モバP「藤原肇とおちょこがふたつ」 (28)



はじめに俺は未練を言う。藤原肇に対する未練だ。

うわあ男の未練なんざ聞きたかねえや、とお思いだろう。

でも言う。6レスほど言う。


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ここに二つのおちょこがある。いずれも備前焼のおちょこだ。
それぞれの名を太郎坊・次郎坊という。なぜ名前がついているのか。これには当然理由がある。

備前焼は普通絵付けはしない、つまり意図的に模様を入れることはしないのである。
しかも釉薬すら塗らないってんだから、できあがるのはざらざらしてていかにも土器土器したものとなる。
こんなこと聞いたら彼女は憤懣するだろうか、それとも噴飯するだろうか。

要するに備前焼はどんな模様ができるかわからない。
運否天賦、すべては神様の思し召しだと。そういう側面があると、ここで前おきしておきたいわけだ。

「面白いものが焼けたんです」

ある日、肇はそういって机の上に桐箱を置いてきた。
しゅるしゅると緋色のひもを解いて中を開けてみると、そこには太郎坊と次郎坊がいた。

いや、この時点ではまだ名前はついていないので、単なる二つのおちょこでしかなかったのだが。
こいつらは形こそ確かにおちょこだが、大きさも色も全く異なっていて、一見するとかけらも共通点がないように見えた。
先に言ったとおりそいつが備前焼の特徴なのだから、当然といえば当然だ。

「でも見てください、ほら……」

言われるがままにおちょこの底をのぞいてみると、
これがまた不思議なことに図ったように二つとも同じ模様が浮き出ていた。

これは桜の花っぽいな。

花びらが五枚あるとすーぐ桜を連想するのだから日本人は困る。
でも実際そう見えたんだから、こればかりは仕方がない。

「私はこれ、スミレの花だと思うんです」

スミレ、スミレの花……。

しらん。


ググってみると五枚の花弁を持つ紫色の花らしい。
花言葉は「謙虚」だの「小さな幸せ」だの「誠実」だのと出てくる。
毎回思うことだが花言葉は一つに統一してほしい。ややこくてかなわん。

しかしそういわれてみるとまさしくスミレの花のように見える。
たとい同じ釜で焼いたとしても、ここまで模様が似通うことはそうそうないだろう。
面白いと肇が言っていたのも頷ける。これは一種の奇跡に近い。

「だからこれ、太郎坊・次郎坊ってつけようと思うんです」

どう思いますか? と視線で訴えかけてくるが俺にはさっぱとその出自が分からない。
これもまたググってみると、スミレというのは花相撲に使われる花らしい。

がきんちょのころやったことがある人も多いかもしれない。
花の茎の部分を絡ませて引っ張り合い、相手をちぎったほうが勝ちという、あれだ。
厳密には炬という部分らしいが、それは些末なことなので置いておく。あれがスミレの花だったのか。

それで合点がいった。相撲になぞらえて太郎坊・次郎坊という通称で呼ばれているのだろう。
なるほど。と俺は手を打った。

いいんじゃないか。

かなり適当に答えてしまったが、後々考えるとこれはけっこう重要なことだった。


といっても肇は(そのころは)未成年だったので、おちょこは無用の長物でしかない。

なので二つとも差し上げますよ、ということで両方とも俺がもらい受けることにした。
いいのか? と問うたが、その方が"二人"とも喜ぶと思います。
と屈託無く笑っていたのでありがたく頂戴することにした。
わざとらしく慇懃な態度で、うやうやしく受け取る俺の姿に肇はくすくすと笑っていた。

「いつか時がきたら、一緒に飲みませんか?」

聞いたかみんな? これ以上に嬉しい申し出があるだろうか?
俺は桐箱を掲げてその場で飛び回らんくらいに狂喜乱舞した。

その日が待ち遠しくてならない。はやく春がきて、また春が訪れて、
はやく肇が成人する日になればいい。俺は期待を胸にその日を待つことにした。

そんな日は結局こなかったわけだけど。


断っておくがアイドル藤原肇は順調だった。その点が問題だったわけではない。

とくにご年輩の方々からの支持はすさまじいものがあった。
地方巡業、ロケなんかに行くと手を合わせて拝みはじめるご婦人が現れるような始末で、
どこにいってもシャッター音がとぎれることはなかった。

なんちゃら菩薩のようにおおらかで、慈愛に満ちている。
それでいて幼さも残している。こんな孫がいれば毎日自慢するのにのう。

と生き字引みたいなご老体が長々としゃべり出すのを、
彼女は常に笑顔を絶やすことなくふんふんと聞いていた。
彼女の人柄が垣間見える心温まるエピソードといえよう。

それ自体はよかった。なんの問題もなかった。
ファンも優しいし、マナーもしっかり守ってくれていた。

ところがこの業界ときたら嫉妬と傲慢、虚飾の三つで構成されているようなもので、
ファンからはともかく同業からの風当たりは決してよいものとはいえなかった。


うちの事務所のアイドルに限ってはそんなことはなかったが、
ほかの事務所となるとてんでだめで、肇自身がおとなしい性格であることもあいまって、
あれよあれよという間に彼女らのターゲットにされてしまった。

「調子のってんじゃないの?」

女性同士の諍いというものは、男性の想像をはるかに超えて陰湿なものである。
自己顕示欲の強いアイドルの世界ならなおさらといえよう。
旧態依然の芸歴による上下関係がものを言うような業界なのだから無理もない。

肇はあの通り我慢強く、滅多なことでは弱音を吐かない人間なので、
俺の前でその事実を打ち明けるようなことはなく、またおくびにも出さなかった。
全く気づかなかった俺も愚鈍、救いようのない馬鹿であったといえよう。

しばらくして彼女は弱々しい声音でぽつりと打ち明けてきた。

「私、岡山に戻ろうと思います」

稲妻。落雷に打たれたような気持ちだった。俺は言葉を失った。
なぜ? どうして? 俺は必死になって理由を問いただした。

「祖父の強い要請もあって、その、やはり陶芸の道に進もうと……」

プロデューサーさんにはなんと言ったらいいか、今までずっとお世話になってきたのにこうした形で裏切ることになってしまってすみません。
でも、本当に貴重な体験をさせてもらいました。そのことについては感謝の言葉もありません。
本当に、本当にありがとうございました。

と、彼女は続けた。"祖父"という言葉に少しとげがあった。
今考えると肇のおじいちゃんはすべてを察していて、
孫がそんな仕打ちを受けるのに絶えきれなかったから無理矢理に彼女を呼び戻したのだと思う。
そうでもしないと肇はずっと我慢し続けてしまうから。

そんなことは露も知らない俺にとっては全くの寝耳に水で、肇の台詞は何ひとつ聞こえちゃいなかった。
ただ彼女の意思だけは尊重すべきだと思ったので、慰留することもなく最終的には契約を打ち切ることにした。

真相が判明したのは彼女が岡山に帰省してしばらく経ってからだった。

他事務所のアイドルの悪辣な所行に、卑怯で陰険なむごいやり口に、俺は十手も百手も遅れて気づくことになった。
その事務所の野郎たち(アイドルたち)は、俺がほうぼうに声をかけてしかるべき"対処"をしてやった。
彼らはもはや一生表の舞台にあがることはないだろう。

しかし俺の胸中にはぽっかりと空いたむなしさだけが残った。

後悔ばかりがいつまでも尾を引いていた。
何で気づかなかったんだろう。あんなに一緒にいたのに、ライブだってやったのに。
釣りにだって出かけたのに。なんで肇の悩み苦しみに気づいてやれなかったんだろう。

肇に対する無理解。無力感。
確かな未練がそこにはあった。


あれから何年もたった。結局俺は同じ事務所にいる。
ただもうプロデューサーはやめて、内勤に異動した。
新たにアイドルを受け持つ気力がなくなったためだ。

もう肇と会うことはできない。
契約上、たとい元アイドルだったとしても事務所の人間と接触することは禁じられている。
面倒なことになってマスコミに面倒なことを報じられて事務所が面倒を被るのを防ぐためだそうだ。
まあわからないこともない。

ただ今でも、折りに触れて肇のことを思い出すことがある。
そうしたとき俺は太郎坊・次郎坊を持ち出して一人晩酌をするのである。
粗末なとっくりを置いて、二人分のお酒をついで、主のいない次郎坊に乾杯をする。

月日の流れは速い、すでに肇も成人しているはずだ。
この次郎坊も本来の持ち主に返すべきなのかもしれない。でも、そうすると。

そうすると彼女とのつながりが完全に消えてしまうような気がして、俺にはどうしてもできなかった。
男というのは別れた女性をいつまで経っても引きずるもので、決して上書きすることができない残念な生き物なのである。

澄み切った大吟醸に浮かぶスミレの花を、ただ虚ろな目で眺めて、俺は正体を無くすまで飲みまくった。
そして醜く情けなく、消え入りそうな声でこう呟くのだった。

「ごめん」

次郎坊は何も答えてはくれなかった。


6レス。起。


そんな日々でも俺には満足だったのかもしれない。
たらればを繰り返して、ありもしないifを追っていればよかったのだから。
非生産的で後ろ向きな、無味乾燥な平和を生きていればそれでよかった。

が、つい最近のことだ。変化は唐突に訪れた。

飲み会の後、したたかに酔っぱらって帰ってきた俺は、
それでも物足らんと言わんばかりに乱暴に四合瓶を取り出して、
どぶどぶととっくりを満たしはじめた。

そしていつものように太郎坊・次郎坊を置いて、"二人分"の杯をついだ。
しかし、すでにべろべろに回っていたので体は全く言うことを聞かなかった。

手元がおぼつかないままとっくりを傾けると、予想を超えて瀑布のように酒が落ちてきた。
あわてて戻したが時すでに遅く、気づいたときには次郎坊の許容量を超えて"酒たまり"が周囲に広がっていた。

「こんなに飲めないですよ」

言われた気がした。しかし俺には聞こえていなかった。
拭こうとしてティッシュに手を伸ばした瞬間、ころころという音が聞こえてきた。

ころころ?

目を向けると次郎坊が倒れて、カーブを描きながらテーブルの縁へと転がっていくのが見えた。
反射的にかがんで手を伸ばす。手を伸ばしたが、すでに心のどこかで悟っていたのかもしれない。
もう間に合わないんだってことを。

がちゃん。

音を立てて次郎坊は垂直に落下した。


先ほどとはうってかわって俺の動作は緩慢になった。諦観は人をスローモーションにする。
追いつかないと知ったとき、人は走るのを止めてとぼとぼと歩き始めるのである。

ぽたぽたと垂れていく酒を無視して、俺は次郎坊を拾い上げた。
思えばよくここまでもってくれたものである。後悔より先に、感慨がわいてきた。
俺の愚痴も嫌がらずにいつも聞いてくれた。悔恨の情を小さな体で一身に受け止めてくれたよな。
まったくお前は藤原肇のおちょこだったよ。そして俺はとんだおっちょこちょいだった。

全てを断ち切るには、ちょうどいいタイミングだったのかもな。

そう思いながらターンテーブルさながらに次郎坊を見回してみた。
こんなにまじまじ見るのも久しぶりだ。やはりごつごつして土器土器している。

……? 何もない?

割れてない。欠けてない。ひびもない。傷ひとつ無い。
あんなにしたたかに打ち付けたのに? ひどい仕打ちを受けたのに?

底を見てみる。確かにスミレの花が咲いていた。
太郎坊と瓜二つのきれいな花が。


「太郎坊」、幸田露伴の短編にそういうものがある。
タイトルに惹かれて読んだのはこれもまた最近のことである。
境遇が似ているのでぐいぐい引き込まれて最後まで読んだ。結末も当然存じ上げている。

しかし、どうやら同じようにはならないらしい。

第一に、備前焼はとても丈夫で頑強であるためだ。
そんじょそこらのことじゃ割れやしない。壊すことなんてできなかったんだ。

第二に、これがもっとも重要なんだが。

うちの家系に、ハゲはいないんだ。


―――
――



国立新美術館。

「新進気鋭のアーティストたちが送る驚異の技巧工芸展」。

俺の姿はそこにあった。目的は二つ。

ひとつは肇の作品が出品されているからだ。
彼女は陶芸の世界でもその才覚を遺憾なく発揮し、ついには展示会が催されるまで有名になっていた。

元アイドルの肩書きでのし上がっただけで、実力自体は伴っていないなどと嫉む声もあったが、
彼女は反論ひとつせず、ただただ作品を世に出すことでその回答とした。

こうした姿勢が功を奏したのか、次第に批判はなりを潜めていき、正当な評価が下されるようになった。
その結果が今日この日というわけだ。

素直にすごいと思った。彼女の作品をこの目で見てみたい。
いや、見なくてはならない。これが第一の目的だった。

もうひとつの目的、それは今日が特別な日だったからだ。
今日は職人その人が、自分の作品を解説してくれるという特別デーだったのだ。

つまり藤原肇本人に、何年かぶりに会える絶好の機会というわけだ。
遠巻きから一目見るだけなら、事務所も許してくれるだろう。

入場を待つ行列が進むにつれ、俺の緊張は増していった。
さすがに一世を風味した元アイドルが来るとあって、行列は延々と美術館の外、曲がり角にまで及んでいた。

この様子だと肇の姿なんてロクに見えないかもしれない。
しかしそれでも一回、一回だけでも。何かが俺をそうせき立てていた。

思いとは裏腹に、行列は遅々として進まなかった。


彼女はどれだけ成長したことだろう。俺のいない間に何を知り何を学んできたのだろう。
彼女は何を生み出してきたのだろう。彼女の作品は何を訴えかけてくるのだろう。

女性の思い出は上書き可能らしい。であるならば俺のことなどとうに忘れているのだろうか。
バレンタインに下駄箱を確認するときのような、八割の諦めと、二割の期待がそこにはあった。

入場とともに俺の鼓動は最高潮に達した。
どうやらすでに肇は到着しているらしい。

他の作品などには目もくれず、いや肇の作品すらも無視して、入場した人の流れは一点に収束していった。
俺も人混みに飲まれたまま、抗うこともせずなすがままに流されていった。

展示室の一角、その"何か"を取り囲むように円形の空間がぽっかりと空いていた。
円周上にわらわらと人だかりができており、どうにかしてその"何か"を見んとて背伸びしたり、合間を縫ったりする人があふれかえっていた。

俺はたたらを踏んだ。次いで二の足を踏んだ。
人垣の頭の上、展示を照らすための照明が、
まるでスポットライトのように輝いているのが見えたからだ。

その中心に彼女はいる。円形の舞台のその中心に。
遙か昔、彼女が初めてステージに上ったときのことが思い起こされた。

あのとき俺は確かにプロデューサーとして舞台裏にいた。
しかし今は一人のファンとしてここにいる。俺だけが特別な存在ではないのだ。

その事実を否応無く突きつけられたような気がして、思わずその場に立ち尽くしてしまった。
大多数の人がそうだってのに、俺はなんてわがままで図々しい野郎なんだ。
何がバレンタインに下駄箱を確認する気持ちだ。厚顔無恥もいいところだ。

思えば、俺は自分の気持ちの整理をつけにきたのだ。長年の未練に折り合いをつけるためにやってきたのだ。
それを何を勘違いしたか、肇がこちらに気づいてくれやしないか、また元の関係に戻れやしないか、などという身勝手な妄想にすり替えてしまった。

まったく身の程を知るべきだったな。俺は鼻だけで大きくため息をついた。
この無理解が彼女のアイドルとしての道を閉ざしたのだろう。自省、自省、俺は深く反省した。

一目見たら、もう帰ろう。そう心に決めた。

そのとき、ふと人垣がかき分けられていくのが見えた。
解説を終えた彼女が、次の作品を紹介すべく移動しはじめたのだ。

間の悪いことに。

かき分けられた人垣の中心に俺は立っていて。

彼女はそこに向かっていて。

俺たちは、期せずして再会した。



「――。」

驚愕。
瞠目。
意外。
etc.

さまざまな感情がない交ぜになった表情がそこに現れた。
なかでも驚きの割合が大勢を占めていたように思う。

肇は臙脂色の作務衣に、薄く化粧をしただけの質素な格好をしていた。
アイドルだったころとはまるで正反対の、有り体にいえば地味な装い。
しかし、それがかえって彼女生来の美しさを強く際立たせていた。奇麗になったと、心からそう思った。

少し背が伸びたか、もしくは幼さが消えたためか、穏やか目がいっそう大きく、さらに優しくなっているように見えた。
その双眸の向かう先は、疑いようなく俺の顔で。射貫かれた俺はごくりと息を飲み、一言も発することができなかった。

彼女の口がわずかに動き、何か言い掛けたそのとき、俺の腕がぐいっと引っ張られた。

「もうちょっと離れて」

スーツ姿の学芸員に促されて、俺は再び"人混みの一人"に戻ることになった。
肇は口を「あ」の字に開いたまま、俺の行く先をじっと見守っていた。

なにか合図でも送ろうか。いや、それこそでしゃばりってもんだな。
こんな正面切って会うだけでも十分なのに、これ以上は差し出がましい。
もう満足。不満はない。俺の心は少し晴れ晴れとしていた。

「すみません」と言って俺は自分から後ろの方に下がっていった。
ほんとうに来てよかった。さて、あとは他の作品でも鑑賞させてもらうとするか。

「あ、あの、聞こえますか?」

澄み切った声。その透明度はマイクを通しても変わらない。久しぶりに声を聞いた。
どうやらマイクでもって解説してくれるらしい。まるでライブそのものだ。
こんな大勢来ているんだから無理もないか。

せっかくなので傾聴させてもらうとしよう。
肝心の作品が全く見えないのが残念なところだが。

「あの……、その」

何か口ごもっているようだ。愚かなことに俺はまた少し期待した。
でも同時に口にしない方がいいとも思った。

「次にご紹介するのは、この二つのおちょこなんですけれど……」

期待は無事裏切られた。俺はほっとした。


「このおちょこには、元となる試作品があるんです」

「その、"ぷろとたいぷ"っていうんでしょうか」

"プロトタイプ"とかいうまったく似つかわしくない言葉を使う肇に俺は笑ってしまった。どこで覚えたんだ。
しかし次の一言で一気に真顔に戻された。

「それは太郎坊・次郎坊というものなんです」

「底をみるとまるでスミレの花のような模様があるのでそう名付けました」

……覚えて。いたのか。

「普通はありえないんです。備前焼でそんな細かい模様ができるなんて。それも、二つも同時に」

焼き物のことはよくわからないが、俺にもあれは奇跡のように思う。

「ずっとそれを再現したいと思って窯から薪から試行錯誤を重ねてきたのですけれど、結局できませんでした。
ここにあるのも確かに自信作ではあります。でもあの"ぷろとたいぷ"には到底及びません」

"プロトタイプ"って言葉気に入ってんのかな……。

「あのときの初心、いわゆる純粋な心が私に太郎坊・次郎坊を作らせたのだと思います」

「今でも初心は忘れません。できることならあのころにかえりたいとも思います。
でも、そろそろ前を向かなくてはならないのかもしれませんね……」

語気がだんだんと弱まっていくのが感じられた。
はかなく寂しげなその声に周囲は少しざわめいているようだった。
その意味は俺にだけ分かると言ったら、生意気だって怒られるだろうか。

ふと人垣の中からひとつの質問が飛んできた。

「そのプロトタイプは、今どこにあるんですか?」

質問を受けた彼女がどんな顔をしていたか。
ここから窺うことはできなかった。



「今は……とある人に差し上げました」

一拍。

「とても信用のおける人です、だから」

一拍。

「だからたぶん、幸せに暮らしていると思います」

……そうなのか?
おまえらは今、幸せなのか?
俺はここにはいない太郎坊と次郎坊に問いかけてやりたかった。

俺のわびしい晩酌に付き合うことが幸せか?
愚痴と悔恨をぶつけられることが幸せか?
テーブルからふり落とされるのが幸せか?

嘘つけ。

嘘つけよ。

肇の顔は見えない。それが俺と肇との距離だった。

俺がなにを血迷ったのか今でもわからない。
わからないが次の瞬間、俺は人垣の中に飛び込んでいた。


「ちょっと」「おい」「押すなや」

すまねえ。すまねえ。通してくれ。

俺は初売りバーゲンで格闘するおばさんのように人混みをかき分けはじめた。
押し合いへし合いの中を平泳ぎの要領で隙間を縫っていく。
俺は一体なにをしているんだろう。もうまったく理解不能だった。

やがて俺は人垣の先頭、最前列へと躍り出た。
肇との距離は3メートルも無かったか。とにかく俺たちは近かった。

彼女と再び真っ正面から向かい合う。忽然と飛び出してきた俺に肇ははっとした表情を見せた。
でもその顔は恐怖に怯えてはいなかった。むしろ……いや、これは俺の勝手な願望だ。

一度は俺の無理解で、一度は俺の怯懦でもって、彼女と距離を置くことになった。
でも俺はもう未練にとらわれたくない。後ろ向きな日々を二度とは送りたくない。

俺は口を開いて叫ぼうとした。だが待ってほしい。
『館内ではお静かに』だ。だから。

だから俺はぶんぶんぶんぶんと首を振った。
そうじゃないと。違うと。否定の意志を示すために。

俺たちはどこかでボタンをかけ違っていたように思う。なればどこかでまたかけ直す必要がある。
いつか帳尻をあわせなくては、すべてを清算しなくては人は前を向くことができないから。

俺はまた肇と向き合いたい。次こそ彼女を理解してみせる。
だから俺は強い意志を込めて首を振った。違う!

あいつらは、幸せなんかじゃない。

あいつらは、今も"ご主人様"を待ってる!

俺はじっと彼女を見つめた。全く俺は自分勝手だ。
こんなんで分かってもらおうなんて甘ちゃんもいいところだ。

彼女の顔、戸惑いと逡巡の入り混じった表情。

当り前だ、口にも出していないのに。
理解してほしいなんて傲慢だよな。でも、でも――。

肇は、ぎゅっとマイクを握っていた。
何か込みあげてくるものを抑えるかのように。

……いや、これも俺の願望か。


すかさず学芸員さんが飛んできた。本職のSPばりのスピーディーな動きだ。
今度はさすがに容赦がない。俺はずるずると警備員さんに引き渡された。

両腕を掴まれてまるっきり犯罪者のていでスタッフルームに連れて行かれる。
衆目に晒されるとはまさにこのこと。とてつもなく恥ずかしい。

俺はスタッフルームの一室。四畳半くらい小部屋の中に押し込められた。

「困るんだよねえ」

はい。そうですよね。
ほんとうすいませんでした。俺は何度も何度も頭を下げた。

「まあちょっとここにいて。今責任者呼んでくるから」

はい。なんだろ。出禁にでもなるのだろうか。まあそれも仕方のないことか。
気になるのはそんなことじゃなくて、肇に俺の意思がちゃんと伝わっていたかどうかだ。

伝わっていたならいい。俺にももう未練はない。
太郎坊も次郎坊も彼女の実家に送り返してあげるべきだろう。
それが"二人"にとって一番の幸せというものだ。

でも、もし伝わっていなかったらどうだろう。
俺は明日からまた前を向いて生きていけるだろうか。
うじうじと未練たらしいポンコツに逆戻りするんじゃないだろうか。

不安と危惧、疑念と混迷の中に俺はただ一人ぽつんと取り残された。

そのとき、ガチャッとドアノブが回されて、一人の女性が入ってきた。

臙脂色の作務衣に、薄く化粧をしただけの質素な格好。
少し垂れ気味のそれでも大きく輝く瞳。


"責任者"では、なさそうだった。



「……お久しぶりです。"プロデューサーさん"」

懐かしい響きに胸が熱くなった。
肇はまだ、俺のことをプロデューサーと呼んでくれるのか。

「わざわざ見に来てくださったんですね。ありがとうございます」

俺は何か言おうとした。でも言葉にならなかった。
口下手はこれだからだめだ。そんなだから伝わらないんだ。
俺はただただ頷くことしかできなかった。

「私、びっくりしました」

そうだろう。
俺にもなぜあんなことをしたのかわからない。

「でも」

"でも"の後に続く言葉に、身構える。

「嬉しかったです。嬉しくて、嬉しくて、それで――」

「ずっと、待っていました」

――。

氷解した。すべては杞憂だった。伝わっていたんだ、全部。
沈黙した。彼女は優しく微笑んだ。ほんのり顔が赤く染まる。

長い年月は俺たちを寡黙にした。語彙力の全てを失わせた。
でも俺たちは今それを良しとした。顔を見合わせてこの静寂を楽しんだ。

黙ることで、言葉にするよりもいっそう多くのことを話し合うために。
黙ることで、言葉にするよりもいっそう多くのことを理解するために。

幸せな時間が流れていく。壁に掛けられた時計が動き出す音が聞こえてきた。
ほんとうに男ってやつはだめだ。肝心な時に泣き出すのはいつも男のほうだ。

やがて肇はゆっくりと口を開いた。

「――"二人"は、元気にしていますか?」

もう俺は泣いていた。何で泣くのかわからねえ。
でも、俺はこの一言のために何年も何年も過ごしてきたんだ。


「あいつら、あいつら肇に会いたがってるよ」


そうだよな。



―――
――



辞めた。

やめだやめだ。契約破棄だ。

満足に残業代も支払わねえ事務所なんざやってられるかってんだ。
俺は事務所からもアイドル業界からもいっさいがっさい足を洗うことにした。
担当アイドルもいないしもはやなんの未練もない。俺は一般男性だ!

俺はプロデューサーを辞めた。
そして俺はプロデューサーに戻ることにした。

広縁、つまりは幅の広い縁側に俺は座っていた。
今宵は満月、月は普段よりいっそう大きく白く輝いている。
次のスーパームーンはいつだろう。

座りながら俺はタブレットに目を通す。
横に置いた試し刷りのポスターが目に入った。

「藤原肇個展――土と理解と――」。

なかなかできばえがいい。これなら集客も十分見込めそうだ。
さて、次回の企画のほうもチェックしなくてはならない。またタブレットに目を戻す。

俺は一般企業に勤める傍ら、肇のプロデュースに就くことにした。
傍らにと言ったが実際はプロデューサー業が本職で、仕事は副業みたいなもんだ。みなさんと同じ。

肇はもう一人前の陶芸家で、その実力は折り紙付きだ。ここに関しては何の疑いようもない。
のだが、コマーシャルというか自分を売り込むことについてはとんと疎いようで、
どうやったら多くの人に見てもらえるのか、個展てどうやって開くのか、パトロンって何ですか……? みたいな凄惨な状況だった。

偉大なおじいちゃんがいるのだから、そこに頼めばいいのにとも思ったが、
詳しく話を聞くとおじいちゃんもそっち方面に関してはさっぱりとのことだった。

そんなわけで俺が志願して彼女のプロデュースに乗り出すことにしたわけだ。
ちょっと方向性は違うけれど、これもプロデュースであることには変わりない。

で、なんやかんやあって俺は岡山で暮らしている。これは自然ななりゆきなので何の不思議もない。
ただこの筋書きを書いたやつはとんだご都合主義野郎だとはたまに思う。
まあおかげさまでおじいさまとの関係も良好だし、いい生活を送らせてもらっている。

ことん、と。

縁側のすぐ脇にお盆が置かれる音がした。
お盆の上にはとっくりが一つ、そして太郎坊と次郎坊が二人。

「お疲れさまです。プロデューサーさん」

隣に座るのは、浴衣姿に羽織をかけた藤原肇。


風は無風。ときおり暖かい微風が頬をなでる程度。
りーりーとなにかの虫の鳴き声がする。なんて虫でしょうねと二人語り合う。

俺は太郎坊を持ち上げた。手酌で熱燗を入れようとする。
肇は何も言わずに腕を差しだし、俺の手からとっくりをひったくった。

「ふふっ、私がお酌しますっ」

たまに肇はこういういたずらっぽい顔をする。
こんな表情が見られるのも岡山にいる特権である。移住を薦める。

彼女がお酌をする。とくとくと太郎坊がいっぱいになる。スミレの花が浮かび上がった。
俺もお返しにと酌をする。今度は次郎坊がいっぱいになり、またスミレの花が咲いた。

花言葉は「謙虚」だの「小さな幸せ」だの「誠実」だのと出てくる。
でも俺は多分、「小さな幸せ」が最有力候補であると思う。

俺たちは二人乾杯をした。かちんという音ともに水面がゆらりと揺れる。
スミレが見える。空は満月が照らす。隣には肇がいる。

俺たちは沈黙する。

黙ることで、言葉にするよりもいっそう多くのことを話し合うために。
黙ることで、言葉にするよりもいっそう多くのことを理解するために。

彼女はまた微笑んだ。

「……"二人"は、なんて言っていますかね」

どうせこいつらのことだ。まだ満足しちゃいないんだろう。


「早く、弟子がほしいなあ」


わがままな、やつらだよ。







幸田露伴「太郎坊」は青空文庫で読めます。やっぱり青空文庫はすごい。

html依頼してきます。

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