渋谷凛はいわゆる不良のレッテルを貼られている。
高校に入学したばかりの4月、いきなり制服を着崩し、ピアスを開けて堂々と職員室の前を歩く姿に多くの生徒が恐れおののいた。
顔はすこぶる美人であったが愛嬌にやや欠け、人前では滅多に笑顔を見せなかった。
そのうえ曲がったことが嫌いな性質で、偉そうにふんぞりかえる先輩や教師どもにしばしば反発的な態度を取ってみせた。
クラスでは無駄に群れることを好しとせず、授業は真面目に聞いていたものの質問を当てられそうになると思い切りガンを飛ばすので教師間でも恐れられていた。
結果、友人が一人もできないまま高校1年の夏休みを迎えたのである。
(あれ? もしかして私、友達少ない……?)
凛がその事実に気が付いたのは夏休み明けの初日、二学期始業式の日であった。
教室全体が妙に和気藹々としている。
凛はふとイヤホンを外して周りに注意を向けた。
なにやらクラスメイト同士、夏休み前よりも一層親密な様子である。
窓際の席で孤独に音楽を聞き、ぼうっと窓の外を見ている生徒は凛の他に誰もいない。
凛は内心ひどく動揺し、いまさらになって慌てた。
しかし慌て始める頃にはもはや手遅れなのが常である。
(……友達、作ったほうがいいのかな)
夏の終わりの空をぼんやり眺めながら、凛はひとりそんなことを思った。
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※
今この時点では無関係な人物について、先の話をスムーズに進めるためにあらかじめ説明しておこうと思う。
渋谷凛の通う高校に島村卯月という生徒がいる。
彼女は二年生で、学業は並、容姿も並、ただし友人には恵まれ、可もなく不可もない学生生活を送っている。
家族構成や趣味、交友関係については割愛するが、島村卯月という人物を説明するにあたってとりわけ留意しなければならないのは、
彼女が地元の小さなアイドルグループに所属しているという点である。
さらに一点付け加えるならば、そのアイドルグループはもはや解散の危機に瀕しており、卯月もまたアイドル活動を辞める瀬戸際にいる、ということである。
しかしながら、彼女が自身のアイドル活動についてどのような葛藤を抱えているかということについては
このSSの趣旨から逸脱するので読者諸兄は気にせずともよい。
重要なのは、アイドルの素質を備えた(少なくともアイドルを志そうとする程度には素質のある)少女が、渋谷凛と同じ高校に通っているという事実である。……
さて、今、渋谷凛は家の花屋で店番をしている。
学校から帰ってくるなり親に留守を任されたのでエプロンの下は制服のままである。
客は一人も来ない。
退屈しのぎに店先の花の様子を見てみるものの、特に手入れが必要な商品もない。
その気になれば一日中花を眺めて過ごすこともできる凛だったが、この日は中々どうしてそんな気分になれなかった。
「友達か……でもハナコがいればわたしはべつに……」
凛はひとりごちた。
ハナコとは飼い犬の名前である。
凛は、ハナコと一緒に高校に通えたらいいのにな、と考え、それからハナコと一緒に授業を受ける風景を想像した。
悪くないな、と思った。
(ハナコは賢いから、もしかしたら私より勉強できるかも)
この飼い主は根が真面目だがどこか間の抜けたところがある。
むしろ遠慮せず率直に憚りなく個人的な見解を述べさせていただくならば、この渋谷凛、きわめてアホに近い人種である。
そのようなわけで凛は、ペットに勉強を教わるというおよそメルヘンな妄想にふけりながら花屋のカウンター席で一人「でゅふふ」とほくそ笑んだ。
「あ」
気が付くと入り口に人が立っていた。
女性客が凛を見て目をぽかんとしている。
この上なく緩みきった凛のニヤケ顔はそのままの表情で固まり、次の瞬間、恥ずかしさに耳まで真っ赤になった。
バン!!!
凛が咄嗟に立ち上がった拍子に椅子が真後ろにふっとび、盛大な衝突音が店内に響く。
女性客はびくりと体を強張らせ、一方の凛はもはや何をどう誤魔化したらいいのか分からず、
「ハ、ハナコをお求めですか?」と口走り、混乱のあまり女性客をにらみつけながら伝票用紙を握りつぶしている。
奇妙に歪んだ笑みを浮かべ鼻息は荒く、頬が紅潮する様は完全に怒髪天を衝く勢いである。
そんな凛の憤怒の形相を目の当たりにした女性客は
「い、いえ! なんでもありません、失礼しました!」
とだけ言い残して逃げるように去って行ってしまった。
あとにはただ口元をキュッと締めてぷるぷる震える凛の哀れな姿だけが残った。
(……そういえばあれ、うちの制服だったな……)
しばらく経って落ち着いた凛はようやくそのことに思い至った。
○
十月の文化祭を目前にひかえ、学校内は準備に余念のない生徒達で連日のようにてんやわんやである。
どのクラスもそわそわと落ち着きなく青春の思い出作りに躍起になろうと浮き足立っている。
それは凛とて例外ではなかった。
むしろ内心では人一倍わくわくしていたが、感情を表に出すのが苦手な凛はどんな風に振る舞えばいいのか分からず、かえって仏頂面が増した。
凛が周囲から不機嫌だと思われやすいのは、物事に真剣になるとつい表情が険しくなってしまうクセのせいもあった。
文化祭直前の、ある放課後のことである。
「あの……」
「ひゃいっ!?」
「あ、いや……なにか手伝おうか?」
「けけけ結構ですっ お気になさらず、どうぞっ」
飾り付けの準備をしていた女子生徒Aに声をかけると、彼女は急に何か用事を思い出したような素振りをして教室を出て行った。
凛はほかに手伝えることはないかと辺りを見渡してみたが、教室にちらほら残って作業している生徒は必死に目を合わせないよう顔を背けている。
そもそも凛のクラスはたこ焼きの模擬店を出すことになっており、準備にそこまで人手が要らないのである。
(何もしないで帰っちゃうのもなんか悪いな……)
にわかに高まったモチベーションのやるかたない思いから、凛は、なんとなく放課後の校内をぶらぶらすることにした。
普段は授業が終わればまっすぐ帰るエリート帰宅部の凛にとって、放課後のざわついた校舎を歩くのは新鮮でわくわくした。
(へぇ、2組は焼きそばなんだ……うちのクラスも負けてらんないな)
(そういえば部活でも出し物するんだっけ……ラグビー部はメイド喫茶? ふーん……行ってみようかな)
(上級生は演劇やるクラスもあるんだ……舞台に立って演技するなんて、すごいな)
(このクラスはなんだろう……お化け屋敷?)
ちょうどそのお化け屋敷の準備をしているクラスの前を通りかかった時である。
大量のダンボール箱を抱え、おぼつかない足取りの生徒が廊下の向こうから歩いて来た。
そのすぐ近くに、床に座って熱心に作業している生徒がいる。
お互い、存在に気付いていない。
「っ! あぶない!」
凛が咄嗟に駆け出した直後、「うおっ」「きゃっ!?」という声とともに歩いていた生徒がバランスを崩した。
間一髪、凛が手を伸ばし、ダンボール箱が落ちきる前に支えてみせる。
ギリギリセーフ……かと思われたが、箱の中身が慣性で凛の頭に降りかかってきた。
\びちゃっ/
お化け屋敷で使用する血糊がケースから飛び出し、凛はそれをもろに頭からかぶってしまったのである。
「……大丈夫? 怪我はなかった?」ダラダラ
「す、すみませ……どぅぁ!?」
「きゃーッ!!」
「ん?」ギロリ
女子生徒の悲鳴が廊下に響く。
凛はすぐに状況が飲み込めず、顔にかかっている冷たい液体に眉をひそめ、廊下の異様な雰囲気を察して辺りをキョロキョロ見渡した。
生徒Bは当時を振り返ってこのように語る――
『いやぁ、殺されると思いましたよね……あんな目つきで睨まれたのは生まれて初めてでした――』
『――血糊だと分かっていたなら怖くないんじゃないかって? ンー……そうじゃないんだよなァ――』
『絵になってるんだよ……とにかくサマになってるんだ……異様な迫力があって――』
『スゴみ、っていうのかなァ……ねぇ? ホラ、あの人……なまじ美人でしょう?』
『なんていうか、その……取って食われるっていうか、取って食われたいっていうか、もっと睨みつけてェッ!て感じの――』
以下略。
――凛は髪や顔についた血糊を洗い取るため、ひとまず保健室へ向かっていた。
(あーあ、サイアクだよ……ていうか、あんなに怖がらなくてもいいじゃん)
この時の凛は正真正銘の不機嫌であった。
廊下で他の生徒とすれ違うたびに小さな悲鳴が聞こえ、教師までもが恐怖して近づけなかったほどである。
とはいえこんな姿で堂々と校内を歩くのはさすがの凛も気が引けたので、保健室へは外廊下を迂回して行くことにした。
人気のない棟を行くと放課後の喧騒が徐々に遠のき、すると今度はグラウンドから部活に励む生徒のたくましい掛け声が聞こえてくる。
そして凛が体育館裏への渡り廊下を歩いていると、ちょうど練習に向かおうとしている野球部員とすれ違い、またも悲鳴を上げられたりした。
(あ、ボールが落ちてる……あぶないなぁ)
野球部が落としていったボールを拾おうとして腰をかがめると、突然、背後から品のない怒鳴り声がしたので凛は思わず振り向いた。
「おい渋谷ァ! そこで何して……なんだお前その顔!? 喧嘩か!?」
(げっ……)
校内でも評判の悪い生活指導の教職員であった。
いつも手に竹刀を持っているステレオタイプな体育教師である。
ちょっと態度が不品行というだけでねちねちと説教し、しかも女子に対してはあからさまにいやらしい目つきをするので多くの生徒から不評を買っていた。
凛の一番嫌いなタイプである。
(めんどうなことになったな……)
※
一方その頃――
「……ふうっ こっちの衣装ほとんど終わりました!」
「わ、卯月ちゃん仕事が早いね」
「えへへ、そう? こういう作業って好きだから、つい……他にまだ手伝えることある?」
「んー、大丈夫大丈夫、もうやることないよ」
「え? でもまだ大道具とか全然……」
「いいからいいから。てか卯月ちゃん、最近すごく忙しいんでしょ? ほら、アイドルの……だからこっちは私たちに任せてさ」
「う、うん……でも」
「だいたい、そんな疲れた顔してちゃせっかくのアイドルも台無しじゃん? ね、今日はいいから帰ってゆっくり休みなよ」
事実、卯月は文化祭直後に商店街でのミニライブイベントが控えていたので、特にここ数日は休まる暇がなかったのである。
そんなわけで結局、クラスメイトに諭される形で早めに帰ることになった。
(ふあ……確かにちょっと疲れがたまってるかも……帰ったら今日はゆっくり寝よう)
そうしてふらつく体をなんとか運びながら、
(あ、そういえば図書室に本を返さなきゃ……)
ふと用事を思い出し、図書室までの道を引き返して行った。
「~~……!」
「~~…………!!」
(? なんの声だろう……?)
卯月は本を返却したあと、グラウンドから玄関へ通じる外廊下に向かっていたところ、どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。
不審に思い、声のする方へ行ってみる。
※
「あ痛たた……こ、腰が……」
「だから言ったのに……足元のボール危ないよ、って」
凛は体育教諭の嫌味っぽい説教を受けたあと、むりやり職員室に連れて行かれそうになったが、
凛の腕をひっつかんで歩き出そうとした瞬間、彼は床に転がっていたボールを踏んづけ見事にひっくり返ってしまったのである。
今、鮮血を浴びた凛の足元に屈強な体育教諭が呻き声をあげて突っ伏している。
「もう若くないんだからさ。他の先生呼んでこようか?」
「こ、これしきのこと……助けなどいらんわい」
「ならいいけどさ……ほら、あんたの杖だよ」
転んだ拍子に放り投げられた竹刀を拾い上げると、凛はそれを得意気に地面についてみせた。
「あ」
ふと顔を上げると、廊下の曲がり角からこっそりこちらを覗いている女子生徒と目があった。
卯月である。
「…………」ふらっ
ばたん。
卯月が気絶したようにその場に崩れ落ちた。
「え、え、え、ちょ、大丈夫!?」
凛が慌てふためいて卯月のもとに駆け寄るが、卯月はもはや意識朦朧として目をぐるぐる回している。
「さ、殺人じけん……だれかけーさつ……ひゃくとおばん……」
※
目が覚めると卯月は保健室のベッドに寝かされていた。
「あら、ようやくお目覚めかしら」
「先生……あれ、なんで私……?」
先生に事情を聞くと、気絶していた自分を渋谷という1年生が保健室まで運んできてくれたらしかった。
「渋谷さんはもうとっくに帰っちゃったけど、あなたは時間大丈夫? ずいぶんぐっすり寝ていたみたいだけど」
時計を見るとすでに夕方6時をまわっている。
(わっ、もうこんな時間! ママが心配しちゃう……)
卯月は慌てて跳ね起きて帰り支度をした。
そうして帰りの道すがら、唐突にあのおそろしい血まみれの現場を思い出して身震いした。
(あの後どうなったんだろう。渋谷さんっていう人が助けてくれたのかなぁ)
※
一方、渋谷凛。
(疲れた……今日は散々な目にあったな)
(ハナコと遊んで癒されよう)
(あの人、大丈夫だったかな。靴の色からして先輩だったみたいだけど……)
(……ていうか、どこかで会ったような……?)
○
準備期間だけでこれほどの特筆すべきアクシデントに見舞われた二人であったが、
文化祭当日は意外にも大きな事件は起きず、凛と卯月はそれぞれの祭りを思うさま満喫した。
この青春の押し売りとも呼ぶべきヒステリックな儀式において、彼ら彼女らがいかなる愉快事を繰り広げたか、それはこの際どうでもよい。
筆者自身さしたる興味もない。よって省略させていただく。
とりあえず行事そのものは滞りなく進行し、祭りの興奮冷めやらぬ中、文化祭はめでたく幕を下ろした。
が、その後も例の血まみれ美女の噂は学校中に広まり続け、また大勢の目撃証言からそれが凛の凶行だと信じられるようになっていた。
気が付けば凛は学校一の札つきのワルとして多くの生徒に知られるところとなったのである。
「ねぇ、あの人じゃない……ほら、例の……」
「不良と喧嘩して血祭りに上げたっていう……」
「ナイフ振り回してるところを目撃した奴もいるって……」「こわ……近寄らんとこ」
「でもぶっちゃけさ……」「すげーかわいいよな……」「分かる。オレ、ファンなんだよね……」「マジ? 実はオレも……」
(……なんか最近、視線を感じる……気のせいかな)
当然、凛の噂は卯月の耳にも入ることとなった。
「それ、私も見ました! 血まみれの子が先生を襲ってたところ……」
「えーこわーい」「てかやばくなーい?」
「ね、ね。他に聞いた話だとさ、購買部のカツサンドを買い占めて裏に流してるとかって……」
「やばー」「ねー」「卯月ちゃんも気をつけなよ?」「う、うん」「その不良、1年なんだって?」
「そうそう。名前は渋谷なんとかって言ったっけ」
(え? 渋谷って確か……)
卯月はふいに疑問を覚えたが、すぐに考えるのをやめた。
あまり深く首をつっこみたくないという思いと、今週末に行われるミニライブのために余計な不安を募らせたくないという思いがあった。
ライブと言っても商店街のイベントにサブで出演する程度である。
しかし卯月にとって、あるいは卯月の所属するグループにとっては今回の出演が実質上の解散ライブだった。
外部に向けた告知はまだしていない。そもそも、告知をしたところで人が増えるほど知名度のあるグループでもない。
卯月とて事情のすべてに納得しているわけではないが、それでも最後まで真剣に取り組みたいという気持ちがあった。
健気である。
その日の放課後、卯月は帰宅後いつものようにジャージに着替え、河原へ出かけた。
週に何度か自主的に取り組んでいるジョギングである。
夏も過ぎ、暮れかけた夕日が地平線の彼方を輝かせている。
卯月は寂しい気持ちを押し殺すようにペースを上げて走った。
「わんっ!」
「ぅええ゛っ!? ……っと、と。びっくりしたぁ、なんだワンちゃんかあ」
いきなり背後から吼えられ卯月は飛び上がったが、その正体が小型犬だと分かるとすぐ足を止めて近寄った。
「よ~しよしよし、こんな所でどうしたんですか~? あれ、リードが……飼い主さんとはぐれたのかな?」
そうして卯月がワンちゃんと戯れていた時である。
「――――……ナコー!」
「え?」
「ハナコーッ!!」ドドドド
誰かがものすごい形相で卯月の方へ走ってくる。
その顔を一目見て卯月はハッとした。
(あの時の……怖い人!!??)
そう、凛だ。
「はわわわ……に、逃げなきゃ!」
つっかえながら走り出す卯月の後ろをワンちゃんが嬉しそうに追いかける。
「待ってえええええ!!」→「わんわんっ わんっ」→「ひええええええ誰か助けてえええ」
以下ループ。
数分後。
「はぁ はぁ ま、待って……」→「わんっわんっ」→「ひぃ ふぅ も、もうだめ……」
先にダウンしたのは卯月であった。
へなへなと河原の芝生に倒れこみ、そこへハナコが尻尾を振りながらじゃれつく。
その後に凛が、息を切らしながらなんとか追いついた。
「ぜぇ、ぜぇ、す、すみません……うちのハナコが……」
「 」チーン
為すすべなくハナコにじゃれつかれる卯月。
「え? あれ? もしかしてこの前の……」
「わんっ」
…………
――――
「――……いきなり逃げ出しちゃったりしてすみません。その、私てっきり……」
「いや、小型犬でも追いかけられたら怖いよね。こっちこそ、ごめんなさい。ほらハナコも謝って」
「クゥン」
(べつに犬が怖くて逃げてたわけじゃないんだけどなぁ)
夕暮れの街並みを背に二人は河原に腰を下ろした。
ハナコは凛に抱かれたまま卯月の方ばかり向いて尻尾を振っている。
卯月はなるべく凛の方は見ず、ハナコに笑いかけるように話した。
(どうしよう……まさか不良さんに絡まれるなんて……私のこと覚えてない、よね?)
「……あの、以前会ったと思うんですけど、覚えてますか?」
「(どしぇー!?) え、えーっと、どうだったか、な……? あはは……」
「あぁ、やっぱり覚えてないか。文化祭前、廊下でいきなり倒れたところを保健室まで運んだんです。あのあと大丈夫でしたか?」
「え? えっと、はい。私はとくになんともなかったですけど……」
「それならよかった」
凛はにっこり笑うとハナコを抱きなおし、優しく撫でた。
その様子を見て、卯月は(もしかしてそんなに怖い人じゃないのかも?)と警戒心を和らげた。
(それに、やっぱり私を助けてくれたのはこの人で間違いないみたいだし……でも、じゃあ……)
「先輩はここで何を?」
「へ? ああ、私よくここでジョギングしてるんです。体力つけなくちゃいけないから」
「ふぅん、ジョギング……部活動ですか?」
「えーっと、部活動っていうか、アイドル活動、なんですけど……てへへ」
「アイドル?」
急に凛の顔が険しくなったのを見て卯月は慌ててぶんぶんと首をふった。
「アアアアイドルなんて言ってもほんと全然、大したことなくて、もう全然、やってるんだかやってないんだか分からないくらいで」
言いながら卯月の声は弱々しくなっていく。
そんな卯月の心境など察しようもない凛は、ただ素直に驚いて言った。
「すごいですね。へぇ、アイドル……初めて間近で見たかも」
感心するように一人で頷きながら卯月の顔を興味深そうに覗きこむのであった。
反応が完全に芸能人に対するそれである。
(こうして見ると確かにすごくかわいい……アイドルってこんななんだ。ていうか私、アイドルと知り合いになれる……!?)
「あの、あの、はっ 恥ずかしいですそんな近くっ」
「ご、ごめんなさい!」
目も合わせられずどんどんうつむいていく卯月の耳が赤らむのを見て、凛は慌てて顔を離した。
(うぅ、気まずい……帰りたい……)
卯月はもじもじしながらひたすら目の前を流れる川を見つめている。
一方、そんな卯月のいじらしい横顔をなんだか珍しいものを見るような目で観察していた凛は、唐突にある考えを閃かせた。
そして良い案だと思えば深く考えず直球で実行するのが、この単純かつ素直な頭の為せるところなのである。
「あの」
「へぁいっ!?」
「え、っと……恥ずかしい話なんですけど、先輩にお願いしたいことがあって……」
「な、なんでしょう(まさかカツアゲ!? お金持ってないよ~!)」ドキドキ
凛は照れくさそうに目を逸らし、やや頬を赤らめながら言った。
「わたしと、友達になってくれませんか?」
「え?」
「え?」
(えぇ~!? と、友達ってつまりどういう……ハッ、もしかして不良仲間になれってこと!?)ガビーン
(あぅ……さすがにいきなりすぎたかな……ちょっと引いてるし)
とはいえ、凛のこのアイデアはそれなりに当てがあり、まったく無謀な提案というわけではなかった。
まず、卯月には倒れていたところを保健室まで運んだという貸しがある。
またクラスメイト以外でまともにしゃべったことがある初めての人でもあり、
少なくとも凛からしてみれば、すでにグループが固まってるクラスで新たな友達を作るより遥かにハードルが低いと判断したのである。
他にも、ハナコが懐いていること、卯月に純粋に親しみやすさを感じたこと等々、理由は様々あったが、
中でも最も強いと思われる動機は「アイドルと友達になれる」というあまりにも俗っぽい下心のためであろう。
大人びた風貌に似つかわしくない無邪気さである。
「も、もし友達にならなかったら、どうなるんでしょうか……?」
「え? いや、べつにどうも……あ、でも学校ですれ違った時とかどうしよう(中途半端な知り合いって気まずいんだよね……)」
(学校で会うたびにシメあげられちゃうの私!?)
「先輩がどうしてもイヤっていうなら、わたしにも考えがありますけど(せめてファンとして応援するくらい……)」
(脅されてるー!?)ガビーン
もはやこれまで。卯月の答えはひとつしかない。
「わ、私でよければ……」
「ほんとですか!? よかった……」
凛は心底ホッとしたように溜め息をつき、にっこり笑いかけた。
卯月はただおずおずと畏まったように「よ、よろしくおねがいします……」と言って頭を下げるしかなかった。
「……そういえばまだ自己紹介してなかったっけ。わたし、渋谷凛っていいます。先輩は……?」
「わ、私は島村卯月っていいます。二年三組の」
「じゃあ島村先輩、これからよろしくおねがいします」
そう言って凛は深々と頭を下げた。
それがあまりに仰々しい感じだったので卯月は思わず恐縮し、
「そんな、そこまでかしこまらなくても……卯月でいいですよ」
と言うと、凛はなにを思ったかしばらく考えて答えた。
「じゃあ、これからよろしくね。卯月」
(いきなりタメ口!? やっぱりこの人、不良さんなんだ……!)ガクブル
「ハナコもよろしくって」
「わんっ」
「あ、あはは……」
「……でもよく考えたらさ、ハナコがいなかったらこうやって偶然会うこともなかったんだよね」
「そう、なんですか?」
「うん。いつもの散歩コースが工事中で塞がれててさ。だからこっちの河原の方に来たんだけど、そしたらハナコ、急に走り出して……」
油断してたらリードを手放しちゃったんだ、と凛は言った。
「そしたらさ、まさかあの時わたしが保健室に運んだ人にハナコが飛びつくなんて……おもしろい偶然だなって」
そう言って凛はハナコの頭を手のひらでわしゃわしゃして褒め称え、それから卯月に嬉しそうに微笑みかけた。
「……ふふっ、確かにそうかもしれないですね」
卯月は思った。
ハナコとじゃれてる時の凛は、もとの無愛想な表情や険しい目つきから打って変わって、本当に幸せそうな素敵な笑顔をしている。
(笑顔……そっか、私……)
ひるがえって考えるのは自分のことである。
忘れていた大事なことを思い出させてくれた、そんな気がした。
「渋谷さんは本当にハナコちゃんのことが好きなんですね」
「まあ、ね。……あと、凛でいいよ。名前」
自分で言いながら凛はむず痒そうな顔をした。
「じゃ、じゃあ、凛……さん」
「呼び捨てでいいってば」
「えっと、凛……ちゃん」
凛はいかにも不服そうに首をかしげたが、「まあいいや」と言って流した。
「あ、もうこんな時間? ごめん、長々と引き止めちゃって……ジョギング中だったのに」
辺りはすっかり暗くなり、街灯がぽつぽつと明かりを灯し始めていた。
「ううん、私……今日はそんなに走るつもりなかったですから」
これは嘘である。卯月は、本当は走り込むつもりでいた。
が、こうして凛と出会い、気晴らしとは言えないものの立ち止まって振り返るきっかけを得られたことで、
卯月は自分が必要以上に焦っていたことに気付いたのである。
「それじゃ、わたしはこれで」
「あ、あの!」
夕闇に立ち上がり、ハナコを連れて帰ろうとする凛に、卯月はためらいがちに声をかけた。
「今週末、商店街でライブをするんです。それで、よかったら凛……ちゃんも、どうですか?」
自分でも思いがけない提案であった。
しかし今となっては不思議と凛に対する偏見は薄れ、むしろ親しみの感情すら沸き起こってくることに卯月自身びっくりした。
凛もまた驚いたように振り返り、一言、
「わかった」
とだけ言い残して帰って行った。
帰宅後。
凛(あ、連絡先聞くの忘れてた……二年三組だっけ。明日行ってみよう)
卯月(どうせなら例の噂のことも聞いてみればよかったかな。でもそれはそれでやっぱり怖いかも……)
○
翌日、凛が休み時間に二年三組を訪れ、しかも卯月を呼び出して連れ去った事件は瞬く間に学校中に広まった。
凛はただ(なんか雰囲気悪いクラスだな……)としか思わなかったが、
学校一の札つきのワルがクラスのマドンナ的存在である卯月を名指しで連れ出したとなれば教室が騒然となるのも無理はない。
実際、卯月本人もそこそこビビった。
二人は廊下で会話しようとしたが教室の窓から野次馬がやたら見てくるので仕方なく隅の方へコソコソ移動し、
それがかえってアブナイ雰囲気を醸していた。
「卯月ちゃん、あの渋谷とどういう関係なの!?」
「脅されてるとか?」「カツアゲ?」「ていうか壁ドンされてなかった?」
「いや、そういうんじゃなくて、えっと、なんて言ったらいいんだろ……と、友達? かな?」
「友達?」「そんな風には見えなかったけど」「やっぱり何か悪さされてるんじゃ……」
「あ~……ご、ごめんなさい。本当になんでもないんですっ、私は大丈夫だから……」
卯月にしてみれば、凛に対する悪感情こそ今はもう消えて無くなっていたが、
学校で妙な噂が立ってしまうのもそれはそれで困る思いがあった。
であれば尚更、卯月から凛に積極的に話しかける動機がない。
また凛にしてみても、友達を作るという目標は達成したものの、
その次に友達と何をするのかということについては全く考えていなかった。
とりあえず携帯のメッセージアプリで毎朝「おはよう」と送ってはいたが、
卯月が「おはようございます」と返してもそれ以上会話が続かず、二人のチャット画面にはひたすら朝の挨拶が並んでいった。
不器用にもほどがある。
さて、そんなもどかしい関係がしばらく続き、件のミニライブ当日である。
朝、凛は目を覚ますとすぐ携帯を取り出し、卯月に一言「がんばって」とだけメッセージを送った。
ライブが行われるのは夕方である。
それまで何をして時間を潰そうか考えながら、凛は、とりあえず朝のハナコの散歩に出かける支度をした。
ところが窓の外を見てみると空は厚い雲に覆われ、今にも降り出しそうな気配である。
テレビを付けると、ニュース番組では気象予報士がせわしなくステッキを動かして解説していた。
『――昨日夕方に上陸した台風○号は速度を増して北上し、今日昼過ぎには各地で大荒れの天気となるでしょう。大雨、土砂災害等の警戒情報に注――』
※
「――……外の屋台はみんな撤収だって」
「風、強くなってきたもんね」
「中止、になるのかな……」
「あ、マネージャーさんからだ! ……アーケード内でのイベントは様子を見て実施、予定変更なしだって! よかったぁ」
「でもお客さんたち、来てくれるかどうか……」
「…………」
午後、控え室に集まった卯月たちグループの面々は不安そうに顔を見合わせた。
卯月たちの住む地域は台風直撃コースからやや外れているとはいえ、午後になると雨風も少しずつ強まり、
このままだと夕方前にはピークを迎えそうな気配であった。
卯月たちの不安は的中した。
商店街に訪れる客が一向に増えないまま外はどんどん雨足を早め、
雷が鳴りはじめた頃にはもう、突風と土砂降りで大荒れの天気となった。
アーケードには元々の客の他に雨風から避難してきた人らもちらほら見えたが、
とても賑わっているとは言えない人数である。
イベントステージ上ではプロによる手品が披露されている最中だが、
客席には暇を持て余したおじいちゃんおばあちゃんが休憩代わりに座っているだけである。
「ねえ、電車も止まっちゃったってさ」
「そんな……」
意気消沈するメンバーに卯月が声をかけて励ます。
「だ、大丈夫だよ! たとえお客さんが少なくても、今は私たちにできることを精一杯やろう!」
言いながら、やはり内心は悔しい思いでいっぱいなのであった。
――そろそろ出番が回ってくる。
卯月は出演準備に取り掛かる前に、すがるような気持ちで客席をこっそり覗きに行った。
(あぁ……やっぱり……)
両親の姿こそ確認したものの一般客は年寄りが数人いるだけで、見に来ると約束してくれたクラスメイトの姿はどこにもない。
そうして落胆しかけた、その時であった。
(……あっ!)
見覚えのある長い黒髪の少女が座席の隅っこに座っていた。
凛である。
ずぶ濡れになった髪や服をしきりにタオルで拭いている。
その椅子の脇にはボロボロになった傘が無残に立てかけられていた。
しかし凛は大して気にした様子もなく、ステージ上の落語に熱心に聞き入っている。
そうして時折、必死に笑いを堪えようとして奇妙に顔を歪めたりしていた。
(渋谷さん……来て、くれたんだ……)
卯月の心に、にわかに勇気がわいてきた。
控え室に戻り、喝を入れるように自らの頬をパチンと叩くと、意を決してステージ衣装に着替えた。……
※
(あ、危うく声出して笑うところだった……落語ってこんなに面白かったんだ)
落語のプログラムが終わり、凛は満足したようにひと息ついた。
(えっと、次が卯月の出番だっけ。……それにしてもお客さん少ないな。まあ台風だから仕方ないか)
凛はステージが思ったよりずっと小さいことが気にかかったが、こうしたイベントに来たのが初めてということもあり、
(こういうものなのかな)となんとなく自分を納得させた。
やがて司会者が壇上に上がり、卯月たちご当地アイドルグループを紹介すると、賑やかな音楽が鳴りだした。
可愛らしい制服タイプの衣装を身にまとったアイドルたちが元気にステージへ駆け出す。
彼女たちの、ささやかな、けれども精一杯の心をこめたライブが始まった。……
※
「…………あの、さ」
「は、はいっ……グスッ な゛んでじょう゛」ズビ
「なんて言ったらいいか分からないけど、その……すごく、よかったよ。ライブ」
「うっ……うえぇぇ~ん」
「なっ!? ちょっと、泣かないでよもう……ほらタオル」
「ずびばぜん……」チーン
ライブの最後、ほとんど人のいない客席に向かって解散を発表したあと、卯月はトークの途中で泣き出してしまったのである。
そしてライブが終わったあと、卯月が控え室から出てきたところへ凛が声をかけて今に至る。
「今回が最後だなんてわたし、知らなかったから……」
「えへへ……言うの、忘れてました」
卯月は目に涙を浮かべ、強がるように笑ってみせた。
「最後くらい笑おうと思ったのに、そんなこと考えてたら急に涙が出ちゃって……みっともないところ見せちゃいましたね」
「そんなことない。ライブ、良かったよ。わたしもちょっと泣いちゃった」
「え?」
「あ、う、な、なんでもない!」
凛のそれは完全にもらい泣きである。
基本的に凛は映画やドラマでも感動系にめっぽう弱いのであった。
「でも、本当に良かった。こういうの、生で見るの初めてだったけど……卯月、すごく楽しそうだったし。わたしも楽しかった」
凛が励ますように笑いかけると、卯月はこくりと頷き、そして
「……うんっ。私、楽しかったです!」
心から嬉しそうに笑ったのである。
それはステージの上でさえ滅多に見ることの敵わない、太陽のようにまぶしい笑顔であった。
(…………!)
この時の、卯月の極上スマイルを目の当たりにした凛の心のときめきは例えようもない。
「あ、ママが呼んでる。今日は来てくれてありがとう、凛ちゃん。また……ね」
そう言って卯月は遠慮がちに手を振って別れ、そして足早に行ってしまった。
後にはただ心を奪われたままの凛が呆然と突っ立っているだけであった。
頭上をするどい閃光が走り、大気が震え、そこでようやく凛はハッと我に返った。
(…………ていうか、帰れないんだけど)
途方に暮れながら凛は、親に電話して迎えに来てもらうよう頼んだ。
普通に怒られた。
○
翌朝、台風一過のすがすがしい青空であった。
いつものように友達とおしゃべりしながら登校していた卯月は、
ふと校門近くの曲がり角をあの長い綺麗な黒髪がよぎっていくのを見た。
その姿を見とめるや否や卯月は小走りに駆け寄り、
「おはようございますっ 凛ちゃん!」
と声をかけた。
「あ、卯月。おはよう」
一緒に登校していた卯月の友達はあんぐりと口をあけて固まった。
周りにいた生徒もみな驚き、二人がむつまじく挨拶する様子を唖然と見つめるばかりである。
「昨日は帰り、大丈夫でしたか?」
「うん。卯月の方こそ大丈夫だった?」
「はいっ ……それでね、凛ちゃん。私、凛ちゃんに謝らなくちゃいけないことがあるんです」
「?」
「私、今までずっと誤解してました。凛ちゃんってとっても優しい人なんですね」
「はあっ? い、いきなり何……べつに、そんなことないよ」
「えへへ……あと、照れ屋さん」
「からかわないでよ」
言いながらそっぽを向くが、表情はまんざらでもない様子である。
というか、卯月の笑顔がまぶしすぎて直視できなかったのである。
(……あれ、今わたしすごい友達っぽい会話してる)
ふいに自覚すると今度は嬉しさのあまり口元がニヤケそうになったが、
シャイな凛は恥ずかしさについつい素っ気無い態度を取ってしまうのであった。
一方、卯月はそんな凛の心境を分かっているのか分かっていないのかひたすらニコニコして凛の横を歩いている。
片や地元の元アイドルにして学校のひそかな人気者、片や学校一の不良として名を馳せ、恐ろしい噂の絶えない影の有名人。
そんな二人が仲良く並んで歩いている風景に周囲の生徒は一時騒然となった。
こうして凛と卯月の謎めいた関係は二日と経たず学校中に知れ渡ることとなったのである。
※
異色のコンビの噂が広がっても凛は相変わらずクラスで浮いた存在のままであった。
というより、これまで以上に周りから距離を置かれるようになった。
なにせ凛が親しくしていると噂の相手はあの島村卯月である。
学校ではそれほど目立って話題になる人物ではなかったものの、
その愛嬌のある仕草や表情、そしてアイドルという肩書きに多くの生徒がひそかな憧れを抱いていた。
そんな卯月に、下級生である凛が馴れ馴れしくも呼び捨てにしてお近づきになったとあらば、
これを忌々しく思う人物の一人や二人いてもおかしくない。
しかし当の凛本人はそんな周りの嫉妬心などどこ吹く風、まるで気にしていないのであった。
(ふふふ……卯月、可愛かったなァ……)
そうして今朝の会話を思い出しては不敵に笑う凛を、周囲はますます気味悪がって遠巻きに眺めやるのだった。
「でさ、でさ、けっきょく卯月ちゃんは渋谷とどーゆー関係なの?」
質問攻めに遭っているのは卯月である。
しかし卯月がいくら「ただの友達だよ」と説明しても誰も納得しようとしなかった。
「あんまりさ、関わらない方がいいんじゃないの。騙されてるとか、あるかもしれないし」
「凛ちゃんはそんな人じゃないよ」
「でも不良だよ?」
「不良は不良でも、やさしい不良さんなんです!」
卯月が妙に力をこめて言う。
いや、どっちにしろ不良じゃん、と多くのクラスメイトが心の中で突っ込んだ。
――さて、ここでひとつ断っておかなければならないのは、
このSSが複雑な人間関係を描くことを主題としているわけではない、ということである。
つまり、本来であればここで卯月が、凛と、凛のことを悪く言うクラスメイトの両方から板ばさみにあい、
それによって苦悩するというシーンがあるのが自然だろう。
残念ながら、筆者はそのような些細な心理的葛藤および文学的描写のために主たる本筋をむざむざ削ることを潔しとしない。
というか、そもそも筆者にそんな高尚な文章能力が備わっていない。
このSSは二人の少女のささやかな友情の物語であり、それ以上でも以下でもないということを読者諸兄には改めて理解していただきたいのである。
ただし、みんなのアイドル島村卯月が今後クラスメイトや凛とどのように折り合いをつけていったかという問題については
二、三の説明をするだけで事足りると思われるのでここで軽く触れておくことにする。
島村卯月は、境遇こそ恵まれなかったが潜在的には天性のアイドルの素質を備えていた。
それは「人を愛し、人から愛されやすい」という聖母マリアもかくやと思しき素質である。
したがって卯月を中心とした凛vsクラスメイトという不毛な対立構造は、
「人は愛の名のもとに平等である」という卯月自身のアイドル的威光により、特に大きな問題に発展することなく平和に落ち着いたのだった。
くだらない嫉妬や怨恨など、卯月の笑顔一発で解決できるというわけである。
――その日、凛は帰宅してからハナコの散歩に出かけ、そしていつもとは違う道を行った。
以前来た時と同じように、川面には夕日に伸びた自分とハナコのふたつの影が揺れて映っている。
そうして秋の夕暮れの景色に心を奪われながらゆっくり歩いていると、ふと、背後から声をかけられた。
「凛ちゃん! ハナコちゃんのお散歩ですか?」
ジャージではない、制服姿の卯月がそこにいた。
凛は嬉しそうに手を振って応える。
「あれ? でも普段は違う散歩コースだったんじゃ……」
「え、いや、これはその……なんだっていいでしょ」
ごまかそうとしてごまかしきれず照れる凛。
「卯月こそ、走るわけでもないのになんで……」
「えへへ……実は、ここに来れば凛ちゃんに会えるかな、なんて……」
(天使ッ……!?)
矢で射抜かれたような衝撃であった。
「ほら、学校だとなかなか会う機会ないじゃないですか。せっかく友達になろうって言ってくれたのに、それじゃ悪いかな、って……」
「…………」
「凛ちゃん?」
「……綺麗……」
「へ?」
「わーっ! えーっと、その、つまり……ほら、夕日! すごく綺麗だよ」
「わあ、ほんとに綺麗な夕日……」
そうして二人は以前と同じように河原に腰を下ろし、並んで夕日を眺めた。
「……ねえ卯月。ひとつ聞いてもいい?」
「なんですか?」
「アイドル、またどこかで続けたいって思わないの?」
「……う~ん、できるならやりたい、ですけど……でも、しばらくはいいかなって」
「どうして?」
「やっぱりアイドルって大変だし、それに楽しいだけじゃなくて辛い事も、たくさんあったし……」
そう言って思いつめたように黙ってしまった。
そんな卯月の、夕日に当てられた横顔を見ながら凛は、
「……そっか。わたしは卯月にアイドル続けてほしいなって思うけど、無理にとは言えないよね」
と呟いた。すると卯月は弁解するように、
「ああ、いえ、無理にってことはないんですよ? ただ、今の季節はオーディションやってないし、私も勉強で忙しくなるし……」
「そうなんだ」
「一応、養成所とかに通ってみようかなって考えたんですけど、それも今はまだいいかなって」
「へえ、養成所……そういうのもあるんだね」
凛はなぜか感心したようにウンウンと頷いた。
「あ、そういえば思い出した」
卯月がポンと手を叩いて言った。
「お世話になったマネージャーさんに今度お礼をしようと思ってるんです。それで何か良いのないかなって探してるんですけど」
「ふーん、お礼ね……なら花束なんてどうかな。定番かもしれないけど」
「花束かあ」
「ふふ、わたしの家花屋だから、なんだったら割引にしてあげてもいいよ」
「え、本当ですか? でもわざわざ割引なんて……」
「まあわたしが頑固なお父さんを説得できたらの話だけどね」
凛は冗談めかして言った。
それでも卯月は嬉しそうに「割引でなくても私、凛ちゃんのお店で買います!」と言った。
「実を言うと先週、先に辞めちゃったトレーナーさんにも花束を贈ったんです。そっちも凛ちゃんのお店で買えばよかったなあ」
「へえ。ちなみにどこの花屋?」
「確か○○っていうお店だったかな。でもね、そのひとつ前に寄った花屋さんがなんだかすごく怖いところで……」
「怖い花屋なんてのがあるの?」
凛はフフンと鼻で笑った。
「ほんとに怖かったんですよー! 店先の花を見てたらなぜか店員さんにすっごく睨まれて、しかもいきなり怒鳴られたから私ぴゃーって逃げちゃって」
「そんな酷い店あるんだ。何て名前?」
「えーっと、確かフラワーショップ……シブヤ? だったかな?」
「え?」
「え?」
「あーっ!! あの時の!」
「う゛ぇぇーっ!? あの時の店員さん!?」
お互い指を指しながら驚きに口をパクパクさせた。
しばらく固まる二人の間でハナコが無邪気に「ワン!」と鳴く。
「…………はは……こんな偶然、あるんだね……」
「……ふ、ふふふ、なんか、ふふっ、おかしいですね」
やがて卯月がぷっと吹き出し、釣られて凛もおかしさと嬉しさに声をあげて笑いだした。
そうして夕暮れの河原でひとしきり笑い合い、すっかり打ち解けた気分になった二人はそれから色々な話をした。
「あの時わたしちょっとテンパっててさ……あー恥ずかしい」
「私ほんとにびっくりしたんですから」
「ごめんごめん」
「ふふ、それにしても凛ちゃんって普段は落ち着いてるのに、時々すごく、こう……迫力ある顔しますよね」
「え? そう?」
「正直なこと言うと私、凛ちゃんのことずっと怖い不良さんなんだと思ってました」
「よく言われるよ。お母さんにもさ、あんたはもっと愛想良くしなさいとか言われるし」
「でも凛ちゃん、笑った顔はすごくかわいいです」
「ちょ、そういうのやめてって、もう、恥ずかしいから……」
「やっぱり照れ屋さん」フフッ
(……卯月の方がよっぽど可愛いんだよなぁ……)
「べつに不良っぽく振る舞ってるつもり、ないんだけどな。周りが勝手にわたしのことそう思ってるだけで……」
(でもそのピアスはちょっと不良っぽいんじゃないかなあ)
と卯月は思ったが言わないことにした。
「なんか、みんなに避けられるんだよね。わたしそんなヘンなことしてるかな?」
「うーん、ヘンなことっていうか……文化祭の準備の時のアレが原因かも」
「アレってなに?」
凛が怪訝そうに聞き返し、そこで卯月は改めてハッとしたように身を乗り出した。
「そうそう! 私気になってたんです。あれって本当に凛ちゃんだったんですか?」
「な、なに、なんの話……?」
卯月が例の血まみれの美女の話をすると、凛は「ああ、その事ね」と言って肩をすくめてみせた。
そして半ば自嘲気味に、あの日起きた一連の不幸な事故のことを説明した。
「……って感じでさ。悪いことって立て続けに起きるもんなんだね」
凛はなんでもないように言ってのけたが、卯月は驚きと同情で何と返したらいいか分からず曖昧に笑うしかなかった。
「あはは……そう……そうだったんですね。私てっきり……」
「ていうか、あれそんな噂になってたんだ。知らなかった」
呑気なものである。
二人はそれから時間を忘れて話し込んだ。
学校のこと、友達のこと、家族のこと、そしてアイドルのこと……
年齢も趣味も、過ごしてきた環境も違う二人はそれぞれが相手の話す言葉に自然な関心を抱いた。
気が付けば夕日はとっくに沈み、辺りは真っ暗である。
そうして街灯の明かりがぱちぱちと灯るのを合図に二人はようやく立ち上がり、「また明日」と名残惜しそうに別れた。……
※
さて、ここまで筆者は凛と卯月それぞれの境遇および現在に至るまでの顛末を語ってきた。
果たして二人はお互いの誤解を解き、かくて美しい友情を結ぶに至ったわけであるが、
これが長い長い二人の物語のほんの節目に過ぎないことは賢明な読者諸兄には改めて説明するまでもないだろう。
当然、ここから先も彼女らについて語るべきことは山のようにある。
しかしそれらを逐一事細かに陳述していくにはここはあまりに余白が少なく、また筆者の体力ももたない。
したがって、今後はなるべく卯月と凛が二人きりで楽しんでいるシーンのみを抜粋し、紹介していこうと思う。
多くの読者にとって邪魔であろうこの出しゃばりな筆者も都合しばらく黙ることにする。
ときどきひょっこり顔を覗かせるかもしれないが、それは何卒ご容赦いただきたい。……
○
11月某日、渋谷宅にて。
「――……それでここの設問はね、さっきの公式そのまま使って……凛ちゃん、聞いてますか?」
「へっ? ああ、聞いてるよ、うん」
「私の方ばかりちらちら見てた気がしますけど」
「いや、だってそれは……(見惚れてたなんて言えない)(まつげめっちゃ長い)(しかもなんかすごい良い匂いする)」
「あっ もしかして私の顔に何か付いてます?」
「う、ううん。そういうわけじゃないんだけど……ていうか、数学とか全然、分かんないし」
「分からないから教えてって言い出したの、凛ちゃんじゃない」
「まあ、そうなんだけどさ。先生の説明が難しすぎるのが悪いんだよ」
「そうやってふてくされてると本当に不良さんみたい」クスクス
「だって、ヒドイんだよ? 授業中わたしが分からなくて難しい顔してるのに、先生無視して先に進めちゃうんだもん」
「私だったら、分からない所はあとで先生に聞きに行くけどなぁ」
「それは……確かにそうなんだけど。でもなんか分からないことを聞くのって恥ずかしいし……」
「私に聞くのは恥ずかしくないんですか?」
「え? それは別に……だって先輩だし、友達だから……」
「ふふふ」
「なに」
「なんでもないです、ふふ」
「あ~ ハナコと遊びたい~」
「もう、ダメですよ凛ちゃん。期末試験に間に合わなくなりますよ」
「卯月ってけっこう厳しいんだね……」
「お姉さんですから」エッヘン
(かわいい……)
「あ、じゃあテストで良い点が取れたらご褒美、なんていうのはどうでしょう」
「例えば?」
「う~ん……一緒にカラオケに行く、とか!」
「カラオケ? わたしカラオケって行ったことない……」
「えーっ! それじゃなおさら行かなくちゃ!」
「そ、そうなの?」
「そうですよ! それに私、凛ちゃんの歌も聴いてみたいです!」グイグイ
(押しがすごい)
「そうと決まれば凛ちゃん、試験勉強がんばりましょう!」フンス
「なんで卯月が張り切ってるの!?」
○
後日、カラオケ店にて。
「――……~~♪」
「…………」パチパチパチ
「ふうっ。はい、次は凛ちゃんの番ですよっ」
「あ、あのさ……やっぱり歌わなきゃダメ?」
「だーめ。せっかく来たんだから歌わないともったいないですよ!」キラキラ
「(うっ、卯月の期待の眼差しが……)わ、分かったよ。あんまり自信、ないけど……」
「ちなみに曲は何を入れたんですか?」
「むかしテレビでやってたアニメの主題歌。けっこう好きでさ。よく聴いてるんだ」
「へ~、でも漢字が難しくて読めないです」
「蒼穹。そうきゅう、だよ……あ、始まる」スチャ
……ク ダ ケ ~♪
(わっ カッコイイ……ていうかすごく難しそうな曲なのに、凛ちゃんすごい……)
「~~~♪」
(……なんだかんだ言いながら楽しそう。あ、少しノってきた♪)
「蒼~~穹~~!!」ブンブン
(ヘドバン!? ヘドバンしちゃうの!? そこまで!?)
~~~~♪ ジャーン
「……ふうっ」←やりきった顔
「わ、わ~~」パチパチパチ
「どうだった? わたしちゃんと歌えてたかな?」
「はい! 凛ちゃん、とっても歌が上手なんですね! それにすごくかっこよかったです!」
(か、かっこいい? わたしが? ほんと?)
「……カラオケって案外、悪くない……かも」
「ね? 来てよかったでしょ?」
「うん。たまには思い切り声だして歌うのも良いもんだね」
「良かった~! あ、次私の番!」
(……今度来たときのために持ち歌増やしておこう……)
○
クリスマスイブ、ショッピングモールにて。
「凛ちゃん見て見て! これすっごくかわいくないですか?」
「え? う、う~ん……かわいい、かな?」
「ぴにゃこら太?っていう名前なんですね。へ~……」ジーッ
むにむに むぎゅむぎゅ
(めちゃくちゃ気に入ってる……! わたしにはただのブサイクなぬいぐるみにしか見えないけど)
「…………」むにむに
「……買うの?」
「ふぇっ?」
「いや、なんかすごく欲しそうだったから」
「ああ、買う……う~ん、でもおこづかいがなぁ」
「買ったげようか?」
「ええっ!? そ、そんな、いいですよ」
「いや、ほら……その……く、クリスマスプレゼントにさ。せっかくだし、いつもお世話になってるお礼、っていうか……」
「! 凛ちゃん……」
(な、なんかキザな感じになっちゃった気がする……恥ずい)
「えへへ、じゃあこれは凛ちゃんからのプレゼントってことにして……私も凛ちゃんに何かプレゼントしたいです♪」
「え? いいよ、べつに……」
「言いっこなしですよ! 凛ちゃんは何か欲しいもの、ないんですか?」
「じゃ、じゃあ……こっちの黒い方とか」
>黒ぴにゃこら太
「わっ それなら二人でお揃いですね♪」
「(……ってナニ自然にお揃いとか選んでんのわたし!? カップル!? バカップルじゃんコレ!?) ふ、ふひひ……」
「? 凛ちゃん、大丈夫ですか? なんだか顔が怖いけど……」
「なんでもない。大丈夫大丈夫(やばい、ニヤケが止まらない。全然大丈夫じゃない)」
…………。
「わぁ、綺麗……」
「すごいイルミネーションだね。夜になればもっと綺麗なんだろうな」
「あっちは何かステージがあるみたいです」
「へぇ……イベントとかあるのかな」
「あっ たぶんアレです。明日、○○っていうアイドルグループがクリスマスライブやるんだと思いますよ」
「そうなんだ。詳しいね」
「えへへ。私、こういうのも一応チェックしてるんです。前ほど熱心ではないですけど……」
「……そっか」
「あ~あ、明日もし予定が空いてたらこっちのライブ見に行くのになぁ」
「そういえば聞いてなかったけど、明日クラスメイトで集まる予定っていうのは具体的に何をするの?」
「具体的には特に決まってなくて、女子会?みたいなのをやるんです。カラオケ行ったり、映画見たり色々」
「ふーん。それって楽しいの?」
「楽しいですよ~、おいしい料理も用意するみたいだし、プレゼント交換とかもあったり」
「ふーん……」
「…………凛ちゃん、もしかして」
「何」
「嫉妬してる?」
「はあっ!? そ、そんなわけ……」
「ふふっ やっぱり妬いてるんだ。かーわいー」
(こ、この小娘…… 犯罪的笑顔……っ 圧倒的小悪魔っ……!)
「わ、また凛ちゃん顔が怖くなってる。もう、ダメですよ。女の子なんだからもっと笑顔でいなくちゃ!」
むに
「らってうふきがいじわるするんらもん。おかえひ」
むに
「ひゃっ りんひゃんのて、つめふぁいれすー」
ぐりぐりむにむに
「……ふふっ」
「あ、わらった。えへへ」
(……やばい。今わたし最高に幸せかもしれない……)
…………。
「……ねえ卯月。最後にさ、あのお店で休まない?」
「いいですけど、その前にちょっと……御手洗い、行ってきていいですか?」
「ああ、うん。行ってらっしゃい」
「すぐ戻ってきますから」
タタタ……
(……あそこのベンチで座って待ってよう)
「ふう」
(もう3時かぁ。ってことは4時間くらいここにいるんだ。あっという間だったな……)
(勇気出して声かけて良かった。クリスマスには予定あるって断られた時はどうしようと思ったけど、イブの日に調整してくれるなんて……)
(やっぱり卯月って天使)デュフ
(……それにしても人たくさん居るなぁ。よく見たらカップルだらけだし……)
(まあクリスマスイブだもんね。それに最近できたばかりのモールだし、人が多いのはしょうがないか)
(……卯月がアイドル続けてたら、今日みたいに一緒に遊びに来るのはできなかったかもしれないな)
(あんなに可愛いんだし、もし卯月が有名になったらきっと大勢のファンがつめかけて……のんびり一緒に買い物もできなかったかも)
(それだけじゃない。アイドルを続けていれば今よりずっと忙しくなって、カラオケに行くのも勉強を教えてもらうのも、たぶん、わたしと会う約束だって……)
(……ふふっ なに考えてんだろわたし。もしもの話なんかしたって、しょうがないじゃん)
(でも卯月、前に言ってたっけ。いつかもう一度アイドルに挑戦したいって……それはわたしだって応援したいし、応援するつもり、だけど……)
(……なんかフクザツな気分)
(ま、いいや。そろそろ卯月も戻って来る頃かな。 …………ん?)
――ざわざわ
(なんだろ、騒がしいな。どうしたんだろう)
「……!!!!」
「俺、ファンだったんす!」「ね、ね、卯月ちゃんいま一人なの?」「ブヒッ 自分写真良いっすか?」
「――……あの、すみません、私……人を待たせてるんです、ごめんなさい、そこ……」
「なぬ!?」「まさか彼氏?」「ゆ、許せんブヒーッ」
凛は弾かれたように立ち上がった。
通路の真ん中で卯月を囲っているオタクどもの方へ憤然と歩いて行く。
「ちょっと」
「何? 誰…… 、ッ!?」
連中はハッと驚いたように身を引いた。
凛の異様に殺気立ったスゴみのある視線に、恐怖のあまり言葉を失ったのである。
「あんたたち、卯月になにしてんの?」
「へあっ!? ぼ、ぼぼボクたちはべつにただうづきたんのファンで……」
「本人が迷惑してるでしょ。やめなよ」
「「「アッハイ」」」
「卯月」
「は、はい!」
凛はそう言って卯月の手をつかみ、強引にひっぱり出した。
卯月が倒れこむように凛の腕のなかに抱きしめられる。
そうして凛は呆然とするオタクたちを鋭く一瞥したあと、卯月を連れて足早にその場を去ったのであった。
…………。
その後、二人は店には入らずそのまま帰ることにした。
駅に着き、電車を待っている間、ようやく卯月が口を開いた。
「……あの、凛ちゃん?」
「…………」
「もしかして、怒ってる……んですか?」
「……べつに、怒ってないよ。ただ、なんだか……ううん、怒ってるのかな?」
「ごめんなさい、凛ちゃんに心配かけさせちゃって」
「違うよ、そうじゃなくて……なんて言ったらいいんだろう。でも、とにかく卯月は何も悪くないよ」
そう言って凛は溜め息をつくと、卯月の方を振り向いて疲れたように笑ってみせた。
「わたしこそごめん。ちょっと態度、悪かったよね」
卯月はそれでも不安そうに凛を見つめていたが、やがて申し訳無さそうにふっと視線を落とした。
「でも私……まだアイドルだった私のこと覚えてくれてる人がいて、ちょっと嬉しかったです」
凛はなんと言ったらいいか分からず、ただ一言
「……そっか」
と呟いただけだった。
「あ、電車。来ますよ」
と卯月が指差す方向を見て、それから凛は、自分の左手の奇妙な違和感に気が付いた。
(ん? ……うぉあッ!? な、な、なんでわたし卯月と手繋いでんの!? え、もしかしてずっと……!?)
あの時、卯月を助け出してから今まで無意識に手を繋いだままだったのである。
「? どうかしたんですか?」
「ご、ごめん!」パッ
凛が慌てて掴んだ手を離すと、卯月はキョトンとして、それから「ふふっ」と笑いながら、
「りーんちゃんっ♪」
と嬉しそうに凛の手を取り、指をからませて握った。
「ほわッ!?」
「えへへ……私、凛ちゃんの手、好きですよっ」ぎゅっ
……後に凛が当時を振り返って曰く、「その日の帰り道のことは記憶にない。気が付いたら家に着いていた」と。
多幸感のあまり記憶を失いかけていたという。
また凛は、このクリスマスイブのデートを境にひそかに決意したことがあった。
曰く、「卯月の笑顔はわたしが守る。誰にも傷つけさせない」と。
かくして卯月の忠実な番犬、柴犬ならぬ渋犬が誕生したのであった。……
……以降、凛は、卯月と一緒にいる時はなるべく彼女から目を離さないようにした。
悪い虫が寄り付かないよう、少しでも人の多い場所に行くときは卯月にぴったりくっつき、あからさまに周囲を警戒するようになった。
学校では学年も違うため普段一緒にいる事は叶わなかったが、二人の仲はすでに学校中の生徒に知れ渡っていたため、
あえて凛がことさらに警戒しなくとも、その存在の抑止力によって卯月の安全は守られていた。
そうして時々、二人が廊下ですれ違ったりすると凛が驚くほど優しい顔をするので、次第に凛の不良としての悪名はなりをひそめていった。
代わりに囁かれるようになったのは、かつて偏見と強面な態度に隠されていたものの今や多くの生徒の気付くところとなった、凛のその圧倒的な美貌である。
本人にとっては皮肉なことだが、その近寄りがたい雰囲気と畏怖の念も相まってカリスマ的な人気を博していった。
気が付けば凛の隠れファンは学校の一大勢力となり、卯月の隠れファンに勝るとも劣らない数となった。
やがて二人は、名実ともに最強のコンビとして名を知られるようになったのである。
○
……さて、やや中途半端ではあるが、二人の出会いの物語はひとまずここで終わりとなる。
卯月と凛がその後どのように関係を深め、またすれ違い、成長して行くかということについては、
筆者のような凡夫が語るにはあまりに繊細を極め崇高に過ぎるため、志半ばではあるが読者諸兄の想像に委ねることにする。
とはいえ、このまま終わってしまってはSSの結末として格好がつかない。
したがって、少々型破りではあるが、二人の今後についてひとつ簡単な顛末を紹介しようと思う。
いわゆるエピローグである。
※
「……あ、また……」
「? どうしたの卯月」
放課後の帰り道、駅前で卯月がふと背後を振り向いたので、凛が不審に思い尋ねてみると、
「気のせい……だと思うんですけど、なんだか最近、誰かにつけられてるような」
「はあっ!? あのね卯月。そういうことは早く言わなくちゃダメだよ」
「で、でも本当に気のせいかもしれないし」
「何かあってからじゃ遅いんだよ? ……でも大丈夫。卯月は何も心配しないで。わたしが守ってみせるから」キリッ
(凛ちゃん、頼もしいです……!)キラキラ
バカップルである。
そうして二人がイチャつきはじめた瞬間である。
ふいに目の前に大きな影が立ちふさがった。
「あの」
「ひゃいっ!?」
突然声をかけられた卯月は思わず悲鳴を上げる。
そこにはみるからに不審者然とした顔つきの男が、凛と卯月を威圧するように道を塞いで立っていた。
すると凛が間髪をいれず卯月を守るように立ちはだかり、男をキッと睨みつける。
「……あんた誰? もしかして卯月にまとわりついてるのって、あんたのこと?」
「…………」
男は黙ったまま凛と卯月を見下ろしている。
凛はそんな大男にもひるまず、しばらく睨み合いが続いた。
「……あの」
男は戸惑った様子で一度声をかけてみるが、凛はもはや取り付く島もなく、
「卯月にちょっとでも触れてみな。その頭の毛、一本残らず引っこ抜いてやるから」
すると男はさすがに恐怖したのか頭髪にサッと手をかぶせ、たじろいだ。
「分かったら二度と卯月に近づかないで」
しかし男は引かない。
そして何やら胸ポケットに手を入れたので、凛と卯月がハッと身を強張らせると……
「アイドルに、興味はありませんか」
※
…………。
「……まさか、アイドルのスカウトだなんて思わなかったよね」
「私、もう少しで通報しちゃうところでした」
「あの人もさ、もうちょっと愛想よくすればいいのにね」
「ふふっ それを言うなら凛ちゃんだって……」
「どういう意味」
「ほら、また。……笑顔笑顔、ですよ♪」
「笑顔……こ、こう……かな?」ニコッ
「うーん、ちょっとまだ固い、かも?」
「……やっぱり笑うのって難しいな。卯月には敵わないよ」
「えへへ。でも凛ちゃんのキリッとした顔も、クールでかっこいいですよっ」
「そ、そうかな。卯月にそう言ってもらえると嬉しい、けど……やっぱり面と向かって言われると、照れるね」
「……あっ もうすぐ時間! 行かなくちゃ」
「もう? ……じゃあ、頑張って。卯月」
「はい! 島村卯月、がんばります!」
「わたし、ここで待ってるから」
「ふえっ? 何言ってるんですか、凛ちゃんもほら、一緒に行こ?」
「いや、ほんと、わたしやっぱり無理、アイドルなんて……」
「今日は宣材写真だけだから大丈夫ですよっ ほらほら♪」
「あ、ちょ、待って卯月ひっぱらないで……こ、心の準備が~」
おしまい
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません