どうにも、比企谷八幡は彼女のお願いに弱い (56)
俺ガイルSS
地の文あり
思いつき短編です
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強い風が窓をかたかたと揺らしていた。
特別棟最上階に位置するこの部室には、海岸沿いにずらりと並ぶ防風林も意味をなさないらしく、時折がたぴしと潮を含んだ風が窓に打ち付けられる。
普段はさして気にもしない。けれど、ひと際風の強い今日のような日であれば別だ。
本を読んでいても、窓が音を鳴らすたびに現実に引き戻される感がある。
そうなると、ここで集中して読書をするのは少し難しい。
それは俺以外のふたりも同様で、さながら台風のような強風が吹き付けると、由比ヶ浜はたまらず窓の方を見つめた。
「……今日の風すごいねぇ」
「そうね。確かに気になるわ」
窓に顔を向けた由比ヶ浜につられて、雪ノ下も顔を上げてちらっと窓を見た。
窓が揺れる音と、どこからか吹き込むひゅーひゅーという隙間風のみが部屋に響く。
もはや読書を諦めた俺は読みかけの本に栞を挟むと、すっかり湯気の消えた紅茶を片付けにかかる。時間もいい頃合い。そろそろ本日の活動も終わりを迎えるだろう。
雪ノ下は楚々とした所作でカップを傾け、ほうと息をついた。
「今日はここまでにしましょうか」
「そだね。誰も来ないっぽいし」
「だな。何よりここにいても落ち着かない」
「あはは、言えてる」
そう言って、仕方ないとばかりに由比ヶ浜は苦笑する。
しかしこれだけ風が強いと帰るのも一苦労だろうな。チャリ煽られまくるから怖いんだよなー。
そういう意味では電車やバスのほうが安全そう。と、そこまで考えてふと思いついた。
「そういや雪ノ下、電車大丈夫か?」
「え?」
「こんだけ風強いと京葉線止まってる可能性もあるだろ」
雪ノ下はふむ、と一瞬考え込むとすぐに携帯を取り出し何やら文字を打ち込み始める。
おそらく運行情報を調べるのだろう。俺はといえばその辺を心配する必要はないし、バス通学の由比ヶ浜もそうだろう。
雪ノ下は画面をスクロールすると、小さく息を吐いて携帯をポケットにしまった。
「どうだ?」
「ダメね。あなたの予想通り」
「あー京葉線風に弱いからね……」
「それはちょっと違うぞ由比ヶ浜」
「え、なにが? だって京葉線よく風で止まってるじゃん」
京葉線はよく止まるし、遅延もする。その上、ただでさえ運行本数が少ないのに間引き運転したりするからタチが悪かったりするし、会社に急ぐ社畜たちの心臓にもすこぶる悪い。だが、それはひとえに京葉線が悪いというわけでもないのだ。
「いいか由比ヶ浜。京葉線が風に弱いんじゃない。千葉の海岸線の風が強すぎるのが一番の原因なんだ」
「なんでドヤ顔だし……」
「あなたが誇るべきことではないことは確かね」
「ばっかお前、千葉県民何年やってんだよ。それくらい理解示してやるのが常識だろホントいい加減にしとけ」
「なんか真面目に怒られた!?」
ちなみに京葉線と並んでよく遅延する武蔵野線というのもある。『武蔵野線が止まればそば屋が儲かる』ということわざはあまりにも有名。これ豆な。そんなことを口にすると余計に呆れられそうだから言わないけどね!
「まぁそれはいいとして、この風じゃしばらく電車動かないだろ」
「うーん、だね。どんどん強くなってるし」
「……そうね。駅まで行けばバスが出ているから、帰れなくもないと思うけれど」
たしかに稲毛海岸から海浜幕張まではバスが出ている。それに、2駅しか離れていないから頑張れば歩いて帰ることも可能だ。ただなぁ……。
「お前さ、この強風で歩いていけんの?」
「馬鹿にしないでもらえる? いくら風が強いといっても歩けないほどではないでしょう」
雪ノ下はむっと顔をしかめて言った。
いやでも体力的な心配はもちろんのこと、ほらあるじゃないですか女子特有のアレが。ぴらぴらしちゃわないかなーって思うんだけど。本当に大丈夫かしらん?
急に何かに気付いたように、由比ヶ浜があっ、と声を上げた。
「駅まで行っても振り替え輸送とかしてるだろうから……乗るのに時間かかるかも。あたしの時は結構待ったよ?」
「それは……そうでしょうね」
それに混んでるし、と由比ヶ浜は言い添える。朝の通勤時間帯ではないからマシにしろ、今だって帰宅時間と重なる。混雑は充分予想できた。
雪ノ下は顎に手を当て、しばし黙考する。やがて何かを決意したのか、こちらに向き直った。
「とりあえず今日は解散にします。あなたたちは先に帰って大丈夫よ」
「ゆきのんはどうするの?」
「私はもう少しここで待つわ。電車が動くのならそれで帰るし、動かないのならタクシーでも呼ぶから」
「えーでも心配だよ。あたしもやっぱり残ろうかな?」
「心配無用よ。それに、ご家族だってあなたの帰りが遅くて心配するでしょう。だから……私は大丈夫」
そう言って、窓の外の冬枯れを見つめる。
雪ノ下にだって家族はいる。けれど、待つ人間はいない。
俺たちの年代でひとり暮らしをしている人間がどれほどいるだろう。その苦労も、抱えた何かも、なにひとつ推し量ることが出来ずにいた。
何かを察したのか、雪ノ下はこちらを見てふるふると首を振って苦笑を浮かべる。
「家に帰れないことはないでしょうし、本当に気にしないで。また明日会いましょう」
「……ま、そうだな。それに、もしかしたら平塚先生に言えば車で送っていってもらえるかもしれないしな」
「そうね。最悪の場合お願いしようかしら?」
「そうしろ。喜んで乗せてくれるぞ」
言外にわかってやれと滲ませると、由比ヶ浜も不承不承といったように頷く。
「むむむ、なんかいまいち納得できないけど……わかった」
湯呑とマグカップを片付けて、帰りの準備を手早く済ませると鞄を背負う。
いつもなら3人そろって部屋を出るのだが、今日は少し違った。
「じゃあまた明日な」
「ゆきのんごめんね。バイバイ」
「ええ。また明日」
由比ヶ浜は名残惜しむように手を振り終えると、扉をかたりと閉めた。中に人を残して帰るのに僅かな違和感を抱えたまま、底冷えするような寒さの廊下を歩く。
昇降口まで歩いたところで、由比ヶ浜がぴたりと脚を止めた。
「ねぇヒッキー?」
「どうした?」
「ゆきのん、大丈夫かな?」
「大丈夫だろ。そんなに心配するもんでもない」
台風が来てるとか、自然災害で完全に電車がストップしているわけでもない。
時間が自然と解決してくれるし、バッファ的なバスやタクシーなどの別の交通手段も存在している。
「でも……心配だなぁ」
由比ヶ浜は今歩いてきた薄暗い廊下を振りかえって呟いた。
「さっきもあいつ言ってたけど、最悪の場合タクシーでもなんでも使って帰れるだろ?」
「ううん、そうじゃなくて」
「あん?」
「ゆきのん、すごく寂しそうな顔してたから」
「……ああ」
そういうことかと合点がいった。
「うん。それにさ、ゆきのんの性格的に誰かに頼ったり出来なそうじゃない? だから無理してなかったかな、って」
雪ノ下は変わった。だが、不器用に抱え込むところは変わっていない。
考えてみれば、先生に対して帰りの交通手段がないから車に乗せてください、なんて言うとは想像しがたい。提案されても固辞して自力で帰ろうとする姿が目に浮かんでくる。
「けど、じゃあどうするかって言われてもな」
「それなんだけど、あたしに良いアイデアがあるの」
「えー……マジで?」
「むー。なにそのロクでもなさそうみたいな顔」
じとーっと半眼で睨めつけられる。実際由比ヶ浜の発案はロクでもなさそうだから仕方ない。
「で?なに。一応聞いといてやろう」
「なんで上から目線だし。ちょっとこっち来て」
「いや、別に他に人いないんだから気にせんでも」
「いいから!」
渋々身体を寄せると、ちょいちょいと身振り手振りで何かを指示された。どうやらもう少し頭の位置を下げろということらしい。軽く膝を曲げると、由比ヶ浜は耳元にずいっと顔を寄せる。いや近い!くすぐったい!良い匂い!ええい煩悩退散!
その位置のまま、由比ヶ浜はぽそりと耳元へ呟くとすいっと俺から離れた。
「……マジで?」
「うんうん。どうかな?」
「どうかな?っていうか……雪ノ下が了承するかわかんねーぞ」
「その時はその時だよ」
手を後ろに組んで由比ヶ浜はくるりと回った。昇降口の外の景色を見ながら由比ヶ浜は呟く。
「……お願い、できないかな?」
ともすれば強風にかき消されてしまいそうな声音だった。たまらず頭を掻く。
こうやってされたお願いを無碍に出来ないのを、こいつは知っているのだろうか?
「わかった。とりあえず提案はする。その先はわからん」
「……うん。それでこそヒッキーだ」
俺の言葉を受けて、背を向けていた彼女がくるりと回った。
「ありがと」
振り返った由比ヶ浜は、寂しげに微笑んだ。
薄暗い、今歩いてきたばかりの廊下を再び歩く。
完全下校時刻も近いためか、特別棟には教室から漏れる光も、音も、人の気配もない。
その中から一筋の光を見出して近づいていく。中からはまだ人の気配がした。
からりと扉を開けると、中にいた人物はきょとんとした表情を浮かべる。
「比企谷くん?」
「おう」
「どうしたの。忘れ物?」
ある意味そうかもしれない。そんな馬鹿なことを考えて、すぐ頭の隅に追いやった。
「いや。電車動きそうか?」
「まだ時間はかかりそうだけれど」
「そうか。じゃあ帰り支度してくれ」
「……どういうこと?」
抗議の声を上げられる前に言うべきことを言ってしまおう。あとは雪ノ下の返答次第だ。
「送ってく」
「はい?」
「家まで送っていってやるよ」
「……はい?」
× × ×
書き溜めたらまた投下します
打ち付ける風の強さは変わらない。いや、外に出た分室内にいた時よりも強くなったとさえ感じる。窓をがたと鳴らし、駐輪場のトタン屋根をみしりみしりと痛めつける。
鍵を取り出して馬蹄錠を解除して顔を上げる。すると、雪ノ下が落ち着きなくきょろきょろと周りを見渡しているのが目に入った。
「なんか面白いものでもあったか?」
自転車通学でない彼女にとってはここは物珍しいのかもしれない。雪ノ下は、はたと動きをとめるとじっとこちらを見据えた。
「そうではないけれど……比企谷くん」
「あん?」
「その、本当にいいの?」
「ここまで来てそれ言うか? いいっての別に」
もとより雪ノ下と俺の最寄駅は同じだ。であれば、帰る方向も必然的に同じになる。だから送って行くことに特に問題はなかった。それよりもだ。
「俺だって意外だったんだぞ」
「なにが?」
きょとんと小首を傾げる。
「いや、お前のことだから色々理由つけて断ってくるんじゃないかって思って」
「ああそういうこと。そうね……」
もっと抵抗を見せると予想していたが、思いのほかすんなりと雪ノ下は送られることを了承した。俺はそれを意外に感じている。
まあ素直なのは良いことだ。素直に好意に甘んじる。人間それが意外と難しかったりする。
俺はといえば甘んじまくった挙句に一生働かないまである。やだそれただのヒモじゃない?
「いつ帰れるか不安だった、というのもあるわ。ただ……」
言いかけて、こちらを見て微笑みを浮かべる。
「なんだよ……」
「いえ。人の好意を無碍にするわけにはいかないでしょう? だから、よろしくね」
「はいよ。ほれ鞄よこせ」
「ええ」
雪ノ下から鞄を受け取り、自分のものと並べてカゴに押し込んだ。うーんしかしアレだな、窮屈だな。段差とか乗り越えると振動で落っこちちゃいそう。まあのんびり行けばいいか。自己完結万歳。
「んじゃ一旦外行くか」
教師に2人乗りを見咎められると面倒だ。
その意を汲んでくれたのか雪ノ下はこくりと頷くと、首に緩めに巻いたマフラーをきゅっと締め直した。
通用門を目指し歩く。校舎はしんと静まりかえり、からからと車輪が回る音と風の音以外は何も聞こえてこない。
門を出て数メートルであたりを見回す。周りには学校関係者もいない。この辺で良いだろう。
「よし乗っていいぞ」
言うと、ぴくりと肩が動いた。そのまま自転車の後方、荷台をじっと見つめる。
「え、なに。どした?」
「……いえ。なんでもないわ」
マフラーを通しているのでくぐもって聞こえるものの、声には張りがない。
ちらりと顔を覗きこむと、ふいっと逸らす。ああ、この反応には見覚えがある。
「お前あれか。2人乗り初めてか」
「そうだけれど。何か問題でも?」
「そういうわけじゃないが」
こういうの無縁そうだもんなぁ……。こいつが誰かと2人乗りしてるなんてまったく想像つかないわ。俺だって人のこと言えないんだけどな。
雪ノ下は変わらず顔を背けて荷台を見つめていたが、やがてぽそりと呟いた。
「……乗り方」
「え?」
「これは、その……どう乗れば良いの?」
「あー特に決まってはないけど。ここ跨ぐか、そのまま横向きに座るかどっちかじゃないの? 多分」
「そう。ではこれで」
雪ノ下はちょこんと、荷台に横向きに腰掛ける。変にかしこまって座るその姿は、さながら借りてきた猫のようだ。そんな姿に思わず苦笑が漏れた。
「……なにか?」
「いや。んじゃ行きますか」
「ええ。お願い」
ゆっくりと走りだす。
ひとまず人通りも少なく、かつ警察官が張ってなさそうな道をチョイスして走り抜けていく。大通りでなく、遮蔽物の多い住宅密集地であれば吹き抜ける風もそこまで強くはなく走り易い。
走り始めて少し。目の前の信号が赤になり、足を止めた。
「……比企谷くん」
「どうした?」
「こんなに痛いものなの?」
「は?何が?」
首だけを後ろに巡らせると目が合った。
雪ノ下は少し言いづらそうに顔を背けると、ぽそりと呟く。
「……お尻」
「……あー」
ぱっと信号が青に変わった。それ以上後ろを振り向くことなく走りだす。
「まあ仕方ないんじゃねーの。つーか俺だって後ろ乗ったことないからわからん」
「あなた、2人乗りする友達がいないものね」
「お前に言われたくないっつーの。それに、俺には小町がいればいいんだ」
「ふふっ、相変らずね」
その後も雪ノ下は収まりのよい場所をなんとか見つけようと奮闘していたが、やがて諦めたようで大人しくなった。
自転車が段差を越えるたびに、車体が細かく跳ねる。もちろん、極力減速はするのだがそれにだって限界はある。
「大丈夫か?」
「今のところ大丈夫。だから、気にしないで」
「そうか。なんかあれば言ってくれ」
その後も適当な会話をしつつ時折後ろを気にしながら走っていると、再び段差で自転車が跳ねた。
同時に、ついっと体が引っ張られる感覚。
その元を見やれば、いつぞやの猫の手ミトンがコートの右脇をちょこんと摘まんでいる。
「……揺れて危ないから」
「……そうだな」
これくらいなら何も言うまい。それが彼女の安心に繋がるのならば、されるがままになっておこう。
× × ×
短いですがここまでで。明日も投下します
住宅街を抜けて、花見川沿いの堤防が見えてきた。
ここまで来ればあと半分。川沿いを北上して左に折れれば海浜幕張方面だ。
うしっ、と気合を入れ直す。この先は河沿い。イコール遮蔽物も少なく、風の影響をもろに受ける。
加えて冬の北風の中を北上するのだ。
向かい風の中を自転車で走る辛さは異常。なんなのマジで。漕いでも漕いでも進まない辛さは筆舌につくしがたい。
ぐっぐっと一踏み一踏み力を込めていく。そうしていると、コートの右脇を握る小さな手の力が若干強くなった気がした。どうやら雪ノ下なりの何かのアピールらしい。
「なんだ?」
「比企谷くんはいつもこの道を通るの?」
「大体な」
「そう。……きっと、綺麗なんでしょうね」
「え?」
「桜。これ全部そうでしょう?」
「ああ」
そういうことね。ちらりと目線を上げると、頭上に生い茂る裸の枝が目に入る。
「まあそうだな。春になるとそれなりに綺麗なんじゃないの?」
「なぜ他人事のように言うのかしら?」
「花が綺麗とかそんなガラじゃないだろ。俺の場合」
くすり、と笑む声が聞こえた。
名の通り、花見川は春になると桜が咲き誇るわけだが、残念なことに今の木々をみてもそんな面影はまったくない。それどころか、暗闇にぼんやりと浮かぶそれらはどこか寒々しさすら感じる。
けれど、雪ノ下の目に映るのは、きっと今のこの冬枯れだけではないのだろう。
少し先に待つ満開の桜の木々を想っている。そんな気がした。
やがて桜並木を抜けると、吹きっ晒しの堤防に出る。特に会話もなくただ景色が流れていく。
聞こえるのは回り続けるチェーンの駆動音。耳元を通り抜ける風に、草木を揺らす音。それに、ふたり分の浅い呼吸音。
またコートがくいくいっと引っ張られる感覚があった。それ呼び鈴じゃないんだけどな……。
顔を後ろに向けてなに?という意思を伝えると、一呼吸おいて雪ノ下は話し出す。
「私を送る、というのはあなた自身が言い出したことなの?」
反芻し、噛み砕き、意味を理解する。これに関して嘘を言う理由も必要もない。
「いや由比ヶ浜に頼まれた」
「そう。彼女に」
問いかけの意味はわかる。それでも、それを気にする理由はわからなかった。
「由比ヶ浜さんには感謝しないといけないわね」
「ま、それもそうだな。あいつに言われなかったら普通に帰ってたし」
「それに、……謝らないと」
「謝る?」
何を?と疑問を覚えた瞬間、草木がざわめく。
遮るもののない道に、どこから吹いているのか方角がわからないほどの強い風が吹き付けた。
あまりの突風にふらついてしまい、たまらずブレーキを掛けて停車する。
「っと、危ねえ。雪ノ下大丈夫か?」
今のはヤバかった。ハンドル取られるレベルとかマジで台風に近いんじゃないの?
後ろの雪ノ下は大丈夫だろうか? そう思って左後ろを振り向くと、ぐにっと柔らかいものが頬に当たり、首の動きを妨げられる。
「……今は後ろを見ないで」
「……おお。わかった、けど」
それが猫の手ミトンで、ひいては雪ノ下が慌てて首の動きを制したのだとわかるのに時間はかからなかった。すいっと俺が前を向くと、後ろからは小さく衣擦れのような音が聞こえてくる。
「……あのー、なにしてんの?」
「……言わないとダメ?」
「いや、まあ別に、ねぇ」
不意に触れられた頬がやたらと熱い。まるで冷めない熱を持ったようだ。
変にドギマギしてしまって、そのせいでへどもどした声しか発することが出来ない。
たっぷりとした間があった。すると再び、くいっとコートが引っ張られる感覚。
いや、だからそれ鞭とかリードの類じゃないからね?
馬車馬よろしく、それを合図に足に力を込めると、雪ノ下がもごもごと言いづらそうに話し出す。
「ごめんなさい待ってもらって」
「謝らんでもいいけど。もう平気か?」
「ええ。……さっきの風で、その、スカートが……」
「そ、そうか」
かぜがすごかったからね、しょうがないね(棒読み)。多分座っててもふわっとしちゃったんだろう。ふわっと。何がとは言わないけど。いや雪ノ下言っちゃってるし。
「あー……なんつーか悪い」
「いえ。それこそ気にしないで」
「そうかよ」
「ええ。そうよ」
まあ確かにどちらが悪いとかそういう話でもない。これ以上気にするのは野暮というものだろう。
それでも気恥かしさは拭えない。
だからそれを誤魔化すように、先ほどよりも足に力を込めて漕ぎ進めた。
× × ×
今日はここまでで
堤防を降りて京葉線沿いに道を辿っていけば、目的地である海浜幕張駅が見えてくる。
時間帯はちょうど部活を終えた学生やサラリーマンの帰宅時間に当たるためか、それなりにすれ違う人が多い。駅前の商業施設のネオンが夜闇を煌々と照らし、昼とは違った顔を見せ始めていた。
「とりあえず駅前広場まででいいか?」
広場はすぐそこだ。
到着を目前に控えたタイミングで、前を向いたまま雪ノ下に尋ねる。
「それで構わないわ。それと比企谷くん?」
「ん?」
「この先人通りも増えるし、そろそろ……いいかしら?」
「んじゃ、そこの信号で降りるか」
信号がちょうど赤に変わった。そのタイミングで雪ノ下には降りてもらい、あとは徒歩で向かえば良い。
「ほれ。じゃあここで」
「ありがとう。鞄も受け取るわ」
「はいよ」
雪ノ下は慣れない姿勢に緊張していたのか、鞄を肩に掛けると腕を前に伸ばして小さく伸びをした。風でやや乱れた髪が気になったのか、手櫛でくしくしと梳る。
降車した雪ノ下に倣って、一応俺も自転車を降りる。そのまま何を言うでもなく横に並んで、青信号になるのを待ってから駅方面へ向かった。
高架沿いを歩いていると、左を歩く雪ノ下がなにやらごそごそと鞄を探り出す。やがて取りだしたそれを開くと、すいっとこちらに向けた。
「あなたの髪、すごいことになってるけれど」
確認したら?と目で問うてくる。つーか猫の手タイプの手鏡っすか雪ノ下さん。自分の髪云々よりそっちの方が気になっちゃうレベル。ゆきのんってばマジ猫大好きフリスキー。まあ一応心配?されてるようだし?。一応ね一応。
「おお……これは」
それなりに整った顔。どんよりとした目。だが、それ以上に目立つのは髪だ。
風の中を突っ切ってきたせいか、異様に前髪が掻き上げられていた。なんていうか……べジータだな。は、ハゲてないし!M字じゃないもん!
「櫛使う?」
「あー、いや大丈夫。どっちにしろまた自転車乗ればこうなるし」
「それもそうね。……でもすごいわ」
言って、興味津々といった具合に目を輝かせると、すーっとこちらに向けて手を伸ばしてきた。えっなにするの怖い。
両手がハンドルで塞がっていたため体をのけ反らせるくらいのささやかな抵抗しかできず、やがて雪ノ下のミトンが俺の髪をもふもふと撫でつけはじめる。
「……別に気にすんなよ」
「いいから。……はい出来た」
「まあ、アレだ。サンキュな」
これくらいなんでもない、と言うように首を振ると、雪ノ下は薄く微笑んだ。やだ……なにこれすごく恥ずかしい。紅くなった顔を見られぬよう、マフラーに深く顔を埋めて誤魔化すことにした。
少し歩けばバスロータリーが見えてくる。その前には商業施設が立ち並び、看板の白い光と街灯の柔らかい光がコントラストになって、駅前を優しく照らしだしていた。
「電車、動いたみたいね」
「みたいだな」
高架からは電車が走り去っていく音が聞こえてくる。
駅から続々と吐き出されていく人々を見てぽつりと呟くと、雪ノ下はそこで足を止めた。
俺も一旦立ち止まると、押していた自転車に再び跨る。
「じゃあここで」
ここまで来れば大丈夫だろう。そう思って、別れを告げようと隣の雪ノ下を見やる。
「少しだけここで待っててくれる?」
「なに? なんか用事?」
「用事ではないけれど。ちょっとね」
わからんやっちゃな。珍しく言葉を濁してくるりと回ると、駅併設のよくあるタイプのコンビニに入っていった。はぁと息を両手に吐いたり、擦り合わせて暖を取っていると、間も無くして雪ノ下がこちらに向かって来るのが見えた。
「どうした?」
「良かったら。はい、これ」
「おっ、くれんの? サンキュー」
差し出されたミニペットボトルのカフェオレを受けとって手の平でこねこねすると、じんわりとした暖かさが手の平に広がっていく。ありがてえありがてえ。
「安いタクシー代で申し訳ないけれど」
「ふっ、気遣いは見返りを求めないもんだ。それ考えたら十分な報酬じゃないの」
「あなたには似合わないセリフね、それ」
くすりと、雪ノ下は微笑む。最近よく見せるようになった柔らかい表情だった。
「ほっとけ。そもそもお前が言ったんだろ?」
「そうだったかしら?」
「そうだっつーの」
かと思えば今度はくすりと挑発的な笑みを浮かべる。その顔はどこかあの人に似ていて、やはり姉妹なんだなと思わせるには充分すぎるものだった。
雪ノ下は変わった。それ自体は前から言われてはいたが、あらためてそう感じる。
かつての雪ノ下と、今の雪ノ下。両者は同じ人間でも、やはり違うように思えた。
それに優劣をつけることはない。ただ、こうして色々な姿を見せてくれるようになったことは、少しだけ嬉しかった。
「……それじゃ寒いし帰るわ。もう大丈夫だろ?」
「ええ。送ってくれてありがとう」
「いいって別に。じゃあ」
また明日な、と言い添えようと顔を向けた。しかしそれは見事に機先を制されてしまった。
他でもない、言葉通り彼女の手によって。
「比企谷くん、また明日」
雪ノ下は小さく笑んで、胸の前で手を振る。そこに以前のようなぎこちなさは感じられない。これもまた変化。それも成長という名の変化だ。
「ああ。また明日」
こくりと頷いて、雪ノ下はゆっくりと歩き去っていく。
少しづつ距離が開いても、雑踏の中にまぎれてしまっても、彼女の後姿はよく目立った。
やがて完全に見えなくなってから、貰ったカフェオレのことを思い出してようやくひとくちつける。
「……甘いな」
受け取ったばかりの報酬のカフェオレは、寒空の下でもじんわりと暖かい。
控えめな甘さが少し疲れた体にちょうど良くて、思わずふーっと息が漏れた。
上を仰ぐ。
そうして自然と、吐息の行く末を見つめる。
白い霞はゆらゆらと立ち昇り、薄墨を垂れ流したような冬空に吸い込まれるように消えていった。
<了>
山なしオチなしで申し訳ないですが、こういうのが好きなもので
読んでいただいてありがとうございました
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