千早「私らしい私で」 (49)

如月千早は毎朝早く起きる。それは仕事のためというよりは彼女の持ち前の真面目さとストイックさによるところが大きい。
時間を無駄にしたくない……その思いの強さが十分な睡眠時間を削り、その結果「遊び」のない心と体が形成されていったのである。
しかし、物理的に取り返しがつかないものはあるが、精神的に取り返しのつかないことなどそうそうないものだ。
一人の少女との出会いが、彼女の「普通の女の子」らしさを少なからず取り戻させた。彼女の持っていないものをすべて持っているようにさえ見えたその少女は、力ずくともいえる手法で彼女の閉ざされていた「歌」以外のものに対する興味をこじ開け、外の世界へと放り出したのである。
菓子作り、料理、カラオケ……如月千早が少女に教わったものの一部だ。その新鮮な経験を糧に、彼女は大きな変貌を遂げた。
歌さえあればいいという素っ気ない態度は身を潜め、歌のためには何事も無駄にならないという楽観的な考えとともに、旺盛な好奇心を持つようになったのだ。
とはいえ、彼女が活発になったのはある種の必然と言えるものだった。なぜなら、大切な時間はできる限り歌に費やしたい――そんな偏執的にすら見えた千早の思いは、溢れんばかりのバイタリティを内包していたからである。
その封じ込められていたバイタリティが解放されたことで、彼女はこれからもさらに変化していくことだろう。


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千早「今日もいい朝ね……」

如月千早はいつも通り目を覚ました。かつての彼女なら軽いストレッチをして朝食にウ○ダーを飲み、筋トレ、といくところだが、現在の彼女は違う。

千早「朝食を作らないと。サアイッパイタベヨオッヨ♪」

起き抜けで調子が悪いのか、どこか彼女らしくない声で歌いつつも、キッチンへ向かう。どうやらオムレツを作るようだ。

千早「高槻さんの作るオムレツ、すごくおいしそうだったわね。まあ高槻さんの方がきっとおいしいだろうけど……はっ、そうだ、録画したお料理さしすせそを見ながらじゃないと作れないじゃない!」

高槻やよいの妄想にしばし浸った後に毎週録画している料理番組を再生する。そこには、いつも元気で料理上手な小さな少女がいた。

やよい「高槻やよいの、お料理さしすせそ!」

ブタ「やよいちゃん、今日もよろしくね。」

やよい「うっうー!がんばりまーす!今日は豚さんが大好きな卵を使った料理を紹介しますね!」

ブタ「わあ、楽しみだなぁ」

この番組、高槻やよいが料理を作る……というだけの番組なのだが、彼女の料理の腕の素晴らしさもさることながら、一部マニアの間で幼い少女に豚と呼ばれた気分になるとしてカルト的人気を得ている。

やよい「今日の料理は……じゃーん!やよいのふわふわオムレツでーす!」

ブタ「オムレツ!」

やよい「はい!材料はですね……豚さん、お願いします!」

ブタ「うん。えーっと、卵が大4個、ハムが2枚、チーズが2枚……」

千早「ふふふ……ああっ!高槻さんに見とれていたわ。材料は……」

リモコンの一時停止を押し、フリップに書かれた材料を冷蔵庫から探す。

千早「そういえばチーズを買い忘れていたわ…でも他はありそうね。これで高槻さんと同じオムレツを……?」

ふと、キッチンに卵が4個並んだ様子に違和感を覚えた。

千早「卵が4個……食べきれるかしら?」

千早「……材料は半分にしましょう。」

フリップに小さく4人前の材料だと書いてあったことに気づくのは、まだ先の話である。千早が再生ボタンを押すと、彼女の大好きな少女が再び動き出した。

やよい「お料理の前に、私が鶏さんからもらってきた卵のVTRがありまーす!」

ブタ「やよいちゃん、今回も農家さんに行ってきたんだね?」

やよい「はい!皆さん、とっても優しくしてくれました!それでは、準備はいいですか?うっうー!VTR、スタートです!」

千早「あぁ高槻さん、なんてかわいいのかしら。このVTRをスキップすることなんて……でもおなかが減っているし……くっ」

しばらく逡巡していたが、涙をのんで早送りを押した。千早にとって、大好きな高槻やよいの映像を早送りにするのは、見るのが何度目であろうとも辛いことだった。

千早「そうよ、録画してあるんだから、また見られるわ。」

千早は、自分に言い聞かせるように何度もつぶやいた。早送りが終わり、番組もいよいよ調理の実演である。

やよい「農家のおじさん、おばさん、ありがとうございました!この卵は大事に使わせてもらいます!」

ブタ「卵一つにもこんなに手間がかかっているんだね。」

やよい「はい!感謝して作らないと、ですね!」

ブタ「うん。じゃあやよいちゃん、そろそろ始めよう!」

やよい「よーし、いきますよー!まずは、卵を割って溶き卵を作ります!塩、こしょうの量には注意してください!」

千早「卵もまだ上手に割れないわ……ああ、殻が中に……」

彼女は料理に関しては全くの初心者である。自分で取り仕切った経験はなく、料理をするときはいつも天海春香のサポートに徹してきた。
それでもオムレツ作りに踏み切ったのは、天海春香と作った料理の味が忘れられなかったからだ。
そしてテレビで見た高槻やよいのオムレツ作りの手腕に感動し、いつか天海春香や高槻やよいに自分の鮮やかな技を披露したいという野望を持ったことも付け加えておくべきだろう。

やよい「準備ができたら、バターをフライパンに入れて、火にかけて溶かします!」

やよい「……あとはこうやって溶き卵をかき混ぜて、チーズも溶けてきたら、形を作って……」

千早「どういうことなの……」

テレビに映るやよいのオムレツはふっくらとした形で、中身もふわふわであることが容易に見て取れた。
調理は手早く終わり、簡単に見えたが、千早には、やよいの作る映像を何度見てもなぜそうなるのかが全く理解できなかった。

千早「えっ?フライパンに入れて、かき混ぜたら、……ええっ!?」

千早「くっ、やってみるしかないわね…バターを入れて……これくらいでいいのかしら。まずはハムを炒めるのね」

千早「よし、いよいよ卵を入れる時……」

千早が溶き卵を入れると、じゅわっ、と小気味良い音とともに卵とバターの香りが立ちのぼった。やよいの真似をしてすぐにかき混ぜる。

千早「ここまではいいペースだわ。このままうまく作れるといいんだけど…ひっくり返すのが怖いわね。でもうまく作れたら、春香や高槻さんにごちそうできるのね。ゆくゆくは高槻さんと料理も……だめよ、恥ずかしいわ。私は陰からこっそり見守っていられればそれでいいんだから。春香にホメられるのも悪くないわね。あの子結構ドジだから、いつか私が追い抜くなんてこともあるのかしら……ってあああああ!!」

千早が卵をかき混ぜながら考え事をしているうちに、卵はほとんど固まってしまい、フライパンの底が見え始めていた。

千早「やってしまったわ……これじゃあスクランブルエッグね。オムレツは残念だけど、これを朝食にしましょう」

落ち込みつつもスクランブルエッグを完成させ、トーストを焼く作業を始める。失敗はしてしまったが、暗い気持ちはなかった。

千早「以前の私なら、機嫌を損ねていたかもしれないわね。いや、そもそも料理をしなかったかしら。……そうだ、食べながら高槻さんのVTRを見ましょう」

千早はトーストと先ほどの玉子、そして忘れず牛乳を朝食に、高槻やよいが養鶏場を見学し、放し飼いの鶏や生みたての卵に驚く様子を心ゆくまで鑑賞した。

千早が日課のトレーニングを一通り終え、ふと時計を見ると、正午を回ったところだった。

千早「せっかくの休日だし、昼食は外で食べましょう。散歩がてら食べるのも悪くないわね」

散歩といっても、千早はあてもなく歩くつもりではない。彼女には休日になると足を運ぶ場所が何か所かあった。
その中でもお気に入りである、図書館の方向に目星をつけて出発することにした。
図書館の周りには、静かな空間を好む客をターゲットにした飲食店がいくつかあることを、彼女は知っていた。

図書館の方向を目指して歩いていると、近所の公園が見えた。陽の光がまぶしい公園、その中で元気いっぱいに遊ぶ小さな子供。
木陰の中で微笑みながらそれを見守っている夫婦。ベンチに腰かける幸せそうな恋人同士。
千早は立ち止まり、うらやましそうに、そして少しだけ悲しそうにその光景を眺めていた。

あずさ「あらあら、素敵な景色ね。私も運命の人と結ばれたくなるわ~。千早ちゃんも羨ましいのかしら?」

千早「いえ、そんなことありませんよ……ってあずささん!?なんでこんなところにいるんですか!?」

千早が振り向くと、同僚の三浦あずさが後ろに立っていた。成熟した体に二十歳とは思えないほどの母性をたたえた女性だ。
頬に手を当てて微笑する姿は、おっとりとした印象を与えると同時に、見る者を虜にする不思議な力を秘めていた。

あずさ「ちょっと道に迷っちゃって~」

千早「ええっ、それは大変ですね。どちらに行かれるんですか?」

あずさ「あっ、特に用事があるというわけではないのよ?お散歩して、どこかでご飯でも、と思って」

千早の心配を取り払うようにあずさは微笑んだ。

千早「それはよかったです。……その……」

あずさ「うふふ、心配かけちゃったかしら?」

千早は会話が得意ではなかった。
彼女は内向的であるのみならず、人が興味を持つ物事の大半を不必要だと切り捨ててきた。そのため、歌以外に話すことのできる話題を持たなかったのだ。
したがって以前の彼女なら、これ以上話を続けることもなく、同僚と親交を深める機会さえも切り捨て、あずさに道を教えて別れを告げていたかもしれない。

千早「その、あずささん……」

あずさ「あら、どうしたの千早ちゃん?」

しかし、今の千早には、リボンを付けた少女に強引に連れて行かれたカラオケの記憶があった。
あの時、レッスンとステージ以外で歌う必要はないと思っていた千早は、最初は乗り気でなかったものの、少女の策略で最終的に誰よりも歌い、悔しがり、笑う結果になった。(ちなみにその策略とは、千早が歌うときに自分のマイクにも電源を入れ雑音を混ぜることで、点数を意図的に低くするというものだった。当然千早はそれを知らない。)
知らない所へ行くのは楽しい――その経験は、三浦あずさにもその楽しさを与えたいという思いになって、千早を動かした。

千早「あの、わ、私、今から昼食をとろうとしていたんですけど、あずささんも一緒にいかがですか!?」

あずさ「まあ!いいの、千早ちゃん?ちょうどおなかが減っていたのよね。」

千早「もちろんです!私のお気に入りのところがありますから、一緒に行きましょう!」

あずさ「あら~、楽しみだわ。千早ちゃんはどんなお店がお気に入りなのかしら?」

千早「私の好きなものがあるところです…そうだ、あずささんとはぐれないようにしないといけませんね」

あずさ「あらあらー?」

あいまいな返事の後、千早はあずさの手を取った。
恥ずかしがりな千早が自分から人に触れることができたのは、いつも強引なリボンの少女の影響か、それともあずさの方向感覚の頼りなさ故か。

あずさ「まるで、しっかり者の妹ができたみたいね。」

千早の手を握りながらあずさは笑った。

千早「あずささんは、ずっと765プロのお姉さんですよ。」

千早は恥ずかしそうに答えた。

二人は手をつないで目的地へと歩く。とりとめのない話をしていたからか、到着はあっという間だった。

千早「着きました」

住宅街のはずれ、銀杏の並木道にひっそりとたたずむ建物が、千早たちの目的地である。
外見は煉瓦をあしらった木造で、建物はそれほど大きくないが、こげ茶に近い落ち着いた色使いの外装だった。
入口は衝立によって中が見えなくなっており、ここが店であるとは一目で分からないようになっていた。
ドアノブに掛けられているこぢんまりした看板には、『walkin’』と書かれてあった。

あずさ「千早ちゃん、どうやってこんなところを見つけたのかしら?」

千早「プロデューサーに教えてもらいました。知り合いのお店だそうです。」

あずさ「まあ、プロデューサーさんが?」

千早「あずささんなら、きっと大丈夫よね……」

千早は不安そうにつぶやくと、店のドアを開けた。あずさも続いて店内に入る。
衝立の向こうは、飲食店らしくない内装だった。
ただでさえ狭い店内は、いくつかの大きなスピーカーでさらに窮屈になり、その窮屈な空間で数名の客が静かに話していた。
そして、物々しいスピーカーからはジャズが流れ、スピーカーに隣接する戸棚には大量のレコードとCDが詰め込まれていた。

あずさ「千早ちゃん、ここは……?」

マスターに案内され、席につくとあずさが尋ねた。

千早「音楽を聴ける店です。」

千早が答えた。

千早「ジャズが中心ですけれど。プロデューサーにジャズに興味があると相談したら連れてきてくれました。」

あずさ「素敵なお店ね~。千早ちゃんらしいわ。」

千早「少し狭いですけど、禁煙だから私でも入りやすいんです。」

二人は注文を終え、しばらくの間音楽に聴き入っていた。
千早はジャズが好きだった。
華やかな音色やしっとりとした音色、そしてヴォーカル。前衛音楽や、他ジャンルの名曲までも取り込んでしまうジャンルとしての器の大きさ。
この店にはそれらを感じるために、立派なスピーカーがある。彼女は眼を閉じて、贅沢な音楽を堪能した。

あずさ「さすが千早ちゃんね。久しぶりにジャズを聴いたけど、こんなに素敵なところで聴けて良かったわ~。」

曲が終わると、あずさは頬を緩めながら言った。

千早「気に入ってくれたなら嬉しいです。あずささんはジャズが好きそうだったのでここにしました。」

あずさ「まあ、どうして分かったの?」

大人っぽい見た目で古い曲が好きそうだから、などと言うとあずさの機嫌を損ねるかと思い、千早はにこりと笑って話題を変えた。

千早「あずささん、聴きたい曲があったらリクエストしませんか?」

あずさ「あらあら、いいのかしら?」

千早「もちろんです。私、あずささんの好きな曲に興味があります」

あずさ「そうね……それじゃあ、『いつか王子様が』を聴きたいわ~」

千早「あずささんらしいですね。」

千早がマスターに頼むと、ほどなくしてあずさのリクエスト曲が流れ始めた。
有名な白雪姫の挿入歌が、軽快なトランペットで奏でられる。二人は届いた料理を食べつつ、演奏を聴くことに集中した。

千早「やっぱり、いい曲ですよね。」

あずさ「そうね~、本当にいい曲だわ。ピアノもいいけど、ホーン楽器も情緒があって素敵ね。千早ちゃんはリクエストしないの~?」

千早「そうですね、じゃあ私も一曲」

千早は再びリクエストに席を立った。今流れている曲が終われば、千早の聴きたい曲が始まるだろう。

あずさ「何をリクエストしたの?」

千早が戻ってくると、あずさが尋ねた。

千早「カーメン・マクレエの『マイ・フーリッシュ・ハート』です。」

あずさ「あら、有名な歌手ね。私も好きだわ~」

千早「本当にすごい人です。こんな風に歌を歌えたらといつも思います。」

千早は深くうなずいた。曲が始まると、店内にはしっとりとした歌声が響いた。

あずさ「なんだかお酒が飲みたくなっちゃったわ~」

千早「まだ一時半を過ぎたところですけど、なんだか夜のバーにいるみたいですね。」

あずさ「そうね~。時間を忘れてしまうわ」

二人はその後も本当に時間を忘れてしまったかのようにジャズを聴き、語りあった。
この時千早は、どういう訳かあずさに何でも話すことができた。

千早「あずささんは、すごいですね。」

普段はこんなことは言えないだろう、と思いながら千早は言った。

あずさ「あら、急にどうしたの、千早ちゃん?」

千早「あずささんは、大人です。私みたいに不器用な人が相手でも合わせることができます。それに、何でも知っていますし。体だって……くっ!」

言葉に詰まる千早に、あずさは答えた。

あずさ「そんなことないわ~。千早ちゃんの方が、ずっと大人よ。自分がどうなりたいかが見えてて、それに向かって一生懸命頑張ってるじゃない。なのに、私は運命の人を待っているだけ。自分から探しに行きもしないわ。事務所のみんながしっかり者だから、私だけ置いていかれるんじゃないかって思うこと、結構あるのよ?」

千早「そんな、置いていかれるだなんて。みんな、少なからずあずささんを目標にしているんですから、自信を持ってください。」

あずさ「千早ちゃんに言ってもらえると自信がつくわ~」

千早が力を込めて言うと、あずさは嬉しそうに笑った。胸を割って話すとはこういうことなのだろう、と千早は思った。
その後も二人の話は尽きなかった。最終的に二人が店を出たとき、時計は三時半を回っていた。

千早「随分と居座ってしまいましたね。」

黄葉した銀杏を見ながら千早は言った。ほのかな風が吹き、秋の爽やかな空気を運んだ。

千早「私、あずささんと話せて楽しかったです。こんなに人と話したのは久しぶりでした。その……また一緒に来てもらえますか?」

ここまで言ったとき、彼女は気づいた。三浦あずさが、いない。

千早「なんでもうはぐれてるんですか!おかしいでしょ!!」

三浦あずさの迷子の才能に悪態を吐きながら、千早は辺りを捜索した。
そう遠くへは行っていない、というのが彼女の読みであった。彼女はあずさを探し、住宅街を回り、最終的に近くの大通りに出た。
しかし、あずさを見つけることはできなかった。

千早「参ったわね……警察に言うべきなのかしら」

困り果てて立ち止まっていた千早だったが、そこに二人の人影が近づいた。

律子「あら、千早じゃない。どうしたのこんなところで?」

千早「律子……と、プロデューサー」

P「人をついでみたいに言うな。どうした?ぼーっとして」

眼鏡をした女性と、正体不明の被り物をした男性が千早を珍しそうに眺めていた。
千早は、困った時に頼れる存在が折よく二人も現れたことで、(平たい)胸をなでおろした。

千早「それが、さっきまであずささんと一緒にいたのですけど、はぐれてしまって。あずささんが心配です。」

律子「あずささん?さっき会ったわよ」

千早「えっ、会った!?」

律子「ええ。相も変わらず道に迷ってたから、社長を迎えに行かせたわ。」

千早「社長を……」

千早は気が抜けてしまった。探していた千早はあずさに会えず、探していない律子とプロデューサーはあっさりとあずさに会ってしまうことが不思議だった。
千早は、三浦あずさが探せば探すほど遠ざかっていく人物であるように思えた。
あずさは常に道に迷っているが、あずさを探す運命の人もまた道に迷っている、千早はそんな気がした。

P「俺が送るって言ったんだけど、律子が聞かなくてさ。」

律子「そ、それはプロデューサーがあずささんに何をするか、心配で」

P「りっちゃんは全然信頼してくれないなぁ」

千早は二人を観察した。プロデューサーはスーツ、律子は私服の青と白のブラウスにスカートを着ていた。
そしてプロデューサーの手には、少しばかりの買い物袋が握られており、袖口はさっきまで誰かに握られていたかのような真新しいしわがあった。
二人の様子は、単なるひと番いの男女以上の印象を千早に与えた。
少しからかってやろうと思い、千早は二人に言った。

千早「ところでお二人は、デートですか?」

律子「ぶふっ!」

律子が必要以上に動揺したことが、千早には滑稽だった。

千早「ふふ、律子、やっぱりそうなのね。」

律子「そんなわけないでしょう。今日はたまたまプロデューサーと会ったから一緒にいただけよ。」

P「そうだよ、今日は律子の業界研究とやらに付き合わされて大変だったんだぜ?」

千早「へえ、どんな研究をしたんですか?」

P「映画を見たり、特集されていた店で下見としてご飯食べたりした」

律子「ちょっと!」

律子が顔を赤らめながら慌てふためいている一方で、プロデューサーはいたずらっぽい笑みを浮かべていた。

千早「プロデューサーは相変わらずですね。この調子だと今日はずっと律子を困らせてるんじゃないですか?」

千早がため息混じりに訊くと、男は楽しそうに答えた。

P「まあ、りっちゃんは多少意地悪した方がかわいいからな。さっきあずささんを送ろうとした時なんかもう最高だったよ」

彼が言い終わらないうちに、律子の拳が被り物にめり込んだ。おそらく顔面に直撃したであろう。プロデューサーは悲鳴を上げて崩れ落ちた。

律子「千早、迷惑かけたわね」

千早「気にしないで。それにしても律子、デートなんてすごい進歩ね」

律子「だ、だからデートじゃなくて……うぅ」

千早は、律子の本音で話せる数少ない友人の一人として、律子からプロデューサーに恋愛感情を抱いていることを打ち明けられていた。
しかし千早は打ち明けられた当時、言われるまでもなく分かる、と言いたくなったものだ。
事実、二人が好き合っているのは事務所内のやり取りから火を見るよりも明らかで、天海春香以外のアイドルは半ば呆れながらも生暖かい目で二人を見守っているのである。
その一方で、天海春香はプロデューサーを振り向かせようと必死のアピールを続けており、それをどう止めるか、彼女をどう諦めさせるかが千早の悩みの種だった。
現在千早は、律子の前では律子を応援し、春香の前では(形だけでも)春香を応援している。
彼女が置かれているのは、親友のどちらかを応援しなければならない板挟みの状況、板が板に挟まれた状況であった。

千早「で、律子はこれからどうするの?プロデューサーの家で夕食を作ってあげる、なんてどうかしら?」

P「えっ、律子俺んち来るの?よし、じゃあいっしょに風呂でも」

悶絶していたプロデューサーが復活した。かと思うと、今度は体に律子の靴がめり込んだ。

律子「千早、からかうのもいい加減にしてちょうだい。こんなモノの家なんて行きたくもないわ」

転げまわる男を尻目に、律子は言い放った。

千早「そう、じゃあ外食ということね。ということは食事後に、疲れたから休憩したいとでも言うのかしら。そしてプロデューサーを」

律子「ち、千早!?あなたそんなこと言う子だったっけ?」

千早「冗談よ。それより、夕食にはまだ早いんだから、律子はこれからどうするか考えないと」

千早が言うと、律子は困ったようだった。

律子「それが、特にすることを思いつかないのよ。何かあればいいんだけど」

考える律子だったが、プロデューサーにはすでに計画があるようだった。

P「よし律子、俺に任せとけ。ついでに千早も来い」

千早「ついでは余計です。律子と二人きりじゃなくていいんですか?」

P「いいのいいの。なっ、りっちゃん?」

律子「別にいいですけど。どこに行くつもりなんですか?」

まあまあ、とプロデューサーは律子の質問を流し、千早と律子を連れて歩いた。

P「おい、千早」

歩きながら、突如プロデューサーが千早を呼んだ。

千早「はい、なんですか?」

P「今更だけどお前、かなり変わったよな。今の千早も、結構いいと思うぞ」

千早「そうでしょうか。私は自分はそんなに変わっていないと思いますけど」

千早が言うと、プロデューサーは首を横に振った。

P「自分自身の変化ってのは自覚できないものだ。お前は事務所のみんなともそれなりに仲良くしてたけど、一定の距離は保ってただろ?最近、その距離がだんだん縮まっているように見える。」

千早「……」

P「初めて会った時、千早には自分は変わりたくない、っていう雰囲気を感じたんだよな~。正直、その雰囲気は魅力だったし、直すつもりもなかったんだけどさ、気づいたら事務所のみんな、特に春香が千早をどんどん変えててびっくりしたよ。」

千早は、天海春香のことを思った。
リボンを付けた、よく笑い、よく動き、よくこける小動物のような少女。
自分に起きた変化のほとんどは天海春香との出会いがなければ成し得なかっただろう。
しかし、自分がいたことによって、天海春香には何か変化があったのだろうか。千早はふと疑問に思った。

千早「たしかに、事務所のみんなの存在が私を変えてくれました。ただ、私が存在したことで、事務所のみんなは変われたと思いますか?」

千早が問うと、プロデューサーは少し考えてから言った。

P「もちろん、変われたさ。」

男は言葉をつづけた。

P「仕事も完璧にこなして、みんなとの距離を縮めようと頑張っている千早を見て影響されないやつはいない。俺だって千早はすごいと思う。事務所のみんなにもよく言われるだろ?」

プロデューサーが話し終わると、律子が続いて言った。

律子「千早には感謝してるのよ?私の愚痴を聞いてくれたり、相談に乗ってくれる人ってなかなかいないんだから。千早がいなかったら、今頃私はもっと怒りっぽくなって、ストレスで潰れているわ」

千早「ありがとう、律子。プロデューサーもありがとうございます。」

千早は笑ったが、疑問が解消されたわけではなかった。
実を言えば、天海春香が如月千早と出会ったことで得られたものがあったのか、ということさえ分かれば後はどうでもよかったのだ。
春香が自分に与えたものと自分が春香に与えたものは釣り合っていないのではないか。
その思いが膨れ上がってきて、千早は不安だった。

P「う~し、着いたぞ」

プロデューサーが連れてきた場所は、見慣れた建物だった。三人は古びた雑居ビルの前に立ち、建物を見上げた。

律子「765プロ……あなたは仕事のことしか考えられないんですか」

呆れたように律子が言った。

P「お互いさまだろ?鍵持ってるから入ろうぜ」

律子「絶対ダメです。仕事以外の目的で入るなんてありえません」

P「なんだよ、厳しいなぁ。しょうがない、たるき亭でも行くか」

律子「まったくもう!」

三人はたるき亭に入り、飲み物を注文した。千早は自分が春香に与えられるものについて考えていた。

P「千早は、これからどんな風になりたいんだ?」

考え込む千早に、プロデューサーが話しかけた。

千早「私は、歌で誰かを変えられる存在になりたいです。そのためには......」

P「そのためには、もっと歌のレッスンを、だろ?」

千早「その通りです。」

P「ははは、その辺は変わってないな。」

千早「変わらないものもあります。」

P「まあな。けど、千早がこれからどんな風になっていくのか、俺はすごく楽しみだよ。千早が頑張っている姿を見せてくれるだけで俺も頑張れるんだからな」

千早は、その言葉が嬉しかった。存在しているだけで人に与えられるものもあるのだ。
そのことに思い当たった時、ふいに千早は天海春香がかつて言った言葉を思い出した。

春香「千早ちゃんや他のみんなが隣にいて一緒に歌っているだけで、私はアイドルやっててよかった、って思うんだよ!」

あの太陽のようにまぶしい笑顔を思い出した時、千早は、自分が春香に何も与えていないわけではなかったと気付いた。
確かに自分は春香に借りがあるが、それは返していけばいい。
いつか一人の親友として、かつて自分がされたように、天海春香を勇気づけ、考えを正し、手をとって導いていきたい。
そうなってみせよう。如月千早は、決意した。

律子「もしかしてプロデューサー、千早を口説こうとしてます?」

P「大丈夫だって、俺はりっちゃん一筋だから。アイドルはみんな可愛い娘っ子だ」

律子「そんなこと言っても誤魔化されませんよ」

P「りっちゃんはやきもち焼きだなぁ」

律子「プロデューサー?その被り物、もぎますよ?」

P「お~こわいこわい」

千早が密かに決意を固め、明日は天海春香に先に話しかける、という目標を立てていた隣では、被り物をした男と眼鏡の女性が軽口を叩きあっていた。


おしまい

地の文が書きたかっただけなのです。
以上

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