思うよ」

梨子「!?///」

千歌「幼馴染の勘がそう言ってるんだよね~」

梨子「もうっ!/// いいから、早く勉強しなさいっ!/// 本当にダイヤさんに言いつけるわよっ!?///」

千歌「ひぇ~それは勘弁を~!」


千歌ちゃんはおどけた口調で、今度こそ部屋へと引っ込んでいったのだった。


梨子「ま、全く……///」


なんだか、ちょっと話しただけなのに、どっと疲れた気がする。


梨子「……ぅぅ……///」


顔が熱い。ダイヤさんと付き合い始めてからはだいぶ落ち着いていたから油断していたけど……そもそも千歌ちゃんはいたずらとか、人をからかったりするのが好きな子だったことを思い出す。


──『たぶん果南ちゃん、梨子ちゃんみたいな女の子らしい子、割と好きだと思うよ。幼馴染の勘がそう言ってるんだよね~』──


梨子「……///」


果南ちゃんが私のこと好き……?


梨子「ないないない……///」


そりゃ、同じAqoursの仲間として憎からずは思ってくれてはいるだろうけど……それこそ果南ちゃんはアクティブでアウトドアで、インドアな私とは正反対だし……。

──あ、でもそこが正反対なのは千歌ちゃんとダイヤさんも同じかも……。

あれ、じゃあもしかして……そういうことも、あるのかな……?


梨子「──って、さっきから私何考えてるの……!///」


千歌ちゃんのせいで、さっきから変な想像が頭の中で浮かんでは消えてを繰り返している。


梨子「ぅぅ……/// 千歌ちゃんのバカ……///」


全然頭の中が落ち着かないし、顔が熱いのが収まらない。

こんなんじゃ、作曲なんて手がつくはずがない。


梨子「……寝よ……///」


私は少し早めだけど、今日はさっさと寝てしまうことにした。





    *    *    *





果南『──ねぇ、梨子ちゃん』

梨子「あれ? 果南ちゃん……?」

果南『梨子ちゃん』


気付けば壁に追い詰められた私。

前方の果南ちゃんの手が伸びてきて、そのまま私の逃げ場をなくすように、ドンという音と共に背後の壁に手がつかれた。


梨子「え、あ、あの、果南ちゃ……」

果南『私じゃ……ダメかな』

梨子「え……」

果南『梨子ちゃん……。うぅん……梨子』

梨子「は、はひ……!?///」


急に呼び捨てにされて、背筋が伸びる。

そのまま、さっき壁についた手とは逆の手が、私の顎の方に伸びてきて、そのまま軽く持ち上げられる。


梨子「へ……/// ま、待って……///」

果南『梨子……』


そして、果南ちゃんの顔がゆっくりと近づいてきて──



──
────


梨子「──だ、だめぇーーー!!!///」


私は絶叫しながら、飛び起きた。

カーテンの向こうから、僅かな朝の陽ざしと、早起きな小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。

今日ものどかな朝が来たようだ。


梨子「………………………………」


思わず両手で顔を覆ってしまう。。


梨子「……ホント、なんて夢見てるの……私……///」


これも全部千歌ちゃんが変なことを言ってきたせいだ。

果南ちゃんへの罪悪感と、こんな夢を見てしまった羞恥心で死にたい。

──……ただまあ、夢で見た果南ちゃんはかっこよかったな、などと思った、そんな朝だった。





    *    *    *





午前の授業を問題なくこなし、今は部室に向かう真っ最中。

変わったことと言えば、昼休みのチャイムの音と同時に飛び出していくはずの千歌ちゃんが、意味深なことに私の背中を軽く叩いてから、ダイヤさんの元へと向かっていったことくらいだろうか。

完全に千歌ちゃんの中ではそういうことになっているらしい。


梨子「……はぁ……///」


思わず溜め息が漏れる。

千歌ちゃんに昨日言われたこともだけど……今朝見てしまった夢のこともあって、果南ちゃんとどんな顔をして会えばいいのかわからないし……。

とは言うものの、約束しているわけだから、行かないわけにもいかないし。

──とにもかくにも、悩みながらも部室に辿り着く。


梨子「あれ……果南ちゃんまだ来てないんだ」


どうやら、今日は先に部室に辿り着いたようだった。

まあ、心の準備が出来る分助かる……のかな。

とりあえず、椅子に腰を下ろして、果南ちゃんを待つことにする。


梨子「……そういえば、部室で一人って久しぶりかも」


放課後一番乗りをすることも実はあんまりなくて、なんだかんだで千歌ちゃんや曜ちゃんが一緒のことが多いし……。何より一年生の教室の方が近いから、一年組が先に来ていることが多い。

改めて、そんな部室に一人で居ると、室内がやけに広く感じる。

ぼんやりとホワイトボードに目をやると、『各自テスト勉強をするように』とやけに達筆な──マジックでよく書けるなと思う──大きな文字。

そのすぐ端っこの方に、小さな文字が消されたような痕跡がいくつかあり、また千歌ちゃんとダイヤさんが不毛な争いをしていたのかと思うと、


梨子「……ふふ」


なんだか、少し笑ってしまう。


果南「──ん? どうかしたの?」

梨子「きゃぁっ!?」


ホワイトボードを見て笑っていたら、急に声を掛けられて、軽く叫んでしまった。


果南「あ、ごめん……驚かせるつもりじゃ……」

梨子「あ、いや……/// か、果南ちゃん……///」


独り言──まあ、軽く笑っていただけだけど──を聞かれて恥ずかしくなる。

加えて……──『果南ちゃん、梨子ちゃんみたいな女の子らしい子、割と好きだと思うよ』──千歌ちゃんの昨日の言葉が反芻されて、


梨子「……///」


果南ちゃんの方をまともに見ることが出来ない。


果南「? 梨子ちゃん?」

梨子「……///」

果南「どうかしたの?」


どうしよう……何か反応しないと、と思った瞬間だった。

──視界に果南ちゃんの顔が、急に現れた。


梨子「!?///」

果南「んー……」


そのまま、コツンとおでこをくっつけられる。


梨子「は、ふぇ……?/// はゃ……?///」


もはや日本語ですらない動揺の言葉が口から漏れ出す。


 果南『んー……ちょっと熱いけど……熱があるって程じゃないかな……?』


なんで、この人は突然こういうことをするんだろう……。


梨子「……///」


無言で果南ちゃんの両肩を掴んで押し返す。


果南「梨子ちゃん、大丈夫? 顔赤いけど……」

梨子「だ、大丈夫……だけど……/// あ、あのね、果南ちゃん……///」

果南「ん?」

梨子「こ、こういうこと……いきなりされたら、びっくりするからさ……/// せめて、やるならやるって言って欲しいんだけど……///」

果南「え? ……あ、あー……ごめん、癖で」


どんな癖なの……。

私が思わず眉根を寄せてしまっていたのか、


果南「えっと……千歌とか鞠莉とか、自分の体調が悪くてもテンション上がっちゃうと、気付かない子が多かったというか……」


そんな風に説明し始める。


果南「曜ちゃんも最近はずいぶんしっかりしてきたけど……昔はやんちゃでさ。遊ぶためだったら熱とか出ても隠して来ちゃう子だったし……」

梨子「癖ってそういう……。……幼馴染たちの体調管理もしてたんだね」


私は少し呆れ気味ながらも、とりあえず納得する。

果南ちゃんって昔から皆のお姉さんみたいな立ち位置だったんだね……。


果南「まともなのはダイヤくらい……と思いきや、ダイヤは今ですら、たまに体調不良を隠したりするから油断ならないんだよね……。ルビィちゃんに関してはちょっとでも体調崩したら、ダイヤが絶対に外に出さないからそんな心配はなかったんだけど……」


果南ちゃんは苦笑いしながら、椅子に腰を下ろす。


梨子「えっと……/// 果南ちゃん……///」

果南「ん……?」


果南ちゃんは今しがた、私とおでこをこっつんこして、熱を測っていたところだ。

そのまま、腰を下ろしたということはつまり──


梨子「あの……/// その席で食べるの……?///」


これだけ空席があるのに、私の隣に座っているということだ。


果南「え、ダメだった……?」

梨子「い、いや……/// いいけど……///」


この部屋には二人しか居ないのに、隣同士で座るなんて──ちょっと、恋人っぽい。


梨子「……///」


ああ、もう……私、また変なこと考えてる……。

さっきのおでこコッツンのせいで、ドキドキしてるし、顔も熱い……。

このままだと、赤い顔のせいでまた心配されてしまうかもしれないし、真横に座ってくれた方が顔をあんまり見られなくていいかもしれない……と、ポジティブに捉えて、私はお弁当を食べることにした。


果南「はー……お腹空いた……いただきまーす」

梨子「いただきます」


二人でお弁当に箸をつける。

今日も果南ちゃんのお弁当はザ・女子高生のお弁当だった。


果南「そういえばさ」

梨子「!?/// な、なにかな……?///」


また急に話しかけられてドキっとする。ちょっと私、動揺しすぎかも……小動物みたいになっている気がする。


果南「部室に来たとき、笑ってたけど……なんかあったの?」

梨子「あ……/// え、えっとね……ホワイトボードなんだけど……」

果南「ホワイトボード?」


達筆で大きな文字の『各自テスト勉強をするように』を見てから──果南ちゃんの視線はそのそばにある、何かを消した跡に辿り着く。


果南「ふふ……なるほどね」


果南ちゃんもすぐにわかってくれたようで、くすくすと小さく笑う。


梨子「一緒に居るんだったら、直接言えばいいのにね」

果南「千歌、負けず嫌いだからね。文字で書かれたら文字で言い返すくらいのことするから」

梨子「ふふ、確かにそうかも」

果南「ついでにダイヤも負けず嫌いだからねー……」

梨子「でも、最後に消すんだね」

果南「ふと我に返って、千歌もダイヤも残ってると恥ずかしいねって思ったんじゃない?」

梨子「ふふっ、なるほど」


なんとなくやりとりが目に浮かぶ。

あの二人、どうでもいい口喧嘩が多いけど、やっぱり仲良しなんだなと再認識させられる。


梨子「思ったより、似たもの同士なんだね……千歌ちゃんとダイヤさん」

果南「そうだね~。頑固なところはそっくりかも」


二人してくすくす笑う。

……あ、なんかいい感じじゃないかな。果南ちゃんと自然に会話が出来ている。

この調子でうまく話題を振って──


梨子「……か、果南ちゃんのお弁当、おいしそうだね。これ一人で毎日全部作ってるんでしょ? すごいなぁ……」

果南「あはは、ありがと。でも、梨子ちゃんのお弁当もおいしそうだよ?」

梨子「でも、ほぼお母さんが作ってくれたやつだから……」

果南「ん……ほぼってことは、自分で作ったのもあるの?」

梨子「あ、うん。今日はたまご焼きだけは自分で作ったんだよ」

果南「へー! 梨子ちゃんのたまご焼きは出汁? それとも甘いの?」

梨子「今日のたまご焼きは甘いのかな。出汁巻き卵も好きだけど……」

果南「甘いのか~。ウチはいっつも出汁なんだよね。ねぇねぇ、一個貰ってもいい?」

梨子「あ、うん。どうぞ」


私がお弁当箱を少し果南ちゃんの方に寄せると、果南ちゃんはお箸でたまご焼きを取って、


果南「いただきま~す。……あむっ」


たまご焼きを口に放り込んだ。


梨子「どう?」

果南「……うん! おいしい!」

梨子「よかったぁ……」

果南「梨子ちゃんはきっといいお嫁さんになるよ~」

梨子「ふぇ……///」


気を抜いたところにまた不意打ちを食らう。

ただ、いい加減私も慣れてきたんだから……果南ちゃんは何も考えずに言ってるだけだもん。


梨子「そんな……たまご焼きだけで大袈裟だよ……///」

果南「そうかな? 甘いたまご焼きって塩と砂糖の加減とか結構難しいと思うよ。でもこれなら、毎日出てきても飽きないちょうどいい甘さだからさ」

梨子「……///」

果南「いやぁ、こんな可愛いお嫁さんが、こんなおいしいたまご焼きを毎日作ってくれるんだとしたら、梨子ちゃんの旦那さんはどう考えても幸せ者でしょ」

梨子「……そんなにおいしかったなら…………もう一個食べる……?///」

果南「え? いいの?」

梨子「うん……///」

果南「それじゃ遠慮なく……」


果南ちゃんはもう一切れたまご焼きを取って、口に運ぶ。


果南「ん~! おいしい!」


正直ものすごく恥ずかしいんだけど……それと同時に自分が作った料理を褒めて貰えたことがなんだか無性に嬉しくて、ついサービスしてしまった。


果南「あ、でもこれじゃ梨子ちゃんのお昼、減っちゃうよね……まだ、午後の授業もあるのに」

梨子「大丈夫だよ? 私、普段からそんなに量食べないし……」

果南「育ち盛りなんだから、ちゃんと食べないと……。……あ、そうだ!」

梨子「?」


果南ちゃんは何か思いついたのか、自分のお弁当の中にもあった、たまご焼きをお箸で摘んで、


果南「はい、梨子ちゃん。あーん」


私の口元に運んできた。


梨子「ひゅぇ……!?///」


私はまた日本語になっていない言葉を発する。


果南「ほら、あーんして」

梨子「へっ/// いや/// なんで……!?///」

果南「たまご焼き貰ったから、たまご焼きのお返ししようかなって思ってさ♪ 私のは出汁のやつだから、口に合うかわかんないけど……」


いや、そういうことじゃないんだけど……。

とはいえ、あーんを拒否すると、果南ちゃんの厚意も拒否したことになる気がするし……。


梨子「……あ、あーん……///」


控えめに口を開くと、そこにたまご焼き。

ただ、一口で食べるには大きい。噛んで半分くらいを口に含む。


果南「あ、ごめん。梨子ちゃんの一口にはちょっと大きかったね」

梨子「ん……ぅぅん……///」


謝る果南ちゃんに、大丈夫という意思を伝えながら、たまご焼きを咀嚼する。


梨子「……! お、おいしい……!」


──柔らかいたまごと、口内に広がる出汁の香り。


梨子「……あ、あの……もう一口……」


あまりのおいしさにおもわず続きを催促してしまう。


果南「ふふ♪ はい、あーん♪」

梨子「……あむ」


先ほど、口に含み切れなかったたまご焼きを食べさせてもらう。

気付いたら、恥ずかしさが吹き飛んでいた。

それくらいおいしい……!

ただ──


梨子「おいしいけど……私の知ってる、出汁巻き卵と全然違う……」


なんというか、味も違うし……何より香りが全然違う。


果南「ふっふっふ……実は出汁に結構こだわってるんだよね」

梨子「出汁に……?」

果南「そ。昆布出汁をベースに、そのとき獲れた魚の出汁を使った合わせ出汁にしてるんだよ」

梨子「そのとき獲れた魚って……」

果南「おじいと仲の良い漁師さんが居てね。魚一尾丸々貰えることもあれば、余ったカマだけとか、そのときどきだけど……」

梨子「へー……」


流石漁港の町、沼津らしい……。


梨子「それじゃあ……これは何の出汁なの?」

果南「今日のは金目鯛だよ」

梨子「金目鯛……!? それって高級魚じゃ……」

果南「そうは言っても、カマは用途が限られるからね。ただ、鯛の出汁は絶品だからカマだけでも貰えるのはホントありがたいんだよね」

梨子「うん……! すごく、おいしい……!」


思わず力強く頷いてしまう。


果南「あはは、気に入って貰えてよかったよ。この時期だとノドグロなんかを貰えたときは、ホントに最高なんだよね」

梨子「ノドグロっておいしいの?」

果南「初めて食べたときはおいしすぎて、腰抜かすかと思ったくらいだよ」

梨子「そ、そうなんだ……」


そんなにおいしいんだ……そう言われると、ちょっと食べてみたい。


果南「ふふ、そんなに気に入ったなら、また作ってきてあげようか?」


どうやら、顔に出てしまっていたらしい。


梨子「……///」


これまた、恥ずかしいところを見られてしまった気もするけど、


梨子「お、お願いします……///」


恥ずかしさを凌駕するくらい、おいしかったし、他の出汁で作ったものも食べてみたいと思ってしまった。


果南「了解♪ あーでも、来週からテストだからお昼休みないのか……」

梨子「あ、そういえば……」

果南「じゃあ、テスト終わったら、また作ってくるよ」

梨子「う、うん……///」


そういえば、テストと言えば……。


梨子「そういえば、果南ちゃん、明日のテスト勉強のことなんだけど……どこでやる?」

果南「ん、ああ……確かに場所決めてなかったね」


とはいえ、勉強が出来る場所と言ったら、私の家か、果南ちゃんの家になりそう……。沼津まで足を延ばせば、図書館や……確かキラメッセぬまづの施設内に市民用の開放スペースがあった気がするけど……。


果南「場所もなんだけどさ」

梨子「?」

果南「勉強会……お昼くらいからでいいかな?」

梨子「う、うん……? 別にそれは構わないけど……何か用事があるの?」


果南ちゃんに限って朝が弱いなんてことはないだろうし……。


果南「うんとね、朝はちょっと機材のメンテとかしないといけないからさ」

梨子「……なるほど」


そっか、テスト期間で練習がなくても、仕事は変わらずあるもんね。


果南「だから、お昼前には本島に行けるようにするからさ。場所は梨子ちゃんの家でいいかな?」


つまり、いつものように仕事を終えてから、こっちに来てくれる、ということらしい。

でも、それなら……。


梨子「もし……さ」

果南「ん?」

梨子「果南ちゃんが嫌じゃなかったらなんだけど……。果南ちゃんの家じゃ、ダメかな?」

果南「え? 別にいいけど……船使ってこないといけないし、大変じゃない?」

梨子「海を渡らないといけないのは果南ちゃんも同じでしょ?」

果南「それは、まあ……」


果南ちゃんは水上バイクがある分、定期便よりは自由が利くというのは事実だけど……。


梨子「それに、仕事が終わってからこっちに来てもらうより、私がそっちに行って、果南ちゃんの仕事が終わるのを待ってる方がスムーズに始められると思うし」

果南「……それもそうだね。じゃあ、来て貰っちゃってもいいかな?」

梨子「うん!」


というわけで、明日は果南ちゃんの家にお邪魔することになった。


果南「……って、思ったより話し込んじゃってたな」


言われて時計を見ると、確かにお昼休みの終わりの時間がそろそろ近づいてきていた。


果南「早く食べちゃわないとね」

梨子「ふふ、そうだね」


なんだか、こうして果南ちゃんと過ごす時間はあっという間な気がする。

やっぱり誰かと一緒に食べるご飯はおいしいし、楽しいな……。

私はこの時間を噛みしめながら、果南ちゃんとのお昼を過ごすのだった。





    *    *    *





──放課後。


千歌「曜ちゃん! 梨子ちゃん! 部活行こ!」


荷物をまとめていると、背後から千歌ちゃんの声。

振り返ると、すでにバッグを肩に掛けて、準備万端のようだった。


曜「千歌ちゃん、テスト勉強はいいの?」

梨子「部活行ってて、ダイヤさんに怒られないの……?」


昨日の放課後のアレを見た直後だ。

今日はダイヤさんと勉強をするんだと勝手に思っていた。


千歌「だからだよっ! 早く行かないと捕まって──」

ダイヤ「ふふ、千歌さん♪ そんなに急いでどこに行くのですか?」

千歌「…………」


気付けば、教室の出口に来ていたダイヤさんが、ニコニコしながら声を掛けてくる。


梨子「ダイヤさん、お疲れ様です」

曜「ダイヤさん、お疲れ様ー!」

ダイヤ「ふふ、皆さん、お疲れ様ですわ」

千歌「お疲れ様! それじゃ、チカは部室に……」

ダイヤ「……黙って行かせると思っているのですか?」

千歌「……ぐ……」


教室の後ろの方で、にらみ合う千歌ちゃんとダイヤさん。


千歌「たまには息抜きが必要でしょ!?」

ダイヤ「貴女は息抜きしかしてないでしょう!? テスト期間中くらい我慢して勉強しなさい!!」

千歌「お姉ちゃんみたいなこと言わないでよ!」

ダイヤ「千歌さんこそ、この期に及んで、妹みたいなこと言わないでください!!」


──そもそも千歌ちゃんは妹だし、ダイヤさんはお姉ちゃんだけど……。


梨子「というか、このカップルコント毎回やらないとダメなのかな……?」

曜「あはは……」


曜ちゃんと二人で、苦笑する。


千歌「……わかった」

ダイヤ「わかっていただけましたか」

千歌「力ずくで通るよ」

ダイヤ「失礼。あまり、わかっていないようですわね」


千歌ちゃんがダイヤさんの方に向かって、スタンディングスタートの構えを取る。


ダイヤ「……ほう、いいでしょう」


それを受けてか、ダイヤさんも半身で立って構えを取る。


千歌「ダイヤさん、私に肉弾戦で勝てると思ってるの?」

ダイヤ「逃げる相手を押さえるくらい、造作もありませんわ」


千歌ちゃんの挑発を鼻で笑うダイヤさん。

──というか、女子高生が教室で肉弾戦をしないで欲しい。


千歌「後悔しても知らないから──ね……!!」


次の瞬間、千歌ちゃんが視界から消えた── 一瞬で、身を屈めてタックルの要領で飛び出したんだと、気付いた時にはすでにダイヤさんのすぐそばまで迫っていて、


千歌「たりゃあああ!!!」


ダイヤさんの腰辺りに向かって、千歌ちゃんのタックルが決まっ──


ダイヤ「……遅い」


──らなかった。

こちらも一瞬だった。ダイヤさんは摺り足で半歩ずれるように千歌ちゃんのタックルを躱し、そのまま手首と肩を掴んで引く、


千歌「わっ!?」


躱された千歌ちゃんは勢いあまって、ダイヤさんに捕まれた部分を軸に回転するようにダイヤさんの周りを走る──いや、ダイヤさんに走らされていると気付いたときには、そのまま床に押し付けられるようにして片腕を極められていた。


ダイヤ「さて、捕まえましたわよ?♪」

千歌「う、腕をあげたね……ダイヤさん……」

ダイヤ「さあ、貴女の今日の部活はなしです。家に帰ってみっちり勉強しますわよ?」

千歌「っく……! 曜ちゃん! 梨子ちゃん! 助けて……!!」


床に伏せったまま、助けを求めてくる千歌ちゃん。


曜「それじゃ、二人ともまた明日!」

千歌「曜ちゃん!?」

梨子「ダイヤさん、大変だと思うけど……千歌ちゃんのお勉強、ちゃんと見てあげてくださいね」

ダイヤ「ええ、お任せください」

千歌「梨子ちゃんまでっ!? 二人とも裏切るの!?」

梨子「別にこの件に関しては、最初から味方じゃないし……」

曜「右に同じであります!」

千歌「そ、そんな……!」

ダイヤ「いいから、早く帰りますわよ」

千歌「……待って、二人とも待ってえええええ……!!」


背後でダイヤさんにずるずると引き摺られながら、千歌ちゃんの涙声が遠ざかっていく。


曜「千歌ちゃん、ああ言ってるけど、どうする?」

梨子「まあ、いいんじゃないかな。ダイヤさんに任せておけば」

曜「それもそうだねー」


私は曜ちゃんと連れ立って、部室の方へと足を向けるのだった。


千歌「ねぇ梨子ちゃん!! 曜ちゃんも!! 助けてくれたらみかんあげるからーーー!? そうだ! 梨子ちゃん! トマトもあるよ!? リコピンたっぷりだよ!? お願い、助けてーーー!!! ねぇーーー!!!」





    *    *    *





曜ちゃんと一緒に、部室に向かう途中、前方に目立つ金髪の後ろ姿を見つける。


曜「鞠莉ちゃーん!!」


姿を見て一目散に駆け出す曜ちゃん。

ふふ、やっぱり曜ちゃんも千歌ちゃんに負けず劣らず、恋人大好きなんだから。

微笑ましくて、駆け出す曜ちゃんを眺めながら、クスクス笑ってしまう。


鞠莉「あら? チャオー曜♪ お疲れデース♪」

曜「うん、お疲れ様!」

梨子「鞠莉ちゃん、お疲れ様」

鞠莉「梨子も、チャオー♪ 二人とも、今日は部活に顔出すのね」

梨子「うん。今のうちに出来る作業は進めたくって……」


テスト勉強は週末にすれば十分だしね。勉強のために自主的にお休みしている千歌ちゃんと違って──正確には自主的ではないけど──私は普段から勉強しているし。


曜「私も衣装を進めようかなって思ってさ」

鞠莉「んー……なら、わたしは曜のお手伝いでもしようかしら」


そして、この二人も成績優秀。鞠莉ちゃんに至っては学年どころか学校で一番頭が良い生徒と言っても差し支えないレベル。

むしろ週末の勉強会をこの二人がする必要があるのかと疑問に思ってしまうけど……恐らくこの二人の場合、それを口実にして一緒に過ごしたいだけだと思う。


梨子「そういえば、鞠莉ちゃん……一人で部室に行くの?」

鞠莉「ん? そうだけど……?」


鞠莉ちゃんは軽く首を傾げたあと、


鞠莉「……あ、果南なら今日は帰ったわよ」


私の質問の意図に気付いたのか、そう言葉を付け加えた。

そう、鞠莉ちゃんが三年生の教室から来たのなら果南ちゃんと一緒だと思ったのだ。

ただ、どうやら果南ちゃんは今日の部活は欠席らしい。


鞠莉「なんでも、勉強したいなんて言ってたわねー……明日は雪だネー」


なんとも失礼な物言いだけど、恐らく鞠莉ちゃんは果南ちゃんが勉強が苦手なことを知っているんだろう。


梨子「そっか……」

鞠莉「果南に何か用があったの?」

梨子「あ、うぅん。単純に鞠莉ちゃんと果南ちゃん、一緒に部活に向かうと思ってたから、聞いただけだよ」

鞠莉「そう?」


明日会えるから別に構わないんだけど……何故だか、少しだけ寂しい。

別に部室に居ても、二人っきりにならないとそんなにたくさんお話したりはしないんだけど……なんとなく果南ちゃんが居ないと聞いて、少し残念に思っている自分が居た。


鞠莉「……そういえば、チカッチが二人と一緒に居ないってことは、まんまとダイヤにホカクされたんだネ」

曜「うん」

梨子「引き摺られていったよ」

鞠莉「それはアレだネ。ナムサンってやつ」


たぶん、それはちょっと違うけど……。

3人で雑談しながら歩いていると、部室が見えてくる。

部室の中を覗くと、室内に居たのは善子ちゃん一人だった。


曜「善子ちゃん、ヨーソロー!」


曜ちゃんが元気よく部室のドアを開けると、


善子「ん? あぁ、お疲れ様」


と、冷めた反応を返す善子ちゃん。


鞠莉「あら……今日はいつものやらないの?」

善子「別に私はやりたくてやってるわけじゃないんだけど……善子じゃなくてヨハネよ」


今日の善子ちゃんは非常にテンションが低い様子。


梨子「ルビィちゃんと花丸ちゃんは?」

善子「二人とも自主的に勉強するって言ってさっさと帰ったわ。全く真面目なんだから」


ああ……善子ちゃん、二人が部活をお休みしてるから、ちょっとテンションが低いのかも。そんなことを考えながら善子ちゃんの向かいの席に腰を下ろす。

一方、曜ちゃんと鞠莉ちゃんは、


曜「裁縫セットと生地はこれでよし……」

鞠莉「衣装ノートは?」

曜「持ってるよ。バッグに入ってる」

鞠莉「それじゃ、後は家庭科室の鍵ね。職員室に借りに行ってるから、先に行ってて」

曜「ヨーソロー!」


衣装制作のために、必要なものを持って、家庭科室に向かうようだった。


鞠莉「それじゃ、梨子、善子、また来週」

曜「二人ともお疲れ様!」

梨子「うん、またね。二人とも」

善子「お疲れ……あとヨハネよ」


ひらひらと手を振りながら、二人が部室を後にする。

──さて、私は作曲をしたいわけだけど……。そのためには曲の歌詞が必要なわけで、


梨子「善子ちゃん」

善子「……ヨハネ」

梨子「歌詞出来た?」


この際、まどろっこしい気遣いは抜きにして、早速歌詞を催促する。


善子「……まあ、出来てるわよ」


すると、意外にすんなり完成したという歌詞を手渡されて拍子抜けする。


梨子「……」

善子「……何?」

梨子「いや、意外とすんなり提出されて驚いてる」

善子「まあ……私がホンキを出せばこんなもんよ」


あんなに苦戦してそうだったのになぁ……。

そんなことを思いながら、歌詞に目を通すと──そこに綴られていたのは、自分と、もう一人の自分、というテーマで書かれた歌詞だった。


善子「どう?」

梨子「……うん、作曲の際、譜割りのために少し変えなくちゃいけない部分はあるかもしれないけど、いい詩だと思う」


それは素直な感想だった。とにかく善子ちゃんらしい、善子ちゃんならではの歌詞だと思う。

本人が最初に言っていた『光と闇』というあやふやのイメージも、この歌詞を見たら、だいぶわかってきた気がする。


梨子「これ、白い翼が善子ちゃん?」

善子「ええ、そういうことになるわ。善子なんて人間、本当は居ないんだけど」

梨子「じゃあ、黒い翼がヨハネか……」

善子「そうよ。黒い翼はヨハネ……。そう、ヨハネよ」

梨子「? うん」


なんで、言い直したんだろう。


善子「……善子じゃない……そう、黒い翼は……ヨハネ」


何故か善子ちゃんはそんなことを呟きながら、少し遠い目をしている気がした。


梨子「善子ちゃん……? どうかしたの?」

善子「……いや、なんでもないわ。それより、譜割りっていうの、私は何をすればいいの?」

梨子「あ、えっと……実際にピアノを弾きながら調整する感じかな」

善子「じゃあ、音楽室に行きましょう」

梨子「そうだね」


私たちは曲を作るために、荷物をまとめる。

その最中──


善子「……アナタは……誰……なのかしら……」


善子ちゃんは、そんな意味深長なことを、小さな声で呟いていた。





    *    *    *





梨子「──……ふう、こんなところかな」


帰宅後、善子ちゃんの曲の作曲を進めたあと、軽くテスト勉強をしてから、明日の勉強会のために荷物をまとめる。

ちらりと時計を見ると、そろそろ午後10時半といったところ。


梨子「果南ちゃんは……もう寝ちゃってるよね」


この前は午後10時くらいには寝ちゃってたし……。

何か連絡があるかなと思って、勉強の合間に何度もスマホを点けたり消したりしていたけど……特に連絡はなかった。

──なんか、想い人からのメールを待っている人みたい。


梨子「……///」


変な想像をして、一人で恥ずかしくなる。

最近こんなことばっかりだ。


梨子「はぁ……私も寝ようかな……」


ベッドに横になって、スマホを置いた瞬間……──ピロン。


梨子「っ!?///」


急な通知音にびくっとする。すぐにスマホを確認すると、


梨子「……あっ///」


 『KANAN:梨子ちゃん、起きてる?』


果南ちゃんからのLINEだった。


 『梨子:今寝ようと思ってたところだよ。果南ちゃん、まだ起きてたんだね』

 『KANAN:私も寝ようと思ったんだけど・・・明日の勉強会が楽しみで目が冴えちゃって』


梨子「! ……えへへ……///」


果南ちゃん、私との勉強会、楽しみにしてくれているんだ……。なんだか、嬉しくてにやけてしまう。


 『梨子:私も楽しみだよ!』


だから、素直な気持ちを返信する。


 『KANAN:そっか、よかった・・・私だけじゃなかったんだね😌』


梨子「ふふ……」


楽しみで寝れなくなっている果南ちゃんを想像したら、可愛いなと思って笑ってしまう。


 『梨子:でも、ちゃんと寝ないとダメだよ❔ 勉強会でウトウトしてたらダメだからね❔』

 『KANAN:あはは、そりゃそうだ。お互いもう寝ようか😴』

 『梨子:うん。おやすみ😊』

 『KANAN:おやすみ、また明日💤』


梨子「……えへへ……///」


なんだか、不思議と胸が弾んでいた。

なんでもないやり取りなのに、満たされた気分。

思わず枕を抱きしめて、顔を埋める。


梨子「なんか……変な感じ……///」


くすぐったくて、恥ずかしい感じがするけど、不思議と嫌ではなかった。

最近私、果南ちゃんのことばっかり考えている気がする。


梨子「……/// ……私……///」


頭の中にとあるワードが過ぎったけど、軽く頭を振って考えを振り払う。


梨子「こ、これは、そういうのじゃなくて……/// そ、そう! テレパシーの件もあるんだから、果南ちゃんのことばっか考えてて当然だよ!///」


誰に言い訳しているんだかと思いながらも、この考えに肯定してしまうと、うまく果南ちゃんと触れ合えなくなってしまう気がして、


梨子「……今は、部活の先輩後輩で……///」


今は……この距離感を大事にしたいから。

トクントクンと鳴っている心臓から意識を逸らすように、私を目を閉じ、夢の世界へと旅立つのだった。





    *    *    *




──眼前に広がる青い海。足元には柔らかい砂浜。

私は真っ白なワンピースとお母さんが被せてくれた真っ白なつば広帽を風にはためかせながら、広がる海を眺めていた。

海の先には、緑色に包まれた山のような島が見える。……確かあわしま? って言っていた気がする。

空では真っ白な鳥が「ミャーミャー」と鳴きながら飛んでいる。まるで猫みたいだ。

私が住んでいるところは、大きなビルが立ち並ぶ街だったから、この光景はすごくすごく新鮮だった。

空気も澄んでいるし、潮風が心地いい。

大きく伸びをしながら、青い青い海を見つめていると──


りこ「あれ……?」


海の中から、何かが飛び出してきた──。


りこ「にんぎょ……」


私は目を奪われた。

海に溶けるような、蒼い蒼い髪が太陽の光を反射して、キラキラと光り輝いている。


りこ「にんぎょひめ……!!」


私は一目散に駆け出した、


りこ「お母さんっ!! お母さん!! 見て!! にんぎょひめ!! にんぎょひめだよ!! にんぎょひ──」




──
────
──────



梨子「……ん、ぅ……」


カーテンの間から漏れる朝日によって、覚醒を促される。


梨子「…………ん……」


ベッドに転がったまま、ぼんやりと首を捻って、目覚まし時計に目をやると、ちょうど7時を指していた。

たっぷり寝て調子がいいことに加えて……なんだか、懐かしい夢を見た。

──いつの日か見た、人魚姫の夢。


梨子「……あれ?」


ふと、掘り起こされた記憶を反芻しながら、気付く。


梨子「あの人魚姫……?」


紺碧の髪を陽光に煌めかせていた、あの人魚の姿って──


梨子「……か、果南ちゃん……?///」


あの長くて、海に溶けるような色の髪を持った人、あれは……果南ちゃんに間違いない。

思い出して、また顔が熱くなるのがわかる。

ついに私ったら、昔の記憶の中にまで果南ちゃんを登場させてしまったらしい。


梨子「……もう……///」


まさか自分の記憶を改竄してまで、果南ちゃんを登場させてしまうほど、私の頭の中は果南ちゃんだらけになってしまったんだろうか。


梨子「……い、意識しすぎだよ……///」


果南ちゃんとお昼を一緒に過ごし始めたのだって、今週の水曜のことなのに……。

されたことだって、頭を撫でられたり、おでこコッツンされたり、あーんしてもらったり……?


梨子「……いや、意識するよ……///」


考えれば考えるほど、意識せざるを得ないことをされているのを再認識する。


梨子「……はぁ……」


ただ、果南ちゃんに他意はない。噂通りの天然タラシさんなだけ。


梨子「意識しない……意識しない……」


自分に言い聞かせる。

でも──『果南ちゃん、梨子ちゃんみたいな女の子らしい子、割と好きだと思うよ』──また千歌ちゃんに言われたことを思い出して、


梨子「ぅぅ……/// だから、違うんだって……///」


また顔が熱くなる。

全く、千歌ちゃんはなんて余計なことを言ってくれたんだろうか。


梨子「……と、とにかく……! 起きて支度しないと……」


いつまでも、ベッドの上でもじもじしている場合じゃない。

今日は、その果南ちゃんと一緒に過ごすんだから。

私は布団から這い出して、出掛ける準備を始める。

準備している間も、ことあるごとに果南ちゃんのことを考えて顔を赤くしていたというのは、言うまでもないかな……。





    *    *    *





──午前9時半過ぎ。

私は淡島に定期便で移動し到着したところ。

降り立った船の外では、残念なことに小雨が降っているため、傘を開く。

鞠莉ちゃんが『明日は雪だ』なんて言っていたけど……内浦や沼津では、そもそも雪がほとんど降らないらしい。

確かに沼津で過ごす初めての冬は、東京の寒さとは違って、少しだけ過ごしやすい。……それでも寒いものは寒いけど。

とりあえず、船着き場から歩いて、開園したばっかりのマリンパークを右手に見ながら進んでいく。

最初の道の右折左折さえ間違えなければ果南ちゃんの家──『Dolphin House』へは一直線だ。尤も右左を間違えても、島を一周すれば最終的にたどり着けるけど。

波の音を聞きながら、すぐに見えてきた目的地では、


果南「……よしっと……これでいいかな」


ウェットスーツを身にまとった果南ちゃんが、タンクを運んでいるところだった。

──トクン。果南ちゃんの姿を見て、心臓の鼓動が少し速くなる。……ダメダメ……! 意識しすぎない……。


梨子「果南ちゃーん……!」

果南「お? 梨子ちゃん、おはよう~」

梨子「おはよう!」


挨拶をしながら傘を閉じて、テラスに居る果南ちゃんの元へ駆け寄る。

大丈夫、自然に話せている。


果南「もうちょっとで朝の仕事終わるから、待っててね」

梨子「うん」


頷きながらも、果南ちゃんの姿を見て思う。


梨子「ウェットスーツ着てるけど……もしかして、潜ってたの?」

果南「うん、今日はお客さんがいるからね。ダイビングポイントの確認は私の仕事だから」

梨子「こんなに寒いのに……」


いくら内浦の冬が温かいと言っても、冬は冬だ。しかも今日は小雨まで降っている。

こんな日も変わらず海に潜っている果南ちゃん。仕事とは言え、彼女が風邪でも引いてしまわないかと少し心配になる。


果南「まあ、確かに寒いには寒いけど……ドライスーツは暖かいからね」

梨子「ドライスーツ……?」

果南「完全防水仕様のウェットスーツだよ。身体が濡れないから冬のダイビングの必需品なんだよね」

梨子「そういうのもあるんだ……」

果南「さすがに真冬の海になんの対策もなく飛び込むのは危ないからね。保温はちゃんとしてるから大丈夫だよ」


それもそっか……寒中水泳じゃないもんね。小さい頃からずっと潜っているプロ顔負けなダイバー相手に、余計な心配だったなと少し恥ずかしくなる。

ただ、果南ちゃんはそんな私の胸中も看破しているのか、


果南「心配してくれてありがと、梨子ちゃん」


軽く俯く私の頭を、優しく撫でる。


 果南『ホントに優しいんだなぁ……梨子ちゃんって』

梨子「……///」


本当に果南ちゃんは自然と頭を撫でてくる。別に困ることがあるわけじゃないからいいんだけど……。

頭を撫でられていることに加え、心の声も合わさって、二重の意味で恥ずかしい。

でも、優しいって思ってもらえるのは……嬉しいかな、えへへ。


果南「っと……さっさと仕事片付けて、勉強会始めないとね」

梨子「あ……! 何か手伝えることとかないかな……?」


せっかくこうして来たのだ。お手伝いがしたい。


果南「ふふ、ありがと。でも、もうすぐ終わるから大丈夫」


果南ちゃんはニコっと笑って、タンクを運び始める。


梨子「そ、そっか……」


まあ……いきなりお手伝いって言っても、教えなくちゃいけない分、手間が増えちゃうもんね。

自分にそう言い聞かせて、テラスの大きなパラソルの下にある席に腰掛ける。


果南「~~♪」


果南ちゃんは鼻歌を歌いながら、重そうなタンクを軽々と運んでいる。

私と違って力持ちだ。聞いた話によると、鞠莉ちゃんくらいなら軽々とお姫様抱っこ出来るらしい。

──鞠莉ちゃんをお姫様抱っこ出来るなら、私でも……。


梨子「……///」


何張り合ってるの、私……。また一人で顔を赤くする。

顔を赤くしたまま俯いていると、海の方から風が吹き込んでくる。

寒い……。


梨子「……くちゅん」

果南「ん……? あ、ごめん……寒かった?」

梨子「あ、いや……///」


今度はくしゃみを聞かれてしまった。またなんとも言えない恥ずかしさを感じて、顔が熱くなる。


果南「先に中で待っててくれるかな? ここで待たせてたら、それこそ梨子ちゃんが風邪引いちゃうから」

梨子「う、うん……///」


果南ちゃんが仕事をしている姿を眺めていたい気持ちもあったけど……真っ赤な顔を見られるくらいなら、と思ってお言葉に甘えることにした。

──お店の中に入ると、中ではすでに開店準備が整っているのか、ジャズ調のBGMが流れている。

当たり前だけど、室内は暖かく、木目を基調とした室内はBGMの雰囲気も相まってか、とても落ち着く。

恐らくお客さんの待合用だと思われる壁際の長椅子に腰を下ろして、ぼんやりと店内を見回す。

レジスターの置かれた木製の作業台の上には恐らくダイビングで使うであろうこまごまとした機材が置いてある。壁には額縁に入った、サーファーや海中の魚の写真があちこちに飾ってあり、本当にダイバーの家なんだということを再認識させられる。

そのままぼんやりと視線を外に向けると、窓の外で果南ちゃんが先ほどと変わらず仕事をしている。

果南ちゃんと二人きり。なんだか、変な感じだった。

いつも私のそばには千歌ちゃんや曜ちゃんが、果南ちゃんのそばには鞠莉ちゃんやダイヤさんが居たから。

こうして、果南ちゃんと私が二人で一緒の時間を過ごしているのは、とにかく上手く言葉に出来ない、不思議な感覚だった。

そして、そんな果南ちゃんと今日は一日中一緒に過ごすのだ。


梨子「えへへ……」


なんだか意味もなくにやけている自分が居る。こんなところ人に見せられないから、しっかりしないと……なんて思った折、


 「──果南、戻ったか」

梨子「!?」


急に屋内の奥の方から、しゃがれた男の人の声が耳に届く。

ビクッとしながら、声の方に顔を向けると──やや色黒の肌をした白髪の老人が顔を出していた。


 「……客か?」

梨子「え!? あ、いえ!?」


すぐに果南ちゃんのおじいちゃんだと言うことに気付きはしたものの、急に声を掛けられたせいか完全に気が動転してしまっていた。


梨子「わ、わた、わたし、果南ちゃんのお友達で、今日は一緒にお勉強を!?」


軽く裏返る声で口早に説明をすると、


おじい「そうか」


おじいちゃんは短く返事をしたあと、レジカウンターの方へと歩いていく。

そのまま、カウンター内の机の引き出しを開けて、中を確認したあと、すぐに閉める。


梨子「……?」


何か、探しているのかな……?

椅子に座ったまま、身を縮こまらせていると、


おじい「嬢ちゃん」

梨子「!? は、はい!!」


突然声を掛けられる。


おじい「名前は」

梨子「さ、桜内梨子でしゅ……!」


緊張しすぎて噛んだ。恥ずかしい。


おじい「梨子」

梨子「は、はいっ!」


何故か背筋が伸びる。なんというか、このおじいちゃん……迫力がある。


おじい「火持ってないか」

梨子「……ひ?」


ひ……? ……火か……!

頭の中でワードにどうにか意味を持たせられたものの、


梨子「えっと……ごめんなさい。持ってないです……」


女子高生の身の上でライターは持ち歩いていない。


おじい「……そうか」


おじいちゃんは表情を変えないまま、短くレスポンスだけして、また引き出しの中を漁り始める。

私が意味もなく背筋を伸ばしたまま、おじいちゃんを見ていると、


果南「梨子ちゃん、お待たせ……って、おじい?」


仕事を終えた果南ちゃんが、店内に入ってくる。

おじいちゃんは果南ちゃんの姿を確認すると、


おじい「果南、火」


短くそう言う。


果南「火……。……マッチなら隠した」

おじい「隠しただとぉ……?」

果南「いい加減禁煙してって言ってるじゃん……ダイバーなんだしさ」

おじい「吸ってるダイバーなんていくらでもおるだろが」

果南「この前も咳き込んでたじゃん……。ダイビング中に咽たら最悪死ぬこともあるって、おじいなら知ってるでしょ?」

おじい「んな素人みたいな失敗せん」

果南「とにかく、煙草はダメ」

おじい「…………」


果南ちゃんが突っぱねると、おじいちゃんは頭を掻きながら、奥の部屋へと戻っていった。


果南「ごめんね、梨子ちゃん。びっくりしたでしょ」

梨子「あ、うぅん……二人で住んでるって言ってたもんね」


家なんだから、果南ちゃんのおじいちゃんが居るのは何にも不思議なことじゃない。

すっかり頭からその考えが抜けていたから、びっくりしたのは事実だけど……。


梨子「いきなり火持ってるかって聞かれたのは、驚いたけど……」

果南「えぇ……。全く……初対面の女の子に火持ってるかとか聞く……?」


果南ちゃんが呆れ気味に額に手を当てて唸っていると、


おじい「果南、チャッカマンどこ仕舞った」


再び奥から顔を出すおじいちゃん。


果南「チャッカマンは倉庫。いい加減にしないと、煙草捨てるよ」

おじい「……」


目の前で祖父と孫がにらみ合いを始める。


梨子「え、えっと……」


そんな二人を前にしておろおろしていると──


鞠莉「──チャオー♪」

梨子「!?」


いきなり、勢いよく扉を押し開けながら入ってくる賑やかな声。


果南「鞠莉……? どうしたの?」

鞠莉「果南にお届けものデース♪」

曜「お邪魔しまーす」

梨子「鞠莉ちゃん……曜ちゃんも……?」

鞠莉「あら……? 梨子……?」

曜「梨子ちゃん?」


三者が顔を合わせて、何故ここに居るのかについて首を傾げる。

三者三様のまま、数秒考えたのち、


鞠莉「……そういうこと……♪」


鞠莉ちゃんは納得したようにイタズラっぽい笑みを浮かべた。


曜「えーと……どういう状況?」


一方曜ちゃんは、素直に状況を訊ねてくる。

確かに部屋の隅っこで縮こまっている私と、にらみ合いをしている果南ちゃんとおじいちゃん。疑問に持つのも当然かもしれない。

ただ、そんな曜ちゃんの疑問も意に介せず、


おじい「曜、火持ってないか」


と、おじいちゃん。


果南「もう、おじい!」

曜「火? おじい、禁煙してたんじゃ……」

おじい「果南が勝手に言ってるだけだ」

果南「第一、普通の女の子が火なんか持ってるわけないでしょ!?」

おじい「チビは持ってたぞ」


チビ……?


果南「何年前の話……?」

曜「あー……そういえば千歌ちゃん、ちっちゃい頃に一時期、爆竹で遊ぶのにハマって、お母さんからしこたま怒られてたことあったっけ……」

鞠莉「Oh! チカッチはJapanese WARUGAKIというヤツデースネ!」


あ、チビって千歌ちゃんのことなんだ……。

というか、何してるの千歌ちゃん……。


おじい「鞠莉」

鞠莉「Sorry. マリーもライターの類は持ち歩いてないの」

おじい「……」


鞠莉ちゃんの答えを聞くと、おじいちゃんは少し残念そうに部屋の奥へと戻っていった。


果南「全く……」

鞠莉「今日も果南とオジーは元気そうだネ」

果南「私は元気じゃないよ……それより、二人ともどうしたの?」

曜「回覧板持ってきたよ」


言いながら、曜ちゃんが果南ちゃんに袋に入った回覧板を受け渡す。


果南「曜ちゃんが?」


果南ちゃんは渡された袋の中を確認して、


果南「大量のみかん……千歌に頼まれたのか」


袋の内容物を見て、それが千歌ちゃんの名代だということに気付いた模様。


曜「千歌ちゃん──というか、回覧板を口実に逃げようとする千歌ちゃんを捕まえてた、ダイヤさんに頼まれた、というか……」


見ていないところでも、あんな感じなんだ千歌ちゃん……どれだけ勉強したくないの……。


曜「私は淡島に用があったし、まあいいかと思って……」

鞠莉「そしてマリーはたまにはオジーに会いたかったから、ついてきたというわけデス♪」

果南「なるほど……鞠莉もおじいのこと好きだよね」

鞠莉「カモクなところとか、Japanese grandpaって感じがして好きよ!」


確かに、日本のおじいちゃんらしいイメージではある……のかな?

それにしても、


梨子「二人とも、果南ちゃんのおじいちゃんと知り合いなんだね」


二人とも、果南ちゃんのおじいちゃんとすごくフランクに接していた気がする。

そんな私の疑問に、


鞠莉「ご近所さんデスカラ」

曜「小さい頃は、千歌ちゃんと一緒によく遊んでもらってたんだよ」


という回答。確かに二人の言うとおり、知り合いでも全然おかしくないか。


曜「それよりも梨子ちゃんこそどうしたの?」


そういえば、さっきの曜ちゃんの疑問に答えていなかった。


梨子「あ、えーと……」


どう答えようか悩んでいると、


鞠莉「曜、ヤボなこと聞かないの♪」

曜「え?」

鞠莉「それじゃ、マリーたちは退散しマース♪」


鞠莉ちゃんが曜ちゃんを引っ張って、店から出ていく。

その際に、


鞠莉「♪」


鞠莉ちゃんは私に向かってウインクを飛ばしてきた。

たぶん、いつもの鞠莉ちゃんから考えると、「うまいことやるのよ♪」みたいな意味合いのウインクだと思う。

そんな色っぽい話ではないんだけど……。……ない、と思う。


果南「騒がしいったらないね……」

梨子「あはは……」


確かに果南ちゃんの家に来てからまだ30分も経っていないはずなのに、起こっている出来事が濃密だ。


果南「ごめんね、朝から騒がしくて……」

梨子「うぅん、大丈夫」


そもそも果南ちゃんが謝るようなことじゃないし……。


果南「もう、仕事はひと段落したからさ。勉強会……と言いたいところなんだけど」

梨子「?」

果南「ちょっと、シャワーだけ浴びてきていいかな?」

梨子「あ、うん」


そういえば、海に潜ったって言っていたし、海水に浸った髪くらい洗いたいよね。


果南「ありがと、とりあえず私の部屋に案内するよ」

梨子「うん」


──果南ちゃんの後ろについて、果南ちゃんの部屋へと案内してもらう。

廊下を歩いて、果南ちゃんの自室へ向かう途中、ちらっと見えた部屋の奥の方で、


おじい「……」


おじいちゃんが、火のついてない煙草を咥えているのが目に入る。……結局火は諦めたんだ……。


果南「──ここが私の部屋だよ」

梨子「お、お邪魔します……!」




案内された果南ちゃんの部屋は、店内と同じで壁も床もほぼ木製のロッジの一室ような部屋だった。

机やタンス、ベッドが部屋の隅に配置されており、カーペットが敷かれている床は割と広々としたスペースが確保されていて、私の部屋よりも物が少ない印象を受ける。

とは言うものの、殺風景というわけではなく、綺麗な珊瑚礁の絵が壁に飾られていたり、ベッドにはぬいぐるみがいくつか置いてある。

窓の脇には、纏められた薄いエメラルドグリーンのカーテン。カーペットの上には、薄いピンクのクッション。ベッドシーツは薄いブルーで全体的にパステルカラーの物が多い気がする。果南ちゃんはパステルカラーが好きなのかもしれない。

木目も相まってか、全体的に落ち着いた雰囲気の部屋だ。


果南「それじゃ、シャワー浴びてくるから、適当にくつろいで待っててね!」

梨子「は、はーい」


果南ちゃんがパタパタと部屋から出ていく最中、ふと、


梨子「わ、私……果南ちゃんのお部屋にお呼ばれしちゃったんだよね」


などと思う。いや、私が果南ちゃんのお家でやろうって提案したんだけど……。

別に何がどうと言うわけではないはずなんだけど、現在進行形で自分が意識しつつある相手の部屋に居るという事実がなんともこそばゆい。


梨子「も、もう……/// また、変なこと考えてる……///」


また熱くなる頬を押さえながら、ふるふると頭を軽く振る。

とは言うものの、やはり果南ちゃんの部屋に私一人というのがなんだか落ち着かない。

腰を落ち着けるのもままならず、キョロキョロと室内を見回していると、机の上に置いてある勉強道具が目に入る。

国語、数学、英語、生物、化学、物理、現社、日本史、世界史と勢ぞろいだ。


梨子「果南ちゃん、本当に勉強苦手なのかな……?」


各種しっかり揃えられた教科書やノートたちは、同じように勉強が苦手で逃げ回っている千歌ちゃんとは大違いな気がする。

そもそも千歌ちゃんは教科書を持ち帰らないどころか、学校に持ってくるのすら頻繁に忘れてるし……。あ、いや……持ち帰ると忘れるから、置き勉してるのかな……?


梨子「……」


そう考えてみると、改めて級友が心配になってきた。ダイヤさんがあそこまで口酸っぱく勉強するように促す理由も、純粋に心配なだけかもしれない。

まあ、それに関してはもうダイヤさんにお任せするとして……。果南ちゃんの机に積み重なっている勢ぞろいの教科書や机に備え付けられている本棚をぼんやり眺めていると──


梨子「……?」


本棚の中に目立つものが二つあった。一つは、ノート。そして、もう一つは本……いや、このサイズは絵本かな?

目立つというのは、すごく派手で、という意味ではなく、むしろ逆。ノートはよれよれですごく使い古されているし、絵本は背表紙がボロボロでタイトルがわからなくなっているほど年季の入ったもので、逆に目立っているということ。


梨子「……」


すごく気になる。果南ちゃんがここまでして、使い込むほどのことが書かれているノートと、読み込まれた絵本……。

人の部屋の物を勝手に触るのはよくないと思いつつも、私の中で日々膨らみ続ける、果南ちゃんのことをもっと知りたいという純粋な欲求が脳内で囁いてくる。

──見たい。


梨子「…………す、少しだけ……」


あっさり欲求に負けて、私はノートと絵本を手に取る。……すぐ元に戻せば問題ない。まずいと思ったら、すぐに閉じて戻せば問題ない。

手前勝手な理屈を頭の中でこねくり回しながら手に取る。

絵本の方は背表紙と同じように表紙もボロボロではあったものの、かろうじてタイトルは読むことが出来た。


梨子「これ……『人魚姫』……?」


その絵本は『人魚姫』だった。あのアンデルセン童話の『人魚姫』だ。


梨子「好き……なのかな……?」


これだけボロボロになるまで読み込んでいるんだし、たぶんそういうことだとは思うけど……。

今度は絵本と一緒に取り出したノートを開いてみる。すると──詩が書いてあった。


梨子「……あ……これ……」


友達とのすれ違い、でもお互いを必死に理解しようとする、優しくてひたむきな詩。

ページをめくると、自分たちを信じて我武者羅に駆け抜けて、新しい可能性へと真っ直ぐに手を伸ばす、力強い鼓舞の詩。

どれも見たことがある詩で──今のAqoursの歌詞担当であるところの、千歌ちゃんが作ったものではない曲の詩。


梨子「果南ちゃんの……歌詞ノート……」


それは果南ちゃんが作詞を担当したときに使ったであろう、歌詞ノートだった。

そのノートに書かれた詩は、何度も書いて消して、ときに力強い筆跡だったり、弱い筆跡、たまにミミズがのたくったように消える線や、ぐちゃぐちゃに消している部分など様々で──果南ちゃんが今まで、時に悩みなら、時に楽しみながら、喜びながら、必死に綴ってきた歌詞たちの姿だった。


梨子「……」


果南ちゃんが作詞した楽曲は、多くが鞠莉ちゃんやダイヤさんの作曲だけど……私もいくつかは編曲を手伝っている。

故に自分にとっても、“創った”という思い入れは確実に存在するもので……改めて、自分も関わったあの曲たちと、こうして必死に向き合っていた痕跡を見ると、なんだか胸が熱くなるのを感じる。

今でこそ、作詞は千歌ちゃんだけど……果南ちゃんが綴った詩たちからも、確かな力強さのような、心に訴えかけるような、そんな情動を覚えた。

最初はちょっと見るだけのつもりだったはずなのに、気付けば一緒に取り出した『人魚姫』の絵本のこともすっかり忘れて見入ってしまい、そのままペラペラとページをめくっていくと──


梨子「あれ……これ……」


見覚えのない歌詞のあるページに辿り着く。

いや……まだ、歌詞になりかけのモノ、というのが正確だろうか。

つまり、書きかけの詩だ。


梨子「……」


『私が歌うAqoursの曲』というメモ。

『Aqoursの中で私に求められているもの。かっこよさ? たぶん。先輩だし』

『かっこよさならロック? 鞠莉と被りそう…』

『力強い応援ソングとか?』

──そんな走り書きと共に、いくつかの歌詞に使えそうなワードがたくさん綴られていた。


梨子「……これ、果南ちゃんのソロ曲の歌詞だ……」


これは恐らく現在進行形で果南ちゃんが作っている真っ最中のソロ曲の歌詞だと思う。

とはいえ、イメージ自体が全然固まっていない状態で、かなり苦戦しているのが見て取れた。


梨子「……」


更にページをめくると、真っ新な白紙のページ。本当に現在進行形で煮詰まっているのかもしれない。

何か力になれないかなと考えている折──少し離れたところから、足音が聞こえてくる。恐らく、果南ちゃんの足音だ。


梨子「! ……戻ってきちゃう……!」


私は慌ててノートと絵本を元あった場所に戻す。

戻してから数テンポしたタイミングで、


果南「──ふぅ、ただいま」


部屋の主が戻ってきた。


梨子「おかえり、果南ちゃん」

果南「ごめんね、待たせちゃって」

梨子「うぅん、大丈夫だよ」

果南「今、テーブル出すからちょっと待ってね」

梨子「あ、手伝うよ」

果南「いいって、梨子ちゃんに力仕事させられないから、座って待ってて」


そう言って、果南ちゃんはクローゼットの中から、折り畳み式のちゃぶ台を取り出し、軽々と運んだのちに、カーペットの上に設置する。

……確かに、私が手伝うほどじゃないのかもしれない。


果南「それじゃ、勉強はじめよっか?」

梨子「あ、うん」


私は頷いて、ちゃぶ台の前に腰を下ろす。

果南ちゃんも同様に、私の向かいに座って教科書とノートを広げる。

歌詞のことはちょっと気になるけど……今は当初の目的を優先しないとね……。

すでにイベント盛りだくさん気味だけど……私は果南ちゃんと一緒に本日の主目的である、勉強会を開始するのだった。





    *    *    *





果南「──そういえば、梨子ちゃん」

梨子「?」


ノートを開いて勉強を始めようとした手前、声を掛けられて顔をあげる。


果南「梨子ちゃんは今日はどの科目を勉強するの?」

梨子「えっと……今日は理系科目をやろうかなって、思ってるけど……」

果南「! そっか、じゃあ教えてあげるね!」

梨子「え……?」


さっき、向かいに座ったところなのに果南ちゃんが、すぐ隣に移動してくる。


梨子「えっと……///」

果南「生物と数学どっちがいい?」


気付けばまた果南ちゃんに近付かれることを許してしまった。……というか理系科目って、その二択なの……?


梨子「えっと……その……今日は、物理を……」

果南「え」


私が今日の勉強科目に物理をあげると、果南ちゃんは急に悲しそうな顔になる。


梨子「!? い、いや、数学がいいな!」

果南「! そっか! 数学は得意なんだ、教えてあげるね!」


訂正して数学を指定すると、果南ちゃんは急に嬉しそうな顔になって、私の教科書を覗き込んでくる。

視界に現れる紺碧のポニーテール。シャワーを浴びたばかりだからなのか、ふわふわといい匂いがする。何よりも距離が近い。


梨子「……///」

果南「この時期の二年生の範囲だと……積分かー」


また一人、恥ずかしがる私のことを知ってか知らずか、果南ちゃんは一人うんうんと頷きながら、私の教科書の試験範囲に目を通している。

恥ずかしいのはひとまず仕方がないとして……果南ちゃん、急にどうしたんだろう……?

教えてあげるだなんて……。

勉強会とは言っても、私たちは学年が違うから、教え合うというよりも、お互いを見張るという意味合いの強い勉強会だと思っていただけに少し面食らっている自分が居た。

……というか、私は二年生だから、三年生の果南ちゃんに勉強は教えられないし……。


果南「えーっと……範囲的には定積分と不定積分あたりかな……?」

梨子「……」


果南ちゃんが教科書に集中している間に、机に置いてある果南ちゃんの手の小指に、自分を小指の先を軽くくっつける。


 果南『積分は難しいよねぇ……』


いや、積分のことじゃなくて……。


 果南『それにしても、梨子ちゃんが苦手なのが理系科目でよかった……文系科目だったら、絶対教えられなかったよ』

梨子「……?」


そもそも果南ちゃん……最初から私に勉強を教えようとしてくれていたのかな……?

でも、果南ちゃんって勉強苦手だったんじゃ……。


梨子「果南ちゃん」

果南「ん?」

梨子「果南ちゃんって、理系科目が得意なの?」

果南「そうだよ。特に生物と数学は好きなんだよね」
 果南『物理はちょっと苦手だけど……』

梨子「そうなんだ……」

果南「梨子ちゃん、理系科目は苦手なんでしょ? だったら私が、教えてあげるからさ!」
 果南『数学か生物だったら、私でもたぶん教えてあげられるし!』

梨子「そ、それは嬉しいけど……」

果南「?」
 果南『けど……?』

梨子「果南ちゃんの勉強は……」

果南「大丈夫だよ! 私普段から勉強してるから!」
 果南『まあ……昨日文系科目をひたすらやってたし……赤点取ることはないかな』


言っていることと考えていることが全然違ってややこしい……。

というか、勉強が苦手だから一緒に勉強会をしようって話じゃ……──そこまで考えてから、それはテレパスで知っただけで、果南ちゃんは自分の口から勉強が苦手とは言っていなかったことに気付く。

つまり──果南ちゃん、私に勉強が苦手なことを隠してる……?


梨子「そ、そうなんだ……」

果南「そうそう! だから、今日の勉強会はお姉さんに任せて!」
 果南『頭悪い先輩なんて思われたくないし……ここは先輩らしく、勉強が出来るところを見せてあげなくちゃ!』


なんだか予想外の展開になってきた。


梨子「えっと……果南ちゃん、そういえば前に予習復習ちゃんとやってるって言ってたっけ」

果南「もちろん。高校生なんだから、それくらいしないと」
 果南『予習復習……たまーにやる……でもたまにやってるから、やってないって程じゃない』

梨子「そ、その中でも理系科目が得意なんだね」

果南「そうだね。文系科目も出来るんだけど……理系科目ほど得意じゃないから、教えてあげられるかは微妙なんだけどさ」
 果南『……そういえば英語……今回の範囲、全然わかんないんだよね……前は鞠莉に聞いてたけど……今回はどうしよっかな。またどうにかして頼み込む……?』

梨子「…………」


だいぶ言っていることと事実が食い違ってる気がするんだけど……。

間違いない。果南ちゃんは今、ものすごく見栄を張っている。

なんでだろう……? そこまでして頑なに、勉強が出来ないと知られまいとする理由って──


 果南『いや……また、可哀想なものを見る目で教えられるのは嫌かも……。鞠莉もダイヤも頭良すぎるんだよ……私が勉強出来ないわけじゃないって』


……確かに、あの二人から見たら大抵の人は勉強が出来ない人の可能性はある。


 果南『それでも、あの二人に比べて私は頭が悪いとか、梨子ちゃんから思われるのも嫌だ……。先輩としての威厳が……。英語を教える展開だけはなんとしても阻止しないと……!』

梨子「……」


どうやら先輩としてのプライドが、果南ちゃんに虚勢を張らせているらしい。

まあ、ここまでわかった上で、英語を教えてなんていじわるなことを言う気はないけど。

私は果南ちゃんとくっつけていた指先をそっと離して、問題を解き始める。

……とは言うものの、数学は公式さえ覚えていれば慣れだ。

とにかくテスト前に数さえこなせば酷い点にはならない。

カリカリと問題を解いていると──


果南「ん……そこ、間違ってるよ」

梨子「え?」


言われて、指摘された部分を確認する。


梨子「……あ、本当だ……ありがとう」


その後も、問題を解いていると、何度か果南ちゃんから数字が違うことを教えてもらう機会があった。

得意というだけはあって、ケアレスミスを見つけるのがうまいのかもしれない。

私も悪い点こそ取らないものの、数学は文系科目に比べると苦手な方で、ケアレスミスが減らないのが悩みだから、こうして指摘をしてもらえるのは純粋に助かる。

ケアレスミスと言っても、途中式の数字が違えば答えは確実に間違える以上、ここに気付けるか否かは大きな違いだ。


梨子「果南ちゃん、本当に数学得意なんだね」

果南「ふふ、任せて」


私が関心していると、果南ちゃんは嬉しそうに笑う。


果南「なんか、こうして人に勉強教えてるの……懐かしいな……」

梨子「懐かしい……?」

果南「うん。小さい頃はよく千歌に教えてたからさ」


そういえば、前にそんな話もしていた気がする。


果南「あのときは小学生で……割り算だったかなぁ。普段、勉強が嫌で逃げ回ってる千歌がさ、あまりに成績が悪すぎて、親から月のお小遣いをなくされそうになって、泣きついてきてさ。どうにかギリギリ目標点まで届いて、お小遣いなしは回避出来たんだよね」


果南ちゃんは本当に昔を懐かしむように、喋る。


果南「あのときの千歌は……本当に何かあるたびに、こんな私を頼ってくれて……可愛かったな」


果南ちゃんの言葉は、昔を懐かしむと同時に……少しだけ、寂しそうな声だった。いや、きっと実際に寂しいんだと思う。

いつも果南ちゃんに頼って甘えてくれていた千歌ちゃん。だけど、今千歌ちゃんの隣で、千歌ちゃんが一番に頼る対象は別にいる。


果南「皆……変わってくんだよね」

梨子「果南ちゃん……」

果南「千歌も、曜ちゃんも、鞠莉も、ダイヤも……」

梨子「……」


考えてみれば、今果南ちゃんが名前を挙げた4人は、全員果南ちゃんにとっては幼馴染だ。

4人居た幼馴染たちが、それぞれの関係性を育んで、結ばれたということは……今年になって、他所から越してきた私なんかよりも、果南ちゃんにとってはもっと寂しいと感じるものなんじゃないだろうか。


果南「……って、ごめん。こんなこと聞かされても困るよね、あはは……」


そんな風に言いながら、頬を掻く果南ちゃん。


果南「次の問題、やろうか」


強がるように、次の問題に目を向ける果南ちゃんが、なんだか意地らしくて、放っておけなくて、私は──


梨子「……今は私が居るよ」


そんなことを口走っていた。


果南「……え?」


果南ちゃんは、びっくりしたような顔をしたまま、私の顔を真っ直ぐ見つめてくる。


梨子「千歌ちゃんも、曜ちゃんも、鞠莉ちゃんも、ダイヤさんも……変わっていくかもしれないけど……。……今は私が果南ちゃんの一番そばに居るから……」


果南ちゃんの寂しさを、少しでも埋めてあげたかった。

そんな一心で紡いだ言葉だったけど……口に出してみてから、


梨子「…………///」


我ながらなんて恥ずかしいことを口走っているんだと、顔が熱くなるのを感じて、またしても俯いてしまう。

な、生意気……だったかな……。

少し不安になりながら、上目で果南ちゃんのことを確認しようとした瞬間──


果南「ハグッ!」

梨子「~~~ッ!?///」


急に抱きしめられた。


梨子「ふぇっ/// あ、の、か、かなん、ちゃん……///」

 果南『梨子ちゃんが居てくれて……よかった……』

梨子「……!」


心の声が、響いてきた。


果南「ありがとう……梨子ちゃん……」
 果南『こんなに優しい娘がそばに居てくれてるのに……寂しいとか言ってちゃダメだよね……』

梨子「うぅん……」


私は控えめだけど……ハグに応えるように果南ちゃんの背中に腕を回して、軽く抱き返す。

──トクン、トクン。また心臓が速くなっていくのを感じる。でも、嫌じゃない。なんだか幸せな動悸。


 果南『ああ、でも……なんか、嬉しいな……』


上手く言葉に出来ないけど、今この瞬間は、果南ちゃんと同じ気持ちを共有出来ている気がした。

そんな優しい気持ちになれるハグは……たぶん実際の時間にしてみたら、十数秒ほどだったんだろうけど……。

その短い時間でも、私はすごく満たされた気持ちでいっぱいで、今日ここに来てよかったと思えるくらい幸せだった。

ハグを終えて、離れると、


果南「ふふ……」

梨子「えへへ……///」


自然と目が合って。何故だか、笑ってしまった。


果南「梨子ちゃん」

梨子「ん……」

果南「これからも、よろしくね。……な、なんちゃって……///」


珍しく顔を赤くして、おどけるように言う果南ちゃん。


梨子「うん……///」


私も顔の熱さを感じながら、頷く。


梨子「……///」


嬉しいけど、恥ずかしくて、それ以降の言葉がうまく出てこない。


果南「……///」


果南ちゃんも同じなのかはわからないけど……二人して、顔を赤くしたまま、黙り込んでしまう。

黙り込んだまま、たまに目線をあげると、果南ちゃんと目が合って、また恥ずかしくなって俯いて……そんなことをしばらく続けていたら──くぅぅ……。という音が聞こえてきた。


果南「……ごめん/// 私のお腹……///」


果南ちゃんがお腹をさすりながら、立ち上がる。


果南「……お、お昼にしよっか!」

梨子「う、うん///」


釣られるようにして、立ち上がって果南ちゃんと一緒に部屋を後にしようとした、そのとき、


果南「……っ……!?」


今立ち上がったはずの果南ちゃんが、急に蹲った。


梨子「!? 果南ちゃん!?」


驚いて声を掛ける。


果南「……足になんか、刺さった……?」

梨子「刺さったって……」


言葉に釣られるように、視線を果南ちゃんの足に移す。

だけど、


果南「……あれ……なんともない……? 確かに、何か刺さったような痛みだったんだけど……」


果南ちゃんが口にするとおり、そこに外見的な異常は何も認められなった。


果南「……? 気のせいかな……?」

梨子「大丈夫……?」


心配する私を傍目に、果南ちゃんは立ち上がって軽く足踏みをする。


果南「……うん、問題なさそう。気のせいだったみたい」

梨子「そ、そっか……」


あの痛がり方……本当に気のせいなのかな……?

疑問には思ったものの、果南ちゃんは痛みがないことを確認したら、


果南「ごめんね、梨子ちゃん。行こっか」

梨子「あ、うん……」


改めてお昼ごはんを食べに行くことを促してきたので、深く追求することもなく流してしまった。

──ただでさえ、テレパシーなんていう普通じゃない現象が起こっている最中に、そのまま流していいことじゃなかったなんて、少し考えればわかるはずだったのに……──





    *    *    *





さて、果南ちゃんと一緒に食事を取るためにリビングに向かっていると──


梨子「……?」


そちらの方から──ビリビリ、と何かを破くような音……なのかな……?


果南「この音……梨子ちゃん、ラッキーかもしれないよ」

梨子「え?」

果南「たぶん、お昼は新鮮な磯料理だよ♪」


果南ちゃんはニコニコしながら、そんな風に言う。

リビングに入ると、果南ちゃんは奥の方に向かって、


果南「おじいー? いるのー?」


と声を掛けながら、奥にあるキッチンの方へと歩いていく。

そのまま、なんとなく果南ちゃんの後ろをついていくと、キッチンでおじいちゃんが魚を捌いているところだった。


おじい「……」

果南「おじい、お客さんは?」

おじい「午後に変更になった」

果南「そうなんだ。まあ、天気悪いと何かと予定も前後するからね」

おじい「……そうだな」

果南「ところで……今日はカワハギ?」

おじい「いいのが入った」


おじいちゃんと果南ちゃんの会話を聞きながらまな板を見ると、平べったくてひし形っぽい、おちょぼ口のお魚が3匹。1匹はおじいちゃんが捌いている真っ最中で、残り2匹はまだ手を付けていない状態のようだ。

そういえば、果南ちゃんのおじいちゃん、漁師さんと知り合いでお魚をわけてもらえるって言ってたっけ……。

あれ……でも漁師さんって海のお魚を獲るんだよね?

カワハギって──


梨子「川のハギ……?」


川魚……?


果南「ふふ、違う違う」


私の呟きが聞こえてしまったのか、果南ちゃんはクスクス笑う。


果南「カワハギはね……あ、そうだ! せっかくだし、なんでカワハギなのか実際に見てみよっか!」

梨子「え?」

果南「おじい、こっちの2匹私が捌いていい?」

おじい「肝はくれ」

果南「あいよー。梨子ちゃん、手を洗ってから、こっちおいで」

梨子「う、うん……」


果南ちゃんに手招きされて、キッチンにおじいちゃん、果南ちゃん、私と横並びになる。


果南「それじゃ、生物の課外授業ってことで。テストには絶対出ないけどね~」


言いながら、果南ちゃんは包丁を取り出す。


果南「締め方も血抜きも完璧……さすがプロの仕事だね。さて……まず、カワハギには上と下に棘があるから、それを落とすよ」


果南ちゃんは解説しながら、包丁で上下の棘を落とす。


果南「ちなみにこの棘はカワハギの背びれと腹びれに当たる部分なんだよ。あと、後ろの背びれが糸状に伸びてる部分があるのがオスだから、今捌いてるのはオスメス一匹ずつだね」

梨子「へー……」


お魚のひれというと、ヒラヒラしたものをイメージしがちだけど、こういうのもあるんだ。ついでにオスメス判別法まで……確かにこれは生物の勉強かも。


果南「棘を落としたら、お腹から口のラインに一本切れ込みを入れる」


オスのカワハギのお腹辺りに真っ直ぐ切れ込みを入れる。


果南「これで準備は完了」

梨子「準備……?」

果南「しっかり見ててね。なんでカワハギなのかわかるから♪」


そう言いながら、果南ちゃんは楽しそうな声色でカワハギを手に持つ。


果南「さっきの切れ込みを入れた部分から、皮を掴んで──引っ張る」


すると、


梨子「……わ!?」


──ビリビリという音と共に、皮が一気にめくれて、透明感のある身が顔を出す。

この音って……。


梨子「さっきの音……」

果南「そう、おじいがカワハギの皮を剥いでた音だよ」

梨子「皮を剥ぐ……そっか」

果南「うん♪ 簡単に皮を剥げることからカワハギって名前がついたんだよ」


川じゃなくて、皮だったんだ……。お魚にはもともと自信がなかったけど、さっき自分が言っていたことがあまりにとんちんかんな発言で、少し恥ずかしくなる。

それはそうと──


梨子「なんか、楽しそう……」

果南「だよねー♪ 実際、綺麗に皮が剥げるから気持ちいいよ。それじゃ、梨子ちゃんもやってみようか」

梨子「う、うん……!」


果南ちゃんがまな板に置いた包丁を持って、まだ手の付けていない最後の1匹、メスのカワハギの前に立つ。


梨子「まず、上と下の棘を落とす……」


先ほど見たのと同じように、上下の棘を落とす。

もちろん包丁くらいは普通に使えるけど、魚を捌いた経験はほとんどない。

お母さんのお手伝いで切り身に手を加えたことがあるくらいかな……?

慣れないことなので注意しながら、刃を入れる。

ただ、包丁がよく研がれていたのか、思いのほか棘は簡単に落とせた。


果南「次は切れ込みね」

梨子「うん」


口から腹の棘のラインに向かって、少し切れ込みを入れる。


果南「それじゃ、そこからはビリっとね♪」

梨子「う、うん……!」


カワハギを手に持って、切れ込みから皮を掴んで、そのまま──


梨子「引っ張る……!」


──ビリビリ、という音と共に綺麗に皮が剥がれる。


梨子「出来た!」

果南「うんうん、上手上手♪」

梨子「えへへ……」


別に難しいことをしたわけでもないし、果南ちゃんに全部教えてもらってやったことだけど、褒められるとちょっと嬉しい。


果南「これだけだと片面の皮が剥げただけだから、次は逆側だね。表側が剥げてるから、裏返して尻尾の辺りから、また皮を摘んでみて」

梨子「尻尾の辺りから……」


反転して、尾の縁の辺りから皮を摘んで、


梨子「引っ張る」


再び、ビリビリという音と共に綺麗に皮が剥げる。


梨子「出来たよ!」

果南「流石だね~やっぱり普段から料理してるから筋がいいね」

梨子「い、いや……/// 皮剥いだだけだよ……///」

果南「最初は結構目の辺りとか引っかかって綺麗に剥げなかったりするんだよ。梨子ちゃんが剥いだ分はそこも綺麗に出来てるし、やっぱり筋がいいんだと思うよ」


言いながら、果南ちゃんもさっき自分で包丁を入れていたカワハギの裏面の皮を剥いでいる。もちろん、全く引っかかってなんかいないし、当たり前だけど、私なんかより全然慣れていて手際がいい。

それでも、私のことを褒めてくれるんだから、本当に褒め上手だよね、果南ちゃん……。恥ずかしいし、リップサービスだとわかってはいるものの、嬉しいものは嬉しいけど。


果南「それじゃ、続き。頭を落として、肝を抜くよ」


肝……つまり、肝臓だ。


果南「頭に切れ込みを入れる……って言っても、締めたときに少し切れ込みが入ってるんだけどね。それを目安にもう少し深めに包丁を入れる。梨子ちゃんが剥いでくれた方にも切れ込みを入れるね」


2匹のカワハギの頭部に切れ込みが入る。切れ込みを入れたら、果南ちゃんは再びカワハギを手に持ったので、私も倣うように手に取る。


果南「今入れた切れ込みから、頭側と胴体側をそれぞれの手でしっかり掴んで……一気に引っ張る」

梨子「う、うん」


言われたとおりにやると──ビリっという音と共に、頭部と胴体が綺麗にわかれる。


果南「おっけー。それで見たとおり、頭部に肝が全部くっついてくるよ」

梨子「本当だ……」


果南ちゃんの言うとおり、薄い琥珀色をした肝が頭部にくっついている。

でも──


梨子「えっと……黄色い内臓が胴部分に残っちゃった……」


どうやら、失敗してしまったようだ。黄色の臓器が胴体部分に残ってしまった。


果南「黄色……?」


少し怪訝な顔をしながら、覗き込む果南ちゃん。それを見て、すぐに、


果南「ふふ、大丈夫。それはカワハギの卵だから。内臓じゃないよ」


そう言って笑う。


梨子「あ、卵なんだ……よかった」

果南「煮つけにしたらおいしいから、そこは別に取っておこうか」

梨子「はーい」

果南「それにしても、肝の鮮度がいいね……いい色してる……」

おじい「獲れたてだからな」

果南「ありがたいね。さて、それじゃ次は肝を頭部から外してみよっか」

梨子「う、うん」


私が果南ちゃんの言葉に頷くと、


おじい「果南」


ここまで何も言わずにカワハギを捌いていたおじいちゃんが、急に果南ちゃんの名前を呼ぶ。


果南「ん? 何?」

おじい「そこはお前がやれ」

果南「えー? せっかく勉強中なのに……」

おじい「苦玉を潰すとせっかくの肝が不味くなる」

梨子「苦玉……?」

おじい「胆嚢のことだ」


胆嚢……人間にもある臓器だったってことはなんとなく覚えているけど……。


果南「えっと……苦玉──胆嚢って、ものすごく濃縮された胆液が詰まってて、とてつもなく苦いんだよね。だから苦玉って言うんだけど……。ちょっとかかるだけでも苦味が身に染みちゃうんだよね」

おじい「場所を知らない人間が肝を取ると苦玉を潰しかねん。慣れてないならやらない方がいい」

梨子「そ、そうなんだ……そういうことなら……」


おじいちゃんの言葉を聞いて、遠慮しようとするけど、


果南「1匹くらいよくない? ほら可愛い孫娘たちの勉強だと思ってさ」


果南ちゃんが食い下がる。


おじい「ダメだ」


でも、おじいちゃんはそれを一蹴。


おじい「カワハギは肝が命だ」

果南「まあ、わかるけど……」

おじい「それに美味いまま食ってやらんと、カワハギに悪い」


難しい部分は私にやらせたくないというのは、少し冷たい印象こそあれ、食べ物を粗末にしてはいけないという考えは同意出来る。

おじいちゃんなりの命を頂くということに対する誠意なんだと思う。


果南「……わかった。ごめん、梨子ちゃん。ここからは私がやるね?」

梨子「うぅん、大丈夫」


慣れていない人がやって、せっかくのお魚がおいしくなくなっちゃったら、食べられるカワハギも可哀想だもんね。


梨子「ただ、またお魚を捌く機会があるかもしれないから……横で見てるね」

果南「了解。それじゃ、苦玉を潰さないように……内臓全体を軽く出して……付け根を落とす」


肝の辺りから頭部に指を入れて、奥側から引っ張り出すと、いろいろな内臓がくっついて出てくる。その内臓全体の付け根部分を包丁で落とす。


果南「そしたら、肝以外の内臓……腸や苦玉を外す」


言いながら、肝の周りにある長い内臓──恐らく腸や、他の内臓ともども、肝から取り外す。


おじい「果南、肝」

果南「わかってるって……」


おじいちゃんに促されて、肝だけを小さなボウルに入れる。


果南「これが肝以外の内臓だね。食べない部分だよ」


一目見ただけで、いろいろな臓器が密集しているのがわかる。解剖実験とかはしたことがなかったから、こういうのを見るのは新鮮かも。……ちょっとグロテスクで気持ち悪いけど。


果南「この長いのが腸だね。黒いのは脾臓。そして、これ──」


果南ちゃんが摘んでいる赤み掛かった丸い宝石のような綺麗な部位。


果南「これが苦玉……胆嚢だよ」

梨子「思ったより見た目は綺麗なんだね……」

果南「カワハギの苦玉は確かにちょっと綺麗かもね。でもこの中にはとてつもなく苦い胆汁が詰まってるから、潰さないように処理しよう」

梨子「はーい」

果南「それじゃ、こっちも……」


今度は私が皮を剥いだ方も手際よく内臓を抜いていく。

あっという間に2匹のカワハギの肝を取り出す。


果南「それじゃ、ここまで出来たら胴部分を三枚おろしにしようか。梨子ちゃん、三枚おろし出来る?」

梨子「えっと……三枚おろしはやったことないかな」

果南「了解。じゃあ、見ててね」


果南ちゃんは胴部分の腹身の方に包丁を当てる。


果南「ここから背骨の辺りまで、刃を入れる」


スッと包丁を入れて、


果南「お腹側に刃が入ったら、今度は背中側からも同じように刃を入れるよ」


先ほど同様に、背中側からも包丁を入れる。


果南「両側から包丁を入れたら、そのまま背骨に沿って身を外す」


すると、綺麗に片面の身がおろされて、骨が見えるようになった。


果南「逆側でも同じことをして……」


裏返したカワハギの胴に同じように包丁を入れる。


果南「これで、三枚おろし完了だね」


あっという間にカワハギが三枚におろされてしまった。


梨子「果南ちゃんすごい……! ……お魚捌ける女子……憧れるなぁ……」

果南「あはは、ありがと。でも、カワハギは簡単な方だから梨子ちゃんもすぐに出来るようになるよ。やってみる?」

梨子「う、うん!」


包丁を手に取って、再びチャレンジ。


梨子「まずお腹側から……」


お腹側から刃を入れて、背骨まで。

ここは苦戦せずに出来る。


梨子「次は背中側……」


カワハギを逆向きにして、背中側から包丁を入れて……。

背骨の辺りまで切れ込みを入れたら背骨から外す……。


梨子「ん……」


そこまで刃を入れて、背骨の辺りで刃の引っ掛かりを感じる。


果南「ゆっくりで大丈夫だよ。骨に沿うようにゆっくり包丁を入れてみて」

梨子「うん……」


果南ちゃんの言うとおり、落ち着いてゆっくりと、背骨の引っ掛かりに沿うように、刃を入れていくと──


梨子「……で、出来た……」


先ほどの果南ちゃんのお手本のように、綺麗に身をおろすことに成功する。


果南「やっぱり、筋がいいね。それじゃ裏側もやってみよっか」

梨子「わかった……!」


裏側も同様に。今度は先ほど以上にスムーズにおろすことが出来る。


梨子「……ふぅ」

果南「三枚おろし成功だね」

梨子「えへへ……うん」


初めてお魚を三枚おろしにした。ちょっと自分の料理スキルが上がった気分だ。


果南「それじゃ、今度は……」

おじい「果南」

果南「ん」

おじい「骨こっちにくれ。味噌汁にする」

果南「はいよー」


気付けばおじいちゃんがお味噌汁を作り始めていた。

果南ちゃんは先ほど三枚におろしたときの真ん中、骨の部分をおじいちゃんに渡す。


果南「えっと、気を取り直して。この身の部分なんだけど、実はまだ薄皮があるんだよね」

梨子「そうなの?」

果南「切り身の表面にあるてかてかした部分が薄皮だね。薄皮は湯引きすれば食べられるんだけど……お刺身にすると、口に残っちゃうからとりあえず取っちゃおう」

梨子「うん」

果南「その下準備として、腹骨と血合い骨を切り取る」

梨子「ん……」


腹骨はわかるけど……。


果南「血合い骨は背身と腹身の間にある骨のことだよ」

梨子「なるほど」

果南「それじゃまずは、腹骨から。逆さ包丁で軽く切れ込みを入れて……切れ込みを入れたら、腹骨に沿うように薄く切る」


スッと刃を入れて、腹骨を除去する。


果南「血合い骨は、さっき言ったとおり背身と腹身を切り分けるイメージで間の骨を除去するよ。カワハギの血合い骨は結構強いから、残らないようにしっかり切り取ろう」


背身と腹身の間の骨を取り除くように包丁を入れて、最終的に表裏と背腹の組み合わせで四枚の切り身になる。


果南「やってみて」

梨子「うん」


再び包丁を手に取って、腹骨と血合い骨を見様見真似で除去する。

今回は目に見えているので、さほど苦労することもなく、綺麗に四つの切り身を完成させる。


果南「それじゃ、次は薄皮。薄皮のある面を下にして……薄手の包丁を入れていくよ。本当に薄皮一枚を剥ぐように、包丁を入れると……」


包丁を入れると、切り身の下に、更に薄い膜のようなものが残っている。どうやら、これが薄皮らしい。


果南「これを四枚の切り身全部に同じことをする」


同様に他の三枚も薄皮を剥ぐ。


果南「それじゃ、次は梨子ちゃんの番」

梨子「うん!」


薄皮の面を下にして……薄皮一枚を剥ぐように、包丁を入れ……。


梨子「…………」


慎重に刃を入れているつもりだけど、なんだか皮に身が残ってしまっているような気もする。


果南「皮はあとで湯引きして、身と一緒に食べられるから、そこまで気負わなくて大丈夫だよ」

梨子「う、うん」


ゆっくりと包丁を進めながら、


梨子「……ふぅ」


やっと、薄皮を剥がす。

果南ちゃんに比べると、少し皮に身が残ってしまった。


梨子「次は、もう少し上手に……」


残りの三枚は最初の一枚よりも上手にやりたい。そんな一心で包丁を入れていく。

──どうしても果南ちゃんに比べると、皮に身が残ってしまいがちだったけど、最後の一枚はどうにかほとんど身を残さず薄皮一枚にすることが出来た。


果南「上手上手。流石だね」

梨子「はぁ……緊張した」

果南「お疲れ様」

梨子「これでお刺身の完成……」


……と思ったんだけど、


果南「えっと、カワハギは更に薄造りにするんだ」


まだ工程があるらしい。


梨子「更に薄く切るってこと?」

果南「うん。カワハギはフグの仲間だから、身に強い弾力性があるんだよね。だから、一枚一枚を薄くするんだよ」

梨子「へー……」


確かにフグって、薄い身を盛り付けてるイメージがあったけど、弾力があるからなんだ……。

じゃあ、これから更に身を薄く……出来るのかな。

さっきの薄皮を剥ぐ作業でも大変だったのに……と、思っていたら。


果南「それじゃ、あとはおじい、お願いしていい?」


果南ちゃんはおじいちゃんにお願いしていた。


おじい「ああ。座って待ってろ」

果南「ありがと。梨子ちゃん、座って待ってよっか」

梨子「う、うん……?」


促されて、二人でリビングにある4人掛けくらいの机に移動して、席に座る。私が座ると果南ちゃんはまたしてもすぐ隣に腰を下ろした。


梨子「あ、あのー……///」

果南「ん?」

梨子「……な、なんでもない……///」


なんで、狙いすましたように隣に……と思ったけど、そういえばさっき果南ちゃんの部屋に行くときにチラっと見えたおじいちゃんは、ここの向かいの席で煙草を咥えていた気がする。

つまり、今座っているのはこの食卓での果南ちゃんの定位置なんだろう。

まあ、私の隣におじいちゃんが座る方が気まずいかも……。ということで、この席順についてはひとまず納得するとして……。


梨子「……ここからの調理はおじいちゃんにやってもらうの?」


ここまでやっていたのに、と私が不思議がると、


果南「おじいは薄引き上手いからね。私も出来なくはないんだけど……おじいほど、薄くは出来ないからさ」


とのこと。


果南「どれだけ薄く引けるかは食感に直結するからね。だから、刺身を引くときは、いつもおじいに任せてるんだよ」

梨子「そうなんだ……」

果南「一番おいしい状態で食べてあげた方が食材のためだっていうのは私も同意見だしね」


果南ちゃんのおじいちゃん、ぶっきらぼうに見えて、繊細な作業が得意らしい。


梨子「職人さんみたい……」

果南「あはは、海の職人っていうのは、ある意味的を射てるかもね」


果南ちゃんはそんな風に笑う。

確かにダイビングで得た経験と知識を生かして生きてきた人だもんね……。我ながら言い得て妙だったのかも。


果南「おじいの磯料理は千歌のお父さんも認めてるくらいで、若い頃はアドバイスを求められたこともあったらしいよ。若い頃って言っても千歌が生まれる前とかみたいだけど」

梨子「千歌ちゃんのお父さん……? ……あ、そういえば板前さんなんだっけ」

果南「そうそう」


実際に会って話したことはないけど、確かそんなことを千歌ちゃんに聞いたことがあった気がする。


果南「松浦家と高海家は昔から家族ぐるみの付き合いだからね」

梨子「そうなの?」

果南「旅館とレジャーだからね。お互い手を取り合う関係なんだよ」

梨子「言われてみれば……」


確かに旅館がレジャーであるところのダイビングショップを紹介するのは観光業として、理に適っている気がする。


果南「今でこそホテルオハラの方が十千万旅館より近いけど、なんせ十千万は歴史が深いからね」

梨子「歴史が深いって……どれくらい……?」

果南「うーんと……詳しい創業年とかは覚えてないけど、確かちょうど100年くらいなんじゃないっけ?」

梨子「100年……」

果南「千歌はあんな感じでのほほんとしてるから、意識しづらいけど……確か国の文化財にもなってたはずだよ」

梨子「え!? そ、そうなの……?」

果南「建物全部じゃなくて、一部の棟だけだった気がするけどね。──まあ、そんな歴史ある旅館だから、我が家は昔から高海家とは仲良しってわけ」


千歌ちゃんとは本当に昔からの幼馴染だとは聞いていたけど……先祖代々の仲と言っても過言ではないのかもしれない。

果南ちゃんの話を興味深く聞いていると──


おじい「……チビは昔からよく、漏らした布団を隠しに来てたな」


と、お盆に載せたお味噌汁をリビングのテーブルの上に運びながら、おじいちゃんが横から一言。


梨子「あ、ありがとうございます……」

果南「おじい、それ言うとまた千歌が膨れるよ?」

おじい「今更何言うか……あいつの襁褓(むつき)も替えてたんだぞ……」

梨子「むつき……?」

果南「おむつのことだよ」

梨子「ああ、おむつ……え、おむつ?」

果南「お互い家柄的に、どっちかの家に預けて、まとめて面倒見てたことも多かったみたいでさ……」

おじい「志満も美渡も面倒は見てたが……チビが一番手が掛かる子供だった」

果南「千歌はおねしょ卒業も遅かったしね……あ、この話したことは千歌には内緒にしておいてね?」

梨子「う、うん」


おじいちゃんは会話の途中だけど、またキッチンへと戻っていく。他の料理を取りに行っているんだろう。


梨子「あ……て、手伝います!」

おじい「いいから、座っとれ」

梨子「は、はい……」


手伝いを申し出たけど、一蹴されてシュンとなる。


果南「あはは……ごめんね、梨子ちゃん。わかりづらいけど、あれおじいなりの優しさだからさ。お客さんに手伝わせるわけにいかないってね」

梨子「そうなの……?」

果南「内浦って子供が少ないからさ。久しぶりに新しい子に会えて、嬉しいんだと思うよ」


なんて果南ちゃんは言うけど……本当にそうなのかな……?

そんな気持ちが顔に出ていたのか、


果南「嘘じゃないよ。だって、いっつも魚は二尾しか貰ってこないし」


そう補足する。


梨子「……?」


一瞬意味がわからなかったけど──


梨子「……あ」


すぐに真意に気付く。今日は私が居るから三尾貰ってきてくれたんだ……。

それを知って、ちょっと怖い印象があったおじいちゃんが、急に優しいおじいちゃんに思えてきた。


果南「おじいはホント言葉が足りないんだよねぇ……でも、不思議と子供から好かれるのは、きっとそういうところなんだよね」


──「まあ、ダイヤは昔からちょっと苦手みたいだけど」と言って苦笑いしているところ──机の上に大皿がドンと置かれ、


梨子「っ!」


一瞬びくっとしてしまう。


おじい「果南」

果南「へいへい、余計なことは言うなってね~」

おじい「……」


おじいちゃんは口を噤んだまま、私たちの向かいの席に腰を下ろした。どうやら、食事の準備は整ったらしい。

改めて、テーブルの上に置かれた大皿に目を向けると──


梨子「わぁ……!」


そこには綺麗に盛り付けられた、カワハギのお刺身。

薄く薄く引かれた身はかなり透明度が高く、お皿の底が透けて見えるくらいの薄さだった。


梨子「お、美味しそう……」


まるで高級なお店で出てくるような見栄えに、食欲が湧いてくる。


果南「ふふ、それじゃ食べようか。いただきます」

梨子「いただきます……!」


いただきますと声を揃える私たち。一方、おじいちゃんは両手を合わせてから、小さな声で何かを呟いていた。聞こえなかったけど、恐らくおじいちゃんもいただきますと言ったんだと思う。

誰かに聞こえなくても、言うことに意味があるということなのかもしれない。なんだか、そういうところも不思議と日本のおじいちゃんっぽいと感じてしまう。

とにもかくにも、3人で食事を始めようとしたところで、私は盛り付けられた刺身とは別に、目の前にある小皿には、薄い琥珀色のドロドロした物体が置かれていることに気付く。

果南ちゃんとお話していて、気付いてなかったけど……たぶん、色的にカワハギの肝を叩いたものかな?


おじい「果南」

果南「はいはい、醤油ね」


おじいちゃんに促されて、果南ちゃんがお醤油を取ってあげると、おじいちゃんはその肝の叩きに醤油を掛けて、お箸で和えていく。


果南「カワハギのお刺身はね、肝醤油をたっぷりつけて食べるとおいしいんだよ」


と、果南ちゃんからの補足が入る。果南ちゃんもおじいちゃんから醤油を受け取って、肝醤油を作っているので、私もそれに倣って、肝醤油を作ってみる。

お箸で和えると、薄い琥珀色の肝は醤油の黒が加わって薄い茶色のドロドロした物体になる。

これにお刺身をつけて食べるんだよね……。

今まで食べたこともないような未知の磯料理に少々戸惑っていると、


おじい「梨子」

梨子「!? は、はい!!」


急におじいちゃんから名前を呼ばれる。


おじい「食ってみろ」

梨子「は、はい」

果南「もう、そういう言い方したら梨子ちゃんびっくりしちゃうでしょ? 食べ慣れてないとちょっと戸惑うかもしれないけど……とにかく、食べてみて?」

梨子「う、うん」


ふと気付いたのは、二人とも未だにお刺身に手を付けていないということ。

戸惑い気味で手が伸びていない私を待っていてくれたのかもしれない。

二人の優しさに応えるように、お刺身を一切れ、お箸で摘んで、肝醤油につける。


おじい「たっぷりつけろ」

梨子「は、はい」


おじいちゃんの言うとおり、これでもかってくらいつけて──


梨子「いただきます……!」


それを口に運んだ。


梨子「…………」

果南「どう?」


果南ちゃんが訊ねてくる。


梨子「………………美味しい」


私の口から出てきたのは、そんな淡泊な感想だった。

いや、この淡泊さは、適当な相槌というわけではない。

言葉にするのが難しいくらい、美味しすぎて、言葉が出てこなかった故の淡泊さだ。


梨子「……こんなに美味しいの……食べたことない……」


一周して、軽く呆けてしまった。それくらい美味しい。

バカの一つ覚えのようだけど、とにかく美味しい。今まで食べたことのないような味だけど……極限まで凝縮された旨味の塊が口の中に広がっていく……とでも言うんだろうか。


果南「でしょ? 特にカワハギの中でも肝は『こたえられない旨さ』なんて表現されるくらいで、すごい密度の濃い旨味から『海のフォアグラ』なんて呼ばれてるくらいなんだよ」

梨子「も、もう一切れ……食べていい……?」

果南「もちろん、どうぞ」

おじい「梨子、好きなだけ食え」

梨子「は、はい!」


お箸を伸ばして、今度は二切れほど取って、先ほど同様肝醤油をたっぷりつけて、食べる。


梨子「……………………はぁ……美味しい……」


思わず溜め息が漏れた。

おじいちゃんが肝の調理に拘っていた理由がわかった。これの味を落としてしまうような調理をしたら、確かにもったいない。というか、バチが当たるんじゃないかな……。


果南「気に入ってくれたようで何よりだよ。ま、絶対美味しいって言ってくれると思ってたけどね♪」


果南ちゃんがラッキーだなんて言っていた理由がよくわかった。

あまりの美味しさに、相変わらず言葉は出てこないけど、筆舌に尽くしがたいとはまさにこういうことなんじゃないだろうか。

私はまた一口、また一口とカワハギのお刺身を肝醤油につけては口に運ぶ。

夢中でお刺身を食べていて──ふと、気付いた時にはほとんどお刺身がなくなっていて、


梨子「あ……。……ご、ごめんなさい……! ほとんど、私が食べちゃって……」


果南ちゃんもおじいちゃんもほとんど手を付けていないことに気付いて、急に焦る。


果南「ふふ、いいんだよ」

おじい「旨かったならそれで構わん。好きなだけ食べろ」

梨子「は、はい……///」


二人の優しさに甘えるように最後にもう一切れをいただいて、お刺身はひと段落。

それを確認した二人が残ったお刺身に箸を伸ばし始める。

本当に、私に好きなだけ食べさせてくれていたらしい。

軽く我を忘れて食べていた自分に対して無性に恥ずかしさを感じながら、お味噌汁を啜ると──こちらも、カワハギの出汁が出ていて美味しい。

お刺身も、お味噌汁も、我ながら驚くほどに、カワハギに舌鼓を打つ、印象的なお昼ごはんとなったのでした。





    *    *    *





梨子「ごちそうさまでした……!」

果南「ごちそうさまでした」

おじい「ん……」


食事を終えると、おじいちゃんは席を立って、お店側の方に歩いて行く。恐らくそろそろお客さんが来る時間なんだと思う。


おじい「果南、洗い物は任せる」

果南「あいよー。おじいもちょっと食休みしてよー?」


おじいちゃんは果南ちゃんの言葉に、口では答えず、見えるように軽く手を振り、肯定の意だけ示して、リビングを出ていくのだった。


梨子「あ……果南ちゃん。洗い物なら私も手伝うね」

果南「え? いいよ、座って待ってて?」

梨子「うぅん! あんなに美味しい料理を振舞って貰ったんだもん! 洗い物くらいしないと、こっちが落ち着かないよ!」

果南「ん……まあ、そういうことなら」


──果南ちゃんと一緒に食器を流しにおろしてから、スポンジに食器用洗剤を付けて、洗い始める。

食器を洗いながら、


梨子「……むしろ、食器洗ったくらいじゃ足りないよ……」


なんて呟いてしまう。何度もしつこいかもしれないけど、それくらい美味しかったんだもん……。


果南「ふふ……そこまで、美味しいって思ってくれて嬉しいよ。でも、おじいも嬉しそうだったし、足りないなんてことはないと思うよ」

梨子「嬉しそう……だったの?」

果南「うん。最近、『チビは来ないのか』ってうるさかったくらいで……久しぶりに若い人とゆっくりお話できて嬉しかったんじゃないかな」

梨子「ならいいんだけど……」


果南ちゃんの話を聞きながら、ふと──


梨子「そういえば、なんで千歌ちゃんは『チビ』って呼ばれてるの?」


聞き忘れていた疑問を思い出す。


果南「ああ、えっとね。高海姉妹って三姉妹でしょ?」

梨子「うん」

果南「ただ、千歌は志満姉や美渡姉に比べて歳が離れてるから、ご近所さんからもちっちゃいころは『高海家のおチビちゃん』なんて風に呼ばれてたんだよね」

梨子「あぁ……だから、『チビ』なんだ……」

果南「最近は千歌も『もうチビじゃないよ!』なんて言ってるけど、おじいからしたら『チビはチビ』らしいよ」


果南ちゃんはそう言いながら、苦笑いする。


果南「ま……そんな『高海家のおチビちゃん』も最近は黒澤さん家のお嬢様にくびったけなせいで、ウチにはあんまり顔出さなくなっちゃったから、おじいも寂しそうだけどね」

梨子「そっか……」


おじいちゃんですら寂しいなら、千歌ちゃんとは姉妹同然に育ってきた果南ちゃんは、もっともっと寂しいんだと思う……。


果南「でも、千歌とダイヤが仲良しなのは間違いなく良いことだからね……。これでいいんだよ」

梨子「……うん」


ひととおり、洗い物も終わって、二人で手を拭きながら思う。

これに関しては、もうテレパシーを使うまでもなく、果南ちゃんは寂しさを我慢していることくらいは、私にもわかる。

無理に何かを言っても、千歌ちゃんが、ダイヤさんが、そばに居ない事実は変えられない。

だから、今の私に出来ることは──


梨子「勉強会の続き、頑張ろうね」

果南「うん、そうだね」


果南ちゃんのそばで、その寂しさを少しでも和らげてあげることだと思うから。そんな想いを胸に、勉強会の続きを促すのだった。





    *    *    *





お昼ごはんを食べたあと、相変わらず勉強を教えたがる果南ちゃんに横についてもらいながら、勉強を進める。


果南「…………」

梨子「…………」


とは言うものの、勉強というのはやっていれば、ちょっとずつ要領がよくなっていくものだ。

つまり、徐々に間違いは減る。

果南ちゃんがいくら目を凝らしてみていても、間違いがなければ、果南ちゃんは口を挟みようがないわけで……。


梨子「……あの、果南ちゃん」

果南「! 何!? どこがわからないの!?」


そんな、目を輝かせなくても……。


梨子「えっと……今のところ、わからない場所はないから、果南ちゃんも自分の勉強してて大丈夫だよ……?」

果南「え」


「え」とか言っているけど……。正直、果南ちゃんこそ勉強しないと危ない気がする。というか、テレパスのとおりなら、間違いなく私より赤寄りだと思うし……。


果南「だ、大丈夫だよ! 言ったでしょ? 私、普段から勉強してるからさ!」

梨子「で、でもね、普段から勉強していても、集中して勉強したら点も上がると思うからさ……!」

果南「えー……いいよ、これ以上点数上がらなくても……」


強情……っ。……ええと、果南ちゃんは後輩の私にいいところを見せたいんだよね……だったら。


梨子「わ、私……テストでいい点取れる人って、かっこいいと思うなー……なんて」

果南「む……」


果南ちゃんは私の言葉を聞いて、少し悩んだ素振りを見せたあと、


果南「……まあ……そこまで言うなら……」


渋々立ち上がって、机の上の勉強道具に手を伸ばす。

……よかった。私に勉強を教えていたせいで、果南ちゃんが赤点を取ったなんてことになったら、目も当てられない事態になる。

果南ちゃんも、私も……お互い気まずくなることは間違いなしだ。


果南「さて……どの科目の勉強しようかなー……」


果南ちゃんが机に勢ぞろいの参考書たちの中から科目を選ぶ中、机の上を見やった際に……ふと、先ほど見つけた、果南ちゃんの歌詞ノートのことを思い出す。

一応……聞いてみようかな。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「んー……?」

梨子「ソロ曲の歌詞……順調?」

果南「…………」


机の上を漁っていた果南ちゃんの手が止まる。


果南「……うん、順調だよ」

梨子「……そっか」


──テレパスを使わなくても、あのノートを見ていればなんとなくわかる。たぶん嘘だ。

ただ、本人が順調だと言うのなら、無理に進捗の悪さを指摘するのは気が引ける。完成しないのは困るけど、催促をしたところで出来ないときは出来ない。これはそういうものだ。

……でも、可能な範囲で果南ちゃんの力になりたい。


梨子「それなら、いいんだけど……何か困ってることとかあれば言って欲しいな」

果南「ん……。困ってる……こと、か……」


果南ちゃんはそれこそ回答に困ったように、目を泳がせていたけど、


果南「……えっと……あのさ」

梨子「うん」

果南「……梨子ちゃんは、作曲のとき、どういう風にメロディを思いつく……?」


意を決したように、そう訊ねてきた。


梨子「……どう……か」

果南「作詞と作曲だとちょっと違うかもしれないけど……」

梨子「つまり……インスピレーションを感じる瞬間ってことだよね」

果南「そんな感じかな……」

梨子「そうだなぁ……」


私は少し考えてみる。自分が今まで作ってきた曲たち。そのメロディがどこから来たのか。


梨子「…………」

果南「……ご、ごめん、こんなこと急に聞かれても難しいよね……」

梨子「──……海の音」

果南「……え?」

梨子「……内浦に越してきて、千歌ちゃんと、曜ちゃんと、初めて潜った海の中で……音が聴こえたの」

果南「…………海の……音……」

梨子「果南ちゃんが教えてくれたことだよ」


千歌ちゃんに強引に連れていかれて、訪れたこのダイビングショップで言われたこと。

──『水中では人間の耳には音は届きにくいからね。ただ、景色はこことは大違い。見えてるものから、イメージすることは出来ると思う』──


梨子「あの言葉を聞いて……私は、見失っていた音を、また見つけられた」


千歌ちゃんが、曜ちゃんが──果南ちゃんが居たから、また見つけられた。


果南「梨子ちゃん……」

梨子「あれ以来、曲を作るときに、無理して音を聴こうとしなくなったかも……」

果南「聴こうとしない?」

梨子「イメージというか……心に浮かんだものを大事にするというか……」

果南「…………心に浮かんだものを……大事に……」

梨子「……って、これじゃ答えになってないよね……えっと、感動したときとか、心が動いたときに……聴こえる気がするんだ。音楽が」

果南「…………そっか」

梨子「その……これで作詞のヒントになったかな……?」

果南「うん、ありがとう、梨子ちゃん。いい歌詞書くから、待っててね」


果南ちゃんはそれだけ言うと、再び机の上の参考書の山を漁り始める。

これがどこまで果南ちゃんの助けになれているのかはわからないけど……今は果南ちゃんを信じて待とう。

そう思いながら、私は再び手元の数学の問題集に視線を落とすのだった。





    *    *    *





……さて、その後も二人で勉強に励み──果南ちゃんが数学の勉強を始めようとして、さりげなく英語をお勧めするなんて一幕があったんだけど──ふと、気付いたときには、


梨子「……うわ……もう外真っ暗……」

果南「あ、ホントだ……」


完全に日が沈む時間になっていた。

時計を確認すると午後の6時になろうとしていた。


梨子「やっぱり、冬は日が落ちるのが早いね……」

果南「そうだね~」


もう高校生とはいえ、ここまで暗くなってくると親も心配する。そろそろ、お暇しようかと思ったところで気付く。


梨子「……あれ? 船の時間って……?」

果南「……あ」

梨子「や、やっちゃった……」


帰りの足のことを完全に忘れていた。淡島から本島への最終便は午後5時だ。


梨子「どうしよう……」

果南「ごめん……私がちゃんと気付いてれば……」

梨子「いや、果南ちゃんのせいじゃないよ……」


どう考えても私が悪い。自分の帰る時間くらい、自分で把握していなくちゃいけないことだった。

とりあえず、お母さんに電話して──スマホを取り出し、コールをしていると。

──ガチャ、という音と共に、急に果南ちゃんの部屋のドアが開く。


おじい「果南、飯の時間だぞ」

果南「ちょ、おじい……! だから、ノックしてって言ってるじゃん!」


顔を顰める果南ちゃんを無視するように、おじいちゃんの視線はスマホを耳に当てている私に注がれる。


おじい「なんだ、まだ居たのか」

果南「ああ、えっと……帰りの船の時間すっかり忘れちゃっててさ……。おじい、船出せる……?」

梨子「え、い、いや……それは悪い……けど……」


確かにそうしてもらわないと帰れない。耳に当てたスマホから呼び出し音を聞きながら、悩んでいると、


おじい「別に、船は出さんでもいいだろ」

果南「……なんで?」


果南ちゃんがおじいちゃんの言葉に首を傾げる。私も頭に疑問符が浮かぶ。船以外で帰る方法ってあったっけ……?

ちょうどそのタイミングで、


梨子ママ『──もしもし? 梨子?』


電話が繋がる。


梨子「あ、お母さん? 実は──」

おじい「梨子」

梨子「は、はい!?」


お母さんに説明しようとしたところで、おじいちゃんに名前を呼ばれて変なトーンの返事になってしまった。


果南「ちょっとおじい……梨子ちゃん、電話中……」

おじい「今日は泊まっていけ」

梨子「……え?」

おじい「飯が冷める。早く来い」


それだけ言うと、おじいちゃんはリビングの方へと戻っていってしまった。


梨子ママ『梨子? 今日は泊まるの?』


おじいちゃんの声が聞こえていたのか、お母さんが問いかけてくる。


梨子「あ、うん……そうみたい……」

梨子ママ『そうみたいって……』

梨子「淡島で船逃しちゃって……今、果南ちゃんのおじいちゃんが今晩は泊めてくれるって言ってくれたから……」

梨子ママ『あら、そういうこと……。わかったわ、ご迷惑お掛けしないようにね』

梨子「うん、わかった」


通話を切ると、果南ちゃんと目が合った。


果南「梨子ちゃん……急に泊まりって、大丈夫?」

梨子「うん。お母さんも納得してくれたから……むしろ、ごめんなさい……迷惑じゃないかな……?」

果南「いや、私は全然構わないけど……」


果南ちゃんは頭を掻きながら、


果南「おじい……いつも勝手に決めちゃうんだからなぁ……もう」


溜め息を吐く。

確かにちょっとびっくりはしたけど……お仕事が終わったあとなのに、船を出してもらうのも申し訳なかったから、双方の保護者から宿泊の許可が下りたのはありがたいかもしれない。

……もちろん、泊めてもらうことに対する申し訳なさは別にあるけど。


果南「とりあえず……ごはん食べに行こうか。あんまり待たせると、またおじいがうるさいから」

梨子「うん、わかった」


というわけで、期せずして私は果南ちゃんの家にお泊りする運びになったのだった。





    *    *    *





梨子「……………………」

果南「~~~♪」


──どうしてこうなったんだろう。

私は一人体育座りをしながら縮こまる。


果南「梨子ちゃ~ん」

梨子「!?/// ひゃいっ!?///」

果南「? えっと……お湯加減どうかなって聞こうと思ったんだけど……」

梨子「え、えっと……/// うん、ちょうどいいかな……///」

果南「そっか、よかった。~~~♪」


再び、鼻歌を歌いながら、果南ちゃんは髪を洗い始める。

──そう、ここはお風呂だ。果南ちゃんの家の浴室。

そして、何故か私は、果南ちゃんとお風呂に入っている。

どうしてこうなってしまったんだろうか。

……もう一度思い返してみよう。

お母さんに連絡をして宿泊許可をもらったあと、すぐに夕食をいただいた。

お昼に続いて、おじいちゃんが作ってくれた磯料理に、大変満足した。それはもう美味しい夕食だった。

でも、そんな印象的な食事をはるかに超える大事件が発生している。

先にお湯をもらっていいと言われたから、身体を洗って……湯舟に浸かったそのときだった。

何故か果南ちゃんが『入るねー』と言って侵入してきたのだ。全裸で。

──いや、そりゃお風呂場だから全裸だと思うけど……。


果南「~~~♪」

梨子「………………ぷくぷくぷく///」


たっぷりお湯の張られた湯舟の中で、縮こまるようにして肩まで……というかもはや顔すら半分くらいお湯に浸かっている。

だって、どうすればいいの……この状況。

果南ちゃんの方も見ることも出来ず、一人湯舟に浸かったまま前方を凝視する私。


果南「よし♪ じゃあ、私も湯舟に……って、あ、ごめんね。もう詰めてくれてたんだ」


とにかく落ち着くんだ、私。果南ちゃんが身体を洗い終わるまでに何か考えて──


果南「よいしょっと……」

梨子「……!?///」


気付いたら、前方に果南ちゃん。


梨子「か、か、かな……かな……///」

果南「? どうかした……?」

梨子「……っ!!///」


出来るだけ果南ちゃんの方を見ないように顔を伏せる。

膝とかぶつかっちゃってるし……。


 果南『やっぱり、二人で入ると狭いかな……?』


狭いと思うよ! 心の声に従っていいんだよ!


 果南『まあ……いっか。ぶつかる膝もお風呂の醍醐味だよね♪ それにしても、梨子ちゃんやっぱり肌綺麗だよね……すべすべだし』

梨子「…………ぅぅ///」


もう、ダメだ。恥ずかしすぎておかしくなる。先に出よう。そうだ、最初からそうすればよかったんだ。

湯舟から出ようと思ったそのとき、


 果南『……でも、誰かとお風呂なんて、久しぶりだなぁ……』


テレパスで伝わってくる心の声。


 果南『千歌とは数えきれないくらい一緒に入ったし……曜ちゃんとも、たくさん泳いだあとは一緒にお風呂に入ったよね。ダイヤは水たまりで転んじゃったときとか、母さんが服を洗ってる間にお風呂で慰めてあげてたっけ』

梨子「…………」

 果南『鞠莉は……こっちに戻って来てからもたびたびお風呂に侵入してきてたっけ……。ホントどこからともなく現れるんだもんなぁ……おじいも止めてよ。……まあ、もう最近はなくなったけど……』


ああ、もう……。


 果南『こうして……誰かとお風呂……嬉しいな』


聞かなければよかった……。こんな心の声、聞いちゃったら……いくら恥ずかしくても、出るに出られないよ。


果南「~♪」
 果南『~♪』


恥ずかしさに耐えながら、身を縮こまらせると、楽しそうな歌が頭の中にまで響いてくる。

チラリと果南ちゃんの方を見ると、目を瞑って楽しそうに鼻歌を歌っているようだ。


梨子「果南ちゃん、お風呂好きなんだね」

果南「ん? ああいや……」
 果南『……特別好きってほどでもないんだけどな』

梨子「楽しそうだから……」

果南「まあ、ね。梨子ちゃんが一緒に入ってくれてるからかな」
 果南『梨子ちゃんと一緒だからかな……私ちょっと浮かれすぎかも』

梨子「そ、そっか……///」


そんなこと他意なく想わないで欲しい。というか、口にも出してるけど……。


梨子「……皆とは一緒にお風呂入ってたの?」

果南「そうだね、ちっちゃい頃はよく一緒にお風呂で遊んだよ。千歌も曜ちゃんも、鞠莉もダイヤも……」
 果南『ダイヤは遊んだというよりも、ずっと泣いてることが多かったから、『大丈夫だよ』って慰めてあげてたことが多かったけど』

梨子「……そうなんだ」


なんだか、私の知っているダイヤさんとは随分違う印象を受けるけど……。

ふと、私はAqoursの皆の小さい頃を全然知らないことに気付く。

目のやり場にも困っているし、聞いてみようかな……話していれば気も紛れるし、いい話の種だよね。


梨子「ねぇ、果南ちゃん。Aqoursの皆って、小さい頃はどんな子だったの?」

果南「どんな……か」

梨子「果南ちゃんは皆と幼馴染だから……詳しいかなって」

果南「そうだなぁ、千歌は昔も今と変わらず元気な子だったよ。今に比べるとちょっと怖がりだったかもしれないけど」
 果南『海に飛び込むのも最初は怖くて出来なかったんだよね、千歌』

梨子「そうなんだ……怖がりだったのは意外かも」


千歌ちゃんと言えば怖いもの知らずってイメージだし……。


果南「小さい頃は、『果南ちゃん果南ちゃん』ってずっと後ろをついてくる子だったなぁ……。物心ついたときから一緒に居たからなんだろうけど」
 果南『ただ、小学校上がるくらいまで、おねしょ癖が治らなくて、私の部屋にたびたび布団を隠しに来る困った子でもあったけどね……』


おねしょ癖……小学校上がるまで治らなかったんだ……。


果南「私にとっても千歌は妹って感じでさ。お互い家業があるせいか、お休みの日は大抵一緒に海で遊んでたからね。遊び終わったあとは、二人でお風呂に入って大騒ぎだったよ」
 果南『二人でシャンプー使ってお風呂場を泡だらけにして、母さんに叱られたこともあったっけ……懐かしいな』

梨子「ふふ……楽しそう」

果南「そうだね……千歌とのお風呂は楽しかったな。千歌に比べると曜ちゃんは大変だったかも」
 果南『曜ちゃんは今でこそ、周りをよく見てるしっかり者なんだけどね……』

梨子「え、曜ちゃんが?」


曜ちゃんも元気なタイプではあるけど……千歌ちゃんに比べたらまだ大人しいような……?


果南「ちっちゃい頃の曜ちゃんって負けず嫌いでさ、会うたびに水泳とかかけっこで競争したがって……」

梨子「へー……それも意外かも」

果南「小さい頃の1歳って大きいからさ。年上の私が圧勝しちゃうんだけど……自分が勝つまで何度でも挑戦してきて」
 果南『特に千歌が見てるときは、大変だったなぁ……。曜ちゃん、千歌の前ではかっこつけたがる子だったから……』

梨子「負けてあげたりしなかったの?」

果南「もちろん手加減してあげたこともあったけど……手加減すると曜ちゃん怒るから」
 果南『何故か手加減すると絶対バレるんだよね……周りを観察する能力は昔からあったのかも』


曜ちゃんって、器用で何やっても上手なイメージだから、負け続きで悔しがっている姿って想像できないかも……。


果南「手加減も出来ず全力で勝負し続けても、結局負けないからさ……日が暮れるまで競争して、くたくたになりながらお風呂に入ることになるんだよね」
 果南『涙目で口をとんがらせた曜ちゃんの髪、いっつも洗ってあげてた気がするなぁ……。いつか、曜ちゃんも足が速くなるからって言うと、ちっちゃい声で『……うん』って頷いて……千歌とは違うタイプの可愛さだったかも』

梨子「ふふ、曜ちゃんも昔は子供っぽかったんだね」

果南「そりゃそうだ。実際に子供だったからね。……次は、ダイヤかな。ちっちゃい頃のダイヤってホントに気が弱くて、すぐ泣いちゃう子だったんだよね」
 果南『……というか、これ梨子ちゃんに言っていいのかな。……ま、いっか』

梨子「想像できない……」

果南「ついでに……よく転ぶ子だったかな。一緒に遊んでるとき、水溜まりで転んだり、海とか川に落ちちゃったときは、もう大体大泣きでさ。『お母さまにしかられる』って。泣いてるダイヤを家まで連れてきて、服を洗濯してあげてさ、その間にお風呂に入りながら、ダイヤが泣き止むまでハグしてあげて……」
 果南『昔のダイヤは甘えんぼだったかもしれないなぁ……今もあれで寂しがり屋で甘えんぼなところはあるんだけどね』

梨子「ダイヤさんも……果南ちゃんにとっては、妹みたいな子……だったんだね……」

果南「あはは、言われてみればそうかも」
 果南『誕生日的には私の方が遅いんだけどね』

梨子「あとは……鞠莉ちゃん……?」

果南「あー……鞠莉はね……。気付いたら家出してきて、私の家のお風呂に居たこととかあったんだよね」
 果南『家出って年齢じゃなくなっただけで、気付いたら私の家のお風呂に入ってくるのは最近までそうだったけど……』

果南「自分の家にもっといいお風呂があるのに、なんでわざわざ私の家で入るのか……」
 果南『ま……相手して欲しかったんだろうけど。鞠莉、あれで結構寂しがり屋だし』

梨子「……そっか……」

果南「あと、鞠莉はお風呂が長いんだよね……鞠莉のペースにあわせてたらのぼせちゃうよ」
 果南『なんであんなに長風呂しても平気なんだろう……鞠莉はお風呂慣れとか言ってたけど』

梨子「……うん……」

果南「でも、淡島に住んでいても……いつでも会える鞠莉が居たのは、素直に嬉しかったかな……。泊まりに来てくれることも多かったし……」
 果南『鞠莉はいつも私のことを大切に想ってくれていて……本当に大切な友達で』

梨子「…………」

 果南『だから……あのときの鞠莉は……あのときの鞠莉の言葉が……今でも……』

梨子「…………」

果南「……? 梨子ちゃん?」

梨子「……………………」


果南「……梨子ちゃん!?」

梨子「………………ぇ…………?」


気付けば、頭がぼんやりとしていて、果南ちゃんの言葉がふわふわと頭の中で響いている。


果南「梨子ちゃん!?」
 果南『もしかして、のぼせてる……!?』

梨子「………………」


──ああ、私……のぼせちゃってるんだ。また……果南ちゃんに……迷惑、掛けちゃう……かも……。





    *    *    *





「梨子ちゃん……!」
 『まずい……! 完全にのぼせてる……! とにかくお湯から出さなきゃ……!』

「ちょっとごめんね!」
 『感傷に浸ってる場合じゃなかった……! 何やってるんだ、私……!』

「……っ゛!?」
 『あ、足が……っ。い、痛い……っ』

「……ぐ……っ……!」
 『何……っ……!? 刃物でも……踏んだ……?』

「……っ……!」
 『今度は……目が……痛い、何……これ……っ』


「ん……ぅ……果南……ちゃん……」


「……っ……梨子ちゃん、大丈夫……今、お風呂から、出るから……」
 『踏ん……張れ……っ……!』


「……かなん……ちゃん……────」





    *    *    *





梨子「──……ん、ぅ……」


──目を覚ますと、見慣れない木目の天井が見えた。


梨子「……あれ……私……」


ぼんやりする頭で辺りを伺おうとすると、おでこの上から濡れたタオルが落ちる。


果南「あ、梨子ちゃん……気が付いた……?」


声のする方に顔を向けると、果南ちゃんが私の顔を覗き込んでいた。


果南「大丈夫? 気分悪くない?」

梨子「果南ちゃん……私……?」

果南「梨子ちゃんお風呂でのぼせちゃったみたいで……」

梨子「……あ」


だんだん思い出してきた。私お風呂でのぼせて気を失っちゃったんだ……。

冷静に自分の状態を確認してみると、手首や首筋にも濡れタオルが当てられている。果南ちゃんが処置をしてくれたということだろう。


梨子「ご、ごめんなさい……! 私……!」


起き上がって謝ろうとし──頭がくらくらして、思わず片手で頭を押さえてしまう。


果南「ああ、ダメだよ無理しちゃ……」

梨子「……ごめんなさい……高校生にもなって、お風呂でのぼせるなんて……」

果南「うぅん、私の方こそごめんね、気が付かなくて……」


言いながら、果南ちゃんは私の頭を優しく撫でる。


 果南『……でも、大事に至らなくてよかった……』

梨子「……ありがとう、果南ちゃん。お風呂から運んでくれたんだよね?」

果南「お礼を言われるようなことじゃないよ……それより、新しいタオル取ってくるから待っててね。あと、そこにお水があるから、水分補給してね」


果南ちゃんはそう言って、パタパタと部屋から出ていく。


梨子「はぁ……果南ちゃんに迷惑掛けちゃった……」


言われたとおりベッドのすぐそばにコップと水の入ったピッチャーが置いてあったので、とりあえず水分補給をしながら溜め息を吐く。

それにしても、高校生にもなってお風呂でのぼせるなんて、我ながら情けない。

記憶はないけど、湯舟で気を失った私を果南ちゃんが抱えて、部屋まで運んできてくれたのだろう。

そこで気付く、


梨子「……あ……///」


──つまり、裸の状態の全身を見られたということ。


梨子「……ぅぅ……///」


緊急事態だっただろうし、きっと果南ちゃんもそれどころじゃなかったとは思うけど、急激に恥ずかしくなってくる。

……というか、


梨子「服……これ、パジャマかな……」


今更気付いたけど、私は薄いピンク色のシャツタイプのパジャマを身にまとっていた。

最終の連絡船を逃して、急遽決まったお泊りなので、当然私はパジャマなんて持ってきていない。恐らく果南ちゃんのパジャマだろう。そういえば、果南ちゃんも同じようなシャツタイプの水色のパジャマを着ていた気がする。

……つまり。


梨子「果南ちゃんに……着替えまで……///」


情けないやら、恥ずかしいやらで、頭が再び熱を帯びていく。

……いや、それだけじゃない。


梨子「か、果南ちゃんのパジャマ……着てる……///」


なんだか、果南ちゃんに包まれている気がして──って、私何考えてるの……!?

しかも、考えてみれば私が寝かしつけられていたこの場所も、果南ちゃんのベッドだ。

意識してしまったらもうダメで、ベッドからもパジャマからも果南ちゃんの匂いがする気がして、頭がぐるぐるしてくる。

いや、でも脱ぐわけにいかないし……。


梨子「うぅ……///」


赤面しながら、ベッドの上で身を縮こまらせていると、


果南「タオル持ってきたよ……って、梨子ちゃん!? 大丈夫!?」


戻ってきた果南ちゃんが心配そうな声で駆け寄ってくる。


梨子「あ、いや……/// 大丈夫……///」

果南「いやでも、顔真っ赤だよ!? まだやっぱり、熱が引いてないんだね……今冷やすから……」


そう言って、私の首筋に新しい濡れタオルを当ててくれる。……あ、気持ちいいかも。


果南「よしよし……そのまま、しばらくじっとしてるんだよ?」
 果南『落ち着いたらタオルは外さないとかな……冬だし、体が冷えちゃってもいけないから』

梨子「う、うん……///」


横になったままの私の頭を、ぽんぽんと撫でたあと、果南ちゃんは床に腰を下ろす。

……いや、正確には床に敷かれた布団にだけど。

気付けば、勉強に使っていた机は片づけられていて、そこには敷布団が敷かれていた。

お客様用の布団だと思う。


梨子「あ、あの……果南ちゃん……」

果南「ん?」

梨子「私、お布団で寝るよ……? ベッドは果南ちゃんが……」

果南「ダメ。梨子ちゃんはお客さんなんだし」

梨子「でも……」

果南「それに、ただでさえのぼせて調子も悪いんだから、ベッドでゆっくり休んで欲しいな」

梨子「……わ、わかった……」


果南ちゃんが普段ここで寝ているって考えたら、恥ずかしくて寝付けそうにないんだけど……。

まあ……そんなこと果南ちゃんに言えるわけもないからしょうがないか……。

ぼんやりとベッドに転がったまま、壁に掛けてある時計に目をやると──時刻はそろそろ午後9時になろうとしている。

横になったまま、じっとしていると、目が合った果南ちゃんがニコっと笑顔を向けてくる。


梨子「……///」

果南「大丈夫だよ、ちゃんとここにいるから」

梨子「う、うん……///」


まるで小さい子を落ち着かせるときのような、優しい口調。

まだ熱に浮かされているのか、果南ちゃんの優しい声を聞いていると、また頭がくらくらしてくる。

……恥ずかしいのに、目が逸らせない。

私……最近ずっとこんな調子だ。この間からずっと、果南ちゃんを意識して──


梨子「…………っ///」


考えを振り払うように、ぎゅっと目を瞑った。


果南「ん……もう寝ちゃう?」

梨子「…………///」


何度も自分に言い聞かせているけど、果南ちゃんに他意はないんだ。

それに、私の気持ちだって……──きっと、これはただの憧れ。

恋人が出来た二人の親友を見て、私も同じように素敵な恋がしたいと、そんな想いが生んだ憧れから、変な期待をしてしまっているだけだ。


果南「ふふ……おやすみ、梨子ちゃん」

梨子「…………///」


だから、私はぎゅっと目を瞑る。

周りが恋をしているから、私も身近な果南ちゃんを好きになるなんて……果南ちゃんに失礼だよ。

だから、目を瞑る。

少しでも意識をしないように。果南ちゃんとの距離感を、壊さないように──





    *    *    *





「──ん……」


真夜中に何かが動く気配を感じて、少しだけ意識が覚醒する。

目を瞑ったまま、ぼんやりと思考を巡らしていると、その気配は、布団から這い出る音のあと、部屋から静かに出て行った。

──恐らく果南ちゃんがお手洗いに行っただけだとわかると、私の意識は再び混濁を始める。

ぼんやりとする意識の中、息をしていると、果南ちゃんの匂いがする……。

果南ちゃんのお部屋と果南ちゃんのベッド……。

……この匂い……落ち着く……な……。

……………………。

………………。

……。

──ガチャ。


「……んー……」


…………。

もぞもぞ。

──……何かがベッドに入ってくる気配がした。


「……はぐぅ……」


………………。……はぐぅ……?


梨子「…………え……?」

果南「…………んぅ…………」

梨子「……………………。………………!?///」


一気に意識が覚醒する。それと同時に、認識した。

背中側から、果南ちゃんに──ハグされてる。


梨子「え、あ……?/// ま、ちょっと……え……!?///」

果南「……んぅ……」
 果南『……はぐぅ……』


いや、はぐぅ……じゃなくて!!


梨子「か、かなんちゃ……!!///」


寝ぼけた果南ちゃんが間違ってベッドに侵入してきていた。

私は身をよじるものの、


果南「……んー…………ダメ……」


思った以上に強くハグされていて、こんな弱い抵抗じゃ、全く逃げ出せない。


 果南『いい……匂い……する……』

梨子「!?///」


テレパスで余計な情報が飛んできて、一気に顔が熱くなる。


梨子「か、果南……ちゃん……///」


逃げることも敵わず。


梨子「ぅぅ……///」


抱きしめられたまま、為すすべもなく、ただただ顔を熱くする。心臓がうるさい。ドキドキドキドキ。このまま、破裂してしまいそうだ。


果南「………………ん……ぅ……」

梨子「…………///」


これは事故。事故なの、それだけ。落ち着いて、私。そう落ち着いて。

自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、


果南「…………すぅ……すぅ……」


首筋に当たる果南ちゃんの寝息を嫌でも意識してしまう。


梨子「うぅ……///」


どんどん強く速くなっていく心臓の鼓動は、それだけで果南ちゃんを起こしてしまうんじゃないかという気さえしてきた、そのときだった──


 果南『…………ま……り……』

梨子「……え」


果南ちゃんが心の中で呼んだのは、私じゃなくて──鞠莉ちゃんだった。


梨子「………………」


私、何ドギマギしてるんだろう。果南ちゃんに他意がないことは、ずっと自分に言い聞かせていたはずなのに。

急激にクールダウンする頭の中で、次に響いてきたのは、


 果南『…………まり……ごめん……』


謝罪の言葉だった。

果南ちゃんは、夢現の中、鞠莉ちゃんに謝罪をしていた。

どうして、私を鞠莉ちゃんと間違えているか……少し考えてみて、そういえば果南ちゃん、鞠莉ちゃんが泊まりに来てくれることも多かったと言っていた気がする。

曜ちゃんと付き合い始めて、今でこそそういう機会はなくなってしまったんだろうけど……寝ぼけたままだったから、勘違いしてしまったのかもしれない。

お陰で少し冷静になれたけど……正直、複雑な気分……。

……でも、どうして果南ちゃんは謝ってるんだろう……? それを疑問に思っていると、


 『──ゆーあーざわんふーずうぃーど──』


エコーの掛かったような、ぼやけた英語が頭の中に響いてくる。


 果南『……おこらせて……ごめん……ね……』

梨子「…………」

 『──……集中できないから、話しかけないで』

 果南『…………。……ごめん』

梨子「…………これ……もしかして……果南ちゃんの、夢……?」


思わず呟く。

寝ているときの果南ちゃんに触れたことはなかったけど……もしテレパスが頭の中に浮かんだものを伝達しているのであれば、寝ているときは夢で見ている音や思ったことが伝わってきていても、変なことではないのかもしれない。

どっちかというと、テレパス自体が変なことなわけだし……。


 果南『今の鞠莉……怖いよ……──』

 『──果南には、関係ない』


冷たいトーンの言葉が頭に響く。


 『果南には、関係ない』


私は心の声を聞いているだけのはずなのに、胸が締め付けられるような気持ちになる。それくらい冷たい、敵意さえ感じる声。

10月頭くらいに、鞠莉ちゃんが酷く調子を崩していたときのことを、夢に見ているのかな……。

結局、あれから数日して、鞠莉ちゃんはAqoursメンバー全員に頭を下げて謝罪をし……それで一件落着だったと記憶はしてる。

だけど、どうして鞠莉ちゃんがあんな態度を取っていたのかは結局わからず仕舞いだった。


 果南『鞠莉……ごめん。鞠莉が何考えてるのか……わからないよ……』

梨子「…………」


果南ちゃんは気丈に振舞ってこそいたものの……もしかしたら、あのときのこと、ずっと悩んでいたのかもしれない。


 果南『でも、鞠莉……私は、鞠莉の味方だよ』
果南「……ま、り……」

 『果南には、関係ない』

梨子「……っ」


頭の中に響き続ける、鞠莉ちゃんの冷たい声。

思わず、私を抱きしめて胸の辺りに回されている果南ちゃんの手をぎゅっと握る。


 果南『ねぇ……鞠莉……私は、鞠莉の味方だよ……鞠莉の気持ちを教えてよ……』

 『果南には、関係ない』

 果南『……っ……どうして……どうして、伝わらないのかな……』

梨子「……果南ちゃん……」

 果南『…………いつもそうだ……。……私の気持ちは……伝わらない……』

 『果南には、関係ない』

 果南『……………………私の気持ちは……いつも……──』

梨子「伝わってるよ……!」

 果南『…………え……』

梨子「果南ちゃ……果南の気持ち……マリーには伝わってるよ」

 果南『鞠莉……ホント……?』

梨子「もちろんだよ。……果南が私のこと大切に思ってくれてることくらい、わかってるんだから」

 果南『そっか……。……そっか……良かった……』
果南「……よか……った…………。……まり…………。…………すぅ……すぅ……」

梨子「…………」


小さく鞠莉ちゃんの名前を呼んだのを最後に、果南ちゃんは再び穏やかな寝息を立て始めた。テレパスもそれを最後に聞こえなくなったことから、恐らく深い眠りに移行したんだと思う。

私は、


梨子「……果南ちゃん……大丈夫だよ、私は……果南ちゃんの気持ち、ちゃんとわかるから……」


果南ちゃんの手をぎゅっと握りしめながら、そう言葉にする。

テレパス。正直得体の知れない現象だと今でも思っている。だけど、今はこの力があってよかったと、私はそんなことを思った。

果南ちゃんは上手く自分の気持ちを言葉に出来ないから、なら……それなら、


梨子「私が……果南ちゃんの心に、耳を傾けるよ……」


ぎゅっと、手を握って、私は目を瞑った。果南ちゃんの気持ちを感じられるように、ぎゅっと……ぎゅーっと、手を握ったまま……。





    *    *    *





「……ん……ぅ……?」
 『……あれ…………なんだろう……………………?』

「……わ、わぁ!?///」

「え、なんで梨子ちゃんが一緒に……!? ……も、もしかして私……トイレから戻ってきたあと、入る布団間違えて……///」

「あーもー……!/// 恥ずかしいなぁ……/// り、梨子ちゃんにはバレてないかな……?」


「……すぅ…………すぅ…………」


「……気持ちよさそうに寝てる……。……これだけ寝入ってるなら、大丈夫……かな……?」

「……ふふ、それにしても、可愛い寝顔だなぁ……。……朝の仕事してくるから、梨子ちゃんはゆっくり寝ててね」


「……ん、ぅ……かなん……ちゃん………………」


「ふふ、名前呼んじゃって……千歌みたい。……行ってくるね」


「…………すぅ…………すぅ…………」


「……いたっ……。……また、足が……もう、なんなんだろう……これ……」





    *    *    *





梨子「……ん……」


──ぼんやりと目を開けると、自分の部屋ではない天井が見える。

果南ちゃんの家に泊まったこと思い出して、


梨子「……はっ!?///」


バッと跳ね起きて、隣を確認すると、そこはすでにもぬけの殻だった。

どうやら、果南ちゃんは先に起きて部屋を出て行ったらしい。

週末は忙しいって言っていたし……今日も朝早くから仕事をしているんだと思う。

部屋にある時計に目をやると、そろそろ朝の7時になろうという頃合。

昨日はかなり早い時間に眠ってしまったけど、夜中に目が覚めてからはいろいろ考えてしまって、全然寝付けなかったので、その分と考えればちょうどいいくらいかもしれない。

ベッドから出ようとしたときに、枕元に私の服が綺麗に畳まれているのに気付く。

恐らく先に起きた果南ちゃんが用意しておいてくれたのだろう。

着替える前に一旦部屋から出て、洗面所を借りて顔を洗う。

顔だけ洗ったら、戻ってきて手早くパジャマから着替え、借りたパジャマは畳んでベッドに置いておく。

出来れば自分で洗濯してから返したいとは思うけど……そこは果南ちゃんに確認を取ってからかな。

あまり人様の家であちこちうろちょろも出来ないので、とりあえずリビングに行くと──おじいちゃんが新聞を読んでいるところだった。


梨子「お、おはようございます」


おじいちゃんは私が挨拶をすると、こっちを見てから、


おじい「……ん」


軽く相槌を打つように声をあげたあと、また新聞に視線を戻す。

相変わらず反応は淡泊なものの、一応認識はしてもらったからいいとして……これから、どうしようかな。

部屋に戻るか、リビングでおじいちゃんと一緒に果南ちゃんを待つか……と、考えたものの、ふと前に果南ちゃんが、朝仕事をしてからおじいちゃんと自分の二人分の朝食を作っているという話をしていたことを思い出す。


梨子「あの……果南ちゃんはお仕事ですよね……?」

おじい「……ああ」

梨子「えっと……キッチン、借りてもいいですか?」

おじい「……ああ」

梨子「あ、あと食材も……」

おじい「……好きにしろ」

梨子「あ、ありがとうございます」


おじいちゃんに許可を貰ってから、冷蔵庫を開ける。


梨子「卵と……ベーコン。あとはレタスとプチトマトか……」


その日その日でお魚を調達して食べているせいなのか、松浦家の冷蔵庫に入っているものは少なかった。

まあ、二人しか住んでないしね……。


梨子「あとは……昨日のご飯が炊飯器に余ってるよね……」


ついでにコンロの上にあるお鍋を確認したら、中にお味噌汁が結構な量残っていた。これなら三人分は十分足りるだろう。

最初から今日の朝ごはんで食べるために、少し多めに作っていたのかもしれない。


梨子「……この食材だと……簡単なサラダと、卵料理……目玉焼きでいいかな」


たまご焼きも考えたけど、我が家は甘いたまご焼きなのに対して、松浦家は出汁巻き卵だ。

果南ちゃんはともかく、おじいちゃんは出汁の方が好きな気がするし、その上で果南ちゃんの作るあの出汁巻き卵には敵わないので、卵は目玉焼きにする。

……まあ、目玉焼きは料理って言うほどじゃないけど……。

フライパンに油を引きながら、私は三人分の朝ごはんの準備を始めるのだった。





    *    *    *






果南「ただいま、おじい」

おじい「……ああ」


その後、果南ちゃんが戻ってきたのは、目玉焼きを完成させて、サラダをお皿に盛り合わせているときだった。


果南「梨子ちゃん、おはよう」

梨子「おはよう、果南ちゃん」

果南「もしかして、朝ごはん用意してくれてた?」

梨子「うん、簡単なものしか作れなかったけど……」

果南「いやいや、助かるよ……朝の仕事のあと作るのって結構めんどくさいからさ」

梨子「ふふ、ならよかった。運ぶから、座って待ってて?」

果南「いいよ、手伝う」


果南ちゃんは、そう言いながら、食器棚からお茶碗とお椀を取り出す。


梨子「あ、お味噌汁はさっき温めなおしたよ」

果南「お、ありがと~。じゃあ、よそっちゃうね」


二人でテキパキと、朝食をリビングの机に運ぶ。

その間、おじいちゃんはずっと新聞を読んだままだったので、恐らく普段から朝食は果南ちゃんの担当でおじいちゃんは手を出していないということなんだろう。

──朝食の準備が整って、果南ちゃんと一緒に席につくと、おじいちゃんも新聞を畳む。


梨子・果南「「いただきます」」


果南ちゃんと声を揃えて、いただきます。

おじいちゃんも両手をあわせてから、小さな声でいただきますと呟いてから、目玉焼きに塩を振り始める。


果南「おじい、私も塩」

おじい「……ん」


おじいちゃんから塩を受け取って、果南ちゃんも目玉焼きに塩を振る。


梨子「果南ちゃんはお塩派なんだね」

果南「うん、これが一番シンプルで好きかなーって。梨子ちゃんは目玉焼きって何で食べてるの?」

梨子「あ、えーっと……普段はケチャップで食べてるかな」

果南「ケチャップかー。珍しいね」

梨子「よく言われる……」


そんなにケチャップって珍しいのかなって思うけど……。


梨子「いろいろ試してみて……ケチャップが一番好きだったから」


塩でも醤油でもソースでも、目玉焼きならおいしく食べることが出来るけど……いろいろ試した結果、私にはケチャップが一番しっくりきた、というだけの話だ。


果南「まあ、ケチャップくらいじゃ珍しくても驚かないけどね……もっと少数派の人が身近にいるし」

梨子「少数派……? 身近にってことはAqoursメンバー?」

果南「うん、千歌がね、白だし派なんだよ」

梨子「白だし……? そんな人いるんだ……」


そんな派閥初めて聞いたというくらい珍しい気がする。


梨子「そもそも家に白だしを常備してないし……」

果南「あはは、確かにね。うちにも白だしはあんまり置いてないからなぁ。千歌はよくお父さんに分けてもらってるって言ってたよ」

梨子「お父さん……そっか、板前さんだから」

果南「常備してる調味料の数や種類は、間違いなく普通のご家庭の比じゃないだろうね」


家柄的に、千歌ちゃんって意外とグルメなのかも……。

そんなことを考えながら、塩の入った小瓶を手に取ると、


果南「あ、ケチャップあるよ? 取ってくるね」

梨子「え、あ……そんな、いいよ。食べてる途中に……」

果南「むしろ、そんなところで遠慮しなくてもいいって、ちょっと待っててね」

梨子「う、うん……ありがとう」


もちろん、キッチンはすぐそこなので、果南ちゃんはすぐにケチャップを片手に戻ってくる。


果南「はい、ケチャップ」

梨子「ありがとう」


早速、受け取ったケチャップをかけて、目玉焼きを食べる。

……うん、やっぱり私はこの味が好きだな。


果南「あ、そうだ……おじい」

おじい「なんだ」

果南「朝の機材チェック、お願いしていい? 梨子ちゃんと勉強するからさ。今日もお客さん午後からだったよね?」

おじい「わかった」

果南「ありがと」


朝食を食べ終わったら、また二人で勉強。

……今日こそは、他の科目も勉強しないとね。そして、果南ちゃんにもしっかり勉強してもらわないと……。

そんなことを考えながら、私はお味噌汁を啜るのだった。

──あ、昨日よりも出汁が出ていて、美味しい……。





    *    *    *





──さて、勉強会二日目。


果南「…………むぅ……」


果南ちゃんが、英語の教科書を睨みながら、眉をハの字にしている。

しきりにこちらをちらちらと確認しているし……もう集中力が切れてきたんだと思う。

仕方ない……物理の教科書をパタンと閉じて、


梨子「……少し、休憩にしようか」


そう提案する。


果南「! う、うん! 梨子ちゃんもそろそろ集中力切れた頃かなって思ってたところだったんだよね!」

梨子「ふふ……そうかも」


見栄っ張りだなぁと感じながらも、なんだかそんな果南ちゃんも可愛く思えてきた。


果南「お茶と……何か軽く食べられそうなもの取ってくるね!」


嬉しそうにパタパタと部屋から飛び出していく果南ちゃん。

こういうところは千歌ちゃんとよく似ているかもしれない。さすが物心ついたときからの幼馴染だと言うだけはある。

──ほどなくして戻ってきた果南ちゃんは、お茶と……みかんの乗ったお盆を持ってきていた。


果南「……あはは、みかんくらいしかなかった」


恐らく、昨日曜ちゃんが持ってきてくれた回覧板と一緒に入っていたみかんかな。


果南「もうちょっと気の利いたお茶請けがあればよかったんだけど……」

梨子「うぅん、みかんも好きだから大丈夫だよ」


果南ちゃんから、みかんを受け取って、皮を剥く。

確か、みかんはヘタの付いていない方から剥いた方が綺麗に剥けるんだよね……。


果南「お、梨子ちゃん、みかんの剥き方がわかってるね」

梨子「千歌ちゃんに、こっちの方が綺麗に剥けるって教わったんだ」

果南「さすが千歌だね。みかんに関してはうるさいから……」

梨子「あはは、それは本当に」


普段から勉強嫌いなのに、みかんのことは普通の人が知らないような知識もたくさん知っている。その情熱が勉強にも向けられれば、ダイヤさんも苦労しないんだろうけどなぁ……。


果南「千歌も……ダイヤとみかん食べてるのかな」

梨子「……トマト食べてるかも」

果南「そっか……今はトマトよく食べてるもんね。昔はみかんだけ食べて生きてく、なんて言ってたのになぁ……」


果南ちゃんはみかんを口に運びながら、懐かしむように、


果南「……気付いたら……私の知らないところで、千歌が変わってく……」

梨子「…………」

果南「……あはは、ごめん。……私、最近こんなことばっかり言ってるね」

梨子「うぅん……」

果南「……千歌も……曜ちゃんも、鞠莉も、ダイヤも……皆変わってく……気付いたら、私の知らない皆が居て……」


果南ちゃんの表情が陰る。


果南「……あーダメダメ。これは良いことなんだから……もう、ダメだね私、昔のことばっかりで」

梨子「……果南ちゃん、無理しなくていいよ」

果南「……無理なんてしてないよ」

梨子「…………」

果南「だって、皆、今幸せそうだしさ……これでいいんだよ」

梨子「……。果南ちゃん、隣行っていい?」

果南「ん……いいけど」


私は食べかけのみかんを置き、果南ちゃんのすぐ隣に腰を下ろして、


梨子「果南ちゃん……寂しい?」


そう訊ねる。


果南「もう……だから、大丈夫だって」


嘘を吐くから、手を握る。


 果南『……本当は、寂しい』


知ってる。


梨子「大丈夫だよ、誰かに言ったりしないから」

果南「……い、いや、だから……平気だよ、私は」
 果南『……寂しいよ』

梨子「……いつもそばに居てくれた幼馴染だもんね。仕方ないよ」

果南「だ、だから……」
 果南『……そんなに寂しそうに見えるかな……』

梨子「……寂しそうだよ」

果南「……………………そっか」
 果南『……なんか、梨子ちゃんにはお見通しみたい……』

梨子「……口にするだけでも、気持ちが落ち着くかもしれないから……」

果南「………………。…………寂しい、な」
 果南『……寂しい』

梨子「……うん」

果南「皆……私の知らないところで変わってっちゃう……。それが、たまらなく……寂しい」
 果南『寂しい……寂しい……』

梨子「……うん」


何度も何度も、心が寂しいと呟いている。

そんな声を聞きながら、ぎゅっと手を握る。


梨子「……代わりにはならないかもしれないけど」

果南「……え」

梨子「……私がそばにいるね。えへへ……」

果南「…………梨子ちゃん──」


──不意に、果南ちゃんに抱きしめられる。


梨子「あ……っと……///」

果南「……ありがと……」
 果南『…………優しいな、梨子ちゃん』

梨子「うぅん……」

果南「なんでだろ……梨子ちゃんは、私の気持ち……わかってくれるんだね」
 果南『……なんか、安心する……』

梨子「……うん、わかるよ。果南ちゃんの気持ち……わかるよ」

果南「…………うん、ありがとう……梨子ちゃん」
 果南『…………温かいな……』


私は幼馴染にはなれないけど……せめて、少しでも寂しい気持ちを埋めてあげられるなら、それでいいと思った。

今の私には、それが出来るから。

今の私には──果南ちゃんの心が聴こえるから。

ぎゅっと抱きしめあっていると──くぅぅぅ~という情けない音がお腹の辺りから鳴る。しかも同時に二つ。


梨子「……///」

果南「あはは……気が合うね」
 果南『我ながら、よく鳴るお腹だなぁ』

梨子「もう……締まらないなぁ……///」

果南「お互い育ち盛りだからね。仕方ない。……みかんじゃ足りないから、お昼ごはんにしよっか」


そう言いながら、果南ちゃんは立ち上がる。釣られるように、私も立ち上がって──


果南「……いっづ……っ!!」


その瞬間、果南ちゃんが苦悶の表情を浮かべた。

そのまま、足を庇うように体勢を崩して、後ろに向かって倒れそうに──


梨子「果南ちゃん……!?」


私は咄嗟に手を伸ばして、果南ちゃんの腕を引いた。そのまま、勢い余って──……ドサッ。


 果南『いてて……』
果南「ごめん、梨子ちゃん……だいじょう……ぶ……」

梨子「え……っと……///」


気付いたときには、果南ちゃんの顔がすぐそこにあった。そしてその先にはピントの合わない部屋の天井がぼんやりと見える。

つまり──カーペットの上に押し倒されているような、そんな状態。


果南「!?///」


普段からスキンシップの多い果南ちゃんも流石に面食らったのか、珍しく顔が朱色に染まる。


梨子「か、かなん……ちゃん……///」


名前を呼ぶと、至近で、目が、逢った。


果南「りこ……ちゃん……///」
 果南『うわ……は、早く……どかなきゃ……』


あまりに距離が近くて、果南ちゃんの髪が顔にかかる。

果南ちゃんの匂いがして、頭がくらくらしてきた。


 果南『……やっぱり……梨子ちゃん……美人、だな……』

梨子「……果南、ちゃん……///」

果南『わ、私……何考えてるんだ……』
果南「梨子ちゃん……い、痛いところ……ない……?///」

梨子「うん……///」


私は身動ぎ一つ出来なかった。だけど、何故か果南ちゃんから目が離せない。

ただ、うるさいくらいの心臓の鼓動が、酷く心地いい。

果南ちゃんも──ドキドキしてるのかな……。


 果南『ドキドキしてる場合じゃない……早く、どかなきゃ……』


あ……。

同じだ。

心の声を聞いて、私は──


果南「!?///」


本能に突き動かされるまま、覆いかぶさる果南ちゃんの首に、腕を回した。


果南「りこ、ちゃ……!?///」
 果南『なにして……え……!?』

梨子「……かなん……ちゃん……わたし……果南ちゃんとなら……いい、よ……」

 果南『!? なにが!?』


そのまま、目を、瞑った……。


果南「あ……///」
 果南『……い、いいの……?』


少しずつ、果南ちゃんの気配が近づいてくる。


 果南『…………ダメだ……もう、わけわかんなくなってきた……』

梨子「……かなん……ちゃん……」

 果南『……いい匂いするし……頭……くらくらする……』


私もだよ……同じだね。


 果南『ホントに……しちゃう……よ……?』


いいよ。


 果南『………………梨子ちゃん』


気配でわかる。吐息を感じる。唇同士はあと……数センチ……。

──ガチャ。


おじい「果南、梨子、飯……だ、ぞ」

果南「………………」

梨子「………………」

おじい「すまん……」


──バタン。


果南「……………………」

梨子「……………………」

果南「………………………………」

梨子「………………………………」


果南ちゃんが、覆いかぶさった状態から、起き上がって、カーペットの上に座る。

私も、そろそろと起き上がって、カーペットの上にペタンと座った状態になる。


果南・梨子「「………………!?//////」」


頭がやっと状況を呑み込んだのか、二人してさっきの比じゃないレベルで顔が真っ赤に染まる。


果南「あ、あは、あははは……っ……///」


果南ちゃんが乾いた笑い声をあげる。無理もない。家族に見られて──ましてや祖父に見られて耐えられる羞恥じゃない。少なくとも私なら無理。自分が同じ立場だったら泣くかもしれない。

おじいちゃんにとんでもない瞬間を目撃されて、恥ずかしいのは私も同じはずなのに、果南ちゃんの気持ちを考えたら、妙に冷静になってしまう。


梨子「あ、あの……」

果南「梨子ちゃん」

梨子「は、はいっ!?」

果南「今の、事故」

梨子「は、はいっ!!」

果南「おじいに説明する」

梨子「う、うん」


果南ちゃんは混乱しすぎているのか、カタコト気味だけど、有無を言わせない迫力があって、思わず頷いてしまう。


果南「誤解、絶対、解く」

梨子「う、うん!」


果南ちゃんは壊れたロボットのように変な動きをしながら、部屋から出て行く。

私もそろそろとその後ろについて、リビングへ……。

どう説明するのか、全く見当も付かないけど……。……というか、


梨子「私も……どうか、してた……///」


小声で改めて、先ほどの自分の醜態を恥じる。

完全に雰囲気に流されて、おかしくなっていた。


果南「私、おじい、誤解、解く」


壊れたロボット果南ちゃんの後ろで、私は自分の唇を軽く指で押さえてみる。結局、まだ誰も触れたことのない唇のまま。でも──……果南ちゃんとなら……よかった……かも……。

何故かそんなことを考えていた。





    *    *    *





果南「だからね、おじい! さっきのは誤解で」

おじい「……ああ」

果南「いや、ああじゃなくて……ホントにそういうんじゃなくて……」

おじい「果南」

果南「な、何……?」

おじい「悪かった」

果南「だから、違うんだってばーーー!! ほら、梨子ちゃんも!」

梨子「えーっと……その……。さっきのは誤解で……」

おじい「すまん」

梨子「……」


おじいちゃん、もう完全に謝ってやり過ごすモードになってないかな……。触らぬ神になんとやらって感じ……。

頭を抱えながら、必死に誤解を解こうとする果南ちゃんを横目に見ながら、お昼ごはんの貝を口に運ぶ。

……美味しい。

ちなみに今日のお昼は牡蠣。お昼から、こんな高いモノ食べさせてもらっていいのかなと思いながらも、有難くいただいている。

明日からテストということもあり、さすがに生は控えてくれたらしく、焼き牡蠣だけど。


果南「おじい……」

おじい「すまん」

果南「……はぁ……もう、いいや」


果南ちゃんは肩を落としながら、焼き牡蠣を半ばやけ食い気味にパクパクと食べて、


果南「ごちそうさま……」


そのまま、席を立ってしまった。


果南「部屋、戻る……」


肩を落としたまま、ふらふらと自室に戻っていく果南ちゃん。

相変わらず、食べるのが速い……。いや、今回はあえてさっさと食べて食事を切り上げただけだろうけど。

私も早く食べちゃわないと……。気持ちペースをあげながら、牡蠣を口に運んでいると、


おじい「梨子」


先ほどまでノータッチを貫いていたおじいちゃんの方から、話しかけてきた。


梨子「え、は、はい……なんですか?」

おじい「果南を頼む」

梨子「……」


なんか、頼まれちゃった……。


梨子「あの、おじいちゃん……本当にあれは誤解というか、事故というか……」

おじい「それはどっちでもいい」

梨子「?」

おじい「……ああ見えて、あいつは寂しがり屋だ。その癖、それを口に出さん」

梨子「……」

おじい「しばらく傍に居てやってくれ」

梨子「……はい、わかりました」


今更だけど、おじいちゃんの言葉を聞いて、ああこの人はやっぱり果南ちゃんのおじいちゃんなんだ……と思う。

可愛い孫娘のことだもんね。心配なんだ。

そんなおじいちゃんに頼まれちゃったら──いや、頼まれなくてもだけど──ちゃんと果南ちゃんのそばに居てあげないとね……。

珍しく自分から口を開いたおじいちゃんだったけど、その後はまた無口に戻ってしまったので、二人して無言で牡蠣を黙々と食べながらも──私は改めて、果南ちゃんのそばに居たいという気持ちを再確認するのだった。





    *    *    *




果南「──さて……忘れ物はないかな?」


廊下で果南ちゃんにそう訊ねられて、改めて自分の持ち物を確認する。


梨子「……うん、大丈夫」

果南「よし、それじゃ行こうか」

梨子「ちょっと待って、果南ちゃん。その前に……」


私はリビングの方で相変わらず火の無い煙草を咥えているおじいちゃんに向かって、


梨子「お世話になりました」


頭を下げた。

おじいちゃんは声にこそ出さなかったものの、背中越しにひらひらと手を振ってくれた。


果南「それじゃ、行こっか」

梨子「うん」


──二人でダイビングショップを後にする。

外は冬ということもあり、すでに薄暗くなり始めている。

果南ちゃんの部屋を出る前に確認した時計は、午後の4時半くらいだったかな……。

今日は絶対に帰りの便を逃すわけにいかないので、最終便の午後5時に余裕をもって船着き場に向かっている。


果南「なんだかんだ、二日間みっちり勉強したねぇ……」

梨子「ふふ、そうだね」

果南「これでテストも良い点取れそうだよ」

梨子「うん。お互い頑張ろうね」


是非ともこの機会に良い点を取って、果南ちゃんには自信をつけてもらいたいし。

濃密だったこの二日間を反芻しながら、


梨子「……そういえば、パジャマ……本当に洗って返さなくていいの?」


訊ねる。パジャマは結局、洗って返すと申し出たものの、果南ちゃんにそんなことしなくていいよと言われてしまった。


果南「いいっていいって、むしろここまで返しに来るのも大変でしょ? わざわざ学校にパジャマ持ってくるのはお互い気まずいしさ……」

梨子「まあ……それもそうだね」


確かに学校でパジャマのやり取りをしているところを誰かに見られたら、変な噂になっちゃいそうだし……。

そんな話をしていたら、すぐに船着き場が見えてくる。家からそこまで距離もないしね。

ついでに、船着き場の向こう側には船の姿が見える。


果南「タイミングいいね。冬に船着き場で待つのって結構辛いから……」

梨子「あはは、確かに……」


桟橋の先だから、常に冷たい海風に晒されるしね……。

連絡船乗り場についたところで、


果南「それじゃ……気を付けて帰ってね」


果南ちゃんとの時間はここまで。


梨子「うん、またね。送ってくれてありがとう」

果南「送るってほどの距離じゃないけどね。……ねぇ、梨子ちゃん」

梨子「ん?」

果南「ハグ……していい……?」

梨子「……うん」


自分でも驚くほど素直に、果南ちゃんからのハグを受け入れる。

もしかしたら……ハグして欲しかったのかもしれない。


果南「……ハグ……っ」


ぎゅーっと抱きしめられて、私も自然と抱き返す。


 果南『梨子ちゃん……身体、冷えちゃってる……』


連絡船がそろそろ岸に着く。


 果南『なんか……離したくないな……』


それは、嬉しいけど……困っちゃうな……。


梨子「……果南ちゃん」

果南「……ん」

梨子「……また来るね」

果南「……うん」


そう伝えると、果南ちゃんは意外とすんなり離してくれた。

夕闇迫る船着き場に、連絡船が到着する。

これ以上、何かを喋るとなんだか離れられなくなっちゃいそうだから……そう思って、船の方へと歩を進める。


梨子「お願いします」


乗船券を見せて、船に乗り込んで──船内の窓から船着き場に目を向けると、上着のポケットに手を突っ込んだまま立っている果南ちゃんと目が合った。

すると、果南ちゃんはニコっと笑って手を振ってくれる。

だから、私も控えめに振り返す。

二人で手を振り合っていると、私しか乗船客の居ない連絡船は静かに動き始めた。


梨子「また……来るからね」


今まで何度も足を運んでいるはずなのに、今までで一番淡島から離れるのが名残惜しいと感じる船だった。

それくらい、この二日間。果南ちゃんと一緒に過ごした時間は楽しくて……なんだか、ドキドキした。

──そう、ドキドキしたんだ。


梨子「……」


もう喉元まで出かけているこの気持ちの正体。

でも、どうにかそれを呑み込んで、私は家に帰ります。

……また、明日からも残された二人としての時間を過ごすために──。





    *    *    *





──12月9日月曜日。

週が明けて、期末テストが始まる。本日から三日間、即ち水曜日までがテスト期間ということになる。

それぞれ一日四教科ずつ。本日二年生の試験科目は、英語、現社、国語、古文の四科目。

私としては二日目に数学、物理、化学と苦手な科目が固まっているので、問題は今日よりも明日だ。ちなみに二日目の残りの一つは保健体育。

三日目の科目は日本史、世界史、音楽、美術となっている。

期末テストは中間テストと違って、技術科目にもペーパーテストがあるため、対策しなくちゃいけないことが多い。……とは言っても、技術科目のペーパーは簡単なことが多いけど。

試験直前に軽く教科書を覚えておこうかな、などと考えながら教室に入ると──


千歌「──────」


千歌ちゃんが席に座って、何やらぶつぶつと呟いている。


梨子「千歌ちゃん、おはよう……?」

千歌「……ひっ、あ、ああ……だ、だめ……今話しかけないで……た、単語が消えちゃう……」

梨子「はい……?」

千歌「ああ……! 今絶対床に単語落ちた、英単語落ちた……ちゃんと、ちゃんと拾わなきゃ……」

梨子「…………」


千歌ちゃんはついに、勉強のしすぎでおかしくなってしまったようだ。


曜「週末はダイヤさんにきっちり絞られたみたいだね……」

梨子「曜ちゃん……おはよう」

曜「おはよう。千歌ちゃんたぶん、ギリギリになって詰め込んだ英単語が飛んでかないようにしてるんだと思うよ」

梨子「……なるほど」


だとしても単語は床に落ちないと思うんだけど……。あんな調子で大丈夫なのかな。


曜「それよりも、千歌ちゃん……」

千歌「んあぁ!! ダメだって、今話しかけないでよ!!」

曜「いや、私の席そこだからさ……」

千歌「席!? “席”はSeatだよ!?」

曜「……ダメだ、日本語が通じてない」

梨子「あ、そっか……試験のときは出席番号順だから……」


渡辺曜は出席番号順が最後だから、一番左後ろの千歌ちゃんの席が試験中の曜ちゃんの席になるということ。


曜「千歌ちゃーん……席替わって欲しいなー……」

千歌「か、“替わる”……Change!」

曜「いや、そうじゃなくて……」

千歌「“そうじゃない”──That's not the way!」

曜「それテストに出るかな!? 千歌ちゃーん……いい加減席に座らせてよー……」

梨子「曜ちゃん……ファイト……」

曜「あはは……予鈴までにどうにかして、どいてもらわないと……」

千歌「“予鈴”……First bell.」


とりあえず、二人の漫才に付き合っていたら、私も準備が出来ない。

曜ちゃんにはどうにか自分で解決してもらうとして、私も席に着いて、最後の勉強にと英語の教科書を開く。

──英語、か。……果南ちゃんは大丈夫かな……?

果南ちゃんも英語はやばいって言っていた──というか思っていた──から……心配だな。

まあ……今更私が心配しても、どうにもならないんだけど……。


梨子「今は、自分のテストに集中しよう……」


テストが始まるまであと十数分ほど、私は私なりに自分の出来ることをこなそう。


千歌「“時間がない”……I don't have any time.」

曜「──千歌ちゃーーん!! いい加減、席替わってーーー!!」





    *    *    *





……さて。

英語、現社、国語……そして古文と、本日の試験科目が全て終わり。


千歌「……ありをりはべり、いまそかり……」


千歌ちゃんは机の上で脱力したまま、呪文のようにラ行変格活用を唱えている。


梨子「千歌ちゃーん……試験終わったよー……?」

千歌「……試験、終わった……? じゃあ、試験休み……!」

梨子「試験休みは木曜だよ……今日の試験が終わっただけで、明日も試験あるから」

千歌「…………拷問じゃん」

曜「拷問ではないと思うけど……」


荷物をまとめた曜ちゃんが、軽く呆れながら千歌ちゃんの席に近寄ってくる。


梨子「曜ちゃんは試験、どうだった?」

曜「うん、手ごたえはあったかな。特に今回、英語は鞠莉ちゃんにみっちり教えてもらったから自信あるよ!」


それは確かに手ごたえを感じていてもおかしくないかも……。


曜「梨子ちゃんは?」

梨子「うーん……どれもそこそこ出来たって感じかな」

千歌「勉強出来る人のそこそこって信用出来ないんだよっ!! どうせ80点くらい取ってるんでしょ!? 怒るよ!?」

梨子「なんでキレてるの……」

曜「あはは……」


二人で呆れていると、


 「千歌さーん?」


廊下から、千歌ちゃんを呼ぶ声。もちろん、声の主は言うまでもない。


千歌「……ひっ」

梨子「あ……ダイヤさん。お疲れ様です」

曜「ダイヤさん、お疲れ様ー!」

ダイヤ「ええ、お二人とも。お疲れ様です。さあ、千歌さん。帰って理系科目をやりますわよ」

千歌「……ぅ、ぅぇぇ……」

ダイヤ「はい、荷物まとめて」


そう言いながら、ダイヤさんはテキパキと千歌ちゃんの文房具を筆箱に詰め始める。


ダイヤ「試験、頑張るんでしょ? ほら、あと二日だから、頑張って?」

千歌「……ぅ、ぐ……うん……」


千歌ちゃんは辛そうな顔をしながらも、結局頷いてバッグに荷物をしまい始める。

なんだかんだで、試験当日も千歌ちゃんの世話を焼きに来る辺り、この二人は相変わらずだ。

千歌ちゃんが荷物をまとめているのを傍目に、せっかくだからと、ダイヤさんに小声で話しかける。


梨子「……ダイヤさん」

ダイヤ「なんでしょうか?」

梨子「果南ちゃん……どうでした?」

ダイヤ「果南さん……まあ、会心の出来と言うほどではなさそうでしたけれど、そこまで酷い結果でもなさそうでしたわ」


どうやら、可もなく不可もなくという感じだったようだ。


梨子「そっか……ならよかった」

ダイヤ「それより、鞠莉さんから聞きましたわよ。果南さん、梨子さんと一緒に勉強をされていたそうではないですか」

梨子「あ……はい」


そういえば、果南ちゃんの家で鞠莉ちゃんに目撃されてるんだった……。


ダイヤ「どうでしたか? 勉強は捗りましたか?」

梨子「はい、なんだかんだで二日間、しっかり勉強出来ました」

ダイヤ「それは何よりですわ。……して、果南さんはちゃんと勉強していましたか?」


聞き方からして、ダイヤさんもたぶん、果南ちゃんが勉強が苦手なことは知っているんだと思う。


梨子「えっと……ちゃんとやってたと思います」

ダイヤ「そうですか……果南さんの勉強を見張る人が居なくなってどうしようかと鞠莉さんと話していたのですが……梨子さんが居てくれれば一安心ですわ」


果南ちゃん、見張られてたんだ……。


千歌「……ダイヤさん、帰ろ?」


気付けば、千歌ちゃんの帰りの準備が整ったようだ。


ダイヤ「ええ、そうしましょう。それでは、お二人とも、ごきげんよう」

梨子「あ、はい、お疲れ様です。千歌ちゃんもまたね」

曜「二人ともお疲れ様~」

千歌「うん……またねー……」


千歌ちゃんはややテンション低めなものの、今日は大人しくダイヤさんと一緒に下校していった。


梨子「曜ちゃんは、鞠莉ちゃんと一緒に帰るの?」

曜「うぅん、試験中はすぐ帰るように言われてるから」

梨子「そうなの?」

曜「理事長は試験中も仕事があるみたいだから……『曜は早く帰って勉強しなさい』って」

梨子「なるほど……」


生徒会長はあくまで生徒の一人だから、その辺り気を回してもらえるんだろうけど、理事長はそうもいかないもんね……。まあ、鞠莉ちゃんの学力なら心配ないんだろうけど。


梨子「それじゃ、私たちも帰ろっか」

曜「ヨーソロー! そうだね~」


一瞬果南ちゃんを探そうかなとも思ったけど……さすがに試験中は果南ちゃんも真っ直ぐ家に帰るだろうし、私も真っ直ぐ家に帰ることにしよう。

約束していたわけでもないしね。次果南ちゃんに会えるのは……たぶん試験最終日の放課後かな……?





    *    *    *





──キーンコーンカーンコーン。


先生「はい、終わりです。全員ペンを置いてください」

梨子「ふぅ……」

先生「それじゃ、後ろから答案を回収してー」


最後の試験科目である美術の答案を、後ろから回収しにきた人に渡し、これにて期末試験も終了だ。

そんなこんなで三日間の試験工程をこなした今日は12月11日水曜日。


先生「これで期末試験は終わりで、明日一日試験休みだから間違えて学校に来ないように」


それだけ言って先生が教室から出ていくと、生徒たちがガヤガヤとし始める。

テストも終わったし、どこに遊びに行くかなど、クラスメイト達が話している中、


曜「梨子ちゃん、お疲れ様」


最初に私に話しかけてきたのは曜ちゃんだった。


梨子「お疲れ様。曜ちゃんはこのあと、鞠莉ちゃんのところ?」

曜「うん! 理事長の仕事はちょっとあるみたいだけど……今日は理事長室で終わるまで待ってていいって言われてるから!」

梨子「ふふ、そっか。よかったね、曜ちゃん」

曜「えへへ……うん」


待ってていいと言われただけなのに、嬉しそうな曜ちゃんを見るとなんだかほっこりしてしまう。

……そういえば、試験の終わりを今か今かと待ち望んでいたもう一人は──


千歌「…………」


机に突っ伏したまま、抜け殻になっていた。


梨子「燃え尽きてる……」

曜「まあ千歌ちゃん、なんだかんだで今回の試験は頑張ってたからね……。おーい、千歌ちゃーん? 大丈夫ー?」


曜ちゃんと二人で声を掛けながら、千歌ちゃんの席の方へ行く。すると、


千歌「…………だいじょばない」


千歌ちゃんは心底疲れた声で応答する。


梨子「ほら、試験終わったよ? 待ちに待った、お休みだよ?」

千歌「……休み」


千歌ちゃんは休みという単語に反応し、むくっと起き上がって、荷物をまとめ始める。


千歌「……生徒会室行く」


どうやら、千歌ちゃんもダイヤさんに会いに行くらしい。試験期間中も毎日一緒に勉強していたのに、飽きることはないらしい。本当に羨ましい限りだ。


曜「それじゃ、私も……」

梨子「うん、またね」

曜「うん。千歌ちゃんも梨子ちゃんも、また金曜日ね」

千歌「おつかれさまぁ~……ばいば~い……」


二人で曜ちゃんを見送って。


梨子「じゃあ、私も帰ろうかな……」


その前に果南ちゃんを探すけど……そんなことを考えながら荷物をまとめていると、


千歌「あ、そういえば、ダイヤさんが梨子ちゃんに用があるって言ってたよ」


ダイヤさんからの言付けを伝えられる。


梨子「用? ダイヤさんが?」

千歌「うん、渡すものがあるって言ってた」

梨子「……わかった。じゃあ、一緒に行こっか」

千歌「うん」


ダイヤさんからの用事……なんだろ?




    *    *    *





──生徒会室。


千歌「……きたよー」

ダイヤ「お疲れ様です、千歌さん」

梨子「失礼しまーす……」

ダイヤ「あら、梨子さん……伝えてくれたのね? ありがとう、千歌さん」

千歌「どういたしましてー……」


千歌ちゃんはそのままふらふらと応接用のソファーに突っ伏す。


ダイヤ「……はしたないですわよ」

千歌「今日は、勘弁してぇ……」

ダイヤ「全く……今日だけですわよ」


ダイヤさんは呆れながら肩を竦めるものの、いつものように厳しく咎めはしなかった。

千歌ちゃんの頑張りを認めて、大目に見てあげているのかもしれない。


梨子「それで、私に渡したい物って、なんですか?」

ダイヤ「ああ、作詞と簡単な作曲が出来たので、これを渡しておこうかと思いまして……」


そう言いながら、ダイヤさんは歌詞の書かれた紙と、曲を録音したであろうポータブルレコーダーを手渡してくる。


梨子「え……もしかして、この期間中に作ったんですか……?」

ダイヤ「ええ。早いに越したことはないと思ったので。これから、あそこで伸びている人の作詞作曲も手伝わないといけないですし」

千歌「おかまいなくぅ~……」

ダイヤ「貴女はもう少し、気にしなさい」


有難いけど、正直このタイミングで渡されるとは思っていなかったので、少し面食らってしまった。

ダイヤさん……千歌ちゃんの勉強を見ながらテスト勉強もして、更に作詞作曲まで進めていたなんて……改めて、優秀な人だったことを思い知る。


梨子「そんなに焦らなくても、大丈夫だったのに……」

ダイヤ「いえ、少しでも早く終わらせることが、梨子さんの負担を一番軽減出来ると思いましたので」

梨子「ダイヤさん……ありがとうございます」

ダイヤ「曲……確認していただけますか?」

梨子「……はい! もちろん!」


バッグから、イヤホンを取り出して。歌詞に目を通しながら、曲を確認する。

──歌詞は、流し見しただけでも、切ない恋の歌を綴ったものだというのが一目でわかる。

それと同時に流れてきた音楽は、お琴の演奏を録音した雅なものだった。


梨子「これ……ダイヤさん一人で作ったんですか……?」

ダイヤ「ええ、どうでしょうか?」

梨子「素敵な曲だと思います……!」

ダイヤ「ありがとうございます。久しぶりの曲作りだったので、緊張していましたが……梨子さんにそう言っていただけたなら、一安心ですわね」


切ない恋の詩と、お琴の上品な音色が合わさって、ダイヤさんの雰囲気によく合う一曲に仕上がっていた。

鞠莉ちゃんに続いて、ここまでしっかり作曲をしてくれるのはすごく助かる。何より、私一人では作れない色が出ていて、ソロ曲にふさわしいものだと思える出来栄えだった。


ダイヤ「ただ、主旋律こそ作ったものの……お琴だけだと、少し音が足りない気がして……編曲はお任せしてもいいでしょうか?」

梨子「はい、任せてください!」


そして、ここからは私の仕事。いかにダイヤさんの作った音色を殺さず、ブラッシュアップさせるか……Aqoursの作曲担当としての、腕が試される。


梨子「頑張らないと……!」


思わず、気合いが入ってしまう。


ダイヤ「ふふ、よろしくお願いしますわ」

梨子「はい!」

千歌「梨子ちゃん、がんばってね~……」


千歌ちゃんがソファに転がったまま、他人事っぽく言ってくる。


ダイヤ「千歌さん、せめてソファでは座りなさい……」

千歌「えー……」

梨子「あはは……。それじゃ……私はお先に失礼します」


二人の時間を邪魔しちゃ悪いので、早めにお暇することにする。


ダイヤ「はい、お疲れ様です」

千歌「梨子ちゃん、このまま家に帰るの?」


やっと起き上がって、ソファに腰掛けた千歌ちゃんが訊ねてくる。


梨子「うぅん、部室に顔出すつもりだよ」

ダイヤ「あら……今日も部活はお休みですけれど」

梨子「え、えっと……もしかしたら、誰かいるかもしれないですし……」


そんな私の言葉を聞いて、


千歌「……ふっふーん、もしかして」


千歌ちゃんがきらりと目を輝かせた。


千歌「果南ちゃんに会いに行くんでしょ!」

梨子「!?/// い、いや……その……///」

千歌「青春してるね~うんうん」


千歌ちゃんは楽しそうにコロコロと笑いながら、私のことをからかってくる。

一方で図星を指された私も、顔が熱くなるのを感じる。

たぶん、今少し顔が赤いかも……。こんな顔を見せたら千歌ちゃんをますます増長させちゃうと思い、プイっと顔を逸らす。


千歌「果南ちゃんも梨子ちゃんが来てくれたら喜ぶよ、きっと~」

梨子「……///」


よ、喜んでくれるかな果南ちゃん……。幼馴染の千歌ちゃんが言うなら間違いないのかな……?

そんな淡い期待を抱いている私に対して、


ダイヤ「果南さんですか……?」


恐らく事情がよくわかっていないダイヤさんが不思議そうな声をあげる。


千歌「んふふ~ダイヤさんはにぶちんだからね~」

ダイヤ「なんですか……急に」

千歌「乙女の秘密だよ~。ね、梨子ちゃん?」

梨子「し、知らない……!/// もう、行くから……!///」


これ以上ここに居たら、千歌ちゃんのいいおもちゃにされると思い生徒会室を出ようとすると、


ダイヤ「ちょっと待ってください、梨子さん」


ダイヤさんに呼び止められる。


ダイヤ「今日、果南さんは、試験が終わったらすぐに帰られましたわ」

梨子「え」

ダイヤ「なんでも用事があると言っていましたので……」

梨子「そ、そうなんですか……」


やっと果南ちゃんに会えると思っていたせいか、ダイヤさんの言葉を聞いて、内心かなりがっかりしている自分が居た。

約束していたわけじゃないから、仕方ないけど……。

まあ……実際部室に行って、いつまで待っても来ることのない果南ちゃんを待っているよりはよかったかな……。


千歌「果南ちゃんの用事……? なんだろ……? 潮干狩り……?」

ダイヤ「真冬に……? 貴女は果南さんのことをなんだと思っているのですか……。……普通に用事くらいあるでしょうに。家の手伝いかもしれませんし」


確かに、ダイヤさんの言うとおりだ。

何か用事や仕事があったのかもしれない。


梨子「……ありがとうございます、ダイヤさん。それなら、今日はもう帰ろうかな……」

ダイヤ「よろしければ、果南さんに伝えておきましょうか? 梨子さんが探していたと……」

梨子「いえ、大丈夫です。急ぎの用事があるわけでもないので……」


本当に用があったわけではなく──ただ、会いたかっただけ……とは、恥ずかしくて言えないので言葉を濁す。


梨子「それじゃ今度こそ……お疲れ様です。また金曜日に」

千歌「あ、うん。またね~」

ダイヤ「道中お気を付けて、お帰りくださいね」


私は二人に手を振りながら、改めて生徒会室を後にしたのだった。





    *    *    *





梨子「──はぁ……」


無意識に溜め息が漏れていた。


梨子「今日は……果南ちゃんに会えると思ってたんだけどな……」


さっきから「約束をしていたわけじゃないんだから、しょうがない」と自分に言い聞かせているはずなのに、なんとも言えない虚しさが渦巻いている。

きっと果南ちゃんも会いたいと思って待っていてくれているんじゃないか、勝手にそんな期待をしていたのかもしれない。


梨子「用事があったんだから、仕方ないって……」


再び自分に言い聞かせるように呟きながら、歩いていると、


 「──梨子ちゃん?」

梨子「……ん?」


突然、名前を呼ばれた。

振り返ると、そこに居たのは、


花丸「試験お疲れ様ずら」


花丸ちゃんだった。


梨子「花丸ちゃんも、試験お疲れ様」

花丸「それより、どうしたの? これからお休みなのに、溜め息なんか吐いて……?」


……溜め息、聞かれていたようだ。


梨子「う、うぅん、なんでもないよ。ちょっと疲れただけ、かな……あはは」


果南ちゃんと会えなかったから溜め息を吐いていたとは言えないので、適当に誤魔化す。


花丸「……もしかして、まだ運が悪い……とか?」

梨子「あ、いや……そういうわけじゃないんだけど……」

花丸「清め塩は試してみたずら?」

梨子「あ……」


そういえば、せっかく教えてもらっていたのに、ばたばたしているうちにすっかり忘れていた。


花丸「梨子ちゃん?」

梨子「あ、えーと……」

花丸「忘れてたずら?」

梨子「ご、ごめんなさい……」


自分から頼った手前少し罰が悪かったけど、


花丸「うぅん、謝るようなことじゃないよ。忘れられるくらいなら、きっと必要がなかったってことだから、むしろそれは良いことずら」


花丸ちゃんの言葉に、少し心が軽くなる。


花丸「それに本来、仏教では御払いって考え方はあんまりしないしね」

梨子「そうなの……?」

花丸「仏教では、ありのままを受け入れることが基本だからね。厄除けとかはあるけど、そういううまくいかないことも含めて、受け入れていくことが人生ずら」

梨子「ありのまま……」

花丸「人生は因縁生起。全て繋がっているから」

梨子「いんねん……しょうき……?」

花丸「縁起とも言うずら」

梨子「縁起って……縁起が良いとか悪いとかの縁起?」

花丸「うん。物事は因縁──すなわち原因があって、それが縁に作用して生起──結果が起こるっていう考え方だよ。人との出会いのみならず、自分の身に起こる一つ一つのことも、無数の事象が複雑に絡み合って関係し、その結果自分の目の前に現れる。それを“ご縁”というずら」

梨子「“ご縁”……」

花丸「その無数の事象のうち、一つでも欠けていれば、今の結果にはなりえなかったかもしれない。だから、今直面している現状は、無限に広がる生起の重なり合いによって成り立っている不可思議と言えるずら」

梨子「えっと……どんなことも奇跡のようなもの、ってことかな……?」

花丸「うーん、仏教では奇跡って考え方はあんまりしないけど……今風に言うならそんな感じかも。マルたち人間は、当たり前のように日常を享受しているけど、これも当たり前じゃなくて……無数の事象が重なり合った不可思議の先にある、有難い“ご縁”ずら。だからこれは、そんな“ご縁”にしっかり目を向け、感謝を忘れないように生きていかないといけないよって言う教訓かな」

梨子「……どんな物事にも……意味や理由がある……ってこと、なのかな」

花丸「そうかもね。些細なことでも、それを見出して感謝の心を持つことは、きっと善い行いずら」


意味……理由……。……私に果南ちゃんの心の声が聞こえる理由があるんだとしたら……。それって──


梨子「ありがとう花丸ちゃん……!」

花丸「なんだか、迷いが晴れたような顔になったね、梨子ちゃん」

梨子「うん……! 花丸ちゃんの今の言葉で、なんだか気持ちが軽くなった気分だよ……!」

花丸「それはなによりずら」


──やっと、わかった。

私に果南ちゃんの心の声が聞こえる──テレパス現象。この現象に、もし理由があるとするなら、それは──私が果南ちゃんを支えるためじゃないだろうか。

伝わらない気持ちに苦しむ果南ちゃんを、私が支えるために、なんの因果か、私に廻ってきた力なんだ。

今まで、なんで突然こんな現象が、なんて思っていたけど……たまたま果南ちゃんの心が読めることに気付いて、そして果南ちゃんの悩みを、心のつっかえを知って──

そんな度重なる無数の事象が──私が果南ちゃんを支えるために廻ってきた“ご縁”だったんだとしたら、私がやることは一つだ。

……誰かが、何かが、私に果南ちゃんを支えろと言っている。その意味がわかって、自分がこれから何をすればいいのかがわかって、私はすごくすっきりした気分だった。




    *    *    *





──もちろん、これが自分にとって都合のいい解釈をしている、とんでもない勘違いだったというのは……言うまでもないけど──





    *    *    *




帰宅後、鍵盤に向かって、ダイヤさんのソロ曲の編曲を進めている真っ最中。


梨子「……うーん……そろそろ休憩しようかな」


それなりの時間、集中して作業を続けていたので、一旦休憩にする。

楽曲そのものは今日ダイヤさんの前で称賛したとおり、創作意欲を掻き立てられる出来栄えだったためか、編曲のアイディアがしっかり浮かんでくる。

あとはそのイメージ一つ一つをしっかり音に落とし込む作業に時間を掛けるだけだ。

ピアノから離れた私は、一直線に机の上のスマホに手を伸ばして、通知を確認する。


梨子「……何も来てない……よね」


特に約束していたわけでもないけど、なんとなく手持無沙汰になるとスマホを確認してしまう。

──果南ちゃんから何か連絡がないかな、と。


梨子「…………果南ちゃんと、お話したいな……」


気付けば、もう丸三日間、話していないし、顔も見ていない。

……そんなに話がしたいなら、もうこっちから連絡しちゃえばいっか。

緊張するけど、来る宛てのない連絡を待ち続けて、スマホと睨めっこしていてもしょうがないし。


梨子「……よし」


果南ちゃんとのトーク画面を開いて、いざ何を書き込もうと、考えていると──


梨子「……ん?」


前回のLINEでの会話の後に、見覚えのないメッセージ。

 『KANAN:梨子ちゃん、今時間大丈夫?』

時間を確認すると──


梨子「い、今!? か、果南ちゃんから連絡……!」


ちょうどスマホを点けたタイミングで、果南ちゃんからのメッセージを受信したところだった。


梨子「は、早く返信……!」


果南ちゃんからしたら、一瞬で既読が付いたはずだし、早く返信しないと……!

 『梨子:今ちょうどスマホ触ってたところだよ』

 『KANAN:みたいだね。送ったそばから既読がついてちょっとびっくりしたよ』


梨子「私もびっくりしたよ……でも……」


なんだか、顔がにやけている。たまたまスマホを点けたタイミングで果南ちゃんから連絡が来るなんて──相性がいいのかな? なんて、考えてしまう。

……もちろん、偶然だろうけど。

それはそうと、返信だ。

 『梨子:それより、どうかしたの?』

 『KANAN:今日何も言わずに先に帰っちゃったからさ』


梨子「あ……」


果南ちゃん、気にしてくれていたんだ……。

なんでもない、私のことを気にかけて、連絡してくれて……。

そのメッセージだけで、心臓がまたトクントクンと心地よい早鐘を打ち始める。

自分のことを考えてくれていたことが、無性に嬉しいのか、なんだか頭がぽわぽわする。


梨子「……声が聴きたい……」


勝手に言葉が漏れていた。


梨子「果南ちゃんの声が聴きたい……」


気付けば、突き動かされるように、通話のボタンを押していた。

アプリの通話発信音が数秒鳴ったのち、


果南『──もしもし、梨子ちゃん?』


果南ちゃんの声が、聞こえてくる。


梨子「果南ちゃん……! こんばんは」

果南『こんばんは。いきなり通話が来て、ちょっとびっくりしたよ』

梨子「え、あ……ご、ごめんなさい、いきなり……迷惑だったかな……?」


少し気持ちが先走り過ぎてしまったかもしれない。


果南『うぅん、大丈夫だよ』

梨子「なら、よかった……」

果南『それより、今日はごめんね。何も言わずに帰っちゃって』

梨子「果南ちゃんが謝るようなことじゃないよ……約束してたわけでもないし」

果南『あはは、ありがと。私も最初は部室に寄るつもりだったんだけど……試験が終わったあと、思ったより診察まで時間がなくて……』


診察……?


梨子「診察って……果南ちゃん、病院に行ってたの?」

果南『うん、ちょっとね』

梨子「もしかして……どこか、悪いの……?」


普段から健康そうな果南ちゃんから、診察というワードが出てきて少し不安になる。


果南『悪いというか……ここ数日、足が痛むことがあってね。一度病院で見てもらおうと思って』

梨子「足……」


言われてみれば、確かに足を庇うように振舞うところを何度か見ている。そういえば、それで足をもつれさせて転んじゃったこともあったっけ……。そのとき、一緒に私も転んじゃって、事故で押し倒されたみたいになっちゃって……。

──『……かなん……ちゃん……わたし……果南ちゃんとなら……いい、よ……』──


梨子「……/// そ、そういえばそうだったね……///」


思い出して赤面する。それはともかく、


梨子「それで、診察結果はどうだったの……?」


重要な部分はこっちだ。


果南『あーうん……異常は全く見つからないって言われたよ』

梨子「そうなの?」

果南『触診もしてもらったし、レントゲンも撮ったけど……肌も、筋肉も、骨にも全く異常はないって。むしろ、よく鍛えてるねって褒められちゃったよ』


さすが、アスリート気質なだけはある。私もスクールアイドルを始める前と後では、身体の引き締まり方も少し変わった気がするけど……さすがに、果南ちゃんや曜ちゃんほどではない。


梨子「でも、よかった……何もないなら」

果南『そうだね。エイにでも刺されたのかと思ったけど……そういう痕もないって言われたし』

梨子「……? エイって刺すの……?」

果南『尻尾に長くて鋭い毒針がついててね……。うっかり踏んづけたりすると、マリンブーツとか長靴でも貫かれるから、かなり危ないんだよ』

梨子「そうなんだ……」

果南『梨子ちゃんも海に入るときは気を付けるんだよ?』

梨子「はーい」


海のインストラクターが言うと、少し重みがある。

果南ちゃんが危ないって言うくらいだから、本当に危ないんだろう。

そんなに頻繁に海に入るわけじゃないけど……言われたとおり、気を付けよう。

閑話休題──


梨子「でも……結局なんだったんだろう……?」


果南ちゃんの足が痛む原因は結局よくわからないままだ。


果南『うーん……なんだろうね。結局お医者さんにはハードワークで疲れてるんじゃないかって言われたけど……』

梨子「そっか……あんまり無理しないでね……?」

果南『うん、ありがと。明日は平日だからお客さんも居ないし、試験休みを家でゆっくり満喫するよ』

梨子「うん、ゆっくり休んでね」

果南『まあ、試験中は痛むこととか全然なかったし……たぶん、大丈夫だと思うけどね』

梨子「それなら、いいんだけど……」

果南『梨子ちゃんこそ、ゆっくり休むんだよ? 試験も終わったことだし』

梨子「うん、そうするね。それじゃ、果南ちゃんにはゆっくり体を休めて欲しいから……今日はもう切るね?」


名残惜しいけど、本当に無理はして欲しくないからと思い、そう提案する。


果南『私はもうちょっと梨子ちゃんとお話しててもいいんだけど……。……まあ、健康第一だし、お言葉に甘えようかな』

梨子「うん。おやすみなさい、果南ちゃん。またお昼休みに」

果南『ふふ、おやすみ。またお昼休みに部室で』


果南ちゃんとの通話を終了して、一息。


梨子「……えへへ」


お話が終わったところで改めて、果南ちゃんが私のことを考えてくれていたことが嬉しくて、自然と顔がほころぶ。

明日は会えないけど、心がぽかぽかと満たされている気がした。


梨子「……なんか、今ならいい編曲が出来そう」


なんだか、力が漲ってくる感じがする。

私は果南ちゃんに力を貰っているのかも。


梨子「よーし、休憩終わり! もうちょっと、編曲作業頑張ろう……!」


果南ちゃんとの時間を過ごせて、リフレッシュが出来た私は、再びピアノに向かって作業に没頭するのだった。





    *    *    *






──12月13日金曜日。

一日試験休みを挟んで、今日の学校が終われば再び週末がやってくる。

特に週末に予定はないけど……お昼休みは果南ちゃんに会える。

その事実があるだけで、足が少しだけ軽くなるのを感じる。


梨子「……私、単純なのかな」


そんな自分に対して内心呆れてしまうけど、楽しみなものはしょうがない。とにかく、このまま今日の授業をこなして、お昼休みまで頑張ろう。

少し機嫌の良いまま、教室へと入ると、


千歌「あ、梨子ちゃん♪ おっはよー!!」


これまた、一段とご機嫌な千歌ちゃんに出迎えられる。


梨子「おはよう、千歌ちゃん。ご機嫌だね」

千歌「うんっ! だって、今日が終わればお休みがやってくるんだもん!」


そういえば、明日は遊園地にデートに行くって、ルビィちゃんが言ってたっけ。

ちょっと気が早いものの、ご機嫌になるのも頷ける。


曜「二人とも、おはヨーソロー!」

梨子「おはよう、曜ちゃん」

千歌「おはヨーソローーー!!!」

曜「あはは、千歌ちゃんテンション高いね♪」

千歌「うん! もう、元気全開って感じだよー!!」


テスト期間中、ダウナー状態だった千歌ちゃんも、すっかり調子を取り戻し、元気いっぱい。

声を聞いているだけで、明日のダイヤさんとのデートが楽しみで楽しみで仕方がないのが伝わってくる。

辛いテストを乗り越えてのイベントだから、そんな気持ちもひとしおなんだろう。

なんだか、ここまで元気な千歌ちゃんを見ていると、私まで嬉しくなってしまう。

ただ、それと同時に──私にも、千歌ちゃんみたいに、素敵な恋人が居たら、こんな風に舞い上がっていたのかなと考えてしまう。


梨子「……」


やっぱり、私の中には羨ましいという感情が強く渦巻いていることを自覚する。

千歌ちゃんに対しても……そして、


曜「……ん? 梨子ちゃん、どうかしたの?」


曜ちゃんに対しても。


梨子「うぅん。曜ちゃんも、週末は鞠莉ちゃんと何か予定があるのかなって」

曜「ん……ま、まあ、うん……」

梨子「一緒にデート?」

曜「そ、そんなところかな、あははー」

梨子「そっか……いいなぁ……」


思わず漏れ出てしまう、羨望の言葉。


千歌「大丈夫だよ、梨子ちゃん!」

梨子「?」

千歌「梨子ちゃんも、最近いい感じなんでしょ~?」

梨子「……へ!?///」


急にそんな話を振られて変な声が出た。


梨子「も、もうっ!!/// だから、違うって言ってるでしょ!?///」

曜「え、なになに?」

千歌「聞いてよ曜ちゃん、実はね~」

梨子「千歌ちゃんっ!!///」

千歌「あはは~冗談だってば~乙女の秘密だもんね~♪」

梨子「だ、だから……/// ああ、もう……/// 知らない……///」

千歌「ごめんってば~」

曜「?」


千歌ちゃんは私の反応を見て楽しそうに笑う。

最近、千歌ちゃんには、からかわれてばっかりだ。

思わず、むーっとした顔をしていると、


千歌「でも、応援してるのは本当だからね?」


千歌ちゃんはそう耳打ちしてきた。


梨子「……///」


もしかしたら、こうして私をからかってくるのは、千歌ちゃんなりに背中を押そうとしてくれている、ということなのかもしれない。

ここまで、どうにかこうにか、自分の中で気持ちに答えが出ないように目を逸らしてきたけど……いい加減、自分がどうしたいのか、自分がどう思っているのか、その答えを出した方がいいのかな……。

でも、この気持ちを明確な感情として捉えてしまうと──やっぱり、何かが変わってしまう気がして、少しだけ怖い。

千歌ちゃんの応援してくれる気持ちは有難い……だけど、私はまだあと一歩が先に踏み出せないままだ。

考え込んでいると──始業のチャイムが鳴り響いて、先生が教室に入ってくる。


先生「ホームルーム始めるから、席に着いてー」


ホームルームが始まり、担任の先生が連絡事項を伝えている中──

私はぼんやりと窓の外を眺める。

──私は、どうしたいのかな……? 私は……私は、果南ちゃんと……どう、なりたいのかな……?

そう考える。それと同時に思ったのは──果南ちゃんは……私のこと、どう思っているのかな。

そんな疑問。


梨子「……」


ぼんやりと自分の手のひらを見つめる。

この手で触れたら……それも、わかるのかな……?

そんなことを考えながら、朝の時間は流れていく──。





    *    *    *





──お昼休み。


果南「梨子ちゃん、いらっしゃい」

梨子「ふふ、お邪魔します」


先に部室で待っていた果南ちゃんに出迎えられる。

今日も二人でお昼を食べる時間だ。私は自然と果南ちゃんの隣の席へと腰を下ろす。

二人でお弁当箱の蓋を開けると、相変わらずの女子高生のお弁当の中に黄色いたまご焼きが色鮮やかに主張している。


梨子「今日のお出汁は、何を使ったの?」

果南「今日はユメカサゴだよ。はい、一口どうぞ♪」


早速、果南ちゃんのお箸は、出汁巻き卵を半分に切ってから摘んで、私の口元に運ばれてくる。


梨子「い、いただきます……///」


何度やっても、こればっかりは恥ずかしい。それでも、だんだん慣れてきたかもしれない。

有難く、果南ちゃんの出汁巻き卵を口に含む。


梨子「……えへへ、今日もおいしいね」

果南「ふふ、よかった」


私もお返しにと、自分で作った甘いたまご焼きを果南ちゃんのお弁当箱に入れてあげる。


果南「いつもありがとね♪ いただきまーす!」


果南ちゃんは、私のあげたたまご焼きを頬張ると、


果南「梨子ちゃんのたまご焼きは、やっぱり絶品だね……先週のよりもおいしいかも!」


そう言いながら、顔をほころばせる。


梨子「も、もう……大袈裟だって……///」


なんだかお昼の時間は自然とたまご焼きを交換する時間になりつつある。

今日も、なんとなくそうなるんじゃないかと思って、ちゃんと自分で作ってきた甘いたまご焼きだ。

こうして果南ちゃんとお弁当の中身を交換し合いながら食べていると、言葉に出来ない幸せな気持ちが胸に溢れてくる。


果南「そういえば今日さ、登校したら鞠莉がすごいご機嫌だったんだよね」

梨子「そうなの?」

果南「なんでも明日は曜ちゃんとデートなんだってさ」

梨子「あ、確かに曜ちゃんもそう言ってたかも」

果南「気になって聞いてみたら、明日は遊園地に行くんだってさ。いいよねぇ、カップルは……」

梨子「え?」


遊園地……?


梨子「曜ちゃんと鞠莉ちゃん……遊園地に行くの?」

果南「え? うん……そう、言ってたけど」

梨子「…………」

果南「梨子ちゃん?」

梨子「……千歌ちゃんとダイヤさんも、明日は遊園地に行くって……」

果南「え?」

梨子・果南「「…………」」


たぶんだけど……今、私と果南ちゃんは同じことを考えている気がする。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「ん、なにかな」

梨子「この辺りって遊園地……いくつかあるの?」

果南「いや……あんまりないかな。沼津の女子高生にとって遊園地と言えば、基本県外まで行く一大イベントだから……」

梨子「……そうだよね」


千歌ちゃんのあのはしゃぎようは、確かにただのデートというだけではなかった気がする。

遊園地という場所に行くこと自体も、すごく楽しみにしていたということだ。

そんな沼津は内浦の学校で、同じ部活に所属している二組のカップルが同じ日に、たまたま遊園地に行く……なんてことがあり得るのだろうか。


果南「……どうりで鞠莉が話してる間、ダイヤがやたら無口だったわけだ」

梨子「考えてみれば、曜ちゃんもデートの内容はぼかしてたかも……」


まあ、千歌ちゃんも遊園地に行くとは言ってなかったっけ……この情報自体はルビィちゃんからこっそり教えてもらったものだ。

とにもかくにも、恐らく、十中八九、これは──


梨子「ダブルデート……」

果南「だよね……」


二組のカップルによるダブルデートの計画だったということ。


果南「……ふーん、そっか……ダブルデートか」

梨子「……そうだね」


別にダブルデートでもなんでもすればいいけど、内緒にされていたことがなんだか釈然としない。

なんとなく、果南ちゃんはどう思っているのかが気になって、こっそり控えめに垂れているポニーテールの毛先に軽く手を伸ばすと、


 果南『別にダブルデートでもなんでも、すればいいけど……なんで内緒にするかなー』


同じようなことを考えていた。


梨子「言ってくれればいいのにね」

果南「ホントに」


二人で少しむっとなっていると──


 果南『……こっそり付いてっちゃおうかな』


そんな心の声が響いてきた。


 果南『鞠莉には散々付け回されてるし、たまに仕返ししても罰は当たらないよね?』


……私もスクールアイドル部の勧誘の際には、千歌ちゃんにかなりしつこく追い回された記憶がある。


果南『でも、梨子ちゃんは嫌かな、こういうの……?』


という心配をしているようだけど……。……あの二組のダブルデートは、私も少し気になるし、秘密にされて釈然としていないのは私も同じ。なら、そんな心配は不要だ。

だから、こちらから提案することにした。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「ん?」

梨子「ダブルデート……こっそり付いていっちゃおうか?」





    *    *    *





──翌日。12月14日土曜日。


果南「おはよう、梨子ちゃん。決まってるね」

梨子「おはよう。果南ちゃんこそ」


時刻は朝8時。場所は沼津駅前。空は快晴で絶好の行楽日和だ。

12月も半ばだというのに、降り注ぐ朝の陽ざしがこれでもかと主張していて、冬にしては暖かい気がする。日中はかなり活動しやすい気温になりそうだ。

そんな日和の中、私たちはお互いの姿を見て、思わず笑ってしまう。

二人して、長い髪をキャスケットの中にまとめて、服はカジュアルなパンツスタイル。

そして、顔には伊達眼鏡。

コーディネートの色こそ違うものの、お互い尾行と言われて考えることは同じらしい。


果南「これなら遠目に見たら私たちだって、なかなか気付かれないと思うよ」

梨子「うん、変装は完璧だね」


近くで顔を凝視されたら、さすがに怪しいけど……髪型も全然違うし、眼鏡も掛けているから、印象がだいぶ変わっているはずだ。


梨子「それで、千歌ちゃんたちは……」

果南「必ずここに来るはずだよ。バスにしろ、電車にしろ、絶対に沼津は経由するはずだから」


というわけで、沼津の駅前で張り込みをしている真っ最中というわけだ。

昨日の今日で行き先を聞き出す余裕はなかったとは言え……果南ちゃん曰く遊園地の選択肢はそんなに多くないし、ここで張っていれば十中八九、向こうから現れるとのこと。


梨子「……あ」


──と、考えている間に、目的の人物の一人が姿を現した。


曜「~♪」


曜ちゃんだ……!


果南「……梨子ちゃん」

梨子「うん」


曜ちゃんの姿を確認したので、一旦近くの物陰に姿を隠して、観察する。


果南「……気合い満々だね。これからデートでもしに行きそうだ」

梨子「果南ちゃん、これからデートに行く人だよ……」


曜ちゃんの出で立ちは、赤地に青いリボンのついたパーカーの上に白いジャケットを羽織り、下はチェックのミニスカート。

ベージュのワラビーブーツにソックスはハイクルー丈でパーカーと同じ赤色をしている。カバンは動きやすさを考えてか、琥珀色のリュックサック。

そして、普段のボーイッシュな印象をガラッとガーリーに寄せているのは髪型だ。

パーカーやソックスと同じ色の真っ赤なリボンで髪を結って、ポニーテールにしている。


果南「……曜ちゃんったら、普段使わないようなリップグロスなんかしてるじゃん……」

梨子「果南ちゃん、目いいね……」


遠目で見えづらいけど、言われてみればお化粧もいつもより気合いが入っている気がする。

何かとかっこよさの目立つ曜ちゃんだけど、こうしてオシャレをしている姿を見ると、やっぱり恋する女の子だなと再認識。


梨子「曜ちゃん……駅の方に行くみたい」

果南「内浦組と待ち合わせってことだろうね」


二人でこそこそ隠れながら、曜ちゃんを追いかけると、案の定駅舎の入口のところで立ち止まって、スマホをいじり始めた。


果南「電車で行くのはほぼ間違いなさそうだね……。梨子ちゃん、TOICA忘れてないよね?」

梨子「うん、大丈夫」


移動が始まっても、いつでも追いかける準備は万端。

そのまま、果南ちゃんと待っていると──


曜「……!」


曜ちゃんがスマホを見ながら、何かに反応し、きょろきょろと辺りを見回し始める。


果南「……! 来るね」

梨子「うん」


恐らく到着の連絡があったんだろう。少し周囲を警戒しながら、待っていると、


曜「おーい! こっちこっち~!」


曜ちゃんがロータリーの方に向かって、手を振りながら声をあげる。

手の振り先に、視線を向けると、


鞠莉「Good morning. 曜~♪」


鞠莉ちゃんは曜ちゃんに駆け寄ってくる。

鞠莉ちゃんはそのまま、


曜「──わぷっ!?」


曜ちゃんをハグ。


曜「ま、鞠莉ちゃん……!/// ひ、人が居るから……!///」

鞠莉「いいじゃない~♪ 今日は待ちに待ったデートの日なのよ?♪ それに、こんなにCuteにオシャレをしてきた、恋人、抱きしめたくなっちゃうヨ~♪」

曜「ぅ……///」

鞠莉「曜……今日の洋服、すっごく可愛いわ。よく似合ってる」

曜「う、うん……/// ありがとう……/// 鞠莉ちゃんも、大人っぽくて綺麗だよ……///」

鞠莉「Thank you. 曜♪」


曜ちゃんったら、真っ赤な顔をしたまま、鞠莉ちゃんの抱擁を受け入れてるし……。

曜ちゃんが大人っぽいと褒める鞠莉ちゃんは、小豆色のパンツに真っ白なフリルのブラウス。

全体的にシンプルだけど、右手首にはブレスレット、首には銀の三日月のネックレス。

そして、何より大人っぽさを際立たせているのは肩掛けの黒いエンベロープ・バッグだろう。

服自体はシンプルな構成だけど、鞠莉ちゃんのプロポーションがいいせいか、すごく大人っぽく見える。大学生と言われても納得してしまいそうだ。

二人が、お互いの容姿を褒め合いながら、抱擁をしていると──


 「──往来で破廉恥なことはおやめなさい」


梨子・果南「「!」」


そんな鞠莉ちゃんたちを制止する、黒髪の女性の姿。


ダイヤ「全く……今日はわたくしたちも居るのですよ?」

千歌「んー、私は気にしないけどな~。むしろ、ダイヤさんからの熱烈なハグを所望してるというかっ!」

ダイヤ「ただでさえ世話の掛かる人がいるのですから、せめて鞠莉さんにはしっかりしていただかないと」

千歌「私の扱い酷くないっ!?」


果南「ダイヤと千歌……!」

梨子「やっぱり、ダブルデートだったね……」


私たちの予想はずばり的中だったようだ。

千歌ちゃんは緑地に細い白のボーダーの入ったボートネックのシャツの上から、オレンジ──えぇと……たぶん本人的にはみかん色のカーディガンを羽織っている。

胸元にはみかんっぽいマークの刺繍──毎回思うけど、ああいうのって、どこに売ってるんだろう……? とはいえ、千歌ちゃんにみかんだ。たぶん気合いが入っている証拠だろう。たぶん。

下はウエストリボンのついた白いフレアスカート。白いハイクルーソックスに緑地のスニーカー。肩には赤を基調としたショルダーバッグを提げている。

トレードマークのリボンは今日は白色。ヘアピンはいつだかダイヤさんから貰ったと言っていたダイヤマークの形をしたヘアピンだ。

そして、ダイヤさんは紺のタートルネックの上から、朱色地の裾にフリルのついたノースリーブのアウターを着て、首にはネックレス。

ボトムスは白いハイウエストパンツでとても動きやすそうな服装だ。腕に提げているのは鈴のついた紅色のオモニエールバッグ。

いつも以上に気合いを入れているのはヘアアレンジで長い漆黒の髪を後ろで編み込み、黒いリボンで編み込みの先を結んでいる。そして、千歌ちゃん同様ヘアピンは恋人から貰ったものを使っているようだ。

二人とも、曜ちゃんや鞠莉ちゃんに負けず劣らず、しっかりオシャレをしてきている。

全員オシャレかつ動きやすさを考えた、遊園地デートにもってこいの服装で決めているようだ。

さて、これからデートに臨むカップルたちのファッションチェックもそこそこに、ダイヤさんから窘められた鞠莉ちゃんは肩を竦めながら、曜ちゃんを解放する。


鞠莉「もう、仕方ないなー」

曜「っほ……///」

千歌「ねぇ、ダイヤさん、チカにもハグ……」

ダイヤ「それでは行きますわよ。皆さん、遅れないように」

千歌「……ぅー……いいもんいいもん……」

ダイヤ「…………千歌さん。はぐれないように、わたくしの手、握っていてくださいますか?」

千歌「! えへへ~? うん?」

鞠莉「あら~、いきなり見せつけてくれるんだから♪」

ダイヤ「コ、コホン……/// い、行きますわよ!」

曜「あはは……」


いきなり、両カップルのいちゃいちゃを見せつけられているのは私たちだと思う。

……まあ、勝手に尾行しているわけだし、仕方ないんだけど。


果南「……梨子ちゃん、私たちも行こう」

梨子「うん」


改札をくぐる千歌ちゃんたちのあとを、バレないように少し距離を取りながら追いかける──。





    *    *    *





──カタンカタンと音を立てながら揺れる電車の中、私たちは千歌ちゃんたちがいる座席前のつり革から、少し離れたドアの前で待機している。

東京のような超満員電車だとこうはいかないけど、幸い今乗っている電車の中は座席こそ埋まっているものの、かなり視界は開けているため、見失う心配はほとんどなさそうだ。

ただ、逆に言うなら、見つかるリスクもあるため、出来るだけ千歌ちゃんたちの方に顔を向けないようにする。


 『次は下土狩──』

果南「御殿場方面……ということは、行き先はあそこだな……」


果南ちゃんは路線図を見ながら、皆の行き先を考えている様子。一方カップルたちは、


鞠莉「きゃー♡ 電車が揺れてバランスがー♡」

曜「わとと……鞠莉ちゃん、大丈夫?」

鞠莉「うん♡ 曜が受け止めてくれたから♡」

ダイヤ「鞠莉さん、静かにしてください……公共の場ですわよ」

千歌「……なるほど」

ダイヤ「……何がなるほどなのですか」

千歌「き、きゃー電車が揺れてバランスがー」

ダイヤ「足腰を鍛えるために、練習メニューにスクワットでも増やそうかしら……100セットくらい……」

千歌「はい、すいません。しっかり立ちます」


なんだか楽しそうだ。わざとよろけた振りをして、相手に寄りかかるなんて、私には恥ずかしくて真似出来なさそう……と思った矢先──ガタン、と電車が大きく揺れて。


梨子「きゃっ……!?」

果南「おっと……」


果南ちゃんにもたれかかってしまう。


果南「大丈夫?」

梨子「えっ、あ、えっと/// ご、ごめんなさい……///」

果南「ふふ、気を付けるんだよ?」
 果南『梨子ちゃんって意外とおっちょこちょいなんだよね』

梨子「う、うん……///」


おっちょこちょいとか思われてる……。恥ずかしい……。

出来そうにないなんて考えてるそばから、こんな……。いやでも、これはわざとじゃない、わざとじゃないの……。ああ、もう……。

必死に自分の醜態に言い訳をしながら、


 『次は長泉なめり──』


電車は目的地に向かって、進んでいく。





    *    *    *





 『次は御殿場──』

果南「梨子ちゃん、次たぶん降りるよ」

梨子「う、うん」


耳打ちされて頷く。

駅に近付き、電車が少しずつ速度を落とす。


ダイヤ「皆さん、次で降りますわよ」

千歌「はーい」

鞠莉「OK.」

曜「了解であります!」


果南ちゃんの言うとおり、千歌ちゃんたちもここで降りるようだ。


果南「準備はいい?」

梨子「うん、大丈夫」

果南「皆が下りたのを確認したら、追いかけよう」

梨子「うん」


完全に止まった電車から、4人が向こうの扉から下車し──


ダイヤ「千歌さん? 降車口はこっちで……」

千歌「改札行くならこっちから降りた方が近いよー♪」

梨子・果南「「!?」」


突然、千歌ちゃんが近くの扉を無視して、こっちに向かってくる。

──ホームの階段が近いのは確かに私たちがいる方ではあるんだけど……!?


鞠莉「あら、さすがチカッチ♪ ヌケメナイわね~♪」

曜「千歌ちゃん、調べてたの?」

千歌「んーん。あっちに階段が見えたからー」


──千歌ちゃんの気まぐれ……!

まずい、こっちに来る……!? いくら変装してても、4人全員が真っ直ぐこっちにきたら、誰かに気付かれる可能性が高い。どうする!? 先に降りる……!?


果南「くっ……梨子ちゃん、ごめん」

梨子「……!?」


謝罪の言葉と共に、急に何かに引き寄せられた。

いや、何かって……そんなの──


梨子「か、か、か、かな……!?///」

果南「静かに……!」


降車口の前で、私は果南ちゃんに抱きしめられていた。


 果南『恋人の振りしてやり過ごす……!』
果南「……まだ離れたくない。行かないで」

梨子「へ、はゃ!?/// ふぁ、ぁぁぅぇ!?///」


耳元で作り気味のハスキーボイスを囁かれて、全身が一気に熱くなる。


曜「わ、わぁ……///」

鞠莉「あら、ここにもオアツイカップルが……♪」

千歌「いいなぁ……」

ダイヤ「ジ、ジロジロ見てはいけませんわ/// 行きますわよ!!///」


私たちの横を、千歌ちゃんたちが素通りしていく。


 果南『……セ、セーフ……』


果南ちゃんが機転を利かせたようだったけど……。


梨子「ぁ、ぁ、ぁ、ぁ……///」


私は思考がショートしかけていた。

でも、千歌ちゃんたちは待ってくれない。


果南「梨子ちゃん、行こう」
 果南『鞠莉たちが行っちゃう……!』

梨子「は、はぃぃぃ……///」


果南ちゃんに手を引かれて、フラフラになりながらもどうにか歩き出した……そのとき、


 果南『……っ゛……!』

梨子「……!?」


急に脳内に、声にならない声が響く。まるで、痛みに耐えるような、そんな声だ。


梨子「か、果南ちゃん……?」

果南「ちょっと離れちゃったな……気持ち早歩きで行くよ!」
 果南『…………こ、これくらいなら、我慢出来る……』

梨子「……う、うん……」


もしかして……足、痛むのかな……?

確かに気付けば千歌ちゃんたちは、この駅で下車した人の波の、少し向こう側にいるけど……痛むなら無理しない方が──


果南「梨子ちゃん! 急いで!」
 果南『このままじゃ、見失っちゃう……!』

梨子「う、うん……」


結局、果南ちゃんの勢いに気圧されて、従ってしまう。

大丈夫かな……。でも、果南ちゃんはあくまで我慢して追いかけようとしているし……。

……本当に無理そうなら、止めよう。


 果南『──……っ゛……ホントに、なんなの……この痛み……』





    *    *    *





──階段を上り、改札を出ると、人込みから解放され視界が開ける。

そこから出口が左右にわかれている。


 果南『鞠莉たちは……!?』

梨子「果南ちゃん、あそこ……!」


改札を出て、左手側の方に歩いている4人の後ろ姿を見つける。


果南「よし、行こ──……っ゛……!」

梨子「果南ちゃん……!?」

果南「へ、平気……! 行こう」

梨子「う、うん……」


果南ちゃんに手を引かれながら、駅舎を抜けると、すぐにバスロータリーが見えてくる。


果南「……っ……」
 果南『痛み……強くなってきた、かも……』

梨子「……!」


もうダメだ。これ以上無理はさせたくない。そう思った矢先、


果南「梨子ちゃん、私の後ろに隠れて」

梨子「え……?」

果南「いいから」

梨子「う、うん……」


手を離し、果南ちゃんの影に隠れるようにして後ろに回る。


梨子「果南ちゃん……足、痛むなら無理しない方が……」

果南「平気。それより、見て」

梨子「ん……」


促されて、見た先はバス乗り場。そして、そのバス乗り場に千歌ちゃんたち4人の姿が見える。

どうやら、あそこからバスに乗るらしい。


果南「ここまで来ればほぼ間違いないね……富士急に行くバスだ」

梨子「じゃあ、今度はあれに乗り込んで……」


……あれ? 私はふと、気付く。


梨子「ああいうバスって……路線バスと違って、座席の予約が必要なんじゃ……」


予約なしでも乗れるのかな……?


果南「ふっふっふ……」

梨子「?」

果南「こんなこともあろうかと、バスの予約はしてきたんだよ」

梨子「え!?」


言いながら、果南ちゃんはバッグからチケットを2枚取り出す。

受け取って確認してみると、確かにこのあと、あの乗り場から出るバスで間違いない。


梨子「す、すごい……! よく、あのバスだってわかったね……?」

果南「沼津から行くなら富士急だって、ほぼアタリはついてたからね。それに千歌が居るなら絶対一番早い時間のバスで行こうとするだろうから、そのバスを決め打ちで取っておいたよ」

梨子「さ、さすが幼馴染……!」


幼馴染たちの──特に千歌ちゃんの行動パターンを完全に先読みしている。とはいえ、ここに辿り着くまで、確信は得られなかったと思うんだけど……。


梨子「でも、もし時間や行き先が違ってたらどうするつもりだったの……?」

果南「……え?」

梨子「……」


あ、たぶん考えてないな……。


果南「と、とにかく、あってたんだから問題なし!」

梨子「あはは……そうだね」


逆に言うなら、バスのチケットまで買ってしまったのなら、もう引くに引けないか……。

足のことは少し気を付けながら見張っていようかな……。


果南「あ、バス来た」


果南ちゃんの声でバス停の方に目を向けると、件のバスがロータリーに到着したところだった。

ここからだと、何を話しているかは聞こえないけど、千歌ちゃんたちもバスが到着したのを確認すると、順番に乗車していく。

4人全員がしっかり乗り込んだのを確認してから、


果南「梨子ちゃん! 行くよ!」

梨子「う、うん!」


私たちも、バスへと乗り込む──





    *    *    *





果南「……梨子ちゃん、窓際に座っていいよ。私、乗り物には酔わない方だから」

梨子「うん、ありがとう」


バスの座席は一番前の運転席のすぐ後ろの席だった。

たまたま空いていた席だとは思うけど、ある意味ここが一番発見される可能性は低いか。

私が座席に着席するまでの間、果南ちゃんは横目でバスの奥の方を確認していたのか──席に着くなり、


果南「……鞠莉たちは一番後ろの席みたいだよ」


そう耳打ちしてくる。


梨子「それなら、バレる心配は少なそうだね」

果南「まあ……ダイヤが居たら、どこの席でも取れるタイミングで予約してただろうし、千歌はたぶん後ろに座りたがると思うから」

梨子「確かに……」


この辺りは幼馴染としての勘が冴えわたっているようだ。

まあ、それはいいんだけど……。


梨子「果南ちゃん」

果南「ん?」

梨子「足……大丈夫?」

果南「え?」


言われて思い出したかのように、果南ちゃんは座ったまま、足を床に付けたり離したりする。


果南「あれ……痛くない」

梨子「……?」


まるで、いつの間にか痛みがなくなっていることに驚いているような反応。


梨子「本当に……?」


心配する振りをしながら、果南ちゃんの手に握ってみる。


果南「うん、ホントに痛くないよ」
 果南『今はホントに痛くないんだよね……なんなんだろ……』


嘘は吐いてない……。本当に痛くないんだ。


梨子「なら、いいんだけど……無理しちゃダメだよ……?」

果南「あはは、大丈夫だってば」


握っていた手を離し、席に居直ったものの……心の中で、かなり痛みを堪えているのを私は聞いてしまっている。

やっぱり、心配だな……。私があまりに心配そうな顔をしていたのか、


果南「もう、ホントに平気だって」


果南ちゃんは、私の顔を見たまま、苦笑いする。

……果南ちゃんは絶対無理してることを、口にしない。

──いや、だからこそ私が居るんだ。私がそばで果南ちゃんが無理しないように、寄り添うんだ。

私にはその力が、あるんだから……!


梨子「うん、わかった」


だから、ここは素直に頷いて納得した振りをして、話を終わりにする。

私が口を噤むと、果南ちゃんも口を閉じる。

席が離れているとは言え、千歌ちゃんたちは同じ空間内に居る。

さっきみたいに声色を変えれば少しは誤魔化しが利くかもしれないけど、普通に喋っていたら声でバレる可能性は十分ある。

そのまま、大人しく待っていると──バスはほどなくして発車し始めた。


梨子「……ふぁ」


発車後、すぐに欠伸が出てくる。


果南「眠い?」

梨子「ん……ちょっと……」

果南「朝早かったもんね。1時間くらい掛かると思うから、寝てていいよ」

梨子「ん……うん……」


確かに朝の8時前には沼津に準備万端でスタンバっていたせいか、今朝はかなり早起きだった。

これからハードな一日が予想されるし、ここはお言葉に甘えて休ませてもらおうかな……。

──目を瞑ると、バス特有の定期的な揺れもあってか、すぐに意識は睡魔に負けて、混濁していった。


果南「おやすみ──」





    *    *    *




──夢を見た。

青い海を泳ぐ、紺碧の髪をした、人魚姫の夢……。

優雅に揺蕩う尾ひれを捨て、心を寄せた王子様のため、人間の足を手に入れた海色の人魚姫は、今日も痛みに耐えながら、王子のそばに付き添っている。

何も言えない、伝える声を持っていない人魚姫は、今日もその美しい髪を棚引かせながら、王子のそばで笑顔を作って、寄り添っている。

最後は泡となって、消えていく運命だなんて知らずに──





    *    *    *





 「──こちゃん……梨子ちゃん」

梨子「ん……ぅ……」

果南「あ、やっと起きた」

梨子「果南ちゃん……?」


目を開けながら、ぼんやりと辺りを見回すと──そこはバスの中だった。

……ああ、そっか。遊園地に向かうバスの中で寝ていたんだっけ。

バスはすでに停車しており、乗客たちが荷物をまとめて、順に降り始めている。


果南「私たちも早く降りよう──」


果南ちゃんが私をそう促した瞬間、


千歌「──到着だーーー!!」

梨子・果南「「!?」」


千歌ちゃんが、風のようにバスを駆け抜けて出ていく。

つまり、私たちのすぐ真横を過ぎったということだ。


ダイヤ「ち、千歌さん!? 他のお客様もいるのですわよ!? す、すみません……よく言って聞かせますので……!」


ダイヤさんがバス内の中央通路を進みながら、まだ残っている他の乗客に頭を下げながらこっちに向かってくる。


果南「や、やば……! バレる……!」


果南ちゃんは咄嗟に──


梨子「……!?」


──私をハグした。


梨子「ゎ、ゎ、ゎ……///」

 果南『これなら、私たちの顔は見えない……!!』


咄嗟に隠す方法これしかないのかな!?

思わずそう叫びたくなる。

そんな中、ついに私たちの席まで、辿り着いたダイヤさんは──


ダイヤ「すみません……。すみま、せ──」


ダイヤさんはハグしている私たちを見て、言葉を詰まらせたあと、


ダイヤ「……し、失礼しました……/// お幸せに……///」


そう残して、そそくさとバスを降りて行った。


 果南『……セーフ? いや、鞠莉たちがまだ残ってる……もうちょっと』


──このままだと、私の心臓が無事じゃ済まなさそうです。


曜「わ、わー……///」

鞠莉「ここにもオアツイカップ──……ん? あれ、さっき電車の中で……?」

曜「鞠莉ちゃん、じろじろ見ちゃ失礼だよ……!/// 早く行こ……!」

鞠莉「ん……まあ、いっか」


鞠莉ちゃんたちもすぐに私たちの背後を通り抜けていく。


果南「…………」

梨子「………………///」

 果南『……行ったかな』

果南「セーフ……」

梨子「…………///」

果南「いや、危なかったね……」

梨子「……ぅん……///」

果南「それじゃ、私たちも早く降りて──……あれ、梨子ちゃん大丈夫?」

梨子「……ぅん……///」

果南「首筋まで真っ赤だけど……」


──お陰様で。


梨子「……いいから、行こう……/// 平気だから……///」


果南ちゃんの肩を押し返すようにして、ハグから脱出する。

言われたとおり、顔全体が熱く火照って、耳どころか、首筋まで熱い。もう鏡を見なくても今自分が茹でダコのように真っ赤っかなのが、わかってしまうのが却って恥ずかしい。


梨子「千歌ちゃんたち、追いかけないと……///」

果南「……大丈夫ならいいけど……無理しちゃダメだよ?」

梨子「うん……///」


原因は果南ちゃんのせいなんだけど……と、何度目かわからない同じ感想を抱きながら、二人で立ち上がると──


果南「…………ん」


突然、果南ちゃんが手で目をこする。


梨子「果南ちゃん……?」

果南「……いや、なんでもない。行こう」

梨子「う、うん……?」


私たちは尾行のために、バスを降りて遊園地に向かいます──。





    *    *    *





──入場ゲートから少し離れた木陰で待っていると、


果南「──梨子ちゃん、お待たせ。はい、これチケット」


2枚の入場チケットを持った果南ちゃんが駆け寄ってくる。


梨子「ありがとう、果南ちゃん」

果南「鞠莉たちは?」

梨子「今ちょうど入場ゲートの辺りだよ」


私たちは二手に別れて、入場用のチケットを買う役と、千歌ちゃんたちを見失わないように追いかけ、見張っている役に別れ、無事チケットを入手して合流したところだ。


果南「よかった。急いで追いかけよう」

梨子「うん」


近付きすぎないように、でも離れすぎないように、千歌ちゃんたちを追って入場ゲートをくぐると──


梨子「わぁ……!」


園内中に縦横無尽に広がる、たくさんのコースターのレールが目を引き、開園からまだ1時間も経っていないはずなのに、絶叫マシンから乗車客の悲鳴が聞こえてくる。

だけど、恐怖の声のはずなのに、その絶叫は遊園地特有の楽しさを孕んでいて、その空気に自然とテンションがあがってしまう。

──って、いけないいけない……。私たちは遊びに来たんじゃないわけで……こんなところ果南ちゃんに見られたら……。


果南「見て、梨子ちゃん! あんなジェットコースター見たことある!? なんでも、この富士急にはいろんな世界一のジェットコースターがたくさんあるんだって!」


……むしろ、果南ちゃんの方がテンションが高い。

いやでも、遊園地に来たんだし……そうなるのも仕方ないか。レジャー特有の空気感に当てられながらも、千歌ちゃんたち一行を目で追う。


ダイヤ「えーと……まずは何に乗りましょうか」

千歌「わーーーい!! 待望の遊園地だーーーー!!」

ダイヤ「勝手に走り出さない……。迷子になっても知りませんわよ?」

千歌「だって遊園地だよ!? むしろ、走り出さないでどうするの!?」

鞠莉「そうよ! わたしたち4人で、アトラクション全制覇するって約束したじゃない!」

ダイヤ「してません」

曜「あはは……でも、テンションあがっちゃうのはわかるな! 私も今日のこと考えて家で『このアトラクションは絶対乗る!』って、何度も予習しちゃったもん!」

千歌「だよね! だよね! さっすが、曜ちゃん! 私も絶対乗りたいって思ってたのがあるんだよー!!」

曜「千歌ちゃんも? やっぱり、富士急に来たらアレは絶対乗らないとだよね!」

千歌「うん! あれはマストだよね!」

千歌「『FUJIYAMA』!」 曜「『ド・ドドンパ!』」

千歌・曜「「……え?」」


千歌ちゃんと曜ちゃんが顔を見合わせる。


果南「早速意見食い違ってるし……」

梨子「あはは……」


千歌「曜ちゃん? 『FUJIYAMA』だよ? 高さ、速さ、ぐるぐるする距離、最大落差、どれをとっても富士山級のあのコースターを差し置いて、なんで『ド・ドドンパ!』なの?」

曜「千歌ちゃん……速度では『ド・ドドンパ!』の方が上なんだよ? やっぱり、せっかくジェットコースターに乗るんだったら速い方がいいじゃん!」

千歌「落差も重要だよ! ひゅーんって落っこちるときの感覚が楽しいのに……わかんないかなぁ」

曜「だって、私普段から飛び込みでそれは体感してるし……」

千歌「私はしてないからね!? とにかく『FUJIYAMA』!!」

曜「『ド・ドドンパ!』!!」

鞠莉「あらあら、二人とも元気ね~」

ダイヤ「ケンカはおやめなさい!! どっちも乗ればいいでしょう!?」

千歌「そうだよ、だから早く『FUJIYAMA』行こう?」

曜「なら、先に『ド・ドドンパ!』でもいいと思うんだけどなー」

ダイヤ「あーもう!! このやり取りが時間の無駄ですわ!! 一番はアレに乗りますわよ!!」


言いながら、ダイヤさんは入場口の近くに聳え立っているタワーを指さし──


梨子「……?」


タワー……? じゃない……?

よくみたら、あれ……垂直に伸びてる……レール……?

ちょうどいいタイミングで、その垂直のレールの頂点に達したコースターが──落ちた。


梨子「……嘘」

果南「うわ……あれ、やば……」


響く絶叫。いや、あれはもうジェットコースターというか……ただの落下物じゃ……。


ダイヤ「…………」


ダイヤさんも私たちと同じように、落下したコースターを見て絶句している。

たぶん、ケンカを収めるために、目立つものをとりあえず指差したんだと思うけど……。


鞠莉「あら、『高飛車』? ダイヤにぴったりじゃない!」

ダイヤ「だ、誰が高飛車ですか!? コホン……それより、最初はもう少し落ち着いたものから始めませんか?」

鞠莉「あら~? ダイヤったら怖いの~?」

ダイヤ「……なんですって?」

鞠莉「だって、自分からあれに乗ろうって言いだしたのに、それを取り消すなんて……もしかして、今目の前で見た光景にオジケヅイちゃったのかな~って?」

ダイヤ「馬鹿も休み休み言いなさい。わたくしが絶叫マシン程度に怖気付くとお思いなのですか?」

鞠莉「なら、勝負しましょう?」

千歌「勝負?」

鞠莉「せっかくこうしてダブルデートなんだから、カップル対抗戦ってことで。『高飛車』に乗って、より平常心を保てたカップルが勝ちってことにするのはどうかしら」

千歌「勝敗を付けてどうするの?」

鞠莉「勝ったカップルが次に行きたいアトラクションを決めるってことで。わたしと曜が勝ったら、次は『ド・ドドンパ!』で。ダイヤと千歌が勝ったら、次は『FUJIYAMA』でどうかしら?」

曜「なるほど! ナイスアイディアだよ、鞠莉ちゃん!」

千歌「………………絶対、私たちが不利なんだけど……」

ダイヤ「いいでしょう。その勝負、乗りましたわ!!」

千歌「ダイヤさん!! ホントに大丈夫!? びっくりして泣いちゃダメだよ!?」

ダイヤ「誰に向かってモノを言っているのですか? わたくしがあのようなモノに臆するわけないでしょう。さ、行きますわよ!」

千歌「いや、さっき臆してたじゃん! ああ、もう……!」


先陣を切って歩き出すダイヤさんの後ろを、千歌ちゃんが頭を抱えながら追う。

そして、その後ろでは鞠莉ちゃんが得意気な顔をしていた。


果南「鞠莉の作戦勝ちだね……」

梨子「なんだかんだで曜ちゃんの行きたいアトラクションを優先する流れに……」

果南「それより、梨子ちゃん。私たちも行くよ」

梨子「あ、うん。……え?」


果南ちゃんが千歌ちゃんたちの後ろを追って列に並ぼうとしている。


梨子「え……?」


再び、頭上を見上げると、コースターが垂直のレールを──落ちていく。


梨子「……え…………??」

果南「ほら、早くっ!!」

梨子「…………えっ!? ……あれ、乗るの……!?」

果南「乗らないと、見失っちゃうって!」

梨子「う、うん……まあ、そう……かもしれないけど……」

果南「ほら、行くよ!!」

梨子「きゃっ!?」


果南ちゃんは私の手を掴んで走り出す。


 果南『早く行かないと見失っちゃう……!』

梨子「え、ええええーーーー……!」


絶叫マシンに乗る前から、口から出てくる悲痛な叫びは皮肉にも、今から乗ることになるらしい絶叫マシンの方から聞こえてくる大きな悲鳴にかき消されて、消えていくのだった。




    *    *    *





梨子「…………」

果南「そろそろだね」


果南ちゃんに耳打ちされて顔をあげると、恐らく次の組で通されることになるだろうという場所まで進んできたことに気付く。

この『高飛車』はどうやら8人乗りらしく、前方にいる尾行中のダブルデートカップル4人と、そのすぐ後ろに関係のない他のカップルが一組。

そして、その後ろに私と果南ちゃんという並びになっている。

距離が近いため、バレないように極力発言を控えている他に──すでに胃がキリキリしていて、喋る気があまり起きない今現在。

今すぐ逃げ出したい。

──いや、無理でしょ? ほぼ垂直落下だよ?


果南「あ、ほら、次だよ。行こう」

梨子「え、あ、まっ……! こ、心の準備が……!」


再び果南ちゃんに手を引かれて、コースター乗り場へ──


 果南『いやー楽しみだなー』


──私は楽しみじゃないです。

後ろ側の席に着くと、すぐ目の前にカップルたちの姿。


曜「いやーこの始まる前のわくわく感! たまらないなぁ!」

鞠莉「このスリルは遊園地のダイゴミデースからネ!」


臨戦態勢の曜ちゃん鞠莉ちゃん、そして……。


ダイヤ「……………………」


一言も喋らないダイヤさん。


千歌「……ダイヤさん」

ダイヤ「話しかけないでください。集中しているので」

千歌「手、繋ごっか」

ダイヤ「え……? だ、大丈夫ですわ! わたくし、こ、怖くなんか……!」

千歌「チカが怖いから……手繋いで?」

ダイヤ「…………そ、そういうことでしたら……」


──千歌ちゃん、優しいな。

もう勝負よりも、ダイヤさんを安心させることだけ考えているようだった。

一方で私はというと……。


果南「……大丈夫……?」

梨子「……………………」


涙目で発車を待っているところだった。

膝も手も震えている。私、もうダメかも……そう思ったときだった──


果南「大丈夫だよ」


声を掛けられて、涙目のまま果南ちゃんの方に顔を向けると、


果南「私が居るから」


果南ちゃんはそう言ってニコっと笑う。


梨子「…………うん」


その声を聞いて、少しだけだけど……落ち着いてきた。

間もなくして──


スタッフ『それでは、行ってらっしゃいー!』


スタッフのアナウンスと共に、コースターはレールを進みだした。

スタートと共に、灯りのほとんどない空間を走り出したコースターはキュルキュルと音を立てながら、少しずつ前に進んでいく。


梨子「………………」


心拍数がどんどんあがっていく。──怖い。

でも、隣に果南ちゃんが居てくれる。そう自分に言い聞かせて、歯を食いしばる。

闇の中を進んでいくと、トンネルの出口の光が差し込んでくる。

それと同時に──ガコンという音と共にコースターが揺れた。


梨子「……きゃっ!?」

ダイヤ「きゃぁっ!?」

千歌「ダイヤさん、大丈夫だよ」

ダイヤ「は、はい……っ」


その音を皮切りに──コースターが音を立てて、

加速を始めた。


梨子「……っ!!」


スピードを上げ、トンネルから外に飛び出したコースターはすぐにループゾーンに入り、一瞬で世界が180°ひっくり返る。


梨子「きゃぁぁぁぁーーーー!!!?」

ダイヤ「ピギャアアアアーーーーー!!!!?」

曜「やっほーぅ♪」

鞠莉「いきなり飛ばしマースね♪」


そのまま、捻りながら、気付けば次のループ。

すぐに上下左右の感覚が麻痺してわけがわからなくなってくる。

風を切りながら進むコースターの上で、悲鳴をあげていると──コースターは速度を落として建物の中へと入っていく。


梨子「はっ……はっ……はっ……」

ダイヤ「……はぁ……はぁ……っ……お、終わり……ですか……? た、大したこと……ありませんわね……」

千歌「…………あー……たぶん、こっからのやつだね、これ」

ダイヤ「……え?」

梨子「…………ぇ」


思わず、果南ちゃんの方に目を向けると、


果南「…………」


果南ちゃんは無言のまま、首を縦に振る。

小さな建物の中を進むレールを曲がりながら、ゆっくりと進むコースターは、すぐに二度目の屋外へ。

そして、外に出たコースターの目の前には──


梨子「…………うそだよね」

ダイヤ「………………無理ですわ」


ほぼ直角になった上昇レール。

垂直のレールの目の前で、コースターがゆっくり減速しながら──止まる。

そして、少し間を置いてから──キュラキュラと音を立てて、コースターが鉛直方向に姿勢を変えていく。


梨子「………………は、はは……」


背中がシートに押し付けられているのがわかる。普段だったら、絶対に感じることのない方向への重力に乾いた笑いが口から漏れ出てくる。

そのまま、静かに音を立てながらぐんぐん上昇していくコースター。

ドクンドクンと心臓の鼓動がどんどん速くなっていくなか、


果南「……大丈夫だよ」


果南ちゃんの声が横から聞こえてきた。


梨子「…………ぅん……っ」


息を整える。もうここまで来たら逃げられない。覚悟を決めよう。

キュラキュラと音を立てながら上昇していくコースターの先にレールが見えなくなり──背中に感じていた重力が正常な方向に戻った。

そして、その先には──空中があった。

この先にあるらしいレールは、視界には認められない。

あまりに角度がきつすぎてコースターマシンの上からではレールを捉えられないんだ。


ダイヤ「…………無理、無理ですわ……無理……」

千歌「ダイヤさん、大丈夫」

ダイヤ「…………無理」

千歌「私たち、空も飛べたんだよ?」

ダイヤ「……!」

千歌「大丈夫」

ダイヤ「………はい……!」


千歌ちゃんの言葉で、泣き言を口にしていたダイヤさんが少し落ち着いたのが分かった──と、同時に、キュルキュルと音を立ててコースターが前方の断崖絶壁に向かって、滑るように進む。

まるで、半身の乗り出した車体が、自重に耐えられず少しずつ崖の方に向かって滑り落ちていくような、そんな演出。


梨子「…………ひっ」


私の短い悲鳴の直後。

ガコンと音を立てて───

───落ちた。


梨子「────」


全身が一気に浮遊感に包まれ、ありえない慣性に内臓が持ち上がるような感覚が全身を走り抜ける。

自由落下で一気にトップスピードに達したコースターは一瞬で地面スレスレまで落ち──


鞠莉「きゃぁぁ~~~♪」

曜「さいっこうーーー♪」


その速度を維持したまま、コースターは二転三転ループしながら、突き進む──


梨子「きゃぁぁぁぁぁぁあああああーーーーーーッッ────」





    *    *    *





梨子「ぅぅ……酷い目に遭った……」

果南「大丈夫……?」


椅子に腰を下ろしたままうなだれていると、果南ちゃんが心配そうに声を掛けてくる。


梨子「あはは……ちょっと休憩すれば、大丈夫……だと思う……」


『高飛車』から降りてから、ずっと世界が揺れている気がする。

三半規管が完全に混乱している状態だ。……そして、そんな状態なのは私だけではなく──


ダイヤ「………………」

千歌「ダイヤさん……大丈夫?」


──少し離れたテーブル席に座っているダイヤさんもグロッキー状態だった。


鞠莉「あらー……ちょっとやりすぎちゃったかしら?」

曜「一発目から飛ばしすぎたかな……」

千歌「あはは……まあ、アレだもんね……」


千歌ちゃんの声に釣られるように、私も先ほどまで乗っていた“アレ”を見上げる。

よく見たら垂直どころか、途中でレールが反り返ってるし……。よくあんなものに乗っておいてなお、こうして生きていることに思わず感謝してしまう。本当に死ぬかと思ったよ……。


ダイヤ「……今回の勝負……悔しいですが……わたくしの負けですわ……」

千歌「ああもう……勝負とかもうどうでもいいから……」

ダイヤ「いえ……勝負は勝負……次は『ド・ドドンパ!』に……」

千歌「……ってことらしいから、曜ちゃんと鞠莉ちゃん、二人で『ド・ドドンパ!』に乗ってきて?」

ダイヤ「え」

鞠莉「あら……チカッチはいいの?」

千歌「うん、私はダイヤさんと一緒に休憩してるから」

ダイヤ「だ、ダメです! 千歌さんまで、わたくしに付き合わせるなんて……」

千歌「いいから」

ダイヤ「ですが……」

曜「えっと……どうする、鞠莉ちゃん……?」

鞠莉「……まあ、ここはチカッチにおまかせしちゃいましょう?」

ダイヤ「へ、平気ですわ……! わたくし、これくらいの絶叫マシンごときで……!」


ダイヤさんが椅子から立ち上がろうとするも、すぐにふらついてしまって、うまく立てないようだ。


千歌「ああほら……無理しちゃダメだって」


そんなダイヤさんを千歌ちゃんが支える。


千歌「ね? 今は一緒に休憩しよ?」

ダイヤ「わ、わたくしは一人で平気ですから……」

千歌「ダメ」

ダイヤ「どうして……」

千歌「私はダイヤさんの恋人だから」

ダイヤ「…………」

鞠莉「このままじゃダイヤ、這ってでもついて来ちゃうから、さっさと行っちゃいましょうか」

曜「そうだね……」


そう言って、二人は千歌ちゃんとダイヤさんを残して、次のアトラクションへの移動を始める。


梨子「え、あ、どうしよ……」


とりあえず、見失わないように移動を始めた曜ちゃんたちをつけようと、椅子から立ち上がろうとして──


梨子「……ぅ……」


私もダイヤさん同様ふらついてしまう。


果南「ああ、ダメだって……座ってて?」


そんな私を支えるようにして、肩を掴んだ果南ちゃんが、すぐに私を椅子に座らせる。

まるで今さっき見た千歌ちゃんとダイヤさんのやり取りみたいだ。


梨子「でも……このままじゃ見失っちゃうし……」

果南「向こうも二手に分かれたし……こっちも二手に分かれよう」

梨子「二手に……?」

果南「うん、私は鞠莉たちを追いかけるから、梨子ちゃんはダイヤたちを見張ってて?」


確かに、こっちもせっかく二人いるんだし、それが合理的──そして、それ以上に今動き回るのは辛いから、その方がいいかもしれない。


梨子「……わかった」

果南「ん。それじゃ、行ってくるね」


それだけ残して、果南ちゃんは千歌ちゃんやダイヤさんの視界には入らないように、迂回しながら曜ちゃんたちを追いかけて移動を始めた。

……さて、任された以上はしっかり千歌ちゃんたちを見ていないと……。……とは言っても、向こうも休憩中だから、私は変わらずここで休憩してるだけだけど……。


ダイヤ「千歌さん……」

千歌「んー?」

ダイヤ「ごめんなさい……貴女が遊園地を楽しみにしていたこと、ちゃんと知っていたのに……わたくしが不甲斐ないばっかりに……」

千歌「そんな大袈裟だってー」

ダイヤ「でも……全アトラクション制覇するって……」

千歌「あはは、気持ちの上ではね。でも、いいんだ」

ダイヤ「……どうして?」

千歌「チカにとって、一番大切なのは、ダイヤさんだから」

ダイヤ「千歌さん……」

千歌「ダイヤさんと、今こうして一緒に遊園地に来られたことが……チカにとっては何より幸せなことなんだよ?」

ダイヤ「……ふふ、ありがとう。わたくし貴女と一緒に来ることが出来て……幸せですわ」

千歌「うん、知ってるよ」


千歌ちゃんは頷きながらはにかむ。

二人のやり取りは、今まで見たことのないような、すごく柔らかい優しい雰囲気の会話だった。

ダイヤさんが少し弱っているということもあるのかもしれないけど……周りに知り合いが居ない今、あれが素の二人の会話なのかもしれない。


千歌「『FUJIYAMA』も、苦手ならやめよっか? ダイヤさんが乗りたいものに乗ろう?」

ダイヤ「いえ……千歌さんが乗ってみたいモノでしたら、わたくしも乗ってみたいですわ。わたくしは、いつだって……貴女と同じ景色を見ていたい」

千歌「それは嬉しいけど……大丈夫?」

ダイヤ「わたくしたち、空を飛んだこともありますのよ? 大丈夫に決まっていますわ」

千歌「ふふ……そっか♪ じゃあ、曜ちゃんたちが帰ってきたら一緒に乗ろうね」

ダイヤ「ええ」


空を飛んだことというのは、さすがに比喩だとは思うけど……。

こうして聞いていると、本当にこの二人はお互いのことが大切で、大好きなんだと言うことが嫌でもわかる。

私も……そんな風になりたいな──


梨子「…………///」


また脳裏に、誰かの顔が浮かびかけて、一人で顔を赤くする。


梨子「早く……戻ってこないかな……」


私は千歌ちゃんたちを観察しながら、そうひとりごちるのだった。




    🐬    🐬    🐬





果南「……悪いことしちゃったな」


まさか梨子ちゃんが、あんなに絶叫マシンが苦手だったとは考えていなかった。

幸いダイヤがあんな状態だから、それにかこつけて、休憩させてあげられたのはよかったけど……。

鞠莉と曜ちゃんは、言うまでもなく絶叫マシン巡りをするだろうし、出来るだけ無理をさせないようにしてあげたい。

そんなわけで梨子ちゃんと分かれて、鞠莉たちを一人で追ってきた私は、曜ちゃんが絶対乗りたいと息巻いていた『ド・ドドンパ!』の列に並んでいるところだ。

鞠莉たちは私との間に2人ほど他のお客さんを挟んで前に並んでいる。


曜「ああもう、今から楽しみすぎて、うずうずしちゃってるよ!!」

鞠莉「曜、ホントにジェットコースター好きなのね」

曜「日常生活じゃ絶対に体感出来ないことだからね!」

鞠莉「怖くはないの?」

曜「全然! 一日中でも乗ってられるよ!」

鞠莉「毎日飛び込んでるからかしら……?」

曜「鞠莉ちゃんは怖くないの?」

鞠莉「んー……わたしは車運転するしなぁ」

曜「……あー……まぁ……鞠莉ちゃんの運転は……あはは」

鞠莉「……なんデスか? その笑いは?」

曜「あははー……」


曜ちゃんって、鞠莉の運転する車に乗ったことあるんだ……。

鞠莉が免許を持ってることを知ってるのは、私とダイヤくらいだと思ってたのに。

やっぱり、鞠莉にとって曜ちゃんは一際特別だということがよくわかる。


 『次の方どうぞー』

鞠莉「順番が来たみたいね」

曜「やったぁ! ついに、世界最速を体感出来るんだね!」


曜ちゃんが先陣を切って、入場ゲートをくぐっていく。そんなはしゃぐ曜ちゃんを見守るようについていく鞠莉。

そして、私も──


 『荷物は必ずここで、置いて行ってくださーい』


係員のお姉さんの説明に従い、出来るだけ目立たず鞠莉たちの関心を引かないように注意しながら、手荷物をロッカーに預ける。

尾行相手は完全に遊園地で舞い上がってるカップルだ。人間そんなときに、そうそう周りの一般人になんて目はいかないはず。

その証拠に、


曜「早く、早く!」

鞠莉「もう、子供じゃないんだから……でも、そんなところもSo cuteなんだけど……♡」


曜ちゃんは珍しくテンションMAXだし、鞠莉もそんな曜ちゃんを見つめながら、微笑んでいる。まさか、私が梨子ちゃんと一緒についてきているなんて考えてもいないだろう。

──ほどなくして、荷物を預けた私たちの元に、8人掛けのコースターが到着する。


曜「乗り込めヨーソロー!」


曜ちゃんが声をあげながら先頭の座席に腰を下ろす。


鞠莉「また、先頭。ラッキーだネ♪」


ホントにね。お陰で、私も距離を取りながら同じ組に入ることが出来て助かる。

私は鞠莉たちから2つ離れた、前から三番目のマシンの席に腰を下ろす。

──安全装置をしっかり下ろして、係員の人が乗車の確認を済ませたのち、コースターが所定の位置に向かってゆっくりと前進を始める。

前進したコースターは、まるで大砲の発射口かなにかのような、筒状の空間で一旦静止。


曜「『ド・ドドンパ!』は一瞬で、時速180㎞で発進するんだって! 掛け声はヨーソローね!」

鞠莉「ふふ、わかったわ♪」


時速180㎞ってどんなもんだろう……あまり想像が出来ない。

水上バイクが時速90~100㎞くらいだから……それの倍くらい?

考えていると──


 『3!』


カウントダウンが始まる。


 『2!』


身構える。


 『1!』

曜・鞠莉「「──ヨーソロー!!」」


──ギュオオオオオオオオオン!!!


果南「……っ!?」


聞いたことのないような加速音と共に、発射された。

発車じゃない。

これは発射だ。


果南「ちょ」


一瞬で最高速に達するコースター。

大砲から撃ち出されて、屋外に出る。

前方の空気の塊が顔にぶつかり、自然と顔が引き釣る。

軽く痛い。

──と思った次の瞬間には、トンネルに突入。

虹色のイルミネーションがピカピカ光るトンネルを一瞬で潜り抜ける。

視界が開けると共に、大きく曲がりながら、富士山を一瞬視界に捉えたと思ったら、再びトンネルへ。


果南「……っ……!!」


あまりに速過ぎて、声すらあげられない。

周りの乗客からも、悲鳴一つ聞こえてこない。

いや、もしかしたら、悲鳴はあげているかもしれないけど、速過ぎて私の耳に届いてないのかも。

トンネルを一瞬で潜り抜けたら、気付けば大きなループをぐるっと回って、気付けばまたトンネルの中。

──は、速過ぎ……!?

視界に入ってくる情報がどんどん更新されていくのに、目を回しながら──

気付けば、コースターは減速を始める。

一周して、発車した場所に戻ってきたようだ。


果南「……い、一瞬だった……」


さっき乗った『高飛車』と比べると、本当に一瞬──1分も乗ってなかったんじゃないかな……?


 『おかえりなさーい!』


係員の人たちに出迎えられながら、下車しようとする。


果南「お、おとと……」


──さすがに私でも、少しだけ地面が揺れている感覚がして、ふらふらしていた。

一方で、


曜「さいっっっこうだったね!!!」

鞠莉「そうデスね! 普段じゃなかなか味わえないスリルだったわ!」


二人は相当お気に召したようで、最初からテンション最高潮だった曜ちゃんだけでなく、鞠莉ともども非常に上機嫌になっていた。


曜「ねぇ、鞠莉ちゃん! もう一回! もう一回乗ろ!?」

鞠莉「いいネ! ……と、言いたいところだけど、ダイヤたちも待たせてるから」

曜「あ、そうだった……」

鞠莉「またあとで時間があったらもう一度乗りましょう?♪」

曜「うん!」


二人は上機嫌なまま、預けていた荷物を回収し、退場する。

私もさっさと荷物を回収して、


果南「……っとと」


まだ、完全に戻りきっていない平衡感覚と戦いながら、二人を追いかける。

……それにしても、


果南「梨子ちゃん、休憩中でよかった……」


こんなのに乗ったら、今度こそ気絶しちゃうんじゃないかな……。

『高飛車』のときと違って、全然鞠莉や曜ちゃんの反応を確かめる余裕もなかったし……ここは私一人でよかった。

一人安堵しながら、二人を追いかけようとしていると──バッグの中で、バイブ音がする。


果南「ん?」


鞠莉たちを目の端で追いながら、スマホを取り出すと──梨子ちゃんからLINEのメッセージを受信したところだった。


 『梨子:千歌ちゃんたち、移動するみたい。追いかけるね』


とのこと。


 『KANAN:了解。こっちもドドンパが終わったところだよ。予定どおりなら、このあとはFUJIYAMAに行くと思うからそこで合流しよう』

 『梨子:わかった』


こういうとき二手に分かれたことが、功を為していると言える。

私は、スマホをバッグにしまいながら、再び鞠莉たちを見失わないように追いかけるのだった。





    *    *    *





──さて、私は千歌ちゃんたちを近くの物陰から監視中。

件の千歌ちゃんは、


千歌「迷う……迷う~~~……!」


フードの屋台の前で頭を抱えているところだった。

──あのあと、ダイヤさんの体調が落ち着いてきたので、二人は待っている間に軽く何かを食べようという話になり、フードの屋台に移動してきたところ。


ダイヤ「どれを迷っていますの?」

千歌「『みかんディップのシナモンチュリトス』か『みかん丸ごとクレープ』……ここ来たら絶対食べようと思ってたんだけど……どっちにしよう……」


やっぱりみかんか……。さすが千歌ちゃん。

ここはいくつかのフードの屋台が並んでいるコーナーで、千歌ちゃんの言うシナモンチュリトスもみかんクレープもすぐ近くに配置されている。すぐそこで食べたい物が一度に二つ視界に入ってくるから、千歌ちゃんも悩んでいるんだと思う。

確かにこうして屋台のフードメニューを見ていると、どれもおいしそうで迷ってしまう気持ちはわかる。私だったら……そうだな、たまごが好きだし──『クラッシュタマゴケバブ』とかおいしそうかも……。

ケバブだと軽食って感じにはならないかもしれないけど……。


ダイヤ「ふふ、そうですか。では、両方買って、二人で半分こしましょう」

千歌「い、いいの!?」

ダイヤ「ええ、もちろん」


ダイヤさんは優しく微笑みながら頷く。


ダイヤ「すいません、『みかんディップのシナモンチュリトス』を一つください」

店員「ありがとうございまーす!」

千歌「じゃあ、チカはクレープ買ってくるね!」

ダイヤ「ええ、お願いね」


千歌ちゃんはててて、とクレープの屋台に駆けていき、


千歌「みかんクレープください!」


と元気よく屋台の人に伝える。


店員「ふふ、少々お待ちくださいね」


店員さんも先ほどのやり取りを見ていたからなのか、すごく微笑ましそうに千歌ちゃんに注文されたクレープを作り始める。


千歌「みかんっ! みかんっ!」

ダイヤ「ふふ、そんなに楽しみだったのですか?」


チュリトスを手に持ったダイヤさんが、クレープ屋の前に居る千歌ちゃんに向かって、くすくす笑いながら話しかける。


千歌「うん! あのね、すごいんだよ、ここのみかんクレープ!」

店員「お待たせしました~」

千歌「あ、はーい!」


千歌ちゃんは出来たてほやほやのクレープを受け取って、


千歌「見て! ダイヤさん!」


嬉しそうにクレープをダイヤさんに見せる。


ダイヤ「まあ……!」


千歌ちゃんが手に持ったクレープ──なんでここまで、千歌ちゃんが執着しているのかが、一目でわかる見た目をしていた。

なんと、クレープの頂点にみかんが丸ごと一個乗っかっている。


ダイヤ「これは確かにすごいですわね」

千歌「でしょでしょ!」

ダイヤ「ふふ、それでは、せっかく作り立てですから、早く頂きましょうか?」

千歌「うん!」

ダイヤ「どちらから食べたいですか?」

千歌「え、えっと……悩むけど……やっぱり、この丸ごとみかん!」

ダイヤ「ふふ、そうですか」

千歌「いただきまーす! あむっ!」


千歌ちゃんが早速クレープの上にある、丸ごとのみかんにかぶりつく。


千歌「……んむ、んむ……」

ダイヤ「おいしい?」

千歌「……えへへ……おいひぃ……♪」

ダイヤ「ふふ、よかったわね」

千歌「うん……♪ しあわせ……♪ ダイヤさんも一口どーぞ♪」

ダイヤ「ええ、頂きますわね」


千歌ちゃんが、一旦クレープをダイヤさんに手渡す──のかと思ったら、


梨子「……!?」


ダイヤさんは、千歌ちゃんが手に持っているクレープにそのまま、口を付け始める。

あのダイヤさんが、ナチュラルにあんなことを……!?


ダイヤ「あむ……。……まあ♪ 蜜柑と生クリームとチョコが、見事にマッチしてますわね♪」

千歌「でしょでしょ! きっと、このみかん甘い味付けしてるんだよ! そのおかげでチョコとか生クリームの甘さに負けない味になってるんだと思う!」

ダイヤ「でも、蜜柑の甘酸っぱさも残っていて……絶妙な味付けですわね」

千歌「それに上に乗ってるみかんだけじゃなくて、中までみかんたっぷり……幸せ~♡」

ダイヤ「ふふ、それでは次はチュリトスを食べてみますか?」

千歌「あ、うん! みかんディップいっぱい付けてね?」

ダイヤ「わかっていますわ。……はい、どうぞ♪」

千歌「あーん♪」


今度は千歌ちゃんが、ダイヤさんからのあーんでチュリトスにかじりつく。

す、すごい……二人ともあんなに自然にお互いで食べさせ合ってる……。


ダイヤ「おいしい?」

千歌「うんっ! こっちもおいしい!! ダイヤさんも食べて食べて!」

ダイヤ「ふふ、では」

千歌「みかんディップたっぷりの方がいいよ!」

ダイヤ「わかりましたわ♪」


ニコニコ笑って頷きながら、ダイヤさんもチュリトスを食べると──


ダイヤ「──こちらも、シナモンの甘さとみかんディップの甘酸っぱさが絶妙ですわね」

千歌「うん! もう一口頂戴!」

ダイヤ「はーい。みかんディップいっぱい付けますわね。……はい、あーん♪」

千歌「あーん♪ あむっ……もぐもぐ……うぇへへ……ぉぃしぃ……」

ダイヤ「千歌さん、わたくしにも、もう一口クレープをくださる?」

千歌「うん♪ あーん♪」

ダイヤ「あーん♪」


なんだろう、あまりに空気が甘すぎて、私は何も食べていないはずなのにお腹がいっぱいになってきた気がする……。

特にダイヤさんだ。

普段とのギャップがすごすぎて、より破壊力があるというか……。

二人のあまあまなおやつタイムを眺めていると──


鞠莉「あら、こんなところにもラブラブカップル発見デースね♪」

曜「うわぁ……/// ダイヤさんって、思ったより大胆だったんだね……///」

ダイヤ「んなっ!?///」

千歌「あ、曜ちゃんたちもこっち来たの?」

ダイヤ「な、ななな、なんで貴方たちがここに居るのですか!?/// 『FUJIYAMA』はもっと向こうのはずでしょ!?///」


突然、鞠莉ちゃんと曜ちゃんに声を掛けられて、ダイヤさんは顔を真っ赤にして抗議する。

……やっぱり、知り合いに見られるのはさすがに恥ずかしいんだ。


鞠莉「んーそうなんだけど、曜がかき氷食べたいって言うから」

曜「すいませーん! 『ブルーオーシャンかき氷』くださーい!」


屋台に走っていく曜ちゃんの背中を見ながら──ここに曜ちゃんたちが居るってことは……と辺りを伺うと、


果南「──梨子ちゃん、お待たせ」


ちょうどいいタイミングで果南ちゃんが私の隠れている物陰に合流してくる。


果南「どうだった……って聞きたいところだけど……」


ダイヤ「ふ、冬なのに、なんでかき氷なんか……///」

鞠莉「まあ、今日は冬って言う割には、暖かいからね~。それより、見てたわよ~? 『はい、千歌さん、あ~ん♪』ね~♪」

ダイヤ「や、やってませんっ!!///」

鞠莉「照れなくてもいいのよ~? ラブラブカップルさん♪」

千歌「えへへ~♪」

ダイヤ「ち、千歌さんも否定してくださいっ!!///」

千歌「ダイヤさんがあーんしてくれると、おいしさ100万倍なんだよね~♪」

ダイヤ「ち、千歌さぁんっ///」


果南「聞くまでもなさそうだね……」

梨子「うん……ちょっと胸焼けしそうなくらい、千歌ちゃんとダイヤさんがラブラブだったよ……」


そういう意味ではいいタイミングで戻ってきてくれたのかもしれない。


曜「かき氷買ってきたよ~♪」

千歌「おかえり~……おお、結構大きいねそのかき氷……」


曜ちゃんが手に持っているかき氷は、確かにちょっと大きめのカップに入ったかき氷だった。

ブルーハワイベースなのか、青い色をしたかき氷に、トッピングとしてフルーツが飾られているようだ。


鞠莉「それが、曜が食べたかったかき氷?」

曜「うん! なんか、ブルーオーシャンなんて言うから興味沸いちゃって!」

鞠莉「ふふ……曜の大好きな海の青だもんね」

曜「えへへ、うん。それじゃ、頂きまーす!」


曜ちゃんは早速、かき氷をかきこむように食べ──


曜「……くぅぅぅ!! キーンってきたぁ……!!」


頭を押さえる。


曜「やっぱり、かき氷食べるときはこれやらないとね……!」

ダイヤ「そうなのですか……?」

鞠莉「ちなみにこの頭がキーンってなるのは『アイスクリーム頭痛』って言う名前がついていマース♪」

千歌「へー……名前あったんだ」

曜「鞠莉ちゃんも食べる?」

鞠莉「うん、頂戴♪ あーんでね♪」


鞠莉ちゃんがダイヤさんに視線を流しながら、いたずらっぽく言う。


ダイヤ「う……///」

曜「あはは……はい、鞠莉ちゃん、あーん」

鞠莉「あ~ん♡」


……それにしても、皆恥ずかしくないのかな……?

こういう場所だから、テンションがあがって出来ちゃうっていうのはありそうだけど……。

もしかして、恋人が出来ると案外平気になっちゃうとか……?

私が怪訝な顔をしているのに、気付いたのか、


果南「なんか大袈裟だよねぇ」


果南ちゃんも私に同意するように肩を竦め──


果南「ダイヤも、あれくらいで恥ずかしがることないのに」

梨子「…………」


前言撤回。逆だった。


果南「ん……? どうかした……?」

梨子「いや……なんでもない……」


考えてみれば、果南ちゃんはこういうことをナチュラルに仕掛けてくる人だった……。

それで何度恥ずかしい目に遭ったか……。

──しばらくすると、おやつタイムも終わり、


ダイヤ「……さて、それでは次に行きましょうか」


と、ダイヤさん。


鞠莉「そうだネ~。ダイヤもチカッチとのラブラブエネルギーを補給出来て準備万端みたいだし♪」

ダイヤ「鞠莉さんっ!///」

千歌「それじゃ、いざ『FUJIYAMA』へレッツゴー!」

曜「ヨーソロー!」


一行は移動を始める。


梨子「果南ちゃん、行こう」

果南「あ、うん。それはいいんだけどさ」

梨子「?」

果南「梨子ちゃん、『FUJIYAMA』は大丈夫……? あれも結構すごいやつっぽいけど……」

梨子「ん……」

果南「無理なら、また待機してても……私がついていけば、あとは出口で待っててもらうっていうのも……」

梨子「……大丈夫、乗る」

果南「……そう?」

梨子「……うん。私も……見たい、から……///」

果南「……? 景色?」

梨子「う、うん……///」

果南「そっか……?」


私は果南ちゃんに顔を見られないように、千歌ちゃんたちのあとを追いかけ始める。

私の脳裏に浮かんでいたのは、さっきダイヤさんの台詞──『わたくしは、いつだって……貴女と同じ景色を見ていたい』──

私も……私も同じ景色を知りたい。……今隣に居てくれる、果南ちゃんと同じ景色を……見ていたいな、と……。

私ももしかしたら、皆の雰囲気に当てられてしまっているだけなのかもしれないけど……今、私の心の中には、そういう感情が確かに浮かんできているのだった。

──打倒『FUJIYAMA』……!





    *    *    *





──キュラキュラキュラ。


ダイヤ「あの、千歌さん……」

千歌「ん?」


──キュラキュラキュラ。


ダイヤ「……ど、どこまで……昇るのでしょうか……」

千歌「えっと……地上79mだったかな」


──キュラキュラキュラ。


ダイヤ「な、ななじゅう……きゅう……めーとる……?? そんなところから落ちたら……死んでしまいますわ」

鞠莉「落ちるのは70mだからー安心してー♪」

曜「……何も安心できないような……」


──キュラキュラキュラ。

長い。とにかく上昇の時間が長い。それが恐怖をより一層助長させる。


梨子「……こ、この高さから……落ちるの……?」

果南「えっと……大丈夫……?」

梨子「……あ、あはは……」


やっぱり、下で待っていればよかったかも……。


ダイヤ「……は、はは……こ、こわくなんか、あ、ありませんわ……」

千歌「大丈夫だよ、ダイヤさん! 私たち1万mから落ちたことあるんだから!」


千歌ちゃんがまたよくわかんないこと言ってるけど……。


果南「……スカイダイビングでもしてたのかな……?」


確かにそれなら、さっき言っていた空を飛んでたっていうのも説明できる……かも……?

──キュラキュラキュラ。


梨子「も、もう……無理……」


もう上昇はいいから、下って欲しい。

上昇の恐怖だけで心が折れそうな中──ポンポンと肩を叩かれる。


梨子「な、なに……?」


もちろん相手は隣に座っている果南ちゃん。果南ちゃんの方に目を向けると、


果南「……見て」


果南ちゃんは左側の虚空を指差した。指差す方向に目を向けると──


梨子「……ぁ」


大きな大きな、フジヤマが見える。『FUJIYAMA』ではない。富士山が……真っ白に冠雪した富士山が、快晴の空の下で、存在感を放って鎮座していた。


果南「こんな高いところから、富士山を見たのって初めてかも」

梨子「……うん」


その雄々しい山の存在感に言葉を失う。それと同時に──果南ちゃんと景色を共有できたという実感が湧いてくる。

気付けば、上昇が終わったのか──


鞠莉「こちら地上79mデース!!」

曜「いぇーい!!」


テンションの高いアナウンスが3個ほど前の席から響いてくる。レール右手には79mと書かれた看板が現れる。


千歌「ダイヤさん、富士山だよ」

ダイヤ「え……? あ……」


鞠莉ちゃんたちのすぐ後ろに座っている千歌ちゃんたちもどうやら富士山に気付いたようだ。

そして、富士山の感動も束の間──コースターは一気に下降を始めた、


梨子「……っ……!!」


重力に従い一気に加速していくコースター。

加速して、加速して、加速して、

加速して、


ダイヤ「長いぃぃ!!! 落下が長いですわああああ!!!!」


ダイヤさんの絶叫が響く。


曜「ひゃっほぉぉぉーーーー!!!」

鞠莉「このスピード感、最高デーーーース!!!!」


──あ、死んだ。

恐怖が一周し、軽く死を悟った瞬間、コースターは下降をやめ、上昇を──


梨子「もう、あがらなくていいからぁーーー!!?」


落下で得たエネルギーをそのまま使って、猛スピードで上昇したあと、頂点でカーブし──再び前方に下り坂が見えてくる。


梨子「いやぁぁぁぁーーーーーーー!!?」

ダイヤ「おろして!!! おろしてくださいいいぃぃぃ!!!!」

千歌「ダイヤさん、暴れないでーーー!?」


私とダイヤさんの絶叫は虚しく、コースターは猛スピードで下り始める。


梨子「きゃああああああああああーーーーーーーーー!!!!!」

ダイヤ「ピギャアアアアアアアアアアアアーーーーーー!!!!!!!」


落下し、そして次に上昇、また落下、また上昇。

目まぐるしく変わるGに内臓が引っ張られるような感覚がして気持ち悪い。

追いつかない思考のまま、今度は捻りながら高速で下り降りていく。

文字通り目を回しながら、恐怖に耐える。

もう、終わりだよね……!? 終わりだよね!?

上昇して、落下、上昇、落下、上昇──


梨子「いつになったら終わるのーーーーー!!!?」

 ダイヤ「いつになったら終わるんですのーーーーー!!!!!?」

果南「長いのが有名なジェットコースターだからーー『FUJIYAMA』ーーー」

 千歌「長いのが有名なジェットコースターなんだよーー『FUJIYAMA』ってーーーー」

梨子「聞いてないいいーーーーーー!!!!!」

 ダイヤ「聞いていませんわーーーーー!!!!」


いつまで経っても終わらないアップダウン。

──あ、これ無理だ。

頭の中に浮かんできたそんな言葉を最後に……その後の記憶は曖昧で……──


 『おかえりなさーい!!』


──パチパチパチと拍手と共に、帰りを迎えられて、やっと終わったことに気付く。


果南「……さすが長いって評判なだけあったね……」

梨子「……」

果南「……梨子ちゃん?」

梨子「…………ぅぇ……?」

果南「大丈夫……?」

梨子「……………………?」

果南「もう終わったよ」

梨子「………………生きてる」


生きた心地がしなかった。ふらつきながら、立ち上がろうとすると、果南ちゃんが支えてくれる。


果南「頑張ったね」

梨子「……あはは」


もはや、自分の中でいろんなものが一周してしまったのか、乾いた笑いが出てくる。

一方、


ダイヤ「…………………………ああ、御婆様が……川の向こうで手招きを……」

千歌「ダイヤさーん!! しっかりしてーー!! その川渡っちゃダメだからーーー!!」


ダイヤさんも負けず劣らずグロッキーだったのは言うまでもない。





    *    *    *





過酷な富士登山後。


鞠莉「ダイヤ、ダメそう?」

ダイヤ「…………ぅぅ……」

千歌「あはは、だいぶ参っちゃってるね……」

曜「今度は落ち着いたアトラクションを選んだほういいかな?」

鞠莉「なら……『メリーゴーラウンド』乗りたい……」


鞠莉ちゃんはそう言いながら、近くでくるくると回っている『メリーゴーラウンド』を目で示す。


千歌「いいね。それならダイヤさんも……」

ダイヤ「い、いやですわ……! あの馬も高速で動くのでしょう!?」

千歌「動かないよー」

ダイヤ「も、もうわたくしは自分の足以外で動くものは信じませんわっ!!」

千歌「それじゃ、帰れないじゃん……」

鞠莉「『メリーゴーラウンド』……やめとく……?」

千歌「んー……これじゃ、ちょっとダメそうかも」

鞠莉「……そっか」


鞠莉ちゃんが露骨にシュンとする。


曜「鞠莉ちゃん、もしかして乗りたかった?」

鞠莉「えっ!?/// ま、まさか~マリーはこんな子供っぽいアトラクション……」


そう言いながらも、鞠莉ちゃんは回っているお馬さんたちをずっと目で追いかけている。


果南「鞠莉、昔から『メリーゴーラウンド』好きだったからなぁ」

梨子「そうなの?」

果南「馬が好きだからね。子供の頃から遊園地に行くと、その日の間に何度も何度も乗るくらいには好きだったと思うよ」

梨子「へー……」


鞠莉ちゃんの趣味にしては確かにちょっとメルヘンすぎるかなとは思うけど……馬が好きというのも確かにイメージ通りではある。


曜「じゃ、鞠莉ちゃん一緒に乗ろうか」

鞠莉「え、い、いや、別に乗りたいわけじゃ……///」

曜「私はアトラクション全制覇したいからさ! それなら『メリーゴーラウンド』も乗らないと!」

鞠莉「……そ、そういうことなら、付き合ってあげマース……///」

曜「えへへ、よろしくね! それじゃ、行ってくるであります!」


曜ちゃんはそう言いながら、千歌ちゃんたちに向かって敬礼する。


千歌「ごめんね、曜ちゃん」

曜「んー?」

千歌「なんか、チカたち……休憩ばっかになっちゃって」

曜「いいっていいって。……その、さ」

千歌「ん……?」

曜「……千歌ちゃんにとって、一番大事な人はダイヤさんなんだから」

千歌「……。…………うん」


梨子「……?」

果南「……ん」


なんか今、不自然な間があったような……?


千歌「…………」

曜「…………」


いや、たぶん気のせいじゃない。これは、何かの意味がある間だ。


曜「千歌ちゃん」

千歌「……なぁに?」

曜「私、鞠莉ちゃんのこと好きなんだ」

千歌「……うん」

曜「今は鞠莉ちゃんが、一番大切なんだ」

千歌「……うん」

曜「もう、平気だよ」

千歌「……うん」


突然、曜ちゃんが鞠莉ちゃんへの告白のようなことを口にしだしたけど、


鞠莉「…………」

ダイヤ「…………」


鞠莉ちゃんもダイヤさんも、そんな会話をしている千歌ちゃんと曜ちゃんを黙って見守っていた。

そして、二人のやり取りには……何故だか、いろんな言外の意味が込められている、そんな会話であることが自然とわかる空気を纏っていた。

その後、ひと呼吸おいてから曜ちゃんは、


曜「それじゃ、行ってくるであります!」

千歌「うん、行ってらっしゃい!」


敬礼をしながら、鞠莉ちゃんの手を引いて、『メリーゴーラウンド』の方へと、走り去って行った──。


千歌「…………」

ダイヤ「千歌さん」

千歌「ん」

ダイヤ「気は済みましたか?」

千歌「…………あはは、私ずるいね」

ダイヤ「……ずるい?」

千歌「曜ちゃんのこと、傷つけちゃったのは私なのに……きっと、ずっと……曜ちゃんがああいう風に言ってくれるの……待ってた気がする」

ダイヤ「千歌さん……」

千歌「ホントに許してくれてたのか……友達に戻れるか、ずっとわかんないままで……怖くて……っ……」

ダイヤ「……曜さんは、貴女が最初にこのダブルデートを企画した時点で、なんとなくわかっていたのではないでしょうか」

千歌「……」

ダイヤ「貴女の真意に。それと同時に、曜さんも千歌さんと同じように、昔の関係に戻りたいと思っていた。だから、ああして言葉にして伝えてくれたのではないでしょうか」

千歌「……うん」

ダイヤ「そして、千歌さんも。曜さんならきっと、貴女の真意を見抜いて、ちゃんと伝えてくれると信じていたのでしょう? お互いのことをよくわかっている、良い友達ではないですか」

千歌「……うん……っ」

ダイヤ「……ほら、泣かないの。戻ってきて貴女が泣いていたら、また曜さんが不安になってしまうでしょう?」

千歌「うん……っ……な、泣か……ない……っ……」

ダイヤ「よしよし、偉いですわね」


ダイヤさんは千歌ちゃんの頭を撫でながら抱きしめる。千歌ちゃんはダイヤさんの胸に顔を埋めて、肩を震わせていた。

──私たちは、


梨子「……果南ちゃん」

果南「……ん」

梨子「……尾行、終わりにしよっか」

果南「……そうだね」


もはや心を読む必要もないくらいに、きっとこれは私たちが知るべきことじゃなかったんだ……そんな気持ちを二人で共有して、今日のダブルデートの尾行を終わりにするのでした。





    *    *    *





──ゆったりと、音楽に合わせてくるくると回る視界。


果南「……なんかさ」

梨子「うん」

果南「……皆知ってるようで、知らないことばっかりなんだなって」

梨子「……そうだね」


『コーヒーカップ』に腰掛けながら、ぼんやりと言葉を交わす。


果南「……千歌と曜ちゃんの間に、何があったのかはわかんないけどさ……でも、千歌も、曜ちゃんも必死にいろんなこと考えてたんだって……」

梨子「…………」

果南「……勝手に置いてけぼりにされたなんて感じて……尾行なんてして……ちょっと自分が恥ずかしい」

梨子「……私も共犯だよ」


最初から、このダブルデートには目的があった。

千歌ちゃんは、曜ちゃんの気持ちを確かめようとしていた。

断片的な情報のせいで、具体的にそれがどういう内容だったのかまではわからないけど……。

ただ、そんな断片的な情報の中でも、なんでこのダブルデートの計画を、他の人に伝えなかったのかはわかる気がした。

恐らく、千歌ちゃんと、曜ちゃんと、ダイヤさんと、鞠莉ちゃんの4人じゃなくちゃいけなかったんだ。


果南「考えてみれば……どうやって、千歌がダイヤと付き合うことになったのかも、鞠莉が曜ちゃんと付き合うことになったのかも……私、知らないや」

梨子「私も……」


二人して、天を見上げると、天井がぐるぐると回転している。まるで、勝手に迷走していた私たちの心でも表しているかのようだ。


果南「……幼馴染だからって、勝手に知った気になってた……いや、知ってることが当然だと思ってた……知っていいんだと思ってた……」

梨子「果南ちゃん……」

果南「……そりゃ、幼馴染相手でも……知られたくないことも……知らせたくないことも……あるよね」

梨子「…………」


私たちは、そんな当然のことも見落としてしまっていたのかもしれない。


果南「……でも、まあ、やっちゃったことは……もう言っても仕方ないね」

梨子「……それは……。……そうだね」

果南「……なかったことにはならないし」

梨子「……うん」


好奇心は猫をも殺すじゃないけど……知らせないようにしてくれたことに、自分たちから首を突っ込んでしまった以上、私たちが落ち込むのは筋違いだと思う。

もちろん、このことを第三者や本人たちに言うのも。

知らされないはずのことだったんだ。もうこんなことはしないと心に誓って、罪悪感と一緒に胸にしまって終わりにしよう。


果南「……ただ、まあ……それとは別に……来てよかったなって思うことはあるよ」

梨子「え……?」

果南「梨子ちゃんと一緒だったし」

梨子「き、急にどうしたの……?///」

果南「梨子ちゃんが一緒に居てくれて、やっぱ楽しかったなって。……私、あの4人のことばっかに目が行ってたけどさ。最近は気付けばいつも梨子ちゃんが隣に居てくれてて……今日も気付けば梨子ちゃんが隣に居てさ」

梨子「……///」


くるくると回っている。景色が回り続ける中、果南ちゃんは気持ちを吐露し続ける。


果南「今日は……いろんな梨子ちゃんの表情が見れて、なんかうまく言葉に出来ないけど……嬉しかったんだよね」

梨子「…………///」


何故だか、無性に恥ずかしくなって言葉に窮していると、くるくると回っていた視界がゆっくり減速し──止まった。


 『お疲れ様でした。お帰りの際は、忘れ物をしないように──』

果南「なんちゃって。ちょっと気取り過ぎちゃったかな? 今日はもう、帰ろうか」

梨子「うん……///」


先に降りて、『コーヒーカップ』から出ていく果南ちゃんの背中を追いながら、私は──


梨子「私も……嬉しかったよ……///」

果南「ん……? 何か言った……?」

梨子「うぅん、なんでもない……///」


同じ気持ちを共有している事実にまた少しだけ、ドキドキとしていた。





    *    *    *





──まだ日の高い時間、こんな早い時間に遊園地から撤退する人なんてそんなに居ないのか、空席の目立つバスに揺られながら私たちは来た道を戻っていく。

私が窓の外をぼんやりと眺めていると、


果南「ねぇ、梨子ちゃん」


声を掛けられる。


梨子「なぁに?」

果南「……私さ、思ったんだけど」

梨子「?」

果南「梨子ちゃんがこうしてそばに居てくれてるのに……私、梨子ちゃんのこと、あんまりよく知らないなって」

梨子「……どうしたの、急に……?」

果南「……今日もさ、梨子ちゃんが絶叫マシンが苦手だって知らなくって……許可も取らずに『高飛車』に乗せちゃって……悪いことしたなって」

梨子「そんな……ちゃんと言わなかった私も悪いし……」


それに、当初の目的が尾行だった以上、どっちにしろ選択肢はなかったと思うし……。


果南「うぅん……今日の尾行自体も、私が千歌たちのこと、ちゃんと考えてなかったことが原因だと思うし……もう、自分がちゃんとわかってなくてする失敗は繰り返したくなくてさ」

梨子「果南ちゃん……」

果南「……バスに乗ってる時間も結構あるしさ、もし嫌じゃなかったら、梨子ちゃんのこと……教えてくれないかな?」

梨子「え、えっと……」


果南ちゃんの言いたいことはわかった。だけど、突然自分のことと言われても……何を話せばいいんだろう。


梨子「自分のこと……例えばどういうの?」

果南「ちっちゃい頃の話とか……?」

梨子「ちっちゃい頃?」

果南「ほら私、Aqoursメンバーの中に幼馴染が多いからさ。皆のちっちゃい頃はよく知ってるけど……梨子ちゃんの子供の頃は全く知らないし」

梨子「……なるほど」


確かに、果南ちゃんどころか、私の小さい頃のことをAqoursメンバーはほとんど知らないかもしれない。

別に言いたくないなんてことはないけど……特に言う機会もなかったから、こっちに来てからあまり話したことがなかった。

──いい機会かもしれない。そう思い、私は果南ちゃんに自分の生い立ちを話し始める。


梨子「ちっちゃい頃って言っても、そんなに特別なことはないけど……普通に東京で生まれて東京で育って──」

果南「まず東京生まれ東京育ちっていうのが、特殊だよ……」

梨子「親がたまたま東京に住んでたってだけだよ」


確かに内浦の人からしてみれば、そう言いたくもなるのかもしれないけど。


果南「子供の頃はどんなことしてたの?」

梨子「ピアノを弾いたり、お絵かきをしてたことが多かったかな。特にピアノは本当に小さい頃からやってたから……」

果南「やっぱり昔からピアノをやってたんだね」

梨子「うん。あと、ビオラも弾けるよ」

果南「……ビオラ?」

梨子「一回り大きいヴァイオリンみたいな楽器かな」

果南「へー」

梨子「って口で言われても、ピンと来ないと思うから、今度見せてあげるね」


そうは言うものの、ビオラだけ見せられても知らない人には、ヴァイオリンとの区別は付かないかもしれないけど……。


梨子「小さい頃からずっと続けていたピアノは、中学に上がる頃にはそれなりに上達して、全国大会に行けるくらいになって……。そんな成績があったからかな、両親も先生も期待してくれて……だから、高校は音楽に強い学校に入った」


音楽に強い高校──音ノ木坂学院だ。


梨子「でも、高校に入ってからは、中学のときみたいに弾けなくなっちゃって……」

果南「……周りの期待がプレッシャーだった?」

梨子「……そういうのもあったのかもしれない。義務感みたいなものが自分の中に出来ちゃってたのかな。皆の期待に応えなくちゃって……そんな風に思ってたら、あんなに好きだったピアノも、だんだん楽しくもなくなってきちゃって……」


──そして、私はついにコンクールで大失敗をした。コンクールの本番で……弾くことが、出来なかった。


梨子「でも、弾けなくなっても、私にはピアノしかない。結局そう思って、必死にピアノと向き合おうとしたけど……全然ダメで……。そんな私を見たお母さんに、こう提案されたの。──『環境を変えてみない?』って」

果南「それで内浦に?」

梨子「うん。ずっと海の曲を作ってたから……海が近くにある町に引っ越せば、何かが変わるんじゃないかって……。あとは果南ちゃんの知ってるとおりだよ」


──千歌ちゃんと出会って、曜ちゃんを含めて三人で海の音を聴いて。千歌ちゃんが伸ばしてくれた手を、握って、スクールアイドルになった。


梨子「……今はあのときのスランプからは考えられないくらい、伸び伸びとピアノと向き合えてる。音楽とも……スクールアイドルとも」


何をしてもうまく行かない気がして、つまらなかった毎日が、スクールアイドルを始めてからは輝いている気がする。

あのとき、手を伸ばして、飛び込んでよかった。──内浦に……来てよかった。


梨子「私の生い立ちは、こんな感じかな……これで大丈夫だった?」

果南「……一つ気になることが残ってるんだけど」

梨子「? 気になることって……?」

果南「どうして、内浦だったの?」

梨子「……え?」

果南「海のある場所って、たくさんあるでしょ? でも、その中から、なんで内浦に来たの?」


言われてみればそうだ。島国である日本には、海の町はきっとたくさんある。そんな中でも、あえて内浦を選んだ理由──


果南「親の仕事の都合が付く場所とか……梨子ちゃんには決められない理由だったのかもしれないけど……」

梨子「あはは……確かに、私が内浦が良いって言って、引っ越してきたわけじゃないかな」

果南「……まあ、それもそっか。偶然内浦に──」

梨子「でもね」


納得しかけた果南ちゃんの言葉を遮る。


果南「……? でも?」

梨子「内浦を選んだのは……偶然だけじゃないと思う」

果南「どういうこと?」


紫色の二つの瞳が、興味深そうに私に視線を注いでいる。

──ああ、そういえばこの話……千歌ちゃんや曜ちゃんにも、したことがなかったかもしれない。

果南ちゃんに話すのが、初めてだ……。


梨子「──私、実はね。小さい頃に内浦に来たことがあったの」

果南「え」


果南ちゃんはそんな私の言葉に目を丸くする。


果南「ホントに……?」

梨子「うん。小さい頃──小学生低学年くらいのときに、家族と内浦に旅行に来たことがあったの」


実のところ、内浦に旅行に来て、具体的に何をしていたのかまでは思い出せない、だけど──すごくすごく、鮮明に記憶に残っていることが一つだけあった。


梨子「……私、そのとき……内浦の海でね」

果南「うん」

梨子「……人魚姫を見たの」

果南「人魚……姫……?」

梨子「……うん」


果南ちゃんの顔を見ると、ポカンとした顔をしていた。

まあ、そりゃそうだよね。こんな子供の妄想みたいな話……。


梨子「今考えてみれば、子供の勘違いでしかないんだけどね……。でも、当時の私は人魚姫を見たって話を、何度も何度もお母さんやお父さんにしてたから……。きっと、二人にとっても、それがすごく印象深かったんだと思う」


子供の勘違いとはいえ、その勘違いが巡り巡って、今に繋がっているんだとしたら、あのとき見た人魚姫には感謝しなくちゃいけないけどね。

そう思いながら、話を締め括ろうとしたところで、


果南「ねぇ、梨子ちゃん……! その人魚姫って、どんな感じだった!?」

梨子「え?」


果南ちゃんは予想外にも、そんな子供の妄想の話に食いついてきた。


梨子「どんな……えっと……」


何分昔のことだ。詳しい容姿までは覚えていないというか──いや、この間夢に見たのは……。


梨子「……深い海みたいな色の髪をした……綺麗な人魚姫……」


──尤も、果南ちゃんを意識しすぎて、記憶の中で容姿を重ねてしまっている可能性が十分あるんだけど。


果南「……! もう一個聞いていい?」

梨子「う、うん」

果南「どうして人魚じゃなくて、人魚姫だと思ったの?」

梨子「え、えっと……」


そう問われて口籠る。これは果南ちゃんに言うには少し恥ずかしい理由だからだ。


果南「? 梨子ちゃん……?」

梨子「その……わ、笑わない?」

果南「笑う……? なんで?」

梨子「なんというか……その……」

果南「……?」


果南ちゃんは歯切れの悪い私を見て、不思議そうな顔をしていたけど、


果南「……わかった。笑わない。約束するよ」


このままでは、話が進まないと思ったのか、そう約束してくれる。


梨子「……う、うん。それじゃ、えっと……。その……ね」

果南「うん」

梨子「ちっちゃい頃ね……実は……」

果南「うん」

梨子「私、人魚は……──全部、人魚姫だと思ってたの……///」

果南「……え?」


果南ちゃんは再びポカンとした顔をする。


梨子「……あ、あのね! これには理由があって……! 『人魚姫』ってあるでしょ、アンデルセンの童話の」

果南「う、うん。あるね」

梨子「それのイメージがあまりに強すぎて……だから、その……ちっちゃい頃の私は……人魚は全部人魚姫なんだって、勘違いしちゃってて……///」

果南「あー……なるほど」


だから、当時内浦で見たと勘違いした人魚も、人魚姫なんだと思い込んでしまったわけで……。

──今考えてみると、私の話を聞いてお母さんが笑っていたのは、人魚が居たというのが荒唐無稽だったからではなく、もしかしたら人魚=人魚姫だと勘違いしている私が可笑しかったのかもしれない。

そんな、恥ずかしエピソードを披露してしまったわけだけど……。


果南「でも、梨子ちゃん。それ、あながち勘違いじゃないかもしれないよ」

梨子「……え?」


果南ちゃんの反応は、予想外のモノで、


果南「内浦にはね……あったんだよ」

梨子「……? 何が……?」

果南「──人魚姫の噂が」

梨子「人魚姫の……噂……?」


今度は逆に私がポカンとする番だった。


果南「内浦には人魚姫が居るって噂があったんだよ」

梨子「本当に……?」

果南「うん。それも、梨子ちゃんの言うとおり、深い海のような髪色をした人魚姫の噂が……!」

梨子「うそ……」

果南「ホントだよ」

梨子「でもそんな話、誰にも聞いたことなかったよ……?」


内浦は海の町だ。人魚姫の噂自体はあったとしても、そこまでおかしいというほどではない気もする。でも、そんな海の町で──しかも噂話とかが好きそうな千歌ちゃんからも、そんな話は一度だって聞いたことがなかった。


果南「うん。私も今の今まで、人魚姫の噂……あんまり考えないようにしてたんだよね」

梨子「……? どういうこと……?」


噂を考えないようにしていた……?


果南「不思議なことにね、ある日を境に、誰もその人魚姫の噂の話をしなくなっちゃったんだよ」

梨子「……?」


余計に意味がわからず、首を傾げる。


果南「私もその噂は、人から聞いて知ったものだったはずなのに……ある日を境に誰に聞いても、皆『知らない』って言うようになったんだよ」

梨子「そんなことあるの……?」

果南「私も最初は信じられなかったけど……千歌ですら、気付いたら『知らない』って言いだして……」

梨子「…………果南ちゃん、ちょっといい?」


私は、不意に果南ちゃんの手を握ってみる。


果南「梨子ちゃん……?」
 果南『どうしたんだろ……?』

梨子「千歌ちゃんも、前は人魚姫の噂を知ってたの?」

果南「うん、知ってたよ。私も千歌と話したことがあったし」
 果南『むしろ、千歌が人魚姫を探すって言いだして、一緒に探したことがあったくらいだし』


どうやら、本当のことだというのは、間違いないようだ。それだけ確認出来ればいいと思って、私はゆっくりと手を離す。


果南「でもある日、千歌に聞いたら『人魚姫なんて知らない』って言いだしたんだ」

梨子「……それっていつごろだったの?」

果南「えーっと……私が中学に上がるくらいのときだったかな。そのときから、急に皆、人魚姫のことを『知らない』って言いだしたんだよね……。最初は何かの悪ふざけかと思ったんだけど……身近な人たちに聞いても、皆『知らない』って言うから、だんだん気味が悪くなってきてさ……」


確かにそれは軽くホラーかもしれない。


果南「ちょうど母さんたちが、沖縄に行っちゃったところで心細かったのもあったんだろうけど……それ以上、触れるのが怖くなっちゃって……以来、口にしないでいたんだ。でも──」


果南ちゃんの視線が私に注がれる。


梨子「皆が『知らない』はずの人魚姫の噂を……私は知っていた……」

果南「うん」


だから今、私から話を聞いて、極力触れずに考えないようにしていた、人魚姫の噂を思い出したということだ。


果南「私一人がおかしくなっちゃったんだって、ずっと思ってたから……なんか、数年越しに安心した気分だよ」


果南ちゃんはそう言って、安堵したあと──


果南「ねぇ、梨子ちゃん。このあと、私の家に来てくれないかな」


突然、私を家へと誘ってくる。


梨子「いいけど……どうして?」

果南「見せたい物があるんだ」

梨子「見せたい物……。……わかった」


それが何かはわからなかったけど、果南ちゃんが真剣な目で、私を見つめていたから……私は素直にお誘いを受け入れることにした。

そのとき、私に視線を注ぐ、紫色の瞳は──何故だか、少しだけ赤みを帯びている気がした。





    *    *    *





遊園地から帰宅し、ここは果南ちゃんの部屋。


果南「見せたかったものは、これなんだけど……」


そう言って、部屋の中央のテーブルに出されたのは──


梨子「『人魚姫』……」


いつぞやのときに見た、ボロボロの『人魚姫』の絵本だった。


果南「この絵本ね、小さい頃、母さんがくれたものなんだ」

梨子「果南ちゃんのお母さんが?」

果南「母さんも子供の頃から、おばあに読み聞かせて貰ってた絵本みたいでね。お陰でこんなにボロボロなんだけど……」

梨子「どうりで……随分年季が入ってるもんね」

果南「私も母さんに何度も何度も読み聞かせて貰った、思い出の絵本なんだ」

梨子「大切な絵本なんだね……。でも、どうしてそれを私に?」

果南「今日、梨子ちゃんから人魚姫の話が出たから……私ね、不安なときはいつもこの本を読んでたんだ。皆が人魚姫のことを『知らない』って言いだしたときも……それに──」


そこまで言いかけて、果南ちゃんはハッとしたように、口を噤む。


梨子「どうかしたの?」


訊ねながら、果南ちゃんの手に自分の手を軽く添える。


果南「うぅん、なんでもない」
 果南『危うく、鞠莉とのこと話すところだった……』

梨子「そう……?」


鞠莉とのことって……。……そっか、鞠莉ちゃんから拒絶されたときのことか。

確認だけして、手を離す。果南ちゃんは基本的に、スキンシップをあまり気にしないことがわかってきたので、こうして短時間のテレパスを発動するのにもだいぶ慣れてきた。


果南「えっと、話戻すね。……もし、これから先、梨子ちゃんまで人魚姫の噂を『知らない』って言いだしたりしたら嫌だなって……。でも、もし忘れちゃっても、この絵本を見たら思い出してくれるんじゃないかって思って」

梨子「果南ちゃん……」

果南「今確かに梨子ちゃんと一緒に見て、『人魚姫』の話を……人魚姫の噂の話をした。それに梨子ちゃんなら……もし忘れちゃっても、私の言ってること、信じてくれる気がするから……」

梨子「果南ちゃん……うん。もちろんだよ」


私は果南ちゃんの言葉に頷く。

こうして鮮明に話をしたということは、事実として刻まれるはず。

そして──私にはテレパスがある。もし、超常的な力で忘れてしまう何かなんだとしても、果南ちゃんの心を読めば、果南ちゃんとの間にあった事実を認識することが出来るはずだ。

だから、私にとってこの役割は適任としか言いようがない。また、この力のお陰で果南ちゃんの力になれるんだ……!


果南「そういえば、梨子ちゃんも『人魚姫』好きなのかな?」

梨子「え?」

果南「ほら、人魚は全部人魚姫だって勘違いしちゃうくらいには、『人魚姫』を読んでたんでしょ?」

梨子「……/// ま、まあ……/// ……でも、実は『人魚姫』のお話自体は実はそんなに好きではないんだね……」

果南「……そうなの? あんな勘違いするくらいなのに……?」

梨子「その……小さい頃から何度もお母さんに読み聞かせて貰った……らしいんだけど」

果南「覚えてない感じ?」

梨子「あんまり、記憶はないかな……ただ、本当に何度も何度も読み聞かせて貰ったみたいで、物心付いた頃には『人魚姫』の物語は知ってたんだよね」

果南「でも、好きじゃないの……?」

梨子「えっとね、『人魚姫』のストーリーって、人間の王子様に恋をした人魚姫が、自分の声と引き換えに、人間になって王子様に会いに行くけど……結局は恋は実らず、人魚姫は泡になって消えてしまう……ってお話でしょ?」

果南「うん」

梨子「小さい頃はね、その結末が悲しくてすごく嫌で……毎回泣いちゃってたらしいの。……そして、最後は泣き疲れて寝ちゃうの」

果南「ああ……なるほどね」


そこまで、言うと果南ちゃんはピンと来たようだ。


梨子「そう、寝かしつけるのに便利だったから、よく読んでくれてたみたいなの……」

果南「あはは……確かにそれじゃ、好きにはならないかもね」

梨子「ただ……今読めば少しは印象は変わるのかな……」


もう小さい頃の私と違って、いろんなものを見て、価値観も変わって──きっと、昔とは違った物語が見えてくるかもしれない。


果南「ならさ。今、一緒に読んでみる?」

梨子「今?」

果南「さすがに嫌で泣きだしちゃうって言うなら、私も困るから止めておくけど……」

梨子「さ、さすがに今は泣かないよ……!? ……ただ、うん。今読むとどういう風に感じるのかは興味あるかな」

果南「じゃあ、読んでみようか」

梨子「うん」


私は果南ちゃんと一緒に、机に置いた絵本の表紙に手を掛け……ゆっくりと、そのページを開いた──




    *    *    *





──数年振りに果南ちゃんと一緒に読む、『人魚姫』。

有名な話だから、今更かもしれないけど……思い出しながら、目を通す。


とある深い海の底にあるお城に、6人の人魚の姫の姉妹が暮らしていました。

そんな6人の人魚のお姫様の中の末っ子──6人姉妹の一番下の姫君が、物語『人魚姫』の主人公です。

6人の人魚のお姫様たちは好奇心旺盛で、海の外がどうなっているのかに大変興味がありました。その中でも末っ子の人魚姫は皇太后である祖母の話してくれる人間の世界の話に強く関心を持っていました。

姫たちが15歳を迎え、海の外の世界を見ることを許され、ついに年子の6姉妹の末っ子の人魚姫も海の外の世界を見ること許された日、姫は船上で誕生日の宴を行っている美しい王子様を目にします。

人魚姫が美しい王子様に目を奪われていると、気付けば穏やかだった海が次第にうねり始め、急な大シケに襲われました。

稲妻が轟く海の上で、うねる波によってバラバラになった船から投げ出されてしまった王子。人魚姫はこのままでは王子が溺れ死んでしまうと思い、王子を助け一晩中、彼を海面に持ち上げて待ち続けましたが、彼は意識を取り戻しません。

なので、温かい浜辺の方が良いと考え、王子を岸辺に置いて様子を見ていたところ、近くの修道院から出てきた女性が王子に気が付き、連れて行ったことを確認し、人魚姫は海の底へ戻っていきました。

このことをきっかけに、人間に更に強い興味を持った人魚姫は、祖母に人間について質問をします。

そして祖母の答えから、300年生きられる自分たちと違って人間は短命。だけど、死ねば泡となって消える自分たちと違って、人間は魂を持って天国に行けるらしい、ということを知ります。

どうすればその魂を手に入れることが出来るのかを尋ねると──「人間が自分たちを愛して結婚してくれれば可能」だけど「人間たちが異形の人魚たちを愛することはない」と告げられます。

そこで人魚姫は海の魔女の家を訪れ、自身の美しい声と引き換えに自分の尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰い、それと同時に「王子に愛を貰うことが出来なければ、姫は海の泡となって消えてしまう」という警告を受けることになります。

加えて、人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じるとも言われたけど、それでも人魚姫は王子に会いたい一心で薬を飲みました。

薬を飲んだ人魚姫は魔女の言うとおり、刺すような痛みに気を失ってしまったけど……人間の姿で気を失っていた人魚姫を見つけたのは、他の誰でもない、あの王子様でした。

その後、保護された人魚姫は王子と一緒に宮殿暮らすことになるんだけど……歩くたびに足に激痛が走るうえ、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話すことも出来ず、王子も人魚姫が自分の命の恩人だと気付かない。

それでも王子は人魚姫を大層可愛がり、彼女のことを「溺れていたところを助けてくれた人」に似ているとも言うけど、それは自分を浜辺で見つけて保護してくれた修道院の女性のことだと思っている。

ただ、王子もその女性は修道院の人だから結婚は出来ないだろうと諦め気味で「僕を助けてくれた女性は修道院からは出てこないだろうし、どうしても結婚しなければならないとしたら彼女に瓜二つなお前と結婚するよ」と人魚姫に告げるのでした。

ある日、隣国の姫君との縁談が持ち上がります。乗り気ではないものの、王子がその姫君の許を訪ねると──なんと、彼女が王子を助けた修道院の女性でした。

予想だにしなかった想い人が縁談の相手の姫君だと知り、喜んで婚姻を受け入れて彼女をお妃に迎え入れてしまいます。

──悲嘆に暮れる人魚姫の前に、5人の姉たちが現れて、魔女から貰った短剣を人魚姫に差し出します。そして、王子の流した返り血を浴びることで人魚の姿に戻れるという魔女からの伝言を伝えます。

人魚姫は眠っている王子に短剣を構えましたが、隣で眠る姫君の名前を呟く王子の寝言を聞き──手を震わせた後、ナイフを遠くの波間へ投げ捨てました。

人魚姫は愛する王子を殺すことと、彼の幸福を壊すことが出来なくて……自ら死を選び、海に身を投げて、泡となって消えてしまったのでした……。





    *    *    *




──パタンと絵本を閉じる。

ボロボロでところどころ、ページをセロハンテープで貼りなおしていたり、完全に糊が取れてしまって分解しかけているページもたくさんあったけど……本として読む分には一応差し支えはなかった。


果南「……どうだった?」

梨子「……やっぱり、今読んでも……悲しいお話だね」

果南「……そうだね」

梨子「……最後まで王子様のことを想っていたのに……結局最後は泡になって、消えちゃうなんて……」

果南「……うん」


あまりに報われない最後に、目元が潤んでいる──……い、いけないいけない。泣かないって言ったのに。

目元を拭っていると──急に果南ちゃんが頭を撫でてくる。


 果南『ふふ、やっぱり泣いちゃってる』

梨子「……///」


悔しいけど、悲しいものは悲しいんだもん……。そう自分で開き直りながらも、涙一つ流さない果南ちゃんは逆にすごいと思う。


梨子「か、果南ちゃん……///」

果南「んー?」

梨子「も、もう……平気だから……///」

果南「ふふ、そっか」


果南ちゃんは軽く笑って、やっと撫でるのをやめてくれる。

いや、その……撫でられるのは嬉しいけど……これ以上は恥ずかしいから……。


果南「っと……気付いたら、もう随分遅くなっちゃったね」


言われて時計を見ると──時刻は気付けば午後6時。


果南「泊まっていく? ……って、言いたいところだけど、2週連続だと親御さんも心配するだろうから、船出すね」

梨子「いいの?」

果南「今回は私が急に呼んじゃっただけだし……それに、あの時間に淡島に来たら確実に帰りの便はなくなっちゃうってわかってたからね。最初から船で送るつもりだったからさ」

梨子「そういうことなら、お言葉に甘えて……」

果南「それじゃ、行こうか」

梨子「うん」


果南ちゃんのあとを追って、部屋を出て行こうとしたとき、何気なく振り返ると、


梨子「……?」


何故か先ほど果南ちゃんと読んだ絵本が──なんとも形容しがたい不思議な存在感を放っている気がした。


梨子「……何?」


思わず足を止めてしまったけど、


果南「梨子ちゃーん! 早くー! 遅くなっちゃうからー!」

梨子「あ……はーい!」


……片付いた部屋の中で、ボロボロな様相が目立っているだけかな?

そう自分の中で結論付けて、私は果南ちゃんの部屋を後にしたのだった。






    *    *    *





果南「──到着……っと!」


あのあと、果南ちゃんの操舵する小型船舶で本島に戻ってきた。


果南「梨子ちゃん、今日は一日ありがとね」

梨子「こちらこそ、ありがとう。……今日は濃密な一日だったね」

果南「……そうだね」


尾行から始まって、結局その尾行したことを後悔したりもしたけど……。


梨子「『人魚姫』……久しぶりにしっかり読んだ気がするよ。……また家に帰って読み返してみようかな……」


果南ちゃんの家の文字多めの絵本と違って、私の家にあるのは子供向けの絵が多めで短いやつだけど……。


果南「ふふ、泣いちゃったら電話してくれてもいいからね?」

梨子「も、もう、からかわないでよ……!///」

果南「あはは、ごめんごめん」


果南ちゃんはカラカラと笑う。


果南「……でも、さ」

梨子「?」

果南「どうすれば、あの物語は、あんな悲しい結末にならなかったんだろうって……今でも思うよ」

梨子「……」


どうすれば……か……。


果南「……もし、人魚姫の気持ちが……王子様に伝わっていたら……変わってたのかな」

梨子「人魚姫の……気持ち……」

果南「王子様が……人魚姫の考えてることがわかれば……結末は変わってたのかな……」

梨子「……そう……かもね」


相槌を打ちながら、顔をあげると──寒空の下、白い息の向こう側に、ゆっくりと波打つ黒い海が広がっていた。

人魚姫が泡となって消えてしまった、異国の海を思い浮かべながら……私たちはしばらくの間、少し感傷的な気分のまま、揺れる夜の水面を見つめていたのでした。





    *    *    *




──12月16日月曜日。

期末試験が終わり、二学期の登校日も残すところ7日ほど。

木曜からは授業も午前授業だけで終わるので、今学期でいつもどおり授業を行うのはあと3日。

教室の雰囲気もすっかり、二学期のロスタイムのような感じだ。


梨子「ふぁ……」


かくいう私も少し気が抜けている気がする。

欠伸を噛み殺しながら、バッグの中身を整理していると、


千歌「りーこちゃん♪ おはよ♪」


すぐ後ろの席から、千歌ちゃんの声。


梨子「おはよう、千歌ちゃん。ご機嫌だね」

千歌「うん! 週末は良いことがいっぱいあったから!」

梨子「そうなんだ?」

千歌「そうなんだよ~! 昨日も一日中、ダイヤさんと一緒で……えへへ~♪」

梨子「ふふ、よかったね」

千歌「うんっ!」


幸せオーラを全身から放ちながら、朗らかに笑う千歌ちゃんを見ていると、なんだか微笑ましくて笑ってしまう。

──きっと、千歌ちゃんの言う“良いこと”の中には、私たちが知るはずのなかった例のこともあるんだと思うと、少しだけ良心が痛むけど……それでも、千歌ちゃんが幸せそうに笑っているのは一人の友人として純粋に嬉しい。


千歌「梨子ちゃんにも、良いことのおすそ分け!」

梨子「?」


そう言いながら、千歌ちゃんが1枚の紙を差し出してくる。

受け取って、見てみると……。


梨子「あ……歌詞」


それは、歌詞の綴られたルーズリーフだった。千歌ちゃんのソロ曲の歌詞だ。


千歌「なんか、いいこといっぱいあったから筆が乗っちゃって……」


それは何よりだ。私も、幸せいっぱいの千歌ちゃんに、無理やり歌詞の催促はしづらいからね。

今しがた受け取ったばかりの歌詞に目を通すと、そこには未来へのたくさんの期待や希望がこれでもかと散りばめられた、いかにも千歌ちゃんらしい前向きでキラキラとした詩が綴られていた。


千歌「どうかな?」

梨子「うん、素敵な歌詞だと思うよ」

千歌「やった! 一発OK!」

梨子「曲調のイメージは希望とかある?」

千歌「うんとね、とびっきり楽しいやつ! ミュージカルみたいなのがいい!」

梨子「ミュージカルだね。わかった、考えてみる」

千歌「ありがとう、梨子ちゃん! 一応ダイヤさんにも、そうお願いしたんだけど……難易度が高いって言われちゃって」

梨子「あはは……確かに、お琴でミュージカルはちょっと難しいかもね……」


どうしても、楽器には得手不得手がある。

お琴をメインに作曲をするダイヤさんには、ミュージカル調の曲とは相性が悪いと思うので、それは出来なくても仕方ないかな。

どっちにしろ、作曲や編曲は私の仕事だから、それ自体はそこまで問題ではないし。


梨子「それじゃ、持ち帰って作曲するね」

千歌「うん! お願いね!」


──さて、これで歌詞を提出してくれたのは、ルビィちゃん、曜ちゃん、鞠莉ちゃん、善子ちゃん、ダイヤさん、千歌ちゃんの6人。

加えて、私も少しずつ進めていた自分の曲の作詞と作曲がほぼ完成している。

残りは花丸ちゃんと──果南ちゃんだ。


梨子「…………」


そういえば、果南ちゃん……作詞は平気かな……?

以前見てしまった歌詞ノートには苦戦しているのが見て取れたけど……。

今日もお昼休みに会うから、そのとき聞いてみようかな……?





    *    *    *





お昼休み、いつもどおり教室を弾丸のように飛び出していった千歌ちゃんに苦笑しながら、同じように恋人の所へと行く、曜ちゃんを見送ってから、私も部室へと向かおうと荷物をまとめて教室を出ると、


花丸「梨子ちゃん!」

梨子「花丸ちゃん?」


ちょうど、教室を出たところで花丸ちゃんに声を掛けられた。


梨子「どうかしたの?」

花丸「うん、歌詞が完成したから渡しに来たずら」


そう言いながら、花丸ちゃんは歌詞の書かれた紙を手渡してくる。


花丸「歌詞自体はもうちょっと前に完成してたんだけど……作曲の方がなかなか進まなくて、ちょっと遅くなっちゃったずら……ごめんなさい」

梨子「うぅん、大丈夫だよ。むしろ、作曲までしてくれて助かるよ」

花丸「ただ、あいしーれこーだー? の使い方がよくわかんなくて……曲のでーたみたいなものは手元にないんだけど……」

梨子「わかった。それじゃ、放課後に一緒に音楽室で確認しよっか」

花丸「お願いするずら。それじゃあ、また放課後に」


花丸ちゃんはそれだけ言うと、踵を返して帰って行く。用事は歌詞を渡しに来ただけだったようだ。

今しがた受け取った歌詞に軽く目を通す。

何気ない日常を少し俯瞰して見つめながら、そんな中に溢れる、ほんわかとした言葉選びと雰囲気が、絶妙に花丸ちゃんらしさを醸し出している歌詞だった。

──これで歌詞は8人分。


梨子「あとは果南ちゃんの歌詞だけか……」


一人呟きながら、私はその果南ちゃんと一緒にお昼を食べるために部室へ向かう──




    *    *    *





果南「お、きたきた」


部室を訪れると、果南ちゃんは先に席に着いて待っているところだった。


梨子「遅くなって、ごめんね」

果南「大丈夫だよ、私も今きたところだから」


自然と果南ちゃんの隣の席に腰を下ろす。

この位置も自分の定位置になりつつある。もう随分慣れてきた。

いそいそとお弁当箱を取り出して、食べる準備を整える。


梨子・果南「「いただきます」」


二人で手を合わせて、いただきます。


梨子「今日のお出汁はなんですか?♪」

果南「今日は真イワシだよー」


そう言いながら果南ちゃんは出汁巻き卵を半分に切ってから、私の口元に差し出してくる。


梨子「……あむ」


我ながら、本当によく慣れたものだと褒めてあげたくなるくらい、自然と食べさせてもらう。

出汁巻き卵を口に含むと、コクのある出汁の味と香りが口いっぱいに広がる。


果南「おいしい?」

梨子「うん、おいしい……」


また初めて食べる出汁を味わいながら、私もお返しにと自分で作った、たまご焼きを果南ちゃんのお弁当箱を入れてあげる。


果南「いつもありがとう、それじゃ遠慮なく……」


果南ちゃんは渡したたまご焼きをすぐに口に放り込み、


果南「んー……! やっぱ、梨子ちゃんの作るたまご焼きの甘さ加減、絶妙だよ~!」


嬉しそうに舌鼓を打つ。

もはや、こうしてたまご焼きを交換し合うのがお決まりになりつつあるお昼休み。

すっかり毎朝たまご焼きを作るのが習慣になってきてしまったけど……こうして果南ちゃんが喜んでくれるのが嬉しくて、朝の忙しい時間の中でもあまり大変と感じない。


果南「梨子ちゃんのたまご焼きが食べられて幸せだなぁ……」

梨子「えへへ……/// 私のでよかったら、これからも作ってくるから……///」

果南「お陰で毎日お昼休みが楽しみだよ。……あ、でも二学期のお昼休みって明後日で終わりなんだっけ」

梨子「そうだね。木曜からは午前授業で終わりだから……」

果南「残念だなぁ……今年はあと2回しか食べられないのかぁ」

梨子「ふふ……そんなに食べたいなら、冬休みの間、果南ちゃんのお家に作りに行っちゃおうかな?」

果南「ホントに!? 梨子ちゃんが来てくれたら、おじいも喜ぶよ!」

梨子「あ、でも……おじいちゃん、甘いたまご焼き食べられる?」

果南「平気平気、おじいあれで甘い物、結構好きだからさ」

梨子「そうなの? 意外かも……」

果南「でしょ? ただ、それ指摘されると機嫌悪くなるから、言わないようにしてるけどねー」

梨子「ふふ、おじいちゃんも意外と可愛いところあるんだね」


会話も最初の頃に比べると随分弾むようになってきて、お互い冗談も言い合える仲になった気がする。

──あ、でも果南ちゃんのお家に行こうかって言うのは、半分くらい本気だけどね?


果南「そういえば、今日は来るのがゆっくりだったけど、二年生って四時間目移動教室だったの?」

梨子「あ、うぅん。部室に行く前に、花丸ちゃんと話してて……」

果南「マルと?」

梨子「うん、歌詞を渡されて……」

果南「……歌詞」


果南ちゃんのお箸が止まる。


梨子「……やっぱり、歌詞苦戦してる……?」

果南「え? あーいや、もうちょっとでできそうだよ、大丈夫! せめて、千歌よりは早く完成させないとかなーあはは」

梨子「あ、えっと……千歌ちゃんの歌詞も今朝完成したものを受け取ったよ」

果南「え、そうなんだ……。となると、もしかして私が最後……?」

梨子「うん、一応そうなるのかな……」


もちろん、これから譜割りとかで、調整とかもするだろうから、千歌ちゃんと花丸ちゃんの歌詞も正確には完成ではないけど……。


果南「あちゃー……ごめんね。すぐに完成させて持ってくるから」

梨子「うん。でも、焦らなくても大丈夫だからね?」

果南「ありがとう。ちゃっちゃと終わらせちゃうよ」


いつものように雑談をしながらお弁当を食べる果南ちゃんだけど──話に受け答えをしながらも、僅かに目が泳いでいたのを私は見逃さなかった。


梨子「果南ちゃん、本当に大丈夫?」


言いながら、果南ちゃんの手にさりげなく自分の手を添える。


果南「平気だよ、心配しないで」
 果南『……ホントはまだ全然出来てないけど……どうにかしなくちゃ』


案の定、果南ちゃんの歌詞進捗は煮詰まっているようでした……。




    *    *    *





──放課後。


ダイヤ「さて、皆さん。今年の登校日も残すところ数日です。年末年始は何かと忙しいメンバーも多いと思うので、冬休みまでのあと数日、しっかり活動をしましょう」

千歌「なんか最近、部長としてのお株を奪われてる気がする……」

ダイヤ「なら、何か言いますか? 部長さん?」

千歌「え? ……んー……皆とにかく楽しく元気に頑張ろう!」

ダイヤ「だそうです」

善子「……今のいる?」

曜「あはは……」


千歌ちゃんの気の抜ける挨拶もそこそこに、私は遠慮気味に手をあげる。


梨子「あのー……果南ちゃんは……?」


ダイヤさんが部活の前の一言を言った時点で、部室に居たのは8人。

果南ちゃんの姿が見えない。


鞠莉「果南は今日は先に帰ったわ。やることがあるって言ってた」

梨子「……そうなんだ」


やること──恐らく歌詞作りだと思う。

歌詞の作業のために、部活を休むというのは、だいぶ逼迫してきているのかもしれない。

果南ちゃん……心配だな。

とはいえ、私にもやることはある。


ダイヤ「それでは本日もソロ曲の作業を進めましょう」

曜「ルビィちゃんと私は衣装作りだね」

ルビィ「うん!」

曜「今日は、善子ちゃんの衣装案まとめちゃおう」

善子「くっくっく……苦しゅうないぞ、リトルデーモンたち」

ダイヤ「では、わたくしと鞠莉さんは、皆さんから貰った案を見ながら、どれが可能なステージ演出なのかを考えましょうか」

鞠莉「そうデースね」


それぞれが、それぞれの仕事に散っていく。


梨子「それじゃ、千歌ちゃんと花丸ちゃんは私と音楽室に行こっか」

千歌「わかったー!」

花丸「よろしくお願いするずら」


果南ちゃんは心配だけど……今は私も私の仕事をしよう。




    *    *    *





花丸「ららら~~♪」

梨子「……そこでストップ」

花丸「ずら」


花丸ちゃんのフレーズごとにリズムを口ずさんでもらって、それをピアノで弾きなおす。

そして、五線譜に簡易的なおたまじゃくしと作曲用のメモを書く。


梨子「次のフレーズお願いしていい?」

花丸「了解ずら~。……らーららら~~♪」


そんな作業の繰り返しで曲を起こしていく。

その過程で違和感のある部分を花丸ちゃんと擦り合わせながら修正していく作業なんだけど──


花丸「らららららら~♪ ……これで終わりずら。どうかな……?」

梨子「すごくいいと思うよ……! 私が手を加える部分なんて、ほとんどないと思う」

花丸「本当に? よかったずら~……」


鞠莉ちゃんもダイヤさんも花丸ちゃんも作曲組は文句のつけようがない作曲をしてきてくれていて、本当に助かる。


梨子「あとはこっちで預かって、編曲が出来たらまた聴いてもらうね」

花丸「了解ずら!」

千歌「花丸ちゃん、お疲れ様!」


音楽室の椅子に座って、楽譜起こしを見ていた千歌ちゃんが駆け寄ってくる。


千歌「すっごいいい曲だったよー! 完成が楽しみだね!」

花丸「ありがとう千歌ちゃん。そう言って貰えると肩の荷が下りた気がするずら……」

千歌「梨子ちゃんもすごいね! 一回花丸ちゃんが口ずさんでるの聴いただけで、ピアノで弾けちゃうんだもん!」

梨子「これでも、Aqoursの作曲担当だからね」

千歌「頼もしい! やっぱ梨子ちゃんさまさまだよ~」


もちろん、編曲するに伴って、今弾きながら書いていた簡易的な楽譜も、あとで軽く浄書しなくちゃいけないから、まだ完成ではないけどね。


梨子「どういたしまして。それじゃ、次は千歌ちゃんの作曲だね」

千歌「はーい! お願いしますっ!」

花丸「マルもここで聴いていてもいい?」

梨子「もちろん。……えーと、千歌ちゃんの楽曲イメージはミュージカル調だったよね」

千歌「うん! とびっきり楽しいやつ!」

梨子「わかった。とりあえず、何パターンか知ってる曲を弾いてみるから、近いイメージのやつを選んでくれる? そこからイメージを固めてこう」

千歌「了解!」


──作曲の作業はかなりスムーズに進行していた。

花丸ちゃんの曲は、そもそも完成度が高い状態で聴かせて貰えたし、千歌ちゃんも思ったより、自分の中でイメージが固まっていたらしく、


千歌「……もうちょっと、テンポが速いのがいいかな」

梨子「じゃあ、2番目の曲?」

千歌「うぅん、4番目の曲のテンポが少し速い感じで──」


と言った具合に、必要以上に遠慮をせずにイメージの意見を出してくれるので、こちらも千歌ちゃんがどういう曲調を求めているのかがわかりやすくて、早い段階で曲の大まかな骨組みが決まっていく。

何曲も作詞作曲を二人でやってきて、野球で言うバッテリーのような信頼関係を築いてきた証拠なのかもしれない。

一応今日の予定では大まかなイメージ決めだけのつもりだったけど……気付けば、あれよあれよと言う間に主旋律の作曲に差し掛かっていた。


花丸「あっという間に曲が完成していくずら……」

梨子「千歌ちゃんのイメージが明確だからね」


そうは言っても、私自身の中でも十分早い作曲ペースだと思うけど。

何より、千歌ちゃんがガンガン口ずさむなり、こういう風にしたいという具体的な案を言ってくれるからこそだ。


梨子「……じゃあ、ここの旋律を繰り返して……」

千歌「ねぇねぇ、梨子ちゃん」

梨子「ん?」

千歌「今思い付いたんだけど、もっと聴いてる人が『あっ!』と驚くような感じに出来ないかな!!」

梨子「驚くような……か」

千歌「急に曲調が変わるような感じとか!」


千歌ちゃんの話を聞きながら、軽くメモをしていく。

そうなると、変調……いや、千歌ちゃんの言ってるニュアンスだと変拍子した方がいいかな……。


千歌「楽しい気持ちの中にね、驚きとか発見があったらいいなって!」

梨子「……なるほど。でも、それだと譜割りが大変になるかもよ?」


今見た歌詞の譜割りを頭の中で考えながら作曲をしていたから、その旋律リピートを考慮していそうなこの歌詞の並びだと、少し言葉を調整しないといけない気がする。


千歌「なら、書き直す! ちょっと歌詞借りるね!」

梨子「え、今!?」


私が見ながら弾いていた歌詞の書いてある紙を、ひったくるようにして回収した千歌ちゃんは、取り出したペンで歌詞をどんどん修正していく。


花丸「千歌ちゃん、今から修正するずら!?」

千歌「…………」

花丸「あ、あれ? 千歌ちゃーん?」

梨子「たぶん、聞こえてないっぽいね」

花丸「す、すごい集中力ずら……」


千歌ちゃんは作詞をしているとたまにこうなる。

こうなると周りの声が全く聞こえないくらいに集中して、そこまでの詰まり具合が嘘のように、歌詞を書き始める。

ただ、経験上これはすごくいい傾向だ。


梨子「こうなったら、千歌ちゃんはすごいから。きっといい曲になると思うよ」

花丸「千歌ちゃんのこと、信頼してるんだね」

梨子「ふふ……これでも、一緒にたくさん曲を作ってるからね」

千歌「…………ここ、こう」


千歌ちゃんの曲は予想以上に早く完成しそうだ。曲が出来るまであと一歩かな──





    *    *    *





──翌日。お昼休みに部室へ行くと、


果南「…………」


果南ちゃんがノートと睨めっこをしているところに出くわす。


梨子「果南ちゃん?」

果南「え、あ、梨子ちゃん」


声を掛けると、果南ちゃんはパタンとノートを閉じる。


梨子「歌詞、考えてたの?」

果南「う、うん、まあ、ちょっとね、あはは」

梨子「順調?」

果南「う、うん、そこそこかな」

梨子「本当に?」


また、さりげなく果南ちゃんの手に自分の手を添えながら訊ねてみる。


果南「ぅ……も、もちろん」
 果南『昨日から一文字も進んでないなんて……言えない』

梨子「そっか……」


私は添えていた手を離しながら、果南ちゃんの隣に腰を下ろす。


梨子「お昼ごはん、食べようか」

果南「そ、そうだね」


私がお弁当を取り出していると──


果南「あ」

梨子「? どうかしたの?」

果南「お弁当……忘れちゃった……」


果南ちゃんはそう言って、項垂れる。

こんなこと今までなかったし……相当切羽詰まっているようだ。


果南「ちょっと、近くのコンビニになんか買ってくる……」

梨子「近くのコンビニって……学校から往復で5㎞くらいあるよ……?」

果南「走れば20分くらいで帰って来られるよ」


速っ! ……じゃなくて……。


果南「ちょっと行ってくるね」

梨子「あ、か、果南ちゃん……!」


有無を言わさず猛スピードで果南ちゃんは飛び出して行ってしまった。


梨子「…………」


一瞬追いかけて引き留めようかと、迷いはしたものの……どうせ私の足じゃ、走っても追いつけっこないし……。

少しの間、果南ちゃんを待つことにする。

ふと──件の歌詞ノートが置かれたままなことに気付く。


梨子「…………」


一応、果南ちゃんが戻ってきていないかを確認してから、開いてみると──

そこには大きな文字で『私のイメージ』と書かれている。

それ以外は前回見たときから増えている情報もほとんどないので、どうやらそこから先に進めていないようだった。


梨子「……イメージ、か」


どうやら、果南ちゃんは自分が周りの人からどういう風に見られているのかを必死に考えているようだ。


梨子「…………」


果南ちゃんなりにソロ曲を作るのはどういうことかを考えた結果なんだろうけど……私は果南ちゃんのソロ曲作りの考え方に少し困ってしまう。

大事なのは周りのイメージじゃないと思うけど……ただ、どうやってそれを伝えればいいんだろう……。

私はノートを前に、悩みながら果南ちゃんの帰りを待っていたけど……結局、果南ちゃんが戻ってくるまで、うまく伝える言葉が出てこないまま頭を抱えていることしか出来なかった。

──ちなみに果南ちゃんが本当に20分程で部室に戻ってきたというのは、余談かな……。





    *    *    *





放課後になり、部活の時間。

だけど、今日も部室内に果南ちゃんの姿はなかった。


曜「千歌ちゃん、花丸ちゃん、衣装案って出来てる?」

千歌「あ、うん!」

花丸「マルも出来てるずら」

ルビィ「それなら、今日は二人の衣装案を確認するね」

千歌「はーい!」

花丸「お願いね、ルビィちゃん」

ダイヤ「……善子さん」

善子「善子じゃなくて、ヨハネよ。何かしら?」

ダイヤ「このいかつい感じの……なんですか、これは……? 墓石ですか?」

善子「椅子よ! 椅子! 見ればわかるでしょ!?」

ダイヤ「こんなデザインの椅子、あると思っていますの……? せめてもう少し現実的なデザインにしてくれないと……」


各々は作業に入っている。私にも編曲作業はいくつかあるけど……。


梨子「…………」


果南ちゃんが気になる。

完全に煮詰まってしまっている果南ちゃんをこのまま放っておいていいんだろうか……。

でも、自分の仕事を放り出して、抜けるわけにも……。一人で悶々としていると、


鞠莉「梨子、ちょっといいかしら」


鞠莉ちゃんに声を掛けられる。


梨子「ん、何かな……?」

鞠莉「ちょっと、曲について聞きたいことがあって」

梨子「曲について……?」


なんだろう……? 鞠莉ちゃんの曲はもう完成してるし、他に鞠莉ちゃんが気にしそうな曜ちゃんの曲も、すでに完成済みだ。


鞠莉「音楽室で確認したいから、付いてきてくれる? あ、荷物は持ってきてね」

梨子「……わかった」


内容はよくわからないけど、曲関連のことで私が話を聞かないわけにもいかない。


梨子「鞠莉ちゃんと音楽室に行ってくるね」

千歌「いってらっしゃーい」


──鞠莉ちゃんと一緒に部室を出ると、鞠莉ちゃんはすたすたと先を歩いていく。

私はその後ろを付いていく。……行くんだけど……。


梨子「……? 鞠莉ちゃん、音楽室の方向そっちじゃないよ……?」


鞠莉ちゃんは何故か昇降口の方を目指していた。


鞠莉「行きたいんでしょ?」

梨子「……え?」

鞠莉「果南のところ」

梨子「え!? い、いや……えっと……」

鞠莉「顔に書いてあるよ」


どうやら、果南ちゃんの進捗を心配しているのが、バレてしまっていたらしい。


梨子「でも……私だけ部活を抜けて行くのは……」

鞠莉「梨子が行かなくて誰が行くの?」

梨子「そ、そりゃ、鞠莉ちゃんとか……ダイヤさんとか……果南ちゃんが一番素直に悩みを話せる人が行った方が」

鞠莉「違うよ、梨子」

梨子「?」


何が違うんだろう……? 私が首を傾げていると、鞠莉ちゃんはニコっと笑って、


鞠莉「果南が今、一番素直に悩みを打ち明けられるのは──梨子だヨ」


そんな風に言う。


梨子「え……な、なんで、そう思うの……?」


まさか……テレパスもバレた……? どうやって……?

急に別のベクトルの不安が胸中を渦巻いたけど……さすがにそれは杞憂だった。


鞠莉「だって……休日にペアルックで、尾行デートしちゃうくらいの仲なんでしょ?♪」

梨子「!?」


ただ、これまた別のベクトルでバレたくないことがバレていた。


梨子「え、あ、いや……えっと……」

鞠莉「確かに変装は上手だったけどネ。ずっと同じカップルがわたしたちの後ろに付いて回ってるんだもん。さすがに気付くでしょ」

梨子「…………」


言われてみれば無理があったかもしれない……。


梨子「……あの……ごめんなさい……」

鞠莉「そうね。あんまり、おイタしちゃダメよ?」

梨子「はい……。……あの、このこと曜ちゃんたちは……?」

鞠莉「曜と千歌は気付いてないわ。いろいろ考え事してたと思うから。あと、ダイヤも余裕がなかったから、気付いてないっぽいネ。だから、気付いていたのはわたしだけだヨ」

梨子「そっか……。……その、本当にごめんなさい……」

鞠莉「……ま、わたしはそんなに気にしてないし、果南や梨子の立場だったら尾行しちゃいたくなる気持ちもわからなくもないからネ。ただ……」

梨子「ただ……?」

鞠莉「曜と千歌のことは見なかったことにしてくれると嬉しいかな……。千歌の方はわかんないけど……少なくとも曜は、梨子を巻き込まないように意識してたから」


曜ちゃん……そんな風に思ってたんだ……。それを聞いて、きっと千歌ちゃんも同じような気遣いをしてくれていたんじゃないかなと思う。


梨子「うん……わかった」

鞠莉「代わりに……ってわけじゃないけど」

梨子「……?」

鞠莉「果南のこと、お願いしていい?」

梨子「……。……私で、いいのかな」

鞠莉「さっきも言ったけど、今果南が一番素直に本音を打ち明けられるのは梨子だと思うヨ」

梨子「…………」


──いや、ここまで来て、何怖気付いてるんだ私。

私は、果南ちゃんを支えるんだって、決めたじゃないか。

私にしか出来ないから、この“ご縁”は回ってきたんだ。


梨子「わかった」

鞠莉「Thank you. 梨子。お願いね」

梨子「うん……!」


私は力強く頷いて、学校をあとにするのでした。




    🐬    🐬    🐬





今日も部活を休んで、帰宅し机に向かう。


果南「………………」


ペンを握ったまま、ノートと睨めっこを始めて、もう1時間が経過しようとしていた。

なのに──


果南「全く思い浮かばない……」


さっきから開いているページは依然でかでかと書かれた『私のイメージ』という文字以降これっぽっちも進んでいない。


果南「鞠莉とダイヤと、三人でやってたときはこんなことなかったのに……」


もちろん、全く歌詞に悩んだことがないわけじゃないけど……逆に言うなら全く何も思い浮かばないということもなかった。

なんとなく、こういう歌詞にしたいなーという着想が最初からあって、そのアイディアを二人に話しているうちに、完成に近付いていく……いつもそんな感じだった。

──でも、今回はダメだ。まず最初のとっかかりすら湧いてこない。


果南「…………私の曲……」


自分のAqoursでの立ち位置をもう一度考えてみる。

たぶんだけど……可愛いタイプの千歌やルビィちゃんとは違う。

どっちかといえばクール寄りだとは思う……だけど、ダイヤや善子ちゃんとも違う。

鞠莉なんかは真逆だし……物事に対して、一歩引いてるマルは少し近い……のかな……?

でも、マルと私を隣に並べて考えると……なんか、雰囲気が全然違うな……。

スポーティな曜ちゃんなら近い……?

でも、曜ちゃんの場合は、私よりもアグレッシブな感じがする……。

私はどっちかというと黙々と一人でこなすタイプで……。

じゃあ──


果南「梨子ちゃん……」


最後に残った一人を思い浮かべて、


果南「いや……それこそ、真逆だよ……」


かぶりを振る。

梨子ちゃんは私とは全然違う。すごく女の子らしくて、可愛らしい子。

私とは真逆の女の子だからこそなのかな……そばに居てくれるだけで何故か安心出来て──


果南「……って何考えてんだ。真面目に作詞……作詞……」


再び、ノートに視線を落とす。

だけど、ペンは一向に動きそうもない。


果南「……うぅーん……」


いくら頭を抱えても、何も浮かんでこない。


果南「……はぁ、ダメだ……。ちょっと気分転換に散歩してこようかな……」


私は上着を羽織って、休憩がてら、散歩に行くことにする。





    🐬    🐬    🐬





果南「はぁー……」


吐いた溜め息は、白く立ち昇り冬の淡島の空に消えていく。

先週末はたまたま暖かかったけど、今週に入ってから、思い出したかのように冬本来の寒さを取り戻してきた。

もしかしたら、あの暖かい日和は、試験を頑張った千歌たちへのご褒美だったのかもしれない。

そんなことを考えながら見上げる空は、高く澄んでいる。

淡島をぐるっと回りながら、空を見上げ、ときおり海に視線を落とす。


果南「今日も綺麗だなぁ……」


景色を見ながらぼんやりと呟く。

私はこの景色が好きだ。

だから、もやもやしたときはこの景色をゆっくり見ながら散歩をする。

そうすれば大体の場合は気分がすっきりしていい考えが浮かぶんだけど……。


果南「なんにも……浮かんでこない……」


悲しいことに、考えども考えども、いい歌詞は一向に浮かんでこない。


果南「はぁ……」


再び白い溜め息を吐く。気付けば淡島もそろそろ一周してしまう。

伏し目がちのまま、歩いていると──


 「──果南ちゃん」


急に声を掛けられた。


果南「え……?」


思わず顔をあげた私は、その声の主を見て、ポカンとしてしまった。


梨子「こんにちは、お昼休みぶりだね」

果南「梨子ちゃん……?」


そこに居たのは──梨子ちゃんだった。


梨子「歌詞……順調?」

果南「…………」


ああ、そうか……。歌詞が出来ていないと、一番困るのは、この後に作曲作業が控えている梨子ちゃんだ。


果南「ご、ごめん……! あとちょっとでできるから……!」


梨子ちゃんに迷惑は掛けたくない。そんな一心で口走る。

無理でもなんでも、今すぐにでも歌詞を完成させないと……!


果南「すぐに完成させて持ってくるから……!」


そう思って、焦って家に戻ろうとする私。


梨子「待って、果南ちゃん」


そんな私の手を、梨子ちゃんが引き留めるように両手で包み込む。

そのまま、私の目を覗き込むようにして、


梨子「本当に……順調?」


梨子ちゃんは、そう問いかけてきた。


果南「…………順調だよ」


嘘だ。

こんな見栄を張っても、歌詞は出来上がらない。

ふと、なんでこんな嘘吐くんだろう……? と思ったけど──目の前にある、この二つの円らな瞳が……理由だと思う。


梨子「……」


私は梨子ちゃんの前では、かっこつけていたいんだ。


梨子「…………」


梨子ちゃんは私の手を握りしめたまま、少しの間、考え込むように目を瞑っていた。

そのまま、数呼吸ほど置いたのち──


梨子「……ねぇ、果南ちゃん」


ゆっくりと目を開けて、私の名前を呼ぶ。


果南「何かな……?」

梨子「果南ちゃんは、どんなソロ曲にしたい?」

果南「どんな……」

梨子「うぅん、どんなソロ曲を今作ってる?」

果南「……わ、私らしい……曲を……」

梨子「果南ちゃんらしい……どういう曲?」

果南「…………」


それがわからない。

私らしい曲が、どんなものかが、わからない……。私がAqoursの一メンバーとして、作れる曲ってどんなものだろう……。

また頭の中がぐるぐるしてきた。私は何が……どんな歌詞を書きたいんだろう……。

だんだん頭が痛くなってきた。──それに呼応でもするかのように、最近発作的に痛む足が、痛みを訴え始める。


梨子「……! 果南ちゃん、ちょっと座ろうか」

果南「え、いや……」

梨子「いいから」


梨子ちゃんに手を引かれて、近くのベンチに二人で腰掛ける。

そのお陰か、足の痛みは少しマシになる。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」


梨子ちゃんは手を繋いだまま、再び私の瞳を覗き込むようにして、語りかけてくる。


梨子「そんなに難しく考えなくていいんだよ」

果南「え……?」

梨子「Aqoursの一メンバーとか、自分のイメージとか、そういうことに拘らなくてもいいんじゃないかな」

果南「…………」


梨子ちゃんはまた見透かしたようなことを口にする。

でも……そんなこと言われても……。


果南「……じゃあ、どうすれば……」


手掛かりもなく、闇雲に曲なんて作れない。

これは最低限のテーマのつもりだ。なのに、それに拘るなと言われても……。

再び言葉に詰まる私を見て、梨子ちゃんは、


梨子「……ちょっと待ってね」


ごそごそと自分のバッグを漁り──


梨子「これ……」


私の手にあるものを握らせる。


果南「……? 音楽プレイヤー……?」


それは、イヤホンの付いた小型の音楽プレイヤー。


梨子「この中に、皆の曲が入ってるから」


皆の──つまり、もう完成した他のメンバーのソロ楽曲が入っているということだ。

……聴け、ということだろうか……?

私は、イヤホンを耳にはめて、プレイヤーの画面を点ける。

すると、曲のリストが表示される。


梨子「まだ、歌まで入ってるのが、全員分あるわけじゃないけど……」

果南「『Ruby's song:RED GEM WINK』……」


一番上にあったのはタイトルからして、ルビィちゃんのソロ曲。

私は、再生ボタンを押して──ルビィちゃんの曲の試聴を開始する。

──爽やかな調子のイントロから始まる楽曲。


果南「え……?」


その歌詞を聴いて、私は目を丸くした。

これって……。歌詞に集中しながら曲を聴くこと数分。

楽曲が終わって、イヤホンを外す。


梨子「どうだった?」

果南「……これ、ホントにルビィちゃんが……?」

梨子「ふふ、驚くよね。私も最初、歌詞と曲のイメージを貰ったときは驚いたよ」

果南「うん……ルビィちゃんが……恋の歌……恋の歌詞を……」


──そう、ルビィちゃんのソロ曲は恋の歌だった。

恋に憧れる、女の子の気持ちを歌った、そんな曲。


梨子「ルビィちゃんね、誰よりも早く歌詞を完成させて持ってきたんだよ」


歌詞の提出がとにかく早かったことは、なんとなく聞いていたけど……。


梨子「ルビィちゃん、恋に憧れてるんだって」

果南「恋に……?」

梨子「うん。身近な人が恋をして、変わったから……恋ってどういうものなんだろうって」

果南「それって……」

梨子「うん──ダイヤさんが恋をして、千歌ちゃんと過ごしている姿を間近で見て、思ったんだって──『ルビィもいつか……お姉ちゃんたちみたいな素敵な恋が、出来るのかなぁって。……してみたいなって……』──その気持ちを詩にして、持ってきてくれたんだよ」

果南「……あのルビィちゃんが……恋の歌……」

梨子「果南ちゃん、この曲は果南ちゃんのイメージどおりのルビィちゃんだった?」

果南「…………それは」


──イメージどおりではない。ルビィちゃんがまさか自分のソロ曲で、恋の詩を書いてくるなんて思っていなかった。


梨子「訊き方、変えるね。この曲を聴いて、どう思った?」

果南「……ルビィちゃん、こんなこと考えてたんだって……思った」


誰よりも早く歌詞を書き上げたというルビィちゃん。きっと、あの小さな胸の中に、たくさんの恋を憧れをいつも抱いていて、それが溢れてきたような、そんな歌だった。


果南「でも……」

梨子「でも?」

果南「すごく、ルビィちゃんらしい曲だとも……思った」

梨子「……そっか」


自分でも矛盾していると思う。でも、なんでかわからないけど、紛れもなくルビィちゃんの言葉や気持ちが伝わってくる、そんな一曲だと思えるものだった。


梨子「確かに自分に求められてるイメージみたいなものってあるのかもしれないけど……そこに執着する必要はないんじゃないかな。心から思った言葉なら、伝えたい気持ちなら、それはどんな形になっても、果南ちゃんの言葉として、歌として、皆に伝わると思うから……」

果南「梨子ちゃん……」


──ああ、そうか。梨子ちゃんは、私にそれを伝えるためにここまで来てくれたんだ。

だけど……ここまで、してくれたのに──私の中に……歌詞が浮かんでこない。


果南「…………」


私が伝えたい気持ちってなんだろう。今度はそんなことが頭の中をぐるぐるとし始める。

これ以上、迷惑掛けられないのに──そう思った時だった。梨子ちゃんが握ったままの手をより強く握りしめるようにして、私の手を包み込む。


果南「梨子ちゃん……?」

梨子「……ねぇ、果南ちゃん」

果南「なにかな……?」

梨子「……一つ、お願いがあるの」


梨子ちゃんは再び私の瞳を覗き込むようにしながら、そう口にする。


果南「お願い……?」

梨子「うん、あのね──」





    🐬    🐬    🐬





──翌日の放課後。


果南「──これでよし……! 苦しくない?」

梨子「……ちょっと圧迫される感じがして、苦しい……」

果南「ならOKだね」

梨子「OKなの……?」

果南「水が入ってこないようにするためのドライスーツだからね。水に入っちゃえば水圧との関係でスーツ内部の空気が圧縮されるから、苦しくなくなると思うよ」

梨子「わかった……ちょっと我慢する」


ドライスーツを身に纏った梨子ちゃんがペタンと船上の椅子に腰を下ろす。


果南「それにしても意外だったよ──梨子ちゃんがダイビングしたいなんて言うとは」


──梨子ちゃんのお願いは、一緒にダイビングがしたいという内容だった。


梨子「うん。……きっと、今の果南ちゃんに必要なことだから」

果南「……昨日もそう言ってたけど、どういうこと?」

梨子「潜ってみれば、きっとわかると思う」

果南「……わかった。そこまで言うなら梨子ちゃんを信じるよ。何か気を付けることとかある?」

梨子「えっと……出来るだけ自然に、いつもどおりダイビングをして欲しい……かな」

果南「いつもどおり……わかった」


私は頷いてから、ダイビンググローブを着けて、船の縁に立つ。


果南「それじゃ、行こうか」

梨子「うん」


レギュレーターを装着し、梨子ちゃんの手を取って、海へと飛び込む。

──海へと入ったら、頭だけ出した状態で梨子ちゃんの方を確認する。

すると、梨子ちゃんはすぐに指でOKサインを作る。準備OK。

私は手を繋いだまま、潜航を開始した。





    🐬    🐬    🐬





──海中に潜ると、すぐに視界が青に包まれる。

梨子ちゃんも無事ついて来られていることを確認して、私はフィンを使って泳ぎ出す。

冬の海は澄んでいて、見通しがいい。

私は梨子ちゃんに見えるように、真っ直ぐ指で前を示す。


梨子「──!」


近くに見える岩礁に、魚たちの群れが早速見えてきた。

それと同時に繋がれた手に少し力が入ったのがわかる。

──わかるよ。こんな景色、普段じゃ絶対見られないもんね。

そのまま手を引いて、海中をゆっくりと進んでいく。

岩礁へ近づくと、その周辺を泳いでいた魚たちが、私たちのすぐ近くを泳いですり抜けていく。


梨子「──! ──!!」


色とりどりの魚たちが近くを通り過ぎるたびに、梨子ちゃんの手がぎゅっぎゅっと私の手を握りしめる。

言葉が出せなくても、感激していることが伝わってくるようだ。

そのまま、岩礁に沿いながら、更に奥へとゆっくり泳いでいく。しばらく海底を進みながら、梨子ちゃんと一緒に魚たちの遊泳を観察する。

──この辺りかな。

私はあるポイントについたところで、ストップし──人差し指で天を指し示す。

梨子ちゃんが釣られるように、見上げると──


梨子「────!!」


数えきれないほどの魚たちが、海面から差し込んでくる光の中を踊っている。

ぎゅーーーっと強い力で梨子ちゃんが私の手を握りしめてくる。

──嬉しいな。この景色を見て、喜んでくれているんだ。

私が大好きなこの景色を、今、梨子ちゃんと共有しているんだ。

──ああ、やっぱり好きだな。この景色。

何度見ても、この海の底から見るこの景色が、何よりも美しいと感じる。

頭を空っぽにして、ほとんど音の聞こえない海の中で、泳いでいると──自分まで魚になったような気分になれて。

難しいことなんて何もない、この世界にいつまでも浸っていたくて──


梨子「──!?」

果南「──?」


急にくいっと手を引っ張られた。

梨子ちゃんの方に顔を向けると、少し遠くを指さしていて──


果南「────!」


梨子ちゃんの指さす先には──魚とは違う、丸いシルエットの生き物がゆったりと泳いでいた。

──ウミガメだ。

ゆったりと泳ぐウミガメは、何故だか私たちの方へと近づいてくる。


梨子「──! ──!」


梨子ちゃんが興奮しているのがわかる。

──正直、私も興奮していた。

ウミガメ自体なかなかお目に掛かれるものじゃないし、何よりこの季節にウミガメを見たのは私も初めてだった。

なんて運がいいんだろうか……。

──近付いてきたウミガメは、近くで止まって私たちのことを、じーっと確認している。

人懐っこい子だ……。私は梨子ちゃんの手を引いて、ゆっくりと泳ぎ出す。すると──


梨子「──!」


ウミガメは私たちと並泳するように、付いてくる。


梨子「────! ──!」


──うん、わかるよ。私も感動してる。

こんな感動が、出会いが、喜びがあるのが──私の大好きな海なんだよ。

私は梨子ちゃんと感動を噛みしめながら、ただ深い青の中を泳ぎ続ける──





    🐬    🐬    🐬





──顔を出したのは、あれから30分ほど、ウミガメとの遊泳を楽しんだ後のことだった。

レギュレーターを外すと──


梨子「果南ちゃんっ!!」


梨子ちゃんが抱き着いてきた。


果南「おとと……」

梨子「すごかった! すごかったよ!!」

果南「うん、そうだね」

梨子「あの……ごめんなさい……感動しすぎて、それ以外の言葉がうまく出てこなくて……」

果南「ふふ、わかるよ。私も初めて潜ったときはそうだったもん」

梨子「うん……! もっと、潜っていたかったなぁ……」


感慨に浸る梨子ちゃん。


果南「こんなに喜んでくれて嬉しいよ。エアの問題もあるから、今日はここまでだけど……梨子ちゃんがよかったら、また一緒に潜ろう?」

梨子「本当に? 約束だよ?」


そう言って、梨子ちゃんは私に満面の笑みを向けてくれる。

本当に、本当に、あの景色を見て、感動してくれたんだ……。


果南「ありがとう、梨子ちゃん」

梨子「お礼を言うのはこっちの方だよ……!」

果南「うぅん、そうじゃなくて」

梨子「?」

果南「私と同じ景色を見て、同じように感動してくれたことが嬉しくて……」

梨子「ふふ……そっか」

果南「こんな風に、自分の好きなモノを誰かと一緒に分かち合えるのって……幸せだなって……──あ」


──そっか……そういうことだったんだ。


果南「……私、こんな単純なこと、見落としてたんだ……」


もし、今私が誰かに伝えたいことがあるとしたら──


果南「この景色を……気持ちを……歌にして伝えればいいんだ。大好きなこの海の歌を……」

梨子「ふふ……いい歌詞、書けそう?」

果南「……うん、きっと。……いや、絶対……!」


私は力強く頷いた。気付けば、昨日までの葛藤が嘘のように、吹き飛んでいた。

今ならいいものが書けそう、そんな自信がふつふつと自分の中に漲っていくのを感じているのだった。





    *    *    *





──それからの果南ちゃんの集中力はすごかった。

家に戻るなり、机にかじりつく勢いでノートに歌詞を綴り始めた。


梨子「果南ちゃん、お茶淹れてきたけど……」

果南「…………」


声を掛けるも、集中して聞こえていないのか、ノートに歌詞を書き続けている。

私は大きな音を立てないように、テーブルの上にお茶を置いて、果南ちゃんを見守ることにした。


果南「………………」


一心不乱に筆を走らせる姿を見て、やっと吹っ切れたんだと言うことを悟る。

夢中で歌詞を書き綴る、その姿は──千歌ちゃんそっくりで、


梨子「……ふふ」


私は少し笑ってしまった。


梨子「……やっぱり、幼馴染だね」


そんな果南ちゃんを、幼馴染ではない私が、一番そばで見守っているという事実が、なんだか嬉しかった。

私は私で──目を瞑って、曲をイメージする。

一緒に見て感じた海の音を想起しながら。


果南「……ああ、このまま……青い、水に……溶けてしまおう……──」





    *    *    *





果南「……出来た」


そんな呟き声が聞こえてきたのは、もうすっかり日も暮れてから久しい頃合だった。

途中おじいちゃんがご飯に呼びに来たけど──


────
──


おじい「果南、飯だぞ」

果南「…………」

梨子「おじいちゃん、しー……」

おじい「…………後で二人で食え」


──
────


という短いやりとりがあっただけだった。


梨子「果南ちゃん、お疲れ様」


私が果南ちゃんに声を掛けると、


果南「梨子ちゃん……!」


果南ちゃんは、椅子から勢いよく立ち上がり、そのまま──


果南「ハグーーーッ!!!」

梨子「!!?///」


私をハグしてきた。


果南「梨子ちゃん! ありがとう!! 出来たよ! 完成したよ!!」
 果南『ああ、ホントに……梨子ちゃんが居てくれたから……書けたよ……』

梨子「……/// うぅん、果南ちゃんの中から出てきた言葉だから……/// 私はちょっときっかけを作っただけで……///」

果南「そんなことないよ……! 全部梨子ちゃんのお陰だよ……!」
 果南『梨子ちゃんのお陰で、大切なことを思い出せた……私の好きなもの、伝えたい気持ちも……全部……!』

梨子「……ふふ/// もし、お手伝いが出来たなら……嬉しいよ///」

果南「うん! ……そんな出来たて歌詞、見てくれるかな……?」

梨子「もちろん」


喜びのハグから解放されて、嬉しいような寂しいような気持ちになりながら、私は果南ちゃんから手渡された歌詞に目を通す。

──そこに綴られていた詩は、果南ちゃんの海への愛をこれでもかと詰め込んだ、優しい雰囲気の歌詞に仕上がっていた。


果南「どうかな……?」

梨子「……うん、すごくいいと思う」

果南「よかった……」


大好きな海に、浮かびながら、泳ぎながら……最後はそんな海に溶けていく。

その歌詞一つ一つが、果南ちゃんらしさを持っている、素敵な歌詞……。


梨子「歌詞、確かに受け取りました。あとは任せて」


ここからは作曲、私の仕事だ。


果南「私に何か出来ることってある……?」

梨子「出来ること……うーん、そうだなぁ……」


私は少し悩んでから──あることを思い付く。


梨子「手、出してもらっていい?」

果南「? うん」


果南ちゃんが出した手を──両の手で包むように握り込む。


梨子「……頭の中で、この曲のイメージっていうのかな……音楽を考えてみて?」

果南「……? いいけど……これで、何かわかるの?」

梨子「……出来るかわからないけど……こうやって手を繋いでると……果南ちゃんの音を私も感じられる気がするから」


嘘は吐いていない。心の中で響いている音楽が聴けるのかは、わからない。でも、テレパスは頭の中に響くように聞こえる。もしかしたら、心の中に流れている音楽も同様に聞き取れるかもしれない。ならやってみる価値はある。


果南「……わかった。梨子ちゃんがそう言うならそうなんだね」
 果南『梨子ちゃんを信じよう』


果南ちゃんは目を瞑る。

嬉しいな。果南ちゃんは、心の底から私を信じてくれているんだ。

私も目を瞑る。

意識を集中させていると──僅かに……僅かだけど、小さな音のようなものが──音の欠片が聴こえた気がした。

落ち着く音。どこかで聴いた、音楽、旋律、イメージ……。

ジャズのような、優しくて落ち着く音色の中に、魚たちが踊る舞踏会のような、優雅さを覚えて──

私は目を開ける。


梨子「……ありがとう、果南ちゃん」

果南「ん……もう、平気?」

梨子「うん。きっと……うぅん、絶対素敵な曲を作ってくるよ」

果南「じゃあ……期待して待ってるね!」
 果南『梨子ちゃんなら、絶対素敵な曲を作って来てくれる』


心からの信頼に応えなくては、私はそう胸に誓いながら、手を放す。その直後、


果南「……いつ……っ!!」

梨子「!? 果南ちゃん!?」


果南ちゃんは足を庇うようにして膝を折る。


梨子「大丈夫!? また、足……」

果南「ん……大丈夫、ちょっとだけだから……」

梨子「……」


まただ……長引く足の痛み……。

今のところ、Aqoursの練習とかに不都合は出ていないものの……最初に痛みを訴え出してから随分経つ気がする。


果南「平気だから、そんな不安そうな顔しないで」

梨子「う、うん……」

果南「それより、晩御飯食べよう? 気付いたら、もう随分遅くなっちゃったし……」

梨子「……そうだね」


おじいちゃんにも、後で二人で食べるように言われてるし……。

私は歌詞の完成した喜びと同時に、得も言われぬ不安を感じながらも、果南ちゃんと一緒に食卓へと向かうのでした。





    *    *    *





──さて、私が本島に戻ってきた頃には時刻は夜9時を回っていました。


梨子「送ってもらって、ありがとうございます」

おじい「構わん」


頭を下げると、おじいちゃんはぶっきらぼうに言葉を返す。

ちなみに最初は果南ちゃんが本島まで送ると言ってくれていたんだけど──


 おじい『ガキが夜に外をうろつくな』


と一蹴されて、おじいちゃんに船で送ってもらったわけです。

……そうだ、おじいちゃんと二人きりのうちに聞いてみようかな。


梨子「あの、おじいちゃん」

おじい「なんだ」

梨子「果南ちゃんの足のことなんですけど……」

おじい「足?」

梨子「え?」


あれ……? 果南ちゃん、おじいちゃんには言ってないのかな……?

あれだけ痛そうにしているのに……。


梨子「果南ちゃん、ときどき足が痛むらしくて……痛みが強いときは立ってるのも辛いみたいで……普段そういうこと、ありませんか……?」

おじい「……見た覚えはないな」

梨子「そ、そうですか……」


わざわざおじいちゃんが嘘を吐くとは思えないし……。

たまたま、おじいちゃんの居る場所では、痛みが出たことないってことなのかな……?

もしかして、おじいちゃんに心配掛けないように内緒にしていたとか……? だとしたら、余計なことしちゃったかな……。


おじい「……無理するなとは言っておく」

梨子「お、お願いします……」


とはいえ、家族が注意深く見てくれている方が安心は出来るだろうし……。

そう自分に言い聞かせ、私は再度おじいちゃんに頭を下げてから、帰路に就いたのでした。





    *    *    *





──12月19日木曜日。

冬が本気を出し始めたのか、一気に気温が下がってきた今日この頃。

本日からは、授業も午前中だけで終わり、いよいよもって二学期もラストスパート。

だと言うのに──


先生「それでは、今日の授業はここまでにします」

千歌「──ありがとうございました!」

梨子「あ……」


いつものように、颯爽と教室を飛び出していく千歌ちゃん。


梨子「今日、お昼休みないけど……」

曜「千歌ちゃん、絶対忘れてるね……」

梨子「あはは……」


曜ちゃんと二人で苦笑いしながら、荷物をまとめて部室に向かう。

──部室に辿り着くと、すでに一年生組の姿。


曜「皆、お疲れ様~」

花丸「あ、曜ちゃんに梨子ちゃん。お疲れ様ずら~」

梨子「まだ一年生だけ?」

善子「ええ、まだ私たちだけよ」

ルビィ「ルビィたちが一番教室が近いから……」


世間話もそこそこに、


鞠莉「チャオ~♪みんな、お待たせ~♪」

果南「今日は三年生が最後みたいだね」

ダイヤ「皆さん、お疲れ様です」


三年生も集まってくる。


ダイヤ「それでは、部活を……?」


ダイヤさんが教室内を見回して、怪訝な顔をする。


ダイヤ「あの……千歌さんは?」

梨子「たぶん、今がお昼休みだと勘違いしてて……」

ダイヤ「はぁ……全くあの子は……ちょっと、生徒会室に行ってきますわ……」


呆れ気味に肩を竦めながら、ダイヤさんは部室を出て行く。


曜「あはは……」

鞠莉「チカッチとダイヤが不在だけど、わたしたちは部活を始めましょう? お昼は作業中に各自でとるように」

曜「それじゃ、ルビィちゃん」

ルビィ「うん! 衣装の続き!」

善子「クックック……ヨハネは罪深き地獄の椅子でも作ろうかしら……」

鞠莉「花丸はわたしと編曲作業ね」

花丸「お願いするずら~」


それぞれが散っていく中、私は鞠莉ちゃんに耳打ちをする。


梨子「鞠莉ちゃん、ごめんね……アレンジお願いしちゃって」

鞠莉「問題Nothingデース。最後のチェックはどうしても梨子任せになっちゃうけど……」

梨子「うぅん、それでも十分助かってるよ」

鞠莉「完成したら持っていくから、ここはマリーに任せて!」

梨子「うん、わかった。ありがとう、鞠莉ちゃん」

鞠莉「……そ・れ・よ・り・も♪ 愛しのKnghit様とは順調?♪」

梨子「へ!?/// い、愛しのナイトってそんな、ちが……!!///」

果南「梨子ちゃん? 音楽室行かないの?」

鞠莉「あら~、やっぱり順調だったみたいね、さ・く・し♪」

梨子「…………」


そこでやっと鞠莉ちゃんにからかわれていたことに気付く。ややこしい、言い回ししないでよ……。


果南「そうだね。梨子ちゃんが手伝ってくれたお陰でいい歌詞が書けたよ」

鞠莉「そっか♪ それじゃ、二人ともその調子で頑張ってね~♪」

果南「ありがと、鞠莉。それじゃ、梨子ちゃん、行こっか」

梨子「うん……」


果南ちゃんと一緒に部室を出ていく際、


鞠莉「♪」


鞠莉ちゃんが私に向かってウインクを飛ばしてきたのが見えた。

うまくやれとでも言いたいのかな……。

からかわれるのは少し困ってしまうけど、こっちにも負い目がある分、言い返しづらいし……しばらくはからかわれ続けるかも……。


果南「どうしたの? 梨子ちゃん?」

梨子「うぅん……なんでもない」


いつまでも、項垂れていても仕方ない。これから作曲なんだ、切り替えていかなくちゃ……!





    *    *    *





──音楽室。

私はピアノの椅子に腰を下ろす。


果南「梨子ちゃん、私は何をすればいい?」


果南ちゃんが、訊ねてくる。

だから私は、こう返す。


梨子「歌詞を思い浮かべながら、聴いていてくれる?」

果南「え、うん。わかった」


ゆっくりと……深呼吸。

私は鍵盤の上に、指を滑らせ始めた──


果南「……え」


歌詞は何度も読み返して、頭に入っている。

その言の葉を……果南ちゃんの言葉を旋律に載せて、伝える──

ジャズサウンド特有のスウィング奏法を意識しながら、指を躍らせる。

昨日心の中に響かせてもらった音楽のイメージをなぞるように──


梨子「……ふぅ」


一曲弾き終えて一息、


果南「…………」

梨子「どうだったかな?」

果南「……す」

梨子「す……?」

果南「すごいよ! 梨子ちゃん!!」


果南ちゃんが感激の言葉と共に、抱き着いてくる。


梨子「きゃっ!?/// だ、だから急に……///」

果南「すごい、すごいよ!! 私のイメージ通り……うぅん、イメージ以上かも!!」
 果南『なんで!? どうして!? もしかして、ホントに梨子ちゃん、私の中の音楽が聴こえたのかな……!?』

梨子「ふふっ、ありがとう。そう言って貰えて嬉しいよ」


まさか、本当に果南ちゃんの心の中の音楽を聴いたとは思えないだろうけどね……。

もちろん、果南ちゃんの中にあった音楽というのも、まだ完成形ではないあやふやなものだったけど……抽象的なイメージを実際の音楽の技術に当て嵌めて作曲した……というのが一番適切な表現になるのかな?

……まあ、それはいいんだけど……。


梨子「あ、あのー……///」

果南「ん?」
 果南『なんだろ?』

梨子「そろそろ、離してもらえると……///」

果南「あ、ごめんね」


果南ちゃんのハグから解放される。

嬉しい気持ちももちろんあるんだけど、あんまりハグされてばっかいると……心臓がもたない。

私を解放して離れた果南ちゃんは、


果南「……っ」


また一瞬だけ表情を引き攣らせる。


梨子「……また、足?」

果南「……梨子ちゃん、エスパー……?」


今現在はエスパーまがいのことが何故か出来ることは否定できないけど……これに関しては、慣れかもしれない。


果南「でも、今のはホントにチクっとしたくらいだから、大丈夫だよ」

梨子「本当に?」

果南「ホントだよ」

梨子「……わかった」


実際、酷い時と違ってふらついていたりもしないし、そこまで酷い痛みではないというのは嘘ではないんだと思う。


果南「それよりも、曲!」

梨子「あ、うん。果南ちゃんがこれで大丈夫なら、これで行こうかなって思ってるんだけど……」

果南「もちろん! いや、もうこれしかありえないよ!」

梨子「ふふ……そっか」


最初は出来るか不安だったけど、うまく行ってよかった……。そして、何より──テレパスを果南ちゃんの役に立てることが出来たのが、嬉しかった。

なんだかんだで心を読んでいることには、大なり小なりの負い目があったけど……これは本当にテレパスがあったからこそ出来たことだ。

テレパスの“ご縁”で果南ちゃんを支えることが出来たと胸を張って言えるだろう。


梨子「それじゃ、この曲で譜割りしてこっか!」

果南「了解!」


果南ちゃんが満面の笑顔で応えてくれる。

ああ、よかった……。私、この力を……与えられた力を、正しく使えているんだ……。





    *    *    *




梨子「……出来たね」

果南「……うん、出来た」


二人で顔を見合わせる。

目の前には、乱雑に書かれた簡易楽譜と、譜割りをしたメモ。


果南「完成したんだ……! 私の曲……!」

梨子「うん……!」


正確には、この後編曲で調節こそするものの……全体の枠組みは完成したと言って差し支えない。


果南「正直、一人だったら歌詞でつまずいちゃって……絶対完成しなかった。全部、梨子ちゃんのお陰だよ……ありがとう……!」

梨子「うぅん、この曲は最初から果南ちゃんの中にあったものだから……」

果南「いや、梨子ちゃんが居たから生まれたんだよ」

梨子「……じゃあ、二人で作った曲ってことにしよっか」

果南「あはは、違いないね♪ 作詞:松浦果南、作曲:桜内梨子なわけだし!」

梨子「ふふ、そうだね♪」


改めて目の前に、頭の中で音を思い浮かべながら、歌詞を見つめる。

“さかな”になれるかなと歌いながら、海に潜っていき、最後は本当におさかなになって、海へと還っていく、まるで童話のような曲。


梨子「この曲さ……」

果南「ん?」

梨子「まるで、人魚姫みたいだね……」

果南「……確かに、そうかもね」

梨子「特に最後……海に還っていっちゃうところとか……ちょっと、寂しい終わり方だね」


明るくて、優しい曲調の割に、最後は少し切ない印象を受ける。


果南「大丈夫だよ、私は泡になって消えたりしないからさ」

梨子「それはわかってるけど……」

果南「それに人魚姫とは逆だからさ」

梨子「……確かにそうかも」


人魚姫は海から陸に上がったけど、果南ちゃんの曲は陸から海に潜って溶けていく曲だ。


梨子「じゃあ……人魚から人になろうとした人魚姫とは逆に、果南ちゃんは人から人魚になっちゃうのかな……?」

果南「なるほどね、それも悪くないかも……」

梨子「え……」

果南「なーんちゃって♪ 冗談だよ♪」

梨子「もう……」


本当に海に溶けて消えたいなんて言い出したらどうしようかと思った……。


果南「さてと……このあとどうしようっか?」

梨子「このあと……」


時計を見ると、時刻はまだ午後の三時を回ったところくらい。

普段の部活が始まるくらいの時間だ。

さすが午前授業で終わっただけあって、時間に余裕がある。

一応私にはまだ編曲作業が残っているけど……それは家に帰ってから集中してやりたいし……。


梨子「衣装組の手伝いしにいく?」

果南「じゃあ、そうしよっか」


二人で席を立ったそのときだった──ぐぅぅぅ……と気の抜ける音が2つ、音楽室に響く。


梨子「……/// そういえば、お昼まだだったね……///」

果南「すっかり忘れてた……少し遅めだけど、お昼を食べてから行こうか」

梨子「うん……///」





    *    *    *





私たちが衣装班と合流したのは、あれから30分ほど後のこと……。


善子「クックック……来たのね、リトルデーモンたちよ……」

曜「梨子ちゃん、果南ちゃん、どうしたの?」

梨子「こっちの作業が終わったから、手伝いに来たよ」


家庭科室に入ると、ちょうど曜ちゃんがルビィちゃんの前で巻き尺を持っているところに遭遇する。


果南「お、もしかして採寸中? 代わろうか?」

曜「いいの?」

果南「採寸なら得意だから、任せてよ! 普段からフィッティングしてるからね!」

曜「果南ちゃんがやってくれると助かるよ……速いし、正確だから」

ルビィ「よ、よろしくお願いします!」


どうやら、果南ちゃんは早速仕事を貰った模様。

一方で私は……部屋の隅にいる自称堕天使に目を配る。


梨子「……善子ちゃんは、いったい何をやってるの……?」

善子「善子じゃなくて、ヨハネよ!! 見てわからないのかしら?」


言われて見てみると、善子ちゃんは木の板のようなものを組み合わせて何かをしている。


梨子「…………大きな積み木?」

善子「なんで、積み木なんかしなくちゃいけないのよ!? 椅子!! 椅子作ってんの!!」


ああ……なんか、罪深きなんちゃらを作るとか言っていたような……。


梨子「というか、なんでそんなもの家庭科室で作ってるの……?」

善子「それはー……ほら、あそこにいるリトルデーモン2号と4号を見守らないといけないと思って」


……えーっと……確か2号が曜ちゃんで、4号がルビィちゃんだっけ……?


梨子「一人で作業するのが寂しかったってことか……」

善子「そ、そんなこと言ってないでしょ!? この堕天使ヨハネが寂しいだなんて脆弱な人間のような感情抱くわけ……!!」

梨子「はいはいわかりました、ヨハネサマー」

善子「うー……なによ、生意気ね!! リトルデーモンリリー!! アナタこそ暇なら、堕天使ヨハネを手伝いなさいよ!! 一人で支えながら足くっつけるの大変なんだから!!」

梨子「だから、リリー禁止って……」


どうやら、椅子の脚を接着剤でくっつけているところらしい──そんな作り大丈夫なのかな……。


梨子「……堕天使の椅子、原始的だね」

善子「しょうがないじゃない! ダイヤに椅子買ってもらうようにお願いしたら、高すぎるって即却下されちゃったんだから! もう、自分で作るしかないの!」


涙ぐましい堕天使……。


梨子「わかったよ……ここ押さえてればいい?」

善子「わかればいいのよ」

梨子「手伝うのやめるよ?」

善子「ごめんなさい、お願いします」


全く……。

呆れながらも、椅子の脚の部分を手に持った、そのときだった。


梨子「いた……!」


手に鋭い痛みを感じて、思わず手を放す。


善子「え、大丈夫……?」

梨子「う、うん……」


どうやら、椅子の脚の木材の表面が少し毛羽立っていたらしい。

指を見ると、人差し指の第一関節と第二関節の間辺りに、切り傷が出来ていて、傷口から血が滲んでいた。


善子「ちょ……血出てるじゃない……!」

果南「え、血……!?」


善子ちゃんの発した言葉を聞きつけたのか、果南ちゃんが反応して、こっちに駆け寄ってくる。


果南「梨子ちゃん、指怪我したの!?」

梨子「あ、うん……ちょっと切っちゃって……」


果南ちゃんに、指を見せると──


果南「大変……! 保健室行こう!」


そう言って、私の手首を袖の上から掴むようにして引っ張り、保健室に連れて行こうとする。


梨子「え!? そ、そんなちょっと切っただけだから……」


大袈裟だと言おうとしたけど──


果南「ダメ!」


一蹴されてしまう。


果南「たかが切り傷だって、甘く見ちゃダメだよ。ばい菌が入ったりしたら、化膿しちゃうことだってあるんだから!」

梨子「え、あ……はい……」


そのまま、勢いに押し負ける。


果南「ちょっと、梨子ちゃん保健室に連れて行くから」

曜「あ、うん! わかったー!」

善子「ご、ごめんなさい……リリー」

梨子「う、うぅん……ちょっと、行ってくるね」





    *    *    *





──あのあと、保健室の水道で傷口を洗ってから、アルコール消毒をしてもらって……。


果南「絆創膏を貼って……これでよし」

梨子「……ありがとう」


小さな傷ではあったものの、果南ちゃんの手際はさすがだった。

きっと緊急時のレスキュー訓練とかもしているだろうし、これくらいの応急処置は朝飯前なんだと思う。

でも、それにしても……。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「ん?」

梨子「本当にあんなにちっちゃい切り傷に……なんで、あそこまで……」

果南「さっきも言ったけど……化膿したりすると」

梨子「それはわかったけど……その……」


私は少し悩んだけど、


梨子「……どうして、あそこまで必死になってくれたのか、わからなくて……」


そんな言葉選びをする。

切り傷や擦り傷なんて、普段練習をしていても、そこまで珍しいことじゃない。

もちろん、そういうときでも果南ちゃんは率先して皆の手当てをしてくれるし、そんな面倒見のいいお姉さんだというのは周知の事実だけど……。

切り傷一つであんな風に治療を強行する姿は見たことがなかった。


果南「えっと……ごめん……私、怖かった……?」
 果南『やっぱ、強引すぎたかな……』

梨子「あ、うぅん! そうじゃないの……! ただ、単純に不思議で……」


なんか余計な事聞いちゃったかな……。

果南ちゃんは善意で治療を買って出てくれただけなのに、わざわざそこに理由を求めることでもないような……そんな風に思って俯いていると──そっと、果南ちゃんが私の怪我をした手を両手で包み込むように握ってくる。


果南「……この手は……この指は……世界一大切なものだから……」
 果南『……この手は……この指は……世界一大切なものだから……』

梨子「え……?」

果南「……私たちの……Aqoursの曲を作ってくれる……大切な指だから……」
 果南『……私たちの……Aqoursの曲を作ってくれる……大切な指だから……』


言葉と、心の声がシンクロする。

つまり、これは、心からの言葉。


果南「……この指は……私の曲を作ってくれた……宝物だから……」
 果南『……この指は……私の曲を作ってくれた……宝物だから……』


心の底から、私の指を──ピアニストの指を宝物だと言ってくれている。


梨子「果南……ちゃん……」


──そのとき、頭の中で、音がした。

聴いたことのない音だった。

──跳ねるような、弾むような、響くような、拡がるような、とにかく聴いたことのない、不思議な音──


果南「だから……梨子ちゃんも、その宝物を……大切にして欲しい……」
 果南『代わりの利かないものだから……大切に、して欲しいんだ……』


果南ちゃんが、私の目を真っ直ぐ見つめたまま、そう伝えてくる。

──不思議な音は、大きなったり、小さくなったり、響いたり、沈んだり、跳ねたり、踊ったりしている──


果南「梨子ちゃん……?」

梨子「え……?」

果南「ぼーっとしてたけど……?」

梨子「あ、えっと……ありがとう……そんな風に考えてくれてたなんて思ってなくて……」


私は果南ちゃんの手から逃げるように、手を引っ込める。


果南「あ、ごめん……! もしかして、痛かった……?」

梨子「ち、違うよ……ただ、その……そういう風に言われたの初めてで……びっくりした、というか……」

果南「そうなの?」

梨子「うん……」

果南「でも……本心でそう思ってるよ。その指は、宝物なんだ」

梨子「うん……」


知ってる。心からそう言っていたもの。


梨子「大切に……する……」


私は自分自身の指を抱きしめるように、自らの胸に引き寄せる。


果南「そうしてくれると、嬉しいな」


果南ちゃんはそう言いながら微笑む。

その間ずっと──私の頭の中は、聴いたことのない音で満たされていた。




    *    *    *





──その夜。

ピアノの前に座って作業をしようと思ったのに、気付けばぼーっとしていて……その度に、あの言葉を思い出す。


──『……この指は……私の曲を作ってくれた……宝物だから……』──


何も手に付かない。気付けば果南ちゃんのことばかり考えている。

少し頭を冷やした方がいいのかもしれないと思い、ベランダに出る。


梨子「……寒い」


──12月の冷たい夜の空気に晒されて、少しだけ頭がクリアになった気がする。

そして、クリアになった頭で、ふと気付いた。


梨子「──あの音……」


初めて聴いた、あの音は──


 「──おーい、梨子ちゃーん?」

梨子「……?」


声がした気がして顔をあげると、


千歌「あ、やっと気付いた……大丈夫?」


千歌ちゃんの姿。


梨子「千歌ちゃん……」

千歌「ん?」

梨子「私……私ね……」

千歌「うん」

梨子「果南ちゃんのことが……──好きみたい」


あの音は────恋に落ちる音だ。

私──桜内梨子は……松浦果南ちゃんに、恋をしてしまったようです──。





    🐬    🐬    🐬





──12月20日金曜日。

学校に登校すると、なにやら鞠莉がダイヤに話しかけているところに遭遇する。


鞠莉「ねぇねぇ、ダイヤ」

ダイヤ「なんですか?」

鞠莉「クリスマス、チカッチとはどう過ごす予定なの~? 教えてよ~♪」


──クリスマス……。言われてみれば来週か。


ダイヤ「どうして、鞠莉さんに恋人との予定を話さないといけないのですか……」

鞠莉「だって、当日にデート先が被って、ばったり会っちゃったら嫌じゃない?」

ダイヤ「それは、まあ……」

鞠莉「一年に一回しかない記念日だヨ! 念には念を入れたい気持ち、わかるでしょ?」

ダイヤ「……わたくしたちは西伊豆の方に行くつもりですわ」

鞠莉「西伊豆? ……あ、もしかして……恋人岬?」

ダイヤ「ご想像にお任せします。して、鞠莉さんたちはどちらへ?」

鞠莉「学校が終わったら、南の島までひとっとびする予定デース♪」

ダイヤ「そんなデート先が被るわけないでしょう!? 貴方、自慢するためだけにこの話題を振ってきましたわね!?」

鞠莉「ダイヤ、どこにいくかじゃなくて……誰と行くかだヨ?」

ダイヤ「どの口が言うのですか!!」

鞠莉「いひゃい! いひゃい! ぼーりょくはんたいぃぃー!!」


また、鞠莉がダイヤのこと怒らせてるし……。


果南「鞠莉もダイヤも、おはよう」

ダイヤ「あら、おはようございます、果南さん」

鞠莉「いたた……Good moning.果南」

果南「二人ともクリスマスの話?」

ダイヤ「ええ、まあ……この会話自体に全く意味はありませんでしたが……」

鞠莉「えー! 恋バナしようよー!」

ダイヤ「貴方と恋愛の話をするくらいなら、曜さんと話した方がいくらか盛り上がれますわ」

鞠莉「なによもー! じゃあ、わたしはチカッチと恋バナするもん!」

ダイヤ「それはダメです」

鞠莉「あらあら……Toasted rice cakeだネ~♪」

果南「なにそれ……? ライスケーキは餅だっけ……。……焼き餅……?」

鞠莉「Yes♪」


普通にジェラシーとかでいいじゃん……。まあ、確かにダイヤが嫌がるのもわかる気がする。

このテンションの鞠莉を真っ向から相手するのはめんどくさいかも……。


果南「ほどほどにしておきなよ……」

鞠莉「そういう果南はどうなんデースか~?♪」

果南「どうって……何が?」

鞠莉「もちろん、ク・リ・ス・マ・ス♪ 一緒に過ごす相手とか居ないの?」

果南「そんな相手、居ないって……」

鞠莉「えーホントにー? 気になる相手くらい居そうだけどな~♪」


めんどくさい会話の矛先がこっちに向いてきた。適当に流そうかな……というか、ダイヤなんかとっくにそっぽ向いてるし……。

私が相手にしないことを決め込んで、バッグから荷物を出し始めた矢先に、


鞠莉「例えば~……梨子とか♪」


梨子ちゃんの名前が出てきて、思わず手が止まった。


果南「……なんで、梨子ちゃんの名前が出てくるのさ」

鞠莉「んー? 最近仲良さそうだなって思ってたから♪」

果南「……そんなんじゃないよ……」


なんだか、真面目に会話に付き合っていると、変な墓穴を掘ってしまう気がしたので、鞠莉から目を逸らす。

だけど、目を逸らした私に対して鞠莉は──


鞠莉「──そんなんじゃ、逃げられちゃうヨ♪」


と、耳打ちを仕掛けてきた。


果南「な……」

鞠莉「わたしは果南がどう思ってるかは知らないけど、梨子はきっと誘われたがるタイプだヨ?♪」

果南「そ、そうなの……?」

鞠莉「梨子はMaiden──乙女だからネ~。きっと、自分から誘うよりも、相手から誘われるのを待ってる娘だと思うヨ♪」

果南「……そ、そっか……」


そんなこと今の今まで考えていなかったけど、言われてみればそうかもしれない。


鞠莉「ま、どうするかは果南の勝手だけど♪ 年に一度の恋人たちの夜、後悔しないようにネ?♪」


それだけ言うと、鞠莉は満足したのか、自分の席へと戻っていった。


果南「──……誘われるのを待ってる……か……」


──キーンコーンカーンコーン。

そんな私の呟きは、ちょうどよく鳴り響いた予鈴の音に掻き消されていくのだった。





    *    *    *





──今、果南ちゃんどうしてるかな。

今日も午前中で授業は終わりだけど……この後、部活で会える。


 「──…………ちゃん……」


でも、二人っきりにはなれないよね……。

これから冬休みが始まったら……二人っきりになれる時間、もっと減っちゃう……。


 「──……こちゃーん……」


もっと、二学期……続けばいいのに……。


千歌「──梨子ちゃん!」

梨子「……え……?」

千歌「もう……やっと気付いた……」

梨子「あ……ごめん……。えっと、なにかな……?」

千歌「なにかな、じゃなくて……もう授業終わったよ?」

梨子「え……?」

千歌「というか、授業どころかホームルームも終わって、もう放課後だよ?」


言われて、時計を確認すると──


梨子「本当だ……」


千歌ちゃんの言うとおり、とっくの昔に放課後の時間になっていた。


梨子「ごめん、ぼーっとしてた……曜ちゃんは?」

千歌「もう部室に行ったよ」

梨子「そっか……」

千歌「あはは、梨子ちゃん重症だね。まさに恋の病って感じ」

梨子「!?/// ち、千歌ちゃん、あんまりそのこと学校で言わないで……!?///」

千歌「んー? ダメ? もう教室に誰も残ってないけど……」

梨子「だ、ダメだよ!/// こんなこと、もし──聞かれちゃったら……///」


もし、果南ちゃんに聞かれちゃったら……。


千歌「でも、好きなのは事実なんでしょ?」

梨子「だ、だから……!///」

千歌「梨子ちゃん!」

梨子「な、なに……?」

千歌「そんな消極的じゃ、それこそダメだよ! もっと自分からアタックしてかないと!」

梨子「あ、アタックって……/// む、無理だよぉ……///」

千歌「いやつい最近まで、仲良く過ごしてたじゃん……なんで急に弱気になってるの」

梨子「あ、あのときと今とじゃ……心の持ちようが、違う……というか……///」

千歌「果南ちゃんモテるんだよ?」

梨子「だ、だから、学校で名前出さないでって……!///」

千歌「ぼーっとしてたら、誰かに取られちゃうかもよ?」

梨子「え……」

千歌「いいの?」

梨子「いや……あの……それは……嫌、かも……」


かもというか……そんなことになったら、私、ショックで死んじゃうかもしれない……。


千歌「ならやっぱり、自分からアタックするしかない! 恋愛は当たって砕けろ!」

梨子「く、砕けるのは嫌……」

千歌「とーにーかーくー! 昨日も言ったけど、今はチャンスなんだよ! 絶対に今日誘うんだよ!」

梨子「ぅ……が、頑張ります……///」


千歌ちゃんが言うチャンスというのは……昨日の夜、恋に落ちてしまったことを千歌ちゃんに伝えたときのことだ──



──────
────
──


千歌「梨子ちゃん、やっと自覚したんだね……」

梨子「やっと……って……」

千歌「最近の梨子ちゃん、ずっと果南ちゃんと一緒に居たし……むしろ、今の今まで恋してる自覚がなかったことが逆に驚き桃の木みかんの木だよ!」


それを言うなら、山椒の木だと思うけど……。


梨子「でも……あの……」

千歌「?」

梨子「ど、どうすれば……いいんだろう……」

千歌「……? どうすればって……?」

梨子「いや、その……果南ちゃんのことが、その……好き、なのはそうとしても……このあと、どうすれば……」

千歌「……告白すればいいんじゃない……?」

梨子「こ、告白!?/// む、無理!!/// 無理だよぉ!!///」


告白ということはつまり──果南ちゃんに直接『好きです』と伝えるということだ。

考えただけで……というか、自分が果南ちゃんに面と向かってそう言えるビジョンが全く想像できない。


千歌「えー……」

梨子「ねぇ、千歌ちゃん……! 千歌ちゃんはどうやって、ダイヤさんに告白したの……?」

千歌「え? あーうーん……チカの場合は告白したというか、告白されたというか……勘違いを訂正されたというか……」

梨子「……? ……なんかよくわからないんだけど……」

千歌「どっちにしろ、思ってることは言葉にして言うしかないと思うなぁ、私は……」

梨子「ぅぅ……/// そんなこと言われても……/// せめて、きっかけとかがあれば……」

千歌「きっかけ……。……この時期なら、とびきりいいのがあるけど」

梨子「え……! 本当に……!?」

千歌「うん。いや、もう今からだと、ギリギリになっちゃうけど……」

梨子「ギリギリ……?」

千歌「梨子ちゃん、来週の火曜日。何日ですか」


来週の火曜日……?


梨子「えっと……今日が木曜日で19日だから……。……火曜日は24日……あ」


つまり、12月24日。


梨子「クリスマスイブ……」


聖夜。恋人たちの日。


千歌「もう、これしかないね! クリスマスデートに誘って告白しちゃおう!」

梨子「え!?/// む、無理だよぉ!/// もっと段階を踏んで……///」

千歌「梨子ちゃんそんな調子なのに、クリスマス逃したら、いつ気持ちを伝えられるのさ!」

梨子「ぅ……それは……」

千歌「とにかく明日! 果南ちゃんをクリスマスデートに誘いなさい!」

梨子「明日!?/// 無理無理無理無理っ!!///」

千歌「でも、明日逃したら次会うの月曜日だよ? 前日にデートに誘うの?」

梨子「いや……それは……そうだけど……」

千歌「好きなんでしょ?」

梨子「ぅ……///」

千歌「果南ちゃんの恋人になりたくないの?」

梨子「………………なり、たい……///」

千歌「じゃあ、頑張ろう。ね?」

梨子「……うん……///」


──
────
──────



というやり取りの下、私は本日中に果南ちゃんをクリスマスデートに誘わなくてはいけなくなってしまった。


梨子「うぅ……///」

千歌「梨子ちゃん、いつまでそうしてるの……? 部室入るよ?」


もうすでに部室内では、私たち以外は揃っている。

もちろん──果南ちゃんもだ。


梨子「ま、待って……こ、心の準備が……///」

千歌「──皆~お疲れ様~♪」

梨子「千歌ちゃぁ~んっ!!///」


私の言葉を無視して、部室に入っていく千歌ちゃんの後ろに隠れるように部室に入ると──


ダイヤ「やっと来ましたわね……」


私たちの姿を認めて、ダイヤさんが代表するように肩を竦めながら言う。


果南「あ、梨子ちゃん……! やっと来た……!」

梨子「ひ、ひゃい!///」


果南ちゃんに急に話しかけられて声が裏返る。


果南「こっちおいで、待ってたんだよ」


果南ちゃんが自分の隣の席をぽんぽんと叩いて示す。


梨子「えー、あー、や……その……///」


もう慣れたと思っていたのに、今更になって恥ずかしさが爆発している。

無理、やっぱり無理……! 恥ずかしくて果南ちゃんを真っ直ぐ見れないよぉ……。

私が立ち往生していると、


千歌「……てい」

梨子「きゃ……!?」


千歌ちゃんに背中を押されて、果南ちゃんの目の前に躍り出てしまう。


梨子「あ、あの……///」

果南「はい、どうぞ」


私が目の前に立つと、果南ちゃんは椅子を引いてくれる。


梨子「あ、ありがとう……///」


自分自身に落ち着くように言い聞かせて、腰を下ろす。


ダイヤ「さて、全員揃いましたね。それでは──」


全員が着席したのを確認したダイヤさんが、例のごとく部活開始の号令を出そうとした瞬間、


千歌「はいはーい! ダイヤさんダイヤさん!」


千歌ちゃんが挙手する。


ダイヤ「今日はなんですか……」

千歌「まずお昼ご飯にしない?」

ダイヤ「お昼……? まあ、構いませんが……」

千歌「じゃあ、生徒会室行こ!」

ダイヤ「いや、別にここで食べれば……」

千歌「あと、ルビィちゃんも一緒に食べよう!」

ルビィ「え、ルビィも……?」


急に名指しされたルビィちゃんが、不思議そうな声をあげる。


千歌「たまにはチカお姉ちゃん、ルビィちゃんとお話しながらご飯が食べたいんだよ~……」

ルビィ「! わ、わかった! それじゃ、ルビィも生徒会室行くね!」


そう言って誘われたルビィちゃんは満更でもない様子で、嬉しそうに了承する。


ダイヤ「まあ、ルビィが問題ないのでしたら、それで構いませんけれど……。ということですので、部活は各自昼食をとった後にしましょう」

千歌「それじゃ、またあとでね~」


千歌ちゃんがダイヤさんとルビィちゃんを引き連れて、部室から出ていく。その際──私に向かってウインクを飛ばしてくる。


鞠莉「ねぇ、花丸」

花丸「ずら?」

鞠莉「実はわたし今日ね、限定のっぽパンってやつ手に入れちゃったの!」

花丸「え、限定のっぽパン!?」

鞠莉「たくさん貰っちゃったから、花丸も一緒にどうかなって思うんだけど~」

花丸「行く!! 今すぐ行くずら!!」

鞠莉「ヨハネも一緒に行きましょ?」

善子「ヨハネじゃなくて、よし……あ、あれ? あってる? ……クックック、殊勝な心掛け気に入ったぞ……リトルデーモンマリー!」

鞠莉「ははー! ありがたき幸せー! それじゃ、曜も理事長室に行きましょ」


今度は鞠莉ちゃんが、花丸ちゃんと……ついでに雑な誘い方で善子ちゃんを連れて──あれで付いていっちゃうのはいろんな意味心配だけど──部室から退場していく。

またしても、例のごとく、ウインクを飛ばしながら──

その際、一緒に部室を出ていく曜ちゃんが、


曜「あー……そういうことか」


と、小さく呟くのが、かろうじて聞き取れた。

──気付けば、あっという間に部室内に残っているのは、私と果南ちゃんだけになっていました。


果南「なんか、取り残されちゃったね」

梨子「う、うん……///」


もちろん、言うまでもなく、千歌ちゃんが気を利かせてくれたということだ。

恐らくだけど、鞠莉ちゃんも千歌ちゃんの行動を見て、何かを察したんだと思う──ついでに鞠莉ちゃんを見て、曜ちゃんも察していた気がする。


果南「私たちもお昼食べよっか」

梨子「そ、そうだね……///」


促されたとおり、お弁当を取り出しながら、私は胸の内で覚悟を決める。

ここまでお膳立てしてもらったんだもん……! 千歌ちゃん……! 鞠莉ちゃん……! 私、頑張るよ……!





    *    *    *





果南「──今日も、たまご焼きありがとね、梨子ちゃん♪」

梨子「ど、どういたしまして……///」

果南「やっぱり、梨子ちゃんの作る甘いたまご焼き、好きだなぁ……」

梨子「えへへ……///」


果南ちゃんに褒めてもらえるだけで、もう幸せな気持ちでいっぱいで……他になんにもいらないよ……。

……じゃなくて……。


梨子「あ、あの……果南ちゃん……///」

果南「ん?」

梨子「そ、その……///」

果南「うん」

梨子「えっと……///」

果南「……?」


ほら、訊かなきゃ……! 24日空いてるか……!

訊いて、一緒に過ごしてくださいって……。

……あ、あれ? もし、果南ちゃんがすでに24日に予定が入っていたらどうすればいいんだろう……?

ふと、そんなことが頭の中を過ぎる。……でも、そんなこと考えていても仕方ないし……。と、とにかく、訊いてみなきゃ……。


梨子「…………」

果南「梨子ちゃん……?」

梨子「あ、いや……その……さ、最近急に寒くなってきたよね!」

果南「あはは、そうだね~。冬が本気出してきたって感じだよね」


気温の話じゃなくて……。思わず誤魔化してしまった自分に内心で突っ込みを入れる。


梨子「あ、あのね! 果南ちゃん!」

果南「うん?」

梨子「そ、その……もう12月……だね」

果南「そうだねー……もう今年も終わりだよね」

梨子「う、うん……で、でもさ、まだ今年は終わってないというか……」

果南「?」

梨子「あ、あのね……」


クリスマスの話を振るんだ。


梨子「あの……」


口を開いて、改めて果南ちゃんの方を見ると、


果南「……」


果南ちゃんの二つの瞳が私の顔をまっすぐ捉えて言葉を待っていた。


梨子「あ、の……///」


まっすぐ注がれる視線に耐えられなくなって、すぐに私は目線を逸らす。

い、言うんだ、今……! そう何度も自分に言い聞かせているのに、


梨子「そ、の……///」


口にしようとするだけで、顔が熱くなり、上手に言葉が出てこない。

──『クリスマス空いてますか』──たったの11文字を言葉にするだけなのに……。


梨子「……こ、今年もお互い最後まで頑張ろうね……あ、あはは……///」


──言葉にして伝えられない。


果南「そうだね……今年も残り10日ちょっとだしね……」

梨子「う、うん……寒いから、お互い体調にも気を付けて……」


──違う……。今本当に言いたい言葉は、そうじゃない……。


梨子「練習も冬休みの間は、ちょっとお休みなんだよね……。部活やらないとちょっとだらけちゃうかも」


──伝えたいのに、言葉が上手く出てこない。

届けたい言葉はわかるのに、ただここでその言葉を口にすればいいだけなのに、


梨子「でも皆、年末はお家の手伝いがあるもんね。私も今年はお母さんのお手伝いをたくさんしてみようかな……なんて」


私の口は、心に反して違うことを喋ってしまう。

ごめん千歌ちゃん……やっぱり私、意気地なしだ……。今言わなきゃと思うほど、喉元まで出かかっているはずの言葉が呑み込まれて消えて行ってしまう。


梨子「……一緒にお昼食べるのも、今年はこれで最後かも……ね」

果南「…………そうだね」


違うのに、言いたいことは、こんなことじゃないのに……。

なんだか、自分の情けなさに、だんだんと目元が熱くなってくる。

どんなに自分を鼓舞しても、言いたいこと一つ言えないなんて、私は──


果南「梨子ちゃん」

梨子「……っ」


名前を呼ばれて、少しびくっとしてしまう。


果南「こうして私が梨子ちゃんと一緒にお昼ご飯を食べるようになって……まだ2週間ちょっとしか経ってないんだけどさ」

梨子「う、うん……」

果南「この2週間すごく濃密で……私はすごく楽しかったんだ」


果南ちゃんが私の目を覗き込むようにしながら、そう口にする。


果南「今日で、こうして一緒に過ごすお昼も終わっちゃうんだって思うと……ちょっと寂しい。終わらせたくない。もっと一緒に……過ごしたい」

梨子「……っ!」


──勇気を出すんだ、私……!


梨子「わ、私も……っ!! 私も同じだよ……!!」

果南「ホントに? 梨子ちゃんもそう思ってくれてるんだったら……嬉しいな」

梨子「私も……果南ちゃんともっと一緒に過ごしたい……よ……///」

果南「そっか……」


果南ちゃんは私の言葉を聞いて、目の前で一度だけゆっくりと深呼吸をしたのち──


果南「梨子ちゃん」


再び私の瞳を覗き込むようにして……言いました──


果南「クリスマス。私と一緒に過ごしてくれないかな」


──真っ直ぐ、はっきりと、そう言葉にしたのでした。





    *    *    *





──夜。


梨子「…………」


私はベランダでぼんやりと空を眺めていた。

二軒の家に挟まれた狭い空の先には月が煌々と輝き、そこを白い吐息がゆっくりと昇って、最後には霧散していく。


千歌「──梨子ちゃん」

梨子「千歌ちゃん……」


気付けば、いつの間にか同じように外に出てきた千歌ちゃんに声を掛けられる。

千歌ちゃんは優しい顔のまま、


千歌「誘えた?」


そう問いかけてくる。


梨子「誘えなかった……私は誘えなかった……けど……」

千歌「けど?」

梨子「果南ちゃんから……誘ってもらった……クリスマス、一緒に過ごそうって……」

千歌「なんて答えたの?」

梨子「えっと……」


私は、つい数時間前のことを思い返す。


────
──


梨子「え……」

果南「ダメ……かな……?」

梨子「ぇ……ぁ……?///」


まさか、果南ちゃんから誘ってくるなんて思ってもいなかったから、私の頭は一瞬でショート寸前になっていた。

心臓が破裂しそうな程にドックンドックンと激しく鼓動し、視線を果南ちゃんから離せない。でも、頭が熱暴走を起こしたようにくらくらとし、何かを口にしようとしても、震えて言葉が出てこない。


果南「……やっぱり、いや……?」

梨子「…………///」


出てこない言葉の代わりに、私はふるふると首を振る。


果南「……それじゃ……一緒に過ごして、くれるかな……?」

梨子「……///」


今度はコクコクと頷く。


果南「……よかった……。断られたらどうしようかと思ったよ。詳しい場所と時間はあとで連絡するね」

梨子「ぅん……///」


辛うじて出てきた言葉は、とても小さな了承の相槌のみだった。


──
────


千歌「そっかぁ……よかったね、梨子ちゃん」

梨子「うん……///」

千歌「年が明けて次に会う頃にはカップルになってる梨子ちゃんと果南ちゃんに会うことになるんだね~」

梨子「ち、千歌ちゃん……!/// 気が早いよ……///」

千歌「そうかなぁ? でも、もう両想いみたいなもんだし」

梨子「両……想い……///」


口にしてみて改めて、嬉しくて、恥ずかしくて、でもどうしようもなく幸せな気持ちが溢れてきて、赤面しながらもニヤけてしまう。


千歌「お互いにクリスマスを一緒に過ごしたいって思ってたんだもんね。ならもう間違いないよ!」

梨子「うん……/// そうだと……いいな……///」

千歌「クリスマス、楽しんで来てね」

梨子「えへへ……うん……///」

千歌「それじゃ、チカに出来ることはここまで! 果南ちゃんのこと、よろしくね!」


そう言って、部屋に戻ろうとする千歌ちゃんの背中に、


梨子「千歌ちゃん……!」


声を掛ける。


千歌「ん?」

梨子「千歌ちゃん、ありがとう……! 私、頑張るね……!」

千歌「うん! 梨子ちゃん、ファイト!」


親友からの激励を受けて、私はクリスマスデートに臨みます。

今、胸の中にある、大切な気持ちを、大好きな人に届けるために──





    *    *    *




──日が沈み、辺りが薄暗くなってきた頃。

私は沼津駅に到着する。

時間を確認すると──時刻は午後5時過ぎ。


梨子「……ちょっと早すぎたかな……」


自嘲気味に一人呟くと、その拍子に白い息がほわほわと漂って霧散していく。

待ち合わせは午後5時半だったから、しばらく待つことになるかな。

私はバッグから手鏡を取り出して、身だしなみを確認する。

今日着てきた服は、ワインレッドのセーターの上から、レース切り替えでミニ丈のジャンパースカート。色は赤み掛かったライラック色を基調としたチェック柄になっている。

ジャンパースカートには、ポケットや背中にセーターと同じ色のリボンがあしらわれている。

脚は同じようなワインレッドのニットオーバーニーソックスを履き、頭にもセーターと同じ色のベレー帽。

ちなみにこのベレー帽はジャンパースカートと同じような色柄のリボンがあしらわれている。

全体的にガーリーな印象になるように意識して、コーディネートしてきたつもりだ。

──前髪よし……。メイクもちゃんとしてきたし、バレッタも可愛らしいハートの形をしたものを選んできた。


梨子「……ふぅ──」


深呼吸。きっと大丈夫。

今日はめいっぱいオシャレをして、この場に来たんだ。

ピアノの発表会のときよりも──うぅん、それどころか、生まれて初めてというくらい、気合いを入れて選んできた。


梨子「……果南ちゃん……可愛いって言ってくれるかな……」


どうしても、不安な自分が顔を出してしまうけど……。

今からこんな弱気じゃダメだよね……。これからデートだって言うのに……。

幸か不幸か、待ち合わせより30分ほど早く到着してしまったため、心の準備をする時間はたっぷりある。

果南ちゃんが来る前に、心を落ち着かせて──


 「梨子ちゃん!」

梨子「ひゃぁぁぁっ!?///」


急に名前を呼ばれて飛び上がる。


果南「あ、ごめん……急に声掛けたからびっくりさせちゃったかな……?」


声がする方を振り返ると、果南ちゃんが申し訳なさそうな顔で私を見つめていた。


梨子「え、あ、いや……/// 私の方こそごめんなさい……/// か、果南ちゃん、早いね……///」

果南「梨子ちゃんの方こそ……かなり余裕をもって来たつもりだったのに、到着したら梨子ちゃんが待っててびっくりしたよ。ごめんね、待たせちゃって……」

梨子「う、うぅん! 大丈夫、本当に今来たところだから……!」


私がわたわたと顔の前で手を振ると、


果南「そっか……なら、よかった。ただ、ホントは私が先について梨子ちゃんを待ってたかったんだけどなぁ……」


果南ちゃんは肩を竦めながら、苦笑いする。それから、ゆっくりと私の姿を見つめたあと、


果南「今日の梨子ちゃんの服すごく可愛いね。よく似合ってるよ」


ニッコリと笑いながら、私の服装を褒めてくれる。


梨子「あ、ありがとう……///」


恥ずかしくて、顔が熱い。だけど、すごく嬉しい。

果南ちゃんが目の前にいなかったら──果南ちゃんに褒められたんだから、果南ちゃんが目の前にいないのはありえないんだけど──思わず跳ねて喜んでしまいそうな気分だ。

そんな果南ちゃんの姿を改めて確認してみる。

海を連想させるような色をした、ターコイズのフリルブラウスに、マリンブルーのキュロットパンツ。

キュロットには地の中で目立ちすぎない程度の色合いの、雪の結晶の模様が散りばめられていて、すごく冬らしい。

そして、その上から薄いスカイブルーのロングカーディガンを羽織っている。

果南ちゃんのトレードマークであるポニーテールは、いつものようなゴムで縛っている形ではなく、こちらも薄いスカイブルーの大きなリボンで結んでいる。

全体的に寒色でまとめてある、統一感のあるファッション。


果南「今日の服……変じゃないかな?」


私の視線に気付いたのか、果南ちゃんがそう訊ねてくる。


梨子「変じゃないよ……! すっごく、似合ってる……!」

果南「ホントに? よかった……梨子ちゃん普段からオシャレだから、隣歩いて浮いちゃったらどうしよって思ってたんだ。そう言ってもらえると安心するよ」

梨子「そ、そんな……私オシャレってほどじゃ……///」

果南「謙遜しなくていいんだよ? 私、梨子ちゃんの女の子らしい私服姿が好きでさ……実は今日もどんな可愛い姿の梨子ちゃんが見れるのか楽しみにしてたんだから」

梨子「ぅ、ぅぅ……/// 大袈裟だよ……///」


まだデートは始まってすらいないのに、すでに褒め殺しにあって顔がすごく熱い。


果南「そんな梨子ちゃんと、デートが出来て……嬉しいよ」


そう言いながら果南ちゃんは恭しく、仰々しく、私の前で片膝を折って──まるで、王子様のように私の手を取る。


果南「今日はしっかり、エスコートさせて頂きます。よろしくね、梨子ちゃん♪」
 果南『梨子ちゃんに心の底から楽しんでもらえるように、頑張らなきゃ』

梨子「は、はぃぃ……!///」


すごくキザな振舞いなのに、果南ちゃんがやると何故か画になるのはどうしてだろう……。

思わずドキドキとしていると──


果南「それじゃ、いこっか!」


果南ちゃんはニコッと笑って歩き出す。

──果南ちゃんとのクリスマスデートの始まりです。





    *    *    *




果南「梨子ちゃん、先週末は何して過ごしてた?」

梨子「えっと……いつもどおりかな……。ピアノを弾いたり、買い物に行ったり……」

果南「あはは、私もおんなじ感じ。やっぱ内浦は田舎だからね。どうしても部活がない日は似たり寄ったりな生活になっちゃうよね」


果南ちゃんはそう言いながら笑うけど……実はいつもどおりというほど、いつもどおりではなかった。

何故なら今日はクリスマスデート。もちろん、手ぶらで行くわけにはいかないから……いろいろ準備をしていた。

もちろん、今日着ているお洋服も例外ではなく、週末に買ってきたばかりのおろしたての服だ。

そんなおろしたての服を着て、歩いているここは駅のすぐ近くの商業施設の建物の中。


梨子「そういえば……どこに行くか決まってるの?」

果南「もちろん、今日は私がエスコートするって言ったからね! って、言いたいところなんだけど……ちょっと、早く着いちゃったから、まだちょっと時間があるんだよね……」


どうやら、始まる時間か何かが決まっている場所に行くようで、少し時間に余裕が出来てしまったらしい。


梨子「ご、ごめんなさい……私が早く来すぎちゃったから……」

果南「あはは、謝るようなことじゃないって。そうだな……梨子ちゃん、甘い物食べたくない?」

梨子「甘い物……?」


果南ちゃんの言葉をオウム返ししながら、彼女の視線を追うと──

そこにあったのはクレープ屋さん。


梨子「うん、クレープ食べたいな」

果南「オッケー♪ じゃあ、並ぼっか」

梨子「はーい」


店の前にはすでに複数のカップルたちが並んでいる。その列の後ろについて、メニューを見上げる。


果南「ここのクレープ、種類がいろいろあるよねぇ……プリンアラモードとかあるんだね、ダイヤが好きそう」

梨子「ふふ、確かにそうかも♪」

果南「千歌はあれだな……焼きりんごミルフィーユかベリーミルフィーユ」

梨子「ふふ、千歌ちゃん中身がいろいろ入ってるの選びそうだもんね」


さすが幼馴染、千歌ちゃんやダイヤさんが頼んでいるのが、目に浮かぶようで思わず笑ってしまう。


果南「善子ちゃんは……あー、あれかな? イチゴチョコ。確か好きだったよね、チョコとイチゴ」

梨子「うーん、確かに善子ちゃんはどっちも好きだけど……それだったら、イチゴブラウニーを選びそうかな」

果南「あ、そっちか……」

梨子「横文字がいっぱいある方が好きそうだもんね♪」

果南「ふふ、確かにね♪」


自然とAqoursのメンバーが選びそうなクレープ当てゲームが始まる。


梨子「ルビィちゃんはどれかな?」

果南「うーん……ルビィちゃんは目移りしちゃってなかなか選べなくて……最終的にダイヤと同じのにしそう」

梨子「あ、わかるかも」

果南「マルはシンプルにカスタードバナナとかかな……?」

梨子「花丸ちゃんはおかずクレープの方に惹かれそうかも……」

果南「あ、確かに……チーズタッカルビとか?」

梨子「ふふ、頼みそうかも♪ ソーセージピザチーズとかね」

果南「こうしてみると、おかずクレープもいろいろあるね」

梨子「おかずクレープをたくさん頼んで、善子ちゃんにまた驚かれちゃうかもね」

果南「あはは♪ ありそうありそう♪」


おかずクレープを踏破する花丸ちゃんを想像して、二人でくすくすと笑ってしまう。


果南「鞠莉は……ブルーベリーレアチーズケーキとかかな」

梨子「イチゴティラミスも好きそう」

果南「確かに……こんなのもあるのねって言いながら、興味津々に頼むのが目に浮かぶようだよ」

梨子「それこそ鞠莉ちゃんだと、端から全部頼んでみたりしちゃったりして……」

果南「それで一緒にいる人が全部食べるのかー……曜ちゃんは大変だね」

梨子「ふふ、今度曜ちゃんに聞いてみようかな♪ そんな曜ちゃんはどれを頼むかな?」

果南「んー……曜ちゃんは、あれかな……アイスマンゴーパイ」

梨子「え、アイス? 今冬だよ?」

果南「ところがね、曜ちゃん真冬に冷たいシェイクとか平気で頼むんだよね……冬でもアイス食べたいって思うみたい」

梨子「そうなんだ……」


言われてみれば、曜ちゃんって体育の時間とか、冬でも元気に走り回ってるしなぁ……。冬でも元気なのは、千歌ちゃんもだけど。


果南「って、話してたら私たちの番だ」


気付けば、次で注文出来るところまで、列が進んでいた。


果南「梨子ちゃん、どれがいい?」

梨子「あ、えーっと……そうだなぁ……」


私は見上げながら、


梨子「あれがいいかな……」


食べたいメニューを指さした──





    *    *    *





果南「はい、梨子ちゃんの分」

梨子「うん、ありがとう」


果南ちゃんからクレープを受け取ると、出来立てでほんのりと温かいクレープから甘い香りがする。


果南「梨子ちゃんのは焼きりんごパイだっけ? ホントにいろんな種類があるね」

梨子「うん。今日は寒いし……温かいのがいいかなって思って」


言いながら、クレープに口を付けると、焼きりんご特有の甘酸っぱさとカスタードクリームの優しい甘味が絶妙にマッチした味が口の中に拡がっていく。


果南「おいしい?」

梨子「うん、おいしいよ♪ 果南ちゃんは何頼んだの?」

果南「私はね、シュリンプエッグだよ」

梨子「シュリンプ……ってことはエビ?」

果南「うん。あむ……んー! やっぱクレープ生地ってなんにでもあうよね。エビとたまごがうまくマッチしてるよ」

梨子「果南ちゃんはおかずクレープにしたんだ」

果南「ほら、梨子ちゃんは甘いの頼んでたからさ」

梨子「……うん?」


私が甘いものを頼んでいても、果南ちゃんが甘いものを食べちゃいけない理由にならないと思うんだけど……。と、思っていたら、


果南「はい、梨子ちゃんも食べて?」


果南ちゃんが私の方に、自分の手に持ったクレープを差し出してくる。


梨子「え……///」

果南「クレープって結構量があるから、甘いの一辺倒だと飽きちゃったりするかと思って。私はおかずクレープを頼んだんだよ♪ はい、どうぞ♪」

梨子「え、っと……///」


差し出されたクレープを目の前に少し躊躇する。

どうやら果南ちゃんは最初からシェアするつもりで選んでいたらしい。

私は少し迷いはしたものの──


梨子「……い、いただきます……///」


ここで遠慮するのも悪いと思い、クレープを一口貰うことにした。


梨子「あむ……///」


口に含むと、エビとたまごの味とアクセントに使われているマヨネーズの味が、焼きりんごパイで甘ったるくなっていた口の中を中和していく。


果南「おいしい?」

梨子「うん……///」

果南「ふふ、よかった♪ 梨子ちゃんの焼きりんごパイも一口貰っていい?」

梨子「う、うん!///」


私はどういう風に渡そうか悩んだけど──


梨子「か、果南ちゃん……/// あ、あーん……///」


果南ちゃんが先ほどしてくれたようにクレープを果南ちゃんの口元に差し出す。


果南「! えへへ、あーん♪」

梨子「……///」


果南ちゃんが嬉しそうにクレープを口にする。

あーんしてあげるなんて、今までの私じゃ、恥ずかしくて絶対出来なかったけど……今日はデートだもん…。少しくらい、大胆になっても……いいよね?


梨子「お、おいしい……?///」

果南「うん♪ 梨子ちゃんが食べさせてくれたからかな……ホントにおいしいよ♪」

梨子「も、もう……大袈裟だよ……///」


どうしよう……私、もうこれだけで幸せかも。

まだデートは始まったばっかりなのに、心がむずがゆくて、ほわほわして……そして、温かくて、優しくて、嬉しい。


梨子「あむ……///」


照れを隠すように、再び口を付けた自分のクレープの味は、やっぱり焼きりんご特有の甘酸っぱい味がして──まるで今の私の気持ちのようでした。





    *    *    *





──クレープを食べ終えて。


果南「ちょうどいい時間になったね」


果南ちゃんが腕時計を確認しながら言う。


果南「移動しようか」

梨子「うん」


次の目的地はどこかなと思いながら、果南ちゃんと一緒に歩き出す。

クレープ屋さんを出て、そのまま同じ施設内の上の階へと上っていく。

この上って確か……。

2階3階を素通りしてたどり着いたのは──


梨子「映画館……」

果南「梨子ちゃんと一緒に見たくて……いいかな?」

梨子「うん!」


私が頷くと、果南ちゃんはニコッと笑って、私の手を引く。


 果南『梨子ちゃん、気に入ってくれるといいな』


果南ちゃんはそのまま入場ゲートまで行き、受付でチケットをもぎってもらって、中に入っていく。

──果南ちゃん、先にチケット買っておいてくれたんだ……。

もしかしたら、今日のデートのためにいろいろ下見もしてくれていたのかもしれない。

ああ、なんか……嬉しいな。

果南ちゃんがこんなにも私のことを考えてくれているという事実が、どうしようもなく嬉しくて、幸せで──




    *    *    *





──果南ちゃんが選んだ映画はラブロマンスでした。

どこにでもいそうな二人が出会って、次第に恋に落ちていく。

そんな、ありふれたラブロマンス。

それでも、私は終始ドキドキとしていた。

もともとラブロマンスが好きというのもあったけど……何よりも、今は果南ちゃんと一緒に観ているから。

映画の間、ふと果南ちゃんの方に顔を向けると──


梨子「……!」

果南「……ぁ」


目が逢った。

同じタイミングで、お互いの方を見てしまったらしい。

なんだか、照れ臭くて、目を泳がせていると、果南ちゃんはニコっと笑ってから、顔をスクリーンの方に戻してしまう。

──ぁ……。と小さな声が漏れそうになる。

そうだよね……今は映画を見ているんだもん。私よりも、映画を見るよね。

少しだけシュンとしていると──手の甲の上から、何かが覆いかぶさるように重ねられる。


梨子「……!」


──もちろん、果南ちゃんの手だ。


 果南『急に手繋いでも……嫌じゃ……ないかな……?』


嫌なわけない。

私は重ねられた手を甲側から手の平の方に返して──指を絡ませる。


果南「……!」
 果南『指……梨子ちゃん……』


ぎゅっと手を握られる。

握られたから、握り返す。

映画の真っ最中、暗い館内で声を発することは出来ないけど──今は同じ気持ちを共有している。

時間を経るごとに、指はどんどんと絡んで、離れないように……離さないようにと……強く強く繋がれる。

目の前のスクリーンでは、ヒロインが気持ちを伝えている真っ最中。でも、私はそんなクライマックスの中でも、映画の内容よりも果南ちゃんと繋がれた手に、絡ませた指に意識が行ってしまう。

こんなに幸せな気持ちで観る映画は、初めてだった──それと同時に、ここまで映画の内容が頭に入ってこなかったのも、初めてだったけど……。





    *    *    *





──映画が終わって、シアター内が明るくなる。

果南ちゃんの方を向くと──また、果南ちゃんと目が逢って、


梨子「……///」

果南「……///」
 果南『さ、さすがにこれは……照れ臭い……///』


お互い黙ったまま、目を泳がせる。

ただ、恥ずかしいけど──繋がれたままの手は指は、離れない。


 果南『もう少し……このままで、居たいな……』


──私も同じ気持ちだよ。

そう思いながら、映画の終わったシアター内でじっとしていると──


劇場スタッフ「ありがとうございましたー。退館の際は、忘れ物がないようにお気を付けくださーい」


劇場スタッフの人が次のお客さんを入れるために、退館を促している。


 果南『名残惜しいけど……』


絡ませた指がほつれ、果南ちゃんが立ち上がる。


果南「梨子ちゃん、行こっか」

梨子「……うん///」


デートは次の目的地へ──


果南「……っ」


と思った瞬間、果南ちゃんが一瞬表情を歪める。


梨子「果南ちゃん……もしかして、足……?」

果南「……あはは、ちょっと痛むかも。でも大丈夫」

梨子「本当に……?」

果南「ホントに大丈夫だよ。それにさ、今日はちゃんとエスコートするって、約束したから」

梨子「……うん、わかった」


無理はして欲しくないけど……今日の果南ちゃんは、全力で私をエスコートしてくれている。

きっと、情けない姿は見せたくないだろうし……私はそう思って、今は心配な気持ちを呑み込むことにしたのでした。





    *    *    *





次に訪れた場所は……。


梨子「ここって……」

果南「うん。予約したんだ」


オシャレな大理石の柱と、木目のシックな扉が目を引く──フランス料理店。

果南ちゃんが一歩前に出て、扉を開ける。


果南「梨子ちゃん、どうぞ」

梨子「うん、ありがとう……果南ちゃん」


扉を潜ると、


スタッフ「いらっしゃいませ、松浦様ですね。お待ちしておりました。お席にご案内いたします」


スタッフが恭しく頭を下げながら、席に案内してくれる。

私は二人掛けのテーブルの奥の方に通され、スタッフの人が椅子を引いてくれる。


梨子「あ、ありがとうございます……!」


こういう格式ばった食事は緊張する。えっと……確か、左側から椅子に座るんだよね……?

辛うじて記憶の中にあるテーブルマナーを思い出しながら、椅子に腰掛ける。


果南「ふふ、緊張してる?」


向かいでそう言いながら微笑みかけてくる果南ちゃん。


梨子「う、うん……少し……。果南ちゃんは緊張しないの……?」

果南「ふふ、これくらいなら」


なんて笑う。本当かな……?


梨子「果南ちゃん……手、出して?」

果南「? いいけど……」


控えめに差し出された手に軽く触れる。


 果南『……内心かなり緊張してる、なんて言えないけど……。週末に鞠莉にお願いしてテーブルマナーは覚えてきたし、きっと大丈夫……』


なるほど……。余裕の源は特訓の成果のようだ。


梨子「ありがとう」

果南「ん……もう大丈夫?」

梨子「うん」


果南ちゃんは不思議そうにしていたけど、私が一人不安なわけじゃないとわかって少し安心した。

手が離れると、果南ちゃんは膝の上にナプキンを掛ける。

私も倣うようにナプキンを半分に折って、膝の上に掛けると──ドリンクが運ばれてきた。


スタッフ「こちら、葡萄ジュースで御座います。長野県産ナイアガラぶどうを100%使用した、ストレートジュースです」


スタッフの人が説明をしながら、グラスにジュースを注ぐ。


スタッフ「失礼します」


二つのドリンクが目の前に用意され、スタッフが下がると、


果南「未成年だから、ジュースだけど……」


果南ちゃんがグラスを持ち上げる。


梨子「ふふ……うん」


私も倣うようにグラスを持ち上げて、目の前に掲げる。

お互いアイコンタクトをしながら、見つめあって──


果南・梨子「「乾杯」」


ジュースに口を付ける。


梨子「……! おいしい……」


すごくすっきりとした味なのに、まろやかで上品な味もあわせ持っている。何よりぶどう特有の甘い香りが濃縮されていて、間違いなく今まで飲んだ、どんなぶどうジュースよりもおいしい。


果南「うん……ホントおいしい……」


果南ちゃんも驚いたように、ぶどうジュースを味わっている。そこに、お皿が運ばれてくる。


スタッフ「こちらアミューズ・グールで御座います」


目の前に出されたのは小さなのシュークリームのようなもの。

中にはサーモンとイクラが見える。


果南「アミューズは日本で言うお通しみたいなものだよ。一口で食べられるものが基本みたいだね」

梨子「そうなんだ……なんか、ちっちゃくて可愛いね」


──お皿の上のシューに手を伸ばし、そのまま口に運ぶ。

シューの間に挟まっている、イクラとサーモンの味が口を楽しませてくれる。

アミューズを終えると、今度は前菜が運ばれてくる。


スタッフ「オードブル、ずわい蟹とギアナ海老のフラン仕立てで御座います」


目の前に出されたのは、


梨子「プリン……?」


器に入った、見た目はプリンのようなもの。でも、ずわい蟹とギアナ海老って言ってたよね……。


果南「フランは洋風茶碗蒸しみたいな感じかな……」

梨子「茶碗蒸し……」


なんとなく味を想像しながら、スプーンで掬って口に運ぶ。

すると──口の中に蟹と海老の風味が広がっていく。

確かに洋風茶碗蒸しというのがしっくり来る料理だけど、濃厚な香りと味がする。


果南「これ……おいしい……」

梨子「うん……!」


初めて食べる料理だけど、一口で気に入ってしまう。

蟹や海老の見た目は残っていないのに、蟹や海老を食べているのが一口でわかるくらい濃厚に素材の味がする。

でも、これってまだ前菜なんだよね……。コース料理だと思うから、まだ始まったばっかりで……。


スタッフ「スープ、ポテトのポタージュで御座います」


前菜に続いて出てきたのは、ポタージュ。

これはまだ見たことがある部類かな……。


果南「スープを飲むときは手前から奥に掬うんだよ」

梨子「うん」


鞠莉ちゃん直伝のテーブルマナーを習いながら、スープを口に運ぶ。

温かい液体が喉から胃に滑り落ちていく。

先ほどのオードブルに比べると、食べ慣れたメニューだけど、ジャガイモの味の中に、ほのかに感じられる別の甘味を感じる。

……これは炒めた玉ねぎ……かな?

一重にポタージュと言っても、普段ファミレスで食べるようなものに比べると味のまろやかさが全然違う。

こうして、食べ慣れたもののはずでも、味の違いを如実に感じられると、本当に良い物を食べている気持ちになる。


梨子「こんなに良い物……食べちゃっていいのかな……」


少し罪悪感すら覚える。


果南「ふふ、今日はクリスマスだから。いいんじゃないかな?」

梨子「……じゃあ、そういうことにしようかな」


何より今日は特別なクリスマス──果南ちゃんと過ごすクリスマスだもん。ちょっとくらい……いいよね。

スープを終えると、また次の料理が出てきて──


スタッフ「ポワソン、白身魚のブレゼで御座います──」





    *    *    *





梨子「──はぁ……♪ おいしかった……」


食事を終えて、お店から出ると、店内の雰囲気から来る特有の緊張感から解放された安心感と同時に、味に満足した感想が漏れ出てくる。


果南「ホントに……! 白身魚のブレゼ……あれおいしかったなぁ……。ああいう調理ってしたことなかったから、今度作ってみようかな」

梨子「私はアントレ……って言ってたよね。伊豆牛の赤ワイン煮……すっごくおいしかった」

果南「わかるわかる! 食べた瞬間ほろほろって口の中で肉が崩れていってさ」

梨子「うんうん! 上にかかってたソースもすっごいコクのある味で……あと、デザートもおいしかったよね……」

果南「さくらんぼゼリーとフランボワーズのムースだっけ」

梨子「うん、さくらんぼとフランボワーズの甘酸っぱさが絶妙にマッチしてて……それに見た目が可愛かったよね」

果南「ふふ、そうだね」

梨子「なんか……こうして一つずつ思い出すと……」

果南「全部おいしかった?」

梨子「ふふ、うん♪」

果南「だよね♪」


果南ちゃんの言葉に頷いて笑う。


果南「まあ、でも……」

梨子「ふふ、何考えてるか当てていい?」

果南「お、言ってごらん?」

梨子「おいしかったけど……私たちにはオシャレすぎてちょっと疲れちゃった?」

果南「……あはは♪ よくわかったね♪」


果南ちゃんが私の回答を聞いて、軽く吹き出す。


梨子「果南ちゃんずっと緊張してたもん」

果南「それを言うなら梨子ちゃんだって」

梨子「ふふ、そうかも」


まだ、私たちには少し大人過ぎる雰囲気だったけど──


梨子「でも……果南ちゃん、今日のデートのためにお店を選んで予約してくれたんだよね」

果南「ん……まあね。エスコートするって言ったし」


果南ちゃんは照れ臭そうに頬を掻きながら、目を逸らす。


梨子「あんなオシャレなお店で、食事が出来るなんて……思ってなかったから、嬉しかった」


何よりも、私のことを考えて、素敵なお店を選んでくれたことが、嬉しくて、幸せで──


梨子「ありがとう……果南ちゃん」


その気持ちをいっぱい乗せて、お礼の言葉を伝える。


果南「どういたしまして。そこまで、喜んでもらえたなら……私も頑張って覚えた甲斐があるよ」

梨子「んー? 覚えたって何をかなー?」

果南「……え!? あ、い、いやーなにかなー?」

梨子「ふふ……」


きっとテーブルマナーだよね。週末に鞠莉ちゃんと猛特訓してたんだと思うと、少し微笑ましい気持ちになる。

ああ、なんか……こういうの、いいな。

果南ちゃんと一緒に過ごして、大切にしてもらって、嬉しくて、幸せで、笑いあって……。

でも、そんな幸せな時間にも終わりはあって──もういい時間になってきた。


果南「梨子ちゃん」

梨子「ん」

果南「最後に……付き合ってほしい場所があるんだけど……いいかな?」

梨子「……うん」





    *    *    *




梨子「うわぁ……! 綺麗……」


思わず声をあげてしまった私の目の前にあるのは、ライトアップされたクリスマスツリー。


果南「せっかくだから、一緒に来たかったんだ」


今訪れている場所は、沼津中央公園。


梨子「沼津にもこういう風にイルミネーションしてる場所があったなんて……知らなかったよ」

果南「うん。今年は大きなツリーがあるって聞いてたからさ。……梨子ちゃんからしたら、少し寂しいイルミネーションかもしれないけど」

梨子「え?」

果南「なんていうか……東京だと、もっともっとすごいイルミネーションがいっぱいあるでしょ?」

梨子「ん……」


確かに、東京だとイルミネーションの綺麗な場所はたくさんある。

私も東京に住んでいた頃は何度かクリスマスシーズンに訪れた覚えがあるけど……。


梨子「……確かに東京だと、もっといっぱい電飾の付いた立派なイルミネーション街とかはあるかな」

果南「あはは、そうだよね」

梨子「でもね」

果南「?」

梨子「東京に居たら、果南ちゃんと一緒には……見られなかったよ」

果南「……梨子ちゃん……」

梨子「ただ、綺麗にピカピカ光ってた東京の街のイルミネーションよりも……今果南ちゃんと一緒に観てる、このクリスマスツリーの方が……私は素敵なものに見えるよ。だって──」


──だって。


梨子「──隣に果南ちゃんが居るんだもん」


伝えて、不意に──


果南「梨子ちゃん──」


抱きしめられた。


梨子「果南……ちゃん……///」

 果南『……好きだ』

梨子「!」

 果南『梨子ちゃんが……好きだ』


頭の中に、声が響く。


 果南『私……梨子ちゃんが……大好きだ』

梨子「……っ」


心に響く、その声が嬉しくて──ぽろぽろと涙が溢れてきて、


果南「り、梨子ちゃん……!? あっ、ご、ごめん……嫌だった……!?」
 果南『い、いきなり抱きしめたから……!?』

梨子「違う……違うの……っ」


私は、涙を手で拭いながら──


梨子「果南ちゃんの気持ちが……嬉しいの……っ」

果南「梨子ちゃん……」

梨子「こうして、抱きしめてもらうと……果南ちゃんの気持ち、いっぱい伝わってきて……それが、嬉しくて……っ」


幸せで、幸せで、涙がぽろぽろと溢れてくる。


梨子「……私も、果南ちゃんと同じ気持ちだよ……っ」

果南「……そっか」
 果南『なんか……今、幸せかも』

梨子「私も……幸せだよ……っ」

果南「もう……梨子ちゃんったら、心でも読んでるのかなってくらい言い当ててくるね」

梨子「えへへ……私……果南ちゃんの心が読めちゃうんだよ……っ」

果南「……梨子ちゃんが言うなら、そうなのかもしれないね……」


果南ちゃんはさっきよりも強く、私を抱き寄せる。


 果南『こんな風に、私の気持ちをわかってくれる子を、好きになれて……好きになってもらえて……私は幸せ者だよ』
果南「梨子ちゃん」

梨子「はい……っ」

果南「私たち……一緒に居ようか」

梨子「うん……っ!」


温かい胸に抱き留められながら、私たちは想いを伝え合って、この聖なる夜に──晴れて恋人同士になったのでした。





    *    *    *




梨子「…………」

果南「…………」
 果南『梨子ちゃん……』


──どれくらい抱き合っていただろうか。

お互い何も喋らず、お互いの体温を感じて。

私の頭の中には時折、心の中で果南ちゃんが名前を呼んでくれていることだけがわかる。

そんな中──


果南「……っ゛」
 果南『……痛っ』

果南ちゃんが突然鈍い声を上げる。


梨子「! 果南ちゃん!?」


私は咄嗟に崩れそうになる果南ちゃんの体を支える。


果南「ととっ……ごめん、梨子ちゃん……」

梨子「果南ちゃん……また、足……」

果南「あはは……さっきまで大丈夫だったんだけど、また痛みだして……」
 果南『今回のは……かなり……きつい……かも……』

梨子「……とりあえず、座ろう?」


近くのベンチまで果南ちゃんの手を引いて移動する。


果南「……ふ、ぅ……」


果南ちゃんはゆっくりと息を吐きながら、ベンチに腰を下ろす。


梨子「平気……?」

果南「うん……座ったら、だいぶ楽になったよ」

梨子「本当に……?」


私も隣に座って、手を握る。


果南「ホントだよ」
 果南『座るといつも楽になるんだよね……まあ、足の痛みだし、そういうものかもしれないけど』


確かに嘘ではないらしい。

ただ、痛み方も最初に比べると、どんどん酷くなっている気がする。


梨子「果南ちゃん……やっぱりもう一度病院で診てもらおう……?」

果南「あはは、心配しすぎ……って言いたいけど……確かに、ちょっと長引いてるもんね……」

梨子「私も付き添うから……」

果南「それこそ大袈裟──」

梨子「付き添わせて」


果南ちゃんの言葉を遮るようにして言う。


梨子「……もう、私……ただの部活の後輩じゃないんだよ……?」


真っ直ぐ目を見つめて、そう伝える。


果南「……そういう言い方ずるいよ……。わかった、明日一緒に病院に付き添ってくれる?」

梨子「うん!」


多少急ではあるけど、果南ちゃんのためならなんてことはない。

どちらにしろ、そろそろ年末で病院も閉まってしまうだろうから、今行っておかないと次に行けるのは年明け以降になってしまう。


果南「はぁ……最後まで、かっこつかなかったな」

梨子「ふふ……かっこつけたがりだもんね、果南ちゃん」

果南「ええ……そんなことないと思うんだけどな……」

梨子「でも、ツリーの前でぎゅってしてくれたときは──かっこよくてキュンってしちゃったよ?♪」

果南「……解説されると恥ずかしいからやめてよ……///」


果南ちゃんは恥ずかしそうに、頬を掻く。


果南「まだ、最後にやることがあったんだけどな……」

梨子「やること……?」

果南「今日、クリスマスイブでしょ?」

梨子「ん、まあ……」


クリスマスだからデートしてるんだし……と思ったけど、


梨子「……あ」


私もそこでやっと思い出す。


梨子「クリスマスプレゼント……」


せっかく用意してきたのに、さっきの抱擁のインパクトですっかり忘れていた。


果南「結構気合い入れて探したやつだからさ……」

梨子「わ、私も……! 果南ちゃんのことを考えて選んだよ……!」


二人で小さく包装されたプレゼントを取り出して、


梨子「はい……果南ちゃん♪ メリークリスマス♪」

果南「あ……私が先に言おうと思ったのに……」

梨子「こういうのは早い者勝ちなんです♪」

果南「むー……ま、良いけどさ……。メリークリスマス、梨子ちゃん」


お互いのプレゼントを交換する。


梨子「……開けていい?」

果南「もちろん」

梨子「果南ちゃんも、開けてみて?」

果南「うん」


お互い同時に開けて──


梨子・果南「「……あ」」


声が揃った。

箱の中に入っていたのは──ネックレスだった。

チェーンネックレスで、ペンダント部分は、小さなガラスドームの中に入っているビーズがコロコロと動いて光る、小さなスノードームになっている──人魚姫をイメージしたアクセサリー。

……を、果南ちゃんも手に持っていた。


果南「まさか……」

梨子「プレゼント被った……?」

果南「…………ぷっ」

梨子「あはは……♪」


二人で顔を見合わせて吹き出してしまう。


果南「まさか、同じ物をプレゼントに選んでるなんて……くくっ」

梨子「私たち、もしかして似た者同士なのかな? ふふっ」

果南「かもね……あーもう、面白いなぁ」


見つけたときは、本当にこれしかない! って思ったんだけど……果南ちゃんも同じように思って手に取っていたと考えると、なんだか可笑しくて笑ってしまう。


果南「でもよく見たら、色は違うね……私のはアクアマリンモチーフかな?」

梨子「うん♪ その色が果南ちゃんにぴったりだと思ったから……私のは……」

果南「ライトローズだよ。ピンク色のカラーを選んだからさ」

梨子「私、お店で見たとき自分で買うならこの色がいいなって思ってたんだ……ありがとう、果南ちゃん」

果南「私も、自分用ならこの色だって思ってたよ」

梨子「ふふ♪」 果南「あはは♪」


また二人で顔を見合わせて笑ってしまう。


梨子「お揃いだね♪」

果南「期せずしてね♪」


自然と笑顔になって、自然と肩を寄せ合う。


果南「梨子ちゃん……これからよろしくね」

梨子「うん……こちらこそ、よろしくね。果南ちゃん」


自然と寄り添って。ああ……なんて、幸せな日だろう。


 果南『こんなに幸せで……いいのかな……』

梨子「ふふ……♪」


また、同じこと考えてる。


果南「……あ」

梨子「?」

果南「雪だ……」

梨子「え……?」


思わず顔をあげると──冬の夜空から、真っ白な贈り物がふわふわと降りてきていることに気付く。


 果南『沼津で雪が降るなんて……』

梨子「……聖夜の贈り物だね」

果南「うん……」


再び、身を寄せ合って。今度は自然と手を繋いで。


果南「梨子ちゃん……」

梨子「果南ちゃん……」


私たちは、ただ、ゆったりと降ってくる、聖夜な贈り物を──二人で寄り添ったまま、ぼんやりと見つめていたのでした。




    *    *    *





──本当はこのとき、全てを。


本当に全てを、伝え合わなくちゃいけなかったなんて、知らずに……。





    *    *    *




──12月25日。


医者「診察の結果ですが……」

果南「はい」

医者「やはり、異常は見られませんね……」

梨子「そんな……!」


私はお医者さんの言葉を聞いて、眉を顰める。


梨子「どこもおかしくないなんてこと……」

医者「発作的に激痛が走るんでしたよね?」

果南「はい……」

医者「ただ、この前検査したときと同様に、骨や筋肉に異常は見られませんし……。それ以外にも腱や皮膚も健康そのものですし……。血栓が出来ているようなこともなさそうなので……」

梨子「で、でも、本人はすごく痛がっていて……!」

果南「梨子ちゃん」


先生の診察に抗議するように声をあげる私を、果南ちゃんが制する。


果南「あの……他に足が痛む原因になるようなことってないんですか?」

医者「そうですね……自律神経失調症で手や足に痛みや痺れを覚える方はいますね……」

梨子「自律神経失調症……」

果南「えっと……つまり、どういう病気ですか……?」

医者「強いストレスを感じ続けて、体のいろいろな部分に不調が生じる症状です。……最近何か強くストレスを感じるようなことは……?」

果南「特には……。……むしろ──」


果南ちゃんは、私の方をちらりと見る。


果南「……んっん/// とにかく、ストレスみたいなものは特に……」

医者「そうですか……。ただ、本人が自覚出来ていないストレスがある可能性はありますから……少し経過を見て、症状が落ち着かないようでしたらまた診察しますので」

果南「わかりました。ありがとうございます」

梨子「あ、ありがとうございます……」





    *    *    *





梨子「……結局、よくわからなかったね」

果南「そうだねぇ……」


沼津の病院からの帰り道、バス停までの道のりを二人で歩く。


梨子「今は痛くない……? 大丈夫……?」

果南「うん、平気だよ」


隣を歩く果南ちゃんをじっくり観察してみる。

ただ、本人の言うとおり、足取りはしっかりしているし、テレパスを使うまでもなく、今は痛まないというのは嘘ではなさそう。


梨子「ストレスかもって言ってたけど……」

果南「それこそ、ストレスなんてこれっぽっちも……」

梨子「でも、お医者さんも言ってたみたいに、自覚してないストレスがあるのかもしれないし……!」

果南「あはは、自覚してないストレスって言われると、あっても私にはわからないからなぁ……。でも、もしそういうのがあったとしても……」


果南ちゃんは優しく微笑みながら、


果南「梨子ちゃんと一緒にいたら吹き飛んじゃうと思うんだよね」


そう言葉にする。


梨子「……ぅ///」

果南「ふふ、赤くなった」

梨子「か、果南ちゃんがそういうこと言うからだもん……///」

果南「だってホントにそう思うからさ。……梨子ちゃんはそうじゃないの?」

梨子「そ、そういう聞き方はずるい……/// ……私も果南ちゃんと一緒に居たら……嫌なこと全部吹き飛んじゃう……よ……///」


自分で口にしながら、どんどん顔が熱くなっていくのを実感する。


果南「よかった……。実は梨子ちゃんにとって、私と一緒に居るのはストレスだって思われてたらどうしようかと思ったよ」

梨子「そ、そんなわけないよ……! だって──」


言い掛けて、呑み込む。


果南「んー? だって、何かなー?」


果南ちゃんがちょっといじわるに笑いながら、「だって」の続きの言葉を促してくる。


梨子「……し、知らない……///」


私はぷくっとほっぺたを膨らませて、ぷいっとそっぽを向く。こんな往来で愛の告白まがいのことなんて言えないもん……。


果南「あはは、ごめんって。怒んないでよー」

梨子「い、いじわるな果南ちゃんのことなんて、もう知りません……///」


私は一人すたすたと前を歩きだ……そうとしたら、目の前には赤信号。

私が信号待ちで足を止めたところで、


果南「ごめんね。梨子ちゃんがあんまりに可愛いから、ちょっといじわるしたくなっちゃって」


と、言いながら果南ちゃんが私の手を握る。

──また不意打ちでそういうことするんだから……もう……。


 果南『もう、言葉にしなくても……梨子ちゃんの気持ちはわかるから、いいんだ』

梨子「……///」


心の中でまで恥ずかしいことを……。でも、嬉しい……。

火照る顔を見られないように、そっぽを向いたまま、果南ちゃんの手をきゅっと握る。

そうすると、果南ちゃんが握り返してくれて──ああ、幸せだな……こんなに幸せで、いいのかな……。


 果南『なんか……こうして、二人で手を繋いでるだけで……幸せだな……』


また、おんなじ。

自然と顔がにやけるのが止められない。

こんなところ、Aqoursの誰かに見られでもしたら──


 「あれ? 梨子ちゃんと果南ちゃん?」

梨子「っ!!?」


言ってるそばから!? 驚いて果南ちゃんと繋いでいる手をぱっと離してしまう。

声の主の方を見ると、


花丸「あ、えっと……どうかしたの?」


そこに居たのは花丸ちゃんだった。


梨子「え、あ、いやー……な、なんでもないの……///」

花丸「怪しいずら……」


確かに逆の立場だったら、私も怪しいって思うかも……。それくらい、今の私は挙動不審だったよね……。


果南「マルこそ、どうしたの? 沼津まで一人で来たの?」


そんな私を見てなのか、果南ちゃんが話題を逸らしてくれる。


花丸「あ、うん。年末年始のために今のうちに買い出ししなくちゃいけないから……」


言われてみて、花丸ちゃんがたくさんの買い物袋を持っていることに気付く。


梨子「それ全部おうちの買い出し……?」

花丸「お寺だからね……年末年始はやることがたくさんあって、今買い溜めておかないと、大変なことになるずら……っと、話し込んで遅くなったら、じいちゃんに叱られるずら……」


花丸ちゃんはそう言って、立ち去ろうとした折に、ふと──


花丸「あ、そうだ……」


思い出したかのように、私の方に寄ってきて、


花丸「梨子ちゃん、その後はどう?」


と、訊ねてくる。


梨子「え?」


なんのことだろう? 私は思わず首を傾げる。


花丸「前に御祓いの話してたでしょ? ひとまず大丈夫だって言ってたけど……その後、変なこととかないかなって思って」


どうやら、花丸ちゃんは以前話したことを気に掛けてくれていたらしい。ただ、そんな花丸ちゃんの“御祓い”というワードに反応して、


果南「お、御祓い……? 梨子ちゃん、何かあったの……?」


果南ちゃんが青い顔で訊ねてくる。


梨子「あ、うぅん! なんでもないの! えっと……ちょっと運が悪いなって思ってたことを、前に花丸ちゃんに相談してただけで……あはは」


私は果南ちゃんを怖がらせまいと矢継ぎ早に説明をする。


果南「そ、そうなの……?」

花丸「……その様子なら、本当に大丈夫そうだね。でも、もし何か困ったことがあったら言ってね」

梨子「う、うん! ありがとう、花丸ちゃん」

花丸「どういたしましてずら~。それじゃ、二人ともまたね~」


花丸ちゃんは大荷物を持ったまま、立ち去っていく。


果南「り、梨子ちゃん……ホントに何もない……んだよね?」

梨子「うん、大丈夫だよ」

果南「ホントに……?」

梨子「本当に、大丈夫だよ! なんにもない!」

果南「そ、そっか……なら、いいんだけど……」


私の言葉に果南ちゃんが安堵の息を吐く。

果南ちゃん、確か怖いモノが苦手だった気がする。

前に千歌ちゃんが口元を真っ赤っかにしてたときも、怖がってたし……。──あれはトマトを食べていただけだったけど……。


梨子「それより、行こう?」

果南「あ、うん……」


横断歩道を渡ろうと果南ちゃんの手を握ると、少しだけ震えていた。

本当に怖い話が苦手なんだね……果南ちゃん……。

でも、心の声は──


 果南『も、もし……梨子ちゃんに何かあったら……わ、私が……守らなきゃ……』

梨子「……///」


震えながらも、私を守ろうと思ってくれていた。その事実が嬉しくて、また頬が熱くなるのを感じながら……私たちは帰路に就く。





    *    *    *





二人で手を繋いだまま歩いていると──


果南「……っ」
 果南『……また……痛んできた……っ』


果南ちゃんがまた足の痛みを心の中で訴える。


梨子「……ちょっと休憩しようか」

果南「……ごめん、梨子ちゃん……」
 果南『また気を遣わせちゃってる……』

梨子「うぅん、気にしないで……」


近くのベンチまで、果南ちゃんを支えるようにして歩く。

果南ちゃんがベンチに腰掛けると──


果南「……ふ、ぅ……」
 果南『…………やっぱり、座ると、楽になる……』


果南ちゃんの痛みは引いていく。

結局、家に帰るまで、何度もこの繰り返しだった。

しばらく歩くと、果南ちゃんの足はまた痛み出し、座ると痛みが落ち着く。

移動の大半を占めるバスで座ることが出来たのは幸いだろうか……。





    *    *    *





──淡島行連絡船乗り場。


梨子「──果南ちゃん……やっぱり家まで送るよ……」

果南「もう、あとは船に乗るだけだから……大丈夫だよ」

梨子「でも……」

果南「船で往復するのも大変だしさ……」

梨子「…………」

果南「ね?」

梨子「……うん」


私が小さく頷いたのを確認すると、果南ちゃんは一度はにかんでから、踵を返して連絡船乗り場へと歩いていく。

──足を引き摺りながら……。

足を庇いながら、ゆっくり歩を進める果南ちゃんの後ろ姿を見ていたら──やっぱり、我慢できなかった。

私は果南ちゃんの後を追って──


梨子「果南ちゃん……」


果南ちゃんのシャツの裾を掴む。


果南「梨子ちゃん?」

梨子「……今日泊まる」

果南「え……?」

梨子「果南ちゃんの家に泊まる……」

果南「え、いや……」

梨子「ダメ……?」

果南「ダメ……じゃないけど……」

梨子「……離れたくない」

果南「梨子ちゃん……」


果南ちゃんは少し困った顔をしていたけど、私が一向に服の裾を離そうとしなかったからなのか──


果南「わかった。ただし、一度家に帰って準備しておいで? 待ってるから」


宿泊を了承してくれる。ただ、これはこれで果南ちゃんを困らせてしまったかもしれない。


梨子「……ご、ごめんね……。わがまま言って……」

果南「大丈夫だよ。梨子ちゃんが私のことを心配して、そう言ってることくらい、わかってるから」

梨子「うん……」

果南「それにさ」

梨子「?」

果南「離れたくないのは……私も同じだから」

梨子「! 果南ちゃん……///」

果南「今日はずーっと一緒にいよっか」

梨子「うん! すぐに準備して戻ってくるね……!」

果南「ふふ、ちゃんと待ってるから焦らないでいいよ」


私は家へと走り出す──





    *    *    *





──自宅に帰り、バッグに着替えを詰め込む。

果南ちゃんを待たせているので、最低限必要なものを選びながらの荷造りの最中──私は考える。

果南ちゃんの足はどうなってしまったのか……?

お医者さんに訊いても原因がはっきりしない。

痛み方にはムラがあって、痛まないときは本当にいつもと変わらない様子なのに、一度痛み出すと、立っているのも辛いほどの激痛になるらしい。

痛いということは、痛むときだけ何かが悪化してるってこと……?

そして、それがすぐに治って痛みが引くことの繰り返し……。

そんなことってあるのかな……?

もちろん、私は医者ではないし、そういう心得も全くない。実はそういう病気やケガがあるのかもしれないけど……私の感覚では、果南ちゃんが見舞われている足の痛みは、考えれば考えるほど不可解なものに思えてならない。

まるで私たちの想像を超えた何かが果南ちゃんの身に降りかかっていて──


梨子「……って、私何考えてるんだろう……善子ちゃんじゃあるまいし」


そんな人智を超えた不可思議なんて、そうあるはず──と、思い掛けて、


梨子「いや……あった……」


自らの口で否定する。


梨子「テレパス……」


最近あまりに日常的にテレパスを使い過ぎていたせいか、これが普通でないことを忘れかけていた。

考えてみれば、この力は……実のところ、いったいなんなんだろう……?


梨子「…………」


そのとき、ふと──嫌な考えが私の頭を過ぎった。


梨子「…………そんなはずない」


でも、私はすぐにその考えを振り払う。


梨子「…………この力は……私が果南ちゃんを支えるための力……」


自分に言い聞かせるよう、


梨子「…………私が果南ちゃんを一番そばで支えるための……“ご縁”なんだ……」


そう、口にする。


梨子「…………そんなはず、ない……」


自分の中の疑念を掻き消すように──私は呟き続ける……。





    *    *    *





あの後、お母さんに外泊の許可を貰い、船着き場へ戻って来た。


梨子「果南ちゃん……! お待たせ……!」

果南「おかえり」


約束通り、船着き場で待っていてくれた果南ちゃんと合流する。


梨子「足の調子はどう……?」

果南「座って待ってたらだいぶよくなったよ」


そう言いながら、果南ちゃんはその場で軽く足踏みをして見せてくれる。

確かにしっかりした足取りで、またいつものように、痛みが完全に引いているようだった。


梨子「よかった……」

果南「心配掛けてごめん……でも、今日はこれからずっと一緒だから」


果南ちゃんはニコッと笑いながら、優しいトーンで私にそう伝えてくれる。


梨子「……うん///」


──『これからずっと一緒』──そんな果南ちゃんの言葉を聞いているだけで、幸せな気持ちが溢れてきて、変になっちゃいそうかも……。


果南「そろそろ船が来るね……移動しようか」

梨子「うん」


二人で並んで、船乗り場まで歩き出す。

その際──コツンとお互いの手が一瞬触れ合う。

普段だったら、この何気ない触れ合いがくすぐったくて、ドキドキして、それがどうしようもなく幸せに感じる瞬間のはずなのに──私の脳裏を先ほど考えていたことが過ぎって、


梨子「……っ!」


反射的に──ビクッと身を竦ませてしまった。


果南「え、あ……ごめん……びっくりさせちゃった……?」

梨子「あっ、え、えっと……」


自分でも、こんな反応をするつもりがなかったからか、思わず言葉に詰まる。


梨子「そ、その……お泊りでちょっと緊張……してて……あはは」


どうにか言い訳を絞り出す。


果南「あはは、今更緊張しなくても。前にも泊まったことあるんだから」

梨子「……そ、そうだよね……」


一瞬だったから、テレパスもいつものような台詞が流れ込んでくるような形では発動しなかったけど……短く触れ合った時間の間で、なんとなく果南ちゃんの感情が流れてきた気がする。

──『手を繋ぎたい』──という気持ち。

大丈夫。この力は私と果南ちゃんの気持ちを通じ合わせるための力。

悪いものなわけないんだ。自分にそう言い聞かせる。


梨子「か、果南ちゃん……」


だから、言えばいいんだ。果南ちゃんのしたいようになるように、私が気持ちを汲んであげれば──


果南「ん、なに?」

梨子「果南ちゃんが……今、思った通りのこと……して、いいよ……///」

果南「……ん……///」


珍しく、照れたような素振りを見せたあと、果南ちゃんは──私の手をぎゅっと握ってくる。


果南「…………///」
 果南『やっぱり……梨子ちゃんと手繋ぐの……好きかも……』

梨子「えへへ……///」


──ほら、うまくいった。

これはいい力なんだ。私と果南ちゃんを繋いでくれる大切な力なんだ。

悪い力なわけ……ないんだ。





    *    *    *





果南「……っ゛……ぅ゛……」
 果南『これは……き、つい……』

梨子「果南ちゃん、もう少しだから……!」


船から降りると、果南ちゃんの足は再び痛み出した。

そんな果南ちゃんに肩を貸しながら、『Dolphin House』に入る。


梨子「部屋まで行ける……?」

果南「うん……お願いできる……?」
 果南『いつ痛むかわからないなら……部屋で休みたい……』

梨子「わかった……!」


肩を貸したまま、果南ちゃんの部屋までどうにかこうにか辿り着き──


梨子「果南ちゃん……! 着いたよ……!」

果南「う、ん……」
 果南『やっと……着いた……』


果南ちゃんは部屋に着いたのを確認すると、肩を借りていた私から離れて、すぐにベッドの端に腰を下ろして、


果南「……ふ、ぅ……」


深く息を吐く。


梨子「大丈夫……?」

果南「うん……お陰様で……。……いつもどおり、座ったら、落ち着いてきたよ……」

梨子「なら、よかった……」


私も安堵の息を漏らす。


果南「ありがとう……梨子ちゃん……」

梨子「うぅん……当たり前だよ……だって、その……私……/// か、果南ちゃんの……恋人……だもん……///」


改めて言葉にすると、まだ恥ずかしい。例の如く顔が火照っていくのを感じる。きっと赤面している気がする。でも……この恥ずかしささえも、今では、なんだかこそばゆくて心地いいかもしれない。

果南ちゃんの顔を見ると──


果南「うん……///」


果南ちゃんも私と同様に、顔を赤くしていた。


梨子「…………///」

果南「…………///」

梨子「……え、えっと……/// そ、そうだ……! 果南ちゃん、何かして欲しいこととかある……?」


恥ずかしさを誤魔化すように提案すると、


果南「あ、えっと……それじゃ、その……」


果南ちゃんは少しだけ、目を泳がせながら──


果南「隣……座って、くれる……?」


そう言いながら、腰掛けているベッドのすぐ横をぽんぽんと叩く。


梨子「う、うん……/// わかった……///」


私はそわそわしながら、果南ちゃんのすぐ横に腰を下ろす。


梨子「し、失礼します……///」


沈み込む柔らかいベッドの感触を感じながら、腰掛けると──すぐに、果南ちゃんの手が私の手に重ねられる。


 果南『どうしよう……私、今、めちゃくちゃドキドキしてる……』


もちろん、私も同じ。また、同じ気持ちを共有してる。

早鐘を打つ鼓動が心地良い。火照る顔が心地良い。そして何より……重ねられた手から伝わってくる、果南ちゃんの温もりを感じられることが、言葉で言い表せないくらい、幸せだ……。


梨子「果南ちゃん……」


──コテン、と自らの頭を預けるように、果南ちゃんの肩にもたれかかる。


 果南『……ど、どうしよう……こういうときって……抱きしめてあげた方が……いいのかな……?』


……ふふっ。動揺している果南ちゃんの心の声を聞いて、内心笑ってしまう。

いつものように見栄っ張りで、年上の余裕を見せたいって思っているところも、果南ちゃんらしくて……そんなところも、好き。


梨子「……果南ちゃん」

果南「……ん」

梨子「今……果南ちゃんが思ってるとおりにして……欲しいな……///」


だから、こう伝えるんだ。

こうすると、うまく行くから。


果南「梨子ちゃん……」


果南ちゃんが半身を捩りながら、腕を私の背中に回して──私はそのまま抱き寄せられる。

果南ちゃんのハグは何度も経験してきたけど──


 果南『……ああ、私……梨子ちゃんが、好きだ……』


いままでのような、ただ、ぎゅーっと抱きしめるだけのハグと違って、まるで壊れモノでも扱うような優しい優しい抱擁だった。


果南「……苦しくない?」

梨子「……うん///」


控えめに頷くと、私の背中側に回された手が私の髪を優しく撫でつける。


 果南『梨子ちゃんの髪……さらさらだ……』

梨子「果南ちゃん……///」

果南「ん……?」

梨子「名前……呼んで……?///」

果南「……梨子ちゃん……」

梨子「うん……///」


果南ちゃんの胸に抱かれて──ドクンドクンと、鼓動を感じる。果南ちゃんのかな? それとも私の? ──うぅん、お互いの、だよね。

果南ちゃんが息をするたび、胸が上下しているのもわかる。

果南ちゃんの吐息の音さえも、聴き取れる、至近距離。

──視界も、匂いも、音も、温もりも、私の全部が果南ちゃんで埋め尽くされている。

そして──


 果南『梨子ちゃん……好き……好きだよ……』


──心の中まで。

私は全身で──うぅん、全身全霊で果南ちゃんを感じている。

──幸せで溶けてしまいそうだった。

幸せでとろけた思考のまま、顔をあげると──


果南「……梨子ちゃん……」


果南ちゃんが私の瞳を覗き込むように、こっちを見ている。


 果南『梨子ちゃん……可愛い……好きだよ……』

梨子「…………果南ちゃん……///」


私は──目を瞑った。


 果南『あ……これって……』

梨子「果南ちゃん……いい、よ……///」

果南「……梨子ちゃん……」


──ゆっくりと果南ちゃんの顔が近付いてくるのが気配でわかる。

どんどん気配が近付いてきて、果南ちゃんの吐息を顔に感じる。

お互いの唇があと数ミリで触れ合──

──ガチャ。


おじい「──果南、飯……」

果南「…………」

梨子「…………」

おじい「……すまん」


──バタン。


果南「…………」

梨子「…………」


無言のまま、離れる。

数秒ほど、お互い無言の時間が流れたのち──


果南「……ちょっとおじいのところ行ってくる」


そう言って、果南ちゃんが立ち上がろうとして、


果南「……っ゛」


すぐに鈍いうめき声と共に、ベッドの上に逆戻り。


梨子「あっ、無理しないで……!」

果南「……あーもう……こんなときに限って痛むし……」


果南ちゃんは悔しそうに握りこぶしでぽんぽんと自分の膝を叩く。

この前もそうだったし、とりあえずおじいちゃんに説明したいんだよね……。


梨子「わかった」

果南「?」

梨子「私がおじいちゃんに話してくるね」

果南「え?」

梨子「ちゃんと説明してくるから!」

果南「えっ、ちょっと待って、梨子ちゃ──……っ゛……!」


ベッドからするりと抜け出して、部屋を出て行く私。

それを追おうとして、立ち上がるも、三たび痛みでベッドに腰を下ろす果南ちゃん。


梨子「果南ちゃんは、じっとしてて!」

果南「あっ、ちょ──」


──パタン。

扉を閉めて、


梨子「……よし」


私はおじいちゃんの所へと歩き出す。





    *    *    *





──おじいちゃんはリビングで夕食を食べているところだった。


梨子「あ、あの……おじいちゃん」

おじい「……なんだ」


声を聞いて、おじいちゃんが私の方に振り返る。


梨子「さっきのことなんだけど……」


ちゃんと、筋の通っている言い訳を、と思って口を開いたものの──……あれ? 何を言い訳すればいいんだろう……?

よくよく考えてみれば、前回のときは誤解だったけど……今回はお互い好き合った状態で、合意の上でのキス未遂。

……しまった、その辺りのことを、ちゃんと考えていなかった……。


梨子「あー……えっと……」

おじい「……」


と、とりあえず、何か言わなきゃ……!


梨子「き、今日のお魚はなんですか!?」

おじい「梨子」

梨子「は、はいっ!」

おじい「果南は好きか」

梨子「へぇっ!?///」


素っ頓狂な声が出た。ただ、おじいちゃんはそんな私の間抜けな声を意に介することもなく、


おじい「果南は好きか」


もう一度、そう訊ねてきた。

──きっと、これは……真剣に答えないといけない場面だ。


梨子「……はい……///」


だから私は、素直に頷く。

それだけ聞くと、おじいちゃんは、


おじい「わかった」


とだけ言って、おじいちゃんは元のとおり机に向き直って、食事を再開しようとする。


梨子「え、あの……」

おじい「なんだ」

梨子「その……それだけ……ですか……?」

おじい「ああ、いや……さっきはすまん」

梨子「そ、そうじゃなくて……!」


もちろん謝罪をして欲しかったわけじゃない。

ただ、さっきの確認は──きっと、そういうことだと思う。

その割にあまりに淡泊な反応に、逆に動揺してしまう。


梨子「あの……えっと」

おじい「…………」


おじいちゃんは軽く頭を掻いてから、もう一度私の方に体を向けて、


おじい「果南が幸せなら、俺が口出すようなことじゃない」


渋く、しゃがれた声で、でもしっかりと聞き取れるはっきりとした声で、そう言いました。


梨子「おじいちゃん……」

おじい「梨子」

梨子「は、はい……」

おじい「果南を頼む」


前聞いたときと同じ言葉。

世界で一番、果南ちゃんを大切に思っているであろう、家族からの、願い。

私は──


梨子「はい」


頷いた。


梨子「絶対に、果南ちゃんのそばに居ます」


おじいちゃんの言葉に、しっかり、はっきりと、そう答えました。


おじい「…………」


それを聞いたら満足したのか、おじいちゃんは今度こそ、私から顔を背け、箸を手に取る。

私はそんなおじいちゃんの背中に向かって──ペコリと頭を下げてから、果南ちゃんの待つ部屋へと戻るのでした。





    *    *    *





果南ちゃんの部屋のドアを開けると、


果南「おっと……」


ちょうど部屋から出ようとしていた果南ちゃんと鉢合わせる。


梨子「足、大丈夫?」

果南「うん、落ち着いてきた。……それより……」

梨子「ふふっ、ちゃんと説明してきたよ?」

果南「おじい、何か言ってた……?」

梨子「えっと……すまんって言ってたよ」

果南「……おじい、ホントに意味わかって謝ってるのかな……」


果南ちゃんは肩を竦めながら、溜め息を吐く。


梨子「それより……痛みが落ち着いてるなら、ご飯食べる……?」

果南「そうだね……まだおじいも食べてるだろうし……」

梨子「うん!」


せっかくなら食事は家族と取った方がいいもんね。

私が頷くと、


果南「行こっか」


果南ちゃんは、自然に私の手を取って歩き出す。


 果南『タイミング逃しちゃったな……』

梨子「?」

 果南『……今更言い訳してもしょうがないし、おじいに梨子ちゃんのこと、ちゃんと紹介しようと思ったのに』

梨子「……!///」


思わず足を止める。


果南「梨子ちゃん?」
 果南『どうかしたのかな?』

梨子「あっ、いや/// な、なんでもないの……なんでも……///」

果南「そう?」


また赤くなっているであろう顔を伏せながら──私は改めて、この繋がりを離さないようにと、果南ちゃんの手を強く握り返すのでした。





    *    *    *





梨子「ふぅ……さっぱりした……」


──食事のあと、順番に入浴をして、部屋に戻ってきた。


果南「おかえり」

梨子「ただいま」

果南「髪乾かしてあげるから、座って」

梨子「うん」


私がベッドに腰掛けると、果南ちゃんが後ろからドライヤーを掛け始める。


 果南『やっぱ梨子ちゃんの髪……綺麗だなぁ……』

梨子「……///」


嬉しい称賛と共に、一人恥ずかしくなりながらも、どうやら今は足の痛みも落ち着いているようで、少し安心する。

お風呂に入っているときに、足の発作が起こらなかったことは本当に幸いだ。

ふと、そこで思う。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「ん?」


ドライヤーを掛け終わったタイミングで果南ちゃんに訊いてみることにした。


梨子「足のことって……おじいちゃんには言ってないの?」


前に聞いたとき、おじいちゃんは果南ちゃんの足については何も知らなかったし……。


果南「ああ、うん……まあね」

梨子「言わないの……?」

果南「おじいも歳だからね。変に心配掛けたくないし……ケガや病気も出来る限り、自分で対処したいというか……。それに、今までは家にいるときに足が痛むことってあんまりなかったからさ……」

梨子「そうなの?」

果南「うん。ただ、無理はするなとは言われたんだよね……。どっかのタイミングで気付かれたのかもしれないけど……」


たぶん、それは私がおじいちゃんに聞いたのが原因だろう。

だとしたら、やっぱり余計なこと言っちゃったのかも……。


果南「これ以上悪化するようなら仕事の手伝いのこともあるから、言った方がいいかもしれなけど……。どっちにしろ今年はもうお客さんもいないみたいで、お正月明けるまではのんびり進行だからさ」

梨子「そっか……」


もちろん無理はして欲しくないけど……果南ちゃんなりに考えているなら、私がこれ以上どうこうは言いづらい。

いくら恋人になったとはいえ、いきなり家族や家業の問題にまで口を出すのは、いろんなステップを飛び越え過ぎだと思うし……。


果南「まあ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ! たぶん、どうにかなるからさ!」


ある意味、この大雑把さは果南ちゃんらしいかもしれない。

どちらにしろ、お医者さんに訊いても原因がよくわからない以上、こちらから打つ手は──でもそんな中で私の頭を過ぎるのは、またしても別の……ケガや病気とは違うものである可能性。


梨子「…………」

果南「梨子ちゃん?」

梨子「あ、うぅん……なんでもない」


私は頭を振る。

それこそ、気にしすぎだよね……?

私が一人もやもやとした疑念を胸中に抱いていると、


果南「ホントにそんなに心配しないでも大丈夫だよ」


果南ちゃんはそう言いながら、私を後ろから抱きすくめる。


梨子「か、果南ちゃん……?///」

果南「私は、梨子ちゃんがそばにいてくれたら……痛いのも辛いのも飛んでっちゃうからさ……」
 果南『梨子ちゃんが居てくれれば……それだけで、きっとどうにかなる気がするんだから、不思議だよね』

梨子「……うん///」


私は果南ちゃんの言葉に頷く。

うん、そうだ。今私に出来ることは、少しでも果南ちゃんのサポートが出来るように、こうしてそばにいることだよね。

そう自分に言い聞かせる。


 果南『……梨子ちゃんを安心させるためのハグなのに……むしろ私が安心してるかも』


私がそばにいるだけで……果南ちゃんが安心してくれる。

だからこれでいいんだ……これで──





    *    *    *




時刻午後10時。

そろそろ就寝時間という頃合。

もちろん、今日は果南ちゃん用の敷布団は用意されておらず……。


果南「梨子ちゃん。……おいで?」

梨子「……うん///」


果南ちゃんが座ったまま両手を広げて待っているベッドへ、私もお邪魔する。


果南「ハグっ」

梨子「きゃ……///」

果南「ぎゅー……」

梨子「えへへ……果南ちゃん……///」


本日何度目かわからない、恋人からのハグ。

でも何度されても嬉しくて、幸せが込み上げてくる。

甘えるように、果南ちゃんの胸に顔を埋めると、


 果南『梨子ちゃん……可愛い……』


こちらも何度目かわからない心の声を聞かせてくれる。


梨子「果南ちゃん……///」

果南「んー?」

梨子「今日は……果南ちゃんにぎゅってされたまま……眠りたい……///」

果南「ふふ……いいよ」
 果南『あーもう……私の恋人、ホント可愛いなぁ……』


抱きしめられたまま、一緒に横になって、肩まで布団を掛けて、リモコンで電気を消す。

部屋が暗くなり、お互いの顔が見えなくなる。

でも、私は暗くなった中でも果南ちゃんから目を逸らせなくて──次第に目が慣れてくると、暗闇の中で、果南ちゃんの二つの瞳も私を見つめていることに気付く。


 果南『あ……梨子ちゃんも私のこと、見てる……』

梨子「ふふ……」


また、おんなじ。


梨子「果南ちゃん……」


名前を呼んで、さらに体を密着させる。

すると、果南ちゃんは、私の頭を優しく撫でてくれる。


果南「梨子ちゃん……おやすみ」

梨子「うん……おやすみ……」


果南ちゃんの胸の中で、目を瞑る。

果南ちゃんの匂いに包まれていて、すごく落ち着く……。

幸せな気持ちを抱いたまま、果南ちゃんの温もりを感じていると──意識は思ったより早く、眠りの世界へと沈み込んでいく。

その間、ずっと──


 果南『梨子ちゃん…………梨子ちゃん…………好きだよ……』


そんな果南ちゃんの心の声を聞きながら──私は夢の世界へと、落ちていきました。





    *    *    *





 『梨子ちゃん』


声がする。


 『好きだよ』


私の大好きな人の声。

私も好き。大好き。

寝ても覚めても、私の頭の中に木霊する愛の言葉。

──ああ、幸せだ。

こんなに幸せでいいのかな。

……いいよね。

こんなに幸せなんだもん。

間違ってるはずない。


 『梨子ちゃん、好きだよ』


私も大好き。

声に溺れるように。

力を抜いていく。

全部がどうでもよくなるくらい、幸せに浸りきろうとした、そのとき──


 「いいの?」


違う声が、聞こえた。

ある意味で、世界で一番聞きなれた、一番聞いてきた、声。

これは──私の声……?


 「本当に、これでいいの……?」


……何が? 何がいけないの……?


 「本当は気付いてるんじゃないの?」


……何に?


 「自分の、間違いに」


…………。


 「今なら、間に合うかもしれない、だから……!」


──うるさい。

私は耳を塞いだ。

私が、私の幸せの邪魔……しないでよ……。


 「お願い……! 耳を塞がないで……!」


やめて。私には関係ない。


 「このままじゃ、本当に……!!」


──うるさい。


 「ねぇ……!!」


──うるさいっ!!!

私は、私の言葉を掻き消すように、叫んだ。

すると、声は聞こえなくなった。

──これで、いいんだ。

間違ってるはずない。

私も、果南ちゃんも、幸せなんだから。

だって……だって、そうじゃないと……私は……ずっと果南ちゃんのことを──





    *    *    *





──チュンチュン。


梨子「……ん、ぅ……」


ぼんやりと目を開けると──


果南「…………すぅ……すぅ……」


私は果南ちゃんの胸の中に居て、すぐそばから果南ちゃんの寝息が聞こえてくる。


梨子「…………」


辺りを見回すと、カーテンの隙間から光が漏れている。

果南ちゃんも眠っているし、もう一度寝ようかなとも思ったけど……。

変な夢を見たせいか、いやに目が冴えていた。

内容を正確には思い出せないけど……気分が悪くなるような夢だった気がする。

──果南ちゃんを起こさないようにゆっくりと、彼女の胸の中から抜け出す。


果南「ん、ぅ……」


私が離れると、果南ちゃんは私を探しているのか、何かを手繰るような仕草をしたけど、


果南「…………すぅ…………すぅ……」


すぐにまた寝息を立て始めた。


梨子「……顔洗ってこよう」


ぼんやりした頭を覚ますために、私は一人部屋を出て、洗面所に向かうことにした。





    *    *    *





梨子「──ふぅ……」


顔を洗って、すっきりしたところで──


梨子「あれ?」


リビングに人影を見つける。

もちろん、果南ちゃんが自室で眠っている以上、この人影が誰のものかは決まっていて──


おじい「……梨子か」

梨子「おはようございます……」


そもそもおじいちゃんは普段から早起きだから、仕事がない日に朝早く起きていてもおかしくはないんだけど……。

私が疑問に思ったのはそこではなく、おじいちゃんが何やらバッグに荷物を詰めているところだったからだ。


梨子「どこかいくんですか?」

おじい「ああ、数日家を空ける」

梨子「……へ?」

おじい「大晦日には戻る」


それだけ言っておじいちゃんは荷物を持って、出ていこうとする。


梨子「ち、ちょっと待って……! どこに行くんですか……?」

おじい「休暇だ」

梨子「休暇って……旅行ってことですか……?」


年末年始は仕事がないって果南ちゃんも言っていたし……この機会にってことなのかな……?


おじい「ああ。十千万旅館に世話になってくる」


思ったより近所……。旅行といえば旅行だけど……。


おじい「梨子」

梨子「は、はい……?」

おじい「何日か泊まっていけ」

梨子「……はい?」

おじい「果南を頼む」


最後にそれだけ残して、おじいちゃんは出て行ってしまった。


梨子「…………」


つまり……おじいちゃん、気を遣ってくれたってこと、なのかな……?





    *    *    *





果南「旅行に行った……?」


リビングで席に座っていた果南ちゃんは、私の説明を聞いて眉を顰める。


梨子「うん……そう言ってた。あと何日か泊まっていけとも……」

果南「……はぁ、相変わらず勝手に決めちゃうんだからなぁ……梨子ちゃんにも事情があるのに、困っちゃうよね」

梨子「私は、別にいいんだけど……」


私も受け答えをしながら、出来立てのたまご焼きが載ったお皿を机に置いて、果南ちゃんの隣の席に着く。

──本日の朝食はご飯と海苔とたまご焼き、あと例の如く昨日おじいちゃんが多めに作ったお味噌汁の残り。


果南「まあ、梨子ちゃんがいいならいいんだけどさ……」

梨子「それより、食べよ?」

果南「ん、そうだね」

梨子・果南「「いただきます」」


二人で手を合わせて、いただきます。

お箸を手に持つと、同時に──


果南「梨子ちゃん、あーん♪」


口元に差し出される、たまご焼き。


梨子「あ、あーん……///」


恥ずかしいけど、もう遠慮する理由もないし……素直に食べさせてもらう。


梨子「あむ……///」

果南「……おいしい? って、私が作ったんじゃないけど……」

梨子「うん……///」


今日もたまご焼きの味付けがばっちりなのを確認してから──


梨子「か、果南ちゃん……///」

果南「ん」

梨子「あーん……///」

果南「ふふ、あーん♪」


今度は果南ちゃんにたまご焼きを食べさせてあげる。


梨子「お、おいしい……?」

果南「うん! やっぱこの味だよね……毎朝、作って欲しいくらいだよ」

梨子「へ……///」


──そ、それって……。


果南「? どうかしたの?」

梨子「…………」


そうだった。この人はこういうことを無意識で言うんだった。


梨子「そうだ……足の調子はどう?」


気を取り直して、他の話題を振る。


果南「ん……ちょっと痛いけど……歩けないほどじゃないかな」

梨子「そっか……」


とりあえず、比較的落ち着いているようで安心する。


果南「ただね……足じゃないんだけど……」

梨子「?」

果南「起きた直後、声が出なくてさ……」

梨子「声……?」


言われてみれば……朝食を作っているときに洗面所の方から、うがいをする音がしていたような……。


梨子「風邪……?」

果南「なのかな……? ただ、喉の方は別に痛いとか、そういうことはないんだよね……ただ、声が掠れて出なかったというか」

梨子「起き抜けだったからかな……?」

果南「まあ、そうかもね」


──このときの私たちは、声が出ないという現象に対して、悪くてもちょっとした風邪程度にしか認識していなかった。

この後、異変が一気に加速していくとも知らずに……。





    *    *    *





それは、お昼を過ぎたころだった。


果南「ん……ん゛っ……」

梨子「? 果南ちゃん……?」


果南ちゃんが、喉を抑えながら、咳払いを始める。


果南「ぁ……ぁ…………」

梨子「声、出しづらいの……?」


訊ねると、果南ちゃんは首を縦に振る。

どうやら、思ったよりも喉の調子が悪そうだ。


果南「のど……ぁ……め……」


声を掠れさせながら、立ち上がると同時に──


果南「……っ゛!」


足を庇うようにすぐに蹲ってしまう


梨子「む、無理しないで……!」


すぐさま、駆け寄る。


 果南『……のど飴……確か、リビングに……』

梨子「のど飴が欲しいの?」


再び、私の言葉に果南ちゃんは首を縦に振る。


梨子「わかった、取ってくるから待ってて」


私は一人リビングに向かう。

──果南ちゃんの症状は、時間を経るごとに悪化し始めていた。

特に今日の足の痛みは酷いようで、朝食を取ったあとはほとんど座ったまま過ごしている。


梨子「のど飴……あ、これかな」


リビングの机の上に小さな瓶に入った飴を見つける。瓶ごと手に持って、すぐに果南ちゃんの部屋に戻る。


梨子「果南ちゃん、のど飴持ってきたよ!」

果南「ぁり……が……と……」


掠れる声でお礼を言いながら、果南ちゃんは瓶から飴を一粒取り出して、舐め始める。


梨子「大丈夫……?」

果南「……ご、め…………りこ……ちゃ……」

梨子「む、無理に喋らないで……」


私は果南ちゃんの手を握る。


 果南『……せっかく、一緒にいるのに……足の痛みでどこにもいけないし……声も出なくなってきて……』

梨子「気にしないで……? 私は果南ちゃんと一緒に居られるだけで嬉しいよ……」

 果南『梨子ちゃん……』


伝えると、果南ちゃんは私を抱き寄せる。


梨子「落ち着いたら……次、何して遊ぶか考えよっか」

果南「……ん……」
 果南『たぶん……いつもの調子なら……そろそろ波が引く……はず、だよね……?』


痛みに耐える果南ちゃんの背中に手を回しながら、私はこの期に及んで、少し経てば症状が落ち着くだなんて……楽観的に捉えていた。

──結論から言うと、このあと果南ちゃんの症状が落ち着くことは……なかった。





    *    *    *





果南「…………」

梨子「果南ちゃん、お夕飯作ってきたよ?」

果南「…………ぁ……」

梨子「無理に喋らなくても大丈夫だよ。一応おかゆにしてきたから……」

果南「…………」


もうすっかり日も落ちた今も、果南ちゃんの声は快復していない。

それどころか、あれ以降いつもだったら、波のあった足の痛みが一向に引かなくなってしまった。

あまりに長く続く痛みと、コミュニケーションが困難な状況に疲れてしまったのか、普段から明るい果南ちゃんもさすがに元気がなくなってきていた。

ベッドの上で上半身だけ起こした状態の果南ちゃんの横に、おかゆの載ったお盆を置いてから腰掛け、


梨子「……ふー……ふー……。……はい、あーん」


口元にスプーンを運ぶ。


果南「………………」


果南ちゃんは無言で口を開いて、おかゆを食べる。


梨子「熱くない?」

果南「…………」


訊ねると、首を縦に振る。


梨子「味濃くないかな?」

果南「…………」


再び、首を縦に振る。


梨子「よかった、じゃあ次……はい、あーん──」





    *    *    *





食事を終えると、果南ちゃんはしきりに瞬きを繰り返し始めた。


梨子「果南ちゃん……?」


何かと思って、手を握る。


 果南『なんか……目が……痛い』

梨子「目……?」


果南ちゃんの目を見ると──その目は真っ赤に充血していた。


梨子「ちょっと、ごめんね……」


果南ちゃんの両頬辺りに手を添えて、親指で下瞼を引っ張り、眼球を見てみる──

そこにあるのは充血しきった真っ赤な目があるだけ。


梨子「…………」

 果南『梨子ちゃん……黙っちゃったけど……私の目、どうなってるんだろう……?』

梨子「……あ、えっと……ちょっと充血してるね。目薬とかってあるかな?」

果南「…………」


訊ねると、果南ちゃんはコクンと頷く。


 果南『確か冷蔵庫に入れてたはず……』

梨子「冷蔵庫の中?」

果南「…………」


再び私の言葉に頷く。


梨子「ちょっと、取ってくるね」


おかゆを食べたあとの食器を運ぶついでに、冷蔵庫まで目薬を取りに行く。

──その際、今さっき見た目を思い出す。

真っ赤に染まった、目があった。

──目“しか”なかった。

もっと正確に言うと、本来目の痛みを訴えた人の眼球にあるはずのものが、ほぼなかった。


梨子「……涙が……なかった……」


そう、果南ちゃんの眼球は酷く乾いている状態……すなわち、ドライアイの状態だった。

素人の私が見ても、一目で目が乾燥していることがわかるのは、かなり酷い状況なんじゃないだろうか。

──悪化する足の痛み、声枯れ、そして酷い目の充血とドライアイ……。

どうしてこんな急にいろんな症状が出始めてしまったんだろうか。部位的にも共通項が見つけられない。


梨子「やっぱり……」


私は流しに食器を置きながら──自分の手の平を見つめる。


梨子「……ち、違う……。果南ちゃんの声が出せない今こそ、必要な力だよ……」


この力は、今こそ必要な……果南ちゃんを支えるために、私に与えられたものだもん……。


梨子「は、早く戻らないと……」


冷蔵庫の中の目薬を見つけて、すぐに果南ちゃんの部屋にとんぼ返りする。

頭の遥か隅の方で、鳴り響いている警鐘を、聞き逃しながら──





    *    *    *





立つのも辛い状況で、お風呂なんて入れるはずもなく……。


梨子「果南ちゃん……背中拭くね?」

果南「…………」


今日はお風呂はやめて、お湯で湿らせたタオルで身体を拭いてあげる。

前は自分でやってもらったけど、背中側はやっぱり一人だと大変だろうからと、手伝っている真っ最中。


 果南『……なんだろ……まるで、私……病人だ……』

梨子「…………」


目に見えて、果南ちゃんの意気が沈んでいくのがわかる。


 果南『……梨子ちゃんにも、申し訳ないよ……』

梨子「果南ちゃん……私のことは気にしないで? 好きでやってるだけだから……」

 果南『こんなことさせるために……恋人になったわけじゃないのに……』

梨子「……支えあうのが、恋人だから……ね?」

 果南『……自分が……情けない…………』

梨子「大丈夫だから……!」

 果南『……こんなの……もう、介護……だよ……』

梨子「…………」


落ち込み続ける果南ちゃんに、なんて言葉を掛ければいいのか悩みながら……私は果南ちゃんの身体を拭き続ける。





    *    *    *





果南「………………くぅ……くぅ……」


背中を拭いてあげたあと、果南ちゃんは眠ってしまった。

精神的な疲弊があまりに大きかったのもあると思う。

憔悴しきって、眠ってしまった果南ちゃんの隣で、私は考える。

この状況が明日も続くようなら、おじいちゃんに連絡をした方がいい。

おじいちゃんが携帯電話を持っているのかはわからないけど……幸い行先は十千万旅館だと聞いている。

なら、千歌ちゃんに連絡をすれば最悪、コンタクトは取れるはず。

場合によってはお医者さんを呼ぶ必要もある。

ただ、今日は……もう……眠ろう。

私も疲れてしまった。

──果南ちゃんの隣で横になる。


梨子「果南ちゃん……絶対、私が支えるから……」

果南「………………くぅ………………くぅ……」

梨子「おやすみ……」


果南ちゃんの寝顔をしかと確認してから、目を閉じた──





    *    *    *





──夢を見た。

青い青い海を泳ぐ、紺碧の髪の人魚姫の夢。

でも、この人魚姫は幸せでした。

声を失っても、歩くことが出来なくても、この人魚姫の気持ちは──何故か王子様に伝わっていたのです。

言葉を交わさずとも、歩いて寄り添うことができなくとも、彼女の気持ちは王子様に通じ、王子様は人魚姫を迎え入れます。

幸せの絶頂の中、物語は終わ──りを──迎、え──


 「なに……?」


幸せな物語が突然、ノイズが入ったように乱れ──


 『こんなものはまやかしだ』


──声が響く。


 『子供の思い描く、都合の良い幻だ』


次の瞬間。幸せだったはずの人魚姫が──泡立ち始める。

紺碧のポニーテールを揺らしながらどんどん泡沫に消えていく。

そして、人魚姫は──……消えて、なくなった。





    *    *    *




梨子「──……っ!!」


──私は飛び起きた。


梨子「はぁ……っ!! はぁ……っ……!!」


心臓がバクンバクンと激しく脈を打っている。

全身に冷や汗をかいていて、気付けば手足が震えている。


梨子「ゆ、め……?」


肩で息をしながら、私は頭を軽く押さえる。

嫌な夢だった。

ただの人魚姫の話だったら、別にいい。

でも、あの人魚姫の姿は……どう見ても……。

──そこで私はハッとして、隣で寝ているはずの彼女に顔を向ける。


果南「………………」


ただ、それは杞憂だったようで、彼女は──果南ちゃんは、うっすらと目を開けて横たわったまま、私を見上げていた。

果南ちゃんはそのまま、ゆっくりと手を伸ばして、私の手に自らの手の平を重ね、口を開く。


果南「……り…………ゃん…………ょぅ…………」
 果南『梨子ちゃん……大丈夫……?』


ほとんど音になっていない掠れた声。ただ、心の声を聞く限り、心配してくれていることがわかった。


梨子「大丈夫……ちょっと、変な夢見て……起こしちゃって、ごめんね」

果南「…………」


果南ちゃんはふるふると首を横に振る。

一度微笑みかけてから、私はベッドから足を下ろす。

今日はどうしたものか。

昨日考えたとおり、症状が落ち着いていないなら、おじいちゃんを呼び戻して、お医者さんに掛かる方向だと思うけど……。


梨子「果南ちゃん」

果南「……?」

梨子「足の調子……どう……?」


手を握りながら、訊ねる。


 果南『どう……だろ……』


果南ちゃんは首を傾げる。


 果南『立ってみないと……わかんないな』

梨子「……一度、立ってみる? 私が支えるから」

果南「…………」
 果南『試して……みよう……』


私の言葉に果南ちゃんは、首を縦に振る。


梨子「よし……それじゃ……」


果南ちゃんが上半身を起こして、ベッドの端から足を垂らす。

足が軽く、床に着くと── 一瞬ビクッとして、足を引っ込める。


 果南『……だ、大丈夫……いつもなら、寝起きは……落ち着いてる……』


怖いんだ。昨日一日刺すような痛みに耐えていたんだもん。


梨子「果南ちゃん、怖いなら……無理しなくて、いいよ?」

果南「…………っ」


でも果南ちゃんは私の言葉に首を振る。


 果南『試しもしなかったら……もうホントに立てなくなる気がして……怖い……』

梨子「……わかった」


私は果南ちゃんの脇の下に頭を通して、支えるような形を取る。


梨子「せーのでいける?」

果南「…………!」
 果南『それで、やってみよう……』


果南ちゃんが首を縦に振った。

よし……!

息を吸う。


梨子「せーの……!」


果南ちゃんが足を出して──

立ち上が──


 『───¢£%#&□△◆■!!!?!!?!?』

梨子「っ゛!!?!?」


急に頭の中を、爆音が劈いて、蹲る。


梨子「……ぁ゛……づっ……!!」


目がちかちかして、頭がぐらぐらする。


梨子「……今の……何……っ……」


頭を押さえながら、立ち上がった傍らに……──倒れていた。


梨子「………………え?」


海のような深い青色の髪の少女が。

──私の大好きな、世界で一番大切な、大事な人が。

倒れていた。


果南「……………………」

梨子「あぁぁぁぁっ……!!」


私は目を見開く


梨子「──果南ちゃんッ!!!!」


すぐに彼女の傍らにしゃがみ込み肩を揺する。


梨子「果南ちゃんっ!!? 果南ちゃんッ!!!!!」


絶叫に近い声量で果南ちゃんの名前を呼びかける。

でも、


果南「……………………」


彼女からは一切の反応がない。


梨子「果南ちゃんっ!!! しっかり……!!! しっかりして……!!!」


肩を揺すっても、顔に触れても、手を握っても、反応がないどころか──テレパスも起こらない。


梨子「はっ……!! はっ……!!! はっ…………!!!」


動悸がしてきて、息が切れる、目の前で起こっていることに現実感がない。

何が起きてる? 何が起きているの? 何が起きてしまったの……!!?

焦り、混乱する思考の中、


梨子「た、助け……よ、呼ばなきゃ……っ!!!」


自分の周囲を手探りで探し始める。


梨子「携帯、どこ……!! どこ……!!?」


焦って回る視界の中──かろうじて、ベッドの上に置いてある自分のスマホが目に入る。


梨子「あった……!!」


引っ手繰るように手に取って、電話帳を開く。


梨子「き、救急車……!!! 救急車……、どこ……!!?」


焦った思考のまま、必死にスクロールするも、救急車なんて項目は当然登録されているはずもなく、ただ連絡先が流れていく。


梨子「はっ!! はっ!!! はっ!!!! なんでっ!! なんでないのっ!!?」


震える手で、か行とさ行の間を何度も行ったり来たりする。

もはやパニック状態に陥っていた私は、ダイヤルボタンを押して119番をすればいいことにすら気付けない。

そんな中──ある名前が、目に留まった。


梨子「くにきだ……はなまる……」


“国木田花丸”。

私は藁にもすがる想いで、花丸ちゃんの連絡先をプッシュした──





    🥖    🥖    🥖





花丸「……ふぅ、お掃除終わり」


境内にある落ち葉の掃き掃除を終えて一息。

秋と違って、吐く息が真っ白になるこの季節は、もう木々の葉っぱもほとんどが散りかけてしまっているためか、日に日に掃除する葉っぱが減っていくのが、なんだか風流に思える。

じいちゃんとばあちゃんは大晦日に備えて今日も大忙し。

だから、こんな雑用はマルの仕事なんです。


花丸「お茶でも飲んで、一服しようかな」


冬はつとめて。とは言うものの、やっぱり冬の早朝の寒さは身に染みる。こんな寒い朝はやっぱり温かいお茶に限るよね。

お茶を淹れるために、部屋に戻ると──


花丸「……ずら?」


すまーとほんがぴかぴか光っていることに気付く。


花丸「……ルビィちゃんかな?」


ルビィちゃん以外で、マルのすまーとほんに連絡してくる人はあんまりいない。

正直操作方法もよくわからないし、一緒に買いに行ったときにルビィちゃんが教えてくれた、電話とらいんと簡単なめーるの使い方くらいしかわからない。

そんなわけでルビィちゃん以外から連絡を貰うことはあんまりないのです。

でも、こんな早い時間に……?

まだ時間的には早朝と言って差し支えない時間に、ルビィちゃんが起きていること自体が珍しい。

……そんなマルの考えは正しかったようで、


花丸「……ずら? 梨子ちゃん……?」


すまーとほんの画面に表示されていたのは、桜内梨子という名前。


花丸「えっと……通話」


ぽちっと押して、すーまとほんに耳を当てる。


花丸「もしもし? 梨子ちゃん?」

梨子『──つ、繋がった!!!! は、花丸ちゃん……っ!!!』

花丸「ずらっ!!?」

梨子『お、お願い……っ!!!! 助けてっ!!!! このままじゃ、果南ちゃんが……!!!』

花丸「え、果南ちゃん!? なんのことずら!?」

梨子『た、倒れて……っ!!! 救急車、呼べなくて、だから、花丸ちゃんに……っ!!!』


なんだかよくわからないけど、梨子ちゃんが酷く混乱していることはよくわかった。


花丸「り、梨子ちゃん、一旦落ち着くずら……!」

梨子『でも、果南ちゃんが……っ!!! わたっ、私の……私のせいで……っ!!!』

花丸「梨子ちゃんのせい……?」

梨子『わた、しが……っ……ひぐっ……さとりの、力を……たよってた……から……っ……』

花丸「…………覚」


──聞き覚えのある怪異の名前を聞いて、マルは目を細めた。


花丸「梨子ちゃん、一回深呼吸して」

梨子『え、……しん、こきゅう……』

花丸「ゆっくり、息を吸って、吐くずら」

梨子『…………すぅー…………はぁー…………。…………』

花丸「……落ち着いた?」

梨子『…………。……う、うん……ごめん』

花丸「果南ちゃんに何かあったの?」

梨子『そ、そうだ……果南ちゃんが、た、倒れて……意識が、なくて……』


まだ少し混乱はしているものの、さっきよりは意味が通じている。

えーっと……確か、意識がないときは……。


花丸「呼吸はしてる?」

梨子『え、呼吸……?』

花丸「果南ちゃんの口元に耳を当ててみればわかるずら」

梨子『う、うん……!!』


ガサゴソと電話の先で音がする。

たぶん、今呼吸を確認しているんだと思う。


梨子『……呼吸はしてる……!』

花丸「ならひとまずは気絶してるだけだと思う」

梨子『…………』

花丸「……梨子ちゃん?」

梨子『よかったぁ……っ……』


今の今まで、よほど混乱していたのか、電話口から聞こえてきたのは、心の底から安堵した声だった。


花丸「ただ、えーっと……急に倒れたんだったら、他にケガしてないかとかは確認してあげた方がいいと思う」

梨子『あ、うん……!』


本から仕入れた程度の知識だけど、たぶん間違ってはいないはず……。

果南ちゃんの最低限の安否だけ、確認したのち、


花丸「梨子ちゃん」

梨子『な、なにかな……?』

花丸「さっき言ってた──覚の力を頼ったって、どういうことが教えてくれる?」


マルは梨子ちゃんに向かって、そう問いかけました。





    *    *    *





梨子「……よい……しょ……!!」


全身に力を込めて、やっとの思いで果南ちゃんをベッドの上に持ち上げる。


梨子「はぁ……はぁ……」


数十センチとはいえ、自分より体格や身長が大きな人を持ち上げるのが、こんなに大変だとは思わなかった。

それに加えて、意識のない人は想像以上に重いなんて言うけど……本当だったらしい。

とにもかくにも、どうにか果南ちゃんをベッドの上に寝かせてあげられた。

幸いなことに、私が確認出来た範囲では、頭を打ったりもしていなかったようだし……。

そして、頭の中を劈いたあの爆音は恐らく──


梨子「果南ちゃんが痛みで気絶するときに、発した……心の声」


実際に心の叫び声を聞いてしまったから、わかる。

尋常じゃない痛みだったんだ。

そんな痛みを私は……。唇を噛み締める。

私は、なんてことを……。

大切な人に、なんてことを……。

一人、過ぎたことを悔やんでいると──コンコン。


梨子「!」


出窓の方からノック音が聞こえてきた。

すぐにカーテンと共に窓を開け放つ。


花丸「お待たせ、梨子ちゃん」

梨子「花丸ちゃん……!」


そこには、駆け付けてくれた花丸ちゃんの姿。


花丸「果南ちゃんの容態はどう?」

梨子「今は、ベッドに寝かせてる……呼吸はしてるし、ケガも特にしてなかったよ」

花丸「それは何よりずら」


花丸ちゃんは靴を脱いで、果南ちゃんに近付いていく。


花丸「足が痛むって言ってたよね」

梨子「うん……本人はずっとそう言ってた」

花丸「……そして、梨子ちゃんはそんな果南ちゃんの心を……ずっと読んでいた」

梨子「………………ごめんなさい」


私は目を伏せる。


花丸「……どうしてこんなことになるまで相談しなかったの? って言いたいけど……今は先にやることがあるずら」

梨子「やること……?」

花丸「たぶん、一刻の猶予もない状況まで、進行しちゃってるからね……」

梨子「一刻の猶予も……ない……」


改めて言葉にされて青ざめる。


花丸「突然痛みで気絶するなんて、異常なことだからね。次は気絶じゃ済まないことが起こるってことだよ」

梨子「……だよ、ね……」

花丸「だから、今すぐに梨子ちゃんに取り憑いてる覚を追っ払うずら」

梨子「追っ払う……」

花丸「室内じゃ出来ないから、外に出よっか」

梨子「う、うん……」


花丸ちゃんの指示通り、二人で外に出る。


花丸「えっと……マッチと……」


花丸ちゃんは早速ごそごそと持っているポーチを漁り始める。


梨子「あの……花丸ちゃん……」

花丸「ずら?」

梨子「やっぱり、私……覚に取り憑かれてるの?」

花丸「たぶんね。心を読める怪異って言うといろいろいるにはいるけど……全部ひっくるめて覚って言っても、あながち間違いじゃないくらいには大きな括りだから」

梨子「やっぱり……怪異が関係してるんだ……」

花丸「少なくともマルには、それ以外の原因は思いつかないかな……。他人の心が読めるなんて、奇妙奇天烈なこと、神様か妖怪くらいしか出来ないと思うよ」

梨子「そう……だよね……」

花丸「……? 何か引っかかってるの?」

梨子「あ、いや……」

花丸「気になることがあるなら、今言って欲しいかな……。まだ、何か隠しててそれが原因で状況が悪化しても困るし……」

梨子「か、隠してるというか……。……何が原因なのかなって」

花丸「?? だから、原因は覚で……」

梨子「そうじゃなくて……! 何で私は覚に取り憑かれちゃったのかな……って」

花丸「ん……それに心当たりははないの?」

梨子「……正直ずっと考えてたんだけど……これに関しては全然思い当たる節がなくて……」


本当にある日気付いたら果南ちゃんの心が読めるようになっていた。

この一点においては、全く嘘偽りがない。

もちろん、私が無意識のうちに覚に取り憑かれるような振舞いをしていた可能性もあるけど……。


花丸「……確かに、憑かれた原因がわからないと、また取り憑かれる可能性はあるね。……ただ、今はとりあえず梨子ちゃんに憑いてる覚を追っ払うことが先決かな。そっちは梨子ちゃんから追い出したあとに考えればいいことずら」

梨子「まあ、それもそっか……」


今は果南ちゃんを助けることが先決だもんね。


花丸「それじゃ、梨子ちゃん。準備はいい?」

梨子「う、うん」

花丸「始めるずら」


そう言って、花丸ちゃんはマッチと爆竹を手に持った。



──────
────
──


さて、話は先ほど花丸ちゃんと電話でしていた会話に遡る。

私が覚によって果南ちゃんの心をテレパスで読んでいたことを白状すると、花丸ちゃんは覚への対処法を話し始めた。


花丸『覚ないし……サトリのワッパと呼ばれる怪異には共通する弱点があるずら』

梨子「共通の弱点……確か前に焚火って言ってたよね」

花丸『うん。心を読むことが出来ない無生物……即ち焚火の木片が跳ねてぶつかったことで退治された逸話から、それが弱点だって知られてるよ』

梨子「それじゃ……焚火をすれば、倒せるってこと……?」

花丸『概ねその理解で間違ってないずら』

梨子「……でも、焚火の準備なんて出来るかな」


淡島で今から薪を集めて、火を起こすなんて……。


花丸『そうだね。ただ、覚にはもうちょっと簡単に用意出来る対抗策があるずら』

梨子「簡単に用意出来る対抗策……?」

花丸『それが──爆竹ずら』

梨子「爆竹……? 爆竹って、火をつけるとパパパパーンって鳴るやつ……だよね?」


子供が遊んでいるおもちゃというイメージが強いけど……それこそ、千歌ちゃんも小さい頃に爆竹で遊んで叱られたって話を最近聞いたところだ。


花丸『元々爆竹は、昔の中国で悪鬼や疫病を駆逐するために、竹を焚火にくべて爆ぜさせていたものが由来とされているずら。だから、今でも覚だけじゃなくて、様々な怪異から人里を守るために、春節になると爆竹を鳴らす風習が残ってる地域もあるんだよ』

梨子「えっと、つまり……焚火が弱点の怪異は、爆竹も弱点ってこと……?」

花丸『そういうことずら。日本ではそういう風習があんまりないから、爆竹はおもちゃ扱いだけど……覚に関しては、ピンポイントな弱点になるはずだよ』

梨子「じゃあ、爆竹を用意すれば……!」

花丸『うん! だから、今から持ってそっちに行くから──』


──
────
──────



──そして今に至る。


花丸「梨子ちゃん、すごい音がすると思うけど、耳は塞がないでね。梨子ちゃんの中にいる覚を驚かせるためのものだから」

梨子「う、うん……!」


少し開けた場所に立った私のそばで、花丸ちゃんがマッチに火を点ける。

私は──目を瞑る。

本当に大変なことになってしまった。私が無知だったばっかりに……。勝手にいいものだと思い込んだ──うぅん、思い込もうとしたせいで。

この力に頼って、助かった場面はいっぱいあった……だけど。

その代償が私に返ってくるならともかく……果南ちゃんに害が及んでしまうのは、許されることじゃない。

虫のいい話かもしれない。でも……もう、出て行ってください。

そう心の中で唱えて──


花丸「いくずら……!!」


花丸ちゃんが爆竹の導火線に火を点けて、私の周囲に放り投げる。

5~6個の爆竹が私の周りに落ちて──パパパパパパーーーーン!!!! と小気味のいい爆発音を立てながら、跳ね回る。


梨子「……!!」


爆竹なんて使ったことがなかったから、至近で爆ぜる爆音と火花が少し怖いけど──果南ちゃんにこれ以上、何かがある方がもっと怖い。

そう思いながら、爆竹の中で立ち尽くす。

数秒間、大きな音と火花を爆ぜ散らせながら、踊り狂った爆竹たちは……程なくして、鎮火した。


花丸「梨子ちゃん、お疲れ様」

梨子「…………終わり……?」

花丸「終わりだよ」

梨子「…………そっか」


思いのほか、あっさりと終わって拍子抜けする。


梨子「……自分の中に変わった部分は特にないけど……」

花丸「まあ、対象が限定されてる能力だったみたいだし、自覚出来る変化はあんまないかもね……。でも、これできっと果南ちゃんの心は読めなくなってるだろうし、それに伴って害をなしてた……覚の毒? とでも言うのかな? そういう力は失われていくはずだよ」

梨子「それなら、今すぐ果南ちゃんのところに……!」


私は駆け出す。


花丸「一件落着ずら」


そんな私の後を花丸ちゃんがゆっくりと追いかけてくる。

──部屋に入ると。


果南「………………」


果南ちゃんが朝と同様、うっすらと目を開けているところが目に入ってくる。


梨子「果南ちゃん……! 気が付いたんだね……っ!」


爆竹の大きな音で、目を覚ましたのかもしれない。


梨子「よかった……果南ちゃん……っ……!」

果南「…………?」


不思議そうな顔をする果南ちゃんの手を握る。


梨子「……果南ちゃん、あのね……私……」


ちゃんと、言わないと……私がしでかしてしまったことを……。


梨子「私……」


……でも、言葉が上手く出てこない。

──もしかしたら、嫌われるかもしれない。そんな考えが頭過ぎって、私の口を鈍らせる。

手を握ったまま、躊躇していると──


 果南『あれ……私……どうしたんだっけ……?』

梨子「……え」


頭の中に──声がした。


 果南『さっきの音……? 爆竹……?』


──私は一気に青ざめる。


花丸「それにしても……覚ってワッパも含めるとものすごい数の種類がいるけど……特定の人相手だけに発動する種類もいたなんて、勉強になったずら」


能天気に部屋に入ってくるに花丸ちゃんに対して、私は、


梨子「……まだ、終わってない」

花丸「……ずら?」

梨子「まだ、終わってない……!! テレパスの能力、なくなってない!!」


大きな声でそう伝えた。


花丸「!? そ、そんなはずないずら!! 覚やサトリのワッパの弱点は確かに爆竹で間違いないよ!!」

 果南『テレパス……? さとり……? 何のこと……?』

梨子「でも、現に声は聞こえるの!!」


能力が消えていないということは、それに伴って起こる果南ちゃんへの異変も収まっているとは思えない。


花丸「そ、そんな……? どういうこと……? まさか、爆竹が効かない覚の類……?」

果南「…………?」
 果南『一体……何の話だろう……?』


怪訝な顔をする果南ちゃん。


梨子「あのね、果南ちゃん……実は──」


意識の戻った果南ちゃんに事情の説明をしようとした、そのときだった。

──ぶくぶくぶくと、泡立った。


梨子「……うそ……」


私は目を見開いた。


花丸「な……なに……これ……?」


花丸ちゃんも言葉を失う。


果南「………………?」
 果南『何……? これ……?』


そして、当人である果南ちゃんも自体が呑み込めず呆けていた。

いや、それもそのはずだ。泡立っていたのは他でもない──果南ちゃん自身だったからだ。

私が触れた部分から──泡になり始めていた。

私は咄嗟に手を放す。


梨子「は、花丸ちゃんっ!!! 果南ちゃんがっ!!!」

花丸「な、なにこれ……? どういうこと……?」

梨子「花丸ちゃんっ!!!」


立ち尽くしてる花丸ちゃんの両肩を掴む。


梨子「覚、全然いなくなってないっ!!!」

花丸「わ、わかってるずら……!! で、でも……」


花丸ちゃんは私に肩を掴まれたまま頭を抱える。


花丸「覚相手の退治手順を間違った……? いや、そんなはずない……。確かに爆竹で間違いないはず……」

梨子「花丸ちゃんっ!!」

花丸「今、考えてるのっ!!!」

梨子「でも、このままじゃ!!! このままじゃ、果南ちゃんが泡になって消えちゃうっ!!!!」


私が必死に叫ぶと、


花丸「消える……?」


花丸ちゃんは私の言葉に引っかかる。


花丸「どうして、消えるって思うの……?」

梨子「え……!?」

花丸「泡立つ=消えるって……」

梨子「え……」


それは……。


梨子「人魚姫は……泡になって、消えちゃう……から……」


私の言葉で、花丸ちゃんは目を見開いた。


花丸「……逆だったずら」

梨子「逆……?」

花丸「……これは、人魚姫ずら」

梨子「人魚、姫……? 花丸ちゃん、何言って──」

花丸「果南ちゃんが訴えてるのは、刺すような足の痛み、声が出ない、極端に乾く目なんでしょ!?」

梨子「えっ、そ、そう……だけど……」

花丸「刺すような痛みは人魚姫が人間の足で歩くと、感じる痛み!! 声が出ないのは、魔女に声をあげちゃったから!! 極端に目が乾くのは、そもそも人魚は涙を流せないから!!」

梨子「!!」


そこでようやく私も気付く。


梨子「そして、最後は……泡になって消える……」

花丸「マルたちは、心が読める力のイメージに引っ張られ過ぎて……『梨子ちゃんが覚に憑かれてる』って勝手に勘違いしてたずら。心が読める力に付随して、果南ちゃんの身体に不具合が起こってるって思い込んでた。でも、今起こってる現象は人魚姫そのものずら!! つまり……!」


つまり──


花丸「『梨子ちゃんが覚に取り憑かれてる』んじゃなくて……!! 『果南ちゃんが人魚姫に取り憑かれてる』ずら……!!」

梨子「物語に取り憑かれるって、そんなことありえるの……!?」

花丸「理屈はわからない……でも、どう考えても、人魚姫との関連性が大きすぎるずら! ただ……」

梨子「ただ、何!?」

花丸「テレパス能力との親和性がわからないずら……。人魚姫にそんな設定ないし……」

梨子「それ今重要!?」


現在進行形で果南ちゃんは泡になって消え始めてるのに、そんな設定の話なんて……。


花丸「そこがわからないと、原因が特定出来ないずら!!」

梨子「げ、原因って……?」

花丸「人魚姫がどうしてあそこまで果南ちゃんと同一化してるかの原因!! 物なのか、人なのか、それとももっと抽象的な原因……それこそ、物語があること自体が原因なのか!! それがわからないと対処のしようがないずら!!」


言われてやっと気付く。果南ちゃんが今、人魚姫と同化しているとわかったところで、何が原因になっているのかがわからなければ、それを止める術がない。


花丸「梨子ちゃんっ!!! 何かわからないっ!!?」

梨子「な、何かって……」

花丸「人魚姫を通じて、テレパスしたい……いや、されたいって思うようなエピソード!!!」

梨子「そ、そんなピンポイントなエピソード……」

花丸「それがわからないと果南ちゃんは本当に泡になって消えちゃうずら……!!!」

梨子「……っ!」

花丸「マルには絶対にわかんない!! わかる可能性があるとしたら、ずっと果南ちゃんと一緒にいた梨子ちゃんにしかわからないずら!!」


私は頭を抱える。

思い出せ、思い出せ……!!

人魚姫のエピソード……!!

果南ちゃんとした人魚姫の話……クリスマスに贈りあったネックレス……いや、関係ない。

そもそもなんで、人魚姫の話になったんだっけ……そうだ、私が小さい頃、人魚姫を内浦で見たって話をして、えっと……そうだ、そのあと二人で人魚姫の絵本を読んで……。


梨子「……あ」


その後だ。果南ちゃんはこう言った。

──『どうすれば、あの物語は、あんな悲しい結末にならなかったんだろうって……今でも思うよ』──

──『……もし、人魚姫の気持ちが……王子様に伝わっていたら……変わってたのかな』──

──『王子様が……人魚姫の考えてることがわかれば……結末は変わってたのかな……』──

何に想いを馳せながら、願った……? そんなの……!!


梨子「あの絵本だ……!!」

花丸「ずら!?」


私は、果南ちゃんの机のノートを立てている本棚から、ボロボロの絵本を一冊引き抜いて──


梨子「!?」


──戦慄した。

取り出した、ボロボロの絵本は、言葉では形容出来ない、禍々しいオーラのようなものを纏っていた。


梨子「……っ!! 花丸ちゃん!!」

花丸「原因はこれしかありえないずら……!! 果南ちゃんはこの絵本に取り憑かれてるずらっ!!」


花丸ちゃんの言葉に頷く。


梨子「どうすればいい!!?」

花丸「もう、本自体が怪異化してるから、焚き上げるしかないっ!!」

梨子「お焚き上げってこと!? 手順はっ!!?」

花丸「細かい作法に拘ってる余裕はないずら!! とにかく神聖な場所で、燃やせば悪霊化も出来ないはずだよ!!」

梨子「神聖な場所!?」


この淡島で神聖な場所って言ったら──


梨子「──淡島神社……っ!!」


目的地は決まった。もう時間がない。

絵本を片手に、一目散に走り出そうとした、そのとき──


梨子「きゃぁっ!!?」


急に何かに足を引っ張られて、転倒する。


花丸「梨子ちゃんっ!!」

梨子「な、なに!?」

 『やめて』

梨子「!!」


私の足を引っ張ったのは──


 果南『やめて……燃やさないで……母さんとの思い出の絵本なんだ……』


果南ちゃんだった。果南ちゃんが這ったまま、私の足を掴んでいた。


梨子「っ……」


これが果南ちゃんにとって、すごく大切なものだってことは知ってる。けど……。

私が逡巡する中、


花丸「ずらぁぁぁ!!!」

梨子「!」


花丸ちゃんが果南ちゃんに飛び付く。


 果南『マル……!?』


急に飛び付いてきた花丸ちゃんに驚いたのか、私の足を掴んでいた手が緩む。


梨子「花丸ちゃんっ!?」

花丸「梨子ちゃん!! 急ぐずら!!」

梨子「で、でも……!! 果南ちゃんがお母さんとの思い出だから、燃やさないでって……!!」

花丸「果南ちゃんと、果南ちゃんの思い出、どっちが大切ずらかっ!!!」

梨子「!!!」

花丸「思い出は、なくなってもまた作ればいい!! でも、果南ちゃんが消えちゃったら、思い出ごと全部なくなっちゃうずら!!」


言いながら、花丸ちゃんはさっき爆竹を引火させるのに使っていたであろう、マッチ箱を投げ渡してくる。

キャッチしながら、果南ちゃんを見ると、


果南「…………っ」


果南ちゃんはすごく悲しそうな顔で、私の手にある絵本を見つめていた。


梨子「……っ」


でも、私は──


梨子「果南ちゃん……っ……ごめん……っ!!」


絵本を持って走り出した。

恨まれてもいい、嫌われてもいい、それでも……果南ちゃんを助けるんだ……!!





    *    *    *





梨子「はぁ……っ!! はぁ……っ!! はぁ……っ!!」


淡島神社の急な階段を全速力で駆け上がる。

真冬の空気が肺に刺さって痛い。でも、もう時間に猶予はない。

普段トレーニングで上る階段ダッシュのとき以上の全力で階段を駆け上がる。

その際──声がした。


 『私の気持ちは……伝わらない……』

梨子「……っ」

 『鞠莉……関係ないって……。……私には関係、ないって……』


果南ちゃんの声だった。


 『自分の気持ちが伝わらないのって……辛いね……。……人魚姫も、こんな気持ちだったのかな』


これは、恐らく、記憶だ。

果南ちゃんがこの人魚姫の絵本を読みながら、積み重ねた、想いと──記憶。


梨子「はぁ……っ!! はぁ……っ!! はぁ……っ!!」

 『思ってることが、伝わればいいのに……。……想いが伝われば……きっと、こんな気持ちにもならないはずなのに』


だから、果南ちゃんは絵本を読みながら願い続けたんだ。


 『私の気持ちが──言葉に出来ない気持ちが、伝わればいいのに』





    *    *    *





梨子「は……っ!! は……っ!! は……っ!!」


やっとの思いで、淡島神社の一番上に辿り着く。

正直、全力ダッシュで上っていいような傾斜じゃないと改めて思い知らされる。


梨子「でも……あとは……っ……焚き上げる……だけ……っ……」


鳥居を潜って聖域に入ろうとした、そのときだった。


 『やめて』

梨子「!?」


頭の中に直接響く声。


 『やめて、大切な本なの、やめて』

梨子「この……声……っ……」


果南ちゃんの声。


 果南『ねぇ、なんで燃やそうとするの……?』

梨子「ごめん……! でも、このままじゃ果南ちゃんが危なくて……!」

 果南『だから、思い出まで消すの? 私と母さんの思い出を梨子ちゃんが消すの?』

梨子「っ゛……」


ダメだ、今この声を聞いちゃダメだ。

絵本を早く燃やさないと。

でも──


梨子「え……」


本を掴んだ私の手は、私の意思に反するように、絵本を手放そうとしない。


梨子「な、なに……これ……っ……」

 果南『絵本を燃やさないで』

梨子「っ゛……!」

 果南『母さんとの思い出を消さないで』


今までのテレパシーと違う。聞こえるなんてレベルじゃない。

私の頭全体を押しつぶすように、果南ちゃんの声が何度も反響して脳内に響き渡っている。


 果南『梨子ちゃん……やめてよ』

梨子「……っ゛……」


頭がガンガンする。意識が飛びそうだ。

ダメだ、早く本を手放さないと──


梨子「……っ゛」


覚束ない足で、鳥居まで歩を進める。

その際──


梨子「……あっ!!」


足をもつれさせて、前のめりに転ぶ。


梨子「…………ぐ、ぅ……っ……」


思いっきり転んだため、腕や膝を擦る。もちろん、絵本を持っていた手も──


 果南『ちょっと!! やめてよ!! 絵本が傷付いちゃう!!』

梨子「……!」


私は立ち上がる。


梨子「……ねぇ、そんなに大事……?」

 果南『大事だよ!! 大事な絵本だって、梨子ちゃんも知ってるでしょ!?』

梨子「……どれくらい? 世界一?」

 果南『そんなの世界一に決まってる!! たった一人の母さんとの思い出なんだよ!!』

梨子「……私の手と……指と……どっちが大事……?」

 果南『そんなの絵本の方が大事に決まってるでしょ!? 梨子ちゃんの手!? なんで、そんなものと比べるの!?』

梨子「……そんなもの……か」


私は息を吸う。


梨子「……果南ちゃんは、そんな風に言わないよ」

 果南『何が!?』

梨子「果南ちゃんの声で……騙らないでよ」


果南ちゃんは、こう言ったんだ。

──『……この手は……この指は……世界一大切なものだから……』──

──『……私たちの……Aqoursの曲を作ってくれる……大切な指だから……』──

──『……この指は……私の曲を作ってくれた……宝物だから……』──

心の底から、こう思って、言ってくれたんだ。

私は鳥居を潜って、膝を突き、


梨子「……うあぁぁっ!!!」


──絵本を持っている手を、思いっきり石畳に叩きつけた。


梨子「っ゛ぅ゛……!!!」

 果南『何やってるの!!? 本が、絵本が!!!』

梨子「貴方が果南ちゃんの気持ちそのものだって言うなら……っ!! 言ってみてよ……っ!!」


また同じように、手を叩きつける。


梨子「……っ゛あ゛ぁ゛……!!」

 果南『やめて!!! 絵本が、絵本がっ!!!』


硬い石畳で、手が切れ、擦り剥け、血が滲む。


──『だから……梨子ちゃんも、その宝物を……大切にして欲しい……』──

──『代わりの利かないものだから……大切に、して欲しいんだ……』──


梨子「私の手は、指は……!! 宝物だってっ!!!」

 果南『そんなものどうでもいい!!!! 私が大切なのは、その絵本なのっ!!!! やめてっ!!!!』

梨子「……ふふっ、やっぱり……貴方は……果南ちゃんじゃない」


もう一度大きく振りかぶって──手ごと、本を……叩きつけた。


梨子「……づ、ぁ゛ぁ゛……っ!!」


その拍子に本が手から、離れる。


梨子「はっ……はっ……離れた……っ!!!」


私はポケットからマッチ箱を取り出し、


梨子「……っ゛……!」


ボロボロになってじんじんと痛む手で、マッチを擦る。

──こんな痛み、果南ちゃんが今まで感じていた痛みに比べたら……!

点火したマッチ棒を見て、


 『やめて──やめろ、やめろぉぉぉぉぉぉ!!!!!』


境内中に声が響き渡る。

私は叫び続ける絵本に向かって──火の点いたマッチを……放った。


 『ぎゃああぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!』


絵本に引火すると共に、一段と大きな絶叫が響き渡る。


梨子「はぁ……はぁ……」

花丸「──梨子ちゃーん……っ。やっと、追いついた……ずらぁ……っ」

梨子「花丸……ちゃん……っ……」


ちょうど、階段を駆け上がってきて、へとへとな様子の花丸ちゃんが追い付いてくる。


 『許さない……』

花丸「ずら……声が」

梨子「……うん」

 『散々力に頼り切っていたというのに……』

梨子「……っ」


そうだ、私は愚かなことに……ずっとあの絵本の作り出した、心を読ませる力に──頼り切っていた。


 『都合が悪くなったから、燃やすなど……愚かな』

梨子「…………」

 『呪ってやる……。貴様の想いが……二度と、あの娘に……届かぬように……未来永劫、呪ってやる──』


その言葉を最後に──『人魚姫』の絵本は……燃え尽きたのだった。




    *    *    *










    *    *    *




──1月4日土曜日。

──コンコン。


 「……梨子ちゃん、起きてる?」

 「えっと……今日も梨子ちゃんのお母さんにお願いして、あげてもらったんだ……ごめん、勝手に」

 「…………」

 「一度、話がしたいんだ……」

 「…………」

 「…………ごめん、また来るね」





    *    *    *




梨子「…………」

花丸「果南ちゃん行っちゃったよ?」

梨子「…………」

花丸「いつまでそうしてるつもりずら?」

梨子「……だって、私……」


ベッドの上で膝を抱えて、縮こまる。


花丸「……もしかして、最後に言われた『呪ってやる~』ってやつ、気にしてるの? あれは負け惜しみみたいなものだから、気にしなくていいと思うけど……」

梨子「それは割とどうでもいい……ただ……」

花丸「ただ?」

梨子「散々力に頼り切って……ずるしてたのは……あの怪異が言ってた通りだったなって……」

花丸「梨子ちゃん……」

梨子「……今更、果南ちゃんとどんな顔して会えばいいのか……わかんないよ」

花丸「…………」

梨子「それに私……果南ちゃんの大切な絵本……燃やしちゃったんだよ……」

花丸「……やむを得なかったことだと思うよ」

梨子「私……ずっと、果南ちゃんのこと苦しめてたんだ……。私がテレパスなんかに頼らなければ……果南ちゃんはあんな辛い思いすることなかった……」


私は抱えた膝に顔を押し当てて、蹲る。


梨子「花丸ちゃんも……こんなどうしようもない私のこと……慰めてくれなくていいんだよ……?」

花丸「…………。……とりあえず、報告だけさせて欲しいずら」

梨子「報告……?」

花丸「うん。結局、今回の怪異はなんだったのかって話。改めてちゃんと調べて考えてきたから、今度は間違いないと思う」


花丸ちゃんはそう前置いて話し始める。


花丸「あの怪異は覚じゃなくて……ずばり神ずら」

梨子「神……? あれが……?」

花丸「付喪神って言われる神様だよ。長い年月の中で強い思い入れを受けた道具には神霊が宿ることがあるずら。今回は、果南ちゃんの持っていた絵本が長い年月の中で神霊化して、付喪神になったみたいだね」

梨子「……結局、その付喪神は何がしたかったの? 果南ちゃんの思い入れで神様になったのに……果南ちゃんを消したかったの?」

花丸「難しいところだけど……きっと、あの絵本の神様は、物語の世界と果南ちゃんを同調させただけだったんじゃないかな」

梨子「同調……」

花丸「果南ちゃん……ずっと、悩んでたんでしょ?」


ずっと悩んでた──鞠莉ちゃんとのことだ。

10月頃にあった、鞠莉ちゃんとのトラブル。

結局、最終的に仲直りはしたものの……果南ちゃんの中では、ずっと何かがつっかえたままで……。

──『あのとき自分の想いがちゃんと鞠莉に伝わっていれば』──

──『どうして、私の想いは届かないんだろう』──

そんな想いが果南ちゃん自身の中で、ずっと渦巻いていた。


花丸「その悩みを……果南ちゃんは人魚姫に投影してしまっていた。強い想いを投影された絵本は──本来あったはずの物語を歪めた形で神格化しちゃったってところかな」

梨子「じゃあ、なんで泡になって消えるの……?」

花丸「ずら?」

梨子「そもそも果南ちゃんが投影したのは、想いが伝われば、幸せになれるかもって話でしょ……?」

花丸「うーん……これはマルの想像だから、正確なことはわかんないけど……果南ちゃんの中で一番強かったのは、想いが伝わればって部分だったんでしょ?」

梨子「……たぶん」

花丸「付喪神はあくまでその部分の強い想いを核にした投影で神格化したわけで……それ以外の部分は元の物語のままだったんじゃないかな」

梨子「いい加減な神様……」

花丸「まあ、もともと『人魚姫』はそういう話じゃないし……」

梨子「そう、だよね……。『人魚姫』は……ただただ悲しいお話だし……」


ただ、報われない恋をした人魚姫が、消えてなくなるだけのお話……。

でも、私の言葉に対して、


花丸「んー? そうかな?」


花丸ちゃんは首を傾げる。

どうやら、花丸ちゃんは『人魚姫』の物語をそうは捉えていないようだ。


梨子「……いや、だって……救いようのないバッドエンドだよね……?」

花丸「……………………なるほど」

梨子「……今の間は何……?」

花丸「うぅん。そういう捉え方もあるのかなって思っただけ」

梨子「……そう」


まあ……物語の感じ方は人それぞれか……。

私は再び膝を抱えて顔を伏せる。


花丸「……それで、いつまでそうしてるつもりずら?」

梨子「その話に戻るの……?」

花丸「だって、もうあれから一週間以上経ってるんだよ?」

梨子「…………」

花丸「毎日ああして足しげく通ってくれてるんでしょ? 話くらい聞いてあげても……」

梨子「……自信がないの」

花丸「自信……?」

梨子「……もう、私には……果南ちゃんの心の中を知る術はないから……」


私はテレパスを失った。

考えてみれば、私は果南ちゃんとの付き合いの中で、常にテレパスに依存しきった関係を築いていた気がする。

果南ちゃんの心がわかる、察しの良い私は──もういない。

まあ、考えてみれば……あれは私の力ではなく、果南ちゃんの力だったから……実は最初からそんな私はいなかったのかもしれないけど……。


花丸「……なるほどね」

梨子「……きっと、果南ちゃんの気持ちはもう……わかってあげられない」

花丸「……梨子ちゃんが何に思い悩んでるのかはわかったずら。それでも、一度ちゃんと話した方がいいと思うけどな」

梨子「…………」

花丸「まあ……マルがこれ以上口出すことじゃないけど。そういえば、手は大丈夫?」


──手。

絵本を引きはがすために、思いっきり石畳に叩きつけた手のことだろう。


梨子「切り傷に擦り傷、軽い打撲もしてて、自分で叩きつけてケガしたって説明したら、お医者さんにすごい叱られた……」


そう言いながら、包帯を巻かれた手を見せる。


花丸「そんな素直に言ったら、そりゃ叱られるよ……」

梨子「……でも、幸い跡が残ったりすることはなさそうだってさ」

花丸「それは何よりずら。……さて、梨子ちゃんの手の安否も確認出来たし、もうマルがすることは終わったから、お暇しようかな」


花丸ちゃんは最後にそう残して、部屋から出ていこうとする。


花丸「お邪魔しました」

梨子「……花丸ちゃん」

花丸「ずら?」

梨子「……助けてくれて……ありがとう」

花丸「ふふ、どういたしまして」





    *    *    *





──気付けば部屋が暗くなっていた。


梨子「夜……か……」


また落ち込んで引きこもったまま、一日を終えてしまった。


梨子「……少しくらい、外の空気吸っておこうかな……」


そう思ってカーテンを開けると──


梨子「あ──」

千歌「……?」


窓の向こうに千歌ちゃんの姿。

……しまった、完全に目合っちゃったな……。

さすがにこのまま無言でカーテンを閉めるのは、千歌ちゃんに悪い。

そう思って、ベランダに出る。


千歌「梨子ちゃん、久しぶり。最近ずっとカーテン閉めたまんまだったから心配してたんだよ?」

梨子「ごめん……ちょっと、いろいろあって……」

千歌「いろいろって……果南ちゃんと?」

梨子「…………」


まあ、お隣だしバレてるよね……。


千歌「最近、果南ちゃん、梨子ちゃんのおうちに来ては、すぐに帰ってっちゃうし……。ケンカでもしたの?」

梨子「ねぇ、千歌ちゃん……」

千歌「ん?」

梨子「千歌ちゃんはさ……ダイヤさんの気持ちがわからないことって、ある……?」


訊ねてみて、あんなに仲の良い二人に限ってそんなことあるはずないのに、と思ってしまう。けど、


千歌「うん、あるよ」


千歌ちゃんの回答は意外なものだった。


梨子「あるの……?」

千歌「そりゃ、あるよ。……というか、むしろそれで一度別れかけたし」

梨子「え!?」


さすがにその話は予想外だった。


梨子「い、いつ頃……?」

千歌「うんと……8月の頭くらいかな」


8月の頭って……。


梨子「付き合い初めて1ヶ月くらいのときなんじゃ……」

千歌「うん、そうかな……。それくらいの時期ね、付き合い始めた頃は、ダイヤさんの気持ちも……チカの気持ちも、お互いわかりあって通じ合ってたのに……いろいろあって、それがわかんなくなっちゃったことがあってね」

梨子「う、うん……」

千歌「それで、私がすごいイライラしちゃって……何度もダイヤさんに向かって『前はわかってくれたのに!!』って怒っちゃって……その度にダイヤさんはすっごく悲しそうな顔して……。それでね、私なんでダイヤさんにこんな悲しい顔させてるんだろうって。……そのとき、ああ、もうダメなんだなって思って、ダイヤさんにそのこと話したんだ。もう終わりにしようって。傷つけるくらいなら離れたいって」

梨子「そ、それで……どうなったの……?」

千歌「……泣かれた」

梨子「…………」

千歌「私、今までダイヤさんがあんなに泣いてる姿……見たことなかったから、びっくりしちゃってさ。それでダイヤさん、こう言うんだよ」


──『言葉にしてくれなきゃわかりません……っ!! わたくしは、もっと貴女のことが知りたいのに……っ……! 貴女の言葉が聞きたいのに……っ……!』──


千歌「言われてハッとなってさ……。もう、その後は、お互いわんわん泣きながら、ごめんなさい、ホントは大好き、もっと一緒に居たいって……それでやっとお互いの気持ちが再確認出来たというか……。……って、あ……ダイヤさんが泣いてたこと話したのがバレたら怒られるな……。……チカが話したことは内緒にしておいてね?」


千歌ちゃんは口元に人差し指を当てながら、そんな風に話す。


千歌「それからかな……お互いいろんなことを言い合うようになったよ。見たもの、感じたもの、思ったこと、なんでも話すようになった。むしろ今では、お互いの気持ちが通じ合ってるって思ってた頃よりも、ダイヤさんのことを深く知れた気がしてるよ」

梨子「そう……なんだ……」

千歌「まあ、不満があるとしたら、最近ダイヤさんのチカへの扱いが雑なことだけどね!」

梨子「…………」

千歌「だから、梨子ちゃんも。思ったことは真っ直ぐぶつけてあげて欲しいな……。もちろん、思い通りにならないこともたくさんあると思うけど……果南ちゃんはきっと、梨子ちゃんの言葉をしっかり受け止めてくれると思うから」


千歌ちゃんは微笑みながら、そんな風に言うのだった。





    *    *    *





──翌日。1月5日日曜日。

私は最後までどうするか悩んでいたけど……結局、朝から淡島に渡り──船着き場で待っていた。

冬の波風を受けながら。……ここに居れば絶対にあの人は来るからと、思って待っていた。

──そして、待ち人は、


果南「え……」


お昼前になると、やっと現れた。


梨子「……果南ちゃん、久しぶり」

果南「ひ、久しぶり……」

梨子「……うん」

果南「…………」

梨子「…………」


挨拶もそこそこに、会話が続かず無言になる。

どうしよう……何から話せば、いいんだろう……。

そのまま、しばらく無言が続いたけど、


果南「……少し、歩かない……?」


果南ちゃんは意を決したように、そう提案してきた。





    *    *    *




果南「…………」

梨子「…………」


二人で淡島を歩く。

二人で並んで歩きながらも──お互い無言が続く。無言のまま歩いて、気付けば淡島内にあるトンネル・ブルーケイブの中。

どうしよう……これでも、一応話をしに来たつもりなんだけど……。どう会話を切り出せばいいのかがわからない。

そんな中で、無言の空気を先に破ったのは、


果南「……あの、さ」


またしても、果南ちゃんだった。


梨子「ん……」

果南「その……ちゃんとお礼言ってなかったなって……」

梨子「お礼……」

果南「マルから聞いたんだ……私、すごく危ない状態だったって」

梨子「……」

果南「梨子ちゃん……助けてくれてありがとう」

梨子「…………私」


足を止めて、目を伏せる。お礼を言われるようなことをした覚えはない……むしろ、


梨子「私…………果南ちゃんの大切な絵本……燃やしちゃった」


私は、果南ちゃんが『やめて』と言っても、やめなかった。彼女の思い出を……燃やしたんだ。


果南「……あのときは私も気が動転しちゃってて……あんな風に言っちゃったけど……。あのままだと、私泡になって消えちゃうところだったんだよね……? 梨子ちゃんは私を助けてくれた……気に病むようなことじゃないよ」

梨子「それだけじゃない……私……ずっと、果南ちゃんの気持ちを盗み見てた」

果南「それは、違──」

梨子「──私……!」


果南ちゃんの言葉を掻き消すように、言う。


梨子「本当はもっと前から、気付いてたの……気付いてたのに……自分が間違ってたこと、認められなくて……果南ちゃんをずっと傷付けてた……」

果南「……梨子ちゃん」

梨子「この力は、“ご縁”なんだって、自分の都合の良いように解釈して、思い込んで……それで果南ちゃんを傷付けて……辛い思いさせて、痛い思いさせて……」

果南「…………梨子ちゃん」


果南ちゃんが私の名前を呼んで、私の手を握ろうとする。

私は──その手から逃げるように、後ろに下がる。


果南「…………」

梨子「……果南ちゃんは優しいから、きっと優しい言葉を投げ掛けてくれる……でも、でもね……」


私は一度大きく息を吸う。そうじゃないと、怖くて、言えない気がしたから。


梨子「──もう、果南ちゃんの気持ち……わからないの……っ」


その拍子に涙が零れた。


梨子「許してくれても、笑い掛けてくれても、手を握ってくれても、抱きしめてくれても、髪を撫でてくれても……もう、私には……それが果南ちゃんの本心なのか、わからない……っ……テレパスがないと……どうやって、そばに居ればいいのかも、わからない……っ……。……だから──」


思わずぎゅっと手を握る。今……言わなきゃ。こんな……ずるをしなくちゃ、何もできない、私には──


梨子「こんな私に……果南ちゃんのそばに居る資格──」

果南「──梨子ちゃん」


──でも、果南ちゃんは、それでも私を抱きしめた。

私が取った距離を、しっかりと詰めて──果南ちゃんは、私をしっかりと抱きしめる。


果南「ごめんね」

梨子「……っ」

果南「私が弱かったせいで……梨子ちゃんを苦しませてる……」

梨子「ち、ちが……っ」

果南「ホントは……最初から全部、私がちゃんと言葉で伝えてればよかったんだ。でも、梨子ちゃんは気付いてくれる、わかってくれるって……甘え切って……」

梨子「…………わ、私は……っ」

果南「だから、もう甘えない──」


果南ちゃんは私の両肩に手を置き、私の目を真っ直ぐ見て、


果南「梨子ちゃん。好きだよ」


そう、言った。


梨子「……っ……!」

果南「……よく考えてみたら、私、一度も自分の口から、伝えてなかった。……梨子ちゃん、好きだよ」


果南ちゃんの愛の言葉を聞いて──ポロポロと涙が溢れ出す。


果南「世界で一番……大好きだよ」

梨子「……こんな、私でも……いいの……っ……?」

果南「もちろん」


果南ちゃんは頷きながら、今度は強く強く、抱きしめる。


果南「……これでも、私の気持ちは、本心は、好きって気持ちは……伝わらないかな……?」

梨子「……っ……」


私はふるふると首を横に振る。


梨子「──……伝わってる……っ……」

果南「……よかった」


──ああ、やっとわかった。

心の声が聞こえなくたって、伝わる想いは──ちゃんと、あるんだ。

少なくとも、今、私には、伝わってる。

だから、今度は──


梨子「果南ちゃん……っ……」

果南「ん……」


私も伝えなくちゃ。言葉にして、想いを。


梨子「──好き、です……っ……。大好き……っ……」

果南「うん……知ってるよ……。ずーっと……知ってたよ……」


私の髪を撫でながら、果南ちゃんは優しい声で、答える。

それ聞いた途端に、いろんな感情が溢れてきて、


梨子「ぅ……っ……ぅぇぇぇ……っ……」


私はみっともなく、声をあげて泣き出してしまった。

でも、果南ちゃんは、そんな私を優しく抱き留めたまま、


果南「ずっと一緒にいよう…………。……梨子」


そう、言葉にしてくれた。

──まだ年明けて数日しか経っていない昼下がり。

煌々と光る青いライトに照らされたトンネルの中で、私はしばらくの間、肩を震わせ続けていた。

世界で一番落ち着く、世界で一番幸せな、胸の中で──





    *    *    *




──数日後。


花丸「一件落着だったみたいでよかったずら~。ん~おいしいずら~♡」


私は諸々の報告がてら、花丸ちゃんを家に招いていた。

お礼も兼ね、松月のケーキを添えて。


梨子「……一件落着か」

花丸「? なにか、まだ気になることでもあるずら?」

梨子「うん、まあ……」

花丸「また、めんどくさいことになったら嫌だから、早めに教えてほしいな」

梨子「いや、その……なんで、皆は気付かなかったのかなって」

花丸「ずら……?」


花丸ちゃんは私の言葉に首を傾げる。


梨子「だって、あのテレパスって果南ちゃんの『人に心を読ませる能力』だったんでしょ? それだったら、私以外の人たちも触れたら果南ちゃんの考えてることがわかったんじゃ……」

花丸「んー、少なくともマルにはわからなかったよ」

梨子「え?」

花丸「一緒の部活をしてる以上、触れることくらいあるけど……その中でもマルは果南ちゃんの心を読めたことはなかったかな。だから、あれは相手を限定した能力だったんだと思うよ」

梨子「……まあ、それならそれでも、いいんだけど……」

花丸「まだ納得行かないの?」

梨子「……自分で言うのは悔しいんだけど……それなら、なんで私だったのかな」


少なくとも、テレパスが始まった時点では私と果南ちゃんの接点はほとんどなかったわけだし……相手を限定した能力だったというなら、選定基準はなんだったのか。


花丸「それは簡単ずら」

梨子「え?」

花丸「あれは最初から全部、『人魚姫』だったんだよ」

梨子「……? どういうこと?」

花丸「あの付喪神は物語を神格化した存在だったわけでしょ?」

梨子「うん」

花丸「付喪神が持っていた力の本質は、現実の人間と物語を強引に同調させる能力だったずら」

梨子「まあ……だから、果南ちゃんは足が痛んだり、声が出なくなったりしたんだもんね」

花丸「そうそう。ただ、その物語への同調の力って言うものが、果南ちゃん以外にも働くとしたら?」

梨子「?」

花丸「『人魚姫』には、人魚姫以外にも重要な登場人物がいるでしょ?」


重要な人物……つまり……。


梨子「えっと……私が王子様に割り振られてたってこと……?」

花丸「そういうことずら」

梨子「…………」

花丸「なんだか、これでも納得が行ってなさそうだね」

梨子「……それこそ、なんで私……?」

花丸「条件に当てはまるのが梨子ちゃんだけだったんだよ」

梨子「条件って?」

花丸「まず、あのお話の中で、人魚姫と王子様の間にある大事な関係の要素は、自分の知らない未知の世界に住んでいる存在、だよね」

梨子「……まあ、そうなるのかな」

花丸「そうなると、果南ちゃんと昔から面識のあった千歌ちゃん、曜ちゃん、ダイヤさん、鞠莉ちゃん、ルビィちゃんは除外。マルも内浦住みでお互いの顔は知ってたし、善子ちゃんも外界というほど離れた場所に居たわけじゃないしね。そうなると残ったのはそもそも梨子ちゃんだけなんだよ」

梨子「…………なるほど」


あれ、ということは……?


梨子「……私、最初から果南ちゃんに選ばれてたってことなんじゃ……///」

花丸「そういう解釈も出来るかもしれないね」


それこそ、私は勘違いをしていた。

皆が果南ちゃんの気持ちを読める中、私がたまたま偶発的に、果南ちゃんのテレパスに気付いたために、巻き込まれたんだと思い込んでいたけど……。


花丸「梨子ちゃんは最初から果南ちゃんに選ばれていた。そして、テレパスの力を使って、果南ちゃんのそばで彼女を支えて、その先で結ばれた」

梨子「……///」

花丸「“ご縁”に感謝しないとね」

梨子「うん……///」


私はあのとき、“ご縁”だと思い込んでしまったことを後悔していたけど……案外、それらも含めて、全て“ご縁”の一つだったのかも、なんて……花丸ちゃんの言葉を聞いて改めて考え直す。


花丸「あとその“ご縁”ついでに」

梨子「?」


花丸ちゃんがごそごそとバッグの中から──包装された長方形のものを手渡してくる。


梨子「これは……?」

花丸「マルからのプレゼントだよ。……うーんと、そうだなぁ。恋人が出来た梨子ちゃんへのお祝いってことで」

梨子「あ、ありがとう……これは、本……?」

花丸「うん。是非、果南ちゃんと一緒に読んで欲しいな」

梨子「果南ちゃんと……?」

花丸「きっとそこに、二人が求めてたものが、あると思うから」

梨子「求めてたもの……?」

花丸「やっぱりマルは、物語は好きで居て欲しいし。この“ご縁”にいっぱい感謝するためにもね」

梨子「……? う、うん……よくわかんないけど、ありがとう」


とりあえず……果南ちゃんと一緒に読めばいいんだよね……?

花丸ちゃんが何を言いたいのかは、よくわからなかったけど……私はそれをありがたく頂戴するのだった。




    *    *    *





そういえば、忘れかけていたけど……まだ一つ解決していない問題があった。


梨子「……この一件と直接関係してるのかわからないんだけど……」

花丸「ずら?」

梨子「実はもう一つだけ、わからないままのことがあるんだよね……」

花丸「って言うと?」

梨子「……人魚姫の噂は一体なんだったのかなって」

花丸「ずら……? 人魚姫の噂?」

梨子「うん……果南ちゃんから聞いたんだけど……。内浦に昔、人魚姫の噂があったらしいんだけど……ある日を境に、急に誰も知ってる人がいなくなっちゃったって話をされて……」


これに関しては、本当にどういうことかわからないままだった。


花丸「……あー」

梨子「……これも、怪異の仕業なのかな……? 噂を食べちゃう妖怪みたいな……」

花丸「……それは怪異の仕業ではないよ」

梨子「え? ……花丸ちゃん、何か知ってるの?」

花丸「まあね……」

梨子「し、知ってるなら教えて……!」


私が身を乗り出して訊こうとすると──


花丸「それなら、一番の当事者に訊いた方がいいと思うずら」


花丸ちゃんは、ある方向を指差した。


梨子「……?」


その方向にあったのは──


梨子「千歌ちゃん……?」


千歌ちゃんの家だった。





    *    *    *





──日もところも変わって、とある休日の朝のこと。


梨子「おじいちゃん、朝ごはん出来たから、新聞片付けて?」

おじい「……ああ」


私が声を掛けると、おじいちゃんは新聞を畳んで横に置く。

私も机の上に朝食を並べてから、エプロンを外して、席に着く。


梨子「いただきます」


私が「いただきます」をすると、おじいちゃんの方からも小さな声で「いただきます」という声が聞こえてくる。

──ちなみに今日の果南ちゃんはまだ仕事中。

今日は少し時間が掛かるから、先に食べていて欲しいと言われたので、こうしておじいちゃんと一緒に先に食べています。

……いつもの調子だと、まだ戻ってくるまでに20分ほど掛かると思う。

さて、あの話をするなら、今かな。


梨子「ねぇ、おじいちゃん」

おじい「なんだ」

梨子「……なんで、内浦の人魚姫の話、果南ちゃんには聞かせたくないの?」


お味噌汁を飲んでいたおじいちゃんの手が止まる。


おじい「……誰に聞いた」

梨子「……ってことは、やっぱりおじいちゃんが口止めしてたんだね」


確かに、千歌ちゃんに聞いたとおりだった……。



──────
────
──


千歌「──ニンギョヒメノウワサ?? ナニソレチカシラナイー???」


千歌ちゃんに訊ねると、酷い棒読みが返ってきた。


梨子「……ねぇ、千歌ちゃんお願い……! 何か知ってるなら教えてくれないかな……?」

千歌「し、知らない……っ!! チカ、そんなの知らないもん……っ!!」


軽く涙目になりながら、拒否される。


花丸「あはは、相当怖かったんだね。果南ちゃんのおじいちゃん」

千歌「は、花丸ちゃん!! 滅多なこと言っちゃダメだよぉ!? おじいが怒るとホントに怖いんだからね!? チカあのときは死んだと思ったんだから……っ!!」

梨子「なんでおじいちゃんはそんなに怒ったの……?」

千歌「そんなの知らないよっ! チカはただ、内浦の人魚姫について、果南ちゃんと一緒に探しに行くから教えてって聞きに行っただけだもん! おじいは内浦の海のことならなんでも知ってるからって思って聞いたら……ああ、だ、ダメ……思い出しただけで泣きそう……っ」


──
────
──────



突然消えた噂の真相──それは、内浦の人魚姫について訊ねた千歌ちゃんが、トラウマになるくらい、おじいちゃんを激昂させたということが起因だったらしい。

おじいちゃんはこれでも内浦地区一帯では有名人で、かなりの古株、加えて子供受けがよく寡黙だけど優しい人なのに、千歌ちゃんが泣き帰るくらいに激怒したという事実は、田舎特有の噂の伝播スピードによって一気に広まり、瞬く間にこの一帯で人魚姫の噂をすることはタブーになったらしい。

しかも、どうやら──果南ちゃんにその話をすることは完全に禁忌扱いだったということまでは、千歌ちゃんと花丸ちゃんから教えてもらうことが出来た。


梨子「もちろん、果南ちゃんには言わないつもりだけど……」

おじい「なんで、知る必要がある」

梨子「私……小さい頃に、内浦で人魚姫を見たんです。……だから、気になって」

おじい「……他所でも有名だったのか、あの馬鹿娘は……」

梨子「バカ娘……?」

おじい「そいつは、俺の娘だ」

梨子「……へ?」


思わずポカンとしてしまう。おじいちゃんの娘ってことは──


梨子「果南ちゃんのお母さん……?」

おじい「そうだ」

梨子「え……それじゃ、なんで果南ちゃんに教えてあげないんですか……?」

おじい「……あの馬鹿娘に影響されて、果南まで出て行ったらどうする」


この不可解な人魚姫の噂の正体って──もしかして、ただの孫バカ……?


おじい「育てて貰った恩も忘れて……男と一緒に出ていきやがって……」


つまり……娘が出て行ってしまって、怒っているおじいちゃんが、孫を取られまいと、話題を出させないようにしていたものだったということ。

なので、私が見た紺碧の髪の人魚の夢は──果南ちゃんを意識しすぎて、見てしまった妄想の夢というわけではなく、当時実際に見た果南ちゃんのお母さんだった、ということらしい。

どうりで果南ちゃんにそっくりだったわけだ……。


おじい「……まあ、そういうことだ」

梨子「あ、うん……ありがとうございます」


思ったよりもしょうもない理由で少し拍子抜けしてしまったけど……。


梨子「……ふふ」


なんだか、孫だけは取られたくないと必死になっているおじいちゃんはちょっと可愛げがあるなと思ってしまった。


おじい「なんだ」

梨子「なんでもないですよー。ふふっ」





    *    *    *




──休日の朝から朝食を作りに果南ちゃんの家まで来ていたということは、そのあとは果南ちゃんとお家デートなわけで……。


果南「さて……何かしたいことある?」

梨子「うん、実は一緒に読みたい本があるんだ」

果南「読みたい本?」

梨子「……花丸ちゃんにプレゼントしてもらったんだけど」


この間、花丸ちゃんにお礼をしたときに渡された本を取り出す。


果南「マルから……?」

梨子「是非、果南ちゃんと一緒に読んでって言ってた」

果南「私と一緒に……?」

梨子「うん……なんでも……『二人が求めてたものが、あると思うから』……って」

果南「? なんだろ……? まあ、そこまで言うなら読んでみようか」

梨子「うん」


私は、バッグから包装用紙で丁重に包まれた本を取り出し、包装を開けてみる。すると、中から出てきたのは──


梨子・果南「「あ……」」


──『人魚姫』だった。横長の重厚な装丁のハードカバーの絵本だ。


梨子「……読む?」

果南「……まあ、うん」


二人でページを捲る。

花丸ちゃんから貰った『人魚姫』は──色とりどりのパッチワーク刺繍と、ビーズで作られた写真を挿絵として使った絵本になっていた。

その挿絵と共にお話は進んでいく。

6人の人魚の姉妹。

嵐の中で沈む難破船。

王子を助ける人魚姫。

魔女に貰った薬を飲んで人間の足を手に入れ。

王子が隣国の姫君と結ばれて……。

人魚姫はナイフを海に投げ捨てた──


梨子・果南「「…………」」


次のページで人魚姫は泡になって消えてしまうんだろう。


果南「……ページ捲るね?」

梨子「……うん」


──ページを捲る、するとやはり人魚姫は泡になって消えてしまった……と思ったが、


梨子「え……」


その泡はどんどん浮かびあがり──海を超えて、空へ──


果南「まだ、続きが……」


人魚姫は風の精に生まれ変わり──よい行いを積み続けることで、いつか不死の魂を得て、人間の幸せを味わうことが出来るようになる。

つまり──


果南「人魚姫は……ただ泡になって、消えてなくなっただけじゃなかったんだ……」


そして、全てを知った人魚姫は太陽に向かって両手を差し伸べたとき、初めて──


梨子「生まれて初めて涙が零れ落ちたのだった……」


二人で茫然としてしまう。

これはあとで花丸ちゃんに聞いた話になってしまうんだけど……人魚姫は実は泡になって消えてしまうところで終わってしまう絵本と──その後、空の精になって、いつか人間の幸せを味わうことが出来ることを知るところまで描かれている絵本と、2パターン存在しているらしい。

もちろん、アンデルセン著の原書では後者まで記されているとのこと。

つまり、もともと人魚姫は……救いのない悲しい結末のお話ではなくて──


果南「……梨子」


果南ちゃんが私の肩を抱く。


梨子「うん……っ……」

果南「人魚姫は……最後は幸せだったんだ……」

梨子「……うん……っ……」


私は今日も『人魚姫』を読んで、泣いてしまった。

泣いてしまった、けど……この涙は今までとは違って、悲しい涙じゃない。

私は──子供の頃から、どうしても好きになることができなかった、『人魚姫』の結末だったけど。

長いような、短いような……ある一冊の『人魚姫』の絵本を巡る物語の末──今日この日を境に、やっと……好きになることが出来たのでした。




*    *    *





……さて、そうなるともう一個謎があるんだけど……。

果南ちゃんの持っていた絵本のことだ。

私が読んでいた絵本は小さな子供向けの10ページほどしかない短い絵本だったから、結末がちゃんと描かれていなかったというのもわかるんだけど……。

果南ちゃんがお母さんから貰ったという絵本は、ボロボロでこそあったものの、子供向けの絵本というにはしっかりとお話が描写されている作りになっていた。

後日、私は人魚姫の原文を確認してみたんだけど……果南ちゃんの持っていた絵本は、私の記憶が正しければ、ほぼ原文通りに物語を記しているものだった気がする。

ただ、二人で読んだときもお話はあそこで終わっていたし……あえて最後をカットしたパターンのものだったという可能性は十分あるけど……。

でも、そんな疑問の答えは──やっぱり、果南ちゃんの家にあった。


梨子「~♪」


今日も鼻歌を歌いながら、松浦家の朝食の準備をしている。

目の前ではいつもどおり、おじいちゃんが仏頂面で新聞を読んでいる中、朝食を並べる。


梨子「よし……!」


準備完了。今日は仕事が長引くという話も聞いていないし、果南ちゃんが戻ってくるのを朝食の準備をしながら待つ日。そして、準備が終わったら果南ちゃんを待つ間、少しだけ暇な時間が出来る。

その間、最近見つけた密かな楽しみがあって──私はリビングの端の方においてある、棚を物色する。


梨子「今日は……これにしよ」


──手に取ったのは、アルバム。

そう、最近は果南ちゃんを待つ間にこっそり、松浦家のアルバムを見せてもらっている。

……特に誰かに了承を貰ったわけでもないけど……おじいちゃんも何も言わないし、いいよね? だって、気になるもん。好きな人のちっちゃい頃のこと。

パラパラとアルバムを捲ると──


梨子「……えへへ……」


幼少期の可愛らしい果南ちゃんの姿が、たくさん収められている。

たまに果南ちゃんと一緒に写っている、今の果南ちゃんを一回り大人っぽくしたような人は──恐らく果南ちゃんのお母さんで、私が幼少期の頃に見た、人魚姫の容姿とも一致する人だった。


梨子「果南ちゃんのお母さん……本当に美人……」


特に長い髪を棚引かせながら、泳いでいる水中写真なんかは本当に綺麗で……。内浦の人魚姫だなんて噂が立つのもおかしくないと思わざるを得ない美しさだった。


おじい「……ん゛んっ!!」


私が果南ちゃんのお母さんについて、感想を口にするたびに、おじいちゃんが咳払いをする日常にもだんだん慣れてきた。

パラパラとアルバムを捲りながら、


梨子「それじゃ、次は……」


次のアルバムを取り出そうとしたときに、ふと──


梨子「……ん……?」


棚の奥の方に、くしゃくしゃになった紙が落ちていることに気付く。


梨子「なんだろ……?」


手に取って、広げてみると──


梨子「……え? これって……」


私が広げたくしゃくしゃの紙切れは──人魚姫が明るい天に昇っていく挿絵と一緒に、光の精になることを綴った、『人魚姫』の最後の1ページだった。

つまり──果南ちゃんがお母さんから貰った絵本の、最後の1ページ。


梨子「え……? どうして、こんなものが……? ねぇ、おじいちゃん」

おじい「なんだ」

梨子「こんなのが棚の奥に……」


私がそれを見せると──


おじい「……ああ、あいつが破ったページか。こんなところにあったのか」


あいつ──即ち、果南ちゃんのお母さんのことだろうけど……。


梨子「果南ちゃんのお母さんが、破ったんですか……?」

おじい「ガキの頃にな。よほど、この最後が気に食わなかったらしい」

梨子「え……なんでだろう」


私は逆に疑問に思う。せっかく、悲しい結末じゃなかったのに……救いのあるラストの1ページのはずなのに……。

ただ、私のそんな疑問に対して、おじいちゃんは、


おじい「そりゃぁ、最後は海に溶けて消える方が幸せだろうからな」


と、さも当然のように口にする。


梨子「…………」


つまり、あの絵本の最後の1ページがなかった理由は──海が好きすぎて、海に溶ける結末を最後にしたかった、果南ちゃんのお母さんが原因だったということらしい。


おじい「そこだけは、あの馬鹿娘とも、意見が合ったところだ」


つい最近、物語の感じ方は人それぞれだなんて、思ったばっかりだったけど……。

結局、憎まれ口を叩きつつも、果南ちゃんのおじいちゃんとお母さんは、似た者同士だったということ。

今回は、この結末を変えられた絵本のお陰で、私も果南ちゃんも大変な目に遭ったわけだけど……。

これも含めて──全部“ご縁”なのかなと、自分を納得させるように、私は肩を竦めたのでした。




    *    *    *










    *    *    *




数日後。

──高い高い冬の空を仰ぎながら、白い砂浜がどこまでも続いている千本浜を二人で歩く。

比較的暖かい気候と言われる内浦でも、さすがにこの季節だと、思いのほか寒くて……。


梨子「……くしゅん」

果南「あーもう……だから言ったじゃん、浜辺は寒いって……」

梨子「だって、このお洋服がよかったんだもん……」


今日は果南ちゃんと一緒に、お散歩デート。

今日のために選んできた、お気に入りのお洋服を着て──首からは果南ちゃんから贈ってもらったネックレスをさげて。


果南「もう仕方ないなぁ……」


果南ちゃんはやれやれと肩を竦めると、自分の上着を脱いで私に羽織らせてくれる。


梨子「ありがとう……えへへ、果南ちゃんの上着……♡」

果南「さては最初からそれが目的だったね……?」

梨子「えへへ~どうだろうね~♪」

果南「全く……」


呆れ気味に頭を掻く果南ちゃんの首にも、お揃いのネックレスが光っていて。

──ああ、なんだか、嬉しいな。この些細な、景色が、時間が、嬉しい。


梨子「果南ちゃん♪」


私は思わず、名前を呼びながら抱き着く。


果南「おとと……何?」

梨子「こうしたかったの♪」

果南「そっか」


果南ちゃんは微笑みながら、私を抱き返してくれる。

抱きしめて、私の頭を撫でながら、ぼんやりと海を眺める。


梨子「……私……冬の海、好きかも」

果南「私から上着を剥ぎ取れるから?」

梨子「もう! そういうことじゃないもん! ……静かで、果南ちゃんがそばにいることを、ちゃんと感じられるから……」

果南「……そっか」


二人で冬の砂浜に腰を下ろして、寄り添い合う。

海を眺めていたら、ふと思い出す。


梨子「そういえばさ」

果南「ん?」

梨子「ソロ曲の歌詞……本当に変えてよかったの? 元は最後は魚になって、海に還ってく歌詞だったけど……」


──完成したはずのソロ曲だったけど……実はあの騒動が決着したあと、果南ちゃんからの提案で歌詞の直しを行いました。

今言ったとおり、魚になって海に還っていく歌詞から──海からあがって、人に戻っていく歌詞へと。


果南「……なんかさ」

梨子「うん」

果南「……私はやっぱり、魚よりも人間に戻りたいなって思って」

梨子「どうして?」

果南「ここには……──梨子がいるから」

梨子「……ふふっ、そっか」


どうやら果南ちゃんは、お母さんやおじいちゃんとは違う結末を選んだらしい。その理由が私なのは──なんか嬉しいな。

私は微笑みながら、果南ちゃんに身を寄せて、目を瞑る。目を瞑って、この時間を、幸せを──噛み締めながら、思う。

人には、言葉では表せない想いや、伝えきれない気持ちはどうしてもあって、それはどうしようもなくもどかしいものだ。

それでも私は──私たちは……諦めずに、必死に言葉にして伝え続ける。

伝わるかわからなくても、伝え続ける。

きっと、それでしか伝わらないものもあるということを、知ったから。


梨子「果南ちゃん」

果南「ん?」

梨子「キス……しよ……?」

果南「ふふ……うん」


──たった二人きりの、冬の砂浜で、唇が重なった。


梨子「……えへへ……」

果南「梨子……」


そしてまた、抱きしめ合う。大好きな人と、この浜辺で。


梨子「果南ちゃん……世界で一番、大好きだよ」

果南「私も……世界で一番大好きだよ、梨子」


私たちは、今日もこの寒空の下で、大好きを伝え合います。

何度でも、何度でも。

だって、私たちには──言葉を、気持ちを、伝えられる、声があるのだから──





<終>

終わりです。お目汚し失礼しました。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン著の『人魚姫』は今では青空文庫で無料で読むことが出来ます。
もし『人魚姫』のざっくりとしたあらすじは知っているけど、読んだことがなかったという方は、是非この機会に読んでみて欲しいです。
また作中の最後に出来てた、花丸からプレゼントされた絵本は、リトルモアブックスから発行されている絵本をモデルにしています。
美麗な挿絵もさることながら、翻訳も現代風になっており、かなり読みやすく新訳されているので、『人魚姫』に親しんできた方でも楽しめると思いますので、興味がありましたら、こちらも是非。

それでは、ここまで読んで頂き有難う御座いました。

また書きたくなったら来ます。

よしなに。

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