橘ありす「その扉の向こう側へと」 (22)
・地の文
・主に時系列において独自の設定あり
・ほんのりと765要素
以上、ご了承のうえお読みくださいませ。
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――おとなになる、ということに、私は強いあこがれを抱いている。
それはきっと、誰しもが持つ……いや、持たなくても、意識したことはあるだろうあこがれ。
私の思う大人は賢く立派で、模範的で。……だって、そうしていれば、ありすちゃんは大人だね、なんて褒められたものだから。
その実何をすれば大人になれるのか、何をもって大人は大人なのか。具体的な定義なんてわからない。
だけど、その扉を見つけた日のことは。
こんな大人になりたい、と。明確なあこがれを見つけたきっかけは、疑いようもないくらいにはっきりと覚えている。
*
いつだっただろう。二年くらい前かな。
私は親の買い物のために、大きなショッピングモールに連れて行かれた。
残念なことに本屋とか、私の興味を引いてくれるお店はそこにはなく、かといって買い物について行っても退屈してしまうだろうし、邪魔になってしまうかもしれなかった。
だから私は自分からここで待ってる、なんて言って、ちょっとしたステージと一緒に用意されていた休憩スペースで、一人パズルゲームをして待っていたのだ。
そんな折、唐突に辺りの照明が落とされた。
私の持つゲーム機から発される光はとても目立ってしまっていて、だから大慌てで電源を落とし、周りをきょろきょろと窺っていた。
ステージにだけ照明が向けられていたから、何かのイベントがあるのだということはすぐに理解できた。
司会の放送とか、そういうものもあったと思うのだけど、私はそれを全く覚えていない。
だって、仕方がないのだ。
私の印象は、私の衝撃は、私の記憶は。
全て、その後に起きた出来事に支配されているのだから。
舞台の袖から、一人の女の人が歩み出る。
その人は高校生くらいのお姉さん。背筋をぴしりと伸ばして静かに礼をする姿に、息をのんだ。
どこかに置かれているスピーカーからピアノの音が流れる。
イントロを終えて、女の人が歌い始める。
その瞬間から、私はその歌のとりこになった。
こういった歌を披露するようなステージに生で立ち会うのが初めてだったことも、きっと関係しているのだろう。
だけど、そんなのはとても些細なことで。
歌が耳に届くたび、頭になにかががつんとぶつかる心地がした。
その綺麗すぎて怖くなる、張り詰めた歌声の節々から感じる力強さ、切実さ。
息が詰まるような感情の奔流は、どうしてか私に大人というものを強く意識させた。
きっと、この切実さが、大人になることなんだ。
私と10年も生きてきた時間の違わないであろうお姉さんの歌に、しかし私は大人というものを確かに感じ取ったのだ。
以来、私はあの歌を自分のものにしたくて、あの感情を自分の中に見つけたくて、音楽に傾倒するようになった。
それは小学生ながらに私が見つけた、夢と呼べるあこがれだった。
*
「ありすちゃん、今日は朗報があります!」
「橘です」
「あっ……ごめんね、橘さん。……うん、改めて、いい報告があります」
そう言ってとても嬉しそうに、そして得意げに語る女性は、私のプロデューサー。
私の夢の一歩目に、アイドルという選択肢を示してくれた人だ。
私を変に甘やかしたり、馬鹿にしたりしない、尊敬できる大人の人。
だけど私が子供であるという事実を誤魔化さない。それが尚更、等身大の私を見てくれているのだと感じさせる。
何度訂正しても、ちょくちょく名前で呼ばれてしまうのが、玉にきずだけど。
「それで、どうしたんですか?私にお仕事を用意してもらえた、とかでしょうか」
「ありゃ、先回りされちゃった。その通り……なんだけど、今回はそれだけじゃなくて」
こほん、とひとつ咳払い。
プロデューサーは普段の気軽さを感じさせない、とても真剣な表情を私に見せて。
少しだけ身体がこわばるのを感じる。
「そうですね。それでは……お仕事の話をいたしましょう」
「……!」
今のプロデューサーは、仕事モードだ。
大事な営業とか打ち合わせの時に見せる、デキる大人の表情。
それが私に向けられたとき、私は少しだけ嬉しくて、そしてとても緊張する。
丁寧で、適度に固く、だけど私にも理解できるように言葉を選んで。
どこまでも私を尊重して語られた内容は、まさしく朗報というべきもの。
要約すれば、私のデビューシングル……初めてのCDが作られること。そして、望むのであれば私がその曲の作詞に挑戦してもいいということだった。
「概要は以上になります。何か、疑問などはありますか?」
「え、と……いえ、質問はありません。作詞も、ぜひやらせてください」
「わかりました。……それじゃあ改めて。おめでとう、ありすちゃんっ!」
話が終わり、プロデューサーが破顔するのも一瞬だった。
また名前で呼ばれたけれど、思考が追い付かなくて訂正することができない。
「プロデューサー、私の曲、なんですよね。私が歌詞を書いて、いいんですよね……?」
「うん、そう言ったよ。もう、不安だったらちゃんと確認してくれていいのに」
「いえ、その……わかってはいるんです。でも、実感が……」
分かり切ったことを今になって聞いてしまう自分への恥ずかしさと、たくさんの嬉しさとがない交ぜになって、とにかく顔が熱い。
そんな私をにこにこと嬉しそうに、ついでに微笑ましいとばかりに見つめてくるプロデューサーの視線に耐えきれなくなって。
「あっ……」
ぷい、と。私は無言のままにプロデューサーから顔を背けることにした。
プロデューサーのひどく名残惜しそうな声につい後ろ髪を引かれてしまうのを、そして、嬉しさでゆるんだ表情になってしまうことを必死で我慢しながら。
私の歌。私だけの詩と、私のための曲。
それを素直に喜べないほど、私は子供じゃないけれど。
でも、それを表に出すかどうかというのはまったくもって別問題だった。
*
ある休日、私はリビングのテーブルの上にノートを広げながら、うんうんと唸っていた。
本当に唸るのはみっともないからしていないけれど、それくらいの心もちでノートをじっと見つめていたのは紛れもない事実。
視線の先には整った字でずらりと詩が綴られている。
きれいに、見やすく。それを心がけて書いた文字とは裏腹に、その内容は改めて見返すと難解極まりないものだった。
「うーん……なんだろう、小論文?」
と、プロデューサーにも苦笑されてしまったし、やはり歌詞としては成立していないのだろう。
ありすちゃんの伝えたいことを伝えたいままに、なんてプロデューサーは言うけれど、私なりに私の思いのたけを綴っていたはずだったのだ。
やっぱり向いてないのかな、アイドル。
かぶりを振って弱音を放り出す。
だって夢への一歩目だ。簡単に諦めるわけにもいかない。
かといって、いわゆる明るくはつらつとしたアイドルソングに私の目指す先を見いだせないでいるのも事実だった。
「あ、テレビ……」
テーブルの端に置かれたテレビのリモコンを手繰り寄せて、電源を入れる。
時計を見れば、プロデューサーに勧められた番組はもう始まっている時間だった。
有名な、とても有名な事務所のアイドルの冠番組。何かの参考になればいいと、そう勧められたのだ。
「あみまみちゃーん」
とてもよく似た双子のアイドルが、不思議な衣装を身に纏って、不思議な漫才のようなことをしている。
バラドル、と呼ばれる人たちの仕事に近しいものを感じたけど、漫才をしている二人は色々な場所の広告で見たことのあるようなれっきとしたアイドルだった。
呆気にとられたままCMに入ってしまい、私の頭を疑問符が埋める。
今のはいったいなんだったのだろう。きっとそこにあったはずの笑いどころも見逃してしまったのは、私に笑いのセンスが無いからなのかな。
とりとめのない思考からどうにか気を取り直したCM明け、MCらしき3人のアイドルの人たちが和気あいあいとトークをしていた。
この人たちもまた、街を歩けば必ず目にする人たちだ。
とてもとても華があって、明るく楽しげな雰囲気が私の目に映る。
トークを挟みながら様々なコーナーと共に進行する番組は、その全部を通してとてもあたたかく、きらきらしていて、笑顔にあふれていた。
憧れてしまう。あんな場所に居られたら、それはすごく幸せなんだろうと、夢見ずにいられない。
……だけど、きっと違うのだ。
私が目指したい場所は、それじゃいけない。
幸せは、素敵だ。だけど、もっともっと深く、強くて切実で泣きたくなるくらいの、あの情動は……もっと別のところからきていると、そう思わずにいられなかった。
「番組の最後に宣伝があるんだよね、千早ちゃんっ!」
「ええ。……火曜夜九時より、私が出演するドラマの主題歌を歌わせてもらっています。ドラマ、そして私の曲、どちらもぜひ楽しんでいただけると幸いです」
「その曲、この後歌ってくれるらしいの。ミキ、すっごく楽しみなのっ」
歌……そうだ、一世を風靡しているアイドルの、その歌を私はまだ聴いていない。
アイドルは、こうやってテレビやラジオに出たり、雑誌の取材を受けたりという仕事ももちろん大事だけど、何よりも歌って踊る存在だ。
だからその一番大事なものを見ずに判断するなんてこと、できるわけがなかった。
アイドルの歌を知らないでアイドルの歌の歌詞を書こうとしていたのだから、うまくいかないはずだろう。
テレビの音量を上げて、画面を食い入るように見つめる。
模範的な視聴態度じゃないのは分かっているけど、周りにそれを叱る人はいなかった。
「それではお聞きください。如月千早で、”Just be myself!!”」
衝撃を受けた。
曲が流れる。歌が始まる。
――私は、この歌を、知っている。
「え……?」
だってそれは、私の胸を一直線に貫いたその歌声は。
あの時の、私の夢を形作ったそれと同じだったのだから。
ううん、正確には全然違って聴こえている。
そこにあるのは胸を締め付けるような強い力じゃなくて、ただ胸をときめかす圧倒的で素敵な感情。
希望とか、夢とか、未来に向けた真っ直ぐな声が、私の中に響き渡る。
歌に秘められたメッセージは全然違って、でも、私が受けたこの衝撃だけで、その歌の主があの時のお姉さんであることが確信できた。
ああ、どうして。
今まで気づくに至る事すらできなかったのだろう。
こんなにも多くの人の心を揺さぶる歌なら、私ひとりの心を動かすことくらい、何の不思議もない話だったのだ。
今をときめくアイドル、如月千早。
それこそが私の憧れ、その対象の名前だった。
一つ知ってしまえば、もう知らないままではいられない。
アイドルは一歩目でも通過点でもなくて、その場所こそがゴールなのかもしれないと。
そう気付いてしまえば、アイドルに対して真剣になり切れていなかった自分がひどく恥ずかしく思えて。
だから私はその憧れをもっと知らなきゃいけないと、そう思った。
*
「じゃーすびーまいせーるふ、しーんーじーたー……あ、プロデューサー。お疲れ様です。……お疲れ様です」
「ふふっ、おはよう、ありすちゃ……橘さん。どう?作詞の方はできそうかな?」
小声で歌っていたところを通りがかったプロデューサーは、にっこりと意味ありげに笑って見せてくる。
むっとして名前呼びに対して睨んでみたら、それは苦笑に変わった。
……私があの番組で流れた歌を口ずさんでいること、プロデューサーからすれば嬉しい事なんだと思う。それはわかる。
だけど、こっそりと歌っていたのが見つかって恥ずかしい私の気持ちも考えてほしい。私よりずっと大人なんだから。
「まだ悩んでます。だけど、前みたいな詩にはきっとなりません」
「そっか。……ところで、千早ちゃんに興味ある?」
「…………」
プロデューサーはわざとやっているのだろうか。
どうしてその話題を蒸し返すのか、もしかして恥ずかしがる私を見るのが楽しいんじゃないだろうか。
不満の念を強く強く視線に込めて、プロデューサーをじっと見つめる。
「……はい、タイミングが悪いなーとは思ってました。ごめんなさい」
しゅん、とうなだれて数秒。私が視線を緩めたその直後。
「でもね!もし興味があるなら、ぜひ見てほしいというか、見せたいものがあるの!」
一転プロデューサーは復活した。なんというか、こっちが呆れてしまう。
呆れてしまうのだけど、プロデューサーが見せたいというものは気になった。
「話は聞きます。興味は……まあ、あるので」
まあ、だなんて大嘘だ。
本当は興味なんて言葉で言い尽くせるか怪しいくらいに、あの人のことを知りたいと思っている。
そんな私の心情なんてきっと気づいていないだろうけど、それでも興味はあるという言葉に、プロデューサーは喜んでいるみたいだった。
……なんというか、ずるい人だ。
大人のくせに、こんなにも簡単に喜びを表現する。応えてみたいと思わせてくる。
だのにいざという時は私よりもずっとずっと大人なのだから。
「ちょっとだけ待ってて。すぐ取ってくるから」
「……?はい、わかりました」
割かし簡単に用意できる類のものだったのか、プロデューサーはそのままどこかへ。
手持ち無沙汰になった私は改めて如月千早というアイドルについて調べてみることにした。
765プロに所属する、稀代の歌姫。その経歴は輝かしいという一言に尽きた。
活躍が大きくなり始めた時期は、私の記憶とほとんど一致する。
つまり、勢いづくほんの直前の彼女を、私は偶然目にしていたらしいのだ。
興味の赴くままにタブレットを操作していく、その指を。
あるサイトの記事を目にしたとき、動かすことができなくなった。
『如月千早の隠された真実――家族に一体何が』
12歳の子供の目から見ても、下世話で、悪質で、ひどくデリカシーのないゴシップ記事があったという話。
幼いころの如月千早という少女を襲った悲劇と、それによってひび割れた家族の関係を、好き放題に晒していたそれは、私を揺さぶるかのようで。
今ではその過去を乗り越えたことも含めて美談になっているみたいだけど、私の胸の中にはもやもやとしたぶつけようのない怒りが渦巻いていた。
……悪意に満ちた記者の行いにも、あろうことか自分を重ねそうになった私にも。
「お待たせ、持ってきたよ……って、その記事」
「っ!」
飛び跳ねるみたいにタブレットを抱えて画面を隠す。
やましいことがあると言わんばかりの私の行為に対して、プロデューサーはただ寂しげに目を伏せた。
「あの、プロデューサー……その、見せたいものというのは?」
「実は私も千早ちゃんのファンだったりして、それで……うん、あの頃と全く関係のない話でもないんだ」
プロデューサーは当時の話を、あのゴシップ記事はもちろん、インターネットに纏められたどの記事より優しい言葉で伝えてくれた。
もちろん当時の765プロでどんな会話があったのか、なんてことはプロデューサーだって知る由もなかったのだけど。
それでも、如月千早というアイドルを応援して、魅了され続けてきた故のエピソードは私の胸にしっかりと届いて、その痛快なまでの復活は私の心を躍らせた。
「これが如月千早の完全復活、なんていって話題をさらったLIVE映像。勉強に、とかは気にしないで楽しんでくれると、ひとりのファンとしては嬉しいな」
プロデューサーが見せてくれたもの、見せたかったというもの。
その映像は、映像でありながらその場に引き込まれるかのよう。
広い広いステージに見合わぬ無音を一瞬で引き裂いて、その歌声だけで……ううん、歌声とその姿でその場を支配していた。
食い入るように画面を見つめて、一音たりとも逃したくない。
曲がサビに入る瞬間、何もかもあつらえたようなタイミングで重なる伴奏に飾られた旋律……全身がぞく、と粟立つのを感じた。
納得した。プロデューサーが見てほしいと言うわけだと、疑いようなく感じる。
それと一緒に私の心は子供らしくちくりと傷つくのだけど、そんな顔を表に出したくなんてなかった。
だって、私の知る素敵な人たちは、どんなに暗く苦しい過去を抱えていても、重く大事な責任を抱えていても、そんなのおくびにも出さず笑っていると気づいたから。
こんな幼い嫉妬ひとつで表情を変えてしまう私は、いやだった。
「……どうだった?」
「…………すごい、です。圧倒されました」
「そっか。よかった」
心からの、拙い感想。
返答も小さく些細なものだったけど、余計な言葉なんて必要ないと思った。
私を埋める感動は言葉に尽くすのが難しくて、無理に一つの形にしてしまいたくなくて。
それはもしかしたら、気付いてはいけないことから無意識に目を逸らすための行為だったのかもしれない。
でも、結局逃れようもなかったのだ。
だって私がしようとしているのは、私自身を言葉にして、詩にする行為。
そう、だから私は。
それから少しずつ。
夢を、見失っていく。
*
考えることはたくさんあったし、一筋縄ではいかなかったけれど、私はどうにか歌詞として成立するだけのものを作ることが出来た。
もちろん、これがそのまま使われるわけではないのだけど。それでもなんとなく達成感を感じるのは当然のことだと思う。
「ありすちゃん、添削届いたよ」
「橘です。……どうでしたか?」
「そうだね、ええ、と……」
プロデューサーの様子を見て、相応に厳しいことを書かれていたのだろうと察する。
私は専門家でなければ、アイドルソングにだって詳しくなかった。そんな詩はひどく拙く映るかもしれない。
それは仕方のないことで、だからこそこうして私の思うままを整えてくれる人がいる。
「大丈夫です。気にしませんから、聞かせてください」
「……わかった。簡潔に言うとね、『あなたはその詩を歌っている自分を想像できますか』ってこと、かな」
「歌っている、私……?」
この詩にどんなメロディが重ねられるのだろう。それを想像したことがない筈はない。
だけど、さらにその先。ある意味当然の“その歌を紛れもなく自分のものとする”という未来に思考を至らせたことはあっただろうか。
こうして自分の記憶を必死に探っている時点で、答えは明白だった。
「続けるね。『未来への希望を語っているように見えて、自分でも抑えている部分があるのではないか、と。時折控えめになる表現から感じました。
アイドルは歌で自分を表現するもの。大事な詩に遠慮はいりません。もっと子供らしい明るくはじけた言葉づかいでも大丈夫ですよ』
……だそうです。具体的な添削は、こっちに」
「……ありがとうございます。読んでみます」
気にしないと言った手前ではあるけれど。
わかっていたことであればショックを受けない、なんて人はきっと一握りだろう。
私はその例外の側にはなれないみたいで、それでもちゃんと受け止めなきゃと文字に視線を走らせる。
意味が通じるか、意図が伝わるか、語呂が悪くないか。
たくさん考えて選んだ言葉は、もっと直接的で力強い言葉を勧める添削にかき消されていく。
言葉を探すのは大変だった。だけど、決して息苦しくなんてなかった。
断じて私は、子供らしくあるために未来を夢見ているわけじゃない……!
でも。思うのだ。
「プロの人から。大人から見たら、こう映ってしまうんですね……。反省点ははっきりしました、次こそ大丈夫です」
「橘さん……」
そう、多くの人に中途半端だと見られてしまうなら、どこかに良くない部分を抱えているのは確かで。
それにこの詩を私が歌っている姿は、やっぱりどこを探しても見つかりそうになかった。
「プロデューサー、いつまでに直せば大丈夫ですか」
「一週間……だとちょっとゆっくり過ぎるかな。難しいだろうけど、お願い。困ったら相談に乗るから」
「わかりました。……まったく、そんなに私が頼りないですか。もう少し信じてください」
我ながら、ずるい物言いをしていると思う。
信じてほしい。プロデューサーがそう言われて、首を横に振れる筈なんてないのに。
紛れもない本音だけど、不安をごまかすために使ってしまったことに、少しだけ胸が痛む心地がした。
……考えなきゃ。今度こそちゃんと伝わるように。
だって私はおとなに憧れてこの詩を書いたはずで。
そう、自分が子供であることを強調したいなんて思えないから。
それこそそんな歌を歌う橘ありすは私が目指す先じゃない。
だから私はもっともっと、その扉の向こうにある景色をイメージしたいんだ。
*
二週間で三度ほど歌詞が往復した。
簡潔に、現状を伝えるなら……あまりうまくいっていない。
第四稿になった歌詞は、だけど未だに代わり映えなく改善点を提示され続けている。
どうしてだろう。考えなしに書いているつもりはないのに。私の意図も伝えるようにお願いしているはずなのに。
自分の中でゆっくりと自信が失われていくのを感じる。
だからこそ、私は口ずさむのだ。
なりたい私になる、と。
アイドルという場所に、希望をくれたあの歌を。私のあこがれを。
……でも、そういえば。
私が最初にあこがれたのは――――――
――違う。……違うの?本当に?
私が2年間追いかけ続けたものは。そのための努力と我慢は。
あの胸をぎゅぅ、と握りしめるような情動が私の目指す先じゃないと、そう断じてしまえるなら。
それじゃあまるで、ここまでやってきたことが全部全部間違っていたみたいじゃないか。
そんな筈はないのに。だって今ある私は、そのあこがれの先にあったはずの自分で。
そう、追いかけなきゃ、今の憧れに出会えなかったのに。
否定していいはずなんてない……でも、事実私はそれまでの歩みに、信じてきたものに縛られて、今の憧れに手を伸ばせずにいる。
だからって間違っているはずは、きっとないのだ。
どっちも嘘じゃない。あの時聴いたお姉さんの歌にも、如月千早というアイドルの歌にも、間違いなく私は憧れたのだから。
そう信じなきゃ、向かう先を簡単に見失ってしまいそうで。
かぶりを振って、それ以上考えることをやめた。
改めて周囲に意識をやってみると、どうしてかその場にある何もかもが強調されているかのように思える。
一人のリビングが、やけに広く感じる。
きっとマイナスな思考ばかりしていたから心細くなるんだ。……それとも逆だろうか。
思い立ってつけたテレビの中のアイドルたちは、今日も明るく楽しげで、励みになる。
だけど同時に、それが目指すべき憧れから、ただ夢見るだけの憧れに近づいてきているようにも感じるのだ。
怖い。将来の夢が、眠っているときにしか見れない夢に変わっていってしまいそうで。
だから私は画面の中できらめいている彼女たちを目に焼き付けきってから、閉じていたノートを開く。
普段なら眠りについている時間も近いけど、ちょっとくらい夜更かししたっていいだろう。
だって電気まで消したら、目の前が真っ暗だ。
いやなことを考えてしまわないように、眠くなるまでは別のことに没頭していたい。
そうすればすぐにまた明日。
明日になればお母さんと朝ご飯を食べて、見送って。学校でクラスメイトと他愛のない話をして、事務所に行って、プロデューサーに笑いかけてもらえる。
そんな些細なことが待ち遠しく感じるようになったのは、いつからだったっけ。
もう、すぐには思い出せなくなっていた。
*
授業中にうとうとしてしまうなんていう不名誉な初めての経験を経て、やっぱり睡眠は大事だと実感した放課後。
私はいつものように電車に揺られて事務所に向かう。
平日の夕方に差し掛からないくらいの時間は利用者もそこまで多くないから、お行儀よく椅子に座って、タブレットは少し邪魔になってしまうからしまったままで。
それに、日が当たってあたたかいのはいいけど、光の反射で画面は見づらくなってしまうし。
そうしてぼんやりと考えることといえば、やっぱり未完成の歌詞のことだった。
しっかりとした一続きの言葉を考えるわけでもなく、ただ単に色んなフレーズが頭の中にふわふわと浮かぶ。
それ自体を歌詞として使うことはできないけれど、最近あまり訪れていなかったアイデアが湧きあがる感覚はここちよくて。
気付かないうちに、意識がゆっくりとあいまいになっていき……。
*
ぼんやりとした意識が覚醒したのは、自分の身体がゆらゆらとした振動を感じなくなっていることを自覚した時だった。
……しまった、寝過ごしたかも。
慌てて辺りを見回す。だけど、予想していた光景はそこにはなかった。
「電車、止まってる……?」
そう。窓から見える景色は明らかに駅のそれではなく、電車の扉も一つたりとも開いていない。
しばらくアナウンスに耳を傾ければ路線のどこかで人身事故があって電車が止まっていることだけはわかったけど、そればっかりなせいで私の居場所はわからない。
ただ、はっきりとしない時間感覚から、きっと本来降りる駅を通り過ぎてしまったのだろうと予想はついた。
プロデューサーに連絡しないと。……ちょっと、気が重いけど。
私のミスで本来なら起きなかったはずの問題が生まれて、それで他の人に迷惑をかけてしまう……考えれば考えるほど後ろめたくて気後れした。
作詞だって、うまくいってないのに。
動かない電車の中で、身体をよじって鞄からタブレットを取り出す。
『橘です。事務所に向かっている途中で電車が止まってしまったので、到着が遅くなりそうです。迷惑をかけて申し訳ありません』
……これで、大丈夫だろうか。
文章とその内容に逡巡すること数分。
少しでも早く連絡した方がプロデューサーも対処しやすいだろう、とようやく観念してメールを送る。
返信はすぐに届いて、事務的なことはやっておくから心配しないで、と。
そしてどうしても電車が動かないようなら迎えに行くから連絡して、と、そう書かれていた。
怒ったり、困ったりしているような言葉はどこにもない。
それにもかかわらず、むしろそのせいで更に心が重くなるのだから、気遣いすら無駄にしているようで嫌になる。
小さく息をつく。やるべきことを終わらせたと思えば、代わり映えのしないアナウンスに不安といらだちを感じるようになった。
私の周りにいる人たちもそれぞれに全く違う事情を抱えていて、それでもたぶん抱いている感情は似通っているのだろう。
小さな声でいつ動くだろうかと言葉を交わす様子も目に入った。私には、そうする相手がいないけれど。
もうとっくのとうに目は冴えてしまって、だからとりとめなく記憶にも残らないような考え事をしていると。
ようやく、がたんと振動を感じた。
運転再開にはならないけれど、いちばん近くの駅までは動いてくれるらしい。
乗客らしく揺られた時間は、待っていた時間の十分の一にも満たなかった。
あっという間にその駅にたどり着いて、次に動き出すのはいつになるだろう。
駅名と路線図を見れば予想通り、降りる予定だった駅は通り過ぎてしまっている。
仕方ない。とりあえず降りよう。
電車を降りて、空調のきいていない空の下で風に吹かれて。
その次の一歩を、踏みだせない私がいた。
見知らぬ景色の中、急に世界が途方もなく広くなってしまったように感じた。
これからの方針を定めたらしい他の大人たちは、駅のホームに立ち尽くした私の横をどんどんとすり抜けて、いなくなっていく。
喧騒はゆっくりと静まり、どこか遠くへ。
私はそんな中でただひとり、どこへ行く力も見つからないまま置いていかれていた。
手元に抱えたタブレットを使えば、代わりの交通手段を見つけられたのかもしれない。
駅員さんに聞いてみれば、どっちへ行けばいいのかがわかるのかもしれない。
そうした方がいいことなんて、とっくにわかっているのに。
ああ、それでも私は、どうしてか立ち止まっていたかったんだ。
ひとりぼっちでこの広すぎる都会を歩くのが、ひどく怖かった。
ゆるりと緩慢な所作で、待合室へ。
少なくとも、待っていればいつか電車は動き始めるはず。
それが思っているより早くになることを期待しながら、私が選んだ道は……立ち止まることだった。
*
自分からはなにもできないことが、こんなにも不安になるなんて、思ってもみなかった。
それはきっと、連想してしまうから。
私には歌詞を書くことなんてできないんじゃないか、と。
たくさんのアイデアを綴ったはずのノートを開いてみる。
希望と、思索を詰め込んだ言葉は、少しずつ色あせてしまったみたいで。
そういえば、さっきは色んなフレーズが頭に浮かんだな。
形になんてならなくていいから、ただ書き留めたい。
それが自信につながってくれれば、それだけで十分だった。
思い出せたものを、書きづらいながらも記していく。
整っていた文字と言葉より、よれよれでつながらない散文の方が違和感なく胸に届いてしまうのは、どうしてだろう?
――もっともっと素直になろう しまいこまないで
そんなだから、自分で書いた言葉ひとつに揺さぶられる。
――ほんとの私はどこにいるんだろう?
……私にも、わからない。
私は、どこにいるんだろう。
素敵な歌をみんなの心に届かせる私は。
――もっと言葉にしたい 私、自分を知ってみたい
…………。
――なにも伝えられないのは なぜ?
………………こんなの、歌詞じゃない。
こんなの、ただ吐き出しているだけだ。
書き連ねた言葉を、ぐちゃぐちゃに上塗りしてしまいたい。
真っ黒に塗りつぶして、ページを破り捨ててしまいたい。
子供らしく、衝動に任せて、泣き叫ぶみたいに……でも、できなかった。
だって、わかってしまっているんだ。
この言葉こそが、私がずぅっと見つけることのできなかった私の本心で。
だからこそ認めたくなんてないのに。
こんなに幼いきもちが私の本質だなんて、そんなの、目指してる場所と全然違って。
「……っ!?」
不意に、タブレットが振動を伝えてきた。
電話がかかってきている。相手はプロデューサーで……ああ、よく見たらメールを送ってから一時間以上経っていた。
あのプロデューサーが行動を起こすには、十分すぎる時間だ。
「え……と、もしもし、橘です」
「ありすちゃん、まだ電車動いてないみたいだけど大丈夫?今、どこにいる?」
心配そうな声音。……きっと、すぐにでも迎えに行こうとしているんだと思う。
それがわかって、そして大丈夫だと返せない自分がいることに気づく。
それどころか早く来てほしいとすら願っていることにも。
私は駅名を伝えて……そのあとは、ほとんど生返事だったようにも思う。
「それじゃあ、ちょっとだけ待っててね。着いたらまた電話するから!」
「あ…………」
電話一つに後ろ髪を引かれる思いがする。
しん、と静まりかえった待合室が……もっとも、きっと電話の声だって本当は大した音ではないのだけど、それでも寂しげに感じてならない。
一人でも平気。そう言ってずっとやってきたのに、嘘みたいだ。
開きっぱなしのノートを閉じて、ペンケースと一緒に鞄の奥底へとしまう。
もう一度電話が来るはずだからタブレットは手元に置いたままで。
待っているという自覚が生まれると落ちつかなくて、時計の秒速は落ちていくばかりだ。
じっとしてるのもむずむずするし、もう改札から出てしまおうか。
ああだけど出口はいくつもあるから無駄足にならないほうがいいだろう、なんて。
うろうろ、そわそわと辺りを歩き回っては考えたりして数十分くらい……少なくとも、感覚的には。
「……!」
タブレットが待ち望んだ振動を伝えてきた。
すぐに出たらがっついてるみたいだなんて見栄が今更のように頭をよぎって、なんだか馬鹿みたいに思えた。
「橘です。プロデューサー、どっちに向かえばいいですか?」
「もしもし、えーっと……うん、北口の方!車停めておくから、焦らずにね」
「……焦ってなんていません。路上駐車は他の利用者の迷惑になってしまうので、すぐに向かいたいだけです」
「ふふっ、はーい。それじゃあ待ってます」
ぜんぶわかってます、なんて言いたげなプロデューサーの口調は好きじゃないけど、それでもどこか心地良い。
たまには、めいっぱい生温い視線を受け止めてしまうのもいいかもしれない。
小走りで出口の階段を上って、見つけた車の助手席に乗り込んだ。
「お願いします、プロデューサー」
「シートベルトはつけたよね?」
「当然です」
普段なら前から聞こえる声は、今は隣から。
小気味のいいエンジン音とともにやってくる、しばらく味わっていなかった加速感に身をまかせる。
「ありすちゃん、どうする?今日は直接家に送ったほうがいいかな?」
「橘です。……じゃなくて、今日はレッスンがあったと思うんですが」
「今日はお休み。トレーナーさんにも迷惑かけちゃうからね」
プロデューサーが軽く流す言葉に、じわりと罪悪感が重なる。
内罰的な感情も頭の中に浮かび始めた。何もしないままなんて、やっぱり嫌で。
「……そうですか。すいません、私がうっかりしていたばかりに。なら、せめて自主レッスンを」
「それもダメ。橘さんだってこんなことがあって疲れてるだろうから」
「そんな……!やらせてください。それくらい……」
「大丈夫、って。本当に言える?」
重ねるように言葉を先取りされて、返事に詰まる。
だけど、だからって自主レッスンひとつできなくなるほど弱っているはずも……。
……ない、だなんて。ずっとらしくないことを続けてきて言えるはずがなかった。
「…………わかりました。事務所の方にお願いします。電車が動くまで時間をつぶそうかと」
「今日はほかの子もほとんど来てないから、話し相手もあんまりいないけど……それでいい?」
「はい。それで問題ありません」
だって、家に帰っても誰もいませんから。
「わたし、いま………」
何を言おうとした?
「橘さん?」
「いえ、なんでもありません」
すんでのところで飲み込むことができた言葉に、恐怖すら覚えた。
私はどこまで甘えてしまおうとしているのか。
そんなことまで言葉にしてしまったら、プロデューサーは……ううん、私の方が駄目になってしまう。
アイドルとプロデューサー。仕事上の付き合いにすぎないその一線を踏み越えてしまいそうで、それがひどく恐ろしい。
車を運転するプロデューサーの顔を見て……今だけは視線を向けてもらうことも、軽率に触れてしまうこともできないと余計なことにばかり気付く。
それを寂しいだなんて思うのは、きっとよくないことだ。
「ありすちゃん、焦らなくていいんだよ」
「……プロデューサー?」
……怖い。怖い。
優しい言葉が、名前を呼ぶ声が、なのにどうして。
「上手くいかないときこそ、ゆっくりで大丈夫だから。無理して走っても転んじゃうだけだよ」
なんで、なんで簡単に伝えることができてしまうのだろう。
優しい言葉が、励ましが、弱った心をナイフでえぐるみたいにじくじくと痛ませる。
そうだ、何が怖いかなんて、そんなのたったひとつしかないんだ。
「……、ません…………」
「なあに、ありすちゃん?」
ああ、どうかそんなに優しく“名前を”呼ばないで。
そんな風に呼ばれたら。私はどうにかなってしまう。
幼子でいることでそれを甘受できるのだと、受け入れてしまう。
どれだけ差があっても、せめて。せめて私は。
「そんな慰めなんて、いりませんっ……!」
私は、あなたと対等な関係を信じていたいんです。
*
「――慰めなんかじゃ、ないよ」
否定。ああ、否定してもらえた。
頭に上った熱が、すっと引いていく。
それは否定される恐怖によるものかもしれないけれど、肯定される恐怖と比べれば些細なものだった。
「そうしたいなら、私はありすちゃんの手を引いてあげなきゃいけないから」
言葉の示す意味合いがはっきりと分かったわけじゃないけれど。
プロデューサーに手を引かれて、どこかへ連れて行ってもらう自分を想像してみる。
それは私が忌避する、そうなりたくないと感じ続けている私の姿によく似ていた。
プロデューサーもそれを望んでいるわけじゃないとわかっただけで勇気がわく私は、ひどく単純だ。
「もう一つたとえ話、いいかな?」
頷いて、それがプロデューサーさんには見えないことに気付いてから、あわててはい、と返事した。
プロデューサーが望んでいる私。それを少しでも知りたかった。
「橘さんは今、扉の前にいる。それを押し開けようとするんだけど、どんなに力を込めても開きそうにない……どうする?」
「ええと、押して駄目なら引いてみる。扉に関するたとえ話の基本です」
「そうだね。じゃあ、引く以外にも色んな開け方を試してみたけれど、どれも駄目だったとしたら?」
それは謎かけだろうか。それとも心理テスト?
少なくとも、比喩ではあるのだろう。
今私が直面している問題を、開かない扉になぞらえた、そんな比喩。
「…………扉を、ノックしてみます。向こうにいる誰かが、気づいて開けてくれるかもしれません」
「そっか。橘さんなら、そうするんだ。……じゃあ、その助けをどれくらいの間待っていられる?」
「誰も、その先に居ないって言うんですか。そんなの八方ふさがりじゃないですか」
「……ううん、助けはいつか来るよ。必要なら、私がその役目になるから」
だけどね、と。プロデューサーは続ける。
「扉の鍵は、自分で見つけた方がきっと素敵に思えるはずなんだ。これは私の希望的観測」
扉の鍵、その先に進むために必要な物……ああ、ようやく話がつながった。
くす、と小さく笑ってしまう。だって。
「プロデューサー、言い方が少しロマンチックすぎます。伝わらなかったらどうするんですか」
単純に、私を応援してくれているだけの話じゃないか。
直接的な言葉に反発してしまう私を、回りくどいたとえ話でごまかして。
「う、友達にも家族にも言われるんだよね、たまにふわっとしたこと言うって。壁とでも話してろって感じだよね」
素だったんだ。今度は、完璧に吹き出してしまう。
どうやら気にしていたらしくて、そういえばたとえ話をすると言った時の声音はどこか窺うような感じだったことを思い出す。
私の機嫌に対しての言葉だと思っていたけれど、案外こっちだったのかも。
「ふふっ……鍵、どんなに探してもうまく合うものが見つかりません。いつかちゃんと見つけられますか?」
「もちろん。いろんな場所を探してごらん、何度だって試させてあげる」
窓から見える景色が少しだけ見覚えのあるものになってきた。
話の方も、これで終わりらしい。
「着いたよ、ありすちゃん」
頷いて車を降りた。
車の前側を回り込んで、鍵をしまっているプロデューサーに対面する。
「減点いちです、プロデューサー。次に提出する歌詞がそのまま通ったら、その時は」
そうして私は悪戯っぽく、そしてアイドルらしく笑ってみるのだ。
「ちゃんと名字で呼んでくださいね」
*
「ふぅ……」
乗り物の堅い椅子とは大違いな事務所のソファにもたれて、ひとつ深呼吸。
柔らかい物に身体を預けているということに安心感を得ているのだろう。思考がちょっとだけ澄んでいくのを感じる。
そうやって考えることといえば、自己分析と、その結果当然のようにやってくる自己嫌悪。
自分が何を考えていたのか、どうしてそんなことを考えてしまったのか。
少しくらいは冷静になった頭でひとつひとつ答えをつけてみる。
散らかり放題になっていたものを、順番に、あるべき場所へ。
「…………」
鞄を開く。
乱暴に押し込めてしまったから引っ張り出すのも一苦労だけど、歌詞のノートをもう一度手元に。
いちばん最近に開かれた、いちばんページの傷んでしまっている場所を開く。
「…………やっぱり」
もう、塗りつぶしてしまいたいとは思わなくなっていた。
ここにある言葉も、今まで作ってきた言葉も。
どこに向かいたくて書いていたのか、どこからやってきて、書くことができたのか。
なんとなくわかってきたから。
アイドル橘ありすの音楽は、まだちょっとおあずけみたい。
今必要なのは、橘ありすがアイドルになるための音楽。
小さな私がおとなになるために、背伸びをするためのワンステップ。
お世辞にも、明るい曲にはならないと思う。アイドルソングらしくもないだろう。奇しくも子供らしくすらあるかもしれない。
ありのままの私が積み上げてきたあこがれと不安は、そういうものだから。
それでも、意固地な私の素面じゃ言えない内側を、メロディに乗せて認めてあげれば。
私はきっと次の目標に辿りつけると思うんだ。
さあ、イメージしてみよう。
扉の先にいる私なんて飛躍したものじゃなくて、扉を開く今の私を――
――私だけの鍵、見つけた。
*
「ありすちゃん、添削届いたよ!」
明るく、うれしそうな声。私の名前を呼ぶ声。
それだけでもう、だいたいわかった。
「橘です。今度はどうでしたか?今までと全然違う歌詞だったので、困惑させてしまったのではないかと」
「ううん、むしろようやくありすちゃんの意図がわかった、って。そう書いてあったよ」
「……ちなみに、それは原文そのままでしょうか。特に私の呼び方について」
訂正したらとりあえず名前呼びを直すくらいのことはしてくれていたと思うのだけど。
早めの権利主張か、あるいは単に素が出ているのか。
「え?あ、えぇっと……ノーコメントかな?」
……ああ、後者だと予想がつく。
プロデューサーがそれだけ喜んでくれているのだとわかるから、あんまり強くは言えなかった。
「まあ、一回でOKが出たわけじゃないので名字で呼ぶことを強制はできませんけど。……添削、読ませてください」
たまには名前を呼ばれてもいい、と主張するための口実とともに受け取ったそれには、「in fact(仮)」とまだ決まっていなかったタイトルが記されている。
また、いくつかの歌詞の言い回しが、ぼかしたり、ダブルミーニングを添えられたりしながら調整されていた。
今までのかみ合わないような違和感はなく、私の想いが詩として昇華されて、そこにあった。
「プロデューサー。やっと歌詞、完成しそうです」
「うん、それはよかった。……でね、そんな橘さんにもう一つステキなお知らせ!」
ずい、とさらに私に歩み寄って、イヤホンをつまんだ手を伸ばしてくる。
その所作に思い当たることが一つあって、期待が高まるのを感じた。
イヤホンをつけて、流れてきたのは静かで寂しげな旋律。
だけど少しずつ熱を持っていく。ボリュームもテンポも特別インパクトがあるわけじゃない。
それなのに、どんどんと熱く、たたきつけるみたいな気持ちが湧き上がってくる。
「プロデューサー、これ……」
「作曲家さんにもお願いして、曲のほうもベースを作ってもらいましたっ。どうかな?」
歌ってみたい。自然とそんな風に言葉が出てきた。
私の歌うこの歌がこの詩を乗せて誰かの心に届くなら。
アイドルって、きっとそういうものを言うのだろう。
「それじゃあ、これから忙しくなるよ。レッスンも曲に合わせたものになるだろうし、発売イベントもあるから、ね」
「イベント……人前で、歌えるんですか?」
「もちろん。ステージの主役になるのは、橘さんにとっても初めての経験だよね」
話として聞いているだけじゃ実感なんて湧いてこないけど、手元の詩とさっきまで聴いていたメロディは夢とかじゃない現実で。
レッスンを重ねて、CDの宣伝なんかを目にしたりする機会もあるかもしれない。
そうやって日々を重ねていくたび、この胸の高鳴りがどんな風に変わっていくのか、楽しみでならなかった。
*
*
とくん、とくん、と。
授業曰く命を廻らせているらしい音がうるさく響く。
そこまで酷いものではないけれど、のど元に空気のかたまりみたいなものがせり上がってくるような感覚もじわじわ。
つまり私は、客観的に俯瞰してみればみるほどに大きくも特別にも感じていなかったであろう舞台を前に、しかし当事者らしく緊張しているようだった。
だって当然だ。私にとってはこれ以上ないくらいの特別な大舞台なんだから。
誰だって初めての経験には戸惑うもの、だと思う。
だから私がどうにか平静を保とうとしているのは、ごくごく自然な反応に他ならない。
そうやって自分に言い聞かせている私のもとへ、プロデューサーがやってくる。
「橘さん、もうすぐ時間だよ。……緊張してる?」
「当然です。ですが適度な緊張感を持っているほうがこういった場では良いと思います」
「ざんねん、それは不正解です。はい、こっち向いてよく見て」
ぐい、と身体を回された。その先にはメイク用の姿見が置いてあって。
鏡に映る自分と目があう。
緊張でかちこちになって、不安げに揺れる瞳……それが訴えかける自問に、応えられるのは私だけだ。
瞳を閉じて、もう一度開く。
――大丈夫。できる。
見据えたのは、迷いのない真っ直ぐな視線だった。
「うん、いい表情になった。かっこいいし、かわいいよ」
「か、かわっ……今日は凛々しく決めようと思ってるんです。変なこと言わないでください」
「かわいいかわいい。私はそういうのも好きだよ?」
「プロデューサー!こんな時にまで茶化さないで……」
落ち着くことができたと思ったのに、体温が上がっていくのを感じる。
プロデューサーはそんなの気にしていないかのように衣装のチェックを始めた。
文句の一つでも言ってやりたいけれど、一応はプロデューサーもちゃんと仕事をしているのだからチェックが終わるまで口を挟めない。
「衣装オッケー。それじゃあ、ありすちゃん」
「橘ですっ!」
条件反射的に、文句の矛先がそっちへ向かう。
なんとなく、誘導された気がするのはどうしてだろう。
プロデューサーはそれを受け止めながらゆるく笑って、ほんの一拍、呼吸を置いて。
――いってらっしゃい。
と、ひどく懐かしい響きで送り出すのだ。
返す言葉は、ひとつしかない。
「いってきます、プロデューサー」
*
*
*
*
*
「……すちゃーん。ありすちゃーん。ぼーっとしてるけど、大丈夫?出番近いよー?」
「おぉっと、橘氏が緊張でバタンキューだっ。救急車、救急車~!」
「倒れてませんし緊張もしてません!……いえ、緊張はちょっとしてますけど、大丈夫です」
「ん、そうー?……うん、顔色もいいから平気かー。でもぼーっとはしてたよね。どしたん?」
「えっ?え……と、少し、昔のことを思い出していたんです」
「なるほど、橘昔話!むかーしむかし、あるところに……」
「小さな女の子と、そのプロデューサーが暮らしていました。でも、それは別のお話なのでまた今度で」
「あら、楽しそうじゃない三人とも。盛り上がってるところ悪いけど、ありすはスタンバイよろしくね」
「おぉー、奏ちゃんおつデリカー。歓声、聞こえてきてたよー?」
「んー、おつデリカおつデリカー。それじゃありすちゃん、いってらー」
「はい。それじゃあみなさん、いってきます!」
曲の始まりに歓声が響き、そして静まる。
照明は控えめで、スポットライトが私だけを照らす。
広がる視界は、一面青のサイリウム。
ゆるやかに揺れるそれは、さざ波のようで。
衣装のすそを軽く握って、私が発する最初の音といっしょにそっと離した。
――おとなになる、ということに。私は強い憧れを抱いている。
少しだけ前に進んだけれど、結局どうすれば大人になれるのかはわかっていない。
だけど、その扉をひとつ開いた先には。
たくさんの仲間と、まだまだ広がる大海原が待っていました。
おしまい
ここまでお読みいただきありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。
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