男「お兄ちゃん、じゃないだろ?」 (66)

「うえぇぇぇん」

「泣くなよぉ」

「ぐす、だってぇ……」

目の前で泣いている女の子。
いつものように笑っててほしかった。泣き顔をを見るのは辛かった。
だからあのときの俺は――

「守ってやる」

「えっ?」

「俺がおまえの『お兄ちゃん』になって守ってやる」

「…………」

「だから、もう泣くなよ?」

「うんっ!」


『お兄ちゃん!』

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――――――――
――――
――


妹「バカ兄貴!起きろー!」

声とともに伝わってくる体を揺さぶられる感覚。
どうやら朝らしいな。

男「ふあぁ、おはよふ」

妹「おはよう……じゃなーい!今何時だと思ってるのさ」

男「さぁ?」

妹「とにかくはやく服着替えて降りてきてよね。朝ごはんもうできてるんだから」

男「うん」ズルズル

妹「わーっ!着替えるならわたしが部屋出てからにしろー!」

妹は顔を真っ赤にして、俺の顔に向かって枕を投げてくる。
いちいちうるさいやつだ。

妹「いってきまーす!」ガチャッ

男「時間は……8時15分か。まだ間に合うな」

妹「は、はちじじゅうごふん!?あと15分しかないよ!」

男「走れば間に合うって。それより妹」

言いながら、俺は自分の制服の裾をつまみ上げる。

男「ほら、しっかりつかまってろよ」

妹「ええ~~~」

渋々と言った感じで妹は声をあげる。
だがそれとは裏腹に、裾はしっかりと握られていた。

妹「兄貴はさ、こういうの恥ずかしくないの……?」ボソッ

男「なにが?」

妹「だ、だってこれ、周りから見たら……こ、こい……こい」

男「は?鯉がなんだって?」

妹「な、なんでもないからっ!」プイッ!

男「わ!急に歩き出すなって。危ないだろ!」

男「もうちょっとペース上げても平気か?」

妹「うん」

男「うし、ちゃんとつかまってろよー」

妹の手がギュッと握られたのを確認して、俺はさらに走るスピードを上げた。
そのまま通学路をどんどん駆け抜けていく。
しだいに見かける生徒の数が増えてきた。恐らく遅刻は免れたに違いない。

男「妹ー、なんとか間に合いそうだぞー!」

妹「兄貴、それよりも前!前っ!」

男「へっ?」

だが気の抜けた返事をしたのもつかの間。
前方の注意を怠っていた俺は、脇道からやってくる自転車の存在に気がつかなかった。

ガシャーンっ!!

男「うおっ!?」

?「きゃあっ」

横からやってきた突然の衝撃に、俺の体はアスファルトの上に投げ出された。
そのすぐあと、自転車が横転するけたたましい音とともに女の子の小さな悲鳴が聞こえてきた。

男「いてててて」

妹「兄貴っ!だいじょうぶ!?」

男「俺の方は大したことない。それよりもあの子を」

妹「う、うん!」

?「あううぅ……」

妹「ねえ、だいじょうぶ?怪我してない」

?「え?」

妹「大変!膝擦りむいちゃってる!」

?「だ、だいじょうぶです……から」ボソッ

男「どうした妹」

妹「大変だよ、兄貴!この子の膝、血が止まらなくって」

男「じゃあ、早く保健室に連れて行こうぜ。ほっといたら化膿になっちまうぞ」

妹「うん!」

?「だいじょうぶでしゅからっ!」タッ!

男「あっ、おい!」

妹と同じ一年生と思われる女の子は、顔を真っ赤にして走り出した。
自転車や学生カバンがそこらへんに放り出されたままなんだが。

?「あいたっ!」ズデンッ

勢いよく走り出したその直後、女の子はアスファルトの道路に顔から倒れ込んだ。
遠くから予鈴の音が聞こえてきたが、今はそんな些細なことを気にしている場合ではない。

?「うぅぅぅ~~~」

男「もしかして足をくじいたのか?」

涙目のまま、女の子は足首を押さえながら苦しそうに顔を歪めていた。
その手を払いのけてみると、案の定青あざができていた。

男「きみ、一年生だよな。クラスは?名前は?」

?「は、はい。えっと、B組の後輩です」

男「B組か……妹、おまえは先に行ってB組の担任にこのことを伝えてくれ」

妹「うん。兄貴は?」

男「俺はこの子を保健室に連れて行くから」

妹「でも、一人でだいじょうぶなの?」

男「平気平気。それよりも急いだ急いだ」

妹「うん。兄貴も気を付けてね」

慌ただしく走り出す妹の背中を見送りながら、俺はこれからのことに想いを巡らせた。

男「肩貸そうか?」

後輩「い、いいです……」

男「いや、でもなぁ」

後輩「も、もう、一人で平気ですから」

男「…………」

平気なわけがない。
あの青あざの様子では歩くこともままならないはずだ。

男「なんでそんなに嫌がるんだよ。もしかして、俺なにか悪いことした?」

後輩「えっと……」

男「いや、考えるまでもないか。俺が前を見ていなかったせいできみは怪我をしたんだし、そりゃ怒って当然だ」

後輩「ち、ちがっ……!」

男「ごめんな」

後輩「ちっ、ちがうんですっ!」

男「え?」

後輩「周りの人に見られるから。その……ウワサになるかもしれないじゃないですか」

男「もしかして恥ずかしいの?」

後輩「…………」コクリ

男「そんなことを気にしてたのか」

後輩「…………」

男「あ、ごめん」

確かに一見すると、この子は少し地味で目立つのは嫌いなタイプのように見える。
だから俺からすると大したことじゃないことでも、この子はいちいち気にしてしまうのかもしれないな。

男「じゃあ、周りに見えなければきみは恥ずかしくないんだね」

後輩「はい」

男「よし、それならいい方法がある」

男「よっと」

後輩「きゃっ」

彼女がなにかを言いだす前に、俺はその白くてほっそりとした太ももを抱え込んだ。
つまりおんぶの姿勢だ。

後輩「あ、なななななぁっ……なになになにをぉぉぉ!?」カァー

男「なにっておんぶだけど?」

後輩「はーなーしーてー!」ジタバタジタバタ

男「こらこら暴れるなって。落ちてもしらないぞ」

後輩「うぅぅぅううう……」

背中から聞こえてくる恨みがましい声。
理由はわからないけど、なんとなく懐かしい感じがした。

男「顔を伏せてたら周りから顔なんて分からないだろ?」

後輩「で、でもぉ……」

男「ほらほら、いくぞー」

後輩「うひゃああああああああ」

<ねぇ、あれってD組の男くんじゃない?

<ほんとだ。だれをおんぶしてるんだろ?

HRはすでに終わったらしく、俺たちは保健室までの廊下でたくさんの生徒にすれ違った。
生徒たちの話の内容に俺たちのことが含まれていることがわかると、その度に後ろの彼女は俺の首に顔をぎゅっと押し当ててきた。

保健室に着くまで、俺たちは結局一言も会話らしい会話をしなかった。
というかできなかった。俺もさすがに照れくさかった。

男「しつれいしまーす」ガラッ

保険医「いらっしゃい。あらあら、おんぶで登校なんてお暑いことね」クスッ

男「せ、先生、からかわないでくださいよ」

後輩「…………」

保険医「うふふ、ごめんなさいね。それじゃ、あとは先生に任せて。男くんは授業に戻りなさい」

男「じゃあ、あとはよろしくお願いします」

先生に頭を下げて保健室をそのまま出て行こうと思ったができなかった。
この時間が終わると、恐らくもう二度と学校で話すこともなくなるだろう俺たち。
そのまま別れるのはなんとなく名残惜しくなったからだ。

男「後輩ちゃん……だったよな?」

後輩「はい」

男「帰りはどうするの?」

後輩「えと、まm……お母さんに迎えに来てもらおうかと」

男「そっか……」

後輩「は、はい」

男「…………」

後輩「…………」

男「お大事にね」

後輩「い、いえ、今日はわたしのせいでホントにご迷惑をおかけしました。ごめんなさい」

男「ううん、俺の方こそごめん」

その言葉を最後に俺は保健室を出た。
もうちょっとうまいことが言えたんじゃないかと自己嫌悪に陥りながら、俺は重たい背中のまま教室へと歩いて行った。

男「うぃーっす」

男友「よぉ、今日はまた随分と遅かったな」

男「まあ、いろいろあったからな」

男友「みたいだな」

男「みたいだなって……もしかして、おまえ知ってるのか?」

男友「おいおい。知ってるもなにも、うちのクラスじゃ今一番話題のニュースだぞ」

男友「おまえが年下の彼女とイチャイチャっぷりを見せつけながら登校したって」

男「ぶっ!」

なんか俺が想像していたよりも話が大きくなってるような。
後輩ちゃんには悪いことをしてしまったな。

男友「男?今日のおまえ、なんかおかしいぞ。まさか本当に?」

男「ちげーよ。そんなんじゃねーって」

怪我をした後輩ちゃんを俺が保健室まで送っていった。
たったそれだけの関係。それ以上でもそれ以下でもない。

なのに。
それがわかってるのに、どこか納得できないのはどうしてだろう?

数学教師「……であるからしてaの値は求められる。では、このときのAの角度は何度になるだろうか。せっかくなので誰かに答えてもらおう」

男「…………」ボーッ

数学教師「男くん」

男「…………」ボーッ

数学教師「おい、男くん。聞こえているなら返事をしたまえ。きみ?」

男「え?はい」

数学教師「Aの角度は何度になるかね?」

男「1です」

数学教師「…………」

数学教師「きみ、今までの授業聞いてなかっただろ?」

男「はあ……」

数学教師「馬鹿者!廊下に立っとれ!」

男「今時両手にバケツ持たせるっていつの時代の人間だよ。あのじいさん」

最近じゃ教育委員会も黙っちゃいないってのによくやるぜ。かといって、訴える気もないけどな。

男「後輩ちゃんもう帰ったのかな?」

男「…………」

正直気になる。あの頼りない横顔を見ていると、なんとなく放っておけない。
でも今更会いに行っても、かえって後輩ちゃんに迷惑じゃないだろうか。逆に気を遣わせてしまうかもしれない。
だけど、この機を逃すと二度と話せないような気もして。

男「…………」

男「馬鹿馬鹿しい。なにうじうじと悩んでんだ、俺らしくもない」

男「考えるよりもまずは行動あるのみだ。うん、そうだ。そうに決まってる」

少なくとも、このまま廊下に突っ立って30分時間を無駄に過ごすよりはましだ。
ポジティブ思考を保ちつつ、気がつけば俺の足は保健室へと向かっていた。

保険医「後輩ちゃん?帰ったわよ」

俺のポジティブ思考は一瞬で崩れ去った。

保険医「ほんの十分ほど前にね、あの子のお母さんがここに来たのよ」

男「そんなぁ……」

しかも入れ違いかよ。

保険医「それよりも男くん。今のあなた、ひどい顔してるわよ。ちょっと見せてみなさい」

男「なんで?」

保険医「いいからいいから」

そう言って俺の胸に聴診器を押し当ててくる先生。
制服越しだと意味がないと思うんですが。

保険医「これはマズイわね」

保険医「心拍数が正常値を大幅に超えているわ。このまま放っておくと大変なことになるわね」

男「どうなるんですか?」

保険医「死ぬわね」

男「お、俺死ぬんですか!?」

保険医「ええ、心臓の内部で爆発を起こしてね。それもドカーンと」

男「えええええええええ」

ドカーンって……
俺の生死に関わる問題をそんな風に軽く扱われても困る。

保険医「でも、治療法がないこともないわ。知りたい?」

男「ぜ、是非ともっ!」

保険医「うふふ。それはね、年上の女性とデートすることよ」

男「は?デート?」

保険医「それもなるべく美人で知的な人がいいわね。おまけに保険医をやってるようならそれはもう完璧ね」

男「……帰ります」

保険医「あ~ん、待ってよ~。この機会を逃すと一生後悔するわよ」チラチラ

男「ウインクしながら胸元をチラチラさせないでください。あと、俺年下派なんで」

保険医「わ、悪かったわね年上で!」

保険医「年下年下って、男はいっつもそう!年上の魅力なんかわからないのねー!コンチクショー!」

男「し、失礼しましたー」ガララッ

命の危機を感じ取った俺は素早く保健室から抜け出した。
結局なんの収穫もなかったな。

男「…………」

男友「おい、男。次は移動教室なんだから急がないと遅刻するぞ」

男「いや、そんなことよりもこれを見ろ。新手のいじめか?」

俺は自分の机にこんもりと積もっている紙の束を指差す。
どうやら数学のプリントのようだが。

男友「見ての通り補習のプリントだよ。おまえ、結局サボったろ?じいさんのやつ、カンカンに怒ってたぞ」

男「…………」

男友「放課後までに終わらせろってさ。ま、せいぜいがんばんな」

男「……はぁ」

今日はとことんついてない。
こういうのを厄日っていうんだろうか。

男「ただいまー……」ガチャッ

妹「おかえりー。って、うわっ!」

男「失礼なやつだな。人の顔を見るなり第一声がそれかよ」

妹「だって兄貴、今にも死にそうな顔してるじゃん。まるでゾンビみたいだよ」

男「ゾンビっておまえ……もっとマシな表現できないのか」

でも疲れたのは確かだ。今日一日で数式恐怖症になってしまった。

男「そういうおまえはネズミキツネザルみたいな顔してるな」

妹「なにその例え。よくわかんないよ」

男「クソ生意気な顔だってことだよー」グニグニ

妹「いひゃいいひゃいー!ひゃめへよーっ!」

妹「お父さんとお母さん、今日も仕事で帰ってこれないって」

男「またかよ。最近ずっとだな」

妹「しょうがないよ。プログラムのお仕事って、わたしたちが思ってる以上に忙しいんだから」

男「んなこと言ってもよぉ……」

二人が帰ってこないときは晩飯は俺たちで作るか、惣菜か外食で済ませるしかない。
個人的にそれが少しめんどくさい。特に今日みたいに疲れてる日は。

男「カップラーメンってまだあったっけ?」

妹「だーめ。夕ご飯はもっとちゃんとしたものを食べないと体によくないよ」

男「じゃあ、駅前に行こうぜ。こってりスープが自慢の新しい店が出来たらしいぞ」

妹「それもだめ。ラーメンは昨日も食べたでしょ?」

男「なんだよ。さっきからあれはだめこれはだめって。別になにを食おうが俺の勝手だろ?」

妹「はぁ……これだから兄貴はバカ兄貴なんだよ」

やれやれとでも言いたげな表情の妹。
ほっぺぐにぐにをかましてやりたい衝動を抑えて、ひとまず俺は妹の言い分を聞いてやることにした。

妹「兄貴は知らないかもしれないけどね、食事はバランスが大切がなんだよ。脂っこいものばかりじゃなくてお野菜ももっとしっかり摂らないと」

男「バカにするな。そういうところに気を遣って最近はネギ大盛りにしてるぞ」

妹「そういうことを言ってるんじゃないの~っ!」ブンブン

妹が腕を勢いよく上下に振り回している。怒りを表現しているつもりなんだろうか。

妹「はぁ……兄貴のこれからを思うとわたし心配になってくるよ。兄貴には早くしっかりもののお嫁さんを見つけてもらわないと」

男「おいおい、そんなお見合い婆みたいなこと言うなよ」

妹「あ、そうだ。今日のあの子なんかどう?後輩ちゃんだっけ?真面目そうな子じゃん。あの子ならわたしは大賛成だよ」

男「バカ。そんなんじゃねーって」

妹「えー、つまんないのー」

男「そういう妹はどうなんだよ」

妹「え?なにが」

男「いい相手がいるのか?」

妹「な、なななななぁ……!」カァー

妹「ば、ばっかじゃないの!この大バカ兄貴っ!ほんとバカなんだから……!」

男「照れなくてもいいだろ。いるんだったらお兄ちゃんに紹介してみろ。さぁさぁ」

妹「い、いないよそんなの!それに兄貴の世話が忙しくて、わたしそんなこと考えてる余裕ないよ」

男「ほんとかなぁ」

妹「あ、もうこんな時間!はやくしないと卵の特売終わっちゃうよ!」タタタッ

男「おい!」

うまいことはぐらかされたな。

男「ごちそうさん」

妹「お粗末さまー」

全然粗末じゃなかったけどな。お世辞抜きで妹の作る飯はうまい。
今日の親子丼だって最高だった。特に半熟玉子のふわふわとろとろ加減が絶妙。

妹「あ、そうだ。兄貴って明日予定ある?」

男「明日?明日って何曜だっけ?」

妹「土曜日だよ。まぁ、兄貴のことだからどうせ暇だよね」

男「今急に予定ができた。あー、忙しい忙しい」

妹「逃げようとしてもムダだよ。明日は部屋の大掃除に付き合ってもらうからね」

男「うげぇ……」

<チュンチュン

妹「さっさと起きろー!バカ兄貴ー!」バサッ

男「うおっ!なんだなんだ?」

妹「はいはい、とっとと着替えた着替えた。今日は忙しいんだからねー」

男「休みの日ぐらいもう少し寝かせろよー」

妹「まさか兄貴、憶えてないの?」

男「憶えてないってなにが?」

妹「呆れた……昨日大掃除するって言ったじゃん。兄貴の脳みそはニワトリ以下だね」

男「ん、掃除?ああ……」

自分でもテンションが急降下していくのがわかった。
今日はHDDに溜まっている録画を一気に消化しようと思ったのに。

こうして大掃除が始まった。

男「…………」フキフキ

妹「…………」ゴシゴシ

開始から約20分、俺は早くも飽き始めていた。
この延々と続く地味で退屈な作業は、俺にとって最大の苦痛でしかなかった。
あー、キンキンに冷えたコーラを飲みながら漫画読みてー。

男「なぁ、妹。そろそろ休憩にしようぜ」

妹「なに言ってるの。まだ始めたばっかりだよ?今日一日で終わらせようと思ったらもっと頑張らないと」

男「まさか本気で一日で終わらせるつもりなのか?」

妹「当たり前でしょ?こういうのは長引かせるとよくないんだから。あとで兄貴の部屋も掃除するからね」

男「お、俺の部屋はいいって!自分でするから!」

妹に見られてはマズイものがいくつかあるからな。見られたら軽く死ねる自信がある。
妹もののえっちい本とかその他もろもろ。

妹「ふふん、兄貴の魂胆はわかってるんだよ。それを口実にサボるつもりなんでしょー」

男「なにを言ってる。俺は普段真面目一徹で通ってる男だぞ」

妹「はいはい。とにかくわたしも一緒に掃除するからね」

今日に限って妹が異様にしつこい。こうなったら奥の手を使うしかないか。

男「この際だから打ち明けるが俺、妹に隠してたことがあったんだ」

妹「なんなの突然」

男「実はな、この前から密かにゴキブリを飼い始めたんだ。虫嫌いのおまえが聞いたら嫌がるだろ?だから今まで内緒にしてた。ごめん」

妹「べ、別に兄貴の趣味なんだから好きにすればいいよ。わたしに口だしする権利なんてないんだし」

と言いながらも、俺の作り話を聞いて落ち着きなく目をキョロキョロさせている妹。
くっくっく、効果は絶大のようだな。さて、そろそろトドメをさすことにとしよう。

妹「でも、その話って今する必要があるの?」

男「それがあるんだよ。うっかりしたことに俺は昨日重大なミスを一つ犯してしまった。それは……」

妹「それは……?」

男「それは……」

男「…………」ゴクリ

十分に間を置いて妹の緊張をあおり立てる。
妹もただごとではない雰囲気を感じ取ったのか。心配そうな表情で俺の話に耳を傾けている。

男「ゴキブリの入ったカゴを部屋の床にぶちまけてしまった」

妹「ヘ?」ビクッ

男「気づいた時には、時すでに遅し。部屋中のありとあらゆる隙間にゴキブリが逃げこんでな」

妹「…………」ゾオッ

男「50匹、いや少なく見積もっても今ごろ200匹ぐらいに繁殖してるんじゃないかなー。あー困ったなー」

男「ごめんな妹。虫嫌いのおまえにゴキブリにまみれた部屋の掃除をさせることになっちまって」

妹「な、なに言ってんのさ兄貴!自分の部屋ぐらい自分で掃除しないと!」

男「え?でもおまえさっき手伝うって……」

妹「えーいやだなぁ、言ってないよそんなこと!まったく兄貴はまだ若い癖に物忘れが激しいんだからー」

男「そうか?ならいいけど」

ちょろいちょろい。俺に逆らおうなんて100年はやいわ!

妹「…………」シューシューフキフキ

男「…………」ゴシゴシ

妹「あっ」プシュッ……

男「どうした?」

妹「除菌スプレーが切れちゃった。えーと、予備ってあったっけ」

男「なかったと思うぞ」

妹「うーん、困ったなぁ」チラ

男「どうしてそこで俺を見る」

妹「兄貴~お願いがあるんだけどさ~。ちょっくら買い出しに行ってきてよ」

男「なんでだよ。おまえが行ってくればいいだろ」

妹「えー!かわいい妹がこんなに一生懸命頼んでるんだよ?ちょっとぐらい甲斐性見せてよー」

自分で言うか普通。

妹「はい!このメモに書いてあるものを買って来てね」

男「待て。俺は行くとは一言も……」

妹「いってらっしゃーい!」バタン!

男「ひでぇ……」

有無も言わさず追い出されてしまった。
あいつは鬼だ悪魔だ。兄に対する敬意というものがまるで存在していない。

自転車を飛ばすこと10分、最寄のホームセンターに到着した。
ここらじゃ一番品揃えが豊富だから、頼まれたものは一式ここでそろえることができるだろう。

男「えっと、除菌スプレーにスポンジに……シャンプー?」

どさくさまぎれにこいつは……
しかも最近CMでやってる少し値段がお高いシャンプーだ。
そんなもの使わなくても石けんで十分だと思うけどな。

<きゃっ!

男「おっと」

メモに集中して前をよく見てなかったから、だれかにぶつかったらしい。
とりあえず謝ろう。

男「ごめんなさい。前をよく見てなくて」

男「って、あれ?」

相手の顔には見覚えがあった。なぜならつい昨日もこんな感じで――

男「もしかして後輩ちゃん?」

後輩「……え?」

男「心配したよ。足の調子はどう?もう痛くないの?」

後輩「あのぉ……」

男「それにしてもこんなところで会うなんて奇遇だね。家はこのへんなの?」

後輩「あ、あのっ!」

男「あ、ごめん」

思わぬところで再開できた嬉しさのあまり、一人突っ走ってしまった。
ちょっと落ち着こう。

後輩「失礼だとは思うんですけど……」

男「うん」

後輩「どなた、ですか?」

男「…………」

グサッと心臓がえぐられたような感じがした。
人に顔を忘れられるというのは地味に傷つく。

後輩「ごめんなさい……わたし、人の顔をおぼえるのあんまり得意じゃなくて」

男「おぼえてないかな?昨日きみを保健室まで連れて行った男っていうんだけど」

後輩「保健室……?」

後輩「…………」

後輩「あっ……」カァー

わかりやすすぎるぐらいに頬を一気に紅潮させる後輩ちゃん。
昨日おんぶしてあげたことも想いだしたんだろうな。

後輩「き、昨日はその、いろいろとすみませんでした」

男「いやいや、お互い様だよお互い様!全然気にしないで!」

後輩「あ、ありがとうございます」

男「うん」

後輩「…………」

男「…………」

俺たちを取り巻く空間が重たい沈黙に包み込まれる。ま、間が持たん。
神様、どうか俺に話題を!女の子と会話が弾む話題をプリーズ!

男「そういえば足はもう大丈夫なの?」

後輩「はい、痛みはまだあるんですけど昨日よりはだいぶ落ち着きました」

男「そうか、それはよかった。俺もあれからずっと心配だったんだったんだよ」

後輩「お気遣いどうもありがとうございます」ペコリ

うーん。ものすごく他人行儀。
一見会話が弾んでるようにも見えるけど、まだちょっと距離を置かれてるような気がする。

男「後輩ちゃんは今日はお買いもの?なんかいろいろと買ってるみたいだけど」

買い物カゴの中には園芸用の土や専用の薬品とおぼしきものが入ってる。
後輩ちゃんはガーデニングが趣味なのかな。

後輩「あ、わたしの趣味じゃないんですが、最近お母さんが家庭菜園にハマってるんです」

男「ふーん。でもそれ持って帰るの大変じゃない?」

買い物カゴいっぱいに入った園芸用品の数々。
男の俺ならまだしも、女の子の後輩ちゃんがあれを持って帰るのは至難の業だろう。
腕もあんなにほっそりしてるのに。

男「昨日のお詫びも兼ねて、よかったら俺が家まで荷物を持ってあげようか」

後輩「……へ?」

男「だいじょうぶ。こう見えても俺、腕っ節はあるほうなんだ」

そう言って力こぶを作ってみせる。

後輩「そ、そんな恐れ多いです。あなたとはそれほど親しい間柄でもないのに」

男「うっ!」グサッ!

お、俺は負けないぞ。こうなったらなにがなんでも荷物を運んでやる。
ひたすら攻めの姿勢を見せるのみ。

男「そんなに遠慮しなくてもいいって。ね?」

後輩「わ、悪いですから!」

男「むしろ手伝わせてくれ。じゃないと、こっちとしても気が収まりそうにない」

後輩「きょ、今日は車で来たのでっ!」

男「後輩ちゃんって車運転できたんだ。すごいね!」

高校生でも免許って取れたっけ?原付は可能だったような。

後輩「お、お母さんの車ですから!」

男「あ、そっか」

後輩「そうですよ!」

男「…………」

後輩「…………」

俺のバカアホ。気が動転していたとはいえ考えればわかるだろ普通。
絶対世間知らずだと思われてるよ。

男「…………」

後輩「…………」

再び途切れた会話。
さっきの沈黙よりも心なしか空気が重たいのは、気のせいだと思いたい。

後輩「あ、お母さんが待ってるから、わたしもう行かないと」

男「あ」

後輩「失礼します」ペコリ

男「こ、後輩ちゃん!待って!」

男「次から俺のことは、男って呼んでくれないか!それが嫌だったらなにか別の呼び方でもいいから!」

後輩「さようならっ!」タタタッ!

後輩ちゃんの背中が遠ざかっていく。最後まで俺と一度も目を合わせてくれなかった。
嫌われただろうな恐らく。

男「帰るか……」

男「…………」

いまだに一度も呼んでくれない俺の名前。『あなた』と呼ばれるのは境界線を引かれてるようで寂しかった。
後輩ちゃんにとって俺は、その他大勢の他人なんだろうな。そこから抜け出したかったから。だから俺は最後にあんなことを言った。
俺はどうしてこんなに後輩ちゃんにこだわるんだろう。
その理由は自分でもわかりそうになかった。

妹「正座」

男「はい」

妹「今何時だと思う?言ってみて」

男「夜の7時でございます」

妹「早く帰ってくるようにって、わたし言ったよね?」

男「申し訳ございません」

妹「おまけに頼んだ買い物まで忘れてくれちゃってさ。わたし一人だったから、掃除も結局終わらなかったよ」

男「これには深い理由がございましてですね」

妹「聞きたくないよ。それって、わたしとの約束を破ってまで優先しないといけない用事なの?」

男「いえいえ滅相もない。この私めにとっては妹様との約束が最優先でございますゆえ」

妹「なーんか誠意が感じられないんだよなぁ~。兄貴ぃ、ホントに反省してる?」

男「それはもう……海よりも深く反省しております」

妹「ふーん、じゃあ誠意を見せてよ。誠意」

男「では、明日も掃除を手伝うということでどうかひとつ」

妹「当たり前だよ。わたしが言いたいのはプラスアルファの部分だよ」

男「して、プラスアルファとは?」

妹「兄貴になんでもお願いを一つ聞いてもらうの」

妹「例えばそうだなぁ……明日から兄貴が家の用事を全部やってくれるとか」

男「か、勘弁してください」

妹「じゃあ、雪見だいふく一年分」

男「……頼むからもっと実現可能なものをお願い」

妹「え~、兄貴のケチぃ」

いや、ケチとかそういうレベル超えてるだろこれ。

妹「う~ん。今すぐには思いつきそうにないから、しばらく保留ということで」

男「ほっ……」

ひとまず妹の機嫌はおさまったらしい。くわばらくわばら。

妹「さて、気を取り直してご飯にしよっか。怒ったらお腹が空いちゃったよ」

男「あははははは……」

にしても、お願いってなんだろうな。妹のことだから、ろくでもないものに決まってるんだろうけど。
どうか早いとこ忘れてくれますように。

<コケコッコー

妹「起きろー!バカ兄貴ー!」バサッ!

男「頼むから日曜くらいゆっくり寝かせてくれ」

妹「兄貴、寝ぼけてるの?今日月曜だよ」

男「嘘つけ。俺は昨日のことなんてまったく……」

男「…………」

妹「その様子だと想いだしたみたいだね。昨日のこと」

そうだ。昨日は土曜日に引き続き、ひたすら家の掃除をしたんだった。

妹「はやく降りてきてね。朝ごはん冷めちゃうから」

男「おう」

妹「いってきまーす!」ガチャッ

男「時間は……8時5分か。今日は歩いても間に合いそうだな」

妹「いつもこうだったらいいんだけどねー」

男「しょうがないだろ。布団が気持ち良いんだから」

妹「もう!開き直らないでよ。早起きしたら走らなくていいから楽なのに」

妹「それに…………のは恥ずかしいし」ボソッ

男「え?なんだって」

妹「な、なんでもないからっ!」プイッ!

男「おい、待てって!なにもそんなに急ぐことないだろ」

猫「うなー」

男「見ろよ妹。あんなところに猫がいるぞ」

妹「あ、ほんとだ。かわいー!兄貴、触ってもいいかな?」

男「いいけど優しくな」

妹「う、うん。ほら、いい子だからこっちにおいで」

猫「ふーーーー!」

妹「な、なんで怒るの~?」

男「どれ俺が手本を見せてやろう。ほーらよしよし、かわいいなおまえ」

猫「うなぁ~」

妹「ううぅ~兄貴ばっかりズルいよ……」

キキーッ!!

男「うおっ!なんだなんだっ!?」

猫「ふしゃーーーっ!」ピョンッ

妹「あ、猫さんが……」

俺たちにぶつかる一歩手前で急停止した自転車。
その自転車に乗っていたのは――

後輩「ご、ごめんなさい。わたし、ちょっと急いでて」

妹「後輩ちゃん、おはよー!」

後輩「え、あ、妹さん……?」

妹「妹さんってかたっくるしいなー。呼び捨てでいいよー」

後輩「よ、呼び捨てはちょっと……じゃあ、妹ちゃんで」

妹「うん!ところで時間だいじょうぶ?急いでるんだよね」

後輩「あっ、うん。それじゃごめんね、妹ちゃん」チャリンチャリーン

妹「うん、またねー」

男「…………」

もしかして俺って透明人間なのか?
後輩ちゃんに話しかけられるどころか見向きもされなかった。

妹「兄貴?」

いやしかし、そうだとしたら妹には見えてることがおかしい。
一体どういうことだこれは。

妹「兄貴、もしかして後輩ちゃんに嫌われるようなことでもした?」

男「は?なんでそうなる」

妹「だって無視されてたし」

男「……うぐっ!」グサッ!

妹「もしかして、わたしがいなくなったあと後輩ちゃんにエッチなことしたんじゃ……」ジロッ

男「してないって!マジで!もっとお兄ちゃんを信用しろ!」

妹「でもそれ以外考えられないよ。後輩ちゃんって、理由もなしに人を無視したりするような子には見えないし」

そうか。妹は俺が後輩ちゃんとホームセンターで会ったことは知らなかったな。
かといって、そのことを話すのは少々はばかられる。
妹の性格からして、100%余計なお節介を焼くに違いない。

妹「まぁ、いっか。それよりさっきの猫さんどこ行っちゃったんだろ?」

男「ああ……」

妹「兄貴?」

男「なんでもないって」

全然なんでもなくない。さっきのダメージで俺の心はボロボロだった。
これから後輩ちゃんと顔を合わせるたびに、こんな苦しい想いをしなければならないと思うと辛い。
はぁ……鬱だ。

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