八幡「想いを返す日」 (272)
・俺ガイルSS
・原作11巻の続きみたいな感じですが、なるべくほのぼの路線にします。
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何かをされたら何かを返す、というのはきっと万国共通の文化だ。こと日本においても当然それは変わらない。
挨拶をすれば挨拶を返すし、手紙やメールが届けば返事をする。当たり前のことなのかもしれない。けれど、俺にとっては当たり前じゃなかった。
ふと気が付いた時には、返すという機会自体が無くなってしまっていたからだ。
そう、結局のところ経験不足。これに尽きる。だから現状の俺の悩みは、過去のツケを払っているようなものなのだ。
腕を組み、カレンダーとにらめっこの状態から、背後に向けて声を上げる。
「なあ小町」
「なに?」
「ホワイトデーってなに返せばいいんだ?」
ソファに脚を投げ出して座る小町に振り向きざまに聞く。読みかけの雑誌から面倒そうに顔を上げると、こちらから見えたのはうげーという嫌そうな顔だった。
「お兄ちゃん……そんな初めてチョコ貰った男子中学生みたいなこと聞かないでよ」
「うっせ。わからんもんはわからん。だから聞いてる」
実際、小町と母親以外の異性からバレンタインに何かを貰ったのは初めてなのだ。だから、世間が騒ぎ立てるホワイトデーのお返しがどうとかこうとか、今まで考えたこともなかった。
「はぁ、誰に貰ったんだっけ? 結衣さんと雪乃さん?」
小町が知ってる中でぱっと出てくるのはその2人だけなんだろう。より正確に言えば、一色からも貰ってるし(超義理。間違いなく義理)、川なんとかさんとその妹の川崎京華からも共同制作という形で貰っている。折本は……まぁいいや。試食をいちいち貰ったとカウントするのもおかしい話だから、こんなところだろうか。
小町に追求されると非常に面倒なので、ここは適当に答えることにした。
「そんな感じだな」
「なーんか歯切れ悪いねぇ」
「まあ、そうだなぁ……」
実際のところ、俺は判断に困っていた。
由比ヶ浜からはクッキーを受け取ったが、雪ノ下のあれはどうなんだ?部室で確かに手作りクッキーを貰ったは貰ったが、由比ヶ浜のついでみたいな感じだったしなぁ……。
勝手に貰ったと勘違いしてお返しした揚句に「あなたから施しを受ける理由なんてないのだけれど」とか言われるところまで想像できちゃう。
やだ、ゆきのんの脳内再生率高すぎ……?。
「どしたの、お兄ちゃん?」
脳内で雪ノ下にばっさり切り捨てられる想像をしていた俺に向け、小町は気遣わしげに小首を傾げる。
「いや、何でもないぞ。あとはそうだ、小町にもな」
「おっ。小町を忘れないなんて、そこはポイント高いよ」
「俺が忘れるわけないだろ? ちなみにお前ならなに欲しいんだ?」
雪ノ下のことはとりあえず後で考えよう。
小町は悩む。んー、と腕を組んでひとしきり唸ったのちに出した答えは、ある意味想定内のもので。期待を裏切らないってこういう事なんだろう。
「小町は、お兄ちゃんの笑顔が見れればそれでいいよ?」
「お前……それは八幡的にもポイント高いな。金かからなくていいし」
「そういうこと、面と向かって言っちゃうのはポイント低いなー」
「すまんすまん。だがこれが俺だ」
近づいて、くしゃりと1回だけ頭をなでると気持ちよさそうに目を細める。それが何だか楽しくて、2回、3回と続けて細くて柔らかな髪を撫でた。
「まあ、月並みな回答だけどお返しするものは何でもいいと思うよ?」
「そういうけどな」
「お返しをするって、相手を想うその気持ちが大事だからね。まっ、ちゃんとお返ししようって思えてるんなら大丈夫だよ」
優し気にそう言って、すくっと立ち上がる。雑誌を置いたままリビングを出ていく小町の背へ向けて声を掛けた。
「これ、このままでいいのか?」
「あーうん、そこ置いといて。あとお兄ちゃん」
「なんだ?」
「期待してるよ」
にこやかな笑顔でそんなことを言い残して、小町はするりと体をドアの隙間に滑り込ませ去っていった。リビングと廊下を隔てる、今まさに閉められたばかりの扉をただ見つめる。
「なにを期待してるんだか」
独り言と溜息がほぼ同時に漏れた。正体不明の期待は、ただ重い。
ちらと、ソファに置いてけぼりをくらった小町の読んでいた雑誌が目に入る。
煌びやかな目を引く表紙には、今月号の謳い文句なのだろう。ひときわ大きな文字が配列されていた。それを見て、再びの溜息。小町に倣って、俺もリビングを出ることにした。
まるで、そこから目を背けるように。
× × ×
季節は3月を迎え、単純に寒さが和らぐかと思えばそんなことはなく。
依然として朝晩の冷え込みは強く、日中はそれが幾分和らぐ。そんな気候がここ数日は続いていた。
太陽が高く登る昼休み前後のこの時間であっても、寒いものは寒い。
外気に剥き出しの冷えた手でマッ缶を握りしめると、僅かにへこむ感触があった。そういえば最近スチール缶じゃなくなったんだよな。こうやって以前の形が無くなってしまうのは、何だか寂しい気分だ。
「八幡? どうしたの、急にぼーっとして」
「ああ、すまん戸塚。なに、急に寂しさが湧いてきてな」
くりっとした瞳がこちらを覗きこんでいるのに、声を掛けられるまで気が付かなかった。
戸塚はふーんと感心したような声を漏らす。
「なに、どうした?」
「なんでもないんだけどね。卒業式も終わっちゃったから、それを寂しがってるのかなって」
「……俺がそういうタイプに見えるか?」
「うーん。見えない、かな?」
「だろ?」
今年度の総武高校の卒業式はつつがなく終了した。
それに対して寂しさや、卒業する先輩に別れを惜しむ気持ちは、正直あまりない。それなりに関わりのあった先輩らしい先輩なんて城廻先輩くらいなものだから、仕方ないところではある。
交わりがあって、人となりを知っているから寂寥感が湧く。知らない先輩にそれが湧くほど感情豊かでも無い。
自信満々とも言える俺の物言いに、戸塚は目を細めてくすりと笑った。無駄に艶っぽくて勘違いしたくなっちゃうから是非やめて欲しい。
でも勘違いしたい。いや違うな。させて下さいお願いします。(錯乱)
そのままふたり並んで座り、鉄製のフェンス越しに目の前で繰り広げられるテニス部員達のラリーの様子を眺める。
「それはそれとして、聞きたいことがある。というか教えてくれ」
「八幡がそういうのも珍しいね。なに?」
「ホワイトデーのことなんだが、なんて言うか、なに返せばいいのか悩んでてな」
「あーホワイトデー」
戸塚はぽんと手の平を合わせる。俺の言葉を受けると一瞬意外そうな表情を見せたが、すぐに思案顔になった。暫く考え込むと、やがて考えが纏まったようでゆっくりとこちらに向き直る。
「ぼくもあんまりそういう経験ないから、良いアドバイス出来ないかもだけど」
「……ちなみに参考までに聞きたいんだが」
「なに?」
「今年いくつ貰ったんだ?」
無言で目をぱちくり。やや視線を外して上を見上げると、指を折って数を数え始めた。
ひーふーみー…………えっ、多くない?うそ?まだ止まらないの?えっ?
両手の指を折りきるのか、というところでようやく動きが止まった。折った指をぱっと広げて俺に見せつける。
「これくらい?」
「戸塚って……モテるんだな」
チョコを貰うというよりむしろ贈る方が似合う、といったらさすがに失礼か。でもそっちの方を自然に想像しちゃうんだよな。だが男だ。男なんだ。
ぽかんと開けられた口から漏れた俺の感想に、恥ずかしそうに手を振って応える。
「そ、そんなんじゃないよ。女子テニス部の子とかからの義理チョコが大半だから」
「ほーん、なるほど……」
部活の同期とか後輩からなんだろう。それでも、普段から慕われてないとバレンタインにチョコを贈ろうなんて考え付かない。例え、それが義理チョコであってもだ。
ちゃんとやれてるんだなぁ、と。そんなしみじみとした感想を覚えた。
「あ、あと」
「ん?」
「知らない女の子からもね、貰っちゃった」
「おお……。それはすごいな」
「あはは、なんか恥ずかしいや」
やっぱモテるじゃないですかーやだー。これでモテないとかいったら俺は人外ですよ!人外!
う、羨ましいとかじゃないよ? 男子たるもの、一度はそんなシチュエーションを経験してみたいなぁとかそんな感じだ。でも仮に俺が渡されてもなぁ……。下剤とか入ってないよな?とか勘繰って絶対口にしない気がする。まぁそれはいいとして。
「じゃあ、なに返すとかもう決めたか?」
「うーん、テニス部の子はお返しするの簡単なんだけど、知らない女の子にはもしかして返さないかもしれない」
「返さないのか?」
「うん。お返しはいらない、って言ってくれてさ。それに、その子がどんな子なのかわからないから。なに返したらいいか全然わかんないんだよね」
そう言って、戸塚は困ったように笑った。
実際困るんだろう。知ってる相手から貰うだけでもお返しに困るくらいなのだ。だが、物は言いよう。考え方を変えることで見えることもある。
「知らない仲だったら、何返されても文句言えないだろ。相手だってそれは承知済みのはずだし。当たり障りないもんでいいんじゃねーの?」
その辺で売ってる菓子とか、キーホルダーとか。適当なものを頭に思い浮かべていると、おおーと感心したような声が聞こえた。
「八幡のそういう考え方、中々ぼくは出来ないなぁ。やっぱり八幡はすごいね!」
「……おう」
その声に邪気の類は一切なかった。だから、本気で感心してるんだろう。……戸塚よ、お前だけは変わらず純粋でいてくれ。
「八幡はさ、知ってる女の子から貰ったんでしょ?」
「ん、ああ」
「そっか。そうなんだ」
誰から?とは戸塚は聞かなかった。正直ありがたい。贈り主の名を口に出して言うのは、何だかひどく恥かしい思いだ。照れ臭いというか何というか、うまく言い表せないがそんな感じだ。
「じゃあ、大丈夫だよ」
何が?と思って戸塚を見やる。疑問を孕んだ目線に戸塚もすぐに気が付いたようで、ラリーを見つめたまま言葉を続けた。
「知ってる人へのお返しなら大丈夫だよってこと。その人の好みとか、好きなものとかわかるでしょ?」
でしょ?そこまで言って、くりっとこちらを覗き込む。俺はといえば、頬を掻いてへどもどした返事をすることしか出来なかった。
「まあ、そうだな。ある程度はわかるが」
「うん。それで八幡が考えて、その人に返してあげる。それだけでも喜ぶと思うんだけどな」
「……そういうもんか」
「そういうもんだよ。だって、相手が自分のことを考えて贈り物してくれるんだよ? こんなに嬉しいことはないって」
戸塚も、小町と似たようなことを言う。要は、相手のことを考え、想いを込めることが贈り物には重要だと。贈る相手を慮ることが重要なんだと。
ではあいつらは、俺にどんな想いを込めていたんだろうか。徐々に思考の沼に嵌まる。正にその時だった。柔らかな声が、フェードアウトしかけた思考を現実に引き戻す。
「八幡?」
「……すまん考え事だ。とにかく考えてみるわ」
「うん。 また相談してね?」
「おう。助かる」
そうして、顔を見合わせて軽く笑い合った。
想いを込めた贈り物。それに対する答えはわからないままだ。
それでも、ぼんやりと。まるで何かの輪郭を描くように、少しづつ形作っていくものなんだと思う。
「わからない」で終わらせては駄目だ、とは誰の弁だったか。強烈に印象に残ってるくせに濁すのは、未だにあの時のことが恥ずかしいからだ。
わからない。
ならば問おう。自分はもちろん、今回のように他人に聞いてみてもいいかもしれない。
そんな風にして少しづつ、少しづつ。残された時間の中で、俺なりの答えを出せばいい。
午後の授業の到来を告げるチャイムが聞こえる。その音が校舎に響き渡る中を戸塚と共に教室に急ぎながら、そんなことを考えていた。
× × ×
「平塚先生」
「おお、比企谷か。どうかしたかね?」
午後1番の授業は国語だった。チャイムと同時に授業を終え、教室を出ていく平塚先生を追って廊下に繰り出し、声を掛けた。
「ちょっとご相談したいことがありまして」
「……君だけか?」
言わんとしていることはわかる。奉仕部としてか、それとも俺単独の話か。
「俺だけです」
「そうか。ここで大丈夫かね?」
休み時間に入ったばかりの廊下は幾分騒がしい。先生は周りを見渡し、それに続けて視線をこちらに向けた。
「歩きながらでいいですか?」
「構わないが。では職員室に向かおうか」
そう言って踵を返し、職員室へ続く廊下を歩き出す。俺も後に続いて歩き出し、隣に並んだ。
廊下を闊歩するだけで、先生には色々な生徒から声が掛かる。そしてそれににこやかに、時に快活に対応していく。
普段のアレを知ってるから忘れているが、人気教師なのだこの人は。基本的には。
生徒の多い教室前の廊下を抜けて、階段の踊り場までやってきた。そこを過ぎようかというところで、先生はこちらにちらっと視線を投げかける。
「で、どうした?」
「単刀直入に聞きます。ほ、ホワイトデーのお返しとかって、女性としては何が嬉しいもんですか?」
「……ほほう」
「何すかその顔は?」
「いや、なに、君がそういうことを聞くようになるとはね。ふふっ」
「笑わないで下さいよ。こっちだって恥ずかしいんですから……」
すまんすまんと、謝意のない言葉を呟きながら、くしゃっと頭を撫でてきた。それをされるがままに受け止めると。またふふっと笑い声が漏れるのが聞こえた。それがなんだか悔しくて、軽くその手を払う。
「で、どうなんすか?」
「あーそうだな。好きな人からお返しされたら何でも嬉しいんじゃないか?」
「…………」
「何かね、その顔は?」
「いや、先生に似つかわしくない女性らしい意見だったもので」
「比企谷?」
「……それ、続けてると指の関節太くなるらしいんでやめた方がいいですよ」
小気味の良いポキッ、ポキッというクラッキングを続ける先生にそう注意を促す。善意だよ?これは。目が笑ってないのが怖いとか、別にそういうのじゃない。
「ほう、指輪のサイズが上がることを心配してくれてるのか? 偉くなったな君は」
逆効果だった。おかしいな、赤い涙が見えるぞ。
俺を見咎めるような視線をようやっと収めると、少し人心地がついた。先生は、咳払いをひとつ。まるでこの話はここまで、というように。
「何か、すんません」
「いや、こちらこそムキになった」
きゅっとスキール音が廊下に響く。歩き続けた足を止めた場所は、もう職員室前だった。周りに人はいない。授業間の休み時間なんて短いもので、あと半分ほどしか残されていなかった。
「先ほどの質問だが、私にだって具体的な答えは出せないよ」
申し訳ないけどね、と言い添える。
「……人によって嬉しいと思うものは違うからですか?」
「それもある。好みなんて人それぞれだ。女性といっても私みたいなのもいるしな」
言って、自虐的にからからと笑った。かと思えば寂しそうに溜息を吐く。女心と秋の空。そんな言葉がお似合いだ。
見ていて飽きないけど、若干面倒くさい。
「ま、それ以上に言えることは」
「言えることは?」
先生はニッと笑う。それに今まで何度も助けられてきた。たまに見せる、数少ない尊敬できる大人の顔だった。
「私が具体的に言ったところで、それは君の答えにはならないよ」
それはしんと、耳朶に響く。耳を通り抜けて、臓腑まで揺さぶる。わかってはいた。
聞いたところで、言ってしまえばそれはただの意見。俺の出した答えじゃない。その事実を、この人は鋭く突き付ける。
それでもこうして意見を聞いているのは、きっと不安だからだ。ひとりで出した結論がまちがっていないか怖くて、それを塗り固めて補強する何かを探しているからだ。
「……わかってはいますが、参考までに、ということで」
「だから最初に答えただろう? 女は好きな人からの贈り物だったら何でも嬉しいもんだ」
「釈然としない……」
頭を悩ませていると、再度くしゃっと頭を撫でられる感触。俺が顔を仰ぐと、その手はぱっと離された。
「悩め悩め青年。くぅ~羨ましいぞ、このこの~~~」
「ちょ、やめてくださいよ」
わき腹を小突くのはやめて! ふっと弱く握られていた拳を緩めると、先生はそれを契機として真面目な面差しに変わった。その瞳には、優しさがたたえられている。口元が綻び、言葉を紡ぎ出す。
「なんにせよ、悩んで考えて、それで答えを出したまえ。……比企谷」
「何ですか?」
「君なら、答えを出せる。前もそうだった。そうだろう?」
「……前も出来たからって、今回も出来るとは限らないんじゃないですかね?」
「相変らず可愛げがないなぁ。ホワイトデーのお返し、とか言うくらいには愛嬌が出てきたと思ったのに」
「それはやめて下さい恥ずかしいんで。……善処します」
うん、と小さく頷いて満足したように先生は職員室へ足を向けた。その背中に向けて、俺は声を掛ける。
ちょうど今思いついたことを、この人に伝えたいと思ったからだ。
「先生」
「ん、まだ何かあるのか」
「今度ラーメン食べに行きましょう。奢りますよ?」
「それはかまわないが……。どうした急に?」
「言うなれば、俺なりのお返しってやつです」
変な奴だな。そう言って微笑む。
実は平塚先生にもチョコを貰っていたりする。俺個人というか、イベントへの差し入れという形ではあるのだが。
ただ、そんなことを理由にしてでも、少しでもこの人には恩返しがしたいと思った。色々あったし?その辺含めて諸々と。あれだ、感謝の気持ちってやつだ。
これで良かっただろうか?そう思ってちらと先生を見やる。その表情を見た時に、愁眉を開く思いがした。
目の前のほくほくとした笑顔が、それは間違いではないことを教えてくれていたから。
× × ×
今日はここまでで。こんな感じで淡々といく予定ですが、多分そこまで長編にはならないはずです。
感想ありがとうございます。書く活力が湧きますね。少しだけ投下します。
午後の授業が全て終了した。あとは部活行って本読んで帰るだけだ。なにそれ文芸部じゃん。でも違うんだなーこれが。
ぼっちの習性として、片付けが早いというものがある。理由は単純で、誰にも話しかけられないから作業の手が止まらないのだ。
故に早い。もうマッハレベル。流石にそこまでではない。
教室にたむろしておしゃべりに興じるクラスメイトの間を音も無く移動し、前の方から教室を出た。そうしていつもの場所で壁に背を預け、由比ヶ浜を待つことにする。
ほどなく、教室の開け放たれたままの扉から女生徒が出てきた。歩く度に、長いポニーテールが左右にぴょこぴょこ揺れる。俺は彼女の名前を知っている。クラスメイトなのに妙な言い方である。
でもまあ、俺の名前もみんなに間違って覚えられてるし?クラスメイトの名前知らないくらい世の中普通なのかもしれない。えっ普通だよね?そうだと言ってよ!
たしか、かわ、川、KAWA、川なんとかさん?あれ、全然知ってないじゃん。ええい、もういいや川崎で。川崎は無表情でこちらを見ると、ぼそりと呟く。
「じゃあ」
「お、おお」
鞄を背負うように持ち、てくてくと廊下を歩いて行く。挨拶をされたのが意外で変な声が出てしまったが、川崎はそれを気にする様子もない。
いや、待てよ。いい機会だ。こいつにもちょっと聞いておこう。あくまで参考にね、参考程度に。
「なあ川崎」
声を掛けられた肩がぴくりと跳ねる。くるりと面倒そうに振り返ると、胡乱気な視線をこちらに向けた。
「なに?」
「なんつーか、今ちょっとだけ話せるか?」
「……別にいいけど」
「そうか、助かる」
「で、どうしたの?」
そう言うと、こちらに向き直った。
さあなんて聞こうか?とまず考えて、口から出てきたのはストレートな言葉だった。
「お前さ、ホワイトデーでお返しされるとしたら何が嬉しいんだ?」
「ほ、ほわ? はぁ!? あ、あんた急になに言ってんの?」
「いや、そんな慌てんでも」
川崎は見るからに慌てていた。一息に捲くし立てたせいか息も荒い。廊下の窓から差し込む夕焼けも合わさってか、ほんのりと頬も紅潮して見えた。
俺の言葉を受けると、はっと何かに気が付いたようで、ふいっと視線を逸らす。
「あ、慌ててないし」
「おお、そうか」
「なにその言い方?」
さっきまで明らかに慌ててたじゃねーか。
いや、うん、いいんだよ? ようやくいつもの調子が戻ってきたみたいだし?
だからメンチ切るのはやめて貰えませんかね。無駄に迫力があってすっごく怖いんで。
顔はやめな。ボディにしな、ボディに!とか言い出しそう。
「で、どうなんだよ?なんか貰って嬉しいもんとかないの?」
いつまでも怯んでいたって仕方ない。もう一度先ほどの話を切り出す。
「そうは言ってもね。そもそも、あたしのはおまけみたいなもんでしょ? あんたにあげた大半はけーちゃ……京華が作ったやつだし」
「……別に言い直さなくてもいいぞ」
「……なんか文句あるの?」
「ないです」
「ならいいでしょ?」
ふんっと、川崎はそっぽを向いてしまった。何回もけーちゃんって言ってるの聞いてるから別にいいと思うんだけどな。川崎はどうもそれがお気に召さないらしい。
「なら例えば、そうだな。けーちゃんだったらなに欲しがりそうだ?」
「あの子ならなんでも喜ぶと思うけどね。あんたからって言えば」
「そうなの?」
「あんたに、なんて言うか結構懐いてるからさ。はーちゃんからだよーって言えば……あ」
沈黙だった。実際はそんなに長い時間じゃないと思うが、固まった川崎の顔が面白くてついじっと見てしまう。そうしていると、自然と目が合った。
目が合ったと思ったらどちらともなく逸らし合う。なんだこれ、なんだこれ?
「……忘れて?」
「……ああ。別に気にしないから」
「そ、そう」
「おう」
再びの沈黙。状況は変わらず、むしろ気まずさが若干勝っている。くそっ!どうしてこうなった!と頭を悩ませていると、川崎はもごもごと口を開いた。
「なにか返すんならさ、やっぱり金額とかじゃないと思う、けど」
「……そうだな。高いもん返せばいいのかっていうと、そうでもないというか」
川崎は俺を見て、小さく頷く。
「結局のところ、気持ちがこもってれば何でもいいんじゃない?」
気持ち。やはりそこに至るか。皆が皆、そう言う気がした。
だからこれは概ね正しくて、少なくとも間違いではないのだろう。
ただ、100%の正解ではない。そんなものが用意できるのかは、甚だ疑問ではあるのだが。
「あんたさ」
「なんだ?」
声が掛かり、顔を上げる。そこには名状しがたい何かを堪えるような、そんな川崎の表情が目に入った。
「他に、バレンタインで貰ったの?……あの2人からとか」
「……一応貰った、けど」
「ふーん。そ」
いつものように素っ気なく言い放つ。いつもと同じ。平素と声音は変わらない。そう感じているはずなのに、どこか違うようにも思えた。
「なに返すか決めたの? もうあんまり日がないけど」
「……まだ考え中だ」
「ま、わからないなら本人に聞いてみてもいいんじゃない?」
「聞いてもいいもんか?」
「……あたしに聞いといて今更すぎない?」
あっそういえば。やっちまいましたテヘペロ。俺が現実でやってもキモがられるだけだな。つーか既に小町にも聞いちゃったじゃん?家族はノーカンだノーカン。
とりあえず川崎には謝っとこう。なんか呆れられちゃってるし。
「まあなんだ、すまん。あんま深く考えてなかったわ」
「別に気にしないけど。まどろっこしいのよりも、あたしは直接聞かれた方がいいから」
「そうか。そう言うならいいが」
「ん。じゃあこの辺で。買い物行ってけーちゃん迎えに行かなきゃいけないから」
「おお」
じゃあな、と。適当な挨拶を返して川崎を見送った。つーか普通にけーちゃんって言ってるし。よくわからんな。
聞いたはいいが、何が欲しいとかは全然わからなかった。だけど、ヒントは貰った。川崎の背中を見えなくなるまでぼうっと眺めつつ、この後の部活のことを思案する。
由比ヶ浜へのお返し。この際だから雪ノ下のことも考慮に入れよう。この2人へ何を渡すか。川崎の言う通り日はもうあまりない。
本人に聞いてみればいいとは言うものの、なんだかなぁ……。
照れ臭いとか、恥ずかしい思いをしたくないとか、無駄に意識してるみたいでキモがられないか、とか。
頭に浮かぶのはそんな感情で、自分を守る言葉ばかりが次々と湧いて出る。
自己愛の成れの果てだ。ここまでくるといっそ清々しい。
俺は、結局自分が可愛くて仕方がない。だが、今はもうそれでもいい。時間も無い。俺なりの方法を考えよう。
考えろ。直接的にではなく、間接的に情報を得る方法を。
あくまで、俺が直接聞くわけではない。第三者として聞く方法を。
考え始めて間も無くひとつ閃いた。小賢しい方法だ。それをすぐに思いつくことに対して、思わず自嘲の笑みが零れる。そんな自分が嫌いではない。
携帯を取り出し、目的の番号を探す。やり方がわからないのなら、やり方がわかる人物に聞くしかない。案の定ワンコールで相手は電話に出た。
「材木座か? あ、今そういうのいいから。ちょっと聞きたいことがある」
× × ×
今日はここまでで。
「千葉県横断お悩み相談メールー」
やる気がいまいち伝わらないタイトルコールが部室に響いた。それに合わせて、ぱちぱちぱちと控えめに由比ヶ浜が手を叩く。
うし、と軽く気合を入れてメールを確認していると、ずいっと由比ヶ浜もそれを覗き込んだ。
「なんか意外かも。ヒッキーがそんな風に積極的なの」
「俺はやる時はやる男だからな」
ふっと、息が漏れる音が聞こえた。そちらを見れば、雪ノ下が本をパタンと閉じて挑発的な笑みを浮かべている。
「やる時はやる。けれど、やらない時はとことんやらないでしょう? あなたは」
「ああ。何事もメリハリが大事だからな。怒られない極限までサボりつつ、要所をまとめて結果を出す。結果さえ出しときゃ文句言われないだろ?」
「サボるのは前提なんだ……」
「無駄に正論に聞こえるから反応に困るのよね」
由比ヶ浜は呆れたように笑い、雪ノ下はやれやれと額を手で押さえる。
結果こそ大事なんだぞ。日本代表だって結果を求められてる。つまり結果を最重要視する俺も、もはや日本代表といっても過言ではない。過言かもしれない。
「まああれだ、最近あんまり確認出来てなかったからさ。新しいメール来てるかもしんないだろ?」
「それはそうだけれど、なぜこのタイミングでやる気になるのかしら」
素朴な疑問なのだろう。たしかに、言われずともやるなんて俺らしくもない。ちろと睨めつけるような視線を、雪ノ下はこちらに向けてくる。
「大した理由じゃねーよ。ついさっき今読んでた本読み終わって暇だったからな。暇つぶしだよ、暇つぶし」
「そう」
俺の言葉で雪ノ下も一応は納得したようだ。その反応に、ほっと胸を撫で下ろす。
「やる気になったのなら、今日の返信は全部あなたがしてくれるのかしら?」
「いや、別に俺個人宛じゃないんだから……お前らも考えろよ」
「でも今日来てるメールほとんど中二からだよ?」
「そういうこと言うなよ……」
げんなりしちゃうだろうが。……つーかホントに材木座からばっかだな。遅れて立ち上がったパソコンの画面には、相も変わらずPN:剣豪将軍さんからのお便りが多い。ちらほら違うのもあるが。
その画面を、いつの間にやら横に移動してきた雪ノ下も覗きこんで確認する。
「あら、比企谷くんの担当案件が多いわね。良かったじゃない? 仕事がいっぱいできて」
にっこり。あー良い笑顔ですねホント。左隣の雪ノ下の方に顔を向けると、画面を覗きこんでいた彼女とは意外に距離が近い。
結果的に至近距離で視線が交わることになった。
いつぞやプレゼントしたメガネ越しに、綺麗な瞳がくっきりと見える。
俺はというと、ぱっと誤魔化すように画面を再び見る。雪ノ下も覗き込んでいた体勢を起こすと、小さく咳払いをする。なんだよ……恥ずかしいじゃねーか畜生。
「ほ、ほらヒッキー! 珍しくやる気なんだから早く読みあげてよ!」
「わかったから急かすなって」
何を焦ってるんだ。焦らなくていいんだよ?だから、まずは肩に乗っけた手を下ろすことから始めようか?
俺のテレパシーが通じたかはわからないが、由比ヶ浜はすすっと右隣へ移動する。落ち着きをすっかり取り戻した雪ノ下も左隣へ。
こうして、3人並んでパソコンを覗き込むのも久しぶりだ。1通目から見ていくことにしようか。
<PN:剣豪将軍さんのお悩み>
『バレンタインデーってなに?美味しいの?』
<奉仕部からの回答>
『バレンタインは食べ物ではありません。現実を直視して強く生きて下さい』
「ばっさりだ!?」
いいんだよ、こんくらいの適当さで。たくさんあるんだからサクサクやらないと。
次のメールをクリックする。
<PN:剣豪将軍さんのお悩み>
『なぜ我はチョコを毎年貰えないのか。そこのところ詳しく』
<奉仕部からの回答>
『作家になるという高い目標を追い求めるあなたに、周りが追いついていないだけです。気にすることなんてありません。最期まで目標を追い求めれば、チョコなんて目じゃないもっと素晴らしいものが待っているかもしれませんよ? ファイト!』
「……良いことを言っているように聞こえるけれど、まったく答えになっていないわね」
はぁ、と雪ノ下は溜息を吐いた。いいんだよわかってるんだから。
最期まで頑張り続けた人間には、素晴らしいものが待っているはずだ。人はそれを天国や極楽と呼ぶ。
材木座以外のメールも確認するか。PN:剣豪将軍さん以外のものをクリックする。
<PN:かわいい後輩さんのお悩み>
『最近先輩が仕事を手伝ってくれなくて困ってるんですよー。どうすれば手伝ってもらえるようになりますか?』
「ヒッキー、これってもしかして」
「まぁ、そうだろうな」
ご想像の通り。
相変らず、このペンネームの意味の無さ加減は突き抜けすぎちゃってるから改善すべきだと思うんだけどなぁ……。いや別に可愛いって認めるわけじゃないよ?
つーか、ついに間接的な手段で訴えかけてきたかー。なに考えてんのマジで。
まあこれも適当でいいだろ。カチャカチャカチャ……ッターン!!
<奉仕部からの回答>
『まさかとは思いますが、この「先輩」とは、あなたの空想上の存在に過ぎないのではないでしょうか。もし違うのであれば、その先輩に少しでも敬意を払ってみてはいかがでしょう?そうしたらこう答えてくれるはずです。また今度な、って』
「やっぱり断るんだ……」
「一色さんの自立を促すためとはいえ、あなたの労働意欲の低さには溜息しか出てこないわ」
「うっせ。大体労働っていうのはな、二度とないかけがえのない人生を売っているようなもんなんだぞ。つまり、これは人生の貯蓄だ」
ソースはウシジマくん。それに雪ノ下はすかさず反論する。何でなんでもかんでも反論するの?野党なの?
「貯めてどうするのかしら? それで何かが得られるの? 自営にしろ雇われにしろ、働かなければ餓死者がひとり増えるだけよ」
「養ってもらうという生き方もある。世の結婚した女性の多くはそれだろ? 男女平等が叫ばれる今の世の中であれば、専業主夫だって受け入れられるはずだ」
「……譲らないのね」
「……譲らねーよ」
放課後の教室で男女が見つめ合うというイベント。ともすれば恋愛関係に発展しそうなものだが、今の俺と雪ノ下でそれを想像するのは中々に難しい。
だって、見つめ合うっていうより睨み合うって感じだし。
「あはは、まぁまぁ落ち着いて。次のメールいこ? 次のメール!」
「……そうだな」
「……ええ、そうね」
仲裁に入った由比ヶ浜の声を受けて、ようやく視線の交錯は解かれた。ふぅさてと、次は……。
<PN:職場の中では若手さんのお悩み>
『高校で教師をしています。こういうのもなんですが、若さのせいで上から余計な仕事を振られることが非常に多いです。頼られる存在(笑)なのは結構ですが、正直辟易します。本当に若さって罪ですね(笑)。どうすればこういうことは無くなるでしょうか?』
いやだからさぁ……生徒にこんなこと聞くなっつーの。
「これどうするよ?」
「んー、イヤだったらイヤって言うしかないんじゃないの?」
「そう言うことが許される職場環境なら良いんでしょうけど、メールで相談してくるくらいだからそれは難しいようね」
「……要は、押し付けられても断れる建前があればいいってことだろ?」
「そうだけれど、なにか思いついたの?」
「まあな」
今思いついたことを打ち込んでいく。これで少しは目を覚まして下さい先生。
<奉仕部からの回答>
『仕事を押し付けられそうになったら、上司にこう言いましょう。あ、今日は旦那が早く帰ってくるのでお先に失礼しますって。結婚すれば、あなたを見る周りの目は少なからず変化するはずです。頑張って(笑)』
送信と。送った瞬間に背筋に悪寒が奔ったのは気のせいだろうか。いや、別に特定のある先生に宛てたものじゃないし?千葉県の某高校の若手教師へのアドバイスだし?個人を特定してないからセーフ!
「先生かわいそう……」
「そうね。どの先生とは言わないけれど」
左右から非哀に満ちた声が聞こえた。早く誰か貰ってあげて!もうマジで。
こうして、順調に届いたメールを消化していった。
仕事は辞めることはあっても終わることがないとはよく言ったものだが、それでも1日の仕事に区切りを付けることはある。
「あと一通で終わりだね。これは、えーっと、んん?」
「PN:匿名希望さん。ちなみに匿名希望とは、名前を公表したくない、という意味よ。由比ヶ浜さん?」
「い、意味くらい知ってたし!!」
「読み方わからない時点でそれは通用しないだろ」
「うっさい! ヒッキーのバカ! キモい!」
止めてくれ由比ヶ浜、その言葉は俺に効く。止めてくれ。
ぷんすかと怒る由比ヶ浜を尻目に、今日届いたばかりの最後のメールをクリックした。
<PN:匿名希望さんのお悩み>
『ホワイトデーのことで悩んでいます。お返しに関してアドバイスを下さい』
口の端が上がるのを堪える。これは俺にはうまく答えられそうにない。だって、“俺が聞きたいくらいなんだから”。しれっと2人に問う。
「なあ、こういうのどう返せばいいんだ? 俺には難しいわ」
「たしかに比企谷くんには難しいでしょうね。経験があまり無さそうだもの」
「ぐっ、何も言い返せない」
「でも実際どうしよっか? お返しのアドバイスってなんかある、ゆきのん?」
「……少し考えましょうか。まともな質問者のようだし」
ひでぇ。まるで今までの人達がまともじゃないみたいに言うなよ。雪ノ下はあごに手を当てて何かを思案する表情を浮かべた。
「まずは各々アドバイスを考えましょう。それを擦り合わせて返信する。時間は、とりあえず5分くらいでいいかしら?」
雪ノ下の提案に俺と由比ヶ浜は頷くと、パソコン前に並ぶ体勢を一旦止めて各々の席につく。さーて適当に考えますかねと、鞄から筆記用具を出した瞬間だった。
こんこんこん、とノックの音。話すのを止めて思案に耽る俺たち3人に、その柔らかな音ははっきりと届いた。
「どうぞ。開いているわ」
部長である雪ノ下の声が掛かると、するすると部室の扉は開かれていく。
そこから顔を覗かせたのは、意外な人物だった。
「やぁ。今ちょっといいかい?」
「ちーっす。いやーここ来るのも久しぶりだわ~」
柔和な笑みをたたえた葉山隼人と、クラスのお調子者の戸部翔が奉仕部の敷居を跨ぐ。
かつん、とヒーターが小さな音を立てた。
× × ×
今日はこんな感じで。
「どうぞ」
「ありがとう、雪ノ下さん」
「あざーす!」
葉山達の前に湯気の立つ紅茶が置かれた。葉山は手に取ってゆっくりと息を吹きかけると、早速それに一口つける。
「……うまいな」
「そう? 普通に淹れただけなのだけれど」
「それでも、だよ」
「……ありがとう」
葉山の感想に対して、雪ノ下もぽつりと返す。
何てことのない光景を見て思う。マラソン大会以来か。このふたりを取り巻く空気が軟化したのは。
多分、あれから多少は折り合いがついたんだろう。葉山と雪ノ下の間に、以前のような剣呑とした雰囲気は感じない。雪ノ下は席につき、背筋を伸ばすと、本日の来訪者達の顔を見渡し口を開いた。
「それで、今日はどういった用件かしら?」
「ああ。戸部? ほら」
葉山は横に腰かける戸部を見て話を促す。どうやら今回の主な依頼者はまたも戸部で、葉山はその付き添いというところか。
「うっしじゃあ言わせてもらっちゃいますとー、俺さぁバレンタインで海老名さんからチョコもらった系じゃん? だからバシッとお返し決めてアピッときたいみたいな?」
……はぁん、なるほろね。うだうだと伝わりにくい言い方だが、話のニュアンスは汲めた。
由比ヶ浜は俺同様なんとなくわかったようだが、雪ノ下は、は?と首を傾げる。
理解が及ぶように端的に話を纏めることにした。
「つまり、ホワイトデーに海老名さんにチョコのお返ししてアピールしたい、ってことか」
「そうそう! そんな感じなんよー。ヒキタニくん話早くて助かるわーマジで」
ぱちりと指を鳴らして俺を差す。
いやだから名前……もういいや。俺の戸部語翻訳を経て、疑問符を浮かべていた雪ノ下もようやく得心顔になる。
「ホワイトデー……アピール……」
雪ノ下は、誰に言うでもなくぽそぽそと言葉を浮かべて、次いでちらりとこちらを見る。
その視線の意味するところを考えないように、必死に気が付かないふりをすることしか出来なかった。
「とべっちって姫菜からバレンタインにチョコ貰ったの?」
「おう。ばっちりっしょ!」
「おーすごいじゃん! おめでとー」
ぱちぱちと拍手をしつつ感心の声を上げる由比ヶ浜に、戸部はぐっとサムズアップする。
その様子を見ていた雪ノ下が怪訝な表情を浮かべる。
「今年の2月14日は休みだったと思うけれど、その前後の日に受け取った、ということかしら?」
今年の2月14日は、総武高の入試日のため在校生は休みだった。であれば、その前日か翌日のどちらかに受け取った、ということになる。
しかし、戸部は首を横に振り振り言う。
「いやーそうじゃないっしょ」
「……どういうことかしら?」
どういうことっしょ?ショショばかり言ってると巻島先輩みたいになっちゃいそうだ。
話の雲行きが怪しくなってきたところを見かねたのか、戸部と俺たちの会話に葉山が口を出す。
「戸部が受け取ったのはあの時、だよな?」
「そうそうさっすが隼人くーん、わかってるわ~」
葉山は苦笑をしつつ補足する。その少し呆れが入り混じった表情を見て気が付いた。由比ヶ浜も勘づいたのか、おずおずと確認を取る。これはもしや……。
「えっと、とべっちの貰った日って、もしかして……」
「モチ! あのイベントの時に決まってるべ!」
ああやっぱりかー。
戸部は気恥かしさを誤魔化すように、長い襟足をがしがしと掻きあげる。
「戸部、こういうのもなんだがな。あれはあくまで試食というかな」
「そうそう、姫菜もそんなに深く考えてないかなー? わかんないけどさー」
気遣わしげな視線を交わしつつ、模糊とした言葉を俺と由比ヶ浜は発する。
戸部は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、何てことはないという具合にニッと笑うと前に身を乗り出して言った。
「ゆーてもさ、貰ったことに変わりはないわけじゃん? だからこれきっかけにしてぐっと距離縮めたい的な?」
そして平素と変わらない様子で、再び二カッと笑った。
ああホント鬱陶しいわこいつ。しかし、このポジティブさには素直に感心させられる。これは良い意味でだ。
海老名さんが何を思い、何を考えてあのイベントに参加したのかはわからないままだ。それを知る由もない。だから、可能性はゼロではない。
それを信じられるのが、多分俺と戸部の違いなんだろう。
「んで? 具体的に何を手伝えばいいんだ?」
「やっぱあれっしょ。女子が貰ってグッとくるものっつーか、そういう系のプレゼントでなんかないかアドバイスもらいたいわけよ」
アバウトアバウト超アバウト。まぁグッとくるものなんて、言ってしまえば人それぞれだ。
本人に聞くのが一番なんだろうが、それが難しいなら近しい人間。つまりは由比ヶ浜がいるここに来るのは、間違いではない。
「……わかった。雪ノ下、どうする?」
俺の唐突な問いかけに、ぴくりと小さな反応が見えた。すっとこちらを見ると軽く首を傾げる。
「どうする、とはどういうことかしら?」
「依頼を受けるかどうかってことだよ」
「依頼……そうね」
そんなに悩むことだろうか。奉仕部の理念に則しているし、手助けしてなんら問題はない。顎に手をやって考え込む彼女に対して抱いた違和感。
それは幾分大きくなりすぎていて、最近は隠すことが難しくなっている気がした。
「わたしは、受けてもいい、と思うけれど。どう思う?」
対角線上に座る彼女は俺の方をじっと注ぎ見る。その直視がこそばゆくて、つい目を逸らした。意味も無く、手に持った湯呑の中身を見つめる。
「……別に、受けてもいいと思うぞ。ちょうどメールでも似たような案件が来てたし、それに乗っかる形で考えればいいだろ」
「……うんうんそれそれ。いっせきにちょう?ってやつだよ!」
「おっ、一石二鳥が正しく使えるなんてすごいなー由比ヶ浜」
「なにその優しい顔!? 今まで見たことないし!!」
おっと、つい孫を見る祖父の顔になってしまったか。そんなコントを繰り広げている間に、雪ノ下は決意を固めたように小さく頷いた。
「そうね、そういうことであれば考えてみましょうか。私たちが出来るのはアドバイスだけになるけれど、それでいい?」
「おっけーおっけー! それでよろしく!」
紙とペンを取り出し、雪ノ下はなにやらさらさらとメモを取り始めた。
思わず安堵の息が漏れる。なんてことのない依頼ひとつ受けるだけなのに、ひどく疲れる思いだ。
「これでイケるっしょ隼人くん!……おーい隼人く~ん?」
「……そうだな」
「隼人くんどーしたん?」
「なんでもないよ。戸部もちゃんと考えろよ?」
「もちのロンよ!」
傍から見れば、普通のやり取りだったはずだ。
だが、俺の視界に映る葉山隼人は何か憂うような表情を浮かべていた。意味深で、まるで痛ましいものを見ているかのようにも見えた。
その表情を見て、思わず開きかけた口を噤んでしまった。
そうこうしているうちに、葉山は荷物を纏めて立ち上がる。その時に見せた表情は、まぎれも無い。よく知るいつも通りの彼の顔だった。
「じゃあ俺はこれで。戸部をよろしく頼むよ」
「りょーかい。隼人くんまた明日な~」
「ああ。あと、ちょっといいか?」
その呼びかけは、誰に対してなのか。ふと疑問に思い顔を上げると、張本人と目が合った。
「は? 俺?」
「君だよ。少しだけ外で話せないか?」
間抜けな声の返答に対して、葉山は苦笑を漏らす。ただ笑いつつも、その目の真剣さは易々とは崩れない。何を考えてるかのかはさっぱりわからないがまあいい。
「というわけなんだが、少し抜けていいか?」
「雪ノ下さん、少しだけ頼むよ」
声の掛かった雪ノ下は、僅かばかりの逡巡の後に首肯する。
「かまわないわ。どちらにしろ、これに関して彼に建設的な意見が出せるとは思わないから」
「お前……いつか刺されるぞ」
「あら怖い。夜道に気を付けないと」
「まぁまぁゆきのん。ヒッキーだって意見出せるよ? こう、なんというか……男性目線というか、色々、ね?」
「ね? じゃねーよ……俺に期待すんな」
中途半端な優しさは人を傷つけることを覚えたほうがいい。幾度となく繰り返されてきたやり取り。他愛もなく話す俺たちの姿がそこにはあった。あったはずなのだ。
だが、それを見ていた葉山は呟く。
「仲が良いんだな、君たちは」
「仲が良いんだな、君たちは」
見て、思ったことをただ口にしただけで、そこに大した意図は含まれていないはずだ。
仲が良いという評価は通常喜ぶべきものなのに、それなのに胸が詰まる。その意味を理解は出来ているが、口に出すのは憚られた。
からからに乾いた自身の喉からは、苦し紛れのような言葉しか出てこない。
「別に、普通だよ」
「いつも通り、だよね? ゆきのん?」
「ええ、そうね。……いつもと、変わらないわ」
顔を見合わせているはずなのに、目を見ることができないから視線は虚空を彷徨う。そして以前と変わらないと、3人が口を揃えた。
今の俺たちはまるで口裏を合わせているようで、その光景は温い部室にいるのにどこか寒々しい。
ただ、そうすることで、変わってしまった現状から、目を逸らしたかったのかもしれない。
あの頃から変わっていないと思い込みたかったのかもしれない。
だから俺たちは、3人平等に大嘘つきだった。
× × ×
更新ペース遅くてすみません。中々書く時間が取れないもので……。
今日も短いですがここまでで。
乙
これって11巻の後なにも起こらずここまで来てるの?
>>72
うやむやにし続けてここまで来てるイメージで書いてます
葉山の後ろ姿を追うように廊下を歩く。あえて横に並ぶことはしなかった。
こちらからは特に話すこともないから、わざわざその必要はないだろう。
廊下の窓から外を見ると、ほのかに暗い。日はかなり伸びてきたとはいえこの時間だ。
時折、節電のためか蛍光灯の灯りが消されていて、校舎内でも薄暗さは拭えない。
その中を、ただ歩く。彼が曲がれば曲がるし、階段を降りるのであればそれについていく。そこに意思はない。ただ追いすがる。
靴を履き替え、やがて辿りついた場所は、中庭のピロティ部分だった。
「何か飲むか?」
自販機を前にして、ようやく葉山は口を開いた。暗色の世界で、自販機から漏れる明かりが彼の横顔を照らし出す。
「いや俺はいい」
「わかった」
小銭を取り出し、葉山はブラックの缶コーヒーを買った。そのままエナメルバッグを地面に置き、自販機に備え付けられた簡素なベンチに腰掛ける。
「お前、今日部活だったのか?」
「ああ。今日は室内練の日だから早目に切り上げたけどね。たまにこういう日もあるんだよ」
少し疲れたように息を吐くと、プルタブを開ける軽妙な音が響いた。それに一口つけると、向かいに立ったままの俺をちらと見る。
「座らないのか?」
「……座るが」
「そうしてくれ。立ったまま話すのも変だろ?」
「そうかよ」
促されるまま、距離を開けてベンチに腰掛ける。
見た目通り簡素なベンチらしく、作りが甘い。地面とのガタつきをあまり考えないようにして、ポケットに手を突っ込んで葉山が話し出すのを待った。
「悪いな、こんな場所に呼び出して」
「気にすんな。雪ノ下の言う通りだ。俺だとどうせ横で見てるだけになりそうだったし」
「そう言ってもらえると助かるよ」
実際あまり力にはなれないだろう。ただ、海老名さんが喜びそうなものはわかっちゃうんだよなーこれが。俺が意見として出せそうなのはそんなもので、それはお返しには一般的にふさわしくない。だから、やっぱり話し合いには参加できそうになかった。
「最近どうだ?」
「どうって…………なにが?」
「なんでもいいんだよ、こういう時に話すのは」
お前は俺の親父か。
葉山は遠くを見つめる。漠然とした問いに、何と答えればいいのかわからない。
ただ直感的に理解したのは、葉山は距離を測ろうとしてこんな質問をしている。軽いジャブのようなものだ。
「なんもねーよ。基本クラスで話さないから、なんも起こりようないし。お前だって知ってんだろ?」
クラスでは話さない。ただし戸塚は除く。ふっと、呆れたような笑い声が聞こえた。それは身の内を見透かされているようで、ひどく居心地が悪い。
「クラスはそうだとして、部活の方はどうなんだ?」
「……はぁ?」
俺の視線に気が付くと、葉山は手を軽く振って苦笑する。
「深い意味はないよ。うまくやってるのか少し気になっただけで」
「別に。変わんねーよ」
まただ。ノータイムでするりと出てくる言葉に舌打ちしたくなる。
それをしない代わりに、ポケットの中で手の平に爪を立てる。そうすることで、俺は苛立ちに似た何かを誤魔化していた。
「俺にはそうは見えなかったけどね」
「……どういう意味だ?」
「言葉のままだよ。俺には、君たちが少し無理しているようにも見えた」
そんなことは言われずともわかっている。繕って、騙して、無理やり関係を維持する。そんなものには意味を見出さない。
かつて俺が持っていた信念だ。
だが、その信念は正しく揺らいでいた。まるで、風になびく旗のように。人の手に掛かれば裂かれてしまうように。
それほどまでに今の自分は薄弱に感じた。意思をなくした人間は、脆い。
だが何よりも、葉山隼人にこそそれを指摘されたくはなかった。
「はっ。つーか仲良さそうに見えたんじゃなかったのかよ。とんだ手の平返しだな」
「俺なりの皮肉だよ。君にはいつも言われてるからな」
「お前、良い性格してるな」
「よく言われるよ」
軽口の応酬。皮肉にだって葉山は揺るがない。
そんないつも通りの彼の顔を、ある意味見慣れているからだろうか。今見せている笑顔は、いつもの柔らかな笑顔とは違って、どこか寂しそうなものだった。
「大体さ」
「ん?」
「お前らだって無理繰りやってんだろ? 修学旅行のあとなんか酷かったぞ。外から見てても」
「それに関しては君にも悪いことをしたと思ってる。すまなかった」
「いや謝られても……」
葉山は膝に手をついて頭を下げる。
既に完結しているのだ、俺の中では。だから謝られても反応に困るだけで、ただ奇妙な居心地の悪さだけが残った。
葉山たちのような関係性だってもちろんある。それは認めなくてはならない。
むしろ世間的にはそれが普通で、俺の求める関係性は一般にはきっと正しくないのだろう。
偽物だと断じたものにも、間違いじゃないものがある。場を取り繕うのだって、空気を読むのだって、裏を返せば思いやりで、他人を慮るひとつの形だ。
だから今の俺には、目の前の彼を完全に否定することは出来そうになかった。
深く下げていた頭をようやく上げると、葉山は自嘲するような声音で言う。
「……悪いと思ってるのは本心だ。だけど結局は、謝って許されたいだけなのかもしれないな」
「俺は別にどうでもいいって」
そう言って手を払うと、葉山は軽くかぶりを振った。
「君にだけじゃない。色々なことに対してさ。俺が謝るのは懺悔みたいなものなんだ、きっと」
「そんな自己満足押しつけんな。迷惑だ」
「相変らずはっきり言うな、君は」
「お前と俺の場合、そもそも繕うような関係でもないだろ」
「言えてるな。……気を付けるよ」
そこで会話は止まってしまった。
黙って暗がりに座っていると、3月の夜の肌寒さが実に身に沁みる。本当の春はまだ遠いな。
俺も暖かい飲み物でも買おうかと考えていると、葉山は缶コーヒーを一口呷ってから口を開いた。
「戸部のことだけど」
そこで言い淀むように止まってしまった。不思議に思って横顔を見ても、無表情なままだ。唐突に、金属がへこむような音が彼の手元から聞こえた。あとには自販機の僅かな駆動音のみが続くだけだった。
「……いや、いい。なんでもない。忘れてくれ」
葉山は立ち上がり、たった今握って潰した缶コーヒーを手近なゴミ箱に放る。
「何が言いたい?」
「本当に気にしないでくれ。やっぱり、君に頼るのは間違ってると思うから」
「はぁ、まあ何でもいいけど」
戸部の件、というと先ほどの部室で話したあの事に間違いないはずだ。このタイミングでそれ以外の選択肢は浮かばない。
葉山は何かを伝えようとした。雰囲気から察したに過ぎないが、今濁した話こそ、俺をここに呼び出した理由なのではないか。
まあ言えないのならそれでもいい。生憎のところ、こちらから親身になって相談に乗ってやるような仲でも無い。
「ところで戸部の話とは別だけど、君はホワイトデーどうするんだ?」
「は? 何だよ急に」
「貰ったんだろ? 彼女たちに」
暗に話したくないオーラを滲ませてるのに、葉山はケロリとした態度でそれをかわす。おいおい、イケメンは空気読めるんじゃないのかよ。
「……考え中だよ。お前こそどうなんだ?」
「俺はそもそも誰からも貰ってない。だから、返す必要もない」
「一色とか三浦から貰ってただろ。あれはいいのか?」
「あれはあくまで試食。 試食にお返しするのも変な話だろ?」
なるほど、徹底している。距離を保つことに固執していると言っていい。
雪ノ下が言うには、無用なトラブルを避けるためにそうしているらしい。だが、ここまでくるとそれ以上の別の意図があるようにも感じられた。
「そう言われればそうだが。戸部はいいのか? あいつ、試食にお返ししようとしてるぞ」
「戸部なりに考えてお返ししようと思ったのなら、俺は止めないよ」
「そうか」
「君はちゃんと返すんだろ?」
まるでこちらを試すような口調だった。
一瞬言葉に詰まるが、一度認めたことを今更否定するのもそれこそ変な話だ。
「まぁ……多分」
「そうか。やっぱり、君はすごいな」
またそれか。葉山は立ち上がったまま首だけを動かし、微笑みを浮かべる。
「反応に困るからそういうの止めてくれ。あと、お前に言われても嫌味にしか聞こえん」
「はは、悪い。単純な感想だよ。単純に、すごいと思っただけだ」
「……何が?」
膝に肘をついた姿勢のまま彼をじろりと見上げると目が合った。
葉山は何か言いづらそうに口を引き結ぶと、夜空を見上げる。
「今の俺には出来ないことを、当たり前みたいに考えてるからかな」
その口調は苦々しい。淡々とした言葉の端々に、口惜しさが垣間見えるような、そんな言い方だった。
「……買い被るな。当たり前なんて思ったことないし、現に今悩んでる」
「俺はそうやって悩むのすら放棄してる。向き合うことから逃げたんだ」
こちらを見下ろして言う、その瞳は真剣そのものだ。
大枠な、好意という感情を機敏に感じ取って、そこから距離を置くことに葉山隼人は長けている。平等に好意を受け取らないことでその関係性を維持していると言える。機会の均等化だ。ともすれば、それは彼の言う通り逃げになるのだろう。
「ま、お前の好きにしたら良いんじゃないの? つーかそんなこと言われても困る。俺に慰めの言葉とか期待すんな」
俺の言葉を受けると、葉山は目を細めて薄く微笑んだ。
「また愚痴っぽくなっちゃったな、すまない」
「別に。そもそも、お前だって俺に出来ないこと平然とやってのけるだろ。お友達と仲良くしたりとか」
「……皮肉か、それ?」
「褒めてる褒めてる。俺には真似できねーよ」
「はは、まあ得意だからな」
そうして、よく見せる呆れたような、困った様な笑顔を覗かせた。
葉山が望むのは、多分、普遍的でありふれたものだ。そんなものをこそ望む、彼の普段の気苦労は計り知れないものなんだろう。程度を察することすら出来ない。だから、何となく他人事のような気分でそれを聞いていた。
背もたれに体重を預けるとギシリと音が鳴った。そのまま上を仰ぐ。外に出てからまだ幾ばくも経っていないが、薄暗色の夜空がすっかりと漆黒に染まりつつあった。ここらが頃合いだろう。
「他に話すことないならもう戻るぞ。いい加減寒いし」
「そうだな。すまなかった、こんな時間まで」
俺がベンチから立ち上がると、葉山も地面に置かれたバッグを肩に背負う。
「じゃあな」
「ああ。比企谷、また明日」
「おお」
葉山は校門へ。俺は特別棟の部室へ。行き違うように、すれ違うように。別々の方向へ歩き出した。漏れ出る校舎内の灯りが、暗がりをぼんやりと照らす。その中で歩みを進めながら、考えに耽った。
葉山が伝えたかったことは何なのか。曰く、俺には頼るのは間違っていると。
そう言われてしまえばそれでお終いだ。元より、主義主張も何もかもが違う。理解してやれという方が難しい。それよりも考えなくてはならないのは、他でもない自分自身のことだ。
今のままではいけない。それをわかっていても、現状維持という甘言がそれをぼやけさせる。変わらないのは楽なことだ。それは、考えなくても良いということだから。
思考停止でルーティンをなぞるだけの日常がどれだけ楽なことか。そういう関係なんてザラにある。それは否定しない。だが、やはり違うのだ。
それは俺の求めているものとはどこか違うもので、完全な否定はせずとも、肯定する気にはさらさらなれない。
自分に言い聞かせて、必死に飲み下そうとしている時点で、そんなものは紛いものだ。俺がもっとも嫌った欺瞞だ。それは、きっと彼女たちも望まない。
現実の延命か、信念の追及か。
俺の信じたものは、俺の中にまだ確かにあった。
このままではいけないと、そう心が叫ぶのなら。
多分それこそが、俺の選ぶ道なのだろう。
もはや見てくれている人がいるかもわかりませんが、ちょっと更新。
期間あきまくりですみません。
階段を登りきったところで、見知った顔が見えた。
向こうも当然それに気が付いたようで、鞄で塞がっていない方の手を元気良く上げた。
「おっ、ヒキタニくんちーっす」
「もう話は終わったのか?」
「ばっちりよ。いやーこういうのマジわかんねーからさ。助かるわーって感じ?」
「そうか。まあ礼なら今度あいつらに言ってくれ」
そう言って、戸部の横をすり抜けて部室へ向かう。立ち止まってまで戸部と話すこともない。必要なことはあいつらがやってくれたはずだ。
「あんさぁ、ヒキタニくん」
振り返ると、戸部は気恥かしそうに首筋を手で押さえていた。そのまま襟足をがしがしと掻き上げると、俯き気味だった視線をすっとこちらに合わせる。
「俺やっぱ負けねぇから。なんつーか、そんだけ言っときたくてさ」
人好きのする笑顔を引っ込めてまで言う。その慣れない雰囲気に若干気圧されてしまう。一瞬生じたその沈黙を嫌うように頭をふるうと、戸部は再びからっとした笑顔を浮かべた。
「んじゃ、また明日。お疲れさ~ん」
「……じゃあな」
手を後ろ手に振り振り去っていく姿に向けて、恨みごとのように小さな声が漏れた。
「何の話だよ。ったく」
下校が迫った時間の廊下には、部屋から線状の光が漏れ出ていた。その扉に手を掛けて、無言で開け放つ。
「あ、ヒッキーだ」
雪ノ下がパソコンの前に座り、由比ヶ浜はそれを横から覗き込んでいた。そんななんでもない光景でもほっとさせられる。
雪ノ下はキーボードを叩く手を止めずに、目線だけを僅かに上げてちらとこちらを見やる。
「もう話は終わったの?」
「ああ」
慣れたいつもの椅子に身体を預けると、思わずふーっと息が漏れた。
「それ、さっきのメールの返信か?」
「ええ。彼へのアドバイスのなかで使えそうなものをピックアップして送ろうと思って」
「悪いな。まかせっきりで」
「気にしなくていいわ。これを送ったら終わりにしましょう」
眼鏡のテンプルを持ってかけ直すと、先と同様に画面へと向き直った。
キーボードを叩く軽快な音に、時折ヒーターのかつんかつんという異音が混じる。どうやら活動限界が近いようだ。我が部の暖房器具が、まるで呻くように時間の経過を知らせてくれていた。
「ねぇヒッキー」
「あん?」
「隼人くんの話ってなんだったの?」
雪ノ下が返信文にかかりっきりで、特にやることもない由比ヶ浜が体を起こしながら問うてくる。
「あー、それなんだが。俺もよくわからなかった」
「なにそれー。変なの」
「比企谷くんが変なのはいつものことでしょう?」
「お前さ、毎度毎度なんでそんな的確に抉ってくるわけ?」
お口チャックで良かったでしょ? 今の場面なら。
雪ノ下は俺の反応に満足したように、画面を見つつもほのかに口の端を上げて応えてくれた。
「でも、わざわざ外に連れ出すくらいなんでしょ? 隼人くん何も言わなかったの?」
「なんか言いかけてた気がするが……まあいいだろ、あいつのことは」
「えーなんかすっきりしないなー」
由比ヶ浜が腑に落ちないのは当然だ。直接話した俺ですら真意を汲めなかったのだから。
そもそも、あんな尻切れな言葉で理解しろというのが無理な話でもある。
一から十まで説明しろとは思わない。全てをつまびらかに語ればわかるとも思っていない。
人によって言葉の受け取り方は違うし、感情が耳に蓋をして聞くことを拒むこともある。
だからこそ、何かを伝えるということは、酷く難しいことなんだろう。
キーボードを叩く音が止まった。雪ノ下はあごに手をやり、画面をしげしげと眺めつつスクロールさせる。どうやら内容を書き終えてチェックの段階に入ったようだ。
「一応こんなところかしら。誤字脱字はないと思うけれど、チェックする?」
「いや大丈夫だろ」
「うんうん、大丈夫大丈夫」
「そんなに期待されても困るのだけれど……。では送ってしまいましょうか」
雪ノ下はもう一度だけ内容をあらためてから送信をクリックすると、んっと小さく伸びをした。
「お疲れさん」
「ありがとーゆきのん」
「いえ。それでは今日は解散しましょうか」
雪ノ下の号令でめいめい身支度を整え始める。一番最初に準備が終わった俺はヒーターに手を伸ばした。
「お前もお疲れさん」
スイッチを切られたヒーターは気を吐いたように、急速に熱を失う。最後にもう1回だけかつんと音を鳴らすと、それきり静かになった。
鞄を床からひょいと拾い上げて背負い、肌寒い廊下に出る。
温い部室との温度差はまだ強い。もう少しだけ、分厚いコートのお世話になる日が続きそうだ。全員が部室の外に出ると、雪ノ下が施錠をする。
「では私は鍵を返してくるわ」
「あっ、あたしも行くよ」
「じゃあ任せたわ」
そう言っていつもみたいに踵を返せばいいのに、それが出来ずにいた。脚が縫いつけられたように動かない。それは、まさしく心中から発せられた警鐘のようなものだったのかもしれない。
3人が無言で向き合ったままで、ただそれ以上、俺は何も言えないでいた。
「ヒッキー?」
立ち竦む様子が奇異に映ったのだろう。目の前から気遣うような声が聞こえた。
「……じゃあな」
それをきっかけに脚の拘束は解かれ、踵を返して階下へ続く道を目指す。
「比企谷くん、また明日」
「バイバイ、ヒッキー」
ふたりとはそこで別れた。それと同時に、ポケットの中の携帯が震える。差出人は確認するまでもなかった。
もう一度だけ、ちらと振り返る。
歩く雪ノ下に、じゃれつく由比ヶ浜。相変らず仲が良い。微笑ましい光景だ。
ここから見える今のふたりは変わっていないように見える。では変わってしまったのは、一体何なのだろうか?
雪ノ下と由比ヶ浜は、あのふたりだから自然でいられる。違和感があるのはそこに異物が混じった時だ。だから、今のこの図式は自然で、一番無理のない形だった。
ふと気付かされた事実と、かつてあの人が呟いた言葉が。それが苛むように、呪詛のように。何度でも繰り返し今の自分をなじり続ける。
――本物なんて、あるのかな
何かを振り払うように、ただ歩く。
今の俺にはそれしか出来そうになかった。
どこが終着地なのか、わからぬまま。
× × ×
全然ほのぼのしてないなと気付いてしまった。短いですが今日はここまでで。
白い霞のような溜息は、宙を漂ってはすぐに消えていく。3月の夜は、依然冷え込んでいた。
最終下校時刻を過ぎようかという時間ともなると、敷地内は静けさに包まれはじめる。
換気のために開けられた窓を閉める音や、遠いところからどこぞの運動部の掛け声なども耳に入る。妙に聴覚が研ぎ澄まされていた。きっと周りが暗いせいだ。廊下の電気も消されはじめた。
人間は得る情報のほとんどを視覚から捉えるらしい。視覚情報が乏しくなりつつあるから、音がはっきりと聞こえるんだろう。
不意にがらりと、窓の開閉音が夜闇に響く。これだって、普段だったら気にもかけない。
「先輩! おーい!」
「……おお」
直上からの声で仰ぎ見る。窓枠から身を乗り出した一色いろはが、余らせた袖から覗かせた小さな手を振っているのがわかった。
声を張るのも面倒だし、何よりも恥ずかしいので、ポケットから片手だけ上げて立ち去ろうとした。
「ちょっとストップ! そこで待ってて下さい、すぐ行くので!」
こちらの返事を聞く前に、窓とカーテンが閉められる。ふっと灯りが消されたのも確認できた。さっさと帰りたいが、待てと言われれば無碍にも出来ない。程無くして一色が小走りでやってくるのが見えた。
「すいません、お待たせしました~」
やや荒れた呼吸を整えつつ、ぺこりと軽く頭を下げる。
「そんな待ってはないけど。なんか用か?」
「……先輩? あんなメール送っといて、よくそんなこと言えますね?」
「メール?」
「これですよこれ!」
手にした携帯の画面をずいっと見せつけてきた。表示された文字に徐々にピントを合わせて内容を確認すると、一色の言っている意味が徐々に掴めてくる。ああ、これね。
「一色」
「なんですか?」
「いいか。俺は今日、ある相談メールに返信をした」
「はい」
「それはPN:かわいい後輩さんに対してであって、お前だと特定出来たわけじゃない」
個人を特定していない。だから何言ってもオッケー!というわけでもないが、そもそもぷりぷり怒られる謂れはないのだ。
「でも絶対わたしだってわかってましたよね?」
「いや、どうだろうな」
「え~。だってー、わたしってかわいい後輩じゃないですかー」
「知らねーよ……」
ほんとこいつの自信過剰っぷりは何なんだろうね。溜息までは漏れないが辟易としちゃうレベル。
「それはそれとして、今から帰りですよね?」
「まあな」
「じゃあ一緒に帰りましょう!」
「……えぇ」
「ちょっと! なんですかその嫌そうな顔は」
声を掛けられたときから、なんとなくそんな予感はしていた。別に帰るのはいい。
ただなんというかなぁ……。
「お前さ、俺と一緒に帰って楽しいの?」
「んー楽しいというか、この時間に知り合いと会えば一緒に帰るのが自然だと思いますけど」
「まぁ、それもそうか……そうなのか?」
知り合いが少ないからわからなかった。ついでに友達は皆無だ。あっ戸塚がいた。やっぱ戸塚って神だわ。違うわ天使だわ。
「ですです。ほら行きましょう。それに先輩?」
「あん?」
「女の子をこんな時間にひとりで帰すものじゃないですよー」
そうなの?八幡わかんない。つーか、そんな一般論は俺には通じん。周りが暗いだけであって、時間はまだそんなに遅くないし。
「大体、一緒に帰るってどこまでだよ。俺自転車なんだけど」
「駅まででいいじゃないですか。ついでにマリピンで備品の買い出し手伝って貰えないかなーな・ん・て」
一色は悪びれることなく、いつもみたいにきゃるんと言い放つ。こいつ……最初から荷物持ちゲットが狙いだろ……。
「あのな、メールにも書いたけど頼み方ってもんがあるだろ?」
「あっ、やっぱりわたしだってわかってたんですね」
「…………」
墓穴を掘った。もう3人前くらい掘る勢いだった。ミスタードリラーかよ。
「先輩?」
「……わかったよ。今回は特別な」
「さっすが先輩! 頼りになる~」
「はぁ。とりあえず自転車取りに行くぞ」
後ろから、はーいという返事が聞こえた。少し遅れて、横に人が並ぶ気配。
ちらと見やれば、覗き込むようにこちらを見上げる彼女と目が合った。憮然とした表情の俺に、一色はにこりと笑みを浮かべる。何が楽しいんだか。
敷地内のトタン屋根で出来た駐輪場が見えてきた。台数もまばらだったので、すぐにマイチャリを見つけてロックを解除する。
「ほれ鞄よこせ」
「へっ? 嫌ですよなんですか急に」
ずざっと身体を引くと、心底ムカつく表情を目の前の後輩は浮かべた。
「カゴに一緒に入れてやるってだけだっつーの……」
「ああ、そういうことですか。たまには気が利くじゃないですか」
「たまには余計だ」
一色から鞄をひょいと受け取ると、自分の鞄と並べてカゴに詰めて入れた。
そもそも俺は気遣いの達人だ。具体的には、俺が発言すると場の空気が凍るから一切口を開かないまである。
「行くぞ。通用門からでいいか?」
「なんでもいいですよー」
了承を得て、いつも通りのルートで敷地を出ることにする。
一色はててっと一歩先行すると、こちらを覗きこみつつ言った。
「せんぱーい、後ろは乗せてくれないんですか?」
ちらっと後部座席を見やると、セミロングの亜麻色の髪が揺れる。そこから覗く細められた瞳は、まさしくいたずらめいている子供のそれだった。
「俺の後部座席は小町の専用シートだから駄目だ」
「こまち……ああお米の」
「妹な」
世界で一番かわいいって言おうとしたけどやめた。事実を申し上げただけですとも、ええそうですとも。
「やっぱりシスコンじゃないですか……。それにいいんですか?」
「何が?」
「こんなかわいい女の子と2人乗り出来る機会なんて、先輩の人生で二度とないかもしれませんよ?」
「まあ否定はできん」
男女の2人乗りが青春の象徴という風潮を、俺は打破したい。むしろぶち壊してしまいたい。そんなことは出来ないから、警察に検挙されるのを陰から祈っていよう。実際そんなリア充チックなイベントはこの先なさそうな気がする。いや、ない(確信)
つーかこいつ、冗談じゃなく割と真面目に言ってるっぽいから反応に困るんだよなー。
「えっそれはわたしがかわいいと認めたってことですか?」
「お前……まあいいや」
いや、かわいいかそうじゃないかで言ったらかわいいが。自分で言ったらアカンでしょ。自信があるのはいいけども。
途中で言葉を切った俺に訝しい視線を浴びせつつ、一色は俺の左ひじをくいくいと引っ張ってくる。ええいボディタッチ禁止!
「ちょっとなんですか先輩。言いたい事あるなら言って下さいよー」
「気にするな。つーかあれだ。最近道交法厳しくなっただろ。やめといた方がいいんじゃないの?生徒会長的に」
「うぅ、それを言われると弱いですね……」
「まあそういうわけだから、歩いて行くぞ」
「はーい。先輩って変なところで真面目ですよね」
「ほっとけ」
俺はいつだって真面目だ。ただ、真面目に不真面目な時があるだけなんだ。どうでもいいな。
一色を伴って、ようやく通用門を出た。自転車を押し、のんびりとした歩調の彼女に合わせて歩く。自転車のからからという音が響く歩道を、一色が振ってくる他愛もない話に応えながら進んで行った。
頭を使わない会話というのは楽だ。ただ浮かんだことを口から発するだけ。深い思索を挟み込むことはない。ある意味で、少しだけ救われた心地がしていた。
「ねえ先輩?」
「なんだ?」
だから。
「面白いこと教えてあげましょうか?」
「いや別にいい」
だからこそ。
「えー、いいから聞いて下さいよー」
「はいはい。つーかお前、俺が何て言おうと言うつもりだったろ」
「あはっ、バレました?」
だからこそ、少し油断していたのかもしれない。
「で、なんなの?」
「ふふふ、極秘情報なんですけどね」
「極秘をそんな簡単に言っていいのか……」
「いいからいいから。なんとですねー」
「ああ」
可能性はたしかにゼロではない。
「戸部先輩、ホワイトデーに告白するらしいんですよ!」
「は?」
成功の芽も失敗の芽も、撒かれた種さえも。
未だに手付かずのままなのだから。
× × ×
今日はこのへんで。
開いた口が塞がらない。そんな言葉がぴったりな表情になっているという自覚はあった。
「どうしました? そんな面白い顔して。そんなに驚いたんですか?」
呆然と言葉を失った俺を、一色は不思議そうに覗き込む。
「……ああ、いやなに、結構驚いたわ」
「ですよねー。 狙ってる人がいるっぽかったけど、告るつもりとは思いませんでしたねー」
「告白すんのは人の自由だろ。結果はどうであれ」
「成功のビジョンが見えないまま告白するのはただの玉砕ですよ」
にっこりと良い笑顔を浮かべて言い切った。ビジョンとか言っちゃうあたり、一色も若干意識高い系に染められつつある。でもまぁ確かにそうだ。言ってることは間違っていない。
100%の成功なんてない。ただ、不安要素を潰して自身を売り込む。そうやって成功の確率を上げる努力をすべきなのだ。戸部は、どうなんだろうか?
「その告白するってのは戸部から聞いたのか?」
「いえ、サッカー部の別の先輩からですね」
「そうか」
戸部はどうやら告白するということを吹聴しているらしい。秘め事にしておけばいいものを、何故そんなことをするのか。
答えは簡単で、逃げ道を失くすためだ。自らを鼓舞する手段なのだ、アレは。
監視者を作り出し、他者に対するバリケードを敷く。それはある意味で、戸部なりの覚悟なのかもしれない。
葉山の態度。戸部の言葉。断片的にしか見えなかった真意が徐々に鮮明になり始めた。
「先輩は、戸部先輩が誰狙いなのか知ってます?」
「さぁ? 別にあいつと仲良いわけでもないからわからん」
十中八九海老名さんなのは間違いないが、適当に濁すことにした。一色は俺の反応にふーんと気のない声を漏らす。
「まぁ多分ですけど、海老名先輩でしょうねぇ」
「……え?」
「そんなに驚くことでもないですよ、あの人わかりやすいですし。それに、あのイベントの時の様子見てればわかっちゃいますって」
一色はふふんと得意げだ。
戸部がわかりやすいやつなのは否定しない。それでも、あの短いイベントの間だけで察せるんだからやっぱり女子って怖いわ。
戸部が海老名さんに好意を寄せているのは変わらない。あの日から今までも、ずっと。
そこで気にかかったことがあった。
「なあ、雪ノ下と由比ヶ浜はこのこと知ってるのか?」
顎に指を当て、一色は思案顔になった。僅かに開いた唇からは白い歯がちらりと覗く。
「んーどうでしょう? 少なくとも今日知ったばかりなので、わたしは言ってないですけど」
戸部は今日部室を訪れている。だから、宣言するとしたら今日このタイミングが妥当だ。
俺がいなかった空白の時間はあったが、部室に戻った際に戸部からそういった旨の発言があったことは特に聞いていない。つまり、あいつらはこのことはまだ知らないはずだ。
「一色、頼みがあるんだが」
「はい?」
「このことは、とりあえずあいつらには言わないでくれるか?」
「いいですけど……なんでですか?」
「なんで……なんでだろうな」
「なんですかそれ」
はっきりとした理由はわからなかった。ただ、あいつらには今すぐ伝わらないで欲しいと。そう直感的に思った。一色は小首を傾げるように無言の俺をちらと見やると、呆れたように笑った。
「珍しい先輩からの頼みですし? 止むに止まれぬ事情があるということで納得してあげましょう」
「助かる」
「…………なんか素直でキモいですよ先輩」
「うるせー」
どうしたってキモがられるならお口チャックで歩き続けるしかないぞ?イケメンがやると寡黙でクールなのに、俺がやるとただの根暗野郎だからホント世の中理不尽だわ。
「それはそれとして、先輩はどうするんですか?」
「どうするって……何を?」
「やだなー。この話の流れなら告白するかどうかに決まってるじゃないですかー」
「……ちなみに誰に?」
「もちろん! 雪ノ下先輩か結衣先輩にですよ! ぶっちゃけどっち狙いなんですか?」
心底楽しそうに言う。なんでこの世の女性達はこの話題が大好きなんだろうな。
「あのな、別にあいつらのことは好きとか、そういうのじゃ……」
ない。とは言いきれなかった。俺には、わからない。
頑なになにかを認めることを拒む自分がいた。これは過去からの警鐘だ。「同じ事を繰り返すな」と。失敗してきた経験こそが今の俺に教えてくれるのだ。「期待を持つな」と。
「本当に? 自信を持って言い切れますか?」
「それは…………」
隣を歩く彼女の方を直視することが、できなかった。
その問いに対する答えには、まだ辿りつけそうにない。
一色は俺が口を開くのを待ってくれている。そんな優しさに、ぽろりと本音が漏れた。
「正直言って、わからない」
「わからないですか?」
「ああ。何にも思わない、なんて言えない。けど、恋愛感情かと言われれば、なんつーか……」
整理できていない感情は、模糊とした言葉でしか言い表せなかった。
理想の姿ははっきりとしない。目標がぼやけているから、目指すものも目指せない。ゴールの見えない物事ほど怖いものはないのだ。結局俺は、どうありたいのか。
「先輩はどちらかとお付き合いしたいんですか?」
「いや、多分それは違うと思う」
「じゃあ友達になりたい、とか?」
「……どちらかと言われればそれが近い、か?」
「でも男女間の友情は成り立たないってよく聞きますし、先輩達ってホントめんど……難しいですね」
今面倒くさいって言いかけたよね?まあ面倒くさいやつって自覚はあるんだけどね!ハハッ!
「つーか、なんでさりげなく相談乗ってくれちゃってんの?」
実はいろはすいいやつなの?上手く話に乗せられちゃってるけど、実は交渉人なの?
「なんですかその言い方は。まぁ、なんというか話の流れもありますし、それに……」
「?」
「それに、わ、わたしだって輪に入れてくれたっていいじゃないですか。もう部外者じゃないんですから」
もごもごと言いづらそうにだが、一色は心中を吐露した。その内容も拗ねた子供の告白のようで、なんというか微笑ましいものだ。
「いや、でもお前部員じゃないじゃん?」
「もう! またそういうこと言って!」
ついつい出た憎まれ口に、概ね予想通りにぷりぷりと怒りだす。そんな予定調和に安心感さえ覚えた。それと同時に、ひとつの覚悟も。
「一色」
「なんですか?」
じとっとした目つきで睨まれる。が、もう覚悟したことだ。
「とりあえずさっきはすまんかった。だから、……ひとつ相談に乗って欲しい」
「先輩が、わたしにですか?」
「ああ。助言が欲しい」
人に頼る事は、弱いことなのか。ひとりでやることが正しくて、ひとりで成し遂げることが素晴らしいことで。
それ自体は間違いじゃない。ただ、それだけが正解じゃないのだと学んだ。
俺はまた人に頼る。その有用性を知ってしまったから。併せて、頼りきりになる怖さも知った。
つまりは、コントロールすることが大事だ。それが、「上手く生きる」ということそのものだと思う。
「へー、ふーん、そうですか」
物珍しそうな目で、一色はしげしげと俺を見つめる。やがて、うんと頷くと脱力するようにひとつ息を吐いた。
「そこまで言われちゃ仕方ないですねー。でも、あの先輩がねぇ……ふふっ」
「笑うなよ……ただでさえ恥ずかしいんだから」
「ふふっ、ごめんなさい。じゃあ、何から聞きましょうか」
「……曖昧なところもあるから、少しわかりにくいかもしれない。よくわからなかったら言ってくれ」
「はい」
そうしてゆっくりと、思い起こすように語り始めた。
修学旅行のこと。バレンタインのこと。葉山と戸部のこと。そして、これからのこと。訥々とした独白に近しいものだったのかもしれない。けれど、一色は静かに相槌を打って聞いてくれた。
人通りが少しづつ多くなってくる。飲食店のネオンや、商業施設から漏れる明かりが暗闇を照らす。ようやく話し終えようかというタイミングで、駅前に到着した。
一色は駅前の石でできたベンチにひょいと腰掛ける。俺も倣うように、自転車を停めて隣に座った。
ちょいと半端ですが、今日はここまでで
「はぁ、なんというか……」
「おお」
「先輩達って超めんどくさいですよね」
「お、おう」
いろはす超どストレート投げ込んでくるぅ!あまりの豪速球に言葉を失っちゃうレベル。
「特に! 一番めんどくさいのは先輩なんですからね?」
「ぐっ……俺か」
「そうです。ちょっとバレンタインで女の子から貰ったくらいで色々考えすぎです。自意識過剰すぎて軽く引きますよ」
「ぐうの音も出ない……」
「そもそも、結衣先輩は渡す時にお礼だって言ってたんですよね?」
「たしかにそう言ってたな」
「だったらそれで良くないですか。普段のお礼にクッキーを渡すって、何も難しいことないと思いますけど?」
あのお礼にはきっと色々な意味が込められていたはずだ。ただ、それでも由比ヶ浜は「ただのお礼」だと言った。それを諾々と受け取ることを拒否したのは、他でもない俺だ。だから、あの時彼女は泣き出しそうな顔をしていたのだろうか。
「……難しく考えすぎてたのか」
「絶対そうですって。話聞いてるとですね、先輩はいちいち深読みしすぎなんですよ」
「そうは言ってもな。癖みたいなもんなんだよ」
人の言う事が素直に信じられない。だから言葉の裏を読み取り、真意を汲む。意識せずともそうしてしまっている。身体に沁み込んだ癖は、中々抜けそうにもない。一色は、はぁと溜息を吐くと心配そうな眼差しを向ける。
「いいですか先輩」
「なんだ」
「これだけは言っておきます。……裏を読もうと必死になってると、表の大事なことを見逃しちゃうかもですよ?」
言葉の裏を読むというスタンスは、俺に悪意のある人間に対して得た防衛スキルのようなものだ。であれば、それを彼女らに向けるのはお門違いなのかもしれない。だって、きっと悪意を向けてくることはないから。その程度には信頼をおける間柄だと言える。
一色は続けて言った。
「まったく。だから先輩は彼女はおろか友達もできないんじゃないですか」
「それは違うぞ一色。俺は友達ができないんじゃない。作らないんだ」
「またなんか屁理屈言ってますし……。ホントどうしようもないんだから」
後輩に呆れられて、なおかつどうしようもないとまで言われる先輩がいた。ていうか俺だった。
「でも、まあ、そうな。お前の言う事も納得できるところはあるぞ」
「なんで無駄に上から目線なんですかね? それよりも」
一色はこほんとひとつ咳払いをして、人差し指をぴっと立てる。
「先輩がこれからやるべき事はシンプルです」
「ほう、その心は?」
「まずは普段のお礼を兼ねて、ホワイトデーにしっかりとお返しをすること」
「それは……そうだな」
「はい。で、もうひとつは」
「もうひとつは?」
「それをきっかけにして、ちゃんとおふたりと話し合うことですかね」
簡単に聞こえる。だがその実それが難しい。それができるのであれば、こんな違和感を抱えてはいない。俺も、彼女らも、何が正しくて、どの姿が理想なのか。それがわからないのだ。わからないことは怖いことだ。だから今にすがって、何もせずにここまできてしまった。
それでも、今のままではいけない、と。これだけは3人が共通して抱えている想いだと思う。歪なものを歪なままで放置することは間違っている。例え先にあるのがより歪なものだとしても。現状に疑念を差し込まないのは、俺の信念に反することだ。
「けど、一体何を話したらいいんだろうな」
「そこからですか……。わからないんだったら、とにかく先輩が今考えてること話してみるしかないんじゃないですか?」
「それで何か変わるもんか?」
「さぁどうでしょうね。ただ、指咥えて見てるよりはいいんじゃないかと」
「なるほど……」
言葉なしでは伝えられず、言葉があるから間違えて。そして、言わなければ良かったと後悔することもある。けれど、だからといって口を噤むのは違うと、そう一色は言う。
受身で解決できる問題なんて限られているし、時間の経過が物事をより悪い方向に導くこともある。解決の糸口は、いつだって行動から導かれるはずだ。
「一色、ありがとな。参考になった」
「へっ? 今日はやけに素直じゃないですか。気持ち悪いです先輩」
「ああ、そうだな」
「なんか調子狂いますね……」
じろりと睨めつけるような視線の後輩を見ていると、ひとつ思い浮かぶことがあった。
「ところで、お前ならホワイトデーでお返し貰うとしたら何が嬉しいんだ?」
「き、急になんですかわたしの欲しいものを聞き出してプレゼントして好感度を上げようって作戦ですかちょっと下心が見え透いていていまいちキュンときませんので無理ですごめんなさい」
「ちげぇよ……」
こいつに振られるのもなんだか久しぶりな気がした。一息で言いきった一色は、少し苦しそうに呼吸を繰り返す。
「まあなんだ、一応お前からも義理で貰った気がするし、今日のお礼も兼ねてだな……」
「うわー出た捻デレ」
「おい、どこで聞いたそれ」
一色はくすくすと笑うと、少しだけ視線を上に向けて思案する。そんなに時間はかからずに、再びこちらに向き直ると口を開いた。
「そうですねー。先輩からだったら何でも嬉しいですよ?」
「お前……そういう男殺しなセリフどこで覚えてくるんだ?」
「えー、結構素だったんですけど。まぁ先輩なら勘違いしないだろうからいいかなって」
すくっと立ち上がると、鞄を肩にかけた。
それは信頼なのだろうか。いや、ただ男として見られていないだけですね。間違いない。(長井秀和)俺も同様、立ち上がって彼女を見やる。
「さてと話も終わりですかね」
「ああ助かった。じゃあ気を付けてな」
「ちょっと待って下さい先輩。大事なことを忘れてますよ?」
「……何かな?」
帰る気満々だった俺に、一色はにっこりと笑いかける。笑顔が黒くて怖いぞいろはすー。
「か・い・だ・し」
「……わかったよ」
「よーし行きましょう!」
忘れていたわけではない。ただ流れで帰れたらいいなーってちょっとだけ思ったよ?
でもまあ、これくらい手伝わないと罰が当たる気がする。
「あっ、そうだ」
「あん?」
「結衣先輩達へのお返しってもう用意したんですか?」
「いや、まだだけど」
「じゃあついでですし選んじゃったらどうですか? 手伝いますよ」
「願ったり叶ったりだが……いいのか?」
「ここまできたら乗りかかった船ってやつですよ。もちろん先輩がメインで選ぶんですからね?」
「……サンキュな」
「いえいえ。これをダシにまた仕事手伝ってもらうので」
最後の一言がなければ“かわいい後輩”なんだけどなー。でも、しばらくはこいつに頭が上がらなくなりそうだ。
今後の行動指針は大きくは変わらない。ただ、意思ははっきりとした。その手助けをしてくれた一色には感謝をしないといけない。
「ほら、行きますよー先輩」
「すぐ追いつくから先行ってていいぞ」
「りょーかいしましたー」
一色が背を向けたタイミングでメーラーを起動する。
メールボックスには、予想通り、“匿名希望さん”へのアドバイスが届いていた。
上から目を滑らせていくと、ある一文がふと目にとまる。
「……くくっ」
これを雪ノ下が真面目な顔で打ち込んでいたと考えると面白い。自然と口の端が上がってしまう。吹き出してしまうのをこらえ、自転車のスタンドを解除して一色の後を追った。
駅前通りを風が吹き抜けていく。それが、以前より少しだけ伸びた髪を揺らした。
相変らずの冷たい風だった。けれど、吹き抜けていった風は。
少しだけ、春の匂いを感じさせた。
× × ×
もっとあっさり終わるはずだったのに……ようやく終盤に入りつつあります
今日はここまでで
昼休みの教室は賑わっていた。
そんなお友達同士のワイワイがやがやとは縁遠い俺は、早々に昼食を済ませると文庫本を開く。内容に意識は割かない。あくまでもこれはフェイク。
そもそも最近昼休みに外に出ないのも、彼らの動向を観察するためだ。
「っべー。明日ホワイトデーとかマジ上がるわー」
「あはは、そうだねぇ」
その話昨日もしてなかった?てか上がるって何だ。レベル上がって進化とかしちゃうのかしらん?
教室後方、彼らの定位置をちらと見やる。戸部と海老名さんが2人で話しているのを見かけるのも、珍しい光景ではない。むしろ最近は頻繁に見かける。それはひとえに、戸部の努力とも言えるか。
まあアホみたいに話しかけまくればいいわけじゃないからなぁ。現に海老名さん引いちゃってるし。やっぱり男は背中で語らなきゃな。むしろ背中で語り過ぎて口を開く機会が訪れないまである。
「おいおい、戸部はこっち側の人間だろ」
「だな」
大和と大岡がおどけるようにガシッと肩を組んでちょいちょいと手招きをすると、戸部は大げさにがくっと肩を落として歩み寄っていく。
「ないわー、そりゃないわー。下がるわー、なあ隼人くーん」
「そうだな。こういう機会も高校生活最後だし、やっぱり盛り上がっていきたいよな?」
「さっすが隼人くん話わかるわー!」
高校生活最後。来年の今頃はもう卒業してしまっているから、実質最後で間違いない。だからといって、そこに特別な意味を見出すかどうかは人それぞれだろう。
ホワイトデーは選ばれし人間のみが参加できるイベント。バレンタインデーで何も貰えなかった人間には、そもそも参加権が与えられない。
だから、クラスの雰囲気は浮ついているものと、そうでないものにはっきりと別れているように見えた。俺はといえば、体がそわそわするのは必死に堪えている。ただ、心がぴょんぴょんするのは我慢できそうになかった。
「お、なになに?」
「戸部がまたなんかスベるのか? むしろトベるのか?」
「そういうのやめろっちゅーの。今回はバシッと決めっからさ」
そうして、男子だけでやいのやいのと話し始めた。結構きわどい会話すんのな。すぐ近くに海老名さんだっているのに。
「ぐ腐腐男子が肩寄せ合って内緒話……仲良きことは素晴らしきことかな……じゅるり」
「海老名落ち着けし」
「あはは、いつも通りだけどね」
こちらも平常運転でなによりだ。ここ数日観察してみたが、特段葉山グループに変化はない。俺が杞憂することでもないのだが、まぁいい。
もぞもぞと立ち上がり、外に出ることにした。マッ缶でも買って戻ってくればちょうど良い頃合いだろう。教室前方から出て、自販機を目指した。
あいつは、今回の件でどうするつもりなのだろうか。
少し歩けば赤い自販機が見える。小銭を投入すると、迷わずお目当てのものを購入した。くぅ~やっぱこれだね~。
「比企谷」
「……なんだよ」
プルタブを開けようかというタイミングで声を掛けてきたのは、件の彼だった。
さきほどまで教室にいたはずの葉山隼人は、にこやかに微笑む。
「今少しいいかい?」
「駄目だって言っても勝手に話すだろ、お前」
「はは、言えてる」
ぷっと吹き出すと、目の前の彼は心底楽しそうに笑った。
「あいつ、また告白するつもりなんだろ?」
また、と言っても一回目の告白はなかったことになってるが。葉山は少し寂しげに目を細める。
「やっぱり、君は知ってたか」
「まあな。成り行きで聞いた」
「誰から?」
「誰でもいいだろ」
「それもそうだな」
口元を綻ばせると、壁に背を預ける。俺も一応それに倣って、とんと壁に背をつけマッ缶を一口啜った。
「お前、今回は何もしないのか?」
「戸部の件か?」
「ああ」
今回俺の動く理由はない。前回のあれは、依頼があったからだ。依頼がなければ、彼らのために動くことはない。
だが、葉山は違う。グループ内での話なのだから、見て見ぬふりなどできるはずがない。彼には動く理由がある。それでも、ここ数日見ていても何か行動をしている様子は見えなかった。そこに俺は疑問を感じている。
「何もしない、と言われればそうかもしれない。ただ、少し信じてみたくなったんだ」
「……告白成功の可能性をか?」
あり得ない。
以前の、あの時よりは可能性はあるかもしれない。それでも、あの海老名さんが告白を易々と受け入れるとは到底思えなかった。俺の問いに、葉山は首を横に振る。
「そうじゃないよ」
「じゃあ、何だよ」
「簡単に壊れるものじゃないってことをさ。俺たちの関係は」
葉山は真面目な顔でそう言って、こちらを見据える。安っぽい、使い古されたようなセリフには嫌悪感を通り越して滑稽さすら感じさせた。
「……勝手な言い分だな」
前回は邪魔して、今回はしない。一貫性のない行動。それを、“信じる”と言う言葉で塗り固めてさも正しいように見せかけただけだ。
「勝手だって自覚はある。ただ君だって気が付いてるはずだ」
「はぁ?」
「俺たちの関係は壊れなかった。少しぎくしゃくもしてしまったけど、それでも……ちゃんとやり直せてる」
君のおかげでね、と葉山は言い添える。
たしかに、修学旅行直後の気まずそうな雰囲気は今の彼らには感じない。海老名さんはとっくに戸部の好意には気が付いている。ただ、それでも……壊れてはいない。
「けど、それははっきり告白してないからだろ。今回告白したらわかんねーぞ」
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。だから信じるって言ったんだ」
「意外と無責任なやつだな、お前も」
「無責任……そうかもしれないな」
葉山は苦笑すると、小銭を取り出して自販機に投入した。
「留学するんだ、この春には発つ」
「……は?」
予想外すぎる一言に、思わず呆けた表情になってしまう。その俺の表情が面白かったのか葉山はくくっと吹き出すと自販機のボタンを押した。
「だいぶ前から決まってたんだ。君とは進路のことでいろいろあったから伝えておくよ」
「……他に誰か知ってるのか?」
「君以外にはまだ言ってないな。比企谷は口が固そうだから大丈夫だろ?」
「ふっ、安心しろ。言いふらす相手がいないからな」
「はは、相変らずで安心するよ」
言って、取り出し口から缶を取りだす。葉山の手には、俺にとっては馴染みのものが握られていた。楽しそうに振って、それをこちらに見せびらかしてくる。
「真似すんなよ」
「別にいいだろ? こういう機会でもないと中々飲まないと思うからさ」
軽妙な音を立ててプルタブを開けると、グイッと呷る。
「……甘いな」
「それでいいんだよ。コーヒーくらい甘くないと人生やってられん」
「なんだそれ。……でも、そうかもしれないな」
一旦会話が止まった。
葉山は留学する。行先は?期間は?向こうでどう生活するんだ?聞けることはいくらでもある。ただ、聞いてもどうにかなるわけでもないし、何かが変わるわけでもない。だから聞くことに意味はない。それでいいと思った。
「俺たちは大丈夫だ。だから、君たちだってきっと大丈夫だ」
「お前、わざわざそんなことが言いたかったのか?」
迷いのない瞳と、曖昧な言葉。それに全幅の信頼を寄せることはない。けれど、葉山は実例を示した。それであれば少し話は違ってくる。
「陰ながら応援してる。君たちのことを」
「そりゃ光栄なことだ」
「……最後に、君とこうやって話せてよかった」
葉山は一息に缶の中身を飲み干した。手近なゴミ箱にそれを放ると、いつも通りの柔和な笑みを浮かべる。
「先に戻るよ。また教室で」
「……ああ」
今日はいくぶん暖かい。廊下には窓から柔らかな日差しが降り注いでいて、それが去っていく彼の背中を照らしているのをぼうっと見つめていた。
葉山は言った。俺たちなら大丈夫だと。
鵜呑みにすることはない。ただ、少しくらいは。信じてみてもいいのだろうか。
春の陽光に包まれる廊下にチャイムが鳴り響く。
立ち去った彼が見えなくなってから、ゆっくりと歩き出した。
× × ×
今日はここまでで
3月も中旬になると、少しづつ春めいてきた気がする。ニュースでも桜の開花がどうとか、一足早い入社式とか、春休みのご予定は?とか。まぁ毎年のことである。
その辺の話題はそこそこに、本日テレビで大々的に特集されるのはアレだ、アレ。
今日という日、またイベント大好き日本人のことを考えれば仕方のないことだ。
「お兄ちゃーん、お返しちゃんと準備したの?」
「……おお」
「ホントに? 忘れ物ない? そんな装備で大丈夫?」
「大丈夫だ。問題ない」
「でもお兄ちゃんヘタレだからなー。小町は心配で夜も眠れなかったよ」
「小町ちゃん? それは昨日ソファで爆睡してたせいじゃないの?」
「てへへ、そうかも」
「はぁ……」
だから、今日という日に妹が若干面倒くさい絡みをしてくるのも仕方のないことなのだ。
楽しそうな小町とテレビを横目にコーヒーを流し込み、コートを羽織った。
「小町、今日帰るの少しだけ遅くなるかもしれないから」
「おお! つまりそれは……」
「アホ。邪推すんな」
ぺしっと頭を叩くと、ぶーと唇を尖らせる。
「ちぇーノリ悪いよお兄ちゃん」
「逆に考えるんだ。俺がノリが良い日があったか?」
「ないね」
即答してくれるあたり流石は妹である。リビングに放っておいた鞄を肩にかけて玄関へ向かうと、小町も後ろにとてとて着いてくる。
「んじゃ、行ってくる」
「ほいほーい行ってらっしゃい。頑張ってね~」
「なにを頑張るんだよ……」
「そりゃあ色々なことをだよお兄ちゃん。期待して待ってるからね!」
「……はいよ」
玄関を開け、自転車に跨って走り出す。
頬に当たる風は冷たいが、信号待ちで止まっていると陽が当たる場所ではほのかに暖かい。毎年のようにある花見川沿いの堤防工事もこの時期になればほぼ終わり、以前の走りやすさを取り戻していた。
真っすぐと伸びる道。坦々と漕ぎ続ける単純作業の中では、色々なことが頭に浮かんでくる。頭には浮かんではくるのだが、得てして考えが纏まることはない。ペダルの描く円軌道のように、同じところをただ回り続けていた。
期待に応えるわけではないかもしれない。とにかく今日という日を乗り切る。それだけだ。
静かな決意をもって、学校への道を進んでいった。
× × ×
川沿いの道を抜けると、ぱらぱらと少数ながら総武高の生徒が道を歩いているのが確認できた。それらを追い越していくと、もう到着するかというタイミングでひとりの生徒が歩いているのが目に付いた。
「うす」
声を掛けられた生徒はこちらに首を向ける。その時に長いポニーテールがふわりと揺れた。
「……あんたか。おはよう」
「おお」
「おはようくらいちゃんと言えば?」
「……おはようございます」
「ん」
川崎はぶっきらぼうに言い放つと、てくてくと校舎へ向けて歩き出す。その後を遅れて追った。
「あー、川崎ちょっといいか?」
「……なに」
じろりとした視線をこちらに向けてくる。一応周りを確認すると、まばらながら登校中の生徒が目に付いた。
「ちょっと話がある。ついてきてもらっていいか?」
「いいけど、朝からなに?」
「安心しろ。悪い話じゃない」
「ふーん。ま、いいけど」
自転車を駐輪場に停めて歩く。通学時間帯にここに来る生徒はほぼいないだろう。脚を止めた場所は、閑散として陽のあたらない、やや寒々とした校舎裏だった。
「それで話って?」
川崎は少し所在なさげに、もじと身を捩る。日影になったこの場所だとスカートから伸びるすらりとした脚が余計に寒々しく、震えているようにも見えてしまう。
「あー話というかなんというかだな……」
ふうと息を吐いて鞄をごそごそと開ける。取り出した小さな包みを、目の前の彼女へ差し出した。
「なにこれ?」
そう言いつつ、川崎はコートのポケットから手を出してそれを受け取る。
「一応バレンタインのお返しだ。お前と、あとけーちゃんの分も入ってる」
「ああ、そういうことね」
合点がいったというように眉尻を上げると、先ほどの怪訝な顔とは変わって楽しそうな様子だ。それを見ると、少しだけほっとさせられた。
「これ開けてみてもいいの?」
「別にかまわんが」
やや開けにくかったのか、川崎は薄手の手袋を外すと袋のテープ丁寧に剥がす。しかしアレだな。目の前でプレゼントした本人に開けられるってのは恥ずかしいもんだな。
落ち着かない心持ちでいると、中身を取り出してしげしげと眺めていた川崎と目が合った。
「ヘアゴムね」
「ああ。お前いつも髪結んでるだろ? けーちゃんも髪結んでたし、あっても困らないかなーと思ったんだけど」
あっても困らない、持て余さないというのがポイントだ。色とりどりのシンプルな飾りがついたヘアゴムを、川崎は順番に手に取って確認していく。
「これ、どれがあたし用とか京華用とかは決まってるの?」
「いや、特に決めてない。けーちゃんと話して決めてくれ」
「ふーん。そ」
ぽそりと呟くようにいうと、ぷいと目線を外にやった。それを不思議に思っていると、今度は伏し目がちにちろりとこちらを見る。
身長差もさほどないが、少し上目遣いのような格好になった。
「ちなみに、あたしにはどれが似合うと思って買ったの?」
「……それ聞いてどうすんだ?」
「どうもしないよ。参考までに、ね」
「ならそうだな。……これ?」
川崎の手の平の上のひとつを指差す。飾り気のあまりない、青い石があしらわれたシンプルなものだ。
「なんでそんなに自信なさそうなの?」
「実際自信ないからな。察してくれ」
「でもあんたは、これが似合うと思ってくれたんでしょ?」
「……まぁ、そうな」
「じゃあそれでいいよ。ありがとね。使わせてもらうよ」
「……おお」
川崎は大切そうに包みを鞄にしまいこんだ。その様子と、先ほどの言葉がどうにも照れ臭くてそわそわと落ち着かなくなってしまう。川崎は柔らかく笑むと、鞄を肩に掛け直して昇降口へ脚を向けた。
「じゃあ先に行くから。また教室で」
「わかった」
「ん。ありがと」
川崎の背中が見えなくなったのを確認してから、俺も教室へ向けて歩き出す
まだ少し始業までは余裕がある。のんびりとでいいだろう。てくてくと、いつもよりゆっくりとしたペースで朝の喧噪をすり抜け、静かに椅子を引いて座った。
「八幡おはよう」
「おう。おはよう戸塚」
「うん!」
ああ~良い笑顔っすね~癒されるわマジで。戸塚はこちらを覗き込むようにくりっと小首を傾げる。
「八幡なんかいいことあった?」
「なんでだ?」
「なんか嬉しそうだったからさ」
「別にそういうわけでもないんだが」
お前の笑顔が見れればそれで幸せなんだ、とか言いたかったけどぐっと堪えた。
ちらと視線を窓側に向ければ、たまたま視線を泳がせていたであろう川崎と目が合った。
合ったと思うとぷいっと視線を逸らされる。俺が何をしたというのだ。
視線を逸らす際、特徴的な青みがかったポニーテールが揺れる。いつものピンク色のシュシュがよく映える。これも見慣れたものだ。だがそこに、今日は見覚えのあるものが見え隠れしていた。
「やっぱり嬉しそうじゃん。何かあったでしょ?」
「……そうだな」
ま、言わないほうが良いのだろう。俺だって恥ずかしいし。
物にはいろいろな種類がある。観賞的な価値が高いものもあれど、使われてこそ価値があるものが大半だと思う。
だから、プレゼントしたものがさっそく役立ってるのを見るのは、何よりも嬉しいことだった。
× × ×
今日はここまで
火曜日:午前11時頃
山田組本部
ザワ… ザワ… ザワ…
ザワ… ザワ… ザワ…
ダッダッダ
幹部「親分! 来ました、奴です!」
シーン…
組長「おう……どれ、見せろ」
↑本当に申し訳ありません。誤爆です
世間がホワイトデーだろうが何だろうがで浮かれようとも、学校は決して休みになったりしないし普通に授業が行われる。平塚先生だけは普段より眉間に1本皺が多い気がしたが気のせいだろう。加齢じゃないよ?多分。
つーか、もうなんでもいいからイベントの日は休みになんねーかな。バレンタインとかハロウィンとか。ウェイウェイ言ってるの見るともう言葉で言い表わせない気分になっちゃうから。一歩も家の外出ないからマジで年間休日増やして!日本人働き過ぎマジで。
そんな働き過ぎな日本人の就労就学時間の平均を少しでも落とすために、全ての授業をぼーっとしたり寝て過ごしていたらもう放課後である。まるで俺以外の時間が全て消し飛んだかのようだった。キングクリムゾンかよ。
終礼も終わり、放課後のざわつく教室を抜け出る。その際、ちらと教室後方をみやれば戸部が戸部らしからぬ緊張した面持ちで海老名さんに話しかけようとしているのが見えた。
おーこれからいくのか。ほぼ結果が見えてる勝負だが、心の中でくらいは応援しといてやろう。
いつもの場所で壁に背を預けていると、待ち人はすぐに現れた。
「やっはろーヒッキー。じゃあいこっか?」
「おう。その前に少しいいか?」
壁から背を離し、由比ヶ浜の顔を正面から見据える。
「へ?…………う、うん。もちろんいいけど、ここだとちょっと恥ずかしいかも……」
「あん?」
由比ヶ浜は片手で胸を抑えると、やや頬を紅潮させて身をくねらせる。何を勘違いしてるんだこいつは?
「あー、部室行くの少し遅くなるって伝えたかっただけなんだが」
「えっ? あっそうなんだ。てっきりあたし……」
「どうした?」
「ううん。何でもない」
あははと小さく口を開けて笑う。その様子は、少しだけ寂しそうに見えた。そんな姿を見るのがたまらなく嫌で。
だから、そんな彼女の耳元に向けてぼそりと、他の誰にも届かない声量で告げる
「……あとで部室行ってからな。だから、待っててくれると助かる」
ぱっと顔を上げると、由比ヶ浜はぱちくりと目を瞬かせた。言わんとするところを理解したのか、ぱあっと顔を綻ばせると小さく頷く。
「うん! 待ってるから。ちゃんと来ないとダメだからね」
「わかってる」
「じゃあ先行ってるから!」
「ああ」
小走りで駆けていく由比ヶ浜を見送ったあとは、目的の場所へと脚を向けた。
足取りは軽快とは言えない。一歩、また一歩と。進むにつれて、何かに迫られているような感覚があって、思わず息を吐いた。
具体的に何をすればいいのか結論が出せずにいた。
間違っているものを否定するのは容易い。ただ、今回の場合それが出来ずにいた。現状に甘んじ続けていた負い目もある。そうした理由をいくら考えても、いつも、何度考えても単純な答えに帰結するのだ。
堂々廻りな思考をしていると、目的の部屋が見えてきた。恐らくはここにいるだろう。
『生徒会室』と書かれたプレート付きのドアを3回ノックすると、くぐもった「どうぞ」という声が聞こえたので手に軽く力を込めて開け放った。
「あ~先輩じゃないですかー。どうしたんですか?」
副会長となにやら話し込んでいた目的の人物は手にした書類を放り出すと、とてとてと歩みを進めて俺の前で止まった。おいおい副会長めっちゃ呆れた顔しちゃってるけど大丈夫なの?
「一応お前に用事があって来たんだけど。 都合悪いなら後でまた来る」
「ぜーんぜん。今で大丈夫ですよ。ね、副会長?」
「いや、えっと今日中に入学式でする新入生向けの挨拶の内容考えておきたいんだけど」
「大丈夫ですよね? うん大丈夫大丈夫。もう内容は練ってあるので。戻ってきたらチョッパヤで仕上げますから。じゃあ!」
「お、おい掴むなって」
一色に腕を掴まれ、半ば強引に生徒会室をあとにした。ずりずりと腕を一色に引きずられて歩くこと数分。人気のなくなった放課後の廊下でようやく我が左腕が開放されることとなった。左腕が開放とか聞くと中2のころを思い出すな。鬼の手的な何かを感じる。
「つーか大丈夫だったのか?」
去り際の副会長の慌て具合を見て察するに、とても大丈夫そうには見えなかった。そんな心配をよそに一色はケロリとした様子だ。
「まー多分大丈夫ですよ。なんたって入学式までは3週間ありますし? 去年の雛型だって残ってるはずですし、それをちょちょいとアレンジすれば納期には余裕ですよ!」
たしかに一色の言っていることには一理ある。ああいった挨拶は形式じみたものだし、去年のものを踏襲することはよくあることだろう。ただなぁ……。
「お前……悪い方向に成長したな」
誰の影響を受けてしまったんだか。就任1年目のフレッシュさが微塵も感じられないことに苦言を漏らすと、一色はむっと不機嫌さを隠さない。
「えー何でですか。先輩だってわたしの立場だったら同じことするでしょ? 絶対」
「そんな仮定は無意味だ。だがまぁ、もし仮に俺が生徒会長だったら、去年のを丸パクリするまである」
「うわ、それはさすがに……と思っても先輩ならやりかねないですね」
「おいそのムカつく顔やめろ」
人を心底小馬鹿にしたような顔で一色は笑った。元はといえばこいつが悪いのに、なぜこんな扱いを受けなければならないのか。解せぬ……解せぬ。
まぁいい。とっとと渡してしまおう。長々と話してると副会長もかわいそうだしな。
「一色。これやる」
「えっなんですか怖いです」
身体をずざっと引いて距離を取られた。おい早く受け取ってよ。サツキちゃんに傘を差し出すも断られるカンタくんみたいになっちゃってるだろうが。
「怖いってなんだよ……キモいならわかるが」
「わかっちゃうんですか……」
「ああ。慣れてるからな」
キモがられるのは。あっ目から汗が。涙じゃない。涙じゃないよ?
「イヤな慣れですねぇ。で、これはなんですか?」
「まぁアレだ。お返しな、一応」
「お返し?……あーなるほどですね」
うんうんと首をふりふりすると、一色はようやく納得がいったようで俺の手から紙の小袋を受け取った。
「んだよその反応は」
「いえいえー。まさか本当にくれるとは思わなかったので。意外と律儀だなーって思いました」
「……お前って正直ものだよな」
「先輩にだけですからね? わたしがこんなこと言うの」
甘ったるい声でそう言って、目を細めてにこりと微笑んだ。うわーこえーよ小悪魔iroha。俺以外の人間だったらとっくに落ちてるんじゃないの?え、何に?恋に決まってんだろ言わせんな恥ずかしい。
「……そうかよ」
「むーもっと慌てふためいてくださいよー。つまんないです」
「そう言われてもな」
俺にはそんなものは通じん。つーか俺にだけって特別感醸し出してるけどさ。文脈的に“お前のことなんかどうでもいいから何でも言えちゃうんですよ”、って取れちゃうけどね!ははっ。
「それはそれとして、これ開けてみてもいいんですか?」
「いいけど、返品不可で頼む」
「そういうこと言っちゃうのはポイント低いですよー」
どこぞの妹のようなポイント制度は女子の間では普通なのだろうか?たしかに小町以外でも、たまーに街行く女性たちが言っているのを聞いたことがある気がする。
そんな思考をよそに、一色は袋の中をあらためるとひっくり返して中身を手の平に落した。
「ブレスレットですか」
「まぁ、そうだな」
細いレザーを編み込んだブレスレット。一色はへーと声を漏らしつつ、それを両手で持って細部を確認していた。
「なかなか良さげですね。ちなみになんでこれをチョイスしたんですか?」
「ああ。お前いつも袖口余らせてるだろ? これなら身につけても目立たなさそうだった……から?」
「へっ? つ、つまりそれは学校に行く時でも毎日着けてきて俺のことを忘れないで欲しいアピールですかちょっと意識しすぎで気持ち悪いのでそういうのはまず彼氏になってからにしてもらってもいいですかごめんなさい」
「ちげぇよ……」
欠片もそんなことは考えなかったが、俺の言い方だとそう捉えられかねない……のか?
ぺこりと下げていた頭を上げると、一色はおもむろにブレスレットを左手首に巻き始めた。余らせたカーディガンの、その上から。
「お前、それ」
「えへへーどうですか?」
細い手首に、ピンクのカーディガン。そこに濃いレザーのブレスレットが踊る。ピンク色の刺繍糸が施されたシンプルなデザインが、今の彼女の愛くるしい笑顔とマッチしているように思えた。
「まぁ悪くないんじゃねーの? 知らんけど」
「もう~素直じゃないですね」
「ほっとけ」
狙ったところとは少し違う装着方法をされているが、概ね満足みたいだから良いだろう。
「ね、先輩?」
「あん?」
「これ、わたしの見立てだとそれなりにいいお値段しそうなんですけど……本当にいいんですか?」
先ほどまでとは打って変わって、おずおずした様子で一色は問うてくる。
「気にすんな。大した値段じゃないし、この前世話になったからな。あと、なんだ……」
「はい?」
あーこんなこと言うつもりなかったのに。こんなの絶対おかしいよ。言葉を途中で切った俺を、一色は不思議そうに見つめる。そんな視線から逃れるようにそっぽを向くと、がしがしと頭を掻いた。
「お前、あとちょっとで誕生日だろ。まあ、なんというかその辺も含めてだな……」
一色の誕生日は4月だ。少しだけそこを意識したのは否定できない。言いきって視線を彼女に戻すと、ぽかんとした顔をしているのが目に付いた。
実際、クリスマス生まれの子どもは誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントを一緒にされてしまうらしい。親としては助かるが、子供からしたらたまったもんじゃないんだろう。今の一色の心境は、まさしくそれに近しいのかもしれない。
「でも」
「ん?」
もごもごと言いづらそうに口を動かす。きゅっと握られた方の手首につけられたブレスレットを優しく指で撫でると、ぱっと顔を上げた。
「でも、気持ちは嬉しいです。覚えていてくださってありがとうございます」
「……どういたしまして」
こいつはこう見えて、なんだかんだで礼儀をわきまえているところはある。そんなことを、ぺこりと頭を下げて礼を言う彼女を見てしみじみ思った。
「はいっ。だから1ヶ月後も期待してますね!」
「お前……俺の感心を返せよ」
だから、の使い方おかしくない?どの辺にかかってくるの?一色は楽しそうにけらけらと笑った。
「はーおかしかった。でも先輩が一番のりですねー。わたしの誕生日祝うの」
「そうか? ま、そうか。1ヶ月先だもんな」
「ホントそうですよ。気早すぎですって」
「うんうん、そうだな。ホントそうだ」
「…………」
「…………こんにちは平塚先生」
「こんにちは、一色」
気の抜けた会話をしていたせいだろうか。背後から忍び寄る影にまったく気が回っていなかった。平塚先生はにっこりと一色に微笑む。微笑むが、何故か笑っていないように見えた。目が怖いよ先生!
「一色。入学式の挨拶はどうするか決まったのか? 今日中に私のところに原文を持ってくる話になっていたと思うが?」
「あーえっとーもう大体出来てるっていうか、最終チェックの段階なんですよー」
「ほう。最終チェックの段階に入っているのに、会長自身がこんなところで油を売ってていいのかね?」
「よくありません! すぐに! すぐに戻ります!」
「よろしい。行きたまえ。私は職員室で待っているからな」
「はいっ! あっ、先輩どうもありがとうございましたー。また遊びに行きまーす!」
「お、おお」
返事を聞き終える前にはぴゅーんと走り去って行ってしまった。そんな後ろ姿を見て、平塚先生はやれやれと深い息を漏らす。
「……俺が時間作ってもらってたので、あんまり怒らないでやって下さい」
「わかっているさ。ほぼ内容は練られていると副会長からは聞いているからね。心配ないだろう」
「はぁ、それなら」
ナイスフォローだ副会長。あとは一色の言う通りで、去年のものをある程度踏襲できればそんなに難しいことじゃないだろう。
「それよりもだ。君がそういう気遣いをできるようになってくれて私は嬉しいよ」
「別にそんなんじゃないっすよ」
今日一色を訪ねていったのは俺の方からだ。だから事実を述べただけで、そこにそれ以上の意思は介在していないつもりだった。そんな言葉を受けて、平塚先生はこちらを見据える。柔らかく浮かべられた笑みがどこか見透かされているような気がして、たまらず身を捩った。
「ところで比企谷」
「なんですか?」
「もう答えは出せたかね?」
どう解釈すればよいのだろうか。ただ、先生の言わんとした言葉にどんな意図があったとしても、俺の回答は変わらない気がした。
「自信がないんです」
「それは何に対して?」
「や、なんつーか……正解かどうかというか、これでいいのかって思うんですよ。こんな単純なものなのかって」
「ふむ、なるほど」
俺なりに考えていた。
これはどこか間違っている。正さないといけない。わかっていたのに。それでも何もせずに、否、何も出来ずに過ごしてしまった理由を。
その理由はどこまでもシンプルだ。だからこそ、これが本当の理由かどうか自信が持てずにいた。
「私には正解かどうかはわからない。けどね比企谷。その答えは君が君なりに考えて出した答えなんだろう?」
「それは、そうですが」
「ならそれでいい。考えて考えて考え抜いて、残ったものが君の答えだ。何も複雑に考えることはないよ」
以前も似たようなことを言われた。それでも、惑う。
理由を考えて、行動を起こして。それで正しい方向に進める確証が得られないからだ。何も言えない俺に、先生は再び優しげに語りかける。
「逆に聞こうか。答えが複雑で難解だったら。それなら君は納得するか?」
「……しませんね」
「そうだろう? だったらいいんだよシンプルで。たったひとつの空欄を埋めるのに、長ったらしい口上は必要じゃない」
「……なんか先生語りますね。まさか酒入ってないですよね?」
「馬鹿もん、教師が昼から飲むか。素面に決まってる」
夜は飲むがねと、クイッとお猪口を呷るジェスチャー。俺が入れた茶々に茶目っけを交えて返すその姿に、ふたりして笑みが零れた。
「これから部活へ行くんだろう?」
「ええまあ」
「そうか。しっかり励みなさい。3学期ももう終わりだから、今を無駄にしないように」
「了解っす。あとそうだ、ラーメン食いに行く約束忘れてないっすよね?」
「……もちろん覚えているが。どうしたんだいったい?」
ま、先生が1番喜ぶものといったら結婚とかだろうけど。流石にそれは叶えてあげられないからね。仕方ないね。
「まあ深い意味はないんで気にしないでください。なりたけでいいですか?」
「うむ、それなんだが。最近千葉と津田沼に少し飽きてきてな。本八幡を開拓したいんだが良いか? もちろん車は出す」
「良いんじゃないですかね? あと、となりの市川駅前にもなりたけで修業した人が出してる店があるらしいですよ」
「なに? ふーむそっちも気になるな。両方行けるか?いやでもさすがにカロリーが……」
先生はあごに手を当てなにやらカロリー計算を始めた。しかしあの見た目だからなぁ……正確なカロリーは知るのが怖いまである。なりたけは千葉県民御用達。いまや千葉を飛び出て錦糸町、池袋、名古屋、果てはパリにも出店している超人気ラーメン店である。(ステマ)
いつかは俺もパリたけに行ってみたいなぁと思う今日この頃。
あ、でも趣味にステータス全振りな先生ならマイルとか使ってすぐ行けちゃいそう。もしくは結婚してハネムーンでパリ行って……新婚旅行でラーメンってどんだけだよ。
そこまでリアルに考えても、肝心の結婚像が見えてこないのがこの人の残念たる由縁だろう。こんなに良い先生なのにわからんもんである。先生、とりあえず婚活頑張って!応援してますからね!
× × ×
今日はこのあたりで
>>195の最後にいろはのセリフが入るのに抜けてました
「これ、わたしの見立てだとそれなりにいいお値段しそうなんですけど……本当にいいんですか?」
先ほどまでとは打って変わって、おずおずした様子で一色は問うてくる。
「気にすんな。大した値段じゃないし、この前世話になったからな。あと、なんだ……」
「はい?」
あーこんなこと言うつもりなかったのに。こんなの絶対おかしいよ。言葉を切った俺を、一色は不思議そうに見つめる。そんな視線から逃れるようにそっぽを向くと、がしがしと頭を掻いた。
「お前、あとちょっとで誕生日だろ。まあ、なんというかその辺も含めてだな……」
一色の誕生日は4月だ。少しだけそこを意識したのは否定できない。言いきって視線を彼女に戻すと、ぽかんとした顔をしているのが目に付いた。
「誕生日って……まだ1ヶ月先ですよ? それになんかホワイトデーの抱き合わせみたいで納得できません」
これで文脈がおかしくなくなると思います
以下続き投下していきます
眩しさから目を細めた。
特別棟最上階へ至る階段の踊り場には、強い西日が差しこんでいた。紅々とした夕陽がうごめくように地平線に沈みこんでいく。
もうこんな時間なのか。少し遅くなってしまったか。早く行かないと。そう思ってみても歩みは遅かった。
もう1度、目を細めて夕陽を眺める。眩しいものを見る時に、たまらず目を細めるのは仕方のないことだ。身体構造上避けられないことなのだ、これは。
ただ重要なのは、完全に目を背けないことだ。
目を逸らしてしまっては、正しい形を捉えることなど出来ないからだ。だからこそ、しっかりと。眩しさから目を背けてはいけない。
階上に辿りついた。その頃にはやはり微妙な疲労感が脚に残っていたが、黙ってそれを引きずって歩く。そうすると、いつもの扉が見えてきた。安堵と不安が同居するような、そんな奇妙な感覚がして思わず扉の前で立ち止まる。心臓が締め付けられるように痛い。何を緊張しているバカめ。
はぁ、と大きく息を吐いてからぐっと力を込める。扉は案の定、何の抵抗もなくするりと開かれた。
「あ、ヒッキーだ。やっはろー」
「こんにちは。やっと来たのね」
「悪いな。平塚先生と話してたら遅くなった」
いつも通りピンと伸びた背筋の雪ノ下と、脚をだらんと投げ出してリラックスしている由比ヶ浜。
そのふたりの言葉にコートを脱ぎつつ答えて、定位置となっている椅子に深く腰掛けた。
「平塚先生と? 何の話してたの?」
「あー、まあ色々な」
ラーメンの話とか、ラーメンの話とか。まあ色々だ。
「言葉を濁すようなことを話していたのかしら。 紅茶はいかが?」
「大したこと話してないっつーの。サンキュ、貰うわ」
「かまわないわ。ちょっと待ってて」
そう言うと、雪ノ下は立ち上がっていそいそとお茶の準備を始める。保温のために被されていたティーコーゼを外すと、それだけでふわりと紅茶の香りが部室に広がった気がした。
紅茶を注ぐ雪ノ下の背中を首だけ巡らせて見ていると、左側から視線を感じたのでそちらをちらりと見やる。
「……なに、どした?」
「べ、別になんでもないし! ヒッキーのことなんか1ミリも見てないし!」
「ひでぇ……」
嘘つけ見てたじゃねーかよ、思いっきり目合ったし思いっきり逸らされるし……。
「あ、ご、ごめん。言いすぎ、だったかな?」
「気にしなくていいぞ。俺レベルにもなると目に毒どころか普通にバイキン扱いだからな」
比企谷菌恐るべし。なんたってバリアをも貫通するレベルらしいからな。(体験談)
「ヒッキー……うん、ごめん」
おいそんな哀しそうな目で見るな涙が溢れそうになっちゃうだろうが。
「自信満々に話すことではないでしょう? はい紅茶」
とん、と軽い音がして見慣れた湯呑が置かれた。その元をたどっていけば、やれやれと呆れた顔をした雪ノ下と目が合う。
「……サンキュ」
「どういたしまして」
短く返して、俺の対角線上にある定位置へ戻っていく。湯呑を手に取って息を吹きかけていると、ふと机の上のお茶菓子が気にかかった。
「それどうしたんだ?」
「これ?」
由比ヶ浜が、机の上の木の皿に盛られたクッキーを指差す。不揃いで、焼き加減にも濃淡が多い。お世辞にも綺麗な出来とは言えないそれは手作り感満載で、どこか既視感を覚える見た目でもあった。
「あなたが来る寸前に貰ったの。由比ヶ浜さんから」
「やっぱり由比ヶ浜からか。え、食べて大丈夫なの? 腹壊したりしない?」
「どんだけ失礼だし! 大体ヒッキーは、先月も……あたしのクッキーあげてる、じゃん」
どんどん声が絞られて、最後はぽそっとした呟き声しか聞こえない。由比ヶ浜は、少しバツが悪そうに笑った。
「……ま、それもそうか」
「…………うん、そうだよ」
その笑顔はあの日を想起させる。
紅々と照らされたデッキと、打ち付ける波音。ちらちらと降る雪に反射する西日と、泣き出しそうな笑顔。ミスマッチだと思った。けれど、そんな顔にしてしまっているのは、他でもない俺だ。
かちゃりと、カップがソーサーに置く音が響いた。雪ノ下は少し俯くように顔を逸らすと、そっと右腕で肩口を抱いた。その様は、どこか身構えているようにも見える。
きっと口にはせずとも、誰もがあの日のことを思い出している。
由比ヶ浜結衣が願った形。雪ノ下雪乃の抱えた想い。比企谷八幡が求めた何か。
それらを反故にして、今の俺たちはここにいる。いつか、また今度と、そうやって先延ばしにしてきた結果なのだ、これは。だから、誰も責めることなど出来はしない。
「……なんつーか悪い。ちょっと悪ふざけというか、失礼だったな。すまん」
「あたしは気にしない、けど」
自らの失言を悔いた。顔色を伺うというわけでもないが、この状況下においては幾分軽率すぎた。誰もそれ以上口を開かない、嫌な沈黙。だから、それを嫌ってついつい言葉の接ぎ穂を探してしまう。
「あー、ちなみになんでクッキー作ってきたんだ?」
はっとした。発言した後に、すぐに気が付く。雪ノ下は由比ヶ浜に貰ったと言った。加えて、今日という日付を考えれば、聞かずとも答えには結びつく。
「それは……ねぇ、ゆきのん?」
声を掛けられた雪ノ下の肩がぴくりと動いた。もぞと身体を動かして、俯き気味だった顔をようやっと由比ヶ浜の方に向けると、恥ずかしそうに口を開いた。
「今日は、世間でいうホワイトデーでしょう。だから……バレンタインのお礼で、間違いないかしら?」
「うん。あたり」
由比ヶ浜は穏やかに、にこりと微笑む。それにつられて、雪ノ下も強張っていた顔を少しだけ崩した。
バレンタインデーとホワイトデー。
バレンタインは、想いを伝える日。だとすれば今日は、想いを返す日だ。伝えられた何かに答える日だ。だからこそ悩んでいた。
伝えられたものの大きさが量りきれないから。
それに見合うものを返せる自信など持てないから。
お返しで大切なのはものじゃない。気持ちを込めることが重要だと誰もが言った。その言葉の意味を忘れてはいけない。俺が、俺なりの言葉で、彼女達に伝えなくてはならない。
「……ちょっといいか」
雪ノ下も由比ヶ浜も、くるりとこちらを向いて不思議そうな表情を浮かべる。脚元に置いてあった鞄をごそごそとやり、目的のものを取りだした。それをまず左隣に腰掛ける由比ヶ浜へ差し出す。
「話の流れと言っちゃなんだが。これ、由比ヶ浜に」
「ヒッキー…………ありがとう」
由比ヶ浜は片手で包みを受け取ると、それを大切そうに両の手で胸の前で抱え込んだ。次いで雪ノ下を見やる。表情は硬い。まるで、見てはいけないものを見てしまったような、そんな顔にも見えた。立ち上がって、俯いた彼女の前まで進む。
「あと、これは雪ノ下に」
「…………え?」
半開きの口から心底わからないといった声を上げて、差し出した包みを見つめる。
「なんだよ。いらないのか?」
「いえ、でも私は、渡さなかったのに」
「クッキー貰っただろ。あれで十分だって」
「けれど、わたしには……」
その言葉の続きは、はたして何だったのだろうか。その先を聞く前に、雪ノ下は再び俯いてしまった。肩が強張っている。その先の拳は固く握られ、膝の上に鎮座していた。
「ゆきのん……」
由比ヶ浜の呼びかけにも、雪ノ下の反応は鈍い。雪ノ下は真面目な人間だと思う。無用な施しを受けることを嫌う。それは、彼女のそうありたいと願う形で、それを否定することなど出来ない。
「雪ノ下、聞いてくれ」
「なに、かしら?」
「お前さ、自分には受け取る資格なんてないとか考えてるんじゃないか?」
「それは……」
理詰めの人間を動かすには、理由が必要なのだ。無用などではなく、正当に対価を受け取るための理由こそを彼女は求めている。
だから、俺がするのは単なる説得だけではない。雪ノ下に理由を与えて、納得してもらわなければならない。
「いいか? 1度しか言わないからな。由比ヶ浜も聞いてくれ」
「え? う、うん」
由比ヶ浜も居住まいを正した。ふたりを真っすぐに見据えるこの構図は、まるであの日をもう1度やり直してるんじゃないかと錯覚しそうにさえなった。
息を吸って、吐く。そして手に力を込めた。
「感謝してる。いつもありがとう。だから、受け取って欲しい」
俺が人に理由を与えるなんて、酷くおこがましい事だ。これはただの願望で、感謝の押し売りにしかならないかもしれない。けれど、それでも受け取って欲しいと思った。だって感謝しているのは本当のことだから。それを、彼女らに伝えたかったから。
「比企谷くん。私は……」
「ねぇ、ゆきのん?」
「由比ヶ浜さん?」
それでも迷う雪ノ下に、由比ヶ浜は優しく微笑みかける。
「受け取らない理由を必死に考えちゃだめだよ。それはヒッキーに対しても、誰に対しても失礼だと思う。だから、ゆきのんが受け取る理由を考えなくちゃ」
「私の理由?」
「そう。ヒッキーはゆきのんに感謝してるんだよ。だから、それを理由にしちゃダメ、なのかな? 何に感謝してるかなんて教えきれないから、説得力ないかもだけど」
「まぁそういう事だ。そもそも、受け取って貰わなきゃ俺が困る。これ選ぶのに時間も金もかかってるし。お前が受け取る理由がなくても、渡さなきゃ困る理由が俺にだってある」
「ヒッキー……それは言っちゃダメでしょ」
由比ヶ浜はシラッとした目つきでこちらを睨んでくる。やけくそ気味だが、おおむね事実だ。渡せなかったら渡せなかったで完全に持て余すし。もはや東京湾に投げ捨てるしかない。
「……暴論ね」
「そうだな」
「けれど、あなたらしいわ」
雪ノ下はくすりと笑ってそう言うと、ようやく顔を上げてこちらを見上げた。
「比企谷くん」
「ああ」
「ありがとう。受け取るわ」
「おお、助かる」
俺の手から、差し出された彼女の手へ。たったひとつのやり取りにどれだけの時間を要しているのだろうと考えると、少し呆れてしまう部分もある。
だが良いじゃないか。諾々としたやり取りでなくても、そのせいで時間が掛かっても。
そこには、必ず意味がある。
今日はここまでで
「あと、もうひとつ。言ってなかったことがある」
手渡した時にふと思い出した。ホワイトデーといえば、彼女らに伝えていなかったことがある。
「なに? どうしたのヒッキー」
「変にあらたまってどうしたのかしら?」
「ほっとけよ。……戸部が今日、海老名さんに告白するらしい」
この事実を彼女らに今更伝えてどうこうなるわけでもない。何かが変わるわけでもない。由比ヶ浜に至ってはクラスでの関係上、既に知っている可能性だってある。けれど、どこか伝えないことに後ろめたい気持ちもあった。事実の共有こそが、真摯に現状に向き合う姿勢であることに違いはないはずだから。
ふたりを交互に見やる。呆気にとられた様子ではある。が、予想していた反応とは少し違っていた。
「……ヒッキーも知ってたんだ」
「も、ってことはお前も知ってたのか」
「知ってたよ? 同じクラスで同じグループだし。それに、ね」
「私も知っていたわ」
「……雪ノ下もか。由比ヶ浜から聞いたのか?」
俺の問い掛けに、雪ノ下はふるふると首を横に振る。じゃあ一体どこで?と聞く前に、雪ノ下はその疑問に答えてくれた。
「あの時。彼が、葉山君に連れられてこの部室に来た時よ」
「俺が葉山に外に連れ出された時か」
「そうね。その時で間違いないわ」
あの俺がいない空白の時間。雪ノ下と由比ヶ浜からアドバイスを受ける中で、戸部はふたりに対して告白の事実を告げたらしい。
「けど、そんなことがあったってあの時一言も言わなかったじゃねえか」
「あなただって今まで言わなかったでしょう。同じことじゃないかしら?」
視線が交錯する。荒くなった語調に呼応するように、雪ノ下の言葉には鋭さを感じた。
「ヒッキーもゆきのんもそうじゃないでしょ。ちゃんと話し合おうよ、ね?」
「……だな」
「……いえ、こちらこそごめんなさい」
「うん、あたしだって、わかってても言わなかった。だからごめん」
「いや別に謝らなくても……そういう話でもないだろ」
誰が悪いとか責任があるとか、そういうことではない。
事実をわかっていても伝えなかった理由はある。なんとなく濁して誤魔化してしまったとしても、少なくとも俺には理由があった。それは目の前のふたりも同様なんだろう。理由なくして人は動かず。結論、3人が3人とも何かを思って言わないという結果に至ったのだ。
「そうかもしんないけど……でも、でも」
言いづらそうに由比ヶ浜は言葉を切った。そのまま盗み見るように、隣の雪ノ下にちらりと視線を送る。
「……少なくともあなたに悪意があって伝えなかったわけではないの。それだけはわかって欲しい」
戸部が告白する事実をあの場で伝えられなくとも、俺には利益も不利益もない。
ふーんそうなのかと、事実を確認するだけに過ぎない。だから、悪意や害意がないことは容易にわかった。
「それはまぁ、わかるけど。じゃあなんで?」
「…………あたしは、イヤだったから」
「……どういうことだ?」
ヒーターの排気音しか聞こえてこない静けさのなか、ぼそりとした呟きははっきりと届いた。
「だって、あの時みたいにまたなるんじゃないかって……それが不安で、だから」
ゆっくりと、まるで言葉の意味を噛みしめるように由比ヶ浜は心中を吐露した。
酷く曖昧で、具体性も何もない。けれど由比ヶ浜の表情は雄弁に語る。同じ轍を踏まないで欲しいと。
「……アホ」
「あ、アホってなんだし! あたしなりに心配したんだから」
「俺があいつの告白の邪魔する理由がないだろ、今回の場合」
前回のあれは依頼があったからだ。依頼がなければ、そんなことをする理由も必要性もない。
「それに言っただろ? ああいうことは、もうしないって」
行動を起こさないことは怠惰だとか、否定的に捉えられることがある。けれど、いつだって行動することが正しいとは限らない。行動を起こすこと自体が、物事をより悪い方向に導くことだってある。やがて何もしなければ良かったと思い返す日もくるだろう。それは往々にして辿ってきた道筋の中で学んだことだった。
ただ、そうした理屈以上に約束したのだ。
ああいうのはもうやめると。だから、今回はそれに従うのみだ。
「ヒッキー……ありがと」
そう言う彼女の表情は少しだけ綻んだ。けれど、憂いを帯びた瞳は変わらなくて、何かを堪えるように手に力を込めたのがわかった。
「あの時、というのは多分、修学旅行の時だけではないでしょう?」
由比ヶ浜が驚きの目を雪ノ下の方に向ける。それを見て、雪ノ下は薄く微笑んだ。
「だって、私だって同じ気持ちだったから。だから、なんとなくわかるの」
「ゆきのん……うん」
ふたりのやり取りを聞いていて、俺もなんとなく理解できた。
由比ヶ浜が言いたかったあの時とは、きっと修学旅行以降のことだ。
あの時間に戻らないことを由比ヶ浜も雪ノ下も望んだ。それを望んだのは彼女らだけではない。俺だってそうだ。
一色いろはに聞かされた戸部の告白という事実が、彼女らに伝わって欲しくないと直感的に思った。その理由は、ここ1ヶ月の停滞した俺たちの関係性を是正したくとも出来なかった、至極単純な理由に酷似している。
大切だから。
失いたくないから。
壊してしまいたくないから。
だから、大事に大事に。表面をなぞるだけになってしまっていた。
いつしかそれは、遠くから眺めるだけの眩しかったものに変わっていく。やがて思い出したとしても、そこには後悔がつきまとうのだろう。
「お前たちの気持ちはわかった」
後悔したくないのならば、そうならないための方法を探すしかない。
そして、俺の取る道はひとつだ。
「けど、現状はどうだ?」
俺たちに足りなかったのは、問題提起だ。誰かが言いださなくてはいけない。そこから目を逸らさないために雪ノ下と由比ヶ浜に正面から向き合って座った。ふたりを見ても、視線は机に縫いつけられたように動かないままだ。
「俺は、少なくとも今のままじゃ駄目だと思う」
「……なんで? ゆきのんの淹れてくれた紅茶飲んで、おしゃべりして、毎日楽しいじゃん?」
「それを否定する気はない。けど、このままで居続けるのは違うだろ」
苦痛を堪えるように、由比ヶ浜は唇をぎゅっと引き結んだ。ついで雪ノ下を見やる。
「雪ノ下、どう思う?」
「どうって……?」
「これから俺たちはどうするかってことだ」
それ以上は何も言わずに、ただ視線を送る。威圧しているわけではないのに少しづづ肩がしぼみ、やがて逃げるように視線を逸らす。
雪ノ下は選べない。いや、選べなくなってしまった。
そうなったのはいつからだろうか。時期は定かではないけれど、原因には心当たりがあった。
ひとりで選べないのは、頼るという選択肢があるからだ。そして選択肢が増えれば増えるほどに人は迷う。
かつて雪ノ下の世界には、雪ノ下しかいなかった。問題に直面してもひとりで解決するしかなかったし、彼女にはそうするだけの力量が備わっていた。
いつしか広がった世界で雪ノ下はまだ惑っている。不安だから意見を求めるし、時に誰かに答えを委ねそうになってしまうのだろう。
「私は……」
それでも精一杯、雪ノ下は強くあろうとしている。そうでなければ口を開かなければいいだけだから。選べない今の彼女に答えを強いるのは酷なことかもしれない。けれど、そうでなければ先には進めない。
「私だって、今の時間が楽しいとは思う。けれど……」
「けれど?」
「今の時間がずっと続く確証なんてどこにもない。 それに、私たちの今後のあり方はすぐに結論付けられるものでもない、と思う」
雪ノ下が言うのは至極当然なことだ。ここで結論付けしたところで無意味だし、そもそも人の関係性に結論など出せるのだろうかとさえ思う。
人との交わりに永続性はない。一般的に進級、進学や就職で人間関係は容易く変わるし、意図しないタイミングで繋がっていた糸がぷつりと千切れてしまうこともある。由比ヶ浜と相模が好例だ。グループが変わるだけで立ち位置は変わり、同じクラスにいても両者の交わりは見ない。
ただそれでも、関係を維持し続けるためだけに多大な努力を払い続けるのはまちがっている。
顔色を見て話して、面白くもないくせに無理に笑って、なんとなくそこに居続けるための行為。見下していた。自分がそのグループから脱落しないための、打算的な思惑が透けてみえるからだ。そんな紛いものに、意味なんてないのに。
「俺だって……そうだ」
「比企谷くん?」
「俺だって、そう思う」
しかし、こうも思う。本音をぶつけ合うだけの関係は、正しいのだろうか?と。
思っていることを全て言葉にして、それでも変わらず居続けることなんてきっと出来ない。
お互いがお互いを想えばこそ言えない事もある。言わないことが優しさで、伝えることは酷なことだってあるはずだ。
それでも、時に本音で話すことは間違いではない。ここぞという時で使うべきだ。
だから今が、ちょうどその時なんだろう。
「けど、今のままなぁなぁで進級して、それで、それで俺たちは……」
どうなるんだろうか?それ以上は熱い吐息が零れるだけで、声にならなかった。
どうしたらいいのかなんて、誰に問うても答えが返ってくるはずもない。わからないからこうなってしまっているのだから。
その場に留まったままの、前にも後ろにも動かない今の俺たちの関係性を象徴するように、誰も声を発しなかった。だからこそ、音のない部室に響いた騒がしい足音とノックははっきりと俺たちの耳に届けられる。
思わず3人とも顔を見合わせる。そうしているうちに、トントンともう1度音が奏でられた。
「……どうぞ、開いているわ」
部長である雪ノ下が仕方なしに入室を促すと、がらりと勢いをつけて扉は開かれた。
今日はここまでで
あと1,2回の更新で終わると思います
「ちぃーっす!」
「お前かよ。帰れ」
「ちょ! ヒキタニくん当たり強くね!? ご機嫌ナナメ?」
「戸部っち……マジ空気読めし……」
由比ヶ浜の小さな呟きは聞き取れないようで、襟足をがしがしと弄りながら部室内へ歩みを進める。えー……マジでなんつータイミングだよ。
戸部はパナイわーとか、ヤバいわーとかよくわからないことを言うだけで、具体性のあることは中々口にしない。
「日本語を喋ってくれないかしら? 早く用件を言いなさい」
「雪ノ下さんも当たり強くね!? ちょっとは浸らせてくれてもいいっしょー」
「はぁ……」
何に浸るんだか。雪ノ下は頭痛をこらえるようにこめかみに手を当てる。
つーか雪ノ下を黙らせるとか戸部地味にすげーな。まぁ今はそんなことどうでもいい。
「お前ホント何しに来たの?」
「それそれ。それな」
指をぱちりと鳴らしてこちらを指差す。
「……いいから言えっての」
「わりわり。俺今日、つーかさっき? 海老名さんに告白したわけよ。あれ、この話ヒキタニくん知ってたっけ?」
「ああ。知ってる」
「ならいいや。あん時ヒキタニくんはいなかったけど相談乗ってもらったりしたからさ。一応報告的な?」
「はぁそういうことか」
意外と律儀だなこいつ。仮に俺が告白したら家に帰って枕を濡らすまである。振られること前提かよ。自分で言ってて虚しくなるわ。
由比ヶ浜は自分の作った焼き菓子に手を伸ばし、雪ノ下は無表情で紅茶を啜っていた。少しは興味持ちましょうよ?クライアントからの結果報告ですよ?おっといかんいかん意識がちょい高になってた。
「で、結果は? 振られた?」
「あなたも失礼ね。概ね予想は出来るけれど」
「ヒッキー酷いしゆきのんも微妙に酷いよ!? もうちょっとこうオブラートというか……」
えーだって事実だし。それよりも由比ヶ浜がオブラートを正しく使えたことが驚きだ。つーか、お前だって振られると思ってる言い方だからなそれ。
しかし俺たちのひどい物言いにも、戸部は不敵に笑うだけだった。え、いや、まさかね?
雪ノ下も由比ヶ浜もそれに気が付いたようだ。よくわからない緊張感の中、ただ戸部が話し出すのを待った。
「俺、言われちゃったわけよ」
「……なんて?」
ごくりと喉が動くのを感じた。戸部はぐっとサムズアップすると、にかっと笑った。
「考えさせて、だってよ! いやー俺の時代マジきてるわー!」
「うええーー!! マジで!? 戸部っちすごいじゃん!」
喜びを爆発させるように言い放った戸部に、由比ヶ浜はぱちぱちと手を叩いた。そんな光景に相対するように、雪ノ下は懐疑的な視線を送る。
「そんなに喜ぶことなの? 」
「だってさ、姫菜誰とも付き合う気はないって言ってたんだよ? それ考えたらすごくない?」
「それ! ホントそれな! コレきてるっしょ!」
「そう言われれば……そうなのかしら?」
そうなのか。……そうなのか?引っ張るだけ引っ張って振られた時のダメージは計り知れない気がするけどな。こうあって欲しいという期待を裏切られるのは、きっとなによりも辛いことだ。だから、安易には喜べない気がした。
「回答の期日はあるのか?」
「いやぁ、特には。舞い上がってたからそこまで考えられなかったわ」
「ふーん……そうか」
しかしまあ一体何があったのやらと考えていると、由比ヶ浜がちょいちょいとこちらを手招きする。何だ?と目で問えば、こっちに近づけとジェスチャーしてきたので、仕方なしに身体を近づけた。由比ヶ浜は身を乗り出して、ぽそぽそと耳元で呟く。柑橘系の匂いがふわりと鼻孔に届いて、それがどうにもこそばゆい。
『姫菜何があったんだろうね? ヒッキー知ってる?』
『さぁ? そもそもお前の方が仲良いだろ』
『そうだけどさ。あたしは何も聞かなかったなぁ』
普通こういう恋愛系の話って鉄板トークネタじゃないの?女子にとっては。
海老名さんの心境がどんなものか窺い知る事はできないが、何かしらの変化はあったはずだ。変化がなければ修学旅行と結果は同じになるはずだから。
そんな彼女に、戸部は歩み寄ることに成功したことに違いはない。だが。
「なぁ。もし振られたらどうするんだ?」
いつかした問いかけと同じだ。
失敗したら今のままではいられない。成功してもあのグループの形は変わる。
戸部は顔をしかめてあー、とかうー、とかひとしきり唸ると、ぶんぶんと顔を横に振って言った。
「まあそん時はそん時だけどさ。ゆーてもあんま変わらないと思うんだよね」
「あのな、普通気まずいと思うぞ」
「最初そうなるかもしんないけどさ、まあなんとかなるもんでしょ。つーかそれ気にしてたら告るとか出来なくね?」
「あなたはそう思っても、彼女は気にするのではないかしら?」
「あー……」
雪ノ下の正論に戸部は言葉を詰まらせる。遠慮して、愛想笑いを浮かべて、いつしか距離が開く。クラス替えなどすれば決定的だ。結末は容易に想像できる。そのリスクをわかっているのだろうか。
しかしそれも束の間、変わらぬいつもの調子で戸部は振舞う。まるでそうすることが当然かのように。
「だってさー……やっぱ本気で好きだったら簡単に諦めらんないって」
何気ない言葉なんだろう。人によっては身勝手とも取られるかもしれない。
けれど、どこまでも単純で、真っすぐで。だからこそ考えさせられる。つい柄にもないことを想い浮かべても、終ぞそれは声にできなかった。声にならないのは由比ヶ浜も雪ノ下も同じで、3人が3人とも口を閉ざす。戸部は俺を見て、人好きのする笑顔を浮かべた。
「ヒキタニくんにあの時言ったっしょ? 負けねえからって」
「……ああ」
「ま、そういうことなんだわ。俺さ、やっぱ負けねえから」
戸部はリスクを払った。
葉山はそれを信じると言った。このままでいたいと願い、そして願われた葉山は、あのころより少し変わった。では海老名さんは? 今の居場所が好きだと漏らした彼女の想いは、あれからどう変わったのだろうか。
ぬるま湯につかっていれば良かったと後悔するかもしれない。
けれど、現時点では駄目でも、未来ではどうなるかわからない。
戸部は可能性を信じた。そして、最後まで信じ続けるのだろう。受け入れられる、その時まで。
「……勝てるといいな」
「おっ。やっぱヒキタニくん良いやつじゃーん」
「そんなんじゃないっつーの」
あくまで一般論だ。負けるよりは勝った方が良い。所詮それだけのことだ。戸部は晴れやかな笑顔を浮かべると、踵を返して俺の肩をぽんと叩く。
「そういうことにしとくわ。んじゃ、また明日~」
誰に言うでもなく言い残して戸部は出ていった。すっかり興がそがれた俺たちを置き去りにして。
「……あー、なんというか」
「うん……」
「ええ……」
何となしに顔を見合わせた後に待つのは沈黙だった。しかし、あまり気まずさはない。
戸部のせいか戸部のおかげかわからないが、どこか弛緩した空気が残されたままだ。
だから頭を悩ます雪ノ下と、どうしたものかと首をひねる由比ヶ浜に対してつい笑みが漏れた。
「ヒッキー?」
「真面目な話をしていたと思うのだけれど……こうなってしまうとね」
「だな……」
「あー……今日のとべっちはいつにも増して空気が読めないというか、なんというか……」
はぁ、と溜息が重なった。そうして顔を上げて目を合わせれば、くすりと笑みがこぼれる。
多分だけど、今俺たちが考えていることは同じことなんだろう。
「今日は解散にしましょうか」
「……それは先延ばしにするってことか?」
雪ノ下は軽くかぶりを振る。
「結果的にそうなるけれど。少しだけ、少しだけ考える時間が欲しいの。だって、とても大切なことだと思うから」
雪ノ下は胸に手を当ててきゅっと握り込んだ。一理ある。答えを急ぐつもりはない。それでも、急ぎすぎなかった結果が現状なのだ。だから何かしらの対策は必要になる。
「だったら期限を設けるか。明日まで、とか」
「私はそれでかまわないわ」
「わかった。由比ヶ浜はどうだ?」
「うん……わかった。あたしも考える」
「悪いな。俺のわがままだ」
「ぜーんぜんそんなことないよ。だって、ヒッキーだけの問題じゃないんだもん。だから……もう一度、ちゃんと考えるから」
「……助かる」
手早く身支度を整えて、部室をいつもより少しだけ早めに出る。まだ赤い夕陽の残照が残る廊下で、由比ヶ浜がこちらに向かってくるりと回った。
「ね、ヒッキー。これありがとね。家で開けた方が良い、よね?」
手元を見れば、先ほど俺が手渡した包みを未だに大事そうに握っているのがわかった。
「そうしてくれ。今開けられても、な」
「うん、だねぇ。楽しみだなー何かなー」
「……あんま期待すんなよ」
「あはは、でも期待しちゃうから」
不意にがちゃりと施錠の音が聞こえた。そちらを見れば雪ノ下が鍵を手にしたまま、何かを迷うようにもじもじと身体を揺らしている。
「ゆきのん? どしたの?」
「えっと、その……」
ちらちらとこちらを窺うその姿は、どこか小動物のようにも見える。
ここまで歯切れが悪いのも珍しいなと思っていると、雪ノ下は意を決したようにこちらに正対して口を開いた。
「ひ、比企谷くん」
「……なに?どうした」
「私も……その」
「あん?」
「あ、ありがとう」
雪ノ下は緩めに巻いたマフラーを意味も無く口元まであげて、ふいっと窓の外の夕陽を望む。彼女の顔が紅く見えたのは、きっと夕陽のせいだけではない。俺の顔だって人のこと言えないんだけど。
「お礼ならさっきも聞いたって」
「……こういうことは何度言ってもいいと思うけれど。ダメかしら?」
「ただのお返しだから気にすんなよ。でも、あれだ……」
「?」
「……どういたしまして」
「……ええ。ふふっ」
今日3月14日に答えを出すことは叶わず、明日へと持ち越しにはなった。
明日やろうは馬鹿野郎。そんな言葉を誰もが1回くらいは耳にしたことがあるはずだ。
基本的に、今すべきことを明日に持ち越すのは愚策で、俺たちはその愚かしい行為を繰り返していたことになる。
けれど、明日はほんの少し違う。
大きな歩幅でも、小さな歩幅でも、一歩は一歩。進む距離が違うだけで、前に進むことに変わりはない。だから、やがて辿りつけるんだと思う。
行き着く先さえまちがえなければいい。
そうすれば、今までの一歩は決して無駄にはならないのだから。
次回の投下で終わると思います
× × ×
「はろはろ~」
「…………うす」
「うんうん、その目だよその目。やさぐれた感じで色々捗るなぁ」
「……なんか用?」
「ううん別に。ただの通りすがり」
ただの通りすがりらしい海老名姫菜はにこりと微笑む。ややもすれば勘違いしそうになるほどで、だからこそこの手の女子は信用ならない。
「誰かと一緒じゃないのか? 三浦とか由比ヶ浜は?」
「わたしだってひとりで行動する時くらいあるよ? ヒキタニくんは?」
「見ての通りだ。つーかわかってて言ってるだろ、それ」
「あははご明察」
「クラスに居づらいのか?」
「んー……それもちょっとあるかな」
考え込む仕草も、宙を眺めるその目にも、何かを隠すような色が見える。原因はひとつしか考えられない。
「……戸部の件か?」
「やっぱり知ってるんだね」
「いや、戸部の場合自分で宣伝してるようなもんでしょ」
「とべっちはわかりやすいからねぇ。そうだ、ヒキタニくんがとべっちを励ましてあげてもいいんだよ? いや、むしろ隼人くんがとべっちを励ましてあげてそれに嫉妬するヒキタニくんの方が……」
「そういうのいいから。いややめてくださいお願いします」
「ふふっ、ざーんねん」
戸部がわかりやすいのは同意だ。ただ、今目の前にいる海老名さんも存外わかりやすい。彼女は話したくない話題になると、こうやって誤魔化そうとする節がある。
「……なあ聞いていいか?」
「?どうぞ」
「どうしてその場で振らなかった? どんな心変わりだよって思ったぞ」
海老名さんは笑みを浮かべてこちらに一歩近づくと、ごく自然に並んで座った。
陽の光に温もりを感じるようになった気候の中、テニスボールが行き交う音が心地よく響く。
「考えたのは本当。考えた結果が現状。それだけだよ」
「いっそのこと清々しく振ってやれば良かったのに」
ソースは俺。興味もない男に変に期待持たせると面倒なことになる。身体ふたつ分開けて座る彼女はこちらを見てくすりと微笑むと、またすぐに前へ向き直った。
「やさしいね、ヒキタニくんは」
「……そんなんじゃない。振られるのはお手のものだからな。経験値が違うだけだ」
「わたしにも振られてるからねぇ」
「あー……ま、そうだな。え? あれってカウントされるの?」
「好きにしたらいいんじゃない?」
「じゃあノーカンだ、あんなもん。で、なんで考えるなんて言っちゃったわけ?」
誰とも付き合う気なんてないだろうに。だからこそ不思議だった。即座に振っても、期間を開けて振っても、結果は同じになるはずなのに。
「やっぱり惜しいな、って思ったの」
「……前聞いたのと同じか」
「うん、だいたいそんな感じ。今の雰囲気が好きで、それを壊したくない。だから、ちょっとした延命措置のつもりだったんだけどね」
今の関係が好きだと。失くすのは惜しいと。その言葉は間違いなく彼女の本心なのだろう。
だがもう後の祭りだ。過去の事案に対策を講じることなど出来はしない。
「でも告白された時点でもうアウトだろ」
告白された時点で、もう今までの関係ではいられない。だからこそ、京都ではあんな回りくどい言い方で未然に告白を防ぐよう依頼をしてきたのだ。
「そうだけど。けど、もう一度ヒキタニくんに頼るわけにもいかないでしょ?」
「そりゃそうだ」
「だから、今回は誰にも頼らなかった。ううん頼れなかった、かな?」
そこで言葉を切った海老名さんの横顔を見つめる。赤いフレームのステム越しにちらりと覗く目は寂しげで、何を見ているのかわからなかった。
「後悔してるのか?」
あるいは、告白の返事さえしなければ、少しくらいの間は今までと変わらず入れたのかもしれない。それが彼女の言うところの“延命措置”だ。
だがそれは、まごうことなく欺瞞だ。人の想いを踏みにじる行為だ。自分だけが一時の安らぎを得たいと願っても、相手という鏡映しが自らの首を絞め続ける。果たしてそれは延命措置と呼ぶには程遠いものだ。そのことを海老名さんはわかっていたのかもしれない。
だからこそ、彼女は早々に答えを出した。
「後悔なんて、あるはずないよ」
「……そうか」
「うん。それに、わたしには後悔する資格なんてないから」
そう断ずる声には力がなくて、ともすれば昼休みの雑音にかき消されてしまいそうだった。
「後悔するのに資格も何もないだろ。勝手にすればいい。俺みたいに」
「例えば?」
「あーあれだ。人と会話したあととかに、ああ言えば良かったー、こう言えばキモがられなかったーとか? 色々脳内会話シミュレーションをだな……」
「そういうこと素直に言えちゃうところ、わたしは良いと思うんだけどなぁ」
「そういうのやめてくれ。勘違いしそうになる」
「あはは、絶対しないくせに。……それでも、やっぱりわたしは後悔する資格なんてないよ」
何を頑なになってるんだと、右隣の彼女を見やればレンズ越しに目が合った。海老名さんは寂しげに笑むと、すくっと立ち上がってスカートに付いた塵を払いはじめる。
「後悔ってさ」
「?」
「後悔って、選ぶ余地があったから生まれるものでしょ?」
「……まあ」
選択肢があるから、人は後悔する。選ばなかった選択肢を選んだ先にある未来を夢想して、現状を嘆くのだ。なぜあの時にああしなかったのだと。
「だからね、わたしは後悔なんてできない。だって誰かと付き合うなんて選択肢が、ないんだから」
「……じゃあ、なんで」
「でもね」
俺の声と海老名さんの声が被った。こちらを見下ろす彼女に、目だけで続きを促す。
海老名さんはこくりと首肯すると、ゆっくりと口を開いた。
「でも、告白された時は……少しだけ嬉しかったかな。それも考えるって言った理由のひとつだと思う」
潮風を含んだ柔らかい風が吹いた。それが話す俺たちの髪と、立ち上がった彼女のスカートを揺らす。ちょうど顔の高さのところではためくものだから、なんというか目のやり場に困ってしまう。たまらず視線を逸らした。
「……ま、いいんじゃないの? それならそれで」
「うん。いいもんだよ、告白。だからヒキタニくんもした方がいいよ?」
「誰にだよ……」
「えーそれわたしに言わせちゃうの? 罪な男だねぇ」
「意味わからん……」
「ふふっ。じゃあもうすぐ昼休み終わるから、わたし先に戻ってるね」
おお、と返事をして間もなく、海老名さんは俺の横をすり抜けて教室へ歩いていく。
ぼちぼち俺も戻りますかと考えていると、不意に名前を呼ばれた。
「比企谷くん。話、聞いてくれてありがとね」
そう言い残し、軽快に走り去っていく。階段に至る曲がり角で姿が見えなくなるのと同時に、予令が鳴り響いた。
「名前覚えてたのかよ……」
色々思うところはあるが、それを溜息ひとつに変えて吐き出した。
重い腰をようやっと上げると、とうに姿が見えなくなった彼女のあとを追うように教室へ向けて歩む。
後悔なんてできない。
海老名さんは嘘をついたのだと思う。
まるで自分に言い聞かせて、必死に飲み下そうとしているようだったから。
自分にはその資格がないと思い込もうとしているようだったから。
そうありたいと願うだけで、その実そうではない。ならば、それは嘘だ。
けれど、嬉しかったと呟いたその言葉だけは、悟られまいとする彼女の本心のような気がした。
× × ×
「うーす」
「やっはろー、ゆきのん!」
「こんにちは」
「ん、今日はヒーターつけないのか?」
「ええ。今日は暖かいから大丈夫と思って」
「……あっ! あたしは寒いからゆきのんとくっつくよ! ゆきの~ん!」
「暑苦しいから離れなさい」
「なんか辛辣!?」
「あら、辛辣なんて知ってるのね。すごいわ由比ヶ浜さん」
「なんかゆきのんがヒドイ!?」
「ごめんなさいね。本当に寒いならヒーターつける?」
「うーん、あたしは大丈夫だけど。ヒッキーは?」
「俺も平気だ」
「では今日はつけないでおきましょうか」
「うんうん。でも今日とかホントあったかいよねぇ。この前まであんなに寒かったのに」
季節は3月を折り返して少し。ほんの1、2週間前まではコートを着てもぶるりと身を震わせていたというのに、季節の移り変わりは早いものだ。
「このヒーターもそろそろ片付けないといけないわね」
雪ノ下がちらと、音のしないヒーターに視線を向ける。
「片付ける前に、平塚先生に修理出すよう頼んどいた方がいいな」
「あーそうだね。最近ちょっと調子悪いもんね」
「あなたにしては建設的な意見ね」
「うるせぇ。……だって来年の冬も使うかもしれないだろ?」
春になり、夏を迎え、秋を過ぎれば、また冬になる。四季は巡るものだし、それを避ける方法も必要もない。
「来年かぁ。ね、来年の今頃はなにしてるかな?」
「もうとっくに卒業してるだろ。そんで大学合格決めて家でだらだらしてる素晴らしい未来が俺には見える」
「なんか想像できる……」
「だろ? お前は浪人決まって絶望してるかもな」
「ヒッキーヒドイ!キモい!最低!」
「声でけえよ。そうならないように勉強しろってことだ」
「わかってるけど……うぅ」
「……馬鹿、ボケナス、八幡。ふふっ」
「お前はお前で何言ってんの……」
「いえ、ちょっと思い出してしまっただけよ。特に意味はないわ」
「あ、そう。……そんなこともあったな」
「昔のことのように言うけれど、まだ2カ月くらい前のことでしょう?」
「そりゃそうだけど。遠い昔に感じるくらい色々あったってことだろ多分。知らんけど」
未来を憂慮することもあれば、過去を懐かしんで笑むこともある。
「……そうね」
「……うん」
そして一巡りすれば、また現在を想い返す時が来る。大切なのは、現状と正しく向き合う覚悟をもつことだ。
「……ま、色々あったから。だからせめてこれからは平穏無事に過ごしたいもんだ」
「平穏無事ね。怠惰に、の間違いではないかしら?」
「おいそれは……間違いじゃないな」
「いいんだそれで……」
いいんだそれで。
不意にとんとん、と柔らかなノックの音が部室に響いた。はたと動きを止めて、3人で顔を見合わせる。
こうして仕事をするのもあと何回だろう。今後、進級して活動がどうなるかはわからない。受験勉強だってある。この依頼人を入れても、もしかしたらあと数回もないかもしれない。そう考えたら、急に寂寥感が湧いた。
「どうぞ」
からりと扉が開いて、名も知らぬ生徒がきょろきょろと教室内を見渡す。
「ようこそ奉仕部へ。歓迎するわ」
春は一般的に出会いと、そして別れの季節と言われる。
来年の今頃は、少なくとも卒業してここにはいない。だから、せめて後悔のないようにしようと思う。
小さな決意を持って、うららかな陽差しが差しこむ窓の先を見つめる。
綺麗な一筋の飛行機雲が、空の彼方へ続いていた。
<了>
長い事かかりましたがこれで終わります
消化不良かもしれませんが、何書いても納得できなそうなのでこういう形で締めさせてもらいます
応援ありがとうございました
このSSまとめへのコメント
落ち着く文章だ。
むりやり原作を真似ようとしてドツボにハマるSSerが多い中、
地の文も読みやすく好感が持てますね。
続きを期待しています。
普通に上手いし読みやすい
続き待ってる
見てる。頑張って( ๑>ω•́ )۶
面白いです!頑張って!
独特の雰囲気で好きです!
頑張ってください
実はみんな静かに続きを待っているんですよ。
ガンバ!
バレンタインネタをここまで丁寧に描いてとても良い!
続き待ってます
山田組の不意打クソワロタ
ちょ、山田組www
読みやすくて面白いです!
続き期待してます!
なんかいいな
あくしろ
期待
えっこれで終わり?
結局先延ばしかい!
お疲れさま。