【モバマス】飛鳥「ボクは、宮本フレデリカだ」 (60)

モバマスSSです。以下の要素が含まれます。

・地の文多め
・登場人物だいたい寮暮らし
・書き溜めたものを一気に投下していく形式です。

初めてのSS、スレ建てでつたない部分もあると思いますが、お付き合いください。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1513334009


飛鳥「ボクは一体何者なんだろうか?」


ボクが今乗っているのは一両編成の電車だ。動力はディーゼルエンジンで単線の田舎らしい路線。
座席のサスペンションによる僅かな揺れを感じていると、ふつふつとそんな疑問が湧いてきた。


志希「知性と理性を持った人間という生命体じゃないかなー」

飛鳥「そんな概説的答えは求めてないよ」

志希「にゃはは、知ってるー♪」


この列車の行き先をボクは知らない。隣に座っている一ノ瀬志希の失踪旅に付き合っているだけだからだ。
とはいっても本当に行方不明になるわけではなく、志希の失踪というのは見知らぬ土地を無秩序に訪れていく行為を指す。そもそも目的地なんていうものは最初から存在してはいないんだ。それは志希の『どこかへ行っちゃったっていうのが失踪なんだよ』という主張からもハッキリしている。
ボクも概ねそれに賛成だ。社会というレールの上を走っているとたまに逸れたくなるのが人間というものなのさ。


飛鳥「ボク自身の定義について知りたいんだ」

志希「ふうん、どーして?」

飛鳥「このセカイの人口数は70億を超えるだろう? となるとやはり70億通りのパーソナリティが存在しているわけで、当然多種多様の個性が混在する。芸能界という『特別』が溢れかえっているような場所でボクが生きている意味ってなんだろう……って思ってね」

志希「わぉ、フィロソフィ〜」

飛鳥「茶化すなら話すんじゃなかった」

志希「まーまー、怒んないでよ。飛鳥ちゃんは特別になりたいの?」

飛鳥「少し違う。ボクは自分がとりわけ特別だと思うほど自惚れてはいないよ。だけど、誰でもできるようなステレオタイプの人生もまっぴら御免だね」


車窓の風景に目をやると、田園風景からの光の照り返しが眩しかった。沢山の稲が同じ様に生え揃っているのが見える。


志希「そっかー。そういう意味での自分らしさといえばフレちゃんなんかは強く持ってると思わない?」

飛鳥「む……フレデリカか。まぁ、たしかに彼女は『特別』だな。だけどボクはフレデリカのようになる事はできない」

志希「だろうね〜。結局さ、人類は配られたカードで戦うしかないんだよ!」

飛鳥「キミにしては実に月並みな答えだな」

志希「だって、そうじゃない? 自分らしさを自分以外がどうやって定義出来るの?」

飛鳥「おい、振り出しに戻ってしまったぞ。ボクはそれが理解らないと言うのに」

志希「自分探しの哲学に答えはない。だからこそ苦しい。飛鳥ちゃんなら知ってるでしょ?」

飛鳥「それは、そうだけど……」

志希「迷えるオオカミちゃんの為にあえてあたしの主観を言うなら、飛鳥ちゃんを探していること自体が飛鳥ちゃんらしいと思うな〜」

飛鳥「……そうかい」


これ以上言葉を出すことはできなかった。明確な答えは無いけど、何かにすがって納得するしかない。冷房の人工的な涼しさがいやに冷たく感じた。

改めて車両を眺めているとボク達以外は誰もいないようで、金属が軋むような電車の音だけが響いている。静かな空間だ。僅かに奏でられる音がボクの体に染み込んでゆく。
一定のリズムを刻みながら行き先不明の一両編成は走る。


飛鳥「すまない。ひと眠りさせてくれないか。瞼の重さに抗えなくてね」



─────────────────
──────────
──・・・


けたたましい電子的な金属音がボクの耳に飛び込んでくる。目覚まし時計の頂上を叩いた。

今、良い処だったのに。
まぁいい。邪魔者は消えた。さて、ボクは再び夢の世界──、シン・セカイへ旅立つとするか。
さあ。毛布にくるまり、目を瞑って。ストーリーを紡ぎ出すんだ!

《シンデレラ・インフィニット。ボクは風神の襲撃によって崩壊したセカイを救う王子サマ。さぁ! 今こそ誓いの口づけで封印を解き明かして──》

……再び耳をつんざく雷鳴が部屋中に轟いた。

クッ! スヌーズ機能だと……!
科学の発展というのは度々、ボク達人類の幸せを阻害してくる。

興が醒めた。続きはまた今晩にとっておくとしよう。そろそろ起きないとね。

立ち上がろうとした所で急にセカイが反転したようにうねり、まともに立てなくなってしまった。
目眩……か。それになんだかカラダが重い。
顔でも洗うか。水で冷やせば意識も覚醒することだろう。



ところが洗顔する迄もなく、洗面所の鏡はボクの目を覚まさせてくれた。

ステイ、待ってくれ。一つ質問をいいかな。
ボクの経験によると鏡は『現実世界をありのままに描きだすモノ』な筈だ。それは揺るぎのない事実だろう。

《じゃあ今、金髪の女性しか目の前に見えないのは一体どういう事だ?》

ボクの目が可笑しくなってしまったというのか?
グリーンアップルの瞳を擦ろうとすると鏡の中の金髪の女性も同時に動いた。


「そんなバカな、………ッ!?」


目だけじゃない。声が変だ。甘い、雲のような音色。

ボクは知っているぞ。この顔、この声、この姿を……


「宮本、フレデリカ……だ」


このセカイは秩序立ってできている。
魔物や魔法といった類のものが存在していなければ、突如崩壊の危機に瀕したセカイを誓いのキスで救うなんていうストーリーもない。
だからボクは創作の中へ思いを馳せることで自分自身のココロをなだめさせてきた。

それなのに目の前で繰り広げられているこの光景はなんなんだ。やるじゃないか、現実世界。

さてと、まずは現状の把握だ。

おそるおそる左手を頬に運び、少しだけ力を込めてつねってみる。


いた………くない。


今度は右手で左ウデをさっきより力を込めてつねってみる。

やっぱり何も感じられない。

おいおい、拍子抜けだね。ここはつねってみたら痛くなって
『現実……なのか』
と驚愕すべき場面だろう? ガッカリだよ……

となるとやはりこの現象は夢か。
それも、意識がハッキリとしているところをみるとこれは明晰夢だ。
けどボクは何故こんな夢を?


『結局、人類は配られたカードで戦うしかないんだよ!』


先日聞いたばかりの志希の言葉をつい、思い出してしまった。

ククク……アハハハハッ!

なんという夢を見ているんだろう。聞いてないよ。配られたカードがシャッフルされるなんて、さ。

面白い。ならばとことん付き合ってやろうじゃないか。フレデリカを演じるのも悪くはない。


折角だからフレデリカのポーズをやってみよう。
えっと。左手は腰に当てて、右腋は締めて前腕を少し展開。
手は上ナナメ45度に折り曲げる。上半身を若干だけ倒して顔は覗き込むように。
表情は困り眉に舌を少しだけ出して……

──なーんてっ♪

普段のボクなら絶対にやらない貴重なポージングが垣間見えた。
使ったことのないはずの表情筋がスムーズに動く。これが人体入れ替わりというモノだというのか。
なんだ、案外楽しいじゃないか。

ボクが人体の神秘に感動しているその刹那。
フレデリカのモノと思わしき携帯のバイブレーションが揺れた。相手は奏さんか。


奏『フレデリカなにしてるの。みんな待ってるわよ』

フレデリカ(飛鳥)「ごめんごめん! 今日はー…… Lippsのみんなとショッピングに行くんだっけ?」


なるべくフレデリカの口調になるよう注意を注ぐ。


奏『そうよ。わかってるなら早くきなさい、眠り姫さん』

フレデリカ(飛鳥)「えっと〜集合場所は……どこだっけ?」


奏さんはため息をついてから女子寮の正門前よ、と教えてくれた。ボクは礼を言ってから通話を終了し、急いで支度をした。


【昼、繁華街】

色とりどり多種多様の商品が並んでいる、ショッピングモール。
特に今ボクがいるこの店は最先端のファッションが揃っていて、オシャレな若者たちがよく集う場所らしい。
『らしい』という表現に留めたのはボク自身があまり行ったことないからだ。
どうも明るいカラーの服が好みではなくてね。

美嘉「あ、これかわいー★」

美嘉が店先からベレー帽のような帽子を拾い上げてかぶって見せる。
なかなか似合ってるんじゃないかな。



周子「いいじゃんこれー。フレちゃんはどう思う?」

フレデリカ(飛鳥)「そうだね……うん、いいんじゃないかな」

奏「フレちゃんの反応はイマイチみたいね」

美嘉「うーん、じゃあ他のもみてみようかなぁ」


店内に入り、帽子探しを始める美嘉。
これでイマイチの反応なのか。ボクとしては好意的な感想のつもりだったんだけど……
フレデリカとボクの性格の差を実感してしまう。

フレデリカの性格を一言で言い表すのならば『陽気』だ。
いつも明るく茶目っ気に溢れている。母はフランス人、父は日本人のハーフなのにフランス語は一切話せないらしい。
フランス菓子の名称を必殺技代わりに叫ぶほどだ。けど、そんな脈絡のない会話がとても心地よくて面白い。
それに対してボクは……どうなんだろう。
自分自身を形容する一言を考えようとして、辞めた。渦巻くような気持ちを上手く客観視できない。
今はまだボクらしく生きるだけで精一杯だ。
皮肉なことに人格入れ替わりというアイデンティティの危機が現在進行形で起きているわけだけど。


美嘉「フレちゃん、これはどう?」

フレデリカ(飛鳥)「うん? ボk……」

美嘉「ボ?」

志希「フレちゃーん、『ボ』ってなーに?」


しまった。考え込んでいた時に急に話しかけられたものだからつい素の自分で話してしまった。
なんとかしてごまかさないと……!
ボ……フレデリカ、フレデリカ……フランス、パリ……


フレデリカ(飛鳥)「ぼ……ぼんじゅ~る☆」

奏「なんでここでボンジュールなのよ」


クソッ、失敗した! 焦りに追い込まれたティーンエイジャーの知恵というのはこんなに脆いものなのか。


周子「なんか今日のフレちゃんおかしくない?」

志希「くんくん、ハスハス…… せんせー、このフレちゃんからはフレちゃんの匂いがしませーん」


まずい、疑われているぞ。なんとかしないと。普段のフレデリカを思い出すんだ!
彼女ならこういう時、どんな発言をするのか……


フレデリカ(飛鳥)「き、今日のフレデリカは……アンニュイなんだ」


右手で顔を押さえつけながら答える。
普段のフレデリカならこんな話し方はしないだろう。
けど、彼女は時々こうやって何かの真似をする。
今日一日の言動もその場のノリだと解釈してもらう作戦だ。


奏「……あぁ、なるほどね」

美嘉「もー、ちゃんと見てよね!」


結果は成功、どうやら思惑通りになったみたいだ。


志希「志希ちゃん疲れちゃった〜、そろそろきゅーけーしようよー」

奏「あら、そろそろ15時ね。ひと休みにはちょうどいいんじゃない?」

美嘉「そうだ! 事務所へ帰るついでに、カフェ寄ってかない?」

周子「おー、いいねえ」


カフェか……ちょうど良いね。
ボクもそろそろ疲労を癒すための休息が欲しかったところだ。


【夕方、カフェ】

入り口のドアに括りつけられた鈴が扉を開けることで揺れる。優しい音色が耳に届く。
薄い茶色主体のデザインとコーヒー豆の香りがボクのココロを癒してくれる。
何処にでもあるチェーン店のような騒々しさはなく、純喫茶ほどの堅苦しさもない。うん、悪くない空間だ。


奏「みんな、どれにする?」


各自がそれぞれ飲みたいものを注文していく。ボクはアイスコーヒーをオーダーした。
程なくしてウェイトレスが注文したドリンクを持って来る。
ボクが頼んだアイスコーヒーにはいつも飲んでる通り、ミルクと少し多めのシロップを付け足しておいた。


周子「シロップめっちゃ入れるやーん」

フレデリカ(飛鳥)「苦いのは苦手なんだよー」

奏「だからいつもカフェオレ飲んでるじゃない」


アイスコーヒーにミルクとシロップを入れてかき混ぜる。
黒い液体に白い液体が混ざるこの瞬間を見ているのは嫌いじゃない。
カップ内の最大多数派であるコーヒーに対しての少数派であるミルクのささやかな抵抗。
白と黒のせめぎ合いによってボクは今日も美味しくコーヒーを飲む事が出来ているんだ。
ミルクとシロップに小さな感謝の念を抱きながら甘くなったコーヒーを飲むと、すごく甘い。
いや、ミルクとシロップを足したのはボクだからそうなっているのは当たり前なんだけど、異常に感じる。
そうか、今はフレデリカの体だから味覚が変わっているんだな。

ボクが人格入れ替わりの新たな発見に納得していると、入り口の方から鈴の音が聞こえた。


1人は銀髪のツインテールに黒いスカートのゴスロリ。もう1人は黄色いエクステをつけて、チェーンがあしらわれた黒いゴスパンを身に纏っている。

蘭子と……ボクだ。

奇妙な違和感に襲われる。
鏡や写真といった媒体を介せずに自分の姿を見るこの恐怖。誰かと共感できないものか。
そういえばこの可能性を完全に失念していた。
ボクの魂がフレデリカの体に入っているのだから、フレデリカが二宮飛鳥の体を操っていたっておかしくはない。

ボクは蘭子ともう1人のボクの動きを注意深く観察した。
2人はまだ空席を探しているようだ。

来訪者に気がついた美嘉が2人をこちらへと手招いた。


美嘉「蘭子ちゃんと飛鳥ちゃん! よかったら一緒にお話しようよ★」

飛鳥(の姿をした者)「フム…そうさせてもらおうかな」

蘭子「きまぐれな天使の邂逅…! (奇遇ですね!)」

奏「2人はレッスン終わりなの?」

飛鳥(の姿をした者)「そうだよ。レッスン後に一休みするのも悪くないと思ってね」

蘭子「我が翼は刹那の休息を得た…(私は久しぶりの終日オフでした!)」


二宮飛鳥の姿をした者から発せられる口調を聞いている限り、フレデリカらしいところは観測できない。
となるとフレデリカの人格はどうなっているのだろう。
参ったな……事態はボクが想定している以上に深刻なのかもしれない。


ウェイトレス「いらっしゃいませ、お客様。ご注文はお決まりでしょうか?」

蘭子「ククク…紅き雫、もとい紅茶を所望する! (紅茶をください!)」

飛鳥(の姿をした者)「魅惑のボンボンショコラーテ、とびきりのやつをもらおうか」

蘭子「飛鳥ちゃん、そんなメニューないよ?」


理解ったぞ。カフェの注文でフランス菓子必殺技シリーズを繰り出し、蘭子をも素の状態にできる人物なんてボクの周りでは1人しかいない。
ククク......やはりキミなんだな。


フレデリカ(飛鳥)「ちょっと飛鳥ちゃ〜ん、こっちこよっか〜!」

飛鳥(の姿をした者)「やれやれ、袖を引っ張らないでくれ……むりやり連れ出されるのは慣れてないんだ」

志希「きゃ〜、フレちゃんだいた〜ん♪」


志希の茶化した言葉を意に介せず、ボクは二宮飛鳥の姿をした者を物陰へと連れ出した。


フレデリカ(飛鳥)「単刀直入に問おう……ボクの体の中に入っているのはキミなんだろう。フレデリカ。キミの演技は見事だけれど、オーラで理解るよ」


二宮飛鳥の姿をした者はボクの質問を俯きながら聞いて、微笑えんだ。
一転、満面の笑みを弾けさせながら答える。



飛鳥(フレデリカ)「ピンポンピンポーン! だいせーかい! 今アスカちゃんの中にいるのは…性は宮本、名前はフレデリカ! ミドルネームは自称アンドレことフレちゃんでしたー♪」

フレデリカ(飛鳥)「その自己紹介はなんだ。聞いたこともないぞ」

飛鳥(フレデリカ)「これからのグローバルな時代を生き抜くにはダイバーシティな感覚が必要なのだっ! ……あっ、でもアタシ今はアスカちゃんだから新しいミドルネームを考えなきゃだねー☆」


二宮飛鳥の体になったフレデリカは左手を天に向かって突き出し、右手で顔を押さえつけながら叫んだ。


飛鳥(フレデリカ)「《月明かりに照らされた峠の上で狼の叫びがこだまする。人から人へとココロを救う命の洗浄! 我が名はシュバルツ・ヴァッシェマシーネ!》 ……っていうのはどーお?」

フレデリカ(飛鳥)「クッ……! 不覚にもカッコイイと思ってしまったのが悔しい! 直訳したら『黒い洗濯機』なのに! しかもそれはミドルネームじゃない!」

飛鳥(フレデリカ)「ふふーん♪ フレちゃんの手にかかればこのくらい朝飯前だよ! 今は昼過ぎだけど☆」

フレデリカ(飛鳥)「知らなかったよ。フレデリカにそんなセンスがあっただなんてね。もっと、キミのセカイを見せてくれ!」

飛鳥(フレデリカ)「それもいいけどそろそろ戻らなくっちゃ。あんまり長くいすぎちゃうと怪しまれちゃうよ?」

フレデリカ(飛鳥)「これは夢だろう? バレたって構いやしないさ」

飛鳥(フレデリカ)「うーん、そうだったらいいんだけどね」


フレデリカはそれだけ言うとみんなのところへ戻っていった。随分と気になることをいってくれるじゃないか。


ボクが座席に戻ると蘭子のオーダーした紅茶が出されていた。
魅惑のボンボンショコラーテとかいう存在しないメニューを注文したフレデリカの元には冷や水しか出されていなかった。


蘭子「枯渇した心の泉が潤ってゆく…(喉が渇いていたので紅茶おいしいです〜)」

飛鳥(フレデリカ)「クッ……! これが魅惑のボンボンショコラーテとでもいうのかっ……!」


あんなに悔しそうに冷や水を飲む人は初めて見た。
半分は自業自得とはいえ、訂正する隙がなかったのはボクが原因だし後でカフェオレでも頼んであげよう。


周子「飛鳥ちゃん最近レッスン頑張ってるよねー。ライブ近いん?」

飛鳥(フレデリカ)「そうだよ。次の週末にステージがあるんだ。観に来てくれると……その、嬉しい」

蘭子「我は元より我が同胞の声を聴きに舞い降りる……(私は元から行くつもりだよ!)」

美嘉「ライブいいじゃん! みんなで観にいこうよ★」

奏「良いんじゃないかしら。みんなはどう?」

志希「あたしいくよ。なんかイイ匂いしそー」

周子「いや匂いは関係ないでしょ。私もいくけど」

美嘉「フレちゃんはどうする?」

フレデリカ(飛鳥)「じゃあ……アタシもいこっかな」

奏「決まりね。みんなでいきましょ」


二宮飛鳥を操るフレデリカがこっちに向かってウィンクしてくる。ナイスアシスト!とかいう声をかけて欲しそうだ。
確かに良いアシストだったと言いたい気持ちはある。
みんながライブに来てくれる。成功するかはわからないけど、もし喜んでくれたならそれはきっととても幸せなことだ。

ああ、でもこれは夢だった。現実世界に戻ったらこの約束も無かったことになる。少し惜しいな。


【夜、フレデリカの部屋】

他人の部屋というモノは落ち着かない。
入れ替わりをバレないようにする為の配慮ということだけど……
部屋の何処に何があるかわからないから結構不便だ。



……いつか、この部屋に慣れしまう時が来るのだろうか。そもそも、どうやったらこの夢から醒めるのだろう。

もしかしたらずっとこのまま──

ボクが不安に駆られていると、ドアを叩く音が聞こえた。ドアスコープから見てみると二宮飛鳥の姿をしたフレデリカが笑顔でこちらに向かって手を振っている。


飛鳥(フレデリカ)「アスカちゃん、おつデリカ〜。いや、今はアスカちゃんになっているからおつアスカだね♪」

フレデリカ(飛鳥)「……唐突だね。どうしたんだい?」

飛鳥(フレデリカ)「アスカちゃんが寂しがっていると思って〜☆」

フレデリカ(飛鳥)「別に、寂しいなんて思っていない」

飛鳥(フレデリカ)「ワォ! アスカちゃん強くなったね〜昔はこんなだったのにね〜」

フレデリカ(飛鳥)「キミはボクの過去なんて知らないだろう。第一ボクの幼少期がその手の大きさだったとしたならボクの幼少期はミジンコかなにかだ」

飛鳥(フレデリカ)「んもー、そんなカリカリしないで〜 。ストレスはお肌に悪いよー?」

フレデリカ(飛鳥)「誰のせいだと思っているんだ、全く。……で? わざわざ部屋に来たということはなにか用事があるんだろう?」

飛鳥(フレデリカ)「さっすがアスカちゃん! 鋭いね〜 でも残念! 用事なんてないよー。 フレちゃんはただアスカちゃんに会いたかっただけ♪」

フレデリカ(飛鳥)「会いたいなんていう感情はヒトが不完全な生物であるからこそ湧いてくるんだ。だから……」

飛鳥(フレデリカ)「孤独を寂しがるのは人間ならではって感じだね!」

フレデリカ(飛鳥)「おや、キミとユニゾンするとは珍しいね。やはりボクに成り済ます人間ならこれくらい哲学的な物の見方ができないといけない、といったところか。なぁ、フレデリカ。」

飛鳥(フレデリカ)「……!」

フレデリカからの返事がない。まるで豆鉄砲を喰らったような表情で固まっている。

まさか哲学に目覚めたからっていきなり《考える人》の物真似をしているわけではないだろうね。


フレデリカ(飛鳥)「……フレデリカ?」

飛鳥(フレデリカ)「えっ!? あっ……あ〜フレちゃん、知への探究心が止められないよー!」

フレデリカ(飛鳥)「今日のキミはやっぱりどこか変だ。カフェの気になる発言もそうだし、今だってそう。まるでキミはボクの知らない何かを理解っているかのようだ。だとしたらそれは何だ? キミの瞳はセカイを……どんな風に捉えている」

飛鳥(フレデリカ)「……アスカちゃん」

飛鳥(フレデリカ)「何があっても、ふたりでがんばろうね」


フレデリカは真剣を通り越して気分の昂りを抑えきれないといった様子で話している。


フレデリカ(飛鳥)「……?  そうだね」

飛鳥(フレデリカ)「ほら、元気だして!クヨクヨしてたらアスカちゃんらしくないよ。こんな時だからこそ自分らしくしないとね。大事なのは器じゃなくて魂なんだよ」

フレデリカ(飛鳥)「あ、当たり前だ! ボクは二宮飛鳥だぞ! ……どちらかといえばらしくないのはキミの方だよ」

飛鳥(フレデリカ)「劇団宮本フレデリカここに開演!」

フレデリカ(飛鳥)「……フム?」

飛鳥(フレデリカ)「どうだった?しっかり考えている姿がクールで明るい感じがキュートだったでしょ!」

フレデリカ(飛鳥)「いや……ただふざけているキミにしか見えなかったよ」

飛鳥(フレデリカ)「えぇ、ひどーい! 劇団フレちゃん失敗しちゃったー! 上手くいってたと思ってたのになー」

フレデリカ(飛鳥)「まぁでも言っていることはそうだな……悪くない」

飛鳥(フレデリカ)「本当!? やったね! アスカちゃんのお墨付き☆」


笑顔を取り戻したフレデリカは小躍りしながら、ドアノブに手を掛けた。


飛鳥(フレデリカ)「じゃーねアスカちゃん、また明日! らびゅ〜♪」


扉はゆっくり閉じられた。嵐が過ぎ去ったような静けさがボクの部屋を包み込んだ。



ボクが見ている風景はあまりにもリアルで夢だということを忘れかけてしまう。
そもそもこれは本当に夢なのだろうか。

きちんと作動する自らのカラダ。思い通りにいかないストーリー。色とりどりな人間の感情。

地に足がついている感覚と、今触れているドアの鍵の冷たさ。


右の手を鍵から離し、ゆっくり顔をつねるとじんわりとした鈍い痛みが右頬に広がった。



【2日目朝、フレデリカの部屋】

差し込んできた朝日の眩しさで目が覚めた。今日は目覚まし時計要らずだったね。
昨日はなんだかんだでぐっすり眠れたから朝から頭が冴えわたっているよ。
手足をバネのようにしてぴょんっと跳ねて起きる。

あぁ、気持ちのいい朝だね。

つい言葉に出てしまうくらい素晴らしい朝日だったのさ。
太陽に向かって大きくのびをする。ポキポキと鳴る背骨が心地いい。

宮本フレデリカの体で2日目の朝を迎えた。


フレデリカはここしばらく大きな仕事はないみたいだけど、二宮飛鳥の方はあと2日でライブが来る。
それまでに元の体に戻れるだろうか。
残念ながらこの夢は限りなく現実に即しているみたいだし、つねっても刺激を与えても覚めることはない。
そもそも元に戻れたとしても、それからレッスンを始めていては間に合わないかもしれないな……

いや、考えても仕方がない。そもそもこれは夢なのだからいつかは醒めるだろう。


【昼、レッスン場】


飛鳥(フレデリカ)「必殺・シンクロニシティ!」

ベテラントレーナー「こら! 真面目にやれ!」


ライブステージが近いらしい二宮飛鳥はベテラントレーナーによる特訓を受けていた。
ちなみに近くにめぼしい予定がないボクと志希は別メニューでのんびり準備運動をしながらそれを眺めている。


志希「ねーねー、ヘンだと思わない?」

フレデリカ(飛鳥)「なにが?」

志希「飛鳥ちゃんって、あんな娘だっけー」

フレデリカ(飛鳥)「こんな感じだったよ、たぶん」

志希「言ってることはそれっぽいけど、必殺技っていって叫んでたかなーって」

フレデリカ(飛鳥)「昨日のカフェくらいからこの調子だったよね?」

志希「昨日のカフェくらい、ねぇ…」

フレデリカ(飛鳥)「どうしたの?」

志希「あんな元気な飛鳥ちゃんがさー、」


志希は準備運動の動きを止めてこちらを見る。


志希「もし誰にも知られずにひっそりと泣いていたとしたら、どーする?」

フレデリカ(飛鳥)「へっ?」


予想すらしていなかった彼女の質問にボクは言葉が見つからない。


志希「冗談だよ〜! シコージッケンってやーつ♪」

フレデリカ(飛鳥)「それにしても急なんじゃない?」

志希「あたし、見ちゃったんだ」


意地悪な笑みを浮かべた志希は、ボクに顔を近づけて耳元で呟いた。


志希「昨日、飛鳥ちゃんがフレちゃんの部屋から出てくるなり、苦しそうに走ってくトコ♪」


昨日、というと劇団宮本フレデリカといっておどけていたあの話の後だ。
あの時のフレデリカは様子がおかしい瞬間はあったものの、苦しいといった事とは無縁だったと思っていたけど。


志希「フレちゃんってば飛鳥ちゃんになんかヘンなことしてないよねー?」

フレデリカ(飛鳥)「うーん。思い当たる節がないかなぁ」

志希「そっかーフレちゃんにもわかんないかー」


にゃはは、と志希は笑っている。
彼女は本当につかみ所の理解らないヒトだ。
ボクとフレデリカが可笑しい事を見抜いたのならもっと詰問すればいい物を、こうもあっさりと引き下がられるとただ気まぐれで引っ掻き回したいだけにすら思える。


志希「ねぇ、キミはいつまでそうやってるつもり?」


唐突に声のトーンを変えた志希はその猫のような口元を緩ませたままだった。
だけどブルーの瞳はどこまでも深く、ボクの掌をじんわりとにじませた。
そうだ、この瞳だ。こうなってしまうとボクはいつも動けなくなる。まるで睨まれたネズミのように。
志希は一体何を考えている?

パンパンっ。
沈黙を打ち破ったのは破裂音だった。
音のした方へ振り向くとベテラントレーナーが笑顔で手招きをしている。


ベテラントレーナー「二宮はソロの時だといいパフォーマンスをするが、バックダンサーがつくと急に崩れてしまうんだ。そこでだ。ちょっとレッスンに付き合ってくれないか?」

志希「フレちゃんフレちゃん。ベテラントレーナーのレッスンに巻き込まれたらあたし達過労で死んじゃう」

フレデリカ(飛鳥)「うん、理解ってるよ。どうにかしないとね」


志希とボクはコソコソ話で作戦会議をする。


志希「あの〜。あたし達今日はルーキートレーナーさんの元でレッスンしているのでー。勝手に代わってはいけないと思いまーす!」

ベテラントレーナー「安心しろ。了承済みだ」

ルーキートレーナー「一ノ瀬さん、宮本さん頑張ってくださいねっ!」


志希とボクは目を丸くしてお互いの顔をみた。

嗚呼、運命とは非情なモノだね──……


【夜、フレデリカの部屋】


フレデリカ(飛鳥)「早くベッドで眠りたい……」


レッスンでクタクタになった体にムチをうち、なんとか部屋に帰り着いた。
それにしてもノドが乾いたね。今だったらセーヌ河くらい飲み干せそうだよ。実行したらおなか一杯にになっちゃいそうだけど。
冷蔵庫を開けて飲み物を探す。キンキンに冷えた緑茶のご登場だ。コップに入れて一気飲みをする。
ああ、気持ちいいな。五臓六腑に染み渡るとは正にこのことだ。

喉を潤したボクは満足して、ベッドに倒れこむ。少しずつ沈んでゆく感触が心地いい。

志希の言っていたことは一体何だったんだろうか。
ボクと話している時のフレデリカは天真爛漫そのものだった。
それが部屋から出た途端、苦しい顔をしたのだとしたら彼女の本音はどっちにあるのだろう。
フレデリカだってヒトの子だ。明るい彼女が心になにかを秘めていたとしてもおかしくはない。
だけど、ボクは元気なフレデリカしか見たことがない。


顔を上げると本棚には華やかなフォントで彩られたフランス菓子のレシピ本が並んでいた。
その本を手にとってみる。
いや、別に甘いモノに興味があるわけじゃないよ。ただ、フレデリカの好きなモノが気になっただけさ。


フレデリカ(飛鳥)「って、誰に言い訳してるんだか」


……


フレデリカ(飛鳥)「フム……意外とボクにも作れそうだね。今度作ってみるのも悪くはないのかもしれないな」


ガレット・ブルトンヌにビスキュイド・サヴォアか……フランス菓子って結構面白い名前が多いんだな。必殺技みたいにして叫ぶのもいいのかもしれない。
いや、もうしていたような気がす──

『ピンポ〜ン。』


来訪者の知らせを告げるチャイムが鳴った。クッ、いいところだったのに!

ドアの外にはかつて見たことのないくらい神妙な表情をしたフレデリカ(二宮飛鳥の姿をした者)が立っていた。


飛鳥(フレデリカ)「アスカちゃん、今日はちゃんと用事があってきたよ。」


ボクとフレデリカが向かい合わせで対峙する。まるでハブとマングースの最終決戦のような、緊張感が部屋を包み込んだ。


飛鳥(フレデリカ)「ヤマもオチもイミもない話なんだけど、聞いてくれる?」

フレデリカ(飛鳥)「もちろん、だとも」


間が持たなくてボクは唾液を飲み込んだけども、一切の味が感じられなかった。


飛鳥(フレデリカ)「実はね……」


シリアスなフレデリカは息を漏らすように話し始めた。


飛鳥(フレデリカ)「カメレオンが風景に合わせて色を変えているってウソなんだって〜! 知ってた? 温度とか光の強弱とかで色が変わってるらしいよー」

フレデリカ(飛鳥)「……へっ?」

飛鳥(フレデリカ)「しかもカメレオン自らが色を選んでるんじゃなくて皮膚が勝手に反応しちゃうんだって〜、すごいよねー! フレちゃんもビックリだよ!」

フレデリカ(飛鳥)「ちょ、ちょっと待ってくれ。用事というのはそれだけかい?」

飛鳥(フレデリカ)「それだけだよ?」

フレデリカ(飛鳥)「シリアスな話の前のワンクッションとかでもなく?」

飛鳥(フレデリカ)「とかでもなく!」

フレデリカ(飛鳥)「あの緊張感は一体なんだったんだ……! もっとこう……あるだろう色々!」

飛鳥(フレデリカ)「えー、なんのこと?」


昨日、フレデリカの部屋から苦しそうに出て行く二宮飛鳥を見た、という志希の言葉を頭の中で繰り返す。
今、目の前にいる彼女はにこやかだ。


フレデリカ(飛鳥)「……何か辛い事を抱えている、とか」

飛鳥(フレデリカ)「ん~、どうしてそう思うの?」

フレデリカ(飛鳥)「キミは不安に思ったりしているんじゃないのかい? もし、元に戻れなかったとしたら、とか……」

飛鳥(フレデリカ)「……」

飛鳥(フレデリカ)「そうなんだよアスカちゃーん! アタシもう不安で不安で……」

フレデリカ(飛鳥)「やはりフレデリカ、キミは……!」

飛鳥(フレデリカ)「そう、フレちゃんは誰の目につくことなく、涙をこぼし……」


フレデリカは苦しそうにもだえながら言葉を続ける。


飛鳥(フレデリカ)「そして大地は割れ……」

フレデリカ(飛鳥)「ん?」

飛鳥(フレデリカ)「海は裂け……」

フレデリカ(飛鳥)「は?」

飛鳥(フレデリカ)「空に雷鳴が轟き、山は憤怒を吐き出し、神々が舞い降りこう呟いた……」

フレデリカ(飛鳥)「待て待て待て」

飛鳥(フレデリカ)「お腹がすいた、と……!」

フレデリカ(飛鳥)「ストップ、ストップ」

飛鳥(フレデリカ)「んもー、いいところだったのに」

フレデリカ(飛鳥)「色々と突っ込み所が満載だったよ」

飛鳥(フレデリカ)「この中にウソが紛れています! どこでしょーか♪」

フレデリカ(飛鳥)「少なくとも大地と海と空と山と神々は嘘だろう」

飛鳥(フレデリカ)「はい、せーかい! 5フレポイント贈呈だよ☆」

フレデリカ(飛鳥)「……ポイントがたまると何になるんだい」

飛鳥(フレデリカ)「5フレポイントでフレちゃんとのディナーにご招待♪」

フレデリカ(飛鳥)「もう確定じゃないか」

飛鳥(フレデリカ)「というわけでアスカちゃん、ご飯食べにいこ☆」

フレデリカ(飛鳥)「やれやれ、本当に行くんだね」


フレデリカはしばしばこういった突拍子の無さがある。おかげで周囲の人間はいつも彼女に振り回れる羽目になる。
ボクのカラダになってもそのペースはいまだ健在というワケか。

全く、キミらしいよ……

キミがキミらしくいてくれるおかげでボクは自分を見失わないでいられる。
宮本フレデリカはそこにいるし、二宮飛鳥はここにいる……ってね。



フレデリカ(飛鳥)「まぁいいだろう。そうだね、ボクもおなかがペコペコなんだ」


出掛けるために足をハイヒールに入れようとしたその瞬間、とある不安がボクの頭を駆け巡った。

本当にこのままでいいのだろうか。
ボクがこの入れ替わり生活の中で何か大きなことを見過ごしているような、取り返しのつかない何かが進んでいるような、忘れてはいけないことを忘れているような……感覚。



飛鳥(フレデリカ)「アスカちゃん、はやくいこっ。ほらほら、ハンバーグが待ってるよ〜♪」

フレデリカ(飛鳥)「なにっ。ハンバーグで確定なのかい?」

飛鳥(フレデリカ)「フレちゃんの一存で決まりました☆」


気にし過ぎ、か。
ハイヒールのかかとを潰さない為に腰を下ろし、指を使って丁寧に靴を履いた。


【3日目朝、フレデリカの部屋】

今日も1日が始まる。

今朝はスズメの鳴き声セッションが目覚まし時計の代わりだったよ。
あー、まだ少し眠たいなぁ。なんて思いながら小さなあくびをした。
でもそれだけじゃ足りなくて大きくノビもして、おひさまのぽかぽかとした暖かさを全身に浴びる。

よし、今日もはりきってがんばろう!

自分自身にカツをいれる。……といっても今日はオフなんだけどね。これをするかしないかで1日の元気が変わるんだって。

散歩にでもいこうかな。
お出かけできる服に着替える。シンデレラ・メークアップ!
毎日こんなに気合を入れていたらすぐに息切れしちゃいそうだね。大事なのはリラックスして家族健康、感謝感激、大安休日ぅ、ビンゴ!

メイクをする為に手鏡を開くともはや見慣れてしまったきらきらの金髪が目に入ってしまって、手鏡を放り出してしまった。



フレデリカ(飛鳥)「あーあ。今日もアタシは宮本フレデリカだなー。」



……自分で口に出した言葉が信じられなかった。天と地がひっくり返ってしまったような。



今、ボクは自分のことをアタシだと言ったか?
だとしたらなぜ。可笑しい。やはり何かが変だ。

ボクの気づかないところで何かが進んでいる。

違和感の正体はこれだけではない。
もっと前から、最初からあったんだ。

何故、初手からボクはフレデリカの予定を把握していた?
何故ボクは受け入れ難い入れ替わりという事実をすんなりと受け入れている?
何故慣れない筈の部屋ですぐに支度ができたり、メイクや服装選びができている?
何故知らなかったはずのフランス菓子の知識がここまである?
何故、週末の二宮飛鳥のステージが他人事になっている?

最初は頬をつねっても痛くなかったのに、いつの間にか痛くなっていた。それだけではない。
いつの間にかコーヒーが甘いとかノビをすると気持ちがいいだとかそういう感覚も生まれていた。
夢なら感覚は無いんじゃなかったのか?

宮本フレデリカのカラダが馴染んできている。
これは順応とかそういうレベルではない。

ボクは……



宮本フレデリカそのものになってきているんだ。


1つのカラダに2つの人格が同居するのではなく、じわりじわりと片方の人格が上書きされている。
じゃあ完全にすり替わったらボクの意思はどうなってしまうんだ。

消えて……しまうのか?

嫌だ、掻き消されてしまう……ボクの中のボクがいなくなってゆく。

ボクの中の記憶がなくなる前に思い出すんだ。ボクは日仏のハーフでパリ出身。趣味はファッションで……

これはフレデリカのプロフィールだ!
ボクの記憶は破壊されてしまったとでもいうのか。

やめろ、違うんだ。ボクは二宮飛鳥なんだ…

ボクの好きな食べ物は。趣味は。好みの服は。好きな本は。何にエモーションを感じ、どんな時に嬉しくなってどんな時に悲しみを抱いたのか。

……ボクの大切な思い出は。


どんなに抗って見せても、ボクの記憶は霞み行く深海の中。


『お菓子を作るのも食べるのも好きで、短大でデザインを学んでいてファッションにはこだわりたいな! ふわふわもこもこした服が好みなんだー。あとそれからー。えーと、みんなが笑顔になってくれると嬉しいかも☆』

漁れば漁るほど出てくる記憶たち。
何故だ?何故二宮飛鳥の記憶が出てこないんだ!



カラダもココロもフレデリカ。

もう、この中に二宮飛鳥は無くなりかけている。でも自分をフレデリカと認めたくはない。



だとしたら一体ボクは……何者なんだ?




迷うな。ボクは他の何者でもない、二宮飛鳥なんだ!
そうだろう、フレデリカ。


紐も結ばずに靴を履いて外へと飛び出した。階段を駆け上り、向かった先は数日ぶりに訪れる二宮飛鳥の部屋。

ドアノブにかけた手を一瞬止めた。

──この中にいるフレデリカはどうなっている。やはりボクと同じように上書きされているのかもしれない。
……だとしたら彼女はボクに笑顔を振りまいてくれるのだろうか。


フレデリカ(飛鳥)「......ッ!」


ドアに鍵は掛かっていなかった。
戸を開き、恐る恐る部屋を覗いてみる。

そこには力なく座り込み、虚空を見つめる二宮飛鳥の姿があった。
その姿をした者はこちらに気付くなり、まるで操り人形のようにぎこちなく口角をあげる。


『ワォ、アスカちゃん! そんなに息切れしてどうしたのー? ……あっ、もしかしてそんなにフレちゃんに会いたかった!? かわいいねー、ちゅーしてあげる! はい、投げキーッス☆』


そんな元気な答えを期待していたワケじゃない。
……だが、あまりにも残酷すぎやしないか。現実というヤツは。


部屋の中のレイアウトは一切変わっていなかった。
いつ、元に戻っても問題ないようにしてくれたフレデリカなりの配慮なのかもしれない。


飛鳥(フレデリカ)「アスカ、ちゃん」


彼女がようやく消え入りそうな声で呟いたのは、荒れていたボクの呼吸がすっかり元に戻っていた頃だった。


フレデリカ(飛鳥)「ボクの事が分かるかい、フレデリカ!?」

飛鳥(フレデリカ)「……二宮、飛鳥ちゃん。14歳。静岡県出身。でもお茶は苦手でコーヒーが好き。だけどお砂糖とミルクを少し入れないと飲めないの。苦さを避ける人間の本能があるんだもんね。ヘアアレンジが好きで特にエクステにはこだわりをもっているの。赤、青、黄色、水色、ピンク色、紫色エトセトラ、エトセトラ……本当はまだまだあるんだけどここでは割愛しておくね」

フレデリカ(飛鳥)「そうだ。ボクは二宮飛鳥だ。そしてキミは宮本フレデリカ……!」

飛鳥(フレデリカ)「……」

フレデリカ(飛鳥)「そうだろう……? なぁっ……!」


フレデリカの両肩を掴み揺さぶる。物理的衝撃に意味がないと分かっていても。


飛鳥(フレデリカ)「……」

飛鳥(フレデリカ)「なぁんにも」

飛鳥(フレデリカ)「なぁんにも覚えていないんだ」


飛鳥(フレデリカ)「今アタシの中に残っているのはかつて宮本フレデリカだったという事実の記号だけ。あとはみーんなアスカちゃんの記憶。」

フレデリカ(飛鳥)「フレデリカ……」

飛鳥(フレデリカ)「今までテキトーに生きてきた代償なのかなぁ。アタシのコト全然思い出せないや。……フフッ。笑っちゃうでしょ。」

フレデリカ(飛鳥)「キミは……! 自分を卑下するような笑いをする人物じゃなかった筈だ!」

飛鳥(フレデリカ)「……ゴメンね。アスカちゃん」

フレデリカ(飛鳥)「謝らないでくれ! いつものように……楽しい話をして振り回してくれ。持ち前の元気で、明るく照らしてくれよ! キミがキミらしくいてくれないと……ボクは、ボクは……!」


二宮飛鳥の姿をした宮本フレデリカはただされるがままといった様子で揺さぶられているだけだった。



飛鳥(フレデリカ)「……カメレオンってね」

フレデリカ(飛鳥)「え……?」

飛鳥(フレデリカ)「感情でも色が変わっちゃうらしいよ。興奮して赤くなったり、体調が悪くて黒ずんだりするんだって。」


フレデリカの目線は何処か分からない虚空に定まっている。


飛鳥(フレデリカ)「カメレオンは、何色になりたかったのかな?」

フレデリカ(飛鳥)「フレデリカ……?」

飛鳥(フレデリカ)「青が好きなカメレオンがいるかもしれないし、ピンクが好きなカメレオンもいるかもしれないよ。あるいは色なんて気にしないカメレオンなんていうのもいるかもしれないね。」

フレデリカ(飛鳥)「違う……」

飛鳥(フレデリカ)「……でも、自分の意志に関係なく色は変わっちゃった。」


フレデリカはボクの返事に関係なく一方的に話し続けている。
それはまるで壊れてしまったラジオから聴こえてくる音のようだった。
耳を塞ぎ、頭まで届かせたくない。そんなノイズ。


フレデリカ(飛鳥)「やめろフレデリカ……!」

飛鳥(フレデリカ)「カメレオンはそんな自分の業を受け入れることができたのかな。」

フレデリカ(飛鳥)「キミは……そんな哲学的な語りをする人じゃなかっただろう!」

飛鳥(フレデリカ)「あー、でも理解んないや。カメレオンの気持ちはカメレオンだけのモノなんだし。」

フレデリカ(飛鳥)「もっと、もっとありのままのキミでいてくれよ!」

飛鳥(フレデリカ)「……そっか、」

飛鳥(フレデリカ)「そうだよね」


ようやく、ボクの方を見たフレデリカの表情は。


飛鳥(フレデリカ)「アスカちゃん。ボク、がんばるよ」



……笑顔だった。




ボクには目の前の太陽を直視することはできなかった。

近づきすぎるとイカロスの翼のように焦がされてしまいそうで。

部屋から飛び出してしまった。


行くあてもなく街を歩いてゆく。

いや、詩的な表現はやめにしよう。
ボクは逃げ出したんだ。現実から。

フレデリカはもうボクの知るフレデリカではなくなっていた。
周りの人間を照らせるほどの明るさは失われ、自らを卑下するようになっている。
きっと彼女にはボクのネガティブで皮肉っぽい思想が雪崩れ込んでいるのだろう。

それでもフレデリカは笑顔でいてくれた。仮初めだったとしても、彼女に残った最後のココロで。

だからこそ、それをみているのは苦しくて、悲しくて、寂しくて、ココロが痛くなった。
フレデリカに笑顔でいるように頼んだのはボクなのにな。


彼女の精一杯のメッセージに対してボクはどう応えた?
見たくなかったところを見てしまったからって耐えきれなくなり、逃げ出しただけ。
ハハハッ……とんだエゴイストだね。最低だな、ボクは。


……そんなことを言ってる場合じゃない。まだ機会は残っている。ちゃんと会って謝るんだ、手遅れになる前に……!


進行方向を逆転させ、再びボクらが住む寮の方へと走り出す。



二宮飛鳥の部屋に戻ると、もう中に誰もいなくなっていた。

手遅れだったか?
いや、まだだ、まだフレデリカの部屋の可能性が!

階段を駆け下りて、突き飛ばすようにドアを開ける。

フレデリカの存在を確かめるよりも早く異様な光景が視界に入った。
玄関にあったあらゆる靴が靴箱から飛び出している。

空き巣の可能性を疑いつつ、部屋の中に入ると全てのタンスが開かれていた。衣類が乱雑に放り出されている。

何故フレデリカの部屋がこんなにも荒らされているんだ?

室内を見渡すと一枚のメモ用紙が机の上に置かれているのをみつけた。



『アスカちゃん、おつデリカ♪ ……それともおつアスカの方がいい? うん、どっちでもいいよね☆ ●●アタシはアタシらしく、アスカちゃんはアスカちゃんらしくいられるなら!』


文章を読み解いただけでもまるでフレデリカが飛び出してくるかのような彼女らしい内容だった。

だが、なぜこんなにも文字が震えている。フレデリカはもっと丸々しい字の書き方をしていたはずだ。今にも崩れそうに踊る文字の中に自らの一人称を書き直した痕跡だけが静かに佇んでいる。


メモから目を離すと、衣類で散らかった部屋と色んな靴でいっぱいの玄関が再び視野に入った。


フレデリカ(飛鳥)「……ッ! フレデリカ!」


ボクは残った力を振り絞り、本日5度目となる全力疾走を敢行した。


【昼、346プロレッスン場】


フレデリカ(飛鳥)「二宮飛鳥を見ませんでしたか!?」

ベテラントレーナー「それがまだ来ていないんだ。もうレッスン開始の時間は過ぎているのに」

フレデリカ(飛鳥)「そうですか……」


ベテラントレーナー「もう本番が明日に迫っているというのにな……っておい、宮本!」

フレデリカ(飛鳥)「ありがとうございます!」




【昼、346プロ事務所】

フレデリカ(飛鳥)「誰か二宮飛鳥を見なかったか!?」

みりあ「うーん、今日はまだ来てないよ?」

仁奈「フレデリカおねーさん、すげぇ汗だー!」

薫「タオル! タオル貸してあげなきゃ!」

桃華「わたくしのハンカチでよろしければ、どうぞ」

フレデリカ(飛鳥)「……ありがとう」


桃華から借りた薔薇色のハンカチで汗を拭う。
当たり前だけど、この少女たちにもボクはフレデリカとして観測されているんだな。


ありす「……フレデリカさん。なにがあったのか私には分かりませんが、焦りは禁物です。必ずロクでもない結果を招きます」

フレデリカ(飛鳥)「そうだね……アリスちゃんの言う通りだよ」

ありす「それはどうも……あっ、橘ですっ!」


小学生に諭されるくらい今のボクは焦っているように見えたのか。
その通りだろう。けどそんな悠長に構えている暇はないんだ。すまない。


街を行き、ショッピングモールを走り、カフェも覗き、他の心当たりのある場所全てを探した。
が、フレデリカを見つけ出すことは叶わなかった。

陽は落ち始め、夜が近い。

溜息をつきながらポケットの奥底にしまっていたくしゃくしゃのメモ用紙を再び取り出す。


『アスカちゃん、おつデリカ♪……それともおつアスカの方がいい? うん、どっちでもいいよね☆ ●●アタシはアタシらしく、アスカちゃんはアスカちゃんらしくいられるなら!』


キミはどうしてそこまで笑顔でいられるんだい。消えかけたロウソクのような自我の中でも。

そうだ、前にもフレデリカは同じようなことをしている。
自分が心に抱えている苦しさを隠して明るく振舞っていたことが。
ふと、志希の言葉を思い出す。


『あたし、見ちゃったんだ。昨日、飛鳥ちゃんがフレちゃんの部屋から出てくるなり、苦しそうに走っていくトコを♪』


そうだ、やっぱりあの時にはもう気がついていたんじゃないのか。
ボク達の人格が入れ替わり、精神が飲み込まれていることを。
自分が塗り替えられていくのに孤独と不安を感じていたんじゃないのか。
そしてキミはボクに見られないように苦しんでいた。

それでもキミは上手くはぐらかして、ただ笑っていた。ボクの為にずっと宮本フレデリカでいてくれた。
アイデンティティが揺らいでいたのはキミも同じ筈なのに。

フレデリカ、キミはカメレオンの皮膚の色は環境によって勝手に変えられると言っていたね。
光量や熱量や、感情をキッカケに変色するモノだと。

もしかしてカメレオンというのは、キミ自身のことかい。
だとするとキミは周りの人物の為に自分の色を変色させていたのいうのか。
辛いときには笑って見せてくれて、寂しいときには会いに来てくれて、不安なときには元気を分けてくれる。

……ボクはフレデリカの懐に甘えていたんだ。それが彼女のココロを少しずつ蝕んでいると気付かずに。


寂しくなる夜にいつも逢いに来てくれたのは誰か。
入れ替わり生活を支えてくれたのは誰か。

ボクはただ、とにかく──



フレデリカ(飛鳥)「フレデリカに……逢いたい」


手にとったメモ用紙を再びポケットの奥へとしまい込んだ。


街頭に明かりが灯り始めた。
気がつくと見憶えのある道に辿り着いていた。どうやら寮の近くまで戻って来てしまったみたいだ。

けど、ボクはまだフレデリカを諦めてはいない。


歩く道の先にある、高く伸びた電柱から光の筋が見えた。光が照らしていたのはゴスパンを身に纏い佇む少女、二宮飛鳥だった。

フレデリカ!

やっと、見つけた。ずっと探していたんだ!

心臓の鼓動が早くなる。口角が浮ついてくる。早歩きが小走りになった。

まだ、言いたいことが言えてないんだ。全てを言い切ったら元気に暮らそう。
今はまだそんな気持ちにならないかもしれないけど、陰鬱な気分を吹き飛ばすフレンチジョークが今なら思いつきそうなんだ。
もし、フレデリカが自分の記憶を思い出せないと言うのならボクが全てを教えよう。
フレデリカの事ならなんでも知っているんだ。

だから、フレデリカ──……


フレデリカ(飛鳥)「こんな処に居たのかい。フレデリカ! もう、見つからないと……」

二宮飛鳥「フムン……? 冗談はよしてくれ。フレデリカはキミじゃないか」

フレデリカ(飛鳥)「……嘘だ」

フレデリカ(飛鳥)「嘘だといってくれよ、なぁっ!?」

二宮飛鳥「ジョークだと思いたいのはこっちだよ」

フレデリカ(飛鳥)「そうか、忘れているだけなんだろう……? 思い出してくれ、フレデリカ……!」

二宮飛鳥「ワケの理解らないことを言わないでくれ。今日は虫の居処が悪いんだ」

フレデリカ(飛鳥)「本当に、本当に何も覚えていないのか……?」

二宮飛鳥「やめろと言っているだろう! 今日は散々な1日ってヤツだよ全く──……」



目の前のヒトの中に宮本フレデリカはもういない。
それだけは、確信してしまった。



夜は更けてゆく。

もうあの彼女にフレデリカと呼べる部分はなくなっていた。

人間のカラダが残っているのに本人の意識はない。そんな馬鹿な話があってたまるか。じゃあ、彼女は何処にいってしまったんだ。

目線をそらした先の暗い窓ガラスが金髪の女性を映し出している。

……違う、ボクは二宮飛鳥なんだ!


仁奈「あ、いたー!」


幼い声のした方へ振り向くとみりあ、仁奈、薫、桃華、ありす、そして美嘉がいた。


美嘉「事務所に帰ったらみりあちゃんたちがなにか騒いでいたから」

ありす「これは絶対にただ事ではないと思いましたので」

美嘉「で、事情を聞いてみたらアンタが飛鳥ちゃんを探してるって。電話もしたんだけど出なかったから」


美嘉が携帯を開く。


薫「あれぇ美嘉ちゃん、飛鳥ちゃんに会ってたのー?」

美嘉「珍しかったから写真撮っちゃった。写真撮った時は探してるって知らなかったんだよね。もう少し早く知ってたら直接教えられたんだけど」


美嘉が差し出した画面を覗き込む。そこには昼過ぎあたりだろうか、公園のベンチで眠っている二宮飛鳥の姿があった。




あぁ、なんの変哲もない二宮飛鳥だ。




まるで宮本フレデリカが着るようなふわふわの服を着ていること以外は。




……何故、なんだ。
あぁ、世の中はわからないことだらけだ。もうボクには理解らないよ。
こんなセカイは──……


美嘉「起こしてあげたら驚いた顔してどっかいっちゃったんだけど……って、ちょっとフレデリカ大丈夫!?」



……ボクはフレデリカ、じゃない。



みりあ「フレデリカちゃんが倒れた!」

桃華「フレデリカさん! お気を確かに!」



ボクは……二宮飛鳥なんだぞ。



薫「かおる、どーしたら……」

仁奈「フレデリカおねーさん、いなくなっちゃさみしーですよ……」



ボクを……



ありす「フレデリカさん、大丈夫ですか、呼吸が苦しくは」

フレデリカ(飛鳥)「ボクを! フレデリカと呼ぶなあーっ!」



潮が引いたような静寂が訪れる。
みんなが呆気にとられた表情でこっちを見ていた。


フレデリカ(飛鳥)「…………ッ!」


いたたまれなくなってまた走り出す。

このまま行方不明になってしまいたい。


移ろいゆく人々が、燦然と煌めくネオンライトが流れてゆく。


こんな灯りは不釣り合いだ。ボクはまた逃げ出してしまったんだ。


人々はいなくなり、ネオンライトが街灯に変わってゆく。


彼女らに悪意はない、善意の行動だったのに。
いや、違うね。この善意はボクに向けられたモノじゃない。
外側のフレデリカに向けられたモノなんだ。だからボクは……


街灯すらもまばらになり、暗い海のような闇が眼前に広がっている。


こんな言い分、逃げ出した正当化に過ぎないんだ。言い訳にすらならないだろう。
彼女たちに八つ当たりをしてしまった。


暗がりに影のように立つ。


……走り続けるのは限界だ。ボクはひとりだと遠くに行くことすらできないんだね。


もう走っていないのに息苦しさは増す一方だ。
口から漏れかけた嗚咽を両手で押さえつける。そうしないと溢れてしまいそうだったから。


誰も救えない、それどころか想う者すら傷つけてしまう。そんなボクが存在する理由なんてどこにもない。





──虚無だ。二宮飛鳥なんて居なくなってしまえ。





雫は目を通る時は燃えるほど熱く、頬を伝う時は氷のように冷たかった。



全て、ボクのせいなんだ。

ボクがフレデリカに甘えていたから。
ボクがボクがフレデリカの気持ちに気がつくのが遅かったから。
ボクが早くフレデリカを見つけだせなかったから。

彼女はこのセカイからいなくなってしまった。

一体ボクはどうしたらいい。
こんなボクに何ができる?

フレデリカ。キミならこの孤独に耐えられるのかい。
キミは、こんな時でも笑ってみせるのかい。
ボクにはそんな眩しい生き方はできそうにもない。

けど今のボクなら。

償いならできるんじゃないか? キミを救えなかったという罪を。
例え自己満足に過ぎなかったとしてもキミの”自分らしさ”ってヤツをこの世から絶やすわけにはいかないんだ。

このセカイには器も魂もちゃんとした二宮飛鳥が存在して、みんなも同様に存在している。

ただ、フレデリカだけが居ないセカイ。

だったら──



フレデリカ(飛鳥)「ボクは、宮本フレデリカだ。」




…………。

おひさまがまぶしい。

地面がかたい。

なんだかひんやりしている気がする。

というかアスファルトだね、これ。

あれ、アタシいつのまに眠ちゃってたんだろ。



『朝起きるとそこは道路だった!』

なーんて、笑い話にでもしないとちょっと処理しきれないよね。こんど事務所のみんなにはなそっと。覚えてたらね。

うーん、昨日はなにしてたんだろ。

……なんだか色々あった気がする。
あはは、よく思い出せないや。

アタシなのにアタシじゃない。

そんなふわふわしている時を過ごしていた気がする。
まるで夢を見ていたかのようだね。だんだん、だんだんとうすれていく。
少しずつ忘れていく、なにか。



そっか、アタシ夢を見てたんだ。

まほうに包まれたようなふしぎなゆめ。
ファンタジーのような楽しいゆめ。

だけど、どこか現実的で悲しいゆめ。


アタシは夢から覚めたはずのに。なんでまだ悲しいのかなあ。

この、胸の中にあるもやもやはなんなのかなあ。



ああこんなに色々考えていたらフレちゃんらしくないよね。やめよう。ストーップ! 軌道修正!

上を向いて歩こう。フンフンフフーン♪

フフフンフフー フンフンふるふるぅ〜フーンッ……?


あれ、ポッケの中になんか入ってるよ。なんだろ。


『アスカちゃん、おつデリカ♪……それともおつアスカの方がいい? うん、どっちでもいいよね☆ ●●アタシはアタシらしく、アスカちゃんはアスカちゃんらしくいられるなら!』


ヒドイよね。せっかく人が元気出そうとしているのにシリアスな雰囲気に戻しちゃうなんて。


心配しないで。アタシは大丈夫だから。



【346プロ・事務所】


周子「ちゃんとチケットは用意した?」

奏「ちゃんとあるわよ」

周子「おー、ありがと。それにしても優待券とは便利な世の中ですなぁ」

奏「飛鳥に感謝しないとね」


事務所の公共スペースでLippsのみんなが集まっている。これからアスカちゃんのライブに行くためだ。
まだ時間に余裕があるからずいぶんとのんびりしてるみたい。


奏「これは志希の分」

志希「んー」

奏「もう、ちゃんと受け取りなさい」


シキちゃんはふかふかのソファに寝転んだまま、チケットを受け取った左手だけをたらんと落とした。


奏「はい、フレデリカと美嘉」

「ありがとー」

美嘉「……サンキュ」


カナデちゃんはチケットを渡してからシューコちゃんとのおしゃべりに戻っていった。
チケットを受け取ったミカちゃんはもやもやとした顔でそれをながめている。
昨日のことがまだ気になっているのかな。ちゃんとメールで説明したのに。


美嘉「ねぇ、フレちゃん。本当に大丈夫なの?」

「うん。昨日は驚かせちゃってごめんね」

美嘉「……やっぱりあれが演技だなんて思えないよ。フレちゃん、悩みがあるなら言って。私、なんでも聞くからさ」

「大丈夫だよ。ヘーキヘーキ! 実はね、最近見たアニメがすっごく面白くて〜、ついマネをしちゃったんだ」


ミカちゃんは俯きながら消化不良、といったカンジで相槌を打った。
大丈夫だよ。こうしているうちに、いつかいびつだった記憶は薄れていって。
そしたら今まで通りの日常が戻ってくるよ。だから心配しないで。


志希「……つまんないね」

「へっ?」


ぞくりと背中に寒気が走った。いやな言葉がどろどろとアタシの鼓膜を震わせる。
聞き間違い……だよね。


「シ、シキちゃん。今なんて……」

志希「キミの事を『つまんない』って言ったんだよ。聞こえなかったかな」


聞き間違いであって欲しかった。もしそうだったらどんなによかったことか。2回も同じことを言われたらアタシのあたまでも理解できる。
つまんない。その言葉を文字通り受け取ると面白くないってことだよね。
でもカナデちゃんがまとめ役で、ミカちゃんは真面目な頑張り屋さん。
シューコちゃんはマイペースでアタシがふざける係。それがいつものみんなの日常だよね。今、それがその通りに再現されていたはずだよ。
そこに『面白い』も『面白くもない』もないよね。ねぇシキちゃん。


「どうして」

志希「理由なんて言わなくても分かるんじゃないかなー?」

「なんで、前と変わらない日常じゃダメなの?」

志希「それ、本気で言ってる? だとしたら志希ちゃんちょーっとじゃないくらいガッカリだなー」


空間が、止まった。カナデちゃんとシュウコちゃんがおしゃべりしているはずなのに何も聞こえてこない。
口の中がざらざらしていて、背中からじっとりとした汗が吹き出しているのを感じる。


志希「キミは自分らしさを持っていると思ってたんだけどね。どうやらあたしの思い違いだったみたい」


はぁ、外の空気でも吸いに行こうかなあと立ち上がるシキちゃん。
……納得できない。
さっきカナデちゃんから受け取ったライブチケットが手のひらの中でくしゃりと握りつぶれる感触が伝わってきた。


「ちょっと待ってよ!」


ハイヒールをこつこつと鳴らしながらシキちゃんに歩み寄る。カナデちゃんとシューコちゃんがおしゃべりを止めたのがちらりと見えた。


「自分らしさってどういう事?  ほら見て、アタシどこからどう見てもフレちゃんだよ!」

志希「……フレちゃんはさー」


シキちゃんは呟く。その瞳の先はアタシの方じゃなく、窓から見える青空を向いていた。


志希「笑顔の、天才なんだよね」



志希「フレちゃんは悲しい時、辛い時、苦しい時、どんなときでも楽しさに変換して笑っていられる。……ねえ。キミはここ数日間誰かの前で笑った?」

「なんで数日間笑わなかっただけでらしくないなんて言われちゃうの? 誰だって気分が落ち込む時くらいあるはずだよ」

志希「その『気分が落ち込む時』ですら笑顔でいられるのがフレちゃんなんだよ」


突然に記憶の波がアタシの中に押し寄せてきた。そして、それは眼の裏に映像を映し出す。
限界を超えてもなお作り出された、操り人形のようなぎこちない笑顔を。


志希「キミがさあ、フレちゃんに成り切ろうとするのは誰かのため? それとも自分のため?」

奏「貴女、それは一体どういう意味なの?」

志希「文字通りの意味だよ。答えて、飛鳥ちゃん」

「ちがう、アタシは宮本フレデリカ。だってこの世界には」

周子「えっ、ちょっと待って。まさかの急展開に私追いつかれへん」


シューコちゃんやミカちゃんが動揺して互いの顔を見合わせる中、シキちゃんの瞳はアタシをとらえ続けて離さなかった。


志希「キミがフレちゃんじゃないことはもう分かっている」

美嘉「……そっか。これまでのヘンなカンジもそれなら納得できるかも」

「そんな、ミカちゃんまで」

美嘉「だってさ、やっぱりおかしいもん。最近ずっとムリに元気だしてるっぽいし」

奏「確かに。この前のショッピングでの言い間違い。中身がフレデリカじゃないからと思うと辻褄が合うわね」

周子「フレちゃん、ホントなん?」

「なんで、どうしてみんなそんな簡単に信じちゃうの? この姿をみて。アタシはフランス生まれのパリジェンヌ、宮本フレデリカだよ」

周子「必死に言い返してくるのは怪しいなー」

奏「普段のフレデリカならもっとユーモラスに返すでしょうね」

「普段の、フレデリカ? キミ達はアタシよりフレデリカのことを知ってるの?」



ごめんね。フレデリカ。アタシはまだ完璧じゃないみたい。



「だったらさ……教えてよ。こんなときフレデリカがどんな言葉を使うのか。どんなイントネーションなのか。どんな表情をするのか。どんな動きで、みんなを楽しませてるの?」


出来ていないのなら、追い求めろ。フレデリカをこの世に生き返らせるんだ。



周子「って言われてもなあ……」

奏「というか貴女は本当に飛鳥なの?」

「アタシがアスカちゃんかどうか、かぁ……」


みんなこっちみてる。真剣な眼差し、心配してる雰囲気、あたたかみ。いや、シキちゃんだけ外を見ているね。


「本当のこと言ったらフレデリカについて教えてくれる?」

奏「貴女の答え次第かしら」


答えたくない。できることなら誰にもバレないままフレデリカになりたかった。


「そうだよ。アタシはフレちゃんじゃない。そしてみんなの予想通り、二宮飛鳥と宮本フレデリカの中身は入れ替わっている。……これでいい?」


奏「いいえ、まだ足りないわ。私が1番気になっているのはどうして飛鳥がここまでフレデリカに成り切ろうとしているかよ」

「あのね、この人格入れ替わりはただ入れ替わるだけじゃないの。元々の人格が入れ替わった先の人格に飲み込まれていくんだ」

奏「だからある程度はフレデリカのように喋られるのね」

「そして、アスカちゃんの体に入った宮本フレデリカの魂はアスカちゃんの人格に飲み込まれて消えちゃった」

美嘉「そ、それっていつ? もし、嫌じゃなかったらさ、教えてよ」

「昨日かなぁ」

美嘉「昨日……! もしかしてあのときアンタが焦ってたのは!」

「そう。オリジナルのフレちゃんの魂がなくなったのに気がついた直後だよ」

美嘉「アタシ、そうと知らずヒドイことを……」

「ううん、ミカちゃんは悪くないよ。悪いのは取り乱したアタシ。運命に抗おうとしたアタシなんだから」

奏「フレちゃんがこの世界にいなくなったのは分かったわ。だけど、飛鳥がフレデリカに成り切ろうとしている理由にはならないわ」

「フレデリカの体はあるのに人格は無い。そんなの、おかしいでしょ? だからアタシがフレデリカになれば全てがまぁるく収まるよ」

周子「でもさー、フレちゃんがそんなことされて喜ぶかね」

奏「それは自分を犠牲にしてまでしなくてはならないことなの?」

「フレデリカはアタシのために最後まで笑顔でいてくれた。そんなフレデリカを一瞬でもこの世から消しちゃダメだよ」

奏「なおさらよ。フレデリカが最後まで頑張ったというのに貴女がここで二宮飛鳥であることを諦めたら彼女の努力も水の泡になるわ」

「問題ないよ。だってもう身も心も結ばれている二宮飛鳥が存在してるもん。だからアタシがアスカちゃんである必要はないよ」

志希「ある。飛鳥ちゃんが飛鳥ちゃんであるのは必要なの」


さっきからずっと静かだったシキちゃんが割り込むようにして口を挟む。




「へぇ、どうしてなの?」

志希「飛鳥ちゃんは面白いから」

「面白いからでアタシを縛るなんてヒドイね。何回も言うけどもう既にアスカちゃんは別に居るの」

志希「あんなの飛鳥ちゃんじゃない。あんな子と一緒に放浪したりなんかしてない」

「大丈夫だよ。記憶は彼女にちゃんと受け継がれてるだろうから」

志希「そしてキミも飛鳥ちゃんなんかじゃない」

「もう、シキちゃん。言ってることがめちゃくちゃだよ」

志希「自分探しをやめた飛鳥ちゃんなんて面白くない」

「だけどね、アタシがフレデリカらしくなろうとしてるのはさっき言った通りで」

志希「抵抗しようとしないで諦めちゃってフレデリカになろうとしている。キミは自分が何者か知りたいんじゃなかったの?」

「でも、その時シキちゃんは答えなんてないって言ったよ」

志希「それでも、考え続けるのが飛鳥ちゃんなんだよ」

「……成立してない理論を押し通すなんてらしくないよシキちゃん」

志希「ヒトって不思議だよね。いつのまにか自分の意思が変わっちゃうんだから」

志希「それって進化と思われるけど、捉え方によっては退化ともとれるよね。自己犠牲は美徳だけれど、アイデンティティを捨てた人間なんてつまらない存在だから」

「だとしたらなに? アタシはもうキミにとってつまらない存在になり下がったというの?」


シキちゃんは俯いたまま何も答えてくれなかった。


「何か言ってよ……!」

志希「あたしは、」


彼女は言葉を遮るようにして呟きだす。


志希「あたしが飛鳥ちゃんに戻ってきてほしい」

志希「いつも物憂げに窓を眺めたり、わざわざ砂糖を入れてまでコーヒーに拘ったり、たまに哲学的なことを呟いたり。あたしはそんな飛鳥ちゃんが好きだった」


シキちゃんの眼は水で薄い膜が張られているように見えた。前髪はいつもより乱れている。


志希「自分を殺してまで他人に成り切ろうとする必要なんてない。フレちゃんらしさなんてフレちゃんにしかわからないんだもん」


「いまさらそんなことを言われても遅いんだ。もう戻ってこれないところまで来ちゃったんだもん。だからアタシは自分の運命を受け入れた」

志希「違う。受け入れたんじゃない。キミはただ流されただけに過ぎないんだよ」

「……だったら、どうすれば良かったんだっ! もうフレデリカは居ない、二宮飛鳥は他に存在している、そしてボクはもう自分のことを思い出せない。だから!」

志希「キミに残された時間で出来る事。それは、キミ自身の存在証明だよ」

「もう消えゆくというのに存在証明なんて無意味だ」


声が、震えてしまう。平常心を装おうとしてもこの身体は許してくれないみたいだ。頬は熱く、鼻の奥が詰まっていくのを感じる。


志希「ねぇ、フレちゃんが最後にやったこと覚えてる?」

「服を着ていた、だろ。フレデリカらしいやつを」

志希「そのとおり。あれはフレちゃん最後の抵抗なんだよ」

「だけど、結局フレデリカの人格は飲み込まれて、抵抗は虚無に成り果てた」

志希「それはどうかな? じゃ、続いてクエスチョン。『何故、フレちゃんは飛鳥ちゃんの体で自分の服を着ていたのでしょう。』その理由はなんだろうね?」

「かつての自分の仮面を被ることで自己を取り戻そうとした、だろ?」

志希「んー、ちょっと外れ」

「なっ……」


志希「フレちゃんはね、内面に働きかけたんじゃなくて外側に訴えかけたんだよ」

「一体、どうやって!」

志希「飛鳥ちゃんは、フレちゃんの体で飛鳥ちゃんの服を着て外に歩こうと考えた?」

「そんな、ボクにはそんな発想──」

「……!」

志希「あの状況で自分の服を着てみようという発想、実行に移す大胆さ。まさに『フレちゃんにしかできない方法』だよね」

「フレデリカはそうやって自らの証明を叫んだ……!」

志希「イグザクトリィ。答えが近づいてきたね。こうして、フレちゃんは性格という不確定性の高い要素ではない、目に見える存在証明の方法を編み出した」

「それが……服を着て外を歩くというフレデリカの行動の真実」

志希「その上、美嘉ちゃんに写真も撮られていたよね」

美嘉「えっ!? あぁ、うん。ほら……」

志希「この写真がこの世に残り続ける限り、フレちゃんがこの世界に存在していたという事実はずっと消えない。つまりフレちゃんは存在証明を果たしたんだよ」

「フレデリカが、存在証明を……」

志希「これでもまだ抵抗が無意味だと思う? 飛鳥ちゃん」

「ボクは……」


ボクは流されていた。この可笑しくなってしまったセカイの中で。
それでも、フレデリカはずっと。


『魅惑のボンボンショコラーテ、とびきりの奴をもらおうか……』

『理由なんてないよ!ただフレちゃんはアスカちゃんに会いたかっただけ〜♪』

『必殺・シンクロニシティ!』

『実はね……カメレオンが風景に合わせて色を変えているってウソなんだって〜! 知ってた?』



ずっと……



『アスカちゃん。ボク、がんばるよ。』



……笑顔、だった。
自らの存在理由を象徴するように。


ボクはフレデリカの事を根本的に勘違いをしていた。
カメレオンはフレデリカじゃなかったんだ。
フレデリカはずっと自分らしさを貫き通していた。僕の道を照らすために。

なのにボクは悪夢に魅せられ、運命という潮流に流された。自分を見失い、二宮飛鳥というカラーを変色させていた。

カメレオンは……ボクの方だ。



──ほら、元気だして! クヨクヨしてたらアスカちゃんらしくないよ。こんな時だからこそ自分らしくしないとね。大事なのは器じゃなくて魂なんだよ。




嗚呼、そうか。
ようやく理解ったよ。フレデリカ。あのときキミが伝えたかった言葉の真意を。


フレデリカ(飛鳥)「やって、やる……!」


ボクの進むべき道は──


フレデリカ(飛鳥)「存在証明を、この体で!」


その言葉を聞いた志希は頬を緩ませながら答えた。


志希「おかえり。飛鳥ちゃん」

フレデリカ(飛鳥)「なあ志希。ひとつ聞いてもいいかい」

志希「なーに?」

フレデリカ(飛鳥)「何故、ボクがつまらなくなっていると言いに来てくれたんだい。単に興味をなくしただけならわざわざ本人に伝えなくても黙って去れば良かったじゃないか」

志希「んー、なんでだろうねー。多分あたしの脳がオキシトシンの分泌をしたがってたんじゃないかなー」

フレデリカ(飛鳥)「やれやれ。凡人たるボクでも分かるように言ってくれ。なんだいそれは」

志希「飛鳥ちゃんには教えてあーげない♪」

奏「オキシトシンって確か、愛情ホルモンの一種で人とスキンシップをとると分泌されるやつよね?」

周子「いや知ってるんかーい」

奏「女性に関わりのある事だから。好きな人といるとオキシトシンは活性化されて心が落ち着くそうよ」

フレデリカ(飛鳥)「んなっ……志希、まさかキミは!」

志希「ふっふっふっー。バレちゃったらしょうがない。補給しちゃうぞー、とりゃーっ!」

フレデリカ(飛鳥)「うわっ!」


ボクの胸元に志希の顔が飛び込んできた。服越しに伝わってくる、ツンとした彼女の鼻先の感触が妙にくすぐったい。


志希「すんすん、クンカクンカ…………」

フレデリカ(飛鳥)「こらっ、そんなところをまさぐるんじゃない。くすぐったいだろう」

美嘉「じ、事務所そんなことしたらダメなんだからねっ!」

志希「飛鳥ちゃんの匂いがする〜」


志希があっけらかんと笑うものだからボクの力も抜けてしまった。きっと彼女にとってはこれが純粋なスキンシップなのだろう。


フレデリカ(飛鳥)「フフッ。キミという奴は……」


ひとしきり匂いを嗅ぎ終えた彼女はボクの胸元に顔をうずめて、体をより密着させた。
志希は薄着派らしく、直に近い形で温もりが感じられる。


志希「……よく、戻ってきてくれたね」

フレデリカ(飛鳥)「キミのおかげだ」

志希「あたしは何にもしてないよ」


ボクの体を抱いている両腕の力が強くなる。


志希「ただ、わがままを言っただけ」

フレデリカ(飛鳥)「キッカケをくれただろう?」

志希「うん、そうだね」


志希が呼吸をする度にボクの体は彼女の吐息で熱くなった。



志希「はぁ〜満足満足♪」


志希は両手の力を緩め、抱きしめるのをやめた。
他の3人はすこし遠くからボク達の方を見ていた。


周子「絶対あの2人私らおるん忘れてるで」

奏「プラトニックなラブ。素敵じゃない?」

周子「ダメだこりゃ」


そんなこそこそ話が聞こえてきたからボクは居心地が悪くなって、わざと咳払いをしてみせた。


フレデリカ(飛鳥)「あぁそうだ。存在証明か。ボクになにができるだろう」

志希「飛鳥ちゃんにしかできないことが絶対あるよ」

フレデリカ(飛鳥)「ボクにしかできないことか……」

奏「飛鳥、」


声の主の方向へ振り返ってみると奏さんが右手を開いてひらひらさせながら左手でそれを指差していた。
自分の手の中を見ろというサインだろうか。
手のひらを開いてみるとそこには握りつぶされたチケットがあった。


奏「もうすぐで始まるじゃない」

フレデリカ(飛鳥)「ライブチケット。そうか……!」

志希「飛鳥ちゃん、なにしでかすつもり〜?」


彼女は笑顔で尋ねてきた。
手の中の紙切れは形状記憶なのか、少しずつ元の形に戻っていく。


フレデリカ(飛鳥)「自分と真っ直ぐに向き合う刻が来たみたいだ」

志希「飛鳥ちゃん。あたし見てるからね」

フレデリカ(飛鳥)「ああ。嬉しいよ」

美嘉「アタシも飛鳥ちゃん応援してるからね!」

奏「しっかりやりなさい」

周子「がんばってー」

フレデリカ(飛鳥)「みんな……ありがとう」


ボクはボクとして応援されている。それがこんなにも嬉しいだなんて。


フレデリカ(飛鳥)「行ってくるよ」


一歩一歩の足取りがとても軽かった。歩いているつもりが、いつの間にか走り出していた。



【ライブステージ会場内スタッフ通路】


勢いでつい来てしまったけど大丈夫だろうか。特に通用口の警備員。容易に通してはくれないだろう。
志希に睡眠薬でも作って貰えばよかったかな。
そんなの作れるか知らないけど、頼めばやってくれそうなのが彼女の恐ろしいところさ。


警備員「こら、そこは関係者以外立ち入り禁止だ」


やっぱりだ。やれやれ仕方ない、あの手を使うか。


フレデリカ(飛鳥)「ハァイ! アタシフレデリカだよ〜☆ 今日はアスカちゃんの応援に来たんだー! だからね、中に入れてくれると嬉しいな〜♪」

警備員「ええっ、キミやっぱり宮本フレデリカかい!? 似てると思ったんだよお。ねっ、良かったらサイン書いて欲しいな。書いてくれたら中に入れてあげるよほらっ、ここに」


そう言うと警備員は制服の中から白いシャツを出してきた。おい知ってるか、Tシャツにサインって結構書きにくいんだぞ。


フレデリカ(飛鳥)「んもー、しょうがないな〜」


サインはよくわからないから適当にフニャフニャした文字で『宮本フレデリカ♡』と書いてやった。
フニャフニャ喜んでいるし問題ないだろう。

……フレデリカの真似をするのはこれが最後だ。




【二宮飛鳥の楽屋前】

遂にここまで辿り着いた。ここからが正念場だ。
ドアノブに手をかけ扉を開ける。鉄製で少し冷たかった。


フレデリカ(飛鳥)「やあ。今日はいい天気だね。そうだな、空は青いし雲が綺麗だ」

二宮飛鳥「フレデリカ!? どうしてここに」

フレデリカ(飛鳥)「フレデリカ、か。確かにそうだな。"見た目は"ね……」

二宮飛鳥「中身は違うとでも言いたいのかい?」

フレデリカ(飛鳥)「それはどうだろうね。ボクが叫んだところで外面的に観測されなければ意味がない」


二宮飛鳥の表情が意外な来訪者に対する驚きから目の前の人間を疑う、というものになった。


二宮飛鳥「……キミ、フレデリカじゃないな。何者なんだ?」

フレデリカ(飛鳥)「今はただの迷える子羊さ。それに、明言しなくてもキミはもう分かっているだろう」

二宮飛鳥「そんな……まさか、キミは!」

フレデリカ(飛鳥)「今日は"もう1人のボク"たるキミに頼みがあって来たんだ」

二宮飛鳥「頼み?」

フレデリカ(飛鳥)「今日のライブでボクに歌わせて欲しい」


ボクの願いを聞いた二宮飛鳥は驚いた表情をしながら、それがキミの選択なのか、と呟いている。


二宮飛鳥「残念ながらお断りだ。ボクが今日の為にどれだけの時間を割いてきたと思っている?」

フレデリカ(飛鳥)「奇遇だね。ボクも数日前までは同じ数だけのレッスンを受けていたよ」

二宮飛鳥「ボクの視点から言わせてもらうと、キミの中身がどうであれ外面はフレデリカにしか見えない」

フレデリカ(飛鳥)「そのくらい、重々承知済みさ」

二宮飛鳥「そんな人物がライブに立ったらどうなる? アイドルとしての二宮飛鳥を観に来たファンの期待を裏切ることになってしまうんだぞ!」

フレデリカ(飛鳥)「分かっている。これはボクの我儘なんだ」

二宮飛鳥「だったら!」

フレデリカ(飛鳥)「それでもボクは! 果たさなければならないんだ。存在証明を……」

二宮飛鳥「何故だ。どうしてキミはそこまで執着する?」

フレデリカ(飛鳥)「キミは昨日、目を覚ました時に公園で普段とは違う服を着ていただろう」

二宮飛鳥「どうしてそれを知っている」

フレデリカ(飛鳥)「あれはフレデリカの仕業さ」

二宮飛鳥「なに?」

フレデリカ(飛鳥)「キミの体の中にはかつて、彼女の魂が存在したんだ」

二宮飛鳥「けど、ボクはボクだ。フレデリカらしい部分なんてボクには……」

フレデリカ(飛鳥)「そうだね。今はこの世界にフレデリカは存在していない。キミの体の中にあった彼女の魂は二宮飛鳥という人格に飲み込まれてしまったのだから」

二宮飛鳥「そんな話、簡単には信じられないよ」

フレデリカ(飛鳥)「最初はいつも通りの天真爛漫なフレデリカだった。けど、最終的には皮肉的で、悲観的で……ああ、あれはまるでそう、ボクのかつての感情が流れ込んでいたみたいだった」

二宮飛鳥「パーソナリティが少しずつ書き換えられているとでも言うのか!?」

フレデリカ(飛鳥)「そうだよ。信じられないだろう?ボクも受け入れられなかったさ。哲学的なフレデリカなんてね。ココロが入れ替わった先の体に馴染んでいっているんだろう」


もう1人の二宮飛鳥はため息をつきながらこれがブルートファクトという奴か、と天を仰ぐ。かつては知っていた気がするこの言葉をボクは思い出すことができない。



二宮飛鳥「……! ということはいずれはキミも!」

フレデリカ(飛鳥)「まぁそうなるだろうね」

二宮飛鳥「だからその前にレゾン・デートル(存在理由)を定義づけようという訳か。それは理解る」


理解してるといいつつも、二宮飛鳥が持つ疑惑は晴れていないようだった。


二宮飛鳥「……だが、ボクにはキミがフレデリカに染まっているようには見えないぞ」

フレデリカ(飛鳥)「これは演技さ。正直な所、この話し方だって意識しないとできないんだ。気を抜いたら思考回路の中でも一人称が『アタシ』になってしまう。それに、好みだった筈の片仮名言葉も随分と忘れてしまったみたいでね」

二宮飛鳥「アーカイブスがオーバーライドされている……だと。そんな馬鹿な!」

フレデリカ(飛鳥)「ブリオッシュ、フィナンシェ、オランジェット……フランス菓子の名前ならいくらでも言えるのにね。ボクの人格がフレデリカの体に飲み込まれてしまうのも最早時間の問題だろう」

二宮飛鳥「なんとかならないのか。そうだ、ボクだったら抵抗する! ……方法はまだ思いつかないけど」

フレデリカ(飛鳥)「この現象は時間が過ぎるにつれて進行している。どうやったって食い止めることはできないさ」

二宮飛鳥「だとするともうそこには絶対的な虚無、セカイに抗えない運命しか残されていないのか……?」

フレデリカ(飛鳥)「だけどフレデリカは。例え自分を卑下する悲観主義者になってしまっても……笑顔を続けた。最後までね」

二宮飛鳥「フレデリカが……」

フレデリカ(飛鳥)「だから、ボクも全てがなくなってしまうその前に。この大きな世界の片隅で、ボクという人間が存在していたという魂の証明を!」

フレデリカ(飛鳥)「ボクは、残したいんだっ……!」



ボクの話を聞いた二宮飛鳥は目を瞑ったまま何かを考えている。
しばらくした後、くるりと背を向け、イスに座って肘をついた。


二宮飛鳥「負けたよ。キミの魂にね」

二宮飛鳥「どうやら今回のボクは主役ではないみたいだ。リベレーター《解放者》、或いはシンパサイザー《共鳴者》といった処だな……」


彼女は右腕で頬付きをしながらうんうんと頷いた。


二宮飛鳥「一曲だけだよ。いいね?」

フレデリカ(飛鳥)「……ああ! ありがとう!」

【ライブステージ舞台袖】

舞台袖の下手側から二宮飛鳥のライブの様相をただ見守る。ボクの出番はまだもう少し後だ。

彼女は歌唱もパフォーマンスも完璧な二宮飛鳥だった。
どこか彼女に、二宮飛鳥ではない部分があるのかもしれない。という少しだけ抱いてしまった期待はもろく崩れ去ってしまった。

まぁ構わないさ。ボクはもう逃げないと決めたんだ。

一曲歌い終えた舞台上の二宮飛鳥はファンからの歓喜の声を浴びている。


二宮飛鳥「ありがとう。今の曲は『華蕾夢ミル狂詩曲 〜魂ノ導〜』だ。蘭子の持ち歌を僭越ながらこのボクが歌わせてもらったよ」


二宮飛鳥は会場の客に向かって解説をした。観客はそんな彼女を大きな拍手で迎え入れる。


二宮飛鳥「二宮飛鳥なのに神崎蘭子の唄を歌うなんて、と思うかい? だけど、ボクと蘭子は魂の契りを交わした運命共同体。お互いの良さを理解り合えているから偽物にはならない。そのカヴァーは誰かの感情を揺さぶるだろう。キミ達はどう感じる?」


ステージ上の二宮飛鳥がそう問いかけると『良かったー!』とか『最高ー!』とかそんな声が聞こえてくる。


二宮飛鳥「それは良かった。キミ達にこの理論が受け入れられてボクは嬉しいよ。次は『共鳴世界の存在論』なんだけどボクは今回この曲を歌わないからね」


今回歌わない、と彼女が言ったところで会場にどよめきが起こった。
えー、なんでー! という文句も聞こえてくる。二宮飛鳥のソロステージという触れ込みのライブだから仕方のないことだ。


二宮飛鳥「真実というのはメビウスの輪の如く変動性が高く、容易には観測できないモノだからさ。不器用なボクらはこうやって自らの出来ることで表現しなければならない」


二宮飛鳥は天を衝くように大きく左手を突き出した。
そして、舞台袖にいるボクに向かって振り下ろす。


二宮飛鳥「さぁ、証明しろ。このLIVEで、キミのその声で!」


その宣言を皮切りに大きな歓声が起きた。しかし、それはボクがステージに現れるまでだった。歓声は困惑の声に変わる。
この流れからしてギャラリーは蘭子を期待したんだろう。それがこんな金髪娘が出てくるのだからうろたえてもおかしくはない。
臆するな。ここまで来たらもう証明してみせるしかない。



……ボクは、二宮飛鳥だと。


フレデリカ(飛鳥)「さぁ、旋律を奏でてくれ。捻れ曲がった運命のカタストロフィに抗ってみせるさ」


そうしてまもなくステージ全体の照明が落とされ、青色のサイリウムだけが揺れる。
刹那にも永久にも感じられた静寂の後、エレキギターの音が静かになり始めた。
大型スピーカーから音の波が体をうちつけ、照明が一斉にボクを照らす。
聴き覚えのある、『共鳴世界の存在論』の始まり方。
フットライトがドラムの音に合わせて点滅を繰り返す。
大きく両手を広げて観客に向かって突き出し、右のかかとでリズムを刻んだ。


《壊れたラジオから聞こえてくる音は
まるでボクらの声だ》


声が出しにくい。
それもそうだ、宮本フレデリカの喉なのだから。


《ノイズの中埋もれ錆び付いた言葉を
解き明かしてくれよ》


だが、構わない。


《「存在証明なんて、本当はナンセンスなことさ。だけどそれを叫ぶことは意味のあることだと思うね。キミもそう思うだろう?」》


今までと同じように歌う。
それが、ボクがボク足らしめる証明に──


《誰にも届かない声が今
キミに聞こえたなら
ボクらは同じさ
孤独を抱えて響いて引き合う周波数》


少しずつ昂りを見せる音楽、融けるようなギターに体を預けて力を抜く。
そこから再びマイクを強く握り、倒れないように全身を奮い起こした。


《存在証明を、この悲鳴を、
或いは歌を
叫び続けるボクは此処にいる
"次のセカイ"〈シンセカイ〉の
鍵をそっとまわしたなら》


シーリングライトの光を浴びながらオーディエンスに向かって力強く手を伸ばす。


《さぁ、光の中へ、今》


1番の余韻を残したまま間奏に入る。
いつのまにか数多の瞳がボクを驚きに満ちた目線で捉えていた。
観客はこのハスキーボイスで彩られた宮本フレデリカを見てなにを思うだろうか。
慌ただしく空間を切り裂くスポットライトはやけに明るい。


《明滅する街はボクらによく似てる
誰もが傍観者》


ボクは、ずっとフレデリカに頼り切っていた。自分らしさをフレデリカのアイデンティティに依存していた。


《照らしだされた影
触れられない灯り
曖昧なレゾン・デートル》


フレデリカだって変わっていたんだ。でもそれをボクに見せようとはしなかったし、ボクは変わりゆくフレデリカを知ろうともしなかった。


《だれもが全てを理解れやしない
移ろい変わる人を》


ボクは真相を知ろうともせずただ眺めていた。


《それでもボクらは知らずにいられず
何度も何度も問うてく》


キミが初めて、人格が飲み込まれていると気が付いたときは、それを分かった上で宮本フレデリカを演じようと決心したのは何故か。
何も気付いていない、フレデリカに染まりゆくボクをキミはどんな気持ちで 見ていたんだい。



《止まぬ雨よ
この悲鳴や、迷い、纏めて
流した後に答えてほしい
キミの目が映し出したこのセカイは》


存在証明を果たしたあの公園でキミの見た景色は──


《今、どんな色で揺れる?》



フレデリカの見た景色は何色か。そんなことは、ボクに知る由もない。なぜならボクはフレデリカではないからだ。彼女にしか分からないだろう。
だけど、もしかしたら。
今、ボクが見ている景色と似ているのかもしれないね。


《嗚呼、許されるのなら今
確かめたい
ただ、ボクがボクであるその”証”》


激しく振りかざされるサイリウム。ファンの掛け声。数多のオーディエンスがボクの姿を見ている。動きを追っている。声を聴いている。ボクという存在を認知している。


《存在の理由を、この歌を、そしてキミを》


そうだ、ボクはここに存在している。外面はフレデリカだったとしてもボクがそう信じているから。
声と姿が違っていてもボクはボクだ。
そんな当たり前のことにどうして今まで気がつかなかったのだろう!


《叫び続ける》


ボクは歌う。自分自身を信じる為に。それがボクの存在理由。


《ボクは此処にいる》


ボクは、飛鳥、二宮飛鳥なんだ!


《"次のセカイ"〈シンセカイ〉の
鍵をそっとまわしたなら
さぁ、ボクと共に》


ボクを照らし出すスポットライトの暖かさ。
身体を芯から響かせるベースの重低音。
ドラムのビートに鼓動が跳ね、観測者たちの声援が血液となってボクの体中を駆け巡ってゆく。
掻き立てられるエモーションに、空すら飛んでしまえそうな高揚感。


《存在証明を》


こんな気持ちは此処じゃなければ味わうことが出来ない。
ステージに立っているからこそだ。
あぁ、楽しい。こんな純真な気持ちになれたのはいつ以来だろうか。
夢のような舞台がもうすぐで終わる。
それがとても寂しくてずっと手の中におさめたくなる。存在を確かめたくなる。
このライブが終わればまたボクはボクじゃなくなってしまうのではないだろうか。


《存在証明を》


そうなったとしても、叫んでやるさ。
ボクが此処に居ることを。


《存在証明を──》


何度だって、この歌を──……


《──さぁ、往こうか》




最後のフレーズを言った途端、悲鳴かと思うほどの歓声が沸きあがった。
良かった。ボクの魂はちゃんと届いたみたいだ。
喝采は未だやまず、ステージを揺らし続ける。

あぁ……心地いいね。この歓声の海を漂っていたい。
成し遂げた達成感からか、体の力が抜けてゆく。
そうだ、感謝の言葉を告げなくては。聞いてくれた観客たちに、このステージの何処かで見ている皆に。
こうしてはいられない。もう一度立ち上がって言葉を紡ぎだすんだ。
さぁ、力を振り絞れ。

……

ハハ、なんてことだ。まさか立ち上がれないほど全力を出し切る、なんてね。
少しも動けそうにない。もう手先の感触も分からない。

そうか、これが最期。二宮飛鳥としての最期。
ついに人格が飲み込まれる時がきたんだね。


でもよかった。最後にこのセカイに対してボクという存在を刻み付けることができたのだから。
悔いは無い──




────
─────────
─────────────────・・・・・




少し肌寒い冷房に、一定のリズムを保つ車輪の音。ボク達以外誰もいない静かな空間。


志希「おや、居眠り王子サマのお目覚めだ~♪」


志希がにやけながら顔を覗かせた。


志希「飛鳥ちゃん全然起きないから電車折り返しちゃったー」


ついさっきまでボクはライブステージを終えて力尽きたはずだ。もう一歩も動けないくらいに。それなのにどうしてこんなところで眠っていたのか。


飛鳥「ここは何処だ。ボクの名前は?」


それを聞いた志希はペルシャ猫のような瞳をまるまるさせて驚いている。


志希「ここは電車の中。キミは二宮飛鳥だよ」


今、ボクのことを指して二宮飛鳥といった!
慌てて体を起こして窓から外を見てみると既にセカイは深淵ともいえる黒に包まれ、河の水面には満月が揺らいでいた。
窓ガラスには明るい茶髪、青いエクステを付けた髪の持ち主が映りこんでいる。他の誰でもないボク自身の顔だ。


飛鳥「やった、やったぞ志希! ボクは元に戻ったんだ!」

志希「んんー、どういう哲学的な観点での話なのか志希ちゃんには分かりかねるにゃー」

飛鳥「だから、フレデリカの体から元に戻って」


依然として志希の頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいる。
かと思ったら、何かを思いついたような顔つきでボクの首筋をまさぐり始めた。


志希「わずかな体温上昇と……すんすん。ほのかな汗のにおい。飛鳥ちゃん、寝起きだねー」


寝ぼけているといいたいのか。ボクはついさっきまでフレデリカの体でライブを……していたはずなのに。
熱はまだ身体が覚えている。だけど、目の前の光景が現実ではないとは思えない。やはりあれは本当にボクが見た夢なんだろうか。
それでも、夢で終わらせたくない。ボクが見つけた答えを。




志希「あれ、抵抗しないの?」

飛鳥「たった数時間前に似たようなことを経験したからね」

志希「あたしの知ってる数時間前の飛鳥ちゃんは眠っていたんだけど」

飛鳥「ボクしか知らない経験をしたのさ」

志希「えー、なにそれなにそれー」

飛鳥「別世界線のダイバージェンス(分岐)へ、ボクのアイデンティティをめぐる旅に行っていたんだよ。答えを探しにね」

『まもなく終点──、お乗り換えは……』

志希「ありゃ、もう着いちゃった」


ボクと志希は電車を乗り換えるべく、財布を取り出し、運賃を用意して出口の前で待機する。


飛鳥「別の世界線でキミは『自分探しをやめた飛鳥ちゃんなんて面白くない』って言っていたよ」

志希「へぇ。それはキョーミ深いなー」

飛鳥「またゆっくり話してやるさ」


やがて車輪と枕木が刻むリズムはスローテンポになり、金属がひしめく音が鼓膜を震わせる。横方向に重力がかかり、一両編成の列車は止まった。
出口のドアが開き、ボク、続いて志希が運賃箱にお札を放り込む。

夜のプラットホームは一段とひんやりとしていた。電車の冷房とはちがう、スッキリとした冷たさ。新鮮な空気で肺を満たし、のびをする。


志希「それで? 飛鳥ちゃんは答えを見つけ出せたの?」

飛鳥「あぁ。そうだね」


ボクは振り向き、こう答えた。


飛鳥「ボクはアスカ。二宮飛鳥さ。ボクがそう信じる限りね」


(END)


これは蛇足の話だ。完結した物語に余計なエピソードを付け足すなんてナンセンスそのもの。だけどこれもまた必要なピースなのさ。


失踪旅はその後少しだけフラッと続け、気分で終わりを迎え、次の日の朝にはもう寮に戻っていた。
こっちのセカイでも本番のライブが週末にあるからね。さすがにレッスンをしないといけない。


【レッスン場】

フレデリカ「必殺、魅惑のボンボンショコラーテ!」

ルーキートレーナー「もう、真面目にやってください!」


相変わらず自由人のフレデリカを見てくると安心を通り越して笑ってしまう。


ベテラントレーナー「こら、二宮! 気が抜けているぞ!」

飛鳥「いや失敬。あまりにも見覚えのある光景だったものでね。そう、別の世界線で」


ボクがそうベテラントレーナーに謝ったのを聞いたフレデリカが眼差しを此方に向ける。


フレデリカ「アスカちゃん……覚えてるの?」


フレデリカは突然夢から覚まされたような顔でボクのことを見続ける。

そうか、そうか……
ククク……アハハハハ!


ボクはあのパラレルワールドで過ごした4日間を忘れることはないだろう。
きっとキミも。


(孤独世界の存在論・完)

以上になります。長文でしたが、お付き合いありがとうございました。

使用楽曲:『共鳴世界の存在論』
歌:二宮飛鳥(青木志貴)
作詞:烏屋茶房
作曲:烏屋茶房

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom