渋谷凛「輝くということ」 (123)


■ 第一章 オリジン



目覚まし時計が私を起こす。

まだ半分眠っている頭で停止ボタンに手を伸ばし、二度寝するべく布団をかぶり直した。

その直後、下の階からはがらがらがらっとシャッターの上がる音が響いて、そこに追い討ちをかけるかのようにお腹の辺りにずしんと衝撃が走った。

あー、もう。

心の中でそう叫んで、布団から顔を出すとお腹の上では愛犬であるハナコが尻尾をぱたぱたとさせていた。

ハナコはミニチュアダックスとヨーキーのミックスで、いわゆる小型犬だからお腹に乗られてもたいして重くはない。

重くはないけれど目が覚めるには十分の衝撃だった。

そして、ハナコが私を起こす理由は朝ご飯と散歩の催促だ。

「はいはい、わかったよ」

くしゃくしゃっと頭を撫でてやると、尻尾のぱたぱたを一層早くして、ハナコはベッドからぴょんと飛び降りた。


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ハナコと一緒に自室を出て、一階に降りると母が洗い物をしていた。

「あら、早いのね。春休みもあと少しなんだからゆっくり寝てればいいのに」

「そうなんだけど、ゆっくり寝てられない理由があってさ」

「お店のシャッターで起こしちゃったかしら」

「んー、まぁそれもあるけど、一番は……ね?」

一心不乱にドッグフードをがつがつと食べているハナコを視線で示すと、母は「世界一優秀な目覚まし時計ね」と笑った。

「トースト、焼いといてあげるから着替えてらっしゃい」

「わかった」と軽く返事をして、自室へ戻り着替えを済ませて、再び一階へ。

着ていたパジャマを洗濯機へと放り込んで、ダイニングテーブルに着くころには母とハナコはもうどこかへ行ってしまっていた。

その代わりにテーブルの上には、ほかほかのトーストとスクランブルエッグが並んでいた。

母はきっと店の方へ父を手伝いに行ったのだろう。

そして、ハナコはそれについて行ったのだろう。

私の家は小さな花屋をやっている。

ハナコの名前もそこから来ていて、命名は父だ。

花屋の子だからハナコだなんて安直だなぁ、と子供ながらに思ったことを今でも覚えている。

そんないつかのことを思い出しながら朝ご飯を食べた。

両手を合わせて「ごちそうさまでした」をして、食べ終えた食器を洗う。

洗い終わったそれらを水切りラックへと並べた。

そうして、靴棚にかかっているハナコのリードを手に父と母が開店の準備をしているであろう店へと向かった。




開店まではまだ少し時間があるにも関わらず、店先には既にプランターたちが並んでいた。

「そんなに早く準備してどうするの」と呆れている母をよそに、父はせっせと店内の掃除をしている。

私が来たことに一番に気が付いたのはハナコだった。

ハナコは私が手に持っているリードを見て、千切れんばかりに尻尾を振って父の足元をぐるぐる回っている。

「おはよ。今日は少し早いね」

「ああ、おはよう。凛はこれから散歩?」

「うん。行ってくるね」

「行ってらっしゃい」

ハナコの首輪にリードをつけて、こんこんとスニーカーのつま先を鳴らす。

そこに母が、つつつと寄ってきて「明日から凛が高校生だから落ち着かないのよ」と耳打ちした。

なるほど。

「また何か凛にいらないことを言っただろ」

「さぁ、どうかしら。ふふふ」

そんな文字どおりの夫婦漫才を背中で聞きながら、ハナコの散歩へと踏み出した。




朝と夜。一日二回のハナコの散歩は私の役目で、日課で、趣味だった。

あっちの街路樹に行ったかと思えば今度はこっちの電柱へと匂いを嗅ぎ回り、右へ左へ大忙しのハナコと歩くいつもの散歩道。

風はまだ少し冷たいけれど、日差しは暖かで、春がそこまで来ていることを実感する。

明日から私も高校生ってことは明日からの散歩は制服になるのか、なんてまだ見ぬ新学期への思いを巡らせていると、気が付けば近所の公園に到着していた。

まだ少し朝早いこともあって、公園には人の姿はない。

ちょっとだけなら、とリードをハナコの首輪から外した。




公園中をハナコと駆け回ったせいで、背中にじんわりと汗が滲む。

ちょっと休憩、とベンチに腰かけるとハナコも私の横へぴょんと飛び乗った。

「ふふ、さすがにハナコも疲れたでしょ」

まるで人間みたいにベンチで休むハナコに声をかけた瞬間、ハナコは猛烈な勢いでベンチから飛び降り公園の出口に向かって走り出した。

「えっ、ちょっ……ハナコ待って!」

慌てて追いかけながら叫ぶも虚しく、私とハナコの距離はぐんぐん伸びていき、ずっと先の曲がり角へとハナコは姿を消した。

もし轢かれでもしたら……。

悪い予感ばかりがぐるぐると頭で回る。

必死の思いでハナコが消えて行った曲がり角へと駆けた。




曲がり角の先に、ハナコはいた。

通勤中と思しきスーツの男の人に撫でられて。

ハナコは私の気なんか知らないで気持ちよさそうにお腹を見せている。

無事でよかったという安堵と、まったくもう、という気持ちが入り交じって、頭の中がごちゃごちゃだ。

「……すみません!」

肩で息をしながら頭を下げると、男の人は私に気付き目線を上げた。

「ん。この子の飼い主さんですか?」

「はい。捕まえてくださって、本当にありがとうございます」

「いえいえ、捕まえるだとかそんなことは何も。偶然ここでばったりと……」

「でも、びっくり……しましたよね。すみません……ほら、ハナコもいつまでも寝転んでないで……」

首輪にリードをつけ、ぐいっと引っ張るとハナコは少し不満そうに立ち上がった。




もう一度男の人にお礼を言いその場を後にするべく、くるりと回れ右をしたとき、不意に声をかけられた。

声の主はもちろんさっきのスーツの男の人だ。

「あの、私こういう者なのですが……」

男は、いそいそと鞄の中身をひっくり返して名刺ケースを取り出し、その中の一枚を私に差し出した。

ハナコのリードを右手に持っているため、不作法であると知りつつも名刺を片手で受け取り、それに目を落とすと『シンデレラプロダクション』という文字が真っ先に飛び込んでくる。

男が芸能プロダクションの人間であることは理解した。

「その、私に何か……?」

「ごめんなさい。急に名刺だけ渡されても困りますよね」

言って、ひっくり返した鞄の中身を詰め直しながら男はぺこぺこしている。

そうして、ようやく身支度が整ったかと思えば、男はまるで一世一代のプロポーズでもするかのように声を張り上げてこう言った。

「アイドルに、なっていただけませんか」




突拍子もない申し出に面喰ってしまい、何も返せずただただ呆然としていた。

すると、男は「突然こんなことを言われても訳が分からないですよね。すみません。でも、少しだけでいいのでお話を聞いてもらえないでしょうか」などと言いながら、またしてもぺこぺこを始めた。

この手の輩は無視するのが一番だということは分かっていた。

分かっていたけれど、ハナコを助けてもらった手前そうもいかず、仕方がないので話を聞くことにした。

それに今日は予定も何もないし、聞くだけ聞いて帰ればいい。

そう思ったからだ。

私が「少しだけなら」と返すと、男は分かりやすく顔色を明るくして「ありがとうございます」と言った。




男の「立ち話も何ですから」という提案を受け、奇しくもさっきの公園のベンチへと戻ってきたことで思わず苦い笑みが込み上げる。

中学生として行く最後の散歩はなんだかおかしなことになっちゃったなぁ、なんて考えていると男が口を開いた。

「単刀直入に申しますと、一目惚れです」

「……はぁ。それで」

「先程お渡しした名刺のとおり、シンデレラプロダクションでプロデューサーをしておりまして……」

ポケットからもらった名刺を取り出し、もう一度確認する。

そこには男の言葉どおり所属の横に『プロデューサー』の文字があった。

よく見なかった私も私だけれど、てっきりスカウトマンか何かだと思っていた。

「ふーん。じゃあ、アンタが私のプロデューサーになるってわけ」

少し語気を強めるだけに留めるつもりが下手に出るべきじゃないという考えばかりが先行してしまって、つい強い口調になってしまった。

「え、ええ。是非プロデュースさせていただきたく……」

「……ってことはアンタが私を有名にしてくれるんだ」

「いえ、有名にするのではなく、なるんです」

「どういう……」

「我々プロデューサは楽曲、振付、衣装といった具合に、必要なものは揃えます。でも、できるのはそこまでなんです」

「……」

「その先を掴むのは貴方で、教えられるのは……輝くこと、とでも言いましょうか」

「輝くこと……。でも、それって賭けじゃ……」

「確かに、賭けであることは否定しません。ですが、それでも、貴方なら、そう思い声をかけました」

「その先、ってやつを掴める……ってこと?」

「はい。……急にこんなことを言われても訳が分からないとは思います」

「……うん。よくわからないです。……もう、いいですか?」

頃合いかな。

そう思って、会話を打ち切ろうとする。

しかし、男は「もう一つだけ」と言い、立ち上がろうとする私を制止した。

「未知の世界へ踏み出すのは怖い、ことです。だと思います。でも、踏み出した先でしか見えない景色もあるということを、知って欲しい。その景色を貴方に見せたい。見て欲しい」

「……さっき会ったばかりで、私の何が分かるって言うの」

「何も知りません。最初に申し上げたとおり一目惚れです。しかし、貴方ならきっと輝けます」

「……話は終わり?」

これ以上の問答は無用だと、さらに語気を強めてそう言った。

「ええ。契約の際に必要となるものや規約などの詳しいことはこちらの書類に」

男も、私の内心を察してか今度はあっさりと引き下がる。

「一応、受け取っときます」

「ありがとうございます。もし、アイドルに興味がありましたら……いえ興味がなくともご不明な点などありましたら、先ほどの名刺の電話番号にご連絡いただければと思います」

「…………それじゃあ、失礼します」

書類がたくさん入ったクリアファイルを男から受け取り、退屈そうに足元で座っているハナコに「行くよ」と声をかけてそのまま公園を後にした。

男は私たちが公園を出るその時まで、深々と頭を下げたままだった。




家に戻る頃には、既に店は開いていた。

カウンターでせっせとアレンジメントを作っている父に「ただいま」と声をかけ家の中へと入る。

玄関でハナコの足を拭いて、自室へ向かった。

散歩中に出会った例の男からもらったクリアファイルを勉強机の上に無造作に置き、ベッドに倒れ込む。

「はぁ」

自然とため息が漏れるほどに、疲れる散歩だった。

――教えられるのは……輝くこと。

男の言葉が頭の中で反響していた。

輝くと言われても、抽象的すぎてよくわからない。けれど、なぜだかその言葉だけ耳に焼き鏝みたいに残っていた。

天井をぼーっと見つめ、アイドルという世界に思いを巡らしてみる。

ふりふりした衣装を身に付けて、たくさんの人の前で歌って踊る。

そんな自分の姿を脳内で描いて「ないない」と頭を振った。




ごろんと寝返りを打って枕元の携帯電話へと手を伸ばし、電源を入れる。

ブラウザを立ち上げて、先程のスーツの男にもらった名刺に書かれていたプロダクションの名前を検索した。

出てきたホームページは意外にもしっかりとしており、どうやらマトモなプロダクションであるらしいことは分かった。

画面をスクロールしてお知らせの欄を覗くと、近々公募で新人アイドルのオーディションをやるらしいこと知った。

きっとあの男は、私をスカウトできた暁にはこの枠にねじ込む予定なのだろうか。

そうであったとしても、アイドルになる気なんて微塵もない私には関係ない。

関係ないはずなのに、応募する気もないはずなのに、募集要項のリンクをクリックした。

応募資格や条件、合格後のこと。

次々にページを送っていき、気が付けば夢中でホームページのあちこちを見て回っていた。

そんなとき、階下からの「凛ー!」と私を呼ぶ母の声によって我に返る。

「何してんだろ」

自嘲気味に呟いて、携帯電話をまた枕元に置き「はーい」と返事をして部屋を出た。




ダイニングテーブルには三人分のパスタと大皿に盛りつけられたサラダが並んでいた。

私と母が席に着いて、少しした後にお父さんが店の方からやってきた。

「おー、今日はパスタかー」

「ちゃんと内線の子機出してきた?」

「もちろん」

「じゃあ、食べよっか」

そんなやり取りを経て、三人揃って「いただきます」をした。

母と父の談笑を聞きながら、フォークでくるくるとパスタを巻いて、口に運ぶ。

うちの親は本当に仲がいいなぁ、なんて思いながら口と皿の間をフォークは何度も往復し、やがてお皿の上のパスタはなくなっていた。

両手を合わせて「ごちそうさまでした」と言って、食べ終えた食器をキッチンへと持っていこうと立ち上がる。

「そういえば今日の散歩は長かったな」

サラダをもぐもぐとしながら父がそう言った。

それに対して、私は「うん。ちょっとね」と返す。

母は「飲みこんでから喋りなさい」と父を注意した後で「何かあったの?」と私に尋ねた。

「んー……実はね」

下手に隠して心配させるよりはいいか、と今日の散歩中にあったことを一つずつ話し始める。

いつもの公園に行ったこと。

誰もいなかったからリードを外したこと。

ハナコが逃げて行ってしまったこと。

捕まえてくれた人がいたこと。

その人が芸能プロダクションのプロデューサーだったこと。

そして、アイドルにスカウトされたこと。

全部包み隠さず話すと、母は「もうハナコから目を離しちゃダメよ」とだけ言った。

父は何も言わなかった。

沈黙を破ったのは、来客を知らせる内線だった。

内線の呼び出しを聞くや否や、父はがたっと立ち上がって店の方へ小走りで向かって行った。

「洗い物、私がやるよ」

ダイニングテーブルに残された父の分の空っぽのお皿を下げて、キッチンへと持っていこうとしたところ母は首を振った。

「ちょっと座って?」

「いいけど……何?」

「アイドル、どうするつもり?」

「やるつもりは……今のところないかな。特に興味もないし」

「なぁんだ。娘がアイドルになるかと思ってちょっとわくわくしてたのに」

なんて冗談めかし、くすくす笑いながら母は席を立つ。

「悪いんだけど、洗い物頼んじゃってもいいかしら?」

「うん」

「よろしくね。お母さんは洗濯物やっちゃうわ」

「わかった」

「それとね、これは明日から高校生になる凛にお母さんからのアドバイス」

そう言って改めて私の方へと向き直り、母はにっこり笑う。

「たくさんのことに全力で挑戦してみなさい。お母さんは凛がどんな選択をしても応援するから」





次の日の朝、私は自然と目が覚めた。

寝転んだ姿勢のまま、壁にかかっている時計に目をやると時刻は午前六時を示していた。

自分じゃ気が付かないだけで案外、新学期を前にして緊張してるのかもしれない。

いや、それはないかな。

まだあまり実感がないのが正直なところだ。

……とりあえず、顔洗っちゃおう。

犬用のベッドで寝息を立てているハナコを起こさないように、そっと自室を出た。




下の階に降りると、父が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。

「あれ。早いね」

「うん。目が覚めちゃって」

「ははは、入学式だからか」

「そうかも」

「ま、頑張れよ。父さんは店番しないといけないから入学式は見に行けないけど」

「うん。……朝ご飯、作ろうか」

「いいよ。もう三十分もしたらお母さんも起きてくるだろうし」

「……気を紛らせたくてさ」

「じゃあお願いしよう」

「ふふっ、ありがと」

パジャマのままキッチンに立ち、手を洗う。

食パンを二枚オーブントースターに入れて、時間を設定。

それから冷蔵庫から卵とベーコンを取り出してフライパンに油を敷き、火にかけた。

フライパンにベーコンと卵を乗せると、じゅーっという音と匂いが鼻をくすぐって食欲をそそる。

程無くしてできあがったベーコンエッグをお皿へ移し、トースターからこんがりきつね色になったトーストを取り出す。

あつあつのトーストの上にベーコンエッグを乗せて、父の元へと持って行った。

「おおー、ありがとね」

「簡単なやつだけど……」

「すごいおいしいよ」

「ならいいんだけどさ……デザートにオレンジでも切る?」

「いや、これで十分。凛も食べたらせっかく早起きしたんだからハナコの散歩行って来たらいいよ」

「うん」

「リード、離しちゃダメだぞ」

「わかってる」




朝食を食べ終えて、部屋に戻って制服に着替える。

カッターシャツのボタンを留めて、慣れない手つきでネクタイを結ぶ。

そして、紺のブレザーに灰色のスカート。

学校指定の靴下。

一つ一つ確認して、鏡の前でくるりと回ってみる。

「これから三年間よろしく」

制服にこんなことを言うなんて自分で自分がおかしくて、笑えてくる。

ちょうどそんなときにハナコも目を覚ました。

ハナコは目を覚ますなりぴょんと飛び起きて、私の足元で跳ね回り朝ご飯を催促した。

「わかってる。じゃあ下、行こうか」




ハナコに朝ご飯をあげ、食べ終わるのを待っているとお母さんが起きてきた。

「あら、早いのね」

「ふふっ、お父さんと同じこと言ってるよ」

「朝ご飯、凛が作ってくれたの?」

「うん。お母さんの分もトースト焼けばすぐできるよ。でもベーコンエッグちょっと冷めちゃってるかも」

「自分でやるから大丈夫。ハナコの散歩、行ってらっしゃい」

「わかった」

「あ。それと、凛」

「何?」

「制服、似合ってるわよ」

「ありがと。行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい。もうリード離しちゃダメよ?」

またお父さんと同じこと言ってる。




お店のシャッターを少しだけ上げて、くぐるようにして外へ出る。

新品のローファーを鳴らして歩くいつもの散歩道。

なんだか少しだけ、心が弾む気がした。

軽快な足取りのままいつもの公園に入ると、ベンチには見覚えのある男が座っていた。

昨日、私をスカウトしたスーツの男だ。

気付かれる前に立ち去ろう、そう思ってくるりと方向転換して、来た道を戻った。




家へと帰り、登校までの時間をテレビを見ながら過ごす。

ニュース番組を眺めながら、どうして昨日の例の男が公園にいたのかを考えた。

一般的な会社員が出社するには、おそらくまだかなり時間があるはずだ。

となると、考えられるのは一つ。

私を待っていた……ということになる。

次に浮かぶのは何時から待っていたのか、という疑問だった。

果たして、そこまでしてスカウトする価値が私にあるのだろうか。




結局、考えはまとまらないまま登校時間を迎えた。

鞄から買ったばかりの定期券を取り出して、ぎゅっと握りしめる。

洗面所で化粧をしている母に「また後でね」と声をかけて家を出た。




電車が一駅、また一駅と学校に近付くにつれて、ちらほらと同じ制服の人を見かけるようになる。

ぴかぴかのローファーに、シワ一つないスカート。

きっちりと一番上まで留められたカッターシャツ。

きゅっと結ばれているネクタイ。

自分もそうだから、一目で同級生だとわかる。

この中の何人かは同じクラスになるのだろうか。

そんな感じで、たくさんのことを考えていたら、いつの間にか学校の最寄り駅に着いていた。




慌てて電車を降りて、改札を抜ける。

同じ制服を着た子たちが、ぞろぞろと学校の方へと流れていく。

携帯電話を意味なく鞄から取り出して、少し眺めて、またしまう。

その動作を二度ほど繰り返してから、意を決してその流れに乗った。




校門には、でかでかと『入学式』と書かれた大きな看板があって、新入生の方はこちら、父兄の方はこちらというふうに親切に案内が出ている。

案内に従い、順路を進むと下駄箱へと到着した。

事前に通知されたクラスと出席番号を元に、自分の下駄箱を探し出し、ローファーを入れて、代わりに鞄から学校指定の上履きを取り出し、履き替えた。

廊下を人の流れに沿って進む。

程無くして、自分の教室に辿り着く。

引き戸に手をかけ、中の様子を窺うように開けると、既に教室に来ていた数人のクラスメイトたちの視線が一斉に私を向く。

たくさんの視線に少したじろぎながら、真っ直ぐ自分の席へと向かった。




席に着いてからの時間は、ひどく長いように思えた。

実際には十数分であるはずの時の流れが一時間にも二時間にも思えた。

時折、誰かが咳き込んだり椅子を引いたりする音の他は何もない。

重苦しい空気が教室を支配していた。

その空気を破ったのは、すぱーんと開け放たれた引き戸の音だった。

開け放たれた教室前方の入り口から、一人の教師が入ってきて、教壇に登り、柔らかな笑みを浮かべて教室を見渡す。

「まだ緊張してるかな。そうでもないかな? どちらにせよ、まずは……入学おめでとう!」

そのあとで、教師はチョークを取り出して黒板に大きく自分の名前を書いて「よろしく!」と言った。

「じゃあ、式まで少し時間があるから。一言ずつ自己紹介でもしようか。簡単でいいから……番号順で!」

出席番号の若い順に自己紹介が始まった。

自己紹介とはいえ、まだそれほど踏み込んだことを話す子は少なく、名前のあとに一言添える程度だ。

淡々と自己紹介は進んでいき、私の番が来た。

「渋谷凛です。一年間、よろしくお願いします」

軽く頭を下げて、また席に座った。




クラス全員の自己紹介も一通り終わってしまい、教師が「まだ時間余ってるなぁ。うーん、困った」なんて言いながら手元の学級日誌をぱらぱらとしていたところ、新入生の入場を促す校内放送が流れた。

それを聞いて、教師は私たちを廊下に整列させて、その先頭に立つ。

「じゃあ、ついてきて」

教師の指示に従って、ぞろぞろと廊下を歩いていき、体育館に入場する。

ずらっと並べられたパイプ椅子に順番に座り、入学式の開始を待った。




入学式は別段取り立てて変わったこともなくごく一般的なもので、教室に戻ってからも、諸連絡が終わるとすぐに解散となった。

携帯電話を鞄から取り出して、電源を入れるとメールが来ていた。

母からだった。

校門付近で待っているらしい。

なんでも、記念に写真を撮りたいんだとか。

なら、早く向かってあげよう。

そう思って、鞄を肩にかけて席を立ったその時、教室の前方で談笑をしていた子たちがぱちんと手を叩いて「すみません! 日曜空いてる子ってどれくらいいますかー?」と言った。

「急だけど、ほら……親睦! 親睦を深めたいし、カラオケとか行きたいねー、って今話してて……」

「だから、行ける人! 手挙げて欲しい、です! あと、クラスのグループ作ったから、みんな連絡先交換しよ!」

特に予定はないし、これから一年この仲間と過ごすことになるのだから、異論はなかった。

だから、控えめに手を挙げた。

他のクラスメイトたちも同様に、一人二人と手を挙げていき、結果的にはどうしても参加できない子を除いて、ほぼ全員が参加することになった。

「じゃあ、そーいうことで! 詳しいコトはまたグループで連絡しまーす!」

そういうことらしい。




校門を出て、すぐのところにいた母の元へ駆け寄る。

「お疲れ様。新しいクラスには馴染めそう?」

「うん。楽しそうなクラスだよ」

「よかったじゃない。友達はできた?」

「んー。まだあんまり話せてない……けど、日曜にクラスのみんなでカラオケに行くことになったんだ」

「最近の子はすごいわね。打ち解けるスピードが」

「すごいのは言い出した子だよ。きっとああいう子がリーダーになるんだろうな、って見てて思うよ」

「ふふ。まぁ何にせよ、凛の新しいクラスが楽しそうならお母さんはそれでいいわ」

なんだか嬉しそうな母だった。





きたる日曜日。

ほぼ初対面の人たちと行く、カラオケ。

緊張してないと言えば嘘になる。

でも、少しわくわくもしていた。

支度を済ませて、ハナコに「行ってくるね」と声をかけて、自室を後にする。

二人揃って店にいた父と母に「友達作ってらっしゃい」だとか「凛なら大丈夫だぞ!」だとか、からかわれながら家を出た。

まったく、私を何歳だと思ってるんだか。




約束のカラオケ店に到着すると、既に何人か来ていて「こっちこっちー」と手招きされる。

「えーっと……」

「あ、渋谷。渋谷凛」

「そう! ごめんね、まだ全然覚えてなくて」

たははーと笑いながら手を合わせて謝られ、こちらこそまだ覚えてなくてごめん、と心の中で謝罪した。




少しして、参加予定の子は無事にみんな来たようで、カラオケ大会が始まった。

一クラスまるっと入っちゃうような大部屋だけど、どれだけ部屋が広かろうと歌うのは一人ずつだから、この人数では待ち時間もそれなりのものとなる。

だから、その待ち時間の間は近くの子と話すことができた。

出身中学の話に始まり、最寄りはどこかだとか、好きなものだとか、そんな感じでいろんなことを話しているうちに、自分の番がやってきた。

マイクを受け取って、軽く姿勢を正す。

すぅ、と息を吸って、歌い始めた。




最後のサビを歌い切って、マイクを降ろした。

机上に置かれたリモコンを操作して、後奏の途中で演奏中止を押す。

画面が暗くなって、点数が表示されると、なぜか拍手を浴びた。

「え、渋谷さんめっちゃ上手くない?」

「合唱部だったとか?」

「次、私とデュエットしよー」

こんな具合にあちこちから声をかけられ、たじたじだ。

たくさんの質問にひとつずつ対処して、頃合いを見て「ちょっと飲み物取ってくるね」と口実を作り、ルームを出た。




アイスコーヒーにフレッシュとシロップを入れて、くるくるとかき混ぜる。

少し口をつけて、壁に寄り掛かる。

「上手だね」と言われることはこれまでにも何度かあった。

でも、あれほど絶賛されたことなど、あれほど拍手を浴びたことなど初めてだったから、面喰ってしまった。

ノリの悪いやつだと思われたかな。

逃げるようにルームを出てしまったことを反省しながら、二口目を口に含んだ。

「やっほー。何飲んでるの?」

今日の会を主動してくれたグループの子の一人が、グラスに入った氷をからんころんと鳴らしながらドリンクバーコーナーにやって来た。




「……アイスコーヒー」と言って手に持ったグラスを目線の位置まで軽く上げた。

「なんか大人っぽいよね。渋谷さん身長高いし」

「そうかな」

「同い年に見えないもん」

「そんなことないと思うけどね」

「……あのさ」

「うん、何?」

「……なんかごめんね。めちゃくちゃ上手だったから思わず拍手しちゃって! そしたらみんなも拍手して、あんなことになっちゃって」

「ううん。私こそ、なんかノリ悪くて」

「でもでも、ほんとに上手だったよ? 渋谷さん、美人だしアイドルとかやればいいのに! なんて」

「ないない。笑顔を振りまくとか、キャラじゃないし」

そう言って頭をぶんぶん振りながら否定した。




ルームに戻ると、謎の歓待を受け、あれやこれやとうろ覚えのデュエット曲を何曲か歌わされた。

歌ってるうちに、楽しくなってきて、気が付けばノリノリで歌っている自分がいた。




「渋谷さんほんと歌上手いねー」

解放され、ソファにどっかりと座って一息をついて他の子の歌を聞いていたところ、ドリンクバーコーナーで話した子に声をかけられた。

「なんかクラスの親睦会なのに私ばっかり歌ってないかな。これ」

「あはは、まぁいいでしょ。みんな楽しそうだし!」

「ならいいんだけど……ふふっ」




その後も何度か歌わされ、終了間際までわいわいと騒いだのちに、会はお開きとなった。

楽しかったなぁ。

これからの高校生活も、あのクラスメイトたちとならいいものになりそうだ。

そんな充足感とちょっとの疲労感を胸に、電車に揺られ、家に帰った。





家に戻って、店番中の父とハナコに「ただいま」を言って、カウンターの椅子に座る。

私がとんとん、と膝を叩くとそこにハナコが飛び乗ってくる。

そのまま抱きしめて、くるくると椅子を回した。

「楽しかったみたいで何よりだよ」

まだ何も言ってないのに、父はそう言って笑う。

「見える?」

「そりゃあ、もう」

「そっか。そうかも。ふふっ」




ハナコと一緒に椅子に乗って、くるくる回りながら、少し考える。

楽しかった。その理由を。

なんでこんなに楽しかったんだろう、って。

歌は好きだった。

それは今日に始まったことじゃない。

じゃあ、なんでだろう。

「ねぇ、お父さん」

「ん?」

「私さ、なんで今日はあんなに楽しかったのか、よく分かんないんだよね」

「そういうの、理由とかあんまりないと思うけどな」

「……うーん」

「カラオケは何度も行ったことあるだろ?」

「うん」

「なら、いつもと違う何かがあったんじゃないか?」

「うーん……。歌、上手だね、って褒められた……くらい?」

「他に理由は思い付く?」

「特には……ないかな」

「なら、きっと、そういうことなんだと思うぞ」

……そういうこと。

つまり、私は、私の歌を聞いてもらって、褒めてもらって、拍手までもらっちゃって、それがこんなに嬉しかったってことなんだろうか。

膝の上のハナコは、「うーん」と唸っている私を不思議そうな目で見ていた。




ハナコを撫でながら、今日のカラオケの出来事を反芻していると、不意にドリンクバーコーナーでの会話がフラッシュバックする。

――渋谷さん、美人だしアイドルとかやればいいのに!

今度は、「ないない」と頭を振ることができなかった。




どうしても胸の中のもやもやが晴れない。

たまらず私は、店先のプランターをしまい込んでいる父に「あのさ」と声をかけた。

「ん。どうかした?」

「この前、アイドルにスカウトされた、って話。したよね」

「ああ、ハナコの散歩のときにって話か」

「そう。……そのとき、お父さんはどう思った?」

「凛。よく聞いて」

「え。うん。何?」

「お父さんには、もう答えは出てるように見える。だから、何も言わない。進むにしろ、そうでないにしろ、自分で選ぶといいよ」

「……うん。ありがとね」

「さて。やること、あるんだろう?」

「うん。ある」

ハナコを床に降ろして、立ち上がり、キッチンにいたお母さんに「ただいま」を言うのすら忘れて、自分の部屋へ向かった。




机の上のクリアファイルの中から、ポケットに入れたせいで少しくしゃっとなった名刺を取り出す。

書かれていた電話番号を、携帯電話に打ち込んで発信する。

数コールのうちに、電話は繋がった。

「……夜分遅くに失礼します。先日、うちの犬を助けていただいた者です」

私が名乗ると、男は「あー!」と大きな声をあげる。

どう言い出していいかわからなくて、無言になってしまう。

男は、私の言葉を待っているみたいだった。

思いっきり息を吸い込んで、吐いて、吸い込んで、吐いてを繰り返す。

何度目かのそれを経て、私はこう言った。







「アイドル、やらせてください」







■ 第二章 ブラックゴシックドレス


まっくろなドレスをもらった。

アイドルとなって初めての、私だけのもの。

あの日、プロデューサーに電話をして、アイドルという世界に踏み出してからは毎日毎日基本的なレッスンばかりで、なんだか部活みたいだなぁ、なんて考えながら日々を送っていた。

もちろん、レッスンには全力だったし、一秒でも早く歌もダンスも上手になりたかったから、手を抜いていたつもりはない。

でも、自分がアイドルであることを強く意識したのは、このまっくろなドレスをもらった瞬間が初めてだった。

ああ、私もアイドルなんだな、って。

実感がわいてきて、ごくりと唾を飲んだ。





ちょうど、二週間くらい前のこと。

プロデューサーから、メールが送られてきた。

内容は、「レッスン後に少し時間をとれますか?」というもので、詳細は何も知らされていなかった。

よくわからなかったけれど、「大丈夫です」と返信した。

プロデューサーは、いつもレッスンの終わり頃にスタジオにやってきて、私のレッスンを眺める。

やがて私のレッスンが終わると、スポーツドリンクをくれて「お疲れ様でした」だとか、「どんどんよくなってますよ!」だとか声をかけ一言二言話して帰っていってしまう。

スカウトされたときに私が、高圧的な態度を取ったから、萎縮してしまっているのかもしれない。

謝りたいと思ってはいるものの、言い出すきっかけを掴めなくて、ずるずると一月が経とうとしている。




その日も、レッスンの終わり頃にプロデューサーはやってきた。

トレーナーさんに軽く会釈して、隅の方でいつもどおり私のレッスンの様子を眺めていた。

目の前の大型鏡に映るプロデューサーの顔をちらりと見やると、心なしか嬉しそうにみえた。

しばらくして、レッスンは無事に終わって、トレーナーさんから総評と課題を告げられる。

それをノートにメモして、「ありがとうございました」と挨拶すると、トレーナーさんはレッスンスタジオを後にした。




トレーナーさんが帰ると、隅にいたプロデューサーがタオルとスポーツドリンクをくれた。

お礼を言ってそれらを受け取り、汗を拭ってドリンクに口をつけた。

プロデューサーは私の呼吸が整うのを待って、「今日の用件なんですけど」と言って、鞄からホチキス留めされた資料を二つ取り出す。

「まずはこっちを見てください」

手渡された資料をぱらぱらとめくる。

中身は衣装のデザイン案だった。

『ブラックゴシックドレス』

それがドレスの名前だった。

黒を基調とした綺麗なドレスで、フリルやリボンもたくさんついている。

豪華なブーツに、花の髪飾り。

花はリンドウ……かな?

名前のもじりなんだろうか。

まだ、ただのデザイン案なのににやにやしてしまう。

嬉しくて、何度もぱらぱらと資料をめくっていたら、突然プロデューサーが「ごめんなさい」と頭を下げた。




「新人アイドルの衣装にかける予算ではない、と事務所からお金がおりませんでした」

言って、プロデューサーはもう一度「ごめんなさい」と頭を下げた。

そして、二つ目の資料を私に手渡す。

資料の中身は同じくデザイン案で、これまた同じく黒を基調としたドレスだった。

けれど、さっきの資料のドレスをいくらかグレードダウンしたものに見えた。

装飾も、リボンも控えめで、あのドレスを見た後だと、どうしても見劣りしてしまう。

現実はこんなものだ、と突きつけられたようだった。




少し、考える。

どうして、プロデューサーは一つ目のデザイン案を私に見せたのか、ということを。

二つ目だけ見せれば、きっと私は納得していただろうし、素直に喜んでいたと思う。

にもかかわらず、プロデューサーは私にわざわざ見せた。

ということは。

ああ、そうか。

「諦めて、ないんですよね?」

私が問うと、プロデューサーは笑みを浮かべて「はい」と言った。




事務所の言い分が「新人にかける予算ではない」というものなら、この案を通せるくらいプロデューサーも私も力をつけてしまえばいい。

プロデューサーはそう言った。

簡単に言ってくれるなぁ、と思った。

だけど、わかりやすい目標はできた。

あのドレスを着る。

あのブーツを履く。





無事に衣装が届いたという連絡を受け、学校からそのまま事務所へと向かった。

事務所の一室をプロデューサーが取っておいてくれたみたいで、着くなり事務員の人にそこに通される。

遅れて、大きな紙袋を持ったプロデューサーがやってきた。

「それが、あの?」

「ええ。先日資料をお見せしたドレスです」

紙袋を机の上に乗せて、プロデューサーは「試着、してみませんか」と言う。

思わず「え、いいの?」と敬語を忘れて返事をしてしまった私を見て、プロデューサーは「いいですよ」と笑った。




「じゃあ、着替え終わったら声かけてください」

そう言って、プロデューサーは部屋を出ていった。

ちょっと失礼かな、と思ったけど、ドアに鍵をかける。

机の上に、でーんと佇む紙袋から、ドレス、手袋、チョーカー、とひとつひとつ並べた。

包装を破いてしまわないように、ゆっくりゆっくり取り出して、眺める。

手袋には、リンドウの花を模した飾りがついている。

制服を脱いで、おそるおそるドレスを着た。

ドレスなんて、普段着ることないから、なんだか落ち着かない。

……でも、せっかくだし。

チョーカーと手袋もつけて、鍵を開けた。

「着替え、できました」

私が部屋の中から外へ声を投げると、ドアノブが回る。

少し遠慮がちにプロデューサーが再び部屋へ入ってきた。




「どう、ですか……?」

ただ見せるだけでいいのに、変に緊張してしまって、気を付けの姿勢で私は固まってしまった。

「やっぱり、似合いますね。思ってたとおり、よく似合います」

プロデューサーはしきりにうん、うん、と頷いて、そのあとで「綺麗です」と言った。

「ちょっと、もう……ほんとにそういうのいいから……」

急に綺麗ですだなんて言われても、反応に困る。

「あ、そうそう。サイズの方は問題ありませんでしたか?」

「えっ、あっ、はい。大丈夫です」

一人で舞い上がって、あたふたしている私だった。

そんな私をよそに、プロデューサーは机の上に、せっせと資料を並べている。

「じゃあ、本題に入りましょうか」

とんとん、と机で資料を揃えて、私に椅子にかけるように促した。

あれ?

衣装の試着が本題じゃなかったのか。




「早速ですが、渋谷さんにはアイドルとして活動してもらいます」

「え、っと、つまり……」

「ええ。デビューの日が決定しました」

プロデューサーは、資料の中の一枚を私に見せる。

「小さなライブハウスですが、ここが渋谷さんと私の最初の一歩目です」

場所は小さなライブハウス。

日時は約一ヶ月後。

一時間半程度のミニライブ。

一月先の光景を思い描く。

熱いくらいのスポットライトを浴びて、この衣装を着て、歌って、踊る私を。

「……頑張ります」




「それと、今はうちの事務所で持ってる曲を練習してもらってますよね」

「はい」

「セットリストはそれらを使って組むことになるんですが……」

何かを言いかけて、プロデューサーは「セットリストはそれらを使って組むことになります」と言い直した。

「……何かあるなら、言って欲しいです」

あんな言い方をされては、気になって仕方がない。

「……無茶を言っても、いいですか」

真剣な顔つきで、プロデューサーは私に確認を取る。

それに私は無言で頷いた。

「渋谷さんの曲ができました」

ああ、そういうことか。

「ライブまでに仕上げられますか」

答えはもう決まっている。

「できます」

迷いはなかった。

立ち止まってなんか、いられない。





来る日も来る日もレッスン、レッスン、またレッスン。

入れられるだけレッスンを入れて、ルームに空きがあれば、閉館の時間まで自主的に練習を行った。

そうして、臨んだライブ当日。

お客さんは大入り、とまではいかないけれど、新人アイドルのデビューライブにしては上出来なくらいの集客だった。

きっと、プロデューサーがいろんな媒体を使って、出来る限りのことをしてくれたのだろう。

ここまでしてもらったんだから、期待には、応えないと。




舞台袖から客席を覗く。

お客さん達は、今か今かと開演の時を待っている。

汗ばむ手のひらを拭って深呼吸を繰り返す。

大丈夫。大丈夫。

心の中で何度も何度も唱えた。

「……渋谷さん。緊張してますか」

そんな私を見兼ねたのか、プロデューサーが声をかけてきた。

「緊張、してますよね」

「……はい」

「おまじない……ではありませんが、これを」

プロデューサーはそう言うと、私に何かを差し出した。

大きなリンドウの花がついた、髪飾りだった。

「これ、って……」

「ええ。初期デザイン案の中にあった髪飾りです」

「でも、予算が下りなかった、って……」

「そこはそれ、現時点ではただ一人の、貴方のファンからの贈り物と思ってもらえれば」

泣きそうになるのを堪えて、「ありがとう、ございます」とお礼を言った。

「つけてもらっても、いいですか」

「はい。……では、失礼します」

定刻を告げるブザーが会場に鳴り響く。

「行ってきます」

歌とダンスで、応えよう。

それが、今の私に、アイドル渋谷凛にできる、最大限の感謝の伝え方だと思うから。




マイクを持って、ステージへ私が姿を現すと、ざわついていた会場はしーんと静まり返る。

「初めまして。渋谷凛です」

大きく息を吸い込む。

「まずは、挨拶代わりに……聞いてください」

「Never say never」

短い前奏を経て、力強く歌い出す。

二か月の間磨いだ技術に、気持ちを込めて。

さっきまで、たった一人しかいなかったファンを、たくさんに、増やすつもりで。

さっきまで、たった一人しかいなかった、そのたった一人への感謝も込めて。




歌い終わると、私は拍手を浴びた。

いつかのカラオケで浴びた拍手の何倍もの人数のそれを受け止め、噛み締める。

鳴り止むのを待って、口を開く。

「今聞いてもらったのは、Never say neverって曲です。……どうでした?」

私の問いに、お客さんたちは、声やペンライトや指笛で答えてくれた。

「……ありがとう。実は、私の曲はまだこれだけしかなくて。次の曲は、お願いシンデレラ、っていうんだけど……知ってますか?」

会場の何人かが「知ってるー!」と声を上げてくれる。

プロデューサーから、話は聞いていた。

うちの事務所の子たちはみんな歌える曲だから、アイドル好きの人たちが盛り上げてくれる、って。

「じゃあ、続けて二曲目! お願いシンデレラ!」




そのまま、三曲目、四曲目と続き、MCを挟んで五曲目、六曲目と歌った。

アンコールでは、もう一度Never say neverを歌い、ライブは無事に終了した。

お客さんが帰って、静まり返るライブハウス。

そのステージの縁に腰掛ける。

少しして、関係者の人たちに挨拶を済ませたプロデューサーもやってきて、私の隣に腰掛けた。




「初ライブ、お疲れ様でした」

「うん」

「良いライブだったと思います」

「うん」

「じゃあ、帰りましょうか」

「……うん」




プロデューサーの運転する車に乗って、家の近くまで送ってもらった。

「ここでいいです。すぐ近くなので」

私がそう言うと、プロデューサーは車を停める。

「……何か、ありましたか」

「こんなこと言っていいのかわからないんですけど」

「はい」

「達成感みたいなそういう気持ちより、ここはああしておけばよかったとか、あそこはこうすればよかったとか、そういうのばっかり浮かんでくるんです」

「はい」

「……ライブは成功したはずなのに、どうしてか悔しいって気持ちの方が強くて」

「渋谷さん」

「……?」

「楽しかったですか?」

「うん。楽しかった、です」

「また、ライブしたいですか?」

「うん。したいです」

「じゃあ、きっと、それはそういう気持ちの表れなんだと思います」

言われて、気が付く。

ああ、そっか。

そっか。

私はアイドルに、夢中になってしまったんだ。

夢中にさせられてしまったんだ。





初ライブから時は流れて、私はまたレッスン漬けの日々を送っていた。

課されたレッスン以上に、自主的なものの方が多かった。

毎日毎日遅くまで汗を流して、くたくたになって帰ってくる私を、両親も最初のうちは心配して何かと言われたけど、今では半分あきらめているみたいだった。

朝と晩のハナコの散歩だって、欠かさなかったし、休日や暇な日には家の手伝いもしていた。

何かを蔑ろにしているわけでもないし、両親も強く言えないんだろう。




大きく変わったこともある。

中でも一番は、私の初めてのCDが出たことだ。

売り上げは、ぼちぼちといったところだったけれど、プロデューサーが言うには「初のシングルでこの数字なら好調ですよ」とのことだった。

そして、少しだけ、顔を知られるようになった。

ちょっとずつ、お仕事も取れるようになった。

まだ大きなお仕事はないし、オーディションでも落とされることの方が多いけれど、それでも、アイドルらしい活動が増えてきた。

そんな私を見て、プロデューサーは「出歩くときは変装しなきゃいけなくなる日も、近いかもですね」と笑う。

近いといいな、と思う。




いつもどおり、学校からそのままレッスンスタジオへと向かうと、その道中でプロデューサーとばったり鉢合わせた。

「あれ。渋谷さん、お疲れ様です。奇遇ですね」

「お疲れ様です。プロデューサーは、営業……とか?」

「ええ。そんなとこです。レッスンスタジオまで、乗ってきますか?」

「じゃあ……お願いします」

せっかくだし、遠慮しても仕方ないから、ありがたく乗せてもらうことにした。




レッスンスタジオの前で降ろしてもらい、プロデューサーの車に向かって軽く頭を下げると、助手席の窓が開いた。

「あ、そうそう。今日のレッスン終わり、ちょっと時間ありますか?」

「ありますけど……何か?」

「たまには、ご飯でもどうかな、と思いまして」

初めての申し出だった。

プロデューサーなりに、近付こうとしてくれているのかな。

今後も一緒にお仕事をするのだから、ここは行っておいた方がよさそうだ。

そう思って了承し、母に今日の夕食は食べてくるとメールを打った。




レッスンはつつがなく終了し、その場にどっと座り込む。

そこであることに気が付いた。

今日はプロデューサーが珍しく見に来なかった。

もちろん、毎日見に来てくれていたわけではないけれど、来られない日は連絡をくれていたから、ちょっとだけ心配してしまう。

何かあったのかな。

自分のタオルで汗を拭いながら、考えていると、勢いよく扉が開いた。

「遅れてごめんなさい!」

肩で息をしながらプロデューサーがやってきた。

遅れた理由を聞いてみたら、なんでもお仕事が立て込んでいたとか。

でも、食事に誘った手前、遅れるわけにもいかず全速力で片付けて来たらしい。

別に、怒ったりしないから、遅れるって連絡くれたらいいのに。

めちゃくちゃ必死なプロデューサーがなんだかおかしくて、吹き出してしまった。

「渋谷さん……?」

「ぷっ、ふふふふふ。ちょっと、ごめん。面白くって」




ひとしきり笑ったあとで、シャワーを浴びて、レッスン着から私服に着替え、プロデューサーの待つ、駐車場へ。

「お待たせしました」

助手席に乗り込んで、私がそう言うと、プロデューサーは「何か食べたいものありますか?」と問う。

うーん。

急に言われても、これといったものが出てこない。

だから、「お任せでもいいですか?」と言った。

「では……任されました」




連れて行かれたのは、ちょっとおしゃれなレストランだった。

雰囲気にあてられてしまって、正直何を食べたかあまり覚えていない。

でも、おいしかった……と思う。

「今日は、ありがとうございました」

車に乗り、シートベルトを締めて、今日のお礼を言った。

「いえいえ。おいしかったですか?」

「はい、すごく」

「それは、よかったです」

気まずい沈黙が訪れて、耐えきれなくなって私は「あの」と声をかけた。

「ずっと言えなかったことがあって」

「……? はい」

「その、最初にスカウトしてもらったとき、失礼な態度を取って、すみませんでした」

「ぷっ、あははははは。そんなことですか」

大笑いされた。

意を決して、あのときの非礼を詫びた私を待っていた仕打ちは、大笑いだった。




「確かに、怖い子だな、とは思いました」

笑いながらプロデューサーはそう言った。

「それは、その、すみません」

「ああ、ええっと、責める気はなくてですね!」

私がもう一度謝ると、プロデューサーは大慌てで否定する。

それを見て、今度は私が吹き出してしまって、二人して声を出して笑った。

「この際だから、もう一個、言ってもいいですか?」

「えっ、あ、はい。何なりと」

しゃきっと座り直してプロデューサーは気を付けの姿勢を取る。

この人、割とお茶目な人だなぁ。

もう何か月もの間、ほぼ毎日一緒にいたのに新しい発見ばかりだ。

「その敬語、やめて欲しい、です。あと、渋谷さんって呼ぶのもなんか、他人行儀みたいで嫌、です」

「じゃあ……凛さん?」

「さんもなくていいですよ」

「凛」

「そうです」

よくわからないやり取りだ。




「じゃあ、渋……凛も、もうちょっとフランクに私……俺のこと、呼んでくだ、欲しい」

「めちゃくちゃぎこちないね」

「そういう凛はめちゃくちゃ自然だな」

「あ、できてる!」

「できてた!」

「…………何これ」

「……何だろうね」

ついさっきまでは敬語でやり取りしていたはずだったのに、一気に打ち解けてしまったのが不思議で、それでいて嬉しかった。




私の家の近くまで来て、プロデューサーは車を停める。

「ここで、いいんだっけ」

「うん。ありがとう」

「じゃあ、また明日」

プロデューサーはそう言って、ドアのロックを解除してくれる。

シートベルトを外して、車を降りる前に、プロデューサーの方を向いて、姿勢を正す。

「あのさ、もう一個だけ、どうしても伝えたいことがあって」

「うん。どうぞ」

「……いつもありがとう。私、愛想ないから、あんまり伝わらないかもしれないけど……プロデューサーには感謝してるよ」

「それは、その。こちらこそ。凛が頑張ってるから、めちゃくちゃ頑張る凛がいるから、俺も負けないように頑張れてるよ」

「……それじゃあ」

「ああ、また明日」

車を降りて、手を振る。

プロデューサーの車が見えなくなり、私も家の方へと歩き出す。

ああ、もう一つ伝え忘れた。

まぁいっか。

これは明日言おう。



これからもよろしく、って。



■ 第三章 輝くということ


アイドルとなって、たくさんのことを経験した。

ひとつひとつと階段を駆けあがる感覚に病み付きになっていた。

そんなある日のこと。

いつもみたいに、何でもない話をするかのように、プロデューサーが近付いてきて、にっこり笑ってこう言った。

「てっぺん、取りに行くよ」




てっぺん、その言葉が意味することはすぐに理解した。

アイドル界でその年一番のお姫様を決める、最大のイベント、シンデレラガール総選挙。

勝ち抜くには、まずエントリーした全アイドルを対象にして、純粋な人気度の指標としてファンからの得票数を競う一次予選を突破する必要がある。

そして、そこから基準を満たしたアイドルたちが本選へと進む。

本選では、与えられた持ち時間を使ってのアピールを行い、審査を経て、シンデレラガールが決められる。

それに挑むということ。




昨年あたりから、インタビューやテレビ番組なんかでも、よく言われていたことではあった。

「総選挙には出ないのですか?」って。

私も出てみたいという気持ちはあったし、出れば良い結果を残せる自信はあった。

でも、出なかった。

理由は単純。

“良い結果”止まりでは、だめだから。

満足できないからだった。




「うん。わかった」

私もプロデューサーに倣って、なんでもないように返事をした。

「いつかした話、覚えてるかな。凛の初めてのライブのときに作った衣装の話」

「うん。覚えてる」

あのときの感動は、今も記憶に新しい。

初めてまっくろなドレスをもらって、袖を通した時のこと。

ライブの前で、緊張している私に、素敵な髪飾りをくれたこと。

忘れられない思い出だ。

「あれの初期デザイン案を、使おうと思う」

ああ、やっとか。

最初に出てきた感想はそれだった。

とっくの昔に、あの衣装案を通せるだけの実力は、私もプロデューサーもつけていたはずだった。

でも、今の今までその話が出ることはなかったから、てっきり忘れてしまったのかと思っていた。

「衣装は、それでいくとして……曲は?」

「Never say neverでいこうと思う」

「わかった」

異論はなかった。

あの曲と、あの衣装で、一番になろう。




「参加表明は、すぐにでもしようと思ってる」

「そうだね。早い方がいいよ」

「で、各媒体を使っての宣伝とファンの皆さんへの呼びかけに……」

「そういうのは、いつもどおり任せるよ。私はそれに応える。……でしょ?」

「ああ、そうだな。任せて」

「じゃあ、私は期待に添えるように、次の総選挙までにパフォーマンスを仕上げるよ」

私がそう言うと、プロデューサーは「信じてるよ」と笑った。





それから、総選挙への参加を表明して、雑誌やテレビ番組にラジオ、ほかにもたくさんの媒体で投票を呼びかけた。

『あの渋谷凛が遂に参戦』だなんて、話題にもなったっけ。

たくさんの人たちに後押しをしてもらって、お仕事と並行してレッスンを重ねた。

全ては、総選挙の本選で、私史上最高のパフォーマンスをするために。

次の総選挙しかない、そう思って、エントリーのその日まで、春も夏も秋も冬も、休むことなく駆け抜けた。

やれることはやった。

そう言える、自分が自分で誇らしかった。




総選挙へのエントリーが始まり、その投票期間中も、全力で選挙活動に努めた。

それが功を奏したのか、私は一次予選をトップで通過した。

ここまで来たら、名実共に、完膚なきまでの頂点を掴む。

私はそんな思いでいっぱいだった。

うん、私は。

プロデューサーは違った。

ラジオから流れる選挙の速報を聞いても、驚く素振りもなく「このあと、取材いっぱい入ってるから。よろしくな」と言った。

……ん?

取材……って、一次予選をトップで通過したことへの取材だよね。

……早くない?

ってことはプロデューサーは……知ってた?

「ねぇ、プロデューサー」

「んー?」

「一次、通過してたの知ってたでしょ」

「そりゃあ、事務所に連絡来るからなぁ」

「どうしてそれを私に言わなかったかを聞いてるんだってば」

なんでそんな大事なことを言わないの、とデスクでへらへら笑っているプロデューサーに詰め寄った。

私を見て、プロデューサーは「ヒント」と言って、モニターを指で示す。

何かの荷物の発送を通知する表示が出ていた。

「衣装。明日来るよ」

「……え」

「エントリーしたその日に、発注したんだ」

ああ、もう。

ほんとにこの人は。

もし予選に落ちていたら、衣装をどうするつもりだったんだろうか。

ううん、プロデューサーはきっと、もしもなんて考えてなかったんだろう。

誰よりも私を、私よりも私を信じてくれていたらしい。

思わず泣いてしまいそうになったけれど、ぐっと堪えて笑みを作って「ありがとう。私、本選も頑張るから」と言った。

そんな私を見て、プロデューサーは「むっとしたりにこにこしたり、凛は表情まで忙しそうだな」と笑いながら私を肘で小突く。

「もう!」と小突き返してやると、プロデューサーは「言ったでしょ? 信じてるって」ともう一度笑った。

プロデューサーは、私以上に、私の勝利を信じてた。

なら、私はそんなこの人を信じよう。

応えよう。




一次予選の通過から一か月後、ついに総選挙本選の日がやってきた。

目覚まし時計でセットした時間より、一時間早く目が覚めた。

それならそれでと朝食を摂って、支度をして、発声練習や柔軟などのアップを済ませる。

少しして、携帯にプロデューサーから着信が入った。

「もうすぐ着くよ」とのことだった。




荷物を提げて外へ出ると、家の前には既にプロデューサーの車が停まっていた。

「おはよ、体調は?」

「おはよう。もちろん、万全だよ」

挨拶を交わして、助手席に乗り込む。

窓を開けて、見送りに店先まで出てきてくれた両親に「行ってきます」と言った。

返ってきたのは弱々しい「行ってらっしゃい」だった。

「……プロデューサーさん、娘をよろしくお願いします」

深々と頭を下げる両親に、プロデューサーは「大丈夫です」と言う。

「帰ってくるときには、凛さんはシンデレラガールですから。私が保証します」

「そういう恥ずかしいこと、親の前で言わないでよ。もう」

ゆっくりと車は動き出して、両親との距離はどんどん離れていく。

次に二人に会うときは、シンデレラガールの私で、会いたい。




本選の会場に到着すると、控室に通された。

流石に、アイドル界全体を巻き込んだイベントだけあって、控室は過度なまでの充実っぷりと広さだった。

「メイクさんと衣装さん来るまでしばらくあるから、調整してていいよ」

「うん。そのつもり」

柔軟、ステップの再確認、発声練習。

最終調整に没頭した。

それが一通り済んだころ、こんこんこんと控室の扉が三度ノックされ、メイクさんと衣装さんがやってきた。




これでもかというくらい丁寧にメイクをしてもらったり、衣装のサイズが合っているかを何度も何度も確認されたりしたあと、やっとのことで私は解放された。

ドレスもブーツも、きちんと採寸を行ってのオーダーメイドだから、当たり前ではあるんだけど、すごく体に馴染む。

今、私は、夢にまで見た憧れのドレスを、ブーツを身に纏っている。

こつん、とブーツを鳴らして立ち上がり、プロデューサーの方を向く。

それから気を付けの姿勢を取って、いつかみたいに「どうかな?」と聞いた。

プロデューサーはしきりにうん、うん、と頷いて、そのあとで「綺麗だよ」と笑う。

負ける気がしなかった。




やがて、スタッフさんが本選が間もなく始まることを告げに来た。

「待っててよ。笑顔で帰ってくるからさ」

「ああ、待ってるよ」

「じゃあ、おまじない……かけてくれる?」

「もちろん」

プロデューサーは、私の髪を優しく撫でて、それからリンドウの髪飾りをつけてくれた。

「行っておいで」

「うん。行ってくる」




舞台袖で、出番を待つ。

本選の出演順は、一次予選の順位のとおり。

つまり、私はトリというわけだ。




しばらくして、私の出番が回ってきた。

司会者のアナウンスに従って、ステージへと進み出る。

歓声を一身に浴びて、中央に立った。

さぁ、届けよう。

「ついて来て」

全身全霊を。




曲が鳴り止んだ。

万雷の喝采が私を包む。

いつまでもいつまでも鳴り止まない喝采の中、頭を下げる。

「ありがとう」

それだけ言って、ステージを降りた。




出演者全員のアピールが終わって、審査へと入る。

結果が出るまでの間は、出演者たちのフリートークタイムとなった。

司会者が巧みに話題を振って、話を展開して場を繋ぐ。

しばらくして、審査結果が出揃った。




「栄えあるシンデレラガールは」

司会者のコールで、ドラムロールが流れて、スポットライトが私たちの上をふらふらと揺れる。

早く。

早く。

早く。

十数秒ほどのドラムロールがひどく長く感じられる。

心臓が早鐘を打つ。

「渋谷凛さんです!!」

スポットライトが私の上で停止した。

焦げそうなくらいに熱い光が私を照らす。

暖かな拍手に包まれながら、マイクを手渡された。

「今のお気持ちを、聞かせてください」

まとまらない思考を無理矢理まとめて、ぽつりぽつりと話し始める。

「私が今、ここに立てているのは、私一人の力ではなくて、衣装一つだって、私一人ではどうにもならないから、まずはここまで連れてきてくれたファンのみんな、私がここに立つために全力を尽くしてくれたたくさんの人に、お礼を言わせてください」

「……私を信じてくれて、ありがとうございました!」

「そして、もう一人。大事なことを教えてくれた人にも……ありがとう」

「私が、その人に教えてもらったのは、輝くこと」

「…………期待どおり、輝けてると、いいな、と思います」

「本当に、ありがとうございました!」




私があの人に教えてもらったのは、きっと、そういうこと。

直面している“今”に全力でぶつかること。

走り続けること。

それが、輝くということ。



■ 第四章 ピリオド


シンデレラガールとなってからの毎日は、それはもう多忙を極めた。

忙殺される、なんてよく言うけれど、あれは今みたいな状況を言うのだろう。

なんて、自分の状況を客観視している自分がおかしかった。




扱いも大きく変わった。

アイドル渋谷凛、というよりはシンデレラガール渋谷凛として扱われることが多くなった。

たくさんのお仕事が舞い込んできても、私の体は一つしかないから、取捨選択しなければならない。

いつだったか、同じ日に何件ものオファーが来たときは、プロデューサーと「どれがいいかな」なんて話し合ったこともある。

けれど、頂点に立った今も変わらないこともあった。

プロデューサーは私の何十倍も忙しいくせに、相変わらずレッスン終わりに、ひょこっと現れて、何かと私にちょっかいをかけにくる。

まぁ、お互い忙しいし、流石に高校生の頃みたいに毎日来てくれるわけじゃないけど、それでも私とあの人の関係は相変わらずだった。

一言で言い表すなら、そうだなぁ。

戦友。

これが一番近いんじゃないかと思う。

あの人の選択なら、安心して任せられるし、あの人に任せられたことならば、何が何でも達成してやる、って気になるんだよね。

それと、もう一つ、変わらないこと。

私の性格。

どうにも負けず嫌いは直せないらしくて、どれだけ忙しかろうとレッスンを減らすことができなかった。

私より上は存在しない。

頭じゃ分かっていても、立ち止まることができなかった。

理由は、きっと、プロデューサーがいたから。

一番近くに、一番頑張っている人間がいたら、負けられない。




そうやって、今まで走り続けてきた。

立ち塞がる壁は全て越えてきた。

掴めるものは、全て掴んできた。

やり切った、満足だ。

そう思えるところまで私は来た。

達成感を胸に、私はある決意をした。

頂点の座を降りる決意を。




決意をしてからの行動は早く、その日の内に引退を考えている、という旨をプロデューサーに告げた。

プロデューサーは「凛の決めたことなら」と言って、「寂しくなるなぁ」と一瞬だけ悲しそうな顔をして、笑う。

正直少しは引き止めて欲しかったけれど、プロデューサーならそう言うだろうなと思っていたし、分かっていたからこそ、その日の内に言うことができた。

私はずるい。




それから、あれよあれよと細かな手続きなどが進んでいって、事務所側との話もプロデューサーが取り合ってくれて、瞬く間に正式に引退が決定した。

こんなときだって、プロデューサーは私のために全力なのか。

もう少し、自分の気持ちを優先してよ。

ちょっとでも、私のプロデューサーでいる時間を引き延ばしたって、これまで貴方が私にしてくれたことに比べたらなんてことないんだから。

そう言ってあげたかった。




私がアイドルを引退するその日の夜に私とプロデューサーは、いつだったか一緒に行ったちょっとおしゃれなレストランで食事をした。

帰り道は少しだけ遠回りをして、いつもみたいに、なんでもないことを話した。

およそアイドルとは呼べないような、ぐしゃぐしゃの顔と鼻声で。




「君の隣に立てたこと、アイドル渋谷凛のプロデューサーとして在れたこと、その日々の全てを誇りに思う」

私の家の前に着いたとき、プロデューサーがそんなことを言った。

「……うん」

掠れた声で返す。

「一緒に過ごしたこの何年かは、人生で一番ってくらい楽しかったよ」

「うん」

「今までありがとう」

数秒の抱擁。

涙でスーツをぐしゃぐしゃにしてしまったのに、プロデューサーは何にも言わないで、私の頭を撫でてくれた。

「私こそ、ありがとう。……またね」

もう一度、ぼろぼろと涙をこぼしながら頭を下げて、車を降りた。




さよなら。プロデューサー。




■ 第五章 未来への足どり


アイドルを引退してから、季節が一回りした。

私は両親と一緒に花屋として働いていた。

ゆくゆくは自分の店を。

そう思って、花の競りに連れていってもらったり、アレンジメントの技術を学んだりして毎日を過ごしていた。

初めはアイドルの頃との生活のギャップで、慣れなかったけれど、自分の時間が多い生活というのも悪くない。

それに、ハナコとずっと一緒にいられるし。




とある週末、アイドル時代の友人からの着信が入った。

「近くに来てるんだけど、久々にお茶でもしねーか?」

突然だったし、店番中だったけど、両親にそのことを伝えたら「行って来たら?」と半ば追い出される形で家を出た。




指定された喫茶店に着くと、「こっちこっち!」と手招きされる。

「久しぶりだね。でも、あんまり変わらないね」

「いやいや、凛も全然変わんねーって」

「そうかな。まぁ、まだ一年前までアイドルだったからね」

「じゃあ、やっぱりアイドルの頃の癖とか抜けないんじゃないか?」

「あー、うん。そうだね。喉に気を遣ったり、メイクさんなんているはずないのにドレッサーの前でぼーっとしちゃったりしてさ、おかしいよね」

「あはは、職業病だな。それはもう」

「ね。……そっちは今、ダンスの先生やってるんだっけ?」

「先生ってほど、立派なもんでもねーけどなー。でも、今の生徒めちゃくちゃ凛に似ててさ」

「似てる? 私に?」

「うん。すっげー負けず嫌い」

「じゃあ先生は大変だ」

「ほんとになー。っていうか、凛は他のアイドル時代のやつらとは会ったりするのか?」

「んーん。みんな何かと忙しそうだし」

「また集まりたいよなー」

「そうだね」




小さなタルトケーキと二つのコーヒーを挟んで、思い出話を繰り広げる。

ちょっと会わなかっただけなのに、話題は尽きなくて、延々と喋ってしまう。

「そういえばさ、元担当のプロデューサーと会ったりするの?」

「いやー、引退してからは一度もねーなぁ。連絡は取ってるけど」

「えっ、あんなに仲良かったのに」

「これには深いわけがあってさ、アタシがダンスの先生として大成したら会おうぜ! って約束してて」

「何それ、回りくどいなぁ」

「いいだろ! 別に! そういう凛こそ、どうなんだよ!」

「さぁ? あの人は仕事が恋人だろうし」

「その様子だと、連絡取ってねーな?」

「当たり。でも、こんなものじゃないかな。お仕事の関係ってさ」

「成長しないな! 凛は! いつまで女子高生みたいなこと言ってんだよ、もう」

「それ、そのままお返しするよ?」

「アタシはいーんだよ! アタシは!」

「何それ、ふふっ」

「まぁ、いいや。アタシに任せろ。待ってろ!」

「よく分からないし、何を任せるって言うの」

「いーから、いーから。それじゃあ、今日は久々に会えて楽しかったよ。またな!」

「あ、ちょっと。っていうか伝票! 私も払うから!」

「アタシは無職に払ってもらうほど、落ちぶれてねぇ!」

「元トップアイドルだし」

私の反論に「はいはい」と返して、手をひらひら振って行ってしまった。

勝手だなぁ。




喫茶店での久々の再会から一週間後、またしても携帯電話に着信が入った。

「明日、空いてる?」

「え、なんで?」

「いーから! 空いてるかどうか!」

「空いてるけど」

「じゃあ、十八時くらいに迎えに行くから! おしゃれしとけよ!」

「おしゃれって、大げさだなぁ」

「元トップアイドルだから楽勝だろ?」

「まぁ、いいよ。おしゃれしとく」

「よし。じゃあな!」

そう言って、電話を切られてしまった。

よくわからないけど、どこかへ行くのだろう。

おしゃれ、ということは、それなりのレストランでの食事か何かだろうか。

まぁ、考えても仕方ないか。




翌日、十八時。

言われたとおり、それなりにおしゃれをして、家の前で迎えが来るのを待つ。

少しして、見覚えのある車が目の前に停まった。

「え」

びっくりして、思わず声が出てしまった。

その車が、プロデューサー……私の元担当プロデューサーの車だったから。

「久しぶり」

「え、え、なんで?」

「あれ? 凛が誘ってくれたんじゃないの?」

「え、どういうこと?」

「あー……そういうことか。いや、なんでもないよ。久しぶりに一緒にご飯、行こうよ」

何が何だかよく分からない、と私が困惑していると、彼が私に事の経緯を説明してくれた。

どうやら、私たちは余計な気を回されたらしい。

断る理由はなかったし、「じゃあ、ご飯行こっか」と助手席に乗り込む。

彼が「何か食べたいものある?」と聞くから、「いつものとこ」と返した。




数え切れないくらい乗った助手席に、数え切れないくらい二人で来たレストラン。

ほとんど毎日眺めていた横顔も、こうして料理を挟んで向かい合うのも、ついこの前まで、ぜんぶぜんぶ日常だったはずなのに、たった一年の空白で、こんなにも懐かしく思うなんて。

不思議だなぁ。

突如去来した言いようのない気持ちを胸に、料理を口に運ぶ。

彼の目には、かつての担当アイドルは、今の私は、どう映っているのだろうか。

ふと、そんな疑問が浮かんできた。

それをそのまま、彼にぶつけてみる。

すると、彼は「相変わらず、綺麗だよ。凛じゃなければスカウトしてるくらい」と言った。

男の人としての感想より先に、芸能事務所の人間としての感想が出てくるあたり、この人は変わらない。

やっぱり天職なんだろう。

「そう言う凛こそ、どうなの。俺は変わった?」

「ううん。変わらない」

「まぁ、久しぶりに会うとはいえ、まだ一年だもんな」

“もう”一年だよ。そう言いたいのを抑えて「うん」と返した。




彼がどう思っていたかは知らないけれど、私も彼も「そろそろ帰ろうか」が言えなくて、既に空っぽになったお皿を前にして、うじうじと取り留めのない話を繰り返す。

その中で、私は彼に子供の頃に抱いていた、将来の夢みたいなものを語った。

本当に子どもの頃の夢だから、漠然としていて、なんていうか幼稚なんだけれど、それでもずっと忘れられなかった夢。

お花屋さんとお嫁さん。

なんだか照れ臭くなって「……笑っていいよ」と、はにかむ。

彼は真面目な顔で「笑わないよ」と言った。




「お花屋さんは、いつからやるの?」

まだ何にも言ってないのに、彼が当たり前のように聞いてくる。

「できるだけ、早く。でも、今はお父さんとお母さんのとこで修行中」

「そっか、そっか。……お店、出すときは連絡してよ。一番に買いに行くから」

「……うん。絶対連絡するよ」

「言いにくかったら、いいんだけど……もう一つの夢は?」

「それは今のところ、予定も相手も、いないかな」

べぇ、と舌を出して自嘲気味に笑うと、なぜか彼は少し安堵の表情を浮かべた。

そんな彼を、からかうつもりで「なんか嬉しそうだね?」と言った。

「……うん。ちょっとね」

まさかの返答だった。




「それって……そういう?」

「ああ、うん。たぶん想像のとおりだと思う」

「いつから?」

「スカウトした時。……言わなかったっけ」

何か言われたっけ、と記憶を掘り返す。

あ。

――単刀直入に申しますと、一目惚れです。

「……そっか。言われてみれば」

「…………なんか、ごめんな。いや、そんなこと言われても、って感じだよな」

彼は申し訳なさそうにあははと笑って、再び「ごめん」と繰り返した。




何でこの人は、こんなに自分に自信がないかなぁ。

最初に出てきた感想はそれだった。

もう少しだけ、申し訳なさそうにしてるのを見ておいてやりたい気持ちもあったけれど、もうだめだ。

笑いを堪えきれない。

たまらず吹き出してしまった私を見て、彼はきょとんとしていた。

「一回しか言わないから、よく聞いて」

お構いなしで、言葉を続ける。

「……私も好きだよ」




レストランを出て、駐車場までを並んで歩く。

「手でも繋ぐ?」

「繋ぐ」

なんていう、よくわからないやり取りもあった。




車に乗り込んですぐ、彼は私の方を向いて、襟を正す。

何度か深呼吸のあと意を決したようで、口を開いた。

「……凛の夢、俺に叶えさせて欲しい」

「どっちを?」

「どっちも」

時が止まった気がした。

本当にそれでいいのだろうか。

彼から、プロデューサーという仕事を、これ以上ないくらいの天職を、奪ってしまっていいのだろうか。

「……気持ちは嬉しい。でも、片方だけでいいよ」

「一緒に花屋をやるのは嫌?」

「嫌じゃない。嬉しいよ。けどさ、今の仕事、好きでしょ?」

「ああ、うん。それは……そうだね」

「ほら。だからさ、そういう無理はしなくていいよ」

「無理じゃないよ。確かに今の仕事は好きだけど、それ以上に、凛の隣にいたい……なんてちょっとクサいかな」

あー、もう。

ほんとに、ばかみたい。

「……じゃあ、よろしくお願いします」

絞り出した返事は情けないものだった。

「ちゃんと筋は通さなきゃいけないから、すぐに辞めるってわけにはいかないけどさ」

「大丈夫。待ってるよ」




彼は、にっと笑って「もう一回言うね」と前置きして、「凛の夢、叶えさせて」と言った。

「うん、いいよ。任せた」

心の底から、そう思えた。

「大好きだよ」

「知ってるってば」

言って、目を閉じる。

少しごつごつとした彼の手が私の頬を撫でる。

柔らかな感触が唇に触れる。

今、この瞬間、確かに私は世界で一番幸せだった。

終わりです。
ありがとうございました。

凛、誕生日おめでとう!

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