【俺ガイルss 由比ヶ浜結衣誕生日】雨に咲く花 (203)

注意点

・地の文たくさんあります
・anotherの延長線上の話ですが読んでなくても平気だと思います
・後半いちゃこら成分マシマシです

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 窓を水滴が伝い流れ落ちた。

 仄暗い空から雪の成れの果てがさあさあと降り注ぎ、静かな部屋に自然の音を運ぶ。

 昼以降になってから急に雲が辺りを覆い始め、降りだすまでに時間はそうかからなかった。時期が時期とはいえ、朝見た天気予報では言及されておらず完全な不意打ちの格好だ。

 折り畳み傘を持ってきておいてよかった。備えあれば嬉しいなとはよく言ったものだ。随分な口語なのが不思議だが先人の言葉にはやはり深みがあるな。

 じっとしていても湿り気を帯びて不愉快さを増した空気が肌にまとわりつき、参考書を眺める集中力を際限なく奪う。この季節特有のジメジメ攻撃はうっとうしいことこの上ない。攻撃はその後も休むことなく俺に追い討ちをかけ続け、ついに本に落としていた目を上げることになった。

 そもそも頭の中心にはここ数週間ほど同じ悩みがどーんと鎮座しており、それが理由で集中できていないのはわかっていたのだが。

「あーづぃー……。ゆきのーん、いい加減クーラーつけようよー、溶けるよー」

 これでもかというほどダラけにダラけた由比ヶ浜が机に突っ伏したまま、俺も望んでいた要求をこの部屋の主とも呼ぶべき部長に告げる。ぐだった彼女を横目で眺めてみれば、湿気のせいだろうか。艶やかでさらさらしているはずの髪の毛もいつもより元気がなくぺたっとしているように見えた。

「まだ六月でしょう。こんな時期から空調に頼っていると夏もっと大変になるわよ」

 涼しげな表情をした雪ノ下がパタリと本を閉じ、顔を上げながら一昔前の母ちゃんみたいな台詞を言う。現代日本の夏はもはや空調なしで快適な生活を送るのは不可能ではないかと思うほどだが、雪ノ下はまだ問題ないと感じているということか。

「むー。じゃあ冷房は我慢するから、せめて除湿ー。ジメジメするよーウザいよーカビ生えるー」

 由比ヶ浜はぶーぶー言いながら、衣替えの終わった薄いシャツの胸元と相変わらず短いスカートをパタパタと翻して扇ぐ。

 …………。

 由比ヶ浜結衣はスキだらけ。なはずなのだが、見えないところはいくら目を凝らしてもチラとも見えない。ふしぎ。隙ねぇじゃんどういうこと。

 この部屋にいる男が俺だけならともかくとして、いや俺だけでも駄目だろというかとにかく心が乱れるのでそういうのは勘弁してください。ただでさえ蒸し暑いのに余計な汗が。

 と、そこで意外なところからよく慣れ親しんだ声があがる。

「んー、確かにこれはさすがに暑いというか不愉快じゃないですか? 雪乃さん。小町もドライぐらいならいいんじゃないかなーと思うのです」

 この春より無事総武高校に入学を決めた我がラブリーマイシスター、比企谷小町である。その小町もまた由比ヶ浜に同意し、不愉快さを排除しようと試みているようだ。ちなみに俺が心の中で開催している、なんでここにいるのランキングでは第三位だ。

「そうっすねー……。実は俺も暑いすかね。あ、比企谷さん。ここ次の試験範囲に入るっけ?」

「んー? あ、ここまでは入らないはずだよ。期末は範囲狭めらしいから」

「そっか、ありがとう比企谷さん」

 イラッとした。八幡イラッとしたなー今。

 なんでここにいるんだてめぇランキング堂々の第一位、川崎大志とかいう奴である。この春から小町と同じくこの高校へ入学してきた。しかも小町と同じクラスになっているらしい。実に忌々しい。なんでここにいるんだてめぇとは思うものの、理由などわかりきっているのがこれまた余計に忌々しい。

「雪乃せんぱーい、わたしもドライにしてほしいですー。湿度高いとわたし前髪にカールかかっちゃうんですよねー」

 なんで(略)二位の後輩である。前髪をくりくりしながらボーッとしていたが、室温に関して同様の不満を覚えていたようだ。この後輩、任期は一年なので当然ではあるが、二年生になっても引き続き生徒会長の座に就いていた。一応。

 入学式には俺を含むほとんどの在校生は出ていないので小町から聞いただけではあるが、新一年生へ向けた生徒会長の歓迎の挨拶は、真面目ではあったものの言葉の端々に軽薄さと適当さを滲ませており、楽しそうという希望とともに漠然とした不安も抱かせたとのことだ。そういう理由もあって「一応」と付けさせてもらった。

 だが何より、あまり全面的に俺たちに頼ってこなくなってから久しく、最近の生徒会長としての一色をよく知らないのだ。そして彼女には他にも変化があった。いつの間にやら妙に雪ノ下と仲良くなっているのだ。呼び方も気がついたときには「雪乃先輩」になっていた。そういえば最近もこそこそと二人で何やらやっていた気がする。

「そう、みんながそれほど言うのであればつけたほうがよさそうね」

 俺以外の四人の言葉を聞き、雪ノ下はさしたる抵抗もなく空調を容認してしまった。もしかすると自分からは言い出せなかっただけなのかもしれない。自分から言うと負けた気がするのだろうか。もう、雪ノ下さんったら負けず嫌いなんだから。

「そうだな。俺も暑いし湿気は本にとってキツいだろ」

 雪ノ下がもう一度そうね、と呟いたところで俺と目が合った。

「除湿にするわね」

 俺が黙って頷いたときには既に目は切られていた。そこにはなんの感情もなかったように思う。

 気まずいわけではない。無視されているわけでもない。憎まれていたり嫌っていたりというのも違う。

 ただ、自然。余計な気遣いも、出会った頃に言っていた慈愛も、何もない。それだけ。それは、今もなお同じ部屋で時を過ごす者として、こんな俺としてはとてもありがたく心地の良いことだった。

 と、まぁ現在のこの部屋の様子とメンバーはそんなところだ。元というか現というか俺を含めた奉仕部の三人に、何故いるのかと聞きたくなる大志、一色、小町の合わせて六人がいる。

別にいてはいけないというわけではないのだが、学年もバラバラで傍から見ればよくわからない集まりに違いない。

 平塚先生曰く、「既に役目を終えた」らしい奉仕部。依頼もほぼこないので部活動としては開店休業状態なのだが、平塚先生の配慮か温情か手心か、こんな風にして三年になった今も奉仕部の部室は存在していた。


* * *



「おぉぉ~、すーずし~」

「ひゃー、これで捗りますな~」

 ようやく稼働を開始した空調によってひんやりとした風が部屋に行き渡り、面々から感嘆の声が漏れる。

「まだこんな時期なのにとは思うけれど、確かに年々暑くなってる気もするわね」

「実際暑くなってんだろ。家で熱中症なんて昔はそうそうなかったろうし、我慢せずクーラーつけろって推奨されてるような時代だぞ。俺も小さい頃は扇風機で我慢しろとか言われてた記憶あるしな」

「そうね、でも私は小さい頃から快適な環境で育ったから……ごめんなさい」

 なんて嫌味な謝罪だ。謝意0じゃねぇか。

「え? 小町はそんなこと言われたことないけど……」

「え、マジ?」

 俺だけ? これは教育方針の差なんですかね……。

「ヒッキー……うぅっ」

「先輩……。大丈夫ですよ、小町ちゃんだけ大事にされてたんだなーとかそんなこと思いませんから!」

 一色と由比ヶ浜が不憫なものでも見るような憐れむ目つきになっていた。あれ? 俺が大事にされてなかっただけなの?

「お兄ちゃん、比企谷家の暗部を晒さないでよ」

 暗部【あんぶ】 1.暗い部分。暗いところ。2.隠された、みにくい部分。「社会の―を描写する」

 文脈から察するにここでは2.の意だな。小町ちゃんったら結構難しい言葉を知ってるのね。

「おい小町、軽々しく暗部とか言うな。うちが闇を抱えてるみたいだろ。つーか隠れてねぇんだよそもそも」

 突っ込みを入れてはみたが小町には完全に無視されてしまった。お兄ちゃん寂しいよ。ていうか虚しいよ。

 スルースキルの高い妹はおずおずと雪ノ下にノートを見せていた。

「あ、のー。雪乃さん、ここちょっと教えてもらえませんか?」

「いいけれど……そこの頼りになりそうなお兄様は?」

 思いがけない言葉にぞわっとするようなくすぐったさが背中を走り、反射的に軽口を叩く。

「お兄様とか止めろキモい」

「確かにそういう柄ではないわね。よく見たらそもそも兄妹に見えなかったわ」

「よく言われることだからほっといてくれ」

 性格の一部を除いて似てないことなんか知ってるよ。俺が小町ぐらい可愛かったら俺はもっと捻くれてない性格になってるっつーの。これじゃ俺が醜いみたいだがそうではないよ、八幡の顔のパーツは優秀だよ(自画自賛)。自画自賛でもパーツとしか言えないのが悲しい。

 小町は俺を小馬鹿にしたような顔で雪ノ下に理由を話す。

「これはうちの兄がまるっきり役に立たない分野でしてー」

「なるほど。どこ? 見せてごらん」

 なるほどで済ませられるのが悲しいが理由はよくわかった。理数系の科目なのだろう。

「ああ、これはね…………」

 臨時女教師、雪ノ下先生の数学授業が始まった。眼鏡をかけてほしいところだが口には出さないでおこう。ブルーライトカットしても仕方ねぇし。

 気がつけば大志も小町の横についてふんふん頷いている。さり気なく小町に近づくなこの毒虫が。

 この通り、奉仕部の部室に集まって何をしているのかと言えば、ここのところは専ら試験勉強もしくは受験勉強である。と言ってもまともにしているのは俺と小町、それに大志ぐらいのものなのだが。

 意外と言えば意外、と言えば失礼になるか。小町はこの高校に来てからはそれなりに真面目に勉強しているようだ。

 てっきり受験勉強の反動で遊び回るものだとばかり思っていたがそうはならなかった。進学校の落ちこぼれにはなりたくないということだろうか。それともそこそこ身近で勉学に苦労している代表、お団子頭の彼女を見ているからか……。まぁ、なんにせよ悪いことではない。小町よ、頼りにならない兄は応援しているぞ。

 雪ノ下は余裕しゃくしゃくで、わざわざ受験勉強のために必死になる必要はないとでも言わんばかりに普段通り文庫本に目を通している。いつ勉強しているのかは知らないが、結局これまで一度も俺の唯一の得意分野である現国すら追い抜くことができなかった。あまりの差に悔しさすら沸いてこない。嘘ちょっとだけ悔しい。

 由比ヶ浜はやる気があるのかないのか、やる姿勢は見せるものの最終的にはいつもだらけてしまっている。だらけるというか、悶々としているかのように顔を机に押し付けているのをよく見る。たまに雪ノ下とじゃれあうようにここ教えてーとかやってはいるが、自分で真面目にやれと怒られてしゅんとするというのが日課だ。本当に大丈夫なのかお前。

 一色はあまり試験勉強の素振りすら見せない。成績は悪くないとの本人談だが、ならばそれこそなんのためにここに来ているのかよくわからない。生徒会長ってそんな暇なの?

「…………となるわけ。試験程度なら公式丸暗記でも点は取れるけれど、公式を自分で導き出せるようにしておくと応用も効いて楽しくなるわよ」

「ほへー。なるほど、なんかちょっとわかってきた気がします! ありがとうございます!」

「さすが雪ノ下先輩すね、学校一というのは伊達じゃないっすね!」

 どうやら講義が一段落ついたらしく、教わっていた二人が臨時教師に賛辞を送る。

「どういたしまして。でも一年春の数学ぐらい三年生なら普通教えられるものよ。そこの二人がどうかしてるの」

 雪ノ下は俺と由比ヶ浜に冷ややかな目線を送る。

「ちょっと待て、いくらなんでも由比ヶ浜と一緒にはするなよ。失礼だろ」

「失礼なのはヒッキーだっ! 数学はあたしとそんな変わんないじゃん! てか負けてないし!」

 由比ヶ浜はうがーと憤慨し、俺を指差して唸る。数学に関して言っていることに間違いはない。が。

「俺には数学なぞ必要ない。そして俺は文系科目なら全て優秀と言っていい。よって受験は問題ない。由比ヶ浜は?」

「うぐっ」

 由比ヶ浜は痛いところを突かれ狼狽える。ふっ。勝った。情けないが。

「……が、頑張ろうとはしてるんだけどね? ちょっとね? モチベーションがね……」

「あら。モチベーションならあるじゃない。ねぇ? 比企谷くん?」

 言い訳をしながらしゅんとする由比ヶ浜を見て、雪ノ下は意味のありげな笑みを浮かべ俺に視線を寄越す。

 その俺への笑みの意味するところはまったく理解できないわけではない。

 だが、"いつか"と言ったあれからその"いつか"は未だに訪れず、またもや時だけが常に一定の速度で流れていた。俺の逡巡の間など意に介すことなく。

「ですよねぇ。結衣先輩、頑張らないとですね」

「結衣先輩ならきっと大丈夫ですよ! 小町だって結衣先輩だって総武に受かったんですから! 奇跡は二度起こります!」

 一色に続いて小町も由比ヶ浜にエールを送る。小町のは貶しているように聞こえなくもないが小町のやることなのでセーフ。可愛いは正義。小町は可愛い。つまりジャスティス小町。なんかローカル団体のプロレスラーみたいだな。

「い、いやー、あはは……。うん、がんばんないと、ね」

 由比ヶ浜は僅かに眉を下げ頭を掻いている。笑ってはいるが同時に困ってもいる顔で、あまり長く見たいものではない。

 だが、その困り顔の原因は俺にある。自分の首を絞めるのはいつだって俺自身だ。

 その後も小町と一色が続けて由比ヶ浜とのお喋りを開始した。どうやら真面目に勉強をする空気ではなくなったらしい。やがて和やかな空気に穏やかな紅茶の香りが混ざり始めた。

「お兄さんお兄さん」

「んだよ、俺はお前のお兄さんじゃねぇよ」

 落ち着いた雰囲気の中、小声で話しかけてきた大志がそのままの調子でぼそぼそと話す。

「いやー、羨ましいっす」

「…………何がだ」

 確信半分、お前も知ってるのかよという疑念半分の気持ちで聞き返した。

「何って、そりゃあ……」

 大志が答えかけたところで、由比ヶ浜を除いた女子連中がおもむろに立ち上がる。大志はそこで話すのを止めてしまったため結局聞けずじまいになってしまった。

「雪乃先輩、じゃあそろそろ準備しましょうかー」

「そうね、部屋も冷えてきたしいい頃合いね」

 準備? 頃合い? 何も聞いてないんだけど。そう思ったがそれは由比ヶ浜も同様のようだった。

「ん? なになに?」

 しきりに首を傾げ、よくわかんないけど手伝おうか? などと提案しているがあえなく雪ノ下と一色に却下されてしまった。それを見て考えが及んだ。

 ああ、なるほど。

 由比ヶ浜には言っていない、そして今日という日ならば答えは一つしかない。だが、何故俺も聞かされていないんだ。

「大志、ちょっと」

「何すか?」

「お前聞いてた?」

「はい、聞いてたっすよ。みんなで用意したんで」

「なんで俺は聞かされてないんだ?」

「え? わざわざ言わなくてもよくないすか?」

 そりゃ去年もあったんだし、こんな大事なこと忘れるわけないけども。俺だけパーティーに呼ばれてないみたいで辛い思いをした苦い過去が甦るだろ。

 愚痴の一つも言ってやろうかと思ったが、その気は大志の次の言葉で消え失せてしまった。

「お兄さんには明日があるじゃないすか。だから雪ノ下先輩とか俺らは今日なんすよ」

 んぐっとたじろぎ、胃液が逆流しそうな錯覚を覚えた。ここ数週間の間、消えることのなかった悩みがにわかに肥大化した気がする。

 今まではここで、"そういう風"な扱いを受けたりすることはなかった。ついでに言うと物心ついた頃から考えても一度もなかった。もし仮に俺がまんざらではなかったとしても女子が物凄い勢いで否定するから。なんなら本気でガチ切れするレベルで。うっ、頭がっ。

 だが今の由比ヶ浜は否定しない。曖昧に濁すだけ。俺も照れ隠しにそうすることはあっても心からの否定できない。

 つまり、そういうことなのだ。条件は既に整っている。外堀も完全に埋められてしまった。あとは俺が一歩を踏み出すだけでいい。

 いいのだが。

「じゃあわたし取りに行ってきますねー、しばしお待ちをー」

「いろは先輩、小町も手伝いまーす」

 ここは男なら行かねばと思ったのだろうか、大志がすかさず立ち上がった。

「あ、俺もてつだ」

「大志くんはいらなーい」

「あ、そう……」

 が、小町に一蹴されてしまった。さすがの小町である。大志の気持ちがわかる分、僅かに同情心が湧きそうになったがなんとか堪えた。

 心配しなくてもこいつじゃ無理だろうとしか思えないが、憎しみの心は忘れないようにしないとな。妬み嫉み僻みが俺の原動力なんだし。やだ、この八幡とっても屑っぽい。

「二人とも、気を付けてね」

 雪ノ下が出ていく二人に声をかける。二人はビシッとした敬礼に加え、ダブルであざといウィンクを残して消えていった。

 おもわず乾いた笑いが漏れた。なんというか、不覚にも二人とも可愛かった。

 小町と一色は根っこのところが同属性なのか、それともどちらかがどちらかに感化されているのか、互いに関わるごとに二人の印象が近づいている気がする。どちらにしろちょっと怖い。

「えー、何取りに行ったの? ゆきのん教えてよー」

「もう少ししたらわかるわ」

 どうやらわかっていないのは由比ヶ浜だけらしい。もしわからない振りをしているなら、彼女の場合はもっとわざとらしさが漂いそうなものだからきっと本当にそうなのだろう。今日が一日前というのもそこへ思いが至らない理由としてありそうだ。

 出ていった二人の戻りを待っていると扉がノックされ、別の二人が入ってきた。

「はろはろ~」

「……こんにちは」

 腐った眼鏡と金髪おかんである。もとい、海老名さんとあーしさんだ。由比ヶ浜の誕生日祝いということであればこの二人もいて当然といえば当然か。しかし一体誰が……。

「あれ? 優美子に姫菜、どしたの?」

「んふふ、ちょっとね~」

「こんにちは。来てくれてありがとう」

 まだよくわかっていない由比ヶ浜をよそに、冷徹さのない、極めて柔和な表情で三浦達に挨拶をする彼女を見てすぐに答えがわかった。きっと雪ノ下が声をかけたのだ。

「……そりゃ、あんたの為じゃないんだし」

 巻き髪を弄りながらそっぽを向いていたので三浦の顔は見えなかった。だが小さな声には確かな暖かさがあった。

 あの雪ノ下が、自分のためでない理由でわざわざ三浦に声をかけた。これは間違いなく雪ノ下の変化だ。人は簡単には変われない。なりたい自分になろうと思ってなれるならこれほど楽なことはない。

 だが、望むと望まざるとに拘わらず人は変わってゆく。変えられてゆく。否、変わらなければならないのだ、現状に抗うならば。

 変わらなくてもいいなんて言えるのは単体で完成された人間だけだ。出会った頃の美しくて刺々しくてガラス細工みたいに脆そうな彼女ですら完璧ではなく、今を変えようと足掻く一人の高校生であったと一年の時を経て知り、完全な人間はこの世にいないと断言できる。

 彼女の変化を成長と呼ぶのか、それは俺にはわからない。だが、これを妥協の末の割り切りだとか、諦観の末路だとか、ネガティブに捉える必要のないことだというのはわかる。

 だって、俺は雪ノ下の真っ直ぐさなら知っているから。出会った頃からそこにあったものは変わっていないから。友人を想う、その変化は彼女にとって前向きで、喜ばしいことなのだろうと俺は思う。

「そうね。それで十分よ」

 雪ノ下はゆっくり目を閉じ、満足そうに一度だけ頷いた。

「……あっそ」

「うふふ。…………おや? この子は?」

 楽しげに三浦と雪ノ下を眺めていたかと思うと突如として眼鏡の奥がキランと光り、海老名さんの視線が俺の横に座る大志に向けられる。

 そうか、二人は初対面になるのか。なら一応紹介しとくか。

「ああ、こいつはアレだ。……え、誰だっけお前」

「ちょっ、お兄さん!? えと、川崎大志っす。姉ちゃん……川崎沙希の弟です。海老名先輩、ですよね。よく姉ちゃんから聞いてるんで知ってます」

 大志はわざわざ立ち上がり控え目に自己紹介してみせた。ここでしっかりと話せるあたり、こいつはやはりコミュ力は高いのだろうと思う。ぶっきらぼうな姉にその何分の一かでも分けてやればよかったのに。

「あー、君が大志くんかぁ。私こそサキサキから超聞いてるよー。生意気だって」

 海老名さんはそう言いながら怪しく微笑む。

「けど…………うん。いいね、いいね! 爽やか系だね! やっぱ比企谷くんはそっち方向との組み合わせがっ」

「海老名、自重しろし。怖がってるっしょ」

 俺には理解できないが、興奮を抑えきれず海老名さんが暴走を始めたところに三浦が割り込んだ。よかった。本当によかった。

 救われたことを知ってか知らずか、席についた大志が頭を下げて小声で俺に話しかけてきた。

「お、お兄さん! なんか怖いっす!」

「……気持ちはよくわかる。だがそこのお蝶夫人みたいなのはこの学校のカースト最上位に君臨するお方だ。根は態度や見た目ほど怖くないから礼は言っとけ」

「……うす」

 ボソボソと密談を終えると、大志は意を決して口を開く。

「……ども。三浦先輩、すよね」

「あーしのことも知ってんの?」

「はい。有名ですし、姉ちゃんからもいろいろと」

「……ふーん。あいつ、あーしのなんの話してんのよ……」

「や、凄い綺麗な人だって聞いてたんですぐわかりました」

 おそらく嘘ではないのだろう。だが、本当のことでもないように思う。

 何かの拍子に川崎が三浦のことを話すとしても、手放しで綺麗だなんだと褒めることはない気がする。さしずめ、あいつ綺麗なのになんであんな無愛想で高飛車なの、ってとこか。あれ、これ川崎とあんま変わんねぇな。

「へー……。そう。ま、よろしくね」

 意外な言葉を受け、面食らった表情になったがすぐに由比ヶ浜のほうに向き直った。少しだけ頬に赤みが差していたように見えた。

「……なんか、可愛いっすね」

 だな、と相槌を打ちながら離れていく三浦と海老名さんを眺めた。

「けどお前、なかなかやるな……」

「え?」

「なんでもねぇよ」

 おもわず感心してしまった。こいつは年上との付き合いかたというか転がし方を心得ているように思える。あの姉と長年付き合ってきたがゆえに身に付いた処世術なのだろうか。

 ……なんか小癪だったりあざとかったりする年下ばっかじゃないですかね、俺の周り。


* * *


 相変わらず外はどんよりとしていて雨が止む気配はない。

 そして俺の心中もどんよりとしたままだ。重苦しい。何か、何か探さなければと、義務感からではなく俺の本心から考えて動いてはみたのだが、どれを選んでも軽すぎな気がしたり重すぎな気がしたりで何も選べず今日まできてしまった。

 一体何度俺には似合わない、下手したら通報されかねない店を徘徊したことか。俺にとっての重大さも当然あるが、彼女に訪れる一度きりの日だということを考えると、これでいいかとおざなりに選ぶことなどとてもできなかった。だが、このままでは……と思考の堂々巡りが続く。

「みなさん、お待たせでーす」

 一色が扉を開き、箱を両手で抱えた小町が部屋に入ってきた。箱はそのまま由比ヶ浜の目の前に置かれる。

「ん、え? なになに?」

 戸惑う由比ヶ浜は置き去りに一色と雪ノ下が周囲に目配せをすると、自然と場がしんと静まり返る。

 そして実は俺も戸惑っていた。だって何も聞いてねぇし!

「せーのっ」

 小町の掛け声を合図として、一斉に声と音が部屋に響いた。

「結衣、誕生日おめでとーっ!」

「結衣先輩、お誕生日おめでとうございます!」

「由比ヶ浜さん、誕生日おめでとう」

 祝辞の言葉は内容も話す速度もバラバラで、まったくまとまりがなかった。どこから取り出したのか俺以外のやつらはクラッカーを鳴らし、小町は箱の蓋を持ち上げる。中からは手作りとおぼしき豪勢なケーキが顔を出した。

 タイミングを逃したのか、雪ノ下がみんなと一拍遅れて鳴らしたクラッカーがパンと間抜けな音を立てた。

「あ、ありがと……。けど、あたしの誕生日、明日だよ?」

 由比ヶ浜はまだ驚いた表情で、目をぱちくりさせながら疑問を口にする。

「はい、知ってますよー」

「明日は土曜で休みでしょう? 明日は別の人に個別に祝ってもらうといいわ。だから、私達は今日なの」

「そゆこと。結衣、おめでと」

 朗らかだったり凛としてたり照れ臭そうだったり、様々な種類の笑顔と言葉が中心の由比ヶ浜に向けられる。ここにある共通点はたった一つ。向けられたその感情に偽りはないということ。

 やがて理解した彼女は、外の天気とは対照的な表情を弾けさせ、綻ぶ。

「……うん。みんな、ありがとうっ。今年はないと思ってたから超嬉しい!」

 それを見た皆がまた満足げな顔を見せ、騒がしい誕生日パーティーが始まった。

 俺は由比ヶ浜のことを知っていると呼べるほどには知らない。そんな俺でも、わかっていることだってちゃんとある。

 例えば目の前の光景。

 由比ヶ浜の優しさは決して万人に向けられるものではない。苦手なやつだっているだろうし、どうしても合わないから避けているやつだってきっといる。そんな彼女をよく知りもしないのに、ともすれば八方美人にも映る彼女を蔑み嫌う者も中にはいるのだろう。

 でも、それでも。大抵不機嫌そうな三浦とか、よくわからない海老名さんとか、後輩の一色に小町とか、人付き合いの苦手な雪ノ下とか。ろくでもない俺とか。

 こんなわけのわからない連中が彼女を祝い、周りを笑顔で囲む、その光景こそが、彼女の魅力をわかりやすく示しているのだろうと、そう思う。

 ああ。それなら知ってたよ、俺も。


* * *


 各自がちょっとしたプレゼントを渡したりだとか、誕生日らしい儀式をひとしきり終えると、小町がやたらとでかい手作りケーキを切り分け始めた。そんな最中、雪ノ下が唐突にわけのわからないことを口走る。

「比企谷くん。あなた、何か余興のようなものはできないの?」

 なんという無茶振り。仮に何か持っていたとしても、こんな状況で実行に移せる人間など限られている。少なくとも俺には無理だ。

「俺に何を期待してんだよ……。そんなもんあるわけねぇだろ。お前こそ某女神よろしく水芸とかできねぇの?」

 共通点は能力はあるのに微妙にズレてるとこぐらいか。まぁあんまり似てはいねぇな。

「確かに美しいのは知っているけれど、さすがに女神は言い過ぎじゃないかしら……」

 都合のいい部分だけを切り取られ、そこに対してだけ反応が返ってきた。駄目だこいつ……早くなんとかしないと……。

「お前話聞いてる? ……仕方ねぇな。おい大志、なんかやれ」

「ちょおっ!? なんすかそのアバウトすぎる命令! ていうかなんでこっちに振るんすか!?」

「他にいねぇからだ、なんかないのか。たとえば頭から地面に突き刺さって2メートル潜れるとか」

「なんすかその意味わかんない例!? 死にますよ!」

「へー、大志くんそんなのできるんだすごーい」

 小町が感情の一切こもっていない超棒読みでノってくる。さすがは俺の妹である。

「こ、この兄妹、鬼だ」

「小町ちゃんはやっぱり先輩の妹なんですね……」

 由比ヶ浜と一色はドン引きですみたいな顔をしていた。いやー、そんなに誉められると照れるな。大鬼畜! 比企谷ブラザーズ!

「っていうかさー、大志? だっけ。感じ悪い姉のほうはどうしてんの?」

 三浦はケーキをちょこちょことつつきながら興味なさそうに話す。感じ悪いって、あーたもそんなに人のこと言えないゾと八幡は思いました。

「姉ちゃんすか? バイトって言ってました」

「あいつまだバイトしてんのかよ……」

 もう年齢詐称の必要ないバイトだとは聞いたことがあるが、頑張るなぁあいつ。

「あ、つっても夜にはちゃんと帰ってきて遅くまで勉強してるっすよ。国公立目指すみたいなんで」

「ふーん……あっそ。ま、あーしは合わないからいないほうがいいんだけど」

「あー、まぁ姉ちゃん対外的には気強いすからね……。家だと割とそうでもないですけど」

「へー、あいつ家ではどんなんなん?」

「お、優美子はサキサキに興味あるの?」

「……海老名、うるさい。全然ないから」

「あ、でもあたし興味あるかも。大志くん、教えてよ」

 もう誕生日とはあまり関係なく、ただ集まっての雑談モードに入ったようだ。それぞれが話し相手を見つけてワイワイとやっていた。

 俺はやはりこういうのは少し苦手だ。俺別にいなくてもいいよね? と必ず思ってしまう。

 だから、やっぱ甘いものにはさらに甘いコーヒーもどき飲料だろと、そう言い残してまだ喧しい部室を抜け出すことにした。

 数人から、うわっ、この人の味覚、おかしすぎ……? みたいな顔をされてしまったがなんて失敬なやつらなんだ。その中に小町も含まれていたことは記憶から抹消しておこう。

 部室を出てからしばらく歩くと、後ろから足音が追ってきたので振り返った。

「お前も飲み物か?」

 後輩は曇り顔で首を振る。

「いえ、わたしはここまでです。サッカー部に行くので」

 一色はそのまま早足で俺の横に並び歩き始めた。

「そっか。まだ生き残ってるんだっけか」

「はい。……まあ、次はかなり厳しいんですけど」

「足が重そうなのはそれでか?」

 一色は頭と体が別々に動いているかのようだ。何かに抗っている、そんな印象を抱いてしまう。

「そう、見えますか?」

「あーいや、なんとなく。見当外れなら気にせんでくれ」

 一色は視線を遠くに固定し、呟くように話し始めた。

「いえ、見当外れでもないです。いろいろと考えるところがありまして……。わたし、なんというかどこにいても立ち位置が半端なんですよね。奉仕部でも、サッカー部でも」

 確かに奉仕部に毎日来ているわけでもないし、来たとしても最後までいることもあまりない。一色にはサッカー部も生徒会もあるからだ。それが当然だと思っていた。

「三年生はこの大会が最後です。でもわたしと違ってずっと真面目にマネやってきた子もいますから、中途半端なことしてるわたしが今さら入り込むのはどうなのかなーっ、みたいな」

 おどけたように言ってはいるが、表情は晴れないままだ。

「なるほどな……。でも別に邪魔物扱いされてるわけじゃないんだろ?」

「ええまあ、それは……。みんなバカみたいに優しくて、受け入れてはもらえるんですけど……。これはみんな、というか、わたしの問題なんですよ。周りは関係なくて」

 一色はそこで一旦区切り、はぁと力のない溜め息を吐いた。

「わたしの本気は、どこにあるんでしょう……」

 それは誰に向けられたものでもなく、自らに問い掛けた言葉のように聞こえた。

 だから、俺も独り言のつもりで意味のない言葉を呟いた。

「……どっかで見つかるだろ、そのうち」

 根拠なんか考えてすらいない。ただ口をついて出たというのが正しい。

 一色の言を信じるならば、一色はサッカー部というより葉山目当てで入部したようなものだ。だから、葉山のいなくなるサッカー部におそらく意味はあまりないのだろう。生徒会長のほうも俺にけしかけられてやったようなものだし、任期も残り数ヵ月のところまで来ている。

 そしてもう一つ。さっきまでいた奉仕部もなくなるのだろう。俺達か平塚先生がいなくなれば。

 つまり一色は身を置いていた居場所を、自分の立ち位置をいっぺんに失くしてしまう可能性がある。それは来ないかもしれない"いつか"ではなく、もうそこに見えていて、必ず訪れる"いずれ"になっている。それを案じているのだろう。

「お前ならなんとかなるんじゃねぇの」

「うわ、テキトーですねー」

 一色は呆れたのか、微かに笑顔を見せた。

「まぁ適当だな。けど本音でもあるぞ。一色ならなんとでもなるだろって思ってるのは本当だ」

 正しいのかまちがっているのかは知らないが、俺なりに最大限の評価をしていると、そう話したつもりだ。

 彼女が本気で形振り構わぬつもりで動けば、なんともならないようなことはないように思える。それほど多くもない付き合いの中で、それだけのバイタリティと魅力を存分に見せつけられてきたつもりだ。

「なんとでもはならないですって。先輩はわたしをなんだと思ってるんですかね……」

「凄いやつだ、って褒めたつもりだけど」

「そうですか。これはそもそも先輩のせいなんですが……今となっては先輩に頼るわけにもいきませんからねー。ええ、ただの愚痴ですよ」

 一色はちょっと投げやりになったように、あくまで愚痴であり独り言であると何度も強調した。

 サッカー部のマネージャーも生徒会長もただの肩書きだ。それらは一色自身を指すものではない。

 そんなものはなくとも、この後輩はあざとくて小悪魔的で、その辺の有象無象なんか比較にならない魅力的な個性があることはわかっている。つまり、肩書きなんかなくなったって一色は一色でいられるはずなのだ。

「……そうか。頑張れよ」

 たくさんの思いを、少ない言葉に込めてみた。

「……はい」

 弱い返事だったが、頷きは力強かった。半分ぐらいは伝わってるのかね。ま、これは希望的観測だな。

 完結してしまったのでそれ以上は訊かなかった。その答えのない問いに俺が寄り添うことはできないから。

 しばらく無言で進み岐路に差し掛かると、並んでいた一色が立ち止まりペコリと頭を下げた。

「わたしこっちなので、それでは」

「おお。じゃあな」

 軽く手を上げ別れを済ませ、振り向こうとしたところで一色に呼び止められた。

「あ、言うの忘れるところでした」

「なんだ?」

「今日の結衣先輩のお誕生日祝い、葉山先輩にも声かけたんですよ。試合前で雨だから軽い室内トレだけですし、少しだけでも来られませんか? って」

 それでも葉山は来ていなかった、つまり断ったということだが、別に不思議なことは何もない。

「そりゃ無理だろ。あいつキャプテンなんだし」

「それもそうなんですけどね。先輩……比企谷に言っておいてって言われた伝言がありまして」

 伝言? 葉山が俺に用があるとは思えないが。

 眉をひそめて続きを待った。

「"比企谷に睨まれたくないから行かない"、だそうです」

 この伝言の意味はわかりますとしたり顔で告げる一色の向こうに、葉山の糞鬱陶しい気取ったような笑い顔が見えた気がした。

「…………ウゼぇって言っといてくれ」

「あははっ」

 一色はようやく少し晴れた顔になり、朗らかな笑い声をあげた。

「もう行くわ、じゃあな」

「先輩も頑張らないと、ですよ? 人生はまだまだ続くんですから。じゃあまたでーす」

 どういう意味だと訊ねる間もなく一色は振り返り、たっと駆けていった。別れる間際に後輩の残した、超がつくほどあざといウインクには何故か少しだけの物悲しさを感じた。

 ……しかし、あれだな。奉仕部にいるやつらだけじゃなくて葉山までそうなのか。参ったな。いや、由比ヶ浜はもっとか。俺はそれほど他人と話さないし。つっても俺の話題なんかそうそう出るもんでもねぇよな。

 そんなとりとめのないことを考えながら飲んだコーヒー風飲料は、いつもの感覚と違い甘すぎて喉に引っ掛かりそうだった。

 誰だよ甘いものにはマッ缶だとか言ったやつ。バカじゃねーの。


* * *


 やかましい宴席が終わり、全員で後片付けを終えると部員ではないメンバーは一足先に帰宅の途に就いた。これでようやくいつも通りの奉仕部に戻った格好だ。外はさらに薄暗くなり、静けさを取り戻した部室は雨の音だけが全てだった。

 本を閉じ時計を見る。そろそろかな、と思ったところで雪ノ下が口を開いた。

「ではそろそろ終わりにしましょうか」

「おお」

「……だねー」

 由比ヶ浜の言葉には少しだけ間があった。

 三人で部屋を出て鍵を閉めると、雪ノ下が帰る方向とは逆に向かって歩き始める。

「じゃあ私は鍵を返して帰るから、お先に。……また、来週」

「おう。またな」

 数歩進んだところで俺の横から声があがり、雪ノ下は歩みを止める。 

「ゆきのん!」

 また少しの間。

「みんなに声かけてくれたの、ゆきのんだよね?」

 疑問系ではあったが、返答を待つことはなかった。

「ありがとね、ゆきのん。嬉しかった」

「なら、よかったわ」

 二人の語る言葉は多くなかった。けれど、振り返った雪ノ下の柔らかな微笑みはどんなに多くの言葉よりも雄弁に語り、二人の気持ちを通わせたように見えた。

 俺が見ている部分など全体から見れば極一部であることは理解している。俺のいない場所でどんな会話をしているかなど俺には知る由もない。そう頭ではわかっていても、その姿を見られただけで安心してしまった。

 変わらなければならないこともある。望むと望まざるとに拘わらず変わってしまうこともある。

 でも、変わらなくていいものだって、変わってほしくないと思うものだってある。俺にとってそういうものなんだ、彼女達の関係は。

「ばいばーい! また来週ねー!」

 雪ノ下は鍵を持った手をすっと持ち上げそれを返事とすると、階段のある角を曲がり姿が見えなくなった。それと同時に由比ヶ浜の振っていた手が、支えをなくしたようにゆっくりと下がる。

「んじゃ、帰るか」

「うん。……また、があるのって、いいよね」

「……そうだな」

 二人して黙りこくったまま下駄箱まで向かい、誰もいない昇降口に並んで立った。雨は部室の窓から見たときよりも強くなっているように感じた。

「雨、止まねぇな」

「だねー。雨は好きじゃないなぁ」

 まったくだ。せっかくの誕生日も雨では台無し、とまではいかないが気分がいくらか盛り下がるだろう。空気読めよ。でも本当に読まれると毎日誰かの誕生日だから雨が降らなくなっちまうな。

「ヒッキーは自転車?」

「いや、めんどいから今日はもう自転車置いてくわ。歩く、今日は」

「そっか。なら一緒に帰れるね」

「……おお」

 本当なら家の方向が違うからすぐそこまでなのに、それでも嬉しそうな彼女におざなりな返事をして、折り畳み傘を取り出した。

 実は今日は元から由比ヶ浜と一緒に帰るつもりでいた。いろいろ言わないといけないことがあるからだ。

 先ほどの「今日は」のあとにはまだ続きがあったのだが、一瞬躊躇した隙に由比ヶ浜に先に言われてしまった。これ幸いと受けてしまったが、由比ヶ浜はきっとすぐそこまでだと思っているだろう。これも伝えておかないと。

 傘を開いてからふと横を見ると、由比ヶ浜は胸の前で指を合わせてもじもじしていた。何? トイレ行きたくなったの?

「傘は?」

「降ると思わなくて……持ってないの」

「……そうか」

「……うん」

 やべぇ。こんなの考えてなかった。一瞬に帰りがてらいろいろ言おうとは思ってたけど、マジかよ。

 そんな動揺を悟られまいと、ふぅと溜め息風に深呼吸してから口を開いた。

「折り畳みだから小さいけど……。入るか?」

 傘を持った右手を震えないように差し出した。

「……いいの?」

「いいも何も、他に誰もいないんだから選択肢ねぇだろ。濡れて帰れと言えるほど鬼じゃねぇよ」

「あ、ありがと……。じゃあ、えと、お邪魔します……」

 並んで立っていた距離が遠慮がちに少しだけ縮まる。香水なのかなんなのか判然としないが、ふわっとした香りが辺りに漂った。頭から、なのだろうかこれは。何使ってたらこんないい匂いがすんだよ……。

 傘をどのぐらいの位置で持てばいいのか、やったことがないのでよくわからないがこのまま立っていても仕方ない。

「家まで送るわ」

 悪いからいいよと話す由比ヶ浜の遠慮を振り切り、複雑な顔で頷いて礼を言うのを聞き届けてから一歩を踏み出した。バス停までとかじゃバス降りてから濡れちまうし、何よりそれじゃ時間が足りないんだよ。これは俺の都合だけど。

 通学路の人通りは少なく、前を行く学生は見当たらなかった。家路につくとおぼしき会社員とすれ違うぐらいだ。

 傘のお陰で他人からの視線が遮られ、好奇の目で見られていやしないかと周りを気にする必要がないのはありがたい。

 それなりに雨足は強く、傘に落ちる雨音は思いの外大きかった。俺よりも狭い歩幅に合わせるように、誕生日プレゼントの袋を胸に抱える彼女を濡らさないように歩みを進める。

 …………難易度高ぇなこれ。二人の間の微妙な距離もあり、只でさえ小さい折り畳み傘ではカバーできる範囲が全然足りない。俺が濡れることはさほど気にならないのだが、もう少し……。いや、それはさすがに言えねぇ……。

「あのさ」

「あ、ん?」

 邪なことを考えていたせいで一瞬返事が遅れたが、特に気にはされていなかった。

「変なこと聞いてもいい、かな……」

 躊躇いがちに尋ねる由比ヶ浜の姿に、胸が締め付けられるような思いがした。

 もしかして誕生日プレゼントのことだろうか。今彼女が抱えているものは俺以外のみんなから貰ったプレゼントで俺のものは含まれていない。というか、そもそも言い訳以外の準備ができていない。締め付けはこの後ろめたさからか。

「いいけど、なんだ?」

「えと、その、恥ずかしいんだけどさ……」

 由比ヶ浜は俯きがちでとても言いづらそうだ。横目でちらちらこちらを伺っているが……恥ずかしい? はて、なんだろうか。だがこれなら俺が今危惧している、訊かれて返答に窮する内容ではなさそうだ。

「あたし、汗臭くない? 大丈夫?」

「は?」

 予想の外からの質問に声が裏返りそうになった。

「や、今日凄いジメジメして暑くて汗かいちゃったからさ、臭かったらヤダなぁって思って、近寄りたくても近寄れなくて……」

 なるほど……。この微妙な距離感はそのせいか。これまでの由比ヶ浜ならもうちょっと近いんじゃないかって気がしてたんだ。でもそれなら答えは簡単だ。

「全然んなことねぇよ。むしろいい匂いがすんだけど……それなんなの?」

「あ、それ制汗剤かも……」

 頭からではなかったらしい。俺は鼻も腐っているようだ。

「あー……。あれだ、お前もそういうの気にするんだな」

「するする、超するよ! 当たり前じゃん!」

 そりゃそうか。俺もモテたくてモテたくてどうしようもなくてそういうことにだけ人一倍気を使ってた時期があるしな。いや、今は全然気にしてないってことでもないけど。

「お前は気にしなくても大丈夫そうだけどな」

 いつもいい匂いがしますし。これじゃいつも匂いを嗅いでるみたいだけどそんなことはないです。……ないよね?

「そういうわけにはいかないよー。だって自分の匂いって自分じゃわかんないもんじゃん」

「ま、そういうもんか」

「そういうもんなのだ」

 不意にシャツの裾をぴょこっと引っ張られたので振り返る。

「……ほんとに、大丈夫?」

 由比ヶ浜は唇を少し尖らせ、上目遣いで俺を見つめていた。赤みの差した恥じらう表情。再確認の言葉の示す意味。

 それをきちんと理解できたが故に俺も気恥ずかしくなり、目だけを逸らして気持ちを受け止めさせてもらうことにした。

「……おお。問題ない」

「じゃあ……」

 すっと、傘を持つ手に由比ヶ浜の腕が絡みつき、俺の肩あたりに彼女の頬がそっと寄りかかった。源のはっきりしない熱さが内のどこかから込み上げる。

「えへへ」

 由比ヶ浜らしいと言える、とても嬉しそうで照れ臭そうな声。

「なぁ、俺こそ臭くねぇか? 変な汗も出てきたし……不安になってきた」

「ううん、全然。ヒッキーの匂いがする。好きな、匂いだよ」

 肩口に顔を押し付け、すんすんと鼻を鳴らす。やめてくださいそこ脇が近いから。

「ちょっとくっつきすぎじゃないですかね……」

 ちゃんとした恋人同士でもないのに。そんな続きが思い浮かんだ。女々しい奴だ、本当に。

「嫌だったらやめるから、言ってね?」

「…………。そのままでいい。傘、小さいからな」

「……そうだね」

 ちゃんとした恋人同士だったなら、返事を躊躇わずに済んだのだろうか。"いつか"が既に訪れていたなら、後ろにつけた建前は不要になるのだろうか。

 ぼんやりと想像してみたが、俺はもしそうなっても躊躇うし言っていそうな気がした。やはりこれまでに培った臆病さと偏屈さは簡単に矯正できそうにない。

 割と簡単に想像できてしまうこと。それ自体が俺にとって異例の事態なのだが、このときの俺がそれに気づくことはなかった。

 完全に密着したので先程よりはマシになったが、やはり傘が小さすぎるようだ。由比ヶ浜の右肩まで届くように持つと俺の左肩がどうしても少しはみ出てしまう。仕方ない、このぐらいは諦めよう。

「ヒッキー濡れてない?」

「まぁ濡れてるな。この傘で二人だし仕方ねぇよ」

「もー、なんであたしばっかり……。もうちょい左やっていいよ?」

「いいんだ、気にするな。左肩だけ濡れるのは男の勲章だ」

「なにそれ」

「今思い付いた。ま、ただのつまらん意地だ」

 言いながら、そんな自分を嘲笑った。

 本当にくだらないプライドだ。でも由比ヶ浜を雨に触れさせたくないのもまた本当だ。何故なら薄い夏仕様のシャツは濡れるとあまりにも簡単に透けてしまうから。透けブラの季節は最高だぜ! ひゃっほぅ!

 百歩譲って俺だけが見られるならただのラッキースケベであり僥倖かもしれないが、こんな状況では俺以外の誰かに見られてしまう。由比ヶ浜であればガン見されてしまうかもしれない。それはどうしても我慢ならない。

 醜い感情だと、酷い独占欲だと我ながら思う。まだ彼女は俺のなんでもないのに。

 由比ヶ浜はそんな俺をまたも見上げ、微かに眉を下げた。

「ありがとね、ヒッキー。意地でもなんでもさ、あたしは守ってもらえて嬉しいよ」

「……そうか」

 ただ雨を防いでるだけなのに守るなんて大袈裟だな。そう思ったけれど、それは言葉にはならなかった。

 お礼を言われたくて、恩に着せたくて、ましてや由比ヶ浜のことだけを思ってやっている行為ではない。半分ぐらいは自分の醜い感情からだ。それに、彼女の表情は純粋な感謝だけだとは告げていなかった。だから、このお礼を額面通りに受け取るには抵抗がある。

「ほんとはちゃんと真ん中にしてさ、二人ともがちょっとずつ濡れるのがいいんだけど……。ヒッキーはそれ、嫌なんだよね?」

「あー、まぁ……。でも濡れるのなんか……、つーかこんなことぐらい大したことねぇんだからよ」

「うん。だから甘えてるの」

 だから、の意味が瞬時に理解できず由比ヶ浜のほうを見た。こちらに向けられた澄んだ瞳の奥に、いつかにも見た強い意思と決意を感じた。

 ぎゅっと、俺の腕を胸に抱く両の手に力がこもった。

「こんなこと、だからさ。これは別にいいんだ。でもね、もう前みたいに……ヒッキーが大変なこととか、しんどいことがまたあったら、もう甘えないから。あたしもわけてもらう、つもりだよ。頼りないのもわかってるけど、少しはあたしも頼ってほしい。あたしにも背負わせてよ」

 止まぬ雨の中、歩みは自然と止まっていた。視線は外せないままだった。

「あ、こんなことって言ってもさ、あたしだけ濡れないようにしてくれてるの、ヒッキー優しいなって、すっごい嬉しいよ? ほんとだよ?」

 由比ヶ浜の力強かった瞳は柔らかさを取り戻し、今は俺の気持ちを和ませようとしている。

 小さな傘の中がまるで別の世界のようだった。

 彼女の体は全て内側に収まっている。俺は一部はみ出たままだ。俺は彼女のように、自分の想いに自らを委ねきれていないから。

 由比ヶ浜は今、甘えていると言った。次は甘えないとも言った。

 逆だ。

 今も甘えているのは俺で、甘えさせてくれているのは由比ヶ浜なんだ。濡れているのは俺で、濡れていないのは由比ヶ浜なのに。なんて歪な関係だろう。

 きっと由比ヶ浜は甘えるのが下手なんだ。ぐっと堪えて我慢してしまう。そうできてしまう女の子なんだ。これまでだってそうだった。だが、これからもまだ続けさせるのか、俺は。

「……そっか」

「うん……」

 今も俺が彼女に支えられているのならば。逆に、俺は彼女の支えになりえるのだろうか。

 俺だけが寄りかかっていて、甘えていて、そんなの許されるはずがない。並んで立つ。彼女の横に並べるように、対等なものにするために。そのために、俺は───。

「由比ヶ浜」

「ん?」

「ここのところ、というかだな。今日のことなんだけど」

「今日……っていうと、みんなが誕生日祝ってくれたこと?」

 彼女は、そこで何かあった? と首を傾げる。

「ああ。それなんだけど、俺聞かされてなかったんだよ」

「あー、やっぱそうだったんだ。クラッカーのときとかさ、ヒッキーだけ超キョドってたからそうなのかなーって思ってた」

 由比ヶ浜は俺の不審な動きを思い出したのか、けらけらと笑い肩を揺らす。

 俺が個人的に彼女の誕生日についての話を何も切り出していないこと、俺だけ誕生日プレゼントを渡していないことは気にならないのか、気にしないようにしてくれているのかはよくわからなかった。

「なんで俺は聞かされてないんだって、そう大志に聞いたらさ、俺には明日があるから別に問題ないだろって言うんだ」

「……ゆきのんも優美子もさ、明日は別の人に、とかって言ってたね」

 由比ヶ浜の声のトーンが少しだけ落ちた。

「ああいう感じのって学校でよく見るよな。周りが勝手に気があるみたいにからかって、当人達は気まずくなったり、急に意識したりみたいな」

「……うん、まあ、あるよね。時々」

「でもさ、あいつら、特に雪ノ下とか三浦とか、そういうの絶対やりそうにないだろ。あいつら自身がそういうこと嫌いそうだし」

「そうだね、あたしもそう思う」

 立ち止まったままの俺たちの横を、小走りの会社員が通り過ぎていった。足音が遠ざかるのを待ってから話を再開した。

「ってことはさ、あいつらはからかい半分なんかじゃなくて、俺と由比ヶ浜はもう"そういうもの"だって確信してるんだよな。たぶん」

「……かもね。あたしも詳しいことは言ってないから……」

「なんか長くなったけど、なんつーかまぁ、言いたいのはだな……」

 続きがうまく出てこない苛立ちからか、傘を持たない左手でガリガリと頭を掻いていた。

「……あいつらにああいう反応されると、なんというか、困るんだよな。お前もそうじゃないか?」

「あー、んー、まあなんて言えばって感じにはなる……かな。あたしの気持ちは変わんないけど、そういうのはまだ、だし」

 由比ヶ浜は言いにくそうに告げる。それでも気持ちは変わらないと。

 嬉しさよりも情けなさ、不甲斐なさ、己の甘えっぷりに嫌気がさす。こんなのがいつまで続くと思っているんだ。

 だからというわけじゃないけれど、思っていることを、感じたことを素直に全部吐き出してしまおう。考えがまとまってなくてもいい。正確にうまく伝えるなんて、不器用で捻くれた俺にはまだ難しいから。

「あんな扱いされるのって俺の人生で初めてでさ、やられてる奴を傍から見てる時はきっとやられたらウゼぇんだろうなって思ってたんだ。俺の気持ちなんか知りもしねぇ癖に余計なお世話だって、絶対そう思うって思ってた」

 浅い息継ぎを繰り返し、なんの打算も策謀も計略もなく、ただ話す。

「でも実際のとこ、ムキになって否定するのも違うし、あいつらに当たり散らすのも変だし、なんか……単純に困ったんだよ、どう反応していいか。お前ももしかしてそうなんじゃないかって、それで、それから、もしそうなんなら……、俺は、お前を困らせたくない。お前には迷惑をかけたくないんだ」

 捲し立てるように思うままに話してしまったせいか、目の前の由比ヶ浜は今まさに困っていた。あの時と同じように、俺はまた戯言を吐いている。

 今必要なのは伝わらない多くの言葉じゃない。伝えたい意思を乗せた、実体を持った言葉だ。

「……え、と。それは、どういう……」

「わかんねぇか、わかんねぇよな。俺もなんかよくわかんなくなってきたし」

「えぇー……。それを聞いてあたしはどうすれば……」

 いいんだ、由比ヶ浜。もうお前に何かしてもらわなくても大丈夫だから。ただ、待っててくれれば。

 そう伝えたくて、右手に力を入れ絡んだ腕を振りほどいた。体を動かし、真正面から向き合う。体勢を変えたことで今度は背中に雨が落ちた。

 少し怯えているようにも見える瞳。俺をいつも見てくれていた、駄目なところを伝えてくれた視線。俺の一番大切にしたい眼差しを、真っ直ぐに見据え、俺は。

「……だから、もう"いつか"なんて言わない。明日、ちゃんと言葉にするから」

 この感情と関係に、名前を付けることに決めたんだ。

「……それって」

「……そういうことだ。そうすりゃ困らなくなんだろ」

「そ、そうかな……。それはそれで困りそうな気が……」

「そんときゃそんときだ」

 まちがえていたって構わない。まちがっていることをもう言い訳にはしない。

 そのために少しの間だけ、俺もこの中に入ろう。由比ヶ浜の理想に、少しだけ手を伸ばし触れてみよう。

 水滴を落とさないように、濡れた左手で彼女の肩に手を回した。加減がわからないので極微細な力で。左手は添えるだけ。

「ヒッキー、人、いるし……。恥ずかしいよ……」

「心配するな、俺も死ぬほど恥ずかしい」

「……ダメじゃん」

 二人の体が小さな傘の中にすっぽりと収まった。もう雨はどこにも落ちてこない。

 ふと、由比ヶ浜は力を抜いたように前のめりになり、俺に体を預けてきた。胸で受け止めた。左手が彼女のさらさらの髪を撫で、そのまま肩を抱き竦めるように勝手に動いた。

 心音を、胸の高鳴りを聞かれているような格好だから落ち着かなくて、さらに鼓動が速くなる。呼吸をちゃんとできているのかもよくわからなかった。

 きっと、俺は初めて由比ヶ浜のいる同じ場所に立てたのだろう。これでほんの僅かでも彼女に近づけたのだろうか。彼女の憂いが少しでも軽くなったりしているのだろうか。表情を見て確認したかったけれど、胸の内にあるせいであいにく確認はできなかった。

「ヒッキー、わかった。伝わったよ。だからもう聞かない。今度はちゃんと……待つから」

 囁くような、どこまでも優しい声音は煩い雨音の中でも俺の耳にしっかりと届いた。


* * *



 雨足が少し弱まってきた。再び歩き始めたものの会話は途切れてしまい、傘の中では水の叩く音だけが響いている。

 由比ヶ浜もさっきまでは密着するように腕にしがみついていたのに、今では俺のシャツの裾をちょこんと摘まむ程度だ。けどそれよりも、俯いて何も話さないのが気になって仕方ない。

 もしかしなくてもやりすぎたのではないだろうか……。さほど多くないとはいえ、人の行き交う往来であんな…………うわぁぁぁ! バーカ俺のバーカ!

 やはり怒らせてしまったのではないかという予感が頭をよぎる。伝えたいことは伝えられた気がするのでそれはそれでオーケーなのだが、このままというのはあまりよろしくない。

 沈黙が気まずいのかと言われるとそれもなんか違うけど、聞きたいことも言わなければならないこともまだ残っている。なんとかせねば……。

 よし、Let's 沈黙打破! みんなゲームも買ってね!

「……あの」

「あのさ」

 思いきって話しかけたがおもいっきり被ってしまい出鼻を挫かれた。何この沈黙打破モード、バグってるんじゃない?

「由比ヶ浜から」

「ヒッキーから……」

 あばばばば。もうやだ。

 この二回をなかったことにすべく、こほんと咳払いをして無理矢理タイミングを図ってから再チャレンジしてみた。

「……お前からでいいよ」

「や、あたしのはほんと、大したことじゃないから、ヒッキーからで……」

 由比ヶ浜は真っ赤な顔で遠慮がちに順番を譲ろうとする。こんなつまらんことで押し問答するのもアレだし、ならば俺からいこうではないか。

「じゃあ、えー……。……由比ヶ浜、明日って予定あるか?」

 あやうく何を聞こうとしてたかわからなくなるところだった。やっぱりさっき呼吸できてなくて脳が死んだんじゃなかろうか。

「……! な、ない。です」

 由比ヶ浜は酷く驚いたような素振りで、おそるおそる答える。なんだその反応は……。

「なんで敬語なの……」

「あ、いや、えとね、スゴい、えっと……。つい、うっかり……」

「そうか……」

 完

 いや駄目だろ。もう少しなんとかならんのか俺は。しかしわたわたする由比ヶ浜を見るのは飽きないな。問題は俺も同じぐらいわたわたしていそうなことだ。

「えーと……じゃあこの後は? なんか用事あるか?」

「な、ないっ。超ないよ、全然ない」

 どんだけないんだよ。もうちょいあるだろお前なら。いやあったら困るのは俺だったな。

「そ、そうか。……なら、付き合ってもらえるか」

 何気なく言ったことなのに、由比ヶ浜は必要以上に狼狽え足を止める。

「え、えっ、付き合う、っていうのは、その……」

「あ、いや、これは、その、そういうのじゃない……」

 俺は斜め上の明後日の方向に、由比ヶ浜は下に。互いに目線を合わせられずまた静寂が訪れた。なんだこれなんだこれ……。

「……あー、よかったら買い物に、ちょっと付き合ってくれ」

「……うん、わかった」

 なぜこれだけの了承を取るのにこんな苦労を……。まあいい。また話題を転がすこともできず終わってしまったし、由比ヶ浜の話を聞くことにしよう。

「で、お前はなんだったんだ?」

「え? あ、うん、えっとね、えっと……」

 由比ヶ浜はもじもじと手を動かしながら途切れ途切れに言葉を吐き出していく。緊張に堪えながら黙って続きを待った。

「えと、ヒッキー、スゴい大胆だなって……。それだけ……」

 消えてしまいそうなボソボソ声はかろうじて聞き取れたが、言い終えると同時に顔を背けられてしまった。

「……怒ってる?」

「まさかっ! 全然、怒ってないよ。ただ、心臓がバクハツしそうで……ヒッキーの目、見られない……」

「えー。お前も結構大胆なことするじゃん……」

 俺にとっては部室で髪をとかされるのも教室で耳元で囁かれるのも遊園地で指切りするのも全部同じぐらい心を掻き乱される行為なんですけど。

「や、これまでは全部あたしからだったじゃん? だからね、ヒッキーからされるのとか……、考えてなくて……」

 するのとされるのでは違うと言いたいらしいが、特に意識していないであろう、前の台詞のほうが心に引っ掛かった。

 確かにこれまで全部由比ヶ浜からだったよね。うん、知ってたよ。

「……だよな」

「え?」

「あ、いや、俺からはなんもしてねぇなって話」

 とりあえず、一つ一つ順番にやっていこう。難しいけど、素直に、正直になって。



 そのまま二人でショッピングモールに向かった。ここ二週間ぐらいの間に何度も徘徊した場所でもある。

 小さな折り畳み傘を畳んでしまうと身体の接触はなくなり、並んで歩くだけになった。そこにあったはずの温もりが消えるだけで喪失感のような寂しさが漂う……ような、気が。いやいや、俺どんだけキモいんだよ……。

「ヒッキー、何買うの?」

 由比ヶ浜は俺の後ろからそう尋ねてきた。彼女にしてみれば付き合ってくれと言われただけだから付き添いのつもりなんだろうが、それじゃちょっと困る。

「お前の欲しいもの」

「はい?」

「……それ。誕生日プレゼント、ってやつ」

 由比ヶ浜の抱える袋を指差しながら答えた。申し訳なさが先立つ。

「え、いや、いいよ。悪いよわざわざそんなの」

 予想通りと言うべきか、由比ヶ浜は遠慮しようと胸の前で両手を振った。でも予想通りなら俺はちゃんと対応できるんだぞ。

「ちげーんだって。元々なんかあげるつもりで何度もこの辺うろうろしてんだよ。でもな、何が喜んでもらえるのか考えれば考えるほどわかんなくなってだな……。結局間に合わねぇし、一人じゃもう選べそうにないから一緒に選んでもらおうと……。すまん……」

 いつの間にか歯切れの悪い懺悔になっていた。全然ちゃんと対応できてねぇ。

 それに対し、由比ヶ浜は予想を越えた反応を返す。

「どど、どうしよ。超嬉しいんだけど……」

「は? なんでだよ……」

「だってさー、ヒッキーがそんな悩むほどあたしのこと考えてくれてたんだよ? 嬉しくないわけないじゃん」

 空いた手で頭のお団子をぽんぽんし始めた。……本当に嬉しそうだ。そう見える。俺が結局何も買えていないことなど心底どうだってよさそうだ。なんなんだお前。

 だが、ならば言わせてもらおう。

「ここんとこの俺の悩みって全部お前絡みなんだけど……」

「や、なんかそれは、ごめん……」

「あ、あれ? いや、すまん……」

 っだぁ! 予想通りにはならんもんだな……。由比ヶ浜が特殊なのかどうかはわからないが、やはり乙女心は難しい。完全な理解は一生無理そうだ。まぁだからといって諦めるわけではないけど。

「……要するに、俺があげたいんだよ。みんながあげてるからってわけじゃなくて俺がそうしたい。だからなんか欲しいもの選んでくれ」

 もはや子供の我儘と大差ない。善意の押し付けは虫酸が走るような行為だから、善意ではなく、俺がそうしたいだけなんだと強調した。

「……うん、わかった。ありがとね、ヒッキー」

 まだあげてないのにお礼ってのもな、と思いつつ頭を掻いて照れ臭さを誤魔化した。たぶん誤魔化せてない。

 それからの会話は、身体の接触がないこともあってか、雨の中を歩いた時とは違いぎこちなさが影を潜めた。キョロキョロと左右にある店を眺めながら、あてもなく並んで歩く。

「選ぶってもさ、なんでもいいの?」

「流石になんでもは買えねぇわ……。値段は相談させてくれ」

「いや、そんな高いものねだらないし……。なんでもっていうのはー、ヒッキーが探してくれて候補にあがったものとかじゃなくてもいいの? ってこと」

「ああ、それなら大丈夫。ほんと何選んでもこれは重すぎだろとかこれはショボすぎだろって思えてきてな……。もうわけわかんなくなってたから」

「あたし、そんなに誕生日プレゼントに文句つけそうに見えるかな……?」

「いや、見えねぇよ。……まぁあれだ、俺が納得できるものがなかったってことだ。俺が納得する必要なんかねぇんだけど」

「んー、まあ気持ちはわかる、かな。ちなみにヒッキーはどんなの探してくれてたの?」

「……なんだかんだここらは一通りざっと見たな。指輪とかネックレスとか、時計、香水、服に鞄……。結局お前の好みがよくわかんねぇし、なんか大袈裟というか、どう考えても重すぎだから断念した」

「確かにねー。ただの友達への誕生日プレゼントとしてはちょっと浮くかなー」

 由比ヶ浜は立ち並ぶ店舗のきらびやかなショーウインドウを眺め、同意する。俺の感覚は間違っていなかったらしい。

 そうだよな。"ただの"、"友達"だからな、俺は。それが当然だ。そんな若干の自嘲を込めた苦笑いは、由比ヶ浜の呟くような言葉に打ち消された。

「……だからさ、こういうのは、また今度で……」

 幻想なのかもしれないけれど。由比ヶ浜も俺と同じ"また今度"を見ているような気がして嬉しくなった。

 目を逸らした先にあった、ガラスに映った俯き加減の二人の高校生の顔は同じぐらいに赤かった。


* * *



 ブランドものやアパレル関係の店がひしめく通りを抜けると、こまごまとしたものが並ぶ雑貨店群が見えてきた。その店と店の境目あたりで、由比ヶ浜がぽんと手を打つ。

「そうだ、そうしよっと。ヒッキー、何にするか決めたよ」

「おお、何にするんだ?」

「傘! 折り畳みの!」

 なんでそんなにドヤ顔してんのかわからんが、それぐらいなら財布にも優しそうだ。そこまで高い傘はねぇはずだよな……。もしかしてあるのかしら……。

「そんなんでいいのか?」

「そんなんじゃないよ。それがいいの。あたしさ、雨好きじゃないって言ったじゃん?」

「言ってたな。まぁ好きなやつなんかそうそういねぇだろうけど」

「うん。けどさ、これからヒッキーに貰った折り畳み傘があればさ、雨もちょっと好きになれそうかなーって」

 そう言って柔和な笑みを見せる由比ヶ浜に、俺の知る由比ヶ浜らしさを見た気がした。

 苦手なものでも好きになれる努力をする。そんなの俺にはできない発想だ。むしろ理解し難い行為に近い。それは決して俺だけでなく、ほとんどの人間ができないことかもしれない。

 人は嫌いなものを探すのは得意だ。嫌なものに理由付けをするのも簡単だ。嫌悪しているものについて話せと言われたらいくらでも話せてしまう。でも逆は難しい。由比ヶ浜にはそれができる。

 俺と価値観の違う女の子。あまりにも優しくて、違いすぎて、一緒にいると劣等感どころじゃない孤独感を味わいもする。けどもう遅いんだ。俺はそんな優しい彼女に惹かれてしまい、その感情に名前をつけると宣言してしまったのだから。

「……すげぇな、お前」

「えー、そうかなー。だから傘って思ったんだけど……ダメ?」

 由比ヶ浜は頭を下げ、遠慮がちに俺を見る。まるで母親にお菓子をねだる子供のように。こいつ甘えるのが上手いのか下手なのかよくわからんな……。

 そんな顔でそんな健気なこと言われてダメって言える男なんかいねぇよ。

「お前がそれがいいってんなら文句あるわけねぇだろ。傘は……こっちだな」

 確か傘もたくさん並べてあった、小洒落た雑貨店があったはずだ。

 記憶は正しく、目的の店の売場まで一直線に向かうことに成功した。哀れで孤独な徘徊の時間はまったくの無駄でもなかったらしい。おっと? スムーズに案内って、これもしかしてポイント高いんじゃないの?

「うわぁ、なんで場所わかるの……」

 うわぁ? うわぁっつったか? あれぇ……?

「この辺うろつきまくったって言っただろ。残念なことに覚えちまったんだよ……」

「え、あ、あの、さっきのレディースの服のお店とか、ああいうとこも入ったの? 大丈夫……?」

 大丈夫かと尋ねられるほど俺は大丈夫じゃなさそうなんですか。そうなんですか。まぁそこまではしてないから安心させてやろう。

「さすがにそれはできなかったから安心しろ。学生の集団とかカップルに紛れて遠目に眺めてたんだよ。何度も往復しながら」

「うぁ……完璧変質者じゃん……。ヒッキー、そんなことさせてごめん……」

「謝られると辛くなるんですけど。やめてもらえますか……」

 なんだろう。急に泣きたくなってきた。せっかくこのフロアでなんの店がどこにあって、どの辺に何が置いてあるか把握できたのに。ここのインフォメーションに務めることもできるレベルだ。

 なんなら女性用下着の店だってどこかわかるからな。直視できなくていつも目を逸らす羽目になるから覚えやすいんだこれが。おかしいな、小町のなら見慣れてるはずなんだがな……。

 というかですね、なんで堂々とマネキンに派手な下着着せて飾ってるのあれ。やめてよね、そういうの。いや、ただの布なんだけど。でもあれってセクハラじゃないんですかね……。いや、布なんだけどね。

「いややっぱキモいな。俺キモいわ、OK」

「全然なにもオッケーじゃない……」

 なんで由比ヶ浜が泣きそうな顔してるんですかね。いいよもう。一応役には立ったから。

「よし、どれにする?」

 気を取り直して傘に目を向ける。俺が今持っているのはなんの柄もない無地で無愛想なものだが、こうして見ると華やかなものとか派手すぎだろと思うものまでいろいろとあるものだ。

「え? あたしもう傘を選んだよ? 一緒に選ぶんでしょ?」

 由比ヶ浜は一歩後ろに退いて傘と俺を見比べる。これはあれか。俺の湯呑みみたいなシステムか。

「一緒に選ぶってそういうことじゃねぇだろ……」

「まあいいからいいから。あたしヒッキーが選ぶやつならなんでも嬉しいからさ」

「……わかったよ。後悔しても知らねぇぞ」

「しないよ。絶対」

 そんな自信満々な表情を見せられては頷く他ない。そういう邪気のない笑顔は眩しすぎて未だに直視できないんだが、いい加減なんとかしないとな……。

 よし、選ぶか。確かに全部任せっきりじゃただ金を出すだけで味気無いしな。

「………………」

 なんでもいい。それは魔法の言葉だ。なんでもいいのに全然なんでもよくない。僅か六文字に矛盾を内包する驚愕の言葉だ。……理不尽!

 なんでもいいって言われてなんでもよかったことなんかねぇんだけど、いい加減にしろよあーん? と昔の俺なら言い出しかねないが、俺も少しは大人になったのだ。そのぐらいはこなしてみせよう。

 とにかく、俺は今試されている。試される大地。もとい試される雑貨屋。でもまぁ由比ヶ浜ならあまり突飛なものでもない限り本当に喜んでくれそうだし、いいと思ったものを素直に……。

「どしたの? 固まっちゃって。気楽に選んでよー」

 由比ヶ浜が不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。俺は商品の傘を手に呆けていたらしい。

 驚いていた。

 そんなことを思える自分に。彼女のことをわかっていると思えた俺自身に。こんな俺が、家族以外の他人に拙い信頼を寄せていることに。

「ヒッキー?」

「ああ、なんでもない。大丈夫」

「? 変なの」

 たぶんこの時が初めてだと思う。クスッと微笑む彼女を素直に、正直に、本当に心から愛しく思ったのは。

 いつか、か。それ、今日までだからな。もう世話にはならないつもりだから、お別れだな。

 改めて固く誓った密かな決意を胸に、傘の柄と向き合った。手に取ったり置いたりしながら悩むこと約一分。

「これがいい。と、思う……」

 自信はない。由比ヶ浜の一番好みの柄かどうか。

 でもこれが最も強く目を引いた。この季節に咲く紫陽花を思わせる、紫のかかった鮮やかな水色。控えめにプリントされた花柄の模様とその色味は、きっと由比ヶ浜によく映えるだろうと、そう思った。

「うん。あたしもこれがいいなって思ってた。で、ヒッキーはこれを選ぶんだろうなって思ったよ。……通じたね」

「みたいだな。……よかった」

 仮に俺がこれでなく隣の別の色を選んでいたとしても、由比ヶ浜なら俺が選んだものが一番いいと言ってくれたんだろうな。

 本当に馬鹿みたいだけど、もう疑ってない。そういう子なんだ、俺の知ってる由比ヶ浜結衣は。

「じゃ、これに決定な」

「うんっ」

 こちらが嬉しくなるほどうきうきした由比ヶ浜と一緒に、青い傘を片手にレジに向かった。

「こちら一点で、9612円になります」

 危うく変な声が漏れそうになった。さすが大都会千葉だ、物価が高い。……いやうっそだろお前マジかよ、そんな高ぇの!? 値段見てなかったー!!

 とは言わない。言えない。とりあえず買えるから。もし買えない値段だったら穴掘って埋まってたかもしれない。知らぬ間に千葉にだけインフレが訪れていたのかと思ったわ……。

「え、スゴい高い……。ヒッキー……」

 そんな申し訳なさそうな顔をするなよ……。いや、それともこれお前に払えるのかって心配されてるの?

「いいよ、俺が選んだんだし」

 財布から野生の諭吉が逃げ出した。大丈夫、惜しくないこんなの。ちょっと俺の知ってる傘の値段と違いすぎてビックリしただけだから。ほんとほんと。

「すぐに使われますか?」

 店員さんは外の状況を知っていたから気を遣ってくれたのだろう。言われたことを一瞬の間を置いて理解し、由比ヶ浜のほうを見た。彼女には聞こえていなかったのか、軽く首を傾げただけで何も言わなかった。

 いいや、勝手に答えてしまおう。

「いえ、贈答用なので」

「かしこまりました」

 すると、店員さんは本当に贈答用の丁寧なラッピングを行ってくれた。ほんとは外包装とか外さなくてもいいよって意味だったんだけど……。

「え? あれ? 包んじゃうんだ」

 買ったばかりの傘が小綺麗な紙の上に置かれたのを見て、由比ヶ浜はようやく気づいたらしい。

「おお。まぁ、プレゼントだしな」

「そっか、それもそうだね」

 ラッピングが終わるまでの間、丁寧に包まれていく傘を楽しそうに眺める由比ヶ浜を見ていた。手持ち無沙汰な左手は別の手を求めていたような気がしたけど、自制して押し留めた。

「ありがとうございましたー」

 傘を受け取り店を後にした。これでここでの用は終わったも同然だ。

 閉店時間が近づいてきたせいか辺りは人もまばらで、穏やかな川のせせらぎを思わせる儚い音楽が流れていた。外の状況はあまり変わっていないようだし、話をするにはここのほうが好都合だろう。

 植え込みの花壇の縁にどちらからともなく腰かけた。

「これ、一日早いけど……。よかったら受け取ってくれ」

 ラッピングされた包みを、押し付けがましくならないようにそっと手渡した。

「……ごめんね、思ったより高かったよね?」

「いや、ほんとにいいから。気にするな」

「うん……。ありがと、ヒッキー。大事にする」

「どういたしまして」

 今度のお礼は素直に受け取ることができた。が、どうにもこうにも、体の自分では絶対に触れない場所がむず痒くなる。こればかりはちょっとどうにもなりそうにない。

「今日さ、みんなにいろんなもの貰ってね、もちろん全部嬉しかったんだけど……。あたしはやっぱり、これが一番嬉しいな」

 由比ヶ浜は俺を真っ直ぐに見据え、傘を大事そうに胸に抱いた。やっぱりもうちょっと、実用的じゃなくても喜んでもらえるものがよかったかもという気がするが、これは贅沢というものか。

「……なぁ。由比ヶ浜は大学どうすんだ」

 唐突に、無遠慮に一歩踏み込んだ。なんとなく話せずにいたことを聞いておきたくなった。

「え? なに、いきなり」

「ずっと聞こうと思ってたんだよ。行きたいとことかねぇの?」

 由比ヶ浜は思案顔でむむむと唸り、少しだけバツの悪そうな顔で答える。

「たぶん、ヒッキーの言ってる意味での行きたいとことか、やりたいことはない……、かなぁ……」

 意図はしていなかったが、別の知りたかった答えを言葉の裏に読み取れた。

 つまり、俺の今言った意味でなければちゃんとあるということだ。言葉として確認したい衝動に駆られたが、これはまたの機会にしておこう。俺も大差ないのだから、別にその理由を咎めるつもりもないしその権利もない。

「ヒッキーは? やりたいこととか、ないの?」

「……ねぇんだよなぁ……」

 溜め息のように吐き出した言葉は中空で霧散した。

 自らに呆れはしたが、これはある意味当然だ。ついこの間まで専業主夫って言ってたんだから。なんなら今でも言えるけど、昔ほどの意地や捻くれ気分はとうに消え失せた。

 ぼっちだからあんなことが言えてたんだよな。一人だから、この先の全てのことから目を逸らし、深く考えず逃げていられた。将来への夢も希望も、未来の自分の姿も何一つ具体的に描けずとも生きていけた。ここまではこられた。

 けれど、近い将来、もしも仮に一人ではいられなくなるとしたらそうも言っていられないのだろう。それはわかるのだが……。

「ヒッキーはきっとなんとかなるよ。大丈夫」

「大丈夫って……何がだ。根拠は?」

「ヒッキーは頭いいじゃん。将来はグチグチ言いながら一生懸命働いてるんだろうなって、あたし簡単に想像できるもん」

「あー、確かにその想像はできなくもねぇんだよな……頭いいかは置いといて」

 頭よかったらあんな頭の悪い妄言は吐かねぇよ、たぶん。

 未来の俺。薄給で激務に耐える、ザ・社畜マン八幡。韻を踏んでるのがポイント。イメージは俺の親父。だが俺の想像できるもう少しリアルな現実は、現状の比企谷家に遠く及ばない生活水準。

 だから現実は嫌なんだよ……。どうせ激務ならせめて給料がいいほうがいいに決まってる。だがこんな俺がこの先、親父ほどまともな会社に就職できるとは思えない。つまりブラックで死亡。享年52歳。ブラック会社に何年勤めるつもりだよ俺。

「あたしは……。将来かぁ……全然想像つかないな」

 由比ヶ浜は弱々しく呟き、珍しく焦点の合わない目で遠くを見やった。

 昼にモチベーションがと訴えていた通り、由比ヶ浜は意味を見つけられないのだろう。

 やって出来ない子ではないはずだ。なんだかんだこいつだって総武にも受かっているわけだし、少なくとも俺はそう思っている。だが、人が動くには動機がいる。やりたくない苦手なことならなおさらだ。

 それが例えどんなにくだらないものであっても、本人にとっての理由となる何かが必要なのだ。

 由比ヶ浜が大事にしたいもの。由比ヶ浜が動く理由。

「……でも、頑張んないとね、あたしも。どこ目指すにしてもさ」

 考えていたことはあったが、まだ何も確認できていないのに自惚れるにも限度がある。だから、それが喉を越えて出てくることはなかった。

「……そうだな」

 座ったときと同じように、どちらからともなく立ち上がって歩き始める。エントランスの二重になった自動ドアの二枚目が開くと、雨の音が飛び込んできた。

「……あー、せっかくラッピングしてくれたのにもう開けちゃうのかー。勿体無いなー」

 由比ヶ浜は寂しそうに包みに手をかけた。そこに声をかけ、動きを遮る。

「あ? お前何言ってんの」

「え? いや、折り畳み傘の話だけど……」

「……俺、家まで送るっつったろ。今日のとこはそれいらねぇからしまっとけ」

 言いながら俺の折り畳み傘を開き、ここに来たときと同じように差し出した。どうせ来るときもそうしてたんだし、今から同じことしたって別に構わんだろという照れ隠しのヤケクソ精神だ。

 これが今の俺の精一杯。どこを探してもこれ以上のものは出てこない。俺はどんな顔でこんな台詞を吐いているのだろう。絶対に客観視はしたくないところだ。

 一方の由比ヶ浜は鳩が豆鉄砲を食ったようにぽかんとしていた。まずい。もしかして外した?

「……どうする?」

「は、入り……ます」

 また敬語になった……。

 由比ヶ浜がびくびくしながら俺の腕にしがみつく。その温もりを懐かしく感じながら帰路に就いた。

 雨の強さを考えたら、こんな行為は明らかに合理的じゃない。事実、俺の左腕はまた濡れ始めた。でもおそらく、こんなものに合理性を求めるのことこそが間違いだ。

 由比ヶ浜の傘がないから、という当初にあったもっともらしい理由は既に失っている。だからこそ、俺からそうしようと言い出すことに意味があるのだと思った。合理性も何もない、ふわふわした実体のないものに初めて理由を求めた。

 だからこれでいいんじゃないかな……。俺がこうしたかったってことで……。

「……なんか、ちょっと怖いんだけど」

 由比ヶ浜はしばらく黙っていたかと思うと、急にぽつぽつと話し始めた。

「何が?」

「ヒッキーが」

「俺? なんか怖がらせることしましたかね……」

 送り狼の危険? いや無理だろ由比ヶ浜の家族がいるだろうし。そういう問題でもねぇか。

「ああいや、ヒッキーが怖いっていうか、あたしが怖いっていうか……。どうしたの? あたし、なんかした?」

 なんだろう。俺悪いことをしてるんじゃないかって気がしてきたんだけど。

「まぁ……いろいろ急すぎ、なのかね」

 これまでの俺からでは考えられない行為のオンパレードだ。由比ヶ浜が戸惑うのも無理はない。当の俺が一番戸惑ってるし。

「そう、それ。急すぎてほんと、もう……」

「じゃあやめとくか……」

「い、いやっ。ダメ……。このままが、いい」

 その瞬間、さらに強い力で腕をぎゅっと抱き締められた。

「そ、そうか……」

 そこからは何を話したのかよくわからない。たぶん上の空で、まともな返答ができてていたかかなり怪しい。

 なぜなら、ひたすら感じないようにしていた謎の柔らかさが無視できなくなったから。こんな柔らかい部分、俺の体にはないんだけど。こんなの絶対おかしいよ。これネットで見たことあるやつだよ……あててんのよ攻撃だよ絶対……。こんなんあたまおかしなるでほんまに。

 たぶんお互いに大した内容の話はできぬまま由比ヶ浜のマンションに辿り着き、血の昇った頭でなんとか挨拶をして別れた。

 なんかすっごいお礼言ってたな、送ってくれてありがとうって。

 感謝するのはこっちじゃないですかねと思いながら、さっきまで水風船みたいな何かが触れていた箇所を擦る。

 気持ち悪い顔をしてそうな自分に気合いを入れ、帰宅することにした。浮かれるのはまだ早い。まだ。

円盤買わないと読めない特典のSS見せ付けるとか頭狂ってやがんのか

>>106
買わない方が悪い(断言)
続きは明日かな?

前日パートは前日で当日パートは当日投稿する粋な演出

* * *


 ようやく家に辿り着き玄関で傘を片付けていると、二階のリビングから降りてきた小町と鉢合わせしてしまった。

「……たでーま。タオル、もらえる?」

「ほいよ、おきゃーり。……なして傘持っててそんな濡れてんの」

 不思議そうというよりは怪訝な目を向ける小町から、雑に渡されたタオルを受け取ると肩と腕を拭いた。同じくずぶ濡れになっていた靴下を脱いでから家に上がる。

「ま、いろいろあってな」

 一瞬も悩まなかった。素直に話すのは無理だ。いくら家族で可愛い妹とはいえ、こんなことまでつまびらかに話す必要はあるまい。……恥ずかしいし。

「ふーん、いろいろねぇ。まあ詳しくは聞かないでおいてあげる。小町、そういう気遣いのできる子だから」

「おお、そうしてくれると助かる。けどその言い方、結構押し付けがましいからね?」

 よくできた妹でお兄ちゃんは困るな。

「さすがに兄のプライベートなところにあんまり踏み込むのもねー。……気にはなるんだけど? けど?」

 興味津々で鬱陶しい目が向けられる。ほんと困る。そういうあれ。

「けど、なんだよ」

「小町からは聞かないでおいたげるけどー、お兄ちゃんが話したいってんなら聞いたげてもいいよ?」

 小町は頬杖をつき、小首を傾げ微笑む。やだ! この子可愛いわ! 騙されないけど!

「暗に話せって言ってるよね、それ」

「いやいやー、嫌ならいいんだよー別に。あ、お兄ちゃん」

「あん?」

 体を拭き終わったぐらいのタイミングで、後ろから声が飛んできた。

「ちゃんと結衣さんのお誕生日プレゼント買えた?」

「気遣えよ。思いっきり踏み込んでるよ」

 無理だな、話さないと終わりそうにない。適当にかいつまんで話して終わらせてしまおう。

 じゃあご飯食べながら話そうかと言い残し、小町は晩御飯の支度を始めた。俺は適当な了承の返事をして脱いだ服を洗濯カゴに放り込みに向かった。



 質素な食事を終えると、お茶を啜りながら本題に入ることにした。

「で? 何が聞きたいんだお前は」

 兄の恥部を知りたいとかはしたないんじゃないですか。

「あ、別に何ってことでもないんだけど。今回は小町を頼んなかったよね、お兄ちゃん」

「……まぁな。おかげで自分じゃ選べなかったんだけどな」

 俺が何にしようかと悩んでいたのは薄々知っていたのだろう。十何年も一緒に暮らしているとそのぐらいわわかるものだ。

「え? 選べなかったって、じゃあどうしたの?」

「探したけど何がいいのかわかんなかったって素直に言って、一緒に選んでもらった」

「おぉぉ……」

 小町はなぜか目をキラキラさせ感嘆の声をあげる。

「…………なんだよ」

「それ、かなーり好印象だよ、お兄ちゃん」

「そうなの? 結局好みがわかってないってことにはなんねぇの?」

「大丈夫大丈夫。その結果は別にいいんだよ。真剣に考えたっていうのが伝われば嬉しいもんなの。で、一緒に選ぶっていうのは一番ほしいもの選べるし、探す時間も楽しいし、かなりベスト。やるねーお兄ちゃん」

 なるほど、小町と話すのはためになるなー(棒)。今回は俺の優柔不断がいいほうに向かってくれたようだ。心配していたわけでもないけど、小町の言葉を聞いて少し安堵したのも確かだった。

「なぁ。お前さ、俺と由比ヶ浜が、その、あれ。もう付き合ってるって思ってる?」

「え? 違うの?」

 小町は、何わけわかんないこと言ってんの? とでも言いたげだ。

クオリティーたけえ

 やはり小町もなのか。どうやら俺のヘタレっぷりは近しい人間の想像をも遥かに越えているらしい。

 やっぱりこんな状態は不自然なんだな。でも今さら本当のことを言うと激しく怒らせかねない。言葉は悪いけど、そんなら帳尻は合わせとかないとな。

「なんでもない。忘れてくれ」

「何それ。……あ、明日だけどさ、小町出掛けてたほうがいい?」

「いらん気回してんじゃねぇよ……」

 ニヤニヤと視線を送る小町をあしらい、風呂に入ることにした。日付が変わるまでに済ませられることは済ませておこう。


* * *



 日付の変わる五秒前に電話を掛けた。

 半ばパニック状態と変わらない気分でコール音が鳴り始めるまでの数秒を待った。

 目が覚めたのは十分前。風呂をあがってから、何を言おうか、どう切り出そうかと寒々しく空虚なシミュレーションを繰り返しているうちに眠りこけていたらしい。ソファに横になったのが失敗だった。たぶん夕方から夜にかけて慣れないことをしすぎたのが原因だろう。

 いつ来るともわからない、もしかすると来ないかもしれない"いつか"を、やがて来る明日に変えた今日。そして今日はもう終わり、明日が今に変わる。その瞬間を逃したくなかった。

 席を外している、既に寝ている可能性もなくはないが、きっと繋がるはずだと信じていた。祈りにも似た思考だった。

 こんなものには合理性も論理性も、俺が終始大事に抱えていたトラウマという名の予防線も何もない。そんな今日の俺を昨日の俺は無様だと笑うのかもしれない。

 でも、由比ヶ浜が絡むといつだってそうだ。くだらない計算も手段も策謀もなんなく飛び越えていく。あいつはいつだって俺の手の届かない向こう側にいた。そんな気がしていた。

 電話が繋がり、コール音が鳴り始めた。

 一度……二度……、三度目が鳴る前にコール音が途切れ、音が消えた。聞こえるのは煩わしいほどに叩く俺の心音だけになった。

「……もしもし、ヒッキー?」

「おお……えと、こんばんは……」

 自分からかけておきながら、由比ヶ浜の声に固まりそうになった。何故こんなに俺が動揺してるんだ……。

「こ、こんばんやっはろー。日付変わった瞬間だったからビックリしたよー。……どうしたの?」

 由比ヶ浜の声から若干の緊張が伝わった。日付が変わっていることを意識したからかもしれない。

「いろいろあんだけど、まぁ、あれだ。……誕生日、おめでとう」

 最初に伝えるのはこれだというのは決めていた。今日いろいろあった中で結局一度も言えていなかったし、どうせ言うなら当日のほうがスッキリすると思った。

 由比ヶ浜が18歳になった日。彼女の生まれた日。それを、俺が一番最初に祝いたかった。

「…………うんっ。ありがとう」

 このやり取りで若干緊張が解けたような気がした。由比ヶ浜だけでなく、俺も。

「今日はまだ誰にも言われてないよな?」

「そりゃ誕生日になったばっかりだもん、まだだよ。パパもママもたぶん寝てるしさ、言われるのは明日かな」

「……そうか。よかった」

「ヒッキー、もしかして、だけど。一番にそれ言おうとしてくれてた?」

「おお、まぁ……そうなるかな……」

 駄目だ。電話越しでも恥ずかしい。一人で赤くなっている姿なんて誰にも見せたくねぇ……。

「なんて言うのかな、ヒッキーってさ、結構、いやかなり……ロマンチストだよね。やることが」

 言葉を選んだのが伝わってきた。いいんだよ、俺がキモい傾向にあるのは自覚してるから。

「キモいって言いたいならそう言え」

「いやいや、全然キモくないから。超嬉しい、そういうの。あたしもさ、結構……乙女? だから?」

「自分で言うか、それ」

「えー、いいじゃんこのぐらいー」

 女の子と電話でこんな風に普通に話せるなんて初めてのことかもしれない。前の由比ヶ浜との通話は割と酷かった、二人とも。まぁそもそも女の子と電話することなんてほぼ皆無なんだけど。

「無事18歳に……なりました!」

「知ってる。おめでと」

「ありがとーありがとー。でもさー、18歳だからって特別なこともそんなないよね。20歳とかだと節目っぽいしいろいろあるんだけど」

「そうだな……。女子は特にないんじゃねぇかな」

「ん? 男の子はあるの?」

「あー、まぁ。一応結婚できるようになるな」

「け、けっ……」

 由比ヶ浜の声が途切れた。これは絶句しているというのが相応しいのだろうか。いやその反応おかしいから。

「法律上可能になるってだけだからな」

「だ、だよね。わかってるよ、そんなの。…………あの、あたしも、できるよ?」

 最後のほうはボソボソとした声でとても聞き取りにくかった。

 「あたしも」ってなんだよ、「も」って。俺は誕生日まだだっつーの。……ってそういう問題じゃねぇよ! まだその前に必要なこといろいろあるだろが。

「……知ってるよ。あー、あれだ。車の免許取れるな、18歳なら」

 このままだとドツボに嵌まって二人とも話せなくなりそうな気がしたので、思い付いた話題に無理矢理変えることにした。

「あ! そうだね、でも免許取りに行けるのは受験終わってからかなぁ」

「……え? お前取れるの?」

「どういう意味だっ! そのぐらい取れるよ!」

「あれって学科試験あるんだぞ? わかってるか?」

「むぁー!! わかってるよ! バカにしすぎだからぁ!」

 くくっと、おもわず忍び笑いが漏れた。ヤバい。超楽しい。だが少し困りもする。

 決して悪いことではないのだが、あまりフランクな雰囲気になってしまうと言おうと思ったことがますます言いにくくなってしまう。

 かといって上手いこと流れを変える話術は持ち合わせていない。もう少し流れに任せるか……。

「もぅ……。ヒッキーヒドいよ。ママだって持ってるんだからあたしだって取れるもん」

「え……お前のママさん持ってんの?」

「うん、そだよ。なんか変?」

 なんだろう。今話している由比ヶ浜結衣の母親。まだ見ぬその人がバリバリ車の運転をしているというイメージが全然沸かない。まったくもって失礼な話ではあるが、危ない予感しかしない。

「……運転はしてるのか?」

「ううん、全然してないみたい。パパがさせてくれないんだよ、心配性だよねー」

 オーケーわかった。把握した。

「その気持ちはよくわかるぞ、うん」

「なんだろ、なんか失礼なこと思われてる気がするよ……」

「……ま、免許云々は受験が無事終わってからだな」

「…………そだね」

「勉強、してるか?」

「して……る、かも、しれない……」

 わかりやすく歯切れの悪い返答。聞かれないように、電話から顔を離して静かに息を吐いた。

「俺さ、お前のことしょっちゅう馬鹿にしてるよな」

「うん、さっきもしたし……。ヒッキーの意地悪」

「でもな、俺はお前のこと頭悪いと思ったこと、一度もねぇからな」

「えー、絶対嘘だー。信じられないー」

「本当だよ、お前に足りないのは知識と教養だろ。そんなもん頭の良さとは関係ねぇよ」

「そ、そうなの、かなぁ……」

「間違いなくお前はやりゃできる部類の人間だよ。実際、俺はお前に教わってばかりだ」

 俺の声が真剣なものに聞こえたのか、由比ヶ浜の声音も茶化すようなものではなくなった。

「あたしが、ヒッキーに何を教えてるの?」

「……いろいろ。勉強じゃわからない、大切なこと」

 たとえば、俺の悪いところとか。わからないで終わらせちゃ駄目だってこととか。本当にいろいろあるんだよ。感謝してもしきれないぐらいだ。

「そっかぁ……。あたしがヒッキーにしてあげられることって、ちゃんとあるんだね。よかったぁ」

 電話を通じ届いた安堵の声は、まるで、耳の奥で優しく囁かれているようだった。すると、不意に由比ヶ浜の姿が瞼の裏に浮かんだ。

 俺の見た幻想の彼女の顔は、少しだけ悲しそうで、困ったような笑顔で───。

「───由比ヶ浜」

「ん?」

「好きだ」

 ずっと警鐘を告げるかのように心臓は鳴りっぱなしなのに、思っていたよりも随分素直に声が出た。

 もっと、美しく想いを引き上げるような言葉を並び立てられたらよかったのかもしれないけど。今は、これで。

 こんなにも短い言葉を、単純な気持ちを伝えるのにどれだけかかっただろう。彼女にどれだけ辛い思いをさせたのだろう。

 俺はきっとこれから先、何度も由比ヶ浜を悲しませる。もちろんそうしたいわけじゃないし開き直るわけでもないけど、こんな俺が誰かとずっと順風満帆だなんて土台無理な話だ。

 けれど、せめて、俺の思い浮かべる由比ヶ浜の表情ぐらいは屈託のない笑顔にしたい。そう考えたら、気持ちは単純で簡素で、愚直なぐらいに真っ直ぐな言葉になった。

「え、え? はい? え、なんて?」

「き、聞こえただろ……」

「も、もっかい」

「……やだ」

「えぇー!? なんで!?」

「もう言った。恥ずかしいからもう無理」

「な……なんであんな唐突に言うわけ!? もっと、なんか…………あるじゃん! 心の準備とかさー!」

「俺は明日ちゃんと言葉にするって言っただろ」

「そりゃ、今はもう明日だけども……あぁぁ……。せっかく、言ってもらえたのにー…………。あっ!!」

 嘆いていた由比ヶ浜が何かを思い出したように叫ぶ。ビックリした……。

「んだよ、いきなり大声だして……。どうした?」

「大好き。ずっと前から。……これからも」

 心臓が止まるかと思った。声なんか一切出なかった。

 気持ちを知ってはいたつもりだけど、実際に言葉にされるとこんなにも響くのか。震えるのか。

「えへへ。お返し。あたしも、言葉にしたの……初めてだよね」

 いかん。まずいこれ。顔が。勝手に。体が。熱い。身悶えしてしまう。死にたい。いや死にたくない。胸が。俺の知らない感覚が全身を這いずり回り、もうわけがわからない。

 由比ヶ浜もこんな感じなんだろうか。同じぐらい響いてくれてると嬉しいんだけど。

「ヒッキー? 聞いてる?」

「聞いてる。心臓に悪いわ……」

「もう言わないほうがいい?」

「そ、そんなことは言ってないだろ」

「そっか。まあ、言うなって言われても言うけど」

「……そうか」

「だから……。あたしも、また聞かせてほしいな」

「……次は、ちゃんと会ってまた言うから。今は勘弁してくれ……」

「……わかったよ。ヒッキー」

 結局、また次を待たせることになっちゃったな。けど、まぁこれぐらいは許してもらおう。それは、"いつか"の話なんかじゃないから。別にいいよな。

 未来は常に白紙だって聞くし、俺もそう思ってたけど、由比ヶ浜と一緒だとそうでもなさそうだ。

「あ、明日……じゃないな。今日のことなんだけど……」

 それから待ち合わせの場所と時間を話し合うと、これまでの空白を埋めるように二人でとりとめのないことを話し続けた。どうやって電話を切ったらいいかわからないというのもあったけど、俺がこんなに長時間電話できるということに驚いていた。

 由比ヶ浜は話題がいくらでも出てくるみたいだけど、俺はそうもいかない。言葉を探し始めるようになってから、なんの気なしにふと時計を眺めてみて目を見開いた。既に通話を開始して一時間近く経っていた。

「うぇ、いつの間にこんな時間に……。そろそろ寝るか?」

「あー、うん、そだね。そんなに眠くもないんだけど、寝ないと起きれなくなっちゃうね」

「……長い時間、ありがとな。いきなり電話して悪かった」

「ううん、悪いわけないよ。こっちこそ……嬉しかった。ありがと、ヒッキー」

「……おやすみ。また明日……じゃない、今日だな」

「うん。また、今日ね。……おやすみ、ヒッキー」

「……おやすみ」

 名残惜しさを堪え、ゆっくり耳から離して電話を切った。俺からそうしようということは決めていた。由比ヶ浜も自分から切りにくいだろうというのはわかっていたから。

 長く話す内に胸の高鳴りは収まりつつあった。でも耳にはまだ甘さの余韻が残っている。そして、特にあの一言の残した熱はまだ内側で燻っているように感じられた。

「はぁ……」

 呼吸の仕方をようやく思い出したように大きく息を吐き、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。

 なんだこれ、なんだこれ……。何も意識していなくてもしばらくすると、収まっていた高鳴りが奥から湧き出るようにまた昇ってくる。

 ゴロゴロと転がり回り、文字通り身悶えていた。

 ついに言ってしまった。決定的な一言を。だが、まだ面と向かっては言えていない。それにまだ足りない言葉がある。名前をつけられていないものがある。

 顔を見ながら言うのって絶対電話で言うよりしんどいだろ……。さっきより焦がれるような思いをまだしろと言うのか……。

 けれど、これは俺が蒔いた種だ。俺の残してきたツケだ。全て自分で回収しないと。もう先伸ばしにはしないし、人任せにもしない。

 それが、ぼっちと名乗っていた者の意地だ。比企谷八幡の新たな矜持だ。


* * *

これはとりあえず乙でいいのかな?
デート?も期待してるぞ

続きはよ

だまって見てろ…



「おや。お出掛けですか」

 朝起きて、ではなく朝まで起き続け、冴えない頭で靴を履いていると冷やかしが現れた。ちっうっせーなと思いながら振り向くと、あまり見たことのないドン引き顔をした小町に酷いことを言われた。

「……うわ。お兄ちゃん何その顔……」

「……俺はいつもこんな顔だが」

 とりあえずこれで何年も生きてきた(これた)のに、今さら文句を言われても困るんですけど。

「いやいや、いつもの200倍ぐらい酷いから。クマ凄いよ? 寝てないの?」

「あー……。全く寝られんかった。そんな酷い?」

「うん。ゾンビだよゾンビ。その顔で結衣さんと会う気?」

 おかしいな、俺も鏡は見たはずなんだけどそんな酷かったかな。もしかしていつも酷いせいで普段から目は見ないようにしてるのかも。よし、自虐だけはいつも通りにキレッキレだな。これなら大丈夫だ。何がだ。なんかテンションまでおかしくなってる。

 ていうか、俺は小町に今日何処へ何をしに行くとか一切話していないはずなのだが……。まぁいいか、今さら惚けてもなんともならないし。

「そうだけど……。なんとかできたりすんの?」

「んー……。待ち合わせまでどんぐらいある?」

「まだ結構あるっちゃあるな。寄り道するつもりで早く出ようとしてたから」

「20分ちょうだい。少しはマシにしたげる」

 そう言うと小町はリビングに足早に向かった。

 こういう時、年頃の女子が近くにいるというのは本当に助かる。目のクマに速効性のある対処法なんて俺が知っているわけがない。俺の身なりが性格の割に小綺麗なのも間違いなく小町のお陰だろう。

「お兄ちゃーん、こっちきてー」

 呼ばれたので履きかけた靴を脱ぎリビングに向かう。

「ほら、横になって」

 小町はタオルを手にソファをポンポンと叩く。特に抗う理由もないので黙って横になった。

「はい。マッサージもしたげるから、ちょっとだけでも目閉じてなさい」

「おお……」

 どう用意したのか知らないが、熱せられたタオルを目に被せられた。熱気持ちいい。こめかみのあたりを小町の指がちょうどいい加減で押したり擦ったりしている。

「すげぇ気持ちいい……」

「ふふーん。大サービスだよ、ほんと」

 横になって目を閉じた瞬間から微睡みは始まっていた。

「……小町はさ、応援してるからね。頑張ってよ、お兄ちゃん」

 だから、既に小町の声は聞こえていなかった。



「…………お兄ちゃん、お兄ちゃーん。はちまーん」

「……おぉ?」

 小町に揺さぶられ渋々目を開けると見知った天井があった。そりゃ昨日も見たからな……。

「俺寝てた?」

「もう超一瞬で寝てた、どんだけ眠いの。ほら起きて、きっかり20分だよ」

「そうか……」

 寝た瞬間をまったく覚えていない。一日ぐらい寝なくてもある程度は大抵なんとかなるもんなんだが……なんなんだろうこの疲れ。俺は女子と話すのが一番疲れることなんだろうか。あ、それ大いに有り得るわ。

 だが眠いことも疲れることも、俺が動かないことの理由にはもうならない。

「うし、行ってくるわ。で、マシになってんの?」

 気怠い体を強引に起こし、上体を反らして背伸びをしながら顔について訊ねた。

「……たぶん。お兄ちゃんならそんなもんかな」

「何その曖昧な答え……」

「いやマシにはなったから。ゾンビからお兄ちゃんぐらいには戻ったよ」

 なんかゾンビとお兄ちゃんの差あんまなくない? 俺一歩ずれたらゾンビになるの?

「まぁいいや。小町、助かったわ。さんきゅな」

「おうとも!」

 小町のあざとくてウザいサムズアップに見送られ、家を後にした。

 ほんの少し寝ただけでも目がさっぱりして随分頭が軽くなった。小町マジありがたい。適当なお礼しか言えなかったから今度なんかいやらしくないマッサージでもしてやろう。断られそうだけど。

 こりゃ寄り道してる時間はねぇなぁ、また一緒に買いにいくかなと悩みながら待ち合わせ場所に向かっている途中、スマホが振動してメールの着信を告げた。

『ヒッキーごめんー! 寝坊しちゃったからちょっと遅れる! 20分くらいかな?』

 文面を見て馬鹿みたいなことを思い付き、周りに人がいるにも関わらず顔がニヤけそうになった。

 もしかすると、だけど。由比ヶ浜も俺と同じように寝られなかったのかもとか、そんな妄想をしてしまった。脳がだいぶやられてんなー、俺。

『気にしないでOK。俺も少し遅れそうだからゆっくりでいい』

 そう返信してから寄り道するつもりだった本屋に向かい、待ち合わせ場所に着いたのは当初の予定より十分ほど過ぎた頃だった。

 由比ヶ浜はまだ来ていないようだ。言っていた時間通りならもう少しかかるか。

 今日は由比ヶ浜にとって特別な日でも、大半の千葉県民にとっては特別でもなんでもない日のはずなのだが、待ち合わせに指定した駅はやたらと混雑していた。

 それもそのはずで、本来なら外に立っているであろう人間が雨のせいで全員建物内に移ってきているのだ。うかつだった。そこもかしこも待ち合わせ中らしきやつらがスマホ片手に立っており、俺のいるべきスペースがない。

 それに、ナチュラルに人に溶け込む(空気化する)パッシブスキル持ちの俺がここにいては、由比ヶ浜が見つけられないかもしれない。あと、ないとは思うが万が一人に見られても面倒だし、勝手ではあるが場所を変えさせてもらおう。

『待ち合わせ場所は人多すぎなので駅ビル二階に変更。エスカレーター上がったとこにいる』

 メールを送信するとエスカレーターで二階に上がり、すぐ横の観葉植物で目隠しされた空白のような通路に向かった。ここなら人も少ない。

 ガラス張りの壁面から階下を眺めてみると、傘を持った人達があっちこっちを動き回る景色が見えた。みんなこの雨の中をどこに行くんだろうな。

 上からなら由比ヶ浜が向かってきているのがわかるかなとも思ったが、それは無理そうだった。ほとんどの人の顔は傘で隠れているから判別のしようがない。

「くぁ…………」

 鉛のように重い眠気が噛み殺すことのできない欠伸に変わった。

 ……いかんな。マシになったと思ってたのに、気を抜くとすぐに睡魔が襲ってくる。夜分の電話のあと、考え事をしながらでもそのうち眠れるだろうと延々悶々と考え続けたのがよくなかった。甘かった。

 目を擦りながら、駅前の信号の向こうに溜まっている傘の群れを見ていた。コンビニで売っているような安っぽいビニール傘や地味な色の傘が多かった。その中に混じって、見知った柄の傘を見つけた。途端に目が覚めた。

 小さな紫陽花が揺れていた。

 信号が青に変わるとその花は他の誰よりも早く横断歩道を渡り、やがて視界から消えた。

 ……馬鹿だなぁ、あいつ。

 たぶん俺は顔の綻びを隠しきれていなかったと思う。なんとなしにスマホで紫陽花の花言葉をググってみて、また一人で笑った。

 たくさんあるうちのネガティブなほうはピンとこないが、ポジティブな意味は全部あいつのイメージ通りじゃないか。直感って案外バカにならないもんだな。

 占いや姓名判断なんかと同じで花言葉なんてのもバーナム効果の賜物なんだろうけど、そんなもので喜んでいる俺自身を可笑しく思った。

「ヒッキー……遅くなったー、ごめん……」

 エスカレーターを駆け上がってきた由比ヶ浜は息も絶え絶えに、開口一番謝罪を告げる。

「いいよ、俺も遅れたしな」

 肩で息をする彼女は膝上のスカートに薄手のシャツというシンプルな出で立ちで、来る時に脱いだのかはわからないが、腰には長袖の上着が巻かれていた。薄く汗をかいているからか、シャツが張り付き気味で胸が強調されているように見える。これはいけない。

「んじゃ落ち着いたら行くか」

 あまりジロジロ見ているのも失礼だから、引き寄せられる目を体ごと反対に向けて強引に切った。

「うん……。どこに行くの?」

 背後からの声に首を捻った。

「どこって、どこ行くつもりなの? お前」

「知らないよ? 聞いてないもん」

「はぁ?」

 待て。なんで知らないんだよ。変な汗が出てきた。

「昨日……いや今日か、図書館にでも行くかって俺言ったよな?」

「図書館!? 図書館行くの!? 誕生日なのに!?」

 由比ヶ浜は俺の言葉に素っ頓狂な声をあげる。

「え、ちょっと待て。俺マジで言ってない?」

「うん。何も言わなかったから……こう、サプライズ的なやつかと思って聞かなかったの。図書館って言われてたらたぶん文句言ってるし……」

 発言の後半部分は完全にその通りだ。由比ヶ浜なら文句を言うに決まっている。それを聞いた覚えがないということは、言っていないということだろう。

 完全に言ったつもりでいた。電話では予想以上に舞い上がっていたようだ。

「聞けよ……」

「だ、だってー。あたしもう聞かないで待ってるって言ったじゃん……」

 ああ、言ったよ。確かに言ったけども。そう聞いたけども。

「……あー、悪い。でもそういうのは聞いてくれ……。ってことはだな、なんも持ってきてないんだよな?」

「勉強道具? そんなの持ってきてるわけないし」

 参った。俺も最低限のものしか持ってきていないから貸してやることもできないし……買うか? でも今さら一式新しく買うのってなんかもったいねぇな……。

 それ以外のことなんて考えていなかったから、頭を捻ったり掻いたりしてみてもすぐに代案は出てこなかった。

「ディスティニィーとか行くのかと思ってたのに……」

「……雨降ってんだろ」

「まあ、それは……。てゆーか、なんで誕生日なのに図書館なの……。ヒッキーらしいといえばヒッキーらしいけどさー」

 由比ヶ浜は少し不満なようで、同じ言葉を呟いて唇を尖らせた。行き先を言わない俺に期待し胸を膨らませていたのかもしれない。そう考えると落胆してしまうのもわかるけど……。

「誕生日なのにって、お前そんなん関係なく勉強してねぇだろ。だから今日からやんだよ」

「うっ……確かにしてないけどぉ……」

「お前さ、モチベーションがって言ってたよな」

「え? う、うん……」

 こんなこと、昨日まではとても言えなかった。

 明確な形で気持ちを伝え合うまで、こんな自惚れにまみれたような言葉はとても口にできなかった。

「お前のモチベーションって、なんだ? なんだったらお前が頑張る理由になるのか教えてくれ」

「そ、れは……」

 由比ヶ浜は言い淀み、泳ぐように目を逸らした。

「……いいよ。言いにくいことでも、ちゃんと聞くから。教えてほしい」

 できるだけ優しく、語りかけるように由比ヶ浜の言葉を引き出そうと試みる。

「もうお互い気持ちははっきりしてるんだ。だから、俺も頼ってくれ」

 初めて俺から手を伸ばし、指を絡めて手を握った。そのまま手を引き、ガラスの壁面を背にして並んで手摺に寄りかかる。

 揺れる瞳が俺を見つめ、やがて、由比ヶ浜は観念したようにぽつぽつと話し始めた。

「……あたしは、他にはやりたいこともなーんもなくてね、だからあたしにとってはさ、ヒッキーと一緒のとこに行きたいってこと以外、理由になんないの。……でもさ、それってさ、言っちゃったらあたしの責任をヒッキーにも押し付けるみたいになっちゃうじゃん。そうなっちゃうの」

 由比ヶ浜の迷いと葛藤が伝わってきた。声から、手から、それは震えとなって。

「だってね、もしあたしがそういう理由で追っかけて、一緒に受かって大学行けてもね、そうなったらヒッキーはあたしのこと突き放せなくなるもん。そんなこと考えたくないんだけど、あたしバカでウザいからいつか嫌がられることもあるわけで、でもヒッキーは優しいから、そんな理由であたしが大学選んだのに、突き放したりしたら、あたしに何もなくなっちゃうかもとか、絶対、考えて……」

 由比ヶ浜の声には嗚咽が混ざり、最後までは言葉にならなかった。でもそれで十分だ。

「……うん。わかったよ。伝わった」

 俯き涙を流す彼女の頭を、可能な限りの繊細さで撫で付ける。由比ヶ浜はすんと鼻を鳴らし、涙声を吐き出した。

「わかってないよ。だからさ、あたしはこんなこと、言っちゃダメだったのに……」

 由比ヶ浜は、俺に理由を押し付けることを畏れたのだ。由比ヶ浜本人に俺を責めるそのつもりがなくとも、俺に重圧と責任を背負わせることになってしまうと。

 そうだよな。押し付けなんて、怖いよな。俺も怖いよ。

 でもあれだぞ、お前。自分には背負わせろって言っといて、そんなの通るわけねぇだろ。ワガママか。

「あー、なんつーのかな、言わないといけないことたくさんあんだけど、何から言うかな……。えー、まずは、俺はそんな優しくねぇよ、買いかぶりだ」

「……優しいもん……」

 拗ねた子供のような口調だった。なんだか俺も子供に言い聞かせて宥めるような気分になってきた。

「……馬鹿だな、そりゃお前だからだよ。嫌いな人間なんていくらでも突き放す。俺はお前を嫌いになれそうもないから突き放したりはしねぇけど」

「そんなの、わかんないじゃん……」

「まぁそりゃ100%なんて言えねぇけど……案外強情だなお前……。ていうかだな、そもそも前提がまちがってる」

「前提?」

 由比ヶ浜はようやく顔をあげ、俺を見上げて目を合わせた。薄い化粧が少し崩れていた。

「……一緒の大学行きたいのは、もうお前だけじゃないってこと。俺もだ。だからこそ、今日からはお前と勉強しようと思ったわけでだな……」

「…………いいの? あたし、追っかけても。ストーカーとかウザい女とか思われない?」

「だから違ぇって。俺もお前も同じ方角を向いて歩きたいんだから一方的じゃない。押し付け合うって言うとあれだけど、要は半分こするってことだ。俺の責任も、お前の責任も、半分ずつにすりゃいいだろ」

「うん、けど……」

 また泣きそうに顔を歪ませ、駄々をこねるように首を振る。

 ああもう。わかったよ。

「けどじゃない。あー、あれか、順番が違うからか。先にこっち言うべきだったな。もうめんどくせぇから言うぞ」

 ヤケクソ気味な言葉とは裏腹に、緊張で喉がカラカラだった。寝不足のせいもあるかもしれない。

 既に気持ちは確認しあっているから、こんな気持ちでいられるのだろう。さすがの俺もここまできて断られるとは思っていない。なのに鼓動は早く、顔も異常に熱い。でも今言わないと。

 押し付けの許容できる関係にならなければ、この先は話せない。

「好きです。よかったら、俺と付き合ってください」

 掠れたような声で一気に吐き出した。

 昔、別の人に伝えたこともある同じ言葉はおそらく、ただの定型文だった。自分のことも相手のこともよく考えないまま口にした、ただの文章だった。

 でも、今度は考えて考えて、悩んで足掻いて、ようやく吐き出せた言葉で、意思で、大切な想いだ。

「は、はい……。こちらこそ、お願いします……」

 ようやく名付けることができた。由比ヶ浜との関係に。

「だから、お前は俺を理由にしていい。俺はお前を理由にするから」

 もう一度、緩んだ手に力を入れて繋ぎ直した。離れないように、しっかりと。

 それから二人とも下を向き、ひそひそ話をするようにじゃれあった。これ以上ないぐらいにくすぐったい時間だった。

「……泣いてもいい?」

「困るからやめて。つーかさっき泣いてただろ」

「さっきのは悲しくてだよ。今度のは嬉しくて、だから」

「……それでも、ここじゃ駄目だ」

「……ケチ」

「……悪かったな」

「あたし、めんどくさい子だね」

「人のこと言えねぇからなぁ、俺」

「ふふっ。そうだね」

「だからまぁ、お互い様だ」

「うん。……大好きだよ」

「……そりゃよかった」

「……ヒッキーは?」

「……今聞くな」

「……ケチ。あ、でもこれは聞かせて」

「なんだ?」

 そこで二人とも顔をあげ目を合わせた。由比ヶ浜の悲しそうな表情が薄れていたことに安堵した。

「ヒッキーはあたしの理由になれるけどさ、あたしはヒッキーの理由になれるの? ヒッキーはあたしがいるからそこに行きたいってわけじゃないでしょ?」

「ああ、それもちゃんと言っとくか……」

 言いたくないことも考えたくないこともあるけど、全部話そう。信頼するっていうのはそういうことなんじゃないかと思うから。

「俺さ、将来やりたいことは別にないって昨日言ったけど、俺の夢ってなんだと思う?」

「ヒッキーの夢……。……専業主夫? ごめんそれしか思い付かない」

 こんなことで申し訳なさそうな顔をさせてしまうことが、もうかなり情けなくて申し訳ない。

「正解。……ほんと救えねぇ馬鹿だよな。そんなこと考えてる奴が将来の展望を真面目に考えてるわけねぇんだよ。だから今のままでも受かりそうな、適当な私大志望ってことになってる」

「うん……」

「でも大学選びってそんな適当なもんじゃなくて、もっと重要なもんだと思うんだよ。お互いやりたいことちゃんと見つけてそこ目指すのが健全で本来の姿だろ」

「あー、うん。その通りだと思います……」

 由比ヶ浜は至極最も、返す言葉もございませんと項垂れた。俺も人から同じことを言われたら同じ反応を返すだろう。

 日本の教育システムや就活システムについてどうこうとご高説を垂れるつもりはないが、日本に於いては大学選びは高校選びと一緒で人生を左右する出来事だ。学歴なんて関係ないとのたまう人間もいるにはいるが、そんなのは詭弁だ。その先にある就職に直結する以上、言い過ぎではないと思う。

「その場所を決める理由が俺とかお前になるってことはだ、大袈裟かもしんねぇけど人生を左右するってのとそう大差ない。左右まではいかなくても間違いなく影響はする。俺はそう思ってるけど、いいのか、お前。俺なんかに左右されても」

 人に委ねてしまうのは楽かもしれないが、俺にはとっては逆だ。人に委ねるほうが辛い。失敗も苦悩も不幸も全部自分だけで背負いたい。そんなものまで由比ヶ浜と分かち合わなくていい。

 その代わりに、理由を与えてもらうんだ。

「違うよ。あたしがそう決めるの。だから、絶対後悔なんてしない。……もし、ヒッキーと別れることになったとしても、絶対」

 頑強な意思と、一握りの切なさを感じさせる声でそう話す由比ヶ浜の視線はどこまでも真っ直ぐで、もう瞳も揺らいではいなかった。

「……そうか、やっぱ凄いなお前」

 俺なんかとは違うと改めて感じた。だがそれはわかってもいたことだ。

「……ヒッキーは? あたしなんかに左右されて、いいわけないよね。あたしも足を引っ張りたくなんかない」

「ああ、そうだな。いいわけねぇよ」

 繋いでいた手から力が抜けたのを感じ取った。

「俺なんて基本屑なんだよ。こんな自分を信用なんかできるわけがねぇし、これからお前に振られたりした日にはどんな後悔するかわかったもんじゃねぇ。でも、そんなの絶対したくない。だから……」

 力の抜けた手を、強く握り返した。

「……だから、俺はお前を、俺が頑張ってもいい、俺が上を目指してもいい理由にするんだ。お前との出会いまで呪いたくないから」

 これを言い換えると、「俺を由比ヶ浜のために頑張らせてくれ」となるが、捻くれている俺はそう言えなかった。

 こんなのが本来の大学選びの趣旨と外れているのはわかっている。だが、あいにくそういった希望や動機は持ち合わせていない。

 そんな中でも、お互いが理由で上を目指すことになるなら、俺やこいつみたいに多少不純な動機でも構わないんじゃないかな。駄目なのかな、こういうのは。

「これはあくまで俺が決めたこと。でも、その理由は由比ヶ浜の存在。……言い訳の片棒を担いでもらう共犯者みたいなもんだな。これ、ネガティブな発想なのかね」

 由比ヶ浜は首を振り、ううんと喘ぎにも似た声を漏らした。相変わらず好き勝手に吐き出して困らせてしまったが、ちゃんと話せていたんだろうか。伝わってはいるみたいだから、まぁこんなもんで勘弁してもらおう。

 何が理性の化け物だ。そんなの最初からどこにもいねぇよ。いたのは臆病と偏屈で塗り固められたちっぽけなガキ一人だけだ。

「……上、目指すの?」

「おお。国公立、目指す、かも……」

「おぉぉ……。凄い、ヒッキー」

「お前もだからな」

「……はい。あの、それでもなんであたしがいると上を目指す理由になるのか、よくわかんないんだけど……」

 これには俺ん家の家庭環境も影響している。適当な大学に行った結果ブラック企業に就職し、将来共に暮らすかもしれない誰かに、激務なうえに貧しい生活をさせてしまうことに抵抗したくなったのだ。だから大学ぐらい、もうちょい上を目指したほうがよかろうと思った。

 親父は俺や小町や母ちゃんに、あの何一つ不自由のない生活を保証してくれている。あんな風になりたいかと言われると微妙なところだが、偉大な親父を持ってよかった。

 サンキュー親父。フォーエバー親父。いやフォーエバーは駄目だ、いつかは死んでいいぞ。でもほんと長生きしろよな。それまでに親孝行をどんぐらいできるかわかんねぇけど、とりあえず無職は避けてやるから。

 こんなしちめんどくさい思考を全部話すのは長くなるし疲れるし自意識過剰で恥ずかしいから、省略してしまおう。

 由比ヶ浜に伝えるなら、そうだな。

「だってさ、とてもじゃねぇけどお前には養ってもらえそうにねぇもん」

 このあとめちゃくちゃ怒られた。



 ひとしきり話すことは話し終え、さあどうしようという空気になった。あんまり勉強する気分でもないが、その名目で出掛けたつもりだから遊びに行く気にもなれない。

 ……仕方ない。まさかこんなことになるとは思わなかったし、あとから何を言われるかわかったもんじゃないが最終手段を使おう。

「んじゃこうしてても仕方ないし、うち、来るか?」

「ひ、ヒッキーのおうち!? そんなの準備できてないよ!」

 由比ヶ浜は耳まで赤くして両手をぶんぶん振りまくる。……なんの準備がいるんですかね。気になるけどそこは突っ込まないことにしよう。たぶん二人とも墓穴掘りそう。

「心配すんな、小町もいるし。勉強する場所と道具を提供するだけだ」

「あ、なんだ……。いや、でも……ならうちは? ママがいるけど……」

 由比ヶ浜の家か……。英語で言うとホームなのにアウェイ。いきなりアウェイは無理だな、うん。まずはホームでの試合に慣れないと息も出来なさそうだ。由比ヶ浜からすればうちがアウェイだけどこいつならなんとかなんだろ。

「……よし、うち行くぞ」

「えー!? 無視!?」

「うちのが近いし。……あ、家いくならケーキでも買ってくか。昨日も食ったけど」

「う、うん。わかったよ……」

 渋々とうきうきをごちゃ混ぜにしたような複雑な顔をした由比ヶ浜と歩き始めた。なんか手は自然に繋がれてた。自然すぎて怖いです。

 それからスイーツショップ別名ケーキ屋に寄って、好きなケーキをに2ピース買ってから駅を出た。なんであの空間はあんなに物理的にではない別の意味のスイーツ臭が漂っているのだろう。甘いものをたまに無性に食べたくなる俺のことももう少し考えてほしい。

 空を見上げ、雨が降っているのを確認して横目で隣を見た。

「えへへ……」

 目が合うと、由比ヶ浜はほんのりと朱色に染まった頬で、はにかみながら花を咲かせた。

「わざわざ折り畳み使う必要ねぇだろ……」

「えー。別にいいじゃん、せっかくの雨なんだしさ」

 渡したものがすぐに使われているのを見るというのは面映ゆい。目を合わせるのを避け、また空に向けてみた。

 昨日由比ヶ浜の言っていたことが実感としてようやく理解できた。「せっかくの雨」だもんな。雨が悪くないものになってるじゃねぇか。

 雨の日にだけ咲く花か。

「……そうだな。悪くない、かもな」

「でしょ?」

 しつこく雨を降らせる、どんよりと曇った空。

 由比ヶ浜はそれとは対照的な、屈託のない晴れやかな笑顔を見せてくれた。


* * *



 雨の中をだらだら話しながら比企谷家へ向かった。昨日とは違いお互いが傘を持っていたから、道中濡れることはなかった。

 何度か眠そうに欠伸を噛み殺している由比ヶ浜を見ていると、俺にも寝不足の怠さが再びのし掛かってきた。これ勉強できんのかほんとに……。緊張とか別の理由でできない気もするけど。

「……ここです。って知ってるんだっけ、お前」

 我が家に辿り着き傘を仕舞う。由比ヶ浜は宮殿でも見上げるようにぽーっとしている。そんな見上げるほどでかくないぞこの家。

「ああ、うん。事故のあと来たことあるから……」

 事故か、今となっては懐かしいな。あのときの俺と由比ヶ浜はその人をその人と認識していない、ただ同じ千葉に住む人でしかなかった。

 それから同じ高校のクラスメイトになり、ただの知り合いになり、奉仕部の部員になり、いろいろ関係は移り変わって今では最も大切な人になってしまった。

「でもあのときは玄関までだったから……」

「ま、狭苦しいとこだけど。どうぞ」

 先にあがって来客用のスリッパを差し出した。

「お、お邪魔しまーす……」

 ホームのマイホームでよかった。慣れ親しんだ場所がゆえのホームアドバンテージがあり、少しだけ余裕をもって対応できる。由比ヶ浜には悪いが俺のほうが緊張しいだから許しておくれ。

「あれ、小町どこ行った」

 リビングに行っても誰もいない。と、そこでテーブルの上に謎の書き置きを発見した。

『小町は(念のため)お出掛けしときます。少なくとも夜までは戻らないので、もし来てたら結衣さんによろしくね(はぁと)』

 黙ってくしゃくしゃに丸めて捨ててやった。

 小癪なことを……。メール送るとかできんだろうが。わざわざ書き置きにする辺り、誰もいないなら家を選ばないだろうという俺の思考を先読みされているとわかる。そういうの緊張しだすからほんとやめろ。

「……小町ちゃんは?」

「……悪い。出掛けてるっぽい」

「ってことは……、もしかして、誰もいない?」

「……そうなる」

 二人して赤くなり、黙り込んだ。昨日から何度目だこれ。

 小町の謎の余計な気遣いに乗せられてたまるか。意地でも普通に勉強してやんよ。

 …………いや、最初からそれ以外ないんだけど。あれ……?

「部屋行っててくれ、適当なテーブル持ってくから」

「ヒッキーのお部屋……。どこ、なのかな」

 いちいち赤くならんでくれよ頼むよ……。俺の部屋の位置を指し示すと、そのまま折り畳みのテーブルを取りに向かった。



 俺の部屋に入ると、由比ヶ浜は背筋を伸ばし正座して待っていた。そんな姿勢で大丈夫か。大丈夫だ、問題ない。

 なんかこのままじゃいろいろままならないので、緊張を解くために先にケーキを食べたりしてみた。慣れない場所というのが一番の理由だったのか、時間が経つにつれ由比ヶ浜の緊張も解けてきたようだ。

「よし、そろそろやるか」

「あー、うん。そだね……」

 この期に及んで寂しそうな顔を見せる由比ヶ浜を、鬼の心で制し勉強に向かわせることにした。俺はお前の母ちゃんか。

「俺、お前と一緒に進学したいってのも上目指すのもマジだからな……。絶対受かるぞ」

「うん……。でも、スゴい大変だよね」

「それはわかってることだ。今さら数学もやらにゃならんし……」

 国立の大学となると文系の学部でも数学が必須となる。俺昨日数学なぞ必要ないって言ったばっかりなのに……。

「遊べなく、なるよね」

「もちろん。期待するな」

 本気で目指すなら遅すぎる時期だ。だから、他の学生よりも多くの時間と努力が必要になる。遊ぶどころではない。それでも届かないことだって当たり前に考えられる。

「寂しいなぁ。……ね、あたしほんとに受かると思う?」

 由比ヶ浜は本当に悲しそうに眉をひそめ、自信なさげに俺に問いかける。

 俺はできるだけの自信をもって答えた。

「受かる。お前なら。俺はそう信じてる」

「……そっか。ならあたし……。あ、ヒッキー……すき」

 唐突に、甘えた顔でとんでもないことを言う。殺す気か。

「……そうか」

 さすが俺。鉄の心。アイアンハート。ただし壊れかけ。

「ぶー。ヒッキーも言ってよ。電話で、会って言うって言ってたこと」

「俺もう言っただろ……」

 確か定型文に含まれていたはずだ。

「……もっかい、ちゃんと。お願い。それ聞いたら、あたし頑張れるから」

 ……そうか。由比ヶ浜に頑張ってもらうためなら、仕方ないか。仕方ないよな。

「…………大好きだ、由比ヶ浜。だから……」

 息が詰まって最後まで言葉にならなかった。恥ずかしすぎて死ぬわこれマジで。でも由比ヶ浜がいるから夜みたいに身悶えてゴロゴロもできない。

「……うん! あたし頑張るよ、ヒッキー」

 由比ヶ浜は目を閉じ、言葉を身体に染み込ませるようにゆっくりと一度だけ頷いてから、高らかに宣言した。言葉にならなかった部分まで伝わっているような気がした。

 俺も、頑張らないとな。

 数学マジ終わってるからな……。あーもう嫌になってきた。

「俺は数学だけど、お前は何からやっかね……。苦手な教科は?」

「……全部!」

 もう駄目だ。万策尽きたー!

「バーカ」

「ぬぁー!! だから頑張ろうとしてんじゃん! バカー!」

「バカって言うほうがバカなんですー。ほらやるぞ。特に壊滅してそうな英語からやっとけ。あ、これも渡しとく」

 忘れるところだった。

 勉強に必要な道具一式に加え、本屋に寄り道して買っておいた本を一冊手渡す。

「何これ……って、過去問集?」

「おお。いずれ必要になんだろ」

「……うん。でもさ、これー、あたしが目指すの嫌って言ってたらどうしてたの? 気早くない?」

 由比ヶ浜の言うことももっともだ。その可能性がまるっきり頭から抜け落ちてたことに言われて初めて気がついた。

 どんだけ信じてんだよ。一番馬鹿なのは俺だな、これは。

「……別にいいだろ。信じてたんだから」

「……そっか。ヒッキー」

「ん?」

「あたし、やるから。見ててね」

「……ああ」

 この行為がどんな形で結末を迎えるのかわからないけど。

 一番近いところで。"いつか"が来るまで、ずっと見てるよ。

 来ないかもしれない"いつか"は、終わりの時だけで十分だよな。


* * *


 高校でできた友達と適当に時間を潰してたけど、夜になってやることがなくなったから仕方なく家に帰った。

 一応、念のために出掛けることを選択したわけだけど、別に期待はしてなかった。わざわざうちに呼ぶなんてそんなことあるわけないよねーって思ってたし。

「ただいまー」

 少しだけ声を抑えて、誰もいないと思っている家の中へ帰宅を告げてみた。

「うわっ。ほんとに来てるー……。凄い進歩だー」

 見覚えのない女の子らしいサンダルを玄関のたたきに見つけ、素直に感心した。

 あの兄が。この小町を除いては誰とも付き合えないのではないかと危惧していた愚兄が。うぅっ、小町、感動ですよほんとに。兄を真人間ぽい場所に引き戻してくれた結衣さんには感謝してもしきれませんねー。

「お兄ちゃんの部屋、かな……。ただいまって聞こえてないよね、たぶん……」

 ゴクリと息を呑んで二階を見上げていた。いやいや、なんで緊張してるの……。

 とりあえず、なんか妙に落ち着かないので一階をうろうろ見回してみた。当たり前だけどお風呂にもトイレにもキッチンにも誰もいなかった。やっぱり二人は二階にいるみたいだ。

 邪魔したいわけじゃないんだけど、一応いることは知らせといたほうがいいのかな……。いや、それとももっかい出掛けたほうが……。

 ダメだ。気になる。

 お兄ちゃんの部屋の前を通って、自分の部屋に向かった。気がついたら忍び足になってた。

 なんか妙に静かですね……。というか、音が何もしないのですが、一体何をしているのでしょう……。

 お兄ちゃんも結衣さんもいい年なんだし、そういう年頃の子としては口にするのも憚られるアレ的な何かとかあっても別に構いませんが、いきなりそんな声が聞こえてきたりしたらさすがの小町も耐えられないかもしれません。耐えられないからって何をどうするのかはわかんないけど。

 とりあえず声はかけとこう。

「お兄ちゃん、ただいまー……」

 おそるおそる、扉の外から声をかけてみた。

「…………?」

 返事がない。何これ神隠し?

 慌てまくったお兄ちゃんと結衣さんの声が聞こえてくるかと思ったのに。何も返事がないって……んん? もしかして家にいないの? いや見知らぬサンダルはあるのに家に誰もいないほうがホラーだよ。

「お兄ちゃん、いないの? 開けるよ?」

 今度は普通に声をかけた。それでも返事はない。

「ほんとに開けるからね?」

 それから三秒だけ待って、静かに扉を開けた。

 …………なんだ。余計な心配して損しちゃったよ。なんだかんだ、しっかり自分たちのペースで付き合ってるんじゃん。

 それはとてもとても微笑ましい光景で、おもわず笑ってしまった。お兄ちゃんと結衣さん、テーブルを挟んで座ったまま、腕枕で突っ伏して寝てるんだもん。

 それと、同時に少し恥ずかしくもなったかな。

 だって、寝てる二人は机の上で手を伸ばして、正面から握り合ってたんだもん。

 勉強してたのに寝ちゃって平気なのかなってちょっと不安にもなったけど、今日のとこはそれも無理ないよね。だって昨日は二人とも全然眠れなかったみたいだからさ。遠足前の小学生みたいだよね。

 外の雨も止んで、部屋には二人の静かな寝息だけが響いてる。二人ともどんな夢見てるのかな。

 すっごく大変だと思うけど、これからもダメな兄のこと、よろしくお願いしますね。

 ちょっとだけ妬けちゃうけど、日陰者の兄と太陽みたいな結衣さん。きっとお似合いなんじゃないかなっ?

 そう思って安心した小町は、そっと扉を閉めて、これからの二人の幸せを願うのでした。



よかった、なんとか間に合った……
誕生日過ぎたらシャレにならんとこでした
短編ですが思ったより長くなりました
俺ガイルはこれが最後ですかね……たぶん
結衣の誕生日を祝えてよかったです

読んでくれた方、レスくれた方、ほんとマジ超感謝愛してる
あでゅー

乙、二日間お疲れ様です
まだここまでやれる書き手さんは残ってたんだねぇ
何か俺ガイルで他に書いてました?

お疲れ様でした

おつ

乙!

結衣ちゃん誕生日おめ&乙
ニヤニヤさせて貰いますた

ありがとう

>>186
外出てるんでID違いますけど
由比ヶ浜結衣はまた恋をするとか書きました
これも同じぐらいお気に入りですね

>>192
おかえりなさいシリーズの人か
待ってたよ

なんとなく作風とか文章の気配が似てる気はしてましたが同作者でしたか
俺ガイルSS引退?は惜しいですがこれまで諸々楽しませて頂き有り難う御座いましたー

乙かれ
クオリティ高かった

なんかプロになったとかならないとかいう噂をきいたけどそういう事情もあるのかな?
なんにしてもあなたのような作家がいなくなってしまうといよいよコンテンツの終わりを感じさせられますわ
また恋をするも好きだったしおかえりヒッキーとかも大好きでした
これまで素晴らしいSSの数々本当にありがとうございます、お疲れ様でした

そうですね……ここでは妙な趣味を晒しているので諸事情としか言えませんがなかなか時間が取れなくて
今回のも突貫で書いてあんま推敲してないもんだからいろいろ気になりまくりです

来年の結衣の誕生日にはまた書いてるかもしれませんけどね
それではまたどこかでー

乙です
ありがとう御座いました!

お疲れ様でした

久々に上手い人の作品読めてよかったわ

八結の神だわー

おつ久々の良作と思ったら同じ人か
もう書かないのね 渋の方ずっと更新待ってたけど残念

面白かった

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