誰だか分かりませんが、愛しています。(9)

 俺は寝ていた。暗転した世界に、瞼から透けたオレンジ色の光が瞳に入ってくる。目を開くと、さらに刺激の強い直射日光が瞳を焼き付けてくる。どうやらカーテンの隙間にちょうど日が昇ったらしい。条件反射で顔を背け、カーテンの影に入る。涙が出た。横になったままジャージの袖で目をこする。
 そんな手際の悪い目覚め方で、すっかり呆けた脳とぼやけた視界が、“彼女”の姿を認識するのには数十秒が必要とされた。
 空いたドアの前、姿勢良く立つ黒髪の少女。髪は肩までに綺麗に切り揃えられて、カーテンから漏れた光がその艶やかさを見せびらかすよう。瞳は大きくて凛々しく、冷たい温度を感じる。小さな唇は引き結ばれ、通学カバンを持つ手にも力が入っている。制服姿がよく似合う。紺のブレザーとチェックのスカート、ブルーのブラウスにスカートと併せたチェックのリボン。女の子が女性へと変わる過渡期が、その小さな体に詰め込まれていた。

「おはようございます」

 そんな彼女から、無感情な挨拶が聞こえた。何やら、不穏な響きを持っている。

「おはよう、ございます」

 居心地の悪さを感じ、俺はもぞもぞと布団から出てベッドの端に座り直し、間抜けな顔して軽く会釈を返す。――誰なんだ、この子。
 ベッドの上で呆ける自分。それを責めるように見つめる彼女は、睫毛の長い目を閉じて軽く溜め息を吐く。
 かなり呆れている様子だが、なにか悪いことをしたのだろうかと考える。すぐに思い当たる。きっと、俺も学生で、きっと、俺は寝坊をしているのだ。

「先、行ってますから」

「はい」

 思わず即答。相手がどこに行くかもわかっていないというのに。
 そんな俺のどうしようもない姿に呆れたのか、彼女はこちらに冷たい視線を残したまま、静かにドアを閉めて出て行ってしまった。
 自然に身体は傾いていき、枕の上で顔が撥ねる。真下を向く。

「……あれー?」

 枕にうつ伏せて声を殺すも、その間抜けな響きだけは俺の耳にしっかりと残る。まるで、他人の声のように聞こえた。
 なんだこれ。どうなってるの。
 寝惚けたままいつまでも脳が覚醒しないような、そんな感覚。
 知らないベッドの上で、何も知らない俺は、知る由もない状況に惑わされていた。

 やっとのことで上体を起こしてしばらくベッドの上でぼうっとしていたら、なんとなく眼が覚めてきた。理解し難いが、状況も少しずつだが呑み込めてきた。
 情報を整理する。自分の寝ていたこのベッドは、当然のことながら自分のものだろう。そして、それがあるこの部屋もきっと、俺の自室だ。
 だが、身に覚えがない。なぜだ。決まっている。

 俺に、今までの記憶が、ないから。

 寝ぐせのままぼさぼさな頭を振る。毛先が肌に触れて痒い。
 別に決まってはない。落ち着こう。焦り過ぎて短絡的な思考回路に陥ってしまってはどうにもならない。
 ただ、現時点ではそう、というだけの話だ。戻るかもしれない。よくは知らないが、突発的にそれがなくなることだってあるって、なにかでだれかが言っていた。指示代名詞が多い。頭を振る。痒い。

 とにかく、状況の把握を速やかにしなくてはならない。先ほど出て行った彼女の素振りから察するには、俺は今寝坊をしていて、準備をして急いでどこかに向かわねばならないのだから。
 せっかくこの暫定自室には私物が多い。ぱっと見渡すだけでも、壁際に所狭しと並ぶ物が並ぶラックには、様々なジャンルのCDやらDVDやら文庫本やらが目白押しである。壁には二次元美少女的なポスターやヘビメタバンドっぽい外国人の並んだポスターが何枚か。どういう趣味してんだこいつ。俺か。
 家具自体は非常にシンプルなデザインと配置。ただ、かなり散らかっている。床は授業で使ったらしきプリントが反故にされ散乱し、その上を脱ぎ散らかした服が覆っている。いや、本当に俺なのか。

 ……結果、自分が各娯楽から食い散らかした趣味の残骸とずぼらさが認識できるのみで、ろくな情報はほぼ得られなかった。まあ、それでもひとつは確信できていのるか。

「俺、学生なのか」

 部屋を見渡す。やはりあった。教科書が堆く積まれた学習机の上、学生カバン。大分粗雑な扱いをされて皮がぼろぼろだし、持ち手の付け根の部分が今にもちぎれそうだ。この部屋の主、俺ので間違いない。癪だけども。
 きっとその中に、生徒手帳がある。きっと俺の姓名やらの個人情報が――。そう思い、中を見ようとジッパーのつまみに指をかけた。

 矢先。ぺたぺたと、はだしで階段を上る足音。ぴたりと指の動きが止まる。誰だ。またさっきの女の子か。でも、彼女は急いでいたように見えたが。
 ついさっき、冷たく閉められた戸が、今度は大きな音を立てて開く。

「ジジイ!!」

 想定外の怒鳴り声に思わず身を固めた。さっきの女の子の、声ではない。
 ノーノックで入ってきた、金髪サイドテール。
 ただ、その自分に送られる冷ややかな眼差しはあの子と同種と言える。また俺は、ただ口を半開きにして、疑問符を浮かべながら彼女を観察していた。

 ただ、話してから気づいた。これは“悪魔の証明”というものだ。ないものをないと人に説くには、ないことの証拠が無数に必要となる。それを、すべてを失っている俺から提示するのは絶対に不可能だ。
 とどのつまり彼女への説得は“記憶があったころの俺がこの娘にどこまで信用されていたかに任せる”、という半ば博打うち的な方法に帰結するのであった。

「――という、ことなんです」

「………」

 部屋にあった小さな丸椅子の上で、その表情が曇る。太腿の間に手を置き、椅子の縁をひしと掴んで天井を見上げる。そして、公園のバネ馬の遊具に乗るようにして、上体を前後に揺らし始める。不安だ。
 時折、「んー」と口を引き結んだまま声を発し、また黙る。を、三度繰り返す。そんな息の止まるような時間が暫し続く。
 そして、彼女の小さく潤った唇は重たく開く。

「先ごはん、食べよ?」

 なるほど。ふはあと息が漏れた。
 
 
 『舌は覚えている』。ありがちな表現だが、なるほど確かに。若干柔らか目の出汁巻きやら塩気の濃い味噌汁やら、他人の気がしない。
 ただ、『懐かしくて涙が出る』に届くほど、そこまでおいしくないのも事実で。
 それを相手に負い目なく平気で思えてしまうのも、彼女と自分が気の置けない関係であることを体で覚えているから、なのだろうか。そんなことを考えながら椀を啜る。

 あの後、俺はこの痴女みたいな人に言われるがまま階段を下り、リビングの食卓に腰かけた。
 入るや否や一般家庭然としたそれなりの広さと、なんだか落ち着く朝ごはんの匂いを感じた。入る前から点いていたらしいテレビでは、朝の情報番組がやっていたらしい。ちょうどキャスターがお辞儀をして番組の終わりを告げていた。
 「あんたはそこね」と二人だけにしては広めの食卓に着かされると、卓上には焼き魚をメインに据えた和食が並んでいた。小鉢がいろいろ、というよりも大皿がどすん、といった感じの惣菜だ。聞けばいつもそのほとんどをほぼ彼女が食べているらしい。ああ、通りでご立派に。横目で見る。でっか。

 と、俺は互いに沈黙が続く中記憶の整理をしていた。どうやらすぐに記憶が無くなっていく、という症状ではないらしい。
 少し安心を取り戻し、いくらか食べ進めたところで、彼女から口を開いた。

「あそこまで真剣な顔で言われたら、それが嘘だとしても深刻ななにかがあるってことくらいはわかるよ」

 そう優し気な声色で言って、じゃがいもと大根の入っていた“はずの”味噌汁を啜る。こちらがなんとも不思議な感覚に包まれていて、あまり箸が進まないのを差し置いて、彼女はほぼすべての膳を食べつくしていた。大食らいなだけでなく、食べるのも早いのか。

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