雛月「戻ってよ……」 (30)
お願いだから。
今の私の幸せが、無くなっちゃうくらい前に戻ったっていい。
だから。
思いっきり、戻ってよ。
悟の時間を返してよ。
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そう思うようになったのは何時頃からだっただろうか。この儚い願いは、心の空へ投げ出され、雲に乗って飛んで行く。
心の空はとても曇っていた。もしかしたら、私は、その雲を払いのけ、綺麗な星空を見たいのかもしれない。
この願いが届いなら、空はきっと晴れるに違いないって。
そしてそこには、私だけじゃなくもう一人、居なくちゃいけない人がいて、大きなクリスマスツリーの下で、満遍なく空に広がる沢山の光に照らされて、それで、それで―――。
ピピピ――。
ピピピ――。
ピッ……。
「……」
いつの間に寝ていたんだろう。
時計の針は、私の登校時間を示していた。
眠気で開ききらない目を擦りながら、ゆっくりと立ち上がる。
「……あ」
その答えはすぐ近くにあった。
視線を軽く落とすと、一冊の漫画が床に置きっ放しになっている。
『ワンダーガイ』
ヒーローものの、少年漫画。
悲哀を背負いながら、戦えるのが自分一人であったとしても、戦い続ける正義の味方。
彼は、みんなの想いがあるから頑張れると、一人ではないんだとそう言った。
昨日は途中まで読んで、そのまま寝てしまったのか。
およそ、女子の私物にしては似つかわしくないだろうと思う。
でも、これは私にとって、本当に大切なものだった。
だって――。
「悟っ……」
私の、大切な、大切な人の、想いと、勇気がここには詰まっているのだから。
需要ありますか、これ
悟が目を覚まさなくなったあの事件の日以来、私は、毎日の様に、悟の眠る病院へと通っている。
私ももう中学二年生、実に二年の時間が経過していた。
そんな私を見てか、ケンヤ君や悟のお母さんは私を心配しているようだった。
自分でもみっともないことくらい、わかってる。
きっと悟も、折角自分が救い出した私が、いつまでも同じ場所に踏み止まっているのを知ったら、喜ばない。
でも、私には未だに新たな一歩を踏み出せずにいた。
悟を置いて行くのが怖かった。悟を失うのが怖かった。私の中で、悟はそれだけ大きな存在だった。
普通の女の子としての自由。
それを悟は私に与えてくれた。
でも、私は普通の女子中学生としての生活を歩んでいるとは、決して言えない。
その事への後ろめたさもあって、私は自分が本当に価値ある存在なのかと、自身に問い質してしまう。
無意味な事だとわかっていても、悟が信じてくれた私の事を、私はまた見失いかけている。
そしていつしか―――。
「私じゃなくて、悟に助かって欲しい」
そう思うように、なっていたんだ。
こんなの、悟に聞かれたら、馬鹿って言われるに違いない。
でも、それを聞いてくれる悟は、もうずっと眠ったままだ。
だから私は、『もしあの時に戻れたなら、悟を拒絶したい』そう思うに至っていた。
私が例え虐待され続けて、もしそれで死んでしまって、そんな未来があったとしても、悟には生きていて欲しいんだ。
そう思えるだけのものを、私は充分に悟から貰った。
だからもう満足、だなんていうのは、今の環境が作られた事に胡座をかいて語ってるだけの、自己中心的な願いなのかもしれない。
それでも。
私は、思わずにはいられないのだ。
―――あの時私がああしていれば、救えたかもしれない―――
「あ……。目、ちょっと腫れてる」
歯磨きをしながら鏡を見ると、私の瞼は赤く腫れていた。
「……一限目は遅刻してくべか」
水で顔を軽く注ぎながら、さっきの事をちょっとだけ考えてみた。
「……悟」
軽く顔を拭いて、自室に戻る。
壁にもたれかかり、ワンダーガイの漫画を手に取って、一枚一枚、ページをめくって行く。
所々に水が乾いた跡があるのは、もうこの本を何度も読み直している証だった。
「……ふふ、読んで見ると意外と面白いべ」
時々挟まるユーモアに、笑みが溢れる。
何度読むのは、単に悟のことを知りたかっただけではなく、この漫画が色眼鏡なしに面白いことに所以した。
「何事も踏み込んでみること。それを教えてくれたのも、悟だべ」
悟は何もなかった私に、いろんな物を与えてくれた。
感性なんて、よくよく考えてみれば育って行く上での見聞きから作られるものなのだから、少年漫画だって少女が好める可能性は幾らでもある。
「……本当に感謝してる。今があるのは悟のおかげ。幸せだよ」
私のヒーロー。
それと同時に、みんなのヒーローでもあった悟。
みんなの一人ぼっちを無くそうとして奮闘した、勇気がある少年。
私達を背負って戦う姿はこの漫画のヒーローそのものだ。
だから、失ってはいけないんだ。
「だから、みんなにはまだ悟が必要なの」
だからこそ、目を覚まして欲しいんだ。
「だからこそ、お願い神様」
―――どうか―――
――――ドクンッ――――
―――――
―――
――
「ん……ふぁ……」
欠伸をする口を軽く手で覆うと、ハッとなってすぐさま時計を覗き込んだ。
「やば、学校っ!」
しかし、次の瞬間私は驚く事になる。
「……嘘」
目の前には、ランドセルが置かれていたのだから。
え?
え?
は??
頭の中に何度も何度も、疑問符が浮かび上がる。
訳がわからない。
それに、ここは、この家は……!
「……お母、さんの……家だ……」
忘れるはずがない。
全てはここから始まった。
そして、同時に激しい嫌悪感に苛まれる事になった。
「うぇ、ぷ……」
急いでトイレへと駆け込んだ。
また、ここへ帰ってきてしまった。
あの、日常に。
あの、最低な家に。
「……でも」
でも、もしかしたら。
もしかしたら……!!
私は急いで身支度を整える。体のそこかしこにあった痣を隠すために、冷やしたり、目新しい傷はマフラーで隠したり、極力その痕跡を残さないように。
そして、前よりもっとしっかりと、誰にも気付かれないように。
今の私にはその知恵があった。
時刻は朝の8時。日付は……2月15日の、月曜日だ。
そういえばあの日の私も遅刻していったっけ。
月曜日は、私が必ず遅刻して行く日だった。
だから今日こうして遅刻することに違和感はない。
だからこそ、効率的に時間を使って、完璧に痕跡を隠してみせた。
そして。
「……いってきます」
私にとって、二度目の一歩を、踏み出した。
休憩
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