樋口円香「巻き込まれて」 (30)


「あっ、トム・クルーズ」


 隣を歩いている透が唐突に言った。まるで目の前を本人が通り過ぎていったかのような口ぶりだったけど、こんな場所にトム・クルーズがいるわけなくて、かといってこんな普通の町中に新作映画のポスターが貼られているわけでもなかった。


「トム・クルーズがなに?」


 べつに無視してもよかったけど、そんな気になれずわたしは透に訊いた。


「いや、観たいなって」


 思ったとおりの答えが返ってきた。


「何にしよう、走ってるやつがいいかな」

「わたし、知らないけど」

「樋口、トム・クルーズ知らないの?」

「トム・クルーズは知ってる。映画はそんなに知らないって言ったの」

「えー、トム・クルーズ、映画にいっぱい出てるのに」

「トム・クルーズって何回言うの」

「あー、何回だろ?」



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1603942085


 放課後の帰り道、わたしたちは事務所に向かっていた。事務所へ向かっているのに帰り道って言うのは変かもしれないけど、今日は仕事やレッスンがあるわけじゃないしほかに適当な言葉も思いつかなかった。それに透と並んだ歩くのはいつものことだから帰り道と言ってもあながち間違っていないと思う。

 時刻は午後四時を少し過ぎた頃で、暑さはピークこそ過ぎていたけど真昼の時刻と遜色ない光と熱が街と道路には満ちていて、身体中から汗が吹き出るには十分だった。隣では透が額の汗を拭い、雨の降り始めにぶつかるのを希望するように空を見上げていた。もちろん雨なんかまったく降ってなくて、太陽はさんさんと白い光を降り注いでアスファルトに陽炎を揺らめかせていた。

 透は汗を拭った手をかざしたまま、指の隙間から太陽を見上げながら言った。


「こんど宇宙に行くんだって」

「話、続いてる?」

「続いてる」


 前から自転車がやってきているのに透は姿勢を変えずに歩いているので、わたしはシャツの袖を引っ張りちゃんと歩くように意識を向けさせた。

 自転車に乗っていたのは小学校五、六年くらいの男の子だった。男の子はわたしたちの前までくるとすこし速度を落とし、すれ違うときにサドルからお尻を浮かせて力強くペダルを踏み込んでぐっと加速していった。

 あれくらいの年の子は男の子も女の子も立ち漕ぎするのに躊躇がなくていいな、と過ぎ去っていく自転車を振り返りながらわたしは思った。


「宇宙に行って何するの」


 自転車を見送ったあと、わたしは透との会話を再開した。


「映画の撮影だって」


 話のスケールの実感が掴めないようなことを透は言った。とても途方もないことなのはわかるが、信じるにもバカバカしい嘘のような気もする。


「生身でも行けそうだよね、トム・クルーズ」

「そんなわけないでしょ」

「まあそうだけど、そんなイメージだし」


 透はそこで一旦言葉を切り、


「走っていきそうだなー」


 と呟き、どこを見つめるわけでもなくまた視線を上に向けた。なんとなく映画を観てるみたいだった。


 おおかた、透が考えているのはよくあるハリウッド映画によくあるクライマックスなんだろう。発射寸前のロケットに走っていくトム・クルーズ。カウントダウンが終わるギリギリでロケットに乗り込み、敵をやっつけるともう一段クライマックスがあって、そのあと世界を救う。

 タイトルなんかわからないし、というか実際にある映画なのかもわからない(こんなお決まりの展開がある映画なんていくらでもあるんだから)けど、所詮は大量生産されるブロックバスターのひとつに過ぎないのだから深く考えなくたっていい。

 さしあたり考えなければならないことは明日の数学の小テストのことで、出題範囲は予告されているものの厄介な内容で予習はそれなりにしておきたかった。家でやってもよかったけど、学校から事務所へ行く方が近かったし、あと昨日あの人が買ってきた差し入れのプリンがまだ残っているはずなのでそれを目当てにしているというのも理由のひとつだった。


 あの人がプリンを買って帰ってきたのはレッスンが終わって帰り支度していたちょうどそのときで、彼は箱を開けて差し出してくれたけれどプリンにつられて居残ったと思われるのも癪だったので、わたしは彼を無視して帰宅してしまった。

 露骨な態度をとってしまったと思う。それでもあの人の思惑にのるわけにはいかなかった。あのプリンは釣針だ。食いついたら釣り上げられ、あの人の望む場所に連れていかれる。つまり、子どもを叱りたいときに家のリビングじゃなくて、レストランに行って自分の部屋に逃げられない状況をつくるように、あの人はお菓子でわたしを引き寄せようとしていた。

 いちどはそれに引っかかった。だから、もう引っかからない。あの人がいないうちに事務所に行って、プリンを食べて、思惑をつぶしてしまおう。

 テストとプリンは確実にあるもので、確実なものについて考えるのは宇宙に行って実現するかどうかもわからないトム・クルーズの映画のことを考えるよりもわたしの性に合っていた。性に合う考えは好きだ。性に合う考えは動きを自動的にしてくれる。思考のリソースをある程度費やしても、こうして事務所まで辿り着くことができる。

 事務所は冷房が効いていたけれどすぐに汗が引いたかといえばそんなことはなく、むしろ歩くのを止めたことで汗が肌を撫でるように流れ落ちていく感触が敏感なくらいに感じられ、すぐに小テストの対策をする気にはなれなかった。

 やがて空調によって整えられた室温に火照った身体が同調し、汗をかくのをやめたとき、わたしは小テストの勉強をしようと机の上に教科書とノートを並べた。透はスマホで映画を観ていた。イヤホンで音を聞いてるからわたしの様子には気づいていないようだった。


「浅倉」

「ん?」

「勉強」

「ああ、明日、小テスト」


 透が勉強道具を出してから、しばらくお互いに無言でテスト範囲の復習をする。


「そうだ、樋口も観る?」

「勉強してるんだけど」

「じゃあ、終わったら」

「まあ、いいけど」


 勉強に集中したかったからふたつ返事で了承する。

 一時間ほどで勉強を終え、透は映画を観る準備をしだした。透がおもむろに立ち上がってスマホをテレビに接続し始めたのには驚いた。てっきりスマホで観ることになるのだと思っていたから。


「できるの?」

「あー、うん。プロデューサーに教えてもらったから」
 

 そう答えたものの、透はあきらかにわかってなさそうにケーブル端子を眺めていて、挙げ句の果てに「これかな……」とつぶやきながらあてずっぽうでケーブルの接続を続行した。

 運良く接続はうまくいって、テレビが映画の再生を始める。


 空港からひとりの男が降り立ってくる。グレーのビジネススーツに身を包み、サングラスをかけた銀髪の男。三十代から四十代くらいで手には黒のブリーフケースを持っている。コンコースを歩いていると精悍な顔つきをしたスキンヘッドの男とぶつかった。二人は瓜二つのブリーフケースを床に置いて互いに謝罪し(スキンヘッドの男のセリフで舞台がロサンゼルスだとわかった)、そしてケースを手に持ったのだけど、互いに相手のケースを間違えて持って去っていった。


「いまトム・クルーズとぶつかったの、ジェイソン・ステイサムなんだって」


 透が口にした俳優の名前には聞き覚えがあったけど、それほど詳しく知っているわけではないのでスルーした。それよりわたしは、白髪の男がトム・クルーズだということに言われてはじめた気づいた。


「どんな役?」

「トムは殺し屋」


 殺し屋ということなら、さっきのブリーフケースは間違えたんじゃなくて入れ替えたのか。たぶん仕事に使う道具とかが入ってるんだと思う。


 場面はタクシー会社の様子を映す映像に変わり、仕事前の運転手たちが新聞(アラビア語だった)を読んだり、クロスワードパズルを解いたり、テレビを見たり、車を整備したりしている風景が次々に映り変わり、やがてカメラはクロスワードパズルに鉛筆で挑んでいるひとりの黒人男性の手を落ち着いて捉える。ほかよりもわずかに、だかたしかに長い時間映された手から顔へとカメラは移動する。


「この人、ジャンゴの人だよ」


 透が横から口を挟んできた。


「固有名詞で言われてもわかんないだけど」

「ほら、あれ、タランティーノの」


 聞き覚えはあっても映像として浮かび上がらないのでスマホで検索してみる。俳優の名前はジェイミー・フォックス。透が言っていた映画は西部劇で、黒人ガンマンが主人公だからつい最近の作品かと思ったのだけれど、公開年を見たら2012年とあった。上映時間を見て思わず、うっ、と唸りそうなる。165分。

 時間の長さに気を取られていたところでハッとする。スマホを置き、視線をテレビの液晶画面へ戻す。ジェイミー・フォックス扮するタクシー運転手はもう仕事に出て、いろんな客を乗せている様子が変わる変わる映る。馴染みのガソリンスタンドの店員でガソリンの値段にスペイン語で文句を言っている(「戦争に勝ったのにこの値段か?」。イラク戦争のことを授業以外で聞くのはたぶんはじめて)。


 タクシーにひとりの女性客が乗り込む。携帯電話を片手に電話口の向かってずいぶん捲し立てている。女性客はマックスに目的地を告げ、道順まで細かく指示する。彼はあくまで一個人の意見だけどといった控えめな態度で別のルートを提案する。タクシー運転手は自分のルートのほうが早い根拠を言い、女性客は「それならこうしない?」とある提案をする。そうしてふたりの間で賭けが成立する。しばらくして、資料に目を落としたいた女性客が車が車らしい走行を最も発揮できるゆるやかな速度とほどよい振動に気づき、意識できないほどスムーズに運転していたことをおくびにも出さず前を見て運転を続けるタクシー運転手に向かってこう言った。


「口にしたらどう?」

「なにを?」

「“勝った“って」


 それから互いにアメリカ人らしいユーモアを応酬し、やがてすこし立ち入った話になる。とはいえプライベートの話ではなく仕事の話なのだけれど、そこには個人的な感情や願望があって、不安や不満、倦怠が滲んでいる。ふたりの会話はタクシーで移動しているときに点々と映されたロサンゼルスの風景のようでもあった。夜の大都市に灯る光は健康的でなく、灰青色か目を潰すほどの白色か疲労感が滲む緑色のどれか、あるいはその全部で、それらの光はすべて人間を働かせるために灯っていた。

 タクシー運転手は言う。


「この仕事は“つなぎ“だ」

「リムジンサービスの会社を運営するんだ。金持ちの顧客を抱えて、極上のサービスを提供する。あまりの乗り心地に空港に着いても降りたくないと思わせる」



 女性客がタクシーから降りる。親密な雰囲気は余韻だけが残っていて、タクシー運転手が名残惜しそうにしていると窓がノックされる。降りたばかりの女性客が引き返してきた。彼女は名刺を取り出してこう言う。


「専門じゃないけど、法的なアドバイスが必要だったら電話して」


 女性客は検事で、明日の公判に備えて徹夜仕事に向かうところだった。

 人を運ぶ以上の仕事をした運転手は充実した達成感に満たされている。まるで自分が口にした理想の仕事が実現したかのようだ。

 タクシーに次の乗客がやってくる。一度は気づかず、別のタクシーに行こうとする客をタクシー運転手は呼び止める。


「悪かった。乗ってくれ」


 去りかけていた乗客が戻ってきてタクシーに乗り込み、後部座席に黒のブリーフケースを置く。このブリーフケースはあのブリーフケースだ。空港で交換したあのブリーフケース、その前のブリーフケースはいまいったいどこにあるんだろう、と映画とは無関係な取り留めもないことをわたしは考える。

 グレーのスーツを着た白髪の乗客が行き先を告げ、タクシーは発車する。こうしてタクシー運転手は乗客の一夜の仕事に巻き込まれていく。

 殺しの仕事に。


ーー
ーー
ーー


 トム・クルーズがタクシーに乗り込んでドアが閉まったのとほとんど同じタイミングで事務所のドアが開いた。

 あの人が帰ってきてソファのところで映画を観ているわたしたちを見、道路でビー玉を発見した子どもみたい笑いながら話しかけてきた。


「おっ、映画を観てるのか」


 わたしたちはかなりだらりとした姿勢でいたのだけれど、彼はそれを咎めることはしなかった。


「おかえり、プロデューサー」


 透がそう言ったのでわたしも何かしら言わなければならないのだけど、透ほど気やすい言葉は言いたくなかったので会釈するだけですませた。

 彼が暑いなーとため息まじりに洩らす。てっきり汗だくになっているのかと思ってたけど、歩き回ったわけではなく車で出かけていたみたいで、文句のわりにシャツはとくに濡れてはいなかった。ネクタイはしていなくて、シャツの第一ボタンは開けている。シャツは皺ひとつなく、光だけでなく粒子まで弾くくらい白かった。ただボタンだけが色付きで、マーブル模様をしているから正確に色の種類を断定することはできないけど、わたしの見たかぎりでは焦げ茶か黒に近く、火に焼かれた樹木のような印象を与えていた。


 わたしは視線を窓にやった。窓越しに外の景色を眺めるとまだまだ昼といってもいいくらい明るかったけど、どことなく光は薄くなっていてあの刺すような日差しはやっぱり弱まっているんだとおもった。

 わたしはテレビの正面に座っていた。映画は夜の場面ばかりだったから、窓から差し込んでくる光が反射してときどきはわたしの顔が画面の中に浮かんだ。透は端末を弄ったときにテレビのすぐ側までいってそのままいちばん近いところに座っていた。ソファの配置はL字を左右反転させたようになっていて、わたしと透はそれぞれ文字の端にいるかたちになっていた。

 ドサっという音に振り返ると、彼が机にバッグを置いたところだった。一瞬、それがトム・クルーズが持っていた黒いブリーフケースに見えた。もちろんそんなふうに見えたのは映画の残像というだけのことで、彼のバッグはレザー製のトートバッグで映画のそれとは似ても似つかないものだった。


「カーテン、観づらくないか?」


 机の上にバッグを置いて顔を上げた彼の視線は正面にある窓をとらえ、だから窓からの光が視聴の邪魔になることに気づきそう口にしたのだろうけど、わたしか透のどっちに向けて言ったのかは判然としなかった。おそらくどちらともなかったのだろうけど、透は彼のほうを向いていた。

 
 
「ん?……あー、樋口、どうする?」



 透は窓に背を向けていたから光は気にならないようだった。わたしの位置で観ていても気にはしないだろうし、視聴環境という概念すらもあやしいやつが画面の映り込み程度で気が散るとは思えない。


「別にいい……このままで」


 余計な言葉を付け加えてしまった。透にだけでなく、彼にまで返事をしてしまった。彼は納得したように視線を下げ、トートバックの口を広げて中を探りながら言った。




「透、それってあとどれくらいで終わるかな?」

「まだけっこうあるけど。なんで?」

「いや、次の撮影の資料を貰ってきたからちょっと話したくてさ」

「なら、いまでいいよ」

「いいのか?」

「うん、まえに一回観てるし」


 透は立ち上がりテレビの前を無頓着に横切って彼に近寄って行った。彼のデスクの近くには折りたたみ式のダイニングチェアがあり、ソファに先客がいたときや軽い打ち合わせのときなんかはその椅子に座って彼と向き合い話をする。透は勝手知ったるふうに椅子の脚を広げて彼の真向かいに座った。

 打ち合わせなのに笑い声がかすかに聞こえてきて、わたしは鬱陶しく思った。まるで映画の上映中に耳に入ってくる話し声のようだ。小さい声だからこそ逆に耳障りで、しかしそもそも仕事の打ち合わせなんだからこちらに注意する権利はない。仕事の打ち合わせにどうしてあんな談笑が混じるのかは理解できないけれど。


 わたしは意識を画面に集中した。トム・クルーズがタクシーで目的地へ移動している。BGMは「G線上のアリア」をイージーリスニング風にアレンジしたもので、喫茶店や公共施設で流れているときの安っぽい雰囲気とは違って、夜のロサンゼルスを渋滞もなくスムーズに移動しているときに聴いていると優雅な時間を過ごしているような気分になる。

 目的地へ七分ぴったりでたどり着いたことに気を良くしたのか、タクシーの乗客は自分は不動産業で今夜中に五つの契約を結ばなければならない、だからこのタクシーをまる一夜貸し切りたいと交渉を持ちかける。


「職務規定違反になる?」

「まあ……」

「こうしよう、六〇〇ドル払う」

「いや、そんな……」

「朝六時の晩に間に合ったらさらに一〇〇ドル」

「まいったな」

「いいだろ? やるって言えよ」

「六〇〇ドル?」

「ああ。決まりだ」


 そして後部座席の乗客は前金として三〇〇ドルを手渡し、契約の握手を交わし名前を訊ねる。


「マックスだ」


 タクシーの運転手が名乗る。


「おれはヴィンセント」


 タクシーを裏に回してマックスはヴィンセントが仕事をしている間、つかの間の解放に身を浸す。夜食のサンドイッチ(コンビニで売ってるやつじゃなくてサブウェイみたいなの)を齧りながら、さっきの検事との会話で出たリムジンのカタログを眺める。カタログには折れ目がついていて、こうして短い休憩のたびに何度も何度も読み直しているのことが察せられる。サンドイッチの具をこぼさないようにゆっくりと咀嚼しながらマックスはカタログのリムジンを指でそっと撫でた。眺めるたびにそうしてきたようにツルツルした紙の触感を艶やかなリムジンのボディだと想像しているようだった。

 カットが替わる。カメラはイエローキャブを俯瞰で捉えながら接近する。ズームではなくカメラ自体が接近しているような揺れ。轟音、ボディがひしゃげる、ガラスは粉々、運転手が車から飛び出す、ひとときの静寂。

 タクシーの背中に死体が乗っていた。


ーー
ーー
ーー


 ヴィンセントは細かく砕けたガラスを車体から払いフロントガラスの蜘蛛の巣にこびりついた血をミネラルウォーターで濯いでから死体をトランクに詰め込むのをマックスに手伝わせた。荒っぽくネクタイを外し死体の足元に放り投げると、怯えきっているタクシー運転手にむかって次の目的地に行くよう指示する。マックスはもちろん断ろうとする。タクシーはやるよ、あんたのことは誰にもしゃべらない……。哀れになるくらいあっさり却下され、マックスはまたタクシーを運転することになった。

 二人目の標的はトラブルなく終わる。タクシーに置いていったブリーフケースをマックスが銃を持ったチンピラ二人に奪われるが、面倒ごとには程遠い手際の良さで解決し、二人はガソリンスタンドで小休止をとる。憂鬱そうなマックスに向かってヴィンセントはジャズクラブにいこうと提案する。

 演奏を前にしてもマックスは戸惑ったままだ。


「ジャズはよく知らない」

「各々のプレーヤーの奏でる音が微妙にズレ、計算にない即興に入っていく」


 ヴィンセントがマックスに向けて解説をする。


「今夜みたいにな」


 笑えない冗談を言ったあと、ヴィンセントはふっと息をこぼして言う。


「大抵の人間は十年後も同じ仕事、同じ家、同じ生活だ。その方が安全だから」

「だが、十分後のことを誰が知ってる?」


 そして、演奏が終わったあと、ヴィンセントはFBIの証言者となったジャズクラブのオーナーを射殺し、テーブルに倒れ込むオーナーの顔を弔うように受け止めた。


ーー
ーー
ーー


 気づけば窓の外はすっかり暗くなっていて、事務所には彼の姿も透の姿も消えてなくなっていた。時計を見ると二人が仕事の打ち合わせをしてから二時間弱くらい過ぎている。

 わたしは振り向いて給湯室のほうを確認した。そこにも誰もいなかった。わたしはリモコンでテレビを消した。透のスマートフォンは置きっぱなしになっていたので、トイレにでもいっているのかと思ってまた振り向きドアのほうを見やった。

 ドアが開き、彼が帰ってきた。手にコンビニのビニール袋を持っている。


「おつかれ、円香」

「疲れるようなことはしていませんが」

「いや、ずいぶん熱心に映画を観てたからさ」


 実際、透が席を立ってからはずっと画面を観続けていたのでわたしは彼の指摘を無言で受け取った。


「透も邪魔したら悪いと思って先に帰ったくらいだし」

「浅倉、帰ったんですか?」



 彼に訊きながらわたしはまた振り返って透がいたあたりを眺めた。バッグがなくなっていた。愕然となる。どれだけ映画に集中していたとしても、透がバッグを取りに来れば間違いなく視界に入る。それなのにわたしは気づかず、ずっと画面がどのように推移していくことだけを見続けていたことになる。まるでそれ以外のすべての視界が欠落していたかのような状態であったことにあらためて愕然とし、怯えさえした。

 わたしの視界を右斜め上から通り過ぎるものがあった。ほんのりと日に焼けた彼の腕だった。コーヒーテーブルにグラスが置かれていた。グラスに注がれた液体は濃い色をしていて、一瞬コーヒーなのかと思ったけどよく見ると液体は真っ黒ではなくてとても濃い紫色だった。


「なんですか、これ?」

「カシスジュース、目の疲れにいいらしい」

「わざわざこんなのを買いに行ってたの?」


 彼はいつものように短く笑った。


 目の疲れは実感していた。だとしてもただのジュースに即効性があるわけないし、これを買ってきた彼の魂胆は見え透いていた。背後で足音がする。わたしはジュースをひと息にごくごくと飲み干してグラスをテーブルに置いた。カン、と高い音が響く。顎に飲み物のひと雫が垂れていく。行儀を気にせず手の甲で拭って立ち上がり、バッグを持ってドアへと向かう。

 給湯室から彼が戻ってくる。手に持ったアイスコーヒーの氷がぶつかってカランと鳴る。

 彼とわたしの目が合った。


「ジュース、ごちそうさまでした。では」


 頭を下げて、視線を外し、そのまま視界に入ったドアノブを握る。


「円香」


 彼の声にわたしは呼び止められる。
 

「おつかれさま、明日も待ってる」

「……明日の予定はなにもなかったはずですが」

「ああ、わかってる」


 その言葉は空気のように漂った。彼自身の確認の言葉だったからわたしがどうこうできる言葉ではなかった。ボールのように放り投げられたのなら、受け取らないこともできた。だが、空気のなかに溶けて浸透していく言葉はどうしようもない。

 わたしは会話などまるで交わさなかったかのように失礼しますの一言を残して事務所をあとにした。


ーー
ーー
ーー


 ロサンゼルスの地下鉄でひとりの男が死んだ。

 そのまま六時間も死体だと気づかれなかった。

 何人も男の隣に座ったのに、気づかれなかった。

 そんな話をした男がいま同じように電車の中で死にかけている。

 拳銃を握ったマックスは銃口をヴィンセントに向けながら、ゆっくりと動きヴィンセントの正面に腰を下ろした。

 ヴィンセントはスーツの裾をちらりと持ち上げ、赤い拡がりに染まったシャツを見た。その仕草はさりげなく、タクシーに乗っているときとは対照的に向き合って座る自分たちを互いに安心させるためのように見えた。


「もうすぐ、次の駅だ」

「マックス」


 その呼びかけは会話のためのものではなかった。



「ロスの地下鉄でひとりの男が死んだ」


 ヴィンセントが息をつくように話した。


「だが、誰も気づかない」
 

 ヴィンセントの頭ががくっと落ちた。

 マックスは眼鏡を外し、眠りに落ちているかのようなヴィンセントを見ていた。

 もしバランスが失われてヴィンセントの身体が倒れるようなことになっていたら、マックスは彼の頭を受け止めただろうか。

 暗さだけは映画のなかのロサンゼルスにそっくりな夜の路地を歩きながら、わたしはそんなことを考えていた。

 ふと空を見上げる。空にはほんの少しだけ青い部分が残っていた。


「アイ・ドゥー・ディス・フォー・ア・リビング…….」


 わたしは虚空に向かってつぶやいた。

 ヴィンセントが銃弾を食らう直前に叫んだセリフだ。字幕では「これが仕事だ」と味気なく訳されていて、実際そういうふうに訳すのが適切だし英語ネイティブの人も同じような味気なさを感じるのかもしれないが、わたしにはこのセリフに胸を打たれた。



──I do this for a living


 「生きるためにこれを行う」が「これを行わなければ生きていけない」に変質して、わたしの思考をぐちゃぐちゃにする。 

 それを行わなければ生きていけないことなど、わたしには何一つない。わたしだけではない。透も、小糸も、雛菜も、絶対にそれをしなければならないことなど何一つない。ほとんどの人間がそのはずだ。映画のなかでマックスはタクシーの運転手を十二年続けていると言っていた。でも、年月が経っていたからといってその仕事が絶対であるわけではない。なのに自分の仕事がそうであるかのように振る舞う人がいて、わたしたちはその人に巻き込まれるかのようにいまを生きている。

 これまでずっと生きてきて、かたちづくってきた生き方があったのに、おおきく変えられてしまった。

 映画で、殺し屋がタクシー運転手に向かって、この状況に適応しろ、言う。でも、その言葉は一方通行の言葉ではなく、双方向に働く言葉だった。タクシー運転手は危機的な状況に適応をみせる。殺し屋もまた、適応しつつあるタクシー運転手に適応しなければならない。なのに、あろうことか、殺し屋は感傷的に振る舞ってしまう。即興的に、その場の感情で、見殺しにするべきだったタクシー運転手を救ってしまう。レーザーサイトの赤い光点がマックスの胸に灯ったとき、放っておくべきだったのに。そうしなかったから、自分のシャツの胸元が血で赤く染まるようなハメになってしまうのだ。


 気づけばわたしは踏切にいた。渡ろうとしたとき踏切が鳴り出し、遮断機が降りていった。ふたつの赤いライトが交互に点滅する。その赤い光を見ていると、また映画のことを思い出してしまう。電車が通過する、右から左、遮断機が上がりわたしは踏切を渡ろうとして途中でとまる、電車が去っていったほうを見る、線路はまっすぐ伸びていて電車の最後尾の四角い感じがまだ見える。

 あの電車はどこまで行くんだろう、もちろん次の停車駅までに決まってる、でも映画のラストシーンがあまりにも鮮明で物哀しくて、たったひとりで誰にも気づかれないままずっとあの電車に乗り続けなければならない人がいるような気がする、それは誰でもありうる、死ななくても取り残されることは誰にだってありうる、電車に乗らないという選択肢はありえない、もうすでに巻き込まれてしまっているし、透はどんどん走っていくに決まってる、それなのに足が動かない、ずっと同じ車輌にいるわけにはいかないのに、次から次へと乗り換えていかなければわたしはあの人たちのようになってしまう、泣いていたあの子、うまく息ができなかったあの子、ロスの地下鉄でひとりで死んでいったあの……

 スマホの着信音の大きさに、わたしはビクリと身を震わせた。画面に表示された名前はあの人のものだった。




「タイミング……」


 見計っているの、と一瞬訝しかったけれど、そんな内心を悟られたくなくて(そんな心配はまったくの杞憂だとしても)、わたしはすぐに電話に出た。


「もしもし、円香。まだ事務所の近くか?」

「それほど遠くはないですけど、なんですか?」

「透がスマホを置き忘れててさ」


 不覚だった。透のスマホとテレビを接続して映画を観ていたのをすっかり忘れていた。わたしはため息を堪え、すぐに返答した。


「わかりました。取りに行きます」


 彼は、えっ、と驚きの声を小さく洩らし、一瞬間を空けてから言った。


「いや、車で届けようと思ったから円香も乗っけてこうと思ったんだが……」

「いいです、わたしが行きますから」


 電話の向こうで彼が思い悩んでいるのが手に取るようにわかった。



「あなたには仕事があるんでしょ」


 この言葉で彼は押し黙るとわたしは思った。けれど、予想に反して明るい声が返ってきて面をくらうのと同時に腹立たしい気持ちになった。


「ああ、忙しくなりそうなんだ。透はドラマのオーディションに受かったし……」

「わたしには関係ないですよね。もう切ります」

「あ! 待ってくれ、そのまま聞いてくれ、円香も透といっしょに出れるんだよ!」


 彼が何を言っているのか理解するのにしばらく時間がかかった。電話口から「円香?」、とわたしの名前を呼ぶ声がして、わたしは我に返って訊いた。


「オーディション、落ちたんじゃなかったの?」

「それがさ、プロフィールといっしょに円香の活動を動画で送ってたんだよ。それで、動画を見たあちらのスタッフさんがオーディションとは別の役だけどってオファーしてくれて」


 彼の言葉を訊いて、わたしは何を言うべきか、わからなかった。さまざまな感情が胸に去来して、どうするべきかわからなかった。あたりはあまりにも静かだった。電車はとっくに過ぎ去っていて、車もまったく通らないし、部活帰りの学生とすれ違ったりもしなかった。住宅地のすぐ近くでいまの時間帯はちょうど夕食どきだったからそれにまつわる何かしらの音がしてもいいはずなのに、わたしには何も聞こえなかった。ただ、灯りと夜の暗さだけが映画のロサンゼルスのように拡がっていた。わたしが声を出すまで、世界はずっと静かなまま息を潜めていようとしているかのようだった。それが思い込みということはわかっていたけれど、わたしの声を待っている人がいるのは事実だった。

 わたしはその事実から、もうひとつ事実を引っ張り出して電話の向こうの彼に言った。



「あなたのおかげってことですか」

「円香がいままで頑張ってくれたおかげだよ」


 無邪気なよろこびの声にわたしは呆れ、誤魔化すことなどなくため息といっしょに吐き出した。


「自分の仕事の評価くらい、きちんとしたらどうですか」


 そう言って電話を切ろうとしたけど、プロデューサーはまた送っていかなくていいのかと訊いてきた。


「いいです、走っていくので」


 今度こそ電話を切った。あたりはまだ静かだった。そのせいか、わたしは「走っていく」という自分で言ったはずの言葉の余韻にほのかに驚くといった事態に直面した。


 ほんとうに走っていかなかればならないのか、こんな夜を、空はもう真っ暗で少し前には見えていた青い部分はもうない、空気の湿度は汗だくになったわたしを容易く想像させる、外灯が薄ぼんやりした緑色の光を道路のアスファルトに投げかけている、このあたりは住宅地でまだ人通りは少ないけれど目抜き通りでは多勢が移動しているだろう、そのあいだを縫うように走る、まったく無意味でそれどころか迷惑ですらあるのにそれをしなければならない気がしている、生きるためではない、生きていくのに走ることは必要ない、走るとはただただ走るということだ、こんなふうに走る前に言葉で考え立って意味がない、走った後でも意味がない、意味があるとすれば走っている最中の脚の上がりや腕の振り方や呼吸や心臓の動きにしかない、踊りみたいだ。

 わたしは頭をあげた。夜の空に星はなかったが、雲はあった。ひと目見てそのくっきりした輪郭に驚き、濃淡のある紫色をいつまでも眺めていたい気分になった。わたしは光を浴びようとするかのように首を真上にのばし、息を吸った。踏切から文字通り飛び出すと、アスファルトの反撥が足の骨に衝撃を響かせた。けれども、わたしの足はすぐにコツを掴み、アスファルトと良い関係を結んだ。

 背後で踏切の音がした。速度は緩めず、どんどん音から遠ざかる。それなのに、わたしは、まるでもうすぐ発車する電車に追いつくように必死になっている、そんな気分で足を動かし走っていた。


 以上です。作中に出てくる映画はマイケル・マン『コラテラル』です。映画のラストを見てもらったらもっと雰囲気が出ると思うので、ネタバレですがよかったら見てください。
https://youtu.be/uqZy5pQQLV0


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上記に加筆修正を加えたもの。伊吹と志摩も出ます。



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