森久保乃々「あなたの瞳を」 (84)



"人の目というのは針のようなものだ――"

森久保乃々は、常々そう考えていた。


"誰かに見られている"

そう思うだけで乃々の心は締め付けられ、その心臓は駆け足で音を鳴らす。

なにも何万もの人に見られているわけではない。

そこにいるのがたとえ1人だとしても、その目線は乃々に突き刺さり、その内側までも探られている気分になる。




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相手が自分のどこを見ているのか知りたい場合は、当然ながら相手の目を見ればよい。

髪か、顔か、手か、体か。

しかし、乃々にとって、それを知ることは、恐怖という言葉でしか形容することができないものであった。


"見られたくない"
"見ていてほしくない"
"確かめたくない"


そう思い続ける中でいつの間にか


乃々は他人の目を見ることができなくなってしまっていた。



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「そろそろかしら……」


ここはとある小さな事務所の一室。

ソファに座った少女が、ファッション雑誌を読んでいる。

……誰の目にもわかるほどにソワソワしながら。



モデル上がりの彼女であるが、手元の雑誌の内容は少しも頭に入ってこない。

それもそのはず。

今日からこの事務所に、新しいアイドルが所属することになっているからだ。



もとは仙台で読者モデルの仕事をこなしていた彼女――佐久間まゆ――が、その仕事のさ中、曰く"運命の出会い"によってこの事務所にやってきたのはおよそ半年前のこと。

芸能系の事務所とは聞いていたので、恐らくモデルの仕事を振られるのだろう。

そう考えていたのだが、まさかアイドル部署に1期生として配属されるとは思わなかった。


なんでも、事務所の事業拡大のためにアイドル部門の立ち上げが決まって全国を回っていた時、ちょうどまゆが飛び込んできた、ということらしい。

"どちらにせよスカウトするつもりであった"という言葉は、まゆをアイドルの道に引き込むには十分すぎるものであった。



最初は基本的なレッスンが多く、もともと運動があまり得意でなかったまゆには少々辛いものであったが、

しかし、運命を信じる彼女は努力を重ね、ようやく、少しずつ仕事も増えてきた。


そんな彼女が、同じアイドル部署に仲間がいないことを寂しく感じるようになったのは最近のことだ。

がむしゃらだった最初の頃とは違い、だいぶ余裕が出てきたからこその思いだろう。

なかなか御眼鏡に敵う娘がいないのかもしれないし、憧れの人を独占できているのだから悪い状況ではない。

それでも、せっかくのアイドル部署だ、"1人ではなく誰かと活動してみたい"という思いが胸の中にあった。


だからこそ、"新しいアイドルが入る"という情報を耳にした時


「楽しみですねぇ」


と、余裕の見える言葉と裏腹に、内心ではわくわくしていた。

……子供っぽい表現になってしまっているのは承知の上だ。


ガチャリ

ドアの開く音がして、その時はやってきた。

弾む心を悟られないように、ゆっくりと雑誌を置き、扉の方へ向かう。

入ってきた少女は、少し俯き、斜め下のあたりに視線を落としている。


(緊張しているのかしら……?)


「佐久間まゆです。よろしくお願いしますねぇ」


なるべく緊張をほぐせるように、優しい口調で自己紹介をした後、目の前の少女を眺める。

クリーム色の髪を、後ろでいくつも縦に巻いているのが印象的だ。

体格は小柄。表情を窺い知ることはなかなかできないが、年齢は3つも離れてはいないだろう。


「……あ、あの……えっと……その」


多少の間を置いて、少女が口を開く。

しかし、いかんせん歯切れが悪い。

人見知りするタイプなのだろう、と、まゆは合点し、次の言葉を待つ。


「あの……も、森久保……乃々です……」


数分かけて、ようやく名前を知ることができた。


「乃々ちゃんですか、素敵な名前ですねぇ。仲良くしてくださいね」


「は、はいぃ……」


この言葉のレスポンスにも数秒の間があったが。


連れてきたプロデューサーは打ち合わせが入ってしまったらしく、申し訳なさそうに部屋を後にした。

せっかくの機会だ、いろいろ話してみよう。

そう思い、乃々をソファへ案内する。

いきなり隣に座っても驚かれてしまうだろうから、まゆは隣の椅子に座ることにした。


「はい、どうぞ、お茶です」

「あ、ありがとうございます……」


まずは乃々の緊張をどうにかしないことには始まらない。

無理に話しかけることはせずに、温かいお茶を出すことにした。


「……」


両手で湯呑みを持ち、チビチビと飲む乃々。

ようやく俯いていない顔を見ることができた。可愛らしい、人形のような顔だ。


「乃々ちゃんはどうしてアイドルになろうと思ったんですか?」


最初の話題を何にするか、まゆは少し悩んだ末に、この質問をすることにした。

少し引っ込み思案には見えるが、ここにいる以上はアイドルを志しているのだろう。そこから話題を広げることができれば。

……まさか一番してはいけない質問だとは知らずに。


「そ、その……もりくぼは……」

「はい」

「アイドルを辞めたいんですけど……」

「……」

「……」

「……はい?」


この時、まゆの頭の中は、困惑と驚きで満たされていた。決して怒っているなどということはない。

自分がなんとも間の抜けた返事をしてしまったことすらも記憶に残っていない。


「え……あの……じゃあどうして……? えっと、このじむ……いや部署……え?」

「い、いえ、あの、も、もりくぼにはそんなアイドルみたいなキラキラしたお仕事は向いてないというか……」

「で、でも、これからアイドルとして活動するんですよねぇ……?」

「はいぃ……、そ、それは、親戚のおじさんが勝手にぃ……」


どうやら、乃々は自分の意志でここにいるわけではないらしい。

親戚に1回だけと頼まれたアイドルの代役としての撮影が、思いのほか上手くいってしまい、さらに(乃々にとっては)運の悪いことに、プロデューサーの目に留まってしまったとのことだ。


「でも乃々ちゃん、とっても可愛いですから、きっとアイドルとして成功できますよ?」


もちろん本心からの言葉である。それと、もう少し自信を持ってほしいという思いも込めて。


「えっ……い、いえいえ、そんなことありえませんし……! 佐久間さんの方が可愛くて……アイドルっぽくて……」

「ありがとうございます。……ふふっ、そんなに謙遜しなくてもいいのに。それと、まゆ、でいいですよ」

「そ、そうですか……? ま、まゆ……さん……」

「はいっ。もちろんですよぉ」


そんな会話をしていると、まゆのレッスンの時間がやってきてしまった。

乃々は契約やら書類やらでプロデューサーを待たなくてはいけないらしい。


(悪い印象は与えていない……はずよね?)


なかなか本心を読み取りにくく、乃々がどう思っているかはわからないが、少しはコミュニケーションをとることができた。


「これから、一緒にがんばっていきましょうね」


そう言って、まゆは部屋を後にした。



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遡って数分前・事務所の扉前


どこで道を間違えたらこのような状況になってしまうのだろう?

地味で、根暗で、内気な自分が、アイドルという、とてもじゃないがキラキラして直視できないような世界に足を踏み入れようとしている。

あの時、親戚について行かなければ。
あの時、代役として大失敗していれば。
あの時、芸能関係者がその場にいなければ。

この世の終わりのような表情で扉の前に立つ少女。その頭の中を、大量の後悔が駆け巡る。

しかしそれも後の祭りだ。残念ながらもう逃げることはできない。

今できることといえば……


(どうか、優しい人でありますように……)


ここまで連れてきてくれた、隣に立つプロデューサーを名乗る男が言っていた。既に所属しているアイドルは1人だけだ、と。

人と関わるのが得意でない少女は、それを聞いて少し安堵した。

いきなり何人にも囲まれて質問攻め、ということはなさそうだ。


また、このプロデューサーも、自分の意見を汲み取ろうとしてくれる、優しい人間だ。

そうなると唯一の懸念事項が、そのアイドルがどんな人間なのか、である。

芸能界に近しいあの親戚はたまに愚痴をこぼしていた。やはり芸能の世界には我の強い人間が多い、と。

これまではそのような話も、自分がいかにその世界に縁遠い存在なのかを確かめるだけのものであった。

だが、当事者となった今ではそうも言っていられない。


どうか、この扉の向こうにいる人間が、優しい人でありますように――


扉が開いた時、そのアイドルはファッション雑誌を読みながらソファに腰掛けていた。

こちらを一瞥して、雑誌を置き、歩いてくる。

思わず顔を伏せてしまった。不審に思われているかもしれない。


「佐久間まゆです。よろしくお願いしますねぇ」


こちらの緊張を汲み取ったのだろうか? 優しい声で名前が告げられた。


穏やかそうな人で良かった。などと思っていたが、全身に相手の視線を感じる。

いや、常識的に考えて、これから共に活動する仲間がどのような人間なのか、興味をもつことはなんらおかしくはない。

むしろ、相手を見ずにずっと俯いている自分の方が異常なのだ。

……などと思考を巡らせていたら、少し、空白の時間が生まれてしまった。


(あっ……あいさつ……)


相手が自己紹介をしたのだから、次は自分の番。これも常識だ。


「……あ、あの……えっと……その」


うまく言葉が出てこない。初対面の相手との会話ではいつもそうだ。

きっと困らせてしまっている。名前を言うだけだ。名前を言わなくては。名前を。


「あの……も、森久保……乃々です……」


絞り出すような声になってしまった。別に運動をしてきたというわけでもないのに。


「乃々ちゃんですか、素敵な名前ですねぇ。仲良くしてくださいね」


相手の顔は見れないが、ニュアンスに怒りやいらつきの感情は含まれていないようだ。少し安心した。

その言葉に返事ができたか否かは自分でも覚えていない。


本来なら契約や書類の確認などを行うはずであったが、プロデューサーは打ち合わせが入ってしまったらしい。

帰ってくるまでは初対面の相手と二人きり、ということになる。


どんなことを聞かれるのだろう

うまく答えられるだろうか


不安が頭に浮かぶ中、まゆはソファに案内してくれた。

乃々にとって辛い時間が始まる。


……と、思いきや、まゆは


「お茶を用意するので、少し待っていてくださいねぇ」


と言って、恐らく給湯室であろう部屋へ消えていった。

そういう応対の決まりなのか、それともまゆの気遣いなのか。

乃々に確かめる手段はないが、落ち着く時間をもらえたのはありがたい。

用意に向かうまゆの横顔をちらと見たが、……さすがはアイドル。同性の自分からみても魅力的なその顔に、自分自身を場違いに思う気持ちが強まってしまった。


お茶を飲むと心が落ち着く。

少なくともさっきまでのような緊張からは解放されていた。


「乃々ちゃんはどうしてアイドルになろうと思ったんですか?」


残念ながら、このまゆの質問によって、また落ち着きはどこかへ飛んで行ってしまうのだが。


当たり前だ。

ここにいる以上、"アイドルになりたい"という感情が標準装備であると思われてしまうのは。

少なくとも目の前のアイドルはそうなのだろう。

だが自分はそうではない。いかにして、アイドルという職業を貶さずに、かつ、自分がどれだけアイドルに向いていないのかをアピールすればよいか。


……そこからの会話はほとんど記憶にない。

もしかしたらいろいろと失礼なことを言ってしまったかもしれない。

言葉がなかなか出てこないこともあっただろう。

それでもまゆは自分の言葉を待ってくれた。

最後には


「これから、一緒にがんばっていきましょうね」


と言ってくれた。

その安心感だけが、部屋に1人となった乃々に残ったものだった。



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さて、まだ乃々は駆け出しも駆け出し。

レッスンを少しずつこなしてはいるが、アイドルという世界の1歩目を踏み出しただけに過ぎない。


まゆが活動を始めた時は、とにかく探り探りであった。

モデル時代の繋がりからの仕事もあったが、とにかくがむしゃらに仕事を探し、取り組んでいった。

だいぶ非効率的な活動もあったとは思う。

その反省を活かし、乃々のアイドル活動は、まゆの仕事を見学して雰囲気を掴むことから始まった。


この日は、まゆの握手会を見学することになっていた。

地道な活動が最近になって実を結び、握手会は盛況と呼んで差し支えない規模になっている。

裏で見学することになっていた乃々は、開始前から軽い眩暈に襲われていたのだが。


(ひ、人がいっぱいぃ……!)

(こ、こんなたくさんの人とお話しして、その上握手なんて……、むーりぃー……)


当事者でもないのに戦々恐々している乃々の隣で、まゆは嬉しそうに微笑んでいた。


「行ってきますねぇ」


そう言い残し、握手会はスタートした。


「いつもありがとうございます」


まゆが、ファン1人1人とコミュニケーションをとっている。

しっかりと目を見て。


笑顔だけではない。表情を様々に変化させ、ファンを満足させようという気概が伝わってくる。

その結果として、帰っていくファンの表情は皆、一様に、満足気なものになっていた。

恐らく自分がファンだったとしても、もう1度来たいと思えるだろうと、乃々でさえ感じるものであった。


そうして休憩時間。


「あ、あの……これ、のっ、飲み物です……」

「あら……♪ ありがとう乃々ちゃん」

「……」

「……? 乃々ちゃん、どうかしました?」

「い、いえ……、すごいなぁ……なんて……」

「すごい……ですか?」

「は、はい……。ちゃんと1人1人のことを見て……。い、いいいえ、もも、もりくぼがこんなこと言うなんておこがましいというかなんというかなんですけど……!」

「うふふ、ありがとう。……まゆはね、愛に応えられるのは愛だけだと思っているの」

「愛……」

「せっかく来てくれたんですもの……、アイドル佐久間まゆを、もっと好きになってほしいな……って」


聞けば聞くほど、知れば知るほど、この佐久間まゆというアイドルは魅力的だ。

自分のどれだけ前を歩いているのだろうか?


まだアイドルというモノに意欲的とはいえない乃々ではあるが、まゆのようになれるのなら。

この自分を少しでも変えられるのかもしれない。

そう、感じるようになった。



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そうしていくらか過ぎた頃、乃々に初めての仕事がやってきた。

雑誌の撮影の仕事で、なんでもリスをモチーフにした衣装に身を包むらしい。


(撮影のお仕事なら、まゆも何かアドバイスができるかもしれませんねぇ)


そう意気込んで乃々について行ったまゆ。明らかに緊張している乃々を宥めつつ、撮影へ送り出した。


佐久間まゆは驚いていた。


さっきまで、今にも死んでしまいそうな程に緊張していた乃々が、いや、正確には今も緊張に呑まれてはいるのだが、リスの役を完璧に演じていたからだ。


本人にそんな自覚は全くないだろう。


しかし、醸し出すその空気が、

緊張により少し強張ったその表情が、

不安気に動くその影が


求められる役柄とピッタリと合致していた。


もちろん、そんな適材適所の仕事を持ってきたプロデューサーも褒めるべきだが、本人すらも驚きの色を薄っすらと浮かべているのだから仕方がない。


乃々の持っている雰囲気。

"守ってあげたい"という庇護欲に強く訴えかけるそれは、少なくともまゆよりも強いものであった。


「お疲れ様でした、乃々ちゃん」

「は、はいぃ……、もう……だめぇ……」

「とっても良い撮影でしたよ?」

「お、おだてても……、何も……出ないですけど……」

「いえいえ、本当ですよぉ?」

「は、はずかしいぃ……」


なんだか会話になっていない気もするが、まゆの言葉は本心だ。

普段からあまりアイドル活動に積極的でない乃々を見て不安に思うこともあった。

しかし、今日の撮影で、まゆは乃々の才能を確信することとなっていた。

……当の本人はそんなこととはつゆ知らず、放心状態で帰路に就いたのだが。



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そうして時間は過ぎていき

まゆはアイドルとして順調に仕事を増やし、小さなライブを行うまでになっていた。

乃々も、本人としては驚きらしいが、ファンは少しずつ増え、撮影や取材の仕事も増えてきた。

逃げたくなることもあった。実際、逃げようとしたこともあった。

それでも、まゆとプロデューサーの悲しむ顔を考えると、結局は逃げることができなかった。

その結果、アイドルとして、逃げられない位置にまで来てしまったのかもしれない。


相変わらず目を見て話すことはできないし、握手会なんてまっぴらではあるが。


また、乃々のデビューライブも決定した。

本人から言わせれば"決定してしまった"と呼ぶべきなのだろうが、ともかく決まったことは仕方がない。

幸いにも、まゆと一緒にステージに立てるらしい。

ソロだと本人の感じる負担が大きすぎるだろう、と考えたプロデューサーの英断であり、事実、最初はいつものように渋っていた乃々も、結局は出演を決意する。

練習は多少ハードになったものの、乃々はライブに近づいていった。



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私服で街を歩くまゆ。この日はオフらしい。

なにかアクセサリーでも見繕おうか

いや、この前買ったスカートに合う服を探そうか

などと考えていると、少し先に、見慣れたクリーム色の髪の毛が揺れているのを発見した。


「乃々ちゃん、こんにちは」

「ひぅっ!? あ、ま、まゆさん……、こんにちは……」

「あ、驚かせちゃってごめんなさい……」

「い、いえいえ」

「お買い物……ですか?」

「はい……。少し、漫画を買いに……」

「漫画? 乃々ちゃん、漫画読むんですねぇ」

「少女漫画です、ほのぼのとした……」

「ふふっ、乃々ちゃんのイメージぴったり」

「そう……でしょうか……?」

「ええ、……あの」

「?」

「……乃々ちゃん、ついて行ってもいいですか?」

「え……? へ、平気です……けど」

「ありがとう……。せっかく会ったんだから、お昼ご飯でも一緒に食べましょう?」

「は、はい……」


このような会話をしながら、まゆは内心、驚いていた。

乃々を誘った自分に対して、である。

これまでは仲間がいなかったのだから当然ではあるが、休日に偶然出会った誰かと過ごそうなんて思ってもみなかった。

なにより、考えることなく、自然とそのような言葉が出てきたという事実に。

それだけ、乃々と過ごすことに抵抗を感じなくなっていたという事実に。


……いや、そもそもまゆは抵抗を感じたことはない。初めて会ったあの日も、撮影に付き添ったあの日も。

だが、乃々はそうではなかっただろう。人見知りする性格、望まぬ新しい世界、付き合いの浅い相手。

乃々の気持ちを考えると、安易に距離を詰めることは良いことではないのではないか。

そのような遠慮の気持ちが、乃々から感じる拒否的な空気が、薄れてきたという意味だ。


まゆが自身の気持ちの変化に驚く一方、乃々もまた、自分自身に驚いていた。

まさか自分が、休日の、偶然の誘いに、ほぼ二つ返事でOKを返すとは。

相変わらず目を見て話すことは叶わないが、まゆと過ごす時間を嫌に感じたことはない。

果たしてそれは自分がアイドルになったからなのか、相手がまゆだからなのか。

どちらにせよ、誘いを受けたことへの後悔もなく、心は落ち着いていた。


話をした。

たくさん。


なるほど、オフというものは、仕事と離れた環境というものは、話が弾む。


とはいっても、乃々は聞き役に回ることが多かったが、それでも、普段と比べると比較にならない程の口数であったはずだ。


これが友達であり、仲間というものなのだろう。

と感じたのは、乃々だけではなかった。



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失敗体験をする度にモチベーションは削られていく。

成功体験をする度にモチベーションが積まれていく。

中には、失敗をするごとに燃え上がるような人間もいるだろう。

しかしそれは、少なくとも乃々にとっては対極の存在となる。


削られた乃々のモチベーションは、時間と仲間がゆっくりと回復してくれた。

……というのはこれまでの話。

あくまで、何日かに1度しか仕事をこなしていなかった、今までの話。

たとえ失敗があっても、次の仕事までには、まゆやプロデューサーの励ましもあって、かろうじて辞めずに済んでいた、今までの。


そんな乃々に、突然、日に3件もの仕事が入ってしまった。まさに厄日と呼ぶしかない。

午前に写真撮影、午後にはコラム寄稿とその打ち合わせ。夕方には雑誌の取材が入っていた。


高い山があったとする。

さて登ろうか、と思ったら、なんと後ろに2つも山が控えており、そちらも登らなくてはいけないらしい。

そうなれば誰もが、1つ目の山を登る前から、言いようのない無力感に襲われてしまうことだろう。


今の乃々の心境はまさにそれだ。

つまり、その1日の開始時点で、既に心が折れてしまっていたということになる。


もともと、緊張や不安が表に出やすい乃々だ。

残念ながら、こんな心理状態で臨んだことが功を奏して……となってはくれなかった。


午前の撮影はNGの連続。

これまでに経験したことのない焦り、プレッシャー、そして、恐怖。

自分でも自分の気持ちを整理できないままに、気が付くと撮影は終了していた。


引き上げるスタッフ達の顔が失望しているように乃々には映る。

実際に失望しているか否かは問題ではない。

乃々がそうだと感じてしまった。しまうほどの精神状態だった。という事実こそが問題だ。


そのことが胸を締め付けるように痛め、悪循環となって乃々の仕事を阻む。


書き上げたコラムにも自信が持てない。

自分が書いた文章なんて誰が読むのだろう?

いったい、誰が。


そんな考えが頭を支配するようになってしまっては、打ち合わせで発言などできるはずもなかった。

結局、終始俯いたままで打ち合わせも終わってしまった。


同伴したプロデューサーにも申し訳ないことをしてしまったと感じる。


失望させてしまっただろうか

がっかりしているだろうか

怒らせてしまっただろうか


……怖い


今、皆は自分をどんな目で見ているのか

失敗を繰り返す自分を。


見るのが怖い

聞くのが怖い

知るのが怖い


怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い


怖い


事務所の一室

一人で取材の記者を待つ時間

気が付くと乃々は


部屋から逃げ出していた。



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ここは事務所の衣装室。

明りの消えたこの部屋の、1つ置かれた机の下。

逃げ出した少女が、体育座りで隠れている。

緊張の糸が弱まったのか、小さな寝息をたてながら。


「う、うぅ……」


そうこうしているうちに目を覚ましたようだ。

まどろむ意識と視界。部屋の暗さも相まって、まだうめき声のような音しか出てこない。


そんな乃々を、現実へ引き戻す声があった。


「お疲れ様です。乃々ちゃん」

「……え?」


ふと見ると、目の前にまゆがいた。


「電気、つけてもいいかしら……?」

「あ、は、はいぃ……」


驚きで、声が出ているかさえもわからない。

明るくなった部屋に目を瞑っている間に、まゆは乃々の目の前に戻ってきていた。


恐らく、まゆは全てを把握した上でここにいる。

怒られる? 貶される? 文句を言われる?

まゆが何を言っても、それは受け止めなければいけないことだろう。

俯く乃々。

そしてまゆが口を開く。


「もう夜の7時ですよ? 乃々ちゃんは寝ぼすけさんですねぇ」

「え……?」


いつもの声、いつもの調子で、まゆは喋り始める。


「あ、記者さん達には体調不良って言っておきましたから、大丈夫ですよ?」

「で、でも……」

「あの記者さん、まゆがアイドルなりたての頃から取材してくれてるんです。とっても優しい人ですから、安心してください」

「そ、そう……なんですか……」


「あ、あの……、まゆさん……」

「どうかしましたか?」

「えっと……、怒らないんですか……?」

「怒る? どうして?」

「も、もりくぼ、失敗ばかりして……」

「まゆだって失敗くらいしちゃいますよぉ?」

「その上、逃げ出して……、お仕事すっぽかして……」

「それは確かにダメだけど、謝るなら記者さんに、ですよねぇ」

「あと……えっと……」

「……」

「……」

「……乃々ちゃん」

「は、はいっ……」

「乃々ちゃんは、アイドル活動、……イヤですか?」

「……」


「乃々ちゃんはいつも、苦しそう」

「……」

「まゆは乃々ちゃんを励ますたびに、やりたくないことを無理やりやらせてしまっているんじゃないか、って、不安になるんです」

「そ、そんなこと……」

「乃々ちゃんが少しだけ臆病なこと、まゆは知っています。でも……、とっても勇気があるってことも、知ってるの」

「……」

「乃々ちゃんの、本当の気持ち。聞かせてほしい」

「も、もりくぼは……」


佐久間まゆは考えていた。

失敗したいと思う人間はいない。

恥をかきたい人間はいない。

きっと乃々は、その気持ちが人よりちょっとだけ、強いだけなのだと。


なにも隠すことではない。

本音を打ち明けてほしい。

まゆはそう、思っていた。


「アイドル、辞めたいです」

「……! ……どうして?」

「……怖いんです」

「……怖い?」

「はい……」

「失敗することが……?」

「ええと……それもそうなんですけど……」

「?」

「失敗した後の、見ている人の残念そうな顔を見るのが……怖いんです……」

「見ている……人?」

「もりくぼは、ダメダメな人間です……。ダメダメな人間らしく、誰にも迷惑をかけずに生きていたかったんです……」

「……」


「だから……、もりくぼに期待してくれる人が、もりくぼのせいでがっかりするのが……、とってもイヤなんです……」


乃々に驚かされるのは何度目だろうか。

それと同時に、乃々を単なる恥ずかしがり屋だと決めつけていた自分に強い嫌悪感も生まれている。


この目の前にいる森久保乃々という少女は、自分が思っていたよりも何倍も優しい人間であった。

自分のことではなく、他人のことを考えることができる、とても、とても優しい。


いつだって乃々は、誰かのことを考えていた。

だからこそ限界まで逃げなかったし、仕事をやる以上はしっかりと役割をこなしていた。


期待を裏切りたくない。がっかりさせたくない。

という思いやりが少しネガティブな方向に進んだ結果、こうして、伏し目がちになってしまったに過ぎない。


"誰かのため"


およそ遠く見えていた言葉が乃々の根底にあると気付いた時

たまらずまゆは

今にも泣きそうな乃々を


ゆっくりと、抱きしめていた。



「……え? ……え?」


困惑する乃々に、まゆは語りかける。


「乃々ちゃん、よく、聞いてください」

「……はい」

「乃々ちゃんはきっと、乃々ちゃん自身のことがなかなか、信じられないだけなんですよね?」

「……」

「そんな時は、まゆのことを思い出してください。まゆは、乃々ちゃんのチカラを信じています」

「まゆ……さん……」

「月並みな言葉だけど、貴女を信じる私を信じて……」

「……」

「アイドル活動……、もう少し、まゆを信じて、続けませんか……?」


まゆは、これでも乃々が意志を曲げないなら、その時は乃々の意志を尊重したい、と考えていた。

内心では焦りながらも、返事を待つ。


目が合わないとわかっていても、その瞳を見つめながら。


「まゆさん……」

「……」

「もりくぼ、きっと……、これからもいっぱい迷惑とか……その……かけちゃうと……」

「……」

「で、でも、まゆさんがそう言ってくれるなら……、も、もう少し……、続けてみたい……かも……」

「……! ありがとう……」

「へ……? い、いや、こ、こちらこそというか……えっと……えっと……」

「ふふふ……」


つられて、乃々も笑ったように見えた。


本当に、本当によかった。

その思いだけが、まゆの心を満たしていた。


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さて、目下の目標は2人のライブ。

幸いにもあれ以来、乃々に仕事が立て込むことはなかった。

プロデューサーが上手く調整しているのだろう。


レッスンは順調そのもの。2人とも、激しいダンスをウリにしているわけではない。

それでも、きっと満足のいくライブになるだろうと、まゆは確信していた。


当日の朝までは。


ライブの当日

乃々の顔色があまりよくない。

いや、初めてのライブなのだから緊張はして当たり前ではあるのだが、何かそれとは異質のモノを感じる。

衣装合わせ

メイク

控室でも、普段以上に口数が少ないことは、誰の目にも明らかであった。


積極的に話しかけてみるも、返事はどこか上の空。

何かあったのか。

体調が悪いのか。

あれこれと考えている間に、リハーサルの時間になってしまった。


まゆが問いただせば、きっと乃々はその緊張や不安の理由を話してくれるだろう。

しかし、それはなるべく避けたかった。

乃々の意思で、乃々の口から聞くことが大切なのだから。


かといって、ライブが失敗してしまっては仕方がない。

舞台袖で準備をする中で、まゆは

"リハーサルが終わっても様子がおかしければ、そこで話を聞こう"

と考えていた。


「がんばりましょうねぇ」


舞台に出る直前、振り返って乃々に声をかけるが、返事は戻ってこなかった。


不安な思いを顔には出さずに、踵を返し、舞台へ踏み出そうとした


その刹那





「まゆさん……!」





今までに聞いたことのないような、意志のこもった声。


思わず振り返り、乃々の顔を見る。


乃々も、まゆの顔を、いや、


――目を見ていた。



いったい、どれだけの勇気を振り絞ったのだろう。

誰かの目を見ることを、ずっと、ずっと避けてきたはずの乃々が


今、確かにまゆの目を見ている。


なるほど、今日の緊張はこのための。


まゆの表情には驚きの色。

しかし、すぐにいつもの微笑みに戻った。

この勇気を、意志を、尊重したい。

乃々の言葉を待つ。



「い、いつも……、ありがとうございます……。そ、その……、ライブ、がんばりましょう……!」



乃々の口からまゆの耳に届いた、感謝と決意。


ありふれた言葉に聞こえる。

しかし

それは、今日のライブだけでなく

これから先のアイドル生活、その充実が浮かぶくらいに


強い言葉だった。




おわり





エピローグ


少し遡って、朝



いよいよライブの日がやってきた。

今までの自分なら緊張で倒れていてもおかしくないような、大きなイベント。

しかし、まゆが隣にいると思えば、不思議と力が湧いてきた。


そのまま、珍しく前向きなまま、会場へ向かえばよかった。

ふと

"まゆに感謝の言葉を伝えたい"

などと思わなければ。


思えば、こんなに良くしてくれるまゆに、面と向かって感謝の1つも言っていないなんて、なんと不誠実なのだろう。

……いや、そもそも"面と向かって"という行為すらも、最後に経験したのは遠い記憶の彼方だ。


この機会に

この、ライブという機会に伝えなければ

自分は一生、不誠実な人間のままだ。


だが、"目を見て話そう"と、考えただけで、心臓が動きを速める。

せっかくのライブなのに。

これでは元も子もない。

早く、早く、伝えなければ。


それなのに、いざ、まゆを前にすると、声が出ない。

いつもは話せるのに。

目を見るという行為が、自分にとってどれだけ足枷になっているのかを痛感しながら、時間が流れていく。


ついにリハーサルの時間が来てしまった。

明らかに様子がおかしいであろう自分に、まゆは小言の1つも漏らさなかった。

優しいまゆのことだ、自分の言葉を待ってくれているのだろう。


「がんばりましょうねぇ」


リハーサルの直前、まゆが話しかけてくれた。

しかし何も返せない。

舞台を向いたまゆは今にも歩き出しそうだ。



一瞬

まゆが、不安そうな顔をしているように見えた


違う、そんな顔をさせたいのではない。

小さく、勇気が湧いてきた。



「まゆさん……!」



振り返ったまゆには一瞬、驚きの色が浮かんだが、またすぐに、いつもの「佐久間まゆ」の目に戻っていた。

ようやく見れた。あなたの瞳を。

優しく、安心できる瞳だ。


ああ、なぜ今まで躊躇っていたのだろう。

そんな逡巡の間も、まゆは笑みをたたえながら乃々を待ってくれている。


その微笑みが、喉元に詰まった言葉を押し出してくれた。




おわり




森久保、誕生日おめでとう!



普段はコメディ書いてます


過去作


双葉杏「分解病りたーんず」

神谷奈緒「夏の常務も憎めない」

智絵里「ほたるちゃんが」朋「幽霊に!?」


などもよろしくお願いします


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