中野有香「寄り未知、脇未知、回り未知」 (24)

中野有香ビギニング。オーディションを受ける前にこんなことがあったんじゃないかくらいの話です

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 その日、学校のHRが長引いたあたしは稽古に遅刻しないように、いつもとは違う近道で道場へと向かっていた。普段はランニングがてら遠回りをしていたけどもそうも言ってられず、雑多な足音が行き交う繁華街を通り過ぎることにした。宣伝トラックから流れてくるアナウンスやカラオケの近くでキャッチをしている人たちをくぐり抜けて走っていると、ふと頬に冷たい水が当たった。教室から空を見たときはお日様も出ていたのに、どんよりとした曇り空に隠されて、ポツリポツリと雨が降り始めて傘を持っていない人たちは幾千もの水滴を避けるように走っていく。ただ私は、空を仰いだ時に目についたビルの上にでかでかと存在感をアピールする大型ビジョンに目を奪われた。

 ねずみ色の空の中ひときわ眩い世界。可愛らしいアイドルたちが、歌い踊る姿。煌めくライブステージに立つ彼女たちは、ライトやサイリウムに負けないくらい輝いていた。

 もしもあたしも、あそこに立てたのなら。なんてことを考えていたら雨脚は強くなっていく。折角近道をしたのに道草をしたのでは本末転倒もいいところ、師匠のお叱りを受けてしまう。あたしは傘もささないで道場まで走り抜けた。

「押忍! 遅れて申し訳ありません」

 道場に入った私を師匠は一瞥すると、玄関付近にかけてあったタオルに視線を移す。雨に濡れてくることを見越していたのだろうか。

「ありがとうございます」

 深くお礼をして道着へと着替える。何度も何度も繰り返し来た、私だけの特別な衣装。ライブステージに立つアイドルのみんなに比べたら無骨で可愛くないかもしれないけど、道着を結ぶ黒帯は誇りであり勲章だ。

「押忍! よろしくお願いします!」

 準備体操をしっかりとして、師匠との手合わせ稽古を始める。師匠はあたしの両親がまだ子供の頃から黒帯をしめていた大ベテランだ。本人はそろそろ引退かだなんて笑うこともあるけど、還暦が近いなんて事実を忘れさせるほどに動きにキレがあって黒帯を取ったあたしですら赤子同然なんだろう。稽古とはいえ、一瞬たりとも気が抜けない。

「はぁ、はぁ……ありがとうございました」

 長時間に及ぶ激しい稽古であたしはすでに息も絶え絶えなのに、師匠はというと涼しい顔をして水を飲んでいる。そして一言、こう言ったのだ。

「迷いが見える」

 と。

「迷い、ですか……?」

 師匠の言葉が最初はピンと来なかった。空手を始めて10年以上が立つ。勿論稽古は厳しくて泣いてしまうこともあったけど、辞めたいと思ったことは一度もなかった。学校の勉強だって頑張っている。文武両道という言葉がありますが、文事と武事とは本来相反する2つの言葉ではなく、本来は1つのもので決して分かつことは出来ない。その言葉を噛み締めて日頃から空手と勉強に向き合っている。それは分かれ道ではなく一本道、迷うことなく進んでいたはずなのに。

「道は1つではない」

「えっ?」

 彼の言葉はあたしにとって意外なものだった。まるであたしの迷いを肯定しているようにも聞こえたから。

「……お前はこれまで空手の道のみを歩んで来た。ここまで直向きに向き合って来た教え子もそうはいない。だが……お前はまだ若い。道とはすなわち、可能性。空手以外に向き合うことのできる道が、あるはずだ。それを極める事が出来た時、空手の道もさらに広がるはずだ」

「空手……以外……」

 思えば考えたことがなかった。今の今まで空手一筋で生きて来たから、クラスメイトがカラオケに誘ってくれても稽古があるからと参加することもなかったし、年頃の女の子らしいことをした経験が、ほとんどない。

「回り道と思うか?」

「え、それは」

「回り道も脇道も寄り道も等しく道だ。中野、お前に若い女子らしいことをさせる機会を奪って来たのは他ならぬ俺だが……お前の拳に、蹴りに迷いが見え始めたことが逆に嬉しいよ」

「師匠……」

 強く拳を握りしめると、師匠の言葉に私の中に隠れていた迷いが顕在化する。極める道は1つではないというのならば、あたしにできることはなんだろうか。ここに来て、あたしは未知の体験をしていた。

「進路調査票の提出は今週末までに出してください。先生からは以上です」

 翌日。進路調査票を配られたあたしはどう書くべきか悩んでいた。実のところ、昨日までは頂いていた空手のスポーツ推薦を受けようと考えていた。空手の名門大学で学ぶことが出来るのはあたしにとって、ベストな選択のはずだった。だけど今、師匠の言葉があたしの心の中でざわめいている。空手以外の選択肢。それはあたしのこれまでとこれからを否定して、新しい自分になるということ他ならなかった。

「週末に使えるカラオケの半額クーポンあるんだけどいかない?勉強ばっかしててましんどいだけだし」

 クラスの中心的な子がいつものようにカラオケに行こうとみんなを誘っている。勉強をしなくちゃいけないことはみんな分かっているのだけど、今後こうやって遊べる日がなくなって行くことを理解しているからか行こう行こうと盛り上がっている。週末か、あたしはその日も空手の稽古だ。

「……師匠、ごめんなさい」

 ここにはいない彼に謝って、意を決したあたしは手をあげる。

「押忍! あ、あたしも! カラオケいきます!」

 進路のことや遊びに行く約束で騒がしかった教室が一瞬にして静まり返る。あれ、あたし歓迎されてなかった……?

「な、なんちゃって」

「中野がカラオケに来るなんて! 明日は槍でも降るんじゃないか!?」

「マジで有香ちゃん!? 稽古はいいの!?」

「これも財団の陰謀か……クククッ」

 みんな一様にビックリしたような表情であたしの席まで来る。

「い、1日くらいなら大丈夫かなーと思いまして……あはは」

「んじゃ決まり! 有香ちゃん、いつも誘っても稽古なんですーって遊んだことなかったからさ! 約束だからね! 来なかったら青汁飲ますから!」

 一応嫌だとは思われていないみたい? ちょっとだけ安心する。あれよあれよという間に週末の予定は決まってしまい、あたしは師匠にどのように説明したらいいかと頭を悩ませていた。

「あのー、師匠……」

 親戚の法事だとか結婚式だとか色々と言い訳を考えてみたものの、師匠のことだ。あたしの嘘に気づかないわけがない。

「週末の稽古なんですが、お休みを頂きたくて」

「理由は?」

 だから、嘘偽りなく正直に答える。

「友達に! カラオケに誘われたからです! 押忍!」

 空手よりカラオケを取るのか、と怒られても仕方がない。師匠は一瞬だけ呆気にとられたようにぽかんとした顔をするが、すぐにいつもの険しい顔に戻ってただ一言。

「それが他の道につながるのなら、好きにしなさい」

「押忍! ありがとうございます!」

 正直、カラオケに行くことが何につながるのかはわからない。でも今までのあたしが知ることのできなかった新しい価値観に出会える、そんな漠然とした思いを抱いていた。

「……その次の稽古は、覚悟することだな」

「お、押忍……お手柔らかにお願いします」

 とはいえ。懸念事項を1つ潰したところで、あたしにはもう1つ問題があった。恥ずかしい話だけど、あたしは生まれてこのかたカラオケに行ったことがなかった。もっと言えば、年頃の女子が聞くような可愛い音楽を知らなかったのだ。あたしがフルで歌える曲といえば学校の校歌か昔テレビでやっていたアニメソングくらいだ。そんなあたしとカラオケに行って、楽しいのだろうか。

「カラオケ、人気のある曲、女子高生、と……」

 インターネットで検索してヒットした曲を片っ端から聞きまくる。正統派アイドルソング、バリバリのロックナンバー、意外と盛り上がるかもしれない演歌。いくつかの曲を聞いてみたけども、おかしなことにそのほとんどが恋の歌、恋の歌、恋の歌。中にはどれくらい言うんだってほどに「好きだ」とワードを繰り返す曲もあった。それらを聞いている時のあたしは、まるで私自身が恋する乙女になったみたいに顔を赤らめていたらしく親には熱を出したのかと心配されるほどだった。

「恋、かぁ」

 今の今まで考えたことがなかった。周りのみんなが年相応の恋愛をして、付き合ってる2人が一緒の大学に行こうねなんて言っているのを見ると応援したくなる一方で羨ましいという気持ちを抱くこともある。空手関係で良い人がいないか、と聞かれたこともあったけどあたしにはイマイチピンと来なかった。

 恋とはどんなものかしら、という言葉がふと頭に浮かんで来た。どこで聞いたんだっけ、それ。気になって調べてみるとどうやらモーツァルトのオペラの中の一曲らしい。おそらく音楽の授業で聴いたのだろう。

恋とはどんなものか 知っておられるあなた様方
ぼくが胸に恋を抱いているかどうか 見てください

 伸びやかな声で歌われるのは燃えるような恋の歌。でもカラオケで歌うには、ちょっと格式張ってるかも。

「師匠のせいだ」

 迷いが見える、道は1つではない。今までの価値観を揺るがす彼の言葉に、あたしは惑い続けていた。一本道はもう、ぐちゃぐちゃに広がっていたんだ。

「有香ちゃーん!」

「おはようございます!」

 週末、あたしは待ち合わせの場所に30以上早く着いていた。前日からそわそわして眠れなかったというのもあるけど、久しぶりにみんなと遊ぶことを心待ちにしていたのだろう。あるいは、みんなが稽古している中でサボって遊びに行っているというある種の背徳感があたしを酔わせているのか。

「みんな集まった?んじゃ行こう」

 あたしを含めて8人でカラオケ店に向かう。みんなが進路どうする?と話してる中、あたしは必死で曲を覚えようとイヤホンを耳にさしてヘビーローテションを組んでいた。

 カラオケボックスの中にはタンバリンやマラカスといった盛り上げる楽器も置いてあり、教室や道場にはない独特のムードが漂っていた。隣の部屋からはあたしでも知っている男性アイドルの人気曲が流れている。あんまり壁は厚くないのかな。

「じゃあ折角だし有香ちゃんからどうぞ!」

「え、ええ!? あたし!?」

 いきなりマイクを渡されて思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。こういうのは名前の順で、と言おうとするもみんなの期待の視線が眩しい。観念したあたしは、なんとか覚えた何曲かの中から始まりっぽい曲を選ぶ。

「765プロ!」

どうやらあたしだけが知ってる曲、というわけではなかったらしい。一安心だ。

「??♪」

 流れて来る歌詞を追いかけるのに必死で、周りのことなんて見てられない。みんなが鳴らすタンバリンやマラカスが煽るようなリズムを刻むものだからあたしは余計にあっぷあっぷしてしまう。

「ど、どうでした?」

 ところどころ歌詞を間違えた気もするし始めて歌ったものだからそれはもう聞けたものじゃなかっただろう。なのに。

「有香ちゃん、歌うま!」

 みんながパチパチパチと拍手をしてくれる。恥ずかしさが湧き上がって来ると同時に、あたしの中で未知の感情がぼやけた輪郭を表して来た。それは嫌な気持ちじゃなくて、むしろ嬉しくてなんだか舞い上がってしまいそうな、そんな気持ち。

「まるでアイドルみたいだった」

「アイドル……」

 もしも、もしも。道着を脱いで可愛らしいステージ衣装に着替えて、恋の歌なんかを煌めく舞台の上で目一杯歌えたのならば。

「!」

 カラオケに流れる映像の中の彼女たちが、あたしを招いてくれている。そんな気がしたんだ。

「みなさん、ありがとうございます。お陰であたしが歩むべき道が見えた気がします」

「え、ええ?」

 突然そんなことを言うものだから、みんなしておかしなものを見るようにあたしに視線を与える。

「アイドル、やってみようと思います」

「へー、有香ちゃんアイドルになるってえええええ!?」

 キィィィン! とハウリングの音が耳に痛い。気でも触れたのか、と口に出さなくとも思われているはずだ。正直、あたし自身突拍子がなさすぎて口にできた自分にびっくりしているくらいだ。だけど今、地に足は付いている。浮かれポンチなんかじゃない。

「えっと……マジですか?」

誰にでもフレンドリーな彼女すら、驚きのあまり敬語を使うほどだ。


「はい、マジです」

 本気と書いてマジと読む。この時、ぼやけた輪郭がはっきりと形を作り出した。それは密やかに抱いていた、彼女たちへの憧れ。ありえない、と一笑する自分に正拳突きを一発かまして、真剣な瞳でみんなを見る。

「あー、うわ。びっくりして何を言えばいいか分からないけど……その日が来るなら……サイン、ちょうだいね!」

「押忍!あっ、アイドルらしくするには……はいっ!」

「あんま変わってないよ??」

「そ、そうかな……?」

 ドッとみんな笑い出す。笑わせたんじゃなくて、笑われたんだと思うけど嫌な気はしない。あたしもつられてケラケラと笑ってしまう。

「師匠、あたしはアイドルを目指そうと思います」

 カラオケが終わった後、あたしはその足で道場へと向かい師匠に話すことにした。カラオケで何曲も歌ったから声は枯れ気味で、今まで一言もなりたいなんて言ったことのなかったアイドルへの道。その言葉に偽りはないのかを定めるように、彼の瞳はあたしを険しく見つめる。

「それは中野が極めるに値する、道か」

 トップアイドル。口にするのは簡単だけど、それを叶えることができるのはほんの一握り。遠い星をつかむようなものだ。でもあたしには迷いはなかった。

「はい。あたしは最強で、可愛い……そんなアイドルを目指します」

 最強と可愛い。それは文武両道と同じで、相反するものじゃないはずだ。アイドルとしての道の先を知ったとき、あたしは空手道も極めることができる。そんな気がしていた。

「そうか。中野、お前が目指そうとする道は苦難の連続であろう。それでも行くというのなら……俺はその意思に敬意を示したい。やるからには……最強のアイドルになって来い」

「お、押忍! ありがとうございます!!」

 険しい道であることは分かっている。でもだからこそ、勇気を出して進みたい。もしかしたら、この決断はあたしにとって寄り道かもしれない、無駄な回り道なのかもしれない。

 でもそれだって、立派な道だ。舗装されていない凸凹道でも構わない。ただひたすらに、走るだけなんだから。

「……あと、そのときは高垣楓のサインをもらってきてくれ」

「師匠……」

 意外とそういうの、好きなんですね。

「でも……どうやってアイドルになればいいんだろ」

 道場破りのように事務所に頼もう! と言って乗り込めばいいのだろうか。とりあえず検索してみる。

 アイドルになるためにはいくつかの方法がある。芸能事務所関係者にスカウトされる方法、養成所に通いながら拾ってもらう方法、そしてオーディションに参加して合格する。

「有香ちゃん、真剣な顔して何見てるの?」

「あ、えーと。アイドルになる方法を探していて」

 カラオケに一緒に行った彼女が見せて見せてと言うものだから携帯の画面を見せる。

「ねえ、有香ちゃん。マジでアイドルになりたいって言うなら1つ提案があるんだけど」

「え?」

「実はね、私のお兄ちゃんが芸能事務所で働いているんだけど、なんでも近々大規模なオーディションがあるんだって。有香ちゃん、それに出てみたら? はい、これ」

 そう言って返してもらった携帯の画面には346プロダクション第○回シンデレラオーディションと大きく書かれていた。

「経験不問、必要なのは笑顔! 明日のシンデレラはアナタかも知れない……」

「身内びいきってわけじゃないけど、ちゃんとした芸能事務所だから心配はいらないと思うよ? 有名なアイドルも多数所属してるしね」

 確かに。芸能事務所であればいくらでもあるだろう。ただ、当然というべきかピンからキリはあるはず。中には芸能事務所の看板を掲げておいて、怪しい仕事をさせる事務所もあるかもしれない。そう考えれば、大手事務所のオーディションに参加する事は倍率は高くても安全ではあるはず。

「ありがとうございます。あたし、ここ受けてみようと思います」

「じゃあじゃあ写真も取らなきゃだね」

「写真?」

「書類選考もあるんだから写真貼らなきゃダメでしょー?」

 それもそうだ。写真すら貼っていないんじゃいくらすごい経歴を持っていたとしても、書類不備で落とされてしまう。

「写真部の子に頼むなら呼ぶけど? うちの写真部、コンテストにも出るくらいだからちゃんとしてるし」

「お願いしてもいいですか?」

「おっけおっけー。じゃ有香ちゃんもビシッと勝負服、着てきてね! んじゃ後で!」

 彼女はそう言うと元気よく走り出す。残されたあたしは段々と後戻りのできない状態になっていることに身震いするも、未知へのワクワクが反比例するように大きくなっていった。

「お待たせ有香ちゃん! 写真部の子、連れてきた……」

「押忍! お願いします!」

 待ち合わせの教室で着替えて待っていると機材を持ってきた写真部とともにみんなが入ってきた。扉を開けるなり、ポカンとした表情を浮かべて。

「あのー、有香ちゃん? その格好は?」

「え? 勝負服、ですけど……」

 空手家にとっての勝負服、道着だ。あたしにとって一番着慣れている服だし。

「物理的な勝負服じゃないんだけどな……もっと可愛い服とかの方がイイ気がするけど」

「でもさっき調べていたら、ほかの誰かが持っていない個性を武器にしろって書いていたので」

「……まあ、インパクトはあるかな?」

 彼女はイマイチ釈然としていないようだったけど、あたしが頑なに道着にこだわる為そのまま写真を撮ることになった。

「道着なんだし、もちっと凛々しい表情のほうがいいんじゃない?」

「こ、こうですか?」

「それだとしかめっ面かなぁ? もうすこし、こう! こう!」

「お、押忍! 写真に写るのも難しいんですね……」

 ダメ出しをされること数回。最終的には彼女の「試合に出てる時みたいに!」というアドバイスで出来た顔を写真に収めて履歴書に貼ることにした。

「これでいいのかな?」

「うん。凛々しくていいと思うな」

「あたしとしては可愛い方がいいかと思うけど」

「その服装じゃ今すぐ可愛いってのは難しいんじゃないかな……」

 むぅ。中々思うようにいかないものだ。

 とはいえ。道着で写真を撮ったことが功をなしたのか、オーディションの入口である書類選考には見事合格した。

『インパクトじゃほかの誰にも負けてないと思うしねー。私が審査員でも、有香ちゃんに会いたいと思ったし』

 とは彼女の談。聞けばオーディション参加者は1万人近くいたみたいで、そこから書類選考を通過できたのは200人ほどらしい。倍率にするととんでもない数字だ。我ながら良く受かったものだと感心してしまう。

「まさか書類選考通るなんて驚いたわ……」

「お母さん。あたしは本気なんだよ? 絶対合格してアイドルの道も極めるんだから」

 両親はあたしがアイドルになりたいといったとき、冗談か何かと思っていたらしく笑っていたけどいざ書類選考に合格したら2人して開いた口が締まらないようになっていた。

「合格したら、天ヶ瀬冬馬くんのサインもらってきてくれる?」

「いおりんのサインも頼む」

「2人とも……」

 随分とミーハーというか、調子のいい両親だ。でもそんな2人の変わらない姿が、大舞台へと挑むあたしの中から焦りや緊張を減らしてくれた。

「いよいよ明日か……」

 その後も順調に選考は進んでいき、最終選考の日を翌日に控える。稽古の時もそわそわした気持ちを抑えられずにいて、師匠にはこっぴどく叱られた。地に足をつけたつもりだったけど、浮き足立っているみたいだった。

「ちょっと走るかな」

 あと数時間であたしはオーディションに参加することになる。目を閉じても羊を数えても眠れなかったあたしは、気分転換に街中をひとっ走りすることにした。

「はっ、はっ……」

 音楽を聴きながら夜道を走る。夜も更けて光の少ない通学路はまるで異世界のようだ。闇に紛れて角からモンスターが出てきたり、と思ったりする。まあ、いるとしたら変質者の方かもしれないけど。

 何にせよ、明日の結果次第ではあたしも異世界へと旅立つようなものだ。空手だけにひたむきに生きてきたあたしがアイドルに――。過去に通話ができる携帯電話があったとして、数日前のあたしにかけても信じてもらえないだろうな。

「ふぅ……」

 ランニングルートを一周して家に戻る。シャワーを浴びるうちに、ほどほどの疲労感があたしを微睡みへと誘ってくれた。パジャマに着替えて、あたしは吸い込まれるようにベッドへと倒れ込んだ。

「押忍! おはようございます、師匠」

「中野。今日は最終選考の日じゃなかったのか?」

「だからこそ、です」

 朝早く起きたあたしは朝食を取ってすぐに会場に向かわず、いつものように道場に来ていた。特別な日だからいつもどおりに過ごしたかったというのもある。箒を手に取って道場の埃を掃いていく。朝の静けさの中、あたしの中の浮つきそうな雑念も一緒にゴミ箱に捨てることができれば良かったのだけど、中々そう上手くはいかないみたいだ。

「師匠。あたしはアイドルになれるでしょうか?」

「俺が知るか。ただまあ……うちの看板を背負った以上は、その道も極めてもらわないと困る。そら、受け取れ」

「わっ!」

 ぶっきらぼうにそう言って師匠は何かを投げると自室に戻る。キャッチして何かと見ると、合格祈願とだけ書かれたお守りがあたしの手に平にあった。

「ありがとうございます!」

 部屋に向かって一礼をして、あたしはオーディション会場へと向かった。大丈夫、あたしならやれる。そう言い聞かせて、走っていく。未知なる道の向こうで待ってる景色を見たいから。

以上です、お邪魔しました。

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