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月代を綺麗に剃りあげたその侍、一見優男の面立ちですらりとした細身でありながら、
衣の下には長年の修練により鍛え上げた鋼のような肉体を持つ。
固く束ねた竹をやおら頭上に放り上げ、抜刀一閃で両断する程の腕前を持つにも関わらず
士官の道は未だ無く、江戸の城下町の片隅で町人と変わらぬ質素な日々を過ごしていた。
ところがとある満月の夜分、精神修養のため山奥の滝へと向かう途中、町外れの松並木の
下で少女と出会った事で数奇な運命の扉が開く。
その齢は十代であろうか、月明かりの下、輝くように映えるなめらかな白い肌、腰のあたり
まで真っ直ぐに伸びるしなやかな白髪、深く沈み込むような琥珀の瞳。やや丈の短かな純白
の着物を、しかし乱雑に羽織る少女は明らかに異国の者であるが、地べたに座り込み背を松に
預けながら茫洋とするその姿はおおよそ彼女に似つかわしくもなく、その場で孤独に、途方に
暮れている風であった。
少女の異様な風体に侍はやや警戒をしつつも、相手が少女であること、そして持って生まれた
生真面目さゆえに、試みに少女に声をかける。
「どうしたのだ、この様な夜更けに」
呼び掛けられた少女は突然の来訪に驚いたのか、まんまるな瞳をさらに丸くしながら侍の方を
振り向いた。しばし、怯えたように彼を見つめていたが、彼の態度から危険は無さそうに
思ったのか、少女は少し表情をほころばせた。しかし言葉は無い。侍はなおも声をかける。
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「親御どのはどこにおる」
「…………」
「このあたりの者ではないのか」
「……………………」
そう口にした後で侍は、馬鹿な事を云ったと思う。
明らかに異国の者だ、このあたりに住んでいよう筈がない。
「……なぜ、こんなところにおる」
「…………」
「道に迷ったのか?」
「…………」
己の言葉が果たして相手に通じているのかも訝しみながらしばし思案して次の言葉を探す
侍に、少女が初めて口にした言葉は、たどたどしくもその意味は明快に理解できた。
「……タ、ス、ケ……て」
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何かに困っているのは姿を見かけた時点で判っていたが、それが自分に助けられること
なのかも判らない。侍は、かぶりを振りながら答える。
「……お主を番所へ案内しよう、ついてまいれ」
少女は、その場から動こうともせず、首をゆっくりと横に振ることでそれに応じた。今しがた
来た道を戻ろうと歩きかけた侍は、少女の反応を見て眉間に皺を寄せる。こちらの言葉が判ら
ないのか?
「……このあたりは夜中は物騒だ、女子(おなご)が一人で過ごせる所ではない、街まで
案内するゆえ、ついてまいれ」
「……タ、ス、ケ、て」
「……拙者にどうしろと申すか」
「イ、の、ち……」
「命?」
その時、侍は背後の松の木陰に、迸るような殺気を感じて振り向く。
「……何者か」
「……ほう、気づいたか」
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木陰からゆっくりと歩み出た者は、ざんばらの髪を紐で結うただけの素浪人の風貌であった。
しかし体躯は見上げるほどの巨漢にして、腰に刺した刀はまるで太刀である。漆黒の闇の中
でも眼だけがぎらぎらと光っているような、獣の臭いを放つ者であった。侍と対峙した素浪人
は、腰の太刀をゆらりと揺らして仁王立ちになる。
「この太平の世に、わしの気配に気付くような者がおるとはのう」
「……何者か」
侍は再び繰り返す。素浪人は口を歪め嗤う。
「何者でも良かろう、おぬしが知る必要はない」
「では、何用か」
「うむ、それじゃ……そこの女子、わしはそれを探しておった」
「ふむ」
「さっぱり見つからぬと途方に暮れておった所じゃ」
「……ふむ」
「さ、そこをよけてくれんかの、それを早うにあるじの元へ連れゆかんとならんのじゃ」
「……あるじとは?」
「それも知る必要はない」
「…………」
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得体の知れない素浪人との距離を測りながら、より状況を把握するため言葉を交わして
いた侍はふと、己の袴の裾が引かれたのに気づいた。背後の足元に目をやると、松に
よりかかっていたはずの少女がいつの間にか、彼のすぐそばまで近づき小さな手で侍の袴に
縋りついていた。震えながら彼を見上げる琥珀色の瞳には、零れる程の涙を溜めて……
その瞬間、侍は己の心の中に、身が灼ける程の炎が激しく燃え上がったのを感じた。
忠義、情熱、恋慕、挺身……どう形容すればよいのか判らないまでも、彼は、いま初めて、
己が命を賭けるに足る"存在"を見つけた瞬間の歓喜が、胸中に渦巻いたのを悟った。これ
まで覚えたことのない感情に彼は戸惑いを覚えたものの、少女の涙の理由が凡そこの
素浪人にあろうことは理解できた。
侍は、ゆっくりと素浪人の方を向くと、ぽつりと答える。
「……お断りいたす」
「……何ィ?」
「異国の者をどこに連れゆこうと言うのか、禁制を知らぬではあるまい」
「おぬしこそ、それをどこへ連れていこうというんじゃ」
「番所だ」
「ほう……それは困るな」
「困るとな」
「うむ、わしが困る、あるじが困る……そして今、おぬしも…………困ったことになる」
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素浪人は、腰の太刀をすらりと抜いた。満月の白い光を浴び、太刀はその身に寒々しい
煌めきを放つ。侍は、しかし刀身を抜くこともせず、平然とした様子のまま、先ほどと
同じ調子で素浪人に言葉をかける。
「抜いたか」
「……拍子抜けするのう……もう一度だけ言おう、それを大人しく渡せ、さもなくば」
「どうする」
「その身を五寸に刻んでくれる」
「……それは困る」
「どうにも緩い奴じゃのう……脅しではないぞ」
「うむ……然らば」
そこで侍は初めて、低く腰を落として刀の柄に手を掛ける。
その構えに、素浪人の目が細く光った。
「……抜刀か、良いな……胸が躍るわ」
「…………」
「……江戸に、紫電の如き抜刀術を操る者がおると聞いた……
甲冑をも両断するという、その男……おぬしの風貌、噂によう似ておる」
「………………」
「……しかし、どうやら阿呆のようじゃ、
異人の小娘のため、あたら命を賭けるとはのう……」
「……その小娘を付け狙う大男の姿も、随分と滑稽なものよ」
「……!!!!」
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