一ノ瀬志希「ママの気持ちになるですよ」 (92)
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ショウノウ臭、ジャコウ臭、花香、ハッカ臭、エーテル臭、刺激臭、腐敗臭。
アームアって先生は「におい」ってたった3文字を、これだけ分類してたりする。
辞書をパラパラめくってみると、「匂い」と書けば好ましい香りのことを指し、「臭い」と書けば好ましくない香りのことを指す、なんて書かれてたり。
化粧品会社が加齢臭なんて新しい「におい」を発見してみたり。
どうやら人類が誕生してから付き合い続けている「におい」ってやつには、なかなかに奥が深いものらしい。
もしかしたら、あたしが大人になったときにはストレス臭、なんてのもあったりするのかも。
そんな取り留めのないことを思いついたのは、あたしの体を揺するものからにおいがしたからだ。
「起きなさい、志希」
このにおいのことは、もちろん知っている。
きれいで、優しくて、こわいときもあるけど、あたたかい。
どんな偉大な学者にだって分類できっこない、あたしの、居場所のにおいだ。
瞼を開けると、ママの優しい顔があたしを見つめていた。
そして……むむ。なにやらおいしそーな香りがする。
ハスハス。これは──。
「カレーライス」
正解、とママはおかしそうに笑う。
「さっき出来上がったばっかりよ。まったく、食い意地はっちゃって」
「カレーのにおいで起きたわけじゃないよ」
はいはい、とママは軽くあたしの頭を撫でたあと、カレーが置かれているテーブルの椅子に座った。
ほんとに違うのになー。
そんなことを考えながらあたしも椅子に座ろうとすると、テーブルの上にお皿がふたつしか置かれていないことに気づいた。
「パパは今日も帰ってこないの?」
ママは困ったような表情をする。
「最近忙しいみたいだから、しばらくは難しそうね」
さみしい、と悲しいにおいを発するママに、だいじょうぶだよと首を振って椅子に座る。
パパがお家にいたのはもう1か月以上前のこと。
今頃はたぶん、研究室でパンをかじりながら実験の結果でもまとめているんだろう。
化学に非凡な才を持っているパパは、皺も目立たない年齢で大学の教授なんてやってて、毎日試験管や学生のレポートとにらめっこしている。
そして。あたしもそんなパパの血を引き継いでいるみたい。
ギフテッド。
周りの子がヒーローごっこやかわいいお人形に夢中だったころ、あたしのおもちゃは化学式がびっしりと詰まった専門書だった。
酸と塩基が交わって、塩と水にメルヘンチェンジするように。
既知から未知が生まれるその在り方に、あたしの心は強く引き付けられたのだ。
「志希はすごいね」
暇つぶしに解いた院試の答案用紙を見せると、ママは大げさに喜んであたしの頭を撫でてくれた。
ママはあたしやダッドのように化学に精通しているわけでも、IQが180以上ある天才でもない。
ぶらぼー、と騒がれるようなギフテッドなんてなにひとつ持たない、どこにでもいる普通の女の人だった。
あたしが書いている化学反応式の構造なんて、きっと半分も理解できていなかったと思う。
それでも、ママはにこにこと笑ってあたしの話を聞いてくれて。
そんなママのおひざで眠るのが、あたしの日常だった。
「ママ! あたしも大人になったら、ママみたいなおかあさんになれるかな?」
ごはんを食べ終わったあと、ママのお膝に飛び乗ってそんなことを聞いてみた。
そうね、と顎に手を当て目を斜め上に向けながら、しばらく考え込んだあと、
「わからないわ」
やっぱり柔らかい笑顔でそう言った。
「賢い子だからパパみたいな学者さんになってるかもしれないし、こんなにかわいいんだもの。売れっ子のアイドルになって、モテモテになってるのかも!」
いつものようにあたしの頭を撫でたあと、
「あなたには無限の可能性がある。どんなことだってきっとできる。だからね志希」
ぎゅっとあたしの体を抱きしめて、囁くように言った。
「自分の好きなこと、やりたいこと、自由に楽しく生きなさい。そんなあなたを理解してくれる人はきっといるはずだから、ね」
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──おい、シキ
なにかにゃ? あたし、まだ寝てたいんだけど。
──おい、起きろしき。
まぁ、いいか。おやすみ。
「おい! 起きろってば、志希!」
がくがくと体を揺さぶられる。
にゃはは。
どうしたのキミ、そんな呆れてるにおいなんか出しちゃって。
それに……うん? なにやら知らないにおいが、彼の隣からひとつ。
ハスハス。ふんふん。
甘い香り。たぶん女の子、それも若い。もちろん人間のね、いちおー補足。
でも、なにかに邪魔されてはっきりとその正体がつかめない。
なんだろなんだろ。すごく気になる。
好奇心が眠気を上回った。
しょうがない、起きよっか。
瞼を開けてみると、見慣れた呆れ顔がそこにあった。
「おはよ~プロデューサー。はぶあないすでー」
「いま会ったばかりだろうが! ったく、レッスンさぼんなよ。怒られるのは俺なんだぞ」
「にゃはは。だいじょーぶだいじょーぶ。トレーナーちゃんもいい加減慣れてきてるっぽいしねー」
ため息とともに呆れのにおいが濃くなった。
彼とのやりとりは退屈しのぎにちょうどいい。でも、今のあたしの興味は彼の隣にポツンと立っている小さな生き物にある。
視線を向けると、小さな体がビクッと跳ねた。
「その子はどーしたの? 誘拐でもしてきた?」
人聞き悪いこと言うな! というツッコミを無視して対象物の観察をはじめる。
ふむふむ。やっぱり見たことのない人間の女の子だ。
身長は目測125から130センチ。推定5~6歳。性別メス。パッツンと切られた前髪。ゆらゆらと揺れる大きな瞳。
そして。
「ねえキミ、その格好暑くない?」
気温40度を超したと騒ぎになってる今年の夏に、なぜか着ぐるみを着ている。
かわいいうさぎの着ぐるみだ。
はっきりとにおいがわからなかったのは、これのせいだったんだねー。
見てるだけのどがカラカラになってくるけど、熱中症とか大丈夫かにゃ。
ゴホンとわざとらしい咳払いが、あたしの思考を引き戻した。
「志希。お前に頼みたいことがある」
なになにー、そんな真面目な顔しちゃって。
志希ちゃん、いやーな予感がするんだけど。
「しばらくの間、この子の世話をしてもらいたい」
「……」
……。
ふむ?
「なんだって?」
「いや、この子の面倒を見てほしんだけど」
「誰が?」
「志希が」
「レッスンの指導ってことかにゃ? 知ってると思うけど、あたしは教えるのとか苦手だよー」
あたしは振り付けとか覚えても、すぐにてきとーにアレンジする。
だって飽きちゃうから。
大枠の構造を理解してしまったら、あとはそのときの気分の赴くままに身を任せてしまう。
化学は理論を大切にするものじゃないのかって?
そこのキミ! 奇跡の薬って言われているペニシリンだって、フレミングせんせーの不注意から産まれた偶然の産物だよ。
実験なんてとりあえずやってみて、うまくいけばバンザイぐらいでオッケー。
アイドルだっておんなじ。なんとなーくやっていけば、なんとなーく結果はついてくるものなのだ。
なんて話をしてみたら、誰もがキミみたいにできるわけじゃないんだよこの天才娘め、ってアンニュイな息をつかれたけど。
「そうじゃない。いや、できればそれも頼みたいけどな」
ポンポンとその子の頭を撫でて続ける。
「この子の母親が長期の出張に行くことになったらしくてな。アイドルになることを条件にそのあいだ預かると社長が約束したんだと」
ふむふむ、もしかするとつまり。
「よーするにキミはその子のママが帰ってくるまで、一緒に暮らせって言ってるわけ?」
「そういうこと」
いやいや、神妙そうな顔で頷いているとこ悪いけど、納得したわけじゃないよ。
「寮に入れれば?」
「空き部屋がないらしい」
「じゃあ、プロデューサーが──」
「さっき志希が言っただろ。誘拐だの騒がれたらめんどくさいことになる」
「他の子は? 響子ちゃんなんていいママになると思うけど」
「いま夏休みだろ。学校が休みで長期のロケを入れやすいから、みんな忙しくてな。志希はたまたま外泊ありのロケが入ってなかったからこうして頼んでるんだ」
なるほど。とりあえず筋は通ってるように思える。
あくまで表面上は。
「あたしの性格、知ってるでしょ。志希ちゃん、飽きたら失踪しちゃうかも~」
脅してるわけじゃない。
レッスンだろうとお仕事だろうと、おもしろいにおいが鼻をかすめれば、そっちへ吸い込まれてしまう。
猫のように気まぐれに生きていく、それが志希ちゃんなのだ。
あたしの視線を受け止めていたプロデューサーが口を開きかけたとき、
「おねーさんは、仁奈と一緒にいるはいやでごぜーますか?」
かぼそい声がそれを遮った。
「いやならいやと言ってくだせー。仁奈、迷惑だけはかけたくねーですから」
不安そうに揺れる大きな瞳にあたしの姿が映っている。
つんと鼻を刺激するものがあった。
あたしの、苦手なにおいだ。
「別にいやじゃないよー。でもほんとにいいの? あたしの部屋、物が散らかってるし、料理とかロクにつくらないよ」
「大丈夫でごぜーます。仁奈、お掃除は得意ですし、コンビニ弁当にも慣れてるですよ!」
いや、そんな得意げに胸を張られても。
子どものうちからそんなのばっか食べてたらこわーい病気になっちゃうよ。あたしが言えたことじゃないけどさ。
それはともかく、イロイロおもしろそうな子だし、退屈しのぎにはなるかもねー。
それなら、まず聞かないといけないことがある。
「ねぇ、お名前教えてくれるかな」
名前は識別するのに重要な記号だ。
試験管にもモルモットにも、記録するうえでラベルを貼ったり名前をつけたりする。
もちろん、この子を実験動物と同列に扱うつもりはないけどね。
同じ家に暮らすわけだから、名前は知っておくに限るっていうだけ。
自分を『にな』と呼んでいたその子は、ぐっと顎を引いて、緊張したように口元をもにょもにょしながら言った。
「仁奈……。市原仁奈でごぜーます」
「あたしは一ノ瀬志希だよー。よろしくねー、仁奈ちゃん」
かくして。わたくし一ノ瀬志希と市原仁奈ちゃんの愉快な同棲生活が幕を開けたのでした。
後半へ続く~、なんちゃって。
今日はここまで。
季節外れにも程があるお話ですが、もしよろしければお付き合いください。
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むかしむかし、そんなにむかしじゃないあるところに。
ひとりの女の子とその子のママが住んでいました。
ふたりはたいへん仲良しで、よく一緒にお昼寝をしたりしながら楽しく暮らしていました。
ところがある日、ママは信号無視をした車にひかれてしまい病院に運ばれることに。
女の子はお仕事をしているパパに来てもらうため、なんどもなんども電話をかけました。
ぷるぷる。
ぷるぷるぷる。
ぷるぷるぷるぷる、がちゃ。
何十回もかけなおしてようやくつながったその電話は、
「スマン! 研究が大詰めなんだ。今度遊んでやるから、またな!」
要件も聞いてくれず、ぷつんと切られてしまいました。
数日後、女の子のママは天国に旅立ちました。
パパは、結局1度も来てくれませんでした。
女の子は日本の岩手県というところにある、ママのお父さんがお母さんが住む実家に引き取られました。
おじいさんたちは、にこにこと笑って女の子に言います。
「かわいいんだからこれを着なさい」
「ママは志希の歳のころにはもっとしっかりしていたぞ」
「賢いんだからもっと勉強して偉い人になりなさい」
「お父さんみたいな人でなしになったらだめだぞ」
ここでは女の子は、ギフテッドという単純な記号と、かわいいお人形さんでしかありませんでした。
ガッコーでも彼女の言ってることを理解してくれる人なんていません。
期待、嫉妬、畏怖、劣情。
彼女の周りはいつしかそんなにおいばかりになって、だんだんと退屈するようになっていきました。
そんなある日、授業をさぼってぶらぶらお散歩をしていると、ふてぶてしい顔をしたノラ猫がじっとこちらを見ていることに気づきました。
その猫としばらくにらめっこをしていましたが、猫は飽きたように「にゃあ」と鳴いてあくびをすると、そのまま体を丸めて眠ってしまいました。
「……にゃはは」
女の子もこんな風にあくびをしながら、お昼寝をしたくなりました。
だから、アメリカに飛ぶことに決めました。パパが教授を勤めている、アメリカの大学に。
彼や、女の子と同じギフテッドが集まる場所なら、退屈しなくてすむだろうと思ったからです。
そんなこんなで大学に入学して、パパと同じ研究室に所属できるようになってから、彼の研究を手伝うようになりました。
大学での生活はいままでと違って刺激的でした。
日本にいたときと違って、女の子の言ってることを理解してくれるクラスメイトもいましたし、暇つぶしに遊べる知識のおもちゃもたくさん転がっていました。
それに、ずっと離れ離れだったパパと研究室で寝泊まりできたりもして。
はじめは充実していたのです。
だけど。
「……もう私に話しかけないで」
「むむ。それはなんで? 理由を教えてくれないと──」
「うるさい!」
パパの研究室のゼミ生だったその子は、女の子を睨んで言いました。
「あんたみたいなバケモノに、あたしの気持ちなんてわかるわけないでしょ!」
結局、なにも変わりませんでした。
未知はだんだん既知になって、どんどん退屈するようになっていって。
女の子がなにかをやるたびに、次第に周りから人がいなくなるようになって。
いつしか彼女の日常は、おなじみのにおいで充満するようになったのです。
女の子はこれからどうすべきか、パパに相談してみることに決めました。
「ねぇ、パパ」
「志希見ろ! 実験が成功したぞ!!」
「あっ、おめでと~。それとさ、ちょっと話したいことがあるんだけど」
「こうしちゃいられん! 早く論文にまとめなくては!! 志希、どうせ暇なんだろ。早く準備を──」
彼は女の子のほうなんて見もせずに、興奮したようにキーボードを叩きながら命令しだしたのです。
その姿を見て、女の子は──。
飽きた。
にゃはは。
それからの女の子、あたしのいきさつはこんな感じ。
大学を辞めて、日本に帰ってJKになって、いいにおいにつられてアイドルやることになって。
そんで、フレちゃんや飛鳥ちゃんたちと遊ぶようになって。
そしてなんと、小さな女の子と同棲することになりましたとさ!
ちゃんちゃん。
はい、このおはなしはおしまい。
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「お子さんとの生活はうまくいってるのかしら?」
隣から声をかけられ、そちらに首を傾ける。
話しかけてきたのは、やや濃い化粧をしていること以外、目立った特徴のない女性だ。
ただ、ある一点。そこだけが彼女の存在感を引き立たせている。
「ねぇ、志希」
筋の通った高い鼻の下で主張している、耳元まで裂けた口。
そう、目の前にいる人物はあの都市伝説でお馴染みの、口裂け女なのであった!
「……人の顏を見てニヤニヤするの、やめてくれないかしら」
「にゃはは。ごめんごめん」
綺麗です、と言おうか迷ったけどやめておこう。
口裂け女、じゃなくて速水奏ちゃんの視線が冷たくなってきたしねー。
『世にも奇妙な妖怪に変装した一ノ瀬志希と速水奏。ふたりの妖怪はなにも知らないカリスマギャルこと城ケ崎美嘉に襲い掛かる! 果たして彼女のリアクション、もとい運命はいかに!』なんて手垢がつきまくったB級バラエティの収録が終わった化粧室。
いまはメイクさんが奏ちゃんのメイクを落とす準備をしているのを待っているところ。
美嘉ちゃんのリアクションはどうだったのかって?
それはテレビを見てのお楽しみだよ。
「それで、仁奈ちゃんとはどう? 今日でちょうど1週間なんでしょう」
さっき奏ちゃんが言ってたお子さんっていうのは、もちろん仁奈ちゃんのこと。
同棲するって話をしたときに「シキちゃん、ママになるんだね! がんばって!」というフレちゃんからの心強い応援をされて以降、みんなおもしろがって、あたしをママ扱いしてくるようになった。
あたし、まだピチピチのJKなんだけどねー。
「そうだよ、記念日ー。お風呂もいっしょに入ってるくらい仲良しだよ。だって親子だから~」
「そのかわいいお子さんはいま、なにをしてるのかしら」
「ビジュアルのレッスン中じゃないかなー。ほら、あれでちょっとだけ顔見せするらしいから」
8月31日におこなわれる事務所の定例ライブ。
そのライブに仁奈ちゃんは出演する。
出演といっても歌うわけでも踊るわけでもない、ちらっと顔見せして5分ぐらいトークをするだけ。
身も蓋もない言い方をすれば、この場を利用してお客さんに顔と名前を知ってもらおうってこと。
準備を終えたメイクさんが近づいてくる。
「お待たせしました。速水さん、メイク落としますね」
「ええ、よろしくお願いします」
ようやく奏ちゃんが元の姿に転生できるらしい。
さようなら、口裂け女さん。キミのことは忘れないよ。
でもプロのメイクってすごいよねー、ぱっと見で奏ちゃんってわからないもん。
プロたるもの、いついかなるときもプロとしての全力のパフォーマンスを提供しなければいけない。
なんて格好つけてたプロデューサーに、ちひろさんが満面の笑みで資料の山を押し付けたときはお腹を抱えて笑ったっけ。
笑えないのは仁奈ちゃんのほう。
あの子は笑うのが苦手みたい。巧拙の問題じゃなくて、単純に笑うことに慣れていないんだと思う。
アイドルは笑顔もパフォーマンスのひとつ。
だから、ビジュアルレッスンを重点的にしているみたいだけどなかなか苦労しているようだ。
奏ちゃんがメイクを落としてる間に、おさらいでもしよっか。
市原仁奈ちゃん。
低い身長だから5、6歳ぐらいかなと思ってたけど、実際は今年9歳になった小学3年生。
パパは世界を股にかけるカメラマンで、ママはデザイナーのお仕事をしてるんだって。おもしろー。
あっ、おもしろいってのはもちろん仁奈ちゃんもいっしょ。
カメ、パンダ、ペンギン、エトセトラエトセトラ。
彼女はキグルミが大好きで、家にいるときも外を出歩くときも、いっつもなにかしらのキグルミを着ている。
はじめて会ったときに着てたうさぎちゃんは、特にお気に入りのひとつらしい。
そんな仁奈ちゃんと同棲生活をはじめて1週間。
人がひとり増えるだけで生活って劇的に変わるもので。
散らかしっぱなしだった服や本は邪魔にならないよう片付けるようになったし、仁奈ちゃんの睡眠時間を考えると夜中まで実験することもできなくなった。
特に1日3食きちんと食べる習慣は、あたしの生活リズムを大きく変えた。
仁奈ちゃんは気にしなくていいですよーって言ってたけど、さすがにコンビニ弁当を食べさせる気にはなれず、料理をつくるようになった。
つくってると言っても、ネットにころがっている初心者用の簡単な料理ぐらいだけど。
それでも、テキトーなご飯で済ませてきた身からすれば、献立を考えるだけでめんどくさい。
飽きずに毎日あんなことをやってるんだから主婦ってすごいよねー。
宝物を発見したトレジャーハンターみたいな目で「おいしい」って言ってくれてるからいいけどさ。
それからそれから──。
「志希。ぼーとしてるとこ悪いけれど、そろそろ帰らないかしら?」
見上げると、口裂け女から元の美貌に生まれ変わった奏ちゃんの呆れた顔があった。
あたしが記憶の海を潜っている間に、化粧落としは終わったみたいだ。
「仁奈ちゃんのことでも考えてたのかしら?」
「にゃはは。そうとも言えるしそうじゃなかったかも。志希ちゃん、忘れちゃいましたー」
じーとあたしの顔を見つめたあと。
余計なお世話なのはわかっているけれど、とらしくない前置きをして言った。
「ペットとか預かると情が移ってしまうって話を聞いたことあるわ。ママが帰ってきて別れるときに、落ち込まないようにね」
落ち込む? あたしが?
にゃはは。しょんぼりしてるあたしの姿なんてまったく想像つかないけど、そうなったらそれはそれでおもしろそうだ。
「とにかく出ましょうか。1週間記念日ってことなら早く帰ってあげたら?」
ドアのほうへ歩き出したうしろ姿に、あたしも続く。
記念日かー。
誕生日だろうが祝日だろうが、あたしにとって365日はどれも等価値だけど、世間というものはどうやら特別な日をつくりたがる性格があるらしい。
このまえ事務所もアニバーサリーやってたしね。
仁奈ちゃんもそういうのを大切にするタイプなんだろーか。
「……」
ふむ。
なんかお腹すいてきちゃった。今日の晩御飯はハンバーグにでもしてみよーかな。
ハンバーグなら、子どもも好きだろうし。
ほんとうになんとなーく。志希ちゃんは、いつだって気まぐれなのだ。
本日はここまで。
以降、亀更新になるかもしれません……
あと、誤字ではありませんが表記ゆれがあったため修正します。
>>6
気温40度を超したと騒ぎになってる今年の夏に、なぜか着ぐるみを着ている。
かわいいうさぎの着ぐるみだ。
↓
着ぐるみ→キグルミ
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さてさて。
ペットボトルに少量のお湯と線香の煙を入れてから蓋をする。
そして、ペットボトルをぎゅっと力いっぱい握りしめてから手を離す。
すると、なんということでしょう。ペットボトルの中に雲ができるのです。
「おおー、すげー!」
ぱちぱちぱち、と仁奈ちゃんの拍手が部屋に響く。
夏休みも中旬にさしかかり、仁奈ちゃんもレッスンが忙しくなってきた。
夏休みの自由研究をやる時間がとれないと悩んでいたので、ちょっとだけお手伝いすることにしたのだ。
「あとはペットボトルをつぶす力の入れ加減で雲の濃さが違うとか、そういうことをまとめればなんとかなるんじゃないかなー」
「ありがとーごぜーます! 志希おねーさんはまるでせんせーみてーですね!」
どーもどーも。
こんな実験でいいなら、いつでも付き合ってあげるよ。化学ともご無沙汰だったからいい気分転換になったし。
さて、10時を過ぎたし良い子は寝る時間だ。
いっしょに歯を磨いてから、電気を消して、そのままベッドにダイブ。
あっ、そうそう。うちには客用の布団なんてないから一緒のベッドで仲良く寝てるよ。
役得役得、ハスハス。
仁奈ちゃんのサラサラした髪からは、あたしと同じにおいがする。
使ってるシャンプーが同じなんだからとーぜんだけど。
でも。
澄んでいて、あったかくて、そして少しだけ寂しさがブレンドされたにおい。
市原仁奈ちゃんのにおいは、シャンプーの香りに隠れながらも、たしかにここにある。
「きょう、トレーナーさんにいい笑顔ですって褒めてもらったでごぜーますよ」
「そっかー。がんばってるねー」
「はい! だって、ママが観に来やがるでごぜーますから!」
ママがライブを観に来る。
プロデューサーからその話を聞いて以降、トレーナーちゃんが舌を巻くほど絶賛上達中らしい。
この子にとって、ママって存在はそれだけ大切ということなんだろうか。
「そーいえば、志希おねーさんのパパやママは来やがらねーですか?」
「仁奈ちゃんと一緒だよー。ふたりとも遠いところにいるからねー。来るのは難しいんじゃないかな」
パパが近くにいたとしても研究研究と呪文を唱えて来ないだろうけど。あの人はそーいう人だし。
ママは、どうだろーか。
もし生きてたら……なんて考えてもどーしようもないけど。
「ねぇ仁奈ちゃんのママって、どんな人なの?」
「ママはがんばりやさんでごぜーます。夜おそくまでお仕事がんばってて。いっしょにいられる時間がすくねーのはさみしーですけど。でも、いっしょにいるときはいっぱい頭を撫でてくれるんだー!」
「仁奈ちゃんはほんとにママのことが好きなんだねー」
「もちろんでごぜーます! あっ、でも怒るとちょっとこえーですけど」
「へぇ、仁奈ちゃんでも怒られることってあるんだ」
「志希おねーさんは怒られたことねーでやがりますか?」
怒られたこと、かー。
家の壁に数式の落書きをしたときとか、食べ物にからしをたっぷり混ぜてみたときとか。
うん、あるある、鼻にしみついて離れないぐらい、たくさん。
あたしが悪さをするたびに、こわーいにおいを発しながら雷を落とされてたっけ。
その中でも一度だけ、いつものにおいと比べ物にならない、すっごくこわいにおいがしたときがあった。
いつものようにブラブラお散歩してたその日。
いつの間にか見たことのない場所にいて、帰り道がわからなくなった。
あっちだこっちだ迷いながら歩き回って、ようやく家までたどり着いたときにはすっかり空が暗くなっていた。
家の玄関を開けると、靴を履こうとしているママがそこにいた。
くしゃりと顔を歪ませたママに痛いくらい抱きしめられて、すっごく怒られた。
ご近所さんに聞こえるくらい、大声で。
いまでもよくわかんない。
別に悪いことしたわけでもないのに、ママはなんであんなに怒ってたんだろーか。
オトナってフシギだねー。
「ねー仁奈ちゃん」
「……すぅすぅ」
寝ちゃったかー。
あっ、もう11時まわってるじゃん。
それじゃ、あたしも寝ようかな。
──いっしょにいるときは頭を撫でてくれるんだー
「……」
そっと、仁奈ちゃんを起こさないように手を伸ばす。
小さな頭は掌にすっぽり収まった。
そのまま掌を動かしてみると、「んにゅ」と小さく声をあげて幸せそうに微笑んだ。
「おやすみ、仁奈ちゃん」
短いですが今回はここまで。
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仁奈ちゃんと暮らしはじめてだいたい3週間。
今日はレッスンも外出もしないで一日中家で過ごすことにした。
あっ、ズル休みじゃないよー。ちゃんと許可はとってるよ。
オフってやつだよー、うらやましいかにゃ。
「がおー!」
隣からかわいらしい声が聞こえてくる。
テレビ画面に映っている百獣の王の雄姿に、仁奈ちゃんの心は鷲掴みされたみたいだ。
「いいねー、あんなに自由に走り回れて」
「志希おねーさんもライオンの気持ちになるですよ!」
「にゃはは。なるですよー」
キラキラしている横顔を眺めながら、あたしの頭脳は分析をはじめる。
キグルミを着ていたら、パパやママがかわいがってくれた。
仁奈ちゃんがキグルミや動物を好きになったのは、それがきっかけだと仁奈ちゃんが教えてくれた。
それはきっと日常の1ピースにすぎない出来事だったんだろうけど、この子にとっては大事な思い出に違いなくて。
キグルミを着て動物の気持ちになりきってその思い出にしがみつくことで、寂しい気持ちをごまかそうとしているのかもしれない。
なんて、心理学者ごっこをしてる間に番組は終わったみたい。
さっきまで興奮していた仁奈ちゃんは眠たそうに瞼をこすっている。
「お昼寝しよっか」
仁奈ちゃんはコクリと頷くとそのままベッドに体を預けて、すぅすぅと寝息をたてはじめた。
ライブまで1週間をきった。
仁奈ちゃんのレッスンもだいたい仕上がり、本番に向けて打ち合わせをしている最中。
慣れないことの連続で仁奈ちゃんはだいぶ疲れているように思う。
今日も本人は「ママのためにがんばるですよ」とレッスンをしようとしたけれど、あたしがやめさせた。
休むこともトレーニングって言うし、たまにはこうしてのんびりするのもいいんじゃないかにゃ。
くあっと欠伸が出た。
あたしまで眠くなってきた。
寝よっか、やることないし。
ネタ切れ気味の夕飯のメニューも夢の中で考えることにしよう。
仁奈ちゃんを起こさないように、そっとベッドに潜り込む。
「……ママ」
幸せそうに寝言を呟く仁奈ちゃん。
ママと一緒にいる夢でも見てるのかな。
だいじょうぶ、もうすぐ現実で会えるよ、ママに喜んでもらえるようにライブがんばろうね。
そんなあたしの意識も、やさしい香りに誘われてまどろみに落ちた。
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SHIKI'Sクッキングのお時間です。
まずはにんじん、玉ねぎなどをばっさばっさと切っていきます。
そして、肉といっしょに炒めましょう。
さらにさらに、水を加えて沸騰させてあーだこーだしたあとにオリーブオイル、じゃなかった、ルーを入れます。
そして魔法をかければ……はい、カレーライスの出来上がり。
お玉にすくって軽く味見をする。
甘くてとろみのある感触が口の中に広がっていく。
うん、はじめてつくるにしては悪くないんじゃないかな。
ピリッと刺激的なほうが好みだけど、たまにはこういう甘いのも悪くない。
「仁奈ちゃん。ごはんできたよー」
明日はいよいよライブ当日。仁奈ちゃんの初仕事の日だ。
と、いうわけで子どもが好きそうなカレーをつくってみた。
それじゃ、おててをあわせて──。
「「いただきまーす」」
仁奈ちゃんはスプーンにカレーを乗せて、パクパクと口に運んでいく。
どうやらお口に合ったみたいだ。よかったよかった。
あたしも仁奈ちゃんに倣って、口に放り投げていく。
「……」
「……」
この時間はいつもレッスンのこととか好きなアニメの話とかでにぎやかなのに、いま聞こえるのはスプーンが皿とあたる音だけだった。
「緊張してる?」
「だいじょうぶでごぜーます」
「もしかして、カレーおいしくなかった?」
「すげーおいしいでごぜーますよ」
「……」
「……」
会話が続かない。
緊張してるっていうよりは、落ち込んでいるようにも見える。
むむ。いったいどうしたんだろーか。
何の気なしに言っただけだった。
「明日、ママに喜んでもらえるといいね」
ガチャンと音がした。
仁奈ちゃんの足元で、カレーのルーがついた銀色の物体が鈍く光っている。
「……」
「仁奈ちゃん?」
「ママは……お仕事で来れなくなったですよ。プロデューサーがママからそう言われたって」
仁奈ちゃんは落としたスプーンを拾って、えへへと笑った。
食器棚から新しいスプーンを取り出して、落としたものと交換してあげる。
「ママは……とっても忙しいでごぜーます。だから、しかたねーですよ」
「しかたないって……」
仁奈ちゃん、ママが来てくれるってずっと楽しみにしてて。あれだけレッスンがんばってきたのに。
「そうだ、電話してみようよ」
「仁奈はだいじょうぶでごぜーますよ。心配しねーでくだせー」
「それともあたしが電話しようか?」
いちおー保護者代役として、プロデューサーから仁奈ちゃんのママの連絡先は聞いている。
もしかしたらまだ仕事中かもしれないけど、それならそれで仕方ない。
これも仁奈ちゃんのためだ。
「……」
「だいじょうぶだって。約束を破ったのはママのほうなんだから、仁奈ちゃんはなにも心配しなくていいんだよー」
「……てくだせー」
「ええと、ママの電話番号は──」
「やめてくだせー!!」
ぴしゃりと空気が固まった。
仁奈ちゃんはくしゃりと顔を歪ませて、言った。
「志希おねーさんに、仁奈の気持ちなんてわからねーでごぜーますよ!!」
持っていたスマホが滑り落ちて床に落ちる。
壊れていたとしてもおかしくないぐらいの、鈍い音がした。
──あんたみたいなバケモノに、あたしの気持ちなんてわかるわけないでしょ!
「……ごめん、なさい」
仁奈ちゃんは体を震わせながら俯いている。
怒っているんだろうか、泣いているんだろうか。
どんな顔をしているのか、あたしにはわからなかった。
……。
それからのことはあまり覚えてない。
ただひとつ、「おやすみなさい」を言いそびれた、それだけが確かな事実だった。
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廊下からバタバタと走る音が聞こえる。
ライブを成功させるため、スタッフが奔走している音だ。
そして、それに負けないくらい、控室もドッタンバッタン大騒ぎ。
右を見れば、自分のステージが終わって暇つぶしに談笑していたり。
左を見れば、出番が来るまで台本を繰り返し音読していたり。
下を見れば、走り回っている元気な子もいたり。
「仁奈ちゃんとなにかあったの?」
こうやって、あたしに話しかけてくる物好きもいる。
顔を上げると、へそ丸出しの大胆なドレスに身を包んだ奏ちゃんの姿があった。
一歩間違えれば下品になりかねない衣装も、この子が着ているとすごく様になる。
「人の家庭の事情に首を突っ込む趣味はないわ。でも……」
控室には3個ほどモニターが設置されていて、そこには様々な映像が流れている。
ひとつには、ファンから声援を送られステージで踊っているアイドルたち。
ひとつには、裏方で慌ただしく動いているプロデューサーやスタッフ。
そして、奏ちゃんが見つめている先。
舞台袖で出番を待つアイドルの姿が映されるモニターには、小さな体をさらに縮ませてぽつんと椅子に腰かけている、龍の着ぐるみの衣装を着た女の子の姿が映っている。
「かわいい新人があんなに震えているのは気の毒だもの」
「べつにー。来る予定だった仁奈ちゃんのママが来れなくなったから、来てもらうように電話しようとしたら怒られちゃった。それだけー」
そういえば「おはよう」も「行ってきます」も言わなかったな、なんてことをいまさら思い出す。
「仁奈ちゃん、ママが来てくれるって喜んでて、そのためにレッスンがんばってたんだよ。だったら、呼べばいいと思わない?
なのになんで嫌がったの? なんで? わかんない。ねぇ奏ちゃん。あたし、どうするのが正解だったと思う?」
「知らないわ」
まさかの即答。
いやいや、もうちょっと考えてくれてもいいんじゃないかにゃ。
「だってあたし、あの子のことぜんぜん知らないもの。あたしが知ってるのは、パパやママが大好きな頑張り屋の女の子ってことだけ。ママに迷惑をかけたくなかったから、なんて勝手な推測はできるけれど。神様でもないのに、偉そうに人の感情を知った風にして語りたくないでしょ」
モニターから大きな歓声が聞こえてきた。
さっきまで踊っていた子たちが出番を終えて、ファンに手を振りながらステージから消えていく。
仁奈ちゃんの出番は次の次だ。
「仁奈ちゃんに直接聞きにいけばいいじゃない。出番までまだ時間があるでしょ。ちゃんと話せば仁奈ちゃんの気持ちがわかるんじゃないかしら」
──志希おねーさんに、仁奈の気持ちなんてわからねーでごぜーますよ!!
「……」
「志希?」
「にゃはは。飽きちゃった。志希ちゃんママやるのやめまーす」
もともと律儀に付き合う義理なんてない。
プロデューサーに押し付けられて、おもしろそうだから一緒に暮らしてみただけ。
そもそもあたしはママってキャラじゃないし。
夕飯つくるのもめんどくさくなってきたし、ここらが潮時じゃないかにゃ。
「そうだ、奏ちゃんがあの子のママになってみない? オトナっぽいし、なんだかすっごくお似合いだと思うなー」
「……志希」
「なんか散歩行きたくなっちゃった。志希ちゃん、いまから失踪するから、あとは──」
「シキちゃん、クイズしよー」
部屋から出ようと椅子から立ち上がった直後、後ろから熱いハグが飛んできた。
振り向くと、見慣れたキレイな金髪、宮本フレデリカの姿がそこにあった。
「フレちゃん?」
「じゃあ問題です。ババン。フレちゃん、先週ママとデートしました。さて、お昼はなにを食べたでしょうか?」
むむ。
さすがフレちゃん、いきなり意味がわからない。
少しだけ考えて言った。
「サンドイッチ」
「ぶっぶー。フレちゃん人形没収でーす。アタシね、ほんとはサンドイッチ食べたかったの。でもママはオムレツが食べたいって言いだして。それで喧嘩しちゃったんだ。そしたらね、いつの間にかふたりでスパゲッティ食べることになってたの!」
「む、むむ?」
「そこのお店のスパゲッティすっごくおいしくてあっという間に仲直りしちゃった。でも喧嘩してなかったら食べられなかったんだよねー。棚からわらび餅だよ!」
「……」
「モヤモヤしたままお散歩しても楽しくないよー。シキちゃんがほんとにイヤになったならアタシがママになってもいいからさ、
喧嘩してみたらいいんじゃないかなー。すっきりして公園でお昼寝するほうが、きっと気持ちいいよー」
抱き着いていた体の感触が離れたかと思えば、やさしく背中を押されて、あたしの体はその勢いのまま廊下に吸い込まれた。
……。
あたしにできることなんて今更なにもない。
あたしの顏なんて、仁奈ちゃんは見たくもないかもしれない。
それなのに、あたしはなんで走ってるんだろうか。
疑問の解は出ない。だけど、あたしの体は勝手にステージに近づいていく。
途中で見知った顔に呼び止められたけど、いまは無視。
ごめんねプロデューサー、お説教ならあとで聞くからさ。今は見逃してよ。
「はぁ……はぁ……」
舞台袖に着くと、奥のほうに小さな人影を見つけた。
ぎょっとしてあたしを見つめるスタッフをかわしながら、その後ろ姿目指してラストスパート。
あと10歩。
5歩。
くらりと眩暈が襲ってきて足がもつれる。
倒れるすんでで手をつく。
むむ、さすがに昨日眠れなかったのはまずかったかな。
でも、いまここで寝るわけにはいかない。
「し、志希おねーさん?」
顔をあげると、目を丸くして仁奈ちゃんが固まっていた。
あれ、あたし、なにをするために来たんだっけ。
だめだ、頭がまわらない。
「市原さん、スタンバイお願いします!」
スタッフから指示が飛んできた。
もう、考えてる時間はない。
「あたし、知ってるよ。キミがいっぱいがんばってきたこと。あたしじゃママの代わりになんてならないかもしれないけど、
ここで見てるから。だから、キミならできるよ」
あたしの口から出てきたのは、そんな言葉だった。
支離滅裂で論理性の欠片もない、少年漫画にありがちのチープな科白。
仁奈ちゃんも呆れちゃったんだろうか。
ようやく口を開いたかと思えば、こんなことを言いだした。
「……ライブが終わったら、志希おねーさんといっしょに、またカレーを食べてもいいでごぜーますか?」
「もちろん。何杯でも一緒に食べよう」
『それじゃあみなさん、大きな声で呼んでください。せーの』
仁奈ちゃんはなにかをこらえるように俯いたあと、なにかを呟いた。
「 」
「「「仁奈ちゃん!!!」」」と彼女の名前を叫ぶ声とかぶさって、その言葉は聞き取れなかった。
にぱっと笑った仁奈ちゃんは、ステージに向かって駆け出す。
「はーい、仁奈、市原仁奈って名前でごぜーます! みなさん、よろしくおねげーします!」
大きな拍手と歓声にからはじまったステージは、ちょっとしたハプニングはあったものの、最後まで明るい笑いに包まれて、無事大成功に終わった。
…………。
……。
あのあと。
美嘉ちゃんが胃を痛めたり、プロデューサーからの熱いお説教があったりはしたけれど、ライブそのものは大盛況で幕を閉じた。
事務所でおこなわれた打ち上げも22時には切り上げて、あたしと仁奈ちゃんはタクシーを拾った。
「……こわかったでごぜーます」
そんな言葉が仁奈ちゃんの口から出てきたのは、玄関のカギを開けようとしたときだった。
「なにが?」
「昨日、あんなことを言ってしまって。きらわれちまったんじゃねーかって。すっごく、こわかったでごぜーますよ」
ぐすっと鼻をすする音が聞こえた。
あたしはしゃがんで、仁奈ちゃんと目線を合わす。
「仁奈ちゃん、着ぐるみ以外の趣味ってある?」
「え?」
「いちばん好きな動物は? 嫌いな食べ物は? 好きな男の子はいる?」
「え? え? え?」
「あたし、まちがってた。キミはこういう人間なんだろうと理解した気になって。キミのことならなんでも知ってるって、こうしたほうがキミのためなんだって、思いあがってた」
「志希、おねーさん……」
「あたし、まだキミのことぜんぜん知らない。知りたい。だから教えて。好きなこと、きらいなこと、してほしいこと、たくさん」
血は繋がってないし、本物のママが戻ってくるまでの仮初の関係でしかない。
でも、それでも、いま、いまだけは。
「あたしはキミのママなんだから、さ」
仁奈ちゃんの大きな瞳にみるみる雫がたまっていく。
ああ、泣きそうな顔になっちゃった。
こういうときってどうすればいいんだろう。
母親ってどうするもんなんだろう。
──志希はすごいね。
懐かしいにおいが頭をよぎった。
「……」
目の前の小さな体を引き寄せてぎゅっと抱きしめる。
仁奈ちゃんはあたしの肩を力いっぱいつかんで大きな声で泣き出してしまった。
もしかしたら、あたしはまた間違ってしまったのかもしれない。
わからない、でも、いまはこうしていたい。
そして、ふたりで「ただいま」を言いたい。
なんて勝手なことを思ってしまうあたしに、やっぱりママなんて向いていないのかもしれない。
本日はここまで。
折り返し地点。まだ続きます。
✉
ミンミンミン。
スーパーから出た途端にセミの音楽隊があたしを出迎えた。
ありがとーありがとー。拍手してあげたいのは山々だけど、荷物で手が塞がってるんだ、ごめんねー。
いやー、それにしても……。
「……あっつい」
もうすぐ9月も半ばになるっていうのに、むわっとした熱気が体をいじめてくる。
こんな暑いときぐらい日陰で横になってごろごろ過ごそうよ。
蚊だって暑すぎると活動しなくなるっていうしさー。人間だって休んでいいはずだ。
週休8日を希望しまーす!
あの働いたら負けTシャツ、なんか売れ行きすごいらしいね。
あたしももらおっかなー、合うサイズがあるのか知らないけど。
少なくとも仁奈ちゃんにならぴったりのサイズもあるだろう。
キグルミもかわいいけど、たまにはラフな格好もいいんじゃないかな。暑いだろうしさ。
あれやこれやと考えている間に一ノ瀬さん宅に到着っ。
ドアを開けると、パタパタと足音が近づいてきた。
「おかえりなせー。志希おねーさん!」
「にゃはは、ただいまー仁奈ちゃん。番組はもうはじまってる?」
「いまちょうどはじまったところでごぜーますよ」
買った食品を冷蔵庫に入れながら、テレビを見る。
よかった、ぎりぎり間に合ったみたいだ。
いろいろな事務所から集まったちびっこアイドルが、チームに分かれてゲームやらトークやらをしたりする人気番組。
この前のライブが功を奏したのか、なんと仁奈ちゃんはこの番組の新レギュラーに抜擢された。
今日はその記念すべき初登場回の放送日。
別の仕事で収録しているときに傍にいられなかったから、どんな内容になってるのかヒジョーにキョーミがある。
進行役の挨拶のあと、仁奈ちゃんの顔がズームインされた。
『今日から素敵なお友達が増えました。仁奈ちゃん、自己紹介してもらってもいいかな?』
『はい! 市原仁奈っていいます。よろしくおねげーします!』
かわいい~、とスタジオにいるお客さんから歓声があがる。
あっ、照れて顔が赤くなってる。隣を見ると、まったく同じ表情をしている女の子がいた。
仁奈ちゃんの自己紹介が終わって、対戦テーマの発表。
じゃじゃん。
ペーパータワー。
ルールは簡単。
数人のグループに分かれて紙を折るなり立てるなりして、制限時間内により高いタワーをつくったチームが勝ち。
これってけっこう有名なやつだよね、チームビルディングとかで。
シンプルだけどバランス感覚だったり役割分担だったりが必要になってくるゲームだ。
果たしてお手並みやいかに。
仁奈ちゃんのグループは少し話し合ったあと、紙を三角形に折ってその上に次々重ねていく。
ふむふむ。そうそう、そのチョーシそのチョーシ。
他のチームも負けじと同じように紙を折っては重ねを繰り返す。
残り30秒。
わずかだけど仁奈ちゃんのグループがいちばん高いのをつくってるように見える。
このままいけば優勝かなー、なんて思っているとタワーがかすかに揺れているのが映った。
チームメンバーの女の子はそれに気づかなかったのか、気にせず豪快に重ねようとしている。
『もう立てるのやめたほうがよくねーですか? 倒れちまうでごぜーますよ』
仁奈ちゃんも同じことを思ったらしい。
重ねようとしている女の子──たしかアケミちゃんという名前だった──に話しかける。
『だいじょーぶだって。アタシに任せなさい!』
勝負に夢中になっているのか、それとも目立とうとしてるのか、その子は忠告を無視してそのまま重ねてしまった。
そして。
パサパサパサ。
あちゃー、タワーは見るも無残に崩れ落ちてしまった。
ピピピ、無情なタイムアップのブザー。
残念、仁奈ちゃんグループは最下位。
優勝チームに拍手が送られ、それから少しだけトークを挟んだあと、番組は終わった。しーゆーねくすとうぃーく。
「収録おつかれさま。おもしろかったよー。仁奈ちゃんは楽しかった?」
「はい! きんちょーしましたけど、すげー楽しかったですよ。お友達もできたですし、次の収録が楽しみでごぜーます! あっ、でも……」
笑みを消して、しゅんとしている仁奈ちゃん。
「アケミちゃんが、ちょっとこわかったでごぜーます」
アケミちゃんってあのタワー崩した子だよね。
すごく勝気そうな子、事務所のメンバーでいえばレイナサマみたいな。
「なにがあったの?」
「収録が終わったあと、アケミちゃんに、あんたが話しかけたせいで気が散ったから失敗した、って言われちまったですよ」
むむ。それはおかしいんじゃないかな。
仁奈ちゃんが話しかけようが話しかけまいが、あのタワーはもう構造上限界だった。
むしろちゃんと忠告を聞いて追加の紙を立てようとしなければ、あのチームは優勝できていたはずだ。
それなのに仁奈ちゃんのせいだって?
「プロデューサーに言って、注意してもらおーか?」
「え?」
「これからも変な絡まれ方されたら大変だし、釘を刺しておいたほうがいいんじゃないかにゃ」
「くぎ? なんのことかわかんねーですけど、仁奈はほんとにだいじょうぶでごぜーますよ」
「……ほんとに?」
「ほんとうでごぜーます!」
力強く頷かれてしまった。
仁奈ちゃんがそう言うならしょうがない。雑念を頭から追い出す。
……よし、ちょっと遅くなったけど料理の準備しよっか。
『速報です』
いつの間にかニュース番組になっていたらしい、テレビからそんな声が聞こえてきた。
テレビをつけっぱなしにしてたことを後悔したのは、たぶんはじめてだと思う。
『アメリカの●●大学で教授を勤めている一ノ瀬博士が新元素を発見したとの情報が、さきほど入ってきました』
「……」
『新元素発見!』という派手なテロップの横に見覚えのある顔が添えられている。
ふーん、まだあの大学で教授やってるんだ。
あたしの記憶にある彼よりも、幾分か老けているように見えた。
「一ノ瀬って志希おねーさんと同じ名前でやがりますね」
「ああ、うん。だって、あたしのパパだからね」
「え、……ええー!? 志希おねーさんのパパって学者さんでやがりますか!!」
「そだよー。あたしね、留学してたときはあの人と同じ場所で一緒に研究してたんだ」
「すげーー! だから志希おねーさんは頭いいんでごぜーますね!」
キラキラしたお目目に向かって肩をすくめて返事をする。
このおはなしはこれでおしまい。
「さあ、ご飯を──」
「志希おねーさんは、パパと一緒に暮らしたくはねーでごぜーますか?」
「……」
──志希、どうせ暇なんだろ。早く準備を。
「……にゃはは。あの人は研究、あたしはアイドルやって仁奈ちゃんといるのが楽しいから別にいいかなー。ご飯食べよっか、ちょっと待っててねー」
会話を切り上げて台所に向かう。
仁奈ちゃんがなにか言いたげな顔をしているように見えたのは、あたしの気のせい、そのはずだ。
短いですが今回はここまでです。
過去レスにて日本語が怪しいところがあったので修正します。申し訳ありません……
>>2
どうやら人類が誕生してから付き合い続けている「におい」ってやつには、なかなかに奥が深いものらしい。
→やつは
>>4
そんなことを聞いてみた
→訊いてみた
>>10
それなら、まず聞かないといけないことがある。
→訊かないと
✉
仁奈ちゃんと暮らしはじめて2か月と1日。
2か月記念をお祝いして盛り上がった気分のまま事務所に行くと、プロデューサーからお呼びの声がかかった。
もしかしてキミも祝ってくれるの?
プレゼントなら掃除機がいいかなー、あの丸っこい勝手に掃除してくれるやつ。
「掃除機の用意はしてないが、プレゼントっていえばそうかもな」
そう言いながら仁奈ちゃんに数枚の紙の束を渡して、頭をがしがし撫でる。
「仁奈が出てる番組、今度2時間の生放送をやることに決まったぞ。しかも7時からのゴールデンタイムだ」
「え、ええー!? な、生放送でごぜーますか!」
大きな声が事務所に響く。
なになに、あっほんとだ、生放送って書いてる。
プロデューサーからのプレゼントっていいのかわからないけど、たしかにこれは朗報だ。
「2時間もなにする予定なの?」
「親に感謝の手紙を書いて朗読するってやつらしい」
「ふーん。いかにも泣かせよーって魂胆がミエミエだねー」
「志希おねーさんも泣いちまうでごぜーますか?」
あたし?
うーん、どうだろーか。わかんない。泣いたことないし。
あたしに泣く機能なんてついてないんじゃない?
カミサマが付け忘れちゃったのかにゃ。
それはともかく、企画自体は仁奈ちゃんにぴったりなんじゃないかな。
この子の両親に対する気持ちは本物だし、きっといい手紙を書いてくれると思うよ。
「ただ、悩んでることがあってな。あのディレクター、どうも仁奈のこと気に入ったみたいでな。この子の宣伝をするために
生放送中に視聴者にインパクトを与えられるような時間をとりたいと言ってくれてる」
「へぇ、いいじゃんいいじゃん。ゴールデンで特別扱いって。それのなにが問題なわけ?」
「……サプライズの内容はこちらで考えろ、だってさ」
そりゃまた無責任というかてきとーというか。
「どんなサプライズを考えてるのかにゃ」
「それを聞くためにお前たちを呼んだんだよ。なにかアイディアはあるか?」
いやいや、それをあたしたちに聞くのはどーなのかな、プロデューサーとして。
だけどせっかくのアピールチャンス、これを活かさない手はない。
ふむ。
「仁奈ちゃん動物好きだし、動物ふれあいコーナーとかはどーかな?」
プロデューサーは苦い顔で首を振る。
「それは俺も思いついて先方に言ったよ。でも動物アレルギーを持っている子が出演者の中にいるから難しいんだと」
むむむ。だめかー。
仁奈ちゃんのしてほしそうなこと。仁奈ちゃんが望んでいること。
最近さぼり気味な頭を回転させる。
ぐるん、ぐるんぐるん、ぐるんぐるんぐるん。
カチッ。
思いついた。
あたしらしくない、べたべたで手垢まみれのチープな解。
だけど、仁奈ちゃんにとってなによりも大切に想っていること。
「……」
唾を飲み込んでから、それを言った。
「仁奈ちゃんのママにスタジオまで来てもらうのはどうかな?」
プロデューサーから息を呑む音が聞こえた。呆れているのかもしれない。
仁奈ちゃんは大きく目を見開いてあたしを見ている。
「……仁奈のママにサプライズで出演してもらうってことか?」
「そういうこと」
「で、でも……ママはお仕事が」
震えながら首を振る仁奈ちゃんに、しゃがんで目線を合わす。
「プロデューサーやあたしが電話したって引き受けてくれないかもしれないけどさ、仁奈ちゃんが真剣にお願いしたらお仕事もお休みして来てくれるかもしれないよ」
ドクン、ドクン。
「仁奈ちゃんがいやだって言うならもちろんしなくていいよ。でも、家族でも言ってみないとわからないことって、きっとあるよー。もしだめだったら、また別のアイディアを出せばいいだけだし。あたしもいっしょに考えるからさ」
ドクン、ドクン、ドクン。
どれくらい時間が経っただろうか。
仁奈ちゃんは祈るようにぎゅっと手を結び、ゆっくりと口を開いた。
「ママの気持ちになるですよ」
その口の動きに既視感がある。
ライブ前。ファンの声と重なって聞き取れなかった、あの言葉。
その言葉の真意はわからない。
もしかしたら、大好きなママの気持ちになることで勇気をもらっているのかもしれない。
「仁奈、お願いしてみるですよ。お仕事たいへんだと思うですけど来てほしいって、言ってみるでごぜーます」
それから仁奈ちゃんは震えながらもママに連絡して。
一所懸命に来てくだせーってお願いして。
そして。
「ママが、ママが来てくれるって……来てくれるって、言ってくれたでごぜーますよ!」
仁奈ちゃんはぴょんぴょん飛び跳ねながら、
「それに、それに……」
満面の笑みで、
「もうすぐしゅっちょーが終わるから、またいっしょに暮らせるようになるって!!」
幸せそうに教えてくれた。
「おお、よかったな。今日はいいこと尽くしだな」
「はい! 志希おねーさん、やったでごぜーますよ! ……志希おねーさん?」
あれっ、なんでぼーとしてたんだろう。
仁奈ちゃんといっしょにいると、たまにわけわかんないことが起こっておもしろいねー。
そういやまだお祝いの言葉を言ってなかったっけ。
「仁奈ちゃんおめでとー。ママにお願いしてみてよかったねー。棚からわらび餅だ!」
牡丹餅だろ、というプロデューサーのツッコミは置いといて。
あたしの気まぐれな行動も、たまには人に幸せをもたらすことがあるらしい。
これって世紀の大発見なんじゃないかな。
新元素の発見なんかよりもさ。
✉
あれからというもの、仁奈ちゃんは隙あらば手紙の執筆に勤しむようになった。
どんなことを書いてるのか気になってのぞいてみようとすると、きまって手紙に覆いかぶさって見せてくれない。
もしかしてこれが反抗期ってやつ?
志希おねーさん、とても悲しいでごぜーますよ。
と、いうわけでやることもないので、テレビを見ることにした。
てんでやる気の感じられないバラエティ番組が終わると、ニュース番組がはじまった。
『一ノ瀬先生、このたびの新元素の件についてお話を伺いたいのですが──』
他に流すべき話題がないのか、ニュース番組にチャンネルを合わせると、あの人の話ばかり。
一ノ瀬先生がペラペラ元素の特性について語っているけど、マスコミや視聴者のうちにどれだけ理解できてる人がいるんだろうか。
連日同じことばかり聞いて、質問のネタが尽きたのかもしれない。
ニヤニヤしてる顔がチャームポイントらしいアナウンサーが、こんなどーでもいいことを訊きだした。
『一ノ瀬先生はアイドルをされている一ノ瀬志希さんのお父様だとお聞きしましたが、ほんとうでしょうか?』
一ノ瀬先生は少し困惑したように、ええそうです、と頷いた。
『志希さんはすごく奔放な方と言いますか、先生と同じ天才肌であるように私には思えるのですが、先生から見て志希さんはどのような娘さんなのでしょうか?』
『…………』
一ノ瀬先生は、あの人らしくない時間をかけてから、口を開いた。
『娘は──』
プツン。
電源を切った。
✉
あれからというもの、仁奈ちゃんは隙あらば手紙の執筆に勤しむようになった。
どんなことを書いてるのか気になってのぞいてみようとすると、きまって手紙に覆いかぶさって見せてくれない。
もしかしてこれが反抗期ってやつ?
志希おねーさん、とても悲しいでごぜーますよ。
と、いうわけでやることもないので、テレビを見ることにした。
てんでやる気の感じられないバラエティ番組が終わると、ニュース番組がはじまった。
『一ノ瀬先生、このたびの新元素の件についてお話を伺いたいのですが──』
他に流すべき話題がないのか、ニュース番組にチャンネルを合わせると、あの人の話ばかり。
一ノ瀬先生がペラペラ元素の特性について語っているけど、マスコミや視聴者のうちにどれだけ理解できてる人がいるんだろうか。
連日同じことばかり聞いて、質問のネタが尽きたのかもしれない。
ニヤニヤしてる顔がチャームポイントらしいアナウンサーが、こんなどーでもいいことを訊きだした。
『一ノ瀬先生はアイドルをされている一ノ瀬志希さんのお父様だとお聞きしましたが、ほんとうでしょうか?』
一ノ瀬先生は少し困惑したように、ええそうです、と頷いた。
『志希さんはすごく奔放な方と言いますか、先生と同じ天才肌であるように私には思えるのですが、先生から見て志希さんはどのような娘さんなのでしょうか?』
『…………』
一ノ瀬先生は、あの人らしくない時間をかけてから、口を開いた。
『娘は──』
プツン。
電源を切った。
「あー!!」
いつの間にか仁奈ちゃんが隣にいて、ぷくーと頬を膨らませている。
「手紙は書き終わったの?」
「あとちょっとでごぜーます。それよりもなんで消しちまったでごぜーますか!?」
「うーん、興味がなかったからかにゃ? だってあの人は研究にしか興味のない人だし、あたしだって別にどうでも──」
「志希おねーさん」
あたしの言葉を遮って、あたしの目をじっと見て、言った。
「仁奈はママに来てほしいってちゃんと言ったでごぜーます。志希おねーさんもパパとお話してーなら連絡したらいいと思うです。
家族でも言わないとわからねーことってあるですよ!」
むむ。
いつしかあたしが仁奈ちゃんに言ったこと。
まあ、フレちゃんたちの受け売りなんだけど。
「にゃはは。りょーかい。会いたくなったら連絡してみるねー」
「んっ」
仁奈ちゃんは、小指だけを立てた左手をあたしに向ける。
「指きり?」
「嘘ついたらはりせんぼん、でごぜーますよ」
「……うん。約束、だね」
こんななんてことのない日常もお昼寝をするとあっという間に過ぎるもので。
市原仁奈のゴールデンタイムデビュー。
生放送の日がやってきた。
✉
「はい、オッケー! 本番もよろしく!!」
本番前のリハーサル。
ディレクターのその言葉を皮切りに、スタジオから出演者が散らばっていく。
その中の小さな人影に向かって手を振る。
「おつかれさま、仁奈ちゃん。すごくよかったよー」
「ありがとーごぜーます! 生放送もがんばるですよ!」
仁奈ちゃんはキョロキョロしながら、不安と期待が入り混じった顔であたしに訊いてきた。
「ママはまだ来てねーでごぜーますか?」
「あー、うん。ええとね」
もう本番まで2時間をきっているというのに、いまだに仁奈ちゃんのママの姿は見えない。
さすがにしびれをきらしたプロデューサーが、ついさっき電話をしに行ったところだ。
「もうすぐ着くと思うよ。ほら、ママが来たら教えてあげるから、友達のところに行っておいで」
不思議そうな顔をしつつも、トコトコと友達がいる輪に向かって走って行く仁奈ちゃん。
ふっー。なんとかごまかせたかな。
冷や汗をかきながら待つこと数分、額に汗を貼り付けてプロデューサーがやってきた。
「おかえり~。ってその汗はどうしたの?」
「仁奈の母親が乗っている新幹線が、人身事故の影響で運転を見合わせ中だ」
「……」
「いまいるおおよその場所も聞いた。電車を降りてタクシーを拾ったとしても、本番までには絶対に間に合わない距離だ」
「……キミってそういう笑えないジョーダン言う人だったっけ?」
「こんな冗談つくわけないだろ」
額の汗を拭きながらむっとするその表情は、いつもの200%増しで青白い。
「ほんとうに……ほんとうに来れないの?」
「そうだ」
「そこで志希に頼みたいことが、っておい、なにやってんだ?」
仁奈ちゃんのママの連絡先は以前にプロデューサーに教えてもらっている。
番号は……あった、これだ。
ぷるぷるぷる、ピッ。
『…………はい、市原です』
どんよりと暗い声が聞こえる。
はじめて聞く、仁奈ちゃんのママの声。
「はじめまして。一ノ瀬志希と申します。早速で恐縮ですが、番組まで時間がありません。いますぐ来てください」
『……申し訳ございません。さきほどプロデューサーさんにも申し上げましたが、どうやっても間に合いそうになくて』
「仁奈ちゃんには、このことをお伝えしたのですか?」
『……いいえ、言ってません。プロデューサーさんに伝えていただくようお願いしました』
「……」
『この度はご迷惑をおかけし申し訳ございません。ですが、あたしは行けなくなってよかったのかもしれません。こんな母親、仁奈もきっと嫌いになってしまったと思いますから。それに、あなたのほうがよっぽど──』
「ふざけてるのかな」
『……』
「仁奈ちゃんは今日もライブのときも、ママが来てくれるってすっごく楽しみにしてて。そのためにいっぱいいっぱいがんばってきて。それなのに行けなくなってよかった? こと言わないでよ」
『……』
「嫌われたとか知ったようなこと思う前に、ちゃんと自分の口から行けなくなったことを言ってよ。ほんとは震えるほど怖いのに、仁奈ちゃんは勇気を出してあなたに電話をしたんだよ。あの子の母親のくせに逃げないでよ!」
「志希!」
プロデューサーはあたしからスマホを奪い取って、電話の女となにかを話している。
どうして?
いつでも会いにいけるところにいるくせに。
あんなにあの子に愛されているくせに。
あたしは、あたしには──。
「志希」
プロデューサーから差し出されたスマホからはもう声が聞こえない。
あたしの興味はもうそれにはない。
「プロデューサー、どうするの? もう時間がないのに。生放送なんだよ」
「わかってる」
「せっかくここまでがんばってきたのに。このままなにもできませんでしたじゃ、仁奈ちゃんが番組を降ろされちゃうよ」
「……わかってる」
「そうだ、仁奈ちゃんのママに変装するってのはどうかな? テレビで見てる人は本物かどうかなんてわからないし、それなら──」
「志希がさっき言っただろ。本番まで時間がないんだ。いまさら変装なんて間に合うわけがない」
「えっ、あっ、そうか。ええと」
「落ち着け、志希」
「あたしは落ち着いてるよ。それよりも、早くなんとかしないと」
「いいか、よく聞け志希。おまえが出るんだ。変装なんかじゃない、一ノ瀬志希としてゲストに出演してくれ。どんな結果になろうと責任は全部俺がとる」
「あたしが、代わりに?」
「仁奈には俺から伝えておく。だから志希は出番までに準備を済ませておけ」
メイク係にあたしのことを頼むと、プロデューサーは控室のあるほうに走って行った。
されるがままに化粧を終えたときには、本番まですでに1時間を切っていた。
……。
準備をしておけと言われても、いまさらなにをすればいいのかなんてわからない。
だけどひとつだけ、絶対にしておかないといけないことがある。
偉そうなことを言ったあたしが、逃げるわけにはいかない。
「この先に入っちゃだめだよ!」
仁奈ちゃんがいるはずの控室の前には、両手を広げて通せんぼする小さな門番がいた。
その顔には見覚えがある。
「アケミちゃん、だよね? 仁奈ちゃんとお話しないといけないことがあるから中に入れてくれないかな?」
「だめ!」
プルプルと首を振るアケミちゃん。
ペーパータワーのことを思い出す。
「仁奈ちゃんに対するいやがらせのつもり? 悪いけど、いまは付き合ってる時間がないんだよねー」
仁奈ちゃんと本番について話し合わなくちゃいけない。
無視してドアノブに向かって手を伸ばすと、ふとももをがしっとつかまれる。
「ち、違うよ! だって、仁奈は大切な友達だもん! ひどいこといっぱい言ったのに、それでも友達になろうって言ってくれたもん!!」
ともだち? キミと仁奈ちゃんが?
放送を見てる限り、キミとあの子はあまり波長が合ってない気がするけど。
あの子は優しいからそれに近いことをいっただけで、キミの勘違いじゃないかな。
いまはそんなことどーでもいいか。ドアノブをつかんだ。
「お願いやめてよ! 仁奈と約束したんだから! 志希おねーさんだけは絶対に中に入れないでって!!」
ビリっと電流が流れてドアノブから手を放す。
ぐらりと視界が揺らいだ。
「仁奈ちゃんが、そう言ってたの?」
「そうだよ! だから入っちゃダメ!!」
……。
あー。
「にゃはは。ごめんねー、こわがらせちゃって。もう入るつもりないからだいじょうぶだよー。ねぇアケミちゃん、これからも仁奈ちゃんと仲良くしてあげてね」
そっかー。
あたし、嫌われちゃったかー。
そりゃそうだよね、どれだけ仁奈ちゃんの母親を責めたって。
あたしがいなければこんなことにはならなかった、それは揺らぎようのない事実なんだから。
あたしがサプライズでママを呼ぼうなんて思いつかなかったら。
ママにお願いしてみようなんて言わなかったら。
なにが知ったこと言わないでだ。
なにがキミの勘違いじゃないかだ。
思いあがっていたのは、あたしのほう。
結局、あたしの本質はあのときからなにも変わっていない。
──あんたみたいなバケモノに、あたしの気持ちなんてわかるわけないでしょ!
あたしが誰かを幸せにしようなんて、はじめから間違っているのだ。
ねぇ、ママ。
あたしはどんなことでもできるってママは言ったよね。
学者じゃないけど、大学でいちばん優秀な生徒にはなれた。
いちおう売れっ子っていってもいいアイドルにもなれた。
でもね。
「あたしね、ママみたいなおかあさんにはなれなかった、よー」
✉
生放送がはじまった。
とくにトラブルもなく、にぎやかな空気に包まれて仁奈ちゃんの出番に近づいていく。
この放送が終わったら、プロデューサーに仁奈ちゃんを他の人に預かってくれるようにお願いしよう。
フレちゃんなら引き受けてくれるかもしれない。
あの子ならきっといい母親になると思うよ、あたしと違って。
舞台袖からニコニコと楽しそうに笑っている仁奈ちゃんの姿が見える。
本心からの笑顔なんだろーか。
わからない。
人の気持ちなんて理解できないあたしには一生理解できないんだと思った。
嫌われるなんていつものこと。今回はたまたまそれが長かった、それだけの話だ。
「じゃあ次は仁奈ちゃん、お願いしてもいいかな?」
仁奈ちゃんの出番がやってきた。
仁奈ちゃんは、はーいと元気よく返事をしてから立ち上がる。
それから手紙を広げて大きな声で読みはじめた。
「パパとママへ」
拙いながらも一所懸命にパパとママへの想いを綴ったその手紙はきっと素晴らしく感動的なもので、
朗読が終わりぺこりと頭を下げると、パチパチパチとあたたかい拍手が沸き起こった。
「仁奈ちゃん、すっごく素敵なお手紙ありがとうございました! ……さて、今日は仁奈ちゃんと仲良しのスペシャルなゲストに来ていただいております。こちらの方です、どうぞ!」
皮肉なアナウンスとともに、おおげさなBGMが流れだす。あたしの出番の合図。
いつもみたいに笑顔をつくって、スタジオに向かう。
「はい! 仁奈ちゃんと同じ〇〇プロ所属のアイドル、一ノ瀬志希さんです!」
「にゃはは。どうもー志希ちゃんでーす」
「志希さんはいま仁奈ちゃんといっしょに暮らしているという話を聞きました」
「そうだよー。うらやましいでしょ」
うらやましいー、とノリのいいレスポンスが返ってきた。
「そういうところも含めていろいろお話を聞けたらな、と思います。それじゃ、こちらの席に──」
「あっ、待ってくだせー! 仁奈、志希おねーさんに渡してーものがあるですよ」
あたしに渡したいもの?
振り向くと、仁奈ちゃんがポケットからなにかを取り出している姿があった。
「ほんとうはママが来てくれるはずだったですけど、来れなくなっちまったです。でも、代わりに志希おねーさんが来てくれるって聞いたからもう1個お手紙を書いたでごぜーますよ」
手紙? もう1通?
あたしの疑問をよそに、仁奈ちゃんはその手紙を広げて読みはじめた。
「志希おねーさんへ。志希おねーさんはほんとにすげーです! いろんなこと知ってて、歌もダンスもできて、ご飯もつくれて、ほんとにほんとにすげーです!」
「……」
「ママもさっき電話で言ってたですよ。志希さんに怒られちゃった、行けなくてごめんね、さびしくさせてごめんね、志希さんはすごいね、これからは私も志希さんみたいなママになるからって。なんで謝ってるのかよくわかんなかったですけど、とにかく志希おねーさんのこといっぱい褒めてたでごぜーます」
「……」
「仁奈、その電話を聞いて志希おねーさんにお礼をしなきちゃいけないって思って。でもなにをすればいいのかわからなくて。だから志希おねーさんにナイショで手紙を書いてみたですよ」
いったいいつの間に?
そんなの決まっている。あたしが控室に行ったとき、あそこで書いていたのだ。
あたしにばれないように、アケミちゃんに通せんぼをお願いして。
「いっつもおいしいご飯をつくってくれてありがとうごぜーます。お勉強わかんねーことがあったら教えてくれてありがとうごぜーます。いっつも仁奈とお昼寝してくれてありがとうごぜーます。ライブのときに走って応援に来てくれて、ママにお願いしようって言ってくれて、ありがとうごぜーます」
「……」
「仁奈はこわがりで、できねーこといっぱいあって、心配なことばかりでごぜーます。でも、そんなときは志希おねーさんの気持ちになるですよ。志希おねーさんみてーになんでもできるママになりてーって。そうしていっつも勇気をもらってるでごぜーます」
──ママの気持ちになるですよ。
「仁奈、ちゃん」
それじゃあこのママっていうのはあたしのことで。
ライブのときも、ママにお願いするときも、あたしのことを思って。
仁奈ちゃん。
あたしたち、まだお互いのことなんにもわかってないんだね。
あたし、ぜんぜんすごくなんてないよ。
キミみたいに人の気持ちを理解することなんてできないし、そのせいでキミをたくさん傷つけて泣かしてしまったこともあった。
そんなあたしを、キミは理解しようとしてくれてるの?
あたしがママでよかったって、ほんとうにそう思ってくれてるのかな?
仁奈ちゃんはニコッと満面の笑みを浮かべて、その手紙をあたしに差し出した。
「いっつも仁奈といっしょにいてくれてありがとうごぜーます。志希おねーさんは、仁奈の自慢のママでごぜーますよ!」
その手紙に向かって手を伸ばす。
1回失敗して、2回目にようやくつかむことに成功した。
大きな拍手が鼓膜を振動する。
「ぐすっ。ありがとうございました。一ノ瀬さん、なにかコメントをお願いします」
「……」
あたし、やっぱり母親なんかじゃない。
こんなときなのに、なにも言葉が出てこない。
たっぷりと時間を使ってあたしが絞り出せたのは、この言葉だけだった。
「ありがとう、仁奈ちゃん」
✉
ソファーの上からすやすやと寝息が聞こえる。
幸せそうな顔で眠っている、その小さな体に抱き着いてひと眠りしようか、なんて思ってみたけど、時計の短針は7の数字を突き刺している。
いまから寝るのはお昼寝とは言わないし、せっかく炊き上がったご飯が冷めてしまう。
しょうがない。
「起きて、仁奈ちゃん」
体を揺すると、仁奈ちゃんは瞼をこすりながらむくりと起き上がった。
それから鼻をひくひくさせたかと思えば、
「カレーだー!」
寝ぼけ眼もどこかにいったみたい、お目目をキラキラさせて叫んだ。
「いま出来上がったばっかりだよー。さあ食べようか」
ふたりで食卓につく。それじゃ、おててを合わせて。
「「いただきまーす」」
仁奈ちゃんは豪快にスプーンですくい、ぱくりと口に運ぶ。
「だいじょうぶ? 辛くないかな?」
「すげーうめーでごぜーます! 仁奈、志希おねーさんのカレーだいすきでごぜーますよ!」
よかったよかった。
あのとき以来、カレーつくってなかったからちょっと不安だったんだよねー。
でもそっか、もうあれから2か月近く経つんだね。
時間が経つのはあっという間。
仁奈ちゃんと暮らしだしたのつい最近な気がするのに、一緒に生活するのも今日で最後なんだもん。
明日、仁奈ちゃんを迎えにママがやってくる。
やっと暮らせるようになるのだ。
ずっとずっと会いたかった、ママといっしょに。
「志希おねーさん見てくだせー。仁奈、このまえの漢字のテストで100点とったんだー!」
「おおー。仁奈ちゃんはすごいねー」
ご飯を食べ終わって、おしゃべりをしていると小テストの紙を渡してきた。
その得意げな顔がなんだかおかしくて、頭を撫でてあげるとくすぐったそうに笑った。
それから、いつもみたいにいろんなことを教えてくれた。
アケミちゃんと遊びに行く約束をしたこと、トレーナーちゃんに褒められたこと、学校でサインを求められてびっくりしたこと。
いっぱいいっぱいいっぱいおはなしして。
そして、夜が来た。
良い子は、寝る時間だ。
電気を消して、ふたりでベッドに潜り込む。
「志希おねーさん、いままでほんとにありがとうごぜーました」
「どーいたしまして。ママと暮らせるの楽しみ?」
「はい! すっげー楽しみです! ……でも」
俯く仁奈ちゃんから、悲しいにおいがする。
「志希おねーさんと一緒にいられなくなるのは、さみしいですよ」
「そうだねー」
仁奈ちゃんとの記憶が頭をめぐる。
うん、すっごくたいへんだった。
柄にもないあたしの母親劇場も、これにて幕を閉じる。
明日から自由だ。なにしよっかな。
そうだ、あの実験まだやりかけなんだっけ。
もう料理なんてつくらなくていいし、これで集中して研究できる。
いちいち本を片付ける必要もないし、日をまたぐ前に寝なくてもいい。
ママを呼ぶかどうかで喧嘩することもない。
誰かと笑いながらご飯を食べることも。
おはよう、おやすみって挨拶するのも。
こうやって同じベッドで一緒に眠るのも。
今日で、ぜんぶおしまい。
……。
ああ、そっか。
あたし、明日から、またひとりになるんだ。
「……いや、だ」
瞼からなにかが溢れてきた。
あたしみたいな理解不能な生き物をママって呼んでくれて。
こんなあたしでも家族になれるって思えてきたばかりなのに。
やっとごろんと横になって眠れる居場所を見つけたのに。
やだやだやだ!
献立だってめんどくさがらずに考えるよ。
お掃除だって、お仕事だって、なんだって。
きみと一緒にいられるなら、どんなたいへんなことだって笑ってできるから。
だから。このままずっとあたしと──。
どうしようもなく震える背中を小さな掌がさすってくれた。
「志希おねーさんもさびしいでごぜーますか?」
「……うん。さびしい、よ」
わかってる。
いかないで、なんて言わないよ。
親子でも言ったらいけないことだってきっとある。
キミには笑っていてほしいから。
だから仁奈ちゃん、そんなに心配そうな顔しないで。
あたし、だいじょうぶだよー。
「こんどね、パパに会いにいくよ」
小さくてあたたかい手を握る。
「会ってなにをすればいいのかわからないし、もしかしたら会ってくれないかもしれないけど、それでもお願いしてみるよ。
だからさ、いつでもいいから、またこうやって一緒に寝てもいいかな?」
仁奈ちゃんはうれしそうに、とろけるような笑顔であたしの手を握り返してくれた。
「もちろんでごぜーます! いっぱいいっぱいお昼寝するですよ」
「うん。……仁奈ちゃん」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ぎゅっとその体を抱きしめると、シャンプーの香りに混じって鼻をかすめるものがあった。
このにおいのことは、もちろん知っている。
かわいくて、明るくて、悲しいときもあるけど、あたたかい。
どんな偉大な学者にだって分類できっこない、あたしの、居場所のにおいだ。
──エピローグ
✉
とっくにお盆を過ぎた墓地はしんと静まり返っている。
ママが亡くなってから1度しか来たことのなかったお墓は、綺麗に掃除されていた。
いったい誰が墓参りに来てくれてるんだろうか。
わからない。
あれだけ一緒にいたはずのに、あたし、ママのことぜんぜん知らないんだ。
線香と蝋燭が入った袋を地面に置く。
線香はまだあげない。
これの出番は、来るかもわからない待ち人が来てからだ。
風がびゅうとあたしの体を震わせる。
日時、場所、そしてどうしても会いたいから来てほしい。
パパに送った手紙にはそれ以外になにも書かなかった。
ほんとうに届けたい言葉っていうのは、まっすぐに向きあって話さないと伝わらないと思ったから。
来てくれるかどうかすらわからない。
それでも、あたしはここで待つことに決めた。
だって──。
コツコツ。
後ろのほうから足音が聞こえる。
だんだんとその音が大きくなってきた。
あー、帰りたい。
だって、あの人どんなものよりも研究大好きな人間なんだよ。
話し合ったってあたしのことをわかってくれるとは思えないし、あたしも彼を理解できないんじゃないかって思ってしまう。
つまらないことで呼ぶなって怒られるかもしれない。
誰も得をしない無意味な時間になるかもしれない。
だけど、仁奈ちゃんと約束してしまった。
あの子はママとちゃんと向き合ったから。
だったら、あたしが逃げちゃいけないよね。
あの言葉が頭をよぎる。
意味なんてない、ただどうしても呟きたかった。
「ママの気持ちになるですよ」
カツン。
足音が真後ろで止まる。
「志希」
テレビで聞いてた声よりも掠れていて、それに震えている。
どうして、大好きな研究を放り出してまでここに来てくれたのだろーか。
聞いたら、教えてくれるかな?
言いたいことはたくさんあった。
ママが死んだときに来てくれなかったこと。
それからすっごく退屈な生活が続いたこと。
学校で困ってたときに相談に乗ってくれなかったこと。
日本に帰ってきて、アイドルになっていろいろお仕事をしていること。
ずっと、寂しかったこと。
でもね。
いまはそれよりもどんなことよりも、ふたりに知ってほしいことがあるのだ。
「ねぇ。ママ、パパ」
聞いて。
かわいくて元気でとっても優しい。
あたしの、自慢の娘のおはなし。
おしまいでごぜーます。
以上です。
好き勝手書きましたが、読んでいただきありがとうございました。
以前はこんなのを書いていました。
もしお暇なときがあれば読んでいただけると幸いです。
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