春香「私の物語」 (130)
『………』
遠くで、声がする。
……ううん、正確には、遠いのか近いのかなんてわからない。
だって、多分これは夢だと思うから。
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『……!……!』
……誰だろう。
『……!……!』
私、ひょっとして呼ばれてるのかな……?
『……!聞いてくれ!』
それにしてもこの声、どこかで聞いた気が……。
『……!俺は、お前……に惚れたんだ!』
あ、あれ?
今のセリフ、ひょっとして……?
『……!何年かかるかわから……、必ずお前を……!』
『2人で………を……んだ!』
もー、大事なトコだけ聞こえないよぉ!
せっかくいいところなのにぃ!
『だから、……!』
『アイドル辞める、なんて言うな!』
………………え?
ーーーーーー
ーーー
「……ふわぁ」
「……なーんか変な夢だったなぁ……」
目覚めは、あまり良いとは言えなかった。
なんだか身体が熱いし、いつもより頭がボーっとする。
風邪かなぁ?
でも、特に身体がダルいとかはないみたい。
それよりも……。
夢の内容を断片的に覚えてる。
私、夢の中で告白されてたっぽかったよね、確か。
「うわぁ……思い出したら、恥ずかしくなってきちゃった……」
枕に顔を埋めて顔の火照りを冷まそうとするんだけど、全然効果はない。
むしろもっと意識しちゃって、夢の中のセリフがリフレインされて余計に顔が熱くなっちゃう。
「はー……生まれて初めて、告白されちゃったよぉ……」
……夢の中で、だけど。
べ、別にいいもん。
結構いい声してたし?
ステキな人だよね。きっと。
でも、恋とか、私にはまだよくわからないなぁ。
「恋……かぁ……」
私だって、そういう事に興味がない訳じゃない。
高校生にもなれば、友達とそういう話もするし。
いわゆる、ガールズトークっていうやつ。
まあ、私は恋愛経験なんてないから、いつも聞き役なんだけどね。
でも、彼氏いる子の話を聞いていると、恋ってなんだか大変そう。
しょっちゅう彼氏さんとケンカしてるみたいだし、一日にメールは何回、電話は何回、とか……。
人それぞれなんだろうけど、そういう話を聞いていると、『私には恋なんてまだ早いのかなぁ』なんて思ったり。
そんなだから、恋愛の歌の表現力がまだまだだ、とか言われちゃうんだろうな。
オーディションも全然受からないし……。
「恋してキレイに〜なれ〜……」
「……なーんて」
恋をしたら、キレイになるのかな。
何かが変わるのかな。
……ま、その前に相手がいないんだけどね。
天井を見上げてそんな事を考えていた私は、ゆっくりと視線を壁掛け時計に動かし……。
……って、ああああっ!?
「ど、どうしよう!?もうこんな時間っ!?」
時計の針は無常にも、普段ならあり得ない時間を指し示していた。
「も〜!なんで目覚まし鳴らないのぉ!?」
目覚まし時計を手に取ってスイッチを確認する。
あ……。
目覚まし、セットし忘れてた……。
目覚まし時計さん、八つ当たりしてごめんなさい。
自業自得でした。
「と、とにかく、用意しないと……!」
……と思ったけど、その前にプロデューサーさんに遅れるって連絡するのが先だよね。
充電器から携帯を抜く。
ディスプレイには、『未読メールあり』の文字。
「あれ?メール来てる。プロデューサーさんから……?」
メールを開くとそこには、『今日のレッスンは中止』という旨の文章が簡潔に書いてあった。
「なーんだ、今日はお休みかぁ……」
遅刻しなくて済んだのはいいけど、一気に暇になっちゃったなー。
今日は一日レッスンの予定だったのに。
ボフッ、と、ベッドに倒れ込む。
「どーしよーかなー。ヒマ人になっちゃったよー」
とりあえず、ベッドの端から端までゴロゴロ転がってみた。
……うん。全く意味の無い動きだったね。
「うーん………」
自主練でもしに行こっかな。
私ってば、アイドルって言ってもまだまだ駆け出しな訳だし。
こんな風にゴロゴロしてる場合じゃないかも。
うん。そうだよね。
私、ダンスも歌も、まだまだだもん。
「……………よーしっ!」
サッと飛び起きる。
さて、戦闘準備、しますか。
あ、そうだ。みんなにクッキーでも作って持って行こう。
えへへ、こないだ好評だったイチゴ味にしちゃおっと。
そんな事を考えながら、着替えを用意する。
「……はーみがき、メイク、って遅刻しちゃう♪いってきます……」
ーーーーーー
ーーー
いつもの並木道。自転車を飛ばす。
春に足を踏み入れたっていっても、この時期の朝の風は、まだまだ冷たい。
「うぅ……寒いっ!」
手袋、してくれば良かったかな。
でも、そんな寒さも、道の片側に続く桜の木の行列を見ると、全然気にならなくなる。
淡いピンク色の花たちが、今日も私を元気づけてくれるから。
満開、とまではいかないけれど、道の片側を埋め尽くすほどの、桜の花。
七部咲き……だったっけ。
今が一番見頃なんだよね、確か。
私は、春が好きだ。
自分の名前に『春』っていう文字が入っているから、っていうのもあるけど。
春は、こうして桜の花に会えるから。
毎年の事なんだけど、久しぶりに会った親友のように、変わらない姿をまた見せてくれるから。
それに、春は始まりの季節。
進級、進学、就職……。
何かが始まるような気がして、ドキドキしちゃうんだ。
新しい出会いとかあるかも、なーんて。
そんな事を考えてテンションが上がった私は、少しだけペダルを踏む足に力が入っちゃうのでした。
『………次は〜、○○〜、○○〜……』
『ご利用のお客様は……』
私の地元は、お世辞にも都会とは言えない。
なので、最寄り駅から電車に乗ってすぐの車内は、ガラガラな事がほとんど。
まあ、都内に近づくとすぐに人で一杯になっちゃうんだけど。
「…………♪」
今は人も全然いないから、こうして電車に揺られながら大好きな音楽を聴く事もできる。
まだ乗客も少ないこのひとときは、私のお気に入りの時間だったりするんだよね。
……それにしても、やっぱり千早ちゃんの歌はいいなぁ。
何回聴いても惚れ惚れするよ。
歌が上手なのはもちろんだけど、彼女の最大の武器は、なんといってもこの表現力だと思う。
聴いていると、千早ちゃんの歌の世界に引き込まれちゃう。
普段はあんまり抑揚の無い話し方だったりするのに、歌うと全くの別人……は、ちょっと言い過ぎか。
とにかく、歌ってる時の千早ちゃんはとっても感情豊かになるんだよね。
私も見習わないとだよ、ホント。
そういえば、私が『蒼い鳥』を歌ったら、千早ちゃんに、
『……何かが違うわ、春香。蒼い鳥はそんな歌じゃないと思う』
って、真顔で言われたっけ。
あはは……あれは結構ショックだったなぁ。
まあ、千早ちゃんは歌に対してとっても真面目だから、仕方ないよね。
うーん、やっぱり私は表現力が苦手なんだなぁ。
あ、そういえば千早ちゃんは今日の予定、どうなのかな?
もし都合が良かったら、千早ちゃんに指導してもらっちゃおっかなー。
ポチポチ、とメールを作成。
「……送信、っと」
もっともっと頑張らないとだよね。
頑張って、頑張って……。
みんなで、トップアイドルを目指すんだ。
見てくれる人を元気にしてあげられる、そんなアイドルになるんだ。
……恋してる暇なんか、無いよね。
ーーーーーー
ーーー
「……おはよーございまーす!」
「あら、春香ちゃんおはよう」
事務所の扉を開けると、小鳥さんが笑顔で出迎えてくれた。
765プロの頼れる事務員、音無小鳥さん。
ちょっとお茶目なところもあるけど、優しくてとっても素敵な人。
……年齢の話さえ、彼女の前でしなければ。
「……あら?そういえば春香ちゃん、今日はお休みになったんじゃなかった?」
「あ、はい。そうなんですけど……」
「おーい、ハム蔵ー!どこ行ったんだー!?」
「自分、謝るから出て来てよぉ!」
小鳥さんと話をしていると、給湯室の方から声が聞こえた。
これは、響ちゃんの声だね。
給湯室にいるのかな。
「ひびきん。ここは亜美達にまかしてよっ!行こっ、真美!」
「りょ→かいっ!」
「あ、2人ともちょっと待ってよ!」
「響、あんまり期待しない方がいいよ?この2人が絡むと、ロクな事にならないんだからさ」
「真ちゃん、それはちょっと言い過ぎなんじゃないかな……」
「そ→だよマコちん!真美達だって、マジメに遊ぶ時だってあるんだからっ!」
「……それ、結局遊んでるんじゃないか」
「……まったく、情けないわねぇ。飼い主に威厳が無いからこんな事になるのよ」
「うぅ……面目無いぞ……」
「あの、響さん。わたしもハム蔵を探すの、お手伝いします!」
「やよいぃ〜、ありがとな〜」
「それにしてもわたし、初めて知りました。ハムスターって、インゲン豆が好物なんですね!」
「え?いや、そんな事はなかったと思うけど……」
「だって、さっき伊織ちゃんが『インゲンが無いからハム蔵が逃げた』って……」
「あ、あのね、やよい。インゲンじゃなくて威厳……」
「わたし、スーパーでインゲン買って来ますね!」
「ちょ、ちょっと待ってやよい!」
「や、やよいちゃん?」
「……さすがやよいっち。ボケも天使ですなぁ」
「ですなぁ」
響ちゃんの他にも、何人かの声がする。
もうみんな来てたんだね。
「みんな、元気ねー」
「あはは、そうですね!」
みんなの会話を聞いて、思わず小鳥さんと一緒に笑ってしまう。
今日も、いつも通り騒がしい765プロだった。
「はーいみんな、クッキーですよ、クッキー!」
手塩にかけて作ったクッキーをみんなに振る舞う。
……あ、別に塩は使ってないんだけどね。
「んむ、さすがはるるん、いい仕事しますなぁ」
「うんうん、いいお嫁さんになるよ→」
「とーってもおいしいです!」
「うん……まあまあイケるわね」
「えへへ、そう言ってもらえると、作った甲斐があるよー」
良かった。結構好評みたい。
ちょっと多めに作って正解だったかも。
「……いいなぁ、春香は。女の子らしい趣味があってさ」
「え?そんな事ないよ。真だって、可愛い趣味があるでしょ?」
「いや、ボクのは……こうやってみんなに認められる様な趣味じゃないからなぁ」
「そんな事ないと思うけどな」
いつもは元気な真も、こういう話題になるとちょっと元気がなくなる。
ボーイッシュな外見とハスキーボイス。
女の子のファンが多いっていう事もあって、自分はもっと女の子らしくなろう、って頑張ってるみたい。
でも、私はいいと思うけどな。
真の力強い歌声とか、ダンスとか。
憧れちゃうよ。
……って、こういう事を本人に言ったら、また気にするだろうから言わないけど。
「……でも、春香ちゃんはホントにお菓子作りが上手だよね」
「私も、練習しようかな……」
「大丈夫。私でもできるんだから、雪歩だって簡単にできる様になるよ!」
「そう、かな?頑張ってみようかな……」
「お菓子作りでみんなの役に立てれば、こんなダメダメな私も、穴掘って埋まらなくても済むようになるかな……?」
「ほ、掘っちゃダメだからね?」
異次元から取り寄せたスコップを手に穴を掘ろうとする雪歩を、あわてて止める。
ホント、いつもどこから出てくるんだろ、あのスコップ……。
ちょっと控え目で、『清楚』とか『可憐』っていう言葉がとっても似合う雪歩。
でも、私は知ってるよ。
雪歩がとっても頑張り屋だって事。
まあ、これで雪歩がお菓子作りのスキルを手に入れたら、おやつの時間は彼女の独壇場になっちゃうんだけどね。
雪歩の淹れてくれたお茶があるから、私のクッキーが美味しくなるんだよ。
……お茶と洋菓子が合うのかは、この際置いといて。
「自分も料理は得意な方だけど、こういうお菓子作りは、春香には敵わないなーって思うぞ」
「えー、そんな事ないよぅ」
765プロきっての多属性、複数スキル持ちが何をおっしゃいますか。
響ちゃんは、自分で『完璧』って言うだけあって、ホントに何でもできちゃうよね。
料理だけじゃなくて、編み物とか、卓球……は、置いといて。
ダンスも765プロで1番だし、歌も上手い。
沖縄出身の元気印、ちょっぴり天然、八重歯。
可愛いし、スタイルもいい。
……あれ?響ちゃんって、ひょっとしてウチで1番有能なんじゃ……。
いじられキャラのせいで、あんまり気づかれないけど。
こうしてみんなとお話するのは、とっても楽しいんだけど。
みんなといると、どうしても、あの忌々しいふた文字が浮かんでくる。
……『普通』。
無個性って言われた事もある。
そう。私って、何の取り柄もない、どこにでもいる普通の女の子なんだよね。
歌う事は好きだけど、得意って訳じゃない。
身体を動かすのは好きだけど、ダンスは得意じゃない。
顔だって特別可愛い訳じゃないし、スタイルがいい訳でもない。
みんなと比べると、どうしても劣等感を感じちゃうんだよね。
ああ、もう。
余計な事考えたら、テンション下がってきちゃったよ。
今さらこんな事で悩んでも仕方ないのに。
「……ただいま戻りましたー!」
「あ、お帰りなさい、プロデューサーさん」
「音無さん、例の件の見積もり、できてます?」
「それなら、ほら」
「おおー!さすが音無さん、仕事が早いですね!」
「うふふ、おだてても何も出ませんよ?」
プロデューサーさんが帰って来たみたい。
どこかに行ってたのかな?
そうだ。プロデューサーさんにも、クッキー食べてもらわなきゃね。
「プロデューサーさん、お疲れ様です!」
「おー、春香か。……あれ?今日は休みだって伝えたはずだけど」
「おかしいな。メール、届いてなかったか?」
「あ、はい。メールは見ましたよ」
「じゃあ、どうして事務所に?」
「自主練でもしようかと思いまして」
「春香……!」
プロデューサーさんは大げさに泣き真似をして、私の手をギュッと握る。
「そうか!やっと分かってくれたか!今のお前に足りないのは練習量だ。なあに、ちょっと頑張ればお前のガッツならすぐにみんなに追いつくさ!」
「追いつくって……?」
「ここのところ一番業績が悪いのは、春香、お前なんだよ」
「えっ……?」
そうかもしれない、とは思っていたけど……。
実際に事実を突きつけられると、やっぱりショックだなぁ……。
「大丈夫だ。俺が絶対、春香をトップアイドルにしてみせるからな!」
「は、はい……」
「あー、はるるんだけズルいっしょー!」
「そーだよ兄ちゃん!真美達はー?」
「プロデューサー!ボクだって頑張っちゃいますよ!」
「ふふーん!自分は完璧だから、トップアイドルなんて目と鼻の先なんだぞ!」
「わ、分かってるよ。みんなで頑張ろうな」
やっぱり私、みんなの足引っ張っちゃってるのかな……。
確かに、みんなオーディション受かってるのに、私だけ……。
……なんか、さらに暗くなってきちゃった。
プロデューサーさんを中心に騒いでいるみんなの声が、ずいぶん遠くに聞こえた気がした。
「……ん。んまいな」
「さすが春香、お菓子の申し子だな!」
「なんですか、その微妙な褒め方は……」
「でも、プロデューサーの言う通りなの。ちゃーんとイチゴの味も生きてるし、さすが春香ってカンジ!」
「えへへ、ありがと、美希」
いつの間にかソファで寝ていた美希も起きて、一緒にクッキーを食べていた。
時々、この子には食べ物を感知するセンサーでもついているんじゃなかろうか、とか思ってしまう。
「そういえばプロデューサーさん、午前中はどこかへ行ってたんですか?」
「ああ………ふふふ、ちょっとな」
思わせぶりな含み笑い。
なんだろ。気になるなぁ。
「そのうち分かるよ」
「……じゃあ、俺はこれからまた出かけなきゃならないから。自主練、見てやれなくてごめんな」
「いえ、平気です。頑張ってくださいね、プロデューサーさん」
「プロデューサー、行ってらっしゃいなのー」
「ああ、行ってくるよ」
「……さて、私もそろそろ行こうかな」
さっき千早ちゃんから返信があって、どうやら千早ちゃんも自主練中みたい。
『いつものスタジオで待っています』と、絵文字もない、簡潔で無機質なメールが来ていた。
千早ちゃんらしいや。
「春香、どっか行くの?」
「うん。ちょっと千早ちゃんとレッスンにね」
「ふーん」
「美希も一緒にやる?先生は鬼だけど」
「んー……ミキはいいや。まだちょっと眠いし」
「そっか」
ホント不思議だよね、美希って。
いつレッスンしてるんだろう、って思うぐらい、普段は寝てばかりだし。
かと思えば、フラッと受けたオーディションにぶっちぎり一位通過しちゃったりするし。
美希が本気出せば、そこら辺のアイドルなんて目じゃないって思うんだけどな。
でも、本人はなかなかやる気を見せようとしない。
そういえば、前にプロデューサーさんが言ってたっけ。
『実力があっても、それを発揮できる舞台を用意できなければ意味がない』
『美希には、本当にすまないと思ってる。765プロに……俺に、もっと力があれば……』
『美希の実力をこんなところで埋れさせるのは、もったいなさすぎる』
実力を発揮できる場所、かぁ。
そういうのって、やっぱりお金が関係してくるんだよね、きっと。
今のウチには……そんなお金は無いよね。
私がアイドルとしてちゃんと稼げてれば……。
……ダメだ。
さっきから暗い考えばっかり。
レッスン頑張って気持ちを切り替えなきゃ。
「……じゃあ、私行くね?」
「うん。頑張ってね〜。お土産よろしくなの〜」
「あのねぇ。お土産って、遊びに行く訳じゃないんだから……」
「あは☆そんな事言いつつ、ちゃーんとお土産買ってきてくれる春香が、ミキは大好きだよ?」
「もう、しょうがないなぁ」
「よろしくなの〜」
得な性格だよね、まったく……。
何を言われても、あの笑顔を見たら憎めないんだもん。
ーーーーーー
ーーー
「……あおいぃ〜とりぃ〜♪もししあわせ〜♪」
「ちかく〜に〜あっても〜♪」
スタジオの防音扉を開くと、髪の長い、青いジャージの女の子がひとり、歌を歌っていた。
ふふっ、いつもの千早ちゃんだね。
「千早ちゃん、お待たせー!」
「……おはよう、春香。ずいぶん時間がかかったのね?」
「あー……ちょっと事務所で、ね」
「おしゃべりしていたのね?」
「まあ、今日は通常のレッスンという訳ではないし、時間を決めていた訳でもないけれど……」
「私、結構待ったのよ?」
少しムッとした表情の千早ちゃん。
でも、長年(っていっても、ほんの1年程度だけど)連れ添ってきた私にはわかる。
これは、本気で怒ってるわけじゃないって。
「ごめんね。待たせちゃって」
「私、ちゃんと頑張るから、よろしくお願いします、先生!」
「もう、先生だなんて」
「私、まだ人にものを教える程では……」
「そういう細かい事はいいんだよ。今日は千早ちゃんは私の先生なんだから!」
「そ、そう?」
「……コホン」
「じゃあ、早速着替えて、春香。時間が惜しいわ」
「はーい!」
なんだかんだ言って、すっかり先生モードの千早ちゃん。
張り切る千早ちゃんは可愛いなぁ。
「まずは、ストレッチから始めましょう」
「はい、先生!いつもやってるやつですね?」
「ええ、そうよ」
「いち、にい、さん、しー……」
声を出す前にも、ストレッチとか、準備運動は必要なんだって。
身体を解してからの方がちゃんと声が出るって、歌の先生が言ってたっけ。
「……次は発声練習ね」
「ピアノはないけど、やってみましょうか」
「はーい、先生」
「あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜♪」
「……どうですか?」
「音程が微妙にズレているわね。最初のドの音からすでに違うわ」
「ええっ?ちゃんとできてたと思ったんだけどなぁ……」
うぅ、私って音痴なのかも……。
「正しい音程は、正しい発声法から。春香はまず、発声法を身につけるのが先みたいね」
「は〜い……」
前途多難だよぉ……。
でも、千早ちゃんと一緒だと、楽しいな。
「もっと背筋を伸ばして」
「は、はいっ」
言われた通り、ピシッと背筋を伸ばす。
「顎は上げてはダメよ。顎を上げると、喉が閉じてしまうから」
「顎は引いて。でも、しっかり前を見て」
「わ、わかりました」
む、難しい……。
「その姿勢で、ゆっくり大きく息を吸って……胸ではなく、お腹に、下腹部に息を溜めるの」
「お腹に手を当てると、息が溜まって膨らむから、わかりやすいと思う」
「あと、口からより鼻からの方がよりたくさんの空気を吸い込めるわ」
「ち、千早ちゃん、一度に言い過ぎぃ!」
「すぅーーー……」
あ、ホントだ。お腹が膨らんで……。
「それじゃ、溜まった息をゆっくり吐き出して。……そう、ゆっくりね」
「ふーーー……」
「顔の前に的があると思って。その的に、吐いた息をぶつけるイメージよ」
うぅ、キツイ……。
確か、こういうダイエット法があったよね。
「……次は今のやり方で声を出してみましょうか」
「はい!」
ええと、背筋を伸ばして、顎を引いて、前を見て……。
お腹に息を溜めるように、口じゃなく鼻から吸って……。
「すぅーー……」
顔の前の的にぶつける感じで……吐く。
「あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜♪」
あっ……私、今……。
「……春香。なかなか上手よ。音程も、今度はちゃんと取れていたわね」
レッスンを始めてから、ここへきてようやく千早ちゃんが微笑んでくれた。
千早ちゃんの笑顔を見ると、すごく安心できる。
アメとムチの使い方、ちゃんとわかってるなぁ。
「うん。なんか私、わかった気がするよ!」
「えへへ、これも先生のお陰だね!」
「ふふ。でも、これで満足してもらっては困るわ。今日は春香に、発声法を完璧にマスターしてもらうつもりだから」
「さ、さすがに今日一日じゃ無理じゃないかな?」
「それは春香のやる気次第だと思うわ。今日はみっちり練習しましょう」
「さあ、休んでる暇がもったいないわよ」
「は、はい……」
やっぱり歌の事となると、千早ちゃんは鬼だった。
でも、今のままじゃ私は765プロのお荷物だもんね。
干されないように頑張らないと。
ーーーーーー
ーーー
「……ふぅ、疲れたぁ」
自主練が終わってスタジオを出る頃には、もう日が傾きかけていた。
「頑張ったわね、春香」
「うん。もうクタクタだよ〜」
千早先生のしごきは、あの後も鬼だった。
途中で腹筋100回とか言い出すし……。
でも、今日は千早ちゃんのお陰でとても充実してたなぁ。
「千早ちゃん、ごめんね。今日は私に付きっきりだったから、千早ちゃんのレッスンができなかったよね」
「気にしないで。私も初心を思い出すいい機会になったから」
「ありがとう、千早ちゃん」
「……じゃあ、事務所に帰ろっか」
「ごめんなさい。私はこのまま家に帰るわ」
「え?そうなの?」
「ええ。だから、今日はここで」
「そっかぁ……。寂しいなぁ」
「毎日事務所で顔を合わせているじゃない」
「まあ、そうだけどさー」
私は、もう少し千早ちゃんとお話したかったんだけどなぁ。
でも、千早ちゃんはひとりの時間をすごく大切にしてるから、仕方ないかな。
「じゃあ、私は行くわね。春香、お疲れ様」
「あ、うん。また明日ね、千早ちゃん!」
「ええ、また明日」
そう残して、青い髪の少女は人ごみに消えていった。
……さて、リボンの似合う少女も、そろそろ行きますかね。
ーーーーーー
ーーー
事務所に戻ると、小鳥さんとプロデューサーさんが黙々と仕事をしていた。
律子さんは……まだ帰って来てないのかな。
いないみたい。
「ただいま戻りましたー」
「春香ちゃん、お帰りなさい」
「おー、お帰り春香」
「別に直帰しても良かったんだぞ?今日は春香は休みなんだから」
「あ……そういえばそうでしたね。あはは、なんか一度ここに寄らないと落ち着かないんです」
「ここは、私の第2の我が家みたいなものですからね」
「まあ、春香ちゃんったら……!」
「そっかそっか。でも、あまり遅くならないうちに帰った方がいいぞ?」
「はい、そうですね」
ソファへ移動すると、まだ美希が寝ていた。
ホント、この子は良く寝るよね。
せっかくお土産買って来たのに。
仕方ない。イチゴババロアは給湯室の冷蔵庫に入れておこう。
小鳥さんが、美希にそっと毛布を掛ける。
美希の寝顔があまりにも可愛くて、写メを撮ろうか悩んでいると、プロデューサーさんに声をかけられた。
「そうだ、春香。明日、重大発表があるから、明日は遅刻しないようにな」
う……まるで今日寝坊したのを見透かされたような発言……。
「はい。わかりました」
「でも、重大発表ってなんですか?」
「ふっふっふ、それは明日のお楽しみだ」
そう言ってプロデューサーさんは、イタズラっぽく笑う。
重大発表かぁ。なんなんだろう。
まあ、この様子じゃ問い詰めたところで明日まで教えてくれないよね。
まさか……。
あまりにもオーディションに通らないから、お前はクビだ!なんて……。
あ、ちょっと不安になってきちゃった……。
隣を見ると、美希の幸せそうな寝顔。
「……美希はいいよね。才能があって」
綺麗な金髪を撫でると、美希がくすぐったそうに身を捩る。
私は………普通、だもんね。
やだな、ここを辞めるなんて……。
みんなの顔が頭に浮かんでくる。
みんなと、お別れなんかしたくない。
まだまだアイドル頑張りたい。
夢、あきらめたくないよ……!
「は、春香っ!?」
「春香ちゃん!?」
「はい、なんですか……?」
「ど、どうした!?何かあったのか!?」
小鳥さんとプロデューサーさんがとっても慌ててる。
どうかしたのかな。
「別に、なんでも……」
……そう言いかけて私は、自分の視界がぼやけている事に気づいた。
「あ、あれ……?なんで……?」
止まらない。ポロポロポロと、熱い雫が頬を伝う。
「だ、大丈夫か?どこか、痛いのか?」
「なっ、なんでもっ……ないですからっ……!」
涙を拭う。拭うそばから、次々と新しい涙が流れていく。
「ホント、なんでも……ないれすからっ!」
恥ずかしくて、悔しくて、悲しくて、もうぐちゃぐちゃだった。
両手で顔を隠しても、涙も、私の気持ちも隠しきれないみたいだった。
ふいに、私の頭に何かが覆いかぶさる。
「……ごめん。何か不安にさせる様な事、言っちゃったかな」
プロデューサーさんの優しい声が、頭の上から聞こえる。
「ごめんな……」
「あ、あのっ……わ、わたしっ……!」
「ごめんな……」
「うぅっ………ううっ……!」
「うわあぁぁぁ……っ!」
その後は、よく覚えていない。
優しい腕に、匂いに抱かれて、子供みたいにただただ泣いた。
いつものように楽しかった一日のはずなのに、なんで最後に泣いちゃったんだろう。
……私って、弱いんだなぁ。
ーーーーーー
ーーー
……心地よい振動を感じる。
身体が宙に浮いている様な、不思議な感覚。
ずいぶん遠くにあった意識が、少しずつ戻ってきて……。
手足の先まで神経が行き渡り、身体が覚醒した事を教えてくれた。
ああ、私、寝てたんだ。
うっすらと目を開くと、景色が高速で流れていた。
……車の中?
「………起きたか?」
すぐ隣から、プロデューサーさんの声。
「……プロデューサーさん……?」
「おはようございまぁす………ふわぁ」
「もう夜だけどな」
「え?そうなんですか……?」
っていうか私、どうしたんだっけ……。
なんで車に乗ってるんだろ。
まだボーっとしてる頭で、状況の整理を試みる。
今日は千早ちゃんと一緒にレッスンして、それから事務所に帰って……。
確か、その後に……。
「……さっきはびっくりしたよ。いきなり泣き出すからさ」
「あ……」
……そうだ。
私、泣いちゃったんだった。
しかも、プロデューサーさんの胸の中で……。
生まれて初めて、お父さん以外の男の人に抱きしめられたんだなぁ……。
そんな風に冷静に考えると、メチャクチャ恥ずかしくて、今にも顔から火が出そうで。
……でも、プロデューサーさんの温もりをあんまり覚えてないのが、ちょっとだけ残念だなぁ、なんて。
……ホント、ちょっとだけ、ね。
「あの、プロデューサーさん」
「さっきは、すみませんでした」
「いや、まあ………気にするなよ」
「それより、気分はどうだ?少しは落ち着いたか?」
「今は……はい」
「そうか。良かった」
「あの後、結構大変だったんだぞ?」
プロデューサーさんが、私が泣いた後の事を話してくれた。
事務所で大泣きした私は、そのまま泣き疲れて眠ってしまう。
プロデューサーさんは、騒ぎの途中で帰って来た律子さんと、あまりの騒がしさに起きた美希に『春香を泣かした!』と責められて……。
でも、なんとか小鳥さんのフォローで誤解を解き、律子さんの命令で、私を家まで送る事になった……と。
うわぁ、完全に私が悪いよね、これ。
「……理由は、聞かない方がいいかな?」
「話せる事なら、吐き出した方が楽になると思うんだ。まあ、無理にとは言わないけどさ」
やっぱり優しいなぁ、プロデューサーさん。
欲しい時に、欲しい言葉をくれる。
「あの、ホントに小さい事なんです」
「実は……」
私は、涙の理由をプロデューサーさんに話した。
「……明日の重大発表で、自分のクビを宣告されると思ったって?」
「はい……」
「……で、事務所のみんなの顔が浮かんできて、感極まって泣いてしまったのか」
「お、お恥ずかしい限りです……」
「はぁ……」
うぅ、そりゃあため息つかれるよね。
勝手に勘違いして大泣きなんて。
雪歩じゃないけど、穴掘って埋まりたい気分だよ……。
「ほんっっっとに、すみません!」
「あの、呆れちゃいました……よね?」
プロデューサーさんは、困ったような呆れたような、なんともいえない表情。
迷惑かけてばかりだな、私。
「……いや、安心したよ。どこか怪我でもしたんじゃないかって、すごく心配したんだぞ?」
「すみません……」
「いいか。春香をクビにするなんて、あり得ないんだよ」
「え……?」
「で、でも、私、オーディションに全然受からなくて、みんなの足を引っ張っちゃってますし……」
「それに、プロデューサーさん、前に言いましたよね?美希の実力が発揮できないのは、事務所が小さいせいだって」
「だから、私をクビにすれば、少しは……」
「春香」
プロデューサーさんの語気が、少しだけ強くなった。
「いいか。美希に関しては、春香の言った通りだ。だけど……」
「誰かを引き立たせる為に、誰かを犠牲にする。そんなのは、ウチのやり方じゃない」
「それは、お前もわかってるだろ?」
「…………はい」
そうだ。
『団結』が、私達の合言葉なのに……。
私、バカだ……。
「それにな。春香は、765プロの事務所の事を『第2の我が家』って言ってくれたじゃないか」
「あ……」
「それってつまり、俺達は『家族』って事だろ?」
「家族をひとりぼっちにするわけ、ないじゃないか」
「プロデューサーさん……」
運転中だから、横顔しか見えないけど。
とてもステキな笑顔だと思った。
「プロデューサーさん、私……!」
「あ、もう謝るのは無しな。すまないっていう気持ちがあるなら、頑張って結果を残してくれた方が嬉しいかな」
「春香には、期待してるんだからさ」
「は、はいっ!」
……そうだよ。
こんなの、私らしくないよね……!
「ありがとうございます、プロデューサーさん」
「私、ちゃんと前を向きます。もう……日和ったりしません!」
「うん。それでこそ春香だ!」
さすがプロデューサーさんだなぁ。
アイドルのテンションコントロールを心得てるというか。
まあ、元は私の勘違いから始まった事なんだけど。
プロデューサーさんの期待に、ちゃんと応えないとだね。
本当に、ありがとうございます。
天海春香、前向きに頑張りますっ!
ーーーーーー
ーーー
「ふわぁ……」
「……うーん、よく寝たなぁ」
昨日と違って、今日の目覚めはとてもすっきりとしていた。
変な夢も見なかったし。
時計を見ると、まだ目覚まし時計が鳴る前の時間だった。
「ん〜〜〜っ」
ベッドの上で身体を伸ばす。
寝起きにストレッチをやる事で、血液の循環が促進されて目が覚めやすくなるって、どこかで聞いた気がする。
「……さて、用意しなきゃ」
目覚まし時計より早く起きたとはいえ、今日は昨日ほどゆっくりはしていられないよね。
「よっ………ととっ!?」
「うわぁあっ!」
ベッドから降りようとしたら、布団に足を取られて転げ落ちちゃった……。
「痛たたた………失敗、失敗……」
少し背中を打ったけど、何ともないみたい。
えへへ、私ってよく転ぶけど、怪我だけはしないんだよね。
……って、自慢にならないか。
昨日の私だったら、こんなドジな自分に自己嫌悪していたかもしれないけど。
今日の私は、自分の欠点すら愛おしく思える。
ドジな私も私の一部だもんね。
こんな風に考えられるのも、プロデューサーさんのおかげかな。
昨日は元気をもらったし。
いい人だよね、やっぱり。優しいし、面倒見がいいし。
何人も同時にプロデュースしてるのに、私達一人ひとりを気に掛けてくれてるし。
プロデューサーさんって、プロデューサーになる為に生まれて来たんじゃないかな?
……なーんて。
ああ、もうこんな時間だ。
早くお風呂入らないと。
ーーーーーー
ーーー
「……ふぅ、さっぱりしたぁ」
シャワーを浴びた私は、脱衣所で着替えを手に取り……。
「………」
そのまま立ち尽くす。
替えの下着、持ってくるの忘れちゃった……。
「うー……スースーするよぅ……」
仕方ないので、下着を付けずに部屋に戻る。
……前言撤回。ドジなところはちゃんと直すべきだね。やっぱり。
ーーーーーー
ーーー
約2時間。
電車を乗り継いでようやく事務所の最寄り駅に到着。
相変わらず人で溢れてるけど、人ごみの中には若い人の姿も結構多かった。
今は春休みだもんね。
事務所へ行く前に飲み物でも買って行こうと思い、コンビニに立ち寄る。
そこで私は、珍しい人物に出会った。
大人っぽい臙脂色のワンピースに身を包む、買い物カゴを持った銀髪の女性が、頬に手を当てて商品棚と睨めっこしている。
「…………貴音さん!」
「……おや?」
「春香ではないですか。おはようございます」
「えへへ、おはようございまーす!」
「この様なところで会うとは、奇遇ですね」
「そうですよねー」
貴音さんがコンビニなんて、意外だなぁ。
何を買うんだろ。
……と、思ったけど、貴音さんが物色しているものを見てすごく納得した。
「ひょっとして、お昼ご飯ですか?」
「ええ。わたくし、今はこの『かっぷらぁめん』なるものがお気に入りなのです」
シーフード味を手に得意げな顔の貴音さん。
確かに美味しいけど、栄養は大丈夫なのかなぁ。
っていうか、すでにカゴに10個は入ってますけど、まだ買う気なんですかねぇ……。
「ええと、もしかしてそれ全部、お昼に?」
「はい。ですが、少々問題がありまして……」
「かっぷらぁめんとは、手軽にらぁめんを食せる画期的なものではあるのですが……」
「出来上がるまで3分、ものによっては5分、待たなければならないのです」
そりゃそうだよね。
いくら貴音さんが食べるのが早くても、最低でも3分×10個の待ち時間があるもんね。
それじゃあお昼休み中に食べ切れない。
かといって、全部一気にお湯を入れたら伸びちゃうし。
「量を少し減らすしかないんじゃないですか?」
「やはり、それしかないのでしょうか。わたくしは様々な味を食したいのですが……」
「あちらを立てれば、こちらが立たず。ああ、まこと歯がゆき事です……」
そう言って悩む貴音さんは、とっても色っぽかった。
……まあ、悩む内容はちょっとアレだけど。
2人並んで事務所へ向かう道すがら、気になっていた事を聞いてみる。
「貴音さんって、いつもラーメンばかり食べてるんですか?」
「だとしたら、よくそのスタイルが維持できるなぁ、って思っちゃうんですけど……」
「……うふふ」
「春香。それは、とっぷしぃくれっとですよ?」
人差し指を口に当てて、ミステリアスに微笑む。
ですよね……。
千早ちゃんと同じくらい自分の事を話さない貴音さん。
私達に心を開いてくれてないっていう訳じゃないみたいなんだけど……。
貴音さんの事を聞いても、大体の事は『とっぷしぃくれっと』なので、素性はほとんど謎。
曰く、『人には秘密の一つや百個はある』らしい。
貴音さんと一番仲がいい響ちゃんも、貴音さんの事はあまり知らないみたい。
分かっているのは、とても大食い(って言ったら失礼かも)だという事、ラーメンが大好きだという事。
あとは、抜群の存在感とプロポーション、大抵の歌は自分のものにしてしまう七変化の歌唱力。
あーあ、私も、貴音さんの何万分の一かの歌唱力が欲しいなぁ。
「……ちなみに、わたくしは春香の作るくっきぃも大好物ですよ?」
「わー、それは嬉しいなぁ!今度また作って来ますね!」
「はい。楽しみにしております」
今度は、ラーメン味のクッキーでも作ってみようかな。
他愛ない会話をしていると、いつの間にか事務所の前まで来ていた。
「おはようございまーす!」
「……おはようございます」
「あら、おはよう。2人とも」
いつも通り、765プロの美人事務員こと、音無小鳥さんが出迎えてくれる。
「春香ちゃんと貴音ちゃんって、なかなか珍しい組み合わせねぇ」
「途中にあるこんびににて偶然会ったのです」
「2人で買い物したんですよねー」
「ええ」
貴音さんと頷き合う。
「な、なんて事っ!」
「これは……由々しき事態ね!」
あれ?小鳥さんの様子が……。
なんかワナワナ震えてるけど、大丈夫かな。
「……はるたか?それとも、たかはるかしら……?」
「これは……千早ちゃんと響ちゃんをも巻き込んだ、壮絶な四角関係もあり得るわ……!」
顎に手を当ててよくわからない事をつぶやく小鳥さん。
……大丈夫じゃなかった。
「はて?小鳥嬢は何を言っているのでしょうか?」
「あ、あんまり気にしない方がいいと思いますよ?」
小鳥さんは優しくて素敵な人なんだけど、たまーにこうやって独りの世界へ行ってしまう事がある。
何を考えているのかは、知りたいような知りたくないような……。
妄想に没入した小鳥さんは、そっとしておこうね。
「では、わたくしは失礼して……」
そう言って貴音さんは、給湯室に向かった。
お昼まで我慢できなかったんですね、カップラーメン。
私は、相変わらずソファで寝ている美希の隣に座る。
思えば、事務所で起きている美希を見る方が少ない気がするよ。
あ、そうだ。
美希、昨日のお土産、食べたかな。
少しすると、貴音さんが私の向かいに座って、カップラーメンを粛々と食べ始めた。
普段は大人っぽいけど、食べてる時の貴音さんは、年相応の少女……いや、むしろもっと子供っぽく見える気がする。
私の一つ上なんだよね、確か。
……美味しそうだなぁ、ラーメン。
「……ん〜、なんかいい匂いがするの……」
カップラーメンの匂いにつられて、美希が起きた。
うん。やっぱり美希には食べ物センサーが付いてるんだね。
「ねえ、貴音……」
「なりません」
「むぅ……まだ何も言ってないの」
「他のものなら差し上げても良かったのですが、らぁめんだけは譲れませんよ」
「…………ケチ」
ふくれっ面の美希を尻目に、ズルズルと美味しそうにカップラーメンを食べる貴音さん。
美希もマイペースだけど、貴音さんも大概だよね。
「ま、まあまあ。美希にはイチゴババロアがあるでしょ?ホラ、私が買ってきたやつ」
「あー、あれはとっくに食べちゃったの」
「あ、そう……」
険悪ってほどじゃないけど、いやーな空気。
なんとかこの場を取り繕おうと糸口を探していると、
「ねえ、貴音。知ってる?」
「ラーメンって、元はひとつの大っきな生地からできてるんだよ?」
美希が、よくわからない事を言い出した。
「その程度の知識なら、わたくしにもありますが……?」
「ひとつの生地を分けてできた麺は、言ってみれば家族同然なの」
「それをおすそ分けできない人は、将来、家族に恵まれなくなっちゃうんだって!」
いやいやいや。
そんな取って付けた様な屁理屈に騙される人なんて……。
「……なんと!それは、まことですかっ!?」
……あ、ここにいた。
「ホントだよ?」
「だから、貴音はミキに一口くれるべきだって思うな!」
「不本意ですが、そういう事なら止むを得ませんね」
貴音さんに手ずからで食べさせてもらって、とっても満足そうな美希。
いいのかなぁ、これで。
「美希。口の周りを拭きなさい。汚れてしまっていますよ」
「ミキ、今は食べるので忙しいから、貴音が拭いてくれてもいーよ?」
「まったく、仕方ありませんね」
なんか、貴音さんも満更ではなさそうだし、一件落着……かな?
「おはよーございまーす!」
「はいさーい!」
「「おは→!!」」
2人のマイペース対決に決着が付いたところで、ポツポツとみんなが集まり出す。
「……お、みんな集まったな。よーし、そろそろミーティング始めるぞー」
プロデューサーさんの号令で、私達はホワイトボードの前に集まった。
「えー、コホン……」
「ではこれより、ミーティングを始めます」
「……ププ。兄ちゃん、なんかカッコつけてる→」
「敬語なんか使わないでふつ→に言えばいいのに→」
「う、うるさいなぁ……」
プロデューサーさんの始まりの挨拶を、亜美と真美が茶化す。
「こら!あんた達は少し黙ってなさい」
「「ごめんちゃ→い」」
そして、律子さんにたしなめられる。
……うん、いつも通りだね。
「まずは今日の予定からな。竜宮は律子と一緒に……」
プロデューサーさんが今日の予定を読み上げていく。
普段と何も変わらないミーティング。
昨日、『重大発表がある』って言ってたけど、いつ発表するつもりなんだろ。
「……と、こんな感じだが、誰か質問あるやつはいるかー?」
「よし、無いな。じゃあ、今日も一日頑張ろう!解散!」
重大発表について考えてるうちに、朝のミーティングはいつの間にか終わっていた。
みんな、思い思いの方向に散って行く。
私は……今日は真美と一緒にボーカルレッスンか。
よし、頑張ろっと。
「……あ、春香。ちょっとこっち来てくれ」
「はーい!」
支度をしていたら、プロデューサーさんに声をかけられたので、2人で応接室へ向かった。
「……ほら、これ」
プロデューサーさんは、私の目の前に薄い箱を差し出す。
CD……かな?
「………えーと、何ですかこのCDは?」
「何って、決まってるじゃないか」
「新曲だよ、新曲!アイドル天海春香の2ndシングルだ!」
「せ、セカンドシングルっ!?」
応接室で私を待っていたのは、とっても嬉しいニュースだった。
「ほ、本当ですか?本当に本当なんですか?プロデューサーさんっ!」
「ホントだってば。こんな嘘ついてどうするんだよ」
「っていうか、少し落ち着け。服、伸びちゃうよ」
「……はっ!す、すみませんっ!」
私は慌てて、プロデューサーさんのスーツの袖口を振り回していた手を離す。
『乙女よ大志を抱け』以来の、久々の新曲だなぁ。
思えば、乙女よ……は鳴かず飛ばずだったな。
大好きな歌なんだけど。
「あっ、昨日言ってた『重大発表』ってもしかして……?」
「ああ。『これ』の事だったんだ」
「いやー、昨日はこれの為に一日中走り回ってたよ」
「そうだったんですか……」
だからプロデューサーさん、昨日はずっと外出してたんだね。
私のために……。
「それはそうと、昨日はごめんな。春香を驚かせようと思ってもったいぶってたら、勘違いさせてしまったみたいで」
「いえ、昨日の事は、もう……」
「私、すごく嬉しいです!頑張りますから、見ていてくださいねっ」
『太陽のジェラシー』かぁ。
この歌も、好きになれるといいな。
「………♪」
新曲を聴きながら、歌詞カードとにらめっこ。
歌詞を読む限りでは、夏の歌みたいだね。
夏の海。浜辺ではしゃぐ2人の男女。
やがて2人は、恋に……。
って感じかな。
なんだか女の子の方が積極的みたい。
でも、すっごくいいメロディだなぁ。
「あれっ……?」
歌詞を目で追っていると、ちょっとした事に気がついた。
ここの歌詞……。
「……どうだ、春香?」
「はい!とってもステキな歌だと思いました!」
「そう言ってくれると、俺も嬉しいよ」
「ところでプロデューサーさん。ここの歌詞なんですけど……」
「……ああ、『これ』な。作詞家の先生にお願いして、入れてもらったんだ」
「こういうのがあった方が、歌に愛着が湧くと思ってさ」
そう言ってプロデューサーさんは照れ笑い。
『わざと走る 遥かシーサイド』
おそらく2番のサビと思われる部分の歌詞に、私の名前が使われていたのだ。
ちょっと恥ずかしいけれど、これは、テンション上がっちゃうな。
「……もっと遠くへ泳いでーみたい♪光、満ちる……」
「……はいストップ」
「天海さん、今の『光』の前には、最初の『もっと』と同じく8分休符が入るの。それを意識してちょうだいね」
「は、はい……」
「あはは、はるるんドンマ→イ!」
「うぅ……」
ボーカルレッスン開始。
とりあえず、新曲『太陽のジェラシー』を重点的にやってるんだけど……。
音痴な上にリズム感もない私って、一体……。
私のせいで、一緒にレッスンしてる真美にも迷惑かけちゃってるし……。
とほほだよぉ……。
「……そろそろ交代しましょうか。天海さん、少し休んでてね」
「真美ちゃん、準備はいい?」
「いつでもオッケ→だよん!矢でもテッポ→でもりっちゃんでも持ってこい!ってカンジだよ→!」
「元気がいいわね。じゃ、『スタ→トスタ→』、いくわよ?」
「どんとこ→い!」
「ーーーー♪」
先生の少し激しめのピアノ伴奏が始まり、真美がリズムを取る。
この歌って、リズム取るの難しいんだよね。
でも、そんな事はお構い無しで、真美はノリノリで歌い出す。
「……タリラン、ターニナッ、無敵♪……」
竜宮で頑張ってる亜美もそうだけど、本当にこないだまで小学生だったの?って思っちゃうくらい、真美の歌は安定している。
こんなに難しい歌も歌いこなしちゃうんだもんね。すごいよ。
「……ひっとっりじゃない星にウィンク♪」
「ふたっごっなせいっざーがトゥインク→ルっ♪」
「ねえねえはるるん、真美の歌、カンペキだったっしょ?」
歌い切った真美が笑顔でピースサインをこちらに向けてきたので、
「うん!良かったよ、真美!」
私も、ピースサインを返す。
ふふ、無邪気で可愛いなぁ。
ーーーーーー
ーーー
午前のレッスンを終えた私と真美は、一緒にお昼を食べる事にした。
「……ん→、まいう→!」
「ほら、真美。ホッペに食べかすが付いちゃってるよ?」
「はううん、あんあと→」
真美の口をハンカチで拭いて、キレイにしてあげる。
さっきのレッスンでは、年齢にそぐわない歌唱力を見せられたけど。
こういうところは、まだまだ子供だよね。
見てて微笑ましくなっちゃう。
「……ふぅ、よはまんぞくじゃ→」
「はい、お茶」
「さんきゅ、はるるん」
ゴクゴクと、喉を鳴らして一気にお茶を飲み干す真美。
午前のレッスンは散々だったな。
せっかくの新曲なのに、全然歌えてなかった。
もっと頑張らなきゃ。
「……どったのはるるん?」
「えっ?」
「今日はなんか元気なくない?」
「そ、そう、かな?」
真美が私の顔を覗き込んでくる。
とってもキレイな瞳に、ちょっとドキッとした。
「ひょっとして、さっきのレッスンのコト、気にしてんの?」
「えーと…………うん。まあ」
「そっかぁ」
そう言って真美は、お茶のペットボトルに口を付ける。
それ、さっき飲み干したんだから、入っているわけないでしょうに。
「ズズ……」
飲んだフリをして、自販機備え付けのゴミ箱にペットボトルを投げる。
コンッ、という音と共に、ペットボトルは虚しく地面に転がった。
「ナイッシュ!」
「いや、入ってないからね?」
「バレたか」
ポリポリと頬を掻いて、立ち上がる真美。
「……ねえ、はるるん」
「なぁに?」
「もしやよいっちがさ、千早お姉ちゃんぐらい歌がうまかったら、どーする?」
「え……?」
いきなり何を言うんだろ、真美ってば。
「……どーする?」
「え、ええと……」
やよいが、千早ちゃんぐらい歌がうまかったら……?
それはそれでいい事だと思う。
でも……。
「こんな事言ったら、やよいに失礼かもしれないけど……あの可愛らしい歌い方を聞けないのは、ちょっと残念、かな」
「うん。真美もそー思うよ」
ガコン、と音がして、満足そうにゴミ箱を覗く真美。
「真美もあんましよくわかんないんだけどさ」
「やよいっちにはやよいっちの良さがあって、千早お姉ちゃんには千早お姉ちゃんの良さがある」
「だから、はるるんにもはるるんの良さがあるんじゃないかなーって」
こちらに振り返って、やよいの口癖でにっこり笑う真美。
いつもの、イタズラが成功した時の意地の悪い笑顔じゃなく、とっても優しい笑顔。
……もう。
そんな顔されたら、何も返せないよ。
だから、代わりに頭を思いっきり撫でて、ギュッて抱きしめた。
「ちょ、はるるん!?真美、もう子供じゃないYo!」
「うん、知ってるよ」
私の良さ、かぁ。
ありがとね、真美。
それから私は、レッスンを繰り返した。
新学期が始まって、ちょっと大変になっちゃったけど。
朝起きて、学校。
学校が終わったら、お仕事とレッスン。
レッスンが終わって家に帰ったら、寝る前に少しだけ、勉強と、太陽のジェラシーの反復練習。
プロデューサーさんの話だと、夏が始まる前には太陽のジェラシーのレコーディングを終えるのがベストらしい。
確かに、夏の歌だもんね。
私は、プロデューサーさんの努力を無駄にしないように、たくさんたくさん頑張った。
おかげで太陽のジェラシーも、空で歌えるまでにはなった。
一応、なったんだけど……。
春も終わりに差し掛かった、5月のとある日……。
「そうよ、永遠の夏〜♪」
「きっと、きっと、ドラマ〜が〜はじまる〜♪」
「……はい、オッケーよ、天海さん」
「あの、先生。どうでした?」
「リズムもズレないようになったし、ピッチも外さないようなった」
「技術的な部分は、最初の頃に比べるとかなり良くなったわ」
「あとは……」
そう。まだ足りないものがあるんだよね。
ただ音やリズムを外さないように歌うのは、素人でも出来る事。
私は一応プロなんだから、その先まで行かなきゃいけない。
聴いてくれる人に、歌の意味を伝える事。
歌の世界を伝える事。
つまり、私に足りないのは……表現力。
私が1番苦手な事なんだよね……。
「……え?歌の表現?」
「うん。私、どうも苦手でさ。真はどうしてるのかなって思って」
レッスンが終わって事務所に戻ると、真がペンを片手にうんうん唸っていた。
丁度良かったから、歌の表現方法についてそれとなく聞いてみた。
真の歌も、参考になる部分はとっても多いもんね。
「そうだなぁ……やっぱ気合、かな?」
「………」
……うん、聞く相手を間違えたかも。
「ああ、ウソウソ!そんなに睨まないでよ春香ぁ。ほんの冗談だってば!」
「いや、いいんだけどね」
慌てる真がおかしくて、思わず笑ってしまう。
「表現ってさ、つまり、この歌はこういう歌なんだーって、聴いてる人に伝えるって事だよね?」
「だったらさ、実際に歌詞の通りにしてみればいいんじゃないかな?」
「歌詞の通りに?」
「うん。例えば、ボクの『自転車』っていう歌、あるでしょ?」
「ボクさ、実際に自転車を漕ぎながら何回も歌ったりしたんだ」
「そしたらさ、なんとなくだけど、わかったんだ。歌の主人公の気持ちが、さ」
「そっかぁ……」
歌詞の通りに、か。
それは確かにいい方法かも。
「でも、『自転車』って恋愛の歌だよね?その辺はどうしてるの?」
「そ、それは……」
「漫画の主人公になりきってみたり……とか?」
モジモジしながら答える真。
真が言う漫画って、きっと少女漫画の事だよね。
ああいうのは、私も少しだけ憧れちゃうから、わかるよ。
「でもさ、ボク、恋ってまだよくわからないっていうか……。あはは、興味はあるんだけどね」
「……真も苦労してるんだねぇ」
でも、真のおかげでいい事思いついちゃった。
今度さっそく、プロデューサーさんに相談してみなきゃ。
「……ところでそれ、何書いてるの?」
私は、気になっていた真の前にあるノートを覗く。
「ああ、ちょっと作詞に挑戦しようかなって思って……」
「……って、ダメダメ!見ちゃダメだからね?」
「えー、気になるよぅ!ちょっとだけ見せてよー」
「だ、ダメだよ!恥ずかしいもん!」
慌ててノートを隠す真をしばらくからかいながら、私は太陽のジェラシーの歌詞を思い浮かべていた。
「プロデューサーさん?」
「どうした、春香?」
「ちょっと相談があるんですけど……」
次の日、珍しく暇そうにしてるプロデューサーさんに、さっそく例の件を打診してみる事にした。
プロデューサーさんは、訝しがりながらもちゃんと聞いてくれた。
「歌の表現力を高める為に歌詞の体現、ねぇ……」
「それで、海に連れてけって事か」
「お願いします!これもレッスンの一環だと思って」
「協力してやりたいけど、スケジュール的にどうかなぁ……」
うーん、難しいのかな……。
いい考えだと思ったんだけど。
まあ、私だけのプロデューサーさんじゃないし、他のみんなの事もあるもんね。
これはダメかもな、と思っていたところに、鬼……じゃなくて神が現れた。
「……いいんじゃないですか?レッスンとして、だったら」
「律子……」
「律子さん!」
正直、律子さんがこういう事に味方してくれるとは思わなかったので、驚いた。
「最近は春香も、結果を残そうと頑張ってるみたいだし、自分の実力を高めようと試行錯誤するのは、決して悪い事じゃないと思います」
「まあ、そうだな」
うんうん、と、プロデューサーさんの横で首を振る私。
「スケジュールが心配なら、私がフォローできるところはフォローしますよ」
「せっかく春香がやる気になってるんですから、付き合ってあげてもいいんじゃないですか?」
「うーん、律子がそう言うなら……」
「よし、じゃあ行くか、海!」
「やったぁ!」
よーし!そうと決まったら、さっそく新しい水着買わなきゃ。
ああでも、まだ泳ぐには早いかな。
せっかくの海なんだし、水着は着たいなぁ。
……って、もちろんレッスンしに行くんだよね。
わかってる。
わかってるけど……テンション上がっちゃうよねっ!
「そういや俺、海なんかしばらく行ってないなぁ」
「私もです!ああ、楽しみだなぁ〜」
「2人とも、遊びじゃないんですからね?ハメを外し過ぎないように!」
「は〜い……」
律子さんにしっかり釘を刺されちゃったけど、ともかく、海での特別レッスンが決定した。
やっぱセリフの前に名前つける事にします
と、思ったけど、やっぱセリフの前に名前つけません
ーーーーーー
ーーー
と、いうわけで……。
やって来ました、海です!
「わぁ………!」
「見てください、プロデューサーさんっ!」
「春香、テンション高いなぁ」
私達の目の前には、どこまでも続く……って程ではないけれど、白い砂浜が広がっていて。
その白い絨毯に、静かに寄せては返す波。
空の青と海の青を緩やかな曲線で繋ぐ、水平線。
ついでに、遠くの方に漁船かなんかも見える。
空高く輝く太陽も手伝って、全てがキラキラ眩しく見えた。
これを見てテンション上げるなっていう方が、無理な話だよね。
「だって海ですよ、海!白いアイランドに来たんですよ、私達!」
「別にアイランドではないけどな」
「でもまあ……こういうところへ来ると、ちょっとした開放感があるよな!」
ふふっ。なんだかんだ言って、プロデューサーさんも満更ではなさそう。
こうして海へ来れたのも、律子さんやみんなのフォローのおかげだよね。
お土産、たくさん買って帰らないとだね。
「まだ泳ぐには少し早い時期とはいえ、意外と人がいないもんなんだなぁ」
「えへへ。実はここ、地元民しか知らない穴場なんですよっ」
「へぇー、そうなのか。じゃあ、春香はよく来るのか?」
「いえ。まだ数えるほどしか来てないんですけどね」
実は、今日来た海は、私の地元の近くだった。
まあ、穴場とはいっても、人の目を気にせずに遊べるってだけなんだけどね。
……伊織だったら、ステキなプライベートビーチとか持ってるんだろうな。
夏になったら、招待してくれないかなぁ。
「……で、春香。とりあえずどうするんだ?レッスン、するんだろ?」
「あ、そうですね」
「ちょっと準備しますので、待っててくださいね」
「準備って?」
「レッスンの準備ですよ!」
キョトンとするプロデューサーさんを尻目に、私はキャミソールに手をかけて、そのまま一気に脱いだ。
「は、春香!?い、いきなり何をしてるんだ!?」
焦りながらも、回れ右してくれるプロデューサーさん。
ちょっと驚かせちゃったかな。
「うふふっ♪ 大丈夫ですよ。ちゃーんと下に水着を着てますから!」
「そ、そうなのか?」
大丈夫だよね?変なトコ、ないよね?
可愛い水着にしたし、いろいろ処理もしたし。
最近は忙しかったから、体重も増えてはいない……はず。
多分。
「もう大丈夫ですよ!」
「あ、ああ……」
プロデューサーさんがゆっくりとこちらを向く。
「あの、この水着、どうですか?」
くるり、とその場で回って見せる。
「……うん。春香らしくて可愛いじゃないか。似合ってるよ」
「えへへっ♪」
可愛いって言ってもらえちゃった。
でも、なんだろ。
水着姿なんて、今までたくさん見られてきたはずなのに……。
こういう場所だと、ちょっとだけ緊張しちゃうな。
「さあ、プロデューサーさん。レッスン開始ですよ!」
ザッ、ザッ……。
浜辺には、砂を蹴る音が響く。
「もう!プロデューサーさん、遅いですよぅ!」
「はぁ、はぁ………春香、ちょっと速いって……」
私達は、まだ海開きもしてない海岸を走っていた。
いや、別にマラソンしに海まで来た訳じゃないんだけどね。
「な、なぁ春香!なんで俺達は走ってるんだ?」
「それは……」
太陽のジェラシーの歌詞を再現したつもりだったんだけど……。
うーん、なんか違うなぁ。
私は、立ち止まってもう一度考えてみた。
「はぁ、はぁ……」
「あー、キツい!」
やっと追いついたプロデューサーさんが、私の足元に倒れ込む。
「運動不足なんじゃないですか?」
「まあ、それもあるけど。高校生の体力と一緒にするなよ」
「でも、プロデューサーさんってまだ20代ですよね?」
「20代っていったって、ピンからキリまでいるだろ?」
「じゃあ、プロデューサーさんはピンですか?」
「いや……どちらかというとキリ寄りだな」
「ふふっ。誇らしげに言う事じゃないですよっ?」
「う、うるさいなぁ」
こういうやり取りも楽しいんだけど、このままじゃ海に来た本当の目的を果たせない。
「で、今のはウォームアップってところか?」
「いえ、そうじゃなくて。ほら、太陽のジェラシーの歌詞に『追いかけて、逃げるふりをして〜』って部分、あるじゃないですか?」
「あれの通りにやってみたつもりだったんですけど、全然雰囲気が出なくて……」
「ああ、そういう事だったのか」
「それは当たり前じゃないかな?」
「どうしてですか?」
「だって、この歌に出て来る男女は、恋人まではいかないとしても、それに近い関係だからな。多分」
「あ、それってひょっとして、恋人以上友達未満っていうやつですか?」
「逆だ、逆。友達以上恋人未満な」
盲点だった。
歌の主人公の気持ちを理解するには、男の子……今の場合は、プロデューサーさんともっと親密な関係じゃなきゃダメなんだ。
太陽のジェラシーが恋の歌だという事を、すっかり忘れてた。
どうりでうまく感情移入できない訳だよ。
そういえば真は、漫画の主人公になりきってるって言ってたっけ。
………よしっ。
「あの、プロデューサーさん」
「今日一日だけ、私と『友達以上恋人未満』になってくれませんか?」
「え!?」
「そうしないと、歌の女の子の気持ちに近づけないと思うんです」
「っていうか、友達以上恋人未満の意味、ちゃんとわかってるのか?」
「そ、そのくらい知ってますよぅ!」
「じゃあ、どういう意味か言ってみ?」
「え、えーっと………すっごく仲良し、って事ですよね?」
「………」
あ、あれ?違うのかなぁ……。
「春香は、やっぱりこういう事は奥手だったか……」
「うーん、どうしたもんかなぁ」
「お願いします!私、この歌をちゃんと理解したいんです!」
じーっとプロデューサーさんの目を見つめる。
プロデューサーさんは、降参だ、と言わんばかりに、笑顔で言った。
「……わかった。一応、俺なりにやってみるよ」
「でも、俺も色恋沙汰には疎い方だから、その辺りは大目に見てくれよ?」
「ありがとうございますっ!」
こうして、時期はずれの海での、恋愛音痴な2人の恋愛ごっこ……もとい、表現力レッスンが始まった。
バシャッ!
「うわっ、冷たっ!?」
「やったな、春香!」
「あははっ♪ こっちですよ、こっち!」
「待てー!」
波打ち際ではしゃぎ回る、2人の男女。
男の子(って年でもないか)は、楽しそうに女の子を追いかける。
それを受けて、女の子も付かず離れずの距離で笑う。
スパンコールみたいにきらめく波しぶきも、プロデューサーさんの笑顔も、とってもキレイで。
まだ夏にはなってないけれど、私の夏は今ここにある気がした。
パシャッ!
「わぷっ!」
「ふっふっふ。さっきのお返しだ」
「もう、大人気ないですよっ!」
なんて言いながら、今度は女の子が男の子を追いかける。
あー、楽しいなぁ。
恋って、こんなに楽しいものなんだね。
太陽もヤキモチ焼いちゃうわけだ。
うーん、なんか納得かも。
「プロデューサーさん、楽しいですねっ?」
「私、恋がこーんなに楽しいなんて、知りませんでした!」
「まあ、本当の恋って訳じゃないけどな」
「んもぅ、そういう冷めた発言は禁止ですよ!」
「ごめんごめん、そうだよな」
たとえ本物じゃなくても、少しだけ歌の女の子に近づけた気がする。
うん。今ならきっと、もっとちゃんと気持ちを込めて歌えるよ、私!
「さあ、プロデューサーさん、続きを………っとと!?」
調子に乗ってたら、バランスを崩しちゃった。
マズい、転んじゃうっ……!
「春香っ!」
「わわっ……!」
……危ないところで、プロデューサーさんが抱きとめてくれた。
「大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます」
「まったく、ヒヤヒヤしたよ」
「あ、あの、プロデューサーさん……?」
「どうした?怪我したのか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
助けてもらったのはありがたいんですけど……。
私は今、プロデューサーさんに抱きとめられている訳で。
近い。とっても近いんですよ、プロデューサーさん!
「あ、あああ!ご、ごめんっ!」
私の心の声に気づいたのか、プロデューサーさんは私から手を離した。
「不可抗力とはいえ、ごめんな」
「い、いえ!そんな事ないですけどっ!?」
「ま、まあ、友達以上恋人未満っていう設定だし、これくらいは、な?」
「そ、そうですね!あはは」
プロデューサーさんに抱きしめられるのは、これで二度目だね。
前回はほとんど覚えてなかったけど、今回は、温もりも匂いもバッチリ残っていた。
っていうか私、水着だから、感触が直に……。
冷静に考えると、すごい事したのかも。
一通り浜辺で遊んだ後、プロデューサーさんが切り出した。
「ちょっと休むか?疲れただろ?」
「そうですねぇ。私はまだまだ元気ですけど」
「はいはい、体力のないおっさんで悪かったな」
「もう、そこまでは言ってませんよぅ!」
結構引きずるなぁ、年のネタ。
ひょっとして、気にしてるのかな。
全然若く見えるから、気にする事なんてないのになー。
「……で、何が食べたい?」
「えっ?」
「もう、昼だぞ?」
時間なんか、すっかり忘れてたよ。
もうそんな時間なんだ。
そういえば、少しお腹が空いたかも。
お昼だってわかった途端に空腹を訴え始める自分のお腹が、現金でおかしかった。
「じゃあ、プロデューサーさんが食べたいもので」
「いいのか?すっごく重いかもしれないけど」
「じゃあ、プロデューサーさんが食べたいものの中で、なるべく軽ーいもので」
「………」
そんなに露骨に残念そうな顔しなくても。
貴音さんや律子さんほどじゃないけど、プロデューサーさんも結構食べるもんね。
「冗談ですよ、冗談!私はどこだってついて行きますから」
「そ、そうか!」
またまた露骨にホッとするプロデューサーさん。
なんだか可愛いかも。
あれこれ話し合ったけど、この辺りには大したお店がないという事もあり、結果ファミレスに落ち着いた。
ーーーーーー
ーーー
「……で、午後はどうするんだ?続き、やるのか?」
「そうですねぇ……」
お昼を済ませた私達は、再び浜辺に戻って来ていた。
私は、波打ち際を歩きながら、太陽のジェラシーの歌詞を反芻する。
ゆったりとしたリズムで私の足を濡らす波が、気持ちいい。
大体の事は、午前中にやったんだよね。
まだやってない事といえば……。
『つかまえて Kissをして ボートの陰』
「………」
「どうした?春香」
「………」
「おーい、春香?」
ちょっと大胆過ぎるかもしれないけど……。
こ、ここまで来たら、やるしかない……よね?
っていうか、私自身、すごく興味があるもん。
「あ、あの、プロデューサーさん?」
「なんだ?」
「…………キスって、した事ありますか?」
「…………は?」
ボートなんて見つからなかったので、適当な岩陰で私とプロデューサーさんは向かい合っていた。
「なあ、春香。やっぱりやめないか?いくらなんでも、やり過ぎだと思うんだけど……」
「い、いいえっ!」
「こ、これも表現力の向上のために必要なんですっ!」
とは言うものの。
指先は震え、足は身体を支えるのがやっと。
喉はカラカラで、うまく声が出せない。
心臓は、いつもの10倍の速さでビートを刻んでいる。
事に至る前からすでに、私の身体はいろいろ大変だった。
「春香」
「ひゃああっ!?」
プロデューサーさんが肩に触れただけで、飛び上がってしまう。
「だ、大丈夫か?」
「へ、平気ですよ?ちょっと驚いただけで……」
説得力はゼロだよね。
自分から言い出しといて、情けないなぁ……。
「……やっぱりやめよう。おかしいよ、こんなの」
「えっ?」
「だって春香、震えてるじゃないか」
「こ、これは、その……緊張しちゃってるだけですよ!」
「わ、私は大丈夫ですからっ!さあ、き、キス………を、お願いしますっ!」
なんでこんなにキスにこだわってるのか、自分でもよくわからなってきちゃった。
私の頭の中にはもう、歌の表現力の事なんてこれっぽっちもなかった。
ただ、私の中の何かがキスを求めている気がした。
「あの、プロデューサーさん。プロデューサーさんは私の事、嫌いですか?」
「そんな事あるわけないだろ?」
「じゃあ、好きですか?」
「そ、それは……」
プロデューサーさんは少し考えた後に、
「担当アイドルを好きになれなきゃ、プロデュースなんてできないよ」
と、答えてくれた。
良かった。嫌われてたらどうしようって思っちゃった。
「……だったら、何も問題は無いですよね?」
「私も、プロデューサーさんの事尊敬してますし、好きですから」
「キスって、好きな人同士がするんですよね?」
「いや、それとこれとは……」
私は知ってる。
プロデューサーさんは、意外と押しに弱いって事を。
だから、たたみかける様に言った。
「もう、往生際が悪いですよっ?」
「今は私とプロデューサーさんは、友達以上恋人未満なんですから!」
「それに、据え膳食わぬは……ってことわざもありますし」
「どこで覚えたんだよ、そんなことわざ……」
プロデューサーさんは黙って、少し厳しい目つきで私を見つめる。
私も負けじと、熱い視線を送る。
にらめっこは、数分続いた。
「………わかったよ。春香がそこまで言うなら」
「プロデューサーさん!」
結局、折れたのはプロデューサーさんだった。
どこか諦めた表情なのは、私とのキスがそんなに嫌って事なのかな……。
気がつくと太陽は、雲に隠れてしまっていた。
「……じゃあ、遠慮なく」
プロデューサーさんはそう言うと、私の肩を掴んでいた手を背中に回して……。
「わわっ……!」
私は、一気にプロデューサーさんに抱き寄せられた。
顔が近い。さっきの比じゃない。
プロデューサーさんの息が、私のおでこに当たる。
完全密着状態だった。
「ホントは、俺だって……」
プロデューサーさんが何かつぶやいたみたいだけど、私はもう、それどころじゃない。
これから起こる事への期待と不安が混ざり合って、私の心臓はお祭り騒ぎの暴れたい放題。
それに呼応してか、身体全体が熱くて、まるで私は太陽にでもなってしまったみたい。
オマケに、プロデューサーさんの顎の剃り残しを数えてたら、なんと10本以上もあった。
……あ、最後のはまったく関係ないや。
とにかく、私はプロデューサーさんの腕の中で、とても挙動不審になっていた。
「……恐いか?」
「ぜ、ぜぜんじぇんそんなっ!」
もはや言葉すらうまくしゃべれない私の頭に、プロデューサーさんの大きな手がポンッと優しく触れる。
「あ………」
不思議と、私の心は落ち着いた。
「後悔しても、知らないからな」
「後悔なんて、しませんよ」
緊張してるはずなのに、自然に言葉が出てきて自分でも驚いた。
私の答えを聞くと、プロデューサーさんはいつもの優しい目つきになった。
……プロデューサーさんのまつ毛、意外と長いんだなぁ。
そんな事を思いながら、私はギュッと目を瞑る。
……そして私達は、まだ夏になっていない海で、キスをした。
ーーーーーー
ーーー
『……!……!』
どこかで声がする。
聞き覚えのある声。
『……!……!』
あ、この声、確か前にも……。
『……!聞いてくれ!』
どこかで聞いた事があるんだけど、結局思い出せないんだよね。
で、確かこの次のセリフが……。
『……!俺は、お前……に惚れたんだ!』
……やっぱり、ちょっと恥ずかしいかな。
悪い気はしないけど。
『……!何年かかるかわから……、必ずお前を……!』
『2人で………を……んだ!』
ここは、よくわからないんだよね。
まさか、結婚……とか?
さ、さすがにまだ早いよ、それは……。
『だから、……!』
『アイドル辞める、なんて言うな!』
まだまだやめるつもりなんて、ありませんよ!
ーーーーーー
ーーー
「………ん」
目が、覚めた。
起き上がって辺りを見回すと、自分の部屋だった。
いつも使っている机。
CDとか参考書が入ってる棚。
壁には、事務所のみんなや地元の友達と撮った写真を貼ってあるコルクボード。
お気に入りの、桜色のカーテン。
いつも通りの見慣れた景色だった。
「……って、当たり前か」
何か特別なイベントがあったからって、部屋の内装が勝手に変わったり、自分の部屋じゃないどこかになってたりする事はない。
そう。例えば私が、海でプロデューサーさんにキスされたとしても。
「キス、されたんだよね。私」
っていっても、実際はおでこにされただけなんだけどね。
しかも、本当に一瞬。
一瞬、プロデューサーさんの唇が私のおでこに触れただけ。
でも、意識を集中すると今でも微かにあの感触が思い出せる。
プロデューサーさんってば、
『ファーストキスは、本当に好きになったやつの為にとっておけ』
なーんて、ドラマのセリフみたいな事言ってたっけ。
私の事を思ってそうしてくれたのはわかるんだけど、私としては、とっても微妙な気持ちだった。
本物のキスを体験してみたかった気もするし、プロデューサーさんが言った様に、唇は本当に好きになった人の為にとっておいた方がいいのかな、とも思うし。
乙女心は複雑なのだ。
でも、例えおでこであっても、ファーストキスはファーストキス。
私にとって、とても大切な思い出になるんだろうな。
……あれ?
唇じゃなくてもファーストキスになるのかな。
プロデューサーさんが、ファーストキスはとっておけ、って言ったって事は、おでこにキスはファーストキスにはカウントされない?
うーん、その辺りのルールがわからないなぁ。
今度、あずささんあたりに聞いてみよっと。
ふと、何気ない予感がして、壁掛け時計に目を向ける。
「………ああああああっ!?」
壁掛け時計は、とても恐ろしい時間を指している。
短針と長針があり得ない方向を向いて、見る者を恐怖に陥れた。
私は、『遅刻』の二文字を認めざるを得なかった。
「……じゃないよっ!早く用意しなきゃ!」
「ああもう!この間と同じパターンだよぉ!」
私は、冷静かつ迅速に朝の準備に取り掛かった。
……ウソです。今、私かなりテンパってます。
この間、といえば、今日見た夢も、この間遅刻しそうになった時と似てたような気がするなぁ。
似てるっていうか、内容がそっくりだったかも。
気のせい、かな。
なんて余計な事を考察してる余裕もなく、夢の事はすぐに慌ただしい朝に飲み込まれて消えていった。
ーーーーーー
ーーー
「……ねえねえ春香。海はどうだった?楽しかった?」
「うん。とっても綺麗だったよ」
「いいなぁ〜。ミキも海、行きたかったの!」
「じゃあ、夏になったらプロデューサーさんに頼んでみようか?今度はみんなで行こうよ」
「……その前に、定期テストを乗り越えなければならないんでしょう?」
「春香。ほら、この問題、間違っているわよ」
「あぅ……」
海から帰って来た私を待っていたのは、楽しい楽しい定期テストだった。
レッスンの空き時間を使って、事務所で千早ちゃんに勉強を教えてもらっているんだけど……。
「高校生は大変だねー」
「他人事みたいに言ってるけど、いずれは美希も通る道なんだよ?」
「ミキはテストのない高校に行くから、心配無用なの」
「そんな高校、あるのかしら?」
「うーん、どうだろ?」
なぜか美希も一緒にいた。
まあ、美希が勉強をする訳もなく、ただソファでゴロゴロしているだけだった。
おかげで勉強は全然捗らないけど、勉強の重圧を少し楽にしてくれた。
「……ところで春香は、ちゃーんと歌の女の子の気持ち、理解できたの?」
「うーん、多分ね」
「歌の主人公の気持ちを理解するのは、とても難しい事ね。私も、いつも苦労しているわ」
「へー、千早さんでも?」
「ええ。だから、春香のように実際に歌詞の内容を行動に移してみる、というのは、とてもいい考えだと思う」
「まあ、これは私が考えたんじゃなくて、真がもともとやってた事なんだけどね」
プロデューサーさんにキスされた、って言ったら、2人はどう思うかな。
恥ずかしいから言わないけど。
太陽のジェラシーのレコーディングの日程は、すでに決定していた。
あとは、レコーディングまでレッスンを頑張るのみ、だね。
「ミキも、春香みたいにプロデューサーと行って来ようかなー」
「行くって、どこに?」
「無人島!」
「ええ!?なんで無人島?」
「……もしかして、ふるふるフューチャーかしら?」
「うん!楽しそうだよね、無人島って!」
「でも、さすがにジェット機チャーターするのは無理なんじゃないかなぁ」
なんかこの表現力レッスン、流行りそうかも。
事務所の窓から外を見ると、雲ひとつない空に、一筋の飛行機雲が見えた。
もうすぐ、夏なんだなぁ。
ーーーーーー
ーーー
6月。
一年で太陽が一番高く昇る月。
ついに『太陽のジェラシー』のレコーディングの日がやってきた。
私はプロデューサーさんに付き添われて、レコーディングスタジオに来ていた。
「春香、緊張してるか?」
「いえ、全然!乙女よ〜の時にも経験してますし」
「それは頼もしいな。成功した時のイメージを頭に描いてやれば、何も問題無いからな」
「まあ、あれだけ練習したんだ。きっとうまくいくさ」
「はいっ!」
……なーんて言ったけど、私は今、それなりに緊張していた。
スタッフの人達はとても真剣な表情でレコーディングの準備をしている。
たくさん練習したし、歌に自信が無いって訳じゃないんだけど、実際に現場のピリピリした空気に触れると、否応なしにこっちも緊張感が高まってくる。
うーん、このままじゃダメかも。
ちょっと気分転換しなきゃ。
「プロデューサーさん、お水ってありますか?」
「ん?喉が渇いたのか?それなら何か買って来るよ」
「あ、大丈夫です。気持ちを落ち着かせるだけですから」
「そうか?それなら、そこのテーブルのペットボトル、飲んでいいぞ」
プロデューサーさんが指差した方を見ると、長テーブルにペットボトルが並んでいた。
「……じゃ、いただきますね」
私はペットボトルをひとつ取り、口を付けた。
「あ、そういえば春香。海での事なんだけど……」
「っ……!ごほっ、ごほっ……!」
あまりにも唐突なプロデューサーさんの言葉に、思いっきりむせてしまった。
いきなり過ぎますよ、プロデューサーさん!
「ご、ごめん。大丈夫か?」
プロデューサーさんに背中をさすってもらい、なんとか事なきを得た。
「……はぁ。びっくりしちゃいましたよ、もう」
「ごめん。タイミングが悪かったな」
「それであの、海での事って?」
「いや、あのさ。せっかく海で擬似的に恋を体験したんだから、それをちゃんと歌に生かすんだぞって言おうとしたんだ」
「ああ、そういう事ですか。私はてっきり……」
「てっきり、なんだ?」
キスの事で何か言われるのかと思っちゃった。
プロデューサーさんは、キスの事は特に気にしてないみたい。
気にしてるのは、私だけなのかなぁ。
まあ、変に意識して気まずくなるよりはいいか。
「ええと、何でもないです」
「……天海春香さん。準備が整ったので、ブースの方へお願いしまーす!」
そうこうしてるうちに、スタッフの人からお呼びが掛かった。
よし、頑張ろうっ。
「プロデューサーさん。海、すっごく楽しかったです」
「きっとプロデューサーさんのおかげですね」
「あの雰囲気を歌に出せる様に、私、頑張ります!」
「うん。楽しんで来い!」
「はいっ!」
楽しんで来い、か。
そうだね。プロデューサーさんの言う通りだ。
太陽のジェラシーは、恋の楽しさを伝える歌だもんね。
私自身が楽しまなきゃ!
私は、海での思い出を胸に、レコーディングブースへと歩き出した。
ーーーーーー
ーーー
「……そうーよ、永遠の夏ー♪ 」
「きっと、きっと、ドラマーがーはじまるー♪ 」
「ーーーー♪ ……」
「…………はい、オッケーでーす!」
「ふぅ……」
何回かやり直しはあったけど、レコーディングは無事に終了した。
うまく出来たかはわからないけど、楽しくやれたとは思う。
「春香ちゃん、良かったよー!」
「あ、お疲れ様でーす!」
「いやー、前回の時に比べたら、ずいぶん良くなったねぇ」
「そうですか?」
「うんうん!何て言うか、春香ちゃんにも色気が出てきたって言うか……」
「ほ、本当ですかっ!?」
良かった。スタッフの人にも、かなり評判いいみたい。
頑張った甲斐があったよ。
それに、色気が出てきたなんて……。
えへへ、ちょっと嬉しいかも。
「お疲れ様。良かったぞ、春香!」
「プロデューサーさん!ちゃんと見ててくれました?」
「ああ。スタッフさんも言う通り、雰囲気が良く出てたと思うよ」
「ありがとうございます!」
みんなにそんなに褒められると、なんだか照れちゃうなぁ。
「765さん、春香ちゃん、成長したんだねぇ」
「ありがとうございます。でも、こいつはまだまだ成長途中です。もっともっとレッスンを積まないと」
「まあ、身内をあまり贔屓したくない気持ちはわかるよ」
「でもさ、こう言っちゃなんだが、俺達も一応プロだ。本物かそうじゃないかぐらいは、見分ける目を持ってるつもりだ」
「それを踏まえて言わせてもらうと、春香ちゃんは間違いなく本物だ。大切に育ててあげなよ?」
「はい!ありがとうございます!」
「それと……」
「?」
「………」
スタッフさんとプロデューサーさんが、内緒話を始めた。
なんだろう。気になるなぁ。
ーーーーーー
ーーー
「なかなかいい出来だったな。これはシングルの発売日が楽しみだ」
「そうですね!もしかして、ミリオン行っちゃうかもしれませんし!」
「いや、ポジティブにもほどがあるだろ」
「いいじゃないですかー。夢見たってー」
レコーディングスタジオからの帰り道、車の中で私達は談笑していた。
談笑というか、反省会。
レコーディングが思いのほかうまくいったので、正直私は浮かれていた。
プロデューサーさんも冷静に分析してるけど、きっと心の中では小躍りしてるはず。
「とりあえずは5千枚。いや、3千枚売れれば上々だよ」
「ええー、数字が現実的過ぎますよぅ」
「あのな。ミリオン行っちゃうぐらい売れるのは、知名度の高いアーティストの中の、ほんの一握りだけなんだよ」
「春香は……いや、765プロは、竜宮小町以外のメンバーはまだまだ知名度が低い」
「だから、クチコミが重要なんだ」
「クチコミ……ですか」
クチコミって、あれだよね。
噂が噂を呼ぶ、みたいな。
「まず、初動で千枚売れたとしよう」
「千枚……まあ、はい」
「買ってくれた千人の内、500人がいい歌だと思ってくれて、それぞれ5人の知り合いに勧めたとする」
「そうすると、どうなる?」
「なんか、いつの間にか算数の問題になってる気が……」
「えーっと、500×5で、2500人の人が新たに買ってくれるから、最初の売り上げと合わせて全部で……3500枚ですね」
「うん。まあ、実際はそう単純じゃないと思うけど、そうやってネットワークを広げていくんだ」
「そうすれば、CDの売り上げが少しずつ伸びていって……」
「ミリオンも夢ではない、って事ですね?」
「まあ、うまくいけばな」
「なんだか、わらしべ長者みたいですねぇ」
「レコーディングしてCDが発売して終わりじゃない。むしろ発売してからが本当の頑張りどころだな」
「各種宣伝を行って、知名度を上げていく事にも力を入れないとな」
「はい、わかりました!」
これからが本当の頑張りどころか。
頑張って宣伝して、たくさんの人に聞いてもらいたいな。
「……ところでプロデューサーさん。さっきスタッフさんと、何を話してたんですか?」
「ああ……」
ちょうど赤信号になり、車が停車する。
プロデューサーさんが私の方に顔を向け、じいっと私を見る。
「な、何ですか?私の顔に何かついてます?」
「うーむ……」
あんまり見られると、恥ずかしいんですけど……。
「男でも出来たんじゃないか、ってさ」
「…………へっ?」
「春香の歌を聞いて、スタッフさんが言ってたんだ。恋する乙女そのものだって」
「わ、私が……ですか?」
「うん」
こ、恋する乙女だなんて。
ちょっとくすぐったい響きだった。
あ、でも、歌の雰囲気をうまく伝えられたって事なのかな。
そういう意味でも、レコーディングは大成功だったのかも。
実際の私は、恋のペーパードライバーなんですけどね。
「……そうだ!ねえ、プロデューサーさん。この後、何か食べに行きません?私、ちょっとお腹空いちゃって」
このままプロデューサーさんと別れるのも少しさみしかったので、「レコーディングお疲れ様!」の意味も込めて食事に誘ってみた。
「あー、ごめん。この後はやよいと真美を迎えに行かないといけないんだ」
「だから、食事はまた今度な」
「そうですか……」
残念。プロデューサーさんは忙しいみたい。
もう少しお話したかったけどなぁ。
ま、仕方ないか。
「じゃあ、このまま事務所に向かうからな」
「はい、お願いします」
レコーディングがうまくいって上がっていた私のテンションは、ちょっぴり下がってしまった。
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