死んだはずの妻と出会った話 (85)

僕の妻は、2年前の春、死んだはずでした

突然のことでした


会社で勤務中だった僕に、上司が突然言ったのです


「お前宛に、警察からだ」


僕は、極めて平凡な人生を送ってきました


幼い頃から学習塾に通わされ

普通の高校へ進学し

平凡な大学に合格し

名も知られていないような、普通の企業に就職しました


そんな平凡な人生を送ってきた僕は、警察のお世話になるような事は、何一つとして記憶にありません


僕は昔から臆病者でしたから、警察、というワードだけで、情けないことに、心底震え上がりました


上司から乱暴に手渡された受話器を受け取り、恐る恐る耳に当てました


「もしもし?」

「フジミヤマコトさんで、お間違いないでしょうか?」

「ええ、フジミヤは私です」

「フジミヤカスミさんは、あなたの奥さんで、間違いないですか?」

「……そうですが」


僕の妻が、今、仕事にどう関係があるというのでしょうか


「大変申し上げにくいのですが……あなたの奥さんが、今日の昼頃に、交通事故に遭われましてね」

「……はあ」




「先ほど……お亡くなりになりました」


「……はあ」


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僕はまだ仕事が残っていましたので、通話が早く終わることを願い、相手が話し終えるのを待ちました

すると、何があったのか、しばしの間相手は沈黙しました


「失礼ですが……あなたは、フジミヤマコトさんで、間違いないですよね?」


この人は、一体何を聞いているのでしょう

僕の名前の確認は、さっきしたばかりだというのに


「おかしいなあ……分かりました。それでは、至急こちらの病院へ来ていただけますか? ご本人確認が必要ですから。場所は――」



僕の頭の中は、ずっと冷静でした



薄情な男と映るでしょうか

現実が認識できていないと映るでしょうか


――そうか……死んでしまったのか、仕方ないな


僕の頭の中にあったのは、仕方ない、ということ

ただ、それだけでした


一連のやり取りを上司に告げると、僕は退社を命じられました

僕が、真っ先に考えたこと


――今日は、こんなに早く上がることができて、嬉しい


感情が欠落しているでしょうか

情が無いと思われるでしょうか

非常識でしょうか


思えば、以前祖父が死んだときもそうでした


祖父は、誰に対しても、滅法厳しい人でした


作法が違っていれば、怒ります

礼儀がなっていなければ、怒ります

失礼があれば、怒ります


とにかく、怒るのが好きな人でした


仕事に支障が出る、面倒だ、そう思いながら

彼の葬式に参列した時、僕が思ったこと


――ようやく、怒鳴られずに済む


こんな自分だから、妻が死んだ時、僕が冷静だったことについては、何一つ疑問を感じませんでした


そう、僕自身に

病院に到着すると、すぐに霊安室へと案内されました

電話を受けてから、僕がここへ到着するまで約三時間程の時間が経っています

身支度を整えるために、一度家に帰ったからです

身を纏うスーツに、病院の匂いをつけたくなかったのです


「遺体の確認をお願いします」


白衣の男が、僕にそう告げました

妻らしき物体の、恐らくは顔の部位に掛けられた白い布を、指でそっと剥がしました



それはまぎれも無い、妻の顔でした



頬骨が浮き出ていて、目の下が黒く、全体的に血の気が薄い

なるほど確かに、彼女は息を引き取っているのです


涙は、一滴も出ませんでした


かといって、現実を受け入れられていないわけではありません

動揺していたわけでもありません


僕は、恐ろしいほどに冷静でした


「はい……彼女は、僕の妻で間違いありません」


その時、傍で立ち尽くし、腕を後ろで組んでいた男は、明らかに僕の出方を伺っていました


だから、きっと驚いたのです

彼の目は大きく見開かれ、口はあんぐりとしていました


ドラマか何かで得た情報によると、こういう状況では、肉親は泣き崩れるべきなのです


これまで共に過ごしてきた相手と、二度と会話を交わせない

二度と触れ合う事が出来ない

憎まれ口すら叩けない

愛を囁いても、届くことは無い

主観的には、相手との関係は、永遠に閉ざされてしまったのですから



そう、悲しむべきなのです、普通なら



であるならば、僕達夫婦は、普通ではなかったのでしょうか?

否、そうではないでしょう



僕達夫婦は、極々普通の一般家庭でした


僕は、普通のサラリーマンです


いえ、わざわざ言わなくとも、この国で仕事に明け暮れる人種など、サラリーマンが大半を占めているのでしょうけれど


朝早く会社に出勤するために、妻がわざわざ早起きして作ってくれた朝食を、僕は一口も口にすることなく、玄関の扉をあわただしく開け放ちます

その時、僕が妻に、行ってきます、の一言を告げていたかどうかもわかりません


上司の飲み会について行くことが多かったので、僕が妻の待つ家に帰るのは、大抵の場合0時を過ぎた頃でした


妻は決まって夕食を作っていて、リビングのテーブルに突っ伏して意識を失っていました


妻は、朝にはめっぽう強く、逆に夜には死ぬほど弱いのです


今考えると、妻は、僕が帰ってくるのをずっと待っていたのでしょう

僕は、1週間に2度の頻度で19時には家に帰る事ができていたので


そして、そういう日は、不定期でした


だからこそ僕の妻は毎日、早く帰ってくるかもしれない僕のために夕食を作り、テーブルでその帰りを待っていたのでしょう


当時の僕は、彼女になんの感謝も抱きませんでした

むしろ、嫌悪感すら感じていました


僕は、メールで伝えたはずでした


「今日は食べて帰るから、作らなくていいよ」


ですが、何があろうと妻は夕食を作り、僕の帰りを待っていました


なんてことはないのです


一度、僕が夕食はいらないと言いつつも、結局上司と早くに別れて、ほとんど食べ物を口にせずに帰宅した日があっただけの事でした


「要らないと言っただろう、食べられないよ」

「どうして作ったんだ。勿体ないじゃないか」

「頼むからメールの内容くらい理解してくれ」


僕は、妻に不誠実でした

対して妻は、僕の事をひたすら信じ続けていました


そんな生活でしたから、僕との生活の中で、彼女があまりいい思いをしていなかったであろうことは、容易に想像ができました

でも僕は、彼女に何も与えることが出来ず、恐らくは人並みの夫婦生活すら過ごさせてあげる事もままならなかったのです

ですが、そんなもの、現代社会ではありふれた話でしょう

普通の枠組みから、外れたものではありませんでした


特に財産に恵まれていたわけでもなく

かといって、貧しかったわけでもなく


普通の家庭と違う点があるとすれば、子供がいないことでしょうか

それに関しても、僕と彼女が性交渉を交わさないほどに愛が冷めきっていたわけでなく、まだそういう時期ではなかったからでした


僕は、忙しかったから


そういう事をする時は、いつも避妊をしていました

勿論、仕事がある程度落ち着いたら、子供を作る予定でした


それが、世の中の普通ですから


単純に、子供ができる前の夫婦だった、というだけの話です


僕達夫婦は、どうしようもなく普通でした

瞬く間に、彼女との別れの儀式は進みました


僕が先導を切るまでもなく、業者の方々が段取り良く進行してくれたおかげで、僕は特に支障をきたすことなく会社に戻ることができました


何もかも、普通のはずでした




妻が死んでから、僕の普通は、普通ではなくなったのです


ある日の事です


その日はたまたま、僕は早く家に帰ることができました


本来なら、ゆっくり体を休める事の出来る、夢のひと時……そんな日のことでした




妻が、突然、僕の前に現れたのです


いや、その表現は不適切かもしれません


妻は、いつものようにくたびれて帰宅した僕を、玄関で出迎えてくれました


「おかえりなさい、あなた」

「ああ、ただいま」


自然と僕の口から挨拶の言葉が漏れた後、その不自然さに今更ながら気が付きました


僕はなぜ、ただいまと言ったのでしょうか

僕は、一体誰に挨拶をしたのでしょうか


ふと、顔を上げました


それは紛れもなく、僕の妻でした


まず脳裏に浮かんだのは、彼女は僕の脳内で作り出された幻なのだということです


だが、僕は真っ先にその考えを打ち消しました


僕が、妻の幻影を見る理由がないのです


妻を失って、確かに感じるものはありましたが

寂寥感だとか、悲哀だとか、そういう言葉で説明できる程度でしかありません


ならば、言葉で説明できない現象が、僕の身に起こるはずもないのです


次に考えたのは、彼女は別人であるということです


誰かが妻に変装して、この場に立っているのです


色々と考えた結果、それもあり得ないと思いました

彼女は、余りにも妻に似すぎていたのです


ならば、今僕の目の前に立っているこの女は、一体誰なのでしょうか

「あなた、ボーっとして、どうしたの? 早く上がったら?」

「あ……ああ」




――この女は、誰だ?




その時は不思議と、そんな疑念はすぐに晴れて、いつもの日常として僕の脳内で処理されました


今思えば、一時的な現実逃避だったのかもしれません

あるいは、目の前で起きている出来事に、脳の処理がついていかなかったのかもしれません


「あなた、ご飯はできてるけど」

「うん、食べようかな」


ジャケットをハンガーにかけ、Yシャツのまま席に着きました

妻もまた、俺の反対側の席に腰かけます


一緒に、いただきます、と食前の挨拶をします


何もかも、いつも通りでした




ですが、その日常は、妻を失う前の、僕の日常でした




その日の夕食は、白米に豆腐の味噌汁、肉じゃがにお浸しと、ありふれた献立でした


ですが、肉じゃがは妻の得意料理です

得意というだけあって、妻の作る肉じゃがは格別でした

おいそれと、他人にマネできるわけがないのです


果たして、肉じゃがの味付けは、妻のものと寸分違わないものでした


「……君はやっぱり、君なんだね」

「何言ってるの? そんなの、当たり前じゃない」

「うん、そうだ。当たり前だね」


何も、不自然な点はみられませんでした


不自然な点がない事が、一番の不自然なのだと気が付いたのは、次の日の朝の事でした


「あなた、ボーっとして、どうしたの? 早く上がったら?」

「あ……ああ」




――この女は、誰だ?




その時は不思議と、そんな疑念はすぐに晴れて、いつもの日常として僕の脳内で処理されました


今思えば、一時的な現実逃避だったのかもしれません

あるいは、目の前で起きている出来事に、脳の処理がついていかなかったのかもしれません


「あなた、ご飯はできてるけど」

「うん、食べようかな」


ジャケットをハンガーにかけ、Yシャツのまま席に着きました

妻もまた、俺の反対側の席に腰かけます


一緒に、いただきます、と食前の挨拶をします


何もかも、いつも通りでした




ですが、その日常は、妻を失う前の、僕の日常でした




その日の夕食は、白米に豆腐の味噌汁、肉じゃがにお浸しと、ありふれた献立でした


ですが、肉じゃがは妻の得意料理です

得意というだけあって、妻の作る肉じゃがは格別でした

おいそれと、他人にマネできるわけがないのです


果たして、肉じゃがの味付けは、妻のものと寸分違わないものでした


「……君はやっぱり、君なんだね」

「何言ってるの? そんなの、当たり前じゃない」

「うん、そうだ。当たり前だね」


何も、不自然な点はみられませんでした


不自然な点がない事が、一番の不自然なのだと気が付いたのは、次の日の朝の事でした

「なあ」

「どうしたの? そんな、真剣な顔して」


「君は、一体誰なんだ?」


「誰って、そんなの決まっているじゃない。貴方の妻よ」

「そんなことは分かっている。だから聞いているんだ」


繰り返し、僕は彼女に問いかけます



「君は本当に、僕の妻なのか?」

「どうして、そんなことを聞くの?」

「だって君は……死んだはずじゃないか」


すると彼女は、僅かにも表情を変えないまま、呟きました


「……そうね。確かに、死んだわ」


彼女は苦笑すると、再び僕の目を見据えて言いました


「なら私は、幽霊ってことかしらね」

「馬鹿にしているのか?」

「気にする事なんてないわ。私は今、ここにいるんだから」

「そんな話、あるわけが……」

「それより、大丈夫? そろそろ会社に行く時間だと思うけれど」


腕時計をみると、いつも家を出る時間を、5分も過ぎていました


「……行ってきます」


僕は、何もわからないまま、日常に戻りました

今日はここまでとします
この続きは、また明日

前回、>>10 >>11 と同じものを投稿してしまい申し訳ありませんでした

では投稿します


カチャカチャと、金属の触れ合う音に、僕は目を覚ましました

カーテンの隙間から漏れ出る光を感じ、眩しい、と感じます


また、朝がやってきたのです


この2DKのアパートで、金属を鳴らす音が響くとすれば、キッチン以外にありません

僕は鉛のように重い身体を奮い立たせ、布団をどかしながら上半身を起こします


扉の向こう側から、聞き慣れた鼻歌が聞こえてきます

妻が好きだった、有名な男性歌手のJ-POPです

僕は音楽はさっぱりなので、歌手の名前も曲名もしりません

ですが、その軽快な曲調やリズムには、少しだけ好感を持ちました


静かに扉を開けると、妻は僕が起きた事にはまだ気づいていない様子です


「……カスミ」


妻の名前を呼んであげると、彼女は肩を一瞬上下させ、こちらを振り向きます

彼女のポニーテールが背中で揺り動くさまは、なんだか見ていて楽しいです


「なんだ、起きてたんだね」

「……ううん、たった今起きたんだ」


カマをかけたつもりでした

妻の名前を呼んで、即座に反応しなければ、彼女は僕の妻ではありません


ですが、彼女の咄嗟の反応は、間違いなく、彼女は僕の妻であると証明していました



……と、その時の僕は考えていました

後で考え直してみたのですが、突然後ろから声をかけられれば、誰だって振り向くに違いありません

僕の行動は、全くもって、彼女が妻であるという証明にはなっていませんでした




ですが、その時の僕は、彼女は僕の妻なのだと完璧に信じ込んでいました


「今、ご飯作ってるところだから……それよりもマコトさん、珍しいね。こんなに早く起きるなんて」

「最近は、早く帰れる日が続いているからね。今朝は、すこぶる体調が良いんだ」

「そうなんだ。どうして最近は帰りが早いの?」

「上司がね、暫くは定時で帰っていいって言ってくれているんだよ」

「ふーん……なんで?」

「それはね……」


――君が、死んだからだよ


「……どうしたの? ボーッとして」

「いや……何でもないよ。たまたま、僕がそういう日に当たったんだ」




僕は妻に、初めて嘘をつきました


その日も、僕は定時で帰ることができました

与えられた仕事が、いつもと比べて圧倒的に少ないのです

上司に告げると、もう帰って構わないと言われます

流石に定時前に職場を離れる事は出来ないので、自分のデスクで待機することにします


ふと、思いました


最後に妻と旅行に行ったのは、いつだっただろう


デスクトップを開いたままのパソコンで、インターネットを開きます

本当は、職場のパソコンでこんな事をするのはマナー違反なのですが

他にすることもありませんし、誰もがやっていることです


一通り調べて、目についたのは、少しだけ高めの旅館でした

ネット上で購入することができるので、そのまま購入ボタンへカーソルを動かします


クリックする前に、とある疑問が頭をよぎりました


――彼女は、本当に存在しているのだろうか


暫く逡巡していると、定時を知らせるアナウンスが流れました

僕はパソコンの電源を落とし、帰ることにしました


旅館の予約は、しませんでした


「おかえりなさい」

「うん、ただいま」


玄関の扉を開くと、いつも通りの彼女がそこにいました


彼女がそこに存在しているのかどうか、手っ取り早く確認する方法を、一つ思いつきました


「……え、マコトさん?」


僕は、妻の身体を抱きしめました

細い腰へ手を回し、強く、強く抱きしめました


やがて、彼女は僕の突然の抱擁を受け入れたらしく、僕の背中に両腕を回しました


彼女は、確かにここに存在しているのです


「……カスミ」

「うん、なに?」

「二人で、旅行に行こうか」

「どうしたの、突然」

「今週末、予約を取ろうと思う。今なら旅行シーズンから大分ズレているし、二人分ならきっと空いているよ」

「私は、別にいいけど……」


すると妻は抱擁を解き、僕の顔をまっすぐに見つめました


「……あなたは、それでいいの?」


僕はこの時、その意味がさっぱりわかりませんでした


「いいに決まってるじゃないか」

「……わかった。なら、マコトさんの分も準備しておくね」

「ああ、ありがとう」


その後すぐに、僕はスマートフォンで温泉旅館の予約を取りました


僕と妻が旅行に行ったのは、北海道への新婚旅行が最初で、最後でした

月日が流れ……ようやく今日、妻と2度目の旅行へ行きます


「マコトさん、楽しみだね」

「うん……楽しみだ」


僕と妻は今、新幹線で隣同士です

肩と肩が、触れ合うような距離です


わけもなく、胸の鼓動が高鳴りました

まるで、初めて彼女に恋をした時のように


「旅行なんて……久しぶりだもんね」

「うん、久しぶりだ」

「しかも温泉なんて、初めてだもんね!」

「うん、初めてだ」

「……マコトさん」

「ん? なんだい?」


声のトーンが、少しだけ下がったので、僕は妻の方を向きました

彼女は、唇を尖らせて、頬を膨らませています


「……なんで怒ってるの?」

「マコトさん、キャッチボールって知ってる?」

「ああ、知ってるとも。ボールを投げ合うやつだろ?」

「それじゃないよ。いや、それなんだけど」


伏し目でこちらを見つめてくる彼女は、どうやら僕を睨んでいるつもりのようです

僕には彼女のそれが、小動物のように見えて仕方がありませんでした


ふと気が付くと、僕は、彼女の頭に手を添えて、優しく撫でていました


「マコトさん?」


若干上ずった妻の声を聞いて、僕は我に返り、手を引っ込めました


「……あ、ごめん。なんでもないよ」


それからは、一言も会話を交わしませんでした

普段なら、いきなり会話が途切れれば、すぐにでもその場から離れたくなって仕方がありません

でも、その時の僕は、彼女が隣にいるだけで心地よさを感じていました


暫くして、彼女の肩が僕に荷重をかけ始めました。


「……カスミ?」


妻が、僕に全体重をかけ始めました。

必然と、彼女の頭が僕の上腕部にもたれかかります。


「ちょ……どうしたの?」


妻の様子を窺うと、スースーと、穏やかな鼻息が聞こえてきます。

妻は、寝てしまったのでした。


妻が寝ている姿を観察するのは、初めての事でした。


きめ細やかな肌や、艶やかな黒髪、長いまつ毛……潤った桜色の唇

全てが、生き生きとしているのです


彼女から立ち上ってくる甘い匂いが、僕の心を締め付けます


皮肉なことに僕は、妻を失って初めて、妻の魅力に今更ながら気づいたのでした


あれから、電車に乗り換えました。

駅は予想外に綺麗な建物で、観光客が多いのだと実感しました

ですがその日は、乗客は僕達二人を含め、その車両には5人ほどしかいませんでした

20分弱ガタンゴトンと揺られ、辿り着いた駅の外では、送迎の車が待機していました

運転手に軽く挨拶を交わし、後部座席に腰かけます


5分ほどで、温泉旅館に辿り着きました


「すごーい! あったかい匂いがする!」

「……あったかい匂いってなんだよ」


妻の言うあったかい匂いが何かは分かりませんでしたが、硫黄臭とでもいうのでしょうか、ほんの僅かに刺激臭が漂っています


僕は、まるで子供の時に戻ったかのように、心が躍動するのを感じました


スタッフの方々に案内され、すぐに部屋まで案内されました


ツインルームを予約していましたが、和室ということで、まあそれなりの広さだろう……と、あまり期待していませんでした

ですが、予想はいい意味で裏切られました


「ねえねえ、マコトさん! これ見て! おっきな湖が見えるよ!」

「うわ……」


僕は、言葉を失いました

露天風呂から大自然を見渡せるとは聞いていましたが、まさか部屋からも一望できるとは思ってもいませんでした


僕と妻は暫く、障子の向こう側の世界に魅入っていました


「……マコトさん、温泉行かない?」

「あ、ああ。そうだね、行こうか」


この旅行の、本来の目的を忘れていました

荷物を置いて、浴衣を手にして、僕達は二人並んで温泉へと向かいました


温泉の感想は、省略します

身体の疲れが溶けるように落ちて、骨の髄まで染み渡るかのようだったとだけ、記しておきます


大浴場を出て、出入り口の傍で待っていると、やがて浴衣に身を包んだ彼女が姿を現しました

ポニーテールを解き、肩まで下ろした姿は、何だか新鮮です

髪の毛が水を含み、ライトの光に反射して、艶めかしさを感じます


「ごめんなさい、待った?」

「ううん、大丈夫だよ」


シャンプーの香りか、甘ったるい匂いは更に強まったように感じました


部屋に戻った僕達は、部屋の中心のテーブルに並べられた、数多くの料理に圧倒されました


「うわ……すっごいね」

「うん、こんなに豪華だとは思ってなかったよ」


刺身の舟盛りや、金目鯛、釜飯など、見たことも無いような品々に、僕は心底感服しました


「ねえ、マコトさん」

「ん?」

「今更だけど……お金、大丈夫?」

「あ……ああ、大丈夫だよ……多分」


いや、金額は確認したはずなので、足りないわけがないのです

ですが、プランを間違えたのではないかと思うほどに、僕達庶民には手が届かないようなものだったのです


「じゃ……じゃあ、食べようか」

「う、うん」


どれから手を付ければいいか迷いましたが、食べ始めると、箸が止まりませんでした


そして、テーブルの上には、少々値の張る日本酒が置いてありました


僕は、上司との飲み会で度々酒を嗜むものの、それほど強いわけではありません


それに対して妻は、お猪口の角度が瞬く間に深くなってしまい、僕は幾度となく注いであげました


ほとんどの皿が空になると、僕は畳の上に寝転がりました

い草の香りが、酔いの回った僕の頭に安らぎを与えます


「ふう……そろそろ布団も並べられるだろうから、もう一回温泉に……」


その時でした。


照明が遮られ、目の前が真っ暗になりました

妻が僕に乗りかかってきたのだと気が付いた時には、僕は肩を抑えられ、身動きを取れなくなっていました


「カス……ミ?」

「違う」


妻の顔が近づいて、唇に柔らかな感触を感じました

柔らかな髪の毛が、僕の頬に垂れ下がります


上唇と下唇の間から、強引に温かい何かが侵入し

柔らかなそれは歯茎を走り、僕の舌と絡み合い、唾液を送り合い


僕の脳内は、口の中と同じように、かき乱されていました


――ちがう?


一体、何が違うというのでしょう


「……カスミ、今はまだ、やめよう」


そう言うと、彼女はようやく僕から離れました

僕が身体を起こすと、彼女は傍にちょこんと座っています


「……温泉、行こうか」


大分崩れてしまった彼女の浴衣を直してあげながら、僕はふと思いました


――妻の胸に、ホクロなんてあっただろうか?


それは余りにも小さなもので、近くで注視しなければわかりません

ですが……何度も妻と身体を重ねた僕が、彼女のそれに気が付かないはずがないのです


「ねえ、連れてって」

「ダメだよ……目立つじゃないか」

「良いでしょ……お願い」


上目遣いで頼み込む彼女は、頬が赤らんでいて、小悪魔、とでもいうような愛らしさを感じました

以前の妻は、僕に甘えるようなことは、しませんでした


「……温泉から戻ったら、たっぷり甘えさせてあげるから、ね?」

「むうー……わかった」


妻が変わってしまったのか……それとも、彼女は妻ではないのか


答えは、分かりきっていました

今日はここまでです


すっかり目を覚ました僕は、自分の隣から、子供のように小さな寝息がするのを感じます

目をやると、すやすやと眠る女の子がそこにいました

女の子という表現は、不適切かもしれません

彼女の年齢は、女性と言うにふさわしいものでしたから


ですが、僕の視界に映る彼女は、どう見ても幼い女の子にしか見えませんでした

思えば、僕の妻も、そんな風に眠る女性でした


小さな寝息、顔の近くで丸まった両手、瑞々しい黒髪、長いまつ毛、桃色の唇


――そこで、ふと思います


昨夜の出来事は、本来の妻であれば、決してあり得ないのだと

僕と彼女の愛の営みは、深夜の3時まで続きました

妻であったなら、途中で力尽きてしまっていたはずなのです

妻であったなら、僕が彼女よりも先に目覚めるはずがないのです


僕は、彼女の隣に横になりました

幼い顔が、鼻先数センチまで近づきます


ベッドと彼女の間にできた、小さな空間へ目線を下ろします

その隙間には、彼女の白い肌が覗いています

美しい谷間の傍に、やはりそれは存在していました


――彼女が、僕の妻ではないという、確かな証明でした


「う……ん……」


寝息が途切れたかと思うと、やがて瞼が開かれ、まつ毛が動きを見せ始めます


「……マコト……さん?」


「おはよう、カスミ」


なぜ僕は、その名前で呼んだのでしょう

彼女は間違いなく、僕の妻ではないはずなのに


きっと僕は、認めたくなかったのです

僕はまだ、彼女が妻であることに期待していたのです

頭では、そうではないと理解していても

心では、そうであって欲しいと願うのです


「今、何時?」

「8時を過ぎたところだよ」

「うそ!」


大きな声を上げたかと思うと、途端に身体を起こしました

布団が大きく捲られ、しなやかな肢体が露わになります


白く、きめ細かい肌

豊かな二つの乳房

背中に垂れる、長い黒髪


曲線で描かれた、一つの芸術作品のようでした


「レストランなら、10時までは空いてるはずだよ?」

「レストラン……あ、そうだったね」


振り返った彼女は、ゆっくりと微笑みました


「私達、旅行に来てるんだった」


「もー、笑い過ぎだってば。いつまで笑ってるの」

「いや、だって……おかしくて」

「つい、いつもの癖でさ、仕方ないことなんだよ、主婦としてはね」

「旅行にまで掲げてくるなんて、素晴らしい主婦魂だ」

「酷いよ、バカにして」


頬を膨らませ、目を伏したその顔は、妻が機嫌を損ねた時にする表情にそっくりでした

それは、僕に小さな安心感を与えてくれました


「さて、お土産は何にしようか?」

「温泉饅頭」

「それは……ベタ過ぎない?」

「ベタだからいいの。大体、シンプルだからこそ真価が問われるものなんだよ?」

「そういうものなの……まあ構わないけど」


彼女は、目についたものを買い物かごに次々と入れていきます

帰り道の苦労が予想されます

その場合、苦労を被るのはきっと僕だけなのでしょうが


「マコトさん、これ見て」

「なに?」

「これ、可愛いと思わない?」


それは、何だかよく分からない生き物のストラップでした

恐らくは、この温泉のマスコットキャラクターのようなものなのでしょう

饅頭に顔をつけて、目と足を生やしたような、丸っぽい生き物です


「可愛いかなあ?」

「えー、可愛いでしょ? 可愛いよね?」


僕の反応がよっぽど気にくわないのでしょう

段々と、彼女の顔が詰め寄ってきます


「……うん、可愛い、可愛いよ」

「やったあ! じゃあ、私はこれにするから、マコトさんはこれね」


どうやらそのストラップは何種類もあるようで、妻が手に取ったのは、黄色の饅頭と水色のストラップです

どちらも、饅頭であったならば口にはしたくないような色をしています


「マコトさんが黄色で、私が水色」

「僕が黄色?」

「うん。だってマコトさんには、いつも笑顔でいてほしいもの」


ストラップをみると、なるほど確かに、そのマスコットは笑っていました


「うん……ありがとう」

「これでお揃いだね。絶対つけなきゃダメだよ?」

「うん、分かってるって」

今日はここまで

酉を間違えて入力してしまいました……
この際ですから、前スレを載せます
未完ですが、ご了承ください

男「余命1年?」女「……」
男「余命1年?」女「……」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1495112409/)


ダークスーツに身を包み、ビジネスバッグを肩にかけた僕は、駅の構内で電車を待ちます

数分してアナウンスが流れ、電車の近づく音が響き渡ります


待っている間、僕は今朝の彼女とのやり取りを思い出していました


『ちょっとマコトさん、ストラップ忘れてるよ』

『持ってるさ、ほら』


僕は鞄のファスナーを開き、真っ黄色な饅頭のストラップを見せます


『見えるようにつけなくちゃ、意味ないでしょ?』

『勘弁してくれよ……目立つじゃないか』

『だからいいの。ちょうだい、つけてあげるから』


渋々ストラップを手渡すと、彼女は慣れた手つきで端の金具に紐を通します


『マコトさんが浮気しようとしたら、ちゃーんと目に入るようにね』

『しないさ。僕が浮気出来るほどモテる男に見えるかい?』

『少なくとも私はそう思ってるんだけど』

『心配しなくていいよ、今日も定時で帰れると思うから』

『はーい、待ってまーす』


黄色の饅頭を見つめながら、僕は不思議と温かい気持ちに包まれました

これは、妻と過ごした一年間、感じた記憶が無かったものです




なぜ僕は、妻が死んだ今になって、こんな事をしているのでしょうか


なぜ僕は、彼女に旅行を提案したのでしょうか


なぜ僕は、彼女を妻として受け入れているのでしょうか




答えは、すぐに思い浮かびました




きっと僕は、カスミへの罪滅ぼしをしている気になっているのです


僕は、カスミの愛を受け止めることができませんでした


僕は、カスミを笑顔にすることができませんでした


僕は、カスミを幸せにすることができませんでした




不誠実だった僕に対して、変わらぬ愛を注いでくれたカスミに対する、せめてもの償いなのです




こんなことに、意味があるとは思えない

きっといつか、しわ寄せが来るのでしょう


ならばせめて、その時が来るまでは

二人目のカスミを、幸せにしなければなりません




ストラップを見つめながら、僕は誓いました


「……どういう、ことですか?」

「どうも何も、当たり前のことだろう」


会社に着くなり、僕はすぐに上司に呼び出されました


「今日から、お前にはいつも通りに仕事してもらうから」




考えてみれば、当たり前のことです

入社してわずか数年の新人が、毎日定時に帰ることができるなんてありえないのです

身内を失くした社員に対しての、せめてもの情けだったのでしょう


普通の会社であれば、ここまで手厚く世話を焼いてなどくれません

僕は、恵まれていたのです


「最近調子がよさそうだし、元気が戻ってきたんじゃないか?」

「そう……でしょうか」

「そうだとも。なんなら、前よりも顔色がよくなったんじゃないかと思うくらいだよ」


僕はこれまで、与えられた仕事は問題なく終わらせてきました

運よくその仕事ぶりを上司に見初められた僕は、同期よりも少しだけ早い昇進をしたのです


カスミと結婚したのも、そんな時でした


実際はさほど能力が高くない僕は、同期の中で孤立を始めました

本来であれば僕のものではない仕事も、なぜか僕がするようになりました


次第に僕は、退社時刻が0時を過ぎるようになりました


カスミに夫らしいことをしてやれたのは、新婚旅行が最初で最後でした




デスクに戻ると、同期の鋭い視線が刺さりました


――落ち込んだフリしてサボってないで、さっさと仕事しろよ


自分が、責められているように感じました


それは単純に僕の被害妄想で、本当はそんなことを思ってはいないのかもしれません


ですが、同期が僕を見る目線が、今の僕には怖くて仕方がありませんでした


気が付くと、既に深夜の1時を回っていました

彼女の待つ部屋へ帰ることができたのは、腕時計の短針が2時に差し掛かった頃でした


恐らくはリビングで寝ているだろう……と思った僕は、音を立てないように静かに鍵を開け、ゆっくり扉を開きました


「……ただいま」


申し訳程度に挨拶をして、僕はリビングへと向かいます




そこに、彼女の姿はありませんでした


「……カスミ?」


ふと、後ろに気配を感じました


振り返ろうとした瞬間、大きな力で傍のソファーに押し倒されました

突然の事に頭の理解が追い付かない僕は、なす術もなく力に支配されました


「……どうしたんだよ、カスミ」


照明をつけていないために真っ暗な部屋の中、彼女の表情を読み取るのは難しそうでした


「……信じてたの」


その声音は、震えていました


「なのに……裏切られた」


僕の顔に、冷たい何かが零れ、頬を流れます


「こんな最悪な気分を、何度も味わされたお姉ちゃんの事を考えたら、私……私……」


彼女は、涙を流していました


「……マコトさんのせいだよ」


「何のこと?」


「お姉ちゃんが死んだのは、あなたのせい」


「僕の……せい?」


カーテンの隙間から入り込む月の光に、彼女の手元で何かが反射します


「あんたなんか……あんたなんか……」




顔の真横を通って、何かが床に落ちた音がしました


同時に、身体に乗っていた重みから解放されます


鼻をすする音が、足音と共に遠ざかり……扉の開閉する音を境に、部屋に静寂が訪れました




何が起きたのか理解できたのは、翌朝のことでした

今日はここまでです

余談を少々
前作の評価が低いのは残念ですが、欠点が多かったのも事実です
文章を見直す機会と考えて精進させていただきます


次の日、僕はいつものように出勤しました


行ってきます、と言っても、返事は帰ってきません

彼女は昨晩出て行ってしまったのですから、当たり前といえば当たり前のことです




会社につくと、大急ぎで昨晩の業務を片付けます

ようやく終わったかと思えば、いつの間にかデスクに置かれていた書類の山を見て、ため息をつきます

山の半分に到達する前に、12時を告げるアナウンスが鳴り響きます

午後からは営業が始まります

今夜も、0時を過ぎることは避けられまいと、更に深くため息をつきました


「おいおい、ため息ばっかだと運に逃げられるぞ」


上司が、僕の肩をポンと叩きます


「申し訳ありません」

「責めてはいないさ。フジミヤも早く飯を食うといい。食わなきゃ、午後からもたないからな」


いわれたとおり、僕は社員食堂へと向かいます

手には、コンビニで購入した炭水化物の入っているビニール袋を提げています

食堂のメニューは決して高くはないのですが、いかんせん並ぶ時間がもったいないのです

少しでも早く食べ終え、昼休みのうちに少しでも多く仕事を片付けなければなりません


「フジミヤー、今日もパンだけか?」

「バカ、あいつに声かけんなって、関わり辛いんだからよ」

「高学歴だからって調子乗りやがってよ」


彼らは小声のつもりなのでしょうが、こちらにはすべて聞こえています

返す言葉もありません

僕自身、入社する以前は、周りを見下していたのですから


8分ほどでビニール袋を空にして、デスクへと戻ります

全員が食堂ないし外食へ出ていったらしく、フロアには僕以外、誰の気配もありません


質素なチェアーに腰掛け、パソコンのスリープモードを解除します


妻が死ぬ以前の、ありふれた日常です


そのはずです


なぜ僕は、こんなにも気分が落ち込んでいるのでしょうか


定時で帰れるような、恵まれた生活に慣れてしまったから?

妻を亡くしたから?

それとも……彼女がいたから?


頬に違和感を感じ、指で拭います

指先を見ると、わずかに濡れています

雨漏りでもしているのかと天井を見上げますが、5階建ての3階に位置するこの場所が、雨漏りなどするはずもありません


――なぜ僕は、泣いているのだろう


一体、何に悲しむのでしょう

妻が亡くなる以前は、何も感じなかったはずでした


わかりません

理解できません


――自分が、わからない


0時を過ぎて、ようやくマンションに戻った僕は、静かに鍵を回し、ゆっくりと扉を開きます

扉を閉めてから、既に彼女はいないのだ、と我に返ります


ソファーに近づくと、暗闇の中で気がつかなかったのか、コツンと何かがつま先に当たります

拾い上げると、それは包丁でした

なぜこんなものが……と思いながら、キッチンのあるべき場所にそれを戻します


冷蔵庫を開き、何も入っていないことを確認します

辛うじて残っていた一缶のビールと、コンビニで買った枝豆を手に、テーブルへ腰を落とします


目の前には、誰も座っていません


重たい腰を上げ、カスミの写真が入った写真立てを自室からもってきて、テーブルの反対側に置きます


『辛くなったら、いつでも言ってね』


妻の口癖でした

写真の中で笑う妻を見ただけで、なぜか僕はそう言われたように錯覚したのです


ここが、潮時なのかもしれない……そう思いました


「……どういうこと?」

「私の仕事を、減らしてはもらえないでしょうか」


朝早く出社した僕は、同じく出社していた上司にそう告げました


「減らしてって……だって君、今までちゃんとできてたじゃない」

「深夜まで残業して、ようやく終わらせていたんです」

「でも、それくらいここじゃ普通だよ、みんなそうやってきたんだ」

「僕の担当している仕事の量は、現状他の同期と比べても、あまりにも多いと感じます」


上司は、苦虫を噛み潰したような表情をしました


「残念だな、君には期待してたのに」

「ご期待に沿えず、大変申し訳ありません」

「……わかったわかった、もう君には何も期待しないよ」


声音を低くした彼は、自分のデスクへ戻ると、大きな音を立ててチェアーに腰掛けました


「いやー、よくやったなあフジミヤ」

「そう……かな?」

突然同期2人に飲みに誘われた僕は、誰もいない部屋に帰るより、そちらのほうが有意義であると判断しました

「そうだよ。フジミヤ君、こんなの初めてじゃない」


ビール1杯で顔を赤くした女性が、僕に笑顔で語り始めます


「あんなやつに媚びへつらってた君がさあ、大きな進歩だよねえホント」


あんなやつ……とは、きっと上司を指すのでしょう

彼らは、僕の直属の上司を毛嫌いしていますから


「一体どんな心境の変化?」

「別に、何もないよ」

「奥さんが亡くなったこと……関係あるの?」


関係あるかといわれれば、あると答えるしかありません

素直に、コクリと頷きます


「そっかー、羨ましいねえ」


ワインを飲み始めた短髪の男性が、物憂げに語り始めます


「うちなんか、しょっちゅう喧嘩してばかりだよ」


すっかり酔ってしまった女性は、彼に指をさしました


「そりゃあ、あんたんとこの奥さんは強気そうだからね。あんたの我侭にはイラついてしょうがないでしょうよ」


我侭、喧嘩


そのワードが、なぜか引っかかりました


「……フジミヤさん? どうかした?」

「あ、ごめんな……ちょっと無神経だったわ」


2人が気を使い始め、僕は我に返りました


「いや、なんでもないんだ」


僕らの飲み会は、3次会まで続きました

僕が同期だけで飲みに行ったのは、初めてのことでした


マンションに帰り、リビングの椅子に腰掛けます

静まり返った空間で、僕は電気も点けずに物思いにふけりました


――そういえば、妻と僕は、一度も喧嘩なんてしなかったなあ


僕が何をしても、妻は機嫌を損ねることはありませんでした

昨晩置いた写真立ての、妻の笑顔が目に入ります

僕が何をしても、何を言っても、妻はこんな笑顔で笑っていました


何かが、引っかかりました


妻が生きていた時の僕の行いは、あまりにも不誠実でした

せっかく作った夕食をいらないといわれれば、多少なりとも機嫌を損ねるのが普通です

ですが妻は、何があっても平然として、笑顔を保ち続けていました

いつしかそれは、僕の中で日常となりました


どうして妻は、僕に一度たりとも腹を立てなかったのでしょう

どうして僕は、妻の愛を愛であると信じて疑わなかったのでしょう




――僕は、重要な見落としをしているんじゃないだろうか




妻が死ぬまでの僕は、自ら同期との関係を絶ち、直属の上司の言葉だけを信じ、他には耳を貸しませんでした

視野が狭すぎたのだといわざるを得ません


彼女が現れてから、僕の世界は一転しました

彼女に、僕の世界は変えられたのです




『……マコトさんのせいだよ』


『お姉ちゃんが死んだのは、あなたのせい』




妻に妹がいる話など、聞いたこともありません

ですが、もしも彼女が本当にカスミの妹だとしたら……彼女がカスミに瓜二つであることにも、一応は説明がつきます


――何かが、おかしい


僕は、カスミの実家へ足を運ぶことを決意しました


「やあ、よく来たね」

「お邪魔します」


インターホンを押すと、義父に快く出迎えていただきました

仏壇に線香を上げた後、妻の遺影を見つめます

妻の隣で、彼女と同じように、義母が笑っていました


「今日は一体どうしたんだい?」


妻がこの世を去ってから、この時まで約半年が経っています

その間、僕がここを訪れたのは、49日が最後でした


「今日は、ご報告があって」


一拍置いて、僕は口を開きました


「カスミさんが、僕の目の前に現れました」


一瞬訪れた沈黙の後、彼は目を大きく開きました


「もちろん、そんなはずはありません。ですが、彼女が幽霊とは思えません」


彼の表情が、大きく歪みました


「彼女は、カスミさんのことを姉だといっていました」


息を吸って、吐き出します


「僕に、隠していることはありませんか?」




「そうか……シズクと、会ったんだね」

「シズク……ですか?」

「そうだ。シズクは……カスミの妹だよ」


「どうして、黙っていたんですか?」

「言う必要が無かったからだよ」


彼は、嘲るように言いました


「君もカスミも一流大学を卒業して、君は大手金融会社に就職した」

「立派だよ、これ以上ない理想的な夫婦じゃないか」

「それに対してシズクは、高校を卒業してこの家を飛び出して、音沙汰も無い」

「カスミの結婚式にも、葬式にも参列しない。まったく、ろくでなしの娘だよ」


僕は、息を呑みました


「だから……今までずっと隠していたんですか?」

「隠していたわけではないさ。言う必要が無かった、それだけのことだよ」


言葉が、出ませんでした


「向こうが金輪際縁を切るといって出て行ったんだ。仕方ないだろう?」


僕は、どうしたいのでしょう


カスミと共に過ごしたかったのでしょうか

それとも、シズクと一緒に生きたかったのでしょうか


後者だとすれば、僕は酷く残酷な人間に違いありません

前者だとしても、愚かなことには変わりありませんけれど


マンションに帰っても、誰もいません

当然、彼女が帰ってくるはずも無いのです

僕は、シズクの連絡先すら知りません




『……マコトさんのせいだよ』


『お姉ちゃんが死んだのは、あなたのせい』




シズクの放った言葉の意味が、わかりません

僕が殺したはずもありません


カスミの死因は、交通事故でした


……本当に、そうでしょうか


シズクに、会わなければなりません


「……驚いた、まさか見つかるなんてね」

「思い出したんだ、昔のこと」


ここは、公園です

中学の時、僕はここで、思いを告げました


『ごめんね……私は、あなたを幸せにはできない』


結局、断られてしまった僕は、それ以来一度も彼女と会っていませんでした


限りなく、小さな可能性でした

ただ、そこにいるかもしれないと思ったのです


記憶をさかのぼること、約10年

中学校を卒業する直前の話です


僕は、とある女の子のことが好きでした

まるで太陽のようにみんなを照らす、活発な女の子でした


彼女の、笑顔が好きでした


カスミと初めて会った時、その無邪気な笑顔に、僕は一目ぼれしました

きっと、彼女の影を重ねていたのです




「再会できるなんて、思ってなかったの」


シズクは公園のブランコに腰掛け、空を見上げます


「私の人生で恋をしたのは、あなたが最初で最後だった」

「僕が覚えてるのは、シズクって名前だけだったからさ。最初は似ているだけだと思ってたんだ」


「まさか、君の双子の姉さんだったとはね」

「びっくりした?」

「驚いたさ」


シズクは、苦笑しました


「どうして、ここに来たの?」

「君に会えるかと思って」

「どうして会いたいと思ったの?」

「……聞きたいことがあるんだ」


「君はどうして、カスミが死んだのは僕のせいだと、そう言ったんだ?」


シズクは、空から目線を落とし、地面を見つめます


「私ね……家を出てからも、お姉ちゃんとはずっと連絡を取り合ってたの」

「定期的に会ってもいたし、マコトさんの話も聞いてたんだよ」

「それで、いつだったかな……私とマコトさんが同級生だってお姉ちゃんが知ってから、あの人、一変したの」

「交通事故で処理されたけど……ホントは自殺」

「じゃなきゃ、私がこうしてあなたのマンションの鍵をもってるわけ無いでしょ?」


僕は、ただ呆然としていました


「うちね、ちょっと特殊な家庭だったの」

「お父さんがひどい暴力を振るう人でね……お母さんがいなくなって

から、それがもっと激しくなった」


僕は、納得はできないまでも、理解はしました

だから妻は、僕の不誠実さを、腹を立てることもなくただ受け止めたのです

妻の愛は愛ではなく、依存でした


「そんな家庭で育った私も、普通じゃないのはわかるでしょ?」

「……ここでさよならした方がいいよ。これ以上私と関わっても、幸せにはなれないから」


シズクは立ち上がり、僕に背を向けて歩いていきました




僕は、シズクの後姿を見て、思います


――僕は、幸せではなかったのだろうか




咄嗟に背中を追いかけ、後ろから強く抱きしめました


「……マコトさん?」


「……僕は、幸せだったよ。君と過ごした日々は、ただ幸せだった」


シズクの腹部にまわした腕に、彼女の細い腕が絡みます


「私も、幸せだった」




シズクは僕の腕を解き、そのまま公園を去っていきました


カスミの墓の前で、手を合わせて拝みます


――君は、幸せだったかい?


きっと、返事はノーでしょう

彼女を幸せにしたとは、とても言えませんでしたから


君の分も生きる、なんてふざけたことは言いません

ただ、今は君に謝りたい

そして、礼を言いたい


――君と君の妹のおかげで、僕の世界は変わったんだよ


花瓶には、たくさんの霞草が添えられています


「またくるよ」


僕は、彼女の墓に背を向けました


『ありがとう』


カスミの声が、聞こえたように感じました


「……ああ」


僕は、幽霊なんて非科学的な現象は信じません


ですが、この時聞こえた声だけは……彼女の声なのだと、今でも信じているのです

完結
こんな面倒くさい話は二度と書かない

一応は完結したつもりでしたがアフターストーリーの需要があるなら書きます
いつになるかはわかりませんが

現在リアルが忙殺されているため、ssを考える時間がほとんど無いという状況です
来年の3月には多少余裕ができるはずなので、その時にまだスレが残っていれば続編を書きたいと思っています
長期間放置してしまい、本当に申し訳ありませんでした

この度なろうでアカウントを作成しました
今後はそちらで更新していきます
よろしければご訪問ください
http://ncode.syosetu.com/n7547eg/

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