ことり「あの子のことが忘れられない」 (48)

ことり「いっけなーい! 遅刻遅刻~!」

ことり(私、南ことり! 夢だったファッションデザイナーの道を日々邁進中の社会人!)

ことり(昨日夜中までお仕事してたのがたたって、今日はついつい寝坊しちゃったの! ことり、うっかり~!)

ことり(やんやんっ遅れそうです! 急げ急げ~!)



梨子「はっ……はっ……これ間に合うかな……っ」スマホポチー

梨子(私の名前は桜内梨子、音ノ木坂中学校に通っている美術部の二年生、なんで今走っているかというと……)

梨子(昨日遅くまで絵を描いていたせいで、朝目覚ましで起きれなくて授業に遅刻しそうだから。時間ぎりぎりだけど、頑張らないとっ)

梨子「あそこの曲がり角を……」ヒュッ

ことり「えっ」

梨子「えっ?」








キキィィィィィィーー!!

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*     *     *



ことり「はあ……っ! はあ……っ!」

悲鳴のような甲高いブレーキ音が鳴ったかと思えば、その中にドンッと鈍い音が混じったのを、私の耳は聞き逃してくれなかった。

路上で不格好に停まった車の中一人、現実から目を背けるように私はハンドルに視線を集中させる。

なに? なにが起こったの?

目の前になにかが飛び出してきて、私が驚いて、その後──

理解できない。

いや、理解したくない。


ことり「うっ……」

意を決して、恐る恐る前方を一瞥すれば、そこに横たわるなにかが目に入った。

パニックを起こしているくせに、私の頭はその一瞬で「なにか」を否応なしに認識させる。

あれは



……たぶん、ひと。

動悸が激しくなっていく。

ハンドルを握る手が、肩と繋ぐ腕が、全身が、かたかたと震える。

どくん、という心音が耳にまで伝わってくる。

ことり「……やっば」

発した自分にすら微かにしか聴こえないような小さな声で、らしくない台詞が漏れ出た。

ことり「え、あ、ど、どうしよ……」

思考が色を失う。

どうしよう、どうしよう、どうしよう。

真っ白になった頭の中で、ただひたすらにその言葉がこだまする。

狼狽する私がハンドルを持つ手の位置を忙しなく変え、きょろきょろと辺りを見回す間に、空虚な時間が経過する。

一応、周囲に人が見当たらないことは確認できた。

元々この道は朝、人通りが少ないんだった。

つまり、あのひとを助けられるのは私だけ。

しかし、もう一度前方を確認し、ようやくドアに手を掛けた私は、それと同時に気づいてしまった。

ひとが、ピクリとも動かないことに。
-
立ち上がろうとするとか、地を這おうとするとか、そんな気配すら見せない。

乱暴に捨てられた人形のように、服や髪を乱して倒れたまま。

乱れた髪は、色も相まって頭から流れる血のようにも見えてしまった。

ことり「嘘……死ん……」

その瞬間、それまでの不安と動揺が恐怖に塗り替えられ、私の感情を支配した。

過ってしまった、口にしてしまった、受け入れがたい最悪の可能性。

ことり「嫌……」

そう呟きながら、ドアに掛けていた手をハンドルへ戻す。そして。

ことり「嫌あ……」





私は、アクセルを踏んだ。

*     *     *



無機質なエンジン音が車内に響く。

鼓動も動悸も体の震えも、未だ治まらない。

この時間帯に眺められるはずのない帰り道の景色だって頭に入ってこない。

私は不意に訪れた、望んでもいない非日常に独り身を置き、ただただ怯えていた。


あ、非日常はあの子もか。


ことり「……なんで……っ!」

轢いた。

ことり「なんで飛び出してきたの……っ!」

人を轢いた。

ことり「なんで動かなかったの……っ!」

轢いた、ひいた、轢イタ、轢いた轢いたひいたヒイタひイた轢いタヒいタヒイタヒイタヒイタヒイタヒイタヒイタヒイタヒイタ……。

しかも、私は逃げた。あの場でもっとも取ってはならない、間違いなく最低最悪の選択肢。

「あなたは最低です!」と、幼馴染にひっぱたかれる程度では到底済まない、犯した過ちの大きさを自覚するたび、恐怖ばかりが大きくなっていく。

頬を伝う涙は、本当は私が流していいものではないんだろうけど。



気がつけば自宅についていた。

未だに震えが治まらない体を、覚束無い足でなんとか部屋まで運び、着替えもせずベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。

職場には休むと連絡をいれた。とてもじゃないけどまともに仕事できそうもない。

ことり「ぅぁ……ぁ……」

顔を横に向けたまま、声とも呼べない声で呻く。

本当は叫びたかった。濁りきった感情を、すべて声にして吐き出したかった。

けれど、肥大化した感情の塊は体のどこかにつっかえてしまっていて、僅かに絞り出すのが精一杯で。

それでもぽつねんと過ごす時間に、私の思考は少しずつ色を取り戻していった。



取り戻したのは、恐怖に蝕まれたどす黒い色ではあったけど。

ことり「あの子、し……だ、大丈夫、だよね……?」



臙脂色の長い髪をしていた。

あんな姿でなかったら、きっととても綺麗な自慢の髪の毛なんだろうな。

そこから覗かせた肌は白く透き通っていた。

女の子なのは分かる、年齢は分からないけど。

ああ、そういえば確か音中の制服着てたな。

それなら中学生かな。

可愛らしい顔してたと思う、モテるだろうな。

男の子にはもちろん、もしかしたら女の子にも。

なんで私あの子のことこんなに覚えてるんだろう。

近くでまじまじと見たわけでもないのに。

むしろ見たのは一瞬に近いほどなのに。

なぜか、あの子の姿を鮮明に思い出せる。


……でも。

思い浮かぶあの子の姿はさっきのもの。

目に焼き付いて離れないのは、痛々しく道路に倒れたあの姿。

まるで生気が感じられなかった。

ことり「ひっ……」

事故時の光景と感情がフラッシュバックして、一人小さな悲鳴をあげる。

私があの時、一番恐怖を感じたことはなんだった?



『嘘……死ん……』



ことり「ぃや……っ!」

自らが零した台詞を思い出した瞬間、すぐにそれを振り払った。

だけど、考えてしまう。

もし、私の言葉が現実になってしまったなら、私は。


私は





ヒトゴロシ、だ。


ことり「私はこれから、どうなってしまうの……?」

*     *     *



私は昔から自分にあまり自信が持てなかったんだ。

頼れる二人の幼馴染に手を引かれるばかりで、自分で選んだ道なんてほとんどなくて。

それが悪いことだとは思わなかったけど、彼女たちの背中しか見てられないのはやっぱり寂しくて。

そんな私が、矜持を持って続けてきた数少ない特技が裁縫、特に衣装作りだったの。

高校一年生までは個人的な趣味の範疇に過ぎなくて、手作りの刺繍とか、マスコットなんかも作ったりした。

それが、二年生に上がって一変。

幼馴染の子が、えっと、穂乃果ちゃんって言うんだけど、アイドルをやろうって言い出して、ことりちゃんもやろうって誘ってくれて。

そして、衣装を作って欲しいと頼まれたの。

今まで頼ってばかりだった私が、頼られた。

宿題手伝ってとか、海未ちゃんの怒りを鎮めてほしいとかそういう頼られ方はあったけど。あ、海未ちゃんも幼馴染でね。

衣装作りを頼まれた時は、それら以上に「私が」必要とされた気がした。

海未ちゃんにもたくさん頼っていた。色んなことを相談した。

長い間抱いてた、私のとあるコンプレックスについて吹っ切れたのは、海未ちゃんのお陰なんだ。

そんな海未ちゃんは、一緒に始めたアイドルでは作詞係。

衣装係の私に意見を求めてくることも多かったし、作曲係の子が作った曲だけじゃなくて、私の作った衣装から詩が浮かんでくることもあったんだって。

その時やっと、隣に並べた気がしたの。

嬉しかった、私の手を引っ張ってくれてた人に必要とされて。

嬉しかった、背中しか見えなかった人の隣に並ぶことができて。

一緒にアイドルをやった子はほかにもいるんだ。

皆、私の作った衣装を褒めてくれた。

可愛いって、早く着てみたいって、次の衣装も楽しみって。


作ってくれて、ありがとうって。

皆の言葉ひとつひとつが、自信に繋がった。

卑下しがちな自分に、少しずつ打ち勝てるようになった。

自分で選んだ道に、一歩踏み出してみようという勇気が湧いた。

小さなころからの積み重ねと、大好きな仲間たちと過ごした日々のお陰で、私、南ことりという人物がここにあるの。



その私が、今は。



人を轢いた。そして逃げた。

ヒトゴロシになっているかもしれない。

実は目撃者がいて、通報されてたなら、警察に逮捕されてしまうの?

その後は? 裁判とかにかけられて、有罪になって、牢屋に入れられちゃうのかな。

陳腐なイメージしか沸いてこない。

でも、そんなことになったらまあ、仕事はクビになっちゃうよね。

小さなころからの夢も、積み重ねも、崩れ去っちゃうんだろうな。

友達は? いなくなっちゃうのかな。離れてほしくないよ。

でも、私は少なくとも犯罪者だし、どうだろうな。

ああ、もしかして

これから、私の周りのなにもかも、皆、全部



ことり「……無くなっちゃう、の?」



怖い。

嫌だ。

あの子の将来を奪いたくない。

私の宝物を失いたくない。

せめて誰かに相談できることだったなら、二人に泣きつけたのに。

轢き逃げしちゃった、どうしよう、だなんて話せるわけがない。

部屋がいつもより広く感じた。

というより、身勝手で浅ましい、あんまりにも不謹慎なことを願う自分が小さくなった気がした。

孤独感と焦燥感に駆られる。

朝にもかかわらず薄暗い部屋で、後悔と自責の念に苛まれ続ける。

そっか。

まだ、朝なんだ。

今日という日も、この気が狂いそうな胸の締め付けも、まだ始まったばかりなんだ。

閉めたカーテンの隙間から漏れた日差しが、私の闇を和らげることはなかった。

なんにも手につかないまま、人生でもっとも長い一日を過ごした。

*     *     *



『ドンッ!』

『嘘……大変!』

運転中、飛び出してきた少女に反応しきれず、ハネてしまった。

『ガチャ』

『タッタッタ……』

車を停めた私は、すぐさま車外に出て少女に駆け寄る。

『ねえ! あなた大丈夫!?』

『……』

私の呼びかけに反応する様子もなく、少女はだらりと道路に横たえたままだった。

『お願い! 返事をして!』

『……』

呼びかけに加え、少女の体をゆすると、ごろんと仰向けに体勢が変わった。

『ひっ……』

顔を露わにした少女と目が合う。

その目には、一切光が宿って──

ことり「嫌ああああああっ!」


ことり「は、あぁ……っ!」


ことり「ゆ……め……?」



目に入ってきたのは、いつもの朝の風景。

見渡しても白い壁に視線が止められる。

視線を落としても、花柄の掛け布団が見えるだけで、目の光を失った少女などどこにもいない。

今見たのはただの夢。

でも、自分の犯した罪を忘れるな、と突きつけられたようなリアルさを孕んでいた。

あの夢が、現実に起こった結果だと言うのなら、あの子は。


ことり「嫌……」


もう何度その台詞を吐いただろうか。

嫌だ嫌だと、駄々をこねる子供のよう。

すがるもののない小娘の脆さ、無力さたるや、未だすべては受け入れられないでいる。

ことり「ぃ……ゃ……ぁあっ」




ことり「あああああああああああああっ!!」

枕に顔を埋め、思いきり叫んだ。叫ぶことができた。

目覚めた際、無意識ながら叫んだのがきっかけだろうか。

とにかく、昨日はつっかえてしまっていた分まで、全力で吐き出した。

ことり「けほっ、けほっ……はっ……はあ……」

叫び続けた労力にそれほど見合わなかったものの、焦燥感は少しばかり和らいだ。

なんでもいい、今日はなにかやろう。

そうでもしないと、しばらくすればまたどす黒い塊に飲み込まれてしまいそうだった。

けれど、なにか、なにか。なにかって一体──


ジリリリリリリリッ!


ことり「うわあ!?」

突然鳴り響いたけたたましい音に、打って変わって素っ頓狂な声をあげた。

ことり「び、びっくりした……」

いつものように起床時刻を告げるアラーム、今日は私が先に起きていたけど。


……いつものように。

そう、いつも通りなんだ。

私が目を覚ましてから始まるのは、日常。

起きて、身支度整えて、職場に赴くのが、私のそれ。

ことり「仕事、か……」

不純で不謹慎な動機だった。

人と関わるのは怖い、でもこのまま一人で過ごしたって似たようなもの。

それならせめて、仕事に没頭できたならまだ。



私は「日常」を始めた。

ルーチンと化している朝の行動はこんな精神状態でもほとんど変わらない。

まあ、「いつも通り」を無理矢理に意識したところは多少あったけど。

ただ、玄関から出ようとした際に私は一つ躊躇した。

ことり「車は、やだな」

今の私にとって、愛車ももはや呪いの箱だった。

中に入ろうものなら、いや見るだけで嫌でもあの光景が脳裏に浮かび、精神が削られる。

私は、慣れない電車を利用することにした。

ドアに手を掛け、ほぼ一日ぶりの外出をする。

念のため、マスクを付けて。



……なんのためだろうね?

*     *     *



往来から駅、電車内に渡り、人という人をかき分けなんとか職場に到着した。

やっぱり人混みは苦手だ、底なし沼でもがいているような錯覚を覚える。

でも、今日特に神経を尖らせてしまったのは、人々の視線。


見られているような気がした。


誰かに、じゃない。


全員に。


もう皆知ってるの? 私のことを監視でもしてるの?

道中、常に至るところから突き刺さる視線に責め立てられ続けた。

あれは私の思い込みに過ぎなかったのか、それとも。

膨らみかけた嫌な予感は、目の前の仕事に集中することで強引に抑え込んだ。

そして迎えた昼。



「南さーん、そろそろお昼だけど」

ことり「へ? あ、はーい」

「今日集中力すごいね? どうかしたの?」

ことり「き、昨日休んじゃったんで取り返さないと」

「ふぅん、殊勝なことだけどほどほどにね、マスクまで付けてる病み上がりなんだし」

ことり「そ、そうします」

「そういえばさ、南さん」

ことり「はい?」

「昨日の事故のこと知ってる?」

ことり「事故……ふぇ!? あ、な、えっ」

「あそこの裏通りでさ。その、女子中学生が車にハネられた、らしくて、ね。しかも、轢き逃げ、みたいで」

ことり「っ!」

「知り合いの娘さん、なんだよね……梨子ちゃんっていう美術部の子なんだけど」

ことり「そうなん、ですか、梨子……」

「可哀想に、ね、梨子ちゃんあの事故で……」

ことり「あ、あのっ!!」

「わっ! な、なに?」

ことり「あ、いや、お、お昼、行ってきます」

「そ、そう……ゆ、ゆっくりね」



不自然さも厭わず、休憩室に逃げ込む。

食欲なんてまったくない。そもそも昼食を持ってきてすらないけど、あの場に居続けられるわけがなかった。

轢き逃げの話題以上に「あの事故で」の続きを聞くのが怖かった。

もしかしたら、この恐怖最大の原因だけでも払拭できたのかもしれない。

でも、最悪の事実が告げられた場合のことを考えると血の気が引いていく。

脳裏に過るのは、またあの光景。


ことり「ぅぷ……」


事切れたように道路に伏す少女の姿に、胃からモノが込み上げてきた。

梨子ちゃん、梨子ちゃん。

私が轢いたあの子の名前。美術部らしい。

彼女についての情報が増えると同時に、浮かんだ映像がよりはっきりと輪郭を帯びた気がした。

ダメだ、振り払えそうもない。嫌に明瞭に切り取られたあの瞬間は、目に、脳に、完全に焼き付いてしまっている。

仕事に没頭している時間に、精神的な安息を求めるしかない。

休憩室で私は、なにも食べずにぼーっと時が経つの待ち、その後仕事場に戻ろうとしたところで立ち止まる。


ことり「戻りたくないな……」

扉を眼前にして二の足を踏む。あの時の私は明らかに不審な退出の仕方だった。

休憩室から戻ってきた私を、皆はどんな目で見るだろうか。

事故の話題が上ったあの部屋で、私は居場所を作れるだろうか。

うじうじと立ち尽くしていると、私に向かって急に扉が開いた。

目の前から迫ってくる扉を避けられるわけもなく、額に激突する。

「南さーん……って、あっごめん!」

ことり「あ、いえ、私もぼーっとしてたんで……」

思っていた以上に時間は経過していたようで、心配した上司が様子を見に来た。

体調は大丈夫なの、と気遣ってくれたけど、今はその優しさが痛かった。

そしてその気遣いに問題ありませんと答えた以上、ここに留まっているわけにはいかない。

一心不乱に励めば、居場所がどうなんてまた気にならなくなるはず。

上司に連れられ、私は仕事場に戻った。



──そもそも轢き逃げ犯に居場所なんてあるわけがないことは、考えないことにした。


*     *     *



ことり「つっかれた……」

その日、私が帰途に就いたのはすっかり日も落ちた夜だった。

仕事に無我夢中で打ち込んだ時間は、精神的にはまだ疲弊を抑えることができたけど、使い果たすほどに体力を消耗させた。

正直、この生活を続けていけるとは思えない。

かといって意識をほかのことに分散されれば、すぐさまどす黒く濁った感情に飲み込まれる。

耐えるしかないんだ、どうせ。

ことり「ふあぁ……」

ヘトヘトに疲れた体に眠気が襲ってきた。

私は抵抗するでもなく、そのまま身を任せてすぐに意識を現から遠のけた。

その日見た夢は、また。

*     *     *



私は力なく倒れ込む少女の半身を腕で抱えた。

きっと、まだ間に合う、そう信じて少女に呼びかける。

梨子ちゃん、ねえ梨子ちゃんって。

直後、触れる髪に違和感を覚えた。

妙にヌルリと滑り出す、彼女の髪が触れていた部分に赤黒い色が残る。

気が付けば、髪の毛一本一本の線は境目を失っていて

溶けて、血となって、ビチャリビチャリと地面を赤く染めていた──

ことり「きゃああああああっ!」


ことり「はっ……な、」


ことり「に、今、の……」



あれから八日が経った。

その八日間で、私は心身ともに擦り切れきっていた。

鏡を見ても別人のようにやつれた顔しか映らない。

仕事にまともに打ち込めたのも結局数日だけ、体も精神も、限界を超えるのはあまりに早かった。

早退や欠勤を繰り返すようになった、今日は元々休日だけど。

毎日夢に見るあの光景は、日に日に酷さを増していった。

最初は倒れているだけだった梨子ちゃんが、今では血塗れの凄惨な姿になってしまっていた。

倒れているだけだったってなんだよ。

もうダメだ。今日一日さえ終えられる気がしない。

私がすでにたくさんのものを失っていることに、気付かないふりなんてできるわけなかった。



ピンポーン

ことり「へ、だ、誰……?」

予定にないインターホンが一人ぼっちの部屋に響く。

今日、仕事は休みだ。あの人だって休日に訪ねてくることはないだろう。

なにかを注文した記憶もない。そもそも職場以外でネットを開いていない。

嫌なニュースが目に入ってくるのが、怖かったし。

あと、ほかに考えられるとすれば


ことり「け、い……っ」

間を置いて再度鳴ったインターホンに思わず耳を塞ぐ。

呼吸と鼓動が早くなっていく。

ついにか、ついに、なんだ。

私という存在が、音を立てて崩れ去っていくような感覚を覚えた。

三回、四回と続けてインターホンが鳴る。段々と感覚を短くしていきながら。

早く出てこいと急かすように。

覚悟を決められず怯える私の耳にもう一つ、ポップな効果音が届く。

ピロン、と。聞き慣れた、どこか安堵感も覚えるような温かみがあった。

音の発生源は私の携帯。それを恐る恐る手に取って画面を見てみると。


高坂穂乃果:ことりちゃーん、今外出中?

園田海未:今穂乃果と一緒にことりの家に来ているのですが


二人の幼馴染から、メッセージが届いていた。



会いたい、今すぐにでも抱きしめてほしい。私の頭を、心を、いっぱい撫でてほしい。

会いたくない、今の私を見てほしくない。二人に轢き逃げ犯だなんて知られたくない。最愛の親友を失いたくない。

相反する想いが私の中でぶつかる。胸に灯った安心と、さっきまでの恐怖心とせめぎ合う。


考えた。あの日から、会う人誰もが私を責め立てているように感じた日常を思い返した。

俯いて、くすんだ金属で心を無理矢理コーティングして、なにもかもから目を背けようとした日々。

皆が離れて行ってしまうように感じた。でも、少し遠くに行ってしまっただけ、失うよりはマシだって、自分に言い聞かせた。

塞ぎ込んで、拒絶が癖になった私の心。

それを今、二人はいとも簡単に破ってきた。

人と関わって得られたものなんて不安と焦燥感ばかりだったのに。言葉も視線も、突き刺さることしかなかったのに。

今宿った安心は紛れもなく二人が与えてくれたもの。壁なんてないかのように私の心に入り込んできた。


……ううん、違う。

二人の前に壁なんて、なかったんだ。

ほかでもない私が、消し去ったんだ。

二人を、受け入れるために。

恐怖が占める体積が小さくなっていってるのが分かった。

私は、二人を、求めてるんだ。

気付けば私を呼ぶ音色が止んでいた。

二人との距離が離れていくのを感じる。


行っちゃう。


行かないで。


私を──


ことり「助けて……っ!」


*     *     *



穂乃果「お邪魔しまー……って、ことりちゃん!?」

海未「ど、どうしたんですかその顔は!」

ことり「色々あって、ね、あはは」

いつもと変わらない二人の調子が私の中に染み渡っていく。

まだ渇いているとこはあったけど、久しぶりに笑顔になれたな。

ただ、まだ二人に身を預けるには抵抗があった。


ことり「今日は、どうしたの? 急に」

穂乃果「昨日ことりちゃんの体調がよくないらしいって聞いてね」

訪ねてきた理由はお見舞いだったみたい。穂乃果ちゃんの妹から聞いたのかな、仕事の関係でも少し付き合いあるし。

にしてもすぐに来てくれるなんて、やっぱり二人とも優しいなあ。

海未「仕事も休みがちとの話でしたが……まさかこれほどとは」

ことり「あ、病気、とかじゃない、から、うん」

穂乃果「本当に? その、言っちゃうけど相当やつれた顔してるよ?」

私の返答に訝しげな表情をする二人、まあこんな顔してたら信じてもらえないか。

海未「病気ではないとすると、なにか悩みがあるんですね?」

ことり「あ、や、それ、は……」

穂乃果「私たちにも話せない悩み?」

私は口を噤んでしまった。二人とも、悩みがあることを確信しているかのような口振りをしてる。

内容はともかく、少なくとも存在することはもう隠しきれないな。

穂乃果「……そっか、でも、相談ならいつでも乗るからね?」

海未「力を貸して欲しい時は遠慮せず言ってくださいね。なんでも聞きますから」

ことり「ありが、と」

穂乃果「話せないのは仕方ないけどさ、ほら、せっかくだしなにか楽しいことしようよ!」

海未「お菓子など色々持ってきたんですよ、ほむまんもたくさん」

穂乃果「それは海未ちゃんが食べたいだけだよね」

海未「ち、違います! 私はことりを想って……!」

ことり「あはは、ありがとう」

思わず笑みが零れちゃった。さっきよりもずっと自然に。

暖かい空気と二人の優しさに、少しずつ心のメッキが剥がれていく。


その隙間から、感情が漏れ出していって。


穂乃果「ことり、ちゃん?」

ことり「ぅあ、れ? なんで……」

海未「泣いてるのですか?」

剥がれていくにつれて、その量も増えていく。

ことり「うぇ、あ……ほのかちゃん、うみ、ちゃん、わたし……」

穂乃果「……ことりちゃん、悩みがあるんでしょ?」

海未「私たちに話してくれませんか?」


溢れる涙も感情も、もう止めることが出来なかった。


ことり「あの゛ね、わたし、わたし──」





ことり「ひと、ひいぢゃったの……っ!」



穂乃果「へ、う、そ、ことり、ちゃんが?」

海未「ま、まさか、この前の轢き逃げの犯人って……っ!」

ことり「うん゛……わたし、なの゛……っ!」

その台詞の後にはなにも続けることができなかった。

泣いた、赤子のように泣き喚いた。

今まで抑え込んできたなにもかもを、すべてぶちまけた。


こんな醜い私を、二人は黙って抱きしめてくれた。

私が泣き止むまで、ずっと。



ことり「ぅ……えぐっ……ぐす」

穂乃果「……落ち着いた?」

ことり「うん……」

一頻り泣いた後顔をあげると、二人と目が合ったの。

さっきまでよりちょっとだけ厳しい目をしてた。でも、その奥に優しさがあるのが見えたよ。

ことり「……ねえ」

穂乃果「うん?」

海未「なんですか?」

ことり「私、どうすればいいのかな……」

ここに来て甘えちゃった。二人ならどう返してくるかなんて、分かってるのに。

穂乃果「ことりちゃんなら分かってるはずだよ」

うん。

海未「ええ、ことりなら、今よりずっと──」

うん、そうだよね。


分かってた。今よりもずっと、ずうっと前から。

逃げ続けただけ、失いたくない一心で。

おかしいよね、私にそんな資格なんてないのに。

八日かけてやっと、自分の過ちと正面から向き合うことができた。

そして出した答えを、私は二人に告げた。





ことり「──自首、します」


*     *     *



私は一人、交番に向かう。

罪とは向き合うことができたけど、一つだけ懸念が拭いきれていない。

あの子の、桜内梨子ちゃんの安否。



ことり『え、海未ちゃんその子のこと知って、るの?』

海未『ええ、音中の桜内梨子さんですよね? 美術のコンクールで賞を取った方という話もたまに生徒から聞きますよ。ほかにピアノも得意だとか』

穂乃果『海未ちゃんなんで音中で教えてないの?』

海未『新米が好きなところを選べたら苦労しません』

ことり『う、海未ちゃん!』

海未『はい?』

ことり『その、子、い……無事、なの?』

海未『事故に遭われたとは聞いてますが容態についてまでは……』

ことり『そっ……か』

海未『ただ、もし重傷、最悪亡くなられてたのならもっと大騒ぎになっていると思いますし、それが無いということは恐らくそこまで大怪我は負ってないかと』



幼馴染の言葉にある程度は納得し、不安も少し和らいだけど、どうしてもあの姿が浮かんでしまう。

せめてもう一度、一目でいいから会いたい。あの子の無事をこの目で確かめたい。

そして謝らなきゃ、ごめんなさいって。

でも、どうすれば会える?

中学校を訪ねるわけには行かないし、そもそも今日は休日だし。

少し俯いて、考えながら道を歩く。

「ふふっ、もうなに言って……」

ことり「っ……!?」


談笑する二人の少女とすれ違った。

その内の一人は一際私の目を惹いて、すぐに私は振り返る。



視線の先に見えた彼女は──



臙脂色の長い髪をしていた。

思わず触れたくなるような、美しいストレートヘア。私が同じものを持っていたらきっと、自慢の髪の毛になってると思う。

白く透き通った肌をしていた。メイクするのがもったいないくらいに。

年齢はいくつくらいだろうな、きっと中学生の女の子だとは思うんだけど。

可愛らしい顔してた。男の子にはもちろん、もしかしたら女の子にもモテるんじゃないかな。

笑ってた。控えめに、でも楽しそうに。


私はあの少女を知っている、覚えている。

脳裏に焼き付いていた姿とはまるで違うけど、あの子だと確信した。



ことり「待っ……て!」

私は走って追いかけて、少女の肩を掴む。

急に呼び止められた少女は驚いて、目を丸くしながらこちらを向いた。


「え? な、なんですか?」

ことり「はあ、はあ……桜内梨子ちゃん、ですか?」

「え、あ、はいそうですけど」

ことり「良かった……本当に」

梨子「あの、なにか……?」

ことり「ごめんなさいっ!」

梨子「へ、ええ!? な、なにが!?」

頭を下げてから気づく。しまった、いきなり過ぎた。

けれど段取りなんてまったく考えていない。

ことり「あ、や、い、色々と……」

梨子「は、はあ……す、すみませんそれじゃ」

梨子ちゃんは逃げるように、いや、あれは完全に逃げていた。

なんというか、ただの不審者になってしまった。

でも、そんなのどうでもよかった。


梨子ちゃんが、生きていたから。

枯れるほど泣いたはずなのに、また涙が零れてくる。

その涙を拭って、私は前を見据える。

最後のわだかまりも落とせた私は、一歩踏み出し、目的地に向かった。



自分の罪を、償うために。




その日、また夢を見た


いつも見てた夢とは違う風景で、鮮やかな青空の下


綺麗な髪の毛をなびかせて、梨子ちゃんが立っていた


控えめだけど眩しい、きらきらした笑顔を見せながら


きっと私はその笑顔を、一生、忘れないと思う



おしまい

逃げちゃダメだぞ。

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