和久井留美「桜色の苦いキス」 (18)
窓を少しだけ開けると、春の夜風が車内に飛び込んできた。
夜風はそのまま髪を揺らし、上気した頬に触れる。
いまも私の顔がほころんでいるのは、首筋を撫でる襟足がくすぐったいだけではないのだろう。
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「和久井さん、嬉しそうですね」
「えぇ。こんなにお祝いされるなんて思わなかったから」
事務所で開かれたささやかな誕生日会を思い出しながら、頷く。
思えば、あんな風にお祝いされたことなんて、今まであったかしら。
まさかこの年齢になって体験できるなんてね。
「第二部なんて言って飲みに誘われてたのに、主役が行かなくてよかったんですか?」
「またの機会にしたわ。今日は荷物も多いしね」
プレゼントの束を抱えたままお店に行くのは大変だから。
そんなわけで今夜は彼に車を出してもらっている。
「プレゼント、ね……ほら、こんなものまで頂いちゃったわ」
信号で停止したタイミングで、ポケットから取り出したそれを彼に手渡す。
「折り紙か。これは……猫?」
「そう、仁奈ちゃんから。『この子なら留美おねーさんでもくしゃみは出ねーですよ!』だって、ふふっ」
「違いない。銀色の猫とは豪華じゃないですか」
信号が青に変わる。
彼から、その少しだけ歪に折られた銀の猫を受け取ると、指先で耳のふちを沿うように撫でる。
仁奈ちゃん曰く、金色や銀色の折り紙はとっておきらしい。
そんな可愛らしいとっておきを私のために使ってくれたことを思うと、それだけで嬉しくなって口元が緩んでしまう。
物体として捉えれば、なんてことのない只の折り紙。
それなのに、こんなに嬉しく感じるなんてね。
以前の……アイドルになる前の私だったら、同じような気持ちになれたのかしら?
「私、こんな気持ちで誕生日を迎えるなんて思いもしなかったわ」
「今までは違った、と?」
「そうね……少なくとも、前の職場でこんなお祝いされたことはないし」
少し前にサーカスでの仕事をした日の夜、私は前職の退職理由を彼に初めて話した。
聞いて気持ちのいい内容じゃないし、私自身も多くは語りたくない、そんな話だけれど。
話せるようになったのは、それだけ今が幸せだから。
そして、貴方に私のことをもっと知ってほしいと思ったから。だから――
「次を右折してちょうだい」
「あれ、道間違えてましたか?」
「そうじゃないけど、回り道もたまにはいいんじゃないかしら」
誕生日だし、もう少しだけいいわよね?
車内で交わす会話はそれほど多くもなく、お互い無言になる瞬間も途切れ途切れに訪れる。
だけど、そんな沈黙も苦ではなかったし、彼もそれを気にしなかった。
窓の外から見える夜景を眺めてもいい。カーラジオに耳を傾けてもいい。話したくなったら、話せばいい。ありのままでいい。そんな自由な時間。
「お、あそこ桜が咲いてますね」
いつの間にか車は河川敷に沿って走っていた。
進行方向、土手を降りたその先に桜の樹が見える。
「そこから降りられそうね。行ってみない?」
「俺は構いませんよ。じゃあ降りますよ……っと」
暗くて見えなかったが、土手を下った先は野球のグラウンドのようだった。
週末になれば、ここも子供たちで賑やかになるのだろう。
桜の樹の側にはベンチが置かれている。応援する親の席なのかもしれない。
「見事に咲いてますねぇ。花見のし甲斐がありそうなのに誰もいないのは勿体ないくらいだ」
「ここ、明かりがないみたい。流石にこの暗さじゃお花見もできないわよ」
川向こうの街明かりしかないこの場所は、暗闇といっても差し支えない。
だからこそ、薄い桜色が夜空を覆うように拡がり浮かび上がる。
時折吹く風にさわさわと揺られ、舞い落ちる。
私は、散る花びらを見上げて立ち尽くす。
桜以外の時間が止まったみたいに。
いつまでも、いつまでも。
昼は春の陽気を感じられるようになってきたけれど、日が落ちてからの冷え込みは未だに居座っていた。
羽織っているジャケットだけでは心許なくて、小さく体を震わせる。
と、両肩に男物のコートが掛けられた。
「その恰好じゃ寒いでしょう。車から持ってきました」
「ん、ありがとう」
袖を通してみると指先がわずかに出た。
私も女性の中では比較的長身の部類だけど、やっぱり男女の差は大きいのね、なんて。
ふふ、こうしていると、彼に包まれているような錯覚に陥りそう。
ふと、ポケットに膨らみを感じて手をすべらせると、長方形の箱が入っていた。これは。
「あ、入れっぱなしでしたか。ちょっと失礼」
彼がコートのポケットから取り出したもの。
想像した通り箱の正体は、煙草とライターだった。
私から少し離れた彼からチンッと小さな金属音がして、咥えた煙草に火が点る。
吐き出された煙は、ゆっくりと立ち上って桜色と溶けていく。
匂いが苦手な子も多いので、あまりアイドルの前では見せないのだけど、私は吸っている彼の姿が嫌いじゃない。
「まったく、美味しそうに吸うわね」
「興味があるなら吸ってみますか?」
「……そうね、一本だけ貰おうかしら」
断られるのを前提に訊いたのだろう。
私の返事に目を丸くさせる彼が可笑しい。
「冗談ですよ。あげませんからね」
「別にいいじゃない。成人してるわよ」
「知ってますって。いまの和久井さんはアイドルですから」
「それなら、いまの私はアイドルじゃなくて、和久井留美という一人の女よ」
「む……なんでそんなに吸いたいんですか?」
彼が訪ねる。
「なんでかしらね。貴方のコートを着てるから……答えになる?」
外側から貴方に包まれて。
内側まで貴方に染まりたい。
なんて言ったら、どんな顔するのかしら。
「……一本だけですよ」
彼が渋々といった具合に、箱から煙草を一本取り出す。
取り出されたそれを受け取ると、そのまま口に咥える。
「火は吸いながらでないと点きませんからね」
そう言いながら、彼がライターを差し出す。
吸ったことはなくても、それは聞いたことがあったけれど。
「どうすればいいか、ちょっと見せてくれない?」
「こう、咥えて息を吸いながら火を――」
ライターを持つ腕をそっと押さえながら顔を寄せると。
私と彼、2人の咥えている煙草の先端が触れた。
彼が驚いて目を見開いているのが、目の前でよくわかる。
身長が高くてよかったと思った瞬間だった。
そのまま息を吸うと、触れ合った先端がジジッと小さな音を立てながら、私の煙草にも火が点る。
「っけほ! ……ふぅん、こんな感じなのね」
ここまでやっておいて、盛大にむせてしまう自分が恥ずかしい。
苦くて頭もクラクラするみたい。だけど、不思議と嫌ではない。
「和久井さん……誰かに見られたらどうするんですか」
心なしか顔を赤くさせた彼がつぶやく。
誕生日なんだから、これくらいは許してね。
私は、外側も内側も彼に染められながら微笑んだ。
「ふふっ、桜しか見てないわよ」
短いですが以上です。
和久井さん、誕生日おめでとう。
留美×Pのシガーキスが書きたかった、そんなお話でした。
「※アイドルの喫煙描写を含みます」の注意書きを最初に書くのを忘れてました……
もしまとめサイト等にまとめていただけるようでしたら、この一文を最初に入れて頂けたら嬉しいです。
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