千早「ねぇ、春香」 (28)


私の呼びかけに

彼女は読んでいた本から顔を上げると

どうかしたの? と、静かに訊ねてきた

目の前で読書に集中されていることが

少し……心を揺らしたのよ

なんてことを言うような度胸は私にはなく

逡巡した後

下手な演技のようなぎこちない笑みを浮かべてしまった

彼女はそういうところには敏感で

栞を本に挟むと完全に閉じて私のことを見つめる

疑っているわけではない

でも、少しだけ不安そうな瞳だった

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なにかあった?

二人だけの静かな事務所では

春香のその女の子らしい声は少し大きく響く

何もないのが正直な話

どうかしてはいるけれど

何かがあったわけではない

でも春香とは仕事でも事務所でも、プライベートでも

仕事が増えるにつれて会う機会が減ってしまっていて

当然、暇がなくて電話すらあまりできない状態

だからこそ……春香は不安になる

どこかで私が大変な目に遭っているのかもしれない

……なんて


そう考えて、思わず笑ってしまった

もちろん馬鹿にしたつもりはない

でも春香は少し膨れて

もぅっ!と小さく唸る

その仕草は17歳というには子供らしくて

とても、可愛らしくて

笑いを止めるどころか

それをさらに加速させてしまう

「ちーはーやーちゃん!」

それが気に入らなかったのかもしれない

春香はそんな風に言いながら

唯一私たちを隔てていた机の横を回って私の隣へと座り込み

ちょっとだけ睨んでくる


黙って見つめ合うだけの時間

思えば、暇だった頃の私達は

こんな時間は数えられるくらいにしかなくて

数えられるほど記憶に残るようなものではなかった

――のに

今こうしている時間は

例え一瞬であったとしても

忘れることはできそうにない

「っ…………」

だって

すごく痛い。すごく苦しい。すごく……辛い


いつからこう思うようになったのか

それに答えるとするならきっと

春香が私の心に空いた大きな穴を埋めてくれた時

私は間違いなくそう言うだろう

「千早ちゃん?」

春香は僅かばかりの怒りを振り払って

心配そうに私を見つめる

でも、それが余計に私を痛めつけていた

不安そうな顔は見たくない

心配そうな顔は見たくない

悲しそうな顔は見たくない

その一心で私はいつもと変わらない笑みを浮かべた


「大丈夫よ、春香」

「でも……」

「大丈夫だから」

春香の伸ばした手から逃れるように

ソファの上から立ち退く

本当は春香のそばにいたい

春香のことを抱きしめたい

でも

そうしてしまうと元には戻れなくなる気がして

それがたまらなく怖くて

私はそこから先へと進むことができなかった


時間を刻む時計の音が

私達に沈黙という冷却期間を与えない

「なんか……ごめんね」

そして……なぜか春香が謝った

申し訳なさそうに笑いながら

ありもしない罪を錯覚し、背負い込む

「久しぶりだったけど……上手く話を見つけられなくて」

私は黙って春香を見つめる

一転して悲しそうに、申し訳なさそうな春香の姿

それを引き起こしたのが私であるという罪悪感が私の体を縛り上げて

それが余計に私の心を押しとどめる


春香の言葉を否定したかった

私が悪い。そう叫びたかった

そしてなによりも

私は貴女がいないとダメだと……伝えたかった

会えない寂しさが、切なさが

どうしようもなく心身を蝕んでいくのだと

正直に話したかった

なのに

溢れていくのは空気ばかりで

言葉になれないそれは春香に届かずに消えていく

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