やっとのことで上体を起こしてしばらくベッドの上でぼうっとしていたら、なんとなく眼が覚めてきた。理解し難いが、状況も少しずつだが呑み込めてきた。
　情報を整理する。自分の寝ていたこのベッドは、当然のことながら自分のものだろう。そして、それがあるこの部屋もきっと、俺の自室だ。
　だが、身に覚えがない。なぜだ。決まっている。

　俺に、今までの記憶が、ないから。

　寝ぐせのままぼさぼさな頭を振る。毛先が肌に触れて痒い。
　別に決まってはない。落ち着こう。焦り過ぎて短絡的な思考回路に陥ってしまってはどうにもならない。
　ただ、現時点ではそう、というだけの話だ。戻るかもしれない。よくは知らないが、突発的にそれがなくなることだってあるって、なにかでだれかが言っていた。指示代名詞が多い。頭を振る。痒い。

　とにかく、状況の把握を速やかにしなくてはならない。先ほど出て行った彼女の素振りから察するには、俺は今寝坊をしていて、準備をして急いでどこかに向かわねばならないのだから。
　せっかくこの暫定自室には私物が多い。ぱっと見渡すだけでも、壁際に所狭しと並ぶ物が並ぶラックには、様々なジャンルのCDやらDVDやら文庫本やらが目白押しである。壁には二次元美少女的なポスターやヘビメタバンドっぽい外国人の並んだポスターが何枚か。どういう趣味してんだこいつ。俺か。
　家具自体は非常にシンプルなデザインと配置。ただ、かなり散らかっている。床は授業で使ったらしきプリントが反故にされ散乱し、その上を脱ぎ散らかした服が覆っている。いや、本当に俺なのか。

　……結果、自分が各娯楽から食い散らかした趣味の残骸とずぼらさが認識できるのみで、ろくな情報はほぼ得られなかった。まあ、それでもひとつは確信できていのるか。

「俺、学生なのか」

　部屋を見渡す。やはりあった。教科書が堆く積まれた学習机の上、学生カバン。大分粗雑な扱いをされて皮がぼろぼろだし、持ち手の付け根の部分が今にもちぎれそうだ。この部屋の主、俺ので間違いない。癪だけども。
　きっとその中に、生徒手帳がある。きっと俺の姓名やらの個人情報が――。そう思い、中を見ようとジッパーのつまみに指をかけた。

　矢先。ぺたぺたと、はだしで階段を上る足音。ぴたりと指の動きが止まる。誰だ。またさっきの女の子か。でも、彼女は急いでいたように見えたが。
　ついさっき、冷たく閉められた戸が、今度は大きな音を立てて開く。

「ジジイ！！」

　想定外の怒鳴り声に思わず身を固めた。さっきの女の子の、声ではない。
　ノーノックで入ってきた、金髪サイドテール。
　ただ、その自分に送られる冷ややかな眼差しはあの子と同種と言える。また俺は、ただ口を半開きにして、疑問符を浮かべながら彼女を観察していた。

「テメエさっさと学校行けし！　飯片付かないじゃんか！」

　眉間に皺を寄せ、そう大声で騒ぎながらそのサイドテール、藁半紙でうずもれた床を睨み、足場を探しながら、こちらへと近づいてくる。
　案の定、やっぱり誰だかわからない。――もしや、俺の家の、人？

「……どうしたの？　具合悪い？」

　自分の反応の悪さに気づいたか、彼女の声色と表情は少し丸くなる。
　そして、立っている俺の足元でしゃがみこみ、俺の顔色を窺ってくる。

「あ、いや、ええと」

　さっきから思ってはいたが、近づかれてはっきりと分かった。この子、なんかすごい。
　巨乳。白Tシャツ。ホットパンツ。金髪ロング。エロ漫画でしょ。
　誰だよ。家族なの。無理あるだろ。
　いや、そんなことより。

「んー、無理はしない方がいいけど。……なるべくは、がんばって欲しいかなあ」

　この彼女の推測のままに黙殺される前に、話さねばなるまい。風邪と嘘をついたところでどうにもならないし、彼女は確実に、“俺”のことを知っている。ならばここはベタに、急いでこう告げるしかないだろう。せっかくこんな境遇なんだから、ちょっと、こういうセリフ言いたかった欲もあるし。

「ご、ごめんなさい。誰ですか」

「――は？」

　スヌーズ機能が働いて、静寂に目覚ましのアラームがこだまする。
　尤も、俺はそれをすぐ止めようと思うことはなかった。女性の得も言われぬ表情を見て、この先どうなることかと不安を募らせるので、自分の脳内タスクはいっぱいだった。―――言いたいからって、言っていいものでもないということを、俺は学んだ。
　
　閑話休題。
　ごっくんバディの彼女から壊れたテレビを直すように頭を叩かれるショック療法を実践されるきらいすらあったので、取り急ぎその場で状況説明をした。

僅か3レスで物凄い情報量だな
読み応えはあるが、無事に完走まで気力もつのか、これ……

　ただ、話してから気づいた。これは“悪魔の証明”というものだ。ないものをないと人に説くには、ないことの証拠が無数に必要となる。それを、すべてを失っている俺から提示するのは絶対に不可能だ。
　とどのつまり彼女への説得は“記憶があったころの俺がこの娘にどこまで信用されていたかに任せる”、という半ば博打うち的な方法に帰結するのであった。

「――という、ことなんです」

「………」

　部屋にあった小さな丸椅子の上で、その表情が曇る。太腿の間に手を置き、椅子の縁をひしと掴んで天井を見上げる。そして、公園のバネ馬の遊具に乗るようにして、上体を前後に揺らし始める。不安だ。
　時折、「んー」と口を引き結んだまま声を発し、また黙る。を、三度繰り返す。そんな息の止まるような時間が暫し続く。
　そして、彼女の小さく潤った唇は重たく開く。

「先ごはん、食べよ？」

　なるほど。ふはあと息が漏れた。
　
　
　『舌は覚えている』。ありがちな表現だが、なるほど確かに。若干柔らか目の出汁巻きやら塩気の濃い味噌汁やら、他人の気がしない。
　ただ、『懐かしくて涙が出る』に届くほど、そこまでおいしくないのも事実で。
　それを相手に負い目なく平気で思えてしまうのも、彼女と自分が気の置けない関係であることを体で覚えているから、なのだろうか。そんなことを考えながら椀を啜る。

　あの後、俺はこの痴女みたいな人に言われるがまま階段を下り、リビングの食卓に腰かけた。
　入るや否や一般家庭然としたそれなりの広さと、なんだか落ち着く朝ごはんの匂いを感じた。入る前から点いていたらしいテレビでは、朝の情報番組がやっていたらしい。ちょうどキャスターがお辞儀をして番組の終わりを告げていた。
　「あんたはそこね」と二人だけにしては広めの食卓に着かされると、卓上には焼き魚をメインに据えた和食が並んでいた。小鉢がいろいろ、というよりも大皿がどすん、といった感じの惣菜だ。聞けばいつもそのほとんどをほぼ彼女が食べているらしい。ああ、通りでご立派に。横目で見る。でっか。

　と、俺は互いに沈黙が続く中記憶の整理をしていた。どうやらすぐに記憶が無くなっていく、という症状ではないらしい。
　少し安心を取り戻し、いくらか食べ進めたところで、彼女から口を開いた。

「あそこまで真剣な顔で言われたら、それが嘘だとしても深刻ななにかがあるってことくらいはわかるよ」

　そう優し気な声色で言って、じゃがいもと大根の入っていた“はずの”味噌汁を啜る。こちらがなんとも不思議な感覚に包まれていて、あまり箸が進まないのを差し置いて、彼女はほぼすべての膳を食べつくしていた。大食らいなだけでなく、食べるのも早いのか。

「それも、そうか」

　彼女の曇った表情から見て、全部を信じたわけではなさそうだが、昔の俺の信用はそれなりにあるらしい。とりあえずは一安心できそうか。
　しかし、なんだ。なんというか、やはり落ち着いてしまうことに落ち着かない。

「まあ、“にい”は元々ヘンなとこがある人だしね。あ、『だった』か」

箸を握っている方の人差し指をあげ、視線を上に挙げてそうかそうかとひとりでに納得する。

「いや、故人じゃないわ……」

　今までの記憶が消えたならその人間は死んでいるのかと聞かれれば、我が身ながら確かにそうなのかもしれないとは思う。
　いや、それよりも気になることが聞こえたぞ。

「“にい”？」

「あ、うん。今のあなたの前の人」

「前の人って……今の俺と、前の俺はそんなに違う？」

「雰囲気全然違うよ。やっぱり性格って記憶に左右されるんだね。学会ものだ」

話が適当過ぎてついていけない。

「そうじゃなくてな。つまり、きみは」

「あなたの妹だよー。よろしく”おにいちゃん”？」

　俺の言葉にそう被せて、頭を傾けて無邪気に笑う。いや、邪気自体は宿っていそうなものかもしれない。

　いったい何を考えているのだろう。自分が彼女の立場なら、もっと深刻に思いつめるところもありそうなものなのに。彼女の楽観的（と予想される）な性格で考えるなら、容貌は同じでも中身が違う人間と話すのは楽しい、といったことなのだろうか。

「妹に見えない」

　あまりに困惑しちゃったために率直な感想を申し上げてしまった。

「ひど」

　頬を膨らます。ただ、明らかに狙っているのが透けている。魅力的だけども。
　ということで、適当にフォロー。

「大人っぽいって思った」

　体の成熟度とかね。

「うーん、にいは父親似で細っこいしね。その点あたしもママも頑丈で風邪ひとつ引かないし」

　それは大人らしさとは違うのでは。

「きみ以外の家族は」

この質問も予想できたのか、またも食い気味に答えられる。

「ママはあたしが生まれた時にはもういなかった。パパはちょこちょこお金振り込んでくれるよ」

　………

「あんたの家のことなんだから”いけないこと聞いた”みたいな顔すんなよ」

　箸でこちらの顔を指してけらけらと笑う。

お兄さん、妹さんを僕にください！