新ジャンル「妹だよ」(75)



男「zzz…」

妹「妹だよ!妹だよ!妹だよ!」

男「うーん…もう朝か…」

妹「妹だよ!妹だよ!いも」カチッ

男「あーぁ、よく寝た……」

男「なんか食材余ってないかな…」

妹「妹だよ!」パカッ

男「野菜とハムしかねーな…朝食ハムサラダサンドイッチにするか…」

妹「妹だよ!」バタン

男「ニュースでもみるか」ピッ

妹「妹だよ!妹だよ!」

男「…あー、運勢最悪かー…」

妹「妹だよ!妹だよ!」

学校

妹「妹だよ!」

男「おう、おはよう」

妹「妹だよ!妹だよ!」

男「あー、数学の宿題やったっけな…ちょっと待ってろ…」

妹「妹だよ!妹だよ!」ガサゴソ

男「ああ、見つかったぜ、ほら」

妹「妹だよ!」ペラリ

妹「妹だよ!」だきっ

男「そんなに喜ぶなよ、見られてるじゃねーか」

妹「妹だよ!妹だよ!」

男「おう、また放課後な」

授業中

妹「妹だよ!妹だよ!妹だよ!妹だ…」

男「…」ふぁあ

妹「妹だよ!」びしっ

男「えっ! あ、いや、その…すみません!」

妹「妹だよ!」げらげら

妹「妹だよ!妹だよ!妹だよ!」

男「ははは…///」

妹「妹だよ!」

男「はい、わかりました」

妹「妹だよ!妹だよ!妹だよ!」

男「えーと、n(1 - 3/(n+1))e^πです」

妹「妹だよ!」

男「ふぅ…よかった…」

バスケ

男「ヘイヘイヘイ!パスパス!」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ひゅっ

妹「妹だよ!」 ばすん

男「ナイス!一気に決めてやる!」 ばしっ

妹「妹だよ!妹だよ!」 ざっ

男「ぐっ…横だ!」(レイアップを滑らせたらいい…!)

妹「妹だよ!」 ざっ

男「なんてね!」(今のはフェイク!後ろにパスしたのさ!)

妹「妹だよ!妹だよ!」 ひょい

妹「妹だよ!」 すとっ…

男「ナイッシュー!」 ぱしっ

妹「妹だよ!」

電車にて

男「…」(あー、英単語覚えなきゃな…)

妹「妹だよ!妹だよ!」 ガタンゴトン ガタンゴトン

男「…help…i need somebody…」 ブツブツ

妹「妹だよ!」 パシッ

男「…えっ!えっ!? ちち、違いますよ! 痴漢じゃないですって!」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ビッ

男「嘘つかないでくださいよ!俺片手吊り革、もう片手は単語帳っすよ!」

妹「妹だよ!妹だよ!妹だよ!」

男「だから!股間擦り付けてませんって!」

妹「妹だよ!妹だよ!」

男「ああ、もう! 私は男といいます!私の住所は妹です!電話番号は妹!」
男「身元と連絡先を知らせたので、貴方がたには私を拘束する権利はありません」
男「これ以上私を拘束するばあいは、しかるべき措置をもって対応させていただきます」

妹「妹だよ!」

男「はいはい、わかりましたから…。後で駅長室に行きましょう…」

ハードボイルドの概念でよく語られるフィリップス・マーロウについて、文学者はみな彼を「世の中の規範に従うことを辞めたかわりに、世の中から孤立した人間」として、ロンリーウルフの観点で彼を語ろうとした。
そこに、彼は望んでロンリーウルフになったのではない、という解釈は何故か存在しない。
確かに彼はロンリーであっても生きていけるほどに強いし、またそうであるから他人に優しくあれるのだろう。彼自身の言葉もそれを示唆している。

彼がロンリーにならざるを得なかったのは、彼がまた法や規範のもとに生きることに不自由を感じる人間だったから、という話に尽きる。
法や規範は、社会的な弱者を救済するための、平等を遵守させる手段であり、言い換えるならばそれ故に人の行動を制限させるものでしかない。

(俺がロンリーになったのは、逆の理由になるのだろう)

マーロウがロンリーになったのは、あくまでも彼の不器用とも言える生き方のためである。それは男と共通する事実である。
しかし、マーロウはまた、己の生き方を選んでその場にいるのだ。
男のように、社会から切り離されてロンリーに生きざるを得ない、というわけではなさそうである。

さらに重ねて言うと、男は社会から切り離されていない。寧ろ社会に繋がろうとしてもがく人間である。
だがしかし、目をつむれば、男は人より遥かに孤独になる。

読唇術が使えなくなれば、その時は世界がわからなくなるのだ。
もう、正常に音が聞こえない。
唇の動きだけが頼りだ。
男の耳はもはやすでに、狂いに狂っているのだ。
妹の声しか聞こえなくなる世界は、思う以上に男を消耗させている。

それでも男は気が違いそうになる世界を受け入れる。
妹を否定すれば、きっと誰も妹を認知しないだろう。
そう、世界でたった一人、妹のことを忘れないでいてあげることが出来るのは、この男だけだ。

その責任はあまりに重い。彼を遥かに孤独にしてしまうほどに。
そしてその孤独は、恐らく誰も微塵にも気付かない。

男もある意味ではマーロウに似ているのだろう。
もしも世の中の規範が、人間は常に正常であるべきだ、というのならば、彼はそれを拒絶せざるをえない。
幻覚でしかない妹は、全くもって正常ではないし、幻覚を見る男はいよいよ正常ではないのだ。

(間違っているのはわかるのだけど)

男の覚悟は、覚悟ではない。
男は、自分が狂わない限りは妹と共生しようという覚悟をもっている。
だがしかし、彼はすでに狂っている。
彼は妹を捨てられないだけである。
あるいは、妹の幻覚を見る自分自身に、何かしらのアイデンティティを見出だしているのかもしれない。
とにかく彼は、何かしら捨てたくない思い出というものを、妹の幻覚の中に見出だしているのだ。

単純に言い換えると、幻覚になる前の妹に会うためには、幻覚を見なくてはならないのだ。
男は狂った。
幻覚を通じてしか妹をもう思い出せない。
脳が拒否するのだ。
脳が拒否するほどに、男は弱ったのだ。
幻覚になるまえの妹の姿は、幻覚を見ないと思い出せないのだ。
幻覚なしではもう、妹を思い返せない。

男とマーロウは全く違うのだ。
マーロウは孤独であるが、それは自分で自分を縛るために、ではない。
自分の生き方を他人に束縛されるのを嫌うからこそ、彼はハードボイルドであり、彼はロンリーなのだ。
男のそれは、自縄自縛だった。
自分の生きる道を自分で縛りながらも、それをやめようとはしない。

それは病気であった。
自身で自身を苦しめている、救いのない病気だった。
でも、自分自身が病気の原因であることが分かっていながら、男はそれをやめない。
男の病気は、また、唯一の彼の救いだったからだ。

妹を覚えなきゃならないというのは、彼の狂気と苦役である。
妹を覚えていられるというのは、彼のアイデンティティであり、また彼の救いである。

妹「妹だよ!」ぺこり

男「いえいえ、勘違いはあるものですよ」

妹「妹だよ!妹だよ!」

男「いえ、誤解が晴れたようでなによりです。それでは」

がちゃ

男「…はあ」グィッグペェエイ!

妹「妹だよ!妹だよ!妹だよ!」ペチャクチャ
妹「妹だよ!妹だよ!」ペチャクチャ

男「…」

妹「妹だよ!」ppp

男「…」

男「…俺は、一体何やってるんだろうな」

男「ま、人生ってこんなもんだろーさ…」

男「ちょっと角度を変えて見てみたら、つまんない事に固執してるんだもんなー」

男「家族っていうの? あれ、実はつまんねーものだもんなあ」

男「そりゃさ、長い間一緒に暮らして、一緒にご飯食べてりゃあさ、大事な人になるよ」

男「でもさ、それは親友でも、恋人でも、結局同じだもんなあ」

男「…まあ、親からの無償の愛、ってやつを否定するつもりはない」

男「でも俺がもし親になったとしたら、同じぐらい愛を注げるだろうか?」

男「俺への無償の愛は、実に中学にして途絶えた」

男「皮肉にも、生活に困らない保険遺産が死と引き換えに手に入った」

男「それが愛の重さだと思った。両親は死んでなお、俺と妹を愛していたのだった」

男「それが数字に換算される時、頭が芯から冷えたのだった」

男「親の死は結局、数字にしてかみ砕かないとよくわからないくらい、遥かに馬鹿げた話だった」

男「昨日今日まで俺たちのために働いていた二人なんだぜ」

男「それを思うと二人が報われないような気がして堪らないんだ」

男「おい、信じられないよな」

男「俺のために人生の半分以上を投げうってくれる人がいて」

男「しかも死んだんだぜ」

男「本当に馬鹿げた話って奴だよ」

男「…」

男「両親が死んだ主人公、なんて見飽きた話だな」

男「きっとさ、辛くないんだよ。そんなの」

男「そんな小説、山ほどあるもんな。簡単に人が死んじゃうんだぜ?」

男「作者の思い付き程度で、ころっと死ぬんだ」

男「きっと同じさ」

男「俺の両親もころっと死にやがった」

男「たまらなく馬鹿げた話になった」

男「そのとおり、俺も辛くなかった」

男「両親が死んだ瞬間は辛くもなんともない」

男「むしろ葬式で嘘みたいに忙しくなってだな、疲れた、だなんて思ってたぐらいだ」

男「全て終わってからだ」

男「墓石の前にたつと、無性に泣けてくるんだ」

男「ああ、死にやがった、ってさ」

男「両親の愛は目に見えなかった」

男「放っておくと床は埃に塗れたし、コンロは油汚れが多くなった」

男「浴槽の隅はカビが生えたし、電子レンジは定期的に拭かないとうまく暖められない」

男「レシピはコンビニの惣菜が増えたし、水筒はたまに乾燥させないと茶カビが生えた」

男「肌が突っ張るほどに寒い日に、家に帰っても、風呂もご飯もない」

男「…」

男「アイロンでワイシャツとハンカチを伸ばすのは慣れた」

男「昔は雨の日にダッシュで帰ったのに、今は無理してでも傘を買って帰るようになった」

男「階段を上りたくなくなった」

男「電車にのる時は、特急よりも席に座れる普通を優先するようになった」

男「弁当は冷凍食品しか思い付かなくなった」

男「風邪をひくと辛くなった」

男「ああ、一人だ」

男「俺は一人になった」

男「明日は楽しくない」

男「きっと明日も、妹に会う」

男「…」

男「妹に会いたくない」

男「でも、妹に会いたい」

男「なあ、一体誰が覚えてやれるんだい?」

男「なあ、俺がいなくなったら、俺の家族は誰が覚えてくれるんだろうな?」

男「…なんて、うそぶいてみたり」

男「実はそんなに辛くない」

男「惰性に従って、毎日ぼんやり生きればいいんだ」

男「何も考えなくても、手のほうが勝手に動いてくれて、俺はぼんやりできる」

男「…」

男「でも、ぼんやりしてるから」

男「不意に心にぐさっと痛みが刺さるんだよ」

男「「妹だよ!」」

男「…」

男「なんでこんな言葉なんだろうな」

男「あいつとの思い出だったら、他にもあったと思うのに」

男「何故かこの言葉だけしか、残らなかった」

男「なあ、俺は何をしたらいいんだ?」

男「両親が死ぬ時まで愛した妹を、忘れるなんて出来ないだろ?」

男「…」

男「あの両親のことだ、俺が苦しんでると知ったらこういうさ」

男「『辛かったら、そんなことやめなさい』」

男「…」

男「辛くは、ない」

男「たまに胸が締め付けられて、泣きたくなるだけだ」

男「だから辛いほどじゃない」

男「…」

男「でも時々、自信をなくす」

男「俺の中にしかいない妹は、俺の世界の中にありったけ溢れていて」

男「楽しそうなんだよなあ」

男「…」

男「よかった」

男「泣いていなくて本当によかった」

男「…」

男「はあ…」

男「また明日頑張れるかな…」

妹「妹だよ!妹だよ!」

男「おやすみ」

妹「妹だよ!妹だよ!妹だよ!」

夢を見た。
結局のところそれは夢だとわからなかった。
でも、起きてからすぐに「あれは夢だ」と気付くぐらい、それはもう馬鹿でかい木があったのは覚えている。

小さなころの話。
その木は丈の小さな子供には恐ろしくでかいスケールで、木登りにぴったりだった。
ささくれ立った見た目の割に、柔らかく剥がれそうな表面はあまり痛くなかったことを覚えている。

母は木陰ですずんでいた。静かに笑っていた。
父は木登りを俺達に教えていた。楽しそうに笑っていた。

思い返すだけで泣けそうな、そんな夢。

妹「妹だよ!妹だよ!妹だよ!妹だよ!」

男「…う…」

妹「妹だよ!妹だよ!妹だよ!妹だ」カチッ

男「…おはよう」
男「…」
男「食パンでも焼くかな」

妹「妹だよ!」ジジジ

男「…ふぁ、今日のニュースは…」ぺらり

妹「妹だよ!」ぺらり

男「…。そうだ、ニュース見よう」ピッ

妹「妹だよ!妹だよ!」

女「おはよー!」

男「ん、おはよう」

女「あれれー?今日は元気がないなあ」

男「あー、まあ夜更かししたからかな」

女「ふーん? 宿題?」

男「あ、やべ。宿題今日だっけ?」

女「ははは、まあ急いだら何とかなるんじゃない?」

男「おうサンキュー!」

女「ま、後で見せてもいいよ」

男「マジで!ナイス、助かるわ」

友「よ、進んでるかい?」

男「ん、見せてくれるのか?」

友「バカ言えwwww俺も出来てねーよwwww」

男「…wwwだよなwww友だもんなwww」

友「ところでよ、お前目が悪くなった?」

男「ん?……。あー、悪くなったかも。人間違うようになったし」

友「だよなwwこの前サイコーだったぜwww先生に『よっ』とかwww」

男「あのミスは俺も無いと思うwwwwあれは今でも信じられんわwww」

友「はよ眼鏡買ったら?」

男「あー、なんか嫌でさー、パスしてるんだわ」

キーンコーンカーンコーン

先生「おい、男」

男「えっ」

先生「返事はハイだ」

男「ああ、先生。すみません」

先生「最近ぼんやりしすぎじゃないか?」

男「はは、かも知れませんねー。宿題の量が減ったら徹夜しなくなるかもしれません」

先生「はん、調子の良い奴だな? まあ体調には気をつけろ」

男「ははっ肝に命じます」

先生「…まあいい」

男「…」

男「…」

男「なんだ、出来るじゃないか」

男「昨日あれだけ弱音を吐いたのにさ」

男「案外やれば出来るものさ」

男「一日を平穏に過ごす事なんて、たいしたことじゃない」

男「…」

男「だから嫌になるのかもしれない」

男「どこかで突発的な事故が起きて死にたい」

男「たまにそう思う」

男「でも、俺を愛して死んだ人の事を思うと、到底死ねない」

男「そう、死ぬわけにはいかない」

女(…)

家族が死んでから、よく眠るようになった友人をよく知っている。
ここ二年ずっとその人間しかみてこなかった女は、彼が隙があれば眠るように変化した理由を、何となくだが分かっている。

そう、男は夢の世界へと逃げたがっているように女には思えた。
現実に価値を見出だしてない、とは言い過ぎかもしれない。
しかし、男がぼんやりする時間が増えたのは紛れも無い事実であった。
彼の反応は何故か、現実にもやがかかっているかのように、うすぼんやりしたものであった。
誰が誰か、という区別が出来ておらず、耳もあまり機能してないように思う。

さすがに真正面に立てば彼も無視しないのだが、少し視界から外れたら会話も出来ない。
それぐらいに男は、現実に興味がないようであった。

女(まさか、誰より現実的じゃない)

男は誰より現実的だ。
それは彼の堅実な未来設計から窺い知れる。
インフラ系に勤めるために、資格を今のうちに調べておき、それを習得できる大学を探しているように、男は余念ない人間である。
また、英語はどの進路にしたって重宝されるものだというので、一番に力を注いでいる。

女(でも、リスニングはからっきしだけどね)

男の異変の一つが、リスニング能力だ。
もともとクラストップを誇った彼の学力から考えると、それは些か異常であるように思われた。
だから、誰もが男に何かあったのだろうと思った。
事実、男にとっては大きな変化として、家族の死があった。
だからクラスメートは、男をそっとしておくことにしたのだ。

女(…そもそも、家族が死んでから10日ぐらいは会話もろくに出来なかったし)

男に何があったのかを実際に聞いた人間は少ない。暗黙の了解で、男はクラスからそっとされていたのだから。
そんな中、女は数少ない人間の一人だ。
医者に聞くところによると、どうも幻聴らしい。
ことごとくそれが彼を邪魔し、音を正確に聞き取るのが難しいのだと。

今でも幻聴はあるようだ。
しかし、会話が出来る以上、人並みの聴力を補うことが出来たのだろう。
英語のリスニングが出来ないのは、まだ完治してないからであろう。

女(でも、この異変は絶対、幻聴だけじゃないよね)

残念ながら、男の集中力の低下は幻聴だけでは説明ができそうもない。
人と人を間違えるようになったのだ。
女はそれを、ここ最近のうちに、なんとなく感じ取った。

女(…)

男がそれを隠そうとしているからには、何か理由があるのだろう。
女はだから、それを追及はしない。
今はただ、見守らないといけないだろう。
そうでないと、彼のどこかの心の支えが折れてしまいそうな気がするのだ。

女(…でも)

男は気付いているのだろうか。
時々、泣きそうな顔になるのだということを。
人の笑顔を見るとたまに、彼は何故か胸を突かれたかのように痛ましい顔になるのだ。
そして、ごくたまに、泣いている。

女(…あれはやっぱり)

それは彼の弱さだろうと思う。
人間はいつだって強くあれるわけではない。
気が緩んだときにふと、心に刺さるナニカがあれば、それだけで涙を流すのだ。
逆にいえば、男はいつも気を張っていないと、泣くしかないのかもしれない。
男は、きっと思う以上に心細くなっているのだろう。

女(…)

ただ、泣くときに、よかった、とつぶやくのは痛ましかった。
あの涙は、そんな痛ましい男の心が、人の笑顔に救われたという涙なのだろう。
あるいは、もう取り返しがつかないところまで痛んでいるのかもしれない。

人の無邪気で純粋な笑顔が嬉しくて泣くのだろうか。
そんなものに素手で触れると、その純真さに心が軋んで泣いてしまうのだろうか。
たまらなく悲鳴をあげて、血を吹き出している男のこころは、他人に優しくされると泣いてしまうのだろうか。
他人の、やさしい顔をみるだけで、泣いてしまうのだろうか。

女には分からない。
ただ、男がたまらないほどに痛ましいのはわかっている。
そして男はもはや、痛みを感じないほどに傷ついているのだということもわかっている。
傷口がひどく荒らされても、刺すような痛みはもう感じないのだとも。
だから、傷口に優しい手が触れると、その優しさだけで泣けてしまうのだということも。

女(…勝手な想像かもね)

思いながらも、女は男を見る。
彼のこころは泣いているのだろうか。
それとも、ぐずぐずのセーターになるまで涙を吸って、ただの糸屑になるまで解れてしまって、今もくたびれたようにそこにいるだけなのだろうか。
それとも、こころの中身が涙といっしょに流れだして、こころという容器に代わりに涙と痛みをトクトクと一人ぼっちでそそいでいるのだろうか。

それともあるいは、冷たく冷えていくこころの前で、慟哭しているのだろうか。
温かみを下さい、と泣いているのだろうか。

女には、その寂しさはわからない。

女(…)

男「…」

女「…あ、男」

男「ん、どうした?」

女「ほら、宿題見せるって話」

男「あ、そういやそんな話あったな…」

女「ほーら、貸してくださいって言わないと貸さないよー?」

男「えー? まあいいけど、貸してください」

女「様をつけろよデコ助野郎」

男「貸してください、ご主人様」

女「えー、どうしよっかなー」

男「そこを何とか」

女「…」

男「…?」

女「ねえ」

女「私が誰だかわかる…?」

女には嫌な予感があった。
男はもう、誰が誰だが区別出来ないのではないかという予感である。

男の最近の態度はあまりにも不自然である。
余りにも薄ぼんやりとしている。
それは集中力がないから、という範疇のものとしては些か不自然なような、でも納得も出来そうな、そんな微妙なレベルの話であった。
ただ、一つだけ、不自然なことをあげるとすれば。

女(…男から、私の名前を読んでくれたことなんてない)

それは本当にささいなことでしかない。
しかし、それは確かに女には重要なことであった。

そして、男にとっても重要なことであった。

男「…」

女(…ああ、そっか)

男は、はっきり刺されたような顔をした。

刺されたのは、女のほうだった。
少なくとも、彼女にとってはそうだった。

男「…は、はは…」

だから、目の前の男が哀れなほどにうろたえているのを見るのは、堪えられなかった。
その時ようやく女は、男の心がすでに擦り切れていることに気が付いた。

女(あ…あぁ…)

何故あなたがうろたえるのだろうか、うろたえてほしくない、そんな姿見たくない。
今まで胸の奥で大切にしまって純粋にろ過してきて透き通るまでに育った憧れの結晶を傷つけられたような、切ない気持ちがした。

そっか、私なんてどうでもよかったのかな、だって私が誰なのかなんて気にしてくれないんだもんね。
彼の世界の中に自分がいるだけで幸せだと感じてきたほのかな恋心を踏みにじられたような、悲鳴のような気持ちがした。

何でそんなにぼろぼろになるまで自分を殺したの、そんなに辛いのにどうして頑張ったの。
大事な人が、自分の暢気に過ごしてる時に影で擦り切れていってこんなにも寂しくなっているのに気が付いたような、痛ましい気持ちがした。

確認しなきゃ、よかった。
私は馬鹿だ、という気持ちがした。

頭が芯のほうからしびれて冷えて、ようやく涙がでてきたのはしばらく後だった。

女(な…んで…私…泣いてるんだろ…)

ずっと辛かったのは男のほうだ。
男はずっと、誰が誰だというのか分からないほどに擦り切れてしまったというのに、それでも普通の生活をしようと無理をしてきた。
だから、女が勝手に傷ついて勝手に泣くのはおかしい。

女(…へへ…でも…止まらないや…)

それでも、今でも触るとつゆんと甘い気持ちになるような恋心を、どこかに無くしてしまった女は、宝物を無くした子供が泣くようにぼろぼろと泣いていた。

泣くのに時間がかかった。
心の中身をどこかに無くした女は、泣くほど痛みを感じなかった。
でも、痛い、とようやく感じてからは、とめどなく泣いた。
泣くまでに時間がかかった分だけ、痛みを痛いと自覚するまでに時間がかかった分だけ、さめざめと、しずしずと、涙を零して立ちほうけた。

女(…私…ばかだなあ…)

こんなドラマみたいな間抜けな失恋でヒステリーになるほど、メンヘラな人間じゃない。
恋こそ全てと勘違いして号泣するほど、メルヘンな人間でもない。

女(…世界の中でもちっぽけな、たった一つの失恋に…こんなに泣いてしまうなんて…馬鹿みたいだ)

鼻の奥がくぅくぅ鳴っては、情けない泣き声ばかりが咽から漏れた。

男「…ごめん」

女「…」

男「…俺さ、ダメ人間になっちゃった」

女「…」

男「視覚野とか聴覚野とかっていうのかな、その脳細胞がショックで参っているんだ」

女「…」

男「だからさ、脳が勝手に映像と音声を補うんだ」

女「…」

男「その結果さ、全ての人間が妹と混じり合った外見になってさ、妹の台詞しか聞こえない耳になっちゃったんだ」

女「…」

男「妹はね、笑顔なんだ」

男「それはもう笑顔でさ、俺、うれしくなっちゃうんだ」

男「だってさ、普通はあいつの笑顔に逢えないんだから」

男「だからさ、この幻覚は消したくなかったんだ」

男「そう、病院に行かなかったんだ」

男「医者なんかに行ったら、この幻覚が消されることくらいよくわかっていたから」

男「俺は結局さ、これを守るためだけに必死になったんだ」

男「家族がいなくなってもさ、平気だと思った」

男「友達がいなくなってもさ、平気だと思った」

男「だって、独りきりってわけじゃないもんな」

男「妹の笑顔を見てたら、全部吹き飛ぶぜ」

男「そう、全部」

男「…」

男「何ていうかさ」

男「俺、自分のことを過大評価してたんだな」

男「別に他人の区別がつかなくなってもやっていける、とか」

男「妹の笑顔さえあったら生きていける、とか」

男「妹のことを覚えていてあげられるのは俺だけなんだ、とか」

男「…」

男「まぁ、誰にも相談できなかったのは辛かったかもしれないけどさ」

男「ぶっちゃけ、それだけじゃんか」

男「俺がちょっと頑張ったら、妹の思い出も、俺の一人暮らしも、両立出来るじゃん」

男「…」

男「まあ、馬鹿なことしたなあ」

男「なあ、分かってくれるか? もう会えないって思っていた家族に会えちゃうんだもんな」

男「嬉しいのやら心細いのやらでしがみついてさ、舞い上がってさ」

男「…馬鹿みたいだぜ」

男「分からんもんだよなあ、妹の笑顔が俺を苦しめるなんてさ」

男「…」

男「言い過ぎた、苦しくはなかった」

男「…」

男「たまにさ、油断してるとさ」

男「妹の笑顔がすごく痛ましく見えるんだ」

男「…」

男「俺がのんきに生きてるのってさ、両親が死んだからなんだぜ?」

男「保険金を引き下ろすとき」

男「俺は、死んだ親のすねをしがんでいるような気持ちになる」

男「まるで俺が乞食になった気分がして、泣きそうなんだ」

男「最低だ」

男「親が産んだ子供が乞食でした、だなんてさ」

男「堪えられない」

男「死にたい」

男「俺が腹一杯食べてる時、俺の親は死んでる」

男「俺が温かい湯に入るとき、テレビを見るとき、友達と話してるとき」

男「…」

男「…」

男「俺はさ、いい子だったんだぜ?」

男「家族自慢の息子だったらしいんだぜ?」

男「…」

男「舞い上がってるじゃないか、ざまあみやがれ」

男「家族が死んだら、お前は乞食だぜ」

男「親の肉にかじりついて、よくのうのうと生きてやがる」

男「…」

男「家族が欲しい」

男「思ったより一人は辛かったぜ」

男「ホント、笑えるぜ」

男「…」

男「飯が喉を通らない」

男「一人だけ腹一杯食べてるのかと思うと、吐きそうになる」

男「そんなときは、テレビをつける」

男「そうするとさ、いつもと変わらない妹が一緒にいるんだ」

男「その時ようやく俺は乞食じゃなくなるんだよ」

男「お兄ちゃんになるんだ」

男「…」

男「最低だよ」

男「馬鹿みたいな話だ」

男「死にたい」

男「…」

男「もし、あの顔が笑顔じゃなかったらぞっとする」

男「きっと俺、もっと惨めに、泣きながら飯を食うんだぜ」

男「そんなの堪えられない」

強くなくては生きていけない。
チャンドラーの台詞の意味するところは、実のところ、間違いではないだろう。
生きていくには、男は社会的にまだまだ弱い未成年で、学生だった。

だが何よりも決定的に、精神が強くはなかった。
一般の学生よりも遥かに意固地に頑張り続けた男は、その実、若い故に潔白に生きようとした。
死んだ両親が、男が立派に育つことを願っていたことも大きかった。
妹に尊敬されるような兄であったことも、彼を苦しめた。
とにかく彼は、立派な人間であろうと自らを追い詰めた。

彼が孤独になったのは、一人で生きていけるだけ強かったからではない。
孤独にならざるを得なかったからである。

男とマーロウはことごとく違っていた。
マーロウはある意味ではダーティーヒーローでもあったし、やり切れない世の中を生きていける分には大人であった。
孤独の苦い味を知るマーロウは、自分の固い信念に従って生きていくことができた。
男は、いずれも足りなかった。
男には、必要な物が多過ぎた。
惨めな気持ちを飲み干せるほどには孤独の苦みを知らず、また友人と離れて孤独な生活を送るには社会的な立場が足りなかった。

いっそ、両親が男を愛していなかったら、妹が兄を慕わなかったら、彼は孤独を生きることが出来ただろう。
皮肉にも彼は、性格も頭もよく、心も優しく、世渡りに関しては器用であった。
だから、彼は決定的に不器用な生き方しか出来なかった。
そう、人と支え合って生きること、それでしか器用に生きこなせなかった。

男「…」

女「…」

男「…」 ぎゅっ

女「!」

男「…なあ、泣いていいぜ」

女「…」

男「…俺も、ちょっと泣きそうだからさ」

女「…そっか…」

男「…」

女「…」

男「…女、だろ?」

女「…!」

男「それぐらい、わかるさ」
男「長い付き合いだ」

男「…」

女「…うん、そうだよ」

男「…。ごめん、今まで黙っていて」

女「…いいよ」

男「…」

女「…ん」

男「…?」

女「顔、近くない?」

男「…ごめん、こうしてないと唇が見えないから会話が…」

女「…気にしてないよ」

男「…離れよっか?」

女「…」

男「…」

女「…抱き合っていたほうが、涙は見えないんじゃないかな」

男「…そうかも…」 ぽろ…

友「…」

先生「…もういいかね」

友「まあまあ、男も女も体調不良だったんすよ、きっと」

先生「…昼休みに二人が屋上へ行ったと聞くが」

友「まあまあ」

先生「それきり帰ってこないのはどうだろうな」

友「ま、あの二人に限って間違いはないでしょう」

先生「当然だ、そんなことがあれば停学処分だ」

友「というわけで宿題の免除を」

先生「話がつながってないぞ」

男の独白が終わった。
女はそれを静かに聞いていた。

女は最初、逃げるつもりだった。それにおよばなかったのは、男が引き止めてくれるような甘い期待があったからであった。
「女」と呼んでくれるかもしれない、という期待である。

それは難しい話であった。
というのも、記憶があやふやながらも朝のことを思い返すと、宿題を見せる、と言いながらも女は、一度も男に名乗っていなかったからである。
もし男の話が本当ならば、男はフィーリングで女を当てたことになる。

女(…逃げなくてよかったかな)

女がいよいよ本当に逃げられなくなったのは、男の独白が自虐の色を帯び始めてからである。
男が死にたい、最低だ、と言った時、女はどうしてもそれを遮ることが出来なかった。
男を止めるべきじゃないと直感したのだ。

男の独白からは、心臓を割ってその血を飲ませようとするような鬼気迫るものと、誰かにその血を受け止めて欲しいと願う憔悴しきったものとが滲み出ていた。
女は、その男から逃げ出さない程には、真摯になって彼を受け止めようと考えたのだった。
少しずつだが、男は傍目に見ても変わっていた。

痛みを溶かし出すように言葉を連ねる男は、段々と投げやりで粗削りな感情を露呈し始めた。
それは確かに長く男の心に刺さり、男をひどく痛めた感情であったのだろう。
だが、それがひとつひとつと言葉にされて、ひとたび男の心から剥がれていった時、ようやく男は落ち着いた表情を浮かべたのだった。

女は、それをただ静かに聞いていただけであった。
思うことはいっぱいあったし、口にしたいことはいっぱいあったけれど、結局最後まで聞いた。
今、静かに聞いてあげることは自分にしかできないという自覚が、最後まで女の口をつぐませていた。
今にも自殺するんじゃないか、というところまで男が語り終えても、それを静かに聞いた。
そして男が心を剥ぎ終えて、小さく心細くなったとき、女は漠然と、それを包んであげたいと思った。
それはちょうど、男が女を抱きしめたときだった。

男(…)

男は長い独白を終えた。
心の軋むような痛みを吐き出すように、男は呻いて独白をした。
不思議と言葉は途切れることなく胸に浮かんだ。
寧ろ激情の奔流と共に取り返しのつかない言葉を吐き出しそうになるので、男は口の上で言葉を切っては、口にしかけた言葉を飲み込むのだった。
その繰り返しだった。

男の心はいくらか安らいだ。
自分の気持ちを再び口に出してみることで、自分を冷静に客観視出来たのかもしれない。

死にたい、最低だ、……全て、男の本心だった。
だが、言葉にしてみて改めて距離をおいて考えてみると、本心がわからなくなった。
あるいは、本心だなんて物はもうとっくの昔に壊れてしまっていたのかもしれない。
ともかく、男は空っぽになったことを感じた。
男を長いあいだ男たらしめてきた、その本心というものを吐き出した気分だった。
胸には不思議な空虚感があった。
何かをやり通した清涼感というのはさすがに浮つきすぎな表現だろうけれど、うちひしがれた絶望感というには腑に落ちない。
ただ、男の体からすぽりと心だけが抜け落ちたかのように、何かの憑き物が取れた。

代わりに、自分の手の平に心をすぽりと包むように、男は自分の心に思いを馳せた。

それは男の痛みという痛みの、そのもっとも痛い部分を汲み出して、血のように彼の手の平からだばだばと零れていた。
心のもっとも痛々しい部分を手の平にのせてみたら、ちょうどこのようになるのかもしれない。
彼の編み目だらけの両手によって、ぐずぐずに傷ついた男の心は、その血を下に流しに流して、ようやく透き通ったちっぽけな小さな一欠けのガラスになっていた。
それを手の平に載せて、しばらく眺めて、ようやく男は自分の気持ちを見つめることができたようであった。

それは、どんな感情とも言えなかった。
ただ、ひどく弱った心が次の居場所を求める時の、それに似ていた。
そして確かに、こうして女を抱きしめていると安らぎを覚えるのだった。

 

男「…女」

女「…」

男「…ありがとう」

女「…うん」

男「…」

 

屋上は静かな場所だった。
男と女の涙が止まったのは、学校の授業が終わってからであった。
少し寒いかな、と男は思った。
だから、手を繋いで帰ることが出来ないかな、と呟いた。
女は静かに頷いた。

男「…」

女「…」

泣き腫らした二人が町を歩いている。
夕暮れがそろそろ薄く灰色を帯びて、夜の気配と匂いがしんと張り詰めるような頃のこと。

男「…」

女「…」

二人ともは手を繋いだまま無言だった。
何かをしゃべるのは場にそぐわないような、そんな沈黙がそこにあった。
だから二人は口を開かなかった。
ただ、気まずかった訳ではなかった。
あれだけ泣いたのだから、二人とも今は気持ちを静かに落ち着けたいだけであった。

やがて女の家の前に二人がつくと、二人は向き合って「バイバイ」とだけ交わした。

男「…」

男「…やばいな」

男「…冷静に考えたら俺、結構やばいことしてるんじゃ…」

男「…」

男「これはまずい」

男「女子に抱き着く時点でもうやばいじゃん」

男「…」

男「でも、拒否しなかったってことは…脈あり…なのか?」

男「…」

男「…女が優しかっただけだ」

男「…そりゃ、大の男が泣いてたら、何となく拒否しづらいだろうな」

男「それにまあ、ハグぐらいは海外でもよくされるみたいだし」

男「…」

男「…洗濯しなきゃな…」 ピッ

妹「妹だよ!妹だよ!」 ウィーン ガゴン

男「…」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ブォーン

男「…俺は、狂ってるのかもしれないなあ…」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ブォーン

男「…」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ブォーン

男「…これが、妹に見えるなんて」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ブォーン

男「…」
男「…明日、学校いけるかな」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ブォーン

男「…」

男「…」

妹「…」

男「…」 うとうと

妹「…」

男「…?」 うとうと

妹「…ねぇ」

男「…何?」 うとうと

妹「…もうやめる?」

男「…」 うとうと

妹「…?」

男「いや、やめない…」 うとうと

妹「…」

男「…明日、もう一回学校行く…」 うとうと

妹「…」

男「…」 すや…

男は夢をみた。
少女がはにかみながら男になにかを言っていたような、そんな曖昧な夢だ。

男の記憶がはっきりしないのは、昨日の体験のせいでもある。
つまり、妹がついに喋ったという体験だ。
男の意識は全てそちらに剥がれこんでしまって、もはや何も思い出せない。
そして残念なことに、妹が昨晩何を話していたかも忘れてしまった。
うとうとまどろんで、眠気に負けて反射的な返事しか出来なかった記憶だけがある。

たしか、洗濯機の前だった。
男はというとそのまま寝てしまいそうだったが、しかし、本能だけはしっかりしていたらしく、男は布団の上で寝ていた。
というのも体の方は、このまま立って寝るのがよくない事だと本能で悟ったらしい、うとうとしながら布団に倒れ込んだ訳だ。

全く男は後悔するほかなかった。

ただ、一つだけ希望がある。
玄関のドアが開いていた。
つまり、誰かがこの部屋のドアを開けたのだ。

昨晩に洗濯機の前で話した人物、つまりは妹が、そこにいたのかもしれない。
しかし、よく思い返せば昨日ドアを閉めた記憶がない。

いや、洗濯機を回した記憶もない。
夕飯を食べた記憶もない。
妹に邪魔をされた記憶もない。
夢をみた記憶もないし、妹と会話をした記憶もない。
そうやって、無い物を切り詰めていくうちに、男の世界は狭くなる。
やがて、今がまだ深夜の2時だと知ると、ああ昨日は泣き疲れてそのまま寝たか、とようやく気付く。
だが、瞼はすでに重たい。
男の世界はいよいよ狭くなった。

男「…」

男「結局二度寝してしまった…」

男「まずいな…頭がぼんやりする…」

男「というか宿題をマッハでこなさないとまずい…」

妹「妹だよ!妹だよ!いも」 カチッ

男「…」

妹「…」

男「よし、起きるか…」

妹「…」

男「一応、頑張ってみる」

妹「…」

男「まだ少しだけ頑張れそうだ」

男「…」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ガタンゴトン

妹「妹だよ!」 ゴホッ ゴホッ

男「…」
男「まず、学校についたら女と話がしたい」
男「できたら昨日の事について聞きたい」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ppp
妹「妹だよ!」 ペラ
妹「妹だよ!」 zzz

男「そして、謝りたい」
男「今まで事情を隠していてごめんって言いたい」
男「…」
男「でも、話す覚悟が、まだない」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ガタンゴトン

男「…」
男「なあ、知っているか」
男「俺は狂ってないんだ」
男「ただ、ちょっと疲れてるだけなんだ」

男「…」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ピッ

男「…そうか」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ニヤニヤ
妹「妹だよ!」 アタフタ
妹「妹だよ!妹だよ!」 ポカーン

男「色んな人で溢れかえりながら、この世というのが出来ている」

妹「妹だよ!妹だよ!」 キャッキャッ
妹「妹だよ!」 ナデナデ

男「それが少しわからなくなるだけで」

妹「妹だよ!妹だよ!」 ニコ

男「こんなに辛くなるなんて思わなかった」

妹「妹だよ!妹だよ!……」
妹「…妹だよ…」
妹「……妹…」

男「…」

男「…」

男「世の中に溢れかえっている人の、一人に、なりたい」

男「誰でもいいような、誰だかわからないような、そんな一人になりたい」

男「誰かに埋もれて生きたい」

男「誰もが同じだと実感して生きたい」

男「自分だけが情けない、だなんて思わなくてすむように生きたい」

男「…」

男「…だから、今日も学校に行く」

男「多分、一日でも休んだら俺は、自分に負けてしまう」

男「…」

第二部

妹「ねぇお兄ちゃん!」

男「…」 zzz

妹「お兄ちゃんったら!」

男「…ん」 パチッ
男「…ここは…」

妹「? いつもの公園だよ?」

男「…!」

妹「お兄ちゃん?」

男「…な、なんでもない…」

父「おー、起きたか」
母「あら、まだ眠っててもいいのにねぇ
  こら、妹。お兄ちゃんを起こしちゃだめでしょ?」

男「…父さん、母さん…」

妹「えー、でもお兄ちゃんがー…」
母「もう、本当にこの子はお兄ちゃんっ子ね…」
父「はっはっは、パパ嫉妬しちゃうなー」
母「もう、あなたったら」

男「あー、いや、起こしてくれてありがとうな」

妹「うん!」 ニコッ

男「…」
男「いつもみたいに木登りするか?」

妹「うん! しよっか!」
父「お、パパも木登りしちゃおっかなー」
妹「やだ! パパのヒゲ怖いもん!」
父「そんなこと言う子にはジョリジョリしちゃうぞー!」 ガバッ
妹「きゃーっ!」
母「ふふ、パパもはしゃぎすぎよ?」

男「ははは、父さんったら…」
男「…」
男「…はは」 グスッ

母「あら、どうしたの?」
父「ん?」

男「あ、いや、…」

妹「え、お兄ちゃん大丈夫?」

男「…怖い夢を見ちゃっただけ、なんでもないよ」

父「はっはっはっ、パパも時々ママが怖いんだぞー!」
母「あなたったら!」
父「夜なんか特にね」
母「も、もう!」

男「ははは…」

母「…男?」

男「…何? 母さん」

母「…貴方、本当に男かしら?」

男「…っ」

男(く、こんな質問に動揺してしまった…何とか自然な理由を装う必要がある…
  この質問、本当に俺が「男」ならば、つまりこの家族の息子ならば、こんなに動揺しないはずだからな…
  まず、何があって俺が動揺したかを考える。何があったかというと、俺が怖い夢をみた、目が覚めた、妹たちが会話した、…
  よし、怖い夢と絡めて…)
男「…実は、お母さんのセリフ、そのまんま夢に出て来たんだ…」

母「あら、怖がらせちゃったかしら……ごめんね、お兄ちゃん」
父「おー、そりゃ怖いな! まあパパは同窓会に参加するとしょっちゅうそういわれるな!」
母「もう、いつもパパはお調子者ね。男の話も聞いてあげなさいな」

男(そうだ、これでいい…
  このままこれを続けない限りには、俺は何も…
  そのためにはこの夢が、続かないといけない…
  俺が記憶を取り戻すためには…)

父「いやー、昔はイケメンだったのに、ママといちゃついてからますますイケメンになっちゃったからねー」
母「もう…あなたは」

男「ははは…」

妹「嘘だー! ヒゲ生えてるじゃん!」
父「何をー! そんなこというやつはジョリジョリだぞー!」
妹「きゃーっ!」
母「まったく、パパは妹が大好きねー」
父「ママは愛してるけどな!」
母「ふふふ」

男「…」

男(…)

男(俺は、ずるいな?)

男(言い訳を考えるときに気付いた)

男(そもそも、言い訳をしなくてもいいことに)

男(なぜなら俺は男本人だから)

男(だというのに、言い訳をしてしまった)

男(…)

男(後ろめたいからだ)

男(多分、こんなに幸せでいるのが後ろめたいからだ)

男(こんなに幸せな夢に浸るのは、罪でしかない)

男(俺が家族との楽しい思い出にいる間)

男(俺の家族は息をしていない)

男(…)

男(母さんが言った言葉は、恐ろしかった)

男(『…貴方、本当に男かしら?』)

男(その瞬間俺は、泣きそうになった)

男(そう、俺が奪った)

男(他でもない俺が奪った)

男(俺が、俺の立ち位置を奪った)

男(乞食のみっともない俺が、全く関係ない輝かしい頃の俺の立ち位置を奪った)

男(幸せだった頃の俺の思い出を、横から掠め取った)

男(…何でだ)

男(何で俺は、幸せなままに、そっとしておいてやれなかった?)

男(何で俺は、自分を苦しめる?)

男(…頼む、から)

男(…幸せだった頃の俺を、そっとしておいてやってください)

男(頼むから、汚さないで)

男(…)

母「…いいのよ、男」

男「…?」

母「甘えてもいいのよ、家族なんだもの」

男「…」

母「何だか肩を張りすぎよ? もっとリラックスしなさいな」
父「よーし! パパ甘えちゃおっかなー! 家族だもんなー!」
母「あなた!」

男「…ありがと」

父「おう、構わん!」 ビッ
母「あなたじゃないでしょ!」

男(…。
  少しぐらいなら……甘えてもいいかな……
  ……いいよな……)

男(…。…?)

男は目を覚ました。そこには何も変わらぬ日常が待っていた。
しかし、それは昔の日常であった。
朝に目を覚ますと、母の鼻歌と父の慌ただしい音が聞こえる日の事。
何も特別なことがない一日。

男(…これは…?)

男は、目の前の事を俄かには信じられなかった。
ただそれだけだ。
実の所、理性はこの現象が夢でしかない、と告げていた。
ただ、どうせ夢なら、という甘えが湧き出て来た。
つまるところ、夢が夢であることにまかせて、甘えきってしまおうと考えた。

まずは、まだ瞼にのこるまどろみに任せて、二度寝をしようと考えた。
やがて意識は溶け出した。
少しばかり、母の焼くソーセージの匂いが懐かしかった。

”頼むから、幸せだった頃の俺を汚さないでくれ”

夢の中。
どこかで小さな悲鳴が聞こえた。
一瞬男はどきりとした。
その悲鳴が何なのかは忘れてしまったが、その悲痛さは信じられない鋭さで心に刺さった。

だが、どこかで甘やかな声が聞こえた。

”甘えてもいいのよ”

男はそれを聞いて、全てを忘れて安心した。
そういえば、自分は甘えてよかった気がするのだ。

男はもう、小学生。
妹がいて、父がいて、母がいる。

明日もいい子でいられますように。

ある日の事。
何時だっただろうか。
そうだった、今日は夏休み。
そんな気がする。

妹「お兄ちゃんどうしたの?」

ほら、妹が半袖を着てソファで寝そべっている。
一人占めしちゃいけないだろ。
というより扇風機を俺にもよこせよ。
でも、口には出さないままで。

妹「ん、いいよ! はい!」

いや、アイスはいいから。まあ欲しいけど。
でも、口には出さないままで。

妹には曖昧に笑みを返していた気がする。
気を使わせてはいけない。
そんな気がして。

俺は、この時から人に媚びるのが上手かった気がする。

そんな夏の日。

明日もいい子でいられますように。

ある日の事。
何時だっただろうか。
自分が熱を出して学校を休んでいた時だったか。
そんな気がする。

妹「お兄ちゃん見て!」

妹は相変わらず元気だ。
俺の体調のことなんかそっちのけで、でも俺にかまって欲しいようだ。

この幼い頭は、俺がどれだけ辛いかわからないみたいだ。
多分、この子にとってみたら「一緒にいられる時間が増えた」ぐらいなのだろう。
だからなのか、学校から帰ってくるなりこっちに飛び付いてきた。
仕方がない。相手をするしかない。
妹が笑顔なのだから。

あんまり元気は無くても、自分は曖昧に微笑んでいた気がする。
妹はいつもそれを見て、にへらと笑っていた気がする。
つまらないことでも、二人はいつも笑っていた気がする。

そんなある日。

明日もいい子でいられますように。

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