千川ちひろ「紫煙の奥から」 (65)
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建物の三階の、西方の角にある喫煙室を利用する人は多くない。
それどころか、わたしの知りうる限りでは、誰もいない。
そもそも三階はスタッフが作業をするフロアであり、喫煙をするスタッフは三階中央の談話室のすぐそばに据えられた大きな喫煙室を利用するからだ。
そうなると、何故同じ階に二箇所も喫煙室があるのかがわからないけど。
六畳あるかないかぐらいの狭さに、無骨な木製のベンチが二つ。
耳に残る換気扇の排気音と、何の必要性があってか、アンビエントミュージックが小さくかかっている。
あってもなくても差し障りのないような空間。
だけどわたしは、だからこそこの喫煙室を好んで利用している。
その喫煙室の隣には、滅多に使われることのない小道具や衣装などをしまう備品室がある。
あまり開かれることのない備品室の中には勿論のこと、部屋前の廊下は、入りきらなかった備品で溢れている。
その備品の山を越えた先に、年季の入った扉がもう一つあって、ノブを引くと、換気扇の回る音がわたしを迎える。
手に持っている黒色のポーチからキャスターを取り出して、電子ライターで火を点ける。
一息に吸い込むと、甘ったるい香りが肺に取り込まれていく。
そうして、えもいわれぬ香りの煙を堪能してから、惜しむように吐き出すと、そこで漸く人心地が付く。
左の手首に嵌めた腕時計を一瞥すると、午後八時に迫ろうかという頃合いだった。
わたしの勤める芸能プロダクションは、業界でも珍しいほど規模が大きい。
本社ビルの中には幾つもの部署が存在している。
直接的にアイドルの傍で仕事をこなす人もいれば、事務作業ばかりを担当して、日がな一日パソコンと向き合う人もいる。
わたしは、事務作業もこなすけど、アイドルの子達と接する機会も多い。
彼女達は皆良い子で、それぞれに信念を持って活動している。
そんな彼女達が成長していく姿を間近で見るのは楽しくて、眩しい。
ここでの仕事や、日々の生活には満足している。
一本吸い切ったのに、まだどこか、口寂しい。
今日はずっと書類を作成していたからか、肩が凝って仕方がない。
微かに届くアンビエントミュージックに耳を傾けながら、わたしはキャスターをもう一本取り出す。
だけど、いくらライターを操作しても、火が点く気配はなかった。
ずっと使い続けていた廉価なライターだから、ガスが切れてしまったのだろうか。
何度か試しはしたものの、果たして点くことはなかった。
わたしのくちびるに触れて、少しだけ湿ってしまった煙草を所在なげに手の中で転がしながら、依然としてわたしは喫煙室にいる。
今日の分の仕事は終わっているので、あとは自宅に帰るだけ。
それでもなんとなく、このままもう少し座っていたかった。
「あれ、ちひろさん」
ベンチにもたれてぼうっとしていると、聞き覚えのある声がわたしの名前を呼ぶ。
「え、あ……」
咄嗟のことに言葉が出ず、口ごもってしまった。
誰も来ないと思っていた喫煙室の扉を開けて、顔なじみのプロデューサーが姿を見せたからだ。
「えと、とりあえず入っていいですか」
言葉を失ってしまったわたしを見つめながら、彼は困ったような笑みを浮かべている。
「あ、はい、どうぞ」
そう言って座席へ促すと、彼は安心したようだった。
どうも、備品室に使わなくなった衣装や小道具をしまいにきた際に、この部屋を見つけたらしい。
彼は、カッターシャツのポケットから黒地に金の英字があしらわれた煙草の箱を取り出す。
彼はその中から一本抜き取って、ターボライターで火を点けた。
彼は一度、深く息を吸うと、吸った分と同じだけ深く煙を吐き出した。
続けざまにもう一度煙草を咥え、同じように紫煙を吐き出す。
幸福そうに煙草を呑む彼を尻目に、わたしは奇妙な気分に陥る。
そのまま彼が喫煙するさまを見つめていると、彼と視線がぶつかった。
気まずさから目を逸らしたわたしに、彼は言葉を投げかけてくる。
「煙草、吸われないんですか?」
わたし達は喫煙室にいるのだから、その疑問は至極当然のものだった。
「ああ、えっと、ライターが切れてしまったみたいで」
わたしは笑顔を作って答える。だけどその表情は、きっと固いだろうなと胸の内にだけ呟く。
彼とは同じ部署に所属している。
いつだったか、大きなイベントごとの前には、職場で夜を通して一緒に仕事を詰めたこともある。
知り合い始めてから数えると、二年にはなる関係だった。
他愛のないことを話せる間柄。それでいて、まだどこか気を遣い合う間柄。
しかしわたしは、今日の今日まで彼が喫煙者だということを知らなかった。
だからか、目の前で美味しそうに煙草をのむ彼を見て、狐に化かされているような心地にさえなった。
眼前に、てのひらに収まるサイズのライターが差し出される。
「これ、よかったら」
柔らかな声が聞こえる。
ライターに向けていた視線を彼に移すと、照れたような表情があった。
黙って頭を下げて、それを受け取る。
心なしか湿気てしまったキャスターを咥えなおして、火を点ける。
それからわたしと彼は黙りこくって煙を吸い込んだ。
沈黙は心地良かったが、気がかりだったことを思い出した。
「今日のお仕事は、もういいんですか?」
「ええ、まあ。ちひろさんは?」
「わたしも今日はお終いです」
「お疲れさまです」
「プロデューサーさんの方こそお疲れさまです」
「今日はずっと内勤だったんでそうでもないですよ」
「あれ、そうでしたっけ?」
「ええ。会議室で志希のソロライブの細かいところを詰めていて」
それを聞いてわたしの脳裏に、ひとりの少女が浮かぶ。
一ノ瀬志希。
才能という天からの贈り物を羽織る、ギフテッドと呼ばれる存在。
そんな彼女の専属のプロデューサーが、彼だった。
その個性の強さに、彼女がデビューした当初は、彼も相当苦労させられたらしい。
不敵な笑みと、内心を見透かすような目線が苦手で、今でも彼女と話すときは少し緊張してしまう。
アンビエントミュージックは粛々と流れ続ける。
徐に彼が二本目の煙草に火を点ける。
それを切っ掛けに、漸く話を切り出すことができた。
「志希ちゃん、ここのところあまり調子が出てないみたいでしたけど」
そのことに、確証はなかった。
だけど、このところどこか彼女の所作にぎこちないものを感じることが多かった。
彼はわたしの言葉を受けて、意外そうな表情を浮かべる。
「ああ、志希のやつ、この前までスランプ気味でね」
少しだけ困ったように、彼は笑う。
わたしは小さく息をのむ。
予想が当たったことより、彼の答えの内容に対して。
「志希ちゃんに限ってそんなこと、あるんですか」
虚を突かれたあまり、言い方がストレートになってしまった。
プロデューサーもわたしの驚きぶりを見て、無理もないと言わんばかりに肩をすくめてみせる。
「それに気付けたの、俺の他にはちひろさんだけですよ」
それから彼は、とても優しい表情になる。
「天才で、美人で、まあ少し個性的ですが、」
「でもまだあいつは十八の女の子なんです。壁にぶつかることが全くない方がおかしい」
「他の人は勿論、志希本人にも言わないでくださいね?」
そう言って彼は煙草の煙に乗せるようにして、話し始める。
「志希自身、誰にも見せないところで精神的に塞ぎこむ部分があったみたいで、それが仕事に影響したのかもしれないんです」
「スランプっていうほど大したことじゃないのかもしれない。ただの思春期にありがちな悩み事として片付けられるかもしれない」
「でも、志希にとってもその悩み事に思うことがあったようで、最近は少しずつですが、俺に心を開いてくれているような気がして」
「正直、俺は志希みたいに賢くはないし、あいつのすべてをわかってやれない」
「それでも、あいつひとりきりで抱えきれない感情を聞いて、その負担を和らげることができるなら、力になりたいんです」
ランプの灯りのような、じわりと温かい言葉。
いかにも彼らしい述懐を聞きながら、図らずもわたしは昔のことを思い出していた。
「……そうですね、ここはプロデューサーさんがしっかりサポートしてあげるところだと思います。ですけど」
「ですけど?」
「志希ちゃんの話を聞くだけじゃだめですよ? きちんとプロデューサーさんからも歩み寄らないと、です」
「歩み寄る、ですか」
「わからなくても、わからないなりに志希ちゃんのことを知ろうとしてあげてください。月並みでも、言葉をかけてあげてください」
心を許せる相手なら、それだけでも十分に安らげるから。
彼は、暫く真剣な顔をして考え込んでから、深く頷いた。
「わかりました。やれるだけのことをします」
「……そんなに考えてもらえて、志希ちゃんは幸せ者ですね」
「俺はあいつのプロデューサーですし、責任があります」
「それに、どうせならもっといい景色を見せてやりたいんです。トップアイドルという高みから」
「……その為には、あいつと対等に向き合わないといけないってことですね」
「その意気ですよ、プロデューサーさん」
わたしは優しく背中を押した。
「……それにしてもここ、なんなんでしょうね」
気恥ずかしくなったのか、彼が無理に話題を変えてきた。
「喫煙室なら談話室の横にもあるのに」
彼の抱く疑問はもっともだが、その答えはわたしにもわからない。
「どうしてでしょうかね」
曖昧な相槌を打ちながら、その実どうでもよかった。
「でもなんだか、ここの方が落ち着けますね」
「あ、プロデューサーさんもそう思います?」
大切なのは、存在するに足る理由ではなくて、そこで安らぐことができるという事実なのだと思う。
アンビエントミュージックは粛々と流れ続ける。
その後も気の抜けたボールのように弾まない会話を幾つか交わして、お開きになった。
わたしもプロデューサーも、明日の朝には仕事が待っているのだ。
「そういえばちひろさん、煙草吸うんですね」
別れ際に彼がそう言うから、負けじとわたしも返す。
「わたしだって、プロデューサーさんが喫煙される方だってこと、今日まで知りませんでしたよ」
「そりゃあ未成年のアイドルもいる手前、あんまり大っぴらに吸えないですって」
彼が恥ずかしそうに、頬を掻く。
「実はわたしもそうなんです。普段吸ったりはしないんですけど、疲れた時や、たまの気分転換に」
「やっぱり、煙草は控えた方がいいんでしょうか」
わたしがそう尋ねると、彼は首を横に振った。
「別に構わないと思いますよ。ちひろさんは大人の方ですし」
それでいてわたしは、ただのしがない事務員だし。
プロデューサーと別れ、会社を出て駅の方向に歩く。
まだ少し凝り固まった感覚のある肩を回しながら、最近の自分の運動不足を嘆いた。
たしかにデスクワークをこなすことに慣れたけど、それに伴ってこんなに身体が鈍ってしまうとは。
大通りに差し掛かると、街頭に据えられた巨大なディスプレイに見慣れた少女の姿が映るのが見えた。
オードトワレのコマーシャル。
まるで香りに色彩がついたような、華々しい感覚。
すらりと伸びた手足がしなやかで、辺りを歩いていた人の殆どは、足を止めて彼女を眺めている。
その彼女が塞ぎこんでしまった姿が、どうしてもわたしには想像できない。
柔軟性も、筋力も、体力も、すべてが落ちている。
予期していたことだけど、それでもやはり心にくるものがある。
日々の業務に差し障りはないにしても、ただ個人的に自分が衰えていることを自認するのが嫌だった。
「運動、するかなあ」
最寄り駅から自宅までの道のりを歩きながら、ひとりごちる。
昔のようにとまではいかなくても、ある程度までなら鍛えられるだろう。
ジョギング、筋力トレーニング、ストレッチ。
体力を戻した先に、何をするのかは考えないことにした。
わたしに根付いているのは、ひときわ大きな締念なのだ。
そんなことを考えながら、自分の住むマンションの近くにあるコンビニエンスストアに入る。
ミネラルウォーターのボトルを購入しようとして、財布を取り出すために鞄を開けると、奥底に彼から手渡されたライターが入っているのを見つけた。
返さなきゃ、と思いながら支払いを済ませる。
誰かに幸せを与えられる存在に、誰かの心の片隅にひっそりと佇んでいられる存在になりたかった。
自惚れることが許されるなら、過去のある瞬間では、なれていたように思う。
あれから何日も経つのに、未だにプロデューサーにライターを返すことができないでいる。
返さないつもりではないし、むしろ早いうちに返さなければとも思うのだけど、どうしてだかそれは躊躇われた。
気のせいかもしれないけどそれには、未練のような、浅はかな感情が邪魔しているような感覚がある。
そうしてわたしが何もできずにいる間にも、炎が火口を這うような速度で時間は流れる。
わたしや、彼や、今を輝くアイドルに対して、一律平等に。
そんな益体もないことを考えながらもわたしは、彼女達が心置きなくアイドルを楽しめるように、援助する。
事務仕事は勿論のこと、彼女達の相談に乗ったり、学生アイドルの勉強を見てあげたり。
仕事だから仕方なくじゃない、むしろこれがしたくて、この仕事に就いた。
天職だとさえ思う。
わたしはとびきりの笑顔を作る。
それが誰かを笑顔にすることはない。
それはわたしの仕事ではないのだし、求められてもいないのだし。
休日や、会社を早く上がれた日の夜にジョギングを再開した。
走るのに適した服装に身を包み、幾ばくかの小銭だけを懐にしまい込み、無心で走る。
大抵はランニングコースを何周か。数キロの道のりを、たっぷり時間をかけて。
息が切れるほど運動をするのは気持ちがいい。
たった一人で、ひたすら自分の体力と向き合いながら、ただ前へ走る。
それだけで、わたしの中に溜め込まれていたフラストレーションが昇華されていく気がする。
ジョギングを続けているうちに、わたしの身体が過去へと戻っていくように錯覚することがある。
それは単純に衰えていた部分が矯正されているに過ぎないのだけど。
知らないうちに、わたしの中が半透明な澱で満たされていく気がする。
わたしは頭を振って、走ることだけを考える。
時折、アイドルをしていた頃の夢を見ることがある。
舞台に立つその瞬間の緊張や、精一杯覚えたダンスと歌を届けられる喜びを、わたしは追体験する。
ファンの声援がわたしの鼓膜に張り付く。ステージから眺める彼らが網膜に焼き付く。
思い出が反芻される。
そんな時、決まってわたしは涙をこぼしながら目を覚ます。
全身には鳥肌が立っている。
喜びなのか、悲しみなのか、涙の理由はわからない。
どれだけ願っても、起こってしまったことは、なかったことにはならない。
彼にライターを返すことについては、あっさり解決した。
ある日の退勤後に人気のしない喫煙室に向かったら、既に彼が中にいたのだ。
「プロデューサーさん」
扉を開けて呼びかけると、彼はくたびれた笑顔を見せてくれた。
このところは彼女のライブに向けての本格的な詰めが連日続いているようで、身体の頑丈さが取り柄だと豪語していた彼も、流石にこたえているようだった。
彼の座る隣に腰かけて、わたしもキャスターを取り出す。
その段になって漸く、借りたままのライターの存在を思い出した。
黒色のポーチを開けて、彼にライターを差し出す。
「すみません、随分前にお借りしていたものですが、お返ししますね」
二秒ほど固まって、何事かを考える素振りを見せてから彼は思い出したようで、緩やかに破顔した。
「ああ、わざわざありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ、すぐに返せなくてごめんなさい」
そう言ってわたしも彼の隣でキャスターを吸おうとして、自分の愚かしさに嘆くことになる。
「……あのう、プロデューサーさん」
「はい?」
「ライターの火を、貸していただけませんか?」
それから彼と、色々な話をした。
これからのイベントの話、やろうとしている企画の話、最近のアイドル達の様子。
「……それでですね、仁奈ちゃんがこんな大きなどら焼きに大口でかぶりついたんです」
「そうなんですか」
「のどに詰めてしまわないか心配だったんですけど、幸せそうな笑顔が本当に可愛らしくて」
「ああ、見たかったなあ! その顔」
「こればかりは役得ですからね」
胸を張って自慢するようにしてみせて、おどける。
そんなわたしを見た彼は、とても優しい表情になる。
どこかで見たことがあるような、そんな表情。
「ちひろさんは本当に、アイドルが好きなんですね」
紫煙の奥から、そんな声が聞こえる。
すとん、と腑に落ちる感覚があった。
それからわたしは、アイドルが好きなんだなあ、と改めて思った。
今こうしてこの仕事に就いているのがその証左で。
そう考えるほどに、心臓の辺りを甘く締めつけられるような心地がする。
きっと、ずっと誰かにそう言ってほしかったのだと思う。
「俺、ちひろさんのこと、尊敬してます」
わたしは曖昧に微笑む。
アンビエントミュージックは今日も粛々と流れ続ける。
「もうすこしですね、志希ちゃんのライブ」
「ですね」
「首尾は上々ですか?」
「はい。今のところ、なんとか滞りなく」
「志希ちゃん、最近のコマーシャルの効果もあって、結構人気出てきてるみたいですよ」
実際、彼女は一度は失いかけた勢いを取り戻した。
むしろ、以前よりもその輝きは増しているように思う。
わたし個人としては誰かと組ませて、ユニットで活動させると面白いとは思う。
だけど、彼女に釣り合う人材が今のところいないというのが、現状だった。
「ええ、あいつ、来月Bランクに上がります」
表情には出なかったものの、持っていた煙草を落としてしまいそうになるぐらいには動揺した。
表情に出なかったというよりは、出せるほどの余裕がなかったという方が適切かもしれない。
彼の横顔を見れば、とても冗談を言っているようには思えなかった。
「……早すぎませんか、それ」
なんとか絞り出した声は、掠れてしまった。
自分の心象が揺らいでいるのがわかる。
「数字の上ではもう十分すぎるほどファン層を獲得しているらしいです」
「そう、なんですか」
自分の会社のアイドルのBランク入りが決定したのだから、普通なら一も二もなくそれを祝う言葉が出るべき場面なのだと思う。
そうならなかったのは、通例ではまず考えられないほどそれが速かったからだ。
一般的なアイドル論として、確かな実力を持っていると見なされるのがBランクからで、CランクとBランクの間には、大きな壁がある。
その壁を乗り越えられないアイドルは、少なくはない。
「この前」
それから暫く続いた沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「あいつがスランプだったって話はしましたよね」
「……はい」
「その時あいつ、アイドルを辞めようって、思っていたらしいんです」
胸裏でざわり、と陰りが蠢く。
「志希ちゃんが?」
「ええ。全部投げ出して、なかったことにしようとしていたらしいんです」
「昨日、ライブのリハーサルを兼ねて、曲を通しで頭から流してみたんです」
「観客はいませんが、本番に立つ予定の舞台に上がらせました」
「そうしたらリハーサルが終わってから、あいつが言うんです」
「あの時辞めなくて、よかったって」
「なかったことにしなくて、本当によかったって」
「ライブが待ち遠しいって、そう言うんです」
思い出は美しいものだと、皆が口をそろえて言う。
それは決して、間違いではないと思う。
だけど、美しいだけが思い出ではないとも思う。
美しいと同時に、取り返しのつかないもの。
思い出というものは、もう手の届かないものだということに他ならない。
それから数年が経過した。
不況だと騒がれてはいるものの、嬉しいことに、わたしはまだ同じ場所で働くことができている。
どうやらわたしの事務員としての腕が買われたらしく、キャリアもそれなりに向上した。
皮肉にも、事務員としての才覚だけはあったらしい。
以前は一つの部署付きの事務員という立場から、今は複数の部署の統括を任されるようになった。
彼とは、あれから会うことすら少なくなった。
ジョギングは、いつの間にかやめてしまった。
それまででも、ただでさえ意義がなかったというのに、続ける理由がなくなった。
単純に、忙しくなったというのもある。
仕事が恋人だと揶揄されることもあるが、とんでもない、それは呪いだと思う。
喫煙も、自然に回数が減っていった。
役職の変更に伴って仕事場が変わり、いつも利用していたあの喫煙室が遠くなったから。
元々から、そんなに喫煙する方でもなかったのだし。
それでもアイドルの子達とは、仲良くしてもらっている。
暇な時間があればレッスンを覗きにいくこともあるし、付き合いの長いアイドルとご飯にいったりもする。
事務員という視点から、たくさんのアイドルがデビューする瞬間に立ち会ったし、引退する瞬間にも立ち会った。
どのアイドルにも共通していえることは、皆、きらきら輝いて見えるということだった。
くすぐったいくらいに、眩しい。
使うことのなくなった備品をしまうために、三階の西方にある備品室に足を運ぶ。
時刻は午後九時を大きく上回っている。
何年か前の記憶がフラッシュバックする。
知らず心臓が早鐘を打つのを無視して、わたしは備品室の奥を見据える。
以前見たときよりも散らかっていた備品室を抜けて、わたしは喫煙室の前に立つ。
見た目には変化のないその扉を開けると、換気扇の回る懐かしい音が、わたしを迎えてくれる。
「……あら」
懐かしい顔を見て声が出てしまった。
驚いているのは向こうも同じだろうか、火を点ける為にライターを構えた姿勢のまま、彼が固まっていた。
目線が絡まり合う。
「入っても?」
そう尋ねると、彼は漸く魔法が解けたのか、こくこくと頷いた。
ベンチに腰掛けて、そのまま何も話さないわたしを見て、落ち着かない様子で彼が話しかけてきた。
「あの、ちひろさん」
「はい」
「お久しぶりです」
「お久しぶりですね」
「……あー、」
「そんなに緊張なさらなくてもいいじゃないですか」
「そう、ですかね、ですよね」
彼は、この数年で随分と垢抜けたように見えたのに、話してみるとそうでもなかった。
「プロデューサーさんは、お元気でしたか?」
「そうですね。なんとかやってます」
一ノ瀬志希はいとも簡単にAランクアイドルになった。
宮本フレデリカという、これまた個性的なアイドルと出会って、彼女とユニットを組んでから、文字通り覇権を握った。
「ちひろさんこそ、お元気でしたか?」
「見ての通りですよ」
そう言って、薄く微笑む。
見ての通り。
「結構長いこと会ってませんでしたね、俺達」
「そうですね、社内ですれ違ったり、会議で一緒だったりはありましたけど」
「どうしてまた、この喫煙室に?」
「備品室に用事があったんですけど、そうしたらなんだかここが懐かしくなって」
二人して静かに笑う。
「……あと、ちょっとだけ、寂しくなって」
「寂しく、ですか?」
「ああ、柄じゃないことを口にしましたね、ごめんなさい」
「いいえ! ……でも、たしかにちひろさんが寂しいだなんて、意外な感じがしますね」
「そう、ですよね」
「じゃあ、わたしはこの辺りで失礼します」
「あ、はい、お疲れさまです」
「はい。お疲れさまです」
アンビエントミュージックは今日も粛々と流れ続けていた。
デビューしたばかりのアイドルに、わたしから決まってアドバイスすることがある。
決して後悔しないように、アイドルを楽しむということ。
思い出に成り果ててしまうまでに。
以上で終わりになります。
最後まで目を通していただきました方には、感謝いたします。
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