大崎甘奈「セブンスヘブン」 (16)
天国は七つあるのだという。
天国に行くと、第一から順番に回って行って、最後に第七天。
そこには一番偉い天使様がいるとか、神様がいるとか。
テレビか、インターネットか、はたまた雑誌か。
自分がこの知識をどこで得たのかはもう覚えていないけれど、天国は七つあるのだということをふと思い出した。
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ざくり。
ざくり。
目が眩むような白色の坂道を二足分の長靴が汚していく。
ざくり。
ざくり。
一足は大きくて、真っ黒で、無骨で、魚屋さんが履いていそうな長靴。
もう一足はそれよりも一回り、ううん。
二回り小さな、長靴。
ほんとは長靴ではないんだけど、今日からこれは長靴になった。
――甘奈は、長靴までお洒落さんなんだな。
二人して事務所の玄関に並んで座って、長靴をぎゅむぎゅむ言わせながら足を突っ込んでいく隣の彼、甘奈のプロデューサーさんにさっき、そう言われたからだ。
プロデューサーさん、これはねレインブーツっていうんだよ。
ファッションが得意分野のアイドルを担当してるんだから、勉強しないとだよー。
そんな、思い浮かんだあらゆる軽口は喉を駆け上ることはなくて、代わりに吐き出せたのは「そうかな」という一言と、照れ笑い。
でも、それでいいと甘奈は思った。
だから、君は長靴。
ざくり。
ざくり。
昨夜やってきたらしい雲は、太陽のいない間に街を真っ白に染め上げて、太陽がやってくる頃に逃げ出したらしい。
ちょっとの雪で、電車も車も、何もかもが役立たずになるなんて、情けないなぁと街並みを坂道から見下ろしてぼんやり思う。
次いで、視線を隣に移せば、一生懸命雪を踏み締めて地面ばっかり見つめているプロデューサーさんがいた。
いち、に。
いち、に。
なんて掛け声が聞こえそうなくらい、足元に集中しているプロデューサーさんは、いつものきりっとした表情も相まってなんだか、かわいかった。
甘奈も真似をしよう。
なんとなくそう思って、慎重に足を踏み出してみる。
いち、に。
いち、に。
ずるり。
普通と違うことをしたことがよくなかったのだろうか。
踏み締めた先には大きめの小石があって、甘奈の右足はふんわり宙を舞う。
大きめの小石ってなんだろう。
小石なのに、大きいのかな。
大きいのに、小石なのかな。
くだらないことばかりが頭をよぎって、最後に「あ、収録あるのに服濡れちゃう」と肝心なことを思い出す。
「甘奈!」
ばしん。
それは意識の外からやってきて、電撃みたいに一瞬で弾けて、力強く甘奈の背中を押す一撃だった。
背中に走った衝撃は、甘奈が倒れるのと奇跡的なくらいぴったりの力で押して、消える。
ぐしゃり。
残ったのは前のめりに雪道に沈んでいるプロデューサーさんと、直立不動の甘奈だった。
「……つめた」
のっそり立ち上がったプロデューサーさんのスーツは、きれいに前と後ろで色の濃淡が違っている。
「甘奈、怪我ないか」
「え? ……うん。っていうか、プロデューサーさん、雪!」
「……ああ、あはは。もうちょっとスマートに助けられたら、格好もついたんだけど」
ぱたぱたぱたぱた。
甘奈のせいで転んだというのに、プロデューサーさんは一切甘奈に何か言うことはなく、手早くスーツについた雪を払っていく。
「……ごめんなさい。甘奈のせいで」
「甘奈は悪くないよ」
ぱちん。
転んだことが恥ずかしかったのか、その照れ隠しのようにプロデューサーさんは指を鳴らして、歯を見せる。
「もー。プロデューサーさんは、すぐそうやって」
「すぐそうやって、甘奈は自分を悪者にしようとする?」
「それは……そうかもだけど、今回は」
「今回は、雪のせい」
「…………なんか、納得いかないなぁ」
「それに、ほら見てくれ」
くるり。
プロデューサーさんがちまちま雪を踏んで、甘奈の前で回ってみせる。
頭上にクエスチョンマークを浮かべたまま甘奈がそれを眺めていると、プロデューサーさんは「ツートンカラー」と笑った。
こちらが真剣に謝っているにもかかわらず、被害者であるプロデューサーさんがこんな調子では、どうしようもない。
つられて甘奈も笑って、二人分の笑い声が雪に吸い込まれていった。
「しかし、社用車はスタッドレス履いてないし、タクシーもこの坂道は登れない、なんて言うし……苦労かけてごめんな」
それこそ、プロデューサーさんのせいではないし、謝るようなことではないのだけれど、彼は心底申し訳なさそうに眉を下げる。
その仕草が直視できないくらい眩しくて、甘奈はたまらず視線を少しだけ下げた。
そこには、赤くなっているプロデューサーさんの手があって、原因は間違いなくさっき倒れて雪にまみれたからだと察しがつく。
「ねぇ、プロデューサーさん。その、手」
「手? あー。……でもなぁ」
なぜか困ったように腕を組んで、プロデューサーさんは独りごちている。
その理由はよくわからなかったけれど、続く言葉を待っていると「まぁ、タクシーが入れないんだから、人目はないか」と言った。
そして、わけのわからないまま、ぼうっとしている甘奈の左手をプロデューサーさんは握る。
「確かに、これなら次はもっとスマートに助けられるかもな」
ぎゅうっ。
ひんやりとしたプロデューサーさんの手が、甘奈の手を包んで、熱を奪っていく。
奪っていってるはずなのに、奪われたそばから甘奈は熱を生み出しているようで、世界で一番幸せな永久機関が成立していた。
天国は七つあるという。
もし、ここが天国なのだとしたら、既に五つか六つめ辺りまで来ているのではないか。
そう思ってしまうくらい満ち足りていて、坂道がまだまだ先まで続いていることに幸福を覚えている甘奈がいた。
だけど、まだ七つめではないといい。
同時にそうも思った。
「甘奈の手、あったかいな」
でしょー。プロデューサーさんの手はめっちゃ冷たいけど。
違うよー。プロデューサーさんの手が冷たいの。
手が冷たい人は、心があったかいんだって。
そんな、思い浮かんだあらゆる軽口は喉を駆け上ることはなくて、代わりに吐き出せたのは「そうかな」という一言と、照れ笑い。
でも、それでいいと甘奈は思った。
おわり
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