渋谷凛「ただいまって感じのする場所」 (24)
撮影を終えて楽屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せた。
様々な服をとっかえひっかえして、ポージングをして、と撮影のお仕事は未だに慣れない。
もちろん、撮られる側としての技能自体はそれなりに上がってきているとは思うけれど、やはりこれは性格的な問題なのだろう。
脳が糖分を欲している。
そして飛び込んでくる、目の前の机上に並んでいる色とりどりのお菓子とコーヒーポット。
この誘惑には抗えそうにないが、その気持ちをぐっとこらえ、まずは着替えに専念することにした。
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○
私服へと着替え、いざコーヒーブレイク。
意気込んで椅子へ座ったところ、鞄の中の携帯電話が私を呼んだ。
間が悪い。
鞄から携帯電話を引き抜いて、通知を確認した。
メールだった。
送り主は私のプロデューサーからで、無題。
本文の内容は『お迎えいる?』という簡素なものだった。
簡素なものだったが、その簡素なたった数文字に嬉しくなっている、させられてしまっている私なのだった。
○
いらないわけないでしょ。
心の中で呟いてメールアプリを落とし、次いで電話帳を開く。
その最上段に設定してあるプロデューサーの名前を通り過ぎ、二番目の家の固定電話へと発信した。
一度のコールの後にすぐに電話は取られ、母の軽快な声が響く。
『お電話ありがとうございます。フラワーショップ渋谷でございます』
それに対して「私だけど」と返す。
すると、母の声はワントーン落ちた。
「ご飯ってもう作っちゃった?」
『まだよー。お父さんが配達から帰ってきたら作ろうかと思ってて』
「あ、よかった」
『ご飯、食べてくるのね』
「うん」
『あ、お客さん来たから……またね。行ってらっしゃい』
「あ、ごめん。うん。行ってきます」
今日忙しかったのかな。
通話が切れたことを示す電子音を吐くのみとなった携帯電話を降ろし、手伝いができないことを申し訳なく思った。
しかし、こんなことを言うと決まって母は「凛が生まれる前は二人だったし、生まれてからしばらくは育児もしながらだったから、今なんてぬるいくらいよ」と小突いてくるのだった。
○
母との電話を終え、再び電話帳の最上段へと画面を戻す。
今度はプロデューサーへ発信した。
数コールして、プロデューサーに繋がり『お疲れ。どうだった?』という気の抜けた声が聞こえてきた。
事務所の電話を取る際や先方との電話なんかで使うパリッとした声、お仕事用の声とは酷い違いだなぁ、といつも思う。
おそらく私の名前が表示されたからこその、この気の抜き方なのだろうとは思うけど。
「お疲れ様。ばっちり、ではないかもしれないけど、うん。上手にできたとは思うよ」
『あはは。流石は俺の担当アイドル』
「はいはい、そういうのいいから。……で、お迎えなんだけど、お願いしてもいいかな」
『ああ、待ってるよ。いつものとこに車停めてる』
「私がお迎えいらない、って言ったらどうするつもりだったの。それ」
『まぁ、そこはそれ。諦めて帰るしかないよなぁ』
「無計画すぎないかな。……じゃあ、すぐ行くから」
『んー』
鼻から空気が抜けるような、そんな返事を聞いて通話を打ち切った。
携帯電話を再び鞄へと戻して、机を振り返る。
お菓子、食べなくてよかったかも。
なんていう、ちょっとした幸運を感じつつ、楽屋を後にした。
○
スタッフの人たちに挨拶を済ませ、スタジオを出る。
もう夕方だというのに、太陽の日差しは未だ健在で、じくじくと刺すような眩さを誇っていた。
簡単な変装のために用意したサマーハットは、同時に暑さも和らげてくれる。
それを目深にかぶり直して、プロデューサーのもとへ向かうべく足を速めた。
○
少し歩いて、通りを一本入ったところにいつもどおりプロデューサーの車は停まっていた。
私が来たことに気が付いたプロデューサーはドアのロックを解除してくれる。
簡単とはいえ、変装している私にこの距離で気が付くのだから、侮れない。
助手席のドアを開けて乗り込む。
冷房の効いた車内は快適で、外の暑さが嘘みたいだ。
「おかえり」
「うん、ただいま」
普段どおりの挨拶。
今日会うのは初めてなのに、プロデューサーのもとに行くと、ただいまって感じがするから不思議だ。
理由は上手く言えないし、何故だかもよくわからない。
逆もまたそうで、プロデューサーのもとを出るときは、行ってきます、という感じがする。
この安心感が私は好きだった。
「その帽子、いいね。似合う」
「ふふ、でしょ。っていうか、よく帽子かぶってるのに私って分かるよね」
「何年凛のプロデューサーやってると思ってんの。気付くよ」
「そういうものかな」
「そういうもんだって」
「……まぁ、いいや。プロデューサーはお仕事はもういいの?」
「ん。ああ、大丈夫。直帰するって千川さんに言ってあるし」
「そっか」
「凛はこのあとは?」
「さっきお母さんに電話しといた」
私がそう言うと、プロデューサーはにっと笑う。
「じゃあ久しぶりにご飯だな」
○
私がシートベルトを締めるのを確認して、プロデューサーはシフトレバーを操作する。
アクセルが踏まれ、車はゆるやかに進み始める。
頃合いを見て、私は先ほど感じたことを聞いてみることにした。
「そういえばさ」
「んー?」
「いつも言ってくれるよね、ってふと思って」
「いつも言う? 何を?」
「おかえりとか、行ってらっしゃいとか」
「あー」
「なんて言うか、私は結構あれが好きなんだけど、今ふと不思議に思って」
「不思議?」
「今日初めて会うわけだし、この車は私の家ってわけでもないのに、おかえりって言われるとただいまって感じがするなぁ、って」
私がそう言うと、プロデューサーはなんだか少し照れたような表情になった。
「それはちょっと、いや、かなり。嬉しいなぁ」
○
「嬉しい? 何が?」
「おかえりって言われると、ただいまって感じになってもらえることが」
「なんで?」
「行ってらっしゃいとおかえりって挨拶は、意識的に言うようにしてるんだけど」
「そうなんだ」
「で、ね。凛はどっか行く前に家の人に行ってきますって言うだろ?」
「うん」
「それはだいたい玄関なわけでしょ。まぁ、凛の場合は家がお店だから、シャッターくぐって出たりとか様々ではあると思うんだけど」
「そうだね。家を出るときに言う……かな」
「まぁ、つまり。それと同じことができたらなぁ、って考えがあってさ」
「同じこと?」
「そう。アイドルとしての凛の玄関になれたらいいな、って思って」
「……思ってたより深いね」
「俺だって意外と考えて喋ってるんだぞ」
「ふふ。でも、そうだね。なんとなく納得したかも」
「納得? 何が?」
「ひみつ」
きっとその策略は成功していて、プロデューサーのもとに戻ったときの、あの言い知れぬ安心感はそういうことなのだろう。
ずるい、と思った。
○
「話変わるんだけど」
「ん」
「何食べに行くのかな、って」
「焼肉、行きたくない?」
「がっつりだね」
「そう。がっつり」
「全部のお肉に上とか特上とか、付けちゃったりする?」
「久々だし、それくらいやっちゃっても罰当たんないよな」
「うん。たぶん」
○
しばらくして、到着した焼肉屋さんは何度か利用したことのあるお店だった。
「帽子、置いてった方がいいよ。におい付いちゃうから」
「そうだね。でも、変装なしで大丈夫かな」
「んー。じゃあ、これとか」
「眼鏡?」
「うん。ブルーライトカットのやつだから、度は入ってないよ」
「なら、借りようかな。……でも、あんまりかわいくないね、これ」
「まぁ、おしゃれ用ではないからなぁ」
「……どう?」
「かわいい」
「言うと思った」
少しサイズの大きい眼鏡をかけて、お店へ入る。
入るなり、プロデューサーは店員さんに軽く何か耳打ちする。
店員さんはそれに「かしこまりました。ご案内いたしますね」と笑顔を作って、私たちを席へ通してくれた。
○
案内された席は、やはり個室だった。
初めて訪れた際にはこんな待遇はなかったし、そもそも私の知名度自体が低かったこともあって変装の必要がなかった。
そう考えると、感慨深いものがある。
何より、今では入り口のレジの上には私のサインが大袈裟に飾られている。
自分のサインが額に入れられて飾られているのを見るのは、少しくすぐったかった。
○
少しの後に、店員さんがやってきておしぼりを手渡してくれた。
まずはドリンクをということで、出されたメニューをさらっと眺める。
「ウーロン茶でお願いします」
「じゃあウーロン茶二つで」
言って、店員さんが「かしこまりましたー」と下がって行こうとする。
そこをプロデューサーが「あ、注文もいいですか?」と引き止めた。
「てきとーに頼むけどいい?」
「うん」
「え、っと。まずライスを大と……凛は?」
「小」
「じゃあ小と大を一つずつで」
それからはプロデューサーがすらすらとお肉を頼んで行った。
タンにカルビにロースにハラミにホルモンに……とお肉の名前が流れていき「とりあえず以上で」と打ち切られる。
私がそこに「あと、シーザーサラダお願いします」と割り込んだ。
○
店員さんが下がって行ったあとで、プロデューサーは不満そうに口をすぼめる。
「えー、サラダいる?」
「いるって。ただでさえプロデューサーの食生活はてきとーなんだから」
「でも健康だし」
「健康じゃなくなってからじゃ遅いんだから、野菜くらい食べときなよ」
「まぁ、そうか」
○
やがて、運ばれてきたサラダを小皿に取り分ける。
その小皿を渡してやると、プロデューサーは「綺麗だよなぁ」と言った。
「?」
「盛り方というか。品があるよな、って」
「プロデューサーが雑なだけじゃないかな」
「ひどい。でも、さすがお花屋さんだなー、ってなるよ」
「そうかな」
「そうそう。んじゃ、食べようか」
ぱちん、と手を合わせて二人で「いただきます」をした。
○
サラダを食べている内に、タンが運ばれてきて、続いてご飯。
それから、カルビだとかロースだとか。
すぐにテーブルの上はお肉でいっぱいになっていった。
「ねぇ、頼み過ぎじゃない?」
「かもなぁ」
「かもなぁ、じゃないでしょ」
「大丈夫大丈夫。これくらいなら食べられるって」
網の上でじうじうと音を立てて、お肉が焼けていく。
もう既に焼ける速度が食べる速度を追い越していた。
○
「はい。焦げちゃうよ」
焼けたお肉をプロデューサーの取り皿の方へと乗せていく。
「ん。俺に構ってないで凛もいっぱい食っていいよ」
「食べてるって」
「じゃあその最後のタン、凛食べていいよ」
「ん。もらう」
「おいしい?」
「おいしい」
○
一度の網の交換を経て、テーブルの上のお皿がやっと少なくなる。
プロデューサーはまだ食べられるようで、うきうきとしながら、網の上にホルモンを並べていた。
「ほんと、よく食べるよね」
「お酒飲んでないし、それに楽しいからな」
「楽しい?」
「うん。やっぱり楽しいご飯はさ、ついつい食べちゃうんだよ」
「あー。わかるかも」
「というわけで、俺の体重が増えるのは凛のせいってこと」
「それは違うと思う」
「そうか」
「うん」
○
「これとか、もういけるんじゃない?」
「ん。凛も食えよ」
「食べてるって」
ホルモンの油によって巻き起こる炎を氷で消しながら、プロデューサーの取り皿へ焼けたものを置いていく。
私はというと、正直なところもうお腹いっぱいだったので、二つ、三つ小さなもの食べるだけに留めることにする。
それを見てプロデューサーは「遠慮するな」と言うので、この人には私の許容量をそろそろ理解してもらう必要があるな、と思った。
○
注文したものを綺麗に完食し、プロデューサーがぽんぽん、と自分のお腹を叩く。
「いやー、食ったなぁ」
「おじさんくさいよ、それ」
「どんな感じにしたら若く見える?」
「もう無理じゃないかな」
「ひどい」
○
一息ついて、どちらから言い出すでもなく、そろそろ帰ろうか、ということになり、席を立つ。
いつもどおり伝票は見せてもくれず、プロデューサーは勝手にそそくさと会計を済ませてしまった。
半ばお決まりとなってしまったこの流れに、文句を言ったところでどうにもならないため、出来る限りの感謝を込めて「ごちそうさま」と「ありがとう」を言った。
「どういたしまして。おいしかったな」
「ね。おいしかった」
「じゃあ、帰るか」
「うん」
言って、乗り込んだ車は、ほんの二時間くらいのあいだに熱がこもって暑くなっていた。
「あっつー」などと言いながらプロデューサーがエンジンをかけると、エアコンが冷たい風を吐き出し始めた。
○
「あ、そうそう。明日はちょっとお迎え行けそうになくてさ」
「打ち合わせがあるんだっけ」
「ああ。だから悪いんだけど」
「うん、大丈夫だよ。ちょっと残念だけど」
「ホントな。明日は凛の顔が見れないなんて」
「今のうちに見といたら?」
「そうする」
「ちょっと、前見て運転してよ」
「凛が見ろ、って」
「TPOはわきまえて」
「はい」
こんなような、取り留めのない、ばかみたいな会話が私の家の前に着くまで続いた。
○
「んじゃ、また」
「うん。ご飯、ごちそうさま」
「こちらこそ」
「そういえば、こういうときのお決まりの挨拶はないよね」
「? ああ、行ってきますとかの話?」
「そうそう。あの話でいくと、今の私は玄関から玄関に行く感じだなぁ、って思って」
「あー、確かに。不思議な感じだ」
「ね。でも、変な感じはしないんだよね」
「行ってらっしゃい、って言った方がいい?」
「それはなんか違う気がする」
「だよな」
「よくわかんなくなってきた」
「俺も」
顔を見合わせて、くすくす笑って、最終的に「またね」と車を降りた。
助手席の窓がゆっくり降りて「おやすみ」とプロデューサーが言う。
「うん。おやすみ」
私が返すと、プロデューサーの車はゆっくり進み出し、だんだんと遠ざかって行く。
その後ろ姿が見えなくなったところで、くるりと家の方向へと向き直る。
リビングルームの灯りを見て、少し頬が緩んだ。
もうすぐ私は、今日二度目となる「ただいま」を二人と一匹に言うだろう。
おわり
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