風が、吹いてきます。

　耳もとでささやくその声は、色を帯びて私に語りかけます。

　やさしく、柔らかに。

　緑のゆらぎに身を任せて、風音と水音の二重唱に浸ります。

　私は、私の感じるままに、声を紡ぎます。

　　　Ah――

　三重唱の響きは、さらに色をたたえて。

　空へ、還ってゆきます。

　もっと。もっと、音を……



　あなたの声を。

「聴かせて、ください……」



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

　　　梅木音葉「Ｖｏｃｅ（ヴォーチェ）」



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

教授「……はい。結構です」

音葉「……」

教授「大変よく仕上がっていますよ。予選までがんばっていきましょう」

教授「では、また来週に」

音葉「……ありがとうございました」

　いつもの練習室。
　先生は、私のピアノをそう評価してくださいます。

　お辞儀をして、練習室をあとにしました。

音葉「……」

　……先生には、わかっていただけないのでしょうか。
　今の私の音は、濁りを帯びて惑っています。

音葉「……ふぅ」

　空を見上げ、ため息をひとつ。

　……帰りましょう。

学生「あ！　梅木さん、帰るの？」

音葉「……ええ。ごきげんよう」

　声をかけてくれたクラスメイトにあいさつを交わして、私は歩きます。
　キャンパスを通り抜け、河川敷へ。
　一歩、一歩。
　空は澄み、透明な音を奏でます。

音葉「……着いた」

　それほど広くない河川敷の公園。
　平日の昼間で、誰もいません。

音葉「あー♪」

　抜けるような青空に、自分の声をひとつふたつ、のせてみました。

音葉「……ん。よし」

　すぅ……

　　　Ah――――

　私は目をつむり。風音と水音と語らうように、歌います。
　車の音も、人の声も、今は届きません。

　どのくらい経ったでしょうか。
　ふと。
　音が途切れました。

？？「コンコーネ50番、かあ」

音葉「？」

　いつの間にか、聞き覚えのない声の主がそこに。

？？「ああ！　ごめんごめん！……あまりにいい歌声だったから」

　この方は、どなた？
　思い当たる方は、存じ上げません。たぶん。おそらく。

音葉「……あの」

？？「ああ！　赤の他人が申し訳ない！　驚かせたかなあ」

　見知らぬ方は、頭をかいてます。
　よかった。知らない方でした……

　え？

音葉「！」

　なんてことでしょう！
　急に恥ずかしさが、こみ上げてきました。
　いつから、聴かれていたのでしょうか！？

？？「いや！　決して怪しい……いやあ、やっぱ怪しいよなあ……」

音葉「あ、あの……えっと……」

？？「あ、そうそう！　こういうものです！」

　知らない方は、胸ポケットから何か紙のようなものを、私に。
　そこには、知らない方のお名前と、会社らしきもの。

　ああ、名刺、でしたか。

音葉「えっと……Ｐ……さん？」

Ｐ「そうそう！　ＣＧプロの、Ｐと言います。ぶしつけで申し訳ない」

　Ｐとおっしゃる方は、あわてて頭を下げられました。
　その、なんというか……

　なにか押しが強そうで、苦手です……

音葉「……」

　私は、うつむく事しかできません。

Ｐ「ああっ！　いや、まあなんというか、声にひかれてって言うか。あー！」

　Ｐさん（？）は、頭をかきむしってます。

Ｐ「そう！　ティンときた！　そういうことです」

音葉「……」

　なにをおっしゃってるのか、まったくわかりません。
　つまり。

音葉「どういう……ことですか？」

　私は、うつむいたまま口に出すのが、精いっぱいでした。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

Ｐ「……あー、っと」

　Ｐとおっしゃる方と今、コーヒーショップで向かい合わせています。
　なぜ付いてきてしまったのでしょう？
　私は、後悔しています。

　思えばこの方に構うことなく、ただ逃げてしまえばよかったのです。
　知らない方なのですし。顔にそう描いてあった気もしますし。

　オジョウサン　オニゲナサイ……

　スタコラしてしまえば、それでおしまい、のはず。
　なのに。

Ｐ「コーシー飲もう！　暑いし、さ」

　恥ずかしさを打ち消すように、Ｐさんがそうおっしゃる姿が。琴線に触れたみたいになって。
　私はなにも言えず、こうして。

　お店がもう少し遠ければ、多少冷静になれたでしょう。
　そして、まんまと逃走に成功したでしょう。

Ｐ「……いやほんと、強引で申し訳ない」

　いえ。
　たらればを思っても、仕方のないことです。
　こうしてＰさんが頭を下げられている姿が、すべて。

音葉「いいんです……」

　私は、少し冷めたラテをいただきます。

Ｐ「そういや、まだお名前をうかがってなかったですね」

Ｐ「よかったら、ぜひ」

音葉「……音葉……です」

Ｐ「おとは、さん、か。うんうん」

Ｐ「差し支えなかったら、苗字もうかがいたい、かな？」

音葉「……梅木」

Ｐ「ん？」

音葉「……です」

Ｐ「うめき、さん？」

　私はこくりと、うなずきます。

Ｐ「梅木さん……梅木さん、ねえ……」

　Ｐさんは、どこか思案顔です。

Ｐ「失礼かもしれないけど、ひょっとして」

Ｐ「指揮者の梅木先生の、お嬢さん？」

　え？　この方は、父を知っているのでしょうか？
　私は驚いて、顔をあげました。

音葉「父を、ご存じなのですか？」

Ｐ「え！？　図星だったんだ……。まあ、知ってるっていうか」

Ｐ「俺が知ってるってだけ。もちろん先生は、俺のこと知ってるはずがないよ」

　そうでしたか。
　ただ突然、父のことが出たので、驚いてしまいました。

音葉「……では、なぜ私を……娘だと？」

Ｐ「んー。そうだなあ」

Ｐ「あの公園でコンコーネなんて歌ってたら、さ。おそらく梅木さんは○○音大なのかな？って」

　はい。そのとおりです。

音葉「……」

Ｐ「で。あの音大なら、関係子女も多いし。だとしたら、ひょっとしてって」

　Ｐさんはコーヒーをひとくち。

Ｐ「そう、思ったわけ」

Ｐ「……あ。口調砕けちゃってごめん！　なんか、ちょっと思い出に触れた感じがしてね」

　そう言って、また頭をかきます。

音葉「……Ｐさんは……音楽……されるんですか？」

　つい私は、心に思い浮かんだことをそのまま、口にしていました。

Ｐ「あー、ほら。道すがら話したけど、一応芸能事務所なんてところに、勤めているんでね」

Ｐ「音楽関係であることは間違いない、けどね」

Ｐ「ただ、梅木先生のことを知ってるのはね。昔、学生のころにとあるクリニックを受けたことがあってね」

Ｐ「まあ、しがない学生オケの団員だったわけですよ」

Ｐ「そのクリニックの講師が、梅木先生だった、と」

　確かに、父はそういう仕事もよく引き受けていたりしました。
　そういうつながり、だったんですね。

音葉「……やはり……音楽をされて……いたんですね？」

　芸能事務所で仕事をされているからと言って、コンコーネを知る方は多くはないと、思ったりします。
　……まあ、芸能事務所がどういうところか、私もよくわかりませんけど。

Ｐ「そりゃまた、どうして？」

音葉「……コンコーネ」

Ｐ「……ああ、そうねえ。ま、それがすんなり出てくるのは、合唱とか声楽関係？って思うよね」

Ｐ「ってことは、だ。……梅木さんは、声楽科かな？」

　Ｐさんがそう問いかけてきましたけど、私は首を横に振ります。

Ｐ「え。違うんだ」

音葉「……器楽、科」

Ｐ「専攻は？」

音葉「……ピアノ」

　Ｐさんは、少し驚いたような表情をしていました。

Ｐ「へえ。じゃあお母さんの影響、かな？」

音葉「……母も、ご存じなのですか？」

Ｐ「いやいや、そっちは顔見知りじゃないです。ほら、梅木先生とこのおしどり夫婦ぶりは、つとに有名だし」

　そうですか。
　私から見てもラヴラヴなことは確かですけど、でも。
　他人さまからそう見られてるのは、子供としては、少し恥ずかしいです。

Ｐ「指揮者とピアニストの夫婦、いいよねえ」

Ｐ「ま、それはさておき。……梅木さん」

　Ｐさんの顔つきが変わりました。

Ｐ「アイドルに興味は、ある？」



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

音葉「……アイ……ドル」

　アイドルという言葉は知っています。
　どういうことをしているのかも、なんとなく知っています。
　でも。

音葉「……いえ……興味は」

Ｐ「まあ、そうだろうなあ」

　Ｐさんは事もなげに、そうおっしゃいました。

　アイドル……テレビを観れば、自らの歌や踊り、あるいはその容姿で魅了する方たち。
　その存在にくぎ付けになる方も、いらっしゃるのでしょう。
　でも、私に「興味があるか」と問われても、「いいえ」と答えるしかありません。

　本当に、興味がないのですから。

音葉「……なぜ、お訊きになったのですか？」

Ｐ「んっと。まあ、これは俺の個人的な想いとして」

Ｐ「梅木さん。あなたをアイドルにしてみたいと思ったから」

音葉「……はあ」

Ｐ「でも、興味があると訊いても、梅木さんは特段表情も変えなかったし、その目が」

音葉「……目？」

Ｐ「あさってのほうを、向いてた」

Ｐ「というか、興味でもなければ拒絶でもないって、感じで」

　Ｐさんが、なにやらおっしゃっています。

Ｐ「そういう反応をされるとさ、ああ、なんか燃えるものがあるよねえ、なんて」

Ｐ「思ったのですよ」

　燃えるもの、ですか。
　私は特段、この方を燃やすようななにかを持っているとは、思いませんが。

Ｐ「いやいや、なんか偉そうなこと言ってるけどさ。単純にね」

Ｐ「俺が。梅木さんを。アイドルにスカウトしたい。それだけのことなのよ」

　私をスカウト。私をアイドルにしたい、そういうことでしょうか。

音葉「……そうですか」

Ｐ「多少反応があれば儲けもの、だったけどね。梅木さん、ノーリアクションだからねえ」

音葉「……」

　Ｐさんは苦笑します。

Ｐ「ま、それ以外にも、ちょっと気になることがあってね」

Ｐ「……梅木さん、なんか悩みあるんじゃない？」

音葉「えっ……」

　驚きのあまり、声を出してしまいました。
　Ｐさんには、私の悩みがわかるというのでしょうか？

音葉「……なぜ、そのように……」

Ｐ「いやあ、なんというかね。自分じゃよくわかってないんだけど、さ」

Ｐ「先輩の話じゃ、俺は『耳がいい』、そうですよ」

　そう言ってＰさんは笑います。

Ｐ「先輩って、オケの先輩でもあり、今の仕事の先輩でもあるんだけどね」

Ｐ「『お前の耳は大きな武器だ。大事にしろ』って、ね」

　Ｐさんは、ご自分の左耳をトントンと指さしながら、笑顔を見せました。

音葉「……」

Ｐ「で、その耳が梅木さんの歌を拾ったわけで。ああ、いい歌だなあ、と思ったのはホント」

　自分の歌がほめられ、その時の状況が思い起こされ。
　私は、私の顔が赤くなっていくのを感じます。

Ｐ「ただ、さ」

音葉「……はい」

Ｐ「梅木さんの歌に、なんか迷いっていうかなあ、戸惑いみたいなのがあった感じがしてね？」

　驚きました。
　この方は、私の惑いをご存じなのでしょうか？

音葉「……あの……わかるのです、か？」

Ｐ「……残念だけど、梅木さんの心情までわかるって言えば、嘘になる」

Ｐ「でも、俺もこういう仕事で飯食ってるわけで。声を聴けばなんとなしに、その人の心理がわかった気になる」

　Ｐさんは、そう言うと淋しそうに笑います。

Ｐ「職業病、かもね」

　職業病。Ｐさんはそう言います。
　でも。
　声が、その人を映す鏡である、と。そうおっしゃっている、そんな気がするのです。

音葉「……」

　不思議です。
　会ったばかりの時は、あれほど苦手だったはずなのに。
　今は、それほど苦手でもない。

　これは、なんなのでしょう？

Ｐ「……あ、この後約束があるんだ。ごめん」

　あわただしくコーヒーを飲み干します。

Ｐ「勝手にひっぱりまわしたくせにね」

音葉「……いえ」

Ｐ「そうそう！　興味持ったら、そこに電話してくださいな」

Ｐ「……梅木さんの悩みも、訊きたいし、ね」

　まったく、ずるい方です。
　まるで、電話して来いとおっしゃってるようなものです。
　それに。

　心に留め置くものを、残していくなんて。

Ｐ「じゃ、また」

　Ｐさんはあわてて、暑さの残るだろう外へ、飛び出していきました。

音葉「……Ｐ、さん」

　手元に残る名刺。
　ほんと、ずるい方。

　吹き残る風は、コーヒーの残り香がしました。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

　Ｐさんと別れて、私は部屋へと帰ってきました。

音葉「……」

　いつもながら、殺風景なところです。

　リビングには、ぽつんとアップライトピアノが１台。
　あとは、シンプルなカーペットにガラステーブル、ソファー。
　テレビと、ミニコンポ。

　およそ、女の子らしい部屋とは言い難いでしょうか。

　音があれば、いい。
　私は、それがあれば満足です。食事も、睡眠さえも。いらないと思えるくらい。

　たとえそれが街の喧騒でさえ、壮大なオーケストレーションに響くのです。

音葉「……ふぅ」

　私はピアノに向かい、テーブルに広げられたピアノピースを立て掛けます。

L.V.Beethoven　-　Piano　Sonata　No.8　C-Minor　"Pathetique"　Op.13

https://www.youtube.com/watch?v=ly1iTD0zB1Y

　ベートーヴェンの大ソナタ「悲愴」、その第二楽章。
　学内コンクールの予選曲。

　一応暗譜はしているものの、自分自身と向き合うため、譜面を確認しながら弾いてみます。

　アダージョ・カンタービレ。
　決して重くならないよう、音に表情を付けます。

音葉「……」

　８小節。
　アゴーギグは、控え目に。

　母が、小さいころ聴かせてくれた曲です。
　ベートーヴェンのソナタの中でも、好きな曲の一つ。

　弾くたびに、母に演奏をせがんだ自分を、思い出します。
　でも母は、私のわがままに付き合うことはありませんでした。

母「音葉は、音葉の好きなように感じてほしいの。おかあさんの音に惑わされちゃ、だめ」

　たぶん、母の優しさだと思うのです。
　でも、私はどうしても、母の音を追いかけてしまいます。

　３７小節。
　その前の弱起はいやらしくなく。３連符の粒をきれいに。

　ピアノ曲で言えば優しい部類のこれも、表情ひとつでとても印象が変わります。

　徐々にクレッシェンド。
　……手が止まります。

音葉「……これじゃない」

　As-DurからGis-Mollの変化。
　母の演奏は、もっと心臓をつかまれるような切なさが、ありました。

　最初から繰り返します。

音葉「……違う」

　また最初から。
　違う。
　最初から。
　違う……

　母の音に、出会えません。

　大学の先生は褒めてくださいます。でも、なにか違うのです。
　私は、今の私の音を認められません。

　今日も徒労に終わってしまいました。

音葉「……私の……音」

　追いかけても仕方のないことだと、頭では理解しているつもりです。
　でも、私の耳が、心が。
　それをよしとしません。

『……梅木さん、なんか悩みあるんじゃない？』

　Ｐさんの言葉が、よみがえります。

音葉「……想いが……混ざった？」

　私の惑いが、声に載ってしまったのでしょうか。
　そしてＰさんは、それを拾い上げてくださった。

　気になる、方です。
　Ｐさん。どういう方なのでしょう？

『そうそう！　興味持ったら、そこに電話してくださいな』

　ふと、投げ出されたかばんが目に留まります。

音葉「……名刺」

　私はかばんのポケットにしまった、Ｐさんの名刺を取り出します。
　そして、携帯電話を……

音葉「……いえ」

　携帯は、テーブルに置きます。
　もう外は夜。電話をする時間ではありません。
　それに。

音葉「……アイ……ドル」

　あの方のおっしゃった、アイドルというものには興味がありません。

音葉「……」

　名刺を見て、思います。
　でも。

音葉「……Ｐ、さん」

　興味が、あります……

　思い悩んでも仕方ありません。
　私は、シャワーを浴び寝る支度を整えます。

　そして今日の出来事を思いながら、ベッドへともぐりました。
　Ｐさんの名刺を、枕元に添えて……



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

※　とりあえずここまで　※

リスタートとなりますが、ゆっくりとお付き合いください
お読みいただき、ありがとうございます　ﾉｼ

投下します

↓　↓　↓

？？『はい。ＣＧプロ千川でございます』

音葉「……もしもし」

　翌日。
　授業と練習が終わった私は、Ｐさんの名刺に書かれた番号に電話をしました。

音葉「……」

　知らない女性が出ました。
　困りました。どうしましょう。

千川『事務所の者にご用でしょうか？』

音葉「……」

　なんと話せばよいのか。見当がつきません。

千川『担当のお名前を、お教えいただけますか？』

音葉「……あ」

　優しげに話すその女性に促されて、私はあの方を呼びます。

音葉「……Ｐ、さんを」

千川『Ｐ、でございますか？……ただいま他の電話の応対中ですが……』

音葉「……そう……ですか」

　なんとタイミングの悪いことでしょう。
　ひょっとして、なにかご縁がある方かと思ったのですが。

千川『あ！　ただいま手が空きましたので、Ｐと替わります。お待ちください』

　そうあきらめかけたとたん、Ｐさんとつながります。

Ｐ『お待たせしました。Ｐでございます』

音葉「……あ」

　昨日初めて会っただけなのに、なぜかこの方の声を聞くと安心します。
　なぜなのでしょう。

音葉「……音葉……です」

Ｐ『ああ！　梅木さん！　電話待ってたよ』

Ｐ『昨日の今日だけどさ。なんか待ちきれなくなってね！』

　そう言ってＰさんは笑います。

音葉「……あ、あの」

Ｐ『あ！　ごめんごめん！　またひとりでしゃべって』

音葉「……」

　このテンションの高さは、まだ抵抗があります。

Ｐ『で、昨日の件。考えてくれたかな』

音葉「……いえ……あの」

Ｐ『ん？』

音葉「……悩み……訊いていただきたい……かな、と」

Ｐ『……いいよ』

　先ほどとは違う、優しい声。
　そのように言われたら、甘えてしまいそうになります。

Ｐ『今日は事務所で仕事しないとならないから……そうだなあ』

Ｐ『よかったら梅木さん、事務所においでよ』

音葉「……え？」

　いえ。あの。
　そこはいわゆる、芸能事務所、ですよね？
　興味のないところへお邪魔するのは、いささか勇気がいります。

Ｐ『まあ、興味のないところだろうけどさ。それでも』

Ｐ『俺が梅木さんとゆっくり話をするには、いい場所だから』

　Ｐさんは、私が思っていることをずばりと言い当てます。
　その上で、来てほしいとも。

　Ｐさんとなら。

音葉「……場所……わかりません」

Ｐ『名刺には住所書いてあるけど……そうだなあ』

Ｐ『ちひろさーん！　ちょっとお願いしたいことがあるんですけど！』

　Ｐさんの声で、耳がじんじんします。

Ｐ『えっとね、俺はちょっとここを離れられないから、うちの事務員さんに迎えに行ってもらいます』

Ｐ『○○学園前駅のロータリーは、わかるよね？』

音葉「……はい」

　Ｐさんに来ていただけないのは、なんとなく残念です。
　でも。昨日のもやもやが、晴れるなら。
　私は淡い期待を持って、待ち合わせの約束をします。

　そしてしばらく。
　先ほどの約束どおり、駅のロータリーで待ち合わせをします。

音葉「……ん」

　携帯の時刻は、待ち合わせの１０分前。
　このくらいなら、しばらく待っても平気です。

　すると。

？？「梅木、音葉さん、ですか？」

音葉「……はい」

　私の目の前には、緑の服を着たかわいらしい女性が立っています。

ちひろ「ＣＧプロの千川ちひろです。音葉さんを、迎えに来ましたよ？」

　そう言って、ちひろさんは優しく微笑みました。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

ちひろ「……Ｐさんったら、ほんと、人使い荒いですよねえ」

音葉「……そう、ですね」

　事務所へ向かう車の中。
　ちひろさんは、私が飽きないようにするためか、よく話しかけてくれます。
　それはありがたいことなんですが……

　誰かと会話するのは、ちょっと苦手です。

ちひろ「でも。なんでまたＰさん、そんなところいたんでしょうね？」

音葉「……え？」

ちひろ「昨日はＰさん、お休みの日だったんですよ？」

音葉「……そう、ですか」

　あの日。コーヒーショップで。
　Ｐさんは「この後約束がある」と言っていた気がします。
　せっかくのお休みの日で。会う約束もあったというのに。

　なにか、Ｐさんに申し訳ない気持ちになってきました。

ちひろ「でも、気にしちゃだめですよ？」

ちひろ「Ｐさんが、そりゃあもううきうきしながら、待ってるんです」

ちひろ「なーんか、久々におかしくなっちゃって」

　ちひろさんは、くすくすと笑います。

ちひろ「私も、どんな女の子なのかなあって、来る途中期待しちゃいました」

音葉「……」

　Ｐさんは、どんな姿で私を待っているというのでしょう？
　私自身のことではないというのに、なぜか恥ずかしくなってきました。

ちひろ「でも、Ｐさんがうきうきなのも、ちょっとわかるかなあ……」

ちひろ「そりゃあ、こんなかわいい子待ってるんなら、ねえ」

　私が？　かわいらしい？
　……その感覚は、よくわかりません。

　こんなふうに、あまりおしゃべりするのも苦手で。
　どことなく無愛想で。

　どこがかわいいと、言えるんでしょう。

音葉「……」

　なにか、沈んだり恥ずかしがったり、気持ちが忙しく動きます。

ちひろ「さ。もうすぐ着きますよ」

　どこをどう通ったかわからないまま、私は賑やかなビル街へやってきます。
　そして、ちひろさんはあるビルを指さして。

ちひろ「あそこが、うちの事務所です」

　それは、ビルの谷間に挟まれてはいるけど、とても真新しく見える建物でした。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

Ｐ「梅木さん。待ってたよ！」

　事務所に案内されてすぐ、Ｐさんが笑顔を向けます。

音葉「……あ……はい」

　やっぱり、このテンションは苦手です。

ちひろ「Ｐさん……音葉さんおびえちゃってるじゃないですか。まったく」

　そう言ってちひろさんは、Ｐさんのおでこをつつきました。

Ｐ「いたっ！！」

ちひろ「痛がるほど強くありませんよ。大げさなんだから」

ちひろ「じゃあ音葉さん、応接室に案内しますね。こちらですよ」

　私はちひろさんに案内されて、応接室へ通されます。後ろから、Ｐさんも。

Ｐ「ちひろさん、俺ソフトドリンクがいい、な……」

　ちひろさんは、Ｐさんの目の前に左手を出し、微笑みます。

Ｐ「……はい？」

ちひろ「……送迎代、いただきますよ？」

　Ｐさんが苦い顔をします。

Ｐ「……いや、それは」

ちひろ「冗談ですよ」

　ちひろさんは手を引っ込めて笑いました。

ちひろ「あんまり、事務員をパシリに使っちゃ、ダメですよ？」

Ｐ「……はい、心得ました」

ちひろ「よろしい」

ちひろ「あ、音葉さんは苦手なものあります？」

音葉「……いえ……おかまいなく」

ちひろ「じゃあ、お任せされますね」

　ちひろさんが応接室を出ます。

音葉「……」

Ｐ「……」

　どうしましょう。
　Ｐさんに訊きたいことがあるのに、言葉が出ません。
　Ｐさんも、穏やかな表情でいるのに、声を発しようとしません。

　沈黙。

音葉「……あ……あの」

Ｐ「ん？」

　こん、こん。
　ドアがノックされます。

Ｐ「どうぞー」

ちひろ「飲み物お持ちしました」

　ちひろさんが飲み物を持って、応接室に戻ってきました。

音葉「……」

　私はなんて、間が悪いんでしょうか。
　そんな私をよそに、Ｐさんは手で、ちひろさんに謝意を伝えます。

ちひろ「ごゆっくりどうぞ」

　ちひろさんは、私に小声でそう伝えてくれました。
　その言葉が。

音葉「……」

　私をこわばらせます。
　そんな私の様子を感じ取ったかのように、Ｐさんが話しかけてくれます。

Ｐ「ま、悩み事なんてさ。なかなか打ち明けたりするの、勇気いるよね」

　Ｐさんはやさしく、笑顔を見せて。

Ｐ「ゆっくりでいいよ。時間はいくらもあるから」

音葉「あ」

　ほんの一言だけど。
　この方は、私が望んでいる言葉を、おっしゃいます。

　暖かな想いが、灯りました。

音葉「……Ｐさんに……聞いてほしいことが……あります」



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

　私は覚悟を決めます。

音葉「……自分の……音が」

Ｐ「音？」

　Ｐさんの問いかけに、こくりとひとつ。

音葉「……わからなく……なって」

　私は、慣れない会話を少しずつ少しずつ。
　詰まりながらも進めます。

　母の音。自分の音。
　自分の望み欲する音に、届かないこと。

　Ｐさんはなにも言わず、うなずきます。

音葉「……それが……これ」

　私はかばんから楽譜を取り出し、テーブルの上に。

Ｐ「……『パセティーク』、かあ」

　やはり、ご存じでした。
　Ｐさんなら、わかっていただける。そんな気はしていました。

Ｐ「……うーん……難しいなあ」

　Ｐさんは、しばらく考えるそぶりをみせます。

Ｐ「梅木さん」

音葉「……はい」

Ｐ「一度、聴かせてもらえるかな？」

　正直、お聞かせできるような演奏になるとは思えません。
　でも、お任せしてみたくも、あります。

　ただ、うなずきます。

Ｐ「このビルにレッスン室があって、そこにピアノも置いてあるから」

Ｐ「そこでお願いしてもいいかな？」

　もうひとつ、こくりと。

Ｐ「じゃあ、場所移動しようか。あ、そうだ」

　Ｐさんは、応接室のドアを開けて、声をかけます。

Ｐ「ちひろさーん。レッスン室空いてる？」

ちひろ「はいはい。えーと……」

ちひろ「ああ、ちょうど今埋まってますねー……でも、もう終わる頃合いですね」

Ｐ「ああ、そうなんだ。じゃあ空き次第で」

？？「おつかれさまでした！　終わりましたわ！」

ちひろ「ああ、ちょうど終わったんですね。おつかれさまです」

　ふと、声がしました。

？？「Ｐ様。レッスン終わりましたわ……あら？」

Ｐ「そっか。おつかれさま」

　その人を見たとき、私はたぶん呆けた表情をしていたと思います。

？？「まあ！　音葉さんではありませんか！」

　私は、この方を存じ上げています。
　涼宮星花さん。
　バイオリンの神童。

音葉「……星花さん」

星花「お久しぶりですわね！」

　場違いな場所で、場違いな出会い。
　私は、ただ驚くばかりでした。

星花「音葉さん、どうしましたの？」

　私はなにも言えず、立ち尽くしています。

Ｐ「……星花、梅木さんと知り合いなのか？」

星花「ええ、わたくしがコンクールに出場したときに、一緒に」

　星花さんは、すごい人です。
　まだ高校生の頃、星花さんは国内のジュニアコンクールだけでなく、国際ジュニアでも上位に入賞していました。
　彼女の音には、鮮やかな色があります。

　私と星花さんは、国内ジュニアでたびたびご一緒することがありました。
　かたやバイオリンの神童。私は、ただのファイナリスト。
　楽器こそ違いますけど、その才能はよく知っているつもりです。

　そんな星花さんが、なぜ芸能事務所に。

Ｐ「そっか。なら、星花にも聴いてもらったほうがいいな」

音葉「！」

　その言葉に、私は硬直します。
　Ｐさんに聴いていただくことは、覚悟をしていますけど。
　彼女に、私の今の音を聴かれるのは。

　裸の自分を見られるみたいで……

星花「まあ！　それは素敵ですわ！　ご一緒してもよろしいのですか？」

Ｐ「いや、俺から逆にお願いしたいくらいだよ」

　緊張が増します。
　いえ。
　もはや、平常でいられない状態です。

音葉「……」

　私は自然と、譜面を持つ手に力がこもってしまいました。
　鼓動も速くなります。

Ｐ「じゃあレッスン室に案内するから。星花も、また戻ることになるけど」

星花「ええ、結構ですわ。さあ、音葉さん！　一緒に参りましょう！」

音葉「……は、はい」

　まさかこんなことになるなんて。
　私の胸は早鐘を打ったまま。
　Ｐさんと星花さんと、私。三人を乗せたエレベーターが、上がっていきます。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

　そこは、大学の練習室に似ていました。
　レッスン室と呼ばれる部屋は、ピアノと椅子、そのほかにいろいろな機械が雑然と置いてあります。

　私はＰさんに促され、ピアノ椅子へ座ります。
　そして、星花さんとＰさんは空いてる椅子へ。

　緊張が止まりません。でも。
　この緊張は、知っています。コンクールの舞台そで、あの時の。
　それなら。

音葉「……」

　私は椅子から立ち上がり、星花さんとＰさんに向かっておじぎをしました。

星花・Ｐ「ぱちぱちぱち……」

　拍手が止み、再び椅子へ。
　さあ、行きましょう。

　柔らかいタッチで、演奏を始めます。
　純粋に音を見つめながら、私の思うままに。
　ゆるやかに、いやらしくなく。私の思うパセティークを表現していきます。

　３７小節。
　ふと、母の音がよぎります。

音葉「……」

　ほんの少しの違和感。でも、演奏を止めることはできません。

星花「……」

Ｐ「……」

　おそらく、ふたりとも気づいたことでしょう。
　それでいいんです。これを聴いていただき、私の迷いを拾い上げてもらえれば。

音葉「……」

　第二楽章を最後まで。やり切りました。
　不安を残しつつ、席を立ちます。
　そして、一礼。

星花・Ｐ「ぱちぱちぱち……」

　おふたりから口に出る言葉が、怖いです。

Ｐ「……すごいな」

星花「音葉さん、さすがですわ」

　おふたりは、まず褒めてくださいました。
　でも、緊張は解けません。

星花「でも」

音葉「！」

　星花さんは、見抜いていました。

星花「音葉さん、なにを迷ってらっしゃいますの？」

音葉「……」

星花「Ｐ様は、どう思われました？」

Ｐ「え？　俺？」

　訊きたい方からの声が、聞けます。
　私はいっそう、力を込めました。

Ｐ「……そうだなあ」

　Ｐさんは思案顔です。

Ｐ「……すごい、と、思う。ちょっとうまく言えないんだけどさ。ただ」

Ｐ「梅木さん、つらいのかなって、そんな気がした」

　つらい、ですか。なるほど音は、正直ですね。
　言葉にしなくても、伝わるものがあるのですから。

音葉「……そう、ですか」

Ｐ「いやいや。誤解しないでほしいんだけど」

Ｐ「それって、この曲に限って言えば、それもいいんじゃないかなって」

音葉「……え？」

　星花さんが、首をかしげながらＰさんの顔をうかがいます。

Ｐ「いや、ほら。パセティークって、ベートーヴェンが耳が聞こえなくなるころの曲じゃなかったかな」

Ｐ「本人の苦悩が色濃く出てる曲なら、こういうのもありだと」

　……ああ、そういえば。
　この曲には深い悲しみと、なにかに抗おうとする苦悩に満ちています。

　悩んでいい、と。そのままでいい、と。
　Ｐさんはおっしゃいます。

　ほんの気休めかもしれません。でも。
　私は少しだけ、肩が軽くなりました。

音葉「……ありがとう、ございます」

　Ｐさんは首を横に振ります。

音葉「……でも」

音葉「……つらいものは……つらい、です」

　少しの沈黙が、あたりを支配します。
　ところが。

星花「そうですわ！」

　そう言って、星花さんは手を打ちました。

星花「音葉さん。よろしければ、わたくしと一緒に、演奏していただけませんこと？」

音葉「……一緒に、ですか？」

星花「ぜひお願いしますわ。ああ、待ちきれません……」

　星花さんは小走りに、ドアへ向かうと。

星花「すぐに戻りますわ！　よろしいこと？」

　そう言って、レッスン室を飛び出しました。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

星花「お待たせいたしました！」

　星花さんは、息を弾ませて戻ってきました。

ちひろ「……あ、あの。私も、いいんですか？」

　なぜか、ちひろさんも一緒です。

星花「ええ、せっかくのサロンコンサートですもの。ぜひ楽しんでいただきたいですわ」

Ｐ「ちひろさん、事務所大丈夫です？」

ちひろ「まあ、ちょっとくらい、なら？」

　ちひろさんは苦笑いをうかべました。

星花「音葉さん、これをお願いしたいのですが」

音葉「……これ、ですか」

　星花さんが楽譜を手渡してくれます。
　それは、定番中の定番でした。

星花「やれますわね？」

音葉「……」

　その言葉にひとつ、うなづきます。

　譜面をセットし、ピアノへ。
　星花さんは側に立ちます。

星花「音葉さん。音、くださいませんか？」

　私はＡ（アー）の音を出しました。
　星花さんは手際よく、チューニングを整えます。
　そして、目配せをひとつ。

　準備ができました。お互いに目線を合わせ。
　そして同時のブレスが、開演の合図――

F.Kreisler　-　Liebesfreud

https://www.youtube.com/watch?v=6fRQYT7xIkE

　マルカートに。
　星花さんは大仰に、ボウイングを魅せます。
　デュナーミクもアゴーギグも大きく、派手なアクション。

　それは。
　私の知っている星花さんとは、違います。
　ステージで演技を魅せるような、そんな華やかさ。

　３２小節。ピゥ・レント。
　星花さんはグラツィオーソを、全身を使って表現します。
　以前のような楚々とした美しい、お嬢様然とした演奏ではありません。

　野性的。そう。
　感性だけを音に乗せて、すべてを鮮やかに塗りつくそうとする感じです。

ちひろ「……わぁ」

　ちひろさんが呆然とした表情をしています。

　すごい。すごい！
　すごい！！

　私も星花さんに引きずられるように、演奏に集中します。
　テンポもデュナーミクも大波のように、揺れ動いているというのに。
　私の手は、波にたゆたうこともなく、抗うこともなく。むしろ、波と一体になろうとしています。

　８２小節。
　C-DurからF-Durへテンポをやや落とし、星花さんは喜びを表現します。
　うん、流れるように。ゆったりと。

　１１４小節。
　星花さんの思うところが、私にもはっきりわかります。
　そう。ここは愛をささやいて。
　そっと柔らかくスタカートを刻み、星花さんと私の音のダンスを見せます。

　楽しい？
　楽しい！

　そしてまた流れるように。
　再びC-Durへ。

　私は、どう表現するとか、星花さんにどう合わせるとか、そういう思考を消してしまいました。
　楽しい、きれい……

　音の愛に、包まれています。

Ｐ・ちひろ「ぱちぱちぱち……」

　気が付けば、曲を弾き終わっていました。
　なんでしょう。放心というか、恍惚？
　満たされた気持ちです。

　星花さんはにっこりとほほ笑み、私に握手を求めてきました。
　私も、それに応えます。

星花「音葉さんありがとうございます。楽しかったですわ」

音葉「……はい」

　手のぬくもりが、心地いいです。

星花「音葉さんも、楽しんでいただけました？」

　私は、大きくうなずきます。
　ほんの数分の曲ですけど、この多幸感。
　私はこれを知っているはず、でした。

　音が見えるのに、見えない。
　なにかに縛られていたのです。それは例えば、母の音でした。

　いつから、楽しめなくなっていたのでしょう？

Ｐ「……楽しかった？」

　いつの間にか、Ｐさんとちひろさんがそばに来ていました。

音葉「……はい」

Ｐ「なら、よかった」

　Ｐさんは笑います。

　まだ、自分の心に定着していない気はします、けど。
　つらければつらいなりに。楽しければ楽しいなりに。
　ありのままで、いいんだ。

　そう、おふたりから教わりました。
　星花さんと、Ｐさん。感謝します。

ちひろ「音葉さん、せっかくですからうちの事務所、見学していきませんか？」

音葉「……見学、ですか？」

ちひろ「ええ」

　でも、あまり長くお邪魔するのも、気が引けます。
　そろそろおいとまするのが……

星花「音葉さん！」

音葉「……え？」

星花「わたくしと一緒に、アイドルになりませんこと？」

音葉「……は？」

星花「音葉さんと一緒に演じることができて、こんな僥倖、ほかにありませんわ！」

星花「これはわたくしとアイドルを目指せというお導きですわ。ええ、きっとそうですわ！」

音葉「……」

　……あ、あの。
　星花さんは興奮しています。Ｐさんはというと。

Ｐ「……ぷっ」

　笑いをこらえていました。

　Ｐさん、星花さんと出会って、自分の中になにかがすとんと落ちたのは確かですけど。
　でも、アイドルなんて。

星花「Ｐ様！　わたくしからもぜひお願いいたしますわ！　音葉さんをアイドルに！」

　星花さんの想いは、あふれるばかりです。
　Ｐさんは笑いをこらえきれず。ちひろさんは笑みを浮かべたまま。

　私は、どうすればいいのでしょう？



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

※　とりあえずここまで　※

お読みいただき、ありがとうございます　ﾉｼ

投下します

↓　↓　↓

星花「久々に参りましたわ！　北海道！」

音葉「……」

Ｐ「……まあ観光とかは、後回しな」

星花「ええ、わかってますわ」

　Ｐさんや星花さんと出会って２か月。
　私は、実家へ顔を出すことになりました。

　この２か月、私は星花さんの猛攻撃を受けた気がします。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

星花「音葉さん！　こちらにいらしたのですね？」

　まさか、キャンパスにまで来るなんて。
　このバイタリティは、正直うらやましいです。
　そうやって、星花さんは私と一緒にいることが増えてきました。

　そして、なぜかＣＧプロの事務所にいることも多くなりました。
　私は、アイドルではないのに。契約すらしていません。
　でも、Ｐさんやちひろさんの顔を見ると、落ち着くのはなぜでしょうか。

Ｐ「今日は、星花のレッスンを見学してみるといいよ」

音葉「……え？」

　部外者が、見学をしていいものなのでしょうか。
　とはいえお断りすれば、星花さんが無理にでも連れて行くのでしょう。おそらく。

星花「今日はダンスレッスンですわね。さ、音葉さん。参りましょう」

　そんなふうに、ダンスやビジュアルレッスンを見学し。
　その中でいきいきと活動している星花さんを見るにつけ。
　私の中で、アイドルというものの違和感が少しずつほぐれてきたような、そんな気がするのでした。

音葉「……星花さん」

星花「どうしましたの？」

　ひと月ほど経ったある日。
　私は、星花さんに尋ねてみました。

音葉「……なぜ、アイドルに？」

星花「……そうですわね」

　星花さんは小首をかしげ、しばし考えにふけります。

星花「アプローズ、でしょうか」

音葉「……アプローズ？」

星花「ええ、わたくし、はじめてでしたの」

　なにかを思い出すように、ゆっくりと。

星花「最初はただ、Ｐ様に見いだされたまま、新しい世界に没入するわたくし自身が、新鮮でしたの」

星花「でも、ファンの方々と交流があって、わたくしの声、あるいは動き」

星花「そのひとつひとつに惜しみない賛辞をいただける、それに感動して」

星花「ああ、わたくしだけでなく、ともに歩んでくれるファンの方々と、どこまでも歩んでゆきたいと」

音葉「……」

星花「それが、今わたくしが続けている、理由ですわ」

　星花さんは、私をまっすぐに見つめます。

音葉「……あの、私にも」

星花「はい」

音葉「……知ることが……できるでしょうか」

星花「ええ！　もちろん！」

　星花さんは断言します。

星花「わたくしの相方を奏でるのではなく。わたくし自身の声。わたくし自身のすべて」

星花「ありのままのわたくしに、感動していただけるのです！　とても得がたいものだと、思いますわ」

音葉「……声」

　私はいつも、母の音、父の音を気にし過ぎていたのかもしれません。
　私自身の声。私自身の歌。
　母に教わることもなく、父の耳に従うこともなく。ただ私だけの、声で。

　誰かを、感動させられるのでしょうか？

音葉「……星花さん」

星花「はい」

　星花さんの言葉をかみしめます。
　そして。

音葉「……Ｐさんに……話したいことが、あります」

星花「……お決めになりました？」

　その言葉に、ひとつうなずきます。
　そして、星花さんはにこりと、微笑みました。

星花「それは、よかったですわ」

　決めました。ようやく。
　私は星花さんとふたり、Ｐさんのいる事務所へ向かったのです。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

Ｐ「お？　星花と、梅木さん、か。どうしたの？」

　私たちふたりは、さっそくＰさんのもとへ伺います。

音葉「……えっと……お話、が」

Ｐ「話？」

　私は、こくりとうなずきます。
　横では星花さんが、にこにこと笑みを浮かべています。

Ｐ「そっか。いいよ。うかがいましょう？」

　Ｐさんは、私たちを応接室へ案内しました。

Ｐ「で、どんな話かな？」

　Ｐさんの表情は穏やかです。
　なんとなく、私がこれから言うことをわかっている。そんな気がします。

音葉「……私……アイドルに、なってみたい、か……と」

　つっかえながらも、なんとか私の意思を伝えます。
　星花さんはなにも言わず、ただ隣にいます。

Ｐ「そう。どうして？」

　以前の私は、興味がないと。その一言で片づけていました。
　でも、星花さんのレッスンを見て。Ｐさんの仕事を見て。
　そして。

『誰かを、感動させること』

　その想いが生まれてきて。

音葉「……私は……この声で……伝えたい」

　私が、ただひたすらに歌うこと。それは、私自身が周りの音とハーモニーを奏でること。
　でも。
　私の声が、他の方のこころに、新たなハーモニーを奏でられるとしたら。

音葉「……新しい……調和を」

　Ｐさんは私の眼を見つめ、そして私の手を取ります。

Ｐ「……ありがとう。待ってた」

　そう、Ｐさんは言いました。

Ｐ「こちらこそ、よろしく。うん」

Ｐ「梅木さんをトップアイドルに、させてください」

　固く手を握り、Ｐさんは言います。

音葉「……あの」

Ｐ「ん？」

音葉「……できれば……名前、で」

　私はＰさんに、そうお願いしました。

星花「そうですわ。わたくしと同い歳ですもの。音葉さんだけ苗字は、いささか堅苦しくありませんこと？」

Ｐ「ああ。それもそうだな」

Ｐ「じゃあ、『音葉』」

音葉「……は、はい」

Ｐ「これから、よろしく」

　いきなり、呼び捨てにされてしまいました。
　でも、違和感を感じることなく、むしろ心地よい響きです。

　気持ちの変化、でしょうか。

音葉「……ただ」

Ｐ「ん？」

星花「はい？」

音葉「……大学、が」

Ｐ「……ああ」

星花「……そうですわね」

　キャンパスに通いながらここでレッスンを受けられるほど、大学は甘くない気がするのです。
　確かに、授業やレッスンがなくても私たちは練習に明け暮れ、アルバイトの時間も取れない方だって少なくありません。

　私は幸い、実家から十分な生活費をいただいています。
　キャンパスにほど近い、マンションの家賃。
　普通に生活できる程度の食費や諸費用。
　練習やレッスンに必要な教材費。

　今の私は、現実問題として自立した生活ではありません。
　なにをするにしても、父や母に伺いを立てなければ。

Ｐ「……まあ、気安く遊びにくるような感じには、いかないわなあ」

　Ｐさんは椅子の背にもたれつつ、ため息をつきます。

Ｐ「ま、そのあたりは俺たちスタッフが考えることでさ。音葉は心配しなくていいよ」

音葉「……そう、ですか？」

　なにか私がわがままを言っているようで、心苦しくなります。

Ｐ「それをなんとかするのが、俺たちの仕事だから」

　Ｐさんはそう言ってくれますけど。
　それでも。

星花「音葉さん？　大丈夫ですわ」

　星花さんが私の肩に手をかけ、そう言います。

星花「だってＰ様が『なんとかする』とおっしゃるのですから。そして」

星花「Ｐ様は、絶対なんとかなさいますし」

　そう言い切り、にっこりと笑いました。

　これが、信頼なのでしょうか。
　星花さんとＰさんの絆が、うらやましくもあります。

　いずれにせよ、父や母に話をしなければ、なにも始まりません。
　私は、いまだ慣れぬ覚悟を、胸に秘めるのでした。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

？？「……どうぞ」

　テーブルに、ことりという音。

音葉「……」

星花「……」

Ｐ「……」

音葉「……○○さん。ありがとう」

　家政婦さんが、お茶を出してくれました。
　そして、すぐにドアを閉めます。

音葉「……ふぅ」

　緊張が走る、三人。
　それは至極当然のことです。

　実家へどう言えばいいのか。
　逡巡する私を、Ｐさんはせかすことも励ますこともなく、ただ待ってくれました。
　私の気持ちが落ち着くまで。そこに行きつくまで、さらに１ヶ月の時間が必要でした。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

音葉「……お父さん」

　私は意を決して、電話をしました。

音葉父『音葉か？』

音葉「……」

音葉父『どうした？　いろいろ大変じゃないか？』

音葉「……ん」

　父は、音楽に関しては厳格な人です。
　普段は温厚でやさしい父ですけど、音楽だけは、頑として譲らない部分があります。
　そしてそんな音楽家としての父は、とても怖い存在です。

　ですから。

音葉父『……学内予選、辞退したんだな』

音葉「……ん」

　おそらく、父の知り合いから聞いたのでしょう。
　そして、音楽家として何かがあったのだと、そう察したのでしょう。

　そういう聡いところも、苦手です。

音葉父『まあ、そういうのを選んだのも、ひとつの選択だ』

音葉「……」

音葉父『自分を押し殺すくらいなら、そのくらいでいい』

　これから伝えることを思い、私は息苦しくなります。

音葉「……あの」

音葉父『ん？』

音葉「……お父さんに、話すことが……あるの」

　深呼吸をひとつ。

音葉「……私……歌いたい」

音葉父『……歌？』

音葉「……うん」

　返事は、先ほどよりしっかりと。
　その想いは。

　確かなものだから。

音葉父『……声楽へ、転科したいのか？』

音葉「……ううん……ん……えっと……なんて言うか」

　次の言葉が出てきません。困ってしまいました。
　確かなものであるはず、なのに。
　いざという時に、言葉が止まってしまいます。
　そばでは、Ｐさんが「俺に代われ」と目線で合図しています。

　あの。

　どうしたらいいかわからない私から、Ｐさんは受話器を奪いました。

Ｐ「初めまして。梅木音葉さんをスカウトしました、ＣＧプロのＰと申します」

音葉父『……スカウト？』

　かろうじて、父のその声まで聞こえました。
　でもそこからは、Ｐさんと父の会話。私には、状況がよくわかりません。

Ｐ「弊社をご存知でしたか。いえ。大変恐縮です。ありがとうございます」

Ｐ「……ぶしつけで大変申し訳ございません。いきさつをお話しさせていただきます」

音葉「……」

　Ｐさんは、私と出会ったことから今までのことを、詳細はぼかしながらも丁寧に、父に伝えます。
　ときに電話口で謝りながら、ゆっくりと。

Ｐ「わたくし共としましては、ぜひ音葉さんと仕事をさせていただきたいと、そう願っております」

音葉「……」

　Ｐさんの横顔は、真剣そのものです。
　あの喫茶店で、ふと垣間見た。あの顔。

　なにかが私を突き上げる、そんな感覚にとらわれます。

Ｐ「電話口でお話しさせていただくのも、お時間を取らせてしまいますので」

Ｐ「梅木さんのご都合のよろしいとき、ぜひお伺いしたいと思うのですが。もちろん音葉さんにも」

Ｐ「はい……はい……そうですね。承知しました。では、音葉さんに代わります」

　Ｐさんは私に受話器を預けます。

音葉「……もしもし」

音葉父『……音葉』

音葉「……ん」

音葉父『……音葉の言いたいことは、なんとなくわかった』

音葉「……うん」

音葉父『よりによって、アイドル、か。お父さんも正直、いろいろ混乱してる』

音葉「……ごめん、なさい」

音葉父『いや、いい。ただ』

音葉「……」

音葉父『こういうことは、電話で済ますことじゃない。わかるな？』

音葉「……はい」

音葉父『とにかく一度帰ってきなさい。話はそれからだ』

音葉父『ＣＧプロの人も、一緒にな』

音葉「……わかりました」

音葉父『音葉、Ｐさんと代わりなさい』

　私はＰさんに、受話器を返します。
　Ｐさんはそれを受け取り、父と話の続きを始めました。

　実家へ帰省するスケジュールが、決まっていきます。
　でも、それは。
　私にとって、きっと大きな転換となる帰省、なのでしょう。

　Ｐさんと父はその後、幾度かのやり取りをしたようです。
　そしていよいよ。その時が来て。

Ｐ「……ん。うまい」

星花「……そうですわね」

音葉「……」

　リビングでお茶を口に含む、Ｐさんと星花さん。
　いつもの光景、いつもの雰囲気。そんな二人を見て。
　私もようやく、一息つきます。

　がちゃり。

　弛緩した雰囲気を再び、緊張へと導きます。

音葉父「遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました」

　Ｐさんと星花さんが、立ち上がります。
　つられて、私も。

Ｐ「いえ。こちらこそお忙しい中、お時間をいただき感謝いたします」

　Ｐさんが、深々とおじぎをしました。

音葉父「……音葉も。おかえり」

音葉「……ただいま」

　長い一日に、なりそうです。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

　父に促され、私たちはまたソファーに腰かけます。

音葉父「さて。Ｐさん」

Ｐ「はい」

音葉父「なぜ、アイドルなのかね？」

Ｐ「それが、私の仕事だからです」

　なぜ、アイドルなのか。
　父は、なぜスカウトしたのか、ではなく、アイドルなのかと訊きます。
　Ｐさんは、そんな父の言葉に即答しました。

音葉父「仕事とおっしゃるが、アイドルというものが子の親にとって、あまりよい感情を持てないものだと」

音葉父「そう感じる親御さんもいるだろうと、考えたりしないのかね？」

Ｐ「重々承知しておりますし、そのような親御さんも多いのは事実です」

Ｐ「こうして話し合いの場を設けていただき、大変感謝しております」

　Ｐさんは頭を下げます。

Ｐ「梅木さんは特に、私たち業界の事情をご存じのところも、多かろうと思います」

Ｐ「それでも。伏してお願いいたします」

Ｐ「音葉さんと、一緒に。仕事をさせてください」

　頭を下げたまま、でもはっきりと。Ｐさんは言いました。

音葉父「……別に、あなたを困らせたくて、こんなこと言ってるわけじゃない」

音葉父「私も立場は違うとはいえ、一応音楽を生業にしているわけだし、あなたの事情も多少は理解できる」

音葉父「ただ、そうは言っても。私は音楽家である以前に、音葉の父なんですよ」

　頭を下げたままにＰさんに、父は語ります。

音葉父「娘が、一時の興味にさらされる人形に、なってほしくない気持ちがあるのでね」

Ｐ「……」

音葉父「平穏で普通の生活をさせてあげたい、そういう親心はおかしいですかね？」

Ｐ「……いえ。当然のお気持ちかと」

　Ｐさんは、顔をあげました。

音葉父「私も業界の人間で、あなたも、そうだ。だからこそ、なおさら普通の人生をと、思うことがある」

音葉父「自分がこうであるから、娘には違った人生があっていいと。そう思わないかね？」

Ｐ「……なるほど」

　父の言葉に、Ｐさんは思案顔です。

Ｐ「私はご覧の通り若輩者で、人生経験も浅いです。梅木さんの想いに触れることは、難しいでしょう」

Ｐ「ただこれまでの経験で、親御さんが娘さんを心配なさる気持ちに、多く触れてきました」

Ｐ「こちらにおります、涼宮星花のご両親にも、同じようなことを言われました」

　そう言ってＰさんは、星花さんを紹介します。
　星花さんはなにも言わず、Ｐさんの顔をうかがってから、父に向けて笑みを浮かべます。

音葉父「ああ、涼宮さんのことなら大変よく存じ上げてますよ」

音葉父「○○オケでは、大変お世話になってる」

星花「ええ、梅木様。ご無沙汰しております」

　改めて、星花さんが一礼を。

星花「父と懇意にしていただき、感謝いたします」

　ここに来るまで、私は知りませんでした。
　星花さんのお父さんは、地元プロオーケストラのパトロン。
　そして私の父は、そこの常任指揮者。いずれは音楽監督もと、言われているそうです。

　そういったつながりがあって、星花さんと父は多少は知った関係なのだとか。
　もっとも星花さんのお父さんがなにかにつけ、星花さんの活動をうちの父に話しているだけだそうですが。

音葉父「いやいや、星花さんのご活躍、父上から伺っておりますよ」

星花「ありがとうございます」

音葉父「それと。アイドル活動に反対されておられた時のことも」

　星花さんは、思うところがあるのか。

星花「……そうですわね」

　そう間をおいて、返事をしました。

星花「涼宮の名は、重い。それはわたくしも、重々承知しておりますわ」

星花「それゆえ、父も簡単に赦すことなど、できなかったのでしょう……」

　重苦しい時が、流れます。

音葉父「……親というのは、そういうものなのですよ。星花さん」

　父は、そう言いました。

音葉父「娘にはせめて、平穏な普通の人生を」

星花「……わたくし、お父様もお母様も、大好きですわ」

星花「ですから、わたくしはわたくし自身で、こうありたかったのです」

　星花さんはなにかを思い、目を伏せます。

星花「大好きな父や母に育てられたから、わたくしはこうして」

星花「ひとりで、立っていられるのですわ。梅木様？」

　そしてまた父を見つめ、そう言うのでした。

音葉父「……すばらしいご両親ですな」

星花「ええ。いくら感謝しても足りないくらいですわ」

　それは、たぶんこういうことでしょう。
　星花さんは、自分のアイドル活動を認め、応援してくれるご両親に感謝しています、と。
　あなたは、どうですか？　と。

　問いかけと圧力と。
　星花さんは、星花さん自身の行いをもって、父を説得してくれてます。

音葉父「しかし、それはそれ」

音葉父「音葉自身がどう思っているのか。私は、それが一番知りたいのですよ」

星花「……当然ですわね」

　星花さんは、私に目配せをします。
　ここからは、私自身でどうにかしてみせなさい、と。

　怖い。でも。

　私は顔をあげます。

音葉父「音葉」

音葉「……はい」

　……逃げません。

音葉父「なぜ。アイドルでなくてはならないのかね？」

　そう決めて、ここに来たのですから。

音葉「……それは」

音葉父「……」

　……逃げない。決めたのだから。

音葉「……正直、アイドルは……わからない」

音葉父「わからない？」

音葉「……ん」

音葉父「わからないのに、アイドル、なのか？」

音葉父「それでは、私を説得することにはならんだろう？」

音葉「……アイドルって、言えるほど……活動、知らない」

音葉「……でも」

　父の顔を見つめます。
　とまどいをみせながらも、真剣な父。その気持ちに報いたい。
　気持ちが、昂ぶります。

音葉「……Ｐさんの言葉を、信じてる……星花さんの気持ちを、信じてる」

音葉「……私は、このふたりを……信じてる」

音葉「……だから、アイドルが……向いていると、言うなら」

音葉父「……」

　その、一言を。

音葉「……私は、アイドルを……やりたい」

　言葉が、声が。生まれてゆきます。
　あふれてきます。

　お願い。わかって。感じて、と。

音葉「……私の声で……歌で……誰かを、惹きつけられるなら」

音葉「……このままの、私で……誰かを、喜ばせられるなら」

音葉父「……」

音葉「……私は……そう、ありたい」

音葉父「……音葉」

音葉「……お願い……します」

　私は父に、頭を下げます。

音葉「……」

音葉父「……そうか」

　父の声は静かに、私の耳に響きます。
　私は再び、父の顔を見つめます。

音葉父「音葉の気持ちが強いことは、わかった。だが」

音葉父「やはり、今の言葉だけでは、認めるわけにいかない」

音葉「！」

音葉父「ここに音葉が来るまで、Ｐさんともいろんな話をした。もちろん、星花さんのことも知っている」

音葉父「今まで私やお母さんに、あまりお願いをしなかった音葉が、こうして強くお願いをしている」

音葉父「そのことだけでも、お父さんは驚きだ」

音葉「……おとう、さん」

　父の目は、私をいとおしく見つめているように、感じます。
　でも、それは。

音葉父「だが、お父さんは音楽を仕事にしている。ほかの親御さんより、おそらくアイドルの業界の厳しさを理解しているかもしれない」

　ほんの瞬きでした。

音葉父「気持ちだけでは、どうにもならないことも多い。それも知っているつもりだ」

音葉父「だから、よし、と。そういう理解のある親には、なれそうにない……」

　父は、とまどいをまだ持っていました。
　ダメなのでしょうか。

　私の気持ちをわかった上で、それでもなお。

Ｐ「梅木さん。ご安心できない気持ちはおありでしょうが、それでも」

Ｐ「伏して、お願いします。どうか！」

　Ｐさんが、父に頭を下げます。

星花「わたくしからも、どうか！」

　そして、星花さんも。

星花「音葉さんと競演することが、わたくしの願いなのです」

　Ｐさんと並び、頭を下げるのでした。
　その姿を目の当たりにして、私はさらに、願いをぶつけます。

音葉「……お父さん！　……お願い……だから」

　沈黙。
　こちこちと、秒針の音だけが、響きます。

　かさり。
　しばらくして、父がソファーから立つ音がしました。

音葉父「Ｐさん、星花さん。どうぞ顔を上げてください」

音葉父「おふたりのお気持ちは、ありがたく頂戴しました」

　その言葉に促され、Ｐさんと星花さんは顔を上げます。
　そして、私も。

音葉父「なあ、音葉」

音葉「……はい」

音葉父「お父さんから、課題だ」

音葉「？」

音葉父「お前も音楽家の娘なら、お父さんを音で、説得してみなさい」

音葉父「……やれるか？」

　選択肢は、ひとつ。
　やる、しかありません。

音葉「……はい」

　私は軽く目を伏せ、一息つくと、気持ちを奮い立たせます。

音葉「……じゃあ……練習部屋、で」

　父はその言葉にうなづき、先にリビングを出ました。
　私は、Ｐさんと星花さんに表情を向け、言います。

音葉「……がんばる、から」

　ふたりの表情に灯りがともります。
　そして私たち三人は、父を追いかけて練習部屋へ向かいました。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

音葉「……おとう、さん」

　父は、そこに座っていました。

　窓から見える庭。
　姿勢を確認するための姿見。
　部屋の中心に置いてある、スタインウェイ。

　私のよく知っている、父と母の練習部屋です。

音葉父「……」

　私たち三人が部屋に入ったのを確認すると、父は椅子から立ち上がりました。

音葉父「……音葉。お父さんにどんな音を聴かせてくれるか、楽しみにしているよ」

　父はそういうと、Ｐさんと星花さんを椅子へ招きます。
　Ｐさんは軽くうなずき、星花さんとともに腰を下ろしました。

　私は母のピアノに手を置き、ふたを開けました。

音葉父「ピアノ、ということでいいのか？」

　その問いかけに首肯します。

　私の中で、曲は決まっていました。
　それは、とても大好きな曲。父と母と、共にあった曲。
　目を伏せれば譜面の一音一音と、そこに書きこまれた落書きもすべて、思い起こすことができます。

　気負いは、ありません。
　私は三人の観客に一礼し、椅子へ腰を掛けました。
　そして。

W.A.Mozart　-　Piano　Sonata　No.5　G-Major　KV283

https://www.youtube.com/watch?v=eegDWPtk37c

――この旅で、ボクは２つの成功を収めました。ひとつはご存じの通り「偽の女庭師」の成功。
　そしてもうひとつはデュルニッツ男爵のために作曲した６つのソナタです――

　１９歳のモーツァルトが、新しい感性を描いたという６つのソナタ。
　母の演奏を始めて聴いたとき、私の心に、新鮮な泉が湧き上がる感覚がしました。

音葉母「よっぽど新しいピアノが楽しかったのねえ」

　母からエピソードを聞き、さらに興味がわきました。

　新しいピアノフォルテ。自分の知らなかった音がそこに開けたとき、彼はどれだけ驚いたのでしょう。
　新しい音、新しい曲。

　今は昔となったその音も、父と母がいるこの部屋で触れるたび、私に新鮮な驚きを与えました。
　うれしい。
　たのしい。

　自分がその曲を弾くたびに、気持ちと音が同期していく。
　それが、肌で感じられました。
　自分が自分らしく。

　私にとって、そういう曲です。

音葉父「……」

　父は真剣な表情で、曲を聴いています。

　２３小節。
　トリルはやわらかく、心をくすぐるように。
　流れるようにやわらかなタッチと、おどけるような歯切れの良いタッチ。

　楽しいなあ。

　５６小節。
　小鳥がさえずるように。
　ふと視線を上げると、星花さんがほほ笑みながら、私の音に身を任せていました。

　うれしい。とても。

音葉「……ふっ！」

　６４小節。
　フォルテは強すぎず。跳ねるように。
　私の指が、身体が。歓びを表現します。

　お父さん……
　私は、新しいことへ挑戦したい。
　そして、絶対成功させる。

　その想いはいよいよ強く、私の指を伝って鍵盤へ。
　そして、音そのものへ。

　１０９小節。
　１オクターヴ高くなった旋律は、さらに優しさと優雅さをまとって。
　そして１１７小節。
　ラストへ向かい、私は山を下ります。
　ゆるやかに、吹き抜けるように。

音葉「……ふぅ」

　鍵盤から指を離します。
　私のチャレンジは、終わりました。

　席を立ち、一礼。

　ぱんっ！

音葉「……え？」

　視線の先には、椅子から立ち拍手をする父の姿。
　それに続くように、Ｐさんと星花さんが。

　ぱちぱちぱちぱち……

　ブラーヴァ。
　それは、他の誰よりも欲しかった、父からの賛辞。
　拍手の響きに、私の心が震えます。

音葉「……お父さん」

――ボクは２つの成功を収めました。

　私は、私らしくあったでしょうか？
　私は、成功したのでしょうか？
　……ああ。

　私はもう一度、深く礼をしました。

　いまだ鳴りやまない拍手。
　ありがとう、お父さん。
　ありがとう、Ｐさん、星花さん。

　私は、新しい道へ歩みます。願わくはどうか。
　私とともに、あって、ください。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

音葉「……」

　千歳に向かう電車の中。
　私はぼんやりと、国道を走る車の流れを見つめています。

Ｐ「ん？　どうした？」

音葉「……いえ」

　Ｐさんは気を遣ってくれます。でも。
　その言葉を残すと、私は再び窓の外を眺めます。

音葉父「……とても、よかった」

　拍手の後。
　父はそう私に語りかけました。

音葉「……お父さん」

音葉父「実に心のこもった、いい演奏だった」

音葉「……ありがと」

　自分でも、いい音が奏でられたと思います。
　でも、なんとなく父と視線を合わせづらいのも確かです。

音葉父「やってみたいんだな？」

音葉「……はい」

音葉父「そうか……Ｐさんにしっかりお世話になりなさい」

　父が、認めてくれた。
　私は、顔が紅潮してくるのがはっきりと分かりました。

音葉「……」

音葉父「Ｐさん」

Ｐ「はい」

　Ｐさんは席を立ち、父と視線を合わせます。

音葉父「音葉を……お願いします」

Ｐ「はい。承知いたしました」

　父が右手を差し出します。
　Ｐさんはそれに応え、ふたりは握手を交わしました。
　私のそばには、星花さんが歩み寄ってくれます。

星花「音葉さん。一緒にできますわね？」

　私はただうなずきます。
　言葉にできない、複雑な気持ち。
　うれしいもあり、不安もあり。なんともくすぐったい感じです。

音葉父「なあ、音葉」

音葉「……はい」

音葉父「お前がＰさんにお世話になるにあたって、これだけはお願いしておかなくてはならない」

音葉「……」

Ｐ「……承ります」

　私をさえぎり、Ｐさんが父の話を聞きます。

音葉父「Ｐさん。音葉をせめて、今年１年は大学に通わせてほしい」

音葉父「親のわがままではあるが、音葉の将来に幅を持たせてやりたい」

Ｐ「承知しました」

音葉父「いずれ大学は休学しなければならないだろうが、それでも」

音葉父「１年通うだけでも、多少は先生方の覚えが違うだろうからね」

Ｐ「よく分かります」

音葉父「可能性は、いくつもあるほうがいい。たとえ、音葉が芸能界で成功しなくても」

音葉父「音楽の道は、残してあげたい」

Ｐ「……」

音葉「……」

　そういう父の表情は、穏やかなものでした。

　お父さん、本当にありがとう。
　わがままな娘で、ごめんなさい。

音葉父「音葉」

音葉「……」

音葉父「……いってらっしゃい」

　心の音がはらはらと、こぼれ落ちます。
　私は、父の胸に飛び込んでいました。

音葉「……お父さん！」

音葉父「……」

音葉「……ごめんなさい！……ごめん、なさい」

　父の胸で涙を流す私。
　私の頭を、やさしくなでる父。

音葉父「……いっておいで、音葉」

音葉「……お父さん……お父さん」

　私はしばらく、父のぬくもりをかみしめ、涙するのでした。

音葉「……」

　がたんごとん、と。
　電車は律動を刻みながら、私たちを運んでいきます。

音葉「……たたん……たたん」

　ふと。
　私はその律動に合わせ、リズムを口ずさんでいました。

　外を見れば、車の流れ。
　体を揺らす、確かな律動。

音葉「……トランクィロ……マ・リトミコ」

　穏やかに、しかし、リズミカルに。

　家を出るとき、ふと目に入った父のまなざし。
　それは、深い慈愛に満ちていました。

音葉「……お父さん」

　決心し、覚悟を決めたはずなのに。
　その時、ふと。
　隣に座った星花さんが、私の手を取りました。

星花「……」

　星花さんは言葉を出さず、ただ私を見つめ、ゆっくりうなずきます。
　その心遣いがやわらかく、染み入ります。

音葉「……星花、さん」

星花「よいのですよ、音葉さん」

音葉「……」

星花「……大好きなお父さま、お母さまから離れることは、つらいことですわ」

星花「ですから、よいのです」

　親離れ。
　親元を離れ大学へ通い、まがいなりにも独り暮らしをしてきたはずなのに。
　心は、あの家にあったのです。

　そして、アイドルになるために。
　私は、その心と決別してきました。

星花「でも、音葉さんはお父さま、お母さまの娘。それになんの変わりがあることでしょう？」

星花「よいのですよ……泣いても」

　ああ。
　星花さんは、私の気持ちをわかっていたのです。

　私は、お父さんが大好き。
　離れていても、そばにいても。

　はらはらと。涙がこぼれます。

音葉「……っ！」

　私は、星花さんに抱きしめられます。

　声をあげることなく、ただ流るるままに。
　ドルチェ・エ・エスプレシーヴォ。
　やさしい涙が、ほほを伝います。

音葉「……う……ううっ」

星花「……」

　お父さん。ありがとう。
　私は、私らしく。新しい道へと向かいます。

　Ｐさんがぽんぽんと、私の頭をなでました。

Ｐ「がんばろうな」

Ｐ「音葉も。星花も」

星花「……はい」

音葉「……」

　……たたん……たたん。
　律動はいまだ変わらず、私たちを運んでゆきます。

　……行ってきます。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

※　とりあえずここまで　※

お読みいただき、ありがとうございます　ﾉｼ

投下します

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トレ「はい、いいですね。次行きましょうか」

音葉「……はい」

　あれから２か月。
　私はキャンパスに通いながら、こうして基礎トレーニングも受けています。

　自己流で歌っていたころ、自分の歌がどういう色を持っていたのか。
　それを知る由はありませんでした。
　今こうしてプロの方に師事し、私の色を確認し。
　……新鮮な驚きに満ちています。

　がちゃり。ドアを開ける音がします。

音葉「……Ｐさん」

Ｐ「あ、そのまま」

　珍しく、Ｐさんが練習室へやってきました。

トレ「お疲れさまです」

Ｐ「トレーナーさんもいつもお疲れさまです。で」

Ｐ「なにやってたのかな？」

音葉「……これ、を」

　私はＰさんに譜面を見せます。

Ｐ「へえ」

音葉「……」

Ｐ「基礎からやってるのか。音葉らしいな」

　それは、コンコーネ５０番。
　Ｐさんとの、出会いの曲。

Ｐ「そっか……俺からリクエスト、いいかな？」

トレ「はい？」

Ｐ「んっとね。５番。お願い」

トレ「５番ですね、いいですよ。音葉さんも大丈夫？」

音葉「……はい」

　トレーナーさんが音出し。準備が整います。

G.Concone　-　50　Lezioni　per　il　medium　della　voce

https://www.youtube.com/watch?v=kMo7Ke4Q2t4

　ピアノの三連音に乗り、旋律を歌い上げます。
　柔らかに、素直に。
　トレーナーさんが言います。ほんとならもっと高い音域が合うだろう、と。
　でも、今は中声でトレーニングをしていきましょう、と。

Ｐ「……」

　Ｐさんは目をつむり、私の歌に集中しているかのようです。

音葉「……ありがとう、ございます」

　２分間の歌唱を終え、Ｐさんに声をかけました。

Ｐ「……うん……ん？……んん」

　どことなくＰさんは、釈然としない表情です。

音葉「……あの……どこか」

Ｐ「……ああ、いや。以前よりも声量に余裕が出て、とてもよくなってると思うよ」

Ｐ「ま、ちょっとね。俺のこだわりというかなんというか……」

トレ「Ｐさん？　なにか気になるところでも」

Ｐ「うん、と……ヴォイトレはあとどのくらい？」

トレ「……あと２０分くらいですかね」

　あごに手を当てて、Ｐさんはしばし考え込みます。
　そして急に。

Ｐ「ああトレーナーさん、ごめん。ちょっと音葉借りて、いいかな」

トレ「はあ……はい？」

Ｐ「いやほんとごめん！　今日は申し訳ないけど、ヴォイトレ中断にして！」

トレ「どうしたんですか急に」

Ｐ「これから音葉とドライブ！　思いつきだけど！」

　そういうなりＰさんは、私の手を引き練習室を出ました。

音葉「……あ、あの！……Ｐさん」

Ｐ「音葉には申し訳ないけど、ちょっとドライブつきあってよ」

　とまどう私に、Ｐさんは告げました。

Ｐ「絶対悪いようには、しないから」

　Ｐさんはなにを思いついたんだろう？
　困惑する私をよそに、ちひろさんから社用車の手配を済ませ、そそくさと出かける準備をしていくＰさん。

音葉「……あの、Ｐさん」

Ｐ「とりあえず貴重品だけ、持って。長居はしないからさ」

音葉「……はあ」

　Ｐさんの思考が、分かりません。
　とりあえず財布の入ったポーチを抱え、私はＰさんの運転する車に乗り込むのでした。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

　Ｐさんと私を乗せた車は、秋空の中を駆けていきます。

音葉「……Ｐさん」

Ｐ「ん？」

音葉「……どこへ」

Ｐ「ああ、行き先かあ。音葉もよく知ってるとこだよ」

音葉「……知ってる？」

Ｐ「うん」

　電車でレッスンに通っている私には、こうした道路の風景は見慣れないものです。
　だから、どこをどう走ってるのか、見当がつきません。

音葉「……」

Ｐ「まあ心配しなくとも、もうすぐ見知ったところに出るよ」

　どのくらい車で移動したでしょうか。確かにそこは。

音葉「……キャンパス？」

　私は通っている大学のキャンパスが、わずかに見えてきます。

Ｐ「正解」

　Ｐさんは私を、住んでいる街へと運んできたのでした。
　そして。

Ｐ「さ。ここが目的地」

　よく見慣れた、いいえ、何度も足繁く通っている。
　そこは、いつもの河川敷です。
　そしてそこは、私とＰさんの出会ったところ。

音葉「……ここ、ですか？」

Ｐ「うん。懐かしいだろ？」

音葉「……いえ」

　懐かしい、というにはあまりに通っているところ。
　Ｐさんは私に、出会ったときを思い浮かべてほしかったのでしょうか。

　少々気遣いが、私に足りなかったかもしれません。

Ｐ「あははは。音葉は結構来てるのかな？」

音葉「……ええ。まあ」

Ｐ「……そうだな。落ち着くもんな、ここ」

　私とＰさんは、やや肌寒くなってきた川風に吹かれ、河川敷の公園を眺めます。

Ｐ「なあ、音葉」

音葉「……はい」

Ｐ「ここでさ、さっきの５番。聴かせてよ」

音葉「……ここで、ですか？」

Ｐ「うん。ここじゃないと、ダメなんだ」

音葉「……わかりました」

　河川敷の向こう側に目をやれば、小学生が帰っていく姿が見えます。
　風に舞う枯れ葉が、かさかさと音を鳴らします。

　私は、いつものように立ち、目を伏せます。

　耳を通り過ぎるのは、風の色。枯れ葉のざわめき。
　小学生のおしゃべり。
　伏せた目の奥に、色が見えます。

　すうっ。

　Ah――Ah――Ah――――

　目に映る色を感じながら、私は５番を歌います。
　私の声の色。辺りの景色。
　混じり合いながら、鮮やかさを昇華しつつ。音を練り上げます。

　ボールを蹴る音？　楽しそうね。
　あ。これは小石を川に投げたのね。

　色の変化を感じ、私の声が応答します。
　語りかけ、それに還ってくる新たな色を喜びながら。私の歌が終わりに近づき。

音葉「……ふぅ」

　目を開けると、私の前にＰさんの姿。
　満足げな表情をして、拍手をしてくれました。

音葉「……ありがとう、ございます」

Ｐ「うん。これこれ」

Ｐ「やっぱり音葉の歌はいいなあ」

　これ、ですか？　Ｐさんは納得しているようですけど。
　私は、ただ音の色を感じながら、歌っただけなのに。

Ｐ「なあ、音葉」

音葉「……はい」

Ｐ「歌ってて、気持ちよかったんじゃないかな？」

音葉「え？　……ええ」

　確かに、辺りの音と一体になる感覚は、とても気持ちのいいものでした。
　でも、練習室でトレーナーさんに合わせ歌うのも、気持ちのいいものです。
　ただ。

Ｐ「音葉は、さ」

　Ｐさんが、謎解きを始めます。

Ｐ「音の色が、はっきり見えるんだろうなあ」

音葉「……なんとなく」

　歌に限らず、音が、色として肌触りとして。あるいは香りや味として。
　私の五感に響いてくるのです。
　それは小さい頃からの、私の癖のようなものでした。
　いろんな色を、感触を。感じたい。

　いつしか私は、母のピアノを借り、音をかき鳴らし始めました。

音葉「……私のこの体は、音でできているみたいな、そんな気持ちに、なります」

Ｐ「そっか。うらやましいな、音葉が」

Ｐ「本当に、生まれながらの音使いだ」

　Ｐさんが目を細め、私にそう語ります。

音葉「……ありがとう、ございます」

Ｐ「そうやってひとつひとつの音を拾い上げ、色を見て、語らって」

Ｐ「音葉は、より色鮮やかにしていく」

Ｐ「それが、『才能』だよ。そうとしか言いようがない」

音葉「……」

　Ｐさんはそうおっしゃいました。でも。

Ｐ「ただ、その才能が」

　視線が、私を貫きます。

Ｐ「音葉の、弱点だよ」



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

Ｐ「ほい、これ」

音葉「……ありがとう、ございます」

　河川敷のベンチにふたり。
　Ｐさんは自販機から温かい飲み物を買ってきてくれました。

　ミルクティーをひとくち、ふたくち。
　私は考えます。
　弱点。自分ではあまり思い描けないそれを、Ｐさんは気づいてくれました。
　ひとりでは気づき得ないことです。

Ｐ「なあ。音葉」

音葉「……はい」

Ｐ「音葉の歌の色ってさ。どうなの？」

音葉「……色？」

Ｐ「そう。色」

　Ｐさんはそう言って、缶コーヒーを口にしました。
　私はＰさんの発した言葉の意味を、考えます。

　私は先ほど、辺りの音の色を確かに感じ、歌いました。
　それは私そのもの。
　でも、Ｐさんには弱点と映ったのです。

Ｐ「まあ、さ。漠然とした話だから納得できないかもしれないけど」

音葉「……」

Ｐ「音葉は周りの音に合わせて、自分を表現するよね。それはそれでいいと思う。自分のスタイルだし」

Ｐ「でも、さ。アイドルってそれだけじゃダメだと、思うんだよね」

音葉「……」

　ああ。そうでした。
　私は、スカウトされたのでした。アイドルとして。

Ｐ「アイドルはさ、大勢のファンがいて、そのファンに支えられてる」

Ｐ「なんでだと、思う？」

音葉「……いえ」

Ｐ「そうだなあ……言ってみれば、その色に共感してるから、かな」

音葉「……共感」

Ｐ「そう。たとえば、音葉の醸し出す色が好きだから、ファンになる。ついていきたくなる。応援したくなる」

Ｐ「そういうあいまいななにかに、惹かれるんだと、思うな」

　あいまいななにか。
　私の言う『色』というのも、実際には目に見えないもの。感じ方は、相手の感性に委ねるしかありません。

　なにかが、腑に落ちた気がしました。

音葉「……私の、色」

Ｐ「……音葉自身の色を、感じてみたいんだよ。俺はね」

音葉「……私、自身」

Ｐ「音葉の色にさ、染め上げている。そういう情景、見たいんだよ」

　Ｐさんは缶コーヒーの残りをあおります。そして。

　かこん！

Ｐ「ありゃあ！」

　放物線を描いた空き缶は、かごに入りませんでした。
　Ｐさんはしぶしぶ拾い直して、きちんとかごに入れます。

Ｐ「感受性が強い子ほど、周りに合わせちゃうって聞くし。でも、さ」

　ぱんぱんと手を払い、Ｐさんは続けます。

Ｐ「音葉はもっと、自分本位になっていいと。そう思うんだよ、なー」

　何者にも縛られない、私自身の音。私自身の色。
　それを意識したことは、今までなかったような気がします。だから。

音葉「……Ｐさん」

Ｐ「うん」

音葉「……わたし……自分の色が……わからない」

Ｐ「それは仕方ないさ。だって」

Ｐ「音葉の周りには、音葉のお父さんやお母さんの奏でる、素敵な音にあふれていたわけだし」

　それは奇しくも、私の求めている音だったような気がします。
　でも、私は、父や母ではない。そんな当たり前のことを、Ｐさんが気づかせてくれました。
　私は、私のままでいいのだ、と。

　それは、途方もない旅です。私自身を探す、長い旅。
　不安で仕方がありません。

Ｐ「なあ、音葉」

Ｐ「探そうか、一緒に」

音葉「……え？」

　風が、ほほをすり抜けていきました。

Ｐ「音葉自身の音を」

　Ｐさんの瞳は、すり抜けた風のように優しく、私に映りました。

　そうです。私はこの方について行くと決めたのです。
　なにも迷うことなど、ないのでした。

音葉「……そうですね」

　気がつけば私は、Ｐさんの手を取っていました。

音葉「……よろしくお願い、します」

　力強く暖かい、Ｐさんの手。私はそのぬくもりに安堵します。
　大丈夫。
　訳もなくそう、思えてきました。

Ｐ「うん。ゆっくりお願いするよ」

　なんとなく、Ｐさんが微笑んだ気がしました。
　そして私も。
　自然と微笑んだ、気がします。

Ｐ「……おおぅ。なんだか寒くなってきたな」

　くすっ。
　あったかい缶コーヒー飲んだばかりじゃないですか。

音葉「……そう、ですね」

Ｐ「……戻るか、そろそろ」

音葉「……はい」

　子供達の声がまだ、川面に響いています。
　私は、自分の音を思い描けないまま、そんな音の色を眺めるのでした。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

Ｐ「なあ、音葉」

音葉「……はい」

　帰りの車の中。ぼんやり外を眺める私に、Ｐさんが話しかけます。

Ｐ「気に、病んでるか？」

音葉「……いえ」

　Ｐさんは私を心配してくれます。
　自分の音。それを指摘したＰさんはおそらく、私が思い悩んでいると考えてくれたのでしょう。
　でもこれは、私自身の問題。焦っても仕方ない。
　そう思うのです。

音葉「……ありがとう、ございます」

Ｐ「いや、いいんだ。まあ、俺がとやかく言うもんじゃないなあって、反省してる」

　Ｐさんは静かに、そう言います。

Ｐ「なんかさ、いらぬおせっかいだなあって、冷静になるとそう思うんだよ」

Ｐ「ふと思った直感で動くことが多いからさ、俺。音葉や星花を困らせてないか、あとから心配になる」

音葉「……いえ。Ｐさんの言葉……うれしいです」

Ｐ「そうかな。それならいいんだけど」

音葉「……きっと、星花さんも」

　同じように感じている、そう思います。
　星花さんがＰさんに接する態度、それを見ればわかります。星花さんはＰさんを信頼してる。
　私も、Ｐさんなら。

音葉「……」

　信じられます。

Ｐ「……そうかなあ」

　はじめて会ったときは、つむじ風のようなせわしなさが、苦手でした。
　でもその風は、本当はやさしく、私を運んでくれるものだと気づきました。

音葉「……ピアチェーレ」

Ｐ「ん？」

音葉「……いえ、なんでも」

　自由に、私のままに。そうすればいいのだと、Ｐさんは言うでしょう。
　ならば、なにも焦ることはありません。Ｐさんとともに、ゆっくりと探せばいいのです。

Ｐ「そうそう、ちょっとこれ、聴いてみないか？」

　そう言ってＰさんは、車のオーディオをいじります。
　流れてきた音楽、それは。

音葉「……これ」

中西俊博　-　Rodeo　Reel

https://www.youtube.com/watch?v=MokzOx5dtBo

　なんとなく聞き覚えのあるような、そうでないような、不思議な感覚に陥ります。
　その音のやさしさに、包まれます。

音葉「……これは」

Ｐ「うん、そう。星花のやつだよ」

音葉「……」

　以前、星花さんと演奏した『愛の喜び』。
　あの感覚がよみがえります。

　ああ。
　星花さんはなんてすごいのでしょう。
　甘く、乾いたその音の色は、幾重に連なり、私を包むのです。

Ｐ「どう、思う？」

　Ｐさんが問います。
　私はただひたすら、音に身を任せながら応えるのです。

音葉「……ただ、すごい、としか」

Ｐ「そうだなあ……すごいよなあ」

　外を眺めると、いつもの見慣れた風景。
　車は、もうすぐ事務所に着きそうです。そして、そのまま駐車場へ滑り込んでゆきました。
　Ｐさんは車を止め、そのまま語ります。

Ｐ「はじめは、思い付きだったんだよ。星花はたぶん、もっと別の音が奏でられるって」

Ｐ「彼女はヴァイオリニストで、かつ、フィドラーだって。この耳が、さ。言ったんだ」

　Ｐさんは自分の左耳をとんとんと、指差します。

Ｐ「俺はきっかけをあげたに過ぎないんだ。それを自分のものにしたのは、間違いなく星花自身だよ」

Ｐ「でもそれがさ、俺に自信をつけさせてくれた。この耳を信じていい、ってさ」

　そしてＰさんは私に向き、見つめます。

Ｐ「だから俺は、自分の耳と直感を信じてる。音葉の音は、きっと見つける」

Ｐ「つかみ取るのは、音葉自身だよ。でも」

Ｐ「そのきっかけは、絶対にあげる」

　私とＰさんと。どちらともなく、手をとります。

Ｐ「一緒に、お願いするよ」

音葉「……はい、Ｐさん」

　自分に正直で、うそをつけない人。たぶん、そんな人なんでしょうね、Ｐさんは。
　河川敷でのあの予感は、確かなものだったと。今、そう思うのです。

音葉「……一緒に、探してください」

　私たちの、音を。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

※　とりあえずここまで　※

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↓　↓　↓

Ｐ「音葉に、会わせたい人がいるんだ」

音葉「……会わせたい？」

星花「……まあ」

　あの日から一週間。
　星花さんと一緒のレッスン中に、Ｐさんはそんなことを言いました。

星花「それはもしかして、結納なさるので？」

Ｐ「……あのさ星花。どうしてそうなる？」

星花「会わせたいとおっしゃるなら、Ｐ様のご両親かと」

Ｐ「ごめんなに言ってるかわからない」

　なにやら星花さんとＰさんが、穏やかじゃない話をしています。
　でも。
　会わせたい人、ですか。気になります。

Ｐ「まあ星花は会ってるんだけど、さ。なんなら星花も行くか？」

星花「よろしいんですの？」

Ｐ「あっちは大歓迎だと思うよ？　師匠だし」

星花「まあ！　お師匠様でしたか！」

音葉「……師匠？」

　Ｐさんのお師匠様、ですか。

Ｐ「うん。大学の先輩で、俺の師匠」

Ｐ「ちょっとまあ、個性的な人だけど……」

　今こうして、日々のレッスンをがんばれているのは、Ｐさんのおかげだと実感しています。
　そのＰさんのお師匠様なれば、興味がわくのも自然なことでした。

音葉「……ぜひ……お願いします」

Ｐ「ん、わかった。俺は車まわしてくるから、音葉と星花はシャワー浴びて着替えといで」

音葉「……はい」

星花「わかりましたわ」

　私たちは準備を整え、Ｐさんの車に乗ります。
　こうして、Ｐさんの車で移動することも、ごく当たり前のようになってきました。

星花「そう言えばお師匠様のこと、詳しくは伺っていませんでしたけど」

Ｐ「ああ、うん。そういやそうだな」

　車の中。Ｐさんとお師匠様のことを私たちは訊きます。

Ｐ「俺が昔さ、音楽やってたのはふたりとも知ってるよな」

音葉「……はい」

Ｐ「……パーカスなんだよ」

音葉「……パーカッション」

星花「打楽器だったのですね？」

Ｐ「まあ地味なんだけどさ。具体的にはオケだったから、ティンパニなんだけど」

Ｐ「うちのオケは結構ＯＢとかＯＧも参加すること多くてね。そこで知り合ったのが師匠ってわけ」

星花「お師匠様は、Ｐ様の先輩でいらっしゃるんですね？」

Ｐ「ま、そういうこと」

　先輩と後輩という関係から、もう少し深い関係。
　私は、部活動というものを経験していない分、その意味をうらやましく感じます。

音葉「……なぜ、会わせたい、と？」

Ｐ「そうだなあ。俺の今のさ、音に対しての感覚って」

　Ｐさんはまた、左耳をとんとんと、指します。

Ｐ「師匠に鍛えてもらった、って言ってもいいくらいだから、かな」

音葉「……」

　今の私には、Ｐさんの感性が頼りというところが、多少なりともあります。
　そのＰさんが鍛えられたとおっしゃる、その方。

音葉「……どんな方、ですか？」

Ｐ「ん？　んー。まあ、一言では難しいかな」

　Ｐさんは一呼吸置き。

Ｐ「会えば、わかるよ」

　そういい残し、車を走らせます。

　私の音を探す道しるべと、なっていただけるのでしょうか。その方は。
　しばし、考えます。
　頭がやや混乱する中窓の外を見ると、そこは閑静な住宅地でした。

Ｐ「さあ、もうそこだよ」

　こじんまりとした一軒家に、着きます。
　そこはどこか、実家に似た雰囲気がありました。

音葉「……」

　ぴんぽーん。Ｐさんがインターホンを押します。

？？『あー開いてるぞ。入ってきな』

　カメラつきのそれからは、女性の声が聞こえてきました。
　私たち三人は、門をくぐり玄関へ。がちゃり。
　Ｐさんはドアを開けました。

？？「おっ、星花ちゃんも来たのか」

星花「ご無沙汰しております、お師匠様」

？？「最近は忙しいみたいじゃないか。弟子から聞いてるよ」

星花「ええ。Ｐ様のご努力のたまものですわ」

　そこに立っていたのは、黒髪の似合う、はかなげな容貌の女性。
　アイドルという言葉がしっくりくるような、誰が見ても美人とおっしゃるであろう、そんな方。
　でも、その言葉は。

師匠「それが仕事なんだし、当たり前だろう？　ま、突っ立ってないで上がりな！」

　Ｐさんに似た、やや押しの強い言葉。
　ああ、Ｐさんは弟子、なんですね。

　あまりの雰囲気に、笑いがこみ上げてきそうです。

Ｐ「あ、そうそう。師匠」

師匠「いいからいいから。紹介は中に入ってから、だ。気が利かねぇあ、Ｐも」

Ｐ「おみやげ持ってきたんですけど、いらないですよね」

師匠「おっと！　そいつぁ別だ」

　お師匠様は、Ｐさんが手にしていたおみやげを無理やり奪い取りました。

師匠「お、芋ようかんか。まあまあ、かな」

Ｐ「なに言ってんすか。好物のくせに」

　Ｐさんはずかずかと、玄関から中へ上がっていきます。
　勝手知ったるなんとやら、でしょうか？

星花「さ、わたくしたちも参りましょう」

　星花さんに促され、わたしもＰさんの後を追いかけます。
　それにしても。

音葉「……」

　私は、お師匠様と呼ばれたあの方に、会ったことがある気がします。
　それは、予感と呼ぶほど不確かなものでは、なかったのです。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

師匠「ま、そこら適当に座って」

　案内された部屋は広く、整然としてしました。
　その中心にはピアノが置いてあります。そしてところどころに、見慣れない楽器がちらほらと。

音葉「……」

　なにげなしに壁を見ると、そこには見たことのある工具。たしか……
　ラチェットハンマーに、ベンダー。それから、音叉。
　ピアノの調律工具です。

　お師匠様は椅子に座り、手土産の包み紙をびりびりと開けはじめます。

Ｐ「ああ！　またそんなびりびり破いて」

師匠「ん？　いただきものはまず、味見してみないとな」

Ｐ「いや師匠、まずは紹介くらいさせてくださいよ」

師匠「あーそっかそっか。そうだったな」

　そう言って包み紙を丸めて、ゴミ箱へ投げ入れます。
　すこん！　包み紙は一発で、吸い込まれていきました。

師匠「んじゃ、ま。どうぞ」

　Ｐさんは頭を掻いています。

Ｐ「……ま、いいや。で、星花はもう知ってるでしょうし、新たに俺が担当してるアイドルで」

Ｐ「梅木音葉って言います」

　箱を開けようとしていたお師匠様の手が、止まりました。お師匠様は、私を見つめます。

音葉「……」

　私は、席を立ちます。

音葉「……梅木……音葉です」

音葉「……よろしく……お願いします」

　そしてお師匠様に、深々とお辞儀をしました。

師匠「……そう、か」

　お師匠様は開けた箱を置き私の前へ。そして、右手を差し出しました。

師匠「音葉ちゃん、だね。……神藤（かんとう）……あまね、だ」

　次に、こうおっしゃったのです。

師匠「……久しぶり、と言えばいいかな？」

音葉「……はい」

　お師匠様の手を取り、握手をします。
　私の予感は、間違っていませんでした。

Ｐ「え？　あれ……え？」

　そのやりとりに、Ｐさんは驚いたようです。

Ｐ「師匠、音葉のこと知ってるんですか？」

師匠「ん？　ああ、まあな」

　お師匠様は握手していた手を放し、Ｐさんに向きました。

師匠「音葉ちゃんがまだ小さい時に、１回？　いや、２回かな？」

師匠「会っているよ」

　その言葉に、私はうなずきます。
　Ｐさんは、驚いた顔を崩せずにいました。

　遠い記憶です。私が小学校に上がったばかりのころ。
　母のピアノに、ひとりの女性がなにかをしていました。
　母は、そばで微笑んでいます。

　なにかを叩く音。弦のようなものをはじく音。ぎちぎちと、なにかを締める音。
　そして、音叉の響き。

音葉母「あまねちゃん、上手になったわね」

？？「……ありがとうございます」

　母が鍵盤に触れ、奏でます。
　それはたちまち部屋に拡がり、澄んだ響きを湛えました。

音葉母「うん、素晴らしいわ。ありがとう、あまねちゃん」

？？「いえ。こちらこそ」

　それが調律の仕事だとわかったのは、私がもう少し大きくなってからのことでした。ただ。
　このとき以降、あまねちゃんと呼ばれた女性に会うことは、ありませんでした。

師匠「一葉（ひとは）さんは、元気にしてるかい？」

音葉「……はい」

　あのとき、私の心に溶け込む音を作り上げたあまねちゃん。その人が今、目の前にいます。

師匠「まあ、最初に会ったって言っても、まだ音葉ちゃん赤ん坊だったし」

師匠「次のときだってまだ小さかったから、覚えてないと思ってたが」

音葉「……いえ……覚えてます」

音葉「……あの時の……音を」

師匠「……そうか」

　あまねちゃん、いいえお師匠様はやわらかく笑い、目を細めました。

師匠「立派に、なったな」

音葉「……」

　私はただ、うつむきます。

師匠「あのときはまだまだ駆け出しのひよっこだったし、こうして少しましにしてくれたのは一葉さんのおかげだ」

師匠「そんな音を覚えてくれて、ありがとうな」

音葉「……いえ」

　お礼を言われるようなことは、なにもありません。
　私は、あのときのピアノの音が大好きで、ずっと心に留まっていたのですから。
　私のほうこそ、お礼を言いたいくらいです。

Ｐ「へえー、そんなことあったんすか」

星花「世の中、狭いですわね」

Ｐ「でもなんでまた、音葉の実家にいたんです？」

師匠「ん？　まああれだ。話すと長くなるから、そのうちなそのうち」

　Ｐさんが話を聞き出そうとしますが、お師匠様はそれを躱しました。

師匠「で？　あたしになにをさせるつもりだ？」

　お師匠様はＰさんに問いかけます。

Ｐ「それはですね……音葉の師匠になっていただけないか、と」

　Ｐさんは話をすると、お師匠様はけげんな表情を浮かべました。

師匠「ん？　ピアノのことか？」

師匠「あたしより一葉さんに教えてもらったほうが……いや、そりゃあ無理か」

　お師匠様は苦笑いをひとつ。

Ｐ「いやピアノの、じゃなくてですね」

Ｐ「音の、師匠ということで」

　Ｐさんがにやりとしました。
　お師匠様は少し驚いた顔をし、そして。

師匠「ぷっ……あはははは！」

　吹き出しました。

師匠「おま……お前、馬鹿だろ！　あたしの感性喜ぶのなんて、お前くらいのもんだって！」

Ｐ「いえ、本気ですよ」

　Ｐさんの表情は、真剣です。

Ｐ「俺の耳を育ててくれたのは、師匠ですから」

師匠「……ほう？」

Ｐ「それに音葉はアイドルですから。ピアノじゃなく」

Ｐ「歌で、勝負ですし」

　そう言うとＰさんは、お師匠様に深々と頭を下げました。

Ｐ「音葉の感性を、磨いてください。お願いします！」

　お師匠様は、やや困った顔をしているようでした。
「ふぅ」とため息をひとつ漏らすと、Ｐさんにこう言ったのです。

師匠「いいよ。あたしも音葉ちゃんには縁があるし。手伝おう」

師匠「ならまずは、だ。おい、Ｐ」

　お師匠様は椅子から立ち上がると、Ｐさんに向かって。

師匠「お前も、手伝え」



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

Ｐ「えっ！　俺すか！？」

師匠「当たり前だろう？　お前が連れてきたんだからな」

　そういうとお師匠様は、書棚のひとつからなにかを持ってきます。
　それはなにか、かぼちゃのようなものでした。

師匠「ほれ」

Ｐ「……ああ、それですか。はいはい」

　Ｐさんはそれを受け取ると、お師匠様とＰさん自身の分、ふたつの椅子を用意します。
　そして私たちに向かって、腰かけました。

師匠「星花ちゃんも音葉ちゃんも、まあくつろいで、さ。これからこいつと」

　お師匠様はくいくいと、Ｐさんを指さします。

師匠「君たちのためだけの、コンサートだ」

　そして、穏やかに微笑み。

師匠「少しの間、感じてくれ」

　お師匠様は、Ｐさんと視線を合わせます。
　Ｐさんは、その視線にうなずきました。

　やわらかく、ざらっとした音が、かき鳴らされます。

Zimbabwe　Traditional　Music　-　Nhemamusasa

https://www.youtube.com/watch?v=egaWOXr97FI

　不思議な音です。
　かぼちゃの器に共鳴する透明な色と、じゃりじゃりとこすれるような色。
　そこにお師匠様とＰさんの、うねりのような歌が。

　それは、例えば緑。そして赤。
　お師匠様の抑揚が、部屋に響き渡ります。

　アパショナート。
　静かな雰囲気であるはずなのに、熱い息づかいを感じます。
　私の体が、熱を帯び始めました。

音葉「……ふぅ……はぁ」

　息が上がります。なんでしょう？
　この音を、色を。捕まえたい。私の体に取り込みたい。糧にしたい。

星花「……」

　横に座る星花さんも、高揚している様子です。
　ここにいる４人の熱が、高まっていき。そして。

音葉「……あ」

　気が付けば、曲は終わっていました。

星花「……ふぅ」

　星花さんも私も、熱に浮かされていたようです。

　お師匠様とＰさんはゆっくりと息を継ぎ、かぼちゃを下ろします。

師匠「……感じることは、できたか？」

　お師匠様は、そうおっしゃいました。
　終わりの拍手も忘れるくらいの、色。
　私は。

音葉「……たぶん」

　そう答えるのみ。
　でもお師匠様の顔は、優しげに映えるのでした。

師匠「そうか」

音葉「……」

　お師匠様は笑います。

師匠「こう言っても、いいもんかなあ……」

　そしてなにかを逡巡し、口にしました。

師匠「一葉さんに、そっくりだ」

音葉「……そう、ですか」

　その言葉は、私に甘酸っぱくくすぐったく、しみるのです。
　私と母が似ている、と。
　どちらかというと奔放に見える母と、おどおどする私。母にあこがれて、でも母のようにはなれなくて。
　そんな私を、似ているとお師匠様は言います。

師匠「ん？　不満か？」

音葉「……いえ。なにか……恥ずかしい、です」

　私はふと、そんな言葉を口にします。

師匠「そっか。ま、一葉さんは一葉さん、音葉ちゃんは音葉ちゃん、だ」

　お師匠様は続けて。

師匠「ただ、その感じ方は大切にするといいと思う。根拠はないけどな」

　そう言ってにこりと、笑みを浮かべました。

星花「その楽器は、なんですの？」

　星花さんが問いかけます。
　確かにその調べは、なにか心の奥をくすぐるような、そんな響きがありました。

師匠「ん？　ああ、これか。これは『ムビラ』ってやつだ」

　お師匠様はかぼちゃをひらひらと動かし、そう答えます。

師匠「ジンバブエの楽器でな。たまたまインポートアクセの店に飾ってあってなあ……無理言って売ってもらった」

Ｐ「その話を聞いてさ、ああ、師匠相変わらずだなって、さ」

　お師匠様とＰさんは、そう言って笑います。
　そしてＰさんは、私たちふたりにムビラを渡してくれました。
　くりぬいたかぼちゃの中には木箱があり、そこに叩いて伸ばしたらしいピアノ線が張り付けてあります。

星花「これは……見たことがありますわ」

　星花さんは、指でピンッ、ピンッとピアノ線をはじきます。

星花「確か、カリンバと言うものだったと」

Ｐ「そうだな、正解」

　Ｐさんはぽん、と。星花さんの頭をなでました。

星花「あ」

Ｐ「カリンバはタンザニアだったかな、そっちの言い方で。基本の作りは一緒だよ」

　そして星花さんの手にしていたムビラを、私へ渡してくれました。

音葉「……あの」

　私は、訊かずにいられませんでした。

Ｐ「ん？」

音葉「……土の……砂の……音が」

師匠「ほう？」

　確かに、そこには大地の音が、砂の舞う音がしたのです。
　それは、乾いた地。そして息づかい。
　そんな私の肌触りを、お師匠様は拾ってくれたのです。

師匠「これを、知っていたのか？」

　お師匠様はムビラを掲げ、私に問います。

音葉「……いえ」

師匠「……そうか。いや、まったくうらやましい感性だな」

　私がそう答えると、お師匠様は複雑そうな顔をしました。

師匠「ヒントは、これだ」

音葉「……これ」

　それは、飾りだと思っていたものでした。
　ムビラの周りにも、木箱にもついていた、たくさんのコーラの王冠。
　ピアノ線をはじくたびに、びりびりと音を立てるのです。

師匠「彼らは、ただの飾りと思ってつけてるのかもしれないけどな」

　そう、お師匠様は言います。

師匠「だが、この音が彼ららしさを引き立てていると、思えるんだ」

　そしてお師匠様はムビラを抱え、椅子に座りなおしました。

師匠「もともと『ムササ』ってのは、彼らが狩りをするときに、草原にこさえる狩小屋のこと、だそうだ。
　　　そこは確かに、大地のにおいが立ち込めているだろうさ。あと、男たちの息づかい」

　そう語るお師匠様は時おり、ムビラをかき鳴らします。

師匠「あたしもまた聞きだから確かじゃないが、まあそんな狩り前の気分が高揚した中の歌だからな。
　　　静かなようで熱いのも、当たり前っちゃあ当たり前だわな」

　お師匠様が話を終えます。
　すると、星花さんが。

星花「Ｐ様は、ご存知でしたか？　お師匠様のお話」

Ｐ「ん？　ああ、まあな。俺は師匠の実験台だし、な」

師匠「お前弟子だろ？　弟子が師匠のやることに協力するのは、当たり前じゃないのか？」

　Ｐさんがおどけてみせても、お師匠様はそれが当たり前のように、そう言うのでした。

星花「そうですか……やはり、Ｐ様もすごい方、なのですね」

　星花さんはそう言って微笑みます。
　そしてＰさんは。

Ｐ「いや、師匠はいろいろ引き出しを持ってるけど、俺は」

　ムビラを私から受け取り。

Ｐ「これしか、ないからなあ」

　ぽんぽん、と。愛しそうに持つのでした。

星花「いえ、Ｐ様の感性。わたくし尊敬しておりますわ。ですからわたくし、Ｐ様とアイドルとして過ごす日々が、うれしいんですのよ？」

　星花さんは素直に、そう言います。
　そこには、アイドルとして研鑽している日々のつながりが、濃密に感じられるのでした。

音葉「……」

　これは、どういうものなのでしょう。
『うらやましい？』
　ふと。理由のない想いが、通り過ぎるのでした。

師匠「……おまえら、なかなか面白いなあ」

　お師匠様はつぶやきます。

師匠「ま、あれだ」

　お師匠様は立ち上がり。

師匠「少し、手遊びでもしてみるか？」

　そう、私に言いました。

音葉「……手遊び、ですか？」

師匠「ああ、手遊びだ。星花ちゃんも一緒にどうだ？」

星花「ええ、はい」

　私も星花さんも、よくわかっていないまま席を立ちます。
　お師匠様は私たちに、手を出すよう促しました。

師匠「ただの手拍子だから。簡単だろ？　私と同じリズムで叩いてくれ」

　そう言うとお師匠様は、小気味よい音を鳴らします。

――ぱぱぱんっ！　ぱぱんっ！　ぱんっ！　ぱぱんっ！
――ぱぱぱんっ！　ぱぱんっ！　ぱんっ！　ぱぱんっ！

　２分の３拍子でしょうか。頭の中にひとかたまりのユニットが出来上がります。

師匠「これをずっとキープするだけだ。な？　簡単だろ？」

音葉「……」

　確かに難しくないリズムですが。
　ほんとうに。そうなのでしょうか。

星花「いつでもよろしいですわ」

師匠「じゃあ、Ｐはあたしに混ざれ。できるよな？」

Ｐ「ああ、はい……了解っす」

　そしてお師匠様はこう、言ったのです。

師匠「いいか？　どんなことがあっても、ブレるなよ？」

　セッションが始まります。

Steve　Leich　-　Clapping　Music

https://www.youtube.com/watch?v=lzkOFJMI5i8

――ぱぱぱんっ！　ぱぱんっ！　ぱんっ！　ぱぱんっ！
――ぱぱぱんっ！　ぱぱんっ！　ぱんっ！　ぱぱんっ！

　私と星花さんは、お師匠様たちの手拍子に合わせます。
　そしてそれが８回、繰り返され。


音葉「……えっ」

星花「……あっ」

　リズムがずれそうになります。
　お師匠様とＰさんのリズムが、変わったのです。いえ、実はそうではなく。

音葉「……ふっ！」

星花「……」

　私と星花さんはどちらともなく、意識を合わせるのです。
　私たちは、トリックを見破ったのです。

　それは８回の繰り返し。その繰り返しの次に来るものは、『ずれ』だったのです。
　お師匠様とＰさんは、ビートを１音ずつずらしているのでした。
　突然のずれに戸惑いをしたものの、私は、そのひとかたまりの音の群れが移動するのを、確かに感じたのです。
　星花さんもそれに気が付きました。

音葉「……ふふっ」

星花「……ふふふっ」

　さすがは、星花さんです。
　私の中に、ビートの色が浮かびます。

　ずれによって拡がる、うねり。単純なのにとても、身体に沁みていくのです。
　ああ、なんて楽しいのでしょう！

　部屋に広がるは、手のぬくもり。私たちカルテットは、音の熱をどこまでも運ぶのです。

　そしてリズムは一周し、初めへと回帰します。
　ああ、もう終わる。時間が惜しいと、感じました。

音葉「……ふぅ」

星花「……お師匠様は、意地悪でらっしゃいますのね」

　大きく息をつくと、星花さんはそう言うのでした。
　そしてその言葉を、お師匠様は。

師匠「……合格」

　答えに変えるのでした。

師匠「いやあ、面白いな。実に面白い。おい、Ｐ」

Ｐ「はい？」

師匠「音葉ちゃんと星花ちゃん、ふたりとも面倒みよう。……そのつもりだったんだろ、弟子よ？」

　その言葉にＰさんは。

Ｐ「そうですよ？　そんなのわかりきったことじゃないですか」

　そう返し、大きく笑うのでした。

星花「なんだか、楽しくなりそうですわね？　音葉さん？」

　星花さんと顔を合わせ、私たちもつられて笑います。

　なにかが、変わりそうな予感です。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

※　とりあえずここまで　※

お読みいただき、ありがとうございます　ﾉｼ

投下します

↓　↓　↓

音葉「……ほんと……ですか？」

Ｐ「……そうだ」

　Ｐさんと出会って、半年が過ぎました。

　相変わらずのレッスン漬けの日々。そして学校の課題をクリアするため、お師匠様の家でピアノの練習。
　忙しいのは確かでした。でも、私のこころは充実しています。
　だって、いつも音に包まれているから。

　正式に事務所にお世話になってから、少しですけどお給料を頂戴するようになりました。
　そしてレッスン時間を気にし過ぎないようにと、私は女子寮へと引っ越しました。

音葉「……」

　短い間でも、私のお城だった部屋がきれいに片付いていきました。
　センチメンタルな気持ちと、新しい生活への不安。
　それをサポートしてくれたのは、星花さんでした。

星花「ここだって、防音がしっかりしてますのよ？　わたくしもよく練習してますわ」

　星花さんはアイドル活動に忙しい間も、バイオリンの練習を続けています。
　彼女はわたくしの大事な相方ですもの。
　そう言って、星花さんはバイオリンを愛でるのです。

　少しずつ不安が、周りの空気に溶けて拡散していきました。
　この女子寮にも、デビューを待ち焦がれているアイドルの卵が、在籍しています。
　いつデビューするともわからない、そういう不安を抱えている子もいると、聞きます。
　でも、私は恵まれています。星花さんという仲間がいて、お師匠様のような不思議な方がいて。そして。

　Ｐさんが、いて。

　ですから。

Ｐ「音葉。いよいよデビューするぞ」

　その一言が告げられた時、私は心臓を掴まれるような苦しさを感じたのです。

　デビュー。
　アイドルになると決めて、ここでお世話になっているはずなのに。私にはいまだ、アイドルになるという気持ちが薄かったのでした。
　そして、デビューしたい子たちがいるという事実。
　目の前に突然開けた現実が、私を苦しくさせるのです。私でいいのか、と。

　でも私はひとりじゃない。かつての私と、たぶん違う。
　私はＰさんに、そんな不安を打ち明けたのです。

Ｐ「そうだなあ。まあ、確かに音葉はアイドルになりたくてここに来た、ってわけじゃないしな」

音葉「……」

Ｐ「でも、俺もプロだ。今がそのタイミングだと思って、俺が決めた」

Ｐ「音葉には今この時期に、デビューしてほしいと思った。だから、これは俺の責任だ」

Ｐ「大丈夫。他の子たちにだって、ちゃんとそのタイミングがやってくる。それがプロデュースなんだ」

　ひとつひとつ誠実に、Ｐさんは語ります。
　だからと言って、それで不安が取り除けるわけではありません。
　私には未知の領域。これからなにをするのか、まったくわからない世界へ踏み出すのです。

Ｐ「なあ、音葉」

音葉「……はい」

Ｐ「ステージだよ。新しいステージ」

音葉「……ステージ、ですか」

Ｐ「うん。今までだって、コンサートとかコンクールとか、いつだって不安だったろ？」

音葉「……はい」

　私は首肯します。

Ｐ「でもさ、終わった後。ああよかった、って。思えたら気持ちいいよな」

音葉「……」

Ｐ「そうなれるようにさ、今そうやって持ってる不安、大事にしてもいいんじゃないかな」

Ｐ「不安に思うこと、いつだって大事だと思うよ？」

　ああ、Ｐさんは。
　この方も、ステージの重さと熱さを、知っている方でした。

Ｐ「じゃあちょっと打合せするから、会議室行こうか」

　不安だった気持ちが多少柔らかくなり、私はＰさんと共に会議室へ。
　テーブルに向い合せに座り、Ｐさんは切り出しました。

Ｐ「それで、音葉のアイドル初仕事なんだが」

音葉「……はい」

Ｐ「青年漫画誌の、グラビアだ」

音葉「……え？」

Ｐ「……グラビア」

音葉「……ほんと……ですか？」

Ｐ「……そうだ」

　グラビア、とは。
　その響きによって、私の思考回路に休符が書き込まれたのです。

音葉「……えっと」

Ｐ「……」

音葉「……グラビア、って」

Ｐ「ん？」

音葉「……水着……とか」

Ｐ「……あるな」

音葉「……そう……ですか」

Ｐ「……」

　私は、なにも言えなくなります。
　肌を晒すなんて。確かに頭の中では、そういう仕事もあるだろうとは理解しています。
　でも。

Ｐ「恥ずかしいよな。ごめん」

　Ｐさんの謝罪に、私は首を横に振るだけ。
　Ｐさんが謝ることではないのです。私が未だ、アイドルというプロフェッショナルになれないだけ。
　でも、恥ずかしい。
　恥ずかしい。

　せめぎあいで、頭が沸騰してしまいそうです。

Ｐ「いきなりハードルの高い仕事だと思う。ただこれを選んだのは、俺の考えあってのことだから」

Ｐ「音葉には心労を掛けるけど、越えてほしい」

　私の頬が、みるみる熱くなるのを感じます。
　Ｐさんの考えあってのこと、とはいえ。この恥ずかしさはどうあっても克服できそうにありません。
　私がうつむいたまま動けないでいると、ふぁさっと、なにかが置かれます。

Ｐ「見てほしい。これが」

　Ｐさんの顔と、目の前のペーパー。
　私の両の眼に飛び込んだ記号が頭の中で、音をかき鳴らしはじめます。

Ｐ「音葉のデビュー曲だ」



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

　さああ、と。
　シャワーの音が響きます。

音葉「……ふう」

　私は髪を洗いながら、ため息を吐くのです。

　Ｐさんに譜面を預けられ、私は女子寮へ戻りました。
　そのペーパーに刻まれた音。それは私を新たな扉へ導くものです。
　でも、その前に。

　水着グラビア。あまりにも高いハードルがありました。
　正直、頭の中が煮えたぎっています。

音葉「……シャワー浴びよう」

　たぎる熱を冷ましたい。私は水を欲していました。
　そして、女子寮の大浴場へ。

　カランの前にある鏡。濡れた髪もそのままに、裸の私がそこに佇んでいます。

音葉「……水着」

　私は両の手で、顔を伏せるのでした。

　いくら熱を冷まそうとも、羞恥心が顔をもたげます。
　誰とも知らぬ方に、肌を晒すなんて。私のような者が人前で肌を晒すことは、失礼なのではないでしょうか。
　私は再び、頭からシャワーを浴びます。

星花「音葉さん、ごきげんよう」

　気が付くと、隣に星花さんが来ていました。

星花「デビュー、決まったそうですわね？」

音葉「……ええ」

星花「……心配事、ですの？」

　その問いかけに、私はうなずきます。
　あまり他の方に話すことではないと思いつつ、星花さんならという気持ちもどこかにあったのでしょう。

音葉「……グラビア、だそうです」

星花「まあ」

　星花さんはあまり驚くこともなく、優しげな声色でそう言いました。

星花「初めての水着は、恥ずかしいものですわ。殿方の目に触れるわけですし」

音葉「……」

　星花さんも、同じようなハードルを越えていったのでしょうか。
　今こうしてアイドルとして心強く活躍している姿は、乗り越えた強さを抱えているのでしょう。
　それは確かなことと、思えます。

星花「それを素直に受け入れることなど、できます？」

音葉「……いえ」

　私はかぶりを振りました。

星花「でも」

　星花さんは、出しっ放しだった私のカランを止め、まなざしを向けます。

星花「そこから踏み出させてくださったのは、Ｐさんであり、それから」

　そして、瞳に色を湛え。

星花「カメラマンさんや、スタッフの方の献身、でしたわ」

　そう、私に言うのでした。

星花「そうですわねえ……」

　星花さんは少し、考え込む仕草をします。

星花「音葉さんは、記念写真を撮っていただいたこと、何度かありますでしょう？」

音葉「……ええ」

星花「わたくしもその程度のものと思っておりました。でも」

星花「そうではなくて。そう。対話、なのですわ」

音葉「……対話」

　星花さんの言う対話。私には高い壁のように思えました。
　私のこの性格で、はたして。

星花「ああ、対話と言っても、本当に話をすることではありませんのよ？」

星花「カメラマンさんのその手にあるカメラを通して、想いをやり取りするのですわ」

音葉「？」

　星花さんの言っていることが、分かるような、分からないような。
　たとえば、それは私が楽器や音を通じて語る、といった類のことでしょうか。

　そこは、経験というものなのでしょう。

星花「……実際に、プロの現場を経験なさるとよろしいでしょう。きっとすぐに」

星花「わたくしたちと同じだと、気づくはず、ですわ」

　星花さんはそう言いました。

音葉「……はい」

　これは、仕事なのです。
　なるほど、どのような仕事であっても、同じ感性を持ち得ているものだと。
　星花さんは、今までの経験で言ってるのでしょう。
　今まで悶々としていた気持ちが、星花さんの言葉で和らぐ気がします。
　私は、洗面器に溜まったお湯を、顔に。

　ばしゃあ！

　勢いよく掛けました。
　ぽたぽたと雫が滴り、私の気持ちが落ち着いていきます。
　鏡に映ったその表情は、確かに私を取り戻していました。

音葉「……ありがとう。星花さん」

星花「いえ？　さ、これでお拭きになって」

　そう言ってタオルを差し出してくれました。
　お言葉に甘えて、顔をぬぐいます。

星花「さあ！　せっかくですから、音葉さんの背中、流しますわ」

音葉「……え」

星花「一度こうして、音葉さんの背中流したかったのですよ？」

音葉「え……ひゃあ！」

　星花さんの手が私の背に触れ、つい変な声を上げてしまいました。

音葉「……あ、あの」

星花「遠慮なさらず。さ、後ろを向いてくださいまし」

音葉「……」

　私はそれ以上なにも言えず。
　ただ、星花さんのなすがままに。

　長湯でのぼせたことも、それもまたお互いの距離を縮めるスパイス。
　星花さん。
　偶然がもたらした出会いに、感謝します。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

カメラマン「そりゃあ緊張するよねえ！」

音葉「……」

　撮影当日。
　私とＰさんは、撮影場所に来ています。
　まるでアトリウムのような高い屋根を持ったガラス張りの室内プールを、今日のために貸切としていました。
　それを見て、私の中に治まっていたはずの不安が再び、顔をもたげるのを感じました。

　カメラマンの先生とは、ここに伺う前に顔合わせを行っています。
　事務所で何度かのミーティング。
　先生とＰさんが進めていく作業を、私は他人事のように見ていました。
　撮影というものの実感が、手触りがなかったのです。

カメ「どんなにさあ、大丈夫って言ったところでさ。緊張しないわけないんだよ。だからそのまんまでいいから！」

　私ひとりの撮影のためだけに、これだけの大人数が動くこと。
　目の当たりにしてようやく、その大それたことに気付くのでした。

音葉「……よろしく、お願いします」

カメ「いいっていいって！　今日はまだ始まったばかりだし、ゆっくりがんばりましょ！」

カメ「んじゃＰちゃん。最終の打合せ、しよっか」

Ｐ「はい、じゃあ行きましょうか」

　先生はそう言うと、Ｐさんを連れてロビーへ。
　私はスタイリストさんに連れられ、更衣室へ。
　いよいよ始まるという緊張の中、今日の撮影衣装として出されたのは、シンプルな白のビキニでした。

スタ「先生がね、『音葉ちゃんは染まってないから！』って、これをって」

音葉「……はあ」

スタ「先生が衣装に口出すのって、珍しいんだけどねー」

音葉「……そう、なんですか」

スタ「そうそう。確かにねー、音葉さんの肌の白さだと透明な感じがしていいなーって、あたしも思うな」

スタ「さあ、任せて！　これから妖精になってもらいますからねー」

　スタイリストさんとその付き人さんが、私を整えていきます。

スタ「ほんとメリハリ効いたスタイルだよね！　うらやましいわー」

　そう言うスタイリストさんの方が、出るとこ出て、しかも美人で、うらやましいと思ってしまうのですが。
　そんな私の思いをよそに、スタイリストさんは言います。

スタ「どんなアイドルさんもね？　はじめっから自分に自信のある人なんて、いないの。周りが評価してくれて、徐々に自信になるの」

スタ「ただねー、あんまり自分を卑下するのはよくないからね？　周りがいいって評価してくれることを受け入れなきゃ、ね」

スタ「『いいよ！』って言ってくれたことには『ありがとう』で、これで万事オッケー」

音葉「……ありがとう、ございます」

スタ「そうそう！　その調子！」

　私がお礼を言うと、スタイリストさんは笑顔を返してくれました。
　そっか。ありがとうでいいんだ。
　ちょっとだけ、自分自身をポジティブに感じようと、そう思うのでした。

　それにしても。
　水着での撮影だから、準備にそう時間はかからないなどと。そんな根拠のないことを思っていました。
　実際は着付けはもちろん化粧にも、ヘアセットにも、ものすごく時間をかけるものと、今この場で理解しています。

音葉「……」

　私は、着せ替え人形のよう。
　鏡に映る姿が、目まぐるしく変容していきます。

スタ「音葉さんは普段、あんまり化粧とかしないでしょう？」

音葉「……え……はい」

スタ「写真はねー。疲れとかなんとかも写っちゃうから、ちょっとしたくすみもつぶしておかないとねー」

　化粧は顔だけでなく、全身に施されます。
　こうした裏方さんの、地道なお仕事でアイドルが活かされる。なるほど、献身という意味が少しだけ、分かる気がします。

スタ「でも音葉さんは、肌のきめが細かくてきれいだよねー。手をつけるとこほとんどないもんね」

　そう言いつつ、スタイリストさんの手は止まりません。
　なにかの品評会に出されるみたいで、私は可笑しくなりました。

　ようやく。準備が整いました。
　不思議です。あまり恥ずかしさを感じません。
　ああ、これが。
　星花さんの言っていた「献身」。スタッフさんたちの気遣い、いいえ、『心遣い』です。
　それを実感し、体験して、心を前向きにしてくれたのです。

カメ「お、準備できたね。じゃあ始めようか」

　アイドル。それを意識して。

音葉「……よろしく、お願いします」

　私はプールに戻ってきました。

カメ「よーし！　じゃあいくか！　Ｐちゃん、いいかい？」

Ｐ「ええ、お願いします」

カメ「じゃあね、音葉ちゃん。プールサイドに座って、足先プールにつけてみようか」

音葉「……あ、はい！」

　残響拡がる室内プール。カメラマンの先生の声はよくとおります。
　そして。
　ぱしゃっ、ぱしゃっ、と。こだまするシャッターの音。

　私はゆらゆらと足を動かし、波立つ水面をぼんやりとながめます。
　先生はことさら細かい指示を出さず、むしろ自分からなにかを探そうと動いています。
　その動きに合わせ、周りのスタッフさんたちも動きます。
　言葉少なく、まるで群舞のようです。

カメ「音葉ちゃん、こっち」

　その言葉に、私は目線を上げようとしたところ。

　ぱしゃっ。

カメ「うん。いいねその表情」

　特に意識したわけではない私の表情を、先生は嬉しそうに拾うのでした。

カメ「音葉ちゃんはさあ」

音葉「……はい」

カメ「歌。好き？」

音葉「……え？……は、はい」

カメ「Ｐちゃんに聞いたけど、歌デビュー、すぐなんでしょ？」

音葉「……そう、ですね」

　Ｐさんから聞かされていること。
　グラビアデビューからあまり間を置かず、歌手デビューを果たす。
　今、そのスケジュールで動いています。

　先生は手を休めることなくシャッターを切ります。
　Ｐさんは少し離れたところで、他のスタッフさんと談笑しているみたいです。

カメ「そっか……不安？」

音葉「……はい」

　不安は、あります。今までの自分とは違う自分を見せる、不安。
　そのプレッシャーを肌で感じていることは確かです。しかし。
　練習に明け暮れるうちに、感じたことがあります。

　私自身の歌を、誰かに届ける。
　その機会を求めている自分に、気づきました。
　デビュー曲をなぞらえるうちに、自分の心の在り様に変化が生じたのです。

　届けたい。伝えたい。
　そう、思うようになったのです。

カメ「だからかー。うん、ちょっとね。音葉ちゃんの顔、堅いね」

音葉「……そう、ですか」

カメ「ん？　いやあ、大丈夫さ。まあちょっと、俺に任せて」

カメ「おーい！　マルー！　シュンヤー！」

　その声に、男性スタッフふたりが先生のもとへかけてきます。そして先生は、スタッフさんになにかを耳うちしました。
　うなずくスタッフさん。

カメ「あ、そうだ。ＰちゃんＰちゃん！　ちょっと来てくれるかなあ！」

　そして先生は、今度はＰさんを呼びました。

Ｐ「はい？　どうしたんです？」

カメ「ちょっと見てごらんよ音葉ちゃんの表情。こわばってるじゃん」

　Ｐさんと先生は、傍らのモニタを見ながら話をはじめました。

Ｐ「ああ、初めての撮影なもんですから。慣れてないので。申し訳ありません」

カメ「そりゃ解ってるさ。打合せもしてるんだしさー。でもさー、俺としてはやっぱ、笑った顔も見たいと思うのよ」

カメ「だからさー」

　そう言うと先生は、指先でなにか合図のようなものを出します。
　その合図で、マルさんとシュンヤさんがＰさんを両脇から抱え、プールサイドに連れて行き。

Ｐ「えっ！　ちょっと！」

カメ「ちょっとＰちゃん犠牲になってよたのむよ！」

　そのまま。

　ばっしゃーーーーん！！

　プールへ放り投げたのでした。

音葉「……Ｐさん！」

　私が驚いて叫ぶと、Ｐさんは「ぷはあっ！」と水面に浮かんできて。

Ｐ「ちっきしょー！　やられたー！　ほれ音葉笑えー！」

　そう叫んで、プールを泳ぎはじめました。犬かきっぽく。
　しばらく固まっていた私は、その姿を見て。

音葉「……ぷっ……ふふ……ふふふっ」

　笑いが込み上げてきたのでした。

カメ「おし、Ｐちゃんよくやった！」

　先生はシャッターを切ります。

音葉「……ふふふっ、ふふっ」

Ｐ「音葉いいねー！　その顔いいよー！」

　そう言ってＰさんは「えいっ！」と私に、プールの水をかけます。

音葉「きゃっ！」

Ｐ「ほれほれ、やられたらやりかえす。音葉カモン！　ばっちこい！」

　Ｐさんはプールで立っています。なら、私も。

音葉「……えい！　えい！」

　ばしゃばしゃと。私はＰさんに水をかけるのです。

　Ｐさんと私の水浴びごっこ。そんな表情を、先生は丁寧に切り取っていきます。
　ぱしゃっ。ぱしゃっ。
　シャッターの音が、冷えた体と熱い心に沁みとおってくるようでした。

　撮影は進んでいきます。
　プールサイドに。水面に。いろいろな場所で、先生と私の共同作業が進行していきました。
　Ｐさんのスーツは、スタッフさんが責任を持ってクリーニングへ。
　代わりの服をすぐに手配してくれ、今はラフな格好で撮影に立ち会っています。

カメ「ねえ音葉ちゃん」

音葉「……はい？」

カメ「歌。好きかい？」

　先生は、先ほどと同じことを訊きます。

音葉「……はい、好きです」

カメ「もしよければ、さ。なにか歌ってくれるかな？」

音葉「……歌、ですか？」

カメ「うん、よければだけど」

　私はＰさんに視線を向けます。
　Ｐさんは視線に気づき、私に歩んできました。
　デビューを迎える私。しかし、持ち歌は多くありません。
　デビュー曲とカップリング曲、せいぜいその程度。そんな不安が、表情に出ていたのかもしれません。

Ｐ「先生」

カメ「なんだいＰちゃん？」

Ｐ「音葉のデビュー曲、ここで聴かせるのはまずいんで……ほら、レコード会社の事情もあるんで」

カメ「あーそっか。それじゃあ仕方ないかあ」

Ｐ「だからさ、音葉」

　Ｐさんは穏やかな笑顔で、私に言います。

Ｐ「音葉が小さいときに聴いた歌。よかったら俺に聴かせてよ」

　Ｐさんからのリクエスト。
　私はその言葉に戸惑ったものの、そのＰさんの笑顔に、心の色を見たのでした。

　自分の思いどおりに。

　私に、しがらみなくただ純粋に、好きに歌ってほしいと。
　そう、願っているように見えました。
　ですから。

音葉「……わかりました」

　私はプールサイドに腰かけ、目を閉じ、幼いころのあの歌を思い出すのです。

宮沢賢治　-　星めぐりの歌（Vo.遊佐未森）

https://www.youtube.com/watch?v=Quzka2DFnfU

―――あかいめだまの　さそり
　　　ひろげた鷲の　　つばさ
　　　あをいめだまの　小いぬ、
　　　ひかりのへびの　とぐろ。

　小さいとき、星空を模した映像がその歌と共に流れ、私はそれにくぎ付けになりました。
　泣きそうになるほどの青。
　その歌の色が、私の心の片隅に強く印象付けられたのです。

　　　オリオンは高く　うたひ
　　　つゆとしもとを　おとす、
　　　アンドロメダの　くもは
　　　さかなのくちの　かたち。

　それが宮沢賢治の曲と知ったのは、だいぶ大きくなってからのことでした。
　それを知ってもなお、私の心にはあの青と星が、鮮やかに煌いているのです。

　　　大ぐまのあしを　きたに
　　　五つのばした　　ところ。
　　　小熊のひたいの　うへは
　　　そらのめぐりの　めあて。

　アトリウム然としたプール。まだ外も明るく。しかし、私を覆う世界は、確かに星空でした。
　ふと、目を開けると。
　先生もＰさんも、スタッフの方々みな、動きを止め私を見ています。

　その視線を私は当たり前のように受け止め、私は自分の色が響き渡るのを、この目にとらえたのです。
　ああ。こういうことですか。
　Ｐさんの言った、自分の色に染めるということ。なんと温かく、心地よいものでしょうか。

　私は歌い切り、一礼を。
　そして、しばしの沈黙。

――ぱちぱちぱち
――ぱちぱちぱちぱち……

　拍手が鳴り響きます。

カメ「すごい……すごいよ！　音葉ちゃんすごいよ！」

　そう言った先生はふと我に返り、あわててシャッターを切り始めました。

　ぱしゃ！　ぱしゃ！

カメ「デビュー楽しみだよ！　ＣＤ買うから！　絶対買うから！」

　そう言いながら、シャッターを切る手は止まりません。
　たとえお世辞でも。
　そうおっしゃってくださる方がいるということ。私はなにか、熱いものを感じずにはいられません。

　Ｐさんは大きく両手で「まる」を描きます。
　そうか。そうなんですね。

　アイドルというものの力を、私は覚えた気が、しました。

Ｐ「なあ、音葉」

　撮影が終わって。
　スタッフの皆さんが撤収作業を行っています。
　私とＰさんはすでに着替えて、あとは事務所へ帰るのみ。

音葉「……はい」

Ｐ「さっきは、すまなかった」

音葉「……なんの、ことですか？」

Ｐ「デビュー曲のこと」

　そうでした。
　先生が歌のリクエストをしたとき、Ｐさんは先手を打ったのでした。

音葉「……」

Ｐ「俺も音葉に無茶ぶりしてさ、申し訳ないと思ってる」

音葉「……いえ」

Ｐ「まあぶっちゃけ。たかがデビュー曲くらい、ってさ。そういうプロデューサーもいたりする」

Ｐ「でもさ、俺。そういうのダメなんだよ」

音葉「……」

Ｐ「デビュー曲はさ。これからアイドルとしてはばたく一番最初の曲なんだ。宝物だと思ってる」

Ｐ「だからさ。おいそれと聴かせたらいけないだろうってさ。そんなふうに考えるんだ」

Ｐ「最初に届ける相手は、音葉のファンに。そこだけは譲れない」

　Ｐさんはそんな言葉を出すと、頭をぽりぽりと掻きました。

音葉「……」

Ｐ「ま！　俺だけかもしれないけどさ。そんなこだわり」

音葉「……いえ」

Ｐ「ん？」

音葉「……大切にしてくださって、ありがとう、ございます」

　私はＰさんの言葉を聞いて。
　ああ、この人にお任せして、本当によかった。そう思ったのです。
　この先もきっと。Ｐさんとなら大丈夫。

Ｐ「いや、大したことじゃないさ」

音葉「……これからも、よろしく、お願いします」

　私は、Ｐさんに一礼を。

Ｐ「いやいや音葉。これからが本番だから、な？」

音葉「……そう、ですね」

　Ｐさんの瞳は、その先を見ているようでした。
　デビューの日まで、もうすぐ。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

※　とりあえずここまで　※

お読みいただき、ありがとうございます　ﾉｼ

投下します

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『――みつめて、ください』

　発売された青年誌の表紙に映る、私の姿。

音葉「……」

　何度見ても、恥ずかしさで顔が熱くなります。

Ｐ「このタイミングしか、なかったからなあ。でも音葉。よくやってくれたよ」

音葉「……」

Ｐ「ありがとうな」

　Ｐさんは私に微笑みかけます。

　ぽっと出の新人が自分を覚えてもらうとき、どうしてもビジュアルは避けて通れない、と。
　Ｐさんは水着表紙の意図を教えてくれました。
　ただＣＤ発売とタイミングがずれると、グラドルと勘違いされる危険が。そんなわけで、シングル製作とほぼ同時にスケジュールは進行していました。

『○月○日にＣＤデビューの音葉ちゃん。最初で最後の水着に挑戦してくれた彼女に注目だ！』

　テレビやラジオの出演もこなし、少しずつ私を知ってもらえているのが、最近肌で感じるのです。
　スケジュールをやりくりしながら通うキャンパス。いろんな方から声をかけていただけるようになりました。
　慣れない好感にとまどいましたけど、でも。
　Ｐさんと一緒にお仕事を進めていくことで、それを受け止める素地が、できたような気がします。

音葉「……いえ。私こそ」

　父の言を守り、スケジュールを整えながら私を音大へ送ってくれるＰさん。
　またひとつ、つながりが深くなった気も、するのです。

Ｐ「……いよいよだなあ」

音葉「……はい」

　来週には、デビューライヴが。
　Ｐさんが用意してくれたのは、５００席の小ホールでした。

音葉「……なぜ」

Ｐ「ん？」

音葉「……なぜ、ホールなんですか？」

Ｐ「ああ、そりゃあさ」

　Ｐさんは笑みを湛えたまま、私に言います。

Ｐ「ああいうホール。音葉のホームグラウンドだろ？」

音葉「……あ」

Ｐ「できれば、さ。音葉が『いつもどおりの』緊張を持てるところの方が、いいと思ったからさ」

　ああ、Ｐさんという方は。私の不安にいつも、寄り添ってくれるのですね。
　確かに、テレビ局のスタジオなどでの収録とか。今まで経験のないところでの活動は、想像した以上に緊張と疲れがもたらされる場所でした。
　事務所に戻り、トレーナーさんからマッサージとストレッチを受け、Ｐさんとその日感じたことを話し合い。
　緊張が一日中、私を拘束していたことを実感する毎日でした。

　かたや、シアターホール。そこは確かに、ホームグラウンドと言っても過言ではありませんでした。
　発表会、コンクール。
　そこに立つことの愉しみを、いくぶん知っていると思います。ひょっとしたら、音遣いという性分なのかも、しれません。

音葉「……ありがとう、ございます。Ｐさん」

Ｐ「いや、やっぱりさ。最初の大舞台だし。全力の音葉が観たいんだよ」

Ｐ「これは、俺のわがまま」

　事務所のスタッフの方から伺ったところでは、三回のステージは全席予約で満杯だとか。

音葉「……できるでしょうか」

　そう言いつつ、私には『やる』という選択肢しか、あるはずがないのです。
　不安に思うことも愉しみに。
　これまでのレッスンやお仕事や、あるいは今までステージに立った経験。すべてが私の糧となっています。

Ｐ「やる。だろ？」

音葉「……はい」

　Ｐさんはわかってくれている。
　私は力強く返事をしました。

音葉「……トゥッタ……フォルツァ」

　すべてはこのときのために。そしていよいよ、時間がやってきます。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

　その日が来ました。
　ホール席はすべて取り払われ、聴衆を迎え入れる準備ができています。

音葉「……席が」

Ｐ「うん。なんかこう、すっきりしてていいよね」

　Ｐさんは最初から、このホールと決めていたようでした。
　オールスタンディングにできること。ステージが低めに設定されていること。
　いろいろ考えてのことだそうです。

Ｐ「音葉にさ、ファンのみんなとの距離を、感じて欲しいんだ」

Ｐ「……どうだい？」

音葉「……」

　シンフォニックホールとはやや違う、その距離。
　迷い込んだ私たちを、ここは温かく迎え入れてくれました。

音葉「……素敵です」

Ｐ「ならよかった」

　Ｐさんはやさしく微笑みかけてくれました。

ちひろ「で。なんで私がここにいるんでしょうかねえ？」

　ちひろさんの言葉は、やや震えています。

Ｐ「いやちひろさんにしか、お願いできませんから。ええ」

ちひろ「ほんと勘弁してください！　もう逃げ出したいんですから！」

　このライヴ、司会進行をちひろさんにお願いしているのです。
　それは私の、ささやかなお願いでした。
　初めてのライヴ。未知の世界です。
　だからこそ私は、私を知るちひろさんにお願いしたかったのです。
　不安を抱えた駅前での待ち合わせ。あのときのちひろさんの笑顔に、救われたのですから。

Ｐ「ここは音葉に免じて！　よろしく！」

ちひろ「……今回だけですからね」

Ｐ「ありがとう！　ちひろさんマジ天使！」

ちひろ「……まったく調子いいんだから。困ったもんですよね、音葉ちゃん？」

音葉「……あの……よろしく、お願いします」

　ちひろさんは少し困った顔をして。

ちひろ「私もがんばりますから、ね？」

　そう言ってくれたのでした。

　ファンの方々が早くから、私のために並んでくれているようです。
　私は、控室で私自身を整えます。

　Ah――Ah――Ah――

　Ｃ（ツェー）の音を、強く、弱く。
　上行と下行。ひとつひとつの色を確認しながら、私は自分を染め変えます。
　私は、アイドル。

スタッフ「梅木さーん、準備お願いしまーす」

　どれほど経っていたのでしょうか。気が付けば、もうそんな時間。
　いよいよ、出番のとき。

　袖には、Ｐさんが待機していました。

Ｐ「……いいよな？」

音葉「……はい」

Ｐ「……楽しみだな」

音葉「……はい」

　私とＰさんとふたり。緞帳のないステージを見つめます。
　ファンの方々の熱気。
　準備は整いました。

　暗転。

ちひろ「本日は、梅木音葉デビューライヴにご来場、誠にありがとうございます……」

　ちひろさんのやさしい響きが、会場に拡がりました。
　地鳴りのようなどよめきが、伝わります。

　とんっ、と。
　私はＰさんに肩を押され、導かれます。

ちひろ「それでは短い間ですが、初ライヴ、お楽しみくださいませ」

　前奏が鳴り響きます。客席からの歓声。
　とくん。
　とくん。

　不安と期待の鼓動を携え。私はステージに踏み出しました。

野田幹子　-　揺れる～I　miss　you～
https://www.youtube.com/watch?v=VKvEuFPq38k

　センターには１台のピアノ。
　ライトのないステージのセンターへ、私は歩み寄ります。
　そして。スポットが点されました。

客席「おおおーーー！！」

客席「音葉ちゃーーーん！！」

　サイリウム、と言ったでしょうか。目に映る光が、私の音を導きます。

―――揺れる……　眠れないの　あなたのことを思うほどに
　　　揺れる……　この恋を選んだのは　私から……　I　miss　you

　アモローソ。やさしく、語るように。
　私は目の前のファンに、歌で語るのです。

　　　夢を見ていたのね　あなたの後姿
　　　消えて目が覚めたの　涙に濡れていた

　この声で。この色で。
　今ここにいる貴方に、届いてほしい。
　私の想いと、伝えられる歓びと。

　　　ああ　独り　ひざを抱えたまま
　　　ためいきが凍る
　　　ああ　どんな　甘い夢を見るの
　　　あの人のそばで

　淡く儚い色が、会場に沁みてゆきます。
　ああ。
　ピアノではない、私自身の声で。伝わっていくことの嬉しさが。

　　　揺れる……　やるせないの　朝に近いこんな夜は
　　　揺れる……　今すぐに逢いたくなる　できるなら　I　miss　you

　切ない歌であるはずなのに。私の身体は、歓びに震えています。
　本当に。

音葉（……嬉しい）

　　　ああ　そして　月灯りの窓辺
　　　立ちすくむ　わたし
　　　ああ　ふたり　あの星に行けるなら
　　　連れ去ってほしい

　さあ、皆さんをお連れしましょう。あの、色の先へ。
　揺れるサイリウムとともに。私の歌が、昇華してゆきます。

　　　揺れる……　眠れないの　あなたのこと愛するほど
　　　揺れる……　この恋を選んだのは　私から　I　miss　you

　息をのむ瞬間。この時。
　私の語らいが、終わります。

　フェードアウト。

客席「おおおーーー！！　音葉ちゃーーーん！！」

　暗転の中で。
　反響の洪水に浸りながら、私は一礼を捧げるのでした。

　徐々に拍手の波も退いてゆくころ。
　ちひろさんが、ステージ上手から出てきます。

ちひろ「本日は梅木音葉のデビューライヴに、ようこそお越しくださいました！」

ちひろ「本日の進行を務めさせていただきます、千川ちひろと申します。よろしくお願いいたします」

　そう告げて、ちひろさんは一礼をしました。

客席「ちひろさんかわいい！」

客席「ちひろさん歌ってー！！」

ちひろ「えっ……あああああの、わわわ私アイドルではありませんので！」

　あわてるちひろさんに、客席から「かわいいー！！」の声が飛びます。
　その雰囲気のおかげか、緊張が和らいでいく気がしました。

ちひろ「え、えーと。改めまして。本日デビューいたしました、梅木音葉さんです！」

　ちひろさんから紹介を受け、私は一礼をし顔をあげます。
　客席のファンの方たちの笑顔。それが間近にわかります。
　なるほど。
　この距離感、大変好ましく感じます。Ｐさんのおっしゃったことが、実感できました。

音葉「……梅木、音葉です……はじめまして……よろしくお願いします」

　客席から温かい拍手と声援をいただき、ふと、『帰ってきたんだ』という感覚に囚われました。
　ホームグラウンドという、Ｐさんが言っていた意味。
　その言葉をかみしめ、私はステージ奏者としての緊張を高めていきます。

ちひろ「どうですか？　こうして大勢のお客さんの前で初めて歌った感想は」

音葉「……そう、ですね……緊張しました、けど。　……嬉しかったです」

　私は客席の笑顔を感じつつ、そう答えました。

ちひろ「皆さん、素敵でしたよね？」

客席「よかったー！！」

客席「かわいかったー！！」

　ちひろさんの問いかけに、大勢の声がこだまします。
　距離が近いということ、それは、このような声が届きやすいということ。肌にそれを感じるのです。
　不思議と、笑みがこぼれてくるのです。

　自己紹介も済み、ライヴスケジュールは滞りなく進行してゆきます。
　少しずつ私の会話も、途切れなくなってきました。

ちひろ「ところで、音葉ちゃんの特技はピアノ、とか」

音葉「……あ、はい。小さいころから、やってます」

ちひろ「もしよかったら、せっかく後ろにピアノがありますし？　ここで一曲聴かせてもらってもいいですか？」

音葉「……はい。よかったら」

　客席からの「お願ーい！！」の声。その声に背中を押されるように、私はピアノへ歩み寄りました。

ちひろ「それでは。なにを聴かせてくれます？」

音葉「……えーと。クライスラーの『愛の喜び』という曲を」

ちひろ「はい、それではお聴きくださいね。クライスラーで、愛の喜び」

　客席が静まり返ります。私は鍵盤の前で一度手を組み、ふぅとため息を。
　そして。

F.Kreisler(arr.S.Rachmaninov)　-　Liebesfreud(演奏：羽田健太郎)
https://www.youtube.com/watch?v=F-YL-v-CW4Y

　力強く、おおらかに。
　そうです。私がアイドルとして、この場に立つきっかけを作ってくれた星花さん。
　彼女とのデュオを想い、この曲を選んだのです。

　彼女が体現した、大きなアゴーギグにデュナーミクを。私なりに解釈して、私自身をぶつけるのです。
　ここはコンクールじゃない。私には、私の色をひとつ残らず捉えようとする、多くの聴衆がいる。
　それが、あふれんばかりの歓喜につながります。

　冒頭のアッチュレランド。喜びに震えるように速く。
　そして、タッチの対比を。大きく、小さく。
　転調のたびに、揺れ動きつつ。

　メノ・モッソ。テンポ・プリモ。
　その大波をたゆたう私は、指先に色をこめてゆきます。
　みんなに届きますように、この慶びを。このときめきを。

　メノ・モッソ・クアジ・カデンツァ。
　私は妖精。ちょっとおどけて、すましたポーズ。
　そして、ピウ・モッソからヴィヴァーチェへ。
　最後の想いをすべて乗せ、私は客席へ届けます。
　グリッサンド。あとは。

音葉「……ふぅ」

　ぱんっ！　ぱんっ！
　拍手が沸き起こります。「音葉ちゃーーん！！」の声とともに。

音葉「……ありがとう、ございます」

　私は、流れる汗を体に受け止め、客席の声に振り向きます。
　アポテオーズ。
　その感動はコンクールのものとは違う、私だけのもののような、そんな気がしました。

ちひろ「はい、いかがでしたか？　なんかこう、これアイドルのライヴだったはずだよね？　とか思いませんでした？」

客席「わははは」

ちひろ「素敵でしたねえ。音葉ちゃんの別の一面も見られたんじゃないでしょうか、ね」

ちひろ「ではここで、お待たせしました！　グッズの抽選会の時間です！」

客席「おおおおーー！！」

ちひろ「皆さんチケットはお持ちですよね？」

客席「持ってまーーす！！」

ちひろ「本当ならすぐにお渡ししたいところですが、ステージ前が混乱しますので、ライヴ終了後に引き替えとなります。ご了承ください」

　予告されていた抽選会。私は番号札を取り出していきます。
　読み上げるちひろさんの声に、喜びが交差します。

客席「よっしゃあああああ！！」

客席「次！　次カモン！！」

　ステージからその顔を見るにつけ、私の中になにか暖かさのようなものが湧いてくるのを、感じるのでした。
　ああ、なにかこう。
　いいもの、ですね。

　そして、ステージもあっという間にラスト。

ちひろ「さて、本日のデビューライヴはいかがでしたか？」

客席「もっと聴きたーーい！！」

ちひろ「ありがとうございます。これからますます、活躍の場を拡げていく梅木音葉を、どうぞ応援してくださいね？」

ちひろ「それじゃあ、音葉ちゃんからもご挨拶を」

　自然と笑みが浮かびます。私は、私のファンになってくださるだろう方々に、届けるのです。

音葉「……今日は、ほんとうにありがとうございます……今日ここにきてくれたファンの方に、エールを送ります」

音葉「……お聴きください」

　カップリング曲の前奏が流れてきます。
　私はセンターに立ち、私のファンにその色を魅せるのです。

谷村有美　-　がんばれブロークン・ハート

―――思い出が肩をたたく街角
　　　シャンデリアみたいな灯がまつ毛でにじむ
　　　涙止まれみんな待ってる

　客席に語りかけるように、やさしく、かわいく。
　マストレさんからの教えは、私にとって未知の領域でした。

マス「音葉。君は圧倒的にキュートさが足りない」

音葉「……キュート、さ？　ですか……」

マス「……ああ、そこから、か……実に教えがいのあるアイドルだな君は」

　表情筋の使い方。歩き方。手先指先までの表情。
　マストレさんが苦笑してしまうほどの悪戦苦闘の中、助けの手を差し伸べてくれたのはＰさんでした。

―――あなたからサヨナラ言われたせい
　　　オシャレして街に出るのめんどうだった
　　　だけど少し心の向き
　　　ずらせば知らずにパンプスはしゃぎだすの

Ｐ「いやいや、なにを苦労してるかと思えば……まあ仕方ないか」

Ｐ「そうだなあ。ゴセックのガヴォットでも演奏してるとこ、想像してみたらいいんじゃないかな」

Ｐ「ただし、演奏してるのは小学生のころの音葉、な」

　そのイメージを想像し、なんとなくはずむような、そんな色を見つけました。そして。

星花「音葉さん！　かわいいものを見に行きますわよ！」

　星花さんに引きずられるように、ウィンドウショッピングの日々。
　私と、同年代の方々の『かわいい』のセンスに、微妙にずれがあるということを知りました。

　事務所のみんなに支えられ、私はアイドルに変わっていったのです。

―――がんばれ　Brokenheart　It's　My　Life
　　　ため息にしばられちゃダメ
　　　がんばれ私の元気ステキになるのよ
　　　がんばれ　Brokenheart　Just　Tonight
　　　楽しいと感じていたい
　　　がんばれときめく気持ちもいちど目覚めて

　客席にウインクをひとつ。
　こうした所作ひとつも、ファンの笑顔を想いながら。マストレさんの教えは、私の身体に当然のものとなりました。

　ピアチェーヴォレ。
　ファンとの方々と。楽しい時間が終わろうとしています。

―――がんばれ　Brokenheart　It's　My　Life
　　　思い出にうずくまっちゃダメ
　　　がんばれ私の勇気扉を開けるの
　　　がんばれ　Brokenheart　Just　Tonight
　　　とびきりの自分でいたい
　　　がんばれ弱気はスキを狙っているから

　客席の声援に見送られ、私は『一旦』退場をするのです。
　アンコールの声を、残して。

客席「アンコール！　アンコール！」

　喧騒が、会場にこだまします。
　私は舞台袖から、鳴りやまぬブラーヴァを肌に刻んでいました。

Ｐ「どうだ？　音葉」

　Ｐさんが隣に立ちます。

音葉「……とても……なんというか」

　言葉が出てきません。そんな私を包むかのように、Ｐさんがささやきました。

Ｐ「あの喝采は全部、音葉だけのものだよ」

　そして私の肩を二回、ぽんぽんと叩くと。

Ｐ「応えておいで」

　そう、言ってくれたのでした。

　カーテンコール。私は再び、ステージに立ちます。

客席「音葉ちゃーーーん！！」

　再びの舞台に呼び寄せてくれた、ファンのみなさんに。私の想いをこめて。
　歌います。

G.Caccini　-　Ave　Maria(vo.本田美奈子)
https://www.youtube.com/watch?v=_puB04VtmD0

―――A―――ve――――――Mari―――a―――……

　マストレさんからの教えでした。

マス「いいか音葉。君はアイドルだ。ディーヴァとはある意味違う」

マス「コロラトゥーラは捨てるんだ」

　歌うことを意識してから、私にはある癖がついていました。
　コロラトゥーラ。
　オペラのプリマたちが競うその歌い方は、私の印象に強く残っているのでした。

　カッチーニのアヴェ・マリアをＰさんが選んだとき、天啓である。と。
　そう感じた私に、その言葉は衝撃でした。

　できるだけ素直に、正面から。
　喉を意識せず地声を生かす。
　一度意識した癖を取り除くという、地道で気の長い修練が続きました。

　そして自分の型にとらわれない、ということ。
　私は、Ｐさんとお師匠様とともに、多くの音楽に浸りました。
　ロック、アイドルポップはもちろん、民謡、フレスコバルディに至るまで。

　Ｐさんとお師匠様の知識は、私にとって湧き上がる泉のように澄んだものでした。

―――A―――――――――ve――――――――
―――Ma――――――――――――ri――――――a―――

師匠「アイドルのなんたるかなんて、あたしにはさっぱりだけど」

師匠「ただ、いろんな音と接することは、自分の心を肥やす。それは確かだと思うがな」

　アイドル像を少しずつ作り上げようとするＰさんと、アイドルという概念を持たないお師匠様。
　一緒にいながらどことなくずれていて、でも同じ色を見ているおふたりが、とてもうらやましく思いました。

　私は、このお二方のステージに立てるのでしょうか。
　その思いを片隅に置き、私は修練を続けます。
　すべて、ファンのみなさんへ贈るために。

　透き通る色彩を湛え、私は歌います。
　今ここにいる、アイドルとしての私を……

　スポットが翳り、私は暗転の彼方へ消えてゆきます。
　そして、万雷の拍手。

　サイリウムの光の渦に一瞥を添え、私はカーテシーで応えます。

音葉「……ありがとう、ございました」



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

※　とりあえずここまで　※

このあたりまでが、前回中断までの再掲になります。
少々お時間をいただきます。続きをお待ちください。

お読みいただき、ありがとうございます　ﾉｼ

投下します

↓　↓　↓

師匠「じゃあ、行こうか」

音葉「……はい」

　デビューして３ヶ月。私の生活は私の意識を超えて、大きく変化しました。
　デビューシングルは、オリコンチャートのベスト１０入りを達成。私は全国を飛び回り、ストアライヴをこなしました。
　雑誌やテレビ、ネットなど、様々な取材を受けたり、次の曲に向けてのレッスンをしたり。
　時間がいくらあっても足りない、そう思うほど急激な変化でした。

　でも、Ｐさんが「できるだけ大学には行こう」と、わざわざスケジュールを調整して、私を音大へと運んでくれました。
　そしてお師匠様は、私がピアノレッスンを行う場所を提供してくれました。

師匠「ここなら、自分好みの音で練習できるだろう？」

　それは、調律師であるお師匠様だからこそできることでした。

音葉「……ありがとうございます」

　星花さんは、私がレッスンで悩むことのないよう、時々一緒にヴァイオリンを奏でてくれました。

星花「わたくしも、こうしてレッスンにご一緒できるのですから。光栄なことですわ」

　ちひろさんや事務所の皆さんのサポートも、とても大きなことでした。
　でも。

　スケジュールの合間を縫うようにがんばったとしても、圧倒的に練習時間は足りません。
　そして学内でも、アイドルとしての私が、少しずつ認知されてきて。

学生「音葉ちゃーん！　一緒に写真撮って！」

学生「音葉ちゃん！　ライヴ絶対行くからね！」

　声援を頂戴することは大変うれしいのですが……
　私は、居心地の悪さを感じずにはいられません。

　そして、私は決めました。

音葉「……Ｐさん」

Ｐ「ん？」

音葉「……大学を……休学したい、です」

Ｐ「……そっか」

　このままではいけない。なにがいけないのか、私はよくわからないのですが。ただ、得体のしれない危機感がそう、私に告げるのです。
　本当に、このままでは。

Ｐ「いや音葉は、さ。本当によく頑張ってくれてる」

Ｐ「ただ今はまだ、認知度をもっと上げないといけない時期だし、仕事は減らせない。ごめんな」

音葉「……いえ……わかります」

Ｐ「心一朗さんにさ、できるだけ通わせてくれと言われてたし、俺もできるだけ両立させてやりたいと思っていたけど」

Ｐ「ちょっとな、限界だよな……ほんと、すまん」

　父が「いつかは休学しないとならない」と言っていました。それでもＰさんは父との約束を守り、私を一年間大学へ通わせてくれました。
　ただ、なにかを目指すためには……なにかを犠牲にすることもある。
　そのときが来たのだ、と。そういうことなのでしょう。

　休学すること。それは私はアイドルとして、きちんと飛躍するために必要なこと。
　そう決めたのです。
　私はお世話になったお師匠様へ、決心を報告に行きました。

師匠「そうか。うーん、まあそう決めたのなら、仕方ないな」

師匠「たださ。あたしのわがままなんだが、な？」

音葉「……」

　お師匠様はひとつ、ため息を吐くと。

師匠「……ピアノは、やめるな」

音葉「……はあ」

　もちろんピアノ自体から遠ざかる気持ちは、ありません。お師匠様の意図が、よくわかりません。

師匠「音葉ちゃんの指導教官は？」

音葉「……梅津、先生、です」

師匠「……ほう？」

　お師匠様はなにかを考え、そして、こう言いました。

師匠「いつ、休学届を出すつもりだ？」

音葉「……えっと……近いうちに、としか」

師匠「そうか、そのとき私も一緒に行く。いいか、これは決定事項な」

音葉「……え？」

　私のことなのですが、なぜお師匠様が？

音葉「……どうして」

師匠「梅津先生は、さ。あたしの師匠だった人、なのさ」

　そうおっしゃるお師匠様の顔は、どことなく憂いを伴っているようでした。

　数日経って。私はお師匠様の車に乗り、学校へと向かいます。
　休学。その手続きのためです。
　そして、指導してくださった先生のところへも、お伺いしないとなりません。梅津先生は、短い間でしたが私の指導教官でありチューターでしたから。

　車が駐車場へ滑り込みます。私はお師匠様と一緒に学生課へ。説明を受けたあと書類をいただきます。
　そして、その書類を持って指導教官の待つ控室へ。

　震えが、止まりません。怖くて、怖くて。
　何かが決定的に変わってしまいそうな、そんな先の見えない不安に苛まれています。
　決めたはずなのに、怖い。
　頭の中を堂々巡りしているうちに、控室へと着きました。

　ノックをしようと手を。でも、その手前で止まってしまいます。
　私はくっと手を握りしめ、うつむいてしまいました。
　逡巡する私に、肩をぽんぽん、と。お師匠様でした。
　お師匠様はなにも言うことなく、私の肩に手をやり、ただうなずいて微笑みます。
　大丈夫。
　大丈夫、と。

　……そう、ですね。私は覚悟を決めて顔をあげます。
　とん。とん。２回のノック。
　扉の向こう側から「どうぞ」の声がします。

音葉「……失礼、します」

　部屋へ入ると、先生は応接セットのソファに座っていました。

梅津「ああ、梅木さん。学生課から電話もらってお話は聞いて……」

　突然言葉が止まる先生。その視線は、私の後ろに向いていました。

師匠「……ご無沙汰しております」

　先生はお師匠様の姿を見ると、ソファから立ち上がり。

梅津「梅木さん、ちょっとすまない」

　と、私に言うや。

　ごんっ！

師匠「！　……っだあぁーーーーー！」

梅津「このバカむすめ！」

　頭をげんこつで叩き、そう叫んだのでした。

　私たちふたりは応接ソファに案内され、先生手ずからコーヒーを淹れてくださいました。
　お師匠様はげんこつされた頭をいまだ、撫でてます。

梅津「まず、梅木さんの話からしましょうか」

　そう言いながら先生は、ご自分のマグカップに砂糖を入れます。
　私も、砂糖とミルクを入れます。

梅津「休学ということで学生課から聞いてますけど」

音葉「……はい」

梅津「梅木さんの最近の活躍、聞き及んでいますよ。他の学生から、ね」

　キャンパスであれだけ声援を受けていれば、そうなるのは当然のことでした。
　アイドルとして顔を覚えられるということは、こういう身近なところにも覚えを得る、ということ。
　Ｐさんは、それを誇りに思うといいとおっしゃいますが、まだそこまでの境地にはなれません。

音葉「……ありがとう、ございます」

梅津「……そうです、か」

　先生はため息をこぼしました。

音葉「……先生？」

梅津「ああ、いや。梅木さんが休む前に、もう少しなにかできたかも知れないと、そう思いましてね」

梅津「梅木さんがアイドルとして人気になっているということは、大変喜ばしいことです。そういう才能が開花したんでしょう」

梅津「ただ私は、梅木さんのピアノの才も惜しんでるんです。一葉さんとは違う、才あるピアニストになるのでないかと」

音葉「……え？」

梅津「梅木さん。あなたはお母様と違う。そのことにもっと早く気づかせてあげられたら……」

梅津「まあ、私の思い込みだけです。聞き流してください」

　先生は先生で、私の迷いを酌んでいただけていたのですね。ああ、なんとありがたいことか。
　でも。
　やはり縁というものなのでしょうか。私はＰさんに、私自身の音を拾っていただきました。
　ちょっとしたタイミングの違いだけだったのだと、今は解ります。
　そして、今の私はアイドル。このままでよいと、先生もおっしゃってくださいました。おそらく。

梅津「それはそうと。お聞かせ願えませんか」

梅津「梅木さんと一緒になぜ、あまね君が来ているのですか？」

師匠「……音葉ちゃん、いいから」

　説明をしようとする私を、お師匠様は手で押しとどめました。そして。

師匠「それはあたしが、保護者を頼まれたからです」

梅津「保護者？」

師匠「ええ。音葉ちゃんのプロデューサーと、それから」

師匠「一葉さんに……」

※　とりあえずここまで　※

いよいよ再開部です。お待たせいたしました。
ゆっくりとお付き合いください。

お読みいただき、ありがとうございます　ﾉｼ

大変お待たせしました
投下します

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梅津「そうか……」

　先生は、ため息をひとつ。

梅津「……そうか」

音葉「……先生？」

梅津「……ああいや、少し考え事をしてただけです。申し訳ない」

　そうおっしゃる先生の眼は、明らかにお師匠様へ向けられていたようでした。
　先ほど、先生はお師匠様の頭にげんこつをひとつ、落とされました。それだけで、今までのお師匠様と先生の絆が、想像できます。
　おふたりは、どう感じておられるのでしょうか。

師匠「先生」

　お師匠様が言葉を紡ぎます。

師匠「あまり気にしないでください。あたしは十分、先生によくしていただきました」

梅津「そうは言うがね、あまね君……君がいなくなったことがすべて、そういうことだと分からんのか？」

師匠「……」

　お師匠様は目を伏せました。

梅津「事情が許さないことは分かっている。それでも、だな」

　先生は一息入れ、続けます。

梅津「あまね君には、あのままピアノを続けて欲しかったのだよ」

師匠「……光栄です」

　お師匠様の言葉には明らかに、憂いが伴っていました。
　そして、沈黙。
　私は、かける言葉を見つけることができません。
　ただ時間だけが過ぎゆく中、お師匠様が言葉を発したのです。

師匠「先生」

梅津「……どうしたね。あまね君」

　お師匠様はしばし考え、そして続けます。

師匠「いまだに先生から『あまね君』と呼ばれること、それから先ほどのげんこつ……あたしはまだ、先生の弟子なのですね」

　先生は口元を緩めました。

梅津「何をいまさら……ずっと私の弟子だよ、君は」

師匠「なら」

　そう言い、顔を上げます。

師匠「今この時の、弟子と呼んでいただけるあたしの実力を、先生に評価していただきたいのです」

梅津「ほう？」

　お師匠様と先生、その視線は確かに、かつて師匠であった先生と、弟子であったお師匠様のものに思えたのでした。

梅津「なぜだね？　あまね君も立派な社会人だ。とくに評価することも」

師匠「いえ」

　お師匠様ははっきりと。

師匠「音葉ちゃんの面倒を見ると決めてからずっと、思っていました」

師匠「先生には、あたしが今どういう位置にいるかを、はっきりと。忌憚なく評価してほしい、と」

師匠「それは、あたし自身が音葉ちゃんを弟子にするという、ひとつのけじめですから」

　その眼はひたすらに強く、光を映していました。

梅津「わかった。いいだろう。そのギラギラした表情、久しぶりだ……」

　先生は書棚から、ひとつのピースを取り出し、お師匠様に渡します。

梅津「これを演奏してみなさい。あまね君の苦手としていたものだ」

師匠「……」

　譜面を渡されたお師匠様の表情は、相変わらず強いものでした。
　そして。

師匠「ありがとう、ございます」

　そう言うと、先生に一礼をしたのです。

　私たち三人は、練習室に場所を移します。途中会話をすることもなく、淡々と。
　先生に導かれ廊下を進むと、いつものレッスン室ではなく。

音葉「リハーサル室……」

　ソロイストが演奏するには十分広すぎる部屋を、先生は案内したのです。

　部屋の真ん中に置かれているピアノ。
　お師匠様は手を添え見つめると、少し微笑んだように見えました。

師匠「音葉ちゃん」

音葉「……はい」

師匠「譜めくりをお願いしても、いいかな」

　お師匠様の横顔を伺います。その表情に、かつての印象であった少女を、見た気がしました。

音葉「……はい、よろしければ」

師匠「うん、頼むよ」

　私とお師匠様、ふたりのスイッチが入ります。
　先生は中央から壁寄りに椅子を置き、座りました。
　お師匠様は着座して、しばし瞑想します。そしてゆっくりと構え、音を紡ぎ始めました。

J.S.Bach　-　Itarian　Concerto，BWV　971
https://www.youtube.com/watch?v=iVV0nFJQbgQ

　ワンフレーズで。
　私は、お師匠様の紡ぐ音の、虜になっていました。
　譜面と手元と。私はすべてを見逃すまいと意識を集中します。

　イタリア協奏曲。シンプルでごまかしがきかない曲です。
　その曲を、お師匠様はシンプルに、指先のひとつひとつまで想いを行き渡らせます。
　粒がそろっていて、そして流麗。そこには確かに、かつて神童と呼ばれた少女がいました。

　１４小節。パッセージは正確に、かつ、歌うように。絶妙の指使いでレガートになりすぎないよう、注意が払われています。
　２８小節。勿体をつけすぎないバランスの取れたテヌート。テンポが戻り軽快に続けます。

　ため息が出そうになります。
　こんなにもすぐそばに、これほどの輝きがあったなんて。
　なぜお師匠様は、先生と違えることとなったのでしょう。でも、そんなことは些末に思えます。
　私の隣には、輝きを湛えた少女が。その事実がすべてでした。

　この運命を悦ばしいと、素直に思います。

　６７小節。その指はもたつくことを知りません。機械的になりすぎず、感傷的になりすぎず、お師匠様はぎりぎりの綱を、確かに渡っていました。
　F-DurからD-Mollへの転調も自然に。流れゆく風を感じます。
　１１２小節。トリルの揺らぎも心地よく。私はただ夢中に、譜面をめくるのでした。
　横で演奏するお師匠様の呼吸も、演奏のひとつに同化し。
　１２９小節。カンタービレは優しく、心を響かせます。

　ああ、終わってしまう。
　この時間が続けばいいと、私は思います。それはきっと、先生も。
　その想いは、確信に近いものがありました。

　そして。１９２小節の１楽章が終わりました。
　お師匠様は「ふう」と息をひとつ。ゆっくりと鍵盤から手を放しました。

　あとに残るのは、ふたりの拍手。私と、先生。
　いつまでも、いつまでも。
　お師匠様は安堵の表情で、先生に一礼をするのでした。

　しばしの余韻ののち、先生はおっしゃいました。

梅津「その手を、よく錆びつかせなかったな」

師匠「先生の前に出るのですから、そういうわけにいきません」

　おそらく。お師匠様は私の付き添いで、先生のもとへ行くと決めた時からきっと、想像できないくらいの練習を重ねたのだと、思うのです。
　よい演奏、感動する演奏。その領域に留まっていたらきっと、先生は納得しない。
　感動を超えること。

梅津「一葉さんとは、よく連絡を取ってるのかね？」

師匠「いえ」

　お師匠様は笑います。

師匠「あの方は、ただでさえ忙しいですから」

　先生もつられて笑ったかのようでした。

梅津「なるほど。君に梅木さんを任せたのも、頷ける」

梅津「……彼女を、よろしく頼む」

師匠「はい」

　お師匠様はしっかりと、先生に告げました。

師匠「任されました」

梅津「あ、そうそう」

梅津「……私も退官が近い。あまね君も時々は、顔を見せてくれ」

梅津「もうお互いに、遠慮する歳でもなかろう？」

　先生の言葉に、お師匠様は。

師匠「そうですね……分かりました。音葉ちゃんと一緒に、伺うようにします」

梅津「いや」

　先生は、お師匠様の返答に。

梅津「あまね君ひとりのときだけでも、いいんだ。来てほしい」

梅津「老いぼれの頼み事だ。昔より少しは、あまね君も聞き分けがよくなったのだろう？」

　そうおっしゃいました。そしてお師匠様は、こう返事をしたのです。

師匠「もうげんこつされないのなら、考えておきます」

梅津「ふっ、ふふっ。はははっ」

師匠「あははっ」

　お師匠様のお師匠様である先生と、神童と呼ばれた少女と。
　よくできた偶然に、私は感謝をします。

　大学を休むこととなっても、私はきっと、高く飛べる。
　それはアイドルとして、そして、一人の音楽家として。

　キャンパスに別れは、告げません。また、伺います。
　いつとは言いません。でも、必ず。
　また。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

※　とりあえずここまで　※

非常に難産でした。お待たせしたこと、お詫びします。
皆様の琴線に触れれば幸いです。

お読みいただき、ありがとうございます　ﾉｼ

投下します

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師匠「あたしは……逃げたんだ」

音葉「……にげ……た」

師匠「……ああ」

　帰りの車の中。お師匠様は少しずつ、語り始めました。

師匠「梅津先生のご好意も無下にして、ピアノから、な。逃げたんだよ」

　今のあたしを見たら想像もつかないかもしれんな。
　これでもお嬢様、だったんだよ。社長令嬢とでも言ったらいいのか？　まあ地方のちょっとした企業だけどな。
　一人っ子でな。親もどう育てていいものか、悩んだろうとは思う。

　父親は言い方は悪いが、いわゆる成金ってやつでな。羽振りはよかった。
　だから父親は、あたしを甘やかしまくってな。
　それで、小学校に上がる前からピアノを始めたんだ。父親がやれやれってうるさくてな。
　小さいうちだったから、そんな父親を喜ばせたい、そう思ったのかもしれない。

　そうやって父親はあたしにお金をかけるのが、ちょっとしたステータスに感じてたのかもしれない。
　母親はその分、あたしをしっかりと見届けてくれていた。やりすぎないようにな。
　だから、父親がいろいろやれというのを母親が止める、そんな図式が日常でな。でも。
　なぜかピアノだけは続けさせてくれた。

　小さいうちから上達するのが速かったらしくてな、地元のピアノの先生が、もっと実力のあるピアニストにって。
　それで紹介されたのが、梅津先生だった。
　ただ、先生は東京住まいだし、音葉ちゃんも知ってるように、コンサートに授業にと忙しい人だ。
　そこでお世話になったのが、母親の実家だ。あたしのおばあちゃんだな。

師匠「今住んでる家、あるだろう？」

音葉「……はい」

師匠「祖母の家だ」

音葉「……」

　金曜の夜に新幹線で祖母の家まで来て、土日とレッスンを受ける。そして日曜日にはとんぼ返りだ。
　それを毎週毎週、やっていた。よく続いたと思うよ。
　でもそれだけ楽しかった。

　梅津先生は今と違ってな、結構スパルタでな。厳しかったよ、それはそれは。
　だが、あたしも会心の演奏ができたと思ったとき、先生も大いに喜んでくれてな。いや、先生のほうが喜んでたかな。
　それだけ感情が先走る人だったんだよ。
　でもあたしにはそれが合ってた。実力も上がったと思う。
　先生のおかげだ。中３で、コンクール優勝できたのも。

　ただ毎週東京通いとはいっても、母親と一緒だ。小さい女の子をひとりで新幹線になんか乗せられないだろう？
　そうして母親と接することが多くなった代わりに、父親離れというか、父親にあれこれ言われるのもうっとうしくなってきてな。
　あまり話もしなくなってきていた。
　そのころから、家の空気というか雰囲気、だな。それが何とも言えないものになっていった気がする。

　ちょうど高２の時だった。ファイナルの審査員にいたんだ、一葉さんが。
　梅津先生に誘われて、一度だけコンサートに行ったことがあってな。今でも覚えてる、その音。
　あたしの、憧れになった。
　その憧れの人が審査員だ。燃えてくるだろう？　ファイナリストとして恥じない演奏をしよう、そう決めた。

　あたしは、優勝した。
　一葉さんに声をかけられてな。「貴女、もっと先へ行かなきゃね？」とな。
　声をかけられて、あたしは夢見心地だった。
　先生から聞いたんだが、一葉さん、あまりそうやって声をかけることはしなかったそうだな。
　だからなおさら、そのことが心に残ったんだ。

師匠「だがな、そういいことばかりじゃない」

音葉「……なにを」

師匠「父親がな、逃げたんだ。女つくってな」

※　とりあえずここまで　※

大変お待たせしてますが、少しずつ進んでおります。
ゆっくりお付き合いください。

お読みいただき、ありがとうございます　ﾉｼ

大変お待たせしました。投下します。

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　会社の経営は結構苦しかったらしい。
　そんな中で、娘と妻は毎週東京通い。平日だってそう会話があるわけじゃない。
　それに昔から父は派手好きだった。親戚から疎まれるくらいにな。だから、女つくって逃げたと聞いても「ああ、やっぱり」としか思われなかった。
　ほとんど傾いてた会社の社長がいなくなったら、どうしようもない。
　母親は会社を畳むことに走り回った。借金も多いし、働いてくれた人の給料もどうにかしないとならない。
　父方の親戚は当てにならないし、すでの父の両親はいない。
　どうにか母とおばあちゃんの資産を処分して、整理をつけたそうだ。あとからそんな話を聞いた。

　そんな状況に放り込まれたあたしは、ピアノを続けるのは無理だ。そもそも東京通いなんてできるわけがない。
　それに、な。
　父が好きだった、ピアノだ。その父がいなくなったんだ。
　今すぐに離れたい。ピアノから。その恨みが心に渦を巻いていた。
　自宅のピアノも、当然に売った。梅津先生にお断りの連絡もした。
　あたしの家の状況を知ってもなお、梅津先生は「こっちに住みながらでも」と声をかけてくださった。でもそれはできなかった。

　そのときのあたしには、ピアノは父を思い出すものでしかなくて。そんなどす黒い思いでピアノに触れるなんてこと、できるはずがない。
　ピアノに、恨みしか持てなくなった。

師匠「あたしは、そうやって表舞台からいなくなったんだ」

音葉「……お師匠様」

　車が、お師匠様の街へと滑り込んでいきます。私は、お師匠様の歩んできた道を伺い、言葉を失います。
　でも今こうして、お師匠様は再びピアノの道へと戻ってくださってます。それはもっと大きなうねりがあったのでしょう。
　それを思うと、私は胸を締め付けられそうになるのです。

　私には、何があるのだろう。
　ふと、そんなことを考え、その気持ちが声となって表出してくるのでした。

A.L.Webber　-　Pie Jesu
https://www.youtube.com/watch?v=QgIg-CG3qSg

―――Pie Jesu, pie Jesu

師匠「……音葉ちゃん……」

―――Qui tollis peccata mundi
　　　Dona eis requiem, dona eis requiem

　それは、ただ気持ちの赴くままに。声を。歌を。
　穏やかに、安らかに、と。私は想いを乗せ、歌うのです。

―――Agnus Dei, Agnus Dei

　お師匠様の歩まれた道は、今の私にとって理解され得るものではないのでしょう。
　それでもなお、お師匠様は話されました。なれば、私は私の思うままに、この気持ちのままに。
　心を渡すこと。それが少しでも、報いることとなるようにと。

―――Qui tollis peccata mundi
　　　Dona eis requiem, dona eis requiem

　車が、お師匠様の家へ到着します。私はただ、歌うのみでした。

―――Sempiternam
　　　Sempiternam

　安らかなれ。いつまでも、いつまでも。
　私は、気づいていませんでした。誰かのために歌うということが、どれほど大きな意味も持つかということを。
　そして私は、それをでき得る立場にいるということを。

　アイドル。それは私に与えられた使命だったのです。

―――Requiem……

　歌い終わります。我に返った私は、お師匠様と目を合わせました。

音葉「……お師匠様？」

師匠「……」

　お師匠様は、優しげに寂しげに、笑みを浮かべます。

師匠「……音葉ちゃん」

　そしてお師匠様は、私の頭に手を当て。

師匠「ありがとう」

　そう、おっしゃったのでした。

　私が歌ったことでなにかが変わる、などということはありません。
　何かを変えられるのは、行動でしかありえません。
　しかし私は、自分の気持ちを素直に、歌という行動に表しました。表現しました。
　今私ができる、せいいっぱいのことを。

　そして、ただ一言のありがとうを。

音葉「……よかったです」

　歌という何かが、行動を起こす力になるならば。私はいつでも、届けましょう。私の歌を。
　学校をお休みしたその日。私は確かに、アイドルという一歩を踏み出したのです。
　歌う、という、大切な意味を抱えて。



　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

※　とりあえずここまで　※

お読みいただき、ありがとうございます　ﾉｼ

大変お待たせしました。少しですが投下します

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Ｐ「音葉、おつかれさま」

音葉「……ありがとうございます」

　休学から、一年が経とうとしていました。
　そしてそれはアイドルという仕事を選んで、一年半あまりが過ぎているということ。
　幸い、シングル三枚とアルバム二枚を出すことができ、仕事も順調に忙しくなっていました。
　でもＰさんはおっしゃいます。それ以上を目指そう、と。音葉にしか作れないアイドル像を作ろう、と。

　二枚のアルバムのうち、一枚はクラシック主体のアルバムでした。Ｐさんが率先して企画したものです。
　Ｐさんは求めたのです。アイドルである私と、ピアニストである私。クラシックができるアイドルということでなく、アイドルであり演奏家である、二面を抱えるということを。
　それは困難なもののように思えました。でもＰさんは「それって楽しくないか？」と笑います。
　ファンの層が違う、これは大きなアドバンテージだと。広く私を知らしめる、とてもよい機会だとおっしゃったのです。

　そして今、私はその途上にいました。

Ｐ「久々のピアノオンリーだったけど、どうだった？」

音葉「……難しいですね」

　学校をお休みしてから、私はお師匠様から直接レッスンを受けることが増えました。
　さすがお師匠様、梅津先生の直弟子であった腕はいよいよ磨きがかかり、私に向けられた指導も厳しく、的確に、音の根本から考えさせられるものとなりました。
　お師匠様はおっしゃいました。「音葉ちゃんの音は『出来すぎている』」と。
　曖昧は曖昧としてそれを自分の個性とするようにと、私とお師匠様のレッスンは主に、私の音の完成形を一度崩すことでした。
　そして、新しい音の意味を知る。毎日が新鮮で楽しい日々。

　私自身に変化がもたらされたのでしょうか。
　ある時何気なく弾いたK.545が、きらきらと光っていたのです。

師匠「やっと、ここに来たな」

　私自身感じた驚き、今までの不安も焦燥もすべて溶けていくような、そんな気がしました。
　間違いなく、私の音は『生き生きとしている』。体感でそれを知りました。
　でも。

　アイドル梅木音葉という個性。そのことが、会場にいらっしゃる聴衆の方々を惑わせます。
　これはアイドルの演奏なのか、それとも純粋クラシックなのか。

　音に、区別などないのに。

Ｐ「それでも、認知が上がってきてるのは俺も感じてる。音葉は誇っていい」

　まだ先入観にとらわれている現状をＰさんは、愁いていませんでした。少しずつだけど認められている、と。

音葉「そう……でしょうか」

Ｐ「ああ。今日のコンサート、親子連れと年配の方々の客層が増えてきてる」

　アイドルのファンである一定の方々のほかに、違う層が拡がってきているそうです。
　私自身実感はあまりないのですが、静かに、私と個性が拡がっている、と。Ｐさんはおっしゃいました。
　そう。Ｐさんの目指す梅木音葉とは。
　アイドルであり、ソロイストであり、ディーヴァであること。マルチな活躍ということではなく。
　それが、梅木音葉。ほかの何者でもない、無二の存在に。

　Ｐさんの描く私は、はるか高みにいるようでした。
　しかしＰさんがおっしゃるのですから、そうあることができるはず。私はＰさんを信頼しています。

Ｐ「そろそろ、次のステップを考える頃合い、かな？」

音葉「次のステップ……ですか？」

Ｐ「ま、それは事務所帰ってからな」

　車は滑るように街を抜けていきます。さて。
　どのようなお話、なのでしょう……