SID、アニメ、漫画版の設定を混ぜています。
設定の捏造があります。
オリジナルキャラクターが登場します。
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西木野真姫は高坂穂乃果に誘われてμ'sに加入した。
その翌日、今まで挨拶くらいしか話したことのないクラスメイト――星空凛と小泉花陽が、自身らの弁当箱を持って、真姫の前にやってきた。
向日葵の様にこにこ笑う凛と、朝顔の様に微笑みを浮かべる花陽。
彼女たちとはその日から、μ'sというスクールアイドルの仲間だった。
凛は語尾にニャ、と少々――少々、寒い語尾を付け、子猫を見ると微かに引き攣った笑みを見せる、猫好きで運動神経抜群の少女。
花陽は引っ込み思案だが、瞳の奥には強い意志を見る事の出来る少女だった。
彼女たちは自然と真姫の空間にやってきて、自然と一緒にお昼ご飯を食べるようになった。
三人で談笑する。読んでいた本の話をする。明日のテストの話をする。
真姫にとってこういう事は久しぶりだった。
お世辞にも友達作りが上手とは言えない真姫だった故に、なんの躊躇いもなくするりと心の中にやってきた凛と花陽が少々――かなり少々特別に、異様に、そして眩しく見えた。
四月の麗らかな陽の下、凛と花陽は真姫の席――教室の窓際最後列――に机をガチャガチャ寄せ合って、和やかな昼食を摂っていた。
「うにゃー!」
プチトマトを箸でつかむ事に大苦戦している凛を横目に、真姫は視界を窓の外へと向ける。
自身の音楽は少しだけ息を永らえたけど、でも、それはきっとほんの一年か二年ぐらいで、またすぐ息を潜めてしまうだろう。
真姫は「西木野総合病院の跡取り娘のお嬢様、こっち側の西木野真姫」なのであって、「ただのピアノが上手な向こう側の西木野真姫」にはなれない。
今はこうやって花陽や凛が居て「μ'sの西木野真姫」として存在を許されている。
それは小学校の頃の「お嬢様の真姫」では決してない。
幼き頃の真姫が思い描いた「向こう側の真姫」とも違う。向こう側、という点では一緒ではあるのだが。
真姫を繋いでいるのは、穂乃果に引きずり込まれたμ'sという一つの部活。
μ'sが無限じゃないのと同じように、静かに息をする事を許された真姫の音楽も、真姫自身が向こう側にいられるのも有限なのだ。
いずれ元の場所に帰る時が来る。その終わりの時を真姫は静かに待っている。そういった考えを持ってしまっていた。
本来ならこっち側の人間が、大きな垣根を越えて無理矢理向こう側に行ってしまった。
垣根を越えてやってきた異質な存在には、周りからは変わったものを見る様な視線が突き刺さる。
真姫はそれを当然の事だと思っている。視線のみならず、言葉という矢を無意識につがえ放つ者もいる。
凛や花陽は聞こえていないし、気にもしてないようだったが、真姫は違った。
彼女に向けられる悪意のない、あるいは悪意に満ちた興味や羨望、疑念が降り注いでいた。
――西木野さんが凛ちゃんや花陽ちゃんとお昼食べてる――
――あの三人、珍しいよね――
――西木野さんって星空さんなんか無理そうな性格してるのに――
――花陽ちゃんみたいなタイプも苦手そうなイメージあるよ、西木野さんに――
――お嬢様なのにね――
ひそひそ、ひそひそ。
真姫とてそう思っている。本当なら教室の窓際最後列、一人でお弁当を食べた後、読書している方が何千倍も似合っている。そうに決まっている。
彼女はいつだって他人の目を気にしていた。皆に自分はどう見られてるのか、どんな人だと思われているのか。
父親の厳しい怒鳴り声に教えられた、彼女がお嬢様の真姫として生きていく術。
彼女は自身を握り潰し、滅多切りにして、押し殺す。そして綺麗な『わたし』だけをくみ取って、濾過して、『パパの望む真姫ちゃん』を作りだす。
それを小学一年生、若干六歳の頃に覚え、完全に自分の生きる技術として習得していた。
そして中学の時には自身――『西木野真姫』という人間がよく解らなくなっていた。そして、やがて、素直な自分という物を、忘れた。
それが賢い賢い真姫の生き方。
自分が、嫌だった。反吐が出る程に彼女は今を嫌っていた。しかしそこから逃れる術も知らないのだった。
誤解を恐れずに言うと、矢澤にこは真姫の事を可哀想な子だと思っていた。
いや、家庭的に恵まれているのは真姫で、にこの方が可哀想な家庭の出身だという事はにこ自身が一番よく解っている。
大好きな父も母ももう居ないし、家は裕福とは言えない。それでもにこは幸せだった。
自分がやりたい事、自分に出会った人たちを笑顔にする、笑顔になってもらう、そういう活動が出来る様になった。
それは間違いなくμ'sのおかげだったし、にこ自身、日の光に浴びたような気持だった。
「にっこにっこにー」
このフレーズを言えた時、本当に泣きそうになってしまった。
大好きだった父親がにこの為に考えてくれた、名前の由来。にっこり笑顔を届ける為に。
ちょっとした感傷。ちょっとした傷跡。大切な思い出。
ちょっとだけ現実逃避した後、にこは自分が作った卵焼きを広い広い教室の隅っこで独りかぶりつきながら、現実の――目の前の事を考えた。
(あの釣り目、なーんでアイドルやってんのかしら?)
そもそもなんでμ'sに参入したのか?
にこはその辺りの事をちゃんと知っている訳ではない。
穂乃果は廃校阻止のため。園田海未は穂乃果に引きずられつつ、でも穂乃果の力になりたいという強い意志を感じる。南ことりも海未とよく似てるが、何となく海未の存在が大きい気がする。
花陽はにこと同じ。アイドルになりたいという強い気持ちだろう。凛は自分のコンプレックスもあるからこその参入だ、と語っていた。
では、真姫は?
答えはシンプルで明快。音楽をやりたいから。だと思う。
ではなぜ微妙に斜に構えているのだろう。
せっかくやりたい事が出来るのだ、楽しまなければ損だろうに。
(素直になれないのは可哀想ねー)
もぐ、とにこはウインナーにかぶりつく。
(あ、このウインナー安いけど美味しいわね)
もぐもぐ。
(白米とよく合うわ―)
もぐもぐもぐ。
(……)
思い立ったが吉日。
今回はここまで。
二年生の海未は幼少期からの鍛錬で身についた運動神経と、恵まれた歌唱力を持っている。
だから、μ'sの中でもかなり呑み込みの早いタイプだった。
そう言う訳で練習を監督するのは海未で、海未自身は自宅で(家業の日舞や武道や武術とは別に)ダンスの鍛錬を積むのだから恐ろしい話である。
μ's最上級生のにこは、自分とこころとここあの事で精いっぱいだ。
「1,2,3,4,5,6,7,8!」
放課後の練習、海未の手拍子に合わせて踊るのは、これからのsomedayという曲。
明るくてポップなこの曲は、聞く者のテンションをぐんぐんあげてくれる、面白い曲。
人を笑顔にするアイドルソングを作りたい、そんなにこの強い想いを受けて真姫がアップテンポに作曲、海未が作詞した渾身の一曲だった。
μ'sが七人になって初めての一曲は、厳しい練習を重ねて完成度は上がっていく。にこにとって――否、μ'sにとってそれが嬉しかった。だから日々の練習が始まるたびに互いが互いを高め合おうと努力していく。
海未の足元のウォークマンが曲を奏で終ると、ぱちぱちぱち、と拍手が二つ。
「へえ良いじゃない!」
「ええやん、すっごく良い曲!」
屋上の戸口に二人の少女が楽しげに突っ立っている。二人ともボンキュッボンの美少女で、にこの腹が起立した。
「ぅ絵里ちゃ~ん!!」
「希先輩にゃー!!」
ワッ! と歓声が上がり、穂乃果と凛がボンキュッボンの美少女二人へすっ飛んで行った。
一人は東條希。音乃木坂の副生徒会長で、超常現象部唯一の部員でもある。
もう一人の名は絢瀬絵里。この音乃木坂学院の生徒会長だ。
にこは笑って二人に手をあげると、絵里はサムズアップ。後ろで希がコンビニの袋を掲げた。
穂乃果と海未とことり、花陽と凛にとっては絵里は同じ音乃木坂の幼馴染。
にこと絵里と希は、一年の頃からの悪友だった。
アイドル研究部部長の矢澤にこと、超常現象部部長の東條希と、生徒会執行委員の絢瀬絵里として出会った三人。
真面目なふりをして、実はちゃらんぽらんな絵里。
真面目でもないし、素行も悪いちゃらんぽらんな私。
まあまあ真面目で、素行も悪くないけど割とちゃらんぽらんな希。
一年の頃ににこと絵里はどことなく気が合った。二人ともその理由が未だにわからない。しかしまるで、以前から知っていたかのような、そんな心のおけない相手だと感じ得る事が、双方の間で出来たのだった。
やがてにこと絵里はいつも独りだった希を仲間に入れて、希は絵里と共に生徒会の役目を担う様になった。
絵里と希がやってきたおかげで、休憩に入るいい口実を見つけた穂乃果。彼女はここぞとばかりに海未に頼み込んだ。
二分程の穂乃果のおねだり攻撃の後に、凛の猫なで声とことりのいつもの必殺技が海未の視界をペンキの如く塗りつぶして、海未という柱はぽっきりと折れてしまっていた。
そんな訳で休憩になったから、にこは日陰に座り込み、家から持ってきたスポーツドリンクを飲む。隣で壁にもたれかかってうまい棒をかじる絵里へと視線を転がす。
「絵里、アンタはやらないの?」
にこと絵里の視界の先、希とμ'sの皆がアイスの奪い合いを繰り広げている。希が皆のお母さんに見えて、二人はどちらからともなく笑みがぽろりと零れた。
「私は生徒会やってるし……どうしても、ね。でも私が生徒会長のお蔭で、部活の予算を少し多めに回してあげてるのよ?」
絵里はにこに澄ましてその澄み渡る快晴の様な空色の瞳をぱちりとウインク。
この生徒会長は、職権乱用でにこが一年の頃から部活の予算を他の部活より少し大目に回してくれていた。悪党である。
絵里が一年の時はただの執行員だったのだが、そういった生徒会の事をにこは未だによく解っていなかった。
絢瀬絵里が悪党だろうが悪人だろうがなんだろうが、にこにとっては女神のごとし。
彼女のお蔭で花陽が喉から手が出るほど欲しがっていた伝伝伝をにこが一年の頃に買えたのだ。
「それはもう言葉にできないニコ~! ……ま、絵里がμ'sに入ってきたら、私とセクシー路線で被っちゃうしね」
ワイシャツの下に隠れた胸を凝視しながらにこは虚勢を張る。
「ハイハイ、にこには敵わないわ」
いつものやり取り、といわんばかりに絵里は相手にしては居ない。ガリガリくんを持っていないもう片方の手をヒラヒラ振って、馬鹿にしたように笑った。
「ふん!」
彼女二人はいつもこんな感じだった。
ファーストライブ――μ'sではなくにこと数人の仲間とで行ったファーストライブは、大失敗に終わった。
にこが抱える夢と、仲間たちとの温度差を知り、やがて仲間が消え、一人になった時、絵里と希はにこを支えた。
故ににこはアイドル研究部部長としてここにいる。
絵里と希失くしては、矢澤にこは今ここにいる事はないのだ。
ふっ、とにこは絵里に礼の一つでも言いたくなって、けれど絵里に礼を言うのはもう気恥ずかしい。
だから無言でスポーツドリンクの入ったペットボトルを唇につける。
「エリち! にこっち! アイス溶けるで~?」
視界の向こう、ひだまりの中の希がコンビニの袋を掲げる。きらきら輝くあの微笑み。二年前はあんな表情をする子だとは、絵里もにこも思わなかった。
でもそれは話すと長くなる。アイスも溶けてしまうくらいに。
「にこ先輩! 絵里先輩! アイス食べないなら凛が貰うにゃ!」
凛がぶんぶんと元気よく両手を振って二人を催促する。
やれやれ、とでも言いたげに立ち上がろうとしたにこの視界の隅で、絵里はニヤッと笑った。
「なによ――ムグッ!?」
すんだ空色の瞳が妖しく光り、細く白くしなやかな指がにこの口を塞ぐ。
「凛! にこは要らないって!」
そう言うや否や、絵里は希の方へと走り出す。にこの方を見てあかんべーなんてしながら。
「待っちなさーい! 食べたら許さないニコーッ!」
礼なんて言うものか。にこは心の中で強く強く思いながら絵里の後を追って突っ走る。視界の隅で、髪をくるくる弄ってる真姫の姿を認めながら。
にこは希の元へと――μ'sの皆の元へと駆け出した。
今日はここまで。
下校中、にこはつまらなさそうにアイフォンを弄っている真姫を気にもしながらに、花陽とアイドル談義を繰り広げていた。
この花陽という引っ込み思案の美少女は、学業のみならず恐ろしいほどのアイドルに関する知識量をその頭に詰め込んでいた。音乃木でスクールアイドルやアイドル関連の知識量は自分がトップだと思っていたが、花陽は全くのブラックホースだった。にこがとある県の知名度ならμ'sといい勝負のスクールアイドルの話をした時、花陽は見事にそのスクールアイドル名に反応してきた。
その時の彼女の――彼女らの喜びは計り知れないものだった。
だからそれ故真姫の事を気にもしながら、けれど花陽のそのレスポンスの小気味のよさに白熱してしまう。
そして解らない単語が出ると凛がその都度質問して、花陽が丁寧に説明する。そしてまたにこと熱い討論を繰り広げるのだ。
にこりんぱなの三人の前には穂乃果と海未とことり。海未を挟んで穂乃果とことりがその両サイドを固めている。三人は――特に穂乃果と海未は生まれる前からの――幼馴染、とまで言われているらしい。
海未は穂乃果とことりの話を聞きながら――ちらり、ちらり、と真姫の様子をうかがっている。やはり海未も気になるのだろうか。
ここで海未に先に一歩踏み込まれては先輩としての立つ瀬がない。背は負けているが。
「ねえねえ真姫ちゃん! マッキーは好きなアイドルとかいないニコ?」
ちらりと海未が振り向く。
「特に――いません」
唐突なニックネーム呼びにも真姫は揺るがず、むしろにこが少し出鼻をくじかれた。
(ダダすべりじゃないですか!)
という海未の視線が痛い。
「えぇー! 聞かないのは勿体ないニコ! きっと真姫ちゃんの気に入る曲があるニコ!」
矢澤にこ、必死の食らいつき。
「興味、ないです」
結局取り付く島もなかった。しかし、にこは真姫のつっけんどんさになぜか嫌味を感じない。どちらかというと、悲壮感を感じる――にこはそう思った。
まるで、無理矢理人から嫌われようとしているような、そんな態度。
以前穂乃果と海未が言っていた、その言葉の意味はやはりにこにとっても共通の感覚だった。
穂乃果の言葉を借りるなら「無理をして距離を取ろうとしている」とでも。
海未の言葉を借りるなら「いつ自分が消えても良い様にしている」とでも。
海未のセリフは海未自身首をかしげていたが、ニュアンスは確かに伝わった。
「ダメダメにゃ、西木野さんはJ-POP聞かないんだって~」
言葉少なな真姫の答えを補ったのは楽天家の凛だった。
能天気に笑う凛を横目に、J-POPよりクラシックの方が好きそうな顔をしている、にこはそんな事を考えた。
「西木野さん! じゃあ私がお勧めのアイドルソングを――」
「えぇええ!?」
ここぞとばかりに花陽が真姫に食い気味に襲い掛かる。オタク気質な花陽だから、真姫はなすすべもなく食らいつかれた。ライオンに睨まれたウサギか。
にこは七十一センチの胸中で真姫に合掌した。
「じゃあまた明日、にこちゃーん!」
「穂乃果! にこ先輩、でしょう!?」
「ふふふ、にこ先輩また明日ですー!」
先に分かれた凛と花陽に続き、幼馴染三人組と別れて、いつも通りのにこと真姫の二人きり。
真姫がどう思っているかは知らないが、にこにとってははっきり言って滅茶苦茶気まずい。
真姫がこの気まずさを望んで作り上げてるのだとしたら、大したものだ。
幾らなんでもお互いだんまりというのはにこの性にも合わない。
だからその気まずさを打開する為に、いつも何とかして真姫についてアレコレ聞き出そうとするが、真姫の返事は大体冷たい。
にこの方が上級生なのだから、多少の横柄な態度だって構わない。が、にこはそういった先輩は大嫌いだった。
大嫌いだから、だからこそ他人とそんな風に接する事は絶対しない。
「私、家こっちなので」
いつもの公園の前で、真姫は踵を返す。
真姫の絶対零度の言葉でフィナーレ。にこは気を取り直して踵を返しつつある真姫に叫ぶ。
「――明日も部活来るよね!」
にこはこれだけは絶対に言う様にしていた。真姫の返事は当然ないけれど、でも言わないと、どこかに行ってしまいそうだったからだ。
夕暮の中、にこは独りで真姫の背中を眺めていた。百六十一センチの身長はやけに淋しげで、にこの胸をちくりと突き刺した。
なぜか、真姫の事を私はとても気にしてるんだ、とにこは他人事のように考えていた。
「……帰りますか」
肩に掛けた学校指定の紺色の鞄が、にこのなで肩からずり落ちた。彼女は気だるそうに、あるいはやるせなさそうに、ぴょこんと跳ねて掛け直すと、踵を返した。
どうしても脳裏を離れない真姫の百六十一センチの背中。考えれば考える程、真姫に対する色んな感情が込み上げて来ては、弾けるシャボン玉のように消える。そんな繰り返しを、彼女は胸の中で延々と続けていた。
帰宅して、ご飯を作ってこころとここあに食べさせて、こころとここあを寝かしつけて食器を片づけていると、玄関が騒がしくなった。
「お母さんー?」
食器を片づけている最中で、にこは泡だらけの手を冷水で流しながら喜色の声で玄関へと問いかける。
「ああ、ニコちゃーん!」
リビングと廊下を繋ぐ引き戸が軋んだ音を立てながら開いて、こころとここあの『ママ』で、にこの『母親』で、矢澤家唯一の働き手が帰ってきた。
「お母さん、お帰りなさい! ご飯? お風呂?」
「にこちゃんが良いー!」
「もー、にこは皆のものニコ! カバン貸して、持って行くよ」
にこの『お母さん』はにこの『パパ』の再婚相手だった。優しく美人で、真面目さとユーモアを持ち合わせる人だった。
つい最近になってにこが感じた事は、自身の母親とは穂乃果と海未とことりを足して、三で割って良い所を掬い上げた感じの人、という事だった。
ふらふらと居間へと向かっていくお母さんを見つめながら、にこも後をついていく。
にこの『パパ』はもうこの世に居ないし、にこの『ママ』は『パパ』より先に亡くなっていた。今の『お母さん』は、『パパ』の再婚相手だった。
しかしにこが十二歳の時に『お母さん』はこころとここあを産んで、『パパ』はにこが十四歳の時に亡くなった。
『パパ』を最後に、にこにとっての家族はにこの中で消滅してしまい、彼女自身そこに微かな『なにか』を抱えて生きていた。
自身の事を傲慢だと感じながら、強い罪悪感を抱えながら、彼女は生きていた。
それが、真姫を気にするきっかけの一部なのかもしれない。にこは心の片隅な冷静な部分で、そんなことを考えていた。
『パパ』も『ママ』もいて、音楽を作りたい、楽しみたい、という真姫の小さな夢を応援してくれる仲間もいるのに、どうして彼女はあんなにも「辛そう」なのか――にこにはそれが、洗剤が生み出す小さな泡ほども解らなくて、気にしているのかもしれない。
「……よし」
「んん? どうしたのニコちゃん?」
お母さんが眠たげな顔をこっちに向けたから、にこはとびっきりの笑顔でこう言った。
「にっこにっこにー!」
翌日の昼休み。
「なるほど、真姫ちゃんの事気にしてる訳ね」
にこは絵里と希がいる生徒会室へと乗り込んで、昼ご飯を掻き込んでいた。
彼女には同学年で共に昼食を食べる程仲の良い人間は(絵里と希を除くと)居ない。それ故大概は教室で一人、のんびり昼ご飯を食べて居る事が多かった。
毎日希と絵里がいる生徒会室に厄介になっても良いのだが、ここは生徒会の場所。故ににこはあまり入らない様にしていた。
その理由にダメ押ししているのが、絵里の「生徒会に直接苦情や悩みを言えるよう、極力私たち生徒会はここに居たい」という信念。
絵里も希もにこがここに毎日来て昼食を摂るくらいどうとも思わないだろう。問題はにこの中にある、ある種の妙な真面目さだった。
ちゃらんぽらんの癖に尊い信念を片手に生徒会の仕事を担う絵里に、にこは似合わないと考えながら白米を口に放り込む。
「エリち、真姫ちゃんってあの赤い髪の毛の美人さん?」
希がもぐもぐと咀嚼をし終えて一言。
「そうよ。私と一緒ぐらいの美人。ま、身体は負けないけどね」
絵里はにこのまな板の様な、あるいは机の様な、将棋盤の様な胸に視線を向ける。
視線に気づいたにこは露骨に嫌な顔をした。
「にこ、貴女もう胸筋付けた方が良いんじゃない?」
腹が立ったにこは絵里の弁当箱からウインナーをひったくる。
うああああ、とふざけながら声を漏らす絵里を尻目に希がぽつりとつぶやいた。
「ん~……なんでにこっちが真姫ちゃんを気にしてるん?」
「えっ? んーとね」
想定内の質問ではあったが、答えをちゃんと用意しておかなかったにこは答弁に詰まる。
にこは一年の頃からμ'sの皆どころか希にも自身の家庭事情を話してないのだ。
話せなかった理由として希自身が決して楽しい過去を持っていない事が一つの要因で、現状の希も親元を離れて一人暮らしだ。
それ以上に一般大衆から見て、『重い』ヒストリー持ちのにこが希の過去を慰めたとする。
すると希は「ウチより辛い人がいるのに、凹んでられへん」等とよく解らない理論を振りかざして、無理矢理元気になろうとすると、にこは考えていた。
まさか「両親健在で家も裕福なのに楽しくなさそうな西木野真姫」は「両親はこの世に居ないし家も貧乏だけど楽しい私」と真逆だから気にしてる――等とのたまえば、希はひっくり返る。
「あれでしょ? つっけんどんな所が気になるんでしょ。μ'sの子たちって基本皆素直だし。真姫ちゃんだけちょっと尖ってるから気にかけてるんでしょ?」
ちゃらんぽらんと評した絵里をまな板の胸中で再評価するにこ。
「あー……なるほど。皆確かに個性的やけど素直やんな」
納得した希。腑に落ちてはなさそうだが、絵里の助け舟に乗ってしまえばダメ押しになる。にこは船に将棋盤の様な胸から飛び込んだ。
「真姫ちゃん、なんか無理して強がってるように見えるから。気になるのよね」
「にこっちは相変わらず優しいなぁ」
希はにこを見てにっこりと、優しげな笑顔をくっきりと浮かべる。
三年の内では希の笑顔は「聖女の笑み」と言われているが、その威力を至近距離で受け止めたにこは思わずのけぞってしまう。
「でもこのチンチクリン、さっき私のウインナー食べたのよ」
「要らん事言うな」
絵里の茶化しににこは露骨に嫌な顔を向ける。さっきより厭味ったらしく。
「まあまあ、ウチのミートボールあげるから堪忍ね?」
希が手元の弁当箱の中のミートボールを掴むのに苦心していると、にこと絵里はその豊満なバストに目が行った。
(バスト九十センチ……十九センチ差? 同い年でこれはマズくない? なんか私の胸が凹んでる様な気がしてきた……)
(にこ、貴女七十一センチしかないの、おっぱい。ひどくない?)
絵里の言葉ににこは白目を剥いた。
が、絵里とにこのやりとりは日常茶飯事。白目を剥くにこを尻目に、絵里は澄んだ青空色の瞳に煩悩の雲を漂わせ、飛び付いた。
「こっちのミートボールをよこせぇえええ!」
絵里が希のミートボール――いや聖女の乳、略して聖乳に両手を伸ばす。
愚民絢瀬絵里に襲われる聖女東條希。
その光景を見た愚民矢澤にこが負けじと飛びかかる。
「わっしぃいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!」
「ひゃぁああああああああああああああああああああああああ!!!」
「私にも触らせろニコォオオオオオオオオオオオオ!!!!!」
聖母に群がるのはいつだって愚人だと言う事を、二人は学んだ。
絵里の言葉が蘇る。「生徒会に生徒が直接苦情や悩みを言えるよう、極力私たち生徒会はここに居たい」と。
甘い香りのするブレザーを取っ払い、優しい香りのブラウスも取っ払い、ちょっと蒸れたブラジャーのホックに手を掛けようとしているにこと絵里は、自分たちが何をしているのかよく解っていた。故に止まる事を知らなかった。
やがて静寂の後。
「「やわらけぇえええええええええええええええええええええええええええ!!!」」
「だ、だめぇええええええええええええええええええええええええええ!!」
今日はここまで。
その日のμ'sの練習にも、絵里と希は差し入れを持ってきてくれた。いつものコンビニで買ったアイスクリーム。
希が配るアイスに穂乃果や凛がワッと押し寄せ、海未はことりにアイスを先に手渡し、花陽は希から受け取る。
そして。
「やっぱり真姫ちゃん、距離取ってるわね」
うまい棒をかじっている絵里は、神妙な表情で呟いた。
「アンタ、私にも買ってきなさいよねうまい棒」
二年以上の付き合いのにこと絵里だが、金髪の美少女は未だににこの好みを覚えない。勿論ワザとである。
「何でかしらねぇ。あ、海未がアイス持って行くわ。そういえば私、海未が一年の頃に生徒会やらない? って勧誘したのよ」
「断られちゃった……海未もそこまでゴリ押ししないわね、引き所はきっちりしてていいじゃない。勧誘、断られたんでしょ?」
「希も行ったけど……真姫、アイス取らないわね。そう、断られたの。部活に専念したいのでって」
にこは一息吐いてガリガリくんをかじる。
「あんた、これ私への当て付けじゃないでしょうね」
「バスト七十一っていうのがガリガリって表現できるなら、そうかもね」
「ムキーッ!」
にこにとって絵里は食えない女だった。しかし、真姫は本当にどうしたのだろう、とにこは考える。
何か、簡単に解決できるような物を抱えている訳ではなさそうだ。
取り敢えず、コーンポタージュ味はあまり美味しくないと黒髪を揺らしながらにこは思った。
「真姫ちゃんはアイス嫌いニコ?」
二人っきりの夕焼け空で帰り道、にこはふと質問を投げかけた。髪の毛をくるくる弄る真姫が、少し驚いた表情でこちらを見る。
「――嫌いじゃないです」
「じゃあ何が好き?」
「ガリガリくん……」
「意外と庶民的なのね」
驚くにこ。
「悪いですか?」
真姫の不機嫌そうな声。
「まっさかー! でもなんで真姫ちゃんアイス食べないの? 希ちゃんが折角差し入れてくれたのに!」
「ベ、別に……そういう気分じゃないだけで……」
ふと立ち止まるにこに、真姫は怪訝な表情をのぞかせる。
にこは自分の通学カバンをガサガサと漁ったかと思うと、唐突に真姫に言った。
「真姫ちゃん、分かれ道の公園で待ってて!」
「えっ、ええ?」
動揺する真姫ににこは振り向かず、今来た道をひたすら駆け戻った。
にこが用事を済ませて全速力で公園に駆け戻ると、真姫はベンチに腰かけて公園で遊ぶ子どもたちを眺めていた。
楽しそうな笑顔。弾ける笑い声。真姫はとても優しげに微笑んでいた。少なくともにこにはそういう表情に見えた。
「まーきちゃん!」
「うえぇっ!?」
真姫は時々その容姿から想像できない、少しハスキーな、不思議な言語を発することが間々ある。
「はい、ガリガリくん。好きなんでしょー?」
ぽかん、と口を開ける真姫。その眼は微かに喜色ばんでいた。
「あ、ありがとうございます、えっと、お金――」
カバンを急いで漁る真姫に、にこはなけなしの先輩としての威厳を出す。
「いーの! 真姫ちゃん、食べそびれたんでしょ? ニコの、お、ご、り、ニコ」
真姫は何か言おうとしたようだが、やがて口を閉じてガリガリくんの封を開けた。ぺりぺり、と小気味のいい音がする。
にこも自分の為に買ってきたガリガリくんをぺりぺり、と開く。微かに香るソーダの様な匂いが鼻を擽る。
「当たるといいなぁ」
「……」
夕日の差し込む公園で、にこと真姫は二人きり。
しばらくの沈黙後、それを破ったのはにこではなかった。
「にこ先輩」
「ん?」
真姫は赤い舌をちろちろ動かしながらアイスを食べるにこを見つめ、はっきりと言った。
「にこ先輩は――楽しいですか、今が」
にこはアイスから赤い舌を離し、はっきりと、きっぱりと、それでいて満面の笑顔で答えた。
「楽しいニコ! 人を笑顔にする活動ができるんだから!」
これは嘘偽りのない、矢澤にこのある意味での、本心だった。
そして本心であり、彼女の命題であり、自身にかけたある種の呪いの様なものでもある。
「真姫ちゃんは、楽しくない?」
逆ににこは真姫の瞳を覗き込む。
急に顔を近づけられて、真姫は思わず顔をそむけようとして、しかしそれはできなかった。
にこの赤みがかった大きな瞳が、真姫の目を捉えて離さない。
「別に――どっちでもないです」
真姫はその瞳から逃れる事が出来ず、苦し紛れの言葉を何とか吐き出す。
にこは驚きの色を顔に映し出すが、やがて真姫から視線を外す。
「そっか……でも、真姫ちゃん!」
にこはばっ、とベンチから飛出し、立ち上がる。そして、にこは真姫を見つめる。
「にこにーにこにーにこにこにー! あなたのハートににっこにっこにー!」
単純でどうしようもない底ぬけた不思議な言葉。しかしにこにとってその言葉は、絶対的な約束の言葉であり、いつも心に宿る優しさの魔法だった。
「にこ先輩――ふふっ――それ――」
真姫はにこのそんな軽やかな動きと言葉に、呆気にとられた。
が、その優しくも眩しい笑顔に眩んで、真姫はくすっと笑みがこぼれた。
「真姫ちゃん、良い笑顔ニコっ!」
今日はここまで。
私と真姫ちゃんは、いつも公園に寄って帰るようになった。そうして付き合っていく中で、段々彼女がどういった人間なのかよく解ってきた。
好きなものはトマト。嫌いなものは蜜柑。音楽が好きで、中一の時点では辞めちゃったけどピアノが特に好き。趣味は写真と天体観測。希と気が合いそうだ。そして、一番私が驚いたのは――。
「親との関係? 昔は良かったけどね」
別段嫌いなわけじゃない。ただ、ちょっと苦手なだけ、だって。
「お金持ちなのに?」
素っ頓狂な声で吐き出された私の言葉に、真姫の顔がはぁ? って顔になる。
実際付き合ってみると、結構この真姫は皮肉屋で割と自信家(時々自意識過剰?)だった。
上下関係もあんまり気にしないタイプで、年功序列よりも実力主義的な所があるみたい。私はこういうの嫌いじゃない。
「家柄と親は関係ないでしょ」
「ごもっともで……じゃあニコの勝手な妄想だった訳かぁ」
「意味わかんない」
「ニコはお金持ちなら幸せだって思ってたみたい」
「そうでもないかもね。でも、お金はないよりはマシだと思うわ」
真姫はぽつりと呟く。ここで貧乏なら良かった、とか言わない辺りやっぱり微妙にそこいらのお嬢様とは違う気がする。
何というか、夢見がちなお嬢様ではない。どっちかというと、リアリスト? リアリストとも違うか。
「そろそろ帰るわ、ニコちゃん」
真姫はベンチから立ち上がる。
真姫ちゃんは私の事を「ニコちゃん」と呼ぶ。彼女にしては偉く可愛い呼び方だが、まあ嫌いじゃない。
彼女も何かしら思う所があって、ちゃん付けなんだろう。何かがなんなのか、そもそも何かがあるのかどうかすら、解らないけれど。
しかし凛ちゃんとか花陽ちゃんとかは呼ばない。私だけにニコちゃん、である。
そろそろ「これからのsomeday」のPV撮影だ。バシッと決めて良いのを撮りたい。
ホントは絵里と希も仲間に入れて一緒にやりたいんだけどなぁ。
あの二人のポテンシャルは高い。きっとμ'sの活動の幅が広がる――私はそう思いながら、真姫ちゃんに手を振った。
「また明日、真姫ちゃん!」
中指と薬指以外をピンと空に突き立てて手を振ると、真姫は苦笑しながら手を振った。
(さーて、ニコも頑張るニコ!!!)
パパ、見てて。ニコ、沢山の人を笑顔にしてみせる――!!
次の日も良く晴れていた。
部室でパソコンとにらめっこしていた穂乃果ちゃんは、エンターキーを押し込む小気味の良い音と共に、声を上げた。
「これにてPV―――完成!!!」
穂乃果の満面の笑顔でことりや花陽、凛がわっ! と歓声を挙げる。
無論私もニヤニヤが止まらない。廃校阻止、という穂乃果の熱い思いとは違うけど、私だってアイドル活動の中でこのPVを見てくれた人が笑顔になってくれればどれほど嬉しいか。
確実に、私は私の夢を叶える為にその一歩を踏み出してる。
「ふふ、ニコ先輩も嬉しそうですね」
穏やかな微笑みを浮かべながら、海未がこちらにやってくる。だから私も完璧な笑顔で応えた。
「素敵な笑顔です、ニコ先輩」
「ありがとー! ……でも、海末っちは楽しくなさそう?」
海未は少し驚いたような表情を見せる。ふふん、このニコ様の洞察力を舐めてはいけないぞ、園田クン。
「……真姫の事です」
ほう。流石海末ちゃん、弓道部で後輩を持ってるだけじゃなく、慕われたり告白されてるだけはある。
穂乃果っちやことりっちも十二分にいい先輩だけど、海未ちゃんは真姫へ一歩深いところまで突っ込もうとしているのが伝わってくる。
「……真姫のことに関しては、ニコ先輩が一番詳しい気がするのです」
「同い年の花陽ちゃんや凛ちゃんもいるニコ?」
「ええ、花陽も凛も真姫の良い友達です。でも、真姫自身が、やはり――ニコ先輩を」
「――私に任せて」
私はあまり仲間を失いたくはない。昔一度やらかしてるから。
ましてや可愛い可愛い後輩の穂乃果ちゃんがスカウトした、大切な仲間なのだ。三年である私がやらなくてどうする。
「にこ先輩?」
「海未、真姫は絶対に何かあるの。誰にも言えない、言ってない、深い悩みがあるはずなの」
孤独に慣れ、独りだった希を引っ張り上げたのは、私ひとりじゃない。絵里と一緒に引っ張り上げた。
それをもう一度、成し遂げるだけだ。やれるはず。
「海未、アンタと私、二人掛かりで真姫の悩みを少しでも和らげてあげられるよう、努力するわよ」
「にこ先輩……」
「お節介かも知れないけどね」
私は海未にサムズアップ。
すると海未っちは口を開いた。
「私、ニコ先輩の事、見直しました」
「なっ、あ、アンタね――!」
流石にムッとした――と思ったら、海未ちゃんは微かに笑ってた。
へぇ、堅物だと思ってたけど、案外冗談も言えるのね。
と、なんだか昔の私と絵里の様な会話をしてると思っていたら――。
「ニコちゃんも一緒に乾杯しようよー!!!!」
「乾杯するにゃぁあああ~!!!」
騒がしい連中の声に、私と海未が呆れ顔をした矢先。
背後から物凄い圧力がかかって、私の体が空を舞った。
海未ちゃんの日本刀みたいな切れ目が丸く見開かれながら、ちゃっかり凛を抱き留めていたのがスローモーションで見える。
やっぱ鍛えてるのって凄いわ。
身体を傾かせながら聞こえたのは、海未の怒鳴り声、ことりと花陽の悲鳴だった気がする……私に突撃したのは穂乃果ちゃんか、許すまじ。
顔面から床に突撃して、私はその場に倒れ込んだのだった。
一瞬意識が飛んだような気がする――はて――?
今日はここまで。
担架で運ばれた記憶がある。
穂乃果と凛がものっ凄い勢いで泣き喚いてた記憶もある。
ことりと花陽がタオルを濡らして頭に当ててくれたのも解る。
ただ、真姫ちゃんが何か言ってた記憶があるんだけど――なんだかわからない。記憶を見る窓に霞が掛かっている様な。
明確に自分が自分と認識できたのは、保健室のベッドに寝転んで十分経ったか経たないかくらい。だと思う。
「あー……なんかちょっとふらふらするんだけど」
目覚めた私にまず開口したのは穂乃果ちゃん。
「ほんっとーにごめんなさい!!」
まあ、頭をぶっつけただけですんで良かった。割とマジで。いやまあ穂乃果が泣きそうな目で謝ってるし、別段私も怒ってないからね?
そりゃあこれが切欠で廃校阻止! に繋がる一歩なのだから、嬉しくってしょうがないだろう。
ニコだって心に湧き上がる熱い気持ちは未だに冷めないし!
「ニコは丈夫だから平気ニコ!」
「私は鍛えてましたから大丈夫でしたが……凛、穂乃果、今後絶対にいけませんからね」
「「……ハイ」」
二人の返事の後。
「にこちゃん」
間髪入れず。いつになく――そう、真剣な目で。
「本当に大丈夫?」
「う、うん」
真姫ちゃんは私が寝ているベッドに近づいてくる――と思った矢先、私の目の前に指を二本見せた。人差し指と、中指の二本。
真姫ちゃんが私にVサインを真剣に見せつけてる絵面。なんだか可笑しい。
「これ、何本?」
威圧感凄い。やばい。間違えたら殺されそうなほどに威圧感ヤバイ。
ちょ、ちょっと場を和ませようかな……。え、笑顔を作って。
「に、にっこにっこにー?」
「ちゃんと答えて!!」
身体がびっくぅ! となる。びくっ! じゃない、びっくぅ! だ。
素早く目を走らせると――皆目が丸くなってた。どうやら真姫のこの鬼みたいな形相に、みんな驚いてるみたいだ。
そうこうしてる内に、真姫ちゃんは泣きそうになってる。そ、そこまで心配してくれてるのか――嬉しいけど正直驚きも半分。
「に、二本……」
流石にこれ以上アホなことをしてる精神的な余裕はなかった。だから真面目に答える。
「ま、真姫ちゃん、それ、保健室の先生も同じ事してたよ……?」
苦笑とも微笑とも言えない、何とも微妙な笑顔を浮かべながら、ことりは呟く。
真姫ちゃんは少しの間無言だったけど、おもむろに形の良い唇を開けた。
「にこちゃん、校門まで歩ける?」
「え、ええ……まあ、別に帰れると思うけど……」
「タクシー呼びますから、海未先輩、にこちゃんの鞄とかお願いします」
「え? あ、はい?」
ここまで主体的に話す真姫が珍しいのか、海未は呆気にとられていた。
いや、この場にいる大体の人間がそんな感じの表情を浮かべていた。
真姫ちゃん、結構話すのにね。
「に、西木野さん、にこ先輩何処に連れていくにゃ?」
凛も相当動転しているようで――でも、なんとかこの場にいる全員が疑問に思う質問を繰り出した。
「西木野総合病院」
彼女が短く答えた言葉で、私は微かに頭痛を覚えた。思い出したくない記憶と言うものは、いつだって誰だって持っているはず。
タクシーに乗ったのは――何度目だろう。パパが死んだ日と、ママが死んだ日で、二度? あの日はどちらも急だった。
授業中に学年主任の先生が飛び込んできて、私を連れ出すのだ。校門を出ると、もう既にタクシーは私を待っていた。
その時タクシーの中で、私は何を思っていたのだろう? 今はもう、思い出せない。思い出したくないのかもしれない。
「ガリガリくん」
タクシーの中で、真姫はぽつりと言った。
「へっ? 何? 食べたいの?」
「違うわよ!」
そりゃこのタイミングで言う訳ないか。
真姫ちゃんは多少怒っているように見えたが、ふと溜め息を一つ。
「頭って、ぶつけると怖いのよ。にこちゃん一瞬意識なかったでしょ?」
「う、うん」
「その後記憶も少し混同してたし。頭打った後、今は大丈夫でも数時間後とか、数日後とかにとんでもない症状を発症したりするから」
ちょっと怖くなった。
「だから一応病院で見てもらった方が良いと、思う」
突然それきり外の景色を眺め始めた真姫。右手はいつもの髪の毛を触って、落ち着きなく。
「真姫ちゃん、ありがとう」
囁いた言葉に、真姫ちゃんの右手がぴくっと止まる。
「意味、解んない」
もしかしたら、この美少女は私が思っている以上に、優しくて繊細な子なのかもしれない。
デカい。デカい病院だ。真姫ちゃんの親が院長だっけ? とにかくデカい。確か総合病院だから、ここには数多くの科が存在しているはず。――あまり来たくなかった。
真姫ちゃん自身も脳外科志望って言ってたから、勿論脳外科も存在するんだと思う。
「あの、真姫ちゃん、今日ニコお金あんまり持ってきてないんだけど……」
「ガリガリくん」
――こいつ! まさかガリガリくんのお返しに!?
ガリガリくんでこんな立派な病院の診断を受けれるってどうなってんだ! いかんいかん! どないする気や!!
「いいから、来て。ゆっくりでいいから」
と真姫は白いリノリウムの床を迷いなく歩いていく。しかし歩幅はゆっくりで、私を気遣ってくれているのが解る。
こういう大きな病院ってほら、紹介状とか――って、真姫ちゃん自身がもう歩く紹介状みたいなものなのか?
いや、流石の真姫ちゃんでも、そんな事は不可能じゃ――。
「真姫ちゃん、お帰りなさい」
「あら、真姫さん。こちらにお見えになっていたのですか」
「真姫お嬢様、どちらへ?」
……すれ違う看護師や医師全員が頭を下げているではないか。希の言葉を借りるなら、スピリチュアル……いや、あれは超自然的なモノだから、また別か。
「座って待ってて」
真姫が受付に向かう。
真姫が受付に何か話をしてる。
真姫が戻ってくる。
私は椅子に座らされる。
無言の時間が続く。
真姫は髪の毛を弄って、時々私の顔をチラ見する。
やがて、私の名前が呼ばれた。
「真姫お嬢様の見立て通り、軽い脳震盪でしたね。ここ数日は念を押して、激しい運動は控えてください」
初めてCTスキャン? っていうのを受けた。なんか映画みたいでちょっとドキドキしたのは秘密ニコ。
「ありがとう、八坂」
にこを診断してくれたお医者さんの名前は八坂って言うらしい。
なんでも若手の脳外科医らしくて、精神や心、心理学にも精通してるんだって。すごい。
――いやほんと凄いと思う。イケメンだし。短髪黒髪の好青年って感じ。まあ実際は三十代後半ぽいけど。
椅子に座っていたニコと、そのそばに立っている真姫ちゃん。私達二人を見比べるように八坂さんが視線を転がす。
そしてふと、思いついたように質問を一つ。
「ところでお嬢様、和木さんの仰っている〔μ'sの先輩のにこさん〕とはこの方ですか?」
ボンッ!!! っと。音がした。いや、音がしたような気がする。うん。いや聞こえなかったんだと思う。何言ってんだ私。
傍で立っている真姫ちゃんを見上げると、なんとなく音の出どころが解った気がする。真姫ちゃんの顔が見事に真っ赤だったから。
「わ、わ、わ、和木さんから、何を、聞いたの」
「最近矢澤さんが優しくして――うごっ」
真姫ちゃんが手に持っていたカバンを、八坂さんに投げつけた。わーお、大胆……。
呆気にとられるニコを尻目に、真姫ちゃんは肩を怒らせて去って行った。乙女心は秋の空……うーん、ムズカシイ?
ニコも乙女なんだけどね。
「八坂さん、大丈夫ですか?」
「あはは、また口を滑らせたみたいだね……でも真姫お嬢様が元気そうで、楽しそうで何よりですよ」
八坂さんは嬉しそうに微笑む。
……ん?
「元気そう?」
どういう事だ?
「いや、小さいころから――ピアノのコンクールだから、小一だったかな? そのあたりから、真姫お嬢様はあまり表情を見せることがなくてね」
「どういう……事でしょうか?」
「笑う事は勿論、怒ったり泣いたり、そういうのもあまり見せないって和木さんが言っていて……。だから、高校に入ってμ'sの活動を始めて最近、表情豊かになったって」
「……真姫ちゃんは、μ'sの活動を楽しんでるんですよね?」
「え? 和木さんの話だとね」
……稲妻の様に、私の中で強烈な違和感が走り抜けた。
「でも――」
八坂さんは続ける。
「でも?」
「院長にもしμ'sの活動がばれてしまったら、きっと大問題だろうね」
「えっ?」
えっ? なんで?
「真姫お嬢様の御父上、この病院の院長は真姫お嬢様を医者にする気でね。真姫お嬢様も医者に関しては特に不満もないようだし、なる気満々らしいけど。ただ、真姫お嬢様がオトノキに入学したのは、この地と深い結びつきを付ける為なんだよ。ただそれだけの為」
私は頭の中で、何かがはじけた。
「院長にとっては、μ'sの活動を真姫お嬢様がしてるなんて知ったら――勉強の邪魔だって言うだろうね」
何故だ。何故親が子の行いに口出しできるのだ。お金があって、家も広くて、余裕があって、真姫のやりたいことが、何故できない。
なぜ胸を張って親に自分のやっていることを言えない。
真姫が何をしようと、真姫の自由だ。ましてや悪い事をしている訳ではない。むしろ廃校阻止に力を貸す、誇るべき行いなのに。
「止めさせない。八坂さん、ありがとうございました!」
「えっ? あ、うん?」
私はカバンを引っ掴むと肩を怒らせて診察室を出た。
真姫は私たちの仲間だ。真姫自身が選んでμ'sに居るのだ。子どものやることを応援できない親がいていいものか。
髪の毛を弄って私を待っていた真姫ちゃんが、私を見て頬を赤く染める。
この不器用で自信家で不器用で優しい後輩を失うものか。私は、彼女に誓ったのだった。
だから翌日、真姫が泣きながら屋上に来た時、焦る皆を横目に私は、興奮していた頭の芯がすっと冷えて行ったことをよく覚えている。
今日はここまで。
「PV完成おめでとう! 私達も昨日知ったわ」
「いやぁ、皆かわえかったで~!」
希と絵里の言葉に、μ'sの六人は花が咲いたように満面の笑顔を咲かせた。まあニコが一番きれいなんだけどね! ね!
ワイワイ騒ぐ六人だったが、ふと穂乃果が絵里の方を振り向く。
「絵里ちゃん! 希先輩と一緒にこれを気にμ'sに入ってくれるんだよね?」
「はい?」
穂乃果の突き抜けるような笑顔に、絵里の表情が凍りつく。希は「希先輩と一緒」という単語を出来るだけ聞かなかったことにしつつ、他人事に笑っている。そして絵里は凍りついたまま、私の方を見る。こいつ、私が原因を作ったと思ってるな。
そう思って私は希を睨む。するとさらに突き抜けるような笑顔がもう一人。
「だって希ちゃんが、イヤよイヤよも好きの内、その内絶対共感して折れるんよ~、って言ってたにゃ!」
絵里が私から希に視線を向ける。
私はニヤニヤしながら希を見た。
「の、ぞ、みぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
「あはははははははは! だってエリちホントのことやんな?」
「ひっ、ひひひひははははははは! あ~可笑しい! でも、ふふっ、絵里、もう折れた方が良いニコ? ぶっふふふふ!!」
「! 絵里ちゃんと希先輩、遂にμ'sに!?」
ことりがキラキラと目を輝かせる。ここで食いつくのがことりだったので、少し驚いた。
後ろで海未がやれやれと苦笑を浮かべていた。
「衣装作る数が増えてうれしいんですよね、ことり?」
「うんっ!!」
ああ、なるほど。ことり、衣装作るとき凄く楽しそうだもんね……。
「エリち、もう折れてもええんやない? 不器用さんとはさよならして、そろそろ廃校阻止をモットーにしよ?」
「絵里、私達と共に――どうですか?」
「絵里ちゃん! μ'sに入ってよ! 私、絵里ちゃんと一緒にやりたいの!!」
「私、絵里ちゃんのこと昔からずっとカッコイイって思ってて――絵里ちゃんと一緒に活動できたらって――花陽、そう思ってて――」
たじたじになる絵里。そしてさ迷った視線は私に。
「生徒会長、学生の悩みには答えるのが会長ってもんでしょ」
私の言葉に、絵里は少し微笑みながら溜め息を吐いた。
「――私も素直になりますか!」
絵里の言葉に歓声が巻き起こり、少し遠巻きに眺めていた希が優しく微笑んだ。
「生徒会の事ならウチに任せとくん! 少しくらいならエリチのぶんも……」
希が嬉しそうに絵里を見つめる。おっと、旅は道ずれ世は情け。
「ありり? 副生徒会長は一緒にやってくれないニコ?」
「えっ? わ、私は――」
動揺を逃さない。
「希? 逃がさないわよ?」
絵里とにこがじりじりと距離を詰めて、二人の後ろに穂乃果と凛が後詰に控える。
視線を彷徨わせ、比較的助けてくれそうな海未に狙いを絞ったが、海未は無言で首を横に振り、微笑んだ。
希は少しだけ嬉しそうに、困り顔を浮かべて、差し出された凛の手をつかんだ。
そして、絵里と希が頭を下げて――もう一度歓声が上がった瞬間。
屋上のドアが――運命のドアが、重く開いたのだった。
真姫が屋上にやってきて。
凛と花陽が「真姫ちゃん!」と名前で呼んで飛びついた瞬間。
彼女の口からは、さっきの絵里と希とは対照的な言葉が漏れた。
「私、今日でμ'sやめるから」
凛と花陽が固まって。
穂乃果とことりと希が目を大きく見開いて。
私と、絵理と、海未は、顔を見合わせた。
そして花陽が、震える声で、震える足で、震える手で、言った。
「もしかして――おうちの人?」
海未と絵里が、私を見る。
「私、もう、μ's――続けられなく――」
もうその後は聞き取れなかった。
うああああああ、と決壊したダムの様に、真姫は屈みこんで泣き出して。
何度も何度も謝りながら。親に許しを請う子どもの様に。彼女は、強く、強く、声が枯れるまで、泣いていた。
「にこ先輩――絵里先輩――」
「にこ」
「ええ」
この二人に昨日の内に話しておいてよかった。
まさか、PVを作り上げた翌日にこんなことになるなんて。
茫然としながら、私は今後の事を考えていた。
真姫を、奪い返すのは、私だ。
これは真姫の問題じゃない。真姫と、真姫の家族の問題だ。
私の家族像の押しつけだ。
やってやる。
その日、真姫は当然――と言えば当然だが、練習には参加せず去って行った。
一人減って八人になったμ'sは、部室で深い沈黙に包まれながら、やがてぱらぱらと帰路に着き始めた。
「ここで真姫といつも喋ってたのよ。真姫、色んな事話してくれたわ。結構良い子なの」
「なるほどね」
私と絵里はあの公園で、いつものベンチで、ガリガリくんをかじっていた。
いつも真姫と眺めていた遊具で遊ぶ子供たちは、何も変わらない。
真姫の両親にばれた時の事が解っていたこととはいえ、流石に真姫の取り乱し様は心に重かった。
「にこ、貴女はどうするつもり?」
絵里が聞いてくる。解っていることだ。
「決まってるわ、取り返すのよ」
「家族の問題よ。私達がどうこう言えると思う?」
「子どものしたい事に親が口出しできるの?」
「無関係の私達が家族の意向に口出しできるのかって聞いてるの」
「出来るわよ。だって真姫は泣いてたから」
「そうね、私も出来ると思うわ」
家族の問題に口出しする派も口出ししない派も、家族に口出しするべきだと言っている。滅茶苦茶だ。
「海未もね、色々と思う所があるみたい」
「海未も?」
意外な名前が出てきた。何故海未?
「跡取り問題、家の意向、海未も色々あるのよ」
「海未の事までは手が回らなかったわ……」
「そっちは任せてよ。私なりに色々やってみる。昔から私、あの子の事結構好きなのよね」
おっと、大胆。
「バカにしないで。にこ、明日にでも――」
「乗り込むか」
私の答えに微笑んだ絵里はやがてスッ、と笑顔を消した。そして私の顔は見ずにガリガリくんの棒を眺めて言った。
「あの事、目の前で言うの?」
「出来れば言いたくない。でも、皆が言ってもダメなら、私がリボン外すわ」
「そう……頑張るわ」
拳と拳を突き合わせ、私と絵里はベンチから立ち上がった。
今日はここまで。
翌日、私たちは西木野家に殴り込みに行った。丘の上の豪邸と、重く閉ざされた門扉は私達は拒否しているように見える。
インターホンを鳴らすと女性の声がして、私たちは自動で開く門を潜り抜けて招かれざる客として歩みを進めた。
広い庭を抜けている途中、ふと上を見上げるとカーテンが閉められた部屋があった。真姫ちゃんの部屋かな、なんて邪推してみる。
広いリビングの中、真姫の父親の前で私達は正座して、真姫の父親と正対する。
「真姫ちゃんと一緒に活動させてください!」
「お願いします! 私達、真姫ちゃんと活動がしたいんです!」
穂乃果とことりが想いを吐き出して、凛が後に続いて、希に支えられて花陽が思いの丈をおずおずと伝える。
ニコと、海未は、黙ったままで。
絵里が口を開いて、皆が一度黙り込んだ。
改めて自分たちが何者なのか。μ'sがどういった存在なのか。そういう事を端的にわかりやすく、述べていた。
こういう時の絵里は恐ろしく冷静で、頼りになる。
無言で話を聞いていた真姫パパは、やがて口を開いた。
「そんな活動に、真姫を巻き込む必要があるのかね? 真姫は医学部に進まなければならない、そんな活動に精を出してもらっては困るのだよ」
「そんな活動だなんて! 酷いにゃ!!」
「凛ちゃん」
真姫パパの言葉に凛が食ってかかるが、希が制して、絵里にアイコンタクト。
「お父様の仰ることは尤もです。ですが、今の真姫さんは勉強を疎かにした訳ではありません。現に、真姫さんが十分な成績を上げていることは、お父様もご存じのはずです」
「これから先がどうなるか解らんだろう? 君は真姫の成績が落ちたら責任を取れるのか?」
「今までの真姫さんを見てきたお父様なら、真姫さんが成績を落とさずに活動できるとお分かりになるはずでしょう?」
真姫パパの強い視線に一歩も引かない絵里。こういう時物凄い度胸があるのが絵里だ。
と、二人が一度沈黙した瞬間、穂乃果が口を開けた。
「真姫ちゃんを――穂乃果たちに――μ'sにかえしてください!」
端的な願い。熱い思い。しかしそれは、大人に届くような論理的なモノではなかった。
「どうしたの和木さん、騒がしいけれど――」
かちゃり、とリビングのドアが開いて。
私ははっと息を呑んだ。
泣き腫らした後がよく解る、彼女――真姫の瞳。たった二日で、彼女は少し痩せた様に見える。
「なんでみんな、それにお父さん――え? なんで――?」
真姫が驚きを露わにして、狼狽する。余りに予期せぬ出来事で、あまり状況が呑み込めてないようだ。
しかし真姫本人が来てしまっては、私は余り目立てない。絵里をちらりと見ると、彼女は頷いた。
絵里が海未の肩を叩く。絵里を見ずに、海未は口を開いた。
「私は園田道場の娘の、園田海未です」
「ああ――昔からお世話になっているね」
「こちらもです」
そこから、海未の必死で冷静な熱弁が始まった。
彼女の悩み、彼女の想い、彼女の願い。
彼女が一番にしたい事と、彼女が一番に守りたい事。
相反してそうで、それは繋がっているもので。
私達は――特に穂乃果とことりが驚いた表情で見つめていた。
彼女たちも知らなかったのだろう。海未の抱えていた悩みに。
海未は絵里に負けない程すらすらと思いの丈を述べていく。
それは彼女が常日頃から悩んでいたからだろうか? それとも、彼女の成せるその聡さから来るものか?
私にはわからない。
そして海未は頭を下げた。
私達の後ろで、微かに身じろぐ気配を感じた。多分真姫ちゃんが、何かを告げようとしてる。
私は本能的に悟った。これでおしまい。私達の勝ちだって。真姫ちゃんが思いの丈をぶつけて、おしまいだって。
「ならん」
ぴしゃりと。海未の肩がかすかに動いた。真姫がぴたりと動きを止めた雰囲気がした。
私は真姫を振り向く。マズイ。このまま真姫パパの空気に呑まれてしまったら、本当に取りつく島がなくなる!
前に躍り出てリボンを外して叫ぼうかどうか悩んだ。でも、後ろには真姫がいる。こんなところで言いたくはない。
「何故ですか! どうして! 真姫はあんなに涙を流して!!」
海未……。
「真姫、昨日私は言ったな? もう、スクールアイドルはしない、μ'sとやらのメンバーにも近づかない、と」
「は……い……」
「部屋に戻りなさい」
真姫が絶望に体を預けながら去っていく。
くぅ……! くっそ!!
「君たちも帰りなさい。真姫にはもう金輪際近づくな、良いな」
畜生! 畜生畜生畜生畜生!!
私が立ち上がろうとした瞬間。
「解りました。一先ず今日は帰ります。さ、皆帰りましょう」
茫然としている七人は、絵里の声でふらふらと立ち上がり、去っていく。
行き場を失くした私の怒りは、ふらふらと虚空をさ迷う。
「ニコ」
――ここは絵里の言うとおりにした方がよさそうだ。今一番冷静なのは間違いなく絵里。
これ以上私が感情のまま喚いても、父親の心証が悪くなる一方だって、解ってた。
帰り道、私達三人はあの公園に寄った。今日は真姫とアイスは居ない。
私も絵里も、口を開けなかった。希が静かに空を見上げてる。
重い、重すぎるほどの沈黙。
子どもたちが遊ぶ声も聞こえない。
梅雨らしく雨の降った後の公園は、冷ややかに私達を包んでいた。
濡れたベンチに座る私と絵里。私も絵里も、何も見えてなかった。
「にこっちと真姫ちゃんは、一か月ぐらいここでお話してたん」
希の言葉に、私は頷く事で答えた。ごめんね、希。ちゃんと言葉で応えなくて。
「ええんよ。知り合ったころに比べて、PV完成したときには凄い仲良しさんやったもんなぁ」
「わたし」
絵里が降り出した雨の様に、ぽつりと漏らした。
「またやっちゃった」
一度降り出した雨は、止まらない。
「もっと食い下がればよかった。あの子たちにとってニコにとってどれだけ真姫が大切な仲間か少しでも知ってたのに。私が取り仕切って皆を無理矢理黙らせて」
絵里のアイスブルーの瞳にアイスブルーの涙がにじむ。
「エリちの判断は正しかったやん。間違ってなんかないん、あの時のお父さんは、何を言ってもダメやったってわかるよ?」
希が絵里を抱擁する。優しく、頭を撫でながら、ふんわりと絵里を包み込んだ。
大丈夫よ絵里。アンタはいつもそうやって貧乏くじを引くんだから。あの時は引くべきだって、今思えばよーくわかる。
むしろあそこで冷静だったアンタが、ホントに偉いと思うし。
「穂乃果たちの――海未の――真姫の想いを私――踏みにじった――!!」
絵里が歯を食いしばって我慢していた雨は夕立は叫びに変わり、悲痛なそれが公園に響き渡った。
「今日はオムライスニコ~! オムライスには特製ニコニー印! にっこにっこにー!」
こころとここあの前に置いたお皿の上には、ふんわり卵のオムライス。
今日は卵の中にパルメザンチーズをまぶした。チーズの良い香りがする。
ニコが二人のオムライスにケチャップでニコニーマークを描いて、これで美味しさは二百五十二倍!
そんな私が鼻歌交じりにニコニーマークを描いてる途中だった。
「にこにー、どうしたの?」
こころが私に問いかける。どうしたの? と表情で聞き返した。
「にこにー、元気ないね?」
ここあが私に問いかける。ぞくっとした。いや、まさかね。
「にっこにっこにー! まさかこのニコニーの元気がない訳がないニコ!」
せめてこの可愛い妹の前では、気丈に振る舞いたい。
私は一切の隙もなく、笑顔を見せつけた。いつも通りのハズの。
ここあが、ぽつりと呟いた。
「にこにー、手がふるえてる……」
気付かなかった。
「にこにー、ケガしたの?」
「にこにー、つらいの?」
残り少ないケチャップを力いっぱい握りしめて、机の上に少し零れてしまった。
絶対に泣くものか。
「け、ケチャップ、零れちゃったね! タ、タオル! タオル取って来るニコ!」
零れそうになる涙をこらえて、私はその場から駆け出した。
絶対に泣くものか。二人の妹の前で、涙なんか見せたくない。
狭い部屋を駆け抜けて、薄暗い廊下に飛び出し、洗面所に飛び込む。
電気を付けることも忘れて、薄暗い部屋に置いてある洗濯物のカゴからタオルを引っ張り出し、思い切り顔を埋める。
悔しかった。保身に走った自分が嫌だった。真姫の事とパパの事を秤にかけた自分がみっともなかった。
あの場でパパの事を真姫の父親の前で言って海未と同じように一言で断られてしまったら、私は多分立ち直れなかったと思う。
結局私は怖かったのだ。自分が可愛いのだ。自分と自分の思い出の方が大切だから、私は自分を守った。あの土壇場で。
立ち上がろうとしたのも、絵里が止めてくれるって信じてたからだ。
パパのことを切り札にして、それが通用しなかった時の事を考えると怖かったのだ。
それに、パパの死んだことを蔑ろにしてるみたいで。
こんなときパパは何と言うだろうか? 今を生きる人の事を大切にするべき? それとも亡くなった方への敬意を忘れずにするべき?
絵里の前ではカッコつけたつもりだったが、結局絵里はお見通しで、言わせないつもりだったんだと思う。
絵里は、そういう奴だから。
そして絵里に何もかも押し付けて、私は黙り込んだんだ。
「教えてよパパ――! 私は――どうすればいいの――!!」
「ニコちゃんは、どうしたいの?」
優しい声がする。
はっとして、私はタオルから顔を引き剥がして振り向く。
「おかあ、さん?」
「あの人なら、ニコちゃんが思うとおりにしなさいって言うと思うな」
優しい声は続ける。
「ニコちゃんのママはもう居ないし、パパももう居ない。でもね、お母さんはニコちゃんが思う方法を貫くべきだって思うの。だってニコちゃんは良い子なんだもん」
「……」
「ニコちゃん、昔もこんなことあったでしょう? 自分の中で抱え込んでしまって、一歩も動けなくなるのはニコちゃんの悪い癖」
私がどんなひどい顔をしているか、何故こんなに泣いているのか、お母さんは一言も聞かなかった。
「ニコちゃんはお家の事を一番に思ってくれて、私達の事をこんなにも愛してくれてる。ニコちゃんだって、まだ自分の気持ちに整理がついてないのに、こころとここあの事を大切に想ってくれてる」
この人は双子の妹達の事を私がどう思っているのかお見通しなのか。
私が未だに「姉のフリをした」人間だってことを。
「ニコちゃん、貴女がパパとママの事を愛していることは知ってる。だから、多少ムチャやったって大丈夫。パパもママも笑って許してくれるわ。ニコちゃんのお母さんが言うんだもん! 絶対よ!」
私はタオルでごしごし顔を拭う。
「にっこにっこにー! でしょ!」
お母さんの言葉に、ニコは泣き笑いのような表情で答えるしかなかった。
今日はここまで。
翌日、私と希は向き合って教室で弁当を食べていた。絵里は一人で生徒会に居るらしい。
正確には、一人にしてほしいんだと思う。だから私達は深追いしない。絵里には必ずこういう時間が必要なのだ。
だから私達は絵里のことを今は話さない。凹んだ絵里とはいつも必ず時間をおいてから話をするのだ。
「希のスピリチュアルって、この世に居ない人と話したりできるの?」
昨日のお母さんとの話が、私を未だに引き摺っているらしい。私は幽霊とかあまり信じない性質なのだけど……それでも。
「おおうにこっち、藪からスティックに唐突やね」
希のおどけっぷりに少し笑みが零れた。希はこういう時無理せず明るく振る舞ってくれる。だから私も明るく振る舞いやすい。
ツッコミの絵里、私と希はボケに寄ってる。弄られるのは私が多いけど。
「ウチは霊媒師やないし……流石にそういうのんは無理やなぁ」
そりゃそうか……。そもそもそんなご都合がある訳がないか……。
って、私は何を言っているんだろう。死者に会えるわけがない。ちょっと弱気になりすぎているようだ。
「会いたい人がおるん?」
「んーん、聞いてみただけ。希ってパワースポット巡り? とかしてるんだから、そういう力を纏ってたりするのかなぁ、って」
「ふーん……もしかしたらウチ自身に、もう一回そういう力が宿ったりするんかなぁ?」
「もう一回……?」
怪訝そうなわたしの言葉に、希は笑って首を横に振った。
「こっちの話。それよりにこっち今日携帯持ってきてるん?」
「あー……そういや家に忘れてきた……」
「今日も練習はお休みって。まあ、仕方ないなぁって思うなぁ」
「……今日は早めに帰ろうかしら」
私は卵焼きをかぶりつきながら、窓の外を眺めた。
窓の外は曇天で、気持ち良くない天気だった。
六限目が終わって、私は通学カバンを肩にかけた。未だに迷いの綱は断ち切れない。
私の心情を映すように、空の色も灰色にくすんでいた。身体にまとわりつく湿気が鬱陶しかった。
校門を出掛けたところで、私はふと思い出す。ロッカーに教科書を入れっぱなしだった。確か数学の課題が出ていた気がする。
やれやれ、と思いながら帰り道を急ぐ生徒の流れに逆らって、私はロッカーを目指す。
生徒の流れが去った後のロッカー前はがらんとしていた。どこか寂しかった。
本当なら隣には真姫がいて、憎まれ口の一つでも叩いてくれるのだが……。
「ったく……数学嫌いなのよね」
ロッカーから教科書を引っ張り出した瞬間。ピアノの音が聞こえた。
そして、その後聞こえてきたのは、聞き覚えのある歌声。
(この声――真姫ちゃん?)
いつもなら聞こえなかっただろう。静かすぎる廊下が悪いのだ。
――愛してるばんざーい!
――ここでよかった 私たちの今がここにある
――愛してるばんざーい!
――始まったばかり 明日もよろしくね まだゴールじゃない
「……」
気付かされてしまった。
彼女はまだ捨てられないのだ。音楽を。
――まけないゆうき 私たちはいまを……ひぐっ
崩れる伴奏。歌声に混じる、嗚咽。
――頑張れる、から、うぅっ、うあっ
――うぐっ……ぐっ……みんな……ニコちゃん……ごめんね……!
完全に頭の中で何かが切り替わった。
パパ――許してね。
私はカバンをロッカーに突っ込むと、その場から駆け出した。
真姫パパは別に怒る訳もなく、笑う訳もなく、普通に座っていた。
私はニコニコ笑ってた。心の中で渦巻く自分では言い表せない熱い気持ちを笑顔で抑え込んで。
「今日は一人かね」
冷静な一言。昨日よりも冷たくて、私の闘争心を煽ってくる。
「はい、先日は大勢で突然押しかけて失礼いたしました」
冷静な一言には営業スマイルで応答。記者に失礼な質問をされても笑顔で答える技術は、アイドルに必要不可欠。
「謝罪に来たのか? 君は」
「いいえ? 真姫ちゃんを返してもらいに来ました!」
にっこりと。笑顔で。にこにこぷりてぃに。キレッキレの笑顔で。
私の言葉に、真姫パパは微かに苛立った様だ。そりゃ昨日の今日で何度も押しかけられて同じことを訴えられたらそうなるよね。
「――君は昨日は一言も話さなかったね」
「と言うことは、私の事は覚えていらっしゃいませんか?」
にっこりと。笑顔を崩さず。
「……ないはずだが?」
「それは残念です……私は――」
両手をリボンに伸ばす。
「貴方にお世話に――」
そしてそのまま一息に解いて。
「なったんですよ?」
笑顔のままに。パパが死んだとき、私はリボンを付けてなかった。正確には、こころとここあにこの赤いリボンを貰うまで、私はリボンを付けてなかった。
「君は――矢澤の――」
真姫パパが驚きを隠さずに。
髪型だけでもここまでわからないものなのか。私は微かに違和感を感じながら、しかし笑顔のまま挨拶を。
「お久しぶりです。院長先生。父がお世話になりました」
私はまだ捨てられないの、過去も、彼女も。
私は自分の過去を抱きしめながら、今を抱きしめていたいの。
今日はここまで。
「率直に――真姫ちゃんを返してください」
「ならん」
自分の病院で亡くなった患者の娘が来ても、やはり駄目なものは駄目。そんなの知ってる。
「そうですか――じゃあ真姫ちゃんの笑顔を取り戻してください」
「なら――なに?」
営業スマイルで、訝しむ表情を受け流す。
「真姫ちゃんの笑顔を取り戻してください」
「何の話をしている?」
「μ'sやめちゃってから、真姫ちゃんは笑顔を見せてくれました?」
「何を言うと思えば――」
「答えてくださいよ。笑ってくれました?」
ニコニースマイルは崩れない。笑顔は私の武器だから。
「……」
「ずーっと泣いてるんじゃないですか?」
私は笑顔のままクズになる。
「不思議ですよね。カッコイイパパも美人のママもいて、お家は裕福で、頭も良くて美人で。そういう人ってパパもママも居なくて、家も貧乏で、勉強も出来なくて背も小さい子よりニコニコ笑顔なモノじゃないんですか?」
私はクズになる。
「まさか、実の娘の笑顔を奪っているのが実の父親なんて、ありえませんよね? 血のつながってない母親ですら、ニコを笑顔にしてくれるんですよ?」
私はクズ。
「義理の妹ですら、義理の姉を笑顔にできるんです。まさか、大人が、実の父親が、一人娘の笑顔を奪うなんて――」
穂乃果の気持ちがわかった気がする。
唐突に私の耳元――頬のあたりで破裂音がして、私は床に倒れ込んだ。たぶん思いっきり叩かれたんだと思う。
倒れ込んだまま、笑顔のまま、私はけれど真姫パパを見つめる。
「貴様は何が言いたい?」
「真姫ちゃんの笑顔を取り戻してください」
ニッコリ笑顔で。にこにこぷりてぃな笑顔は崩れない。私は幸せ者だから。
「真姫ちゃんがμ'sに戻ることは許してくれないんですよね? だったらせめて、真姫ちゃんの笑顔を取り戻してください」
「……」
「何とか言ってくださいよ」
だめだ。笑顔が崩れてきた。頬が痛烈に痛む。
「真姫ちゃんのお父さんなんでしょ? 真姫ちゃんの笑顔を取り戻してくださいよ」
真姫パパはだんまりで。そんな態度に私の笑顔が吹っ飛んで、そのままの勢いで立ち上がった。
「真姫ちゃんを愛してあげてよ!!!」
涙がこぼれた。
「ママとお母さんは違うんです! この世に居ないパパはもう居ないんです! 少なくともニコはパパに会いたい! なら真姫ちゃんはどうなるの!?」
怒号が止まらない。
「こんなに近いのに! 真姫ちゃんは貴方に認められたいのに! 貴方が嫌いなんじゃない! 貴方が怖いだけだって! 真姫ちゃんの心を知っていますか!?」
あーあ、アイドル失格の怒鳴り声。
「真姫ちゃんは貴方を尊敬してた! だから医者になるって! 自分の夢と! 今やりたいことを! やることは! そんなに相反する事なの!? 娘の笑顔を奪えるほど! 相反する事なの!?」
やだなぁ、こんなの似合わない、ニコ。
「答えてよ!! パパが死んだとき、私にアンタは何て言ったの!? 私は覚えてる! 一言一句間違えずに言える!」
涙が止まらない。
「やめろ」
「『お父様が言っていた通り、御嬢さんは笑顔でいるんだよ。子どもの笑顔は、親にとって最高の幸せだ』」
ボロボロボロボロ零れてくる。
「やめろ!」
「やめない! 『けれど今は沢山泣いていいんだよ。でも、いずれお父様の事を思い出して笑顔になる様になって欲しい』」
「やめ――ろ」
「今のアンタは! アンタが死んだら真姫はどう思うの!? 泣けるの!? 思い出した後笑えるの!? ねえ! 答えなさいよ!!」
「くっ――」
「――ねぇ……真姫を認めてあげてよ……お願いだから……」
ふらふらと――。膝から力が抜けて、私はその場に――。
「お父さん」
崩れ落ちなかった。
柔らかい力で、誰かに抱き留められる。
「真姫――」
「真姫ちゃん……?」
聞かれてた――?
真姫ちゃんが、私に優しく微笑んだ。なんだか違う涙が滲んできた。
「お父さん。私、μ'sを続けたい。お父さんから許しをもらって、お父さんに応援されながら、μ'sをやりたいの」
「真姫……」
「もう一回。パパ、私、μ'sをやりたいの」
「あなた――」
更に後ろ――もう振り向く気力もなかったけれど、真姫ちゃんのママの声だと思う。
真姫パパが――天を仰いで――。
「ああ――私はいつから、こんな嫌な人間になったんだろうな――」
一滴。
「すまなかったな、真姫」
まるで魔法が解けた様に。いや、かかってたんだと思う。悪い魔法に。
ニコは魔法使い。悪い魔法をニコの魔法で吹き飛ばしたニコ! ってな感じ。
魔法を使うと疲れちゃうのは、仕方ないよね。
「ニコちゃん――」
そのまま真姫ちゃんも崩れ落ちて、私と真姫ちゃんは綺麗な絨毯の上で絡まり合って倒れた。
「ニコちゃん――本当に――本当に――ありがとう……!」
ぎゅっと抱きしめられて、顔から火が出そうになる。でもアイドルのニコニーはうろたえない!
「ふふん、この笑顔の天才ニコニーにかかればお安い御用! にっこにっこにーで――」
真姫ちゃんの瞳がじっと私を見つめる。なんだか照れくさい。
「ニコちゃん、ホントにありがとう……にこちゃん……っ!」
「真姫ちゃん――おかえりなさい……っ!」
二人してわんわん泣いてしまったのは、ここだけの秘密。
――今はまだ、この甘美な幸せに揺蕩っていたかった。
今日はここまで。
―― side 海未――
雨が降ると道場の雑巾掛けが大変です。木の床は湿気を吸って滑りにくくなり、力を込めすぎると一向に前に進まず、雑巾がけは終わりません。
かといって腰を入れて雑巾を掛けないとただ床を撫でているだけ。それでは雑巾掛けとは言えません。
こういう修練は、自分を真っ白にできるのです。今の様に、少し心が揺れ動いているときには丁度良いものでした。
「真姫――」
結局私は真姫を救うことが出来ませんでした。それが心の奥底でずっとくすぶっているのです。
食い下がろうとした私やにこ先輩を遮った絵理先輩の冷静さは、今思い返すと感服の一言です。
あの時の絵里先輩は、一体どんな気持ちだったのでしょうか? 絵里先輩だって食い下がりたかったに違いありません。それでも絵里先輩は、冷静さを失った私や義憤に駆られたにこ先輩を押し留め、潔く引き下がるだけの思慮深さを見せました。
「あの人は、凄いですね」
微かに笑みが零れて、私は雨の匂いが柔らかく漂う道場に一人静かに佇んでしました。
私では力不足でした。けれど、にこ先輩ならなんとかなるのでは、と身勝手にもそんな事を考えてしまいます。にこ先輩は真姫に対してどこまでも真摯で、まっすぐでした。真姫もにこ先輩にはよく笑顔を見せている気がするのです。
二人の間柄もまた、私と穂乃果、私とことり、穂乃果とことりの様に、心からの親友と呼べる存在に近づきつつあるのではないでしょうか。そんな事を考えて、私は微かに笑みを浮かべました。
瞬間。ふっ、と。私の誕生日だった日と同じように、微かな人の気配を感じました。
振り向かずともわかります。私の優しい親友は、私の事を気遣ってここまで来てくれたのでしょう。
「海未ちゃん」
にこ先輩に真姫がいるように。私には穂乃果がいます。真姫ににこ先輩がいるように、穂乃果には私がいます。
「穂乃果」
「ごめんね、穂乃果、海未ちゃんがお家のことで悩んでるなんて知らなかったの」
微かに、泣いているようにも聞こえる声。私は振り向いて、穂乃果と真っ直ぐ向き合います。
穂乃果の大きな瞳からは、あふれ出る二つの大粒の涙。
「穂乃果、海未ちゃんとは大親友、生まれる前から幼馴染って言うのに、海未ちゃんの悩みなんて知らなくて」
「穂乃果……いいえ、これは穂乃果に話さなかった私の責任です」
私のなだめに、穂乃果は耳を貸してはくれません。
「海未ちゃんのことは何でも知ってるっていい気になって、海未ちゃんを振り回して、一緒になんでもやってくれるって、勝手に思ってて」
こうなった穂乃果は、頑固です。
ここが穂乃果の良い所でもあるのですが。
「穂乃果」
少し瞳を鋭くして。あの日、自分に嘘をついた穂乃果を叩いた時ように。
目の前の穂乃果は涙を瞳一杯に浮かべています。この涙は私を思いやって流している涙ではありません。
自分が情けないから、私の事に気付けなかった自分に悔し涙を流しているのです。だからこそ、穂乃果は泣きながらここにやってきたのでしょう。
だから私は、穂乃果を泣かせてしまった罰として、その両手を顔の近くに、頬の近くに持ってきます。
「――ッ!!」
「海未ちゃん!?」
道場に響き渡るのは、雷鳴のような破裂音。
私は自分の頬を、思い切り引っ叩きました。
私の平手は拳で殴った時の様に鈍い音が唸ります。いや、本気で叩いてしまえば、大の大人に尻もちをつかせることも可能なのですが、それはまた別の機会に。
「これは私への罰です。穂乃果に相談しなかった、という私への」
ひりひりと痛む頬から手をゆっくりと放して、穂乃果に向けて私が出来得る最大の微笑みを浮かべました。 うまく笑えたかどうか自信はありませんが。
穂乃果はその丸くて大きな瞳を一段と潤ませて、私の背中へと手を回しました。
「海未ちゃんは強すぎるよぉ……穂乃果にも気づかせてよぉ……」
「穂乃果が謝る心配はないのですよ。生まれる前から幼馴染の私と穂乃果の前に、隠し事なんて馬鹿なことです」
穂乃果は真っ直ぐで愚直、眩しすぎる可能性を見据えて尚、前を見つめ続けられるから穂乃果なのです。穂乃果は前を向けばいい。私が隣で後ろや左右、上や足元を見ます。
私が穂乃果の見ている可能性を見続けるには少し、眩すぎるのです。
「穂乃果、私は真姫を救う事はできませんでした。あまつさえ、穂乃果に悲しい思いもさせてしまいました。穂乃果、ごめんなさい」
穂乃果は――今も子供ですが――子供の頃の様に一段と激しく泣き出してしまいました。
穂乃果の小母様の所に電話を入れた方がよさそうです。今日は、穂乃果は私と同じベッドで寝たがるでしょうから。
道場から自宅に戻り、母上に訳を手短に話しました。
穂乃果が私の家に唐突にやってくることは日常茶飯事で、母上も「きぃちゃんの穂乃果さんですもの」とくすくす笑って頷いてくれました。
そんな穂乃果はぐすぐすと鼻をすすらせながらお礼を言って、ぐずぐず鼻をすすらせながらご飯を一緒に食べて――おかわりもしっかりしていたので安心です――お風呂に行きました。
居間で父上に穂乃果が来た訳を話すと、ゆっくりと頷いてお茶をすすりました。穂乃果の小父様と父上も母上同様仲が良いようで、たまに釣りになんか出掛けるようです。
そんな訳で、父上もまた穂乃果の突飛な行動に「そうやって即断即決、素早く行動できることは穂乃果の良い事だ」と神妙にうなずいていました。
私は父上の言葉に頷きで応えます。やはり穂乃果の良い所であると、私も思うのです。
さて。お風呂に行った穂乃果が戻ってくる前に、自分の部屋に戻って教科書や宿題など簡単な見直しでもするとしましょう。
今日は穂乃果に宿題をやれ、何て言うお説教はナシです。こういう日に穂乃果を追いこむことはしません。こういう時は、黙って一緒にいる。それが親友のあるべき姿ではないでしょうか?
私が数Bの空間ベクトルの項目を見ようかなと思った矢先。
また降り始めた雨音しか聞こえなかった私の部屋に、唐突な――。
「着信――?」通話とメールに特化した、簡単ケータイの小さなディスプレイを見て「絵里先輩――?」
絵里先輩から電話が来ることは決して少なくありません。いえ、むしろ穂乃果やことりと同じくらい――割とファニーに楽しく話をすることはあります。
ですが、絵里先輩が個人的な理由で電話してくるのは休みのお昼ぐらいで、平日の夜に電話してくるなんて滅多にありませんでした。
私はブルブル震える携帯電話を握って部屋を出ます。ほんの少しだけ――深呼吸して。
「今晩は、絵里先輩」
外はぱらぱらと雨が降っていて、少し涼しかったです。
携帯電話の向こう側からも、ぱらぱらと雨の音が聞こえます。と言う事は、絵里先輩も外に居るのでしょうか?
〔海未〕
「絵里先輩、今日はありがとうございました」
私が道場で雑巾がけをしている時に頭で考えていたことが、すっと口から生まれ出ました。
何度も考えましたが――やはり絵里先輩がいなければ私は見っともなく食い下がって、真姫の御父上の心証を悪くしたことでしょう。
〔絵里先輩?〕
返事が帰って来ません。
どうしたのでしょうか。
雨音が少し勢いを増したかと思った瞬間。
〔ごめんね〕
「えっ?」
唐突な謝罪の言葉に、私は思わず聞き返してしまいました。一体どういう?
〔――ううん、何でもないの。ちょっと海未の声が聞きたかっただけ〕
今の絵里は少し不思議です。いえ、昔から絵里は真面目そうな見かけをしていますが、実際の所は案外適当な人で、のらりくらりな人でもあります。真面目なのですが割と適当な所もあって、生徒会長と言うよりも才能溢れる運動部のエース、と言う様なタイプの人でした。
真面目な時とのらりくらりな時、絵里はそういう切り替えが上手な人です。
天才肌な一面もあって、何でもそつなくこなせてしまう――そして、やる時はやる。絵里の魅力的な所です。
「声、ですか?」
そんな掴みどころを見せない絵里ですから、今更な感じもするのですが――改めて不思議に思いました。
〔そう、声。海未の声って凄くきれいじゃない? だから、ちょっとね〕
褒められるとくすぐったいのですが、しかし今の絵里の言葉は不思議な――そう、全てが唐突なように感じるのでした。
「私の声を褒めてもらえるのは……なんだか照れくさいです」
〔だって本当のことだもの。海未の声、好きよ〕
ざあざあと、雨音が一段と強くなってきました。
携帯電話から聞こえる音と、私の耳朶を打つ本物の雨音で、雨の勢いは輪を掛けて強く聞こえました。
「ありがとうございます、絵里」
〔いつもそう呼んでくれていいのに〕
「えっ?」
〔ことりも凛も花陽も――みんな高校になってから私のこと絵里先輩って呼ぶんだもの。ちょっとさびしいわ〕
確かに。昔は皆絵里のことを呼び捨てだったり、ちゃんづけだったり、好き放題していたのですが。
絵里が高校に入ってからは――私は自身が中学に入ってからでしょうか――皆敬語に先輩で話をしていた記憶があります。
「エリーチカ先輩、と呼んだ方が良いですか」
〔そっちの方がしっくりくるわ〕
私の冗談に、絵里はくすくすと笑みをこぼします。エリーチカ、という呼び方は母が子どもに呼びかけるようなもので、私が絵里にそう呼ぶのは少し可笑しな感じです。
〔先輩とか、後輩とか、あんまり考えなくてもいいかもね〕
「私もそんな気がします」
二人で笑いあって、それから少しだけ静かになります。
〔海未、ありがと〕
何に対する謝辞なのかは、わかりません。
「いいえ、とんでもないです」
でも、絵里の声音は幾分楽しそうで、私もなんだか楽しくなりました。
かたり、と雨音に混じって床のきしむ音がしました。
視線をそちらにめぐらせると、私の学校指定のジャージに身を包んだ穂乃果の姿がそこにいます。
「すみません、絵里。穂乃果が――」
〔――そう、穂乃果がいるのね。ふふ、羨ましいわ〕
電話の向こうで絵里が微笑んでいるのが容易に想像できます。
「はい、私の最高の――」
〔あー、ハイハイ、ごちそうさま、また明日ね〕
私の回答を待たずにぷつりと切れた電話の代わりに、穂乃果は静かにこちらにやってきました。
「今の、誰?」
穂乃果の少し湿った前髪がぶらんと揺れます。
「絵里ですよ」
私は微笑んで立ち上がりました。
「ふうん」
何故でしょう。どこか。穂乃果に少しだけ違和感を感じますが……。
「海未ちゃん、お部屋行っていい?」
その眼は何処となく、とろん、としていました。微かに少し潤んだ、甘い瞳の色。
そうです、あの日のことりの目に似ていました。私に菊のプリザーブドフラワーを渡してくれた日の、ことりの甘く優しい視線。
降りしきる雨に少しだけ視線を投げ、私は穂乃果の頭を少しだけ撫でてから、一緒に部屋へと向かいました。
雨に打たれながら、絵里は空を眺めた。
胸が高鳴る。心がときめく。
そして、激しい何かが絵里を包む。
雨はまだ、降り続いている。
―side 海未 end―
今日はここまで。
――まこちゃんへ
お返事ありがとう。まこちゃんが元気そうで何よりです。
私の方は大きな事件があったりしましたが、今は元気です。その事件のお蔭で、昔の様にパパとお話したりテレビを見たりすることが増えました。
それも全部μ'sの皆のお蔭です。特に、海未(先輩って呼ぶのはエリーと希の話で禁止になりました)とにこちゃんが私の為にとても頑張ってくれたからです。
思ってることを文字に書き起こすととてもありきたりになってしまうけれど、こんな私の為に頑張ってくれたみんなが、私は大好きです。
前の手紙から気付いたと思うけれど、私も「ちゃん付け」出来るくらいの大切な人がもう一人出来ました。
にこちゃんはいつも不貞腐れていた私を気遣ってくれた、大切な人です。まこちゃんとおなじくらい。
凛や花陽も私にとってかけがえのない大切な友達だし、μ'sの皆も私が素直で(私は素直じゃないけど)いられる大切な仲間です。
でも、にこちゃんは私にとって本当に大切な人です。こんなこと書くと、まこちゃんは妬いちゃいますか?――
「ふう」
ここまでシャーペンを動かして、少し外を眺める。私がにこちゃんの力を借りてμ'sに在籍を許されてから三日。
この怒涛の日々をまこちゃんに伝える為に、私はお気に入りのシャーペンを便箋に走らせていた。
本当に信じられない日々の連続だった。もう戻れないと確信していた、μ'sという居場所に私は引き摺り戻されたのだった。
あの日あの後、私とにこちゃんはいつもの公園まで歩いて行ったのだ。真っ赤なリボンを外したにこちゃんは、どことなく切なそうだった。
そしてにこちゃんの家について――絵里しか知らない、にこちゃんの生い立ちや現在を、私は改めて知ることになったのだった。
「私はクズなの。自称天涯孤独なの、ニコは」
にこちゃんはブランコに腰かけて、ガリガリくんをかじりながら呟いた。
「それって……どういう意味?」
自称天涯孤独――訳の分からない単語で、私はムッとした目線をにこちゃんにぶつける。なぜムッとしたのかはわからない。
そもそも天涯孤独と言う言葉は、身寄りが一人もいないことを指す。今のにこちゃんは確か、お父さんの再婚相手のお母さんがいた気がする。
私の訝しそうな表情に、にこちゃんは乾いた笑いを浮かべた。それが尚更私の首を傾げさせる。
にこちゃんはぼんやりと夕暮た空を見上げて、寂しそうに続けた。
「昔々あるところに、一人の女の子がいました――」
女の子はカッコよくて優しいパパと、可愛くて優しいママと楽しく暮らしていました。
ところがある日、ママが病気で亡くなってしまいました。パパと女の子は悲しみましたが、それを支えてくれた一人の女の人がいました。
パパも女の子も、その女の人は嫌いではありませんでした。むしろ好意的でした。
やがて、その女の人とパパは結婚して、女の子には双子の妹が出来ました。
そしてある日、パパは死んでしまいました。
残された女の子は親切な女の人と双子の妹と暮らしていました。
でも、その女の子は女の人と双子の妹を家族と思えないのでした。
それは女の子の身勝手なわがままでした。
おしまい。
「――って言うお話」
「にこちゃん……それは……」
何て言えばいいのかわからない。にこちゃんは――アタッチメントが強すぎたのだろうか? それともある種のこだわりの強さ? にこちゃん感じていること。私はそれを口にすることが出来ないでいた。
「この話するのはすごい久々な感じ。絵里がウチに来た時に全部ばれてね」
「ねぇ、にこちゃん、にこちゃんは――その――」
「私ね、パパとママが好き過ぎたの。こころやここあ――半分血のつながった妹達を見てもね――ああ、この二人はパパとママの子じゃないんだ、私と半分も違うんだ――って考えちゃうの」
残酷でしょ? とにこちゃんは微笑んだ。初めてこんな笑顔を見た。
「だからね、こころとここあは私のことを一度もお姉ちゃんって呼んだことないの。いつも『ニコニー』ってね。たぶん……二人とも気付いてるんだと思う。私の本心に」
にこちゃんは私にこの話をしてくれた。三日も前の話だ。でも私は、にこちゃんの話に対する明確な答えや返事を放つことはできなかった。勿論、今も。
もうすぐ夏休みに入るし、新しい曲を作るので私も忙しくなる。そうなる前に、すこしでもあの大切な人に対して何かしらのアクションを動かしたい。
私は――にこちゃんに、何を言えばよかったのだろう?
――お姉ちゃんって呼ばれたいの?
――家族の本当に正しい在り方を探してるの?
――私は、ニコちゃんの何になりたいんだろう?
エリーは、にこちゃんに、なんて答えたのだろう?
私はパソコンを立ち上げて、スカイプをオンラインにする。
今の時間ならば、居るはずだろう。
エリーのスカイプのアイコンは『雪だるま』。その雪だるまの横にはオンラインの表示。
私は手慣れた手つきでキーボートをたたく。
「エリー、ちょっといいかしら」
返事は早かった。
〔どうしたの真姫。恋のお悩み?〕
茶化すな。最近ネットでも『にこまきはデキてる』とか言われるが、私たちは同性愛者じゃない。私とにこちゃんは、単に仲がいいだけ。
気軽に煽りあったり、悩みを漏らしたり、つっけんどんに付き合ってもお互い気にしない……気の置けない相手なだけだ。
だから、私達が百合営業だとか、そういう風にネットで言われると本当の同性愛者に申し訳なく思ってしまう。同性愛を知名度向上のネタにするな――って。
けれど、仲間内のエリーにはしっかりとやり返す。
「それはエリーと海未の問題じゃないの?」
結構シビアな私の切り返しは、少しの間をおいてから意外な形で撃ち返された。
〔あー……私は穂乃果やことりと違って、レズビアンって訳じゃないの〕
「えっ?」
予想外の切り返しに、口に出てしまった言葉を思考停止でそのままキーボードに載せてしまう。
〔あれ……気付いてなかった? 私は海未の事を亜里沙とはまた別な妹、みたいな感じに思ってるし、海未も私のことをお嫁に行った歳の離れた姉によく似てるって言ってくれるわ〕
「ちょ、ちょっと待って、穂乃果とことりってその――同性愛者なの?」
〔まあ、ね。にこも同じ事言ってたし、まあ少なくとも穂乃果とことりは海未に友情以上の感情を抱いてるのは間違いないと思ってるわ〕
何と言うか――私も女子高に通っている訳だから、そういう事があるのかな、と思ったことはある。それにアイドル活動を始めてから他校の人間の出待ちを喰らったり、靴箱に上級生からの手紙が入っていたこともある。
まあ私やエリー、海未なんかに手紙を出すのは解んなくもないんだけど……。
しかし、顔も知らない他人に手紙を貰ったりするのと、自分の友人たちが同性愛者であるというのは衝撃の差が大きい。
現実問題として、性別の壁を感じる。しかも三角関係。私と花陽が凛を好きになっているようなものだろうか。
〔真姫? ちょっと大丈夫? ショックだった?〕
スカイプのメッセージで私は元に戻る。衝撃的ではあったが、しかし今日エリーにスカイプでメッセージを飛ばしたのは穂乃果とことりの事ではない。
「大丈夫。流石にちょっと驚いたけど……別に差別したりすることはないから」
〔そこんとこは私も心配してないわ。医者の娘だもんね〕
エリーの軽口は軽快で歯切れがいい。察しが良いから適当に流してくれるのだ。本題ではない会話は。
「ねえ、エリー。にこちゃんの家の事って、誰が知ってるの?」
私も切り込んでいく。私は個人的にエリーが好きだった。というよりも、エリーが持つ雰囲気……エリーに話を聞いてもらえると少し気が楽になる、そんな気がするから。
〔私だけよー〕
エリーの返しはとてもシンプルだった。
「それを聞いた時、エリーは何て返したの?」
迷いのない、右ストレート。
〔そう、大変ね。って〕
迷いのない、右ストレート。
そう、エリーってこんな奴。
〔私がそれを聞いた時は、私達が二年の時。色々あって私がにこの家に行ったときに、全部知ったわ。にこは私に話す気はなかったんだと思う。ばれたから、洗いざらい話しただけで。でも真姫、そっちは違うんじゃない?〕
エリーのアイスブルーに煌く瞳が、私をじっと見ているような気がした。
「ええ、にこちゃんは自分から、話してくれたわ。多分、私に知っておいてほしかったんだと――思う」
私はエンターキーをパチッと押し込むと、絵理の返答を待つ。
絵理の返答は少し時間を要した。鉛筆のマークがせわしなく動き、消しゴムのマークが少し動いて、また鉛筆のマークが動き回る。
〔二人っきりで遊びに行ったことある?〕
それは唐突だった。脈絡のない会話の仕方は凛にそっくりで、思わず失笑した。
「あるけど、突然どうしたの?」
μ's九人一斉に遊びに出かけるのは中々日程が合わず難しい。でもまあ凛や花陽と出かけたことはあるし、にこちゃんと私達一年生で新宿まで出向くことも良くある話。
そんな訳だから、私とにこちゃんが二人で出歩くことは想像に難くない事だった。――特に、にこちゃんとパパがサシで張り合ったとき以来、パパはにこちゃんの肝っ玉に感心しているみたい。更に私達の家族関係を修復してくれたという事で、私がにこちゃんと仲良くすることをとても喜んでいる。
〔でも、ニコの家に入ったことないでしょ?〕
「まあ、呼ばれたことない訳だし……」
〔真姫なら大丈夫よ。ニコが自分から話したわけだから、きっと家に行きたいって言っても困らないと思うわ〕
本当だろうか? 自分の家の事情を話したイコールカモーナマイハウス、と言う訳ではない気がする。
私がどうした物かと返答に困っていると、エリーは続けてこんな発言を投げてよこした。
〔臆病なのね、真姫〕
んなっ……何を――! と言おうとして……やめた。
心当たりは山の様にある。
私は自分から何かをやろうと一歩を踏み出したことがあっただろうか?
私は誰かが踏み出した一歩を支え続けたことはあるか?
踏み出した人間の後押しをしたことはあるか?
自分の夢を諦めずに、独りで歩き続けたことはあるか?
誰かの為に何かを成そうとしたことはあるか?
穂乃果の太陽の笑み、海未の凛とした表情、ことりの優しい笑顔、にこちゃんのアイドルばりの笑顔、そして花陽の後姿。
私は、誰かに言われるまで自分から動こうとしたことはない。
キーボードの横においてある便箋が――『まこちゃん』の文字が私の胸を締め付ける。
私の臆病さが、まこちゃんを傷つけてしまった。
〔ねえ真姫。にこってかなりタフよ。メンタルがね。打たれ強いし、逆境にも強い。仲間を失ってから自分では腐ってたとかいうけど、あいつしぶといから〕
エリーは私の返事など待ってはいなかった。いや、待たなかったのだ。
〔真姫、素直になってみたら? 今の真姫は、自由だから〕
一区切りの後。
〔にこにもっと踏み込んでみれば? そしたら真姫が言うべき言葉も見つかるかもよ?〕
更に一区切り。
〔もし他人に踏み込むのが傲慢だと思うのなら、全部全部真夏のせいにしてさ、もっとキラキラした青春を謳歌してみたら?〕
やっと切り返すタイミングを見付けた。
「何それ、意味わかんない」
〔新曲の歌詞よ、ほら、何だっけ、真夏の笑顔でワンツースマイルだっけ?〕
「エリー、貴女って割と――」
どうしてエリーって、こう、話し上手なのかしら?
やがてエリーは寝落ちしたようで、オンラインのまま反応がなくなった。
何気なくアイフォンを片手に見てみると、もう既に時計は二時過ぎを指していて。
ラインのグループ『まきりんぱな』には「かよちん、真姫ちゃん、明日の英語の宿題の範囲教えて~」とメッセージが来ていた。
凛がラインを飛ばしたのは一時過ぎで、きっと花陽はもう寝ている。だから私が仕方なく返事をした。
「God knows」
――にこちゃんに一歩踏み込む。
にこちゃんに一歩踏み込む私が私を変えていく。
にこちゃんって一体何なのかしら。
哲学だわ。それもまた神のみぞ知る、って事なのかも。
翌日、凛は酷く憔悴した顔で登校してきた。
花陽は平謝りしていた。私は起きてたなら教えてよと愚痴る凛にチョップをかました。
ついでに「ごっどくのうす? ってなに?」って聞いてきたから更にチョップした。
今日はここまで。
もう少しで前スレまで追いつきます。
昼休み、凛と花陽がマリオカートに熱中しているのを横目に、私は窓から花壇を眺めていた。
私の記憶の中のマリオカートと言えばスーパーファミコンや64だったと思うのだけど、最近は携帯ゲームにもなっているのね。
パパが二日三日前に真っ白な体重計を買ってきて、テレビの前でバランス運動をしていたのも最近のゲームだとかで驚いた。
――マリオと言えばキノコとかファイアフラワーよね。フラワー……。
ぼんやりと見つめていた先の、遠目から見えるあの花の名前は何だっけ?
「真姫ちゃん、何か見つけたのかにゃ?」
一勝負着いたのか、凛と花陽が顔をこちらに向けている。凛の持っていたゲーム機からは、私の知っている「でっていう」という声の代わりに「にひゃほー」、という形容しがたい声が聞こえていた。
「またヨッシーえらんじゃったのぉ!?」
呆れた。
「凛、ヨッシーの取り合いはケンカになるわよ。替わりばんこにしなさい――別に何か見つけたわけじゃないけど……ほら。あそこ。希がいるところ分かる? ――希?」
なんで希? さっきまで居たっけ?
「希ちゃん?」
私と凛と花陽は窓から顔を突き出して、目を細める。
「何してるのかなぁ?」
「――」
「……あの花の名前なんだったかしら?」
なんだったかしら? 頭の隅で引っかかっているのだけれど……。
考え込む私に、凛は告げる。
「真姫ちゃんって考え事すると割と周りが見えなくなるよね」
「凛も考え事するとすぐ周りが見えなくなるわよね。特に英語とか」
花陽が吹き出した。
「なにおう! 凛はやればできるもんね! 今日だって宿題間に合ったし!」
「結局私に泣きついたでしょ」
私と凛がやりあっているうちに、希は花壇から居なくなっていた。
居なくなった希に、凛は再度視線を向けた。
その表情は、凛には似つかない、切なさと悲しさの入り混じった表情だった。
その日の練習はオフで、私は海未とエリーの二人を誘って私の好きな喫茶店に寄っていた。
「へぇ、シックで素敵な喫茶店ね」
「まあこの真姫ちゃんが気に入ったところだから?」
「私、あまりコーヒーを嗜んだりはしないのですが……大丈夫でしょうか?」
「大丈夫よ、炭酸もあるから」
「それなら大丈夫そうですね」
そんな軽口をたたきながら、私たちは喫茶店『アップルサンド』に入って行った。
高校一年生になった時にここを見付けた。自転車に乗れない私の休日の過ごし方は、この窓の少ない落ち着いた喫茶店で酸味の効いたコーヒーを飲みながら読書にふけることだった。
あまり他人を呼びたくはなかったのだが、落ち着いて話せる場所を私はここ以外知らない。
それに二人なら私の『秘密基地』に招待してもいいかな、なんて思った・
ドアを開けるとカウンター越しにマスターが新聞から目を上げる。
私は指を三本立てると、マスターは微かに目線を四人がけのテーブルを指した。
「こっち」
私が先導して――といっても先導するほど広くはないけれど――二人を連れ立って歩く。
海未とエリーは隣り合わせで座ってもらって、私は二人の視線を受け止める形に。
「メニューもお洒落ねー……真姫のオススメは?」
「何でも美味しいけど……ブラックはいける?」
「勿論。真姫のオススメとあれば飲んでみたいじゃない?」
「私はアールグレイを」
意外。海未はお茶にするかと思った。紅茶飲むのね。おまけにあのメニュー、紅茶の欄は小さくて見付けにくいんだけど……。
「マスター」
私はそれほど大きくない声出すと、マスターは静かにこちらに向かってくる。
「ご注文は?」
「ブラックが二つ、アールグレイが一つ」
「かしこまりました」
「クールな人ね」
絵理がメニューをメニュー立てに戻しながら微笑んで言う。
海未はお花を摘みに行った。そわそわしていたのもそういう事なのだろうか?
「初めて入った時はどうしようかと思ったわ」
私の言葉にエリーはニヤッと笑った。
「で、なんで私達を呼んだの?」
「……にこちゃんの事」
絵理は意外そうに目を丸くする。
「海未を呼んだの?」
「……海未には、知っててほしいから」
私は海未をかなり信頼してる。私にとって海未はあまりにも強すぎる人で、あまりにも優しすぎる。
海未がどう思っていようとも、私は海未に色々と話しておきたかった。
「ふぅん。良いわねぇ、素直な真姫ちゃんも可愛いじゃない?」
「止めてよ、そういうのじゃなくて……さっきも言ったけど、家の事は色々と伏せながらだから」
「何を話すつもりなの?」
「色々と――にこちゃんに切り込んでいっていいのかなって」
絵理がまあ呆れた、と言わんばかりの表情。
「まーだそんなことで悩んでるの」
「なっ――だって重要なことじゃない」
「まあ、海未に話してみようってのは間違ってないかもね」
絵理はニヤニヤしながら花畑を見つめた。
私にだっていろいろと考えがある訳で。
今はお花摘みを終える海未を待つだけ。
―― side 海未 ――
強烈に――痛みが――。
トイレの個室に入って鍵を掛けたと同時、私は我慢できなくなってうずくまり、頭を抱えました。
ここ最近から感じる強烈な『既視感』。それに伴う『頭痛』。月のものかと思いましたがどうやら違うようで。私はことりや凛とは真逆で、ほとんどそういう痛みは余りないのですが――。
「――ぐっ」
立てない程の痛み。一体いつからこんな厄介なものを抱えてしまったのでしょうか?
また一つ、穂乃果に隠し事をしている私。
この喫茶店に入った途端、既視感が私を襲ってきて、そして席を立った途端もうその兆候はありました。
今まではこの頭痛も耐えれる程度のものだったりしたのですが、今日のこれは流石におかしいです。
しかし真姫や絵里に話すわけにはいきません。真姫はにこの事で悩みがあって、私たちに持ち掛けてきているのでしょう。ここ最近の真姫を見ていればわかります。
だからこそ、ここで真姫の心配になってはいけません。
「――っ!」
叫びたくなるほどの、鈍痛。
誰かの名前を心の中で叫んだような、それもいたみでかききえてしまって。
少し、少しだけ我慢すればきっと痛みも引くはず――。
―― side 海未 end ――
今日はここまで。
海未が花畑から戻って来るとほぼ同時、マスターは私が注文したものを持ってきた。多分タイミングを窺っていてくれたのだろう、と一人納得する。
酸味の効いたコーヒーの匂いが鼻腔をいっぱいにして、深呼吸。多分海未は、何を言ってるのでしょう? みたいな表情になるだろうけど……そこは仕方ない。えいやっ、と階段を四つくらい飛び降りる気持ちで切り出してみる。
「エリーはもう知ってるんだけど――にこちゃんの事で、相談したくて」
意外にも私の予想を裏切って、海未はこくりと頷いた。――海未ってパニックにならない限りは、恐ろしい程落ち着いてるのよね……。
エリーの茶化しを待って少しだけ二人の様子を窺っているが、エリーは少しもその真剣な面持ちを崩さなかった。この前のスカイプは一体なんだったのかと小一時間。
「にこちゃんと私が知り合う前も、それからも――海未、その、私って結構――素直じゃなかったでしょ?」
「確かにそうですね」
「でも、にこちゃんはそんな私にいつも声を掛けてくれた。にこちゃんは私という――病院の娘だとか、お金持ちのお嬢様とかじゃなくて、私の事を気にかけてくれた。それがとてもうれしくて」
「だから『これからのSomeday』ではコンビを組みたかったのですね」
海未の言葉に私は頷く。振り付けを考える時、私は海未と組むことになっていたのだけれど……にこちゃんが私と組みたいと言い張ったのだ。
それは、私が一番気持ちを合わせやすいから。にこちゃんは誰とでもリズムを合わせられるだろうけど、私はそういうところが素直じゃない訳で。
「うん。あの時から既に私はもう――にこちゃんの事を信頼してたのかもしれない」
あの一か月。にこちゃんはするりと私の心の中に溶け込んできた。私の好きな物、嫌いな所、嬉しい事、悲しい事、思い出、夢。にこちゃんはいつも笑顔だった。
「確かににこちゃんは私の心の中に、するりと入りこんできたのだけれど――私はどうなんだろうって」
エリーは満足そうにコーヒーカップを唇に添えている。
海未はさも不思議そうに私の表情を窺っていた。
「――私は今まで他人に深入りしたことはなくて。だから、私は」
「怖いのですね? にこからの否定が」
海未は恐ろしく鋭い。彼女の考える仕草は端正な表情と相まって、本当の大人の様に見える。
そして穂乃果と同じ。穂乃果と海未は二人とも重要な場面では『外さない』。
「解ってる。にこちゃんは私を否定しないって。パパの前であんなに啖呵を切ってくれた理由は、私の為。そんなにこちゃんが、私を否定するわけがないって」
ここ二ヵ月の私とにこちゃんを反芻する。
私にとってにこちゃんは――何?
自問の答えは出ている。
その答えに、確証がないだけ。
この賢い真姫ちゃんを以てして、この答えを決めつけるのにはまだまだ証拠が足りない。
「そうですね。私と穂乃果の話をしましょう」
海未はアールグレイを少し飲み、それから静かに切り出した。
「私と穂乃果は『生まれる前から幼馴染』でした。ですが、私達がお互いに絶対的な信頼をしあったのは、生まれた後なのはわかりますよね?」
まあ、それは。
「はっきり言って、私と穂乃果は真逆です。穂乃果は動的、私は静的。クラスで大勢の友人と騒いでいるのが穂乃果で、私は教室で本を読んでいたり、穂乃果の勢いについていけない人と静かに談笑するのが私でした」
「想像に難くないわね」
エリーは苦笑を漏らす。
「穂乃果と私で話したことがあります。互いに――命すら預けても良いと思える存在に思えたのは、いつだろう、と」
私達は高校生で、命なんて、なんとも実感のない言葉だった。いや、私にとっては少し重い意味を持つけれど、命を語った海未の表情は、パパが患者について考えているときと同じ表情だった。
「小学校三年生の頃です。色々あって穂乃果と夜中に神田明神まで飛び出して――警察の方に私、捕まったんです。正確には、逮捕されると勘違いして、恐怖のあまり動けなったんです。ですから、せめて穂乃果だけでも逃げられる様に……と祈っていただけでした」
エリーが物凄い顔で笑いをこらえている。
多分私も同じ顔かも。
「穂乃果は警察の方から逃げ出して、私は社務所で毛布と甘酒を戴いていました。おしかりを受ける訳でも無く……。ところが、警察の方のたった一言で、私は社務所から飛び出していました。『ここらへんに、泥棒が出た。神田明神に逃げ込んだ』」
エリーは少し笑顔を消す。
多分私も同じ顔。
「私にとってそれは――恐怖でした。強盗殺人と言う訳ではないのですが、当時の私にとって泥棒も人殺しも同じような存在だったのです。穂乃果が死ぬ。殺されるかもしれない。それは――小学三年生の私にとって、世界で一番恐ろしい事でした」
海未の表情は恐ろしく静かだった。
「母上を失うより、父上を失うより。このオトノキを失っても、私が死んでも穂乃果さえいればいい……酷いエゴですね。ですが、その時の私は、例え泥棒と刺し違えても、この身を散らしてでも、穂乃果を護らなければならない――その思いがすべてでした。その時の私は、私が死んでも良かったんです。穂乃果さえ護れるなら、と」
笑顔は消えた。
同じ顔。
「私に降りかかる恐怖に私は打ち勝つことはできませんでした。ですが、穂乃果に降りかかる恐怖には打ち勝つことが出来ました」
海未の思考。
「結果として穂乃果は無事で、私も泥棒と刺し違えることはなく元気に生きています。穂乃果はその後の顛末を知って、それから少し穂乃果の態度が変わったような気がして――多分、そこからがお互いに絶対的な信頼を抱き合ったものだと思うのです」
海未が少し、怖かった。
「海未、こう言っちゃ悪いんだけど――結構ヤバくない?」
「え、エリー!」
私の諌める色を含んだ声に、海未は苦笑を漏らす。
「私もおかしいと思います。思っていました。ですが、何と言いますか……そう、お互いにお互いの為なら死ねる、とでも言いましょうか?」
「「……」」
「これから先、振り返ってみれば若気の至りと思えるのかもしれません。ですが、穂乃果も私も、今のこの気持ちに嘘偽りはないのです」
海未はまた少しアールグレイを飲む。
「結局何が言いたいのかと言いますと、ただの切欠なんです」
海未の表情は穏やかだった。
私は尚更解らない。
「あの神田明神での出来事がなくても、別の一件で私と穂乃果はこの関係に昇華されていたと思います。それは貴女とにこにも言えることで、時間と共にいずれ真姫もにこに踏み込む時が来ると思います。例えどれだけ貴女がにこからの否定を恐れていようとも。何故か解りますか?」
海未の言う言葉。まるで鉄球の様に、重く響く。
「ど、どうし……て?」
「にこが真姫と親しくなることを望んでいるからじゃない?」
エリーが口をはさむ。海未は微笑む。
「な、なぜ?」
「何故って……真姫、友達を作ることに、親友になることに、理由なんてないんですよ?」
私にとって、海未の回答は何よりも――問題集の回答よりも、鮮やかな回答だった。
――side にこ――
「頭痛が起きたり体に変調はありましたか?」
「いえ、特にはなかったですね」
練習が休みだったから、ニコは今もう一度真姫ちゃんとこの病院に来ている。
あれから何の問題もないかどうか、再診という形の様だ。
一連の検査と簡単な質疑応答の後、お医者さんはカルテを書き込んでいく。どうもこのカルテを書いている間の手持無沙汰な時間が、ニコは嫌いみたい。
「そうですか――特に異常も見られません、ですから練習などもいつも通りの激しいものに戻してもらっても構いませんよ」
「ホントですか!?」
マジですか!?
思わず椅子から腰を浮かす。今までは海未ちゃん監修の下、体幹トレーニングと柔軟だけをみっちりやらされていた。
お蔭で腹筋はかなり引き締まったどころではなく、微かに割れ始めてる。柔軟も著しく、ことりちゃんに負けない程柔らかくなった。
相変わらずバストは七十一のままだが。
それは勿論感謝しているが、やはりダンスの練習は遅れている。家でこっそり練習していたとはいえ、やはり一人の練習では限界がある訳で……。
そんな事を考えていると。
「ああ、院長先生が少しお話したいとおっしゃられていたので、時間がおありでしたら……」
「真姫ちゃんのパパが……ですか?」
ニコの思考の渦が声によって切り裂かれる。
真姫ちゃんのパパに啖呵切ったあの日以来、私の評価は妙に良い。何度かお礼を言われたけれど、しかし改まって何か話すことがあるだろうか?
「まあそんなに肩肘張らないでください。院長も何か小難しい事を伝える様子ではなさそうです」
その後はまあ通り一遍のお大事に、の一言の後診察室を出て、最上階の院長室を目指す。
一般人の私がこんなところを歩いていても良いのかと不安になる。
ラグジュアリー系病院って、ニコが頭の中で夢想する高級ホテルと何ら変わりがない訳で。特に最上階に向かえばそれはもう別世界みたいに。
(っと……初めて来た人にはどうにも解り辛いわね)
道順がいまいち解らない。さっき診てもらったお医者さんにメモも貰ったし、多分この道で合ってるはずなんだけど……。
「――なのに――ですか」
「ああ――だから――八坂――だ」
ん? 微かに人の話し声か聞こえてくる。その話し声が誕生しているところが院長室かな?
方向的にも聞こえてくる方が院長室ぽいし。
「真姫お嬢様を――ですが――」
「――だが、いずれ――だ」
気になる単語が聞こえて、私の足は早足になる。真姫?
廊下を突き当たって左に折れると、微かに開いたドアが私の視線を奪う。
「私と妻――出張――真姫――」
「わかりました――いずれ――」
なんだなんだ? こういう盗み聞きはよろしくないのだが、しかしニコの心の引っかかりは拭えない。
なんとなく、聞いておかないと後悔しそうな、そんな感情に囚われる。
院長室と書かれたドアの横で息を潜めていると、中の人が動く気配。
「そういうことだ。後の事は皆に任せる」
会話が途切れた。
ドアをノックするなら今しかない。ニコはにっこり笑顔を作ってドアを三回叩いた。
――side にこ――了
アップルサンドであの後も話をした。
海未はあの後からまた静かになって、エリーは私とにこちゃんの事についてアレコレと聞き出してきた。
私は特に包み隠すことはなく、エリーの質問に答えた。……何気なく過ごしていた日常に、私とにこちゃんの思い出はたくさん詰まっていた。
何故にこちゃんが私を気遣ってくれたのか。それはたぶん、ただ私が不貞腐れているように見えたから。そんな私を気にしたにこちゃんは、私に興味を持った。
それがやがて、海未の言う、理由なんて要らない関係に昇華したのかもしれない。
……私がなすべきこと。私がしなくちゃならない事。
私は、矢澤にこの何になりたい?
まこちゃんの悲しげな表情が浮かぶ。
これは、過去に対する清算だ。
臆病だった私。穂乃果に誘われて、海未に手を差し伸べられ、にこちゃんに引き摺りあげられて、私はいまここにいる。
たぶん、私は後悔する。このままだと、ずっとずっと後悔する。
私は、賢い。だから同じ轍は踏まない。何か胸のつっかえが取れた気がする。
海未がかすかに微笑んでいるような気がして。
臆病な私がたどりついた答えに、微笑んでくれたような気がして。
エリーはニヤニヤしていた。エリーの事だ。きっと私がにこちゃんの事を考えてしまう様な質問ばかりしたに違いない。
私は二人に何か言おうとして、俯いていた顔を挙げる。
「とても良い表情ですね、真姫」
はっ、とするほどきれいな笑顔に、私は海未を直視できなかった。
耳まで赤くなるのは、考えを見透かされてしまったから。
海未と私は一か月しか離れてないのに。どうして海未はこんなにも綺麗で、大人なんだろう?
海未が付けている、今時には珍しい左腕の頑丈そうな時計がやけに目がついた。
「ねえ……その」
私はぽつりと呟いた。
「はい?」
「どうしたの?」
二人は優しく視線をこちらに向ける。
「今……夏に向けて作ってる曲があるでしょ?」
「『夏空スマイル』ですね、仮題が」
「にこがセンターだっけ?」
「うん、そう。でもね、九人の曲とは別に、私達三人の曲を、作りたいの」
エリーと海未の表情が目を丸く見開いた。
「な、なによ」
「いいですよ、私も実は少しこの三人で歌ってみたい詩があるんです」
「私も。ちょっとギター引っ張り出そうかしら」
海未もエリーも、やる気は十二分にあって、私は何だか嬉しくなった。
いや――私が友情を感じている人達も、私に友情を感じてくれているようで、それが、嬉しかったんだ。
今日はここまで。
「エリーって私達と帰り道逆じゃなかった?」
三人で歩く帰り道、ふと私は三人でいることに違和感を感じた。
アップルサンドからエリーの家は真逆だったように感じるし、海未と私もまた少し回り道していることになる。
「ううん、これから海未の家でちょっとね」
エリーはいたずらっぽく人差し指を唇に添えた。何かとエリーはこのポーズをよくする。
「絵里は以前から――穂乃果程ではありませんが――父上の道場で武道の稽古を付けてもらっているんです」
「えっ……そうなの?」
意外や意外。面倒くさがりなエリーが進んでそんな事をしているとは夢にも思わなかった。
「日本の武道ってロシアでも有名なのよ? 弓道剣道柔道空手。私はまあ海未や穂乃果みたいに下地がないから、ゆっくり武道とは何かを学んでるところよ」
「武道……ねぇ」
確か武道とは心技体、礼に始まり礼に終わるものだというくらいの認識しか私には無い。
――百聞は一見にしかず。私も一度見学してみても良いかもしれない。スポーツ医学も学ぶことがあるだろうし。
そんなこんなで話は武道から剣道や薙刀など話は広がり、骨法まで話は広がった。
やがて私は海未と絵里の二人と別れを告げ、礼の言葉も述べさせてもらった。
そしてわかった。……友人達と離れて、独りで歩く帰路は、やっぱり少し寂しいと言う事に。
ウォークマンに登録してある、海未の仮歌の『夏色スマイル』。
それを聴きながら、とぼとぼ歩いていた私の家の門の前に、見慣れた人影が視認出来た。
微かに外に跳ねた髪。ぱっちりと開いた大きな瞳。
アンダーリムの眼鏡を上手く付け熟しているのは、小泉花陽。私の親友だ。
「花陽」
花陽は通学カバンを膝の前に揺らして、私を見付けると優しい笑顔を浮かべた。
私の様に顔つきがきつくなく、彼女の雰囲気は柔らかく、甘えたくなってしまうほどに優しい。
「真姫ちゃん、お帰りなさい。時間通りだね」
「ただいま……って、どうしたの? まさかずっとここで待ってたの?」
もしそうだとすると悪い事をした。
私は急いでポケットからアイフォンを取り出して、ラインの通知をチェックする。通知はない。
「用事があるなら呼んでくれれば良かったのに……悪かったわね、花陽」
私の平謝りに、花陽は片手を顔の前で今にも取れそうなほどブンブンと振る。
「ううん、違うの! その、用事があったのは事実なんだけど……。真姫ちゃん、海未ちゃんと絵里ちゃんとどこか寄って帰るって言ってたから……」
なんともバツが悪い。まるで花陽に隠し事をしていたみたいで。
「その……ごめん花陽」
「ううん、いいんだよ。先輩にしか話せないこともきっとあると思うし。花陽に話しても良いかな? って思った時に話してくれればいいから……ね?」
天使か。
「天使か」
「へっ?」
いかんいかん、心の声が漏れ出た。反省。
「ありがとう、花陽。救われるわ」
私の言葉に花陽はたおやかに笑う。私もこんな風に笑ってみたい。
「さ、入って? 和木さんにミルクティーでも淹れてもらいましょう」
アイスコーヒーを飲んだ後にミルクティーを飲むと、アメリカ人にもイギリス人にも怒られそう。
エリーには怒られずに済むけれど。
そんな事を考える私の背中を、花陽の声が小雨の如く優しく叩く。
「ごめんね、何にも言わずに押しかけちゃって……」
花陽は申し訳なさそうに謝りながら、私の後ろをついてくる。
「良いのよ、これでも結構――嬉しいから」
語尾がごにょごにょとかすれてしまうが、花陽はうん、と頷いた様子だった。
和木さんが私の部屋に持ってきてくれたミルクティーで喉を潤す。
やっぱりおいしい。ちなみに私は午後の紅茶も好き。特にストレートが。
「何だったかしら?」
小さなテーブルを間に挟んで、私と花陽はソファーに腰掛ける。
花陽は小動物の如く紅茶を飲み、ほう、と一息ついた。彼女の黒いタイツが艶めかしく動く。
彼女の性格にしては短いスカートが微かに動いて、視線をこちらに向けた。
珍しく、その視線は力強い。そして、私をじっと見据えてくる。
まるで、それは、凛と咲く向日葵の様な。こんな表情を、花陽は、するのか。
「にこちゃんと……上手くいきそう?」
一瞬――どう形容していいかわからない感情に襲われた。
今日はここまで。
ここまでが前スレで投下した話ですが、ここまでの話の中で前スレと微妙に違うところがあります。が些細な修正です。
次回更新からが前スレの続きになります。
「な、何の話? にこちゃんに、私、そんな、まさか」
私の悪い癖が恐ろしく簡単に口を突いて出て来る。強がりと、見栄っ張りと、どうしようもない意固地と、ちっぽけなプライドと、後はたくさんの、なにか。
「真姫ちゃん」
ぴたりと。
花陽の――初めて見る強い視線。何もかも見通されているかのように、力強い視線。息が詰まる程に、苦しくなる。
まるで時間が止まってしまったかのような、そんな気分。
「花陽がアイドルになりたい理由は、誰かが疲れた時、苦しい時、そんな時に笑顔になれなくても、ほんの少しだけ頑張ってみる気持をあげたいからなの。そんな大それた夢を持ってるんだから、友達の真姫ちゃんが頑張ってる事に気付けなきゃ、失格だよ」
ぽかーんと。花陽って、こんな子だっけ? 脳裏を過るそんな気持ちを知らずか知ってか、花陽は穏やかに笑顔を添えて。
「ね、花陽は応援してるよ。真姫ちゃんが、一歩踏み出す勇気を持つ事に」
「……」
言葉が出てこない。何を言うべきなのか私にはわからない。ありがとうの言葉? たぶんきっとそうだと思う。
でも言葉が口をついて出てこない。口を開こうとして、開いて、また閉じて。それを何度も繰り返してしまう。
「真姫ちゃん、がんばってね」
花陽はそれだけ言い残して、私の前からふわりと立ち上がる。
私は、何も言えなかった。
心の中でなんどもなんどもお礼を言った。
ただ、嬉しかった。
夜空に輝く星。星を見ていると、とても心が落ち着く。広い広い夜空に輝く星はとてもちっぽけで、それを見ている私はもっともっとちっぽけなんだと感じる。
そんなちっぽけな私が抱える目の前の問題なんて、もっともっとちっぽけで大したものではない。
はずなのに。
「……」
テラスに出てアイフォンを握りしめてどのくらい経っただろう。もう一時間以上は夜空の下でうんうん唸り声をあげている。
――ニコが自分から話したわけだから、きっと家に行きたいって言っても困らないと思うわ。
――花陽は応援してるよ。真姫ちゃんが、一歩踏み出す勇気を持つ事に。
これだけ応援されても私の心は少しも動かない。いや、心は揺れ動きはしているけれど、私には勇気が足りない。
過去に出来得なかったことを克服することは、恐ろしく怖い。少なくとも私にとってはとても怖い。
まこちゃんに踏み出せなかったあの一歩は、まこちゃんからの否定が理由だったと今ならわかる。故に今がより怖い。もし、にこちゃんが――
自分でも解るほどの悪循環な思考回路。拒否や否定、嫌悪。そんな言葉が私の頭の中をぐるぐると駆け巡る。
どうしよう。にこちゃんに嫌われたら――。
そこまで考えて、ふと思い出す。
――真姫、友達を作ることに、親友になることに、理由なんてないんですよ?
そうだ。
そうなんだ。
――ねぇ……真姫を認めてあげてよ……お願いだから……
私は知ってるんだ。にこちゃんが私の為にしてくれたことを。
ぶっきらぼうだった私に、にこちゃんがどれだけ心を傾けてくれたか。
私はそんなにこちゃんをもっと知りたい。もっと仲良くなりたい。
「にこちゃんの……親友になりたいんだ、私」
勇気なんていらないんだ。
理由なんていらないんだ。
にこちゃんがどんな人間かですら、私はまだ知らないんだ。
もっとたくさん、矢澤にこという人のことを、知りたい。
だから私は、にこちゃんに一歩、踏み込む。
自分を変える一歩を。そしてなにより、私の為の一歩を。
「――もしもし?」
一学期が終わる日。私と海未はみんなの前で夏空スマイルを披露した。
九人で話し合った結果、『夏空スマイル』は『夏色えがおで1,2,jump!』という曲名に姿を新たにし、絵里の生ギターを力に、さらに夏らしい爽快さと熱く力強い曲調で王道を行くサマーソングにへと発展した。
また、ことりの土下座により海未の心が折れたことで、PVで着る衣装は水着になった。というよりも、サマーソングを作る時点でことりは水着作成に着手しており、海未に懇願している時点では八割方全員分の衣装が完成していたみたい。
ダンス自体も今までにないほどレベルの高いもの――エリーが参入したことでダンスのレベルが格段に上昇した――になった。
また、うちの生徒会長はラブライブ! ……という私達『スクールアイドル』が集う大会で毎年優勝している「A-RISE」のダンスを見てこう言ってのけた。
「天辺、獲りましょうか」
エリーの瞳には何が映っているのか……海未に視線で問い掛けると、海未は呆れの色を少々浮かべながらも微笑んだ。
今日はここまで。
七月。夏休み最初の日曜日のある日。
真っ青で突き抜けるような空を見上げ、私は大きく深呼吸。さんさんと照らす太陽のお蔭か、空気は澄み渡っていてさっぱりしていた。
私は今、この夏の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。胸の中に広がる晴れた空気は私の体中を駆け巡り、気持ちを落ち着かせてくれる。
いや、緊張は決してほぐさなくてもいい気がする。落ち着つかない、飛び跳ねる心は抑える必要がないのかもしれない。今のこの心に宿る期待や恐怖、これは私がずっと知る事のなかった、感じなければならない気持ち。
あの時言えなかった。それはもう取り戻せない。だから今の私がいる。
今にこちゃんに言う。それは今から始める事が出来る。だから今の私がいる。
過去の私と今の私が初めてお互いにまっすぐ向き合ったような気がする。
そして二人の私と私はにこちゃんに導かれるように、今にこちゃんの家に向かっていた。
にこちゃんのくれたメモを片手に、私は歩き慣れた道を行く。大都市に三方を囲まれたオトノキは大体三つの地域に分ける事が出来る。
それは地価の問題で、住みやすい場所ほど、交通の便が良いほど、都市として開発されていくほど地域の区別は明確に見えてくる。
一つ目が私のある家が丘の上や丘周辺、全体的に裕福層が住む地域。私の病院もここにある。
二つ目が海未や穂乃果、花陽や凛といった昔からオトノキに土地を持っている、あるいは絵里やことりの様なそこそこ裕福な人たちが住んでいる地域。
三つ目がどこにでもいる普通の人たちが住む地域。
私はこういう経済力で決まる明確な区別が嫌いだった。
両親がお金持ちであること、家が裕福であること、それは私はとても幸せだと思う。でも、こうやって区別されてしまうと――。
やめた。
こういう考えを持つのは、過去の私だ。
私はにこちゃんに会いに行くんだから。
「で、真姫ちゃんはニコの家の前で十五分もウロウロしてたの」
にこちゃんの鋭い――といっても、それは私がそう感じているだけで、実際はいたって普通の視線のはず。私が負い目の様なものを感じているだけなのだから。
にこちゃんへの弁解を始めるためにも、私は赤裸々な悪夢の十五分を順序立てて説明を始めた。
どうして人の家のインターホンってあんなにも押しにくいのかしら――?
あれから私は特に迷うこともなく、にこちゃんの家のアパートの一階にたどり着いた。いや……迷うほど複雑な道でもないし、徒歩でも十五分もあれば到着できる場所だった。
実際に私は本来の集合時間より十五分も早く着いてしまったし、お陰でにこちゃんの家のインターホンを押そうとして押せずに、何回もにこちゃんの家のドアの前を徘徊してしまった。
そんな私の目の前に小さなにこちゃんが二人、現れたのだった。
「おねーちゃん、何してるの?」
寸分の白も許さない黒髪と、大きく開いた目にまるい瞳はにこちゃんによく似ている。その丸い瞳が私を不思議そうに覗き込んでいて、私は激しく動揺していた。にこちゃんにそっくりだった、という所から私の心は大きく揺さぶられていた。
「べ、ベツに怪しいものじゃ!」
「おねえちゃん、もしかして、マキさん?」
「そ、そうだけど…」
「なんでおうちのまえにいたのー?」
「ちょ、ちょっと外の空気が美味しかったから……」
テンパる私に二人の小さなにこちゃんは小首を傾げつつ、しかし二人は顔を見合わせた。
まるで鏡合わせの様な二人。やがて二人の表情は寸分の誤差も出さず、にっこり笑顔に変化した。
「「にこにーお客さんだよー!」」
私が静止をかけるよりも早く。
二人のにこちゃんはドアを開けてかわいく叫んだ。
嗚呼。運命のドアは私の意志ではなく二人のにこちゃん――きっとにこちゃんが言っていた半分血の繋がった双子の妹たち――に開けてもらってしまった。
あれだけ気合を入れて家を出たのに、この様は情けなさすぎる。
私は心中で頭を抱えつつ、家の主が出てくるのを待っていた。
「まあ緊張するのは分からなくもないけどね」
畳に座って麦茶を飲みながら、にこちゃんはニヤニヤと笑っていた。
だから自分の間抜け具合を話すのは嫌だったのだ。
「だから緊張してたわけじゃなくて……!」
私は意地になって訂正しようとして、諦めた。どう考えても緊張していた、としか考えられない。
だから私も冷たい麦茶に手を伸ばして、一口飲む。
一息吐いて、視線をにこちゃんに寄せて、にやつくにこちゃんを直視できなくて。
にこちゃんから視線を外してコップの水滴を見つめる。髪の毛を触りながら水滴がコップの淵から底まで流れるのを確認する。
「……緊張、したわ」
かぁあああっ、と頬が熱くなる。頬が熱くて、胸がどきどきして、耳が真っ赤になっているのが、わかる。
声も震えていたし、髪をいじる手も微かに震えて、もうみっともなさで此処からいなくなりたかった。
「真姫ちゃん、かーわいい」
にこちゃんの軽口にもう真っ赤で真っ赤で、どうしようもなくなって、視線をにこちゃんに再度当てる。
「ニコも緊張したから、大丈夫だよ」
ああ、もう。
またにこちゃんに、助けられてる。
午前中は別に何かする訳でもなく、私が持ってきたお菓子をつまんだりしながら、こころちゃんここあちゃんと遊んだりしながら、のんびり午前中を過ごした。
ただただ流れていく優しい時間に、心が満たされるような充足感を感じていた。
「さって、お昼ご飯作りますかねぇ~」
こころちゃんとここあちゃんの二人がお腹が空いたと言い出す頃には、もう私のお腹も空腹感を訴えていた。
電話を掛けた時、にこちゃんは昼食の心配はするな、と言っていた。手料理を戴けるとのことで、私はその甘美な言葉に一も二もなく甘えてしまった。
にこちゃんは台所に立つと、赤いチェックのエプロンを身にまとった。
似合ってる……。
「似合うでしょ?」
読心術か。そうなのか。
「にこにーはエプロンがとっても似合うんだよ! ねー!」
「ねー!」
なんなんだ。この不思議空間は。
矢澤にこは台所に立つと、冷蔵庫の中身を確認した。
卵、刻み葱、ウインナー、レタス、細々とした野菜たち、大中小のサイズで作った冷凍おにぎりが各二つずつ。特売で奮発して買った味覇もある。
「よし」
にこはフライパンを引っ張り出すと、油を敷いて弱火で温める。
その間に冷凍おにぎりを電子レンジにぶち込んでやる。
ウインナーを食べやすいサイズに包丁で切り、レタスも適当なサイズに千切ってやる。
弱火の火を中火に切り替えて、冷凍おにぎりの解凍を待つ。
解凍されたおにぎりのラップを一気に外し、全部丼に投入。お箸で形を崩し、卵が入れやすいように真ん中に窪みを作る。
そして卵を割りつつフライパンの温度を確かめる。
「べりぃぐっど、ニコ」
ここでフライパンにウインナー投入。
ウインナーの香りが鼻をくすぐり、にこは箆で炒め始める。
部屋の奥で真姫の「うぇえええ!?」という声が聞こえて、思わず笑みが零れるにこ。こころとここあに何か驚かされたのだろう。
大体の感覚で炒めたウインナーの次は、ご飯。
少し冷めたようで、にこは両手に卵を持ち、惜しみもなく片手で割っては丼に投入する。
殻を捨て、一気にご飯と卵を掻き混ぜる。
(白米好きの花陽にとって、これってどうなのかしら?)
一人の後輩の姿が浮かんで、ちょっと笑ってしまうにこ。
そのままにこはフライパンにご飯を投入。素早く掻き混ぜる。
更に一口サイズに千切り、水気を取ったレタスと刻み葱と野菜たちを投入。
そして最後には味覇を目分量で投入。後は強火で全力で炒める!
「ウオオオオオオオオ!!!!!」
「!?」
奇声を上げるにこに、真姫はぎょっとする。
二人の妹はきゃっきゃと喜び、矢澤家の闇を垣間見た気持ちになる真姫であった。
率直に言うと、非常に美味だった。
スプーンで掬って口に運んだ炒飯の味は、美味しかった。
「どう? おいしいでしょ」
胸を張って真姫に威張るにこ。真姫はもぐもぐと咀嚼した後、一言小さく呟いた。
「すごく、おいしい」
「えっ?」
意外な言葉だった。「まあまあね」とか「まあ、うん」とか、そんな返事が返ってくるかと予想していたにこだった。
が、率直な感想をストレートに投げてきたのが、にこにとって軽い驚きで。
「だから、にこちゃんのおいしいご飯を食べられるこころちゃんとここあちゃんは幸せねって言ったの!」
自棄になって叫ぶ真姫。
「……」
ぱく、ぱく、ぱく。と酸素を求める金魚の様に、にこの口はぽっかりと開いたり閉じたりして。
にこは丸くて大きな目を更に丸く大きくしながら一言。
「あ、ありがと……」
「こころはニコニーのご飯大好き!!」
「ここあもニコニーのご飯大好き!!」
にこの耳が真っ赤になるのを、真姫は見逃さなかった。
同類みたいなものだからだ。
食事が済み、覚束ない真姫の皿洗いに抱腹絶倒するにこ。
昼前に真姫とはしゃいだこともあってか、こころとここあはタオルケットをお腹にかけて、お昼寝モードに。
一息ついた二人で会話する内容は、どんな話題でもよかった。
にこは色々なことを話した。真姫が一つ一つ、聞きたがったからだ。
にこはそれを拒まなかった。真姫は真剣な瞳で、にこの言葉一つも聞き漏らさぬように、耳を傾けた。
真姫はただ知りたかったのだ。矢澤にこという少女が、どんな人生を歩んで生きてきたのか。
真姫には知り得なかった、その彼女だけの人生というものを。
今日はここまで。
「なんだか喋りつかれたニコー」
「でも、にこちゃんのこと、少しだけ解った気がするわ」
夕焼けが少し差し掛かる頃、にこと真姫はほうっ、と息を吐いた。
「でも、よかった」
「?」
にこは心から嬉しそうに、なんの憂いもなくきれいな笑顔を浮かべて。
「真姫ちゃんが、ニコのこととか、家のこととか嫌いにならなくて。ニコの家って貧乏だし、ほら、真姫ちゃんに見せても良いのかなって」
真姫の心を、痛烈に抉った。
家のこと。お金持ち。貧乏。家族。それだけで。
(私はそんなことで……!)
そして同時に、その言葉は、真姫が抱えていた『壁』に真姫を叩き付けた。
お金持ちの西木野真姫は、普通にはなれない。受け入れられることのない、決定的な、差別の壁。
そして何より。真姫が一番に悲しかったことは。
ニコがニコ自身を――。
「――」
「えっ? なんて言ったニコ?」
「意味、わかんない」
真姫はぽつりとつぶやくと、そのまま立ち上がる。
長い前髪が顔にかかっていて、座っているにこからはその表情が窺えなかった。
それが余計ににこの心を不安にさせる。明らかに何かがおかしい。何を言ってしまったのか。
何がいけなかったのかにこは焦る頭で考えを巡らせる。
「ま、真姫ちゃん?」
取り敢えず声を出して名前を呼ぶ。落ち着いてくれるように。
焦りと懇願の表情を浮かべてしまうにこと、悲しさと苦しさに駆られて感情を押し殺せない真姫。
「意味わかんない!!」
今日は何度も顔を赤くした真姫だが、今回は目が真っ赤になった。
紫色と黒色の入り混じる瞳から、大粒の涙が零れた。
にこは怒鳴り声をあげた真姫に驚きを隠せなかった。
涙を流している真姫に驚きを隠せなった。
目を大きく見開いて、狼狽の色を真姫に濃く見せる。
「そんなの関係ない!!」
「な、なにを……?」
「私はどんなにこちゃんでもいいの! お姉ちゃんのふりをした人でも! 人の悪口ばかり言う人でも! ひとりぼっちでお昼食べても! 私にとって、にこちゃんはかけがえのない親友なの!! 私を救ってくれた!! だからにこちゃんを悪く言うのはやめて!!!」
唖然とするにこ。沢山の感情が渦巻いて、整理できなくなって、こころとここあの驚いた表情を視界に映していながらも、真姫から視線を外せなかった。
「にこちゃ――ひくっ……うぇえ……うぅ……そんなこと……ひぐっ……言わないで……」
ぽと、ぽと、と涙が流れる。ただ静かに流れる涙に、にこはどうしようもなく呆然としていた。
何か、真姫に言ってはいけない言葉を、真姫に告げてしまったのだ。
ただ、でも、頭が上手く働かない。
真姫が泣いていて、怒鳴られて、それ以上に何よりも、真姫を傷つけてしまった。
自分のことを親友だと叫んでくれた存在を、傷つけてしまった。
しかし何とかして、真姫に言葉をかけなければ――。
にこは無理矢理口を開けようとした瞬間。
「――ごめんなさいっ」
真姫は目を強くこすりながら、今度は後悔の色を濃く表情に乗せて――。
「真姫ちゃんッ!」
にこの視界から飛び出し、廊下を駆け抜け、家を飛び出した。
にこの頬に、真姫の涙が一粒落ちた。
もう何も、考えられなかった。
「海未さん、流石でしたね」
「亜里沙、もう感激でした……海未さんの生歌が聞けるなんて……」
右に高坂雪穂、左に絢瀬亜里沙。そこに挟まれる少し海未は照れた表情を浮かべていた。
夏休みの日、海未は雪穂と亜里沙に遊びに誘われ秋葉でゲームセンターやカラオケで休みの日を過ごしていた。受験勉強の息抜きとのことらしい。
秋葉の道行く人が微妙に海未のことをちらちら見ていて、海未はなぜこちらをちらちら見ているのかと疑問に思いつつ、しかし雪穂と亜里沙に振り回されて海未は楽しげだった。
秋葉を遊び付くし音乃木坂に戻った三人は、音乃木坂への帰路についていた。
「海未さんの声すごく綺麗でしたよ! 特に雪の華!」
興奮醒めぬ亜里沙を落ち着かせようと、雪穂は笑って落ち着かせる。
「なんだか恥ずかしいですよ、亜里沙」
「本当のことですから!!」
ふんす、と鼻を鳴らす亜里沙。
雪穂はやれやれ、と諦めながら微笑んだ。
「けれど、本当に駅まででよかったのですか?」
海未は念を押すように問うと、亜里沙はまた弾けるような笑顔を見せて答えた。
「はい! 亜里沙の家と海未さんの家は逆方向ですし、そこまでしてもらってしまうと『バチ』? があたります!」
海未はどうしようかと思い悩んだ挙句、結局として折れることに決めた。
「そこまで言うのなら、私も無理に、とは言いません。陽は高いとはいえ気を付けて帰ってくださいね?」
亜里沙は最後まで笑顔で海未に応え続け、大きく手を振りながら帰って行った。
にぎやかな亜里沙が去って行ったあとは、少しだけ静かさがさみしくなる。
「二人っきり、ですね」
「ええ、そうですね……雪穂?」
身長差の関係から海未は雪穂を見下ろす形になる。
そして雪穂が俯いてしまうと、海未が表情を伺うことは難しくなる。
「どうかしましたか?」
「い、いや!」ばっと顔をあげて。「なんか久しぶりですね~って!」
海未は顔を上げた雪穂に少し驚いたものの、くすりと笑って頷いた。
「そうですね。雪穂は私と穂乃果にとっての妹でしたから」
昔の記憶に思いを馳せる海未の表情に、雪穂は顔を一瞬だけ曇らせる。
「そ、そうですよね! どちらかというと、一番やんちゃだったのはお姉ちゃんですけど」
「ええ、雪穂は小さい頃からしっかりしていましたものね」
「……反面教師と、理想の人が、いたので」
りそう、と海未は反芻すると、ああ、と一人合点がいった様子。
「雪穂のお母様は理想の女性ですね」
「あー……そう、そうですね、アハハハ……」
海未からワザとらしく視線を外し、雪穂は肩を落とした。
そんな談笑を続けながら、帰路に付く二人だった。
今日はここまで。
「でも今日は――海未さんと、小さい頃みたいに遊べてとても……海未さん?」
勇気を出して、精いっぱいの今の気持ちを述べる雪穂だったが、海未は別の所を見つめていた。
その表情は険しく、触れるだけで斬れそうな瞳を浮かべて。
「――真姫」
「真姫さん? 真姫さんがどうか……」
海未の視線を追う雪穂。海未の視線の先は車道を挟んだ先の公園で、真姫はブランコに力なく座っていた。
それだけで海未の脳内で違和感が突っ走る。そしてそれに畳み掛けるように、真姫の前には一人の男が立っていた。
「あの人、誰でしょう? 真姫さんのお父さんでしょうか? ――海未さん?」
雪穂が海未に視線を戻した時には、もう海未の姿はなく。
矢の様に車の間をすり抜け、公園と歩道を分ける、雪穂の腰まではあろう柵をハードルの様に悠々と飛び越え、砂利を蹴り飛ばし駆け抜けた。
「海未さんもお姉ちゃんのこと言えないくらい、猪突猛進だよねぇ」
雪穂は苦笑を漏らしつつ、車が来ない事を確認してから車道を渡り、柵を乗り越えた。
「真姫!」
真姫に近づいた時は、海未は小走りになっていた。正体不明の男を刺激せず、警戒していることを悟らせないためだ。
「うみ……?」
真姫は光のない目を海未に見せる。
明らかに様子がおかしい、海未はそう判断して男の方を静かに見つめる。
微かに男から香る、柑橘系の香り。
「初めまして、私は彼女の友人で園田海未と申します。失礼ですが、あなたのお名前をお伺いしても?」
男は海未を一瞥すると、笑顔で海未を見つめた。
「ああ、僕が来たときには真姫お嬢様はこうで――ああ、名乗るから待ってくれ。僕は八坂、西木野総合病院の外科医だ」
八坂はそういうと、お尻のポケットから――海未は八坂が手を後ろにした瞬間身構えた――一枚のカードを見せた。
そこには顔写真付きで、西木野総合病院 脳外科担当医 八坂 と書かれていた。
「失礼致しました。私、てっきりあなたが真姫に何かしたのかと――」
海未は深々と頭を下げると、八坂は笑って手を振った。
後ろから雪穂が追いかけてきて、海未は頭を上げる。
「海未さんってば昔からそうなんだから……真姫、さん?」
真姫の表情は、面識の薄い雪穂にすら異常であることを悟らせた。
不安げに海未を見つめる雪穂だったが、海未は雪穂に優しく微笑み、八坂に向き直る。
「真姫に何があったかは御存知ですか?」
「……僕の見立てだけど、外傷はないし、呼吸も脈も正常だ。心的なショックによる一時的な虚脱感――と見えるね」
(ショック……心的外傷……?)
海未はその言葉に嫌悪感に似た感覚を強く覚えつつ、八坂を見つめる。
「園田さん、すまないが真姫お嬢様を車まで運んでもらえるかな?」
八坂の申し出に海未は頷き、真姫をブランコから立たせる。
雪穂少々戸惑いを見せながらも真姫の体を支えた。
「真姫、無理はしなくて構いません。私に体を預けてください」
海未はだらんとした真姫の体を支えると、さっと体の前で膝と脇の下に腕を差し入れ抱きかかえる。
「う、み」
海未に抱き抱えられる形になった真姫は、ぼんやりと海未の顔に焦点を合わす。
海未は真姫の視線をまっすぐに優しく受け止めて、微笑んだ。
「はい。私も雪穂も居ますよ」
「やさか、さん、は、いいひと、だから、あんしんして」
一連のやり取りを、真姫は虚ろながらも聞いていたらしい。海未は真姫から視線を外し、車の方へ小走り向かう男を少しだけ見つめた。
そしてそのあと、海未は照れ臭そうに笑って言った。
「ふふ、私も穂乃果の事を言えませんね」
雪穂がくすりと笑って、海未を先導するように歩いて行った。
翌日、真姫は体調不良で練習を休んだ。
「今日は真姫が休みなんだけど、皆連絡は回ってるわね?」
学院の屋上で、絵里はクリップボードを持って七人に問い掛けた。
七人は思い思いの反応を見せるが、海未とにこだけが少し反応が悪かったのを、絵里は見逃さなかった。
「ニコ、海未、真姫から何か聞いてるの?」
「いいえ、特に理由は聞いていません。穂乃果とことりからμ'sのグループラインの通知を読んだだけです」
絵里の問いに海未はあっさりと嘘を吐く。
「そう。ニコも特に聞いてないのね?」
「えっ? あ、なんだっけ?」
靴紐を結んでいたにこは、絵里の呼びかけにハッと顔を上げる。
にこが顔を上げた時、七人の視線がにこを不思議そうに見つめていて。
「にこっち? にこっちも体調悪いん?」
希が不安そうににこに近寄る。深い紫色の髪の毛が揺れて、座っていたにこの前に屈む。
そのまま希は左手を自分の額に、右手をにこの額に当てて目を閉じた。
ふわりと優しいシャンプーの香りに、にこは少し頭が冴えてきた事を感じる。
昨日、真姫が家を飛び出した後、入れ違いで母親が帰宅した。
呆然としていたにこと、にこの傍で立ち竦んでいるこころとここあ。考えがまとまらないまま、にこは呟いた。
「真姫ちゃん……」
「にこちゃん、いったいどうしたの?」
母の優しい言葉に、頭は徐々に落ち着きを取り戻す。
にこは一連の流れを噛み締めて、整理を始めた。
「友達を怒らせちゃって……でも何が原因で怒らせたかわからないから、今考えてるの」
苦笑いを浮かべるにこに、母は鞄を降ろしてにこの頭を撫でる。
「そう。にこちゃんなら大丈夫。きっと、何を言っちゃったのか、わかるはずよ。大丈夫。――こころ、ここあ、おいでー?」
優しい言葉と、放っておいてほしいというにこの感情を読み取り、望みどおりにしようとした母の姿に、こころとここあはそこから動きはしなかった。
「にこにーは、こころたちのおねえちゃんだよ?」
「にこにーは、ここあたちのだいじなおねえちゃんだよ?」
「――――」
違う。そうじゃない。
私は自分も他人も騙しているだけだ。
ママが死ななければ、パパが死ななければ、私は『アイドル』を心の奥から目指せたはずなのに。
この名前が、パパの言葉が、パパが私の前からいなくなってしまったからこそ、私は私を呪うのだ。
アイドルを目指すのではなく、『他人を笑顔にする存在』になれ、その為に『アイドル』になれ。
今ならわかる。パパのあの言葉はなんでもない、ただの私が歩いていく道のりの一つを指し示しただけ。
でも、あの頃の私にとっては、私を真に理解してくれる最後の一人だったのだ。
パパが私に告げた言葉は、私の人生の方向を決定づけることと、私という存在のあり方を決定づけることは、容易だった。
パパが死んでから、私はママとパパが望む私を演じ続けた。やがて私は自分が誰なのか、よく解らなくなった。
唯一理解していたのは、矢澤にこは、アイドルになるという事。アイドルになって、多くの人を笑顔にするという事。
そう。私は、アイドルになるという呪いを自分にかけたのだ。それこそが私。私を理解してくれている人が示してくれた、矢澤にこという人生の歩き方。
そしてこの生き方は、きっとパパもママもお母さんも、望んでいない。
でも私は、これ以外の生き方を、選べない。私にかけた私への救済の呪いだから。
――パパの言葉に縋り付いて、私は笑顔を張り付けて、本当の私を見失ったまま、私は姉にも娘にもなれず、大好きなパパとママの娘を演じ続けるんだ。
私はパパを失ったその日から、一歩も進めていないんだ。
「にこっち?」
希の問いに、にこは乾いた笑みを浮かべる。
「大丈夫。ちょっと寝不足気味なだけ」
「……そうなん? ほんまに?」
希の前髪がぶらんと揺れて、にこの小鼻をくすぐる。
にこは希の前髪を優しく撫でて、微笑んだ。今度はいつもの明るい笑顔で。
「にっこにっこにー!」
希の視線を切り払うようににこは立ち上がる。かすかに不安そうな希をにこは振り払って、おどけた笑顔で絵里を見据える。
「絵里ちゃんごめんごめん、ニコも真姫ちゃんの事は何にも聞いてないニコ!」
にこの言葉に絵里は納得していなかったが、ここで追及しても堂々巡りになると感じた。
だから、絵里は金色の髪をぱっと掻き上げて不敵な笑みを浮かべる。
「そう、わかったわ。もう少しニコには三年生としての、最上級生としての自覚を持って欲しいわね」
そう絵里は悪戯っぽく、或いはワザとらしく窘めるとにこはおどけてぴょんぴょんとその場でジャンプした。
「海未ちゃん?」
そんな光景を一部始終眺めていた海未は、険しい表情を浮かべていた。ふとそんな海未を視界に捉えたことりは、海未を心配そうに見つめる。
「どうかしたの……?」
ことりの不安そうな声に、海未もパッと表情を明るくする。
「いえ、大丈夫ですよ。真姫の事が少し気になっただけですから」
決して嘘は吐いていない。真姫の事が気になっているのは事実だ。だから、嘘じゃない。海未は自分にそう言い聞かせながら、ことりに優しく嘘を吐いた。
ことりはそれでも不安げに海未を見つめていたが。
「じゃあ今日は歌よりダンスメインで練習するわよ! 特ににこ! 貴女のソロは大サビ前の大事なところなんだから、今日はビシバシ行くわ!」
「ふふん! 望む所ニコ!」
絵里の練習を始める声と、威勢のいいにこの買い言葉に気圧されて、ことりも海未からなんとなく引き下がってしまった。
同時刻。西木野総合病院。
柑橘の香りだった。
鼻孔を擽る、甘ったるい香り。
ぼんやりとした頭で、真姫は灰色の丸椅子に腰かけていた。
ふわふわして、いい気持ち。
そんな香りと気持ちに身を委ねていると、声が聞こえてくる。
これもまた、優しく柑橘の様に甘い響き。
この人なら、安心だ。この人なら、信頼しても大丈夫。
そう、この人なら――。
「――女子高生ってのはどうしてこう、甘いのかな」
八坂は真姫を前に、小さく呟いた。
今日はここまで。
μ'sの練習はいつも通り朝から夕方まで続き、その後自主練習する者もいれば帰って遊ぶ者もいるし、学校に残って練習以外でアイドル研究部に関する雑務をこなす者もいる。
ことりと希、花陽は衣装の細かいところの手直し、穂乃果と凛は海未からデュエットソングの歌詞を貰い、その歌の練習を音楽室で行っていた。
海未は家の事があるからという事でいつも通り早々に帰宅し、にこと絵里もアイドル研究部の雑務をこなした後、戸締りを希に頼み、帰路についた。
絵里の誘いで途中のコンビニでガリガリ君を買って、公園に二人で寄り道する。
いつもの公園は、子供たちの声で騒がしかった。滑り台を滑り降りる子供、砂場で穴を掘る子供。
いつもと変わらない風景に、にこは微かな苛立ちの様な思いを抱いた。
「相変わらず真姫と海未は凄いわね」
「作曲と歌詞?」
「そうそう」絵里は口に咥えたガリガリ君を一度離し、呆れたように呟いた。「この夏で三つよ? 夏色えがお、豆一、豆二。プロの作詞家作曲家も顔負けじゃない?」
絵里の言葉ににこは半笑いで答える。
ガリガリ君を口から離し、苛立ちを抑えつつ、平常心で絵里を見つめて。
「何その略し方。マーメイドフェスタ、でしょ?」
「それがね、海未と真姫がやり取りするとき言ってるの聞いちゃってね」
「その略し方?」
「そうそう。これからのsomedayはこれサムだって」
絵里は楽しげに笑って、つられてにこもニヤッと笑った。
にこが絵里に笑い掛けた時には、絵里はもう表情を失っていて、鋭い視線だけがにこを射抜いていた。
「真姫のとこ、寄って帰るの?」
にこの視線を受け止めた後、絵里はブランコに腰かけ、夕焼け空を眺めながら言った。
真っ赤な空はにこの目に染みて、絵里の言葉に対する返答に窮した。
絵里の隣のブランコに腰かけて、無言になって、黙りこくって、上唇と下唇がくっついて。何も言えなくなって、ブランコを小さく揺らした。
「だんまりだと良くないわ、ニコ」絵里は微かに笑いながら呟いた。「私が原因です、って認めてるようなものじゃない」
「否定できないのよね」
ニコは俯き絵里の言葉に答える。絵里はそんなにこの様子に苦笑を浮かべ、ガリガリ君を齧った。
「なんかやらかしたの」
「真姫を怒らせちゃったのよ」
「いつも怒らせてるくせに」
「今回は違う!」
思わず声を荒げるにこに、絵里は余裕の態度を崩さない。小馬鹿にした態度にも見えた絵里の姿に、にこの苛立ちは加速する。
「あら? 真姫の事本気で怒らせちゃったわけ?」
「アンタね!」
ブランコから勢いよく立ち上がる。拍子にガリガリ君がにこの手から滑り落ちて、足元に落ちた。
「――ッ!」
乱暴に絵里のシャツの襟を掴む。絵里が憎かった。
ぶん殴ってやりたいほどの激情に駆られて、拳を振り上げた。
襟を掴み引っ張り上げた拍子に、絵里の体もブランコから浮き上がる。にこと絵里の顔が肉薄し、お互いの表情がぶつかり合う。
優しげに、或いは悲しげに微笑む絵里。
行き場のない、怒りや悲しみ、戸惑いや不安を色濃く映すにこ。
「殴ってもいいわよ」絵里は微笑みを絶やさない。「それで気が済むなら何発でも殴りなさい」
「……」
殴れるわけがない。殴ったって解決しないんだから。にこはそう呟くと、絵里は満足そうに微笑んだ。
「そうよね。本当に解決するなら、私は貴女に何発殴られても文句は言わないわ」
「なによ……」
「今のにこ、酷い顔してるわよ。本当に、見てるこっちも辛い位」
絵里の表情は悲しそうににこを見つめていた。
自分が今日一日、どんな表情をしていたかなんてわからない。
絵里の白い手が、にこの頬を淡く撫でる。そのまま目元まで伸びて、長く伸びた前髪に触れた。
「にこ、私も貴女が動揺してることくらいわかるわ。三年の付き合いよ? 貴女が真姫を傷つけようと思って傷つけた訳じゃないことくらい、オミトオシなんだから」
「――ほんと、敵わないわね。アンタには」
両手の力を緩めて、襟から手を放す。
強い皺が出来たシャツの襟を、絵里はゆっくりと整える。
「にこ」
優しく声をかけ、にこを静かに抱き寄せる。
にこの頬が絵里の柔らかい胸に包まれる。
「――えっ」
「えっ?」
「絵里……あんたブラは?」
「暑いと谷間が蒸れるから、帰りはつけてないの。楽だし」
「殺す」
海未のいない、ことりと穂乃果の帰り道。ことりにとって穂乃果と一緒に帰る道のりは、三人で帰る道や海未と二人で帰る道とはまた違った顔を見せてくれる。
穂乃果の思いつきであっちに寄ったり、こっちに寄ったり。自然と穂乃果に振り回されるのがことりにとって心地よくて、楽しかった。
今日もお喋りしながら楽しく帰路をたどっていて、気付くともう別れ道まで着いていた。
「ねぇ、ことりちゃん」
「?」
「海未ちゃんとは、進展あった?」
「!?」
そして思いつきで言動をかっ飛ばす穂乃果に、ことりはいつも驚かされたり、思考が追い付かないまま一緒に思いつきの行動に併走したりする。
そして今回は死ぬほどびっくりした。
「なっなあなななんあなななあなあはねけちぇん!?」
死ぬほどびっくりしたのでまともな言語が口から生まれることはなかった。
「ことりちゃん、μ's結成してから二人っきりになるの避けてるでしょ」
「……だって……」
リーダーとして一直線にμ'sを牽引していく穂乃果。彼女の隣で前以外のすべての方向を確認しつつ、穂乃果と足並みを揃えて駆け抜ける海未。
それと同時に作詞を行い、絵里と練習メニューを考え、μ'sの練習をこなし、家の決まりである武道と舞踊の鍛錬をすべてこなす。
「海未ちゃん、いつもおうちの事とμ'sの事で忙しいし……」
「でも、ことりちゃんはそれでいいの?」
「海未ちゃんの負担にはなりたくないから……」
「負担って……そんなの……」
穂乃果の強い視線に、ことりは何も言えなくなる。
ことりの胸中を知っているから、穂乃果はじっとことりの想いを強く見据える。
穂乃果の視線を受け止められなくて、ことりは次の一手を打つ。
自分でもずるい一手だとわかる。
けれど、それ以上に穂乃果の強いまなざしを受け止め続ける方が、つらくて苦しかった。
「あ、も、もう分かれ道だね! じゃあね穂乃果ちゃん!」
「あっ、ことりちゃ……うん……ばいばい……」
ぱっ、と踵を返して視線から逃れる。
一瞬見える、穂乃果の沈痛そうな表情。ことりの言葉に傷ついた、そんな表情。心が張り裂けそうな感情を、ことりは必死に抑え込んだ。
そして自分を罵る。なんて自分は馬鹿なんだろう。
親友の言葉から逃げ出して、自分の気持ちを考えることもせず。
ことりは下唇をかんでただ一心に走り続けた。
穂乃果は思った。
ことりが海未に寄せる思い。それが海未の負担になるならば、穂乃果が海未に寄せるこの思いも、海未にとっては負担になるのか?
ことりならばあるいは、穂乃果に叶える事の出来ないその美しい未来を歩めるのかもしれない。
だからこそ、穂乃果は応援すると決めたのに。
「……ずるいよことりちゃん。穂乃果の想いまで、負担にしないで……」
少し暗く翳る空、微かに見える一番星は、夏の空に似合わず冷たく輝いていた。
翌日。
三十分だけμ'sの練習に遅刻して行く。真姫はニコに顔を合わせるのがどうしようもなく辛かった。
ニコの事を考えるだけで自分を罵倒したくなる。そんな真姫はいつも通り起床しても、ベッドでぐだぐだしてしまっていた。
気付けば練習時間に間に合わないことが分かり、三十分だけ遅刻すると伝え、早々に制服に着替えた。
学院への登校は、夏休み中であっても制服でなくてはならない。
鬱々とした気持ちを抱えながら、真姫は家のドアを開け、ゆっくりと広い庭を歩く。
歩きながら、どこまでも続く、突き抜ける青空を見上げる。
心はどこまでも、重い。
「なんであんな事言ったのかしら……私」
一昨日の事が鮮明に思い出せる。
驚きと困惑と狼狽を見せたにこの表情。
それが脳裏を浮かぶだけで、自分をめちゃくちゃにしてしまいたくなる。
にこが気にしていること。自分の出生や家の事。それらは真姫と境遇は違えど抱える本質は同じだったのだ。
それを真姫は『そんなこと』だと思い、『意味が解らない』などと怒鳴り散らし、感情のままにこの前から飛び出してしまった。
にこは真姫を想い、気遣い、己の過去に向き合いそれを利用してでも真姫を救い出してくれた。だから今、真姫はμ'sにいる。
「意味が解らないのは、私じゃない」
真姫が一人呟くと、庭と外を隔てる自動開閉式の門が、ゆっくりと開いた。
「――え?」
門を出てすぐ。インターホンに手を伸ばしている二人の少女の姿が視界に飛び込んできた。
黒い髪の、双子。見覚えのありすぎる髪型。
視界に捉えたと同時。ふたりの少女がこちらを見つめていた。
「こころちゃんと、ここあちゃん?」
なぜ二人が? どうやってここまで? 一体なぜ?
様々な疑問が脳裏を駆け巡り、しかしそれは――。
「「ニコニーを、たすけて!」」
振り向き様、インターホンを殴るように押し込む。
「お嬢様、如何――」
和木の穏やかな声。
「和木さんっ! 車出して!」
「畏まりました」
真姫の怒鳴り声の後、大きな門から黒塗りの車が飛び出してきて、真姫はこころとここあを車に押し込んで、自身も飛び乗った。
「どちらへ向かいましょうか、お嬢様」
今日はここまで。
ニコの家の前で車が停まる。後方確認もそこそこに真姫は車から飛び降り、和木はこころとここあが車から降りる手助けをする。
真姫はそこで予想していなかった人物を視認した。
「真姫? 一体どうしたのですか?」
海未がいた。海未が大き目のバイクの傍に立っていた。
以前来た時は、こんなバイクはなかった――と思う。それに、海未がヘルメットを抱えていた事から、ある考えが一つ浮かんだ。
しかし、問題はそれではない。
「にこちゃんは!?」
「ただの体調不良ですよ。夏バテかもしれません」
真姫の鬼気迫る表情に、海未は苦笑に似た笑みをこぼしながら言った。
よく考えてみれば、こころとここあの話ではあまり食欲がなく、怠そうだったと言っていた。
食欲不振で倦怠感があるなら、夏風邪か夏バテと判断するのが妥当だ。
「……バカみたい、私」
「そうでもないと思います。仲間を心配することは何もおかしくありませんよ。特に、ニコと真姫なら」
海未の言葉にちくりと胸が痛む。
今の真姫に、その言葉はひどく心を締め付けた。
「真姫、やはりニコと――?」
鋭すぎる。海未は。
ほんの僅かな真姫の視線の動きや言動から、海未は勘付いている。
「真姫おねーちゃん! ニコニーを……おねーちゃんをたすけて!」
車から降りてきたこころとここあは、真姫に飛びついて泣きながら助けを乞うた。
「いま、貴女たち――」
「ハーイ海未、ニコなら大丈夫――真姫?」
アパートの、ニコの号室から絵里がひょっこり顔をだし、真姫の姿を見て目を丸くする。
そのせいで真姫の思考がまたもや引きちぎられてしまい、頭の中がグルグルしてくるのを感じていた。
取り敢えずまずは、こころとここあ。二人を落ち着かせなければなるまい。
真姫はそう考えて、こころとここあの前で屈んで視線を合わせる。
二人の丸くて大きな瞳に真姫が映る。
「二人のお姉ちゃんは、大丈夫だよ。ちょっと元気がなくなっちゃっただけだから」
原因は、自分かもしれない――。
真姫は心の中で自分を責めながら、しかし優しい微笑みを上手に作った。
「休むっていう通知、来てなかったから」
夏用オトノキジャージに身を包んだニコは、穏やかな表情で目を閉じていた。微かな呼吸が静かに聞こえ、顔色も少しずつ良くなってきた、とは絵里の言葉だ。
「エリー」
「まさかこころあちゃんが真姫の家に行くなんてね」
居間の方では海未がこころとここあと遊んでいる声が聞こえる。
「エリー」
「昨日はニコ、様子がおかしかったから。私もちょっと心配してたんだけど――」
「エリー」
三度目の呼び声は、芯が通っていた。
絵里は喋る事を止め、ゆっくりと、微笑の様な苦笑の様な表情を浮かべた。
「私のせいで、ニコちゃんを傷つけたの」
ぽつり、と呟いた。
真姫の呟きに、絵里は真姫の頭に手を乗せる。
「それ、ニコも同じこと考えてるわ」
言葉を少し切って、絵里は苦笑しながら言った。
「貴女達、よく似てるもの。二人ともお互いを考えすぎるのよ。不器用なくせに、優しいから。だから二人とも自分のせいだって考えちゃうの」
「ふたり、とも?」
「そ、二人とも。優しすぎて、思いやりすぎるのよ。穂乃果と海未を少しは見習ってみたら? あの二人、相手が間違っていたらその場で指摘し合えるんだから」
「私は、思いやりなんて、ない!」
真姫は唸るように、自分を抉るように、怒鳴った。
それを見つめて、絵里は少しも動じなかった。むしろ微かに浮かべた笑みはより楽しげに輝いた。
「あらそう? ないならそれでいいわ。私達は貴女達の事、お互いを思いやる不器用さんって思ってるから。相手のことを思って、私達に相談して、それでも迷いながら、でも前を見て、相手に近づこうとする姿を私は目の当たりにしたんだし」
絵里は真姫とニコ、二人の感情をよく解っていた。
二人から相談を受けたり、あるいは話を聞いたり、一緒に問題にぶつかったり。
二人が少しずつ近付いていくまでを、絵里は近い場所で、或いは背中を押して、もしくは少し離れて見守っていたのだから。
「……ニコちゃんを、傷付けたの」
呟いた真姫。
「私は家の事で悩んで、パパにμ'sを辞める様に言われて、でもニコちゃんは私を助けてくれた。昔の私が望んでいた、こっち側から逃げ出す事が出来たの」
海未の穏やかな声と、こころとここあの笑い声が、静かに響いた。
「なのに私は、ニコちゃんの悩みに、『そんなこと』なんて怒鳴って、私、自分の事ばかり考えて――」
「本当にそれだけ?」
絵里が鋭く、短く、強い語調で言葉を挟む。
「嘘はだめよ。だめだめ。真姫、自分の言った言葉を思い出してみて」
絵里にまっすぐ見つめられるが、真姫も視線を外さない。絵里を見つめながら過去を反芻して、やがて。
「ニコちゃんが自分を卑下したから――私は、悲しくて、つらくて、怒ったの」
真姫はふらりと立ち上がり、まぶたを閉じているニコの前に膝をつく。
全ての答えが弾き出た、真姫は確信めいた表情で、口を開いた。
「私はね、ニコちゃん――ニコちゃんがどんな人でも良いの。人の悪口を言っても、こころちゃんとここあちゃんの事で悩んでいても。私はありのままのニコちゃんと、親友になりたい」
真姫は朗々と語る。絵里の視線と、海未の視線と、こころとここあの視線を背中で感じつつ、しかし真姫は朗々と続ける。
「私はニコちゃんに家のこと全部さらけ出した。ニコちゃんはそれを贅沢な悩みだとか、そんなこと一言も言わなかった。ただ、私とパパがお互いに分かり合うチャンスを作ってくれた。全力でぶつかってくれた。私にとって、それだけで、ニコちゃんは」
言葉が途切れる。
真姫は息を吸い込んで。
深く静かに吐き出した。
「私にとって、かけがえのない、大切な存在だから」
真姫の出した答え。
「それでね、ニコちゃん。あの日、公園で聞いたニコちゃんへの答え、見つけたわ」
答えにたどり着くまでは、長い道のりだった。
今思えば、短い道のりだったと真姫は思った。
「私は、どんなニコちゃんでも、受け入れる自信があるわ。この真姫ちゃんがね」
今日はここまで。
真姫の悩みに対してニコが選んだ答えは救済だった。
それは、矢澤にこが考えるよりもまず行動、立ち止まって考えるよりも、感情と信念に乗っ取って突き進んだ。その結果が今を生み出した。
ニコの悩みに対して真姫が選んだ答えは救済ではない。真姫が選んだ答えは受け入れることだった。
ニコの悩みは、自分が家族を家族として見る事が出来ない。ニコはそれを抱えている。
そして、妹たちもそれに気付いている。ニコはそう感じているのだ。
しかし、真姫には悩みの答えが見えた。
妹たちはニコを姉と認識しているのだ。
ならばそれでいい。今必要なのは、矢澤姉妹に対する働き掛けではない。
ニコに必要なのは、ニコへの許容。ニコ自身がニコを受け入れねばならない。
その為にも、まずは。
「私がどんなニコちゃんでも受け入れる。一番の理解者になってみせる。だからね、ニコちゃん。まずは今の自分を、認めてあげて」
毅然と、朗々と、堂々と。
真姫は自分が考えていた問題の回答と、ニコへの悩みの回答を、言ってのけた。
「真姫」
「真姫」
絵里と海未が静かに真姫の名を呼ぶ。
二人の先輩は微笑みあった後、絵里がニヤリと笑いながら言った。
「それ、ニコが起きてる時に言ったら?」
「その時は……もうちょっとオブラートに包んで言うわ」
「苦い薬はオブラートに包みますからね」
海未の軽いジョークに真姫と絵里とニコがくすっと笑う。
「医者だけに?」
「良薬口苦しというでしょう」
「海未ちゃんの冗談も結構苦いニコ」
「精進します」
「あら、私は嫌いじゃないけど?」
むくり、と起き上ったニコの言葉に、海未と絵里は二者二様の反応を見せる。
真姫は動きが止まった。
「体調はどう?」
絵里は真姫を華麗にスルーしつつ、上半身を起こしたニコに問い掛ける。
真姫の動きは止まっている。
「ちょっと寝不足気味なのもあったのかも、悪かったわね、絵里」
「絵里、誰にも通知が来ていないことが解るとニコの家に行くと言って学院を飛び出して――」
「私のスーフォア、早かったでしょ」
「もう乗り慣れました」
「海未ちゃんと絵里ちゃんってばホント仲良しなんだから」
ニコが微笑みながら二人に告げると、海未は苦笑と微笑を三対七程度に混ぜた笑顔を浮かべ、絵里は微かに俯きつつ笑った。
俯くと同時に金色の長いポニーテールが、ぶらんと揺れた。
真姫の動きは止まっている。
「こころ、ここあ」
ニコはそのまま、二人の妹たちに優しく呼びかける。
双子は顔を見合わせて、おずおずと、不安げに、近づく。
「おいで」
ニコの表情は、いつもの笑顔ではなかった。
絵里も、海未も、真姫も見たことのない、矢澤にこの姉としての笑顔だった。
こころとここあは、ニコの笑顔に安堵の笑顔を見せる。
「ニコニー!」
「ニコニー!」
ニコは駆け寄ってくる双子に腕を広げる。
双子はぴょこんとジャンプすると、ニコの胸の中へと飛び込んだ。
「ふんぬゥッ!」
ニコは歯を食いしばって腹筋にありったけの力を込めて、双子を抱き留めた。頭を打って激しい動きを控えるように言われた時、延々とやっていた海未の体幹トレーニングのお蔭で、体幹は恐ろしく鍛え上げられた。
(海未監修のトレーニングのお蔭ね)
(その内穂乃果と凛が同時に突っ込んで来ても受け止められますよ)
(えっ)
海未に耳打ちすると、にこやかな返答が来て絵里は思わず聞き返した。
「――お姉ちゃんね、自分の事、もうちょっと考えてみようと思うの。もうちょっと、これからの事に目を向けようかなって思うの」
「ニコニーのこと?」
ここあが呟いて、こころは首をかしげる。
「ニコニーはね、ニコニーのままでいいんだよって。今の私を好きだって言ってくれる人が確かにいるの。だったら、もう少し、今はまだこのままでいようかなって」
ニコは楽しげに、嬉しそうに、歌うように言った。
「もう一人じゃないの、私。最高の親友がいるから。だからきっと私は、ふたりとお母さんの家族になるからね」
過去への決別はそう遠くなさそうだ。
真姫はそう思った後、息を大きく吐いた。
「海未!」
絵里が怒鳴った。
「へっ?」
「じゃ、じゃあ真姫、ニコ、後は大親友の二人で水入らずって事で!」
「え、絵里? あっ、ニコ、お邪魔致しました、体調には――」
絵里は安堵と喜びの笑顔を浮かべる海未の腕を引っ掴むと、矢澤家を飛び出した。
「こころちゃん? ここあちゃん? 二人のお姉ちゃんにちょっと言いたいことがあるから、別のお部屋で待っててくれるかな?」
にっこりと。とてもいい笑顔で。にこにこぷりてぃに。
真姫は、にっこりと笑っていた。
「はーい!」
「はーい!」
こころとここあが、パタパタとニコの部屋を出て行った。
開け放されたドアを、真姫は静かに閉める。
ぱたん。
「あれ? 真姫ちゃん怒ってる? ほら、にっこにっこにー!」
矢澤にこと西木野真姫は親友だった。自他ともに認める、最高の関係だ。
だから、心置きなく、真姫は感情を叩き付けた。
「起きてるなら――起きてるって言ってよッ!!」
その表情はどことなく嬉しそうだった。
今日はここまで。
学院付近の駐車場バイクを停めた後、絵里と海未は学院へと徒歩で向かっていた。
「良かったですね、ニコと真姫」
「ええ。ニコの抱えてるものは今何も解決してないけど、これからきっといい方向へ向かんじゃないかしら」
そうですね、と海未は頷いた。
一瞬だけ舞い降りてきた沈黙の後、絵里はふとつぶやいた。
「ねえ、海未」
「はい?」
「私は、海未にとってどういう存在かしら?」
質問の意図を掴めなかった。
「えっ――と?」
首を傾げる海未に、絵里は顔をそっと寄せる。
「海未にとって穂乃果は自分よりも大切な、そしてよき理解者で、相棒。ことりは貴女にとって大切な――守るべき、存在」
「絵里?」
絵里の澄んだ水色の瞳に映る、自身の姿が海未には見えた。
絵里の唇が艶やかに、言葉を紡ぐ。
「私は、海未にとってどんな存在に見えるのかしら?」
絵里の手が、海未の髪を甘く撫でる。
海未の髪は絵里の手櫛は訳もなく受け入れた。
――海未ちゃん、大好きだよ。
それは、自分をもっともよく理解している少女。
――生まれてきてくれてありがとう、大好き!
それは、自分に想いを寄せてくれた少女。
――海未、好きよ。貴女の全部が。
それは、妖しく笑う、つかみどころのない少女。
強烈な立ちくらみ。既視感。体験したことのない、追憶。
知らない記憶が脳裏に焼き付く。
「海未?」
「え?」
現実に引き戻される。
心臓が早鐘を打つ。
絵里の不安げな表情。
「大丈夫ですよ、ちょっと立ちくらみがあっただけで」
大丈夫ではない。
海未は違和感を呑み込んで、絵里に微笑んだ。
「ねえ真姫ちゃん」
「なに?」
「私がアイドルをやりたい理由とか、なんで目指してるとか――そういう私の、根っこの部分、聞いてくれる?」
「ええ、もちろん。――聞かせて? ニコちゃんの全部」
決してすぐには解決できない。ニコが自分で迷い込んでしまった迷路は、血の繋がり、夢、家族、自分の未来、様々な要因を孕み、日々の時間と共にその迷宮は姿を変えていく。
けれど、彼女はもう一人ではなかった。
これからは二人で歩いていくのだ。
二人なら、どんな道でも進んでいける――にこと真姫は、互いがそう思っていることを感覚的に理解していた。
今日はここまで。
「海だねぇ」
「そうだねぇ穂乃果ちゃん」
「――海未は私ですが」
八月中旬。真夏日である。
μ'sの九人は今、西木野家所有の別荘にやって来ていた。
と言っても遊びに来たのではない。彼女らは『夏色えがおで1,2,Jump!』のPV撮影にやってきたのだ。
もちろんの事、発案はいつもの穂乃果の思い付きだった。
八月上旬の話。
「もっと南国感がほしいよ!」
「また藪から棒に……」
穂乃果はブータレ顔で海未に言ったが、海未は呆れ顔で切り返した。
彼女らは――PV撮影の下見を兼ねて九人はオトノキから最も近い海にやってきたのだが、あまりにご近所すぎた。
そう、あまりにご近所すぎたのだ。
ご近所過ぎて、穂乃果たちの望む様な「ビーチ」感などどこにもなかった。
「でもちょ~っと地味すぎる、と思うニコ」
ぴょこんと跳ねながら、真姫の隣で笑うニコ。真姫はさもありなん、とでも言いたげな表情で頷いた。
「凛は遊ぶんならどこでもいいにゃー」
「あはは、遊ぶならここは人も少ないもんね」
凛は能天気に言ってのけると、花陽も微笑んで同調する。
「でも、迷惑にならずに撮影できそうな場所って他にあるん?」
希の言葉に一同は沈黙する。
沈黙だけが真夏の海を支配する。
「ないことはない、わ」
「真姫ちゃん!? ホント!?」
微妙に歯切れの悪い真姫と、切れ味のよい穂乃果。
ニコは真姫に視線をちらりと向けるが、真姫は少し苦笑を漏らして応える。
「当てがあるの?」
絵里の言葉に真姫は微妙な表情を浮かべるに留まった。
「絶対って言えないんだけど……パパとママに相談してみる」
「六月のあの頃とは思えないほどやんな。これもにこっちのお蔭やね」
希の言葉に真姫ははにかむ。
その隣、ニコは無い胸を――否、海未の体幹トレーニングのお蔭で厚くなった胸板を反らす。
「しかし、ご両親に相談、と言いますと?」
「べ、別荘を――使えたら、と思って」
穂乃果と凛が真姫を胴上げしようとして、海未にこっぴどく叱られた。
かたんかたん、と電車に揺られる。
またあの賑やかな、玩具箱をひっくり返したような街に帰る。
凛は窓の外を眺めていた。電車から見える風景が凛は大好きだった。
めまぐるしく変わる風景には、凛の好きなものがたくさん詰まっていた。
「凛ちゃん? 何見てるん?」
柔らかい、優しい声が凛の耳にするりと入り込む。
それと同時に凛の腕に希の大きな胸が微かに触れる。
身体がくっついて、希の吐息が凛の耳を擽る。
少しだけ、凛の鼓動が速くなる。
理由は分からない。
「希ちゃん」
凛が振り向くと希は微笑んでいた。
優しい笑顔に凛の心はきゅうっと切なくなる。
ある日突然に、どこかに行ってしまいそうで。
かたんかたん、と電車に揺られる。
またあの賑やかな、玩具箱をひっくり返したような街に帰る。
凛は窓の外を眺めていた。電車から見える風景が凛は大好きだった。
めまぐるしく変わる風景には、凛の好きなものがたくさん詰まっていた。
「凛ちゃん? 何見てるん?」
柔らかい、優しい声が凛の耳にするりと入り込む。
それと同時に凛の腕に希の大きな胸が微かに触れる。
身体がくっついて、希の吐息が凛の耳を擽る。
少しだけ、凛の鼓動が速くなる。
理由は分からない。
「希ちゃん」
凛が振り向くと希は微笑んでいた。
優しい笑顔に凛の心はきゅうっと切なくなる。
ある日突然に、どこかに行ってしまいそうで。
「なにしてるん?」
「外を眺めてたの。電車に乗ってる時の風景、凛は好きなんだにゃー」
「ふふっ、面白いもの見える?」
希はよく話を聞いてくれる。関西弁とも標準語とも違う、不思議な言葉遣いに尋ねられる事が、凛の耳に心地良かった。
「うーん……面白いっていうより、動く風景が好きなのかも」
「そうなんやね。ウチも好きかな、風景」
希顔に笑顔が浮かぶ。
笑顔のはずなのに、この心苦しさはなんなんだろう。
不安になる美しい表情は、凛の心を捉えて離さなかった。
かたん、かたんと電車は揺れる。
ぼんやり穂乃果は空を眺めていたが、ふっと――向かい合って座る海未と、隣に座ることりの――二人の幼馴染を見て言った。
「ねえ、海未ちゃん、ことりちゃん」
「どうかしましたか?」
「穂乃果ちゃん?」
微笑む海未。
首を傾げることり。
「学校、守れるかな」
ぽつり、と呟く。
「やりたいことだけで、本当に夢を叶えられるのかな」
言葉とは裏腹に、その表情に怯えはない。あるのは未来への期待。
「ラブライブ、出たいのでしょう?」
「オトノキも、守りたいんだよね?」
青春を駆け抜けるために。
「一年前、穂乃果は剣道で全国大会制覇を成し遂げました。けれど廃校は阻止できませんでした。すると今度はアイドルの真似事で廃校を阻止すると言い出しました。何かに――UTXのA-riseにあこがれたのか――そうも考えましたが」
「でもアイドルをしたい、アイドルで学校を守るって言った時の穂乃果ちゃんの表情と、それを聞いた時の海未ちゃんの表情は、ことりにとって着いて行くべき指針だって思ったの」
「私は穂乃果を信じています」
海未は穂乃果の手に自分の手を乗せる。
「ことりは穂乃果ちゃんを信じる海未ちゃんも信じてるよ」
ことりは重なった二人の手首を甘く握る。
「二人が信じてくれるから、穂乃果も穂乃果が感じた可能性を信じるよ」
二人のぬくもりを手に、穂乃果はもう一度二人を見つめた。
今日はここまで。
18人のμ'sによる五時間のファイナルライブ、ありがとうございました。
真姫の家のリビングには、甘い柑橘系の香りが微かに漂っていた。
「海の別荘を使いたい?」
「μ'sの皆さんでPV撮影に使われるのですか」
ご近所の海に行った翌日、真姫は早速父親に頼み込んでみた。
リビングでは八坂と父が何かを話しているところだったが、真姫は八坂の援護射撃を期待してのタイミングだった。
「……」
悩む父の姿に、真姫は少し焦りを感じる。
やはり女子高生九人で別荘、というのは少し難色を示すだろうか。
「そのPVは、なんだ――」
「?」
おや、と真姫は思う。真姫が思っていない所――PVの内容に言及するとは思いもしなかった。
「大丈夫なのか?」
「えっと……?」
「その、水着で踊るのだろう?」
「う、うん」
「こう、ほら、もし真姫の体を見て、その、なんだ、世の中の男たちが――」
「――ッ意味わかんない!!!!!」
真姫が思い切り怒鳴り机を叩くと、コーヒカップが宙を舞った。
父親の顔がちょっと恐怖で引き攣る。
隣で八坂も体を仰け反らせる。
「もうっ! パパのえっち! 変態! 知らないっ!」
「へ、変態――」
愛娘に変態呼ばわりされて、正気を保てる父親などいない。
文字通りぷんすか怒る真姫と、虚脱する院長を見比べながら、八坂は仲裁に入る。
「院長も真姫お嬢様も落ち着いてください……。で、お嬢様、日程などはご決定されているのですか?」
「……八月の――」
日程を告げると、八坂は考え込みながら呟いた。
「確かその日は……」
真姫も自分の告げた日程を反芻し、嗚呼、と声を漏らした。
「その日はパパもママも海外出張だ……」
「ママの手が空いていればよかったのだが――」
しまったな――真姫は溜息を吐いた。これではどうしようもない。
保護者同伴で食い下がる予定の真姫だったのだが、肝心の――。
そこまで考えた真姫は、ある考えが閃光の様に駆け抜けた。
「八坂さんなら?」
「――八坂を保護者として、か」
「えっ」
援護射撃を期待した人間を、前線に引っ張っていく事にした真姫。
これには八坂も驚きを隠さなかったが、真姫の父の反応は悪いものではなかった。
「確か園田の跡取り園田さん、学園長の娘さん、それに矢澤さん、絢瀬さんもいる――か。どうだ八坂、有給休暇の消費もかねて、軽い避暑と保護者役として行って来たら。ホテルも手配するが」
院長の言葉は八坂にとって悪くない提案ではなかった。
それに八坂とて願ったり叶ったりである。
「μ'sの皆さんのお邪魔はしない様にします」
八坂の同意を得た真姫は、こうして別荘への切符を手に入れる事が出来た。
不安要素はなにもない――真姫は明日の練習時に、μ'sの皆に今日の成果を伝えるのが楽しみになった。
今日はここまで。
「――ご無理を申し上げてしまい、また、私たちの我儘を聞き入れていただき、本当に感謝致します」
絵里は真姫の父親に頭を下げた。それに倣い海未も頭を下げる。
それと同時に穂乃果は紙袋に入った穂むらのまんじゅうを真姫の母親に手渡した。
真姫の両親が出発する前々日、絵里、穂乃果、海未の三人は真姫の両親にお礼を言いに向かった。
以前来た時のリビングには険しく重い、胸が締め付けられるような空気が漂っていた。しかし今は穏やかな、こちらを迎え入れる優しい雰囲気がリビングを満たしていた。
紙袋を渡した後、穂乃果が頭をぺこりと下げると、真姫の父と母は深々と頭を下げた。
「こちらこそ、私の目を覚まさせてくれてありがとう。μ'sの皆には感謝している」
「いえ、私達がプライベートな問題に首を突っ込んでしまって――大変失礼なことを」
絵里は少々面食らいながらも、頭を下げ直す。
真姫の父は頭を上げると、真剣な面持ちで絵里、穂乃果、海未を見つめて言った。
「父親として恥ずかしいよ。娘は私の仕事を尊敬していた。なのに私は娘のやることに耳も貸さず、一蹴して真姫の気持ちを考えもしなかった。ニコさんの薬がとてもよく効いたよ」
柔らかい笑みを浮かべ、真姫の父は三人に座るように勧める。
穂乃果は素直に柔らかいソファにお尻を預けると、出されたアイスコーヒーにゆっくり手を伸ばした。
絵里はそんな穂乃果に苦笑しつつ、厚意に甘える旨を伝えソファに浅く腰かけた。
しかし、海未は直立を崩さないまま海未は真姫の父を見つめていた。
「あの、お父様、少し宜しいでしょうか?」
やがて静かによく通る声で真姫の父に口を開けた。
「園田さん、どうかしたかい」
「ニコのご両親と西木野総合病院――真姫さんのお父上の関係についてです」
「海未!」
「?」
絵里が驚いて海未を見る。
穂乃果は何の話か分からず首を傾げる。
真姫の父親がぴくりと動く。しかし視線は海未をまっすぐ見つめる。
「ニコの御家族とお父上に何があったのか知りたい、と私は思います。私にはニコの御両親とお父上の関係は、切っては切り離せない間柄の様な気がしてならないのです」
「海未……」
「海未ちゃん……」
海未はまっすぐな視線はそのままに、言葉を紡ぐ。
「なぜお父上が真姫さんに対してあのような態度を取るようになったのか。それは――ニコのご両親が亡くなった事と関係あるのでは、ないでしょうか?」
視線はまっすぐだが、表情は険のあるものではなかった。
むしろ少しの背徳感すら感じさせる表情だった。
真姫の父は、少しだけ夏の雲に視線を向けて、やがて椅子に座った。
「長くなる。掛けなさい、園田さん」
「ありがとうございます」
海未は静かにソファに腰を下ろした。
「私と矢澤は、友人同士だった」
矢澤、というのはニコの事ではなく、今は亡きニコの――ニコは『パパ』と呼ぶ――父親の方だろう、と海未は思った。
「お知り合いだったのですか」
「古い付き合いだよ。仲の良い友人同士で、互いの結婚式にも行った。そして私の病院ではない病院でニコさんは生まれ、そして月日が流れた後、お母様はお亡くなりになった」
海未の瞳は凪いでいた。
「園田さん、君の言った通り、私の病院で亡くなったよ。」
穂乃果が少し体を強張らせているのが、海未にはわかった。
「私が頼んだんだ。友が愛する人を救わねばならない。私には救うだけの力があった。矢澤も私を信用してくれた――しかし、病魔の前では私は無力だった」
海未は目を伏せる。
「やはり、そうだったのですか」
「そして矢澤は再婚した。今の奥方も素晴らしい人だ。双子の子どもが生まれた。こころちゃんとここあちゃんだ。かわいい子どもたちだ。そして、ニコさんと、こころちゃんとここあちゃんを遺し、矢澤は死んだ」
「それも、お父様の病院で、ですか」
「そうだ。最愛の人を失わせてしまった。しかしこれ以上はさせないと、私は胸に誓い、矢澤のオペを担当した。奇しくも矢澤の奥方と同じ病気で、私は――」
「もうやめようよ海未ちゃん!!」
穂乃果が立ち上がって海未に飛びついて懇願する。
「もういいよ! こんなの聞いても真姫ちゃんのお父さんも、みんな辛いだけだよ!!」
「いや、話をさせてくれないか――高坂さん」
穂乃果の叫びに首を横に振る真姫の父。
「贖罪、ですか?」
絵里の言葉に真姫の父は肯定も否定もしなかった。
「大人だって間違える。それを未来のある君たちに話しておきたい――君たちもまたニコさん同様、私を救ってくれた九人の女神なのだから」
穂乃果は俯く。サイドテールもぶらんと垂れ、海未は穂乃果の頭を静かに撫でた。
「私は矢澤を救えなかった。遺体を前にニコさんは静かに佇んでいたよ。その時は中学生だったかな。彼女は言ったよ。私はその時のニコさんの言葉を一言一句間違えずに言える。『これでパパもママの所に行けた。きっと天国で幸せになれるはず。だってニコのパパとママだもん。だから、ニコは泣かない。笑顔でいるわ。笑顔でいることが、パパとママの幸せだから』」
穂乃果が力なく呟いた。
「そんなの――そんなの……」
「その後私はニコさんに二言三言告げた後、ニコさんはまっすぐに私を見ていったよ。一滴の涙も見せずに、『ありがとうございました。パパを助けようと頑張ってくれて』とね。私は何も言えなかったよ」
「海未――」
絵里はただ、海未の名を呟いたが、海未は何も言わなかった。
「ニコさんは――周りの人を悲しませないようにとしていたんだろう」
西木野邸から帰路に着いた三人。
穂乃果は海未の手を掴んだままずっと俯いていた。
「絵里は、知っていたのですか?」
海未は親友以上の存在の手のぬくもりを感じつつ、絵里を見て言った。
「――ニコのご両親が真姫の病院で亡くなった事は、なんとなくね。でも、海未がそこまで突っ込んで聞くとは思ってなかったわ」
「……疑問があったのです」
海未は研ぎに研ぎあげた刀の様な目で前を向く。
そんな海未の横顔を絵里は見つめた。
「疑問?」
「はい。今の真姫のお父上のお話では、まだ私の疑問に対する答えを生み出せてはいません」
立ち止まり、海未は俯いて空いた左手で前髪をいじる。
「……真姫のお父上は、いつ真姫に対してあのような態度を取るようになったのでしょうか?」
海未の口調は絵里に話しているのが半分、自分に問いかけているのが半分、そんな口調だった。
「それは――真姫が小学生のころでしょう?」
「私の見立てでは、お父上の豹変はニコのご両親の死がトリガーになっているかと思っていました。ですがどうも違うように思えます」
「え? 海未はニコと真姫のご両親が知り合いだって知ってたの?」
「あくまで推論ですが。知り合いという点と、ニコのご両親を看取った、という二点は想像通りでしたが、肝心の『真姫に対する態度の豹変とその理由』という疑問への回答は得られませんでした」
「海未、一体どうしちゃったの?」
絵里の問いかけに、海未は前髪をいじるだけで少し答えをすぐに呟きはしなかった。
穂乃果がすん、すんと鼻を鳴らす音だけが少し響いて、やがて海未は髪から手を離す。
そして少し苦しそうに、穂乃果の手を握りつつ、絵里をまっすぐ見据えて言った。
「私にもわかりません。ですが、知らなければならない、と強く思うのです。興味や探究心ではなく、義務感や強迫観念に似た何かが私の中で駆け巡っていて、知っておかないと必ず後悔する――そう訴えてくるのです」
辛そうな、苦しげな、どこか思いつめたような海未。穂乃果と手を繋いでいないもう片方の手は、自身のシャツの胸元を強く握りしめていた。
絵里はそんな海未の握りしめる手に、そっと両手を添える。やんわりと触れられた両の手に、海未は微かな安堵を抱く。
「大丈夫よ、海未。海未は独りじゃない。貴女には穂乃果がいるでしょう? ことりだっているし、オマケに私だっているわ。皆海未の味方なの。だから、大丈夫」
絵里の微笑に海未は少し救われたような気がして、傍らで俯く幼馴染を見つめた。
夏はまだ始まったばかりなのだ。
今日はここまで。
そしてあっという間にPV撮影――別荘へ向かう日になった。
八坂はたまった有給を盛大に使ったらしく、目的地に先に出発していた。
μ's御一行は行きも帰りも和木の車に乗せてもらえるとの事。
一台に全員という訳ではなく、二台の車に分かれて出発した。
「真姫ちゃんのお父さんとお母さんはもう海外なの?」
「ええ、そうよ。研修――があるみたい。詳しくは私も聞けてないんだけど……」
和木の運転する車には助手席に真姫、後ろには穂乃果、海未、ことりが並んでいて、後ろにはPVに使う道具が山の様に積まれていた。
後の一年組と三年組も同じく車にはPVで使う道具が積載されている。
穂乃果は後ろに積載されている道具を眺めつつ、ぽつりとつぶやいた。
「海外と言えば……ことりちゃん、留学はどうするの?」
「ほ、穂乃果ちゃん!?」
「うえぇぇえ!? 何その話!? 初耳なんだけど!?」
思いつきで口を開いた穂乃果に、話の主役であることりが激しく動揺した。
真姫は驚いて三人を振り向くと、『どうしたの?』と言わんばかりの表情の穂乃果と、動揺して穂乃果と真姫を見比べることりと、額に手を当て呆れかえる海未の姿が目に入った。
「穂乃果、ことりはその件に関して何と言いましたか?」
海未の呆れた声に、穂乃果は徐々に凍りつく。
「だ、大事な話だから、まずは私達だけに打ち明けるって……」
真姫は大きく溜息を吐いて、視界をフロントガラスの向こうの夏の空に向ける。
「……あーあー、何も聞こえなかったわー」
「真姫ちゃん大好き!!」
穂乃果の言葉に真姫は苦笑を漏らすしかなかった。
「大きい!!」
別荘を前にした穂乃果の第一声はそれだった。そして真姫を除く七人の印象をまとめたものだった。
「そう?」
「いや、そもそも別荘があるっていうこと自体凄いんだけど」
きょとんとして答える真姫に、ニコが呆れながらツッコミを入れる。
「でも別荘があっても私独りじゃ意味がないもの。ニコちゃんがいたから、みんながいるからこの別荘を使えたの」
特に恥ずかしげもなく素直に言い切る真姫。
八人は少しの沈黙の後、代表して希が口を開いた。
「えーっと真姫ちゃん? 今結構すごく恥ずかしいこと言ってたと思うんやけど……」
「そう? そんなことより荷物を置きに行きましょ」
真姫は自分の荷物を掛け直すと、八人を促した。
ニコは真姫が内心で恥ずかしさを抱えていることは御見通しである。
「その前に、皆様にご連絡致します」後ろから声をかけたのは和木だった。「別荘の近くのホテルに八坂様がいらっしゃいます。何かあれば八坂様にお伝えください」
とんとん、と背中をつつかれる感覚に海未は振り向く。
視界には絵里が和木を見つめたまま、しかし海未にささやいた。
「八坂って言う人、どんな人なの?」
「……真姫の父上の病院の医師で、真姫の父上からも信用されているようです」
「ふーん……」
海未の表情は無色だった。そして海未は八坂を信用していない。絵里はそう感じて、一抹の不安を拾い上げていた。
「あ、この別荘の見取り図を渡しておくわ」
真姫は八枚のA4用紙を差し出す。
別荘はПの字型、二階建てになっていて、それを囲むように正方形に庭が広がっている。
左右の棟に寝室があり、向かって奥の左右の棟を繋ぐ棟がリビングやキッチン、大浴場などが固まっているとの事。
「真姫ちゃん、ちょっとあちこち見て回ってもいい?」
凛が目を輝かせる。凛の後ろで穂乃果も目を煌めかせ、真姫は海未をじっと見た。
「先に荷物を降ろしてからにしましょうか」
海未が呆れつつ真姫の表情を読み取って、穂乃果と凛が一目散に車に駈け出した。
楽しげに、或いは一心不乱に荷物を別荘に運び入れる穂乃果と凛を眺める希に、ニコはふと声をかける。
「どしたののぞみん」
「ん?」
「車の中でもあんまり元気なかったニコ」
「んーん、そんなことないん」
「んー……だったらいいけど……」
ニコは少し周りを見渡す。
懸命に荷物を運ぶ穂乃果と凛。
重い荷物を二人掛かりで運ぼうとする、ことりと花陽の荷物をひょいと持つ海未。
見取り図を見ながら部屋割りを考える絵里と真姫。
「希の嫌な予感って、結構当たるから。気分悪くなったりしたらすぐ言いなさいよ?」
希の顔を覗き込んで、ニコは真面目な表情で優しく呟いた。
「――ありがと、にこっち」
別荘の滞在期間は一週間。
天候はこの一週間晴れるらしく、総仕上げの後撮影を開始するという算段で彼女たちは合宿を始めた。
合宿が始まり三日目の夜。
最後の総仕上げは九人とも絶好調で仕上がり、予定通り翌日から撮影を行う運びとなった。
仕上げを終え、夕食を九人で摂りながら談笑は始まった。
「この曲で凛たちがラブライブ! に出られるかどうか決まるんだね」
広い広いダイニングで凛が唐揚に胡椒を塗しつつ言った。
凛の隣、花陽は幸せそうに白米を食べていたが、『ラブライブ!』という言葉に食指がぴたりと止まる。
不安と緊張の混ざり合った表情で、花陽は瞳を揺らした。
「そうだよ凛ちゃん。この曲でラブライブ! に出て、オトノキの知名度を上げて、オトノキの受験志願者を増やすんだから!」
凛の言葉に強い意志を示したのは穂乃果。その瞳に宿る熱い意気込みに希も深く頷いた。
「きっとこれが最後のチャンスになるん。だからこの一回で決めないとダメやね」
ラブライブ! は年に一度というのが定例である。今予選が行われており、各グループは一曲を期日までにラブライブ! 公式動画サイトにアップロードし、ネット投票で上位八グループが残る。
そして決勝の八グループは動画ではなく実際にステージで歌い踊る。
そして一位を決定するのだ。その決勝は秋の受験シーズン目前。
「最後のチャンス……そうだよね、絵里ちゃんも希ちゃんもニコちゃんも、受験があるんだよね」
俯き加減のことりの言葉に五人は三人を見た。
視線の集中砲火を受ける三人は顔を見合わせ、やがて最初に絵里が口火を切った。
「希はともかく私は浪人するわよ? だから卒業ぎりぎりまでμ'sやるけど」
絵里は呆気からんと言ってのける。
「エリー、大学行かないの?」
「まあ三年になってからスクールアイドルに足突っ込んじゃったし? 一浪して目指したい大学があるし? ね、海未?」
絵里は海未に軽くウインクすると、海未は驚きと呆れを入り混ぜた表情で打ち返す。
「絵里、あの話は本当なのですか……」
「なになに、海未ちゃんも絵里ちゃんも隠し事? ニコにも教えてほしいニコ~!」
「ニコ、すり寄らないでください――私も冗談だと思っていました。絵里が一浪して志望する大学と、私が志望している大学が同じだという事を」
穂乃果は海未を覗き込みつつ、問い掛ける。
「海未ちゃん、大学に行くの」
「母上と父上に話はしました。四年間、家の事とは別に学びたいことがあります、と。四年間で色々なものが見たい、人と出会いたい、たくさんのものを学びたい、そうして多くのものを見て、感じて、やってみて、それから私は私の家を継ぎます。やってみる、というのは穂乃果、あなたが教えてくれたことですよ?」
「そう、なの」
「凛は将来の事とかよくわかんないや。かよちんと一緒だったらどうにかなりそうな気がするし!」
「あはは、花陽も凛ちゃんと一緒ならきっと大丈夫な気がする」
「にこっちはどうするん?」
「分かってて聞いてるでしょ。ニコはなんとしてでも『アイドル』になるわ。一人でも多くの人を笑顔にできる『アイドル』になる」
「みんなちゃんと考えてるんだよね……」
ことりはしょぼんと俯くと、真姫が白々しく嘯く。
「まあ悩んでこそ高校生ってママも言ってたわ。間違えたって取り返しがつくってね」
「真姫ちゃん……」
真姫の言葉はことりの心にじんわりと響いた。
「さ、明日から撮影よ。早く食べて片付けて、明日に備えましょう!」
絵里の言葉に八人は気合を入れる。
「ようし、廃校阻止だ!」
「頑張ろうね、穂乃果ちゃん!」
「かよちん、がんばろー!」
「うんっ! 頑張ろうね!」
「ニコちゃん、ハイタッチのタイミング」
「解ってる。もうばっちりよ」
「おろろ? 二人はなんか考えてるん~?」
「真姫がいるなら大丈夫ですよ、希」
九人九色。気合もそこそこに食事の片づけを始める。
合宿六日目。この別荘から帰る一日前。
八人はどこか落ち着きなく、テーブルの前に並んだ色とりどりの料理を眺めていた。
ニコがキッチンからダイニングにやって来て、最後の一品をテーブルに置いて席に着いた。
部長のニコは一同をぐるりと見回し、少し胸を張って言った。
「じゃあ穂乃果ちゃん、PV完成に関して何か一言よろしくお願いするニコ!」
「えっ? 穂乃果なの!? ニコちゃんじゃないの!?」
「ニコは穂乃果ちゃんの後で言うニコ。先頭バッターは穂乃果ちゃん、トリがニコで問題ナッシングニコ!」
「わ、わかった! えーっと……」
長考。
熟考。
「やったーっ!」
突如威勢よく声を上げつつガタッと立ち上がり、八人を驚かせる。
「――PV、完成だーっ!!」
穂乃果の一言に、八人は各々持っていたグラスを掲げた。
遂にPVが完成し、ラブライブ! 予選突破の為の一曲が完成したのだった。
「じゃあニコも――」
ニコがゆっくりと立ち上がって、口を開こうとした瞬間。
大きな衝撃音がして、ダイニングが闇に――真っ暗になった。
今日はここまで。
「何!? なんなの!?」
ニコが動揺して声を上げるが、電灯は点かない。
「あかん、エリちが!」
「絵里ちゃんしっかりするニャ!」
「だ、誰か助けてぇー!」
口々に声を上げる面々だが、海未が声を上げた。
「落ち着いてください――穂乃果、ブレーカーを確認してきてください。私は一度外を見回ってきます。大きな音が気になりますので。皆さんはここで待っていてください」
暗闇の中で穂乃果は頷き、立ち上がる。
「待って。私の方が此処の勝手を知ってるし、私がブレーカーを確認してくるわ。海未は穂乃果と一緒に見回ってきて」
海未は少し逡巡したが、頷いた。
「解りました。希、ニコ、後の事はお願いします」
「海未ちゃん――穂乃果ちゃん――」
踵を返した穂乃果と海未に、ことりのか細い声が背中に触れた。
言外に感じる不安と懇願の意志。
「大丈夫、すぐ戻ってくるよ!」
「私たちはことりの為なら地球の裏側からだって飛んでいきますよ」
二人の微笑みにことりは何とか笑顔を作った。
暗闇の中ことりの微笑みが見えたのか、海未と穂乃果は素早く部屋を出た。
ペンライトの頼りない光を味方に、真姫は壁伝いにブレーカーを探す。
(……どうして今日に限ってブレーカーが落ちたのかしら)
疑問だったが、しかしブレーカーの落ちた理由など電気の使い過ぎしか思い浮かばない。
八坂に連絡を取ろうかとも考えたが、折角の楽しい雰囲気を壊したくないとも考え、真姫は静かに廊下を歩く。
刹那。
窓ガラスの割れる音と、微かな何か――鼻をくすぐる何かを感じて、真姫の意識は黒く染まった。
「今の音、なに!?」
ガラスの割れる音に立ち上がったのはニコ。
しかし周りは暗闇で、音の方向もなんとなくしかわからない。
「凛が見てくる!」
「あ、凛ちゃ――」
希が歯止めをかけようとして、しかし凛はまっしぐらに音の方向へと突っ走って行く。
ああ、と呟く希に花陽は朗らかに微笑んだ。
「凛ちゃんならたぶん大丈夫。海未ちゃんの前でちょっとの間立ってられるくらいにはスゴイから」
「……え?」
花陽の微笑みに、しかし希は怪訝そうな顔を向ける。
花陽はにこにこと微笑むだけで、それ以上何も言わなかった。
「海未ちゃん――絵里ちゃんと仲良いよね」
夏の夜、穂乃果と海未は別荘の敷地外、庭と外を隔てる壁に沿って見回りながら歩みを進める。
「? ことりほどではないですが、私たちは絵里との付き合いも長いですからね」
「でも、将来の話をしてるなんて、穂乃果知らなかったな」
穂乃果の表情は闇に溶けてよく見えなかった。
「私も最初に将来の話をするのは穂乃果だと思っていました」
「穂乃果も、海未ちゃんと――」
穂乃果は切羽詰まったように、或いは追いかけるように、口を開いたが――。
闇夜に響き渡るガラスの割れる甲高い音。
別荘の、玄関と正反対の辺からだ。
二人は顔も合わせずコンクリートを蹴り飛ばした。
今日はここまで。
「だ、誰!?」
夜目の利く凛は腰を低く落とす。全身の毛が逆立つ感覚。
園田道場に中学生の頃まで顔を出して、時たま海未や海未の父親に簡単な武道を教わっていた。
その時に凛はよく海未の父親に褒められていた。
――凛は感覚が鋭い。反射神経も良い。
言葉は少なく端的だったが、厳格な海未の父親に褒められることは幼い凛にとっても嬉しいことだ。
そしてその研ぎ澄まされた感覚は今、真姫を猿轡し割れたガラス戸から逃げ出そうとする何者かに、激しい嫌悪を感じていた。
「真姫ちゃんを離して!」
三、四人。身長は百七十センチを優に超えている。皆々黒い服を着ていて顔までは視認できない。
しかしシルエットや身動きから男性だろうと予測する凛。
成人男性と仮定して、飛び掛かられては凛も逃げるしかできない。
穂乃果か海未が居ればどうとでもなる――凛はそう考え、時間稼ぎをすることに徹した。
「真姫ちゃんを離して! 警察に電話するよ!!」
凛はポケットに手を突っ込む。ハッタリだ。手元に携帯を持ってない。
「彼女にも君らにも危害を加えるつもりはない。それに警察に連絡した時点でこの子の命はない」
凛と向き合った男が低い声で告げる。
音に気付いて穂乃果と海未もこっちに来ているはずだ。はやく――っ!
凛は男を睨みつけていたが、男たちはやがて踵を返し割れたガラス戸から飛び出していった。
先に角を曲がったのは海未。
視界に飛び込んできたのは真姫の赤毛。
そして真姫を黒い車に連れ込む男たち。
そして凛が血相を変えて何かを叫んでいる。
叫んだ。
「穂乃果ッ」
声と同時に穂乃果が角から姿を表し、携帯電話を放り投げた。
「海未ちゃんッ」
穂乃果の携帯電話を前を見たまま片手で捉えると、
「凛ッ!」
海未は凛めがけて投げつけた。
車のエンジンが掛かる。
凛は穂乃果の携帯電話を掴まえ、車のリアガラスのワイパーに引っ掛けた。
同時に車は真姫と穂乃果の携帯電を連れて闇夜に去って行った。
数秒遅れて海未と穂乃果が凛の前に駆けつける。
「ほ、穂乃果ちゃん……海未ちゃん……」
「大丈夫ですよ。なんとかしますから」
海未は車の駆け去った方を睨みつける。
穂乃果は凛の小さな体を優しく抱きしめて、海未を見つめた。
海未は手早く今あったことを説明した。
なぜかよく解らないが、驚くほどに海未は落ち着いていた。
「今すぐ警察に電話しましょう」
絵里がまず口を開いた。
「駄目よ。警察沙汰にしたら真姫が――」
ニコが切り返す。
「――だけど、私達だけでどうするっていうの?」
「……八坂さん! 八坂さんに相談しようよ絵里ちゃん!」
ニコも絵里もお互いに苦痛の表情を浮かべつつ、黙り込んだ。
そしてその沈黙をことりが破る。
「駄目です。先ほどから連絡が取れません」
「もしかして――先に八坂さんも襲われちゃってるの……?」
ことりが恐る恐る呟くと、希がことりの頭を静かに撫でた。
その表情は穏やかで、ことりは希の胸に体を預けた。
「大丈夫。丁度連絡が取れないだけかもしれないやん?」
しかし打つ手がない。そう思い黙り込んだ七人だったが。
「私と穂乃果が行きます」
海未が立ち上がる。
「行くって――どこへ?」
絵里のアイスブルーの瞳が二人を交互に見詰める。
「真姫ちゃんの所へ、だよ」
「真姫を奪い返しに行きます」
「場所、わかるの!?」
ニコがガタッと立ち上がる。言外には『私も行く』という表情が強く込められている。
「穂乃果のアイフォンを車に引っ掛けてます。これで大体の場所は分かります」
「でも、相手は男の人が三人四人いるって凛ちゃんが――」
希がぽかんとしながら問う。何を言っているんだ、正気か、という希の言葉に。
「見積もって十人いたとして、穂乃果が三人引き受けてくれれば後の七人は私が無力化します」
海未は練習着に着替えつつ言った。穂乃果も隣で練習着に着替えている。
「――私とニコも行くわ」
絵里の言葉にニコも立ち会がる。
「絵里はともかくニコまで――危険です」
即答で意見に反対する海未。隣で穂乃果も驚いた表情で静止をかける。
しかし、ニコは首を横に振り、海未の視線を真っ向から受け止める。
「此処でじっとしてらんないわ」
「それに、連中が車で行ったんなら足が必要でしょう?」
絵里も練習着に着替えつつ――ニコにも練習着を手渡し――鍵を穂乃果と海未に放り投げた。
「脚――?」
海未は鍵を片手で受け取り、穂乃果は絵里を見て頷いた。
「私の後ろにニコが乗って、貴女達二人は自分たちのバイクで行けばいい、でしょ?」
「え、絵里? 何を言っているのですか? ここにバイクなんてありませんよ」
さも当然、と言わんばかりに絵里が言ってのける。
が、海未は絵里のその言葉に理解が追い付かない。免許もあればバイクも所持しているが、ここは自宅ではない。
「え? 絵里ちゃんと海未ちゃんと穂乃果はバイクで来たんだよ?」
「は――?」
穂乃果の言葉に海未は混乱する。
自身も穂乃果も絵里も、車に乗ってきたではないか。
「ば、場所、解りました!」
今まで沈黙していた花陽は、四人にノートパソコンのディスプレイを見せる。
そこには穂乃果のアイフォンの場所が示されていた。
場所はそこまで遠くはない。絵里は息を吐いてディスプレイから視線を外す。
「ありがとう、花陽。――希、私のかわいい幼馴染たちをよろしくね」
絵里の言葉に希は静かにうなずいた。
希の返答に絵里は一息吐くと、踵を返してリビングを出る。
ニコも絵里の後に続く。
「海未ちゃん!」
海未は内心の混乱を必死の思いで飲み込む。
自分の頭がおかしくなってしまったのかもしれない、それとも自分は夢を見ているのかもしれない。
それでも、真姫の命の危機で、動けるのは自分達しか居ない。
だから、絞り出すように呟いた。
「ええ、行きましょう」
たとえ自分がおかしくなったとしても、目の前の――真姫の命は守らなければならない。
廊下へと駆け去った絵里とニコの後を追って、穂乃果と海未も駆け出そうとして、小さくか弱い声に足が止まる。
「穂乃果ちゃん……海未ちゃん――っ」
ことりが小さく、二人の心を捕まえる。
行かないで、という願い。
真姫を助けてほしいという祈り。
「ことりちゃん、私達の幼馴染を、お願い!」
「ことり、私達なら心配無用です。真姫を連れて帰ってきます」
穂乃果と海未は振り向いて、優しく微笑んだ。
海未は凛をちらりと見ると、凛はこくりと頷いた。
そして二人はたっ、と駆けだした。
今日はここまで。
四人の目の前には見慣れたバイクが置いてあった。
絵里のCBR400。穂乃果のスーパーカブ110。海未のクロスカブ。
乗ってきた記憶なんてないのに――海未は呑み込んだはずの困惑と動揺が吐き気になって喉元まで込み上がってくる感覚を覚える。
「ニコ、これ」
絵里はフルフェイスのメットをニコに放り投げると、ニコはがっちりキャッチ。
穂乃果は引っ掛けてあったハーフタイプのヘルメットを海未に手渡し、自分も被ってゴーグルを装着した。
「穂乃果が先行して。私が次、最後に海未、これで行く――海未?」
海未は強い眩暈に耐えられず、少し屈みこんだ。
「――少し、少しだけ遅れていきます。カブの調子が少し悪いみたいで」
調子が悪いのは自分だ――海未はクロスカブの調子を確かめるように屈みこんだまま、嘘を吐いた。
穂乃果を騙し通す自信はなかったが、この土壇場で嘘を吐くという事は何かあったんだ、と穂乃果は考えるはずだ。海未はそう考えた。
「絵里ちゃん、ニコちゃん、先に行こう! すぐ追いついてくれるよ!」
絵里とニコは穂乃果の言葉に頷き、絵里はバイクにまたがり、ニコは荷台に飛び乗った。
「海未ちゃん、私独りでも大丈夫――って言えないけど、頑張るから」
穂乃果は小さく呟いて、海未は微かに頷いた。
二つのバイクは真夏の夜にエンジンの音を震わせて、勇ましく夜道に飛び出した。
「ここなの?」
絵里はバイクを止めてメットを脱ぐ。
ニコも荷台から飛び降りて、メットを外そうとする。
「ここだね。穂乃果のアイフォンが落ちてるし、車のナンバーも凛ちゃんが覚えてたのと一緒だもん」
穂乃果は鋭い視線でアイフォンを拾いつつ、ぽつんと停めてある車を見た。
屈んだまま呟く穂乃果を見つめつつ、ニコは絵里の隣に近づく。
(凛と言い海未と言い穂乃果と言い、本当にこの子あのいつもニコニコ笑ってる穂乃果なの?)
(ええ、そうよ? 海未は特にすごいけどね、こういう時)
ニコの耳打ちに絵里は肩を竦めつつ答えた。
「ここ……廃ビルなのかしら?」
絵里はニコの疑惑の視線をあしらいつつ、穂乃果の隣へ歩み寄る。
三人の目の前にあるのは、無人の廃ビルだった。
ビルの周りには『立ち入り禁止』のバリケードが立ててあり、誰かが侵入した気配が見える。
「たぶん、いるね」穂乃果は振り向いて絵里とニコを見た。「絵里ちゃんとニコちゃんは穂乃果から離れないで。穂乃果だけなら三人くらい相手に出来るけど、二人を守りながらっていうのはたぶん出来ないよ」
「あ、あんたどんだけ強いのよ……」
「海未ちゃんから運が良ければ一本取れるよ」
穂乃果は自身の伸長を超えるバリケードを跳躍して乗り越え、内側へと侵入していった。
「海未ってどんだけ強いのよ……」
さあね、と笑う絵里は静かにバリケードをずらすと、隙間を作って入り込む。
ニコは絵里の作った隙間を悠々と通り抜けると二人の後を追いかけた。
こつん、こつん、こつんと三人の足音が微かに響く。
穂乃果のアイフォンのフラッシュライトが辺りを照らし、一歩一歩周囲を確認しながら階段を上る。
十階建ての廃ビルは当然電機など通っていない。
「元は何のビルだったのかしら」
「雑居ビルだったし、きっと色んな――」
絵里の言葉に穂乃果が静止をかける。
絵里とニコが穂乃果を見つめると、穂乃果は小さく告げた。
「二階から順に調べて行こう。穂乃果の傍を離れないで」
穂乃果は静かに階段と二階の廊下を繋ぐ扉を開けた。
「――ハズレ、みたいね」
絵里が小さく呟く。
穂乃果は頷き、上に登る仕草を見せた。
じっとしゃがんで、ただ待ち続ける。
このひどい吐き気と、視界のゆがみが消えるまで。
海未は静かに、ただうずくまっていた。
「や、大丈夫?」
うずくまる海未の傍らに、女性が声を掛けながら近づいてくる。
「――ええ、大丈夫です。少し気分が悪く――ッ!?」
海未は振り向きつつ立ち上がり、その女性を視界に入れて、息が詰まった。
明るい茶色――というより少し茶色気のある橙色の髪。水色の瞳。見覚えのある表情。姿かたちが変わっても、その女性は――。
そんなまさか。ふらりと足がよろめく。
「ちょっと、本当に大丈夫?」
大き目のマイクケースを持った女性は駆け足で近づくが、海未は気を持ち直し今度こそ立ち上がる。
「ええ、大丈夫です――すみません、ご心配をおかけして……」
「そかそか。いやーさっき大きな音がしたからさ、どうかしたのかなーって様子を見に来たの。そしたら君がいたからさー――って話聞いてる?」
「い、いえ――あの、私は園田海未と申します。失礼ですがお名前を伺っても宜しいでしょうか?」
人の名前を尋ねる前にまず自分から名乗る。
「――ないね」
女性は小さく呟いた。
海未は聞き返そうとして、それは出来なかった。
女性の手が、海未の額に触れたからだ。
「なにを――ッ」
「しっ。……ああ、やっぱり。これ以上は海未ちゃんの身体によくないね。私もあの子もやってる事の愚かさに気づいてるのに、止められないんだ」
女性はくるりと踵を返した。
「あんまり無茶しちゃだめだよー。幼馴染が心配するからねー」
マイクケースを揺らしながら、女性はふらりふらりと風に吹かれるように歩き出した。
「……一体なんだったのでしょうか」
海未は女性の後ろ姿を眺めていたが、やがて我に返る。
「真姫!」
海未は急いでクロスカブにまたがると、鍵を差し込み、スイッチを入れ、ニュートラルからローに入れる。
カブ特有の可愛らしいエンジン音の後、海未はバイクをスタートさせた。
今日はここまで。
「これで八階も居なかったね」
穂乃果はふう、と息を吐く。
「最上階にいるのかしら」
絵里は階上を睨みつけ、ニコは黙ったまま二人の後ろをついて歩く。
先頭にいた穂乃果は二人を振り向き、真剣な面持ちで呟く。
「どうなんだろう……何とも言えな――ッ!」
呟きは叫び声に変わり、穂乃果はニコの腕を思い切り引っ張った。
絵里は穂乃果を躱す動きで飛び退き、尻餅をついて座り込んだ。
腕をいきなり引っ張られたニコは前につんのめって、そのままコンクリートの床に手を着いた。
そしてニコを引っ張った勢いに乗り、穂乃果は前方――ニコがいた後方に――体ごと思い切りぶつかっていった。
身体に走る衝撃を穂乃果はものともせず、ぶつかったモノを全力で押す。
「ぐわっ!?」
「はぁあああああああっ!!」
全力でぶつかったモノを壁まで押し、渾身の力で壁に叩き付ける。
モノ――正確には、真姫を車に連れ込んでいた集団の内の一人だった。
「穂乃果!?」
「穂乃果ッ!!」
絵里とニコの声に、しかし穂乃果は振り向かない。
「二人とも上に! ここは穂乃果が何とかするから!! 早く!!」
絵里の視界には男たちがまだ二、三人見えた。
一瞬だけ逡巡して、絵里は階段めがけて駆け出した。
「絵里!? 穂乃果を――」
「私たちが来たことがばれたんだからしょうがないでしょ!?」
「待て!!」
「止まれ!」
「させないよ!!!」
男達の怒鳴り声が聞こえ、穂乃果の怒鳴り声がそれをかき消す。
ニコは舌打ちして絵里の背中を追いかけた。
階段を駆け上る。
足音が階段に響き渡り、自分たち以外の足音も響き渡っている。
「マズイ、上から来てるッ」
絵里は踊り場で足を止め、舌打ちする。
「こっち!」
ニコはそのまま九階の廊下へと飛び込む。
絵里も後を追って転がり込んだ。
二人は無造作に放置されている机の陰に隠れる。
同時に足音が聞こえ、二人の居る部屋に入ってくる。
ライトが辺りを照らし、男たちが近づいてきているのがわかる。
ニコの額には冷や汗が流れ出る。
ライトの数は少なくとも三つはある。
三人はいるかもしれない。
ニコも絵里も成人男性の腕力にかなうはずがない。
見つかったらどうなるのだろうか。
真姫がいるのは最上階――ここまできて。
憤りと恐怖が喉元をきりきりと締め上げ、身体が震える。
(ニコ)
ぽそり、と耳朶を打つ声に、ニコは静かに絵里を見る。
(後の事、押し付けるわよ)
絵里は暗がりの中、ぱちりとニコにウインクした。
なにを、と問うより先に、絵里は机の陰から階段とは反対方向にぱっと駆け出した。
「逃げたぞ! 追え!!」
絵里は丸椅子を男たちの方に蹴飛ばしながら駆け去る。
金色の髪がフラッシュライトに照らされて、男たちが追いかけていく。
(あのバカ金髪!)
ニコは机の上のモノを怒りに任せ引っ掴むと、がむしゃらに階段上を目指した。
十階に人はおらず、ニコはさらに階段を駆け上る。
屋上へと通じるドアがニコの視界に飛び込んできて、駆け上った勢いでニコはドアにぶつかるようにこじ開けた。
雲一つない満月と満天の星空だった。
海の風がニコの頬を撫で、髪を揺らす。
「真姫を返してもらうわ」
息を整えながら、ニコは視線の奥――真姫と黒い服に身を包んだ男へ唸るように言った。
「……この娘にも君たちにも危害を加える意思はない」
黒服の男は真姫を丸椅子に座らせていて、猿轡は解かれていた。
男はニコを一瞥し、静かに言った。
「知ったこっちゃないわ。急に窓ガラス割って女の子一人攫って『危害を加えるつもりはない』? 下の階では私に襲い掛かってきた奴もいたわ」
「……どうする? 力づくで取り返すか?」
「……」
ニコの頬に冷たい汗が流れる。
大人と殴り合って勝てる女子高生などまずいない。
今ここで一番頼れるのは穂乃果だ。
ならば穂乃果を待つ。ニコはからからに乾いたのどで唾を飲み込み、口を開いた。
「真姫ってことは――お金が目的なの」
「……時間稼ぎが目的か? それなら期待しない方がいい」
「なん――きゃっ!!?」
突然後ろから圧力がかかって、体が浮いた。羽交い絞めにされる。足が地面に届かない。
やばいやばいやばい!
真姫が!!!!
「暴れるな」
羽交い絞めにしてくる男が静かに、重く、呟いて、ニコは恐怖と苦痛から暴れるのを止めた。
「そこで大人しく見ておけ」
男は携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけ始めた。
(一体何を……)
ニコが内心で焦りを見せ始めたころ、後ろの、階段と屋上を繋ぐドアが開いた。
「ニコ! 真姫――!?」
羽交い絞めのニコ、縛られて椅子に座り光のない瞳でぼんやりと虚空を眺める真姫。
それらすべてが絵里の視界に飛び込んできて、何がなんだがよく解らなくなった。
「な、なにを――」
血の気が引く。最悪だ。
この状況をひっくり返す手札は絵里にはない。
絵里を睨んでニコを羽交い絞めにする男は鋭く言った。
「そこで見ていろ。暴れなければそこの二人にも危害は加えない」
くらくらするほどの吐き気は、最悪の状況下におかれているから。
覚束ない足取りで壁まで後ずさり、深呼吸した。
「一体何が目的なの」
絵里は声を絞り出す。
真姫の隣で男は笑う。
笑い声に応える様に風が吹いてきた。
風はニコと絵里をねっとりと撫でた。
「――嘘」
ニコの鼻がピクリと動き、そして表情が死んでいくのを絵里は認めた。
「ニ、ニコ?」
「アンタまさか……八坂さん?」
風に流れて香ったのは、微かな柑橘の香り。ニコはその香りを感じとり、反射的に口をついて出た。
八坂は柔和な表情を歪め、絵里とニコを嘲笑うように見た。
「なんで! 何でこんなこと!?」
ニコはわけがわからなくなって叫んだ。
「オトノキは廃校になってもらわないと困るんだよ。だからここで、君ら八人には死んでもらわなければならない」
「死ぬ……? 私たちが?」
八坂は静かに笑っていた。ニコを羽交い絞めにしていた男の力が一段と強くなり、ニコの喉がきゅっと詰まる。
「――っぁ」
ニコの喉から不自然な声が漏れる。抵抗を諦めていたニコは、命の危機を本能で感じとり、暴れた。
無情にも彼女の力では振り解くことは出来ず、首は更に締まって行く。
「ニコ!!」
絵里が男に向かって矢の様に走った。怒りと恐怖に身を任せ、背後から渾身の力で飛びついた。
「この――ッ!!」
飛び付いて、不可能だと解っていても、体だけは動いた。
ニコを締め付ける右腕を引き剥がそうと掴もうとしたその時、左腕が絵里のシャツを引っ張った。
一瞬屋上の床と夜空が一回転して、その後夜空を見上げながら絵里は床に叩きつけられた。
「あ――ぐっ」
世界が明滅して、それでもニコ助けなければと上体を起こす。
明滅する世界でニコが四つん這いになって咳き込んでいるのを確認した。
そしてそれまでが限界で、絵里の意識はぷっつりと途切れてしまった。
ひゅう、ひゅう、とおかしな吐息が聞こえる。自分の呼吸の音だ、とニコは思った。呼吸をしているから、まだ生きてる。生きてるなら、まだどうとでもなる。
「ふ、ふふん、危害を加えないんじゃないのね……」
ニコはよろよろと立ち上がる。脚はがくがく震えて、恐怖で胃の中のものがすべて込み上げてきそうだが、気合で抑え込む。
息が整い口を、開く。
「君だけしか来ていないのであれば――一人も殺さずに済んだのだが。この場合はもう一人、来ているんだろう?」
ニコにはこの八坂の言葉の意図がつかめなかった。ニコ一人と、絵里たちと一緒に来た事、そこに何の違いがあるというのか。
しかし――今なすべきことは。
「――じ、自分で殺せないのね」
八坂の表情がぴくりと動く。
「後のデカブツが殺してくれるのを待ってるんだ、私を」
「子ども一人殺せないと? 俺が?」
八坂の言動は明らかに苛立っていた。
ニコはなぜか知っていた。この男には、こういった煽りが一番効果的に怒らせることができる、と。
「そうじゃない。アンタは手も汚さずに私たちを殺す。自分が前に立たずに何かをやり遂げるなんて、臆病者のやることだわ」
ニコの背後でデカブツが動く気配がして――鈍い衝撃音が夜空に響いた。
「ニ……ニコ……ちゃん……ッ!!!!」
解けたサイドテール。破れて素肌がところどころ除く『ほ』の字のシャツ。靴は片方が脱げている。彼女は満身創痍を体現していた。
それでも彼女はここまでやってきた。
華奢な両腕で男の両腕を真向から受け止め、靴と靴下を床に擦り付かせながら、信頼する先輩の名を呼んだ。
だからニコは振り向かない。
可愛い後輩を盾にして、ニコは八坂を睨みつける。
「殺せないんでしょ? 殺せないから他人にやらせるんでしょ?」
大人に啖呵を切るのはニコの得意技だ。
「だったら自分で殺してみなさいよ!」
今ニコが一番やらなければならない事は、真姫の安全の確保だ。穂乃果があのデカブツを食い止めている間に、八坂と真姫を物理的に離す必要がある。
八坂たちは海未という切り札が此処に来ることを知らない。
距離を離して、時間を稼げば、海未はきっと来てくれる。
ニコは嘔吐感をこらえ、八坂を睨みつけた。
一瞬の静寂の後。
ぱぁん、と乾いた音が響いた。
今日はここまで。
音で、真姫の意識が覚醒する。
「ここ――えっ?」
見ず知らずの場所が視界に飛び込んで、自身の目の前にはニコがいて、ニコはふわりと背中から地面に倒れこんだ。
鼻につく焦げ付いた香り。
隣に立つ八坂の手に握られている、黒い――拳銃。
ゆらゆらと、煙を燻らせて。
穂乃果が音に驚いた隙に巨体の男が華奢な体を床に叩き付ける。
穂乃果は叩きつけられる瞬間に男の手を離れ、くるりと受け身を取って距離を離す。
どさり、とニコが地面に倒れるまで、真姫には永遠に似た一瞬の時間を感じた。
何かの冗談か。きっとすぐにもニコは立ち上がってくれる。
八坂一緒になって、悪いジョークだ、と笑みを零しながら真姫をからかう筈だ。
だから、いまにも立ち上がってくれる。
立ってくれない。
立ち上がってくれない。
身じろぎひとつせず、ニコは静かに横たわっている。
取り巻いていた現実が、真姫に牙を剥き、たやすく彼女の心を貫いた。
立ち上がった。
足がふらつく。
手が震える。
足が震えてる。
凍えそうなほど体が寒い。
ふらついた足が自重を支えられず、前に倒れこむ。
起き上れない。
それでも這いずって進む。
私の、私より大切な、存在。
確かめたい。
行かないで。
私を置いて。
血色の練習着に触れた瞬間。
声が聞こえた。
穂乃果の声だ。
けれど、言葉が理解できない。
ふっ、と周りが一段と暗くなる。
ちゃき、と音がする。
ふつふつと何かが湧き上がってくる。
心の奥底から、絶望と諦念と。
ぱぁん、ともう一度音がうねった。
八坂は真姫を避けて、ニコの頭を至近距離で撃った――はずだったが、銃弾は夜空へ消えた。
正確には拳銃を持つ右腕ごと、虚空に向けられていた。
右腕に巻き付いているのは、黒い――。
「ベルト?」
ベルトは別のベルトと繋がっていて、そのベルトの先には一人の少女が月を背に、誤って落ちないように設置された柵を背に、佇んでいた。
白を一寸も許さない長い髪。日本刀の様な眼差し。
園田海未がそこにはいた。
八坂の腕に巻き付き、そして海未が握りしめるベルトとは別に、腰に巻かれたベルトには剣の様に鉄パイプが佩かれていた。
「海未ちゃ――ッ!?」
穂乃果の喜声と同時に対峙していた大男が再度襲い掛かる。
それと同時に、海未の感情が爆発する。
「八坂ぁああアアッ!!!」
「またお前がぁああああ!!」
海未の雄叫びと共に、八坂の怒鳴り声と三度目の銃声が唸った。
八坂は右手から左手に拳銃を持ち替えた。そしてそのまま右腕に巻きつくベルトが拳銃で撃ち抜かれる。引きちぎれたベルトが夜空を舞う。
そのまま銃口は海未へと突き付けられるが、海未とて棒立ちで立っていた訳ではない。
鉄パイプを引き抜き、八坂の眼前に迫る。
八坂も突っ込んでくる海未を射線に捉える。
四度目の銃声。
放たれた一閃。
八坂に叩き込まれるその一撃は、轟という唸り声をあげて鳩尾に呑み込まれた。
「ごァッ!?」
「うッ、オオオオオオオオオォ!!!」
そのまま海未は渾身の力で振り抜く。八坂の身体がぐんと持ち上がり、放り投げた空き缶の様に宙を舞い、柵に叩きつけられた。
拳銃も同じように宙を舞い、床を滑ってニコと真姫の近くで止まった。
それと同時に海未の長い髪の毛が、焦げ臭いにおいと共に少しだけ散った。
が、海未はその研ぎあげた刃の瞳を緩めない。
「穂乃果ッ!!」
再度の叫び。
海未の視線の先には、こめかみに拳銃を突きつけられ首を絞められ、身動きできずにいる穂乃果と、あらゆるものが凍りつきそうなほどの冷たい表情で海未を睨む男の姿。
「捨てろ」
男の言葉に海未はすぐに従った。からん、と鉄パイプが乾いた音を立てて転がる。
ころころ転がったパイプは、気を失っている絵里にぶつかって止まった。
「うみ……ちゃ……」
遠くなる意識の中、穂乃果は海未の名前を呼ぶ。
海未は静かに頷いた。
「死ね」
穂乃果に突き付けられていた拳銃が海未に突き付けられ、そのまま、なんの躊躇いもなく引き金が引かれる。
たぁん、という乾いた音が鳴る。
それより早く、海未は身を屈めた後、横っ跳ぶ。
頬が引っ張られる感覚に顔をゆがめる。
海未の頬をかすめた銃弾は、海未に赤い一閃を遺していく。
「くっ!」
無理矢理動かした体は虚空でバランスを崩し、無茶な体勢で地面を転がる。
上体を起こし遮蔽物を探し、視界を巡らせたが都合の良い場所はなく。
再度海未が男を視界に入れた時には、銃口は海未の身体の真ん中を見据えていた。
(!)
反射的に目を強く閉じ、体を貫くであろう衝撃に備えた。
今日はここまで。
(……?)
衝撃どころかあの甲高い音すら耳に入ってこなかった。
そもそも、今まで耳に聞こえてきた小さな雑音、吹いている風の音、そういったもの全てが、今この世界から失われていた。
恐る恐る、薄目を開ける。
「え――?」
男は拳銃を海未に突き付けたまま、瞬きひとつしない。
それは穂乃果も同じで、男に首を絞められたままぴたりと動きを止めている。
「真姫――」
海未が現れた時には気絶している絵里とニコは兎に角、真姫ですらニコの傍で俯いたまま身動ぎ一つしなかった。
どくん、どくん、と跳ね上がる心臓。
恐怖とも絶望とも違う、拭い去れない痛烈な不安感。
(ほのか――)
心から溢れ出る不安を振り払う為に、目を閉じて幼馴染の名前を呼んだ瞬間。
「海未ちゃん」
『彼女』がそこに居た。
「え――?」
『彼女』は海未を見て、さみしげに微笑んだ。
そのまま海未から距離を取り、男の拳銃に触れた後そのまま横を通り過ぎ、フェンスを悠々と飛び越え、夜空に身を躍らせた。
『彼女』が海未の視界からいなくなった後、ようやくすべてのものが動きだした。
「ぐあああああっ!」
静寂と呼ぶのすら烏滸がましいほどの無音の世界を断ち切ったのは、男の声。
彼の手からは拳銃が吹き飛び、拍子に穂乃果も投げ出され、彼女は両手を地につき咽込んでいた。
穂乃果が生きて、動いている。
自然と不安は消えた。
酸素を肺いっぱいに取り込む。
床を蹴り飛ばす。
彼我の距離を詰める。
男が拳を振りかぶる。
歯を食いしばる。
唸る右腕。
直前で躱す。
躱した勢いをそのままに、左拳を男の脇腹に抉りこむ。
男から吐き出された唾液が海未を汚す。
空いた右腕。
振り上げて。
掌底。
男の身体が一瞬浮く。
「――ッ!」
右脚。男。鳩尾。
夜空に弧を描いた巨躯は、ずしんと音を立てて床に落ちた。
やがて海未は静かに構えを解くと、ようやく止めていた息を大きく吐きだして、また吸い込んだ。
どっ、と汗が噴き出してくるのを感じつつ、一度穂乃果をちらりと見る。
穂乃果は仰向けになって荒く呼吸していて、海未は安堵の息を漏らす。そして、気絶している絵里へ駆け寄った。
ニコは真姫に任せておいて大丈夫だろう、と一人考えながら。
ニコの身に何があったか、海未は知らないままで。
「ニコ……ちゃん」
真姫がぽつりとつぶやく。目の前には静かに目を閉じて横たわるニコの小さな体があった。
血の色みたいに赤い練習着に、弾痕は確かにあった。
そしてニコは目を覚まさない。
「どうして……なの?」
言葉があふれてくる。
これからだったのに。
アイドルも、夢も、悩みも、人生も、私も。
生まれて初めて、失敗を犯さずに心を打ち明けられた、大切な人だったのに。
ふと、足元に視線が行く。
黒く光る、それ。
自分のこめかみに向けて引き金を引けば、またニコちゃんに会える。
それは、きっと、しあわせ――
「真姫!! いけませんッ!!!」
穂乃果と絵里を介抱していた海未は、悲鳴に近い声を挙げた。
海未が今まで見たことのない、凍えるほど狂気に満ちた笑顔を浮かべて、自身のこめかみに銃口を突きつける真姫が、そこにいた。
そして、最後の銃声が、響いた。
「真姫ーーーーーッ!!」
今回はここまで。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
何かが追いかけてくる。何かは分からないが、捕まってはいけないものだと、真姫にはわかった。
だから、必死になって走った。
煉瓦の壁伝いに足を動かして逃げていくが、何かは延々と追いかけてくる。
走り続けていると、目の前に大きな木製の扉が現れる。両側内開きのドアだ。円柱の取っ手がついている。
他に道はない。後ろから追手は確実に近付いている。
一も二もなく、真姫は扉をぶつかっていくようにこじ開けた。
扉の向こう側に突入すると、そのまま振り向いて扉を勢いよく閉めて、扉の取っ手と取っ手の間に転がっていたパイプを突っ込むと、そのまま扉を背にズルズルとへたり込んだ。
「なんなの……ホントに……」
悪態をつく真姫だが、次の瞬間にはその悪態を忘れることになった。
陽の光を浴びて煌めくステンドグラス。
おとぎ話のお城に出てくる様な、豪華絢爛なシャンデリア。
七体の女性をかたどった、美麗な像。
そして何より真姫の目を奪ったのは、その七体の大きくて立派な像に囲まれる、グランドピアノ。
へたり込んだはずの足に不思議と力が湧いてくる。
指が音楽を弾きたがっている。
喉が歌を奏でたがっている。
ピアノを、弾きたい。
誘われるようにピアノのもとへと歩き出す真姫。
ふらり、ふらりと覚束ないながらも、確実にピアノへと近づいていく。
そしてピアノまであと半分、教会の真ん中まで来た――瞬間。
真姫の周囲がずん、と暗くなる。
「なに――?」
言い終わるか終らないうち。真姫を正方形に取り囲む様に鉄の柱が降り注ぐ。
それはまるで、小鳥を逃さないようにする為の、鳥籠。
「なに!? なんなの!?」
真姫は両の手を丸めて、思い切り籠を叩く。
けれどその鳥籠はビクともしない。
「なんなのよっ!」最後に右足で思い切り籠を蹴り飛ばすが「いっ――!」
痛んだのは右足だった。
痛みに半泣きになりながらも下唇を噛んで我慢していると――くすくすと声が聞こえてきた。
誰よ! とムッとしながら振り向き様に睨みつけると――。
「に、ニコちゃん?」
涼しい顔で、ニコニコ笑顔を浮かべていた。
ああ、良かった。やっぱりニコちゃんは生きてる。
「ニコちゃ――」
喉元まで言葉が出掛って、その言葉をぐっと飲み込んだ。
ニコの傍らに立っている一人の少女が目に映ったからだ。
見覚えのある少女。いや、見覚えどころではない。それは紛れもなく。
「私――」
幼いころの、自分。白いドレスに赤い花束。そして何より大切に持っているのは、一枚の賞状。ピアノのコンクールの時の自分だ。
あの時に私は、何もかもを諦めて、目の前の道を無表情に歩き続けていたのだ。
「真姫ちゃん! 行こう!」
ニコが真姫に手を差し出す。けれど真姫はその手を掴めない。掴めないその手。傍らの幼い自分がじっと見つめている。
今更また音楽に戻るの? 今までを裏切って?
そんな表情に見える。
教会の扉が凄まじい音を立てて唸った。
何かが扉を突き破ろうとしている。
私に構っていてはだめだ。ニコちゃんだけでも逃げてほしい。
しかしニコは笑顔のまま鳥籠の鉄柱に手をかける。
「ぬぉおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」
笑顔のまま力んだのでおかしな顔になるニコ。
アイドル志望とは思えない顔で雄叫びを挙げ、鉄柱をひん曲げようとする。
ニコの細い腕に引っ張られ、鉄柱がメギメギという異音を発する。
「アンタが私を助けようとするのと一緒でぇええええええええ!!!」
ニコが鳥籠に喰らい付いていると、幼い真姫は踵を返す。女神の像へとひた走っていく。
「私もアンタを放っておけないのよぉおおおおおおおおおおおおッ!!」
ニコの雄叫びに応える様に、教会の扉が盛大な破砕音と共にばらばらに砕け散った。
「ニコちゃん!! もういい!! もういいからッ!!」
「死んでも離すもんか!!!」
「親友だったら私のお願い聞いてよッ!!」
「親友だから絶対に聞かない!!!」
「「分からず屋っ!!!!」」
二人の叫び声が重なると同時、襲ってくる何かが鳥籠を――。
「だいじょうぶだよ」
はっきりと聞こえた声。紛れもない、幼いころの自分の声。
幼い真姫が光に包まれていく。
それと同時に、七体の像も光に包まれていく。
「な、なんの――」
「真姫ちゃんの為なら命を投げ出せる子が、後七人いるだけよ」
「みんな、あなたのコトがすきなんだよ」
光があふれて、真姫の視界が真っ白に塗り潰される。
オレンジ色と、青色と、白色と、黄色と、緑色と、水色と、紫色と、ピンク色と、ちょっと頼りない赤色と――。
白い光の中に、九色の光が生まれて、ふわりと包まれて――。
心の奥がとろけて、ふわふわして、すっごく気持ちが――。
今日はここまで。
目が覚めると、白い蛍光灯と白い天井が見えた。
不思議な夢だった。
頭は柔らかい……枕に乗せているのかしら。
どうも私は横たわっているらしい。
しゃわしゃわしゃわ、と蝉の声が聞こえる。
夏の匂いがする。
ここはどこだろう。
首だけ動かして視界を散らすと、そこに居るはずのない人物がいた。
「おはよ、真姫ちゃん」
微笑みながら、そこにいた。
「ニコ……ちゃん?」
上体を起こして、ニコちゃんに触れてみる。ピンクのカーディガン、黒い髪、赤いリボン、白い肌、ピンク色の頬。
それらはすべてあたたかくて。
色んな記憶が一気に蘇ってきて。
ぽとり、と涙が一滴私の目からあふれ出た。
「心配かけてごめんね、真姫ちゃん」
その言葉で、私の涙をせき止めていた壁が粉々に砕けた。
涙があふれて止まらなかった。嬉しくて嬉しくて、声も出なかった。
「ニコちゃん、拳銃で撃たれてた――よね?」
恐る恐るニコの胸の辺りに触れる真姫。
真姫の細い指に擽ったそうに笑うニコ。
「撃たれたけど、鍛えてたから大丈夫!」
そんなわけあるか。
「……」
湿気た真姫の視線にニコは赤い舌をぺろりと出す。
「ホントは落ちてた鉄板を忍ばせといたの」
は? という真姫の表情。
「あの廃ビル、結構いろんなものが落ちててさ、絵里と別れた後、ニコ一人になっちゃって。こうなったら私の役目って時間稼ぎくらいしかないなーと思って。その時少しでも身を守るものが欲しかったから、丁度いい鉄板を括り付けた訳。取っ手みたいなのがあったし、私ってほら、真っ平だからお腹に何か忍ばせてもわかんないでしょ?」
まさか拳銃で撃たれるとは思ってもみなかったけど。
とニコは呆気からんと言ってのけた。
――今思えば練習着は赤かったが血液は一滴も流れてなかった気がする。
「その後頭打っちゃってたぶん気を失ったんだと思う。途中何があったかは覚えてないけど」
あはは、と笑う。
何があったか覚えていない、という言葉に真姫はふっと自分の行動を思い出す。
「そうだ――私、拳銃を――」
今更ながら、手が震える。自分に拳銃を突きつけて、死のうとしたのだ。小刻みに震えだす両の手を、ニコはふわりと優しく包み込んだ。
「大丈夫。それだけは絶対にさせないから。真姫ちゃんが引き金を引く寸前にニコ、目が覚めたんだ。起きなきゃ――って。考えるより先に体が動いてたの。真姫ちゃんの両手を掴んで、銃口を反らして、あの時みたいに二人で床に倒れこんだの」
「――ニコちゃん――」
もう言葉が出なかった。
ニコは微笑んでいた。何も言わなくてもいい、と。
からら、とドアが開いた。
「ニコ、真姫」
「ありゃりゃ? 海未ちゃんってばニコ達の逢引きを――海未ちゃん?」
ニコのふざけた言葉に隠れて、真姫はごしごしと目を擦る。
海未はそんなふざけた言葉に冗談交じりでしかめ面をした後、朗報です、と海未は前置きしてから言った。
「真姫のお父様もお母様も御無事で、いま日本に戻られているそうです」
「本当なの!?」
喜色を露わにするニコと、話が読めない真姫。
ニコと海未を交互に見て、海未は微笑む。
「先程和木さんにご連絡したところ、すぐに真姫のご両親の安否を確認して頂けたのです」
話をようやく呑み込めた真姫は、改めてほっと息を漏らす。
そんな真姫に安堵の笑みを漏らした海未は、ニコと真姫に告げる。
「お医者様はもう一晩泊まっていてほしい、とのことです」
「……そうね。ちょっとほっとしたら、また眠くなってきたし」
「ニコもなんだか眠くなってきたニコ……」
うとうととし始める二人に、海未は優しく、とろけるように甘く微笑んだ。
「ええ、ゆっくり休んでください。――ああ、その前に一つだけ質問を――」
病院を出ると、強い日差しが海未を突き刺した。
じわり、と背中に汗がにじむ。冷や汗なのか、放熱のための汗なのか、海未にはよくわからなかった。
病院の自販機で買ったいろはすのキャップを開けて、ごくりと飲む。
「ごめん海未ちゃん、お待たせだね」
後ろからことりがやってくる。海未はこくりとうなずいて微笑むと、日傘をばさりと開ける。
「さあ、どうぞ」
海未は少しお道化て、ことりを日傘の陰に誘い込む。
ことりは頬を紅色に染めて、俯きながら陰にするりと入り込む。
歩道を歩く。
じりじりと照り付ける太陽に、海未は鬱陶しさを感じ、いろはすのキャップを開けてごくりと飲む。
一寸先は陽炎。蝉の声までも鬱陶しい。
「ねえ、海未ちゃん」
俯き加減で歩いていたことりは、やがて海未の名をぽつりと漏らす。
「はい?」
「どうか……したの?」
海未はハッと我に返る。海未から立ち上る苛立ち――によく似た感情を、ことりは感じ取ってしまっている。
「いえ。暑さが少し身に沁みまして――いけませんね。心頭滅却すれば火もまた涼し。鍛錬の足りない――」
「違うよ……海未ちゃん、嘘を吐かないで」
「嘘なんて吐いてませんよ」
笑顔をべったり貼り付ける。べったりと貼り付けて、本心を見抜かれないように。
「嘘だよ。海未ちゃん、顔が真っ青だよ」
笑顔が固まる。背中の汗が鬱陶しい。
「ねえ、どうしたの? ことり、海未ちゃんが心配なの……」
「ことり――質問しても、良いですか?」
海未は静かに、しかし微かに荒い語調で、ことりへと呟く。
「え――?」
「ことり、私たちは――」
いつかの、小学生だったころ、ことりをいじめっ子たちから救ったあの場所に、海未はいた。
心臓の早鐘で、体のあらゆるものが口から飛び出しそうだ。
「はっ、はっ、はっ」
呼吸が早すぎて、うまく息が吸えない。
それでも妙に頭だけは冴えていて、肺が酸素を求め続ける。
ことりの前で何とかいつもの体面を守れたのは奇跡に近い。
「はっ――」
にこも、真姫も、ことりも。
きっと他のみんなも。
そして私も。
いや、この世界自体、何かが狂っている。
あの時気付くべきだった。
真姫の父を説得したのは「矢澤にこ」ではなく「園田海未」だ。
そうでなければならなかったのだ。
なのに、真姫の父親を説き伏せたのは「矢澤にこ」だった。
「海未ちゃんってば変な質問するニコ」
「どうしたのよ海未。答えは決まってるじゃない」
「μ'sは、八人だよ?」
μ'sは八人しかいなかった……?
そんな馬鹿な。
七人に電話すると、
μ'sは八人だと言い張る。
そしていたはずの九人目の彼女に電話しようとして。
電話番号どころか、彼女の名前が携帯電話から消え去っていた。
正確には、この世界から彼女の存在が消えかかっていた。
私以外から。
「海未ちゃん」
ハッと振り向く。
そこには『彼女』がいた。
微笑む『彼女』。
「大丈夫だよ」
なにが、大丈夫だというのです――。
「今回も失敗しちゃったけど、次は大丈夫」
なにを――。
「前回はお話が途中で終わっちゃってすごく申し訳ないなって思ってるよ」
「でもね、今回は何とか終わらせることができたから、次は、絶対大丈夫」
「だから、もう一回」
なんどもなんども体験してきた感覚。知らないはずの感覚を、私はなぜか知っている。
あなたはいったい――。
「この世界のお話では最初から『μ'sは八人しかいなかった』事になるの。でも、次の世界では『いつものμ's』だから」
世界がぐるりと反転する。
色が、失われていく。
いや、反転しているのは自分だろうか。
「いなくなっていることに気づいてくれてありがとう。だから――次も頑張るよ」
『彼女』の名前を叫んで、そして意識の線がぷつりと切れた。
「……ん」
目が覚めました。
昨日と何も変わらない、夏休みのある日です。
今日ようやくニコと真姫が退院出来るという事で、練習はまだ休みです。
しかし、私個人としては体力的にも充足しており、体を鈍らせるわけにはいきません。
六時十五分。道場の雑巾がけで身体を目覚めさせてから、素振りでもしましょうか。
――ふと、机の上に置いてあるオオギクのプリザーブドフラワーが目に入りました。
……私は大事なことを、何か忘れていないでしょうか?
いいえ、気のせいでしょう。
来週からはμ'sの練習も再開です。私達μ's八人が揃えば、いつもの調子に戻るはずです。
道場へ向かいましょう。心機一転、気合を入れて鍛錬です。
にこ「ニコは百日紅ニコ!」真姫「にこちゃんはローズマリーね」【ラブライブ!】了
にこまき編はこれで完結。
話は続きます。
次回は新スレで。
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