長くなります。
日野茜と荒木比奈の話を主に書きます。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1493641193
少年の目のまえに立ち、少女が言う。
「わたしね、大きくなったらアイドルになるの! 世界でいちばんのアイドル!」
少女は一点の曇りもない笑顔だった。――笑顔であるはずだと、少年は思った。少年からはどういうわけか、その少女の顔がぼやけて見えない。
「それでね、あなたはわたしの、プロデューサーになるんだよ!」
「プロデューサーって、なに?」
少年は尋ねる。問われたほうの少女はきょとんと目を丸くして、それから怒ったようにぷくっと頬を膨らませた。
「そんなの、決まってるでしょ! わたしをプロデュースするひと!」
少年は困惑する。
「プロデュース、って……なにするの?」
「えっ?」今度は少女のほうが、困ったような顔をした。「……わかんない……でも、プロデュース、してくれる?」
「ええと……うん、わかった、プロデュース、する」
少年はよくわからないまま頷いた。それで少女が喜んでくれるなら、それでいいと思った。
少年の答えに、少女はぱっと笑顔を咲かせた。
「やくそくだよ! よろしくね、プロデューサー!」
「うん、よろしく!」
少年はそう答えた。答えながら、少年はずっと、その少女の顔を思い出そうとしていた。
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「……い、おい、寝るな、起きろ、おい」
――耳元でささやくような声がする。
「んがっ……」
口元から無意識の声が漏れたのと同時に、俺は現実に引き戻された。はっとして顔をあげる。まわりの何人かがこちらをとがめるような目で見て、すぐに視線を外した。
横にはあきれ顔の同僚の顔があった。片手で『悪い』と礼をして、俺は形だけ姿勢を正す。どうも、会社の会議中に居眠りをしてしまっていたらしい。
照明が落とされ、暗くなった会議室。前方のスクリーンには、今期の社の収益や今後の方針を説明するプレゼンテーション資料が映されている。
美城プロダクション、アイドル事業部。それが俺の所属する会社と部署の名前だ。多数の芸能人を抱える、日本でも有数の芸能プロダクション。
中でもアイドル事業部は、いまもっとも業績を伸ばしている花形部署だった。百名を超えるアイドルが所属し、いまもなお拡大中。業績も年々、それはもう経営陣の笑いが止まらないほどにめざましく成長し続けている。――俺の頑張りなんか、なくても影響がないくらいに。
「以上のように、アイドル事業部としては今後も、新人アイドルの発掘と、プロデュース、イベントの開催に力を注いでいく方針であり――」
耳の端っこで発表者の話を聞きながら、手元の会議資料をぱらぱらとめくり、居眠りして聞き逃した箇所を追いかけるふりをする。会議なんてものは、出席したという実績さえあればいい。
俺の立場は『アシスタントプロデューサー』だ。大仰な名前がついているが、要は敏腕な先輩プロデューサーの御用聞きをしていれば、一定の給料が約束される立場。部署の方針を聞いていてもいなくても、俺の仕事にほとんど影響はない。
「それでは、方針は以上、最後に諸連絡だ。病気休暇の者が出た関係で、一部人事を臨時に変更する。過労だそうだ。まったく、上層部が休めといくら言っても働き続けてこのざまだ、仕事好きなのは結構なことだが、倒れられて責任を取る立場にもなってもらいたい。――各自、休暇は適切に取得するように」
上司の愚痴を聞きながら、俺は資料を閉じた。
眼前に表示された、変更された人事のリストを見る。
「――は」
思わず、声が漏れた。
過労で病欠になったのは俺の先輩である敏腕プロデューサーで、その穴を臨時に埋めるプロデューサーの欄には、俺の名前がしっかりと書かれていた。
--------------
「急なことで落ち着かないとは思うが、君にとってはまたとない成長のチャンスだ、がんばってくれよ」
会議が終わり、撤収作業でにわかに騒がしくなっている会議室の中で、壮年の先輩社員が穏やかな顔で、激励代わりに俺の肩を叩いた。
「頑張ってください、プロデューサーさん」
その横にいる、グリーンのスーツがトレードマークの女性事務員、千川ちひろさんがにっこりと笑い、ドリンクを差し出してくる。
俺はドリンクを受け取りながら「はあ」とあいまいな返事をした。
ちひろさんの笑顔は男性社員に人気があるが、ドリンクの差し入れは賛否両論だ。
気づかいは嬉しいが、一方でもっと働け、稼げと言われているような気分になるからだというのがその理由である。
二人は会議参加者の退室がほぼ終わったことを確認すると、会議室から出ていった。
「俺が、プロデューサー」
声に出しても、まだ現実味が感じられなかった。
プロデューサーなんて仕事をするつもりなんてなかった。
このままアシスタントプロデューサーという立場で、先輩の指示をこなすだけの適当な仕事をして稼げればよかった。
責任ある立場に昇格て変に仕事が忙しくなるようなら、適当なところで退職して実家に帰ろうと思っていた。
両親は俺に家業の酒屋を継がせたがっている。
個人商店とはいえその地域の需要を一手に担う酒屋だ。
いまの仕事のような華はないが、生活の安定は保証されている。
数年の都会暮らしで、上京の頃に持っていた都会へのあこがれも消え失せた。
両親の希望にも合致している。適当に、気楽に稼いで地元へ戻る。それが俺のライフプランだった。
だから、こんなに急にプロデューサーになるなんてことは、まったくの想定外だ。
もしめんどくさそうな人事の打診や内示があれば、その時点で断って地元に帰ろうと思っていたのに。
今日このときからプロデューサーでは、辞める準備すらできない。
「妙なことになっちゃったな」
誰もいなくなった会議室でそう口に出して、溜息をついた。
それから、プロデューサー、という言葉をもう一度頭の中で反芻する。
――そのとき。脳裏に、ほんの短い間、記憶の底にしまい込んだ映像が浮き上がった気がした。
さっき、居眠りのあいだに夢に見た、少女の映像。
『プロデュース、してくれる?』
「……はあ」
もうひとつ、わざと大きく溜息をついて、俺はその記憶にふたをする。
それから会議室の照明を落とすと、資料をまとめて会議室を後にした。
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俺は病気休暇になった先輩プロデューサーの机を片付けていた。
乱雑に詰みあがった書類の山の高さが半分になったあたりまで片付けて、ようやく俺は先輩の現状を把握することができた。
先輩は病気の直前に大きな仕事をあらかた片付け、いまは新規ユニットのプロデュースに集中するための準備をしているところらしい。
上司にも確認したので間違いはない。
先輩が復帰するまで、それとなくこなしていれば、なんとかなるだろう。
そう考えた俺は、ひとまずすべきことの整理をしておくことにした。
「……ユニットの資料は……これか」
口のところに刺繍のようなデザインの入った、白と青の社内の普段使いの封筒を開く。
中からはユニットの企画書と、プロフィールシートが数枚。まずは企画書に目を通す。
「ユニット名……未定、メンバーは五人……弊社所属歴の浅いアイドルと新たにスカウトしたアイドルで、これまでの美城にない新鮮さ、斬新さをアピール……」
一見すると中身のないあやしい文句だが、先輩にはそれを押し通すほどの実績がある。
このような文章でも、上層部なら先輩を信用してGOを出すだろう。
先輩はプロデュースするアイドルたちの特性を察知し、きっちりとユニットとしてまとめ上げてしまう。
企画書にはアイドルの名前が並んでいた。プロフィールシートと同じアイドルだろう。
アイドルの名前はあとでプロフィールとあわせてみることにして、先に概要を把握することを優先した。
「……レコ発ライブイベント……この時期ってことは、次のフェスに出すことを想定してるのか……ん」
プリントされた文字の横に、手書きでメモが書かれている。
「……会場、作編曲者、確保済み……」二度読み返す。「……もう、ケツが決まってるってことか」
小さく溜息をつく。
「そのほかは……」
スケジュールをチェックしていくが、ほかに動かしがたいものはなさそうだった。
プロフィールシートを見ていくことにする。封筒からそれらを取り出そうとし……
「……う」
思わず、眉間を押さえた。取り出そうとしたシートがきらきら光ってるかのように錯覚したのだ。
俺にも疲れが出ているのかもしれない。今夜は早めにあがろう。体は資本だ。
あらためて、封筒の中身を取り出す。社の所属アイドルに使用する書式のシートが三枚と、オーディションの際に使用される書式のシートが一枚。
「まずはうちの所属アイドルから……上条春菜……」
Tシャツを着て、ピンクのセルフレームの眼鏡をかけた少女だった。
セミロングよりやや短いくらいのストレートの黒髪で、素朴な印象を受ける。
シートのアピールポイントには何度となく『眼鏡』の文字が登場し、そのどれもがわざわざ太字にアンダーラインで装飾されている。
本人のこだわりなのだろうか。
「で……、関裕美」
プロフィールの写真は不安げな表情でカメラを見つめている。
強くウェーブのかかった豊かな栗色の髪は上条のそれとは対照的だった。
額を大きく見せていて、少女らしく明るい印象を狙いたいのだろうが、表情が硬いのが難点といったところだろうか。
先輩ならうまく彼女の魅力を発揮させられるのだろう。
「白菊ほたる」
三枚目の写真は、幸の薄そうな色白の少女だった。
関裕美よりもいっそう不安げ、いやこちらは『不幸そう』といったほうがいいかもしれない。
写真はゴシック調のグレーの服を着ているが、表情のせいでまるで喪服のように見える。
プロフィールシートを机に並べて、俺は唸った。
「……この三人を、先輩はどうプロデュースするつもりだったんだ?」
思わず口をついて出たが、先輩の考えなんぞ悩んでもわかりっこない。
俺はオーディション書式のシートを見る。
「荒木比奈……んんー?」
シートの写真を見て、声が漏れた。写真に写っているのは、ジャージ姿で髪もぼさぼさの眼鏡をかけた女。
写真から推察するに、どうもメイクを一切していない。写真の表情は不安や不幸などではなく『不満げ』なレベルだ。
「芸能部門の書類が紛れ込んだのか?」
芸人や役者部門なら、役どころによってこういう応募もありえなくはない。
俺は書類のタイトルを確認する。しかしそこには、確かに『アイドルオーディション応募シート』と書かれている。
俺はもう一度企画書を引っ張りだし、ユニットメンバーを読み返す。
そこにも『荒木比奈』としっかり書かれていた。
「先輩は、こいつになにか可能性を感じたってことか……? んっ」
よく読むと、荒木比奈の名の横に小さく文字が印刷されている。
「……『スカウト予定』。……まさか」
俺は書類を机の隅にまとめて、デスクの端末のキーを叩く。
部署を問わず、美城プロダクションに所属するタレントの中から『荒木比奈』を検索。
……該当なし。誤字を避けるために『荒木比菜』『荒本比奈』『荒木*奈』、そのほか思いつく限りのことを試す。
対象者をタレントではなく、全社員にまで広げる。
……が、該当はなかった。
「これからスカウトするってことかよ!」
俺は声をあげて机を手のひらで叩いた。思ったより大きな音がして自分で驚く。
プロデューサールームには俺しかいないし、外を誰かが歩いていても気にはされないだろうが。
おそらく、先輩はオーディション審査で落選になったアイドルのうちの一人に白羽の矢を立てたんだ。
あの先輩ならありえないことじゃない。
これからの苦労を十数秒考えて、俺ははっとして封筒を探る。
もう中にはなにも入っていない。机の隅にまとめた書類をもう一度改める。
プロフィールシートは四枚しかない。
「ユニットは……五名だよな」
企画書を読み返す。たしかに五名と書かれている。
だとすれば、一人足りない。
「ということは……」
俺は両目を手の甲で覆って椅子の背もたれに体重を預けた。
先輩はまだユニットのメンバーのうち四人しか決めていない。
あとの一人を、先輩はこれからゼロからスカウトする予定だったのだ。
これも、先輩ならありえない話ではなかった。
これまでも多くのアイドルを、信じられないようなところから発掘してきた。
発掘して、プロデュースして、羽ばたかせてきた。
それと同じことを、これまで雑用くらいしかしていない俺にしろと言われても、できるはずがない。
「……辞めたい、実家に帰りたい……」
本音がだらだらと漏れた。だが、この状態ではさすがに辞められない。
実家に帰っても、たま上京することくらいあるだろう。
そういうときにびくびくせずに道を歩けるようでなければいけない。辞めるなら円満に辞めたい。
「でも、辞めないにしたって、こんな状況どうすりゃいいんだよぉー!」
俺は頭を抱えて叫んだ。叫んだ拍子に、積み上げた書類が机から落ち、床中に散らばった。
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「お姉さん、お美しいですね、よろしかったらちょっと話を聞いていただけませんか? あ、そうすか、すんません。……あ、そこのお嬢ちゃん、かわいいね? かわいいって言われない? 俺、アイドルのプロデュースしてて……急いでる? じゃ、名刺だけでも! 興味があったらでいいから……あ、すんませんでした」
名刺をひっこめて、去っていく女性の後ろ姿に向かって俺は軽く頭を下げる。
人通りの多いところで、カメラ映えしそうな女性を探しては声をかけ続け、一時間とすこし。
話を聞いてくれる人はゼロ。せいぜい数人が名刺を受け取ってくれたくらいだ。
「そりゃ、怪しすぎるしな……でも、じゃあ先輩はどうやってスカウトしてたんだろう」
俺はスカウトには同行していなかったから、そのノウハウは全くわからない。
先輩はふらっとでかけたと思えば、誰かをスカウトして帰ってきた。
どこでどうやって出会ったのかという、アイドルとはまるで縁のなさそうな淑女から、声をかけたら保護者に通報される危険すらあるんじゃないかという子どもまで。
そんな才能など持ち合わせていない俺は、場所を変えながら声掛けをつづけた。
声を張るのも疲れてきたので、ティッシュ配りのように、気軽い感じで名刺を配る方法に変えてみる。
それだけだと意味が判らないので、受け取ってもらえたら声をかけて追いかけ、新人アイドルのスカウト中であることを話す。
これでいくらかの名刺がはけた。どうがんばってもアイドルになれなさそうな人物も半分以上混ざっていたが。
「ま、名刺が切れるくらい声かけてくれば、仕事をしたっていう実績は作れるからな」
俺はそう口に出して、自分で大きく頷く。先輩の仕事ぶりを完全にコピーするのは不可能だ。
先輩だって、スカウトが上手くいかないことだってあるはず。
それなら、企画書のほうを直して、四人のユニットに軌道修正してデビューさせるだろう。
大事なのはアイドルユニットが完成され、俺が仕事をしたと証明できることだ。
足せないときは引いてみたらいい。あとで先輩が復帰してから追加してもらう手もある。
そう、先輩が戻るまでは『維持』ができればいい。
「あー、ちょっといいかな、きみ」
「はい?」
突然男性の声で話しかけられて、俺はそちらを振り向く――警官が立っていた。
「ちょっと通報があってね。このあたりで勧誘行為は困るなぁ」
「あ、はい……」
俺は小さくなって頭を下げる。
「そういうわけだから、よけいな仕事させないでね。はい、行って行って」
手のひらでここから去れとジェスチャーされ、俺は地面に置いていたカバンを持ちあげると、そそくさとそこを立ち去った。
不審者扱いされても文句は言えないが、気分のいいものではない。
ほんとうに、こんな世の中で先輩はどうやって路上でのスカウトを成立させているんだろうか。
俺は首を傾げた。
「ま、名刺はほとんど配り終えたしな」
俺は自分の名刺ケースを見る。残りはあと一枚だった。
これを適当に誰かに渡して今日の仕事はおわり。
そう考えた俺は、あてもなくぶらぶらと歩く。
と、前方に緑の芝生と階段が見えた。
「河川敷か。けっこう歩いてきてたんだな」
俺は河川敷へと向かう。いまの時間なら夕日がきれいに見えそうだ。
一日の終わりにちょうどいい。もし誰か人がいれば、その人に名刺を渡そう。
土手の上を目指す。階段は少し離れていたので、芝生を昇っていった。革靴だと上りにくいのが難点だ。
「よっと……、実家の近くにもこんな土手、あったな……」
――アイツと、よく走り回ったっけ。芝生もしっかり管理されてはいなくて、草はぼうぼうに伸び放題だった。
麦わら帽子がお気に入りだったアイツは、夏になるといつも河川敷でアイドルの撮影ごっこをしたがって、伸びた草のあいだから――
「……」
脳裏にしまいこんだはずの記憶の泥が舞い上がりそうな気がして、俺は足元の草を見つめて、なにも考えずに河川敷を上った。
「…………バーーーッ!」
すこし離れたところで元気のいい声がする。
なにかスポーツでもやっているのかもしれない。
この程度でも疲れる筋肉に運動不足を実感し、ようやく土手を登り切り、顔をあげたところで――
「ボンバーーーーッ!」
「!?」
右耳に鼓膜を突き破りそうな大きな声が飛び込んだかと思うと、つぎの瞬間、右半身に何かがぶつかるような強い衝撃。
「おわっ!」
「あっ!」
ぶつかられた俺はそのまま斜め後ろ方向へとバランスを崩す。
――やばい。後ろは、いま上ってきた土手の坂道だ。
「うわあああーっ!」
俺は土手をごろごろと転げおちた。
視界の上下左右が激しく入れ替わって、地面に身体のいろんなところをぶつける。
転げ落ちるあいだ、両腕を使ってせめて頭だけはガードした。
身体が命の危険を感じたのか、生まれてから今までの想い出がフラッシュバックする。
田舎の風景、小学校時代、幼なじみのアイツの顔――
とはいえ、河川敷は数メートル、傾斜も緩く芝生で守られているので命の危険はない。
土手の下で体はとまり、俺は体を起こした。
「いでで……な、なんだ」
「すっ、すいませんっ! 大丈夫でしたか!?」
声のする方を仰ぎ見る。
若い女のような高い声だったけれど、夕日が逆光になり、姿はまぶしくてよく見えない。
「ああ、怪我はしてないと思うから……」
立ち上がり、体中に着いた草や土を手ではたき落とす。
そのあいだに、女はこちらに向かって土手を降りてきていたようだった。
「すいませんっ!」
女は俺の前まで来ると、直立して、深々と頭を下げた。
「空を見ながら走っていたら、土手から人が昇ってきたことに気づきませんでしたっ! すいませんっ!」
やたら大きな声で謝っている。
「俺は大丈夫だから、とりあえず顔をあげて……」
俺が声をかけると、ようやく女は顔をあげた。
「……あ……」
顔が見えたとき、俺の口から思わず声が漏れた。
女、というよりはまだ少女と言ったほうがよさそうだった。
百五十センチあるかないかの小柄な少女。
夕日を受けて栗色に輝く長い髪は、後ろでアップにまとめられている。
長いまつげ、大きな目はこの世に不幸な運命なんてひとつもないと信じてるかのようにまっすぐだった。
太陽みたいな明るい表情のその少女は、少女の持つ雰囲気そのままの、太陽みたいに赤いシャツを着て、俺をまっすぐに見ていた。
――似てると思った。が、こんなに若いはずはない、同一人物ではない。……似ているだけだ。
「すいませんっ! お怪我はありませんでしたかっ!」
俺は我にかえる。似ているだけだ。
こんなにやかましく暑苦しくはなかった。
「あ、だ、大丈夫」
「すいません、夕日を見ながら走り込みをしていて、前方不注意でした!」
小柄な体に似合わず声が大きい。俺は思わず耳を塞ぎそうになった。
「いや、俺も階段じゃないところから上がってきたし、怪我もないから、本当に大丈夫」
「スーツ、汚れませんでしたか!」
「濡れてないしこのくらいなら。どうせそろそろクリーニングに出そうと思ってたところだし」
「それなら、よかったです!」少女はその場で軽く走り出す前の腕振りをはじめる。「では、走り込みの途中でしたので、これで! ほんとうにすいませんでした!」
少女は礼をすると、俺に背を向けて走り出す。
そのとき。
「あ、待って!」
俺は、その少女を呼び止めていた。
理由は自分でもわからなかった。気づいたら、声をかけていた。
声をかけた理由を、俺は声をかけた後から探していた。
「なんですかっ?」
少女は立ちどまり、きょとんとした顔をする。
「これ、良かったら」
名刺を差し出す。そう、これが目的だったはずだった。
「名刺、ですか? 美城プロダクション、プロデューサー……」
「アイドル、やってみない?」
「はぇ?」少女は間の抜けた声を発して、俺の顔と名刺とを交互にみる。「アイドル……?」
「そう、アイドル」
「アイドル……って何ですか?」
「は?」こんどは俺の口から間の抜けた声が出た。「えーと、あの歌ったり踊ったりする、あの」
「えっ」
少女は一瞬フリーズする。それから。
「えええええええええっ! 私が、アイドルーーーーーーーー!?」
とっさに両手で耳をガードした。
それでもなお鼓膜にビシビシ響いてくる大声は、河川敷に面したマンションの壁面に跳ね返ってあたりにこだました。
「あ、ははは」俺は両耳から手を離す。直に受けたら耳鼻科のお世話になるところだったかもしれない。「まぁ、興味があったらそこの名刺の番号に連絡してみてよ」
「でっ、でも! わたしがアイドルなんて! そういうのは、もっと、そう! もっとかわいい女の子とかが!」
「その点は大丈夫だと思う、キミはかわいいから」
その言葉は本音だったためすっと出た。
アイドルの魅力は必ずしも見た目の良さだけではないが、普段からアイドルや芸能人を見慣れている自分から見ても、この少女の容姿は平均から群を抜いて光っている。
俺にとっては単なる本音だったが、その言葉を聞いた少女のほうは再び、一瞬のフリーズ。そして、解凍。
「わっ、私が! カワイイなんて、そんな!」
少女は大げさな動きで二、三歩のけぞり、顔を耳まで真っ赤にした。
「それに、すごく元気だし。その元気を、ステージで、テレビで、みんなに分けてあげたらいいんじゃないかって」
「あ、あ、あ」そこで少女の緊張は限界に達したようだった。「わ、私っ! ……しっししししし失礼しまーーーす! ああああーーーーっ! ファイヤーーーーーーッ!」
少女は顔を真っ赤にしたまま、なにかを叫びながらその場から走り去った。
しばらく、その後ろ姿を見つめていた。陽はだいぶ傾き、土手を風が通り抜ける。
「……」
空になった名刺入れを見る。
「とりあえず、これで今日のノルマは達成ってことで。戻るか」
俺は少女の走り去ったほうと逆に歩き出す。
スカウト用の携帯電話をチェックするが、着信はない。
ないほうがいい、そのほうがここから先の仕事が楽だから。
そう思うのに、心の端で、あの少女から電話が来たらどうだろうかと考えている自分に気づく。
「ま、そのくらい、強烈なキャラだったからな」
先輩だったら、あの少女を勧誘していただろうか。
そんなことを考えながら、俺は美城プロダクションへと戻る道を歩く。
一人で歩きながら、これからのことを考える。
荒木比奈にも一度はアプローチしてみなくちゃならない。
あっちは素人だろうし、やる気もなさそうだった。向こうから断ってくれるかもしれない。
楽にやるだけさ。俺は両手をポケットに突っ込んで、背中を丸めて歩いた。
空しかった。自分に言い訳していることは、自分が一番よく判っていた。
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その日の夜。
プロデューサールームで、帰り道に買ったコンビニ弁当をつつきながら、今日の報告書と、所属アイドルや関連部署の資料を作成していたときだった。
スカウト用の携帯電話が振動する。
俺は口の中の弁当のおかずを急いで咀嚼し、ペットボトルのお茶を一口飲んで、はぁ、と息を吐いて、電話を取る。
「はい、美城プロダクションの……」
「あのっ!」
名乗りが終わる前に、大きすぎて完全に割れてしまっている少女の声が響いた。
それだけで、話しているのが誰だかわかった。
「私っ! さっき河川敷で、ぶつかっちゃって、あのときはすいませんでした! それで!」
電話が来れば面倒だって思っていたはずだった。
それなのに。
「私、アイドル! やってみたいです!」
少女がそう言ったとき、俺はたぶん、すこし笑っていたんだと思う。
「右も左もわかりません、でも! 私、ラグビー部のマネージャーをやってます! マネージャーも、選手に頑張ってもらう仕事です! それと同じで、私がアイドルになって、誰かに頑張ってもらえるなら、すばらしいと思うんです!」
「ああ」
思わず、ほんの少しだけ、携帯電話を耳から離した。
自分が現実を忘れないでいられるように。
脳裏に、もう帰ってこない日々と、アイツの顔をフラッシュバックさせながら、俺はもう一度、電話に耳をつける。
「ええと、いいかな。さっき名刺を受け取ってくれた人だよね?」
「はいっ!」
「お電話ありがとう。……まず、お名前を教えてもらえますか」
「はっ、名乗りもしないで、すいません! 私!」
少女の名前を書きとめるため、俺は机の端のメモパッドとボールペンを手元に引き寄せる。
「日野、茜と言います!」
第一話『お熱いのがお好き?』
・・・END
長々すいません。続きはまたすぐに。
現実をきちんと見据えたほうがいい。
世の中にはいくらかのトップアイドルがいる。
その下に多数の、旬が過ぎればすぐに世間から忘れられてしまうようなそこそこのアイドルがいる。
そしてそのさらに下には、アイドルになれなかった無数の普通の人間がいる。
塔のてっぺんの席の数は、数えるほどしかない。
塔の中に入ることすら難しいのに、塔の中に入っても、満足に飯を食い続けられるかはわからない。
きらきらしたお宝を手に入れることができる者よりも、ただ若さと時間と金と労力を失っていく者のほうが圧倒的に多い世界。
そんな世界に誘おうとするのは、人を騙しそそのかす悪魔となにが違うだろうか?
部屋の中にアラームが鳴り響き、俺はそれを半自動的に叩いて止める。
朝。寝覚めは最悪だった。寝て起きれば、昨日を冷静にみつめることができるようになる。
俺は思い返す。適当にスカウトをしていた結果、一人の少女が、アイドルをやりたいと言った。
俺はそれを受け入れた。不覚にも。
どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからない。
心の奥底から、俺を冷笑する声が聞こえてくる気がした。
「……おはよう」
俺以外誰もいない部屋の中で誰へともなくそう言って雑念を散らし、布団から体を起こして洗面所へと向かう。
仕事をする。生きるのにも、よけいな記憶から目を背けるのにも、それ以外に方法はない。
新ユニットの仕事を進めていく。
先輩が選んだ構成アイドルのうち、すでに美城プロダクションに所属しているアイドルには、顔合わせの日程をメールで伝えた。
それまでにすべきことは、レッスンの手配、曲や振付の打ち合わせ、宣伝活動の計画。
事務的なことは先輩の下で働いたときの手順をたどっていけばいい。
問題は頭脳労働だ。
どのアイドルをどうプロデュースすればいいのか。俺にはさっぱりわからない。
わからなくても、俺のせいでアイドルたちが不人気に終わるのは気分が悪い。
だから、俺はせめて現状維持に努める。
あとは、先輩が早く快復して戻ってこれるように祈ろう。
作業が一段落して、俺はひとつ息をつく。
午後までかかって、ひとまずの事務作業を片付けた。卓上のデジタル時計を見る。
「いまならまだ、荒木比奈のスカウトに行けるか……」
言いながら、気持ちはずっしりと重たくなった。
それでも自分を奮い立たせて立ち上がる。
荒木比奈への接触は、どうせ顔合わせより前には片付けなくちゃならないことだ。早いほうがいい。
ジャケットを着ると、プロデューサールームの内線電話が鳴った。俺は受話器を取る。
「受付です。あの……お客様かどうかわからないのですが、そちらの名刺をお持ちの方が」
「俺の?」
俺は首をかしげる。特に誰かと会う予定はない。
「はい。自分はアイドルになるんだとおっしゃってます。弊社に登録されている様子は無いですし、入館証もお持ちでなく、来客予定のリストにもなかったので……」
受話器の向こう、受付嬢は困ったような声でそう言った。
俺の脳裏には一人の人物が思い浮かぶ。
「……ひとまず、そちらへ向かいます」
「お願いします。今は警備員が止めています」
俺は受話器を置くと、ロビーへと向かった。
「ふんんぬうーーーーーーーーっ!」
プロダクションのロビーには力のこもった声が響きわたっていた。
入館ゲート付近に声の主を見つけて、予想が的中した俺は脱力した。
見覚えのある襟付きの真っ赤なシャツ。
きのうスカウトに応じた日野茜が、入館ゲートを乗り越えようとして、警備員と組みあっている。
「ですから、いま呼びましたから、お待ちくださいって!」
「なんの、これもアイドルになるための障害っていうことですね! 乗り越えてみせます、全力プゥーーーーーッシュ!」
会話が成立していない。俺は小走りにゲートへと向かう。
困り顔の受付嬢に会釈して、組み合う警備員と日野茜のところへ。
「あー、すいません、すいません」
割って入って警備員から茜を引き離す。
茜は、俺を見るとぱっと顔を輝かせた。
その顔があんまりに晴れやかで、俺の心の奥がうずく。
「プロデューサー! 来てくれたんですね! 日野茜、アイドルになるべく、やってまいりましたよ!」
俺は困り果てて笑っている警備員に頭を下げてから、茜に向きなおる。
「手続きの日程は伝えていたはずだよな」
「はいっ!」茜はロビーに響き渡る大声で返事をする。「でも、いてもたってもいられなくなりました! なにか先に、アイドルになるためにできることがあればと思ったんです!」
俺は思わずこめかみを押さえた。
「すいません、関係者です。来客者用カードを」
俺は受付嬢へ言う。
受付嬢は苦笑いしながら、首掛けストラップつきのカードを渡してくる。それを茜に寄越した。
「ほら、これで、ゲートをくぐれるから」
「おおっ、これが! 扉を開くカギなんですね!」
茜は渡されたカードを首にかけると、大股でゲートをくぐった。
警備員のほうを得意げに見る。警備員も苦笑いだ。
「正式に社内に入れるようにする手続きをするから、着いてきてくれ」
「はいっ!」
茜の大きな声は、発せられるたびにホールに響き渡った。
そのたびに、俺は胸がずしりと重くなるのを感じる。
平穏に仕事をしたいはずだったのに、とても面倒な道へと進んでいるような気がした。
-----
社員やアイドルを管理している部署へと赴く。
茜をプロダクションのアイドルとして登録する手続きを終えれば、正式な入館証を渡すことができる。
鼻息荒く興奮状態の茜をベンチへ座らせ、俺は部署のカウンターで入館証の発行を希望した。
「どのタイプの登録ですか?」
若い男性社員に問われて、俺は考える。
ここで正式に茜をプロダクション所属のアイドルとして登録することもできる。
だが、俺は先輩の補欠だ。先輩が戻ったらすぐにでもプロデューサーの座を明け渡す。
そのとき、茜が先輩の眼鏡にかなわなかったら?
そのときは、抹消の登録も必要になる。
――アイドルになりきれなかった者への、心の痛むような宣告をしなくてはならない。
『わたし、アイドルにはなれなかったよ』
俺の脳裏に、苦い記憶が再生される。
「アルバイト証で」
蘇りかける記憶を遮るように、俺はそう言った。
一時的なエキストラ出演者などに対応するためのアルバイト証なら、正式なプロフィールを作る必要もないし、どんなことになっても手続きは最小で済む。
「はい、じゃこちらの書類ですね」
俺は書類を受け取ると、それを茜のところへと持って行った。
これが最良だろうと、自分の心に言い聞かせながら。
「……ついてこなくてもいいんだぞ」
俺の言葉に、茜は大きく首を振った。
「いえっ! マネージャーも最初は雑用から! なんでも見学して慣れたいんです!」
茜は鼻息荒くそういって、腰のあたりで両手に握り拳を作り気合を入れる。
俺たちは荒木比奈の自宅へと赴いていた。
一人で行くつもりだったが、茜がぜひ着いて行きたいと言いだしたのだ。
プロデューサー業の見学をしてもしかたないとも思ったが、俺は同行を認めることにした。
俺一人でも十分不審者扱いされるだろうだが、茜が加わればより挙動不審だ。
比奈が怪しんでスカウトを断るかもしれない。そのほうが俺の仕事は楽になる。
そんな俺の思惑など知らず、茜は移動のあいだじゅう、ずっと支給された入館証を眺めては嬉しそうにしていた。
比奈の家の前までたどり着き、俺は表札の部屋番号と手元のプロフィールシートとを対照した。
三〇二号室。ここで間違いない。
事前に記載された電話番号に電話をしてみたが、応答はなかった。
最近では知らない番号の電話には出ない人も多いというから、おかしなことではない。
自宅に不在なら、スカウトを試みたが失敗したということにできる。
しかし、誰かしら在宅はしているようだ。室内は電気がついているようだったし、玄関の横にある電気メーターはぐるぐると高速回転している。
「ここですね! さあ、プロデューサー! あらたな仲間との出会いです!」
「わかったわかった、落ち着いてくれ」
茜をなだめ、出ないでくれよ、と願ってから、インターフォンのスイッチを押す。
数秒経ったあと、部屋のおくからドタドタと足音が近づくのが聴こえ、それから玄関の扉が勢いよく開いた。
「突然の訪問、失礼します、わたくし……」
「あああああやっと来たっスね! 待ってたっス!」
鬼気迫る声で俺の挨拶を遮ったのは、確かに先ほど確認したプロフィール写真の女、荒木比奈その人だった。
野暮ったいジャージまで写真と同じだが、実物の比奈の目にははっきりと濃いくまがあらわれている。寝不足なのだろうか。
「時間がないっス、二人とも、まずは中に入って!」
「は……?」
比奈は呆気に取られる俺たちにギラギラした目線を送ると、俺の腕をつかみ、部屋の中へと引き入れようとする。
「ちょ、ちょっと」
「とりあえず中で“すかうと”のお話でしょうか? 行きましょうプロデューサー! おじゃましまーす!」
茜が元気よく挨拶し、俺を比奈の自宅の玄関へと押し込んだ。
「そう、“すけっと”待ってたっス! どうぞっス!」
「いやちょっと、おい待てって!」
俺の願いは一切聞き入れられないまま、入ってきた玄関の扉は茜によって閉じられた。
茜は鍵と、ご丁寧にチェーンロックまでかける。
「ちらかってるっスけど、締め切り前ってことで勘弁してほしいっス」
比奈は廊下を奥の部屋へと歩いていく。俺も仕方なくあとに続き、さらにその後ろから茜がついてきた。
部屋に入る。確かにちらかっていた。
だが不潔というほどではない。嫌な臭いなどは漂ってこない。
机の上にはデスクトップパソコンと液晶ペンタブレット、それと大量の紙類。
ざっと見たところ、マンガの原稿のプリントアウトのようだ。
壁沿いに配置されているソファーにはタオルケットが畳まれている。
部屋の一角のキッチンにはコンビニエンスストアの弁当の残骸が見え隠れするゴミ袋と、缶コーヒーや栄養ドリンクが多数。
カーディガンが椅子に掛けられているが、それ以外に衣服や洗濯物などが散乱している様子はない。
ざっと見渡して、男の俺が視線を向けて失礼に当たる場所はなさそうだ。
「プロデューサー! これ、なんの道具ですか?」
茜が液晶ペンタブレットやマンガ原稿を見て目を輝かせている。
俺はこの状況を分析した。おそらく、比奈は俺たちを誰か別の来客予定者と勘違いしている。
さっき比奈は、茜の“すかうと”という声に対して“すけっと”と返事をしていた。
きっと締切直前の修羅場で、マンガ制作を手伝う助っ人を呼んでいたのだろう。
となれば、いまの俺たちは招かれざる客。呑気にスカウトの話などしていい場面ではない。
これは交渉不成立ということで退散すべき場面だろう。
「ええと、荒木さん、私たちは」
「いやー突然の助っ人、OKしてもらえてほんっとーに助かったっス! 今回ばかりはさすがに間に合わないと思ったっス。感謝の言葉もない……さっそく、作業の説明をしていいっスか!」
話を遮られて俺は口ごもる。比奈の目は全然笑っていない。
時間がないことをアピールするオーラが体の周りに見えるかのようだった。
とても自分たちが助っ人ではないことを言いだせる雰囲気ではない。怖い。
「表紙はできてるっス。現状はペン入れの終わった原稿が八ページ、ネームまでの原稿が十ページ。入稿は明日の十時っス」
言われて、俺は時間を逆算する。今が午後四時前。素人目に見ても到底無理ではないか、という予測が頭をよぎったときだった。
「……その目!」比奈は俺の両肩をがしっと掴んだ。「無理だと思ってるっスね!? 大丈夫っス! 絶対間に合わせてみせるっス!」
比奈のすさまじい剣幕に、俺はつばを呑んだ。
比奈は俺の肩から手を離し、液晶モニターの前に座る。
画面の反射でぶ厚いレンズの眼鏡がギラリと光った。
「ふ、ふふふ……やってみせるっス……ジェバンニは一人で一晩……こっちは三人もいるっス、楽勝に決まってるっス……ふふ……」
意味の分からないことを呟きながら、比奈は怪しく笑う。
「ええと、これは! なにをすればいいんでしょう!」
茜がそう尋ねると、比奈はふふふ、と低くあやしく笑って、マウスを二、三回クリックした。
パソコンの近くにあるプリンターが音を立て、なにかを印刷し始めた。
「これから二人には、主にベタやトーンの作業をしてもらうっス」比奈はプリンターから紙を引っ張り出す。「ペン入れまで終わっている原稿はここに指示を書いていくので、二人はそれに沿って作業を進めてほしいっス。操作は大丈夫っスよね?」
比奈は指でパソコンを示す。
「すいませんっ! わかりませんっ!」
茜が大きな声で言い、その場で頭を下げた。比奈は目を丸くする。
俺は身構えた。
この状況で比奈の神経を刺激するようなことは、まずいような気がした。
が、比奈は数秒考えるようにしたあと、デスクの引き出しを開けてなにかを取り出した。
小箱のようなものを持ち出して、テーブルの上に置き、中を開く。
筆とインクの瓶が入っていた。
「じゃあ、女の子の助っ人さんは……」そこまで言って、比奈は首をかしげる。「そう言えば、名前を聞いてなかったっス」
「はいっ! 日野茜ですっ!」
「茜ちゃん。よろしくっス」
「よろしくおねがいしまぁっす!」
茜の返事はいちいち近所迷惑になりそうなほどうるさいのだが、比奈は気にしていないようだった。
修羅場すぎて、マンガの完成に関係のない感覚や常識の一部をカットしているのかもしれない。
「茜ちゃんには、アタシの指定した場所をベタ……この墨で黒く塗りつぶしていって欲しいっす」
「わかりましたぁっ!」
その素直さはどこからくるんだよ、と茜に内心でツッコミを入れた。
これもアイドルのスカウトの一部だとでも思っているのだろうか。
「そんで、そっちの助っ人さんは、大丈夫っスよね?」
比奈は笑顔で俺の方を見る。
笑顔なのに目だけが脅すような威圧感を放っている。
もちろん、俺もマンガなんて描いたことはない。
「つ、使うソフトは……」
俺は苦し紛れに尋ねた。
「ああ、たぶんどれも似たようなもんっスから、慣れっスよ、大丈夫っス」
比奈はそう言って、俺にモニターの前に座るように促した。
なにが大丈夫なのか全くわからないが、俺はモニターの前に座る。
立ち上がっているソフトの画面を見て、マウスでいくつかのメニューをクリックしてみる。
ざっと見たところ、画像編集ソフトの応用が利きそうだ。
販促物なんかをデザイナーに発注するときに、イメージを伝えるための簡単なものを作るくらいのことなら経験があった。
「こんな感じで指示を入れてあるっス」
比奈が原稿のプリントアウトを渡してくる。
紙面には、モニター画面に表示されているものと同じ原稿に、スクリーントーンや集中線などの指示がメモされていた。
俺はパソコンを操作し、キャラクターの服部分にスクリーントーンのパターンを入れる。
「オッケーっス! そんな感じで頼むっス!」
比奈はそういって俺の背を軽く叩くと、液晶タブレットに向かった。
「よおおおおおっし! 全力でいきますよおおおおおお!」
茜も腕まくりをして気合を入れている。
俺は二人の顔を一度ずつ観た。二人とも作業に入っている。
完全に押し切られた。今更人違いであるとは言いだせない。
ひとまず、観念して作業を開始することにした。
もし予定通りの助っ人が来れば、その時に事情を説明して交代すればいい。
俺は上司に、出先から直帰になる旨をメールで送信する。
それから作業指示に沿って、原稿をはじめようとし――
「ああっ!」
茜の大きな声がして、俺と比奈はそちらを見た。
茜は困ったような顔で比奈を見る。
「すこしはみ出してしまいました! ……どうしましょう」
「ああ、大丈夫っス、ちょっとならホワイトで修正すれ……ば……」
比奈は茜の手元の原稿を見ながら言いかけ、絶句した。
俺も茜の原稿を見る。……“すこしはみ出した”程度ではなかった。
登場人物の髪型が全てアフロになっている。
俺は肝が冷えた。
おそるおそる比奈のほうを見る。比奈はじっと原稿を見ていた。
全員が三秒沈黙。恐ろしく長い三秒だった。
「茜ちゃん」比奈は少し低い声で言った。「やっぱり……茜ちゃんには買い出しを頼むっス」
比奈はそう言うと、机の横に雑多にまとめられていた紙束の一番上の一枚に、さらさらとメモをしていく。
「よし、これをお願いするっス、重要な任務っス!」
比奈から渡されたメモを茜は真剣な目で読み、それから立ち上がる。
「了解しましたっ!」
茜は鼻息荒くそう言って部屋を出ていこうとするが、廊下へ出るドアの前でぴたりと止まり、こちらを振り返った。
「そういえばっ、私、お金を持っていませんっ! どうしましょう!」
「あー……」比奈は後ろ頭を掻く。「そういえば、アタシもたぶん、いまは財布カラッポっス……」
そして、比奈と茜は俺のほうを見た。
「……」
俺は観念して財布から五千円札を取り出すと、茜に渡した。
「行ってきまあっす! 全力ダーッシュ!」
茜は勢いよく部屋から飛び出していった。ドアの閉まる音がする。
「いやー面目ない。必ず後で返すっス」
比奈はそう言いながら、茜がベタ作業をしかけた原稿を紙束の中に押し込んだ。
それからは黙々と作業が続いた。
比奈は原稿に指示を入れて俺に渡し、俺はその指示に従って効果をつけていく。
俺の作業が終わったら、比奈が最終調整をする。
単純な作業の繰り返しだが、最近は頭を悩ませるようなことばかりだったので、それに比べれば気楽なものだった。
茜は息を弾ませて買い物から帰ってきたが、ちょうどその時に外から夕方五時を知らせるメロディが鳴った。
俺は茜を家に帰すことにし、比奈もそれを了承した。
部屋の中に比奈と二人になり、作業を続けさらに数時間。
すっかり日が暮れたころになっても、比奈が呼んだはずの助っ人は来なかった。
俺は比奈に助っ人について尋ねようかと思ったが、それでは比奈と二人きりで作業をしている俺はいったい何者なのか、ということになってしまう。
結局、俺は言いだせずに作業をつづけた。
その後、深夜になり、日付が変わっても助っ人は現れなかった。
俺はそのころようやく、もう助っ人は来ないものと諦めることにした。
未完成の原稿はあと八ページ。俺は二本目の、比奈は三本目のエナジードリンクを呑み干した。
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「お、終わった、っス……入稿、完了……!」
時刻は午前九時五十分。
そう言って比奈はそのままパソコンのそばの床に倒れ込んだ。
「本当に、助かったっス……」
比奈はそう言うが、すでに目が半分寝ている。
最初にあったときよりもくまはさらに濃くなり、顔色も悪い。
「と、とりあえず……寝るっス……助っ人さんも……こんなところでよかった……ら……休ん……」
そこまで言って限界に達したのだろう、比奈は目を閉じて、寝息を立てはじめた。
俺はソファーのうえに畳まれていたタオルケットをとって比奈にかけてやる。
「初対面の男がいるってのに、呑気なもんだよな……」
俺は無防備な比奈の寝顔を一瞥すると、ジャケットと荷物を取って立ち上がる。
まさか徹夜になるとは思わなかったが、これでスカウト失敗ということでいいだろう。
玄関まで来て、扉をみてはっとした。この家の鍵がどこにあるのか判らない。
女の一人暮らしの部屋で、家主が熟睡しているなか、鍵をあけたまま出ていくのも気が咎める。
俺はしばらく迷って、比奈が目覚めてから出ていくことにして、部屋の中へと戻った。
会社にはコアタイムの出社が間に合わないことを連絡する。
「ふぁ……ぁ……」
口から欠伸が漏れた。限界のようだ。俺は比奈から離れたあたりで横になり、そのまますぐに眠りに落ちた。
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「日野茜っ! ただいまもどりましたぁっ!」
脳に刺さるようなでかい声が耳に入って、俺は夢も見ないほどの深い眠りから強制的に引き上げられた。
「ん……」
体を起こす。まだ睡眠が足りない。
床で寝ていたせいか、身体のあちこちが少し痛む気がした。
「マンガはどうでしたか! まにあいましたか!?」
制服姿の茜が部屋に立っていた。
学校が終わってそのままここに来たのだろう。
外はまだ明るい。ということは、夕方前くらいの時間だろうか。
「う~ん……なんスか……?」
荒木比奈のうめく声が聞こえた。眠たげに目をこすりながら、比奈は体を起こす。
「ああ、茜ちゃん……なんとか間に合ったっス。お二人のおかげっスよ」
「よかったです!」
茜に言われて、比奈は穏やかに微笑む。
髪も顔もぼろぼろだが、さきほどまでの緊迫した雰囲気ではない。これが素の彼女なのだろう。
「えーっと、時間は……ああ、集中するために携帯の電源落としてたんでした……」
比奈はデスクの上の携帯電話を操作する。
「ん~、三時半すか。さすがにまだ寝足りないすね、二徹になるとは思わなかったっス……っと、メール来てたっすね……」
比奈は携帯電話の画面を見つめて、それから首をかしげる。
「『ごめん、派遣するはずだった助っ人の二人、用事が出来て来れなくなった』……えーと……」比奈は俺と茜を一度ずつ観る。「ってことは、お二人は、どちらさんっスかね?」
まだ目が覚めきっていないのだろう、呑気な比奈の疑問に、俺は苦笑いを返し、茜はそもそもなにが起こっているのかよくわかっていない様子だった。
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「はぁ、なるほど……そりゃ、勘違いして申し訳なかったっス……」
俺が事情を説明すると、比奈は俺が渡した名刺を眺め、頭を掻きながらそう言って謝った。
「あんときの罰ゲームっスね……」比奈は腕組をして唸る。「勝負に負けた人がアイドルのオーディションにシャレで申し込むって条件でボドゲしてたっス……まさかこんなことになるとは」
「弊社としては、荒木さんにぜひ参加していただきたいと考えていますが……もちろん、無理強いはできません」
できるだけ、比奈が断りやすいように組み立てた文章を、俺は口から吐きだした。
茜は俺のとなりに座って、らんらんと目を輝かせて比奈を見ている。
「ん~」比奈はまた頭を掻く。「とりあえず……アタマ働いてないんで、シャワー浴びてくるっス。そのあいだに考えるんで。急ぎじゃなかったら、もうすこし待っててもらえるとありがたいっス」
「あ……はい、どうぞ」
俺がそう返事をすると比奈は立ち上がり、引き出しからバスタオルなどをとりだしてバスルームへと向かった。
「……はぁ」
茜がいるとはいえ、極度の寝不足とはいえ、知らない男がいる中で無防備なものだ。
「プロデューサー、比奈さん、来てくれるといいですね! うー、待ちきれません!」
茜は立ち上がり、なぜかその場でスクワットをはじめた。
昂揚した気持ちのやり場がないのだろう。
「ああ……なあ、俺は部屋の外に出ておくから、比奈がシャワーから上がって、話ができそうになったら呼んでくれ」
「了解ですっ!」
茜は元気よくそう言い、俺はふらふらと部屋の外に出た。
マンションの玄関近くに自販機が見える。
俺はそこまで降りていくと、微糖の缶コーヒーを買い、ぐいと煽る。
ちひろさんのドリンクほどではないが、糖分が疲れた頭を多少でも回復してくれる。
比奈はスカウトにどう返事をするか。順当に考えて、まず受けないだろう。
荒木比奈という人物はどう見てもインドア派、オタクの部類だ。
人前に出て輝くことにあこがれを抱くどころか、むしろ忌避するようなタイプ。
だからこそ不思議に思う。なぜ先輩は、比奈に目を付けたのか。
「結局、それが判らない俺は、プロデューサーに向いてないってことなんだよ」
どこへともなくつぶやいた。
思考をほかのところへ巡らせる。マンガを作るのはなかなか新鮮な体験だった。
ことによると二度とチャンスはないかもしれない。
「あのマンガ、面白かったな」
作業に必死でしっかり読み込むことはできなかったが、比奈の漫画は躍動感にあふれ、十八ページでストーリーもまとまっており、絵も巧かった。
印刷所の締め切りを気にしていたということは、アマチュアの同人誌作家だろうか。プロでも十分通用しそうだ。
あとで落ち着いて見せてもらいたいとも思うが、仕事のことを思えば、これでお開きになるのが一番いい。
そのことに、多少の名残惜しさを感じていたときだった。
「プロデューサーっ! 戻ってきてくださーいっ! 比奈さんがシャワーからあがりましたよーっ!」
ご近所に聞かれたらあらぬ誤解をされそうな大声がきこえたので、俺は空になった缶をゴミ箱に放り込むと、比奈の部屋へと戻った。
「……っ」
玄関に入って、俺は息を呑んだ。
荒木比奈が変貌していた。
先ほどまでの野暮ったいジャージではなく、カジュアルなワンピースを着ている。
睡眠で体力を取りもどした顔と肌は血色を取りもどし、締切前の緊迫から放たれた、すこし眠たげで無防備な表情が色気を感じさせる。
シャワーから挙がってしっとりと濡れた髪。
機能だけが強調されセンスの欠片もなかった眼鏡もまだつけていない。
風呂上がりの女は割増で見える。が、こんなにも変わるか?
先輩はこれを、あのプロフィール写真だけで見抜いていたとでもいうのだろうか。つくづく恐ろしい。
「どうしたっスか? ……まだドライヤーもかけてないので、あんまり見られるとその、恥ずかしいっス」
比奈は手に持っていたバスタオルで顔を隠しながらそう言って、俺を部屋の奥へ行くよう促した。
俺は我に返って、靴を脱いで奥へと向かった。
居間では茜が、プリントアウトされた比奈のマンガを食い入るように見ていた。
「準備が出来たら話しかけてくれって言ったが、あれはまだ話ができる状態じゃないだろ」
茜に文句をつけるが、茜はマンガに集中していて返事をしない。俺は肩をすくめた。
しばらくして、茜はマンガの原稿束を丁寧にそろえて机の上に戻すと、放心したようにはあっと息を吐いた。
それから勢いよくこちらを見る。
「プロデューサー、すごいです、このマンガ」
「あ、ああ」
茜の声色が真剣だったので、俺は戸惑った。茜の目が読めと言っているように思えて、俺は机の上の原稿を取る。
作業を通して一度は読んだはずの原稿をもう一度、読み進めていく。一ページ、一ページ。
昨日何度も読んだはずなのに、あらためて完成品を通しで読んで――心が震えた。
俺は作品から受け取った熱量を言葉にする手段が見つからないまま、原稿束を丁寧にそろえて、机の上に戻す。茜と同じく口から溜息が漏れた。
「……私たち、これを作るお手伝いをしたんですよね」
「ああ」
茜に言われて、ようやくそのことに思い至った。
この原稿の一部に、自分が関わった。それがどうにも、実感として現れてこない。
そういえば、同じようなことがあったと思い出す。
先輩がプロデュースしたアイドルのステージ。
華々しく、ステージライトと声援とを浴びて、輝いていたアイドル。
先輩は『お前もこのステージを作ったスタッフなんだ』と言ってくれた。実感はなかった。
――実感することを、拒んでいたのかもしれない。
「おおーっ! 私! なんだか心がアツくなってきましたっ! いてもたってもいられないです! 比奈さん、まだですかぁっ!」
「お待たせしたっス」
茜が立ち上がったちょうどそのとき、髪を乾かした比奈が部屋に戻ってくる。
俺と茜に向かい合うように腰を下ろした。俺も姿勢を正す。
「いちおう、もう一度――弊社としては、荒木さんをお迎えしたいと思っています。もちろん、無理にお願いできることでもありませんので、ご自身でよくお考えになって、お返事をいただければ」
俺がそう言うと、比奈は俺たちとのあいだの床に目線を落とした。
「アイドル……キラキラしてる子たちっスね。……アタシはそーいうのとは、無縁っていうか」
「……ええ」
俺は相槌を打つ。やはり、比奈はアイドルをするような人間ではない。
「歌ったり踊ったりとか、経験ないですし。マンガだって、フツー描いてる人は前に出ませんし。裏方とかが似合うキャラなんスよ、アタシは」
「……ええ」
このままなら、荒木比奈は断るだろう。
それでいいんだ。俺はそう自分に言い聞かせた。
同時に『自分言い聞かせた』ことに気づく。どうしてだ。これが一番いいはずだろう。
「だから、アイドルとかは、誘ってもらって申し訳ないっスけど――」
そこまで比奈が言ったときだった。
「やりましょうっ、比奈さん!」
割って入ったのは茜だった。茜は勢いよく立ち上がる。
「アイドル! 私、比奈さんといっしょにアイドルやりたいんですっ!」
俺も比奈も、呆気に取られて茜を見ていた。
やがて、比奈は困ったように笑う。
「いやー、アタシなんて……茜ちゃんにそう言ってもらえるのはうれしいっスけど、アタシは茜ちゃんみたいにかわいくないですし、キラキラもして――」
「キラキラしてますっ!」
茜は比奈の言葉を遮るように言った。
茜は机の上の原稿を指さす。
「比奈さんのマンガ、すっごく面白かったです! すいませんっ、なんて言ったらいいかわかりませんっ! だけど、キラキラしてました! あんなマンガを描ける人が、キラキラしてないわけがないじゃないですかっ!」
茜はそう言い切った。
比奈は驚いたように目を丸くしている。ほんの少し、頬があかく染まっていた。
「あ、はは」比奈は我に返り、恥ずかしそうに頭を掻いた。「マンガ褒めてもらえるのはめちゃくちゃうれしいっスけど……でも、アイドルとはやっぱ、別物っすよ、ね、プロデューサーさん」
比奈は俺のほうを見る。
「確かに、一緒ではない、けれど――あのマンガは、本当に、面白かった、掛け値なしに。あれはきっと、空っぽな人間には、ぜったいに描けない。比奈さん、あんたの心のなかにはきっと、なにかがあるんだ。人を惹きつける、なにかが」
それは本心だった。言って俺ははっとする。
先輩は、この『なにか』を、比奈に見出していたっていうことか。
俺に言われて、比奈はふたたび目を見開いて、さっきよりも顔を赤くする。
「ね、だから!」茜はずいと比奈に詰め寄る。「アイドル、一緒にやりましょう!」
比奈は俺と茜の顔を一度ずつ見て、それから視線をもう一度床に落とし――それから、俺のほうを向いて、ふっと笑った。
「しかたないっスね。原稿も手伝ってもらっちゃいましたし。ほんとに、なんでアタシなんだか、さっぱりわかんないっスけど――」
比奈はそこで、俺の目の奥を見詰める。
「比奈さんが、やっていただけるなら」
俺は混乱していた。俺は比奈にアイドルをやってほしいのか? それとも、やってほしくないのか?
自分で自分が判らなくなっていく。
「ぜひ、参加していただければ」
「やりましょうっ!」
茜が嬉しそうな声をあげる。
比奈は、ひと呼吸おいてから、口を開いた。
「……わかったっス。どうせ半ニートみたいな立場ですし……プロデュース、よろしくお願いするっス」
そうして、比奈はぺこりと頭を下げた。
茜がひときわやかましい、喜びの雄たけびをあげた。
「はー、なんだかものすごいことになっちゃったっス。アタシ、まだ夢の中なんじゃないっスかね?」
比奈はそう言って笑う。
「そういえばプロデューサー、夜通し手伝ってもらって悪かったっス。シャワーくらいなら貸せるっスけど……どうっスか?」
「いや、俺は……遠慮しておくよ、戻って浴びるから」
さすがに、女性の部屋のシャワーを借りるわけにはいかないと思った。
「そうっスか……じゃ、茜ちゃん、浴びてくっスか?」
なんでそうなる、というツッコミを入れる間もなく。
「いいんですか! では、お言葉に甘えて!」
浴びるのかよ。遠慮しろよ。お前はきのう家に帰っただろうが。
比奈はバスタオルを取り出すと、茜をバスルームへと案内した。
比奈が戻ってくる。やがて、シャワールームからは水音が聞こえ始めた。
「さて――」比奈は机から眼鏡を取ると、それをかけて、俺の前に座った。「プロデューサー、訊きたいことがあるっス」
比奈は真剣な表情だった。俺が黙っていると、比奈が続ける。
「プロデューサー、アタシや茜ちゃんをプロデュースするって話、どこまで本気なんスか?」
「……っ」
俺は答えに窮した。比奈は眼鏡のレンズの奥から、こちらを試すように見ていた。
シャワールームからは水音が鳴り続けている。
「アタシを誘ったときの言葉、ちょっとだけ迷いを感じたっス。アタシを誘いたいからここに来たはずなのに、プロデューサーの態度はどっちでもいいって感じだったっス。そんなんで、ちゃんとプロデュース、してくれるんスか? ……一応アタシ、マンガ描いてるくらいっスから、人間観察力は高いんスよ」
比奈に問われて、俺は少し迷い――それからひとつ息をついて、観念して俺の立場を話すことにした。
ここまで言われてしまって、即答で否定できなければ、もう嘘をついても通らないと思ったからだ。
先輩から急に引き継いだプロデューサーという立場、茜との経緯、本当は仕事を適当にやって、実家に帰りたいという俺の意識。
全てを聞いて、比奈は少し目を細めてふーん、と息を吐いた。
「なるほど、判ったっス」
「……どうする、やっぱり辞めるか?」
俺が尋ねると、比奈は首を横に振った。
「まずはお試しってことで、アイドルやってみるっス。一度OKしたことをひっくり返したくはないですし、茜ちゃんにも悪いですし。自信はないっスけど。それに……マンガ褒めてもらって、嬉しかったですし」
比奈はそう言って姿勢を崩した。
足を投げ出して、後ろ手を床につき、天井のあたりを眺める。
シャワールームの水音が止まった。
「いま聞いた話は茜ちゃんや、これから会うほかのアイドルのみなさんには秘密にしておくっス」
「助かる」
俺がそう言うと、比奈は目を細める。
「アタシ、共犯者になっちゃいましたね。この先、アタシも実際にアイドルやってみて、ちゃんと続けられるかはわかんないっスけど……元のプロデューサーに引き継ぐとしても、それまでのあいだ、茜ちゃんたちをがっかりさせるようなことには、しちゃだめっスよ」
「ああ」
返事をしながら、俺の心の奥がうずいた。記憶の底のアイツが蘇る。
――アイドルになりきれなくて、がっかりしていた、アイツが。
「ま、そんなに心配はしてないんスけどね」
比奈にそう言われて、俺は首を傾げた。
シャワールームの扉が開く音がする。
「プロデューサーはたぶん、そこまで無責任にも悪人にもなれないヒトっスから。ヒミツ、ちゃんと守り通すタイプのヒトっスよ」
比奈はそう言って、いたずらっぽく笑った。
第二話『ヒミツの花園』
・・・END
長々すいません。
続きは7日に。
人生はいつも、自分の力だけで思い通りにはできない。
なりたいものがあっても、得たいものがあっても、それらが一人の力で手に入れられるということは決してない。
ライバルが自分よりすこし優れているだけで。
協力者であるはずの人物の力が足りないだけで。
その夢はあっけなく崩れる。
目の前にいるこいつらに、この人がプロデューサーじゃなければ夢を掴めたのに。
そう思われて終わることだって、ありえないわけじゃない。
そのときは潔く、自分が無能であることを受け入れなきゃいけない。
そうじゃなきゃ、目の前のこいつらが力のない無能だってことになってしまう。
そうじゃなきゃ、アイツは力がないのに夢を目指したただの道化になってしまう。
「……そう言うわけで、これからよろしく」
俺がプロデュースするアイドル全員が揃った、初顔合わせの日。
美城プロダクションのミーティングルームでユニット活動の概要を伝え、最後にそう挨拶した俺に対して、五人のメンバーはそれぞれの反応を返してきた。
「がんばりましょうっ! いよいよですね! 燃えてきましたーーー走りますか!」
音を立てて椅子から立ち上がったのは茜だった。鼻息荒くしているところを隣の比奈になだめられている。
「茜ちゃん落ち着いて、走らなくていいっス……いやぁ、なんか実際アイドルになるって……実感わかないっスね、まだなんにもしてないっスけど」
比奈は茜の服の裾をひっぱりもう一度椅子に座らせながら、のんびりと言った。
比奈は部屋でみたのと同じ、野暮ったいジャージ姿だ。アイドルっぽさのかけらもない。
「私……皆さんに迷惑だけはかけないようにしないと……」
白菊ほたるは、両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、足元のあたりに視線を落として、不安そうにしている。
「まぁまぁみなさん……とりあえず、お近づきの印と、ユニット活動開始を記念して、眼鏡どうぞ!」
上条春菜は立ち上がると、カバンから次々に眼鏡を取り出し、その場にいる全員の前にひとつずつ並べていく。
色や形が違う。メンバーに合わせて選んできたのだろうか……俺の分もあった。
「ちょっと、待ってよ」
すこしとげのある声がして、眼鏡を配る春菜の手が止まった。部屋の全員が声の主のほうを見る。
関裕美が、真剣な眼で俺を見ていた。
「いきなりプロデューサー交代って言われても、納得できない。私のことをスカウトした人は、どこにいっちゃったの?」
「あー、っと、その、怒らないでほしいんだが」
「怒ってない」
裕美は俺の声を遮るように言った。言ってから、俺のほうを見ていた目を逸らす。
唇をぎゅっと閉じて、怒りとも哀しみともつかない表情で壁のほうを見つめていた。
ほかのメンバーは不安そうな顔でこちらを見ていた。
茜はどうしたらいいのかわからないらしく、俺と裕美とを交互に見て困っている。
「……もともとお前たちをプロデュースする予定だった先輩は、過労で倒れた。だから、俺が引き継ぐことになったんだ。急ですまないが――」
「か、過労……」ほたるが消え入りそうな声で言う。「……やっぱり私が、いるから……」
裕美とほたるを中心に、ミーティングルームには重い空気が流れ出す。
俺は困惑した。裕美が先輩の不在で不安なのはわかる。が、ほたるはどうして必要以上に沈んでいるのか。
「いや、だからその」俺は明るい声を作るように努めた。「先輩に比べたら力不足かもしれない。けれど、先輩が戻るまでのあいだは、きっちりやるつもりだから」
俺は記憶を探った。先輩ならこういうときにどう言っただろうか。俺がプロデュースするから、安心しろ、だったか。
「――だから、俺がプロデュースするから、みんな」アイツの顔がちらつく。「一緒に、がんばろう」
ほんのすこし、沈黙が流れた。
「そっか……病気じゃ、しょうがないよね」
裕美はそう言って、目を細めて小さなためいきをついた。
笑顔ではなかった。
「そうっスね、まー、やってみましょーか。アタシ、アイドルとかどうすればいいのかわからないっスけど……やってみないと、なにも始まらないですし、やりはじめればどうにか形にはできるもんスよ」
比奈が助け舟を入れてくれる。
「そーです!」
茜が再び立ち上がる。ほたるがそれに驚いたのか、小さく悲鳴を上げた。
「ピンチにこそチームワークを発揮して乗り切るときですよ! ここにいるみんなならできます! メンバー一同頑張りましょう! ファイトーーーーォォォ……あれ?」
いつものシャウトが来るかと思いきや、そこで茜は首をかしげる。
「このチームの名前、なんて言うんですか?」
「そういえば、ユニット名、聞かされてないですね」
春菜が思い出したように言った。
気が付くと、さっきとちがう眼鏡をかけている。
「ああ、ユニット名は……まだ未定だ」
「……未定スか」
比奈に確認されて、俺は頷いた。
先輩の残した資料に、ユニット名は書かれていなかった。
俺が茜をスカウトするより前、メンバーが決まりきってない段階の資料だったから、最後の一人をスカウトしてからつけるつもりだったのかもしれない。
引き継いだ身として一応ユニット名を考えてはみたものの、あまりしっくりくるものが思いつかなかった。
そもそも俺は名づけなんてしたこともない。下手に触るよりかは、先輩が戻るまで未定にしておくほうがいいようにも思えた。
「曲のリリースまでには決まるさ」
俺はそう言い訳する。『決める』ではなく『決まる』という表現を使ったのは、ユニット名は必ずしもプロデューサーが決めるものではないからだ。
ユニットメンバーの中から出ることもあれば、誰かお偉いさんがつけることもある。
「うーん、いろいろ宙ぶらりんっスね……はは」比奈が乾いた笑いを発した。「それで、次の予定は、資料によると……宣材の写真撮影、っスか?」
「ああ。このあとはスタジオで撮影だ。実際に活動を始めたほうが、あれこれ悩むより掴めるだろう。俺も先輩から引き継いだばかりでイメージ不足だ。みんなも不安だろうが、一歩一歩やっていこう」
自分を落ち着かせるように、俺はそう口にした。
「センザイ! 洗うんですか! 任せてください! マネージャーですから、みんなのユニフォームだってよく洗ってますよ!」
茜のおそらく本気の間違いは、勢いがありすぎて誰も訂正できなかった。
----------
「おお」
着替えとメイクを終えてスタジオに入ってきた五人を見て、俺は声を漏らした。
春菜、ほたる、裕美の三人はユニット結成前に撮ったソロの宣材写真があり、俺も目を通している。
そのイメージと大きな差はないが、衣装も違うし、写真で見るのと実際に見るのとでは印象が違う。春菜は姿勢がよいせいか、写真よりも清楚なイメージだ。
ほたるはやや暗めのコーディネートにしているにも関わらず、スタジオの照明の効果でネガティブなイメージは払拭され繊細なイメージを得ている。
あとは表情が明るくなればより魅力を増すだろう。
裕美もドレスを身に纏うことによって、広く見せた額が動的なイメージを作り出し、コサージュもよく似合っている。
比奈はそもそも普段の姿とのギャップが大きく、衣装をまとうだけで化けるが、メイクによって一層映えた。
五人の中で最年長だからか、スタイリストも全体的に大人っぽさを強調させることを意識したようだ。
一方でヘアメイクは敢えて隙をのこし、本人の無防備さ、無頓着さを素朴な色気に転換している。
茜はというと、顔を真っ赤にして、お腹のあたりを腕で隠すように抱えていた。
スタイリストが選んだのはホットパンツとショート丈トップスのへそ出しファッションだった。
大きなリボンで長い髪を結び、髪の先はもとからの癖をさらに強調するようにアレンジしている。
本人があれだけエネルギッシュなら、順当なコーディネートだ。
「プロデューサー! その……お腹がすーすーします!」
「暖房つけるか?」
「そういうことじゃないと思うっスよ」
比奈が苦笑いした。
カメラマンによる撮影が始まってからは、基本的に俺は見ているだけだ。
俺自身もユニットのイメージをつかみ切れていないので、写真についてはカメラマンの感覚に任せている。
衣装とアイドルが映えるように撮ってもらえればいい。素人が口を出すよりいいものができあがるだろう。
春菜、ほたる、裕美の三人の撮影は、三人ともすでに経験があって順調だった。
続いて比奈の撮影に移る。
「い、痛いっス……これ以上は……無理っスよ……」
「もうちょい頑張って、もうすこし深くしたほうが一番いい角度になるから!」
「う、うぐぐぐ……これで……どうっスか……?」
カメラマンのリクエストに、比奈はポーズの腰の角度をさらに深くする。
インドア生活で運動不足なのだろう。カメラマンの指示したポーズを維持するのがものすごく辛そうだ。
「オッケー、それで笑って!」
「無理っス! 心も体も折れるっス! アタシ、スタンド使いとかじゃないっス!」
撮影が終わった頃には、比奈はチェアーでぐったりしていた。
次は茜の撮影だ。
「うん、いいよ、もっとポーズに勢いつけてみようか!」
「勢いですね! こうですか!?」
「あー実際に動いたらブレちゃうから、止まって、止まって!」
「はい!」
「でも勢いはつけて」
「はい!」
「あはは、だから動いたらブレちゃうって! あははは、じゃあもうそれでいいや、気合入れて!」
「ボンバーッ!」
「はいボンバー! あははは」
茜のキャラクターは妙にカメラマンの笑いのツボに入ったらしい。
素人である茜の撮影がカメラマンにとってのストレスにならなかったことが幸いだった。
茜は撮り終わった写真を見せられながら、カメラマンからかわいいと褒められて顔を真っ赤にしてスタジオを走り回っていた。
最後には五人そろっての写真を撮る。
ぜひ全員眼鏡でとねだる春菜のリクエストで、眼鏡で記念撮影のように一枚。これにはなぜか俺も巻き込まれた。
その後はアイドルだけで撮影が続いた。比奈が「若いコに囲まれて複雑な気分っス」とぼやき、茜は自分よりも年少である裕美とほたるの二人と並んだときに「もう少し背が高くなりたいです! 牛乳飲みます!」と意気込んでいた。
撮影後は、それぞれ普段着に戻り、五人に初心者向けの一眼レフカメラを一台渡して、プロダクションの内部を使ってお互いの写真を自由に撮らせた。
特にルールは設けずに、社内のカフェや団らんスペースでおしゃべりをしながら日常的な表情を撮る。
先輩がやっていた手法で、アイドルたちの親睦を深めながら、キャラクターを把握するのによい手段なのだろうと俺は理解していた。
撮影の日が終わり、プロデューサールームの俺のデスクの一角には、ユニットのアイドルたちの写真をスライドショーするデジタルフォトフレームが増えた。
それから日を置いて、ダンスレッスンがはじまった。
春菜、ほたる、裕美の三人は、プロダクションのアイドルイベントにバックダンサーとして参加する予定が入っている。
それに合わせて、茜と比奈もレッスンに参加し、基礎のステップから順に慣れていってもらう。
「それでは、まずは曲のあたまからやってみましょう」
トレーナーが五人の前に立ち、手拍子をはじめる。
カウントのあとに、五人それぞれがステップをはじめた。
春菜、ほたる、裕美の三人は本番も近いので、ダンスはほぼ完成した状態だ。
それぞれに細かく指摘すべき点はあるのだろうが、バックダンサーということであれば、現状でもステージで十分通用する。
ここからのレッスンは確認と反復練習が中心だ。
いっぽうの茜と比奈は今回の参加が初めての本格的なダンスレッスンということになる。
事前に資料を渡して振付を覚えるように伝えてあり、二人とも自宅で練習していたようだ。
しかし本番やそれを想定したスタジオのレッスンのような環境は、個人練習とはまったく状況が異なる。ただ振付を覚えればよいというものではない。
レッスンから二十分も経たないうちに、比奈は床にすわりこみ、茜もびっしょり汗をかいている。
トレーナーは最後に茜と比奈の二人だけを残し、それぞれのダンスの状態を見た後に、最初の休憩の判断を入れる。
「お疲れ様です! お水、しっかり摂ったほうがいいですよ!」
春菜が茜と比奈に水の入ったペットボトルを渡していく。レッスン室の端の机に俺が用意していたものだ。
「ありがとうっ、ございます」
「……ありがとうっス」
二人は肩で息をしながらそれを受け取った。
春菜たち三人は体力もまだ余裕が見える。
トレーナーはクリップボードにメモを取りながら、二人にレッスンのフィードバックをしていく。
「荒木さんは基礎体力からですね。あとでメニューを作ってプロデューサーに渡しておきます。体力をつけるのは時間がかかりますから、これから毎日着実にがんばって行きましょう」
「了解っス……いやぁ、激しいっスね、アイドル……明日は確実に筋肉痛っス……」
「体力がつくと、身体を動かすのも楽しくなりますよ!」
トレーナーはにっこり笑う。
「あはは、まぶしいっスね……」
「それで、つぎは日野さんですね」
「はい、っ……」茜の返事は詰まり、茜は一つ咳こんだあとに返事をしなおす。「はい!」
「茜ちゃんも思ったより疲れてるみたいっスね、体力ありそうなのに、アイドル恐るべし」
比奈がそう言って水を口に含む。
「頑張りが足りないですかね……もっと走り込みを増やします……!」
「茜ちゃんでそんなになら、アタシはまだまだ遠そうっスね……」
「あまり心配しなくても大丈夫ですよ」トレーナーがフォローに入る。「日野さんは運動部だけあって、基礎的な体力は大丈夫だと思います。いま疲れてしまうのは、振り付けを覚えきっていなかったり、周りのメンバーの動きとのズレに惑わされてしまうからですね。不必要に大きな動きをしたり、呼吸が整わなかったりして、余計に疲れてしまうんです。振付が身について、みんなと一緒に踊ることに慣れれば、疲れすぎずに踊れますよ」
「なるほどっ! がんばります!」
茜は嬉しそうに握り拳を作った。
トレーナーがこちらに歩いてくる。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です……どんな感じですか?」
俺が尋ねると、トレーナーは笑顔のまま一つ頷いた。
「ええ、上条さん、白菊さん、関さんの三人は問題ないでしょう、ほかのバックダンサーのメンバーとの調整も時間はかからないと思います。日野さんと荒木さんも、筋はいいですよ。日野さんは動きが大きくなりがちなので、ユニットダンスでは周りに合わせてもらうようにレッスンしていきます。荒木さんは体力が課題ですが、ダンス自体はしっかり覚えてますし、自分の動きをしっかり見ながら練習できているみたいです」
「なるほど」
ひとまず心配することはなさそうだった。
比奈はマンガを描いていた経験が美的センスとして応用できているのだろうか。
なにが活きるかわからないものだと俺は思う。
「うーん、思ったよりもハードなものだったんスねえ……」
比奈がこちらに歩いてきていた。豊かな髪に汗がキラキラ光っている。
「そこらのスポーツなんかよりはずっと、体力を使うな」
「自信なくなってきたっス……」
比奈は肩を落とす。その目はダンススタジオ中央で、小さな動きでダンスを確認している茜を見詰めていた。
茜は短時間の休憩でも体力が回復してきたようだ。
アイドルのステージは見た目の華やかさに反し、実際には体力勝負だ。
衣装を着て歌いながら激しいダンス、それを何曲も続けていく。
さらに全プログラムを通して笑顔を保ったままで続けなくてはならない。ツアーとなれば連日だ。
体力的に限界が訪れていても、たとえステージ中にけがをしていても、アイドルは苦痛に歪んだ顔を決してステージでは見せない。
だからこそ華やかさを保てる。羨望の的にもなれる。
「トレーナーも言ってた通り、こればかりは一朝一夕では身につかないさ。毎日頑張れよ」
「マンガもすぐに上手くなるもんじゃないですし、わかってるんスけどね……うう、引きこもりには厳しいっス……」
比奈は自分の太ももを揉みながら、うめき声をあげていた。
そのあとも数十分、レッスンは順調に続いた。
その日以降、メンバーばらばらに数回のダンスレッスンと、合間を縫ってのボイストレーニングを経て、春菜、裕美、ほたるがバックダンサーを務めるイベントの本番の日が訪れた。
現場は中規模程度のライブステージ。エンタメ系の大規模展示会の中のイベントステージという位置づけだ。
特に出番があるわけではないが、ステージを見学させておくために、茜と比奈も現場に呼んでいる。
「それでは、行ってきますね!」
ステージ裏、衣装に着替えた春菜が、舞台袖の隅にいる俺たちに笑いかける。
比奈が軽く手を振り返し、茜はがんばってください、と本人なりに抑えた声でエールを送っていた。
今日はユニットとしての活動ではなく、仕切りもメインのアイドルのプロデューサーだ。
春菜たちもほかのバックダンサーとともに行動している。
「笑顔、笑顔……だいじょうぶ」
裕美が胸に手を当ててつぶやいている。緊張しているのかもしれない。
ほたるも不安そうな顔をしている。
ダンスは丁寧すぎるくらいに練習していたので心配ないとは思うのだが。
「舞台裏……初めて入ったっス。こういう風になってるんスね……」
比奈はあたりを眺める。
「裏から見ると、表とは全然違うんですね! こう、木! っていうんでしょうか!」
茜がセットの裏側を見て言った。
確かに、舞台裏には独特の雰囲気がある。表側の華やかな雰囲気とは違い、装飾されていない側の無骨な木材、鉄筋と、機材のケーブル、照明。客席やステージ上とは対称的な静けさ。音はステージのセットに遮られ、こちらと向こうが別世界であることを無意識にも実感する。
そして、伝わってくるスタッフたちの緊張感。ここは、舞台という異空間を支える、あらゆる専門家たちの戦場だ。
「……よく見ておくっス」比奈が真剣な顔になっていた。「きっと、貴重な機会っス」
「おいおい、そのうち出る側だぞ」
「そうっスけど……いまのこの新鮮な気持ちはきっと今だけっス」
比奈はそう言って、薄く笑った。――ぞくりとさせられる。
「確かに、比奈さんのいう通り……なんだかすごいですね」
茜も、なにかに憑かれたようにステージのほうを見ていた。
「みなさん、今日はおねがいしまーす!」
高い声がひびいて、俺たちはそちらを注目た。
うさぎの耳をつけたアイドルが、バックダンサーたちに頭を下げて挨拶をしている。よろしくおねがいします、とバックダンサーたちの挨拶が返った。
「あの人が、今日の主役なんですね!」
茜がきらきらした視線を向けていた。
「ああ、安部菜々。けっこうキャリアの長いアイドルだ」
「あれ? あのヒト、プロダクションの中で見た気がするっス」
「カフェじゃないか? プロモーションも兼ねて働いてるって聞いた気がするな」
「カフェ……たぶんそうっス」
「そうなんですか! 何歳なんですか?」
「十七歳だ」
「え? プロデューサー、さすがに十七歳は」
「十七歳だ」俺は比奈の言葉を遮った。「安部菜々は十七歳だ」
「……了解っス」
会話をしていると、安部菜々がこちらに歩いてくる。
「安部、菜々です! 今日はよろしくお願いします!」
安部菜々はそう言って丁寧に深く頭を下げた。うさ耳がその動きに追従する。
「いや、俺たちはスタッフではなく、今日は見学で。美城プロダクションの新人のアイドルの現場見学なんです」
俺は両隣に立っている茜と比奈を示す。
「日野茜です! よろしくお願いします!」
「荒木比奈っス。ステージ、がんばってくださいっス」
「そうだったんですか! 茜ちゃんに、比奈さん! これからよろしくお願いしますね! それでは!」
安部菜々はにっこり微笑むと、待機位置へと向かって行った。
「すっごくカワイイ人でしたね!」
「オーラすごいっスね……あれが、アイドル……アタシもあんな風に、なれるんでしょーか」
比奈のつぶやきに、俺は返事をしなかった。
アイドルとしてきっちりキャラクターを作り、比奈たちを魅せることができる安部菜々ですら、アイドルとしてのトップ層ではない。
ステージ上の音楽が胸を打つほどに大きくなり、スタッフがにわかに騒がしくなった。安部菜々のステージが始まる。
「始まるぞ」
俺が短く言うと、茜と比奈も真剣な表情になった。
スタッフが出演者たちに合図をした直後、ステージと舞台袖とを隔てるカーテンを開く。
安部菜々はスタッフとダンサーたちに向かって穏やかな顔で頷いたあと、暗転しているステージへと飛び出していった。
そのあとを、バックダンサーたちが追いかける。
茜が小さく「頑張って」と声に出した。春菜たち三人に向けたのだろう。
「菜っ々でーーーーっす!」
舞台の明転と同時に、高く明るい安部菜々の声がステージに響いた直後、雄たけびのような歓声が返ってくる。曲の前奏が流れた。
「メンバーの入場は終わった、もうすこしステージの近くまで寄ろう」
俺は客席が見えるか見えないかのところ、アイドルたちの背中が見えるあたりまで二人を連れていく。
そこから垣間見えるのは、アイドルしか見ることが許されない景色。
ステージライトと、無数のサイリウムの光の波に照らされ。
音に乗り、歓声と熱気に包まれて。
場の全てのエネルギーが、その中心にいるアイドルへと向けられる。
普通の人生では絶対にたどり着けない夢の世界が、そこに広がっている。
茜と比奈は、声を発することもなく、ただ安部菜々というアイドルのステージに見入っていた。
俺はそこから二歩下がった。二人が少しでもよくステージを見ることができるように。
ステージを見つめる二人を見て――心がちくりと痛んだ。どんなに憧れても。求めても。
あそこまでたどり着けないアイドルだっている。
たった一歩の距離、たった一枚の薄い緞帳で遮られたあの向こう側には、才能と運に恵まれた、運命の女神に見初められた者しか、たどり着けない。
たどり着けないものもいる――だから。
プロデューサーなんて、やりたくなかったのに。
俺は目を細めた。同時に、曲が終わり、客席のほうからは再び、歓声の音の波が襲ってくる。
茜と比奈が同時にこちらを向いた。
「……すごいっスね」
比奈が真剣な眼をして言った。
ふだんよりゆっくりとした動きで、比奈は自分の頭を掻く。すこし震えているのかもしれなかった。
茜は声すら出せていない。口で、ゆっくりと深く呼吸していた。
胸の内の興奮をどう表現したらいいかわからない。そんな表情だった。
「……二人とも、まだ美城プロダクションのアイドルステージは何曲かある。立ち見になるだろうが、客席のほうからも見てみるといい。俺はここに居るから、ステージが終わったらまたここに戻ってきてくれ」
そう言って、客席側へと続く通路を示した。
二人は頷くと、客席のほうへと歩いて行く。
俺はその後ろ姿を見送って、それから肩をすくめた。
「先輩、早く……戻ってきてくれませんかね……」
ぼそりと呟いた俺の声は、次の曲のアイドルに向けられた歓声にかき消された。
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「お疲れ様でしたーっ!」
イベントをトラブルなく終えた撤収中の会場に、出演者、スタッフ全員の声が響く。
これ以降はスタッフは資材の片づけへ、出番が終わったアイドルはそれぞれに解散となる。
打ち上げがあるにはあるが、各個人の事情を考慮して、出席が必須というわけではない。
各所に挨拶を終えた春菜、裕美、ほたるの三人が、俺と茜と比奈のいるあたりへやってくる。
「みんな、お疲れ様」
「お疲れ様です!」
「お疲れ様」
「お疲れ様でした……」
声をかけた俺に、三人が三様に返事を返してくる。
「ふう、無事に終わって、よかった……」
「ええ、本当に……事故もなにもなくて、よかったです」
裕美とほたるが穏やかな笑顔で安堵の息をついた。
「二人とも、すっごくかわいかったですよ! キラキラしてました!」
「そう? ……ありがとう。ちょっと自信、ついたかな」
「ありがとうございます」
茜が目を輝かせて二人を褒めると、裕美とほたるは恥ずかしそうに笑った。
ステージのあとは、緊張からの解放と、肉体の疲労とで、格別の充実感が得られる。
「私はちょっとだけ失敗しちゃって……つぎはもっと頑張らないと」
春菜は胸の前で握り拳を作った。失敗があったということだが、とくにショックを受けているわけではないようだ。
「ぜんぜん気づかなかったっスよ、お客さんも気づいてないと思うっス。マンガも展開が熱ければちょっとくらいおかしくったってどうにかなりますし」
「そうだといいんですけどね……」
比奈のフォローに、春菜は苦笑いした。
「おおおーーっ! 私! 燃えてきました! あれがアイドルなんですね! キラキラして、みんなを熱くして……すごいです! その……すごかったんです!」
「あはは、茜ちゃん、さっきから興奮しすぎちゃって、ずっとこんな感じでして」比奈が春菜たちに説明する。「けれど、アタシも興奮したっス」
「つぎは、この五人でステージに立ちましょうね!」
春菜がにっこり微笑んだ。比奈は頷く。
「はいっ! 私も、やりますよぉーーっ! ファイヤーーーーッ!」
茜は拳を天井へ向かって突き上げて、周りが注目するほどの大きな声で雄たけびを挙げた。
「……アイドルのライブ、初めてちゃんと見たっス」
比奈が俺のとなりへと歩いてくる。
興奮しっぱなしの茜のほうを眺めながら、比奈はつづけた。
「引きこもってたアタシでも、リア充の世界に、あの舞台に立てるのか……わからないっスけど、ちょっと、興味出てきたっス。なんだか……すっごく熱いマンガ読んだときと似てるっスね、なにかしたくて、いてもたってもいられなくなる感じっス」
「……そうか」俺は比奈の横顔を見た。「良かった」
「でも、プロデューサーは、あのステージを見ても、辞めたいって思っちゃうんスね」
「……」
俺は沈黙した。比奈はこちらを見はしなかった。
「慣れっスかね……マンガも、ある時を境にぱったり描かなくなっちゃう人はいるっス。みんな最初は、熱を持ってたはずなんスけどね。どこに置いてきちゃうのか……アタシは少なくとも、さっき感じた熱さはもう少し、追いかけてみるっスよ。今はプロデュース、おねがいするっス」
「……ああ」
俺の返事を聞いて、比奈はひとつ頷くと、また茜たちのほうへ歩いて行った。
茜は両手に裕美とほたるそれぞれの手をとって、天井に向かって掲げると、大きな声でいつものシャウトをしていた。
その不安の欠片も持っていないような、突き抜けた明るい声と表情に、俺は思わず目を細めた。
その数日後。
俺は上司から、過労で倒れた先輩の容態が悪く、復帰には時間がかかることを伝えられることになった。
第三話『ハートに火をつけて』
・・・END
長々すいません。
あたたかいお言葉ありがとうございます。励みになります。
続きは14日に。
長い?
むしろ短いくらいだなあ!!
面白いよ乙!
おつ
いい感じ
幼なじみのアイツは、いつもテレビの向こうのアイドルに憧れていた。
田舎町だ、娯楽なんてなんにもない。だから、夜が更けてからはどの家もみんなテレビを見ている。
テレビの向こうできらきら輝くアイドルになるのが夢なのだと、アイツはいつも話していた。
そして、ついにアイツはそれを実行に移すことにしたんだ。
あの頃はまだ、それがどんなに険しく、厳しく、辛い道かなんて、知らなかったから。
「行きましょうっ! プロデューサーさん!」
「早すぎだろ。待ち合わせの時間まで一時間以上あるぞ」
大声をあげながらプロデューサールームに入ってきた茜に、俺は応接用のチェアに座っているようジェスチャーで示した。
「いてもたってもいられませんでしたっ! 今日はついにっ! 私のはじめてのお仕事なんですよ!」
茜は頬を紅潮させ、鼻息荒くチェアに腰かけた。
「ああ知ってる。俺が取ってきた仕事だからな。体力仕事だ、温存しておいたほうがいいぞ」
そう言って俺はデスクのコーヒーカップに手を伸ばす。
茜が待ち合わせ時間よりも早く来るのは毎度のことで、すでに驚くこともなくなっていた。
さすがに、一時間以上早いのは新記録だったが。
アイドルユニット結成から一カ月とすこしが経った。
茜たち五人は各種レッスンを順調に重ねている。
合間をぬって、春菜、裕美、ほたるたちにはプロダクションから振られる各種の仕事をやってもらっていた。
イベントスタッフや司会、ちょっとしたラジオ出演といったところだ。メンバーそれぞれが知られればユニット全体の後押しにもなる。
茜と比奈にも、単純な仕事から少しずつ振り分けていくことにした。
茜は今日が初の仕事となる。比奈にも同じ仕事を打診してはいたが、即売会だからと断られてしまった。
「仕事の資料は読んだな?」
「はいっ!」
茜は元気よく返事をする。その目はエネルギッシュに輝いていた。
「復習しておくか。今日はショッピングモールで行われる子ども向けイベントのアシスタントだ。いわゆるヒーローショーってやつだな。ショーのメイン司会はプロダクションの別のアイドルが担当するから、指定の衣装を着ての販促物……風船配りが仕事だ。バイトみたいなものだと思っていい。それでも、プロダクションの名を背負ってやることだからしっかりな」
「はいっ!」
「屋内だから日差しにやられる心配もないし、難しくはない。それでも疲れたと思ったら無理せず休憩を入れろよ。……伝えるのはそのくらいだぞ。どうするんだ、あと一時間」
「そうですね……走り込みしてきますか!」
「体力を温存しろって言ってるだろ」
俺は茜にそう言って肩をすくめた。すこしずつ分かってきたが、この情熱が茜の魅力の源泉だ。
俺は買っておいたペットボトルのお茶を手渡す。
「ライブの予習でもしていたらどうだ。ああ、でも声は張るなよ、イベントでは一日声を出し続けるんだ、思ったより疲れるぞ」
「わかりました!」
茜は自分の鞄からオーディオプレーヤーを取り出し、イヤホンをつける。
俺も事務作業に戻るべく、デスクのモニターに視線を戻した。
ほどなくして、茜の鼻歌が始まった。曲に合わせて、小さく体を動かして振付を確認している。
先週、茜たち五人にとっての初のステージが決まった。
五人のための曲の完成よりも前のイベントなので、既存の曲を使う。
プロダクションの看板のような曲で、所属したアイドルたち全員のための曲、どんなメンバーやユニットでも歌う曲だ。
しばらくのあいだは、この曲と新曲のスケジュールを並行して進めることになるだろう。
プロデューサールームの中には、しばらくのあいだ、俺がキーボードを叩く音と、茜の鼻歌だけが流れ続けた。
とても、穏やかな時間だった。
都心から特急一本で行ける地方都市。
休日のショッピングモールは人でごった返していた。
吹き抜けの一階部分に設置されたステージの周囲では、慌ただしくイベントの準備が始まっている。
「美城プロダクションです、今日はよろしくお願いします」
「よろしくおねがいしますっ!」
茜の大声の挨拶は、あたりの人々全員の注目を集めた。
俺は愛想笑いしながらショッピングモール側の責任者に名刺を渡す。
「それで……メイン司会の弊社タレントが先に来ているはずですが、到着していますか?」
「ああ、スタッフ用のテントへご案内しました。狭くて申し訳ないです」
モール側の責任者はステージ裏手のテントを示した。
「とんでもないです」
「開始時刻になりましたらお呼びしますね」
言って、責任者は準備へと戻っていった。
俺は茜とともにスタッフ用のテントへ向かう。
「失礼します」
「今日はよろしくお願いします!」入るなり、元気のいい声が中から聴こえてきた。「美城プロダクションの堀裕子です!」
「ああ、我々も美城プロダクションだ、すこし遅れてしまってすまない」テントの中を見回す。堀裕子以外には俺たちしかいなさそうだ。堀裕子へ茜を紹介する。「こっちは今日のアシスタント」
「日野茜です! よろしくおねがいします!」
「開始までまだ時間があるようだし、二人ともゆっくりしていてくれ」
俺は茜に椅子に座っているように指示し、その場に立っていた堀裕子も椅子へと座らせる。
堀裕子。
俺は記憶を掘り起こす。確か、超能力者だとかで売り出しているアイドルだったか。
オーディションで超能力があると言って憚らなかったらしい。採用に至ったのは度胸が認められたのだろうか。
まさか、超能力を信じて採用されたなんてことはないと思うが……ちらりと堀裕子のほうを見ると、その右手にはしっかりと銀色の先割れスプーンを握り締めていた。
「堀さん、それなんですか!?」
茜が堀裕子の持っているスプーンを見て興味深そうに尋ねた。
「私のことはユッコと呼んでください! そして、ふふふ……よくぞ聞いてくれました!」
堀裕子は再び椅子から立ち上がり、茜の目のまえにスプーンを突き出すようにする。
「私、なにを隠そう、超能力を持つサイキックアイドル、エスパーユッコなのです!」
堀裕子は自信満々に、一点の曇りもなくそう言った。
瞬間、場に沈黙が訪れる。
俺は堀裕子の言葉を扱いかねていた。
事前にそういうアイドルだと知っていても、確かにあそこまで自身に満ちた表情で言われれば圧倒されるしかない。
俺はしかたなく、テントの外を気にするふりをしながらそっと茜のほうを伺う――茜は目を丸くしていた。
「ちょ、超能力!? ほんとですか!」
「もちろんです!」
「ユッコさん、ということは、このスプーン……」
「さん、もいらないですよ! そのとおりです! さいきっくぱわーで……なんと、手に触れずに曲がります!」
「さいきっく! すごいですっ!」
自信満々の堀裕子と、聴いたことを全部真に受けている茜。マンガのような取り合わせだ。
「いいですか、茜ちゃん……これからこのスプーンに、私のさいきっくぱわーを送り込みます」
「はいっ……!」
茜は裕子の握る先割れスプーンを食い入るように見つめている。
「行きますよ……はっ! ムムムムム~ン……!」
堀裕子が念じるように、力のこもったうなり声をあげる。
「おおおっ……」
茜の口からも、興奮の混じった声が漏れていた。
曲がるわけはない……そう思いつつも、俺は横目でスプーンをちらちら見るのをやめられずに居た。
「ムムム……」裕子は苦しそうな声をあげる。「はぁ、はぁっ……まだパワーが足りないみたいですね……でも、高まりを感じます……もう少しで曲がる気がしますよ、さらにパワーを……ムムム~ン!」
「む、むむむ……!」
つられているのか、茜も裕子と同じように唸りだす。
テントの奥からアイドル二人の苦しそうなうめき声だけが聞こえるのは、異様な状況だった。
俺は横目でスプーンを見ているが、やはりスプーンは曲がりそうもなかった。
「あの、すいません!」
「はっ、あ、はい!」
突然声をかけられて、俺の声は思わず裏返った。
声のしたほうをみると、イベントのスタッフがテントの前まで来ていた。
「ひとまずスタンバイできましたので、打ち合わせとリハーサル、おねがいします!」
「あ、はい」
俺はテントの奥を見る。
茜と裕子も、声がかかったことでスプーンにかまけるのをやめていたようだ。
「それじゃ、リハーサルだ、頼んだぞ」
「はいっ!」
茜と裕子の返事はひとつに重なった。
「あともう少しのところでしたね、きっと声がかかっていなかったら、スプーン曲げは成功していたはずですよ!」
片手に大量の風船の紐を握り締め、茜は興奮した様子でそう言った。
「その素直さは長所だとは思うけどな」
俺はそう言って、その先になにか続けようか迷い、結局なにも言わなかった。
俺と茜はイベント会場の入り口についていた。茜が会場に入ってくる人たちに風船を渡す。
俺はイレギュラーへの対応と、風船の補充係だ。
俺たちのいるところからは、これから裕子が司会を務めるステージが見える。裕子はインカムをつけ、ステージ前の最後の打ち合わせに臨んでいた。
茜はステージ上の裕子を見ていた。
「お仕事が終わったら、今度こそ超能力を見せてもらいましょう、プロデューサーさん!」
茜はそう言って、自分でうんうんと頷いていた。
「どうかな、イベント後はどのアイドルもへとへとになるからな……体力が万全のときにしたほうがいいんじゃないのか」
「そうですか、そうですね……」
茜は残念そうにうなだれる。
「ほら、ここに立ってるときはもうアイドルだ。笑顔、笑顔」
「はいっ!」
茜は元気よく返事すると、姿勢を正して笑顔に戻った。
俺は腕時計を見る。イベント実施時刻の午後二時を回った。
「よし、イベント開始だ」
「どうぞー、ステージイベントやってまーす! 見て行ってくださーい!」
茜はよく響く大きな声であたりへの宣伝を始める。
人一倍大きく明るい茜の声が耳に届いたのか、あたりを行く人達がこちらを注目し始めた。
徐々に人が集まり始め、それから数分で、イベント会場は人でいっぱいになった。
俺は急いで風船をヘリウムガスで膨らまし、紐をつけて茜に渡していく。
茜は欲しがる子供たちに順番に風船を渡していき、ヒーローショーがあることを伝えていく。
「くださーい!」
「はーい、どうぞ! これからあっちのステージでヒーローショーをやりまーす! みていってくださーい!」
「次の風船」
俺が追加の風船の束を差し出すと、茜は「はいっ」と返事をしてそれを受け取る。このやりとりももう十回以上だ。
「すごい混雑だな……地域で一番のショッピングモールとはいえ、こんなに混むか? 都心のイベント並みだぞ?」
「風船もどんどん持って行ってもらえています! 楽しいですが、大変ですね!」
「ああ、でもそろそろイベント開始時間だ。始まれば子供はそっちに行くんじゃないか」
と、俺が茜に言ったときだった。
「みなさーん、こーんにーちわーっ!」
ステージに設置されたスピーカーから、裕子の声が響いた。
「こーんにーちわーっ!」
ステージに集まった子供たちの元気のいい返事が返る。
その中でもひときわ大声を出し、俺の鼓膜を破壊しかけたのは茜……と思いきや、それよりもさらに大声の持ち主が、子どもたちの中に紛れていた。
「すごく元気な子がいますね!」
茜も目をぱちくりさせている。
俺の位置からはよく見えないが、ぴょんぴょんと飛び跳ねて深い緑色の髪を揺らしている、小さな女の子の後頭部が見えた。
どこかで見たような気もするが、顔が見えず、思い出せない。
「……気のせいか」
俺は誰へともなくつぶやいた。
「今日はあつまってくれてありがとう! 今日の司会をする、堀裕子です! ユッコおねえさんって呼んでください! いまから、この会場にすっごいゲストを呼びます! みんなでいっしょにお名前を呼びましょう! おねえさんのあとに続いてー!」
ステージ上の裕子がヒーローの名を呼ぶと、それに続いて割れんばかりの子供たちの声があがる。
ヒーローのスーツを身に纏ったアクターが舞台に現れ、場はさらにヒートアップした。
「すごい……」
イベントを訪れた客が全員ステージに注目し、ようやく忙しさから解放された茜がぼそりとつぶやいた。
その目はしっかりと、ステージと自分との距離を見据えている。
その隣で、俺は茜に悟られないように、音を立てないように息を吸って、吐いた。
過労で倒れた先輩はまだ戻ってこられない。茜たちをステージまで連れて行くのは、おそらく俺だ。
茜はステージまでの距離を見ている。俺には茜と同じだけの覚悟があるか――?
考えかけて、とどまる。状況に関わらず、仕事をするだけだ。今までやってきたことを。
「プロデューサーさん!」
「な、なんだ?」
突然、茜から話しかけられて、俺はそちらを見る。
「風船が足りなくなってしまいました!」
「あ、ああ」
俺は慌てて次の風船の束を茜に渡した。
事前に目を通したステージイベントのシナリオに特別なことはなかった。
ヒーローがピンチに陥り、子どもたちの声援で復活、悪者を倒す。王道だが、王道は正解だから王道と呼ばれる。
イベントは終盤、殺陣の途中でヒーローがピンチに陥るシーンに差し掛かる。
ヒーロー役のアクターは、悪者の攻撃をうけて、ステージの中央にがっくりと膝をついた。
スピーカーからは不穏なBGMが流れ始める。ステージに入りこみすぎた子どもの怯えた泣き声が混ざった。
「ああっ、あぶない! よいこのみんな! ヒーローがピンチです! みんなの声で、ヒーローにパワーをおくりましょう! みんながいっしょうけんめいヒーローを応援してくれたら、このユッコおねえさんがさいきっくぱわーでみんなの応援をさらにパワーアップして、ヒーローに届けます! ユッコおねえさんが『せーの!』って言ったら、みんなで『がんばれー!』って、元気な声で応援してくださいね! いきますよーっ!?」
流れていたBGMが止まった。
裕子はステージからゆっくりと、イベント会場に集まっている子供たちの顔を見回していく。
その場にいる全部の目を、裕子自身に吸い付けようとでもするかのように。
それから、裕子は笑顔を作る。
「せー、のっ!」
すぅ、と息を吸う、無数の音が聞こえた。
その場にある空気が、子どもたちに吸い尽くされ、真空になったかのような一瞬の静寂のあと。
鼓膜を震わせる、純真で無垢な叫び声が、がんばれの四音が、ひとつの音になって場に響き渡った。
裕子は満足そうに微笑む。それから、大きな動作で、左手のマイクを口元へ、右手に握った先割れスプーンをヒーローへ。
「よーしっ、いきますよー! ムムムーン……、みんなの応援パワー、ヒーローに、とどけぇっ!」
裕子の声が響く。子供たちをハラハラさせるのに十分な間を置いて、ヒーローはゆっくりと立ち上がり、ヒーローのメインテーマがスピーカーから大音量で響いた。
直後、さらにそのメインテーマをかき消すほどの、歓声。
「おおおっ!」
茜もまた、声をあげていた。両の拳を胸の前で握りしめている。
「ユッコちゃん、すごいです……!」
静かにそう漏らした茜の声色と表情からは、確かな闘志を感じた。
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それから、ヒーローはシナリオ通りに悪役を退け、ショーは事故もなく終了となった。
終了直後からのヒーローとの握手会で形成された長蛇の列もようやく短くなり、人でごった返していたイベントスペースは少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「よろしくおねがいしまーす!」
茜はわずかに残った風船を配っている。
こんなに必要なのかと思うほどに風船は大量に用意されていたが、あとは茜の手元にある数個で終わりだ。
すぐに風船は最後のひとつとなり、茜の役割も終わった。
「おわりました!」
茜はすがすがしい顔でそう言った。
俺は用意していたドリンクを茜に渡す。
茜は目を丸くしていたが「ありがとうございます!」と言い一礼すると、ドリンクを受け取って口に運んだ。
そのときだった。
「ぁさん……」
かすれ声が聞こえたような気がして、俺は茜を見る。
茜もまたこちらを見ていた。お互いがお互いの発した声だと勘違いしたようだ。
その直後、同時に二人の視線は足元へ。
風船を持った小さな男の子が、俺と茜の服の裾をつまんでべそをかいていた。
「おかあさん……どこぉ?」
目に涙をためて、その子どもは茜にたずねる。
「……迷子か」
茜はすぐに子どもの前にしゃがみこみ、安心させるように頭を撫でてやっていた。
「どうしましょう、お母さんをさがしましょうか?」
「いや、こちらが動くとかえって混乱する。スタッフテントに連れて行って、ショッピングモール側の担当者に話してアナウンスを入れてもらおう」
「わかりました! じゃあぼく、お姉さんたちといっしょに行って、お母さんが来るまでいっしょに待っていましょう!」
茜がそう言って、子どもに微笑みかけたときだった。
子どもの手首に結ばれていた風船の紐がするりとほどけ、風船はヘリウムの浮力でそのままショッピングモールの天井へ向かってふわふわと浮きあがっていく。
それがスイッチになってしまった。
「うわあああぁぁぁぁぁん!」
子どもは声をあげて泣き出した。周りの人々もこちらに注目している。
「あちゃあ、風船が飛んで行ってしまいました……プロデューサー、余りは……」
俺は首を横に振る。風船は全て使い切り、あとは予備の紐くらいしか残っていない。
「うーん、残念でしたね……よしよし、元気出してくださーい」
「ああああぁぁぁぁん、うわあああああああ!」
茜は困り顔でなんとか子どもをあやそうとするが、子どもは泣きやまなかった。その場から動いてくれそうもなく、俺と茜が困っていたときだった。
「どうかしましたか?」
近づいてきたのはイベントを終えた裕子だった。
「ユッコちゃん!」
茜がぱっと顔を輝かせる。
「ひょっとして、お困りでしょうか!」
裕子もまた、子どもの前にしゃがみこんだ。子どもはいまだ声をあげて泣いている。
「お母さんとはぐれちゃったところに、この子の風船が飛んで行っちゃって……」
「なるほど!」裕子はしたり顔で大きくひとつ頷いた。「泣いた子どもをあやすなら、亜里沙さんか、このエスパーユッコ! お困りとあらば、このユッコにおまかせあれ!」
「どうしてそんなに自信満々なんだ……」
思わず漏れた俺のつぶやきは、裕子はもちろん、茜も聴いてはいない。
「取り出したるはこのスプーン!」
「おおっ、今度こそサイキックで曲げるんですか!」
「ふふふ、みていてください~」
裕子は茜に思わせぶりに笑いかけると、子どもの目のまえでスプーンをゆらゆらと揺らして見せる。
子どもは興味をそそられたのか、泣き止むときょとんとした目でそのスプーンを見ていた。
「このハンカチを、こうして……あ、すいません、なにか紐みたいなもの、余ってませんか?」
「ああ、風船の紐の余りがあるぞ」
俺は余っていた紐を裕子に渡してやる。裕子は自分のハンカチでスプーンの柄の部分をくるみ、風船の紐をリボンのようにして結び、ハンカチを固定する。
「最後に、このペンで……」
裕子は懐から取り出した油性ペンで、スプーンの先の丸い部分に目、鼻、口を描く。
ちょうど、スプーンの先を顔にした、てるてる坊主のような人形が出来上がった。
「これぞ! さいきっく・わらしべ人形です!」
「おおっ! それはどんなさいきっくなんですか!」
茜が興奮気味に堀裕子に尋ねる。子どもよりも興味津々だ。
「茜ちゃん、一緒にこの幸運の人形に、この子のお母さんが見つかるように、さいきっくぱわーを送りましょう! さあ、きみもいっしょに! いきますよ! ムムムーン!」
「ムムムーン!」
「む~ん!」
裕子と茜、それからさきほどまで泣きじゃくっていた子どもは、三人とも夢中になって人形に念を送っていた。
「よし! これできっと大丈夫です! さあ、お姉さんたちといっしょにテントにいって、お母さんを待ちましょう!」
裕子がそう言ったときだった。
「あ!」
子どもが茜の後ろのほうを指さして、顔をぱっと輝かせる。
「ああ! いた! もう、探したんだから!」
若い女性が駆け寄ってくる。この子どもの母親だろう。
「すいません、ご迷惑をおかけしました」
女性はこちらに向かって深々と頭を下げた。
「いえいえ、お気になさらず」
「そうです、人助けはエスパーの務め! 当然のことをしたまでです!」
「お母さんが見つかって、よかったですね!」
茜が子どもに微笑みかけると、子どもは嬉しそうに大きく頷いた。
「あら、そのお人形は……?」
母親が子どもの持っている堀裕子のスプーン人形に気づく。
「もらったの」
「すいません、あの、お返しを……」
「いえいえ!」裕子は母親を手のひらで制する。「これは私、エスパーユッコとここにいる茜ちゃん、そしてこの子の三人のぱわーが宿ったさいきっく・わらしべ人形! もしもどこかに困っていたり、悩んでいる人がいたら、この人形を渡してあげてください! きっと、さいきっくぱわーでその人のお悩みを解決してくれるでしょう! いまもさっそくこの子の悩みを解決してくれました!」
自信満々に言う裕子に、子どもの母親は思わず吹き出す。
「わかりました、それじゃあ……すいません、ありがたく頂戴します。ほら、お姉さんにありがとうって」
「ありがとう!」
すっかり笑顔になった子どもは、裕子と茜にそう言って、母親とともにその場を去って行った。
「ありがとう、助かった。ハンカチ、私物だったんだろ?」
俺が尋ねるが、裕子はさっき母親にしたのと同じように、俺に掌を向けて首を横に振る。
「気にしなくて大丈夫です! 今日はイベント、お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした! ユッコちゃん、すごかったです! すごい人気でした!」
「あはは、あれはヒーローの人気ですから……でもいつか、あのくらいたくさんの人に囲まれて、ライブをしたいですね! ……それじゃ、着替えもありますし、私はこれで!」
言って、裕子はその場から去っていった。
茜はその後ろ姿をじっと見つめている。
まさか、裕子が超能力で子どもの母親を呼び寄せたと信じるわけではない。ただの偶然だろう。
しかし、裕子の並々ならぬ自分の能力に対する自信は、裕子というアイドルを輝かせて見せていた。
「……すごいです。ステージから降りても、あんな風に人を笑顔にして……ユッコちゃんも、正義のヒーローみたいでした……私も、もっともっと頑張ります! プロデューサー、もっとお仕事やらせてくださいっ! ボンバーッ!」
茜は拳を天井に向かって突き上げ、気合を入れた。
「ああ。まだまだ下積みだが、着実にできることからだな。今日のイベントは事故もなく、無事に終了ってところだ。初仕事、お疲れ様」
俺が言うと、茜は目を丸くして、それからほんの少し頬を染めた。
「お疲れ様でした!」
言って、茜は勢いよく一礼した。
俺は茜の姿をみながら考える。俺も一歩ずつだ。茜たち五人が進むのと同じように。
復帰した先輩にこの五人を引き継ぐのがいつになるかはわからない。
それまでは、できることを着実にやっていこう。ヒーローショーのシナリオと同じ、ありきたりでいい。
ありふれた小さな仕事から順番に。きっとそれが最も正解に近い。
「よし、俺たちも撤収だ」
「はいっ!」
俺たちは心地よい疲労を抱えて、西日が射しこむイベント会場を後にした。
第四話『せいぎのみかた』
・・・END
――閉店後のショッピングモール。
イベント会場の担当者は、缶コーヒーを飲みながら、イベントの終了報告をまとめていた。
あがってきた書類を見て、驚いたように目を見開く。
「なんだ、この来店者数と売上……特売セールでもこんな数字見たことないぞ。今日だってべつに売れてるアイドルを呼んだでもないのに……誰かの念にでも呼び寄せられたのか?」
会場担当者のひとり言は誰にも聞かれなかった。
その日の集客数が異常に多かった理由は、誰にも合理的な説明をつけることができず、ショッピングモールの伝説として語り継がれたという。
次回は21日予定です。上条ちゃん回です。
実質ユッコ回でしたが昨日の仙台に捧げるということでどうかひとつ。
LV鑑賞でした。とても良かった。
ユッコの表記が堀裕子と裕子で揺れてることに途中で気づきました、すいません。
二回目以降は名前だけで統一するように努めます。
乙
今日は結果発表でどうなるやら。
>>55
あざます
書いてる最中に荒木先生と関ちゃんがよい位置だとわかってウヒョーしました
二人ともいい結果だといいなぁ!
ウワァァァァァァァァァァァ荒木先生と関ちゃんに声がツクゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ
おめでとう……! マジでおめでとう……!
書いたら声がついた信じられない
マジでめでたい
>>58
よかったほんとうによかった
人は慣れていく。
なりたかったはずのものになれなかったことに。
なりたかったはずものになれなかったアイツが、もうそばにはいないことに。
慣れなくては前に進めない。けれど、慣れたとき、確実に何かが終わる。
終わったらもう戻れない。
「……いまだに、飲み込めてないっス」
俺が運転する車の助手席で、荒木比奈はフロントガラスを硬い表情で眺めながらつぶやいた。
「もう一回説明するか? ティーン向けのファッション雑誌で、モデルの仕事だ。指定の衣装で撮影。先方もこちらがファッションモデルではないことは判ってるから、気張らなくても」
「そうじゃないっス、日陰者のアタシが、モデルってのがまだ……ってプロデューサー、わかってアタシのことからかってるっスね!?」
比奈はこちらを睨みつけた。
「まぁまぁ、大丈夫ですよ! 私も前にちょっとだけ写真のお仕事しましたけど、とっても楽しかったですよ! 自分で思っているよりもずっと綺麗に撮ってもらえますし!」
後部座席右側に座る上条春菜が比奈をなだめる。
「今日はすっごく楽しみにしてたんです! なにせ、今日のお仕事はみんな!」春菜はそこですこしためを作る。「っ眼鏡ですから!」
「……なるほど」研ぎ澄まされた声が車内の緊張感を高める。「今日のメンバーは、そういう趣向で選ばれたの?」
言いながら狭い車内で足を組み替えたのは、美城プロダクションのアイドルの一人、八神マキノだった。
後部座席の左側、春菜のとなりに座っている。
マキノは右手の人差し指をこめかみのあたりに当てて、真剣な眼でバックミラーごしにこちらを見ていた。
「……いや、たまたまだ」
「そう」
マキノは短く返事すると、そのまま窓の外へ視線を向けた。
「アタシの宣材写真、そもそも眼鏡かけてないですし……ところでアタシたち、ユニット外の活動もあるんスね」
比奈の疑問に、俺はうなずく。
「ああ。むしろユニットは楽曲やイベントのコンセプトに合わせた一時的な組み合わせだと考えたほうがいいかもしれないな。いまの五人のユニットは、先輩……前のプロデューサーが企画した新曲に合わせて組まれたユニットだ。これから美城で活動していくとなると、ほかのアイドルとの絡みも増えていくはずだぞ」
「なるほど……とりあえず、今日はマキノさん、よろしくっス」
「ええ、よろしく」
マキノは比奈に微笑みかける。
さっきまで近寄りがたい雰囲気を放っていたが、こうして笑っているところをみると、大人びてはいるものの閉じているという印象はない。
単純に緊張していただけなのかもしれないと俺は考えた。
「同じ眼鏡アイドルとして、今日ははりきっていきましょう!」
まとめた春菜の一声で、これまでやや張り詰めていた車内の空気が緩んだ。
ちなみに俺の視力は悪くないのだが、朝の集合時点で春菜から伊達眼鏡をかけることを強要されている。
「今日のカメラマンは業界ではそれなりに名が通っているから、プロダクションとしてもしっかり成果を出しておきたい仕事だ。とはいえ、さっき比奈に言った通り、今日のメンバーは、モデルが仕事の中心ではないことは先方に伝えている。リラックスして臨んでくれれば、それで十分だろう。スタイリストをはじめとした各スタッフもプロだ、言うとおりにしていれば大丈夫さ」
「そうは言っても、やっぱり緊張はするっス……」
比奈はそういって深く溜息をついた。
都心から車で数十分。
都内ではあるが、郊外のような落ち着いた雰囲気の街並みの中に存在する撮影スタジオに入る。
すでにスタッフの大部分がスタンバイしていた。三人に楽屋で準備をさせているあいだ、俺はスタジオの全体を観察しておく。
よく芸能ニュースでみるような、スクリーンをバックにライティングが整えられた広めの写真スタジオが中心だが、室内はログハウスのように温かみのある木目調のデザインで、ハウススタジオとしても機能する。
ディレクターズチェアとテーブルが置かれたあたりに、買っておいたドリンク類と資料を配置した。
動線や小道具の位置もざっと確認する。
特に気になる点はない。これまで同行した撮影現場と同程度の規模だ。
「モデルさん準備OKでーす!」
楽屋の扉が開き、スタイリストの声がスタジオ内に響いた。メイクの済んだ三人がこちらに歩いてくる。
「よろしくおねがいしまーす!」
朗らかに挨拶したのは春菜だった。シャツとスカートでカジュアルにまとめている。
ファッションとしては素朴だが、春菜の気取らない雰囲気によくマッチしている。
ほかの二人がこの格好だったならむしろ不自然に映るだろう。
「よ、よろしくおねがいするっス……」
その後ろから背を丸めて出てきたのは比奈だ。まだ人から見られるということに慣れていないらしい。
俺がジェスチャーで姿勢を正すよう伝えると、気まずそうに少し目を細めてから、背筋を伸ばした。
比奈は暖色系のニットとフレアスカートで、春菜よりもやわらかい雰囲気に仕上げられている。
オレンジのセルフレームの眼鏡をかけているが、あれはスタイリストではなく春菜が用意したのだろうか。
「ふふ、計算の通りね」
最後に出てきたのはマキノだ。学校の制服のようなイメージのブレザーとスカートだった。
いったいなにを計算していたのかはわからないが、スタイル、姿勢ともに整っているマキノに着せれば、学生服は着る人物の美しさを浮き立たせるものであるということが自然と理解できる。
「三者三様だな」
「でも全員眼鏡です!」
俺の感想にかぶせるように、春菜が得意げに眼鏡のテンプルをつまんだ。
「スタジオのリア充っぽい雰囲気……やっぱりまだ慣れないっスね」
比奈はあたりを見渡している。
「俺だって慣れないさ、非日常だからな。緊張するのが普通だろう。春菜やマキノだってそうじゃないか?」
俺が話を振ると、二人はそれぞれに少し考える。
「そう、かもしれないわね」マキノはスクリーンのほうを見ながら言った。「面白い分析だと思うわ。どんなに事前にリサーチしても、完全に普段と同じようには過ごせない。ライブと同じね」
「私も……実はまだ、慣れないです」
春菜が恥ずかしそうに笑う。
「そういうもんっスかね……」
比奈が苦笑いした。これで多少緊張がほぐれたならよいのだが。
「カメラマンさん到着しましたー! おはようございます!」
入口付近から声がかかり、追従するスタッフたちのおはようございますの声の中、俺たちはいっせいにそちらを注目する。
長身で白髪の混じったヒゲを蓄えた、ハットをかぶった細身の中年男性が、スタッフたちに手で挨拶をしながらスタジオへと入ってきた。
今日のカメラマンだ。
「おはようございます、美城プロダクションです。今日はよろしくお願いします」
俺はカメラマンへ礼をして、名刺を差し出す。
カメラマンはああ、と返事をしながら、つまらなさそうに俺の名刺を受け取った。
「そっちが今日のモデルさんたちね」
「よろしくおねがいします!」
三人の声が重なってスタジオに響いた。
「ん、さっそく、やってこっか」
カメラマンは軽く言いながら、機材のトランクを開けて準備を始める。
「お願いします」
「順番とかある? これ資料かな」カメラマンはテーブルの上の資料をとると、ぺらぺらとめくった。「聞いてたことと変わんないよね? じゃ……」
言って、カメラマンは三人を順番に見た。
「……キミからにしよ」
カメラマンはマキノに声をかける。マキノは「はい」と短く返事をした。心なしか声に緊張が混じっている。
「事前の調査のとおり……」
マキノはほんの少しうつむいて、周りに聴こえるかどうかの声で、小さくつぶやいた。それから顔をあげる。
「……マキノ」
俺に声をかけられて、マキノは立ちどまる。
「なに?」
「あー……」話しかけておいて、俺は困った。緊張をほぐそうとしたものの、マキノのことを知らなさすぎてかける言葉が思いつかない。「その……気楽にな」
苦し紛れに言った俺を観ながら、マキノは目を丸くして、それから軽く噴き出した。
「……次からは、あなたのことももっと調査するわ。……ありがとう」
マキノはそう言って、カメラマンの前へと歩いて行った。
「んじゃ、行くね」言いながら、カメラマンはシャッターを押していく。「うん、いいね、すこし顎を引いて……手は自然に、そう、いいよ」
簡潔に指示を飛ばしながら、カメラマンはマキノの写真を撮り続けた。
比奈と春菜は次の自分の番に備えてだろう、真剣にそのようすを眺めている。
ポーズを変え、シーンを変え、マキノの撮影は続いた。
マキノもだいぶ慣れたようで、同じ涼やかな表情でも、その内側からは緊張が消えていく。
少しずつ、カメラマンとのやりとりもかみ合ってきた。
時にはマキノの提案を取り入れ、マキノとカメラマンのあいだで試行錯誤しながら撮影が進む。カメラマンのテンションも次第に上がってきた。
「ん、んー……」カメラマンは悩むような唸り声をあげた。「たとえば、ちょっと眼鏡、取ってみようか?」
「えっ」
明らかに不安の混じった小さな声を漏らしたのは、マキノではなくて俺のとなりに居た春菜だった。
マキノはちらりと春菜のほうに視線を送って、それからもう一度カメラマンのほうを見た。
「私は、違うと思うけれど」
マキノはそう言ってから、眼鏡をはずしてみせる。
数秒の沈黙。
「うん、確かに。キミの言う通り、ちょっと違ったみたいだ。眼鏡かけて」
カメラマンの指示の通りにマキノは眼鏡をかけ、撮影が再開する。
俺は横の春菜を見た。少し表情が暗い。
「あの、プロデューサー」
春菜がこちらを不安そうに見ていた。
「……どうした?」
「今日は、その……」
春菜はそこまでで口をつぐみ、その先を言わなかった。
俺も、春菜の言葉の先を探ろうとはしなかった。
春菜の心配は判っている。というよりも、春菜の心配は恐らく俺がいま心配していることと同じことだ。
春菜は自分が眼鏡をはずすことを求められないか不安に思っている。
俺は内心で頭を抱えていた。最初に春菜たちに説明したとおり、このカメラマンはそれなりの大御所だ。
変に機嫌を損ねて、プロダクションの評判を下げたくはない。
一方で、春菜の眼鏡にかける情熱は春菜のアイデンティティだ。
「まぁ、大丈夫さ」
俺は間の抜けた声で春菜に言う。なんの根拠もない。春菜はそれ以上話しかけてはこなかった。
マキノに続いて撮影が始まったのは比奈だった。
比奈は「心が無理って思ったらその時点で負け……行ってくるっス」とつぶやいて、やや硬い動きでカメラマンのもとへと歩いて行く。
「むっ……すこし……なんだろうな、うーん」
カメラを構えたカメラマンはマキノの撮影の時よりも明らかに表情を険しくして比奈を見た。
「よ、よろしくおねがいす……します」
比奈の声には緊張が見て取れる。
無理もない。ほんの二カ月程度前まで素人だった人間だ。
「ふーん、ともかくはじめよう、そこ座ってみて」
「はい」
比奈はカメラマンの指示の通りにする。
「ああ……違う、そうじゃなくて、足はそっちに」
カメラマンの声にいら立ちが混ざる。
比奈は言われた通りにするが、それもイメージと会わないのか、シャッターを切る合間でカメラマンの厳しい指示は続いた。
撮影から数分経ったが、比奈の表情は硬いままだ。
「比奈さん……」
春菜も不安そうな声を漏らす。そのときだった。
「おっ! 今の、いいね! それでいこう!」
カメラマンは急にトーンを明るくして、比奈のポーズを褒めた。
「えっ、えっ?」比奈は困惑の声をあげる。「そ、そうっスか?」
「ああ、いいよ、そう、そのまま……いいね」
カメラマンは嬉しそうにシャッターを切っていく。
「へ、へへ……」
比奈の表情が緩み、笑みがこぼれた。
「あっ、可愛い、比奈さん……」
春菜がぽつりと漏らす。
俺も同感だった。緊張から放たれて弛緩した表情と姿勢とが、比奈の魅力を高めている。
「リサーチによれば、あれが彼の技術らしいわ」
いつのまにか隣に立っていたマキノが得意顔で言った。
「なるほどな」
納得できた。さすがは名の通ったプロということだ。
被写体に応じて、その魅力を引き出すためのアプローチや話術を変えているんだ。
比奈は撮影開始前、明らかに緊張し固まっていた。だからまず厳しい声色でより緊張感を高めたあと、一気に弛緩させて魅力を引き出した。
「床にお座りする感じで、足は楽にして」
「こうっスか?」
「そうっ! いいよ、もっと力抜いていい、笑顔見せて」
「急に笑顔とか言われても、は、恥ずかしいっス……」
比奈がそう言ってはにかんだ瞬間を逃さず、連続でシャッターが切られる。
「よーし」カメラマンは満足そうに微笑む。それから比奈の顔をじっと見た。「うん、キミもちょっと一回眼鏡、はずしてみよっか」
瞬間、場にわずかな緊張感が走った。比奈は俺と春菜のほうをほんの少し見てから、ゆっくりと眼鏡をはずす。
「うん、それもいいなぁ!」
カメラマンは再びシャッターを切り始めた。
確かに、比奈は普段眼鏡をかけているが、眼鏡をはずしてもそのキャラクターに致命的な影響は与えない。
だが今の問題は、別のところにある。俺は春菜のほうを見た。春菜は眼鏡をはずした比奈をじっと見ている。両手はぎゅっと握りしめられていた。
このままではまずそうだ。そう判断した俺は、比奈の撮影が終わるころテーブルの上において置いたドリンクをひとつ手に取った。
「お疲れさま! すごくよかったんじゃない?」
「恐縮っス……ありがとうございました」
撮影が終わり、比奈はほっとした顔でカメラマンに礼をした。
「さて、それじゃ……」
「いやーっ、お疲れ様です、ありがとうございます!」
俺はカメラマンの言葉にかぶせるようにして、声を大にして近づいていく。
言いながら、ドリンクのキャップを開けて、カメラマンに差し出した。
「とっても素晴らしい撮影でした! うちのアイドルたちめちゃくちゃ綺麗にとってもらって、ありがとうございます!」
カメラマンは目を丸くして、差し出されたドリンクを受け取った。
「そう? 大げさだよ」
「いやいやいや、そんなことないです! 自分でも社内カメラマンとかに宣材写真とか手配しますけれど、それとも段違いで恥ずかしいくらいですよ、ハハハ……ところでなんですけども!」
俺はできるだけ、相手が会話に入る間をつくらないように言葉をつづける。
「ちょっとここらで、小休止入れませんか、時間も経ちましたし、お疲れでは? まだ撤収まで時間に余裕ありますし、そちらは午後も撮影があると聞きました。全体はマキで進んでますんで、どうでしょう?」
どうでしょう、に「お願いします」のニュアンスをほんのすこしだけ混ぜて、俺はカメラマンにお伺いを立てた。
「ん……そうだなぁ……」カメラマンは斜め下のほうを見て少し考えてから言う。「じゃ、お言葉に甘えて、ちょっと休憩しようか」
「ありがとうございます! じゃあ……」俺は時計を見る。「二十分後までには、こちらスタンバイ完了しておきますんで!」
「はい。じゃ、ちょっと外でタバコしてこよっかな」
「あーっ、すいません気が利かず、普段吸わないもんでタバコも火も持ってなくて……」
「いい、いい、大丈夫だよ、ありがとね」
言って、カメラマンはスタジオの外へ歩いて行った。その姿を見送り、ドアが閉まるのを確認する。
「ふーっ」
俺は大きく息をついた。
「プロデューサー、ありがとうございます」
春菜がこちらを見ていた。俺が時間を稼いだことがわかったらしい。
「とりあえず、楽屋に入ろう」
俺が楽屋の扉を示すと、春菜はうなずいて楽屋へと向かった。
春菜、比奈、マキノとともに楽屋に入ると、俺はがっくりと肩を落とした。
普段やらないようなキャラクターを演じるととても気疲れする。
マキノは俺たちから少し離れたあたりの壁に背あずけて、こちらを見ている。
「すいません、中断させてしまって」
春菜はやや暗い声で言う。
「いや、大丈夫だ。とりあえず落ち着いてくれ」
「春菜ちゃん……眼鏡のことを心配してるっスね? その……申し訳ないっス、アタシが断って流れを作っておけば……」
比奈の言葉に、春菜は首を振る。
「いえ、気にしないでください」
「ああ、比奈の撮影はあれでよかった。……マキノもな。気にすることじゃない」
「そうです。眼鏡のことは、私の問題です。撮影、二人ともすごくよかったです」
春菜ははっきりとそう言った。
「さて……春菜の撮影だが……眼鏡については、外す指示があるかもしれないな。前の二人にあった通り……な」
「はい、でも……」春菜は胸の前で握り拳を作る。「眼鏡は、外したくないんです。外した写真を撮って、それが採用されるかもしれないのは……」
春菜はうつむいて、そこから先の言葉を濁した。
きっと、春菜自身が、その考えが特異なものであるということを理解している。
春菜の眼鏡に対するこだわり。それは春菜の最大の魅力であり、セールスポイントだ。
だが、モデルとしての仕事、アイドルとしての人格から離れ、ファッションを輝かせるための素材になり切る仕事には、そのこだわりは重要なポイントではなくなる。
眼鏡をはずしてファッションが映えるなら、間違いなく眼鏡をはずすのが正解なのだ。
けれども、だからといってモデルは人格のない人形ではない。
今回、この雑誌の仕事がモデルではなくアイドルを起用したのは、モデルよりも身近な存在の人格とともにファッションを紹介するためだろう。
「私をスカウトしてくれたプロデューサーさんも、眼鏡をかけた私を、魅力的だって言ってくれたんです」
春菜はぽつりと漏らした。
「眼鏡が好きで、でも眼鏡をかけた地味なアイドルなんていないから、眼鏡じゃだめかなって悩んでたところに、そのプロデューサーさんは背中を押してくれたんです。眼鏡のほうがいいって、眼鏡を好きなままでいいって」
「春菜ちゃん……」
比奈がそっと春菜の背に手を添える。マキノは真剣な表情でこちらを見ていた。
俺は少し目を細める。
これは春菜の今後に関わることだ。春菜がきちんと腹をくくらなくては、前に進めない。
「春菜」
俺は春菜の前に歩み出る。
「俺は……今、臨時でもお前たち五人のプロデューサーだ。春菜が眼鏡へのこだわりを持ってることで輝いているのはわかっている。俺もできるだけその意思を汲んでやりたい。けれど、春菜自身が感じているように、春菜の眼鏡好きが、今みたいに障害になることもある。そういうとき、一番ダメージを受けるのは春菜だ。眼鏡アイドルとして羽ばたければ一番いい。だけど、眼鏡へのこだわりが強すぎることで仕事が減る可能性だってあるんだ。ひょっとしたら……眼鏡へのこだわりが強すぎたことで、アイドルとして成功する道を逃すかもしれない」
春菜は俺の目を見た。不安そうな顔をしている。俺は続けた。
「もちろん、その逆もある。眼鏡へのこだわりを持ち続けて、その魅力で羽ばたける可能性だって。けどな、その道を選んだときは、ブレちゃだめだ。眼鏡へのこだわりを一瞬だって疑ったら、その瞬間に終わっちまう。厳しい道だぞ。……春菜が、決めるんだ。眼鏡アイドルで、行くのかを」
春菜は俺の目を見て、それから視線を下に落とす。
比奈はずっと春菜の背を撫でている。
これ以上は、俺も、比奈も、もちろんマキノも、ほかの誰も、助けてやることができない。
春菜が自分自身と向き合って、決めなくてはいけない。
そうじゃなきゃ――それ以上に覚悟を決めて戦ってるアイドルたちに、太刀打ちなんてできやしない。
「……春菜ちゃん」
春菜の背を優しく撫でていた比奈が、春菜の手を包むように握った。それから、真剣な眼で口を開く。
「まだ、アイドルなりたてのアタシがこんなことを言うのは、およびじゃないかもしれないっスけど」
比奈はひとつ呼吸を置く。
「自分にとって大事なことを決めなきゃいけないときって、色んな誘惑が襲ってくるもんっス。ああしたほうがみんなが喜ぶだろう、きっとうまくいくだろう、だからこっちを選んだほうがいいかもしれないって。でも、ほんとうに大事なのは自分自身の心っス。ほかは……全部、よけいなコトっすから。惑わされちゃ、だめっスよ」
「比奈、さん……?」
春菜は比奈の目を見る。見つめ返す比奈の眼は、じっと春菜を見据えている。
「一回でも誘惑に負けたら、つぎのチャンスなんて、二度と巡ってこないかもしれないっス。だから、春菜ちゃんは自分にとって大事な事だけを選んで、決めてほしいっす」
そこで、比奈はふっと表情を緩ませる。
「生意気言って申し訳ないっス。でも、春菜ちゃんよりちょっとだけ長く生きてるヤツの意見ってことで、受け取ってくれたらうれしいっス」
「……私にとって、大事なこと……」
春菜はもういちど、視線を下に落とす。それから春菜は呼吸を二、三度繰り返し、それから深く息を吐いて、止まった。
やがて、春菜はゆっくりと顔をあげた。
それから、目を閉じて、両手で丁寧に眼鏡の全体を包むようにする。愛おしそうに。数秒そうしたあと、春菜はまぶたを開いた。
レンズごしに俺を見つめる春菜の両目は、はっきりと意思を伴っている。
背筋がぞくりとした。
そういえば、先輩が言っていた。アイドルと接してると、急にそのアイドルが化けるときがあるのだと。
たぶん、いまのがそれだ。
「やります」春菜ははっきりと言った。「私、一番の眼鏡アイドルになります!」
「春菜ちゃん……」
比奈が安堵の声をあげた。少し離れたところでマキノが微笑んでいる。
「よし」俺は大きくうなずく。「わかった。俺も眼鏡アイドルの春菜をプロデュースする。眼鏡の写真だけを通すさ」
「プロデューサー……!」春菜はぱっと顔を輝かせた。「ありがとうございます!」
「さ、そろそろ戻るぞ。休憩は終わりだ」
俺はみんなにスタジオへ戻るよう促す。春菜は、笑顔で楽屋から出て行った。
「とても興味深いわね」マキノが言う。「まだ、解析できないの。いま、なにが起こったのか……でも、とてもいいものを見せてもらえたわ。ありがとう」
マキノは手を振り、楽屋から出て行った。
「ふぅ……」
大きく息をついた俺のとなりに、比奈がやってくる。
「思ったとおりっス」比奈は嬉しそうな顔をして言った。「プロデューサーは悪人にはなりきれない人っス、ちゃんとプロデューサーしてくれてるじゃないっスか」
俺は比奈のほうを見て、笑い返してやる。
「そりゃ、仕事だからな……でも比奈、比奈の言葉が春菜の背中を押したんだ。ありがとうな」
そう言って、俺は楽屋を出た。
扉を開けて、スタジオへと戻る。戻りながら、春菜をサポートするための覚悟を決めた。
こんなとき、先輩ならどうするか。簡単だ、先輩なら単純に「春菜は眼鏡アイドルなので、眼鏡なしの写真はNG」と示すだけだ。
なぜなら、先輩は敏腕だから。それを言って通すだけのバックグラウンドがあるから。
俺にはそれはない。名の通ったカメラマンに、ペーペーのプロデューサーと、売れっ子でもないアイドルが生意気を言っていい理由はなにひとつない。だから、それ以外の方法だ。
「カメラマンさん戻りました、再会でーす!」
スタッフの声がする。
「よろしくおねがいします!」
俺が言うより先に、春菜の明るい声が飛んだ。いつもの元気を取り戻したようだ。
「ん、じゃ最後のキミだねー」カメラマンは手早く一眼レフを準備し、スクリーン前にスタンバイしている春菜の前でカメラを構える。「まずは普通に、自然に立ってみて」
「はいっ」
シャッター音がひびき、春菜の撮影が始まった。
撮影は順調だった。小道具やポーズを変えながら撮影は進む。
それから、カメラマンは「ふーん」と唸って、カメラを降ろした。
「んー、キミもさぁ」
カメラマンは春菜の顔、眼鏡を見ている。
俺はスタジオに向かって身構えた。
「ちょっとその、眼鏡」
いまだ。
「いっやー、いいですね!」
俺は大げさにその言葉に割って入った。
「すっばらしーです!」そこまで言って、オーバーに自分の頭を叩いた。「て、あー! すいません、ついテンション上がっちゃって、撮影中に!」
「お、おお、いや」
カメラマンは目を丸くした。ふつう、撮影にこんなふうに割り込んでくる人間はいない。予想外のことが起これば、固まるのが一般的な反応だ。
ここまでの流れを観るに、このカメラマンが眼鏡をはずさせたりしているのは、単純に彼のテクニック上の手段のひとつであって、眼鏡をはずした姿へのこだわりというわけではないはずだ。
だから、その瞬間に割り込む。
それで眼鏡の着脱を不問にしてくれればいい。そうじゃなきゃ……そのときは頭を下げよう。
「うちの上条春菜の撮影、どんな感じっすか、ちょっとぜひ、経過見てみたくって」
「ん……」カメラマンは一眼レフの液晶モニターに写真を表示させる。「こんな感じ」
俺はモニターを覗き込む。四秒、写真が切り替わり続けるモニターを見つめる。
「素晴らしいです! 眼鏡と衣装とアイドル、こんなにカメラマンさんの技術で見えかたって光るもんなんすねー! 行きましょう、この組み合わせ最高です! このままこの眼鏡と衣装と勢いで最後まで撮影しきっちゃいましょうよ! ね!」
まくしたてたが、正直しっかり写真を観る余裕なんてない。緊張で心臓が口から飛び出しそうだ。
俺は春菜に向きなおる。
「春菜も、こんなに腕のいいカメラマンさんに撮ってもらえるなんて千載一遇のチャンスだぞ! その眼鏡と衣装で、しっかり撮ってもらえよな!」
「は……はいっ!」
「いやー、この眼鏡と衣装と、うちのアイドルの晴れ姿、俺もしっかり目に焼き付けときますよ! あ、すいません邪魔しちゃいまして、続けてください!」
「あ、ああ……じゃあ、続けようか」
「はいっ、おねがいします!」
そうして、撮影は再開された。これだけ強引に眼鏡と衣装がセットであるという流れを作ってしまえば、眼鏡をはずさせることは難しいだろう。
俺の放った言葉は賞賛だけだ。カメラマンの意向に異を唱えたわけでもない。
俺の目論見が成功したのか、カメラマンはもう、眼鏡のことは言わなかった。そのまま、春菜の撮影は眼鏡をはずすことなく無事に終わった。
カメラマンから終了の宣言が出た瞬間、俺は心労から深く深く息をついて、思わず近くのディレクターズチェアに腰を下ろした。
比奈がドリンクを差し出してくる。苦笑いしながら、俺はそれを受け取った。
無様なふるまいではあった。先輩みたいにはできない。だが、すべき仕事はした。俺にはこれが精いっぱいだ。
カメラマンがこちらに近づいてきたので、俺は慌ててチェアから立ち上がった。
カメラマンは穏やかに微笑む。
「おつかれさん。ボクはこのまま次の撮影がここであるから残るよ。そちらさんの撮影はざっとデータもチェックしたけど、大丈夫でしょ。編集さんにおくっとくね」
「はいっ!」俺は深く頭を下げる。「今日は、ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
春菜たち三人が、俺のあとに続いて礼をした。
スタジオを出ると、時刻はちょうど正午だった。
とても天気がよく、雲一つない青空の中心に太陽が輝いている。
俺は停めていた車のロックを解除する。三人に車に乗るよう促すと、春菜が俺の前にやってきた。
「プロデューサー、フォローしていただいて、ありがとうございました」春菜は嬉しそうに微笑む。「私、眼鏡は外したくないってちゃんと言おうと思ったんですけど、やっぱり一瞬戸惑っちゃって。プロデューサーが割って入ってくれて、嬉しかったです」
「ああ」
「私、もう迷いません」春菜は空を見た。「眼鏡をかけた私が、アイドルの上条春菜です。私自身がそのことを信じてあげなきゃ、だめなんですよね。スタッフやファンの人なら、私が眼鏡のことを大好きだって知ってる。でも、私を知らない人達の前では通じない。そういうときこそ、怖がらないで私が眼鏡大好きだってことを、アピールしなくちゃいけません」
「ああ、そうだな」
春菜は晴れやかな顔で微笑む。
「がんばります。眼鏡に恥じないために。いつか、眼鏡のフレームとレンズの向こうに、ファンのみなさんでいっぱいの、きらきらした、私の……私だけの景色を見ることができるように。そうだ、そのときはお客さんもみんな、眼鏡をかけてくれたら、いいと思いませんか?」
俺は笑って肯定の意志を示した。
「今日のこの青空といっしょに、今の気持ちをしっかり覚えて、忘れないようにします」
春菜の目指す瞬間が訪れるそのとき、俺がどこに立っているのかはわからないが、今はただ、春菜たちを支えてやろうと素直に思う。
「プロデューサー、まだ出発しないっスかー?」
比奈に尋ねられて、俺と春菜は一つずつうなずき合うと、車に乗り込んだ。
第五話『私の青空』
・・・END
――次のモデルの到着を待つスタジオの中、カメラマンは午前中の撮影資料をめくっていた。
カメラマンの手は、上条春菜の資料のところで止まる。
「あー、こんなに眼鏡って書いてある。やっぱりあの子、眼鏡にこだわりあったんだねぇ。外すのNGだったのかなー」カメラマンは納得したようにうんうん頷く。「ってことは、あのプロデューサーの彼は、彼女の眼鏡をはずさせないために割り込んできたってことだね。もう、そのくらい、言ってくれたらよかったのになぁ」
「ははは、センセイを前にそれはなかなか言いづらいっすよー、大御所ですし」
アシスタントのスタッフが笑う。
「さみしーよね、こっちはそんなつもりはないからなんでも言ってくれていいのになぁ。この上条春菜って子、休憩終わってからいい顔してたんだよね。きっと、なにかきっかけがあったんだろうなー」
言いながら、カメラマンは自分のカメラの中の上条春菜のデータを表示させる。
モニタの中の春菜は、眼鏡をかけ、すがすがしい顔で微笑んでいた。
次回は28日予定です。たくさんアイドル出ます。
まだ続ける予定ですが、ひとまず次回で折り返し地点のつもりです。
どうぞお付き合いくださいまし。
いいじゃん(いいじゃん)
グダグダいいつついいプロデューサーじゃないか
直接言えたらカッコよかったけどこのプロデューサーにできることは最大限やったわな
おつ
>>71
ありがとうございます(ありがとうございます)
>>72
ありがとうございます、創作Pにあまりお話もっていかせるのもどうかなとは思うんですが、
出すからには愛着を持ってもらえるキャラクターにしたいと思っています。
「完璧にやろうとすると固くなる。失敗の数は場数の証だ。恐れずベストを尽くしてこい」
リハーサルを終えた楽屋の中。俺は言いながら、前に並んだ日野茜、荒木比奈、上条春菜、関裕美、白菊ほたるの五人の顔を順に見て行く。
この言葉は先輩の受け売りだった。事務方の俺にも、ライブに立つアイドルたちにも、先輩はそう言って、現場へと送り出していた。
俺は意識的に、少し表情を崩す。
「……その……なんだ、せっかくのライブだ。緊張するより楽しんできてくれ」
「はいっ!」
五人の元気な声が返ってきた。それぞれに緊張も見え隠れするが、表情は悪くない。
今日は美城プロダクションを挙げての一大イベント、サマーフェスの当日。
茜たち五人のユニットが、ユニットとして初めてそろってステージに立つ日だった。
当日までの経過は順調だった。レッスンを重ねて茜と比奈のダンスも一定の水準に達し、五人の宣伝活動はラジオ、雑誌、インターネット配信番組など、規模は小さいが着実に重ねていった。有名な記者にも小さな記事ながら取り上げてもらった。
取材終了後、ハンチング帽の下、眼鏡のレンズ向こうから笑顔をのぞかせ、期待していると褒めてもらったとき、五人がとても喜んでいたことが記憶に残っている。
サマーフェスでの茜たちの出番はオープニングの全体演目と、中盤での出演者のトーク、そしてフィナーレの全体演目だ。
ユニットとしても楽曲はリリース前、個人としてもまだソロ楽曲を持っていない五人であり、特に茜と比奈はライブへの出場そのものが初体験だ。
まずはここでライブに慣れること、ユニットでの楽曲リリースの告知が狙いとなる。
「うううっ! ついに! やってきましたねっ!」
楽屋の中、ステージ衣装に着替えた茜が言う。
ステージ衣装はオレンジをベースカラーにした、夏らしいさわやかなデザインで、アイドルによって細かくアレンジされている。
興奮しエネルギーの行き場がないのか、茜は腕を振り回しながら歩き回っている。
「茜ちゃん、あんまりはしゃぐと本番前にばてちゃうんじゃないですか?」
椅子に座った春菜が笑う。今日の眼鏡はステージでの見栄えを意識したのか、ピンマイクやイヤホンモニターと併せてサイバーなヘッドセットのようにも見える、白く流線形のぶ厚いフレームのものを用意したようだ。
「茜ちゃんはちょっと発散するくらいのほうがいいかもしれないっスね」
同じく椅子に座っている比奈が笑顔で言った。その表情は穏やかで、あまり緊張はしていないようだ。
即売会なんかを通して人前に出ることは慣れているのかもしれない。
「そーですっ! この熱い気持ち、止まれませんっ!」
茜は言いながら、ダンス冒頭の動きをする。
「でも、狭いところであまり激しく動きすぎて、ケガ、しないようにしてくださいね……」
ほたるは穏やかに微笑んで、茜を制した。
茜はそれでようやく動きを止め、椅子に着くと、楽屋に用意されているペットボトルの水をぐいとあおった。
「とうとう、ここまで来たんだね、私たち」
裕美もまた穏やかに微笑んで、感慨深げに言った。
これまでで、五人はユニットの仕事に取り組み、お互いの絆も深まってきている。聞けば、ときどきプライベートで遊びにいくこともあるらしい。
「新しいプロデューサーのおかげ、かな」
はにかみ笑顔で裕美が言った。珍しい素直な態度に、俺もくすぐったくなる。
「今日は大きな舞台だが、レッスンは着実にものにしてきた。心配することはないだろう。がんばってな」
もう一度声をかける。五人は良い顔で頷いた。
俺は五人にステージの様子を見てくると告げて、楽屋を離れた。
今日の資料は頭に入っているし、一度訪れたことのある会場だが、それでも実際に茜たちが通るルートを再度確認しておく。
楽屋から廊下を伝って下手側の舞台袖へ。待機しているスタッフたちに挨拶する。
オープニング楽曲での茜たちの入場は二階に組まれたバルコニーだ。
バルコニーに複数ある門のような入場ゲートからは、それぞれ今日のフェスで目玉となるアイドルが登場する。
その両側に、茜たち新人アイドルが二人ずつついて三人一組で入場する流れだ。
階段を上ってゲートへ。自分が待機できる場所を確認する。それから、バルコニーから、まだ空っぽの客席を眺める。
目のまえに広がる二千以上のシートのチケットはほぼ完売。数十分後には、ここは人でいっぱいになる。
「なんとか、ここまで連れてこられたな……」
誰へともなくつぶやき、深く息をついた。先輩が過労で倒れてから数か月、見よう見まねでここまでやってきて、やっと五人をステージに立たせることができた。ここがひとつの区切りと言っていいだろう。
無事にライブが終わったら、今日は普段よりいいビールを買って帰ろう。そんなことを考えながら、俺はバルコニーの階段を降りていく。来た道をもどって楽屋へと戻った。
楽屋の扉を開ける。
五人はそれぞれに、自分の衣装やメイクの確認をしていた。
おかしなところのない風景に見えるが、俺はなにか違和感を覚えた。
順に五人を見る。違和感の正体が判った。茜が大人しくしている。
茜は楽屋内に置かれた、舞台の様子を確認できるモニターを真剣な眼でじっと見つめて、小さくひらいた口からゆっくりと息をしていた。
衣装をまとった胸のあたりがゆっくりと上下している。
「……大丈夫か?」
茜に声をかける。茜は返事をせず、代わりに他の四人が俺と茜のほうを見た。
俺は近くまで歩みより、茜の目のまえで手を振る。それでようやく茜ははっとしたようにこちらを見た。
「はっ、ひゃい!」
びくりと肩が跳ねて、間の抜けた声が茜の口から出た。
「茜ちゃん、大丈夫スか? ぼーっとして」
比奈が心配そうに尋ねる。
「あっ、はいっ!」茜は勢いよく立ち上がる。「すいません! 気が抜けてたようです! 大丈夫ですっ! このとおり!」
「ひょっとして、緊張してきたか?」
俺は大きく腕を振り回して元気をアピールしている茜に尋ねる。
大きな舞台となれば、多かれ少なかれ人は緊張する。場数を踏んだアイドルであっても、ライブ当日となればリハーサルと完全に同じ気分では過ごせないものだ。
むしろ適度な緊張感は本番の集中力を高めてくれるものだし、緊張が原因で多少のミスがあったところで大勢に影響することはほとんどない。
それだけのレッスンを重ねてもいる。
だが、ごくまれに極度の緊張、過呼吸などでアイドルが出演不可能な状態に陥ってしまう場合はある。俺は念のために茜の様子を観察した。
「いやっ、大丈夫です! ちょっと精神を統一していました!」
茜はさきほどまでの呆けた顔が嘘であるかのように、戦意たっぷりの目でこちらを見た。
その顔、髪の生え際を中心に、普段より多く、じっとりと汗をかいているように見える。
「……そうか」違和感は晴れなかったが、開演時間も近い。茜がこのまま持ち直すことを俺は祈った。「そろそろ舞台袖に移動しておこう。早めに入ってほかのアイドルを待つくらいのほうが余裕あっていいと思うぞ」
「じゃあ、みなさん、行きましょうか!」
春菜が立ち上がり、楽屋の扉を開く。五人はそれぞれ、真剣な顔で舞台へと向かった。
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客席に流れているBGMが小さく聞こえてくる以外はほとんど音のしない、静かな舞台袖に到着する。
集合予定時刻まではまだかなりの時間があった。俺たちが一番の到着かと予想していたが、広い舞台袖の中央に、一人の少女がぽつんと立っていた。
茜たちと同じ衣装を着ている。ということは、スタッフではなくて同じアイドルだ。
少女がこちらを見た。そこで俺もようやくその少女が誰なのか理解する。
無垢な笑顔が魅力的なショートの黒髪。美城プロダクションのアイドル、小日向美穂だ。
茜や比奈と同じく、今日のライブが初のステージとなる新人アイドルで、たしか、最初の曲の入場は茜とペアだった。
「小日向美穂です! 今日は、よろしくおねがいします!」
美穂が深く頭を下げる。五人も同じように返事をして頭を下げた。茜の声はその中で飛びぬけて大きい。
開演まではBGMを流しているから心配はないと思うが、客が入り始めている客席に聴こえてしまわないか不安になるほどだ。
「私、今日が初めてのライブで……みなさんにご迷惑をかけないよう、いっしょうけんめい頑張りますので、よろしくおねがいします!」
「美穂ちゃん! 今日はがんばりましょう!」茜が嬉しそうに言った。「おたがい初めてどうし! 記念すべき第一歩です! ボンバー!」
腕を振り上げる茜。それに驚いたのか、美穂の肩がびくりと跳ねた。
全体曲のレッスンの機会で茜と美穂はすでに打ち解けているようだ。
「アタシも初めてのライブっス。緊張するっスね……お互いはじめてどうし、がんばりましょー」
比奈がゆるく挨拶する。緊張すると言っていたが、固くなっている様子はない。心配はなさそうだった。
茜もやや興奮気味だが、一見しておかしな様子はない。
春菜、裕美。ほたるの三人は規模の大小はあれどライブは経験している。問題はないだろう。
「まだ余裕はあるから、入場口を確認しておくといいだろう。客席に見えないように気をつけろよ」
俺が言うと、五人と美穂はそれぞれ、自分の入場場所を確認に走った。
そのあいだに、楽屋から舞台袖へと移動してくるアイドルはじわじわと増えた。スタッフたちの緊張感もにわかに高まっている。
バルコニーへ続く階段を見る。茜と美穂が談笑しながら戻ってくるのが見えた。
続いて、裕美、ほたる、春菜、比奈の順に戻ってくる。その頃には、袖に待機しているアイドルたちも十五人以上になっていた。
「ぐっもーにーん! えぶりばーでぃー!」
スタッフやアイドルたちの緊張感とは対照的に、能天気な高い声が響く。
鼻歌混じりに楽屋口から舞台袖へと入ってきたその声の主は、ショートの金髪碧眼、日本人とフランス人の両親を持つハーフのアイドル、宮本フレデリカだった。
フレデリカは今回の目玉アイドルの一人だ。飛びぬけて明るく、いつも緊張感とは無縁なフレデリカのキャラクターは、男女を問わず広い世代に親しまれている。
「おはよーございまーす、今日はよろしくー」
その後ろから、同じく緊張感ゼロで舞台袖に入ってきたのは、銀髪でこちらも同じくショート、キツネのようにシャープでサバサバした雰囲気を身に纏ったアイドル、塩見周子だった。
フレデリカと周子、そして一ノ瀬志希の三人からなる人気ユニット「誘惑イビル」の演目は、今回のライブで盛り上がりのピークのひとつとなるだろう。
フレデリカと周子が入ってきたので、てっきり志希も来るのかと思いきや、二人の後ろから着いてくるものはいなかった。
肩透かしを食らったような周りの雰囲気を悟ったのか、フレデリカは集まっているアイドルたちの中心でぱっと右手を挙げる。
「あ、シキちゃんはまだ楽屋で丸まってるんだ~、だいじょーぶ、本番までにはまにあうよー、たぶんだけどねー」
それから、フレデリカはアイドルたちをぐるりと見回してから、茜たちや美穂のほうを見ると「おおっ?」と興味深そうな声をあげた。
「ねえねえ、たしかライブはじめて、じゃなかったっけ? リハーサルで言ってたよね?」
屈託ない笑顔で近づいてくるフレデリカに、茜、比奈、美穂の三人はそれぞれ頭を下げる。
サマーフェスはかなりの参加者があり、全員のスケジュールを完全に合わせることは困難だった。
おそらく、茜たちとフレデリカたちは、リハーサル以外に顔を合わせる機会はなかったのだろう。
「日野茜ですっ! 今日が初めてのライブです! よろしくおねがいします!」
「あっ、小日向美穂、です、私も初めてで……よろしくおねがいします」
「荒木比奈っス。アタシも初めてっス」
「宮本フレデリカだよー! 今日はよろしくね、ラビュー!」
フレデリカは三人に向かって手を振る。それから、長いまつげが印象的な大きな目で、三人を見た。
「ねぇねぇ、三人はもう、掛け声決めた?」
「掛け声、ですか……?」
美穂がきょとんとした声をあげる。茜と比奈も不思議そうな顔をしていた。
「そう、ライブがスタートして、ステージに出ていくときの掛け声だよー、アン、ドゥ、トロワー! みたいにねー! もう決めたー?」
「掛け声……聞いたことなかったっスね……」
「決めといたほうがいいよー、あたしは塩見周子。よろしゅー、がんばろーね」言葉とは裏腹に、やる気を表に出す様子がまるでない周子が話に参加してきた。「掛け声はプロダクションの伝統だからねー、好きな食べ物にするといいって聞いたことあるなー、ね、フレちゃん?」
周子は悪戯っぽい目でフレデリカを見る。
フレデリカは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに大きく頷いた。
「そう、そうなんだよー、さすがシューコちゃん、良く知ってるよねー! アタシだったらねー、えーっと『ふつう、味の、コロッケー!』かなー?」
走り出すようなポーズをとって言うフレデリカの言葉に、集まっているアイドルの何人かは吹き出し、何人かは肩を震わせて笑いをこらえている。
比奈が苦笑いし、茜と美穂はきょとんとしていた。なんだ、ふつう味のコロッケって。
俺も周りのリアクションの理由を知っていた。
もちろん、美城プロダクションにそんな伝統はないし、食べ物にするといいなんてこともない。フレデリカと周子の即興の冗談だ。
フレデリカたちに悪気はなく、本番前の緊張を和らげようとしてくれようとしているのだろうが。
「なるほど! 掛け声ですかっ!」それが冗談だとつゆ知らず、茜はそれを真に受ける。「美穂ちゃん、どうしましょう!?」
「えっ? えっと……」美穂は少しのあいだ悩む。「茜ちゃんの好きな食べ物は?」
「私ですか! 私は……カレーです! ということは……『カ、レー、ライス!』ですかね?」
それはちょっと語呂が悪くないか、と意見をする間もなく。
「うんうん、いいと思うよー。じゃあ、本番もがんばろー」
周子はのんびりと言う。その一言で、アイドルたちはまたそれぞれに待機することになった。
「プロデューサー……掛け声、ほんとに伝統なんスか?」
比奈に尋ねられて、俺は首を横に振った。
「やっぱり、そうっスよね……」
比奈は苦笑いしながら、カレーライスの掛け声を繰り返し練習する茜と、それに付き合わされている美穂を眺めていた。
「でも、掛け声があったほうが、ステージへの入りは合わせやすそうですよね」
となりにいたほたるが言う。
「そうだな」
俺はうなずいた。適当に言ったように見えて、フレデリカと周子の二人はきちんと新人アイドルのことを考えている。頼もしい存在だった。
「おっはよーございまーす!」
「ふぁ、おはよー」
はきはきとした元気な声と、対照的に眠たげな声が楽屋口のほうから聴こえてくる。
城ヶ崎美嘉と一ノ瀬志希の二人だった。二人の姿を認めたアイドルたちから次々におはようございますの声が返る。
城ヶ崎美嘉はカリスマギャルと呼ばれている人気アイドルで、今日のフェスでも全体プログラムではリーダーとなる場面が多い。
二人が俺の横を通り過ぎるとき、ふっと志希が立ち止まり、俺のほうを見た。
眠たげだった目が、玩具に興味を示す子猫のようにぱっちりと大きく開かれたかと思うと、志希は俺のほうにかけ寄り、上目づかいで俺を見て、鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅ぎ始めた。
一ノ瀬志希はギフテッドと呼ばれ、化学分野、特に匂いの領域に特化した天才的学習能力を持つ。
「やっぱり! キミ、前よりいー匂いするようになった!」
「は?」
俺は意味が判らず、思わずきき返していた。志希は言うだけ言って、呆気にとられている俺に構わず、フレデリカと周子のほうへと小走りにかけていく。
それから、俺の記憶が蘇る。
もう数か月以上前だ。先輩に同行したライブにたまたま出演していた志希に、同じように匂いを嗅がれたことがあった。
あのときは「単位は出るかなー」と平坦な声で言われたのだったか。
「……あの時の俺の体臭を覚えているのか?」
信じられないと俺は思った。
いまと同じ、ほんの一瞬の出来事だ。いくら天才とはいえ、あの短時間で嗅いだ匂いを今日まで覚えていられるなんてことが、ありえるのか?
「集合五分前でーす!」
スタッフの声がかかる。俺は志希に言われたことを思考の外側に追い出した。開演する前に、五人を集めて声をかけておいたほうがいいだろう。
「比奈、ほたる、みんなを集めてくれ」
俺に言われて二人はうなずくと、それぞれ茜、春菜、裕美のいるほうへと向かった。
ほたるはすぐに春菜と裕美を連れてくる。が、比奈が戻ってこない。俺は比奈が向かったほうを見た。
比奈が、こちらに手を振っている。
俺はほたるたち三人とともにそちらへ向かった。そうしてすぐに、比奈が戻ってこなかった理由を知った。
「ハッ、ハッ、ハッ……」
茜が、足元のなにもない場所を見つめたまま、短く呼吸を繰り返している。楽屋で見たのと同じ光景だ。
「茜ちゃん……」
春菜が不安そうな声をあげる。
俺は奥歯を嚙んだ。
やはり、茜は普段のように振る舞っているように見えて、その実は緊張が極限に達していたのだろう。
だが、もう開演時間は迫っている。今更スケジュールを遅らせるわけにもいかない。
本当に動けないのなら、茜にはストップをかけ、医者を呼ばなくては。
「プロデューサー!」
比奈に言われて、俺は比奈のほうを見て首を縦に振る。それから、茜のほうへ向き直り――
「っ……! あ……っ!」
どうしてか。
声が、出なかった。
俺は俺自身に対して困惑した。なにが起こっているのかわからなかった。
比奈たちユニットのメンバーに囲まれ、待機しているほかのアイドルたちにも囲まれ、俺は茜を目の前にして動くこともできず、喉の奥から細い息だけを漏らしていた。
どうなっているのかわからないまま、とにかく茜の背に手を添えようと、右手を伸ばしたところで、先に比奈たちが茜に駆け寄る。
それぞれが茜の手を取り、肩に手を添えた。
十数秒で、茜の呼吸の間隔は次第にもとの落ち着きを取り戻した。
茜の眼から数粒の涙がこぼれ、舞台袖の床板に小さな丸い水の跡を作る。
ほたるが近くのテーブルからタオルをとってくると、茜の涙と汗を丁寧にふき取った。
「っ、はっ、はーーー……ありがとう、ございます」
茜はようやく言葉を発する。裕美に渡されたボトルの水を口に含んで、時間をかけてゆっくりと飲みこみ、それから、茜は比奈たちに向かって微笑んだ。
それから茜は自分の両の頬をぱんぱんと軽く叩くと、両腕でガッツポーズした。
「よおっし! 日野茜、もう大丈夫です! すっごく緊張してますけど! でもみんなのおかげで吹っ切れました! みなさん! お騒がせしましたっ!」
謝る茜に対して、比奈たちはほっとしたような笑顔を見せる。周りで見ていたアイドルたちも、それぞれに安堵の顔を見せた。
「すいませんプロデューサーさん! やっぱり、緊張してたみたいです!」
「ああ」俺は自分の混乱を隠して茜に笑いかける。「初めての大舞台だ、無理もないさ。きつそうだと思ったら正直に言ってくれ」
「はいっ!」茜は大きく頷く。「楽屋のとき、本当はダメでした! でも今は、きっともう大丈夫です! つぎダメになりそうなときは、すぐに言います!」
俺は茜の言葉を信じることにした。冗談は言えないようなやつだ。これならきっと、大丈夫だろう。
俺はもう一度、さっき自分に起こったことを思い出す。どうして、声が出せなかった?
そう考えているあいだに、俺の周りには茜たち五人が集まっていた。俺は再び、思考を中断する。
「よし、それじゃいよいよ本番だ。どんなことでもいい、なにかあったらすぐに相談してくれ。一人で背負わないようにな。記念すべき、初ライブだ。……みんな、頑張ってこい!」
「はいっ!」
五人の声が重なる。
「……閃光のように! ……っス」
比奈が拳を握り締めていた。
「時間です! 集合確認できてます、開演まであと五分!」
「じゃ、円陣組もっか!」
美嘉が声をかけると、アイドルたちは並んで輪を作る。美嘉が右手を出すと、それにならってアイドルたちは全員右手を出した。
「掛け声は……」
「やっぱり、美嘉ちゃんにかけてもらうのがいいんじゃないでしょうか」
そう言ったのは、高垣楓。アイドルたちの中で芸歴も長く、本番を前にしても落ち着き払っていて風格がある。
「あはは、楓さんに言われちゃ、しょーがないかな、それじゃ……」
美嘉は一転して、好戦的な獣のように目をぎらつかせる。
すぅ、と息を吸い込んで。
「今日、ここを! 世界の中で一番アッツい場所にする! 美城プロ、サマーフェス! いくよぉっ!」
重ねた手のひらがぐっと沈んだかと思うと、アイドルたちの掛け声とともに、羽ばたくように高く掲げられた。
茜たちとともにバルコニーへ上がるステップをのぼる。
バルコニーのゲートの向こうからは開演を待つファンたちの熱気が伝わってくる。
暗幕で区切られたゲートの前に、それぞれのアイドルが立った。
比奈と春菜は川島瑞樹の両翼に。裕美とほたるは佐久間まゆの両翼だ。
俺は直前の茜の件を受けて、念のために茜の入場位置付近に待機することにした。茜と美穂は、美嘉の両翼となる。
「初めてのライブって、緊張するよねー。アタシも最初の時はヤバかったなー、でも、レッスンの通りやれば大丈夫だから、楽しもうねー、サイッコーの景色だからさ!」
美嘉はそう言って茜と美穂に笑いかける。緊張を感じさせない、軽快な声色だった。
「はいっ! よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
茜と美穂がそれぞれ返事をすると、三人はゲートの前に立つ。
ほかのゲートも同じように、それぞれのアイドルが並んでいた。
暗幕の向こうにはまだ、開演前のBGMとしてアイドルたちの音源が流れている。
増幅された低音が胸を衝く。この時間は、裏方の身とはいえど、緊張しなかったことはない。
「本番、いきます!」
スタッフの声がかかり、BGMがひときわ大きくなる。それに引っ張られるように会場の熱は一層高まり、そしてBGMが消えゆき、ファンの声だけが残る。
ファンファーレが始まる。目の前の三人が、すぐに飛び出せるようにほんの少しだけ姿勢を低くした。
ファンファーレが終わる、その瞬間に、ゲートの暗幕が一斉にあげられる。ステージの向こうの光が飛び込んでくる。
「行くよ」
美嘉が両隣の二人に声をかけた。
「行って来い」
俺はそれぞれのゲートにいる五人に声をかけた。
最初の曲のイントロが始まる。
茜と美穂はスタートの姿勢をとる。
「行きます!」茜が言った。「『カレー!』」
その言葉を聞いた瞬間に、俺の脳はフル回転を余儀なくされた。目の前の景色がゆっくり流れる。きっと、美穂も同じだっただろう。
『カレー』で始めたら、残りは『ライス』しかない。二拍だ。打ち合わせは『カ・レー・ライス』で三拍だったじゃないか。
茜、それじゃあ、タイミングが合わない。
伝えなくては。ストップして、もう一度。変に強行してガタガタになるより、仕切り直したほうがいい。
「ぁ……っ!」
また、だった。
また、俺の喉からは声が出なかった。
胸が、喉が、音を出すのを拒絶するみたいに、俺の言おうとすることを拒む。
どうして。そう考えているあいだに、時間は過ぎる。
「ラ……」
茜もミスに気づいたようだった。茜と美穂はタイミングを逸する。
ゲートの手前で、二人はがくん、と姿勢を崩した。
茜と美穂の顔が同時にさぁっと青くなる。
「大丈夫っ!」美嘉が二人の頭に手を置く。「今日はうまくいってもいかなくても、アタシたちが主役なんだから、ぜんぶ成功なの! ね!」
そう言って、美嘉は強い瞳で二人を見る。二人の顔に赤みが戻る。
城ヶ崎美香。この一瞬で、ファンだけでなく同じアイドルの心までひとつにする。恐るべきカリスマ。
「はいっ!」
二人の声が揃う。
「もう一回行くよ、いち、に……さん!」
美嘉のかけ声で、茜と美穂の二人は光の中へ飛び込んでいく。その後ろを追って、美嘉もステージへ。
客席からは大歓声が飛んでくる。
俺はほかのゲートも確認する。どのゲートも無事に入場したようだ。すぐに最初の曲のAメロが始まった。
長く息をつく。それから、ゲートの端からステージを覗いた。茜が歌い、踊る姿が見えた。
小さな体で、手足をいっぱいに伸ばして。
あの日、河川敷で俺とぶつかったことから始まったあの少女は。
いま、アイドルになっている。
目の前の景色がにじんで、ぼやける。茜の姿がシルエットのように、不鮮明になった。
自分の涙だった。
「ああ」
それで、気づいてしまった。
自分がどうして、茜に向かって声を出すことができなかったのか。
ぼろぼろこぼれる涙が頬を流れていくのも構わず、俺はゆっくりと、階段を降りて舞台袖一階へと戻った。
ステージを映すモニターの前に行くと、そこには壮年のベテラン社員とちひろさんがいて、アイドルたちの活躍を見守っていた。
壮年社員が俺のほうへと歩み寄ってくる。涙と鼻水の止まらない俺の顔を見ると、穏やかに微笑んで「お疲れさま」と声をかけてくれた。
「ずいません、ごんな……」
こんな顔で、と言いたかったのだが、ちゃんとした声にはならなかった。
「不慣れな仕事で、よく頑張ってくれた。立派だよ、彼女たちがしっかり羽ばたけたのは、キミのおかげだ」
「……」
俺が黙っていると、壮年社員はほーっと、長い息をつく。
「大人はなかなか、満足に泣くこともできやしないんだ。辛いよね。いまは、大丈夫だ」
壮年社員が俺の心の内を知っているとは思えない。それでも俺は、壮年社員の言葉に甘えさせていただくことにした。
「お疲れ様でした、プロデューサーさん」
ちひろさんが俺にドリンクを差し出してくれる。俺は「ありがとうございます」と濁った声で言いながらそれを受け取ると、ドリンクをあおった。
いつもよりも甘く感じた。
ありがたかった。
「あの子たちも、頑張ったなぁ」
モニターを見ながら、壮年社員は感慨深げに言った。
「ええ」
俺はようやく、ハンカチで顔を拭うと、モニターを見つめた。
あまり大きくはないモニターの中には、ほとんど豆粒みたいに見えるアイドルたちが、歓声を浴びて歌い、踊る姿が映されている。
その一角に、大きくエネルギッシュな動きで踊り続ける、背の低いアイドルが一人。日野茜。
俺はその姿をじっと見つめた。
あれは日野茜。俺の幼なじみのアイツじゃあない。
そんな簡単な事実からすら、俺はずっと逃げ続けていたんだ。
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アイドルに憧れ続けていた地元の幼なじみは、高校を卒業すると、すぐに上京して、いくつもの事務所のオーディションに応募していた。
一方の俺は、地方の大学に通いながら、イベントスタッフのアルバイトなど、芸能関係の仕事を積み重ねていた。
幼なじみのアイツはアイドルに。俺はそのプロデューサーに。
高校を卒業するとき、交わしなおした約束に大した拘束力があると思っていたわけではない。
特に将来への展望もなかった俺にとっては、選ぶアルバイトの方向性を絞るいい口実くらいに思っていた。
俺がアルバイトの経験を重ねて少しずつ芸能界の仕事に近づいていく一方、アイツのほうは思わしくなかった。
オーディションの落選を繰り返し、ようやく小さなプロダクションに入ったものの、まともな仕事は殆どなかった。
とりあっていた連絡は少しずつ間が空くようになった。
アルバイトの経験を買われて入った芸能プロダクションから、更に人間関係を伝って転職し、美城プロダクションへ。
俺はいつのまにか、約束を果たしていた。
一方で、約束を果たすことができないまま、アイツの心は折れた。
年齢を重ねてもアイドルとしての実績は得られず、それでも芸能界に残ろうとした結果、来る仕事はアダルトまがいのものばかり。
そうしてついに、アダルトではないものの、内容の過激なイメージビデオに出演し、その直後に心をすり減らしたアイツは自分で自分の夢に幕を下ろした。
約束を果たせなくて申し訳ないと書かれたメールの受信を最後に連絡は途絶え、アイツは姿を消した。
過激なイメージビデオの出演は、人の噂が大好きな田舎の狭いコミュニティには格好の話題であり、地元にも居られなくなったアイツは家族ごとどこかへ引っ越した。
あとには、約束も夢も目標もなくなった俺だけが残った。
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俺はモニターを見つめる。
茜たちは歌い、踊り続けている。
俺は茜とアイツを同一視していた。だから、これまでもずっと、そして呼ぶべき大切な場面で、その名前が呼べなかった。
茜とアイツは違う。
茜がステージに立ち、アイツがたどり着けないところへ茜がたどり着くまで、こんな簡単な事実にすら気づけないなんて。
そんな失礼なことがあるだろうか。
自己嫌悪しながら、それでもモニターを見つめ続けた。
「助けられてるよねぇ」
壮年社員が、モニターを見つめたままつぶやく。
「私たちはアイドルのみんなを支え、輝く手伝いをしている……でもその実、私たちもこれ以上なく助けられているんだ、彼女たちの、輝きに」
「……はい」
「これからも、頑張ってくれよ、プロデューサー」
「……はい」
「頑張ってくださいね、プロデューサーさん」
「……はいっ」
返事をした自分の声は、自分でも驚くほど、素直だった。
モニターの中では、曲が終わったアイドルたちが、きらきら輝く笑顔で客席に手を振っていた。
それを見つめながら、俺は心のなかで別れを告げる。
幼いころの、約束に。
さようなら。俺は、新しい夢を支えに行くよ。
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ライブは続く。
茜、比奈、春菜、裕美、ほたるの五人は中盤のトークコーナーでこれからCDデビュー予定のユニットであることを告知。
茜の天然の熱血ボケと、比奈の冷静なツッコミは会場の笑いを誘った。
春菜、裕美、ほたるの三人はほかのアイドルのプログラムの一部にダンサーとして出演。
そしてプログラム最後の曲と、アンコールまでを無事に終えて、サマーフェスは大盛況のうちに終演となった。
長い時間をかけて客席に向かって深い感謝の礼をし、顔をあげた茜たちアイドルの顔は、みんな晴れやかだった。
「おつかれーっ!」
舞台袖に戻るなり、美嘉の声が出演者みんなをねぎらう。アイドルたちがお互いをねぎらう声があちらこちらで響いていた。
「今日はありがとうございました!」
美穂が美嘉に言う。
「すいませんっ、入りを失敗して迷惑をかけてしまいましたっ! 次はもっと合わせやすい食べ物を掛け声にしますっ!」
茜が美嘉に向かって頭を下げる。食べ物の掛け声はやめるつもりはないらしい。
「おつかれさまー! すっごくよかったと思うよ! 失敗なんて気にするほどじゃないからさー。美穂ちゃんはキュートだったし、茜ちゃんは体力すっごいよね! 二人とも、また絶対一緒にライブやろ!」
言いながら、美嘉はにっと笑って茜に向かって拳を突き出す。
茜は一瞬戸惑ったようだが、すぐに自分の拳を出して美嘉と突き合わせた。
それから、パンと小気味いい音を立ててお互いの手のひらを打った。
「プロデューサー」
裕美とほたるがこちらに歩いてくる。
「おう、お疲れ様」
「なにも大きな事故がなくて、よかったです……」
ほたるはほっとした顔で笑った。
「終わった……でも、終わりじゃなくて、私たちはここがスタート、だよね?」
裕美に尋ねられ、俺はうなずく。
「ああ」俺は二人の顔を順番に見た。「すまない、裕美、ほたる、それと春菜は、これまでもプロダクションでアイドルとしての活動経験があることに俺自身が甘えてしまって、フォローしきれないことが多かった。これからはユニットでリリースまで頑張ろう。仕事もどんどん増やしていくぞ。よろしくな」
「うん。よろしくね」
裕美は穏やかな笑顔で返事をする。
「お仕事……すみません、よろしくお願いします」
ほたるはどこかに不安そうな色をのこして、だけどもやはり笑顔で返事をしてくれた。
二人は曲で共演したメンバーのところへと歩いて行く。
「プロデューサーさん」
「プロデューサー」
こんどは春菜と比奈が近づいてくる。
「今日のライブは、いつもより会場が輝いて見えた気がします。眼鏡の自分に自信をもってやれたからでしょうか。……ふふ」
春菜はほかの共演者にも挨拶をしたいと言って、すぐにその場を離れた。
「お疲れさん」
俺は残った比奈に声をかける。
「お疲れっス。どーしたんスか? その顔」
比奈は悪戯っぽい目できいてくる。きっと、俺の目の周りは真っ赤になっているのだろう。
「大人はいろいろあるんだよ」
「そっスか」
比奈は俺のとなりに立ち、それ以上は聴いてこなかった。
「……いくら辞めたいとは言っても、お前たちのことはちゃんと責任を持つよ」
「……?」
「この前、聞かれたことの話だ。中途半端にはしないさ」
「ああ」比奈は何のことだかわかったようだった。「いまは、その答えでいいことにしておくっスよ、プロデューサー」
そう言って、比奈は笑った。
「プロデューサー! やりました! ファイヤーッ!」
茜が遠くから大声で言い、太陽みたいな笑顔で、こちらに走ってくる。
茜は俺の前で立ち止まり、興奮冷めやらぬ目で俺を見る。
「ああ」
「ライブ! すごく熱くて! すごく楽しかったです! ぜんぶ、私をスカウトしてくれたプロデューサーのおかげです、ありがとうございました!」
「ああ」
俺は茜の目を見ながら言った。
これからはきちんと、名前を呼ぼう。
「でも、輝いたのはお前や、みんな自身の力だよ。頑張ったな。まずは、お疲れ、……『茜』」
俺の言葉に、茜は少しのあいだだけ目を丸くして。
それから、満面の笑顔で応えた。
「はいっ! お疲れ様でした!」
こうして、美城プロダクションのサマーフェス、茜達の最初の舞台は幕を閉じた。
日野茜、荒木比奈、上条春菜、関裕美、白菊ほたるの五人は、次のステップへ向けて、これからも突き進んでいく。
第六話『世界で一番熱い夏』
・・・END
前半戦は以上です。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
裕美、ほたるにフォーカスを当てたエピソード、そしてアイドルたちのさらなる奮闘は後半にて。
はじめての投稿だったので勝手がわからないのですが、後半の開始まではしばらくお時間をいただくことになりそうですので、
このスレッドは後日、ここまででいったんHTML化を依頼しようと考えています。
できるだけ早く、遅くとも7月中には再開したいと思っています。
「先輩プロデューサーが過労で倒れた」完結編もお付き合いいただければ幸いです。
よっしゃ、ほたるも出るんだな
期待期待 お疲れお疲れ
おつ
次も期待
乙
後半も待ってる
「あ、お疲れです。すいませんご心配かけまして……
ええはい、ようやく動けるようになってきました。
医者からはもう少し大人しくしてるように言われてるんですけど。
……やだなぁ、さすがにこれ以上無茶できないですよ、医者がいいって言うまで大人しくしてます。
そんで、全快してからはまた、バリバリやりたいと思ってますんで!
それじゃ、また連絡します。
ドリンク差し入れしてもらえるの、待ってますよ、ちひろさん!」
ガチャン ツーツーツー
まだHTML化はされていないようなので。
完結編スタートしています。
【デレマス】「先輩プロデューサーが過労で倒れた」完結編 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1498831764/)
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