安斎都「ドレスが似合う女」 (70)
世界で一番ドレスが似合う女(ひと)が死んだ。死因は大量の睡眠薬を、大量のお酒で服用したこと。事故とも自殺ともつかない死に方だったから、アイドル達の間では様々な噂が飛びかっていた。
トップアイドルとしての重責に耐えられなくなった。大酒飲みだったから、健康上の問題を抱えていた。痴情のもつれ、果てには他殺説まで、とにかく色々。
この件で一番ショックを受けていたのは、高垣さんのプロデューサーだった。なにせ、彼女の遺体を発見したのは、ほかならぬ彼自身だったのだ。
そのプロデューサーは女性のように華奢で小柄な人で、その見た目通りと言うべきか、繊細で傷つきやすい。この前も、他の担当アイドルに慰めてもらっていた。
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快活という言葉が服を着て歩いているような女の子、未央ちゃんが言った。彼女に一生懸命慰めてもらえるなんて、幸せ者…とも言えないか。
「いや、俺のせいなんだ。トップアイドルになったからって、目を離すべきじゃなかったんだ」
彼は高垣さんが総選挙で2位になった後、新人の育成のために担当を外れることになっていた。その件で高垣さんは事務所のえらい人に直談判したり、プロデューサーと口論になることもあったらしい。
「あっ、そう言えばプロデューサー、スーツ買い換えた?
前のも英国紳士みたいでかっこよかったけど、今のは若々しく見えるね!
よく似合ってるよ!」
未央ちゃんは露骨に方向転換を図った。でも、それはとどめの一撃だった。
私は事務所に入ったばかりで、高垣さんと話したことは2、3度くらいしかない。けれど、彼女はシンデレラガールに選ばれるべきアイドルだったと思う。順位が安定して高いとか、そういうことじゃなくて、とにかく、誰が見ても素敵な女性(ひと)だった。キャリアは長いけど、それで私達後輩に威張ったりすることはないし、むしろ温かい目で見守ってくれていたと思う。大人としての落ち着きがある一方で、子どもらしい無邪気さもあって、親しみやすい女性だった。
そんな女性を最初から一番近くで見続けて、その最期も見てしまうなんて、彼じゃなくてもつらいだろう。
「高垣さんのプロデューサー、つらいでしょうね」
私は、助手兼私のプロデューサーさんに話しかけた。事務所の中では珍しい常識人なのに、担当アイドルはみんな変わり者という苦労人だ。私を除いて。
「だろうな。今はそっとしておくしかない。下手に刺激して、奴まで高垣さんの後を追ったら困る」
私の助手は目の下を揉みながら答えた。大きなクマができている。高垣さんの死から2週間たったけど、事務所は今も対応に追われている。2年先まで詰まっていた彼女のスケジュールの処理、蟻のようにむらがってくる取材、ファンからの抗議、そして遺族への謝罪。プロデューサーさんも、あちこちに頭を下げたり、記者にもみくちゃにされたりしている。
「高垣さんは、どうして亡くなったんでしょうね?」
「さあ、わからん。俺たちが何か思いついたところで、お外でやってるゴシップ報道と大差あるまい」
プロデューサーさんは不機嫌そうに言った。事務所が詳しい経緯を明かさないのをいいことに、メディアは好き勝手な情報を流している。それこそ、高垣楓というアイドルをおもちゃにするみたいに。
「プロデューサーさんは、私が死んだら悲しいですか?」
なんの気無しに、本当になんの気持ちのなしに、そう尋ねてみた。口に出したあと、しまったなあという気がした。
プロデューサーさんは、どうかな、と即座に返した。少しがっかりした。しかし、彼は
「俺は、都が勝手に死なないように努力するさ。お前は時々危なっかしいこともするし」
と、付け加えてくれた。
やっぱり、プロデューサーさんは私の助手にふさわしい人だ。
「そうですか…それじゃあ、今回もよろしくお願いします」
「はぁ?」
私達は、高垣さんの部屋の前まで来ていた。高垣さんは、大金持ちと言ってさしつかえないお給料をもらっていたけれど、346プロの寮に住みつづけていた。
彼女ほどのトップアイドルだと、一人暮らしはかえって危険なのかもしれない。いや、酔い潰れたとき、同じ寮の人に送ってもらうためだったのかな。
ドアノブを回すと、やはりというか、鍵がかかっている。そこで私は、安全ピンを二本鍵穴につっこんで、上下左右にうごかしてみた。
「まずいって、都!」
「まずいのはわかっています! でも、“軽犯罪は調査の基本だよ、ワトソン君”。モルヒネを打つよりは可愛いでしょう?」
それに、これで開くなら防犯の方に問題がある。そう思いながら適当にやっていると、チャッ、っという音がして、なんと開いてしまった。このようなドアに安全を任せていたのだと思うと、正直ぞっとする。
「プロデューサーは見張っててください」
「バレたら解雇…バレたら解雇…」
頼りないワトソン君だ。
部屋に入ると、中は廊下よりもひんやりしている。検死室や病院の安置所など、死体のあるところは、周囲よりも温度が下がる。幽霊が室内の熱エネルギーを消費しているのだ。
そんなエセ心霊科学の話を思い出しながら、私は身震いした。高垣さんの幽霊がここにいるなら、真実を聞いてみたいところだけど。
実際は、この部屋に空調が入っていないせいだろう。きっとそうだ…そうなのだ。私は腕をさすりながら、部屋を見渡した。
普通の寮部屋と大概おなじだった。ベッドと、その近くに引き出しのついた机。キッチンはない。栄養管理と、アイドルが調理で怪我をしないようにするためかな。トップアイドルでも、壁一面に金箔が貼ってあったりとか、大理石の柱が数本立っている、ということはないらしい。
ベッドに近づいてみると、シーツだけは真新しいものに見えた。たぶん、高垣さんはここに横たわっていたのだろう。近くで匂いをかぐと、ほんのり甘いシトラスの香りがする。高垣さんが見ているとしたら、少し引くだろうなぁ。我ながらそう思った。
気をとりなおして、ベッドの下を覗きこんだ。犯人の手がかりがあるかもしれない、なんて。
探偵の7つ道具ペンライトで照らすと、うっすら埃が積もっている。どっさりでないのは、こまめに掃除していたからだろうか。
ライトを左右に動かすと、チカっと光に反射するものがあった。
「おやおやおや~?」
そこには、ボタンが1つ落ちていた。拾い上げると、糸がまとわり付いていることに気づいた。まるで、服からちぎられたようだ。…事件の香りがする、なーんて。
今度は机を、虫眼鏡で観察してみた。すると、赤い点と水シミが、ぽつぽつ散っているのに気づいた。一見したらわからないから、拭き取られなかったのだろうか。
観察を続けると、三日月型のシミがあった。なにかの上に、雫が落ちたのだろう。小さくて、なにか丸いもの。大きさはちょうど一円玉くらい。
わたしは、拾ったボタンを机のシミに重ねてみた。そこには、ぴったりとベン図ができていた。
胸がどきどきする。調査を続ければ、もっと何かわかるかも。もっと部屋を探れば。
その時、部屋の冷気が私の熱を一気に下げた。私は、何をしているんだろう。事務所の閉塞感が耐えきれなくて、とんでもないことをしてしまった。短い間とはいえ、高垣さんにはお世話になったのに。全然暑くないはずだけれど、背中には冷たい汗がしたたった。
これ以上の調査はまずい。罪悪感か、他のアイドルに見られるのをはばかるのか、私は部屋を出た。ボタンを、そっと懐に忍ばせて。
「おまたせしました」
「お待たせされました…まったく心臓に悪い」
プロデューサーさんも、冷や汗を浮かべながら周りを警戒していた。私は、プロデューサーさんの手を握りながら、部屋の前から立ち去った。2人の手はお互いの汗でぐっちょりしていたけれど、私は寮の外に出るまで、決してプロデューサーさんを離さなかった。
それからしばらくは、おとなしくレッスンをしたり、探偵ドラマや推理小説をざっと見たりしていた。高垣さんの部屋のことを気になってはいたけれど、自己嫌悪の方が勝って、深く考える気にならない。
警察が、高垣さんの死を自殺だと判断している。真実はすでに明らかになっている。現実世界の警察は、16の小娘よりもはるかに優秀なのだ。それに、新人アイドルは他人のことより、自分のことを心配するべき。そう自分に言い聞かせた。
事務所の中では、まだ高垣さんを悼む声が止まない。それが私のことを責めているように感じて、やるせない気持ちになる。
「事務所ん空気の苦しか…」
「せやね…楓さんが、それだけすごい人だったってことや!」
鈴帆さんと笑美さんが、社内のカフェで話していた。プロデューサーさんの担当アイドルの中でも、かなり明るい女の子達だけど、やはり高垣さんのことで落ち込んでいる。
「こんにちは。ご一緒してもいいですか?」
「都しゃん」
「こんちゃ、都ちゃん!」
2人は、かなり無理をして笑顔を作ってくれた。私はそれに感謝して、席についた。
「お2人は、高垣さんと何度か話したことがあるんですか」
彼女たちの笑顔をふいにするように尋ねた。私も、彼女達と同じくらい深い悲しみを共有したかったから。
「ぎょうさんあるで! 楓さんは先輩後輩気にせんで、話しかけてくれるし。時間あるときは、一緒にお笑い見に行ったりすることもあったわ。もうずっと、前のことやけどな!」
笑美さんは、私の心が痛くなる笑顔で言った。私は、申し訳ない気持ちで苦しくなった。
「私はこの前、縫製を教えていげたちゃ!」
「縫製を?」
縫い物のことだろうか。たしかに鈴帆さんは、自分で着ぐるみを作るほどの腕前があるから、教えてもらうには申し分ないだろう。
「衣装を自分で作ってみたい、って言っとったばい!
……あげな人が、どうして」
そこで話は途切れて、重々しい空気が広がった。2人が明るく振る舞っていたのは、2人の悲しみが他の人に比べて軽かったわけじゃないのだと、私は実感した。高垣さんは、決して周りをかなしませるような人じゃなかった。だから、2人は無理をしてでも笑っていたのだろう。亡くなった高垣さんが、あの世で苦しまないように。
2人の想いに共感する一方で、私は自分でも恐ろしいほど冷静に、あの部屋のことを思い出していた。
あの部屋にはミシンがなかった。衣装を自作するつもりなら、なにかしらの道具が部屋にあってもよいはずだ。寮は完全防音だから、騒音を気にする必要もない。楽器を持ち込むアイドルだって少なくないくらいだ。もしかすると、裁縫セットが引き出しにあったかもしれないが、1つの衣装を作るには役不足だ。高垣さんが本気でドレスを自作するつもりだったら、ミシンを購入していたと考える方が自然だろう。
そして、なぜあのボタンが部屋にあったのだろう?
縫い物をしているなら、ボタンをつけることもある。しかし、糸の切れ方は縫い物の途中で出来るものではなさそうだった。思いっきり引きちぎったように、糸が固まって乱れていた。仮に縫い物の最中に高垣さんが、ボタンを誤ってちぎったとして、それをベッドの下に放っておくだろうか。床をこまめに掃除していたならば、ベッドの下のボタンに気がつく。
縫い物でなければ、どこかに引っかけて自分の服から落とした可能性がある。だけどその場合も、掃除熱心な高垣さんはボタンを発見するだろう。
ひょっとすると、あのボタンは高垣さんが亡くなった夜に落ちたのではないだろうか。私の探偵魂は、私の心に雄弁に語りかけた。それは、私の良心を蝕みつつあった。
事務所を裏口からそっと出ると、外に人だかりができていた。記者の人たちだろう。
私は顔を伏せながら横を通りすぎたが、誰にも声をかけられなかった。喜ぶべきか、かなしむべきか…。
足早に去ろうとすると、人だかりを遠目に眺めているおじさんがいた。なぜか小脇に日本酒の瓶を抱えている。そっと近くに行くと、少し腰が曲がっていることに気づいた。そして、日本酒を抱えている手にたこができいた。
「あの!」
私が話しかけると、おじさんはびっくりしたのか、よろめいた。瓶を落としそうになったので、私は慌てて支えた。手をよく見ると、指の一部が斜めに削げていた。
「おじさん、ひょっとして高垣さんの知り合いですか。行きつけの居酒屋の店主さんだったりとか」
私が尋ねると。おじさんはまたびっくりしたようだった。
「どうして分かったんだい?」
「おじさんの立ち方と指、そしてそのお酒です!」
私は得意になって、推理を披露した。
「長時間立ち続けると、人は腰を悪くします。なので、おじさんは立ち仕事をしている人だとわかりました!
次に、ものを長時間握り続けるとたこができます。おじさんは、親指と人差し指の間、水かきの部分に大きなたこができていますよね? だから、握っているものは小さなものではなく、五本の指で握るものだとわかりました!」
おじさんは、興味深そうに話を聞いてくれた。私はそれが嬉しくて、口が止まらなかった。
「その指の削れ方は、テレビで見た板前さんとそっくりでした! 包丁を長年研ぎ続けると、指が斜めに削れてくるんですよね?
そして、極めつけはその日本酒です! 高垣さんは、東京のいろんな居酒屋でお酒を飲んでいました。だから、ボトルキープでしたっけ? それで、いろんな場所にお酒を残していったんだと想像できます!」
私の説明に対しておじさんは微笑んだ後、反論をした。自分が高垣さんの知り合いだと認めた上で。
「いや、それだけでは、私が高垣さんの知り合いだとは決まらないでしょう。高垣さんの1ファンで、彼女の事務所に献花、いや献酒をしにきただけかもしれない」
たしかに、おじさんの指摘は正しい。私は、日本酒の中身を指差して、最後の推理を語った。
「いえ、それはありえません! なぜなら、その瓶の中は三割ほど減っていて、開封されているからです! けんしゅ、するなら未開封のものを持ってきますよね?
それにおじさんはご自身の手で、お酒を事務所に運んできました! ただのファンは事務所宛に郵送することを選ぶはずです!
おじさんがそうしなかったのは、ご自身の手で高垣さんのお酒を渡したかった……そうですよね?」
自分の推理を明かすのは、初めてコンサートの舞台に立ったときよりも、ずっと気持ちがよかった。
「恐れ入りました。あなたの言う通り、私がここにきたのは、高垣さんのお酒を届けるためです」
おじさんは、笑った。鈴帆ちゃんや、笑美ちゃんと同じ笑顔だった。
「彼女は駆け出しの頃から、そして有名になった後も、私の店に足繁く通ってくれました。他のアイドルや、プロデューサーの方とご一緒に。
高垣さんはお酒をとても美味しそうに飲む方で、私はそれが嬉しかった…。一杯一杯を大切に飲めるお客は、そうはいません。最近の人は何かを忘れるため、何かから逃げるためだけに、お酒を飲んでばかりで…」
おじさんは、ひどく悲しそうな顔を浮かべながら、瓶を私に差し出した。
「あなたは高垣さんと同じアイドルのようですね…これを仏前に供えていただけたら、幸いです」
「えっと…私は通りがかりの一般人かもしれないんですよ?」
私は瓶を受け取りながらも、おじさんに言った。
「一生懸命だったあなたを信じます。推理は…私にはむずかしい」
おじさんはまた寂しそうに笑って、立ち去った。残された私も、寂しい気持ちになった。
私は事実を観察して、推理して、ようやくそれを事実だと認めることができる。つまり、信じる、ということを二の次にしている。それは、とても寂しいことだろう。
瓶には『くどき上手』、というラベルが貼られていた。調べて見ると、その名前には「すべての人の心を、溶かすように魅了する」、という意味が込められているそうだ。
ほんとうに、高垣さんらしいお酒だと思った。
瓶には『くどき上手』、というラベルが貼られていた。調べて見ると、その名前には「すべての人の心を、溶かすように魅了する」、という意味が込められているそうだ。
ほんとうに、高垣さんらしいお酒だと思った。
翌日、私はある人を探していた。受け取ったお酒は事務所のスタッフではなく、高垣さんと交友のあるアイドルに託す必要がある。なにせ、私は高垣さんの仏前がどこにあるのか全く知らない。高垣さんと交友があり、なおかつ私が会える人間は、あいさん1人だった。
私があいさんに出会ったのは、事務所に初めて入ったときのことだ。右も左もわからず、建物の中で迷っていた私を、あいさんが助けてくれた。
「どうしたんだい? 小さなホームズくん」
以前からあいさんの評判を聞いていたけれど、直接会って実感した。私の手を引いてくれたあいさんは、日本中の女性が夢中になるのもしょうがないくらい、かっこよくて、温かかった。
それから何度かレッスンで会ったり、一緒に昼食をとることもあった。探偵ドラマや推理小説について話すこともあった。私が一方的に話して、あいさんが優しく頷いてくれるだけだったけど、私は嬉しかった。
何か悩みごとがあると、すぐにあいさんに相談した。あいさんは、
「私の可愛いホームズに乗り越えられない困難はないさ」
と言って、いつも励ましてくれた。
私にとって、あいさんはプロデューサーと同じくらい頼りになる存在だった。ちがいは、女性の問題はあいさんの領分ということくらい。
ようやく見つけたあいさんは、高垣さんのプロデューサーを励ましていた。
「そろそろ立ち直ったらどうだい。今の君の姿を見たら、楓くんが悲しむぞ」
「駄目だよ…。俺のせいで楓が死んだのに、平気な顔で生きてくなんて、できないよ…」
彼は、前にも増してやつれているように見えた。きっと、ここ数週間十分に眠っていないのだろう。
「君のせいではないよ、プロデューサーくん。あれは悲しい事故だったんだ。
今の私達が彼女のためにやるべきことは、前を向いて歩き出すことさ。君はもう、十分に泣いたじゃないか。楓くんのために」
あいさんは必死だった。でも、高垣さんのプロデューサーは話を聞いているのかどうかもわからないほど、虚ろな目をしてあいさんを見ていた。
「俺がやるべきこと…?」
「そう。君がやるべきことは、しっかり食事をとり、よく眠ることさ。そして時々、彼女のことを思い出してあげればいい。
まずは食事だね。よかったら、今度一緒にディナーでも…」
「俺は、まだ楓のために悲しみ尽くしてない」
高垣さんのプロデューサーは、そう言ってあいさんの前から立ち去った。その時のあいさんの表情は、ひどく弱々しかった。私は、見てはいけないものを見たような気がした。
私はそっと姿を消そうとしたが、その前にあいさんに気づかれてしまった。
「おや、都くんじゃないか…ひょっとして見ていたのかい?」
「いいえ、私はあいさん以外なにも見えません」
あいさんも、みんなと同じ笑い方をしているのが悲しくて、私は咄嗟にそんなことを言った。自分らしくない、キザなセリフだ。
「都くんは……いや、私になにか用かい?」
あいさんは何かを言いかけて、やめた。それが気になったけど、深入りせず、託されたお酒について話した。
「なるほど、ボトルキープね…楓くんらしいな」
あいさんは、こめかみに指をあてて目を閉じた。何か考えているときの仕草。
少し風が吹いて、あいさんの綺麗なまつげがふわふわと揺れた。
「川島さんが彼女の遺品を整理している。彼女に渡すのが一番いいだろう。
ご実家にある仏前まで直接行くのは、私たちの身分では難しいからな」
高垣さんのご両親の顔を、私はうまく想像できない。
高垣さんには、人間から生まれてきたとは信じられないくらい、天から舞い降りたような、「純真・無垢」というイメージがあった。だからみんな、彼女の死に深く動揺している。
ともすれば、人間としての高垣さんの死を悲しんであげられるのは、彼女のご両親だけかもしれない。私は、そんなふうに考えた。
「それじゃあ仕事が終わったら、川端さんの家までドライブと行こうじゃないか」
「私が…」
私が行ってもいいのだろうか。あの部屋での出来事を考えると、これ以上高垣さんについて、立ち入るべきでないような気がした。
でもあいさんは優しく微笑んで、私を諭してくれた。
「それを君に託した人は、君を信じていたのだろう?
私がここで受け取るのは筋じゃないさ」
私を信じてくれた人。あのおじさんの顔を思い出して、私は決心した。
川島さんが川端さんになっているじゃないか・・・・
川島さんは郊外に邸宅を構えていた。ご立派ですね、と言うと、
「売れ続けないと維持できないわ」
と笑った。私にとって久しぶりの、ただの笑顔だった。
リビングに入ると、部屋は様々な酒瓶で埋め尽くされており、足の踏み場もないほどだった。
「大変なことになっているね…」
「酒と酒、それから酒…わかっていたことだけどね」
川島さんによれば、高垣さんの友人から引っ切りなしにお酒が届けられるそうだ。それらをすべてお供えするとしたら、高垣さんの仏壇のために一軒家が建ちそうなものである。
「これだけあると、楓くんも驚くだろうな」
あいさんは苦笑した。来世までかかっても飲み干せそうにない量のお酒に、あの世の高垣さんは何を思うのだろうか。
「いやあ、喜ぶんじゃないかしら。もう、量に気をつける必要はないんだし」
「生前気をつけていた様には見えなかったがね…」
「そんなことないわよ〜。2ヶ月くらい前かな、急にお酒やめるって言い出したし」
「楓くんがお酒を!?」
高垣さんがお酒を!? 私は、あいさんと一緒にびっくりしてしまった。
「理由は教えてくれなかったけど、なーんか悩んでたみたいね。ま、芸能人にお酒の醜聞はつきものだから、気をつけようと思ったんじゃないかしら。この前の総選挙の時からよ。
彼女なりに、何か変わろうとしていたのかしら…」
高垣さんほどのトップアイドルでも、自分を変えたいと思うようなことがあるのだろうか。
「同じ時期に、香水もつけなくなったし」
香水。私はあの部屋のシーツの香りを思い出した。
「香水って、甘いシトラスの香りですか」
私はとっさに尋ねた。そして強い自己嫌悪に襲われた。私は、高垣さんの死を推理ゲームの課題にしている。冒涜的だ。
でも、聞かずにはいられなかった。
「シトラス? あの子が使ってたのはラベンダーの香水だけど…。
ああでも、あの子のPくんはシトラス系の香水を使ってたから、香りが移ることもあったんじゃないかしら」
あいさんと別れたあと、私はすぐさま都内の香水専門店に向かった。私の推理思考、いや、推理嗜好はもう止まれなかった。冒涜的でもいい、最低だっていい。真実が知りたい!
あのシーツに残された香りは、たしかにシトラスの香りだった。そして、高垣さんのプロデューサーはシトラスの香水を使っていたという。
シーツに香りが残る。その意味を想像すると、顔が熱くなった。
しかしシトラスの香水は、お店にあるだけでも何百種類もあり、あの香りが高垣さんのプロデューサーのものだとは断定できない。私の嗅覚も、真実を探り当てられるほど正確ではない。現に、香りの嗅ぎすぎで、テスターの前で頭痛を覚えているくらいだ。
どうしたものか、と悩んでいると、店員さんが訝しげな声で私に尋ねた。
「何かお探しですか」
16の娘が自分の収入に見合わない店に入り、買えるはずもない香水の前で悩んでいたら、たしかに怪しむかもしれない。
「シャーロック・ホームズの香水なら、もう生産が終了しておりますが…」
そういえば、カナダの会社がホームズにちなんだ香水を作っていたっけ。そんなことを思い浮かべながら、私は自分の服装を見直してみた。東京の街でも目立つのかな、この格好。
「男性用の香水を探しているのですが、甘いシトラス系の…」
私は正直に店員さんに聞いてみた。これだけざっくりしていたら、とても正解にたどりつけそうにないけれど。
「ええ…」
店員さんは困ったような顔をしながら、裏に引っ込んでしまった。しょうがない、何を持ってこられても、購入することにしよう。私の小遣いプラス薄給で足りる……よね?
店員さんはエメラルドのように輝くガラス瓶を持ってきた。私は、あっと声を出しそうになった。
「当店…いや、私としてはこれを一番におすすめします」
それは数年前、高垣さんがキャンペーンガールになった香水だった。
「店頭からは撤去するように指示されているのですが…。
これは、和歌山県産の柑橘類のエキスを数種類ブレンドして作った、特別な香水です。シトラス系は主張が強いとされていますが、この香水の香りは穏やかで、使用者をそっと包みこんでくれます。他の存在を押しのけず、けれど効果がなくなれば、すぐに違いがわかる…そんな香水です」
店員さんは、そっと顔を伏せた。この人も、高垣さんのファンだったのだろう。
「この前も、ある芸能事務所の方が買いに来られたんですよ。この香水が発売されたときから愛用している方で…、彼女が亡くなった後も…」
「ひょっとして、346プロダクション?」
これで当たりなら、あまりにできすぎている。ノックスとヴァン・ダインが鼻で笑うだろう。まあ、彼らも自分でルールを破ったりしているけれど。
「ええっと…」
店員さんは、困ったように笑った。プライバシー保護のために、明言はできないのだろうか。
「それをください。宛名は346プロダクションで」
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