千早「狭き門?」(32)


美希「久しぶりだね、千早さん」

私の隣の席に座り注文を告げた彼女に声をかける。

美希「一昨年のお正月ぶりだっけ?」

千早「そうね」

都内の某所、都市部からやや離れた場所にあるにしては洒落ているバー。

陳腐な言い方になるが、隠れ家的と呼ばれるにふさわしい店だ。

雑誌のインタビューなんかではもちろん教えないし、本当に親しい人しか連れてこない。


美希「仕事でも全然会わないもんね」

千早「そうね、まあ当然だけど」

美希「千早さんはテレビ嫌いだもんね」

千早「そういうわけじゃないけど」

美希「そうなの?」

千早「ええ、単にバンドがそういう方向性なだけっていうか。私個人としてはテレビでも何でも出ればいいと思うけど」

美希「そうなんだ。出たいなら出ればいいのにね」


765プロがなくなって、数年が経った。

その後、私はソロ歌手として、彼女はバンドのボーカルとして。

会いこそしないが、お互いの名前はテレビでよく見かける程度には売れている。

千早「美希は」

美希「うん?」

千早「美希は、よくテレビとか出てるわよね」

美希「うん」

千早「バラエティーとかもよく出てるみたいね」

美希「うん。だって歌うのより楽だし」

千早「そうかしら?」

美希「そうだよ。だって歌番組とかじゃ、出来ないこと多すぎるし」

千早「それはそうね」

美希「千早さんのところも、それでテレビに出ないんじゃないの?」

千早「まあ、そうね」


尺の問題もある、事務所の力次第で誰を推すか決まっているというのもある。

なにより、音を伝えるには弱すぎるというのがある。

千早「あとはそういう、メディアに露出しないバンド、っていうのを好んで聴く人がメインの客層っていうのもあるわね」

美希「そういうのあるよね」

客という言葉に引っかかりを覚える。

個人的な感覚として、というわけではなく、言っている本人こそが一番気にしていて、わざとらしく感じるといったところか。

まあ、それは今あまり関係ない。


千早「でも、それと美希がバラエティーに出ることは関係なくないかしら?」

美希「まあね。でも、お金は稼がないといけないわけだから」

千早「…………美希だったら」

美希「うん?」

千早「うちみたいなキャラ付けとかじゃなくて、本当にライブだけでも食べていけるんじゃないかしら?」

美希「そう、うまくはいかないよ」

千早「そうかしら?」

美希「うん。まあ、言うまでもないだろうけど、お金がかかる仕事だからね」

千早「それはそうでしょうけど」

美希「とりあえず、事務所をもう少し大きく出来るまでは、ね」

千早「…………」

元々中堅くらいだったうちの事務所も、今では大手の一歩手前だ。

しかし、私以外に、今の私と同じくらい稼げる人が育つまでは、今の生活に変わりはないだろう。


美希「でも」

千早「何?」

美希「もう少ししたら、音楽に専念するよ」

千早「そう……なんだ」

美希「うん。今、事務所の後輩ががんばってくれてるから」

千早「あ、○○さん?」

美希「うん、そう」

千早「確かに、いつ休んでるんだろうってくらい働いてるわよね」

美希「そうそう。それで、私がテレビとかに出なくても事務所の成長を支えられるくらいになれば、あとは好きにさせてもらうつもりなんだ」

千早「そう」

美希「まあ、まずは曲作りからだけど」

千早「ああ、今出してるのだと、あれだものね」

美希「うん。嫌いじゃないんだけどね。本当に」

千早「なるほど」

美希「でも、スタッフから何から総入れ替えになるから、道は遠いよ」


バンドのメンバー、エンジニア、機材その他、制作に携わっている全てを一から決めなおさなければならない。

千早「そこからやるんだ……」

美希「うん、だってそうじゃなきゃやる意味ないでしょ?」

千早「それは、まあ…………。相変わらず極端ね、美希は」

今までの仕事が本気じゃなかったと言うつもりはないけれど、本気で納得出来るまでやるのでなければ、こんな遠回りをする必要はない。

持てるものを出し切って、全てをぶつけるんだ。

美希「私って、一つのことしか出来ないし」

千早「そうでしたね。その代わり集中するとすごいのよね」

美希「そうそう」

千早「って、自分で言うことじゃないと思うわ」

美希「えへへ」

千早「まったく、そんなところまで変わらないのね」

そんなことはないよ。

そうじゃなきゃ、そもそもこんなこと考えなかったと思うし。


美希「ところで千早さん」

千早「何?」

美希「今のバンドは楽しい?」

千早「何……突然」

そう応える時、一瞬視線をはずしたのを私は見逃していなかった。

美希「千早さんのところの曲は、全部聴いてるよ」

千早「…………ありがとう」

美希「千早さん、バンドは楽しい?」

千早「楽しいだけじゃやっていけない、なんて、言うまでもないことよね」

美希「そうだね」

他人を楽しませるのが私たちの「仕事」だ。

そして、自身が楽しかろうが楽しくなかろうがやらなきゃいけないのが「仕事」だ。


美希「それで?」

千早「…………」

美希「千早さんは、今やってることが楽しいの?」

千早「…………」

美希「…………」

彼女はそれまで舐めるように飲んでいたお酒を一気に呷った。

と言っても、そのグラスにはまだ半分くらい残っていたけれど。

もしかしてお酒はあまり得意じゃないのかも知れない。

千早「よく、わかんないわ」

美希「…………」


千早「楽しいか楽しくないか、そんな簡単にはわかるものじゃないわ」

美希「そう」

千早「だって、みんな良い人たちだし、ライブの時の歓声とか、ファンレターとか…………そういうの目の前にしたときの気持ち、わかるわよね?」

美希「うん、わかるよ。嬉しいし、もっと欲しいって思うよね」

千早「そうなのよ。だから、私は今まで続けてきたって言うか」

美希「つまり」

千早「うん」

美希「それがなければ、辞めてた?」

千早「…………」

美希「話が合うメンバー、ライブに来てくれるお客さん、手紙をくれるファンの子。そういうのがなかったら、千早さんは音楽を続けていなかった?」

千早「…………そんなの」

美希「うん?」

千早「そんなの、わからないわよ」

美希「そう?」

千早「だって目の前に、あるんですもの」


美希「そうだね」

千早「それが目の前にあって、それで喜ばないなんて出来ないわ」

そう言って彼女は再びグラスを取り、唇を湿らせる。

美希「だからその喜びを求めて、今の音楽を続けてる?」

千早「そう、なのかも」

美希「それは、誰のための音楽なの?」

千早「それは…………」

美希「ファンのため、メンバーのため、事務所のため………千早さんのため」

千早「…………全部よ」

美希「全部?」

千早「どれか一つになんて決められない…………そういうものじゃない」

美希「本当に?」

千早「え?」


まさかそこを否定されるとは思っていなかったのだろうか。

エンターテイナーならば、誰かを喜ばせるために振る舞い、誰かの喜びこそが自らの至高の喜びであるのだろう。

とても素晴らしい仕事だ。

しかし、私たちはエンターテイナーなんだろうか。

美希「千早さん。歌を初めて歌った時の事って憶えてる?」

千早「何よ、突然?」

美希「いいからいいから」

千早「そうね…………覚えてる範囲で良いなら」

美希「それでいいよ、教えて?」

千早「たぶん、前にお話しした通り私の最初の観客は弟だったわ。でもその前から、弟が生まれる前も、歌っていたような気がするわ」

美希「うん」

千早「それがどうしたの?」

美希「その時は、どんな練習してた?」

千早「えっと、特に練習ってことはした覚えはないけれど」

美希「そっか。つまり最初に歌ったなんて簡単な曲で、そのくせ大して巧くもなかったでしょ?」

千早「まあ、それはそうですけど」

美希「それでも、今、こうして続けてる」

千早「…………」

美希「それってどういうことなのかな?」

千早「それは…………」

誰かを喜ばせたわけではなく、誰かを喜ばせることで自分が喜んだわけでもなく。

それでもそこから今まで続けてきた理由。

本当に誰かに聴いてもらうという事が重要なのだろうか。


美希「確かに、千早さんの言う通りだよ」

千早「…………?」

美希「もし、オーディションで、ちっさなイベントで、初めての武道館で。私のパフォーマンスで喜んでくれる人がいなかったら、私はこうしていなかったと思う」

千早「…………」

美希「何より、もしあの時、765プロがなかったら」

千早「…………」

美希「でも、今の私は何がしたいのかな?」

千早「今、何がしたいか…………」

美希「そして、音楽って何なのかって事なんだ」

千早「…………」


私は音楽がしたい。

ダンスを踊りたいし、歌を歌いたい。

美希「そのために必要なのは、聴く人なのかな?」

千早「それは…………私にはわからないわ」

美希「私にもわからないよ」

でも、もしかしたらと思うことはある。

千早「それがわかったら、すごいわ」

美希「ねえ千早さん」

千早「何?」

美希「狭き門って言葉があるじゃない?」

千早「また唐突ね」

美希「私もさ、狭き門を潜り抜けた~とかってよく紹介されたんだけど」

千早「そうね、大きいオーディションもいくつか通ったわね」


美希「それで、私って一つのことに集中しちゃうと他がまったく見えなくなっちゃうところがあって」

千早「そうね。それで、それがどうしたの?」

美希「うん。それでね、そうやって集中してる時って、色々見えてないんだけど、でも見えてるんだよ」

千早「はい?」

美希「うーんなんと言ったらいいのか…………」

そう言って私は琥珀色の液体が入ったグラスを持つ。

しかし口には運ばず、二人の目線の真ん中まで持ち上げる。

美希「確かに、見えないんだよ。でも、それまでは見えてなかった何かが見えてるような気がするの」

千早「…………」

そう、このグラス越しに見える景色みたいに。


美希「色んなものを置きっぱなしにして、ただ高く、ただ遠く。そんな何かが見えるような感じがするんだ」

千早「…………」

美希「もしそこに行けたら、例え色々なものを捨ててでも、その狭き門をくぐれたらって、思うの」

千早「…………」

美希「お客さんも、事務所も、メンバーも、全てを置いてそこに行けたらって」


千早「…………それは」

美希「うん」

千早「錯覚、じゃないかしら」

美希「そう?」

千早「このグラス越しの景色みたいに、ただちょっと歪んでて、まるで遠いところのように感じてるだけなんじゃない?」

美希「そう、かもね」

千早「きっとそう。あるはずもないオアシスを見せる、砂漠の蜃気楼のようなもの」

そうなのかも知れない。

そこに辿り着いた時には、何一つ持たない旅人になっているのかもしれない。

美希「でもね、千早さん」



美希「私はそこにいってみたいの」


千早「…………」


美希「千早さんとなら、そこに行けるような気がするの」


千早「でも」

美希「うん」

千早「さっきは全てを捨てていくって」

美希「うん。辿り着くのに必要のないものはね」

千早「じゃあ…………」

美希「だから例えば、学校の勉強だとか、そういうものはきっと捨てちゃう」

千早「…………」

美希「もしかしたら…………いやきっと、春香や真君や、他のみんなのことも…………」

千早「…………」

そこで私は、ずっと手の中で遊ばせていたグラスを口に運んだ。


美希「音楽っていう狭き門をくぐるためには、曲も必要、事務所のお金も必要」

千早「…………」

美希「そして、千早さんが必要なんだよ」

千早「…………」

美希「私と一緒に行こう、千早さん?」

二人の間に沈黙が満ちる。

彼女が、自らの手の中にあるグラスに向けていた視線をこちらに向ける。

千早「つまり私に、今のバンドを、事務所を、ファンを、捨てろっていう事?」

美希「そうなるね」

千早「美希は、テレビのレギュラーとか、今のスタッフとかを捨てると」

美希「そうだね」

千早「…………」

美希「どうかな」

そう言うと、彼女は残っていたお酒を一気に飲み干した。


千早「条件があるわ」

美希「なに?」

千早「とりあえずおかわりをください」

美希「あ、マスター彼女におかわりお願い」

千早「あと、ここは美希の奢りね」

美希「うん、最初からそのつもりだよ」

千早「あと、あと、私の今のバンドを後押しして」

美希「うん?」

千早「色んなメディアで、イチオシのミュージシャンだとでも言ってくれれば良いわ」

美希「わかった。もうたまに言ってるけど」

千早「あとは…………」

美希「うん」

千早「絶対にそこに行きましょう」

美希「うん」



千早「私を、捨てないで」


美希「うん、約束するよ」


千早「絶対よ」

美希「今まで私が約束を破った事ってあった?」

千早「いっぱいったでしょう。レッスンするって言ってしなかったり」

美希「また、古い話を出して来たね」

千早「今の私にとって、あの765プロでの出来事は、いつでも昨日の事のようなものだから」





よし終わり。
ちょっち暗い雰囲気のを書いてみたかったんだ。
口調とかが変わってるのは歳をとったからとでも補完よろです。

乙でした!
春香閣下たちはどうなったの?

行橋たんのスレかとおもた

>>26 他の娘たちは数年アイドルを続けて引退、その後は普通にolとか芸能関係の仕事をしてるかなって感じです。
真はスポーツ関係のインストラクターとか、響はペット関係とかかも。
伊織は水瀬グループの関連企業(ただし伊織自身が起業)の社長をしています。
美希と千早が狭き門をくぐる事に成功した場合は、水瀬グループの資金提供を受けて専属の事務所を開いて、他の娘たちもそこで(olとして)働くことになったりするかも?
しかし765プロは再結成しないと美希と千早が宣言します。
美希と千早と他のメンバーの音楽に対する気持ちが違いすぎるから、うまくいかないとわかりきっているためです。
それは二人が狭量なのでも、もう765プロがどうでもよくなったのでもなく、お互いのためを思ってのことです。

>>27 行橋たんというのが何のことかちょっとわからないですが何かすみません。

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