……ん……？　あ、なんだ、あんたか。

ごめんごめん、ナンパかと思った。なんちゃって。

え、あたしが何をしてたかって？

見ての通り橋から夜の川を見てただけだよ。

入水自殺？　思い詰めてるみたい？

ないない。この橋低いし川は深いし汚いし。

それに最期の瞬間くらい良い服着たいでしょ。

うん、全然本気じゃないよ、この服。変装用。

だからまだまだ死ぬつもりはないかなぁ。

どうして、って……あたしが感傷に浸ったらダメ？

ほら、あたしはイルカが好きだけどさ、

その水場好きの下地には近所の川、っていうか

ドブ川で遊んでた思い出があるんだよね。

だからかこういう川は見ると無性に懐かしくてさ。

えっと、あたしの幼馴染にＭって子がいてね。

話したことあったっけ？　ない？　その子がさ、

あー……何というか……奏ちゃんにそっくりで。

いや、顔とかスタイルとかはそんな似てないけど。

雰囲気が凄く似てるんだよ、あの振り回す感じが。

未だに鉢合わせると言葉に詰まっちゃって。

うん、まぁ、一言で言えばニガテなんだ。

なのにさ。あはは……その子、あたしの初恋なんだ。

小学生の頃のその子は普通に男子と付き合ってるって

噂があったんだけど、それとは別のところから

噂が立ってね。本当はあたしのことが好きだー、って。

同性のニガテな相手でも悪い気はしないでしょ？

……結論を言うとどっちも自演だったんだけどね。

噂は全部自分で流したもので、全部否定しないで

仄めかして遊んでたんだって。本人から聞いたよ。

火のないところに発煙筒を投げ込んでたワケだね。

で、そのとんでもない子に関わる思い出なんだけど。

クサガメって知ってる？　そ。亀の一種。

実家の辺りだとよく見かけた亀で、

でもいわゆるミドリガメじゃなくて。

なんでかって、臭いんだよ。すっごく。

ペットショップじゃ売れないくらい。

草むらの亀じゃなくて臭い亀だから

クサガメなんだって言えば分かるかな？

そのクサガメをね、まだあたしで遊んでた頃の

その子がウチに持ってきて、飼ってくれって言う。

自然に戻して生きていけるか心配だ、って。

優しいなぁなんて思ってたけど、バカだったね。

その子からすればどのくらい本気か見るために

生き物を引き合いに出しただけなんだもん。

現に夏場は轢かれて何匹も死んでるくらい

いっぱいいる、ありふれた生き物だったんだし。

でも当時のあたしは責任を持って飼うことにした。

水泳を本格的に始めた頃だから……小五の頃の話だね。

そのくらいの歳ってひねくれた子が多いでしょ？

真剣に何かへ取り組むのは格好悪い、だとか。

あたしの学校の当りは女子がみんなそんな感じでさ、

中学生になったらもう何だかさっぱり馴染めなくって。

だからＭが……あぁ、亀にはあの子と同じ名前を

つけてたんだけど、亀の方のＭだけが癒しだったんだ。

水槽に砂入れて、池と陸地を作ってやって、

日陰になる植木鉢を入れて、ビー玉で色足してさ。

あたしが水槽を叩くと首をこう、ぐっと伸ばして

上を向くから、そしたら餌を落としてあげるんだ。

それを見てると浅ましいくらい単純で

なんだかいいなぁ、なんて思ったね。うん。

ただ臭いがとにかく酷かったらしくて。

お母さんなんかはいっつも苦い顔してたと思う。

なんて言ってたっけかな。あぁ、確か

腐った水死体みたい、嗅いだことないけど、って。

スゴい例えだよね。あたしもそう思う。

らしい、っていうのはその頃のあたしの嗅覚が

バカになってたからだね。慣れちゃってたのか

別の理由だったのかは分かんないけど。

学校行っても鼻のいい子は気付くからか、

段々と話せる子は減ってったよ。人間の方のＭ？

その時にはもう別の子に興味が殆ど移ってたかな。

だからあたしが話しかけても大抵が無視だったよ。

それから半年くらい経った頃ね、

ウチの近くで大きな火事があったんだ。

それなりに老舗の中華料理店で、原因は空焚き。

店主のおじさんとは仲良かったんだけどねぇ。

死んじゃった。その日は一晩中空が真っ赤で、

放水の音だとか近所の人の叫び声だとかがひどくって。

真っ黒に溶け落ちた屋根は今も覚えてるよ。

……それで気が触れちゃったのかな。

亀のＭがさ、それから餌を食べないんだよ。

ずーっと首伸ばして上向いてるのに。

しかもこう、ジタバタして餌を催促すんの。

まるで陸で溺れてるみたいに。

そんな状態で三日くらいして、

学校へ行く前に水槽見たら動かなくなってて。

死んだ、って思った。

帰ったらお墓作らないと、って。

……うん。そう。死んでなかったんだ。

その日の午後に地震が起きて早くに帰らされたから、

帰って水槽覗いたらいつもみたいにもがいてた。

そんなこともあるのかなって思ったかな。でも。

それからも時々、動かなくなる日があったの。

タクシーがカーブを曲がり切れず横転した日とか、

突風で外壁工事の足場が崩れて大ケガ人が出た日とか。

しかも偶々その現場に居合わせることが多いから

その日はすぐに帰ることになるんだよね。

だから毎朝水槽を見て、大人しかったら

午後の分の教科書は持ってかない、とかしてた。

慣れちゃってたんだ。相変わらず餌は食べないし。

あ、人間の方のＭだけどね、同じ時期に拒食症

……どんなに食べても吐いちゃう病気に罹って、

気付いたらいつの間にか東京に引っ越してたよ。

あたし？　あたしはほら、癒しがあったから。

何も問題なく中三まで進んだよ。

で、ほどなくして亀のＭがまた動かなくなった。

またか、だよ。でもさ。

何日もそのままだったんだ。

ちょうど秋でね、そんなこと今までは

なかったけどもしかしたら冬眠なのかな、って。

受験の年でそんな考えてられなかったし。

ほら、あたしって競泳目指してたからさ。

特待落とすと志望校が遠くなっちゃうんだよね。

どうせ春になったら分かるでしょ、って

水も替えないでほっといてたんだ。おかしいよね。

もう一年以上も餌あげてないんだよ？

餓死に決まってるのに、そうは考えなかった。

受験の日もさ、今日起きられたら困るから寝てて、

なんて言って家出たくらいだもん。変、だよね。

……あたしがおかしかったんだよね、多分。

受験終わって帰って来たらさ、亀のＭが白くって。

ホントだって。もう真っ白。カイコみたいな。

もう甲羅もお腹も目も関係なしにそんなのが

ぶりゅぶりゅぶりゅって。噴き出してんの。

それを見て、あぁ、とうとう死んじゃったな、って。

何となくだけど、溺れ死んじゃったのかな、ってさ。

え？　ほら、水圧でこう、さ。分かんない？

まあいいや。あたしはそう思ったんだよ。

少なくとも餓死だとか、あんたが言ったみたいに

寄生虫だとかだとはこれっぽっちも考えなかった。

溺れ死なせちゃった。そう思ったの。

もしかしたら臭いで分かんなかっただけで

ずっと前から死んでたのかも、とは思ったけどね。

水槽持ち上げたら砂が重くて重くて。でも

ひっくり返ってぷかぷか浮いてる亀のＭだけ

取り出すのも何となくだけど気が引けてね。

そのまま近所のドブ川まで運んだよ。

で、低い橋の上から水槽を落とした。

じゃぼん。

寂しい景色だったよ。街灯はぽつんと一つきり、

ちかちかしてるその光が時々水面に反射するだけ。

餓死だから矢っ張り軽いんだよね。

亀のＭだけがそんな水面に浮いてきたの。

ドブに浮いてるゴミと一緒に川下に流れてく。

そしたらさ。くるん、って。姿勢を変えたんだ。

何がって、亀のＭが、だよ。生きてたんだ。

……怖くなって逃げちゃったから、その後に亀のＭが

どうしたのか、泳ぎ出したのか、あたしは知らない。

そうそう、その少し後だね。

あたしの泳ぎがてんで駄目になったのは。

真面目だったし、代表入りも諦めてなかったけどさ。

何というか……息継ぎがさ。急に怖くなっちゃって。

呼吸したら溺れる、なんて。変な言い方だけどね。

あの時あんたに拾われて良かったよ。

歌は苦手だけど、ちょっとは息をしてられるから。

水の匂いだって分かるようになったよ。

嗅覚って大事なんだね。あはは、今更だけどさ。

……あの頃に息苦しかったのはきっと、

周囲と馴染めてなかったからなんだと思う。

鼻が利かなかったのも、多分そのせい。

そんなんじゃ遅かれ早かれ選手生命は終わってたよ。

だから、だからね、アイドル楽しいよ。今のあたしは。

でも、あの子は……Ｍは、あの頃のあたしを忘れない。

今もほら、ああして水面から顔を出して。

そうそう、その少し後だね。

あたしの泳ぎがてんで駄目になったのは。

真面目だったし、代表入りも諦めてなかったけどさ。

何というか……息継ぎがさ。急に怖くなっちゃって。

呼吸したら溺れる、なんて。変な言い方だけどね。

あの時あんたに拾われて良かったよ。

歌は苦手だけど、ちょっとは息をしてられるから。

水の匂いだって分かるようになったよ。

嗅覚って大事なんだね。あはは、今更だけどさ。

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