狭い地下室で、俺は一人の男と対峙していた。
相手はゆったりとしたスーツを着こなすプロ棋士だ。
『天才』『最強』の名を欲しいままにしている名実ともに日本一の将棋指しである。
「お目覚めかい?」
「……」
「最強といわれる天才プロ棋士も、こうなっちゃオシマイだな……」
プロ棋士は俺によって、椅子に縛り付けられていた。
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「もし俺とあんたが将棋を指せば、100%あんたが勝つだろう。飛車角落ちでもな。
しかし、この状況はどうだろう?」
「……」
「あんたは俺に手も足も出せない。将棋なら絶対勝てる相手である、この俺にな」
「……」
「まだ分かんねえのか? 将棋がいくら強くたって、暴力で来られたら無意味ってことなんだよ!」
俺はプロ棋士を殴りつけた。
一般常識レベルの有名人に暴力を振るったという事実が、俺の脊髄に激烈な快感を走らせた。
「なぜ、こんなことをする?」
「おお、やっと口を開いてくれたか。嬉しいねえ」
プロ棋士の口調はあくまで冷静だった。だが俺はそれは虚勢に過ぎないと判断した。
「いっとくけど、俺はあんたにも将棋にも恨みはないぜ。
プロになれなかった人間が、あんたを憎んで……っていう類の行動じゃない」
「君が分からないな。どうしてこんなことをするんだ?」
「強いていえば、俺は世の“勝ち組”ってやつに一泡吹かせたかったんだ」
俺もかつては大企業の正社員、“勝ち組”といっていい人種だった。
しかし、ちょっとしたいざこざで会社を辞めてから、人生の歯車が狂い始めた。
いわゆる辞め癖がついてしまい、転職を繰り返し、アルバイトすら続かず、
今やフリーターすらままならないありさまだった。
荒んだ生活をしているうちに、俺は成功者を憎むようになったのだ。
「最初、ターゲットはスポーツ選手かアイドルにするつもりだった。
だが、あいつらは体を鍛えてるし、もしかしたら返り討ちにあう可能性もある。
だから、ひ弱そうな将棋指しをターゲットにしたんだ。
ま、囲碁のプロでもよかったんだけどよ、囲碁のルールはよく分からねえし、
どうせなら親しみのある方がいいってことであんたを選んだんだ」
そして、俺は作戦を練り、準備をし、行動に移した。
天才棋士が一人きりになる時間を狙い、
強力かつ即効性のある睡眠作用を持つ薬品を染み込ませたハンカチを嗅がせ、拉致したのだ。
「……私をどうするつもりだ」
「安心しなよ、殺しはしない。俺の最大の目的はあんたを屈服させることなんだ。
俺に心から屈服したら、解放してやるさ」
半分は本当だが、半分はウソだ。
目的を果たしても、こいつを解放する気なんかない。
屈服させたら散々いたぶってから殺し、『将棋が強くてもなんの意味もない』というメモとともに
死体をどこか将棋ファンの集まる場所にでも放置するつもりだった。
天才プロ棋士が理不尽な暴力で命を奪われた時の世間のどよめきを想像するだけで、
俺の心は初恋をした乙女のようにときめいてしまう。
殺しはしない、と告げたのは逃げ道を示しておかねば、相手も決死の覚悟になってしまうからだ。
これは兵法の基本である。
どうだ、最強の将棋指し。
将棋は兵を操り王を取るゲームだが、俺はお前らの土俵である兵法で、お前の上をいっているぞ。
「私を拉致する時の手際、みごとだった。よほど私のことを調べたようだな」
「ああ、調べさせてもらったよ。Wikipediaを始め、あらゆる手段を使ってな。
あんたの生年月日、あんたが何歳でプロになったか、どのタイトルをいつ取ったか、
対局中の行動パターン、生活習慣、エトセトラ……空で言えるぐらいになっちまった」
あえて芝居がかった仕草をしてみる。これがまた楽しい。
「あんた個人だけじゃない。あんたはまさしく一流の血統だったよ。
父親はあんたと同じく将棋界の重鎮といっていいプロ棋士、母親は一流ピアニスト。
叔父は直木賞作家、同じ日に生まれた兄はエリート自衛官、妹は若者に人気のイラストレーター。
そういや結婚もしてたよな。映画ドラマに引っぱりだこの人気女優とさ。
誰もが羨む、超勝ち組の一族だ」
「……」
「嬉しいよ。そんな勝ち組一族期待の星を、今から屈服させることができるんだからな」
俺はもう一発、頬にパンチを入れた。
ところが、天才棋士はまだ冷静さを保っていた。
「いっておくが、私は絶対に屈服しない」
「なんだと? 屈服すれば命は助けるといってるんだぞ」
「私をこんな状態にした君に敬意を表して、プロ棋士の強さの秘密を“四つ”お教えしよう」
なにやら妙な流れになってきた。
いや、怖気づくな。この場を支配してるのはあくまで俺なんだ。
こいつには何もできやしない。
「まず一つ目は……“忍耐力”だ。
プロ同士の対局、特にタイトル戦ともなれば、すさまじい長期戦・消耗戦となる。
あの緊張の連続に比べれば、今のこの状況など取るに足らないものさ」
んなわけあるか。その気になればいつでも俺がこいつを殺せる今の状況と比較になるわけがない。
どこまで高度なレベルになっても将棋はしょせん遊びだ。生死が関わることはない。
将棋で人が死ぬなんて、アニメやマンガだけの話だ。
それを分からせるため、俺はさらに一発こいつを殴った。
だが、ダメだった。やはり平然としている。
「だいたい、君の目的は“私を屈服させること”だろう? なのに、今のこの状況はおかしくないか?
君は私をひ弱そうだからターゲットにした、といった。
そんな相手をこうして手も足も出ない状態でいたぶって、君の自尊心は満足するのか?
対等な条件の決闘で私を倒さねば、意味がないのではないか?」
見え見えの挑発だ。
「……その手には乗らねえ」
「乗らないのは勝手だ。だが、断言しておこう。
私は絶対に屈服しないし、今の状態のまま君が私を殺したとしても、君は真の満足を得られない」
「ぐ……!」
たしかにそうだ。
このまま屈服しないこいつを一方的に殴り殺したところで、それはこいつの勝ち逃げである。
ただ単に殺すだけでは意味がないのだ。
誰もが羨む勝ち組を、屈服させた上で殺さなければ。
「……いいだろう」
俺は天才プロ棋士を拘束していた手足の縄をほどいてやった。
むろん、絶対に勝てるという自信があったからこその行動だ。
「ほどいてくれたな……私の狙い通りだ」
「なに……!?」
「私は君ならばどうすれば、縄をほどいてくれるかをずっと考えていた。
どうすれば、君の自尊心を刺激できるかずっと考えていた。
そして、それは成功した。この“頭の回転の早さ”こそが、プロ棋士第二の強さだ」
俺の心に動揺が広がる。縄をほどいたのは間違いだったか。
落ち着け、将棋ばかりやってた奴に俺が負けるはずない。
しかも、相手は俺に何発か殴られ、しかも今までずっと縛られてたんだ。
対等な決闘でも絶対勝てる。
勝って、屈服させ、殺して、世間に向かってゴミクズのように捨ててやる。
「三つ目を教えよう」
プロ棋士が俺の右手をつかんだ。
俺は引きはがそうとするが、全く外れない。
それどころか、万力のような力で手を握り締める。骨が折れそうになる。
「ぎゃあああああああああっ!!!」
「これが三つ目……“握力”だ。将棋指しは毎日のように駒を握っているから、
握力が非常に発達するのだ」
そんなバカな。
将棋を指していれば握力が強くなるなんて聞いたことない。
でも、もしかしたらそうなのかも……とも思ってしまう。
「デタラメだ……! デタラメをいうな!」
「そう、デタラメだ。それでは四つ目の強さを教えよう。
私は君のターゲットであるプロ棋士ではない」
「……は?」
「もうそろそろ、あいつもここに来る頃だろう」
次の瞬間、地下室の扉が叩き壊され、数人の警官とともに
目の前のプロ棋士とそっくりな≪もう一人のプロ棋士≫が入ってきた。
その≪もう一人≫は、今まで俺が拉致していたプロ棋士にこういった。
「大丈夫か、兄さん!」
「ああ、大丈夫だ。なんの問題もない」
まさか、まさか……。
「私はお前の目当てだったプロ棋士の≪双子の兄≫だ」
「なんだって!?」
「弟は今日、君のような輩が襲撃してくることを読んでいたんだよ。
『兄さん、今日あたり私は誰かに襲われそうな気がするんだ』とね。
そこで私は身代わりを買って出たというわけだ。
体格をなるべくごまかせるようゆったりしたスーツを着て、発信器をつけてね。
これがプロ棋士四つ目の強さ……いや三つ目はデタラメだったからやっぱり三つ目か?
まぁいいや、四つ目で。四つ目の強さ……それは“読み”だ」
呆然とする俺を尻目に、そっくりな兄弟が会話する。
「すまない兄さん。危険な目にあわせてしまって」
「どうってことない。拉致されたのもわざとだ。黒幕がいるかもしれないと思ったからな。
まあ結局お前の成功に嫉妬する小者の仕業だったわけだが。
縄はいつでも自力で解くことができたし、あんな奴のパンチ、いくら喰らっても屁でもない。
自衛隊での訓練に比べれば、楽しいひと時を過ごせたよ」
ようするに、俺は最初からターゲットではない人間を拉致していたのだ。
しかも、その間違えた相手は双子の兄であるエリート自衛官。到底俺が勝てる相手ではなかった。
俺は始めから“詰み”だったのだ。
いや、面と向かって“対局”すらさせてもらえなかった。
天才棋士が神から与えられ、幾多もの対局で磨き抜いた“読み”によって。
双子が、警官に取り押さえられた俺をちらりと見る。
「どうする? お前を狙ってたあいつに恨みごとでもいってやるか?」
「いや、いいよ。そんなヒマがあったら、次の対局相手の研究をしたいからね」
この瞬間、俺は自分の心がぽっきりと折れる音を聞いた。
― 終 ―
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