※独自設定あり、登場人物が死亡する表現があります
その時俺の眼に映ったのは、夜の事務所、床に倒れている俺と文香。
全てが赤く染まった、凄惨な光景だった。
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~モバP(以下P表記)の回想~
俺は「特別な眼」を持っていた。
最初にその力を体感したのは、6歳の時だった。
家で何かの・・・確かマンガだったと思うが、本を読んでいて、あるページをめくった瞬間目に飛び込んできたのは、
【このページを読んでいる間、絶対に声を発してはならない】
ここに書かれている情報は、全てあなたの特別な眼が見せている幻である。
ここに書かれている情報は、全てあなたの利益に繋がるもの、もしくは不利益を避けるためのものである。
ここに書かれている情報は、文章であったり画像であったり、直接的だったり間接的だったり、
長かったり短かったり、過去のことだったり未来のことだったり、その都度異なる。
あなたがこのページで見た情報は、生涯決して忘れることはない。
この能力は自らの意志で発動することはできないが、あなたの人生の岐路において発動しやすい。
この能力の発動に必要な条件はただ一つ、「書籍でも漫画でも雑誌でも、何か書物を読んでいること」である。
最初の行の指示に従わなかった場合、あなたの身に救いようのない悲劇が訪れる。
というわずか9行の文章だった。それは本来あるべきのマンガのページの代わりに書かれていた。
もちろん今も一字一句たがわず内容を覚えている。
当時小学校に入ったばかりの俺の知らない漢字ばかりの文章だったが、なぜか読むことができ、意味も理解できた。
しかもこんな突拍子もない内容だというのに、全く疑うことなく信じることができた。
それからの俺は、眼の発動の機会を逃すまいと暇さえあれば本を読むようになった。
眼の発動に「内容をしっかり読んでいるか」は関係ないようだったが、どうせならと思い手当たり次第に読みまくった。
しばらくの間、俺はこの眼で大いに楽しんだ。
100円玉が落ちている場所の写真、どのアイスが当たりか、
予報が外れて明日は大雨になること、昨日見損ねたアニメのあらすじなどなど。
小さなものばかりで発動頻度も少なかったが、確かに俺の利益につながる情報ばかりを見ることができた。
最初の行に書かれている指示も、実行するのは簡単なものばかりだった。
その指示も【今日の帰り道は○○の前を通ってはならない】など、それ自体が危機回避になっているようなものもあった。
そして本を読みまくっていたことによる副次効果で、学校の成績もトップになっていた。
マンガも、小説も、教科書も、全て本であることには変わりない。
まあたかが小学校低学年の成績でトップだったからといって何だという話だが。
眼については特に「誰かに話してはいけない」という記載はなかったが、自分だけの秘密としていた。
9歳になった頃。
いつものように本を読んでいた俺の目に入ってきたのは1枚の写真。
明日、母親と行く約束をしていたおもちゃ屋の前に立つ電柱に、大型の車が突っ込んでいた。
夕焼けに染まり始めた空、バンパーの潰れた車、倒れかかった電柱、うなだれる運転手、2台の救急車、アスファルトに広がる血、
見たことのある靴、倒れているのは―――
直感した。
これは今までとは違う、「不利益を避けるための情報」だと。
その不利益とは、俺と母親が事故に遭うこと、おそらくは死。
そして写真の前にただ1行、【この写真から得た情報について、家族に明かしてはならない】
ご丁寧に「家族に」ときた。
俺は焦った。この情報について話さずに、どうやって危機を回避すればいいのか。
仮に駄々をこねたり体調を崩したと嘘をついて俺が家から出なくても、母親だけでおもちゃ屋に行ってしまうかもしれない。
読書のおかげか、その程度のことを思いつくくらいには頭は回っていた。
絶対に俺はあの場所に行ってはならないし、母親をあの場所に近づけてはならない。
一晩必死に悩んで考え付いた対策は、「駄々をこねて別の場所に連れて行ってほしいとせがむ」だった。
ちょうど近隣に新しくペットショップが建った頃で、そこに連れて行ってほしいと必死に訴えた。
母親は、ペットが欲しいとねだられることを危惧して乗り気ではないようだった。
だが、もともとおもちゃ屋にもテスト満点のご褒美ということで行く予定だったため、しぶしぶペットショップに連れて行ってくれた。
狭い町だ。何かあればすぐに情報は町中に広がる。
「車が事故を起こした」という話を聞いたのは、ペットショップからの帰り道だった。
確信があった。
きっとあのおもちゃ屋の前だ。
野次馬根性丸出しの母親と共に駆け出す。
もっとも今思い返してみれば、事故は全くの別件で、おもちゃ屋に向かった俺と母親に車が突っ込んでくる危険があったので、
絶対におもちゃ屋へ向かうべきではなかったのだが。
「行かなければよかった」
俺は全く別の意味でそう後悔することになる。
あの写真を思い返してみると、おそらく車に乗っていたのは1人で、ケガらしいケガはしていなかった。
救急車は俺と母親の分、もしくは俺達と運転手の分で計2台来ていたはずだ。
俺と母親が事故に逢っていないのだから、おそらく単独事故、救急車は来ていたとしても1台のはずだった。
ちょうど現場に着いた俺達の目の前に、2台の救急車が停まった。
本来、母親と行く約束をしていたおもちゃ屋の前に立つ電柱に、大型の車が突っ込んでいた。
夕焼けに染まり始めた空、バンパーの潰れた車、倒れかかった電柱、うなだれる運転手、2台の救急車、アスファルトに広がる血、
見覚えのない靴、倒れているのは―――
見知らぬ女性と子供が、血の海に沈んでいた。
頭の中で今でも鮮明に思い出せる映像と、倒れている人物だけが違っていた。
倒れていた二人は親子だったそうだが、母親は即死だったらしい。
子供を守るように抱きかかえたまま亡くなっていたそうだ。
まだ小さかった子供の方は重傷を負いながらも命に別状はないとのことだったが、それが幸か不幸かはわからない。
俺は怖くなった。
あの二人は俺達の身代わりに事故に遭ったのではないか?
あの母親は俺達の身代わりに死んだのではないか?
考え出すと震えが止まらず、俺はとうとう自分の眼について両親に打ち明けた。誰かに話さずにはいられなかった。
【この写真から得た情報について、家族に明かしてはならない】
おそらく、それは今も続いている。
だから俺は、自分の眼についてのルールと、急にペットショップに行きたいと言ったのはこの眼の情報によるものだということを話した。
本来自分たちが事故に遭うはずだったことは、写真から得た情報であるため話せない。
でも、眼のルールとペットショップの件から察してもらえると思っていた。
両親は、そもそもの根本、この眼のことすら信じてはくれなかった。
よくある子供の戯言か、事故を見たショックで混乱しているだけだと思われたらしい。
その後しばらく自身の命に関わるようなことはなかったが、眼を使い続けているうちに周りもさすがに何かおかしいと思い始めたらしい。
誰かに話してはいけないという指示がないことも多く、そういう時は事前に情報を渡した。
その結果、気味悪がる人、面白がる人、利用しようとする人が多くなってきたため、次第に眼については隠すようになった。
中学生になるころには、いわゆる処世術のようなものが少しはわかるようになってきていた。
眼と読書のおかげで成績はよかったので遠くの進学校に入学した俺は、できるだけ目立たず、それでいて眼はしっかり活用していた。
不自然に思われないよう、少しの不利益なら被るようにもしたし、取らなければいけない利益はしっかり取っていた。
高校も進学校に、大学は東京に出て、そのまま一流アイドルを多数輩出する346プロダクションにプロデューサーとして入社した。
ここでも眼の力を発揮して、一人前のアイドルを数人育て上げた。
高校の時に1回、プロデューサーになってからは2回、自分の死、もしくは負傷に繋がるような情報も見た。
回避する事には成功したが、今や自分に降りかかる災いの情報を見ても「またか」程度にしか思わなくなっている。
それにしても東京はいいところだ。
地元から新幹線で2時間もかからない距離にあるとはとても思えない。
行動範囲内に本屋が本当に多い。
しかも、普通の新刊では手に入りづらい古書なんかを取り扱う店もある。
いつしか、東京に限らず収録や営業、スカウトなどの空き時間に、掘り出し物目当てに古書店巡りをするのが趣味になっていた。
そしてふらりと入った古書店で、その女性を見つけた。
鷺沢文香。
俺がスカウトして、ほんの2週間前に346プロダクションに入った、今俺が担当しているアイドルである。
さて、ここまで長々と俺と眼の来歴について述べてきたわけだが、なぜこんなことをしたかという話に移ろうか。
いつも通りに開いた本のページに、血まみれの事務所の床に倒れる文香の写真が写っていた。
文香の背中に刺さっている刃物。隣に倒れているのは俺のようだ。
倒れる二人の手は、まるで恋人同士のように重なっていた。
指示は【このページを読んでいる間、絶対に声を発してはならない】
普段ならなんてことのない指示だが、このときばかりは気をしっかり保っていないと危なかった。
P「―――ということなんだが、信じる信じないは別として話は理解できたか?」
文香「は、はあ・・・まあ、理解だけでしたら」
俺は文香の写真を見た直後、数人のアイドルを呼び出していた。
まず今の担当アイドル、鷺沢文香。まあ文香とは情報を見た時点で一緒にいたから呼び出してはいないが。
そして過去に俺が担当して、今もトップアイドルの位置にいる数人のアイドル。
双葉杏、島村卯月、渋谷凛、本田未央、高森藍子の5人。
今まで自分の身に危険が及ぶとの情報が見えたときも、基本は単独で対処してきた。
しかし、なぜ今回はこの6人に情報を明かしたのか。
「不利益の回避」の情報に、アイドルが出てきたのはこれが初めてである。
母親の時もそうだったが、自分の大切な存在が危ういというのは非常にまずい。
最悪回避に失敗しても死ぬのが自分だけならまだマシだが、大切な人を死なせるわけにはいかない。
つまり、絶対に失敗してはいけない。ならば知恵も手数も多い方がいい。
文香に関しては被害者本人だ。信じてもらえさえすれば自衛の意識も芽生えるだろう。
他の5人は、まず俺のことを信頼してくれているというのが大きい。
今日も急な呼び出しだってのに駆けつけてきてくれたし、こんな突拍子もない話でも信じてくれる確信があった。
なんてったって凛に「次の仕事はバンジージャンプだ」と伝えたら何のためらいもなく跳んだし、
杏に一日警察署長の話を持って行った時も嫌な顔一つせず・・・いや、嫌な顔はしてたけど二つ返事で引き受けたからな。
また、あの写真にはいつもとは違う点が1つあった。
場所が事務所という点が幸いして、デジタル時計が写っていたおかげで日時が判別できるのである。
日付は今から6日後、10月26日の20時31分だった。奇しくも文香の誕生日の前日である。
場所が事務所ということは、犯人は事務所の関係者である可能性が非常に高い。
だがこの5人、あまりにも多忙すぎてそもそも事務所にほとんど来ない。
そして5人のスケジュールを確認すると、全員当日は東京にいない。
この5人が関わっている可能性は非常に低かった。
そして何より、俺が文香も含めた6人を信じていたからだ。
文香「・・・・・・」
文香の顔色が少し悪い。自分の腕を抱くように縮こまっている。
まだ担当になってたった2週間だが、文香の表情から少しは心情を読み取ることもできるようになってきた。
今の文香に浮かぶ感情は「困惑」だろうか。まあこんな話を聞かされた直後だから当然か。
「この人なんか変なこと言い出した」ってドン引きされてたらどうしよう。心折れそう。
それでもスカウトの経緯もあって信頼関係はけっこう築けていると思うんだけどなあ。
そうそう、文香ってめちゃくちゃ可愛いんだよなあ。この2週間でもさんざん見てきた。
普段は口数少ないのに本の話をするときについ饒舌になってしまうところ。
後で恥ずかしくなって思わず赤面して本で顔を隠すところ。
前髪に隠れた目が綺麗なところ。
読書以外の趣味や娯楽の知識はほとんどないが、実はちょっと興味があったりするところ。
店に入ろうと思ったものの踏ん切りがつかず店の前でウロウロしたりするところ。
意外とスタイルがいいところ。
身体を動かすことは苦手なところ。
たまにぞっとするほど美しい表情を見せるところ。
こんな文香をみんなに見せられたら、あとはプロデュースなんかしなくても勝手に売れてくんじゃないかと思うくらいだ。
未央「今の話、みんなはどう思う?私には、少なくとも全部が嘘だとはとても思えないよ」
凛「・・・うん、私も同感。今思い返すと辻褄が合うことが多すぎる」
藍子「確かに、プロデューサーさんはいつも本を読んでましたよね」
杏「プロデューサー、杏たちのプロデュースに関わる情報を見たのって何回?」
P「杏が4回。NGの3人は2回で藍子は1回。文香はまだだな」
卯月「思ったより少ないですね」
藍子「つまり、ほとんどは眼と関係なくプロデューサーさんの手腕だった、ということですか・・・?」
杏「・・・杏の中でも辻褄が合っちゃったよ、杏は信じるかな」
P「手のかかる子だったもんなあ杏は」
杏「うるさーい。それより信じてあげたんだから飴くれー」
P「ほらよ」
杏「おおー、文香さんの専属になってもまだこの飴常備してたんだね、感心感心」コロコロ
P「前に持ってた分が余ってただけだぞ。俺ハッカ嫌いだし」
杏「お?戦争する?」
卯月「そういえば、プロデューサーさんが持ってきた変な仕事で一気にブレイクしたりしましたよね・・・」
凛「あのバンジージャンプとかね」
未央「しぶりん、あの後『空の蒼さが感じられてよかった』とか言ってたじゃん」
P「まああのバンジーはこの眼とは関係ないけどな」
藍子「あの、激辛ラーメンを食べさせられたのは・・・」
P「あれもこの眼とは関係ないぞ。面白そうだったから持ってきた」
藍子「そうなんですかっ!?」
P「普段のゆるふわが吹っ飛んで涙目で早口でまくしたてる藍子、メチャクチャ話題になったよな」
杏「えっなにそれ杏見たことない」
P「あとでV観るか?」
藍子「ダメですよっ!?」
凛「それで、どうするのプロデューサー?」
P「文香には『トップアイドルの下でアイドル業界について知ってもらう』という名目で常に5人の誰かと行動してもらう」
未央「なるほど、常に誰かと一緒にいれば大丈夫だよね」
杏「寝るときも?」
P「寝るときもです!」
未央「よーし、この機会にふーみんにいろいろ聞いちゃおう!」
卯月「ここにいるみんなは今SPの数もすごいですから安心ですね」
P「いや実際SPつくくらいになるとは思ってなかったけどな・・・で、俺は基本文香と別行動」
杏「だよね、文香さんとプロデューサーが一緒に写ってるなら別行動した方がいいよ」
P「俺は俺で、写真に写ってる情報から犯人を特定できないか調べてみる」
藍子「そ、それは危なくないでしょうか?」
P「26日の昼から、どうしても外せない大事な打ち合わせがあって俺と文香は事務所にいないといけないんだ」
凛「・・・それだと対策の意味ないんじゃ」
P「だから、できるだけ犯人は特定しておきたい。そいつを捕まえてしまえば事務所にいても平気だから」
P「当日の警備は増やしてもらう予定だし、問題の時刻には事務所にいないようにするからなんとかなるとは思うんだが・・・」
未央「でも実際に襲われるのは26日でしょ?25日までは一緒にいても問題ないんじゃない?」
P「まあ念のためだよ」
未央「ふーん・・・?」
P(それ以外にも、26日の夜は絶対に事務所にいないといけない理由と、それまで別行動の理由もあるんだけどな)
卯月「・・・プロデューサーさん、絶対無理はしないでくださいね?」
P「善処するよ」
凛「あと、その写真でプロデューサーと文香が手をつないでたこともちょっと気になる」
杏「いや、普通にプロデューサーが文香さんの手を取って逃げようとしただけだと思うけど」
藍子「ま、まさかそういう仲に」
P「スカウトして2週間で自分の担当アイドルに手を出すってケダモノかよ」
未央「だよねー、こんな美少女たちのプロデュースをしてて全く手を出してこなかった鋼の精神力の持ち主ですからねぇ」
P「いくら美少女相手でもやっていいことといけないことの区別くらいつくぞ」
凛「美少女ってところは否定しないんだね・・・」
P「今を時めくトップアイドル5人つかまえてそのビジュアル否定するとかそれこそ刺されるわ」
杏「・・・プロデューサー」
P「ん?どうした杏?」
杏「プロデューサーと文香さんが襲われるのって、本当にその時刻なのかな?」
卯月「えっ?ど、どういうことですか?」
杏「例えばもっと前に2人が襲われて、発見されたのが20時31分っていう可能性は?」
P「うーん、可能性としてはあるが、おそらくはないと思う」
藍子「どうしてですか?」
P「さっきも言った通り、俺の眼で見える情報はこの場合『不利益を回避する情報』なわけだ」
P「経験上、その情報からは不利益を回避させようとする何かの意思を感じる。俺の眼か、あるいは他の何かかは知らないが」
P「不利益を回避するために見せている情報が、発見時の写真じゃ意味がないから、ある程度は安直に扱って問題ないはずだ」
未央「ああなるほどー、助けようとしている以上は回りくどい感じで情報は出してこないってこと?」
P「ああ、そしてこれも経験上、そこさえ回避してしまえばあとは何とかなる」
P「それでダメな場合は、そもそもその情報にもっとストレートに犯人の名前や顔写真も載ってるはずだ」
杏「へー、便利なもんだねー」
P「今回はそれがなかったから、まあ事務所にいないだけで解決するとは思うんだが・・・念のために犯人捜しはしようと思う」
それからは業務の傍ら、アイドルたちにも協力してもらいながら犯人特定に繋がる情報がないかを探し続けた。
写真に何か決定的なものが写っていないかを隅々までチェックしたが手掛かりなし。
写真は俺の脳内にしかないため、画像処理ができないのは地味に痛い。
あとは事務所に自由に出入りできる人間のリストアップ、無理やり侵入する場合の経路の想定、
杏のアドバイスで文香の刺し傷の位置からの犯人の身長の想定なんかも試みたが、有力な手掛かりにはならなかった。
犯人の目星もつかないまま5日が過ぎた。
その間、文香とは全く会っていない。
俺は俺でいろいろと忙しかったし、文香もトップアイドルと行動を共にしているため多忙な毎日を送っているらしい。
おととい文香と電話した時に、「トップアイドルとは、ここまで大変なのですね・・・」とこぼしていた。
ただ、その時文香の声のトーンがいつもより低いことが気になった。
普段からおとなしい喋り方をする子だが、その日はいつにもまして静かだった。
ここ数日のハードスケジュールで疲れているのか、命を狙われているかもしれないという不安からか。
そして運命の26日。
昼過ぎに事務所で文香と合流した俺は、予定されていた通り打ち合わせを開始した。
数か月後に行われるフェスの出演枠にギリギリ文香を滑り込ませたのだが、主催者がちょうど所用でウチに来る予定があったので、
文香を紹介してついでに売り込んでおこうと思ったのだ。
フェスの主催者はこの業界ではかなりの大物で、ここで名前を覚えてもらえるかどうかでこの後の活動方針が大きく変わる。
主催者は文香をいたく気に入ってくれたようで、また何かあれば声をかけてくれることになった。
打ち合わせが終わったのが18時過ぎ。問題の時刻まであと2時間。
さすがにこのまま事務所にいる気はさらさらない。
事務所にある大きなホワイトボードまるまる一面を使った予定表。
プロデューサー欄の、俺の名前の横に貼られたマグネットを「会議中」に合わせ、文香を連れて裏口から外へ出る。
万一、事務所のスタッフが犯人だった場合に備えてのことだ。自ら居場所を教えるとか自殺行為以外の何物でもない。
呼んでおいたタクシーに乗って、とりあえず行きつけの喫茶店に向かう。
文香にどこか行きたいところはないかと聞いても曖昧な返事しか返ってこない。
まあ、古書ばかりの世界から飛び出してからまだ3週間ほどだ。仕方ないか。
いつもの喫茶店の奥まった席で、ブレンドを2つ注文して腰を落ち着ける。
それにしても、今日の文香は何か変だ。
俺の向かいに座って手持ちの文庫本を読んでいるが、集中しているようには見えない。
どこか心ここにあらずといった感じなんだが、ぼーっとしているわけでもなく、何か考え込んでいるというか。
普通に考えれば今日起こる事件のことに関してなんだが、それに対して不安がっていると言うよりは・・・
思い詰めている、という表現が一番近いような・・・と思ったところで店員がコーヒーを持ってきて俺の思考は打ち切られた。
まあいい、考えてわからないなら直接聞けばいい。ということで
「で、何に悩んでるんだ?」
とストレートに聞いては見たものの、返ってきたのは
「いえ、何でもありません」
という返事。
感じ取れたのは「強い拒絶」、そしてどうやら「悩みは俺に起因していること」の2つ。
マジか・・・本当にこの前の眼の話で「この人何か変なこと言い出した」と思われてドン引きされてる可能性が出てきたぞ・・・。
いや、文香の命を守れるならそれでいい。誤解はゆっくり解けばいいんだ。と自分に言い聞かせる。
とりあえずはコーヒーを飲みながら、俺は手持ちのノートパソコンを開き、事務作業を始める。
あっという間に2時間が経過して、もう20時30分になるところだ。俺は腕時計に目を落とした。
文香も気になるのか、本から顔を上げ店内の時計をじっと見つめている。
20時32分を無事迎えることができれば、とりあえずは大丈夫だ。
20時30分55秒・・・56秒・・・31分・・・
ピリリリリ!
ちょうど腕時計が20時32分を示したところで、ポケットの中の携帯電話が鳴った。
2人とも時計に集中していたせいで、思わずびくっと体が跳ねる。
おそるおそる、まだ電子音が鳴り続ける携帯電話を取り出した。表示名は「ちひろさん」。
P「もしもし?」
ちひろ「Pさん!今どこにいるんですか!?」
P「文香と一緒に喫茶店にいますが・・・どうしました?」
ちひろ「どうもこうも!事務所で刃物を持った女の人が『Pはどこだ!』って暴れて・・・」
P「ええっ!?ケガ人は?誰か刺されたりとかは」
ちひろ「すぐに警備の人に取り押さえられましたのでみんな無事でしたけど・・・」
P「よ、よかった・・・」
ちひろ「とにかくすぐ戻ってきてください!」
P「わかりました、すぐ向かいます」
実は内心、たいした大事にはならないんじゃないかとは思っていた。
例えば幼い時の事故のように、俺と文香の代わりに誰かが刺されたとしよう。
プロダクションの事務所内での殺人未遂、または殺人事件。
刺されるのが誰であっても、動機が俺かそうでないかのどちらであっても、それは俺にとって「不利益」になるだろう。
そんなことが起こるのなら、それに関する情報も得られるはずだ。
それがなかったということは、何も起こらない、または何か起こっても被害は出ないだろうと踏んでいた。
電話を切ってから、「行くぞ」と声をかける。時刻は20時34分になっていた。
会話の内容は文香にも聞こえていただろうから、特に説明はしなくても大丈夫かな、と思いながら文香の顔を見て、
俺は思わず動きを止めた。いや、見惚れて動けなかった。
少し俯き加減で座っていた文香。その表情には様々な感情が浮かんでいた。
それらを隠そうともせず浮かび上がらせたその顔は、あまりにも綺麗だった。
動かない俺を不審に思ったのか、文香が怪訝そうな目を向けてきたところで俺は誤魔化すように勢いよく立ち上がる。
もう一度「行くぞ」と声をかけ、伝票を持ってレジに向かう。
その頃には文香の表情は普段通りに戻っていた。
あの時、文香の綺麗な表情から読み取れた感情。
多くの感情が混じり合う中で、それでも感じ取れたのは、ネガティブな感情だったような気がした。
例えば「絶望」のような。
その後すぐに事務所に戻ってきた。
既に警察が呼ばれていたようで、ちひろさんや社長が警察官に事情を聞かれていた。
暴れたという女はもう連れて行かれてしまったのか、ここにはいなかった。
俺も事情聴取に加わり、その時聞いた女の名前と特徴から、以前知り合ったライターに思い当たった。
アイドルの取材に来ている筈なのに、何かと俺に向かって話しかけてきて、
それ以降もたびたび俺に会いに来ていたが、あまりのしつこさと鬼気迫る表情に、危うい感じがしたものだ。
別件での取材のついでに、というかそっちがついでなのかもしれないが、今回も俺に会いに来たらしい。
しかし最初から包丁なんて持ってた以上、まあ目的はそういうことなんだろうな。
金属探知機とか導入した方がいいんじゃないか?
時間も遅く、犯人も逮捕されているということで、今日の分の聴取は終了した。
まあ、これ以上話すこともあまりないと思うが。
この業界、たまにはああいう人にも出くわすこともある。行き過ぎた行動をとるファンとか。
社長もその辺は分かっているので、「運が悪かったと思って、明日からもまた励んでくれ」と言ってくれて、俺はお咎めなし。
これで被害者が出てたらまた違ったんだろうけど。
聴取から解放された時点で、既に時刻は23時過ぎ。
正直メチャクチャ疲れた。事情聴取ってあそこまで緊張するもんだったのか。
ん?そういやなんか忘れてるような・・・?何だっけか?
聴取の疲れと、危機を回避した安心感で頭が上手く働かない。
とにかく事務所に向かい、ドアを開けると文香がソファに座っていた。
本来、もうとっくに帰ってしまっている時間だが、俺が事務所で待っててもらうように頼んでいた。
俺が入ってきたことに気づいた文香は、用件は何かと尋ねてきた。
まあ、そんな大した用事じゃないんだけどな、と断って向かいのソファに座る。
ちらっと時計を見ると、23時37分。もうちょっと時間を稼がないとな・・・。
文香が20歳になるまで。
実は文香の誕生日を祝いたくて、他のプロデューサーやアイドルにも協力してもらっている。
文香が20歳になる瞬間、午前0時にみんながなだれ込んできて、そのまま誕生会みたいなことをしようという算段だ。
ここ数日間は、仕事の合間にその準備やスケジュール調整に加え、犯人捜しもしていたので本当に忙しかった。
これらを文香に付きっきりで、なおかつ文香にバレないようにするのは不可能、というのも別行動の理由だった。
そして20歳というのは未成年と成人の境目。つまり・・・お酒が飲めるようになるのだ。
ケーキとプレゼントは俺が用意したし、各種のお酒におつまみなどを携えた高垣さんや片桐さん、安部s・・・ゲフンゲフン!
とにかく、お酒好きのアイドルたちが新たな飲み仲間の誕生を今か今かと待ち望んでいる。
あんなこともあった直後だから、今日の準備もいろいろ大変だっただろうが・・・。
時間を稼ぐために、思い出話・・・というにはまだ出会って間もないが、スカウトしてからのことを語り始めた。
偶然入った古書店で見かけた瞬間、スカウトしようと思ったこと。
スカウトに応じて事務所に来てくれた時には本当に嬉しかったこと。
初レッスンで体力を使い果たして倒れたこと。
宣材写真の撮影を水着グラビアだと勘違いして恥ずかしがっていたこと。
俯き加減だった最初と違い、顔が上がってきたこと。
表情が明るくなったり、多彩になってきたこと。
今の文香をご両親に見せられればなあ、と思うこと。
あ、そういえばこの前取材を受けたときの雑誌の見本がもう刷り上がったらしいんで貰ってきたんだった。
相変わらずあそこの出版社さんはいい仕事するよなあ。どれ、文香にも見せてやろう。
えーと、確か俺のデスクのこのあたりに・・・あったあった、付箋のついてるこのページに―――
【この部屋を出るまで、絶対に後ろを振り返ってはならない】
その時俺の眼に映ったのは、夜の事務所、床に倒れている俺と文香。
全てが赤く染まった、凄惨な光景だった。
その写真は、6日前に見たものとほぼ同じだった。
違っていたのは3点。
時刻が、10月26日の23時57分になっていること。
文香の背に刺さっていたはずの包丁が、文香の傍らに落ちていること。
そして、俺と文香の手は―――重なっていなかった。
写真と共に添えられた、わずか2行の文章。
「今すぐ目の前のドアから、外に逃げろ」
「文香は、いずれにせよもう助けられない」
―――あれは私が、まだ本当に小さいころのことでした。
その日、私は母に連れられて、近所のおもちゃ屋さんに来ていました。
当時から私は本が好きでしたが、今ほど読書にのめり込んでいたわけではなく、他に好きなものもたくさんありました。
母と一緒に色々なおもちゃやぬいぐるみを見て、買ってほしいとせがみ、今度の誕生日に買ってあげると言われ、
しぶしぶ納得して、晩ご飯は何が食べたいかを話しながらおもちゃ屋を出ました。
その直後。
背後から大きな音がして振り返ると、大きな車が目の前にまで迫っていました。
突如、誰かに引っ張られ、抱きしめられる感覚。
はっきりとは覚えていませんが、おそらく母が私を守るように抱きかかえてくれたのだと思います。
母のぬくもりを感じてから、しばらくの間の記憶がありません。
気づいたとき、私は病院のベッドで寝ていました。
傍には父がいて、目を覚ました私を抱きしめ、涙を流しました。
「おかあさんは?」と尋ねる私に、父は「お母さんは、遠い所へ行ってしまった」としか答えてくれませんでした。
その顔がとても悲しそうで、寂しそうだったことを今でも覚えています。
子供ながらに、父の態度から「おかあさんはもうかえってこない」と、なんとなく感じていました。
私ももちろん悲しかったですし、寂しかったのですが、それ以上に父の表情が焼き付いて・・・。
そのとき私は、「おとうさんがさびしくないようにがんばろう」と決意しました。
そして私は、その決意のもとに頑張ろうとは思ったのですが、当時の私は幼稚園に入ったばかりで、
父のためにできることはたくさん話をすることくらいしかありませんでした。
元々体が強くなかった父は、私の面倒を見ながら仕事に励み、日に日にやつれていきました。
父が倒れて、帰らぬ人となるまで、そう長くはかかりませんでした。
一人残された私は、父の弟である叔父さんに引き取られ、何不自由なく育ててもらいました。
しかし、両親と過ごしたわずかな時間、最後に感じた母のぬくもり、私のために必死に頑張っていた父の姿、あのときの父の表情。
それらを決して忘れることはありませんでした。
叔父さんは古書店を経営していて、その関係で私も本を読むことが多くなりました。
両親を失った心の隙間を埋めるように、私はひたすら読書に熱中していきました。
いくら本を読んでも、私の心の隙間は埋まることはありませんでしたが。
中学、高校と進学し、大学にも行かせてもらいましたが、友達も少なく、特に目的もなく、惰性で通っているようなものでした。
おそらく私の人生は、本に囲まれたこの世界で、このまま何事もなくひっそりと終わるのだろうな、と感じていました。
いつものように店番をしながら、本を読んでいたある日。
一人の男性が、店に入って本を物色し始めました。
ここのような古書店に来るお客さんというのはかなり物好きな方が多いですが、その男性も例に漏れずその通りでした。
数冊の本を手に取ってぱらぱらと見て、そのうち3冊を持ってカウンターに来たのですが、
そのあまりにもあんまりなラインナップに呆けている私と、目が合いました。
その男性は、私の顔を見るなり、びっくりしたような表情をしたような気がします。
どちらからともなく、いえ、確か私からだったと思うのですが、私はその男性と本について話し始めました。
今までクラスメイトの男子とすらプライベートな会話をしたことはほとんどなく、
私から話しかけたことに至っては記憶にないという体たらくだったはずなのですが、不思議なものです。
とにかく話していくうちに、その男性の読書の量に驚かされました。
私は私より本を読んでいる人を見たことがありませんでした。
叔父さんですら、他に仕事を持っているせいもあり読書量でいえば私の方が多い自信があります。
その男性は私と違い、ビジネス書や雑学のような本もかなり読んでいるようでしたが、
私が主に読んでいる国内・海外の小説ですら、私の読書量は遠く及びませんでした。
私がお薦めを紹介すると、その本に関する感想や考察がすぐに返ってきて、
私の好きな本の傾向から彼が薦めてくる本は、紹介を聞いているだけですぐに読みたくなるようなものばかり。
この本に囲まれた世界の中、対等以上に本について語り合える同志を初めて見つけた私は、彼と話し続けました。
なぜか安心する彼の話し方とも相まって、男性とまともに会話をしたことがないことなど忘れていました。
今思い返すと、普段の自分からは想像もつかない程饒舌だったと思います。
気が付くと、3時間以上経っていました。
その間ほかのお客さんは来なかったので、この店の経営が危ぶまれるところではあるのですが、そんなことより。
ふと時計を見た彼は「やっべえ!次の現場に遅れる!」と言って会計をしようとします。
楽しい時間が急に終わり、思わず呼び止めようとした私に向かって「また来ます。次は俺が休みの日に」と
名刺を渡してくれて、そのまま店を出ていってしまいました。
その日、終ぞ彼の口から「それは読んだことないなあ」という言葉は聞けませんでした。
彼が出て行ったあと、受け取った名刺を眺めます。
名前はPさん。346プロダクションという会社で、アイドルのプロデュースをしている方のようです。
「今度は、いつ会えるでしょうか・・・」
思わずそう口にしてしまうほど、今の数時間は私にとってとても楽しい時間でした。
それから10日が過ぎました。
あれ以降、彼は店に来てくれません。
アイドルのプロデューサーというのは、お休みがあまり取れない職業なのでしょうか?
それとも、彼は私に言ったことを忘れてしまっているのでしょうか?
もしかすると、あれはただの社交辞令だったのではないでしょうか?
彼からもらった名刺には、携帯電話の番号が書いてあります。
いっそ、こちらから電話をしてみるというのはどうでしょうか?
という考えを打ち消すように、ぶんぶんと頭を振ります。
ろくに男性とプライベートな会話をしたことがないというのに、こちらから電話をかけるなんて恥ずかしいですし、
それに、その、はしたない女だと思われないでしょうか?
結局、彼に電話はできず、彼に薦めてもらった本を読み、たまに名刺を見ながら溜息をつく毎日。
普段は店にある本を読んでいるだけなのに、彼が薦めてくれた本の中には新しくてまだこの店に在庫がないものもあり、
その本を買うためにわざわざ近くの新刊書店に行ったりもしました。
この10日間は、ずっとそのような感じでした。
おかしいです、これではまるで恋する乙女のようではないですか。
その翌日も、悶々としながら本を読み続けていました。
お昼ご飯を食べ終わった頃、チリンチリン、という店のドアについたベルの音に顔を上げると、そこには彼が立っていました。
「いやあ休みがなかなか取れなくて。遅くなってすいません」と言いながらカウンターに寄ってくる彼。
その時の私は彼曰く「感情が溢れて、すごくキラキラした美しい笑顔」だったとのことです。
後になってそれを聞いたときは恥ずかしさで死ぬかと思いました。
今日もまた楽しく本について語り合える、まずは前に薦めてもらった本の感想を、と考える私に対し、
「今日は、あなたをアイドルとしてスカウトしに来ました」
はい・・・?
どうやら彼は、ちょうど担当していたアイドルに一区切りがつき、次に誰をプロデュースしようか、というところで私を見つけたようです。
彼は、アイドル活動についていろいろと話してくれました。
一目見たときからスカウトしようと思ったこと。
スカウトしても担当は別の人になることもあるが、何としても自分が担当したいと思ったこと。
直前まで担当していたのが超有名アイドルで、そのこともあり引継ぎに時間がかかったこと。
アイドルの仕事とはどういうものであるかということ。
仮にアイドルになるなら、彼が私の専属プロデューサーとしてついてくれること。
私をどういう方向でプロデュースしようと思っているかということ。
必ず私をトップアイドルまで導いてみせるということ。
いろいろと聞きましたが、私が考えていたことはただ一つ。
一緒に仕事をするようになれば、もっと本について語り合う時間も増えるでしょうか・・・?
とはいえ私の中の理性的な部分が即答を阻み、とりあえずは少し考えさせてほしいということでその日の話は終わりました。
その後はまた本について語り合い、帰ってきた叔父さんに彼が自己紹介をし、彼に夕食をごちそうになり・・・と、
前回以上に本当に楽しい時間が過ぎていきました。
そして、叔父さんとも相談した結果、私はアイドルとして346プロダクションに所属することとなりました。
もちろん彼は担当プロデューサーとして私についてくれました。
アイドルとしての活動は大変ですが、それでもいざやってみると意外と楽しいもので、
さらには空き時間に読書をしたり、プロデューサーさんと本について語り合ったりと、非常に充実していました。
アイドルになってから2週間後。
プロデューサーさんはいつものように読書をしていたと思えば、急に慌てた様子で電話をかけ始めました。
どうしたのかと尋ねても、「全員集まってから話す」の一点張り。
集まって・・・?誰かをここに呼んだのでしょうか?
そしてしばらく後に集まったのは、芸能界に疎い私でも知っている、大人気アイドルの5人でした。
どうやら5人とも、プロデューサーさんが以前に担当していたアイドルのようです。
前に担当していたのが超有名アイドルというのは聞いていましたが、まさかここまでとは。
しかし、そのプロデューサーさんが今、私を担当しているということは、もしかすると私も・・・?
と少し浮かれていた私の心は、その後すぐに始まったプロデューサーさんの話によって打ち砕かれました。
プロデューサーさんの、特殊な眼の話。
荒唐無稽な話ではありましたが、他の5人は心当たりがあるらしく今の話を信じているようです。
いえ、それよりも途中で出てきた、幼少時のおもちゃ屋の前の話。
私が母を失った事故と、共通点が多すぎます。もしかすると出身が同じ・・・?
そういえば、プロデューサーさんの話し方にほんのわずかに地元の訛りがあるように感じます。
プロデューサーさんの話し方から感じた安心感もそれが原因・・・?
もし、プロデューサーさんの話が全て真実であるとするならば・・・
プロデューサーさんがいなければ、プロデューサーさんが何もしなければ、母は死ななかった・・・?
いえ、仮にプロデューサーさんが何もしなければ、事故に遭っていたのはプロデューサーさんとお母さんです。
それに、そもそも悪いのはわき見運転をしていた車の運転手です。
しかし・・・と考えているうちに、プロデューサーさんが自分の眼について明かした理由。
プロデューサーさんと私に、命の危険が迫っているということを語りました。
・・・もし、プロデューサーさんの言っていることが全て妄言であるならば。
私たちに命の危険はなく、母の事故にプロデューサーさんは関係していない。
そうであってほしいと願いました。
その後数日間、私は5人のトップアイドルの皆さんと行動を共にし、いろいろお話をさせていただきました。
彼女たちについて、いくつかわかったことがあります。
5人ともとても素敵で優しい方で、輝いていて、そして、プロデューサーさんのことが大好きだということ。
こんな方々が相手では、私などに勝ち目はないではないですか。
・・・勝ち目?私は一体何を言っているのでしょうか?
彼はただの、私の担当プロデューサーだというのに。
そして過去のことについて考えたり、トップアイドルの労働環境に参ったりする中、
プロデューサーさんが見た事件の当日、10月26日を迎えます。
打ち合わせが終わった後、私はプロデューサーさんに連れられて事務所を後にしました。
アイドルになってから、プロデューサーさんとたまに使っている喫茶店。
奥まった落ち着いた席で本を読みながら、問題の時刻を待ちます。
仮にここで何も起きなかったとしても、プロデューサーさんの眼の力で事件を回避した結果何も起こらなかったという可能性もあるため、
全てがプロデューサーさんの妄言だったとは言えないのですが、それでも何も起きてほしくないと願っていました。
そして問題の20時31分を迎え、そのわずか1分後。
プロデューサーさんの携帯電話が、鳴り響きます。
どうやら、刃物を持った人が事務所でプロデューサーさんを探して暴れたようです。
プロデューサーさんの話は、本当だった。
つまり母は、プロデューサーさんの行動の結果事故に巻き込まれた。
そういうことに、なってしまいました。
プロデューサーさんとともに事務所に戻ってきてからすぐ、プロデューサーさんは事情聴取のため連れていかれてしまいました。
プロデューサーさんは別れ際に「事務室で待っててくれないか」と言い残していきました。
言われた通り事務室に入ると、室内は暗く、誰もいないようです。
ちょうどよかった。一人で考える時間が欲しかったところです。
とりあえずソファに座って考えます。
まず、この6日間で明らかになったことも含め、まとめていきましょう。
1、「プロデューサーさんには特殊な眼の力がある」
2、「その眼を使った結果、プロデューサーさんとそのお母さんは助かり、私の母は死んだ」
3、「眼の力を使わなかった場合、プロデューサーさんとそのお母さんの2人は死んでいたかどうかはわからない」
4、「そもそもその事故で悪いのは運転手であり、プロデューサーさんに落ち度はない」
5、「アイドル活動は楽しい」
6、「プロデューサーさんに好意を寄せるトップアイドルが5人いる」
私は、プロデューサーさんのことが好きなのでしょうか?
試しに、プロデューサーさんから「杏と結婚を前提に付き合っている」と打ち明けられたときを想像してみましょうか。
ハッカがどうとか言い訳していましたが、杏さんの好きな飴も用意していたみたいですし、私目線では一番ありそうな・・・。
・・・・・・。
・・・いけません、想像しただけで頭がくらくらします。
一緒にいるときの楽しさと合わせて考えても、「私がプロデューサーさんを好き」だということに何ら矛盾はないように思います。
・・・7、「私は、プロデューサーさんのことが好き」
そして、8、「おそらく私とプロデューサーさんは結ばれない」
当たり前です。あれほど素敵な方々とプロデューサーさんを奪い合って私が勝てるはずがありません。
さて、これらをまとめて考えた結果、私がしたいことは?
結論、「何もしない」
仮にプロデューサーさんに復讐めいたことをしたところで、母も父も帰ってきません。
事故を起こした運転手も、法律に従い刑罰を受けていることですし、あの事故に関してはもう終わったことです。
アイドル活動も、プロデューサーさんと一緒にいられる時間が増えるという邪な理由で始めたものですが、
その目的は既に達成されていますし、それに今更アイドル活動をやめようとは思いません。
仮に私がトップアイドルになれたとして、その時プロデューサーさんは私の元から去って行ってしまうのかもしれませんが、
それはそれで仕方がありません。そもそも本だけの世界から連れ出してくれたプロデューサーさんには感謝もしているのです。
それでも行き所のないもやもやした感情が私の中で渦巻いていますが、どうしようもありません。
・・・よかった。私の感情は、決壊するぎりぎり、本当にあとわずかのところで持ちこたえてくれたようです。
私の中の後ろ暗い感情を、外に出してしまうということはおそらくないでしょう。
本当は誰かに全て打ち明けてしまいたいですが、その後のアイドル活動に支障をきたしそうですし・・・。
いえ、それでもあの5人の中の誰かなら・・・。
と、考えているうちにプロデューサーさんが戻ってきました。
どのような用件かと尋ねてみましたが、そんなに大した用事ではないと言いながら、思い出話を始めました。
ちらちらと時計を見ているようですが・・・ああなるほど、もう数分で私の20歳の誕生日になります。
何かサプライズでお祝いをしてもらえるのでしょうか、と少し期待をした私に、プロデューサーさんは相変わらず思い出話を続けています。
相槌を打ちながら聞いている私に、プロデューサーさんが一言、
「今の文香をご両親に見せられないのが残念だな、絶対びっくりすると思うぞ」
それを聞いた瞬間、目の前が真っ白になりました。
貴方が、私の両親を奪ったかもしれない貴方が、それを言うのですか―――
本当にぎりぎりで、何とか保っていた私の理性が、なんということはないプロデューサーさんの言葉で崩されていきました。
理論武装をして必死に抑え込んでいた感情があふれ出します。
理屈として、プロデューサーさんが悪いわけではないことはもちろんわかっています。
しかし私の感情が、心が叫ぶのです。
私の行き場を失った怒りは、どこへぶつければいいのか、
どうせ手に入らないなら、他の誰かのものになるくらいなら、この手で、
まだギリギリ19歳、少年法の適用範囲内、20歳との違いは実名報道の有無くらいでしたか、
アイドルとしての露出はまだ全くない、今なら叔父さんへの迷惑も少しは少なくなるでしょうか、
その後はどうせ私も後を追って、ならそのようなことも別に関係は、もし失敗したならその時は―――
気が付くと私は、事務所の台所から包丁を持ってきていました。
プロデューサーさんは事務机の上で何かを探しています。
極力、音をたてないようにプロデューサーさんに近づきます。
プロデューサーさんが、「おっ、あったあった」と言いながら何かの雑誌を手に取り、開いた瞬間、
プロデューサーさんの動きが止まりました。
きっとあの眼の力で、この状況への警告と脱出するための情報でも見ているのでしょう。
しかしもう関係ありません。私の体は感情に流されるまま突き進みます。
─――俺の頭に、一度にたくさんの情報が入ってくる。
危機に瀕して大量の情報を高速で処理していく。
しまった、しばらく本を読む暇がなかったから情報の把握が遅れた、
振り返らずにドアを開けて逃げる?誰から?この部屋には俺と文香しかいないのに?
文香の傍らに落ちた包丁、理由はわからないがおそらく文香が俺を刺してその後自ら命を絶とうとしている、
思い出した、そういえば喫茶店で見た文香の表情、「絶望」?それと何か関係が?
この時刻、ドアの外にはもう他のアイドルやプロデューサーがスタンバイしているはず、元警察官の片桐さんもいる、
外にさえ逃げればきっと俺は助かる、なぜ文香は助けられない?たぶん失敗した時点で自殺を図って、
ならすぐに振り返って刃物を取り上げて文香を助けないと、なぜ振り返ってはならない?
直感する、きっと今の文香は今まで見たどんなものよりも美しい顔をしている、俺の眼を捉えて離さない表情をしている、
きっとそれを見た瞬間、俺は見惚れて動けなくなる、ならどうする、どうせ助からない文香を見捨てて逃げる?
両親や友人、俺を慕ってくれる5人のアイドル、俺はまだここで死ぬわけには、
しかし俺が一目惚れした唯一のアイドル、鷺沢文香、彼女が死んでしまうならせめて、
ここまでをほんの一瞬で考え、そして俺は―――
以上で完結です。ここまで読んでくれた方ありがとうございました。
ふみふみ誕生日おめでとー!題材の関係で誕生日前日の26日に投下となりました。
SSのネタはたまに自分が見た夢から持ってきたりするのですが、泣きそうな顔をした文香に刺される夢を見たのでこうなりました。
実はちょこちょこ裏設定があったりしますが入れるスペースがなくて断念。
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