モバP「まゆ、アイドルをやめろ」 (229)

モバマスssです
地の文あり
たまにキャラ崩壊あり
ゆっくり書いていきます


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1454043209

凛「プロデューサー、今日帰ってくるんだよね」

卯月「ちひろさん、ドッキリのこと、まだプロデューサーさんには伝えていないんですよね?」

「ええ、まだ……」

震える声で呟くわたしに、杏ちゃんがぼやく。

杏「帰ってきてほしくない、ってのまであるよねぇ」

P「おはようございます、ちひろさん……ってあれ?」

P「今日は、アイドル百五十人近くが全員オフの、祝福すべき日だぞ? なんでお前ら来てるんだ?」

杏「……ちょっとね」

P「お前が来てんのが一番びっくりだよ。お前に至っては明日もオフなのに」

杏「由々しき事態なんだ」

「わたしから説明します」
これは、わたしが言わなければならないこと。
事務所に亀裂を入れてしまった、わたしがやらなくちゃいけない。

「Pさん、おとといのお昼から早退して、昨日も休まれましたよね」

P「ええ、少し、用事があったもので」

「Pさんが帰ったあと、わたし、魔がさして……ドッキリを仕掛けようと思ったんです」

P「なにやってんですか」

「ここにいるのは、わたしがおととい、ドッキリを仕掛けたアイドル達です」

P「一応お聞きしますが、どんなドッキリを?」

凛「ちひろさん、Pが死んだなんて言い出したんだよ」

卯月「今までもたくさんドッキリされましたけど……今回はすっごくびっくりしたんですよ」

杏「で、そのお詫びに、今日のオフは、プロデューサーとデートできる権利を、とか言いだして」

P「ああ、だから集まったのか。でも俺仕事ですよ?」

「はい。でもまあスタドリで釣ればそこは大丈夫かと……そうではなくて」

わたしは息を吸い、ぽつりと零した。

「まゆちゃんにも、同じドッキリをしかけちゃったんです」

P「」

P「……」

P「…………はっ」

P「ちょっと待ってくださいちひろさん」

P「俺……おとといに帰るとき、ちひろさんに渡しものをしましたよね。昨日まゆの誕生日だからって、そのプレゼント……」

「はい……」

杏「そのプレゼント使って、まゆに仕掛けたら……まゆ、事務所を飛び出して……」

「この事務所をやめるって、電話をしてきたんです」

毎回思うけどドッキリじゃ済まされねぇ問題だよな
死んだって吹聴するとか

P「え?」

P「なにそれ」

凛「ちゃ、ちゃんとちひろさん、ネタばらしはしたんだよ」

卯月「ええ、ただ……ちひろさん、見てもらった方が、良いかも……」

「……そう、ですね」
わたしはDVDをプレーヤーにセットし、再生ボタンを押した。
Pさんはわたしを押しのけて、鬼気迫った表情でディスプレイを見つめていた。

凛「ぷ、プロデューサー……」

その表情に、少し怯えたように凛ちゃんが、肩を震わせていた。

『まゆちゃん、落ち着いて聞いて……』

まゆ『どうしたんですかぁ……?』

『Pさんが、亡くなったの』

ディスプレイの中の自分が、憎い。こんな女の子を傷付けて、何が面白かったのだろう。

まゆ『……今日はまゆ、誕生日、なんですけど』

まゆ『そうですか』



まゆ『そう、なんですね』

まゆ『……死んじゃったなら、仕方ないですよねぇ』

呻くような、そんな声。

わたしはここで、とんでもない間違いを犯したのだと気付いた。

まゆちゃんの表情。

笑顔の張り付いた、不気味な表情。

その笑顔は、とても、冷たくて……美しかった。

まゆ『自分でもびっくりです』

まゆ『こんなにも、冷静でいられるものなんですね、まゆは』

まゆ『泣かなきゃ、って思うんですけど』

まゆ『涙が、出てこない……いえ、』

まゆ『悲しくないんですよ』

まゆ『不思議、ですねえ……』

まゆ『代用品だから、でしょうか』

『――まゆちゃん!』
張り上げた声が、事務所に響く。

『ご、ごめんね、これ、どっきりなの』

まゆ『どっきり、ですかぁ……?』

逆鱗に触れるってレベルじゃねえな…

『そ、そうなの。嫌な思いさせちゃったかな、でも、明日プロデューサーさんとデートできる権利が』

まゆ『いりません』

『え?』

まゆ『……だって』

まゆ『聞かれちゃったじゃないですかぁ、まゆの心』

まゆ『聞かれた。聞かれた。聞かれた。聞かれた……聞いちゃったでしょう、まゆの言葉』

まゆ『うふふ、多分もう、手遅れなんですよぉ』

まゆちゃんはそう言って事務所の扉に手をかけた。そして、少し立ち止まる。

まゆ『それに、聞いちゃったのは、あなただけじゃないみたいですし……?』

ぐりん、とまゆちゃんが振り返る。その視線の先は、私じゃない。
観葉植物の中に隠された、とても小さなカメラ。晶葉ちゃんに作ってもらった、高画質高音質で録画できるビデオカメラ。
その先の、卯月ちゃんや凛ちゃん、杏ちゃん。




――そして、プロデューサーさん。

杏「杏、このとき鳥肌立ったよ」

卯月「わ、私もです……」

凛「うん、なんだかすごく……怖かった」

凛「で、このあと事務所に電話がかかってきて……」

P「この事務所を、やめる、と」

Pさんは、思い悩むように窓の外に視線を放り投げたあと、椅子の背凭れに背中を預けた。

P「一度、話してきますね」

その言葉に、わたしは首を横に振った。

「まゆちゃん、寮には帰ってないみたいなんです」

P「はい?」

卯月「正門からふらふらって、出ていったのが監視カメラに映ったっきりで……」

P「どこにいるのかもわからないってことですか?」

わたしは小さくこくりと頷いた。

「他のアイドルには、まゆちゃんに伝えなきゃいけないことがあるから見かけたり連絡取れたりしたら、事務所の方に連絡して、っていったんですけど……」

結果はなし。

凛「プロデューサー、まゆの携帯の番号知ってたでしょ、一度かけてみなよ」

P「ああ、そうだな……」

ポケットから取り出した携帯を操作して、耳に当てるPさん。わたしはその電話に、まゆちゃんが出ることを期待していた。

P「もしもし、まゆか?」

出た! わたしの心臓が、大きく跳ね上がる。

P「ん……ああ、すまん、少し電波が遠い。ちょっと移動してくれないか……ああ、そこでいい。それで、仕事のことだが……」

怒ることもなく、淡々と、まゆちゃんに質問を重ねていく。それも、詰問ではない、優しい語り。それでも、まゆちゃんはまったく聞く耳を持っていないようだった。

杏「で……どうだったの? まあ、聞いてたらわかったけどさ」

P「ああ……」

P「結局何も話してくれなかったよ。346をやめますって、そればっかだった」

凛「プロデューサーの説得も駄目なんて……」

P「当たり前だろ」

そのPさんの声が、やけに厳しい。普段とはまるで様子の違うPさんに少し驚いたのか、凛ちゃんは視線を落とした。

P「でも、ほんの少しわかったことがある。ちょっとでかけるよ」

凛「出かけるって……」

P「765プロ。まゆは今、そこのアイドルの近くにいるはずだ。電話の向こう側は、どこかの撮影現場だった。そこで、まゆのすぐ後ろで765のアイドル……星井美希の声がした」

P「今から765プロへ行って、星井美希のいる現場を突き止める」

「わ、わたしも行きます!」

Pさんが、わたしを見る。その、何の感情もはらんでいない目が、わたしを射抜いた。

P「当たり前でしょう」

杏「プロデューサー、怒ってるの? らしくないよ」

P「怒ってなんかないぞ。でもな、責任ってやつが大人にはあるんだ」

P「さあ、行きましょう、ちひろさん」


車の中で、Pさんはずっと黙ったままだった。

「あの、Pさん……本当に、ごめんなさい」

P「謝る相手は俺じゃないです。とりあえず今は、まゆと話をすることです」

「Pさんは、……その、変だと思いませんでしたか。まゆちゃんの反応」

P「……」

Pさんは、ほんの少し遠い目をしたあと、ぽつりとつぶやいた。

P「まゆも言ってたでしょう。俺は代用品なんですよ」

「代用品……」
「なんの、ですか」

P「……もうすぐ着きますよ」

Pさんは、私の質問に気付いていないふりをして、車の速度を緩めた。

「……アポなしで他の事務所に伺うのって、どうなんでしょう」

P「俺の先輩がここで働いてます。どうにかして星井美希の居場所を教えてもらいます」

「先輩って……もしかして、業界でもかなりの噂の敏腕プロデューサー、ですか?」

P「ええ」

346の社屋よりも、ずっと小さいこの雑居ビル。
それの前に立つと、どうしてだかとてつもないプレッシャーを感じた。

鬼!悪魔!ちひろ!

>>8
>>14
>>20
コメントありがとうございます、励みになります

P「……どこから入ればいいんでしょうね」

?「あ、あのー……」

?「もしかして、765プロに御用でしょうか?」

P「ん……? ああ、あなたは、天海春香さん。ご活躍、テレビなどで拝見しています」

春香「え、あ、はい! えへへ、ありがとうございます」

ライバル企業として目を光らせている、ということなのだろうが、こちらを知らない春香ちゃんはそう照れくさそうに笑った。

春香「ところで……御用でしたら、こちらからどうぞ」

P「ああ、ありがとう」

―――
――

765プロの事務所の中はとても狭く、でもどこかぬくもりのある場所だった。

春香「ただいまー、小鳥さん」

小鳥「あら、春香ちゃん。早かったのね……ってピヨ!?」

P「突然すみません、私、こういう者です」

Pさんを見るなり奇声を上げて固まった事務員の――小鳥さん?に、Pさんは名刺を差し出した。

小鳥「ぇえと……346プロの方!」

P「ええ、アポも取らずに申し訳ございません」

春香「346プロの……もしかして、プロデューサーさん、ですか?」

P「はい。紹介が遅れました、346のアイドル部門でプロデューサーをさせていただいている、Pと申します」

春香「そ、そうだったんですか……」

「わ、わたしのほうは、同じく346にて事務員をさせていただいております、千川ちひろと申します」

小鳥「た、大したおもてなしもできませんが、よろしければこちらに――」

?「ただいま戻りましたー」

小鳥さん、が引き攣った表情で案内をしてくれるのと同時に、男性の声が事務所に響く。

小鳥「プロデューサーさん!」

P「……本命が帰ってきたようですね」

765P「どうしたんですか小鳥さん、そんな血相変えて……って、P!? どうしてお前がここにいるんだよ!?」

P「お久しぶりです、先輩。今日は少し、お尋ねしたいことがありまして」
彼はPさんの落ち着いた声で冷静さを取り戻したのか、ぎこちない笑みを浮かべながらPさんの前のソファに座り込んだ。

765P「で、訊きたいことって?」

P「今日は、星井美希の付き添いですか?」

765P「ん? ああ、今日は千早の……如月千早のレコーディングだよ。美希のほうは律……もうひとりのプロデューサーの方に頼んである。どうしたんだよ、藪から棒に?」

P「うちのアイドルが、今日、星井美希の行っている現場に逃げ込んだみたいなんですよ。で、とりあえず確保したくてその、今日の仕事先を訊きに来ました」

765P「逃げ出したって……仕事は大丈夫なのか?」

P「ええ。今日は偶然全員オフでしたから。ただ、早く見つけたいとは思っています」

765P「そうか、まあそうだよな。うちにもたまに行方不明に……っていうか迷子になる人がいるし」

765P「美希の仕事先を教えるのは別に構わないが、多分その子は美希と一緒には行動してないぞ?」

P「構いませんよ。足跡を追いたいだけです」

765P「……そういうところは、全く変わってないな」

そう呟いて、765のPさんはメモ用紙に何かを書きつけてPさんに手渡す。
二人の間には、友情のような、でももっと反発的な、そんな空気が垣間見えた。

765P「……そうだ。突然の訪問と、美希の居場所をおねだりにきたのを許してやる代わりに……そこの事務員さん、千川さんを少しお借りしても?」

P「構いませんよ」

何を勝手に決めてるんですか、という言葉を必死に飲み込む。

P「先輩がうちの事務員と話してる間、自分は天海春香さんをお借りします」

765P「それじゃあ貸し借りチャラになんないだろ」

P「三回生の時の六月十四日、先輩にジュースを奢ったじゃないですか」

765P「ほんと、嫌な奴だよ……でも、春香と何を話すんだ?」

P「そりゃあ決まってるじゃないですか。うちのアイドル……佐久間まゆのことを訊くんです。何か知ってますよね?」

Pさんに見つめられた春香ちゃんが、蛇に睨まれた蛙のように縮みあがる。
それを見た765Pさんは、微かに首を横に振って、わたしの手を引いた。

765P「社長室の方へ。少し、お話したいことが――お話しなければならないことがあります」

……わたしが空っぽの社長室に連れ込まれる寸前、トリップしたような表情を浮かべる小鳥事務員が見えた。

765P「手荒なことをしてすみません。どうしても、お聞きしたいことがありまして」

「い、いえ、お気になさらず。それで、お話というのは」

765P「Pのことです。アイドルが逃げ出した、というのは、本当ですか」

「はい……恥ずかしながら、わたしの責任なんです」

765P「あなたの? 彼女は、Pから逃げ出したのではないのですか」

「いえ、完全にわたしがきっかけだと思いますが……」

765P「……うちのアイドル、天海春香が、そちらの佐久間まゆさんと何らかの話をしたのは事実です。Pが気付いていた通りです」

「では、居場所の方も……!」

765P「ええ。把握しています。佐久間さんはうちの事務所に駆け込んだあと、必死な声で春香を呼び出しました――全く面識のない、春香を。ただならぬ様子だったので、通しました。それで、この社長室でしばらく話し込んだ彼女は、二日後……すなわち今日、美希の仕事があることを確認して、同行させてほしいと頼み込んできました。仕事もないので、どうかお願いしますと」

「それは……申し訳ございません」

765P「いえ。俺も勝手に了承しましたしね。彼女の動きですが、恐らくこの後は春香の家に行くと思います。今までもそうだったようですし」

「なるほど、では今日、春香ちゃんの家にお邪魔しても……?」

765P「いや、それはダメです。多分手遅れです。春香は恐らく、あなた達が帰ったあと彼女に連絡をするでしょう。そうなれば、きっと彼女はそこを出ていく。もうあなた達は後手に回ってしまっています」

「そんな……なんとか阻止できませんか」

765P「できる限りの努力はしたい、と言いたいところなんですが。俺には、まゆさんは何かから逃げているように見えたんです」

どくん。
わたしの心臓が大きく脈打った。

逃げている――なにから?

それはきっとわたし達だ。

765P「……一応お聞きします、Pの奴は、きちんとプロデューサーをやれていますか? アイドルから信頼されていますか?」

「ええ、とても仲が良く、家族みたいに毎日過ごしています」

765P「では、その明るいPの姿と今のあいつの姿に、矛盾はないですか?」

「…………いえ」

765P「俺は、学生時代のあいつのことを知っています。俺は社長にスカウトされてプロデューサーになった身ですが、あいつは学生時代からアイドルにとても興味を持ってました」

学生時代……まったく想像もつかない。

765P「あいつは言っていました――俺は、アイドルのことが大好きだと」

「Pさんらしいです」

微笑むわたしを尻目に、彼はなおもPさんの言葉を再現する。

765P「だから俺は知りたい。アイドルという存在そのものを。知り尽くして、研究し尽くして、高みを望んで――」

765P「その全てを、奪ってやるのだと」



息が、詰まる。

765P「……彼女が逃げてきたとき、俺は、Pが遂に何かをやらかしたのかと疑いました。心配が本当にならなくて、本当に良かったです」

765P「ですが、気をつけていてください。あいつはそういう奴です。Pの本質は多分、いまだに変わっていない。Pは何かを奪おうとしている」

「そんなふうには、まるで、見えなくてもですか」

765P「あいつは、錯覚させるのがうまい。相手にとって都合のよい人間になるのがとてもうまい。Pはとても敏い。人のことを、あまりによく見すぎている。だから、何を悩んでいるのかもわかるし、わかってしまう」

「……わかる気がします。でも多分、Pさんはそれに気付いていないんですよね」

765P「いえ、気付いていると思いますよ。言ったでしょう。彼は、錯覚させるのがうまいって。学生時代もそうでした。その優しさに惹かれた人が何人もいた。でもね。そう長くは続かなかった。どうしてかはわかりません。皆が、不幸になったと嘆いた。彼の優しさが、不幸だと泣いた。そしてその優しさが、人を二人――いえ、やめましょう」

765P「とにかく俺が言いたいことは――Pの奴は、なにかとんでもない思惑を腹の底に秘めています。そのことを、知っておいてください」

わたしの背筋を、冷たい汗が滑り落ちた。

いつも見ているPさん。笑って、わたしと一緒にいろんな仕事をやってきたPさん。

わたしの目に映っていた景色と、Pさんが見ていた景色は、果たして同じだったのだろうか。

同じ光景を見て、笑えていたのだろうか。

同じ光景を見て、泣けていたのだろうか。

「わたしからも、ひとつ。あなたは……Pさんの、何なんですか?」




765P「俺、ですか? 俺にとってあいつは、何を考えているのかわからない、どうしようもないほどに可愛い後輩です。でもPにとっての俺は……歯止めであってほしいと、願っています」

ありがとうございます、と礼を言ってわたしは社長室を出た。彼の視線が、わたしの無防備な背中を襲う。

いや、視線ではないか。形容しがたい恐怖だ。

彼が紡ぐことを躊躇った言葉。

その優しさが、人を二人――その言葉の先は、なに?

知っているような、知らないような、或いは知りたくないような。

それはきっと、知ってはならない、一人の人間の過去なのだろう。

P「……あれ、お話は終わったんですか、先輩」

765P「ああ終わったよ。有意義な時間だった」

P「こっちのほうも、それなりに話は聞けましたし……そろそろお暇しますか」

Pさんがソファから立ち上がった、その瞬間。

春香「あっ、あの!」

春香ちゃんが、Pさんを呼び止めた。

春香「……まゆちゃんだって、女の子なんです。きっと、誰かからの言葉が必要なんです」

春香「だから、……その、」

P「言いたいことはよくわかるよ」

P「でもその誰かは、俺じゃない」

そう吐き捨てたPさんは、765プロの扉に手をかけた。

P「それでは、今日は失礼しました。また、一緒にお仕事ができればと思います」

「し、失礼します……」

ドアの閉まる刹那、765のPさんの目が光った。
Pに気を付けろ。その目は、確かにそう語っていたような気がする。

P「社長室で、何を話していたんですか?」
車の中で、Pさんは不意にそう切り出した。やはり、気になるのだろうか。
「え……っ? その……まゆちゃんがこうなった経緯、などを」
P「なるほど、そうですか」

「あの、Pさん……Pさんには今回の事態、どのように映っているんですか?」

P「まゆは、何かを隠していた。腹の底で蠢く何かを。必死になって隠し続けてきたそれが、遂に白日の下に晒されてしまった。佐久間まゆという自我を崩壊させかねないその事実を知られたからには、自分は346を離れるしかない――こんな感じでしょうか」

「……どうしたら、まゆちゃんは戻ってきてくれるでしょうか」

P「難しい質問ですね。それだけにとても重要なことだ」

P「佐久間まゆの秘密――それを、認めること。もう隠さなくても良いのだと彼女が安心できること。そうしてやれば、まゆはもう一度、笑顔でステージに立ってくれるでしょうか」

「佐久間まゆの、秘密――……それって、いったい何なんですか?」

P「ちひろさんは、俺が気付いていると?」

「ええ。Pさんは、アイドルのことをとてもよく見ていますから」

P「買いかぶりすぎですよ」

P「そうですね。まゆは、アイドルをとても楽しんでいた。まず、このことは間違いないんです。嘘じゃない」

P「彼女が見せた綻びから攻めていけば、一番に突き当たるのは、俺のことを代用品だと言ったことですね。ちひろさんは、何の代用品だと思います?」

「……他に替えのきく、消耗品的な言葉で言ったのだと思いました」

P「なるほど。でも、多分間違いです。まゆは恐らく、俺のことをファンの代用品だと思っていたんだと思います。顔の見えないファン。無数の人間達。それを繋ぎ止めるのが、俺の役目です。漠然としたファン達の象徴、それが俺なんだと」

……腑に落ちない。

なんだか、そんなことを考えるまゆちゃんを想像できない。

まゆちゃんはいつだって、Pさんのことを追いかけていた。

車に忍び込んだり、鞄の中にGPSを入れたり、勝手に家の合鍵を作ったり……彼女の行動は、Pさんを個人として見ていたはずなのに。

P「釈然としない顔をしてますね。まあ無理もないでしょう。俺自身、結論を出せずにいますからね。スケジュールを確認してみたところ、まゆの次の仕事は四日後。なんとかできるとは思います」

「Pさん、事務所に戻るんですか?」

P「ええ。まゆは天海春香の家にいるんでしょう。彼女から聞きました。俺がそこに行かないことを条件に、まゆの安全と位置を確保してもらいました。佐久間まゆを、手放すわけにはいかない」

わたしは、ぞっとした。

……Pさんがまゆちゃんの名前を呼んだ時のその声が、とても冷たかったから。


会社の中に入ってから事務所の扉を開けるまで、わたしとPさんの間に会話らしい会話はなかった。

ときどき盗み見た彼の横顔には、焦りも、悲哀も、何も湛えられてはいない。

P「ただいま」

凛「プロデューサー! まゆは見つかった?」

P「どこにいるのかはわかったよ。何も心配はいらない」

杏「へええ、どこにいるの?」

P「天海春香の家だよ」

卯月「春香ちゃんの!? あの、トップアイドルの……ぁ、」

P「ん、どうかしたか、卯月」

卯月「ああ、いえ……そういえば前にまゆちゃんとおしゃべりしてた時に、春香ちゃんの話になったなぁって思って」

杏「なになに、どんな話?」

卯月「まゆちゃん、言ってたんです。天海春香ちゃんは、なんだかまゆにとっても似ているような気がします、って」

P「……そのことか。さっき天海春香と喋ってきたよ。彼女も同じことを言ってた。似てるって言われたって。まあ天海春香本人は、何が似てるのか全く分からなかったみたいだが」

凛「まゆ……不憫な子……」

P「似てる……か」

「どうか、しましたか」

P「いえ、少し思うところがありまして。……すみませんがちひろさん、今日は俺、帰らせてもらいます」

「えっ」

淡々と言いたいことを告げたPさんは、わたしの返事を待たずにすぐに鞄を持って事務所を出ていってしまった。

その、瞬間だった。机上の電話が鳴る。

「はい、346プロ……」

『ああ、どうも。765Pです』

「先ほどは失礼いたしました……Pさんはたった今帰ったのですが」

『構いません。お伝えしたいことがあります。佐久間まゆさんが、春香の家から失踪しました』

「それは本当ですか」

『ええ。間違いありません。非常に申し訳ない』

「いえ……」

『明日になれば、捜索願を出したほうがいいかもしれません。彼女の実家の方にも帰っていない、のなら』

まゆちゃんの、実家。確か仙台にあったはずだ。

「あとで確認してみます」

『それから、Pのことですが。俺は、佐久間さんの行方を探すのと同時に、あいつのことを調べたほうがいいとも思っています』

「Pさんを、ですか」

『ええ。俺は確かにあいつと学生時代からの付き合いですが、それ以前の奴を俺は知りません。Pの言葉――アイドルから全てを奪う。もしも佐久間さんが無事に見つかったとして……Pは佐久間さんから大切な何かを、奪ってしまうかもしれない』

わたしはパソコンを操作し、Pさんの履歴書の写しを表示する。右上の方に、微笑むこともなく堅苦しく映っているPさんが、全くの他人に見えた。

「……ああ、」

書き記された彼の住所。それを調べてわたしは思わず呻く。

「Pさんの、住所……全くのでたらめじゃないですか」

『それで今まで、よく隠し通せてこれましたね。大方会社からの通達なんかは、会社経由にしてたんでしょう……そこまでして居場所を隠そうとしてたなんて、Pはまた何か――』

765Pさんはそこで不自然に言葉を切った。

その沈黙に耐えかねて、わたしは遂に口を開いた。




「……あの。Pさんは、人を殺したんですか?」




わたしの背後で、三人が息を呑む音が聞こえた。

電話の向こう側の、雑音が痛い。

凛ちゃんが電話のスピーカーホンのボタンを押す。

『……ええ。奴は大学生時代、付き合っていた女性を二人、自殺に追い込みました』

凛「ぷ、プロデューサーが……?」

卯月「嘘、ですよね、」

杏「そんなこと、あるわけ」

『……アイドルが聞いてたんですか?』

765Pさんが、困ったように声を上げた。

凛「ねえ! その話、どういうこと!? ちゃんと聞かせて!」

『……今、時間は空いてますか?』

凛「空いてる」

『なら、○○の××という店に来てください。当時のことをよく知っている人を呼びます』

凛「わかった」

凛ちゃんがそう言うと、電話は勝手に切れてしまった。重苦しい部屋の中に、軽い調子の電子音が響く。

凛「ちひろさん。車、出して」

杏「杏も行くよ」

卯月「わ、私も行きます」

「……乗りかかった船、ですもんね」


Pさんが、人を殺した。

人を殺した手で、アイドルを育てていた。

死に追いやった目で、アイドルに微笑みかけていた。

そのことが、やけに悲しい。


そして、苦しい。

外が夕闇に染まり始めた頃、765Pさんはお店に現れた。お洒落な、バーのようなところ。

765P「よくうちの事務員の小鳥が、ここで歌ったりするんですよ……まあこんなのはどうでもいいですね。紹介します。こちら、学生時代にPと交際していた東野さん」

東野「……こんにちは。こんばんは、でしょうか」

凛「プロデューサーと、付き合ってたんだ」

開口一番、凛ちゃんがぼそりと呟いた。

東野さんは、ほんの少しだけね、とくすんだ笑みを浮かべる。

東野「まあ、私のことはさておいて……あのときのPくんの話、でしたね。死んだ女の子は二人。私の友達でした。美咲と由奈。美咲はP君に告白して、その日にOKをもらってとても喜んでた。毎日、見せつけるみたいに仲良くして、本当に幸せそうでした。でも、それは長くは続きませんでした。二人が同棲を始めた頃からです。美咲の様子がおかしくなりました」

東野「見るからにやつれていきました。視線は、いつも明後日の方向を向いていました。口を開くたびに、Pくんが、Pくんが、って、とても幸せそうでした」

東野「そんな美咲は、Pくんと付き合い始めて二カ月後にビルから飛び降りました。その一週間後にPくんは由奈と付き合うことになりました。ほとんど由奈が、傷心中のPくんにすり寄ったみたいなものでしたが」

東野「その由奈も、一か月とちょっとで、首を吊りました。そして今度は私が、彼にすり寄った。ただ、それだけの話……どうしてだか彼には、人を魅了する何かがあった」

765Pさんが、わたしを見て小さく頷いた。人を錯覚させる、Pさんの力。

東野「美咲と由奈は、よく私に相談をしていました。Pくんの優しさが、とても怖いと」

杏「優しさが、怖い?」

東野「彼女達は何度も、私にそう言っていました。それなのに、美咲も由奈も、最期まで別れようとはしなかった」

別れるくらいなら、死を選ぶ――そんな究極の選択で生き残ってしまうほどの、彼の存在。

呼吸を忘れるくらいに、わたしの意識は彼女の話に刈り取られていた。

杏「優しさが怖いってのは、その、東野さんも経験したんだ?」

杏ちゃんもまた、鉛のような空気に負けないように、震えた声で彼女に問う。

東野「はい。確かに彼は怖かった。恐ろしかった」

東野「ただ……それは、言葉にできないものなんです」

東野「会話の中で彼が見せる、些細な気遣い。日常の中で彼が見せる、行動の一つひとつ。別々に見ると本当に違和感がないものなのに、それが完璧に配置されすぎていて、得体のしれない恐怖に蝕まれる」

東野「彼の優しさは、まるで麻薬です。絶望的で、暴力的で、甘美でした。彼は、私達の脳に、直接幸福を叩きこんでいるみたいだった。彼女達は、その優しさの暴力に耐えられなかったんです」

優しさの暴力――矛盾しているようなその言葉が、すとんと胸の中に落ちてくる。

東野「私は、とても寂しくなりました。なぜなのかはわかりません。満たされていたはずなのに。満たしてもらっていたはずなのに。どこか、一番欠けてはならない大切な部分が欠けているような、そんな気がして、私は彼のもとを離れたんです」

東野「私は、大切な何かを取り落としてまで誰かを愛せるほど、強くはなかったから」

765P「俺は……Pは、プロデューサーになるべき人物ではないと思う」

一通りの話を終えた東野に、765Pさんは躊躇いながらも吐き出した。

東野「……それは、違います」

彼女はそれを、ゆっくりと否定する。

東野「346プロさんの話は、よく聞きます。Pくんが、一人でプロデュースしてるって……それくらいじゃないと、きっと足りない。優しさを何倍にも希釈しないと、人はその凶器に耐えられないんです」


それは、ここにいる三人のアイドルを、ひどく傷つける言葉だったんじゃないだろうか。


ずっと近くに感じていた、彼のぬくもり。

それを全てだと信じ込んできた彼女達は、その一つのぬくもりを一身にを受け入れるには幼すぎたのだ。

卯月「プロデューサーさんは……どうしてそんなに、優しいんでしょうか」

杏「違うよ」

卯月「え……?」

杏「多分、優しいんじゃ、ないんだ」

杏ちゃんが、ぽつりと呟く。

だけど、それっきり彼女は何も喋らなかった。

店内の音楽が、わたし達の間の空気をかろうじて保ってくれている。だけどそれも、もう限界に近かった。

東野「すみません。私、これで失礼します」

「……ええ、急にお呼び立てしてしまって、申し訳ございませんでした」

東野「千川さん、でしたっけ」

東野「あなた達と話して、一つだけ、思ったことがあります」

東野「……彼は、あなたの周りにいる他の誰よりも、アイドルに近い存在なのだと私は思います」

「アイドルに……ですか」

東野「はい。それでは――」

凛「待って!」

凛「最後に一つだけ、教えて。プロデューサーの家、どこにあったか聞いてない?」

店の扉に手をかけた彼女は、どうしてそんなことを訊くのかと不思議そうな顔をした。

東野「今の住所を私は知らないけど……学生時代に彼から聞いた話では、彼がこっちに来る前には――」









東野「ずっと、仙台にいたと聞いています」








わからない。

わからない。Pさんのことが。

どうして彼はあんなにも優しいのか。どうして、人を死に至らせてしまうほどの、快楽的な残暴を抱えているのか。

失踪したまゆちゃんの故郷、仙台。

そこに彼の生まれ育った場所があるのは、何かの偶然なのだろうか。それとも在るべくして在った、当然の事実なのだろうか。

わからない。

彼の、過去が。闇が。

アイドルをプロデュースしている間の彼の笑顔。明るく天真爛漫だった、彼の笑顔。

惹かれぬはずがない。恋心を抱いたアイドルだって、たくさんいる。

それが、死に至る病のように彼女達に夢を見せるものであったというのなら、



彼の放つ、ほのかな輝きの向こう側には、何があるのだろう。

―――
――

次の日の朝――疲れを引き摺りながら、わたしは事務所の鍵を開けた。簡単な掃除をして、アイドル達が来るのを待つ。

杏「おはようぅ」

「おはようございます、杏ちゃん。今日もオフですよね」

杏「まあね。強いて言えば、凛ちゃんも卯月ちゃんも、今日は休みだけど来るって言ってた。まゆのことがあるのに、おちおち休んで
なんかいられないよ。それに……」

「Pさんのこと、心配ですか」

杏「……うん」

杏「プロデューサーの周りで人が死んでるってのは、プロデューサーのせいなのかな、って……あ、飴」

「きっとただの偶然なんだって、思いたいですよね」

杏「この飴、あんまり美味しくないなあ……でも、プロデューサーの優しさこそが、死の原因なんだって、昨日の人は言ってたよね。それだけじゃなくて、死んだって二人も」

わたしは努めて、冷静で在ろうとする。現状を俯瞰する立場であろうとする。

でも、杏ちゃんの方がよっぽど、神の視線に近いところにいたような気がした。

「杏ちゃん。昨日卯月ちゃんに、違う、って言ったのは、何だったの?」

わたしは問う。卑怯にも、わたしなんかよりもずっと若く幼い少女に。

杏「プロデューサーに訊いたことがあるんだ。なんでプロデューサーなんかになったの、って。ほら、他の仕事でもきっと、プロデューサーは活躍できただろうから」

杏「そしたら、言ったんだ。俺にはこれしかないんだって」

杏「これしかないから、縋るしかないんだって」

「これしか、ない……?」


杏「そのときのプロデューサー、すっごく、苦しそうだった。今思えば、プロデューサーは、今でもきっと苦しんでるんだよ。針の筵に座ってるみたいなそんな痛みを味わってるんだ」

杏「まるで、自分に罰を与えてるみたいにさ」

罰……

心の中で反芻するのと同時に、事務所の扉が勢いよく開いた。

幸子「ふふーん! 可愛いボクが来ましたよ……って、ちひろさんと杏さんだけですかぁ」

杏「残念そうだね、幸子」

幸子「そ、そんなことないですよ。……杏さん、なんでこんなに早いんです?」

杏「ちょっと、色々あってさ。ところで幸子、幸子はプロデューサーのこと、好き?」

幸子「な、なにを言いだすんですか! そ、そんな、好きだなんて……」

杏「……参ったな」

きらり「にょわー☆ おっすおっすー?」

杏「き、きらり……」

P「おはようございまーす……ってうわ、すまんきらり!」

ドアを開けたPさんが、きらりちゃんの背中にぶつかる。きらりちゃんは「大丈夫かにぃ?」と笑って、Pさんを抱きしめた。

その後ろから、どんどんとアイドル達が押し寄せてくる。

P「朝からびっくりした……」

「大丈夫ですか。抱きしめられてた時、凄い音してましたけど」

P「ええ、まあ慣れてますから。それより、まゆから何かありましたか?」

Pさんは、今でもきっとまゆちゃんが春香ちゃんの家にいると思っている。

まゆちゃんが失踪したことを告げるべきが辞めておくべきか、わたしは思い悩む。

凛「おはよう、プロデューサー。まゆ、失踪したんだって」

「り、凛ちゃん!?」

P「……どういうことだ」

声を忍ばせて、Pさんは凛ちゃんに詰め寄った。

「場所を変えませんか。他のアイドルに聞かれちゃいます」

わたし達は、そそくさと仮眠室に移動する。Pさんの後をついてきたのは、わたしと凛ちゃん、杏ちゃん、そして途中で出会った卯月ちゃんだった。

P「……それで、なんで昨日の段階で言ってくれなかったんですか」

「すみません……」

P「まあ、言ってもらったとして、どうすることもできなかったんですが……このままだと、警察に連絡を入れないとダメですね」

「もうしばらくしたら、まゆちゃんのご実家の方に一度電話を入れて見ようかと思います」

P「まゆの実家、ですか」

凛「どうかしたの?」

P「……ん、ああ、いや。ちょっとな」

凛「なに?」

P「なんでもないよ」

凛「嘘。ねえ、プロデューサー、一つ訊くよ。まゆのこと、どう思ってるの?」

杏「それ、杏も気になるな」

卯月「わ、私も気になります!」

P「……俺は、」

P「俺は、何も思わないよ」


杏「ストーカーまがいのことをされても?」

P「あれは俺を見てるわけじゃない。それでまゆの気が晴れるんなら、付き合ってやるのも別にやぶさかじゃなかった」

P「GPSをつけられてるのもわかってた。家知られるのはまずいから、適当なアパート借りて、そこを荷物置きにして、全部そこで着替えて鞄も変えてから家には帰るようにしてた」

P「そうすることでまゆを満たしてやれると思ってた」

P「俺は、ファンの代用品だからな」


杏「ねえ、プロデューサー」

杏「まゆは、どうして天海春香に助けを求めたの?」


P「……なんで、そんな質問をする」

P「どうしてお前がそんなことを訊く」

P「……杏、答えがわかってるんだろ。どうして俺を、試すような真似を」

杏「杏は、アイドルだからね」

P「どういうことだ」

杏ちゃんは何も答えない。疑問と、ほんの少しの猜疑が混ざった双眸でPさんを見つめている。

P「…………」

P「……天海春香には、個性がないからだ」

P「今見られるアイドルには、個性がある。そうでなければ、この業界で生き残っていけないからな。でも、天海春香は違った。トップアイドルでありながら、個性たる個性を持たないアイドルだ。それを、まゆは自分と重ね合わせたんだと思う」

杏「……やっぱり、そうな――」

P「でもな。話してみてわかったんだ。天海春香には個性がない。だけど、本当に必要なものを持っている。それは個性なんてものよりもずっと光り輝いていて、とても大切なもの」



P「人と人とを繋ぐ力だよ」


P「まゆは多分、それに気付いたんだ。持たざる者は、それを希うがゆえに自分に何が足りないのかに気付いてしまう」


P「……まゆには、何もないんだよ。闇を切り裂くための武器が」


凛「待ってよ。まゆに何もないって……ほんとにそう思うの? 杏だっていつもまゆと喋ってたでしょ? どう考えたって、強烈すぎるヤンデレ属性だよ!」

P「それは、ファンには見えないだろ。こっち側にいる俺たちにしか見えない魅力なんだ」

P「佐久間まゆ、16歳。9月7日生まれ、身長153センチ、体重四十キロ、スリーサイズは上から順に78、54、80。血液型はB型で出身地は――出身地は、宮城。趣味は料理と編み物、これが佐久間まゆというアイドルの全てなんだ」

P「運命の赤いリボンなんてファンは知らない、依存してくるまゆなんて、ファンは知らないんだ」

凛「そんな……」


P「名前。年齢。誕生日。身長。体重。スリーサイズ。血液型。出身地。趣味。そんなものでカテゴライズされた彼女の本質を、ファンは見抜けない」

Pさんの言葉が、ようやく止まった。喋りすぎた彼。そんなPさんの堰を切ったのは、間違いなく杏ちゃんだった。


P「佐久間まゆ。彼女は、俺がプロデュースするまでもなく既に、完璧だった。全てのステータスが上限を突破していた。いくら歌が上手くなろうが、ダンスが上手くなろうが、それだけじゃトップアイドルになれない。まゆの上限値は、他のアイドルの前では、まるで及ばなかったんだ」

「ぷ、プロデューサーであるあなたが、そんなことを言わないでください! ファンに夢を見させるのが、あなたの仕事じゃあないですか!」

わたしの声が、仮眠室に響き渡る。その声の残滓を、Pさんは首を横に振るだけでそっと打ち消した。

P「ダメなんです。嘘の個性は、すぐにばれる。現に、佐久間まゆは既に一つ、嘘をついています。とても脆い嘘。それを守り通せないくらいに、まゆは弱いんです」

杏「まゆの……嘘?」

彼は、何に気付いたのだろうか。

女の嘘は見抜きにくいと、誰かが言った。でも、彼は見抜いた。

それをするだけの、能力があった。

彼の優しさのせいで、人が死んだ。


その意味が、今ようやく、明確な恐怖をもって鎌首を擡げる。




P「まゆの左手首を、見たことがありますか?」


誰も、何も答えなかった。答えられなかった。

ファンの間で、まゆちゃんの左手首が見えないことは話題になっていた。その下に何があるのか、わたしですら、興味を持ってしまった。

でも、見ることができなかった。

まゆちゃんが隠しているからだけじゃない。着替えの時に出も、見るチャンスはいくらでもあった。

見てはならないと、思ったのだ。

それを、彼は。

P「傷だらけ」

P「切り傷です」

P「それが何なのかわからないほど、俺達は馬鹿じゃないですよね」

卯月「や、やめてください!」

P「聞きたくないのか」

卯月「聞きたいわけ、ないじゃないですか!」

P「もう俺達はまゆの闇に首を突っ込んでるんだ。それが表面化したに過ぎない。聞かなかったことで事実がなくなるわけじゃない」

杏「……まゆが、その……切ってるのは、わかった。でも、それがなんで」

P「おかしいと思ったことはないか」

凛「……理由なんて、人それぞれだよ。後悔しているかもしれない」

P「違う。なぜ切ったのかじゃない。どうして左手首なのかってことだ」

P「公式プロフィールにだって書いてあるじゃないですか」



P「まゆは、両利きなんですよ」

P「切りたかったのなら、切ればいい。誰かを傷付けるよりも、よっぽどましだ。でも……どうして左手で切らない? まゆの左手首はもう……隠すことが難しくなってくるくらいに、耕されてるのに」

P「ずっと見てました。まゆのこと。でも、左手を優先的に使ってるところなんて見たこともない。それどころか――右腕にリボンを巻くときに、うまくいかないからと衣装の人に頼み込んでいた」

P「公式プロフィールの中で唯一、右利きか左利きの二択に分かれるはずのそのカテゴリ。そこにまゆは、第三の選択肢を作り出した。きっと、自分のアイドル像を確立するために」

P「読者モデル時代もそうだった。出版社に問い合わせて、彼女の入社時に書いたプロフィールを見せてもらった。やっぱり両利きと書いてある」


P「いったい誰が……いったいどこのどいつが、まゆにそんな過酷な逃げ道を、希望を、示したんです……?」

握った彼の拳が、微かに震えていた。

怒りなのか、それとも悔しさなのか或いは――

その先の思考が怖くてわたしはその意識を振り払う。

P「俺には、わからない」

P「……長くなったな。俺の話は終わりです。俺がまゆのことをどう思ってるのか。これで全部です」

P「ちひろさん。俺は次の仕事がありますので、ここで失礼します。まゆの方、よろしくお願いします」

「は、はい」

Pさんはそう言って、仮眠室を出てゆく。あとには、わたし達だけが取り残された。

杏「プロデューサー……」

卯月「なんだか、プロデューサーさんが、遠いです」

卯月「まるで、すっとどこかに行ってしまうみたいな、そんな気がします」

でたらめな住所に裏付けられた、彼という存在の不確定性。

その背に乗る十字架の重みは、彼を繋ぎ止めておいてはくれない。

凛「ちひろさん、どうするの?」

「不安なのは、Pさんもきっと同じです。わたしは、わたしにできることをやるしかありません。それが、わたしの責任ですから」

仮眠室を出て、自分のデスクに戻る。その一番下の引き出しからファイルを取り出し、まゆちゃんの連絡先を調べる。

杏「みんなー、ちひろさん、なんか大事なお話があるみたいだから、ちょっと出とこー」

ありがとう、と唇だけでそう呟くと、杏ちゃんは小さくこくりと頷いた。

みんなの興味を押さえつけながら杏ちゃん達三人が事務室を後にしたのを確認して、わたしは受話器を取る。

数字をおすその指が、震えていた。


「……もしもし、346プロの事務員の千川と申します、いつもお世話になって折ります。佐久間さんのお宅でよろしかったでしょうか」

『ええ、そうですが』

電話に出たのは、まゆちゃんのお母さんだった。

「突然のご連絡申し訳ございません。少しお尋ねしたいことがありまして、お電話させていただきました」

『まゆのこと、ですか』

「ええ。実は昨日の夜から、まゆさんと連絡が取れないんです。もし何かまゆさんご自身から聞いていることがございましたら――」

『まゆなら、大丈夫ですよ。今日、こっちに来ると電話がありましたので。まゆ、事務所を通してなかったんですか?』

事務所を通してなかった、という言葉を彼女が言ったとき、どうしてか心がざわりと揺れた。

まるで、何度も練習したかのように呟かれたその一言が、やけに気になった。


だが、それより――

「で、では、まゆちゃ――まゆさんの居場所を把握してらっしゃるんですね? でしたら、良かったです。もしよろしければ、今からそちらに伺ってもよろしいでしょうか」

『こっちって……仙台の方まで?』

「はい。少しお話がありますので」

仕事の方は……部長の方に委任する。この状況は部長にも話してある。きっとやってくれるだろう。

『わかりました』

「……わかりました。できるだけ早く向かいます」

そう言って、わたしは電話を切った。

心臓がばくばくと音を立てている。マラソンを走った後だって、きっとここまで拍動は強くないだろう。

受話器を握ったその手で、わたしはPさんに電話をかける。

「……もしもし、Pさんですか。まゆちゃんの向かっている先がわかりました。仙台です。まゆちゃんのお母さんと連絡が取れました」

P『……仙台、ですか』

Pさんの声がくぐもる。何かあるのは間違いなかった。

でも、それを追求できるだけの勇気は、今の私にはない。

P『わかりました。今すぐ行ってください。俺も後から行きます。新幹線のチケットは自分でとりますから、ちひろさんはすぐに向かってください』

「はい」

わたしは受話器を置いて、事務所の扉を開けた。

杏ちゃん達がうまく説得してくれたのか、電話の内容を聞かれていた様子もない。

「杏ちゃん、今から、仙台に行ってきます。まゆちゃんを迎えに」

杏「プロデューサーは?」

「あとから来るそうです」

杏「杏も行っていい? たとえどんな結果になっても、明日の仕事には間に合うように帰るからさ」

杏「見ておきたいんだ。プロデューサーが、何をするのかを」

卯月「わ、私もです! 私をアイドルにしてくれたプロデューサーさんを、見ていたいんです」

小さな声で、でもしっかりと通った声を上げる二人の少女達。アイドル。

卯月「凛ちゃんも来ますよね」

凛「……私は、」


凛「私は、行きたくない」

卯月「え……?」

わたしも驚いた。凛ちゃんなら、私も行く、と言うと思ったのに。

凛「……私、プロデューサーのこと、大好きだよ。私に、新しい世界を見せてくれたから」

凛「でも、もし向こうで、プロデューサーが、まゆのことを……優しさで傷つけてしまったりしたなら、私はきっと、アイドルではいられなくなる。そんな気がするんだ」

「凛ちゃん……」

凛「だから、三人で行ってきて。お願い。卯月。プロデューサーをよろしくね」

卯月「凛ちゃん……私、頑張りますから!」

元気づけるように笑った卯月ちゃんは、準備を整えに行ったのか、ぱたぱたと音を立てて去っていく。その様子を、たくさんのアイドル達が不思議そうな目をして見つめていた。

杏「ほんとに、いいの?」

凛「うん。……だからさ、もう行って? 事務所は私に任せてさ」

凛「プロデューサーのこと信じてる、なんて言わない。言えない」

凛「私が踏み出せないのが、どこかで疑ってる証拠だから。こんな心で、私はプロデューサーには会えない」

彼女は、凛ちゃんは、渋谷凛という一人の女の子として、Pさんのことが、好きなのだろう。

だからこそ、踏み出せないその一歩に彼女は涙を零す。

凛「……こんな卑怯な私を、見せられないから」

「行きましょう、杏ちゃん」

杏「え、うん……事務所は任せたからね」

わたしと交代で、部長が事務所の中に入っていく。

事務員もいない、プロデューサーもいない、必要なものがすべて抜け落ちてしまった事務所を見て、部長は静かに溜息をつき、わたしにウインクをした。

新幹線の中で、わたしはずっと考えていた。

これから向かう場所のことを。

心に何か、薄暗い闇のようなものを抱える二人の生まれ育った場所。

そこに、知ってはならない二人の闇があるような気がした。

杏「ねえちひろさん」

杏「もしまゆがアイドルを辞めたいって言ったらどうする?」

「それは……引き止めます」

杏「それが本人の意思でも?」

杏「プロデューサーは、自分はファンの代用品だから、まゆの好意は自分に向けられたものじゃない、みたいなこと言ってたけどさ」

杏「もしも、プロデューサーがまゆを傷付けるようなことがあるんなら、その前にアイドルを辞めさせるのもまた、手の一つなんじゃないかな」

卯月「……それは、私も思ってたんです。万が一、プロデューサーさんが何かを奪うような人なら、私達から全てを奪いたいって、そう思ってるのなら、」

卯月「私達は、今のままではいられないと思うんです」

卯月ちゃんの言葉が胸に刺さる。

杏「杏は、それでもプロデューサーのこと、信じてるよ」

卯月「はい。ただ、信じるだけじゃ、足りないんです」

彼女達が今までに培ってきた経験。思い。

それが、私の心を揺さぶってならない。

掴みどころのない、彼。

優しさを餌にして、その優しさで人を殺した、彼。

微かな希望さえ本物だと信じてしまいそうなこの心に、Pさんが冷たい刃を向ける。


――ああ、間もなく、仙台に到着する。

読んでくださっている方、ありがとうございます。
まことに勝手ながら、一度ここで筆を休めさせていただきます。
申し訳ございません。

続きは明日の15:00頃から始めさせていただく予定です。
遅筆、拙筆ではございますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

続きを書かせていただきます。

仙台駅に辿り着き、普通電車に乗り換えてまたしばらく揺られる。

乗り換えてからは、杏ちゃんと卯月ちゃんは顔を伏せ、何も話さなかった。

わたしだけが生きているみたいだった。

まゆちゃんの家の最寄り駅で降りた時には、外はほんのりと赤く染まっていた。

綺麗な色。まるで、まゆちゃんのリボンの色だ。

夕焼けに染められた、静かな駅――

感想を零そうとしたその瞬間、駅の外から大きな拍手の音が聞こえた。

杏「わ、なに、急に」

卯月「お出迎えでしょうか?」

杏「そんなわけないでしょ、予定があったわけじゃないんだから」

いまだに聞こえる、歓声混じりの拍手。

杏「でもこの音、聞いたことない?」

卯月「ええ、私もそう思ってました」


「まさか――まゆちゃん?」


ライブやイベントでいつも聞いている、ファンの声。

楽しそうにアイドルを見上げてくれている、あの時の声だ。

わたしは急いで切符を通し、駅のロータリーに出た。

「やっぱり……」

杏「すごい、人がいっぱい……」

卯月「みんなまゆちゃんを見に来たんでしょうか。ううん、そうに決まってますよね」

「まゆちゃん、お帰り!」
「いつも見てるよー!」
「応援してるからな!」
「歌ってー!」


ここに響くのは、そんな声。

まゆ「そうですねぇ、駅長さんからのお許しも貰えましたし」

まゆ「音響のセットもしてくださったので」

まゆ「テレビの中のまゆより、すこしポンコツかもしれないですけど……いっぱい頑張りますから、見ていてくださいねぇ」

まゆ「では……お願いします」

流れてくる音楽は、ライブの時のものよりもずっと小さな、音も良いとは言い難いもの。

でも、ファンのみんなの顔は、ずっと輝いていた。

そして、そんな笑顔の海の中で歌うまゆちゃんも。


わたし達との時間が嘘だったみたいに、ずっと、楽しそうだった。

耳鳴りがする。

見ていられない。

佐久間まゆという、アイドル。

何もない空っぽなアイドル。

今、彼女はファンのみんなから笑顔を受け取って、歌っている。

そんな、彼女から。光に満ち満ちた彼女から。

Pさんが全てを奪ったとき、いったい彼女には、何が残るのだろう。

卯月「いまのまゆちゃん……なんだかすごく、きらきらしてます」

杏「うん。全然ポンコツなんかじゃないよね」

杏「まるで、魔法のかかったシンデレラみたい」

「いや……ぁ、」

わたしの口から、そんな声が漏れ出る。

佐久間まゆという、アイドル。

何もなかった、空っぽなアイドル。

そのアイドルが今、こんなにも輝いた。

ああ、よくぞこんなに輝いた。


佐久間まゆを手放すわけにはいかない――彼の言葉が蘇る。

手放してはならない。

ああ、よくぞ。

よくぞここまで、実った。

「奪うとしたら、」

それは。



それは、

「今――」

喉の奥で、ひゅっと空気の通り抜ける音がした。

眩暈が私を襲う。

?「……大丈夫ですか」

寒いわけでもないのに震えていた私に、誰かの声が降りかかった。

知らない男の人の声。

Pさんよりもずっと年を取った、でも張りのある声。

男「顔色が悪いですよ。休んだほうがいい」

彼はそう囁いて、わたしの肩に手を触れようとした。

男「……っ、」

電気が流れたかのように、彼が手を引っ込める。

男「すみません、そこのお嬢さん方。この女性を、あそこのベンチまで連れて行ってくれませんか」

男性の手が、震えている。

この、色の滲んだ視界でもわかるくらいに。

杏「ちょっとちひろさん、大丈夫?」

卯月「手も随分と冷えてしまってます……」

二人に手伝ってもらって何とかベンチまでたどり着いたわたしは、ぼんやりとしながらまゆちゃんのステージを見ていた。

男「……これで温まってください。自販機のものですみませんがね」

彼が手渡してくれたのは、温かい紅茶の入ったペットボトルだった。かじかむほどに冷えていたわたしの手に、ほのかな温もりが戻る。

男「この季節の仙台は冷えますから、少し気温にやられたのでしょう」

男は缶に入ったココアを杏ちゃんと卯月ちゃんに手渡す。

お礼を言って、二人は遠くで歌うまゆちゃんに目を向けた。

男「何か、事情があるようですね。お仲間のもとに行かないのを見ると」

彼が呟く。

驚くわたし達を見て、彼は笑った。

男「あなた達のことを知らない人なんてそうはいませんよ。うちの地元のアイドル、佐久間まゆと同じ事務所の人ですから」

男「仙台の中でも、この町は、佐久間まゆが読者モデルをやってた頃からファンが多かったです」

男「あの子がアイドルになってからは、それが爆発的に広まりました」

男「他の子が都道府県名しか出してないのに、佐久間まゆは仙台とまで言ってくれました」

胸が、軋む。

「まゆちゃ……まゆは、どんなアイドルなんでしょうか」

男「まゆちゃん、で構いませんよ。いつもそう呼んでいるんでしょう。ここの町の人も、みんなまゆちゃん、って呼んでます」

男「彼女は……そうですね。少しおっとりしてて、頼りなさげで、ポンコツだが誰かに必要とされる。そんなアイドルであると、みんなは言っています」

まゆちゃんが、三曲目を歌っている。ダンスがない分、きっとたくさんの歌を歌うつもりなのだろう。

お世辞にも、ライブの舞台とは言えない粗末な環境で、彼女は輝いている。

それを、地元の人たちが優しく見守ってくれている。

ああ、まゆちゃんはアイドルを辞めたいわけじゃないんだって、安心するべき時なのに。

なのに、どうして。

それを許さないこの違和感は何なのだろう。

地元のアイドル、佐久間まゆが帰ってきた。

なのにどうして。

どうしてこの人は、そんなまゆちゃんよりも、わたし達の隣を選ぶのだろう。

まるで自分は、こちら側の人間であるかのように。

杏「ねえ、おじさん」

杏ちゃんが彼を見上げる。

杏「おじさんは、どうなの。まゆのことどう思ってるの」

男「ん? さっき言ったとおり――」

杏「みんなは、そう言ってるんだよね」

杏「なんで、そんな言い方したの」

これが、違和感の正体だったのだろうか。

杏ちゃんの畳みかけるような質問に、彼はたじろいだ。

男「この町の人はみんな、佐久間まゆのことが好きで」

卯月「どうして、まゆちゃんって呼ばないんですか?」

温かな空気に溢れるロータリーの中で、この空間だけが、切り抜かれたように静かだった。

彼の狼狽が激しくなってくる。

「お聞かせ願えませんか。まゆちゃんは、あなたにとってはどう映るんですか」

男「……ッ、」

男「私には……佐久間まゆというアイドルが、わかりません」

男「彼女の姿は、私にはいつも霞んで見える。あの笑顔も、零す涙も、ただ写真に写るだけのその姿も」


男「……佐久間まゆは、空っぽなアイドルでした」


男「彼女は、他の誰かから手を差し伸べられて初めて、アイドルになれた」

この人まで、そんなことを言うのか。

気付いてしまうのか。

彼女の脆さは、与えられたものを垂れ流してしまうことによって露呈した。

「彼女には、個性がない、と」

男「ええ。目に見える個性は。でも、だからこそ彼女はああやって愛されるのかもしれない」

男「あなた達から見て、今の彼女はどう見えますか? 楽しそうですか?」

卯月「とても、きらきらしていますっ」

杏「うん、いつものまゆよりも、ずっと……」

男「そうでしょう。とても輝いている」

男「今までは陰に埋もれていた少女が、輝きだす。まるでシンデレラだ」

杏「……」

彼は、わたしを見据えた。

その目を見た途端、急に耳鳴りがわたしを襲う。聞いてはならないと、本能が囁くのだ。

男「零時の鐘はあなた達だ。あなた達が、まゆからまゆであることを奪った」

「……わたし達が、ですか」

声が、自分の思っている以上にかすれていた。

温かみが戻ったはずの手から、再び熱が逃げてゆく。

男「……いえ、違うんです。わかっています。これがただの八つ当たりなのだと」

男「それでも、責めずにはいられない」

男「あの子から、たくさんのものを奪った存在を」

男「知っていましたか? まゆは、右利きなんです」

「え、ええ、把握して、います。……どうしてそう思ったのですか」

声が震える。もはや、言葉になっているかどうかすら危ういのかもしれない。

それでも、問わずにはいられないのだ。

わたしは問うた。だから彼は、答える。



男「佐久間まゆは、私の娘だからです」

卯月「……ええっ!?」

卯月ちゃんが悲鳴をあげる。わたしも卯月ちゃんほどではないにせよ驚嘆の声を上げる中、杏ちゃんだけが神妙な面持ちで彼を見つめていた。

「まゆちゃんの、お父さん……」

男「いいえ、私の娘だった、ですね。父親を名乗ることは、今はもうできません」

男「離婚したんです。私と妻と、つまらないことで諍いになってね」

「つまらないことで離婚なんてしませんよ」

男「ふ、そうですね。そうかもしれません。つまらなくなんてなかった」

男「喧嘩の原因は、妻がまゆを読者モデルにしようとしたことでした」

男「私は反対だったんです。まゆが読者モデルになること」

男「親権はとれませんでした。仕事で家を空けることが多かったですから。それに、今の時代未成年でモデルやアイドルになるなんて、そうそう珍しいことでもなかったですしね」

「……やはり、未成年で、メディアに露出する機会が多いことは、気分を害されますか?」

わたしはつい尋ねてしまう。

男「いいえ。まゆが普通の子であれば、私は許諾した。でも、まゆは違ったんです」

男「まゆは、他人に流されやすい子だった」

自我の定まっていない時期にモデルやアイドルになるのは、確かに危険なことだったかもしれない。彼の危惧は、よくわかった。

そしてその焦燥は、外れてはいなかった。

男「テレビを見るたび、思っていた。本当にまゆの中には、彼女がいるのだろうかと」

男「出版社や346プロこそが、彼女から全てを奪ったのではないかと」

男「許せない、とはまた違います。彼女を輝かせてくれたのは、本当に感謝しています。ただ、気がかりだった。でも、それも今日で終わりにします。まゆの中にまゆがいるのだと、実感できた気がしますから」

彼は、そんな安堵の言葉を並べながらも緊張に固まった表情を解かない。

「まゆちゃんに会いに行かないんですか。当時まゆちゃんが六歳だったなら、まゆちゃんだってお父様のことを覚えているはずです」

男「そういう問題ではありません」

男「……私は離婚したあと、三年後に再婚しました。一度、結婚を経験したことがある者同士での結婚でした」

男「私は、やり直したかった。家族というものを。届かないところへ行ってしまったまゆの代わりに、私は自分の過去を切り捨てたんです」

杏「……再婚した後の生活は、幸せだった?」

彼は、明確なことは何も答えなかった。

男「私と、妻と……息子の三人で生活を始めました。テレビでもまゆを見ないようにして、目を背けようとして」

男「幸せになろうとしました」

男「実際、幸せでした」

男「私の息子が、すさんだ私を支えてくれていた。その息子も、もう私達の手のもとから巣立ってしまいましたがね」

男「でも、安息が訪れない。いろんなところで、なにかが宙ぶらりんなままなんです」




杏「……ちょっと待って、どういうこと?」

卯月「杏ちゃん?」

杏「計算が合わない」

杏「子供の年齢が、おかしい」

彼は、杏ちゃんのその言葉に目を細めた。

杏「ねえおじさん」

杏ちゃんが彼を見つめる。いつもの、怠惰な杏ちゃんじゃない。

何もかもを見透かしているかのような彼女の目が、彼を離さない。


杏「その息子さん、もしかして……三日か四日前に帰ってこなかった?」

彼の表情が強張る。その変化を、杏ちゃんは見逃さなかった。

杏「……Pさん、なのかな」

杏「じゃあおじさんは、15歳くらいのプロデューサーを引き取るかなにかしたんだ」

男「まさか……」

わたしの中で、何かが音を立てる。

事実はまだ何も繋がってはいない。なのに――確実に、収束へ向かい始めている。

「Pさんが、あなたの……息子?」

激しい呼吸でかすれたその声に、彼は力なく頷いた。


男「……ああ。その名は、確かに私の息子……いや、養子の名だ」

全身を鳥肌が覆った。

卯月ちゃんや杏ちゃんに心臓の音が届いてしまうのではないかというくらい、鼓動が大きくなっている。

まゆちゃんの歌が終わったのか、向こうの方で大きな歓声が上がった。

まゆ「みなさん、ありがとうございます……っ」

まゆ「次の曲で……っ、最後にします……ごめんなさい」

まゆ「エヴリデイドリームです」

息を整え、最後の歌の準備を始めた彼女は、ファン達の表情を一つひとつ見ながら、恍惚の表情を浮かべる。


「聞かせてくださいませんか。Pさんのことを。彼の、過去を」


アイドル、佐久間まゆの父であり、Pさんの親でもあるこの男。

こんな形で出会いを果たすことが運命だったというのなら、神様はなんて残酷なのか。

男「彼の、過去か」

男「――彼が十四歳のとき、私と妻は彼を引き取りました。もう子供を産み養えるほど、若くはなかったですから」

モバP【おじさん】「まゆ、アイドルをやめろ」【イケメン金髪美男子須賀京太郎【俺の嫁】全身永久脱毛水泳部ネキ出家マネキンなぁに修復液ドーン初代ときめきマネキンと言う物がウンたら寛太ら斎藤様【未婚】の愚痴は永いです

男「私は、私の中で燻っていたまゆへの愛情の余りを、彼に与え育てようと思いました」

卯月「愛情の、余りをですか」

男「……卑怯だと思うでしょう。でも、妻もそうしたんです。彼女は七歳の娘を事故で亡くした可哀想な人だった。彼女もまた、かつて注ぐはずだった愛情ののこりかすを与えていただけに過ぎなかった」

男「私達の家族の中で、彼は六歳のまゆであり七歳の少女だった。ずっと――何年経っても、私達の絆は変わらなかった」

卯月「そんなのが、」

卯月「そんなのが、本当に幸せだったんですか?」

卯月「プロデューサーさんはプロデューサーさんなのに、まゆちゃんじゃないのに」

じっと話を聞いていた卯月ちゃんが、遂に叫ぶ。

透明な雫を流しながら少女は言葉を重ねた。

卯月「本当にそれを、幸せだったって言えるんですか……!」

杏「由々しき事態なんだ」

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婦女子の荒し[ピーーー]

男「……ああ」

男「幸せだったよ。だが、あのねじれた家族の中では、幸福であることは不幸であることと同じだった」

声のトーンが、ひどく低くなる。なんだろう、この……妙に心が落ち着かない空気は。

男「十四歳の彼を、七歳や六歳の少女として扱えるあの温かな家は、きっと地獄と同じでした。幸せであれたことは、きっと不幸でした」

男「……わかりますか。私達は彼のことを、都合のいいように錯視していた。錯視できてしまっていた」


男「あの子は……まるで人形だった」

かつて東野さんの言った言葉が、鮮明に思い出される。

わたしの周りにいる他の誰よりも、アイドルに近い彼。

誰かから期待されて初めて、自らを決定づけられる彼。

男「彼は誰かを否定しない。人はそれを、優しさと呼ぶでしょう。でも、ある瞬間、ふとした瞬間に、夢から醒めてしまう。その一瞬で、人は彼の存在を見失う」

男「でも、それに気づいた時にはもう遅い」

男「彼なしではもう、生きていけない」

男「なぜなら彼は、鏡に映った自分と同じ。自分の望むものを全て持った、理想的な偶像なんですから」

思考が、停止する。

そんな中で、まゆちゃんのエヴリデイドリームが流れ始める。

毎日が夢のよう。

もっともっと、一緒に居たい。

歌詞の一つひとつが、吐き気を催すくらいに心に突き刺さる。

まゆちゃん、あなたは。

あなたはどうして、そんな空っぽな瞳をしていたの。

どうして濁った眼で、Pさんを見つめていたの。

Pさんはなんの代用品だったの。

Pさんに、何を詰め込んだの。


Pさんはいったいいつから、空っぽだったの。

申し訳ございません、いったん中断します。
再開は今日の19:00頃です。恐らくですが、今日中に完結します。

杏「プロデューサーの優しさは、二人の女の人を殺したよ。傷つけた人数はもっと多いかもしれない。おじさん達も含めて」

杏「おじさんがプロデューサーを引き取る前から既に、プロデューサーには何もなかったの?」

彼は弱々しく首を縦に振った。

男「彼の過去を私は知りません。ただ、施設にいたということはきっと、そういうことなのだろうと」

卯月「プロデューサーさんは、幼い頃からずっとそこで……?」

男「いいえ。彼が独りになったのは十一歳の頃です。施設の方は、私達がそこを訪れたとき、こう嘆いていました。手放してしまうのなら、なぜ人の悪意がわからないうちに、私どもに任せてくれなかったのでしょうか、と」

人の悪意で穢されてしまったPさん。

アイドル達を元気づける鮮やかな笑顔の彼は、今ではもう霞んでしまっている。

男「彼を引き取ったとき――九月七日の、まゆの誕生日でした。施設長さんは、私達の前で膝を折り、土下座をし号泣したんです」

――申し訳ございません。

――あなたの息子となる人を傷付けるこの私を、どうかお許しください。

――私どもは、彼という人間を愛せなかった。

――あの子は、人に愛させることは知っていますが、愛されることを知りません。

――愛されやすいかたちに変化して愛情を受け止めようとする者、

――それが彼なのです。



身を守るために、自分を抑え、殺し、何度もすり減ってきた彼は、

もう十年も昔から、人の悪意に怯えながら自身を作り替え続けていたのだ。

人から愛されるために。

いや、

人に自分を、愛させるために。

空っぽな肉体を守るために。

男「あの子が家を離れて四年近く経ちます。私と妻は変わりました。あの子の歪みが理解できるほどに」

男「でも、……彼は変わらない」

男「優しさの向こう側で全ての愛を奪おうとするあの目だけを携えて、彼は変わらぬまま生き続けている」

男「私は……っ、父としての責務を果たせなかった」

我が子を我が子として慈育できなかったその過去を吐き出した彼は、握りしめた拳から血を流しながらステージを見遣る。

男「まだ、会えない」

自分を戒めるように首を横に振った彼は、もうそれっきり何も言わずに、わたし達に背を向け去っていった。

残されたわたし達に、最後の曲を終えたまゆちゃんへの拍手が降りかかる。

歓声を浴びたまゆちゃんは、笑顔でファンの人たちに手を振る。

ステージを降りた少女は、手渡されたタオルで汗を拭き、再びマイクを取る。

まゆ「みなさん、ありがとうございました。まゆ、これから行かないといけないところがあるので、みなさんとは、ここでお別れです」

まゆ「応援してくれて、ありがとうございましたぁ……っ」

そう叫んだまゆちゃんは、音響を弄っていた男性にマイクを渡し、言葉を交わしたあと、よろよろと走り出した。


卯月「ちひろさん、まゆちゃんが!」

「ええ、追いましょう」

ベンチから立ち上がり、彼女を追おうとする。その瞬間、ひどい立ち眩みがわたしを襲った。

そのよろけたわたしの身体が誰かに抱きとめられる。

肩を掴んだのは、大きな、手。


P「大丈夫ですか、ちひろさん」


わたしのすぐ後ろに立っていたのは、Pさんだった。

杏「ぷ、プロデューサー? いつからここに」

突然の彼の出現に、焦りを隠せない。

P「ん? ちょうど今改札からおりてきたところだ」

卯月「この状況は、ええと、まゆちゃんが、地元の方々に歌を歌っていたんです。あの、それで、プロデューサーさん……」

卯月ちゃんが、思いつめたような表情をする。駄目だ。言ってはいけない。彼の父と出会ったことなど。

杏「まゆがあっちの方に走っていったんだ。追いかけないと……あんまり走りたくはないけど」

P「そうみたいだな」

彼の目がすっと鋭くなる。

自分に仇なす闇を見逃さぬよう、常に気を張り精神の緊張を保ってきたその目。

P「……、」

その目で彼女を追ったPさんが、杏ちゃんや卯月ちゃんに聞こえないように、小さく呟く。


――に、……で、れ。


ファンの拍手に攫われたその言葉。

Pさんは一瞬何かに気付いたように肩を震わせたあと、勢いよく地面を蹴った。

杏「ちょっ、プロデュー、サーぁ……」

情けない声を上げる杏ちゃんの手を引いて、わたしは走り出す。

このまま彼を行かせては、いけない。本能がアラートを響かせていた。

まゆちゃんは駅のロータリーを抜け、大通りに入ったあと、そのすぐ近くの喫茶店の中に姿を消していった。

わたし達も、その店に入りまゆちゃんの姿を探す。

まゆちゃんは喫茶店の壁際の席に、こちらに背を向けて座り店員に何かを注文した。

P「誰かを待っているみたいですね。近くの席で様子を見ましょう」

そう言ってPさんは、ちょうど衝立でまゆちゃんが見えなくなる席をとり、適当な注文を頼んだ。

わたしとPさんが通路側で向かい合うように座り、卯月ちゃんと杏ちゃんの姿を隠す。

まゆちゃん側に背を向けているPさんに対して、わたしはわずかながらまゆちゃんのいるテーブルが見えていた。

P「……誰か入ってきましたね、店内を見渡してます」

からんころん、と軽やかな鈴の音と共に入ってきたのは、一人の女性だった。

誰かを探すように、大きなサングラスを外して広くはない店内を一瞥する。

目当ての人物を見つけたのか、彼女はかつかつと足音を立てて向かっていく――まゆちゃんのいる席に。


まゆ「……お母さん」

まゆちゃんは、その女性に向けて確かにそう語りかけた。

母「どうしたのよ、急に帰ってきたりなんかして。事務所の方にも連絡してなかったんでしょ?」

Pさんの指が、ぴくりと震えた。表情は崩さないまでも、彼の全身に力が籠ったのがわかる。

まゆ「お母さん、まゆは、……まゆは、今の事務所にはいられなくなりました」

まゆちゃんは、静かにそう切り出した。

二人の間に沈黙が流れ、店を流れるジャズの音楽だけが空気を震わせている。

母「…………」

その静寂を、まゆちゃんのお母さんの溜息が破った。

母「346プロを辞めるの?」

まゆ「……はい」

母「……そう。私、まゆの母としても、ファンとしても、応援してきたつもりだったけど」

母「また、やり直すのもいいのかもしれないわね」

まゆちゃんの頼んだ飲み物が運ばれてくるのと同時に、まゆちゃんのお母さんは慣れた様子で何かを注文する。店員と二言三言交わして、彼女は再びまゆちゃんの方を見た。

母「ねえ、」

母「346プロって、どんなところだった?」

母「まゆ、なかなか連絡くれないんだもん。ちょっとだけ聞かせて?」

まゆ「346プロは……たくさんの女の子がいて、まゆよりも、ずっと小さい女の子もいて、ずっと大人の女の人もいて……すごく、楽し」

母「そういうことじゃないの」

まゆちゃんの言葉を遮った彼女は、口許に不気味な笑みを浮かべてまゆちゃんに問うた。

母「芸能界って、すごく怖いところって言うでしょう」

母「ほら、プロデューサーって、男の人だったんでしょ? ねえ、どんな人だった?」

まゆ「ぷ、プロデューサーさんは……っ、」

まゆ「すごく、良い人で、頼りになって、優しい人で……」

母「そう」

母「でもやっぱり、あったでしょう。あなたはアイドルなんだから」

母「枕営業、させられたりとか」

わたしの中で何かが爆発した。

呼吸が浅くなって、感情が理性を突き破る。


だが、そんなわたしの激昂を、Pさんは捻り潰した。

彼は、笑っていた。

わたし達に見せてくれる、今は色褪せてしまった爛漫な笑顔なんかではない。

きっとこの人は、ずっとこの笑顔を浮かべて今まで自分を守ってきたのだろうという、そういう微笑み。

誰かの怒りを殺し。誰かの恨みを殺し。

誰かの憎悪を殺し。誰かの殺意を殺し。

そして自らを殺した、彼の武器。

わたしの中の怒りは薙ぎ払われ、杏ちゃんや卯月ちゃんの翳りさえも圧倒する。

まゆ「枕営業、ですか?」

感情を振り払われた真っ白な私に、まゆちゃんの震える声が流れ込んできた。

母「346にいられなくなった理由、聞いてなかったから」

母「それくらいしか、ないかなって」

まゆ「……そうですね」

まゆ「まゆが、346プロにいられなくなったのは、」

まゆ「まゆにその話が来たからです」

まゆ「番組の方が、まゆに直接」

「ま、まゆちゃんは何を……」

P「恐らく、まゆが辞めたいと思った本当の理由を、言葉にするのが難しいんでしょう。だから、枕という言葉を使った。俺達に迷惑がかからないように、直接、ってことにして」

「どうして……」

言葉にできないその動機を、置き換えたのはまだいい。

どうして、庇うような真似を――


母「……やっぱりそうだったのね」

店員が運んできた飲み物を飲みながら、彼女はまゆちゃんに憐れみの言葉を投げかけた。

母「でも……本当に、346を辞めたいの?」

まゆ「……はい」

母「わかったわ。あなたの意思を尊重する。連絡しておくわね」




母「それで、次の話だけど」

まゆ「つ、次……?」

母「346をやめたあと、どうするの? もう一回読者モデルに転向して、やり直す?」

母「でも、他の企業に移籍するっていうのもいいと思うの」

母「346プロっていう大きな会社で箔がついたわけだし、それを活かさない手はないわよね」

まゆ「あ、あの、」

母「こだまプロ……ううん、もっと上に行ける」

母「961プロでだって、まゆは輝ける」

母「そう、きっと――765プロにだって、」

まゆ「お母さんっ!」

まゆ「まゆはもう、アイドルをやめたいんです」

アイドルを、辞めたい。

思いもしなかった言葉が鼓膜に突き刺さり脳を揺らす。

あんなに、楽しそうに歌っていたのに。

舞い降りたのは、静寂なんかよりももっと静かで、冷たい空気だった。

まるで絶対零度を思わせる空気の中で、それを操る者のように彼女が口を開く。

母「どうして、そう思うの」

母「読者モデル時代から、ずっとアイドルになりたいって言ってたでしょ」

母「そのために、いろんな衣装を着せて、笑う練習をして、売り込み方まで教えてあげたのに」

母「どうして……今まで一緒に頑張ってきたじゃない」

まゆ「でもっ……」

母「さっき、駅でライブみたいなことしてたでしょ」

母「楽しかった?」

まゆちゃんが楽しんでいたことをわかっていて、彼女はそれを問い詰めている。

有無を言わせぬその声に、まゆちゃんはか細い声で、はい、と頷いた。

まゆ「ファンのみんなの顔が見えて、とてもきらきらしていて、」

母「アイドルなら、もっときらきらできるわよ」

母「正直な感想を言うけどね、」

母「さっきのライブ、とっても酷かった」

母「あの時歌っていたのは、アイドルじゃなかった。佐久間まゆじゃなかった」

母「ちょっと歌の上手い女の子が、何かを勘違いして自分がアイドルだと思い込んでしまったような、素人の歌い方だったわ」

母「私、すごく恥ずかしかったわ」

母「でもね、あんな適当なステージでさえあなたは楽しめる。それが、本物のアイドルとして本物のステージに立てたなら、きっともっと楽しいわよ」

なんだ、これは。

この、気持ちの悪い言葉は。

卯月「……私、なんだか、もやもやします」

杏「うん、なんか……嫌だ」

母「楽しかったなら、もっとわくわくできるようなことをするべきよ」

母「ねえ、まゆ。一応もう一度訊くけれど」



母「アイドル、辞めたい?」


まゆ「まゆは、まゆは、」

まゆ「もっと、輝きたいです……!」

母「そう、それは良かったわ」

母「じゃあ、一度家に帰りましょう。これからのことを話し合うの」

まゆちゃんのお母さんが、立ち上がる。

わたし達の席の方へ歩いてくる。

「Pさん、どうしましょう、これ……」

P「このままで構いません」

顔色一つ変えずに席に座っているわたし達の隣を、まゆちゃん達が通り過ぎる。

かつん、と、まゆちゃんの歩みが止まった。

まゆ「ぷろ、っ、プロデューサー……なんで、こんなところまで」

裏返ったまゆちゃんのその声が、驚愕の深さを物語っている。

プロダクションに入ったときに住所など一通りを押さえてあるとしても、まさかここまで追ってくるとは思わなかったのだろう。

母「プロデューサー? ああ、あなたが。そう言えば、来るとおっしゃってましたね」

P「いつもお世話になっております」

P「少し、お話しませんか?」

Pさんは、さっきの笑みとは違う、しかし今までにわたし達に見せたことのない、白々しく敵意を含んだ表情を浮かべる。

母「はい、よろこんで」

そう答えたまゆちゃんのお母さんの微笑みは、Pさんのそれととてもよく似ていた。

喫茶店を出たわたし達は、どこか建物に入るでもなく自動販売機の傍に申し訳程度に置かれた休憩所のようなスペースに連れて行かれた。

木でできた硬く冷たい椅子に座ると、まゆちゃんのお母さんは口を開いた。

母「きっと、喫茶店のような場所では静かすぎるでしょう」

彼女は俯くまゆちゃんの左手首を握り、杏ちゃんと卯月ちゃんを見る。

母「テレビで見るより、ずっと可愛いですね」

母「それで、お話というのは?」

P「まずは、まゆに一言だけ言わせてください。駅前のロータリーでのライブ、見てたぞ。駅の改札のところからちゃんと見えてた。特等席だったよ」

まゆ「……見てくださってたんですね」

P「ああ、ちゃんと見えてた。よく頑張ったな」

Pさんの言葉を聞いて、まゆちゃんは居心地が悪そうに視線を逸らした。

P「さて、話なんですがね」

P「まゆのライブを見てどう思われたか、もう一度お聞きしても?」

喫茶店で盗み聞きをしていたことなどまるで隠す素振りも見せず、Pさんはそうまゆちゃんのお母さんに語りかけた。

母「……まゆに、あんなステージは似合いません。もっと大きな箱で、もっといい音響で、歌って、踊るべきなんです」

母「こんなところで燻っていていい子ではありません」

P「そうですか? 俺は別に、こういう機会があってもいいと思いましたよ」

母「そんないい加減な」

P「あなたはまゆの母親ですが、プロデューサーじゃない」

P「反対に、俺はプロデューサーであってまゆの父親じゃない。だから、家庭内のことやまゆの人間性については俺は何も言いません」

P「ただね、佐久間まゆというアイドルのライブを貶すことだけは、やってはならないことです。プロデューサーとしても、親としても」

P「お聞きします。あなたは、まゆの気持ちを考えたことがありますか」

わたしが何度も心の中で呟いていたその疑問を、Pさんはいとも簡単に投げかけた。

その疑問の裏側に隠されているのは、あなたはまゆちゃんの気持ちを考えていない、という明らかな糾弾だった。

母「プロデューサーでしかないあなたには、まゆのことはわかりません」


P「親なら、わかってくれたんですか」


膝の上でいつの間にか握りしめていたわたしの拳に、くっと力が入る。

杏ちゃん達も、顔を顰めながら二人のやりとりを耳で追っていた。

母「あなたに、それをお答えすることはできません。これは私達の家庭内の話です」

P「なるほど。確かにそうですね。失礼しました」

P「では訊き方を変えます。読者モデル時代の公式プロフィールで、利き手を両利きと書くよう進言したのはあなたですか?」

全く関連性のない質問に、彼女は得意げな表情を作った。

母「さすがですね。良いテクニックだとは思いませんか。アイドルには、何よりもまず興味を持ってもらうことが必要です」

P「よくわかりました。ありがとうございます」

P「もう一つ。346プロの公式プロフィールで、出身地を宮城ではなく仙台と登録したのは、まゆの判断ですよね?」

口調こそ母親に問うようなものだったが、その視線はまっすぐにまゆちゃんの方を向いている。

その視線から逃げられないと悟ったのか、まゆちゃんは小さく頷いた。

P「なるほど、よくわかった」

P「そうか……なあ、まゆ……本当に346プロを辞めるのか?」

まゆ「……はい」

まゆ「もう、プロデューサーさんは、知ってしまいましたから」

あの映像を見て、と彼女は唇で付け足した。

P「俺は気にしないが……そのほうがいいと思ったんだな」

P「後悔はしないんだな」

まゆちゃんはもう何も言わず、Pさんを視界に入れないように俯きながらただ首肯を重ねるだけだった。

P「……そうか。そう、か」

諦めたように肩を落とすPさんを見て、杏ちゃんが身を乗り出す。

杏「まゆ、ほんとに――」

P「やめろ、杏」

杏「でも……!」

P「俺達はまゆじゃない」

P「……人は、自分以外の何者にもなれないんだ」

Pさんは呻くようにそう呟き、椅子から立ち上がった。

P「社に戻り次第、移籍の手続きを進めておきます。詳しいことが決まり次第、折り返しご連絡させていただきます」

まゆちゃんが、はっと顔を上げた。

だが、彼女のその今にも泣きだしそうな顔を、Pさんはもう見てはいなかった。

P「それでは、失礼します」

P「ちひろさん、行きましょう。これから忙しくなります」

P「……」



P「……じゃあな、まゆ」

Pさんは、遂に彼女に背を向けた。街灯のつき始めた道を、歩き始める。

何かを言いたげなまゆちゃんは、左腕を掴まれてその場を動き出せずにいた。

まゆ「ま、」



まゆ「待ってください……」

まゆ「行かないで、」

まゆ「最後に、謝らないと、」

濁った眼で、少女は言葉を漏らす。

「Pさん、まゆちゃんが」

まゆ「離して、くださいよぉ……っ」

まゆちゃんが、左腕に食い込む指を剥がし、わたし達のもとに駆け寄ってくる。


卯月「まゆちゃん……!」


ぱっと顔を輝かせた卯月ちゃんの肩を、Pさんが軽くたたき静かに首を横に振った。

まゆ「プロデューサーさん……まゆは、プロデューサーさんにごめんなさいを――」


その時だった。

声が、聞こえた。

「あ、まゆちゃんだ!」

「ほんとに帰ってきてたんだ」

まるでスポットライトのような街灯の下で佇むまゆちゃんに、この町の人たちが――ファンのみんなが、集まってくる。

P「ちひろさん、杏と卯月を人目のつかないところへ」

わたしは二人の背中を押し、そっと建物の陰に誘導する。

「さっき、駅でライブやってたってほんとか?」

「そうだよ、ソロライブだよ」

「聞きたかったなー」




「ねえ、まゆちゃん、歌ってよ!」




その言葉で、まゆちゃんの身体がびくりと痙攣した。

聴かせて。聴かせて。聴かせて。聴かせて。

まゆちゃんの歌を、聴かせて。


まゆ「ぁ……、」

まゆ「い、ぁ…………」

聴かせて。聴かせて。聴かせて。歌って。


まゆ「だ、だめ、ですよぉ、そん、な、の……」

P「まゆ……?」

まゆ「ぃ、や……ぅたえ、ない、です」


まゆ「歌え、ないんです……歌えないんです……っ」

まゆ「まゆはもう、歌えないんですよぉ……」

ぼろぼろと涙を零し、耳を塞ぎながら地面に蹲ったまゆちゃんは、ついにどうしようもないほどの心の軋みを上げ、悲鳴を上げた。

P「すみません、自分は佐久間まゆのプロデューサーです!」

P「申し訳ございません、今日は、プライベートでの帰郷で疲労が溜まっているために活動の方は中止させていただきます!」

Pさんは崩れ落ちたまゆちゃんの肩に自分のスーツの上着をかけ、その肩を抱く。

「……あー、そうだよな、駅でもいっぱい歌ってたし……」

「ゆっくりしたいとき、あるもんね」

嗚咽混じりに泣くまゆちゃんに、自分達を恥じるような声が混じり、ゆっくり休んでね、という言葉に置き換わり始める。

「同じくプロダクションの者です。すみません、歩道での人だかりは交通の妨げとなりますので、皆様、どうかお気をつけておかえりください。ご協力お願いいたしま――」


母「歌いなさい!」


まゆ「ひ、ぁ……、」

突如響いた声に、まゆちゃんが短い悲鳴を上げた。身体の震えが激しくなり、呼吸も乱れ始める。

靴を鳴らし、群衆をかき分け、彼女はまゆちゃんのもとに向かってくる。


母「どきなさい……っ、私はこの子の母親なの!」

母「歌いなさい、あなたはアイドルなのよ! 私がずっと育ててきたアイドルなの!」

P「やめてください! まゆは歌えないと言っているんです!」

まゆちゃんに手を伸ばそうとした彼女の母から、Pさんはまゆちゃんをかばう。

群衆は足を止め、まゆちゃんの母親を見つめる。

母「どいて! 私の娘なの!」

母「歌ってよ、お願いだから……ッ」

母「私は、私は……、佐久間まゆの母親なんだから……!」

P「あなたが何であろうが、まゆはまゆです!」

母「どきなさい!」

しゃがむまゆちゃんに、覆いかぶさるようにして庇うPさんの側頭部に、先の尖った母親の靴がめり込む。

形容しがたい呻き声を上げたPさんが地面を転がった。その隙に、母親は鬼のような形相を浮かべてまゆちゃんの襟首を掴み無理矢理に立たせた。


そしてその肩を掴み、揺さぶり、叫ぶ。

母「どうして……ッ、どうしてなにも歌わないの? あなたはアイドルなの、アイドルでなければいけないの!」

まゆ「でも、まゆは……っ」




まゆ「アイドルのまゆは、まゆのどこにいるんですかぁ……っ!」



母「どうして……どうしてなの、せっかくアイドルにしてあげたのに、アイドルになってもらったのに、どうして私が、こんな惨めな……っ!」

母「アイドルをやめるの? 一緒に夢をかなえたのに!」

母「私は佐久間まゆの母親なの。アイドルの……アイドルの母親なのよ!」

母「今まで一緒にやってきたのに、アイドルじゃないあなたを、いったいどうやって愛せって言うのよ!」

狂気に満ちたその叫びと共に、母親はまゆちゃんのお腹を蹴り飛ばした。


P「ま、ゆ……」

声を出せたのは、Pさんだけだった。

他のわたし達は、声すら出せなかった。

まゆちゃんの身体が折れ曲がり、そのまま車道に弾き出されていく。

どうして――どうして道路の向こう側から、あんな光が、迫ってくるのだろう。

理解が追いつかない。

認識すら、追いつかない。


そんな中で、Pさんだけが。

佐久間まゆの、プロデューサーだけが。

おぼつかない脚で、揺れる視界で、




ひびだらけの少女に、手を伸ばした。

今までに聞いたことのない、奇妙な音が空気を揺らした。

理解することを放棄した脳の中に、どんどんと事実ばかりが押し込まれていく。

なんの音。

今のは。

不自然な向きで止まったワゴン車のすぐ横には、ライトに照らされたアスファルトを見つめるまゆちゃんがいる。

じゃあ、何が。


何がぶつかった。

まゆちゃんは、何を見ている。



――誰、を。

まゆ「ぁあ、あ……」

人ごみの脚の隙間から、赤い何かが見えた。

まゆ「プロデューサーさん、まゆの、プロデューサーさん……」

まゆちゃんが、赤の中に飛び込んでいく。

――おい、救急車を!

――もう呼んだ!

――警察は!

――駅前に呼びに行ったほうが早い、行ってくる!

「ぁ、Pさん、嘘、」

卯月「すっ、すみません、どいて、ください」

震える声で、焦点を定めない目で、わたし達は道路に向かう。

紅の海で、まゆちゃんが抱きしめていたのは、わたし達の期待を充分すぎるほどに裏切った、Pさん、だった。

まゆ「嘘、ですよねえ……」

まゆ「実は、プロデューサーさんは、元気なんですよね、」

まゆ「ちひろさん、これも、どっきりなんですよねえ……っ」

「やめて、ぃや、……」

どっきりじゃない。こんなの。

こんな、残酷なの。

Pさんが、亡くなったなんて――


まゆ「冷静でいられるわけ、なかったじゃないですか」

まゆ「泣かなきゃなんて思わなくたって、」

まゆ「こんなに、涙が、」

まゆ「悲しさしか、あふれて、こないのに」

まゆ「プロデューサーさんが、お母さんの代用品なわけ、なかったのに……」


まゆ「まゆ、まだ謝れてないじゃないですかぁ……っ!」

P「ぉ、い……」

P「まだ、死んでないぞ、俺は……」

まゆ「プロデューサーさんっ!」

杏「もうすぐ救急車来てくれるからね、死んじゃいやだからね!」

まゆ「まゆ、お母さんじゃなくって、プロデューサーさんに、アイドルにしてもらったのに、歌えなく、なって……」

まゆ「どれがまゆなのか、わからなくなって、」


P「……俺は、」

虚ろな眼差しで、彼は笑う。遠くの方から救急車のサイレンの音が聞こえてくる。

その音に負けないように、彼は必死に声を紡ぐ。

P「さっきのライブのまゆが、ほんとのまゆだと、思ったぞ」

P「まゆ……お前はアイドルだ。みんなのために歌って、踊って、笑うアイドルだ」

P「わからなくなったんだよな。みんなに色んなものを押し付けられて、いろんな優しさを詰め込まれて……」

P「自分は誰なんだろう、って」


P「……俺はプロデューサーだ。だから、言うよ、まゆ。……佐久間まゆをやめるより先に、」






P「まゆ、アイドルをやめろ」




アイドルを、やめろ。

アイドルであることを、やめろ。

わたし達の周りはどんどんと騒音に満ち溢れていくのに、Pさんだけはそれを知らないように、ひどく穏やかに笑う。

薄く開いた、彼の目。



その双眸は、きっともう、何も映してはいなかった。

―――
――


何度、このドアを開けたかわからない。

清潔感の溢れる、軽い引き戸。その先にあるのは、多すぎる千羽鶴や果物屋でも開けそうな量のフルーツの詰め合わせ。

その果実たちも、少しも減ることなくPさんの周りを取り囲んでいた。

単調な機械音だけが、彼の存在を指し示す。

わたしの前には凛ちゃんが来ていたのか、どう考えても棚の花瓶に挿せないほどの量の花が壁に凭せ掛けてあった。

いや、きっと彼女もわかっていたのではないだろうか。

赤いリボンのかかったあの花瓶に花を挿せるのは、一人だけなのだと。



わたしが事務所に電話をかけたとき、それに出たのは凛ちゃんだった。

「Pさんが、車に撥ねられたの」

凛ちゃんは、最初は信じなかった。

どっきりだよね。

ちひろさんも、性格悪いね。

それでも、後ろのあわただしい空気を感じ取って、彼女は涙をこらえ、気丈に何をすべきかを悟った。

わたしは、仙台で起こった全てのことを、凛ちゃんに話した。


彼女が流した涙は、ただの一度きりだった。ただ、その一度きりは、とても長かった。

二週間だ。仙台に行ってから、ちょうど二週間。

ずっと、意識が戻らない。

アイドル達が何度呼びかけても、

揺すっても、

あなたは何も動かなかった。

Pさんのどれだけ近くにいても、Pさんが、たまらなく遠かった。

「どうしてあなたは……いつも誰かを、傷付けてばかりなんですか」



「事務所には、たくさんの女の子がいるのに、」



「たまには、あなた自身の心の底から、一緒に幸せになってあげてくださいよ……」

P「……そうですねえ」

P「でも多分、これから変わるような気がしますよ」

――変わる。

そう、きっと変わるのだろう。

卯月ちゃんの言ったとおり、きっと、変わらずにはいられないだろうから。

「……」


「…………あれ?」

ベッドの上のPさんが、わたしを、見ている。


「な、なんで起きてるんですか」

P「……いえ、普通に、目が覚めたんです」

P「なんか、ずっと眠ってたみたいですね、俺。どのくらい寝てました?」

「二週間ですよ。まるまる二週間……」

P「なんだか、凄く長い夢を見てた気がします。実際、俺には長すぎました」


「あの。多分目が覚めたらきっとお医者さんを呼ばなきゃダメなんですけど……ほんの少しだけ、こうやっておしゃべりしていても、良いですか」

Pさんの一番乗りに出会えたことが嬉しくて、わたしはついそんなわがままを零す。

P「……いいですよ。俺も、周りが騒がしくなる前に、知っておきたいことがあるんです」

「まゆちゃんのことですか」

P「……ええ、そうです」

「彼女は、アイドルを辞めました。今はもう、普通の女の子です」

P「そうですか」

P「知りたいことって、これだけなんですよね、俺。夢の中でも、まゆのことで頭がいっぱいで。でも、なんだかとても幸せでした」

Pさんはそう言って笑う。

「あなたも」

その笑みを打ち消して、私は呟いた。

「あなたも一度、プロデューサーをやめたほうがいいのかもしれません」

「いえ、辞めるべきなんです」

「まゆちゃんがアイドルであることを辞めたように、あなたも」

P「……ちひろさん、何かを知りましたね」


「ええ、全てを」

P「人を死に追いやったことも、ですか」

「……はい」

「でも、あなたがプロデューサーであることをやめても、あなたがあなた自身になったとしても、きっとみんなは、あなたを愛してくれます。だって、みんなこんなにもあなたのことを大切に思ってくれている」

それは、Pさんの周りを見ればすぐにわかることだ。

P「……俺は、やめましたよ。アイドルから全てを奪おうとしていた自分を」

P「まゆのライブを見て、思ったんです。どれだけ偽物をかき集めたって、足りないんだって。多いとは言えないけれど、温かなファンの中で輝いてるまゆの姿は、それを教えてくれました」

P「俺は、アイドルのように愛されたかった。心地の良いものを見せれば、きっと愛してくれると思いました。それ以外のやり方を、誰も教えてくれませんでしたから。奪うしかなかった。でもようやく、自分が願っていたものを、手に入れられた気がします」

P「……俺は、俺から離れていくものに興味がなかった。今そこにいる人からねだるほうが、きっと効率的だと思っていたんです」

P「でも、あのまゆを見て、そして走り去るまゆを見て、俺、その背中に、言ったんです」



P「逃げないでくれ、って」



P「ほしいものに手を伸ばすってことが、初めてできた気がするんです」

自嘲気味に笑ったPさんは、手元のナースコールを手に取った。

P「このボタンを押したとき、俺の人生はきっと、変わるんでしょうね。そう、信じたい」

誰にでも押せる、そのボタン。

Pさんはとても大切そうに、それを押し込んだ。


当たり前のように続く静寂が、数秒。

やがて足音がそれを切り裂き。

勢いよく、ドアを開けた。



その扉の向こうにいた、少女に。

看護師さんに追いかけられて息を切らせた女の子に。


運命の赤いリボンを信じる女の子に。


何の変哲もない、ただの女の子に。


彼は、初めての一言を囁く。



P「佐久間まゆさん。アイドルに興味はないですか?」





以上で完結となります
1月30日中に終わると言っておきながら、終わらなくてすみません。

遅くまでお付き合いくださり読んでくださった方、ありがとうございました。
レスをいただくたび、昇天しそうなくらい嬉しかったです。
皆さま、本当にありがとうございました。

まゆ母に関しましては、あまり病室の中で話させたくない話題でしたので、割愛させていただきました。
申し訳ございません。
ただ、それ相応の罰を受けた、ということで納得していただければ嬉しいです。

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