希「宅急便、はじめました」 (84)

地の文有り
不定期更新
全13話(予定)

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ウチ、東條希♪

満月の光を、誰よりも近い場所であびながら、街の光を見下ろしているのはこのウチだけ。
高度500フィートの冷たい夜風を切り裂きながら、箒にまたがって空を飛ぶ。
もはや人の営みの音は聞こえず、ウチの耳に入ってくるのはただただ無表情な風の音。
ウチの古風なとんがり帽子と裾の短いローブは風に煽られふわふわなびく。
魔女なんていう存在はもうほとんどいないのに、わざわざこんな魔女装束を着ることには少し抵抗があったけれど、
折角伝統を重んじて修行に出るのだからと、衣装についても伝統を重んじることにした。

修行というのは、魔女の素質を持つものに等しく課せられるというしきたりの一つで、
何歳になるまでに、とかそんな細かなことは長い歴史の荒波の中に消え失せてしまったらしいんやけれど……とにかく、大人になる前に家を出て、遠くの街で独り立ちしなければならないという。
「うーん……どんなとこに行こうかな」
天涯孤独のウチは、山の奥の鄙びた田舎村の小さな家にずっと一人暮らしだったから、魔女の生活についてのアドバイスをくれる人なんていなかった。
いたとするならば、それはウチのお母さんだったんだけど。
とりあえず山奥は虫も多いし、人柄も何もかも閉鎖的だから田舎はもうこりごり。
希望を挙げるとするなら、海の見える大都会にでも行ってみたい。
そこでウチはのんびり、ご近所さんと仲良く……といっても過干渉はせず、ゆるい関係性を築いてみたい。
海沿いの煉瓦造りのこぢんまりとしたアパートに住みたい。
それでもってそのアパートの外壁はツタがはっていて、外の景色を見ればカモメやネコがうろついている。
そんな場所でゆっくりのんびり、お花でも育てながら、週末にはお友達を呼んでお喋りをするような生活がしてみたい。

「あぁ、やっぱ地図は持ってくるべきやったなあ……」
とはいえ、どう嘆けどあの山村には地図を売ってくれるようなお店は無かったけれど。
とりあえずウチは南の方向を目指している。
根拠もなく、南の方向へ。



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      Episode01 海の見える街とパン屋の看板娘







 


今夜の天気は快晴だと告げた予報は虚しく、気付けば辺りは暗い雲に覆われていた。
「はあ……やっぱ信用できんわ、あの天気予報」
おまけに体を芯まで揺さぶるような低い唸り声をあげる雲に、ウチの背中は嫌な汗をかき始める。
この音は苦手なん。もっと苦手なのは雷が落ちた瞬間のあの音だけれど。
そんなことを考えながら飛んでいると、まるで神様がタイミング図ったかのように雷鳴が轟いた。
視界はホワイトアウトして、雲に近いがゆえに余計に大きな雷鳴に、耳はキーンと機能を奪われる。
驚きのあまり少しちびってしまったのはウチのここだけの秘密。墓場まで持っていかねば。
そんな憎たらしい雷鳴を合図に、激しい雨も降り始めた。
「ツイてないなぁー、もうっ!」
これ以上あの雷を近くで聞くわけにもいかず、箒を握りしめて高度を一気に落とした。
ウチの眼下10メートルに広がる景色は、鬱蒼として続く針葉樹林と、その森を割くように走る線路。
長時間かけて梳いたウチの長い髪はすっかり水分を吸いきって、くるまってしまっている。
おろしたての魔女装束も、今ではもう肌に張り付いて気持ち悪いだけ。
前途多難な旅の始まりに、シュンと悲しい気分を隠し切れないウチは、それを誤魔化すために箒のスピードを一層速めた。
下には停車中の貨物列車が見える。
金属製の貨物列車、その中身は一体なんだろう?
どれも固く閉ざされていて、ウチの想像の余地なんてどこにもない。
「んっ……!?」
とめどなく連結している車両の一つに、ぽっかりと穴の開いたものを発見した。
車体上側の金属製の扉が、ウチを誘うように口をあんぐりと開けて待ち構えている。
ちょうど雨宿りの場所が欲しかったウチは、自称ラッキーガールと言い続けてきた甲斐があったものだと、この時ばかりは自分に感謝した。
穴の上を旋回して、車体に着地する。
中を覗いても、薄暗くてほとんど見えなかったけれど、その特有の匂いから、動物の餌となる枯芝だろうと見当をつけて思い切って侵入してみた。
ウチの見当は大当たりで、若干肌触りは悪いものの、枯芝の山は野宿のベッドとしては申し分ない。
箒の穂先に括りつけた特大バッグの中からタオルを取り出して体にまとわりついた水を拭き取り、金属製の扉を閉めた。
重い扉は、錆びた蝶番を軋ませながら閉まり、途端に中は真っ暗闇になってしまった。
雨中の飛行に疲れてしまったウチは、そのまま枯芝を布団代わりにして眠ることに。
こんな真っ暗闇で他に何かをすることもできないし。
「はー、疲れた。おやすみなさい…………むにゃむにゃ」




朝、列車の走る振動で目覚めたウチ。
枯芝から体を起こそうと力を入れた瞬間、その底を足が突き抜けてしまった。
何かふわふわしたものに当たった。
次にやってきたのは……ぬめつく何か。
「ひゃっ!? ふっ、ふふふふふっ! アカン、くすぐったっ、あははははは!」
足を戻そうにも、笑ってしまって力が出せなくて、ウチの右足裏はますますヌメヌメの猛攻の餌食になっていく。
真っ暗闇の中、何秒、何分笑ったかすらもわからなくなってきて、いい加減に息が苦しくなって命の危険を感じたから、全身の神経を集中させてなんとか右足を救出することに成功した。
「な、なんやったの……?」
枯芝の山に潜って覗けば、列車の小孔から漏れる光に照らされて見えたのは、二匹のアルパカ。
「あっ、これキミたちのご飯やったんやね……」
顔まで舐められてしまう前にそそくさと退散して、外への扉を開けてみることにした。
閉めるときは簡単だったのに、開けるときは金属製の扉がなおさら重く感じられて一苦労だった。
勢い良く飛び出したウチの目は突然の光に驚いて、思わず顔を太陽から背けた。
列車の上から当たる風は心地よくて、顔を下に向けていても、とにかく晴れていることだけはわかる。
細目で陽に当たる車体を見ながら、ウチが顔を上げた時の情景を想像する。
この少し鼻の奥にツンとくるような風は、きっと潮風。
それは、もしかするとウチが望んだ世界への入り口かもしれなかった。
気持ちだけ高まって、そんなウチを嘲笑うかのように、目はなかなか眩しさに慣れてくれない。というのも、期待で時が経つのが遅く感じられるからなのかもしれない。
待ち受けている景色を想像して、少しずつ、頭の中に海の情景が描かれていく。


「わっ……!」
顔を上げたウチの前に広がる光景は、ウチの頭の中のそれよりも、何倍も綺麗なものだった。
列車は白い鉄橋の上を走り、その鉄筋はめまぐるしく、その景色を弄ぶように過ぎてはまた来、そしてまた過ぎていく。
鉄筋の奥の景色は、太陽の光に照らされて、青い宝石のように光り輝く海だった。
海は地平線まで伸びていて、その表面にはぽつぽつと満帆の船が漂流している。
もし太陽の光の反射が無かったら、雲一つない青空と海との境界線が曖昧過ぎて、まるで地続きのように見えたに違いない。
さらにウチの気持ちを有頂天にさせたのは、列車の進行方向に広がる大きな街だった。
高い家々と木々が立ち並んでいて……あの建物は教会? 遠くに見えるのはお城? そして、いっとう目立つのは時計塔。
あの街に住んでいる人達の時を管理するように、黙々とその針を動かしているのだ。
「これやっ……まさしくウチの求めていたものはこれや!」
旅支度をしている時もワクワクしていたけれど、今度のはそんなのとは比べ物にならない。
もう我慢することさえ忘れてしまって、箒を持ちだして、すぐさま列車の上から飛び立った。


弧を描いて飛ぶカモメの一群に囲まれながら、青の中を周遊する。
今までに感じたことのない爽快感。この瞬間、ウチを縛り付けるものなんて、何一つないんだ。
「あははっ、ウチを歓迎してくれてるん?」
そんな質問を無視するように、カモメはキャンキャン鳴き続ける。
いや、もしかするとそれは、ウチの質問に対して何かを返してくれているのかもしれない。
ウチも魔女なんやし、昔読んだ絵本に出てきた魔女の女の子みたいに、動物とお喋りできる力くらいあっても良かったやん?なんて心の中で毒づいてみた。

海を飛び越え、いざ、街の中に足を踏み入れる。
箒で空を飛んでいるのに、足を踏み入れるっていう言い方は少し変な感じもするけど。


街の中は木々、店々、人々、何もかもが鮮やかで新鮮に見えた。
大きな道路にはバスや車がひっきりなしに闊歩して、道行く人々も目眩がするほど沢山いる。
そんな人々は、空飛ぶウチを物珍しそうに、皆思い思いの言葉を発しながら見上げていた。
こういう時は第一印象が肝心やって、何かの本で読んだ。人間、第一印象でその人に対するイメージの8割方が決まってしまうらしい。笑顔が大切なのだ!
そういうわけで、笑顔を振りまきながら優雅に飛んでいると、突如目の前には2階建てのバスが!
「わっ!?」
箒をクイと上にあげて、方向転換する。
しかしそんなウチの後方では、ウチに気づいていた2階建てバスの運転手の気を動転させてしまったのか、ぐらぐらと蛇行運転するバス。
十字路の交差点で暴れるバスに、他の自動車も巻き込まれて大混乱!
そんな事の顛末は、なんとか事故は起きなかったようだった。でもウチにはわざわざ怒号飛び交う混乱の交差点まで出向いて平謝りする勇気も無かったから、その災禍を見ないフリしてそこから離れた。

交差点が見えなくなった辺りで、ふわりと歩道へ降り立ってみる。
これまた物珍しそうにウチを見つめる奥様方、作業着姿のお兄さん、燕尾服のジェントルマン、制服姿の女の子、優しそうなマダム――。
この機会に思い切って自己紹介をしてみることにした。
「あの、ウチ、魔女の希っていいます! お邪魔させていただいてます! この街に住まわせて頂きたいんです、綺麗やし、時計塔も素敵だしっ」
そんなウチの努力も虚しく、これといった反応は返ってこなかった。
唯一返ってきたのは優しそうなマダムの気まずそうな、
「そう……良かったわ!」
の一声だけ。これじゃあかけっこ競争の敢闘賞にも及ばない。


「おい、君!」
声をかけられて振り返ると、ピシッと糊の利いた制服の警察官。いかつい顔でウチを睨む。
「さっきの交差点でのこと、見ていたぞ! 危うく大事故になる所だった。飛び回るなんて非常識極まりない!」
「で、でもでも、ウチは魔女で、魔女は飛ぶものです」
「魔女でも交通規則は守らねばいかん。住所と年齢、あと名前は?」
なかなかどうして、面倒な事になってしまった。
いくら魔女とはいえ、この街でも堂々と地面の近くを飛ぶのは危ないということでしょうか。
もちろん道理に適っているのはあの警察官の方だとはいえ、ここでやすやすと従ってしまうのは、なんだか勝負に負けたような気がしてウチの気が済まない。
我ながら面倒な性分やなあ、なんてくだらないことを考えていたから、この後もつらつら続いた警察官のお説教はほとんど聞こえなかった。
すると突然、
「きゃあーっ、ドロボーよ! ドロボー!」
どこかから聞こえた女の子の悲鳴。いや、悲鳴の割にはどことなく人をからかっているような、そんな表情を隠し切れない声音。
「ぐ……君、ちょっとそこで待っていたまえ!」
警察官はウチをまだまだ叱り足りない様子だったけれど、流石に現行犯逮捕のチャンスを逃すわけにも行かず、渋々その声の方へと走り去っていった。
いや、その考え方で行くとウチも同じく現行犯なのかもしれないが。
いずれにせよ、この好機を逃すわけにも行かないし、神様が与えてくれたご寛恕だと思って逃げることに。
箒はかえって悪目立ちしてしまうから、今回は人波をかきわけながら走って逃げる。
木の葉を隠すなら森の中、魔女を隠すなら人の中、である。


大通りから抜けると、少し落ち着いた街並みに変わった。
道路を挟んで並んでいる建物は、どれもこれも共同住宅みたいな感じだ。
しかし、それぞれを所有している大家さんは別々で、まして建てられた時も違うはずなのに、どれもこれも街の景色に調和する、落ち着いた見た目の建物なのは、景観保護の条例でもあるからなのだろうか。
まあ、ウチはこういう統一感のある感じも好きだからいいんだけど。

先程の大通りとは打って変わって人通りは少なくなって、道路に響く音はせいぜいウチの靴の音くらい。
コツンコツンと、先のくねったミドルヒールの靴を、大げさに音を立てて歩いてみたりする。
すると不意をつくように、間抜けなクラクションの音が後方から鳴り響いた。
なんとなくさっきの警察官のせいで後ろを振り向くのが億劫だったウチだけれど、ほとんど反射的に後ろを向いてしまう。
振り向いた時、もうウチのすぐ1メートル後ろにまで近づいていたのは、自転車に乗った金髪の女の子。
「うまくいったわね!」
「ドロボーって叫んだの、私なのよ? あなた、魔女でしょう? 飛んでいる所を見たの……本当に箒で飛ぶのね! お婆様から聞いていた通りだわ!」
「その箒、ちょっと見せてくれない? ね、いいでしょ?」
警察官同様に、これまた面倒事の香りがした。
確かにこの女の子のお陰であの警察官から逃げられたのは事実なのかもしれない。でも、この箒は、できれば見ず知らずの人には触らせたくないものだった。
というのも、家の倉庫の奥底で埃をかぶって眠っていたこの箒は……多分ウチのお母さんの形見で。
それになんとなく、赤白のストライプのTシャツに、カーディガンをプロデューサー巻きしているこの女の子の見た目がチャラかったから――つっけんどんな態度を取ってみることにした。
「さっきは助けてくれてありがとな」
「でも『助けて』なんて言った覚えはないし、そもそも初対面なのに慣れ慣れし過ぎやせんかな?」
早口で吐き捨てるようにその口上を残して、呆気にとられている女の子をよそに、ウチは路地に逃げ込んでそのまま箒で逃げる。
下でぽかーんとウチを見上げる女の子を見て、今更になって罪悪感が湧いてしまった。


日も暮れ始め、青色の海が淡くオレンジ色に染まり始めている。
ウチは、未だに宿も確保できずに街を彷徨っている。
ウチが今いる場所は、街のはずれの高台になっている住宅地の端っこ。
そこの石垣から見る街全体の景色は、夕日の憂いを帯びていて、まるでウチの心そのものを表しているようだった。
「奥さぁぁぁぁぁん!!」
黄昏時にたそがれるウチの横では、オレンジ色の髪の毛を揺らしたエプロン姿の女の子が、手におしゃぶりを持ちながら下の街へと叫んでいた。
「奥さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!! 忘れものー!! 赤ちゃんのおしゃぶりーー!!」
何とも言えない片言加減にニヤリとしながら、ウチは下の街を眺める。
ちょうどあの女の子の視線の先に、乳母車を押す長身の女の人が見えた。
「はぁ、困ったなぁ……。これが無いとあの子大泣きしちゃうんだよねえ……」
見るからにしょんぼりとしている女の子を見て、どうしようもなく可哀想に思えて、ついには声をかけてしまった。
「あの……それ、ウチが持っていきましょうか?」
「えっ!? で、でも、悪いし……」
「さっきあそこを曲がっていった乳母車の人でしょ?」
「そ、それじゃあ……お願いできるかな、えへへ」
下をペロリと出して、申し訳無さそうに苦笑いする女の子からおしゃぶりを預かる。
乳母車の女性は角を曲がって死角に入ってしまったから、ゆっくりとしている暇はない。
おしゃぶりを預かるなり、石垣に飛び乗って、そのまま落ちながら箒にまたがり空を飛んだ。
「えっ――えええええええええええ!?」
後ろで叫んだ女の子の声は、さっきの奥さんを呼ぶ時の声をよりも一層大きくて、きっと街中に響いてしまったに違いない。
「ふふっ……驚きすぎやん」




「あっ、ごめんね! ちょっと今混んでるから少し待ってて!」
乳母車の奥様に、そつなくおしゃぶりを渡し終えて、メモ書きの言付けを賜った。
あまり広くない店のわりには、人が沢山いて繁盛している様子だった。
店内には香ばしいパンの香りが充満していて、ついウチもお腹が減っていたことを思い出してしまう。
女の子にメモ書きを渡し終えたら、ついでにウチも何か買って行こうかな。
女の子の方を見てみると、パンを抱えた大行列を愛想よく処理していた。
手はテキパキと忙しそうに動いているのに、表情は笑顔のまま崩さず、かなりの接客力。
店内のお客さんにならって、ウチも後で買うパンの物色をすることにした。
店の壁をちょうど一周するように張り巡らされた棚には、所狭しときつね色のパンが並べられている。
ここで買ったパンが今夜の夕食になる可能性も否めないので、安上がりで腹持ちのいいものがいい。
とすると、フランスパンなんかはよく噛むからいいかもしれない。しかし視線はついついメロンパンに動いてしまう。
「おーいっ」
「あ、終わったんやね。これ、さっきの奥様から」
「ん? なになに……『おしゃぶり受け取りました、ありがとう。可愛い魔女さんにも出会えて嬉しいわ』……ふふっ」
そんなことが書いてあったとはつゆ知らず、少し顔が熱くなった。
「あ、そうだ! お礼もしたいし、もしよかったら上がってよ!」
「じゃ、じゃあ……」
「うんっ!」
ウチはぎゅっと手を引かれて、そのまま店の奥に案内された。

店の奥は普通の家になっていて、可愛い小物と観葉植物がお洒落なダイニングキッチンのテーブルに座らされた。
女の子はウチに背を向けて、お茶の準備をしながらウチに話しかけてきた。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったよね。私の名前は穂乃果って言うの! この辺りじゃ、『ベーカリー穂むら』の看板娘って、ちょっぴり有名なんだよ? って、自分で言っちゃうとなんか恥ずかしいな」
「穂乃果ちゃんかあ……宜しくね。ウチは、希って言うんよ」
「希ちゃんね、ヨロシク! それにしても、さっきは驚いちゃったなぁ。空を飛べるなんてすごいよ!」
そんな穂乃果ちゃんの後ろでは、赤いホーローのやかんがふつふつと音を立てている。
「その服装からして……もしかして希ちゃんって魔女かなにか?」
「うん、正解。って、さっきの人のメモ書きにも書いてあったやん」
「あっ、そうだった、てへへ……魔女に会うなんて、生まれて初めてだよ」
「あはは、最近は魔女の数も少ないみたいやしね」
穂乃果ちゃんは、食器棚からマグカップを二つ取り出して、インスタントのコーヒーの粉を1さじ入れ、やかんのお湯を注ぐ。
「そうなんだ……。そういえば、希ちゃんはどうしてこの街に? あっ、もともと住んでたって話ならごめんね」
「ううん、もとは……ここからどれくらい離れてるのかわからないけど、田舎村に住んでたんよ。それで、ウチは見ての通り魔女なんやけど、魔女のしきたりっていうのがあって、大人になる前に家を出て、独り立ちせないけんのね?」
「えっ!? 大変……。それでこの街に来たってわけなんだね。はい、コーヒーどうぞ」
穂乃果ちゃんはウチと対面するように椅子に座った。
テーブル中央にはミルクと角砂糖があって、穂乃果ちゃんは少しミルクを入れたと思ったら、次から次へと角砂糖をコーヒーに投入した。
合計8個。
「……でもあんまし、ここの街の人は魔女が好きやないみたいだね」
「まあ、大きな街だからねえ……。でも、私は希ちゃんのこと好き!」
「えっ、て、照れるなあ……あはは」
「それで、この街で独り立ちするっていう話だけど、住む場所とかは決まったの?」
「……」
「え、決まってないの?」
コクリと頷いた。
「なら私の家、会いてる部屋があるから使ってもいいよ!」
出し抜けに出された提案に、すすりこんだコーヒーでむせてしまった。
うまい話には裏があるとは言うけれど、覗きこんで見る穂乃果ちゃんの瞳は純粋そのもので、どうしてもウチを陥れようと考えているようには思えない。


それから、ウチは遠慮する暇もなくあれよあれよとその空き部屋に案内されてしまった。
空き部屋はベーカリーも含めた母屋の隣にあって、その1階はパンなどの材料、そして2階がウチの部屋になるというわけだ。
「ちょ、ちょっと埃っぽいけど……あはは……」
「い、いいよ! こんなん掃除したらなんとでもなるし……本当にいいの?」
「うん、平気平気!」
「でっ、でもでも、ウチもしかしたら危ない人かもしれんよ?」
「え? あはははははっ! 面白いこと言うね、希ちゃん。大丈夫! 希ちゃんは危ない人なんかじゃない! 私の勘がそう言ってるんだから間違いないよ」
今にも切れてしまいそうな電球の灯だけの暗い部屋の中で、穂乃果ちゃんは明るく笑った。
「それにね、私は希ちゃんみたいな可愛い子が、夜に宿もなくふらついてる方が危ないと思うの!」
「そ、そうなん……?」
「そう!」
さり気なく『可愛い』だなんて言われて、またしても頬が少し熱くなってしまった。
どうやらウチは褒められ慣れていないようで、確かに昔の記憶をたどっても、褒められたことなんて一つも無かったことに気がついた。


「さ、とりあえず日が暮れちゃう前に掃除しちゃおっか!」
「えっ、穂乃果ちゃんも手伝ってくれるん?」
「もちろん、当たり前でしょ?」
ここまで優しくされてしまうと、どうにもムズムズしてならない。
そんなウチをよそに、穂乃果ちゃんは手早く掃除用具を準備しはじめる。
ウチは換気のために窓を開けることにした。
装飾付きのガラス窓は、長らく閉じられたままで固くなっていたせいか、開けるために意外な力を要した。
鉄製の枠とガラスが振動して高い音を立てるとともに、黄土色の砂埃が舞いこんでウチの顔にぶつかった。
海が見えた。
ウチの思い描く理想に近い風景。
思い返せば穂乃果ちゃんと出会ってからというものの、楽しいこと、嬉しいことしかないような気がする。
そういうことに深く思いを馳せるのは今夜の、ベッドの中の楽しみにしておこうか。
穂乃果ちゃんからハタキと雑巾を貰って、まずは部屋の家具などの高所にある埃を取っていく。
「そういえば、穂乃果ちゃんはパンを作ったりするの?」
お互いに別々の作業をしながら会話する。
「いや、私はお手伝いくらいかな。お店のパンはお父さんとお母さんが作ってるんだよ。あっ、でも、穂乃果も毎日10個の限定販売でパンを置かせて貰ってるの!」
「まあ、そのうちの3つは私のパンの常連さんの予約が入ってるから、お店に並んでるのは7つなんだけど……密かな人気があるってお父さんも言ってくれるんだ」
「へえー、ウチも食べてみたいなあ」
「それじゃあ明日、持ってきてあげる!」
「あ、なんか詰め寄ってしまったみたいでごめんね……」
「ううん、どうせ持っていくつもりだったから。穂乃果が丹精込めて作った手作りパン、略して『ほのパン』!」
聞く人によっては誤解を受けそうなネーミングセンスだと思った。
明日の朝には食べられるであろうパンの味を想像しては、口の端からつつと涎が垂れる。
棚をはたいて舞い飛ぶ埃の匂いを嗅いで我に返った。


バケツの中から雑巾を取り出し、たぷたぷと水滴を落とすそれを絞る。
新たな街、新たな友、新たな根城を手に入れて、残すは新たな職くらいだろうか。
なんでもいい、どこかのお店で働き手を募集したりしていないだろうか。
流石にベーカリー穂むらで働かせてほしいとは、口が裂けても言えない。
接客なんてしたこともないし、お店に並ぶほどのパンを作る腕前もないし、何より図々しすぎる。
しかし、もともとウチの持ち合わせなんて雀の涙程度でしかないし、明日は街を歩いて張り紙を探す必要があるかもしれない。
「ねえ穂乃果ちゃん、どこか働き手を探してるようなお店とか無いかな?」
『ここで働いてよ』と言われる可能性を危惧しつつ、期待しつつ、どちらに転んでも悪くない質問をぶつけた。
我ながら打算的だ。
「んー、そうだね……ウチはアルバイトを出す余裕とかないし、街中のお店となると……うーん」
ベーカリー穂むらはアルバイト不要のようでした。
「季節の変わり目になったらそういう募集も結構あると思うんだけど、今の時期は探すの大変かもね……あっ、いっそさ、自分でお仕事作りなよ! 私、ナイスアイデア思いついちゃった」
突拍子もないことを言い出す女の子だなあと、そんなことを思いながら穂乃果ちゃんの話の続きを促した。
「希ちゃんって、空を飛べるわけでしょ? そんな希ちゃんだけの長所をいかして、『宅急便』しようよ!」
「た、宅急便!?」
考えてもみなかった。
そういえばあの絵本も、もしかするとこんな内容だったかもしれない。ウチはもうほとんど覚えていないのだけれど。
「そう! この街って人通りはもちろんだけど、車通りも多くて、一応配送業者はいるんだけど、たまにすごく配達が遅い時があるんだ」
「空は希ちゃんだけの道路だから渋滞もないし、『速く届けてほしいー!』って人にはうってつけだと思うの」
「な、なるほど……結構いいかもしれんね」
意外や意外、きっちりとした理由もあって反論を返すこともできない。
何よりウチ自身がすでに乗り気になってしまっている。
どう宣伝するだとか、何キロまでなら提げながら飛べるのかだとか、この街の税率だとか、営業するにあたって何か届け出が必要なのかだとか、そんなことは後回し。
この慌ただしい街の空の上を宅急便として飛び回る、なぜかウチはその姿を鮮明にイメージできた。
独り立ちをするにしても、人間関係をもっと広げていく必要があるだろうし、この仕事なら知り合いも増やすことができるかもしれない。
「でしょでしょ? ベーカリーの店番とか伝ってくれるなら電話も共用でいいし、宣伝も手伝ってあげるからさ!」
「……どうして穂乃果ちゃんはそんなにウチに優しくしてくれるん?」
「え、どうしてって……当たり前でしょ?」
ああ、この子は、本当に根っからのそういうタイプな子なんやね。
なるほどこれは、看板娘としても最高の女の子だ。
きっと穂乃果ちゃんには損得勘定なんて存在しないのだ。
それはそれで少し危なっかしいようにも思えるけれど、いずれにせよ、ウチはとんでもない人と繋がりを持ってしまったようである。
「ありがとな、ほんっとありがとう! もう、なんて言ったらいいかウチにはわからんわぁ……」
だから、遠慮なくお世話になってみよう。
その代わり、ウチも穂乃果ちゃんの前では純粋に、嘘偽り無く振る舞うことに決めた。
埃だらけの部屋は、ウチの居場所に変わった。


その流れで、ウチは晩ご飯までご馳走になってしまった。
突然の話だったにも関わらず、ウチの分まで追加で作ってもらった。
後で分かった話だが、この日はチーズフォンデュで、ウチの分といっても、売れ残りのパンを切って、スープをよそうだけだったから簡単にOKが出たという話らしい。

遠慮なくお世話になるなどと考えたは良いものの、結局の所、この家での最終的な決定権は穂乃果ちゃんの両親にある。
流石のウチでも、食卓までの道のりは心臓が痛くなるほどドキドキしていた。
「ね、本当に大丈夫かな? ウチなんかが急に……」
「もう、その質問6回目だよ!? 平気だってば!」
穂乃果ちゃんのご両親が、ウチをお気に召さなかった時を想像すると、気もそぞろになってしまって穂乃果ちゃんに繰り返し投げかけた質問の返答さえおぼつかない。


実際に食卓についてしまうと、ウチの心配は全て杞憂に終わった。
「あなたが希ちゃんね。穂乃果から話は聞いてるわ、よろしくね」
いつの間にか穂乃果ちゃんはお母さん、お父さんに話をつけてくれていたらしい。
「よ、よろしくお願いしまひゅっ」
朗らかなお母さんの視線とは反対に、流し目でウチを見るお父さんの視線にうろたえてしまって、最初の一言は噛んでしまった。
そのお陰か、厳しそうなお父さんの表情がニヤリと綻んで、それを見たウチもついついニヤリとしてしまった。いや、どちらかと言えば苦笑いに近かったかもしれないが。
「希ちゃんったら二人に会うのが心配で、何回も『大丈夫かな?』なんて質問してきたんだよ」
そう言って、穂乃果ちゃんとお母さんは快活に笑った。
ウチは恥ずかしさを誤魔化そうと、素早くパンをスティックに刺して、チーズにくぐらせ、口の中へ運んだ。
「あっつ!!」
「あっ、当たり前だよ! ちゃんとフーフーしなきゃ!」
「はっ、ほっ、はあっ……もぐもぐ……お、おいひい……」
「あははは、良かった良かった。希ちゃんのお陰で、食卓も普段より一段と明るいわね」
「やったね、希ちゃん?」
家族と一緒に食べるご飯は、こんなにも楽しくて美味しいものなのかと、初めての感覚に戸惑う。
四人で談笑しながら食べ進めていくうちに、だんだんとその戸惑いも実感に変わっていった。
ウチは、どうしてか目の奥から溢れだす涙を止める方法さえも知らなかった。
「いやー、希ちゃん、実はこのパン私が作ったんだよ……って、どっ、どうして泣いてるの!? ご、ごめんね、そんなに不味かった!?」
もはやまともに話すことなんて不可能で、どんなに努力しても嗚咽が漏れてしまう。
ウチは涙を見せまいとうつむきながら首を左右に振った。
ウチの心の中を形容できる言葉が見つからなかった。
ふと気づくと、穂乃果ちゃんに抱きしめられていた。
「ほ、穂乃果ちゃん……」
「よしよし……」
まったく、なんて人の心の機微を読み取るのが上手な子なんだろうか。
たった四文字の過不足のない言葉は、ウチの心を宥ませるのにこれ以上ない鎮静剤だった。
「……うん!  ありがとう、穂乃果ちゃん。お二人にも、本当にごめんなさい。お恥ずかしい姿を見せてしまって……」
「ふふ、いいのいいの」
お父さんも無言で頷いてくれた。





母屋から出て冷たい空気を耐えつつ、静かな静かな自分の部屋に戻る。
静寂が支配する空間は嫌いではない、むしろ好きである。
それなのに今日は、さっきのような家族団欒で賑やかな空間を、早くも恋しいと思っているウチがいる。
穂乃果ちゃんと協力して掃除を進めたお陰で、最初はあんなに埃っぽかった部屋の空気も、今なら深呼吸しても気持ちが良いくらいだ。
薄暗いけれど明かりは点くし、水は流れる、火だって使える。
いつまでここにいられるのかウチにはわからないけれど、この質素なウチの居場所が、これからどう変わっていくのか楽しみだった。

窓際に置き直した円形のテーブルと、椅子二脚。
そのうち片方の椅子に座って、真っ暗な部屋から海を眺めた。
海は少し欠けはじめている月に照らされて、昼間とはまた違う顔を見せてくれる。
静かに思えたこの部屋にも、耳を澄ませば微かに聞こえる波の音、風の音。
明日はフラワーショップにでも寄って、テーブルに置くための花を一輪買ってこようかと、まっさらな木目だけのテーブルを見ながら考えた。


天真爛漫で純粋で、優しい穂乃果ちゃん。
この子にしてこの親ありな、可愛くて大人なお母さん。
少し怖いけれど、ぶっきらぼうで、ウチにも少し似ているお父さん。
この人達が本当にウチの家族だったらと、どうしようもない空想に耽ってしまった。

たったの一日でウチの周囲は大きく変化した。
ウチ自身も少し変わった気がする。
そうだった、明日からは宅急便としての役割も始まる。もちろん、お客さんがついてくれる確証はどこにもないが。
まあ、明日の一日くらいは穂乃果ちゃんと一緒に店番に徹するのも悪くないかもしれない。
穂乃果ちゃんがベーカリーの太陽ならば、ひとまずウチは月を目指そう。
全ての人を永久不変に照らし出すことは出来なくても、小さな光で闇夜を照らせる。

「……!」
淡青の欠けた月の逆光の中に、箒で空飛ぶ、二つ結びで、古臭いとんがり帽子とローブを風に揺らす魔女を見た。
彼女は緑色の瞳をウチに向けて、ウインクをしてくる。
驚きのあまり声も出せずに、星達と遊ぶように飛ぶ彼女をただただ眺めていた。
次にまばたきをした時にはもうそこに彼女はいなかった。





             Ep.01   END
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次回『小さな森の花娘』 (日時未定)




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       Episode 02 小さな森の花娘







 


「っ、ひゃあー……疲れた!」
パンパンに膨れ上がった袋をテーブルにそっと載せる。
中身は食べ物や小物類。
重たい荷物を持ち続けて、強張り過ぎて痛くなった腕を左右にぶらつかせた。
昼からは店番に出なくてはいけないし、疲労に浸っている暇はない。
袋を裂くと、オレンジが床に落ちた。
止まらずに、視界の右側へと転がり続けるオレンジを見て、この部屋が少し傾いていることに気づいた。
だからどうってわけでもないけど。
冷蔵庫に食べ物を入れていく。
はて、果たしてオレンジは冷蔵庫の中に入れても良い物だっただろうか。
開け放しの冷蔵庫の冷気を浴びつつ、手に持ったオレンジをじろじろ眺める。
「ま、すぐ食べちゃうしいっか」
長考の結果、オレンジはキッチンのワークトップに置いた。
ボトル入りの水と牛乳は迷わず冷蔵庫に、シリアルとホットケーキミックスはキッチンのちょうど真上にある収納に収まった。
「あっ、トマト買い忘れてるやんウチ……」

すると突然、ドアを壊さんばかりの勢いで穂乃果ちゃんが訪ねてきた。
「の、希ちゃん!!! お客さん!」
「ん? なに?」
「お客さんだよ! 希ちゃんの宅急便!!」
「えっ、ウソっ!?」
「本当だよ! 早くきて!」
テーブルの上には手付かずの袋が2つ。
当然それを構う暇もなく、ウチは走ってきたのか息を荒らげている穂乃果ちゃんとパン屋へ向かった。
穂乃果ちゃんは想像以上に足が速かった。


お店に着くと、ウチを待っていたのは落ち着いた色調のワンピースをまとった女性だった。
両手でバスケットを提げ、そのバスケットには布がかけられている。
その網目から見えるのは……野菜?果物?とにかく青物類?
「あなたが宅急便さん?」
「はっ、はい! そうです!」
「ふふふ、元気がいいのね。早速だけど、これを運んでもらいたいの」
「はい! お預かりしますね」
バスケットを受けとると、思った以上にズッシリと重みのあるそれは、ウチの体勢を崩した。
見かけよりもずっと重いが、持てないほどではなさそうだ。最悪箒の柄にバスケットの持ち手を引っ掛ければ持たなくても済む。
バスケットをベーカリーの床にそっと置いて、布を外して中を見ると、やはり入っていたのは野菜と果物。
カボチャにトマトに人参、そしてキャベツ、オレンジに栗、パプリカ、ズッキーニなどなど。表面に見えるのはそれだけ。
輸入物なのか、季節感はバラバラな印象を受けるが、かすかに水滴がついているそれらはとても新鮮そうだ。
「おかしいでしょ? わざわざ野菜と果物を送ってもらうなんてね」
「い、いえ……でもどうして?」
「私の遠い親戚の家に届けて欲しいのだけれど、その家の娘がかなりのグルメでね……とりわけ甘い物好きらしいんだけど、なんでもいい具材が欲しいとかなんとかで、定期的にどこどこ産の何々を何個買ってほしいって連絡が来るのよね。それでやっぱり、ナマモノだし新鮮なほうがいいじゃない?」
「なるほどなるほど……責任を持ってお届けさせていただきますね!」
「お代はいかほど?」
うっかりしていた。料金設定を決めていなかったのだ。
出鱈目に言ってしまうのも良くないし、そもそもウチは配達業の料金の相場すら知らなかった。
ほとんど無意識のうちに、顎に手をあてて考えこんでしまっていた。


「じゃあこれくらいでどう?」
ウチの失敗を察してくれたのか、その女性は財布の中からお金を出す。
女性の手が手に出すお金は、素人のウチが見てもあまりにも貰いすぎな金額だった。
これだけあれば、質素な暮らしぶりなら、あるいは節約上手な人なら一ヶ月くらい生き抜くことができるかもしれない。
「えっ!? こ、こんなにいけませんよ!」
「まあいいじゃないの! 穂乃果ちゃんに聞いたんだけど、私がお客さん第1号らしいじゃない。なら、私からの開業のご祝儀ってことで、ね?」
「や、で、でも……」
「もう、こういう時は素直に受けとるものよ?」
ここまで言われてしまうと、もう言い返す言葉も無い。
これ以上遠慮してしまうのは、逆に無粋というものだ。
しっかりとお辞儀して、恭しくお金を受けとった。我ながら現金やなあ。

「それで、場所なんだけどね……この丸印をつけた所なんだけど」
女性は懐から地図を出してウチに渡し、地図に赤ペンで威勢よくつけられた丸印を指さした。
ベーカリー穂むらから、北に……街を越え、川を越え、村を越え、森を越え……目的地はウチの予想以上に遠い場所だった。
出せる限りのスピードで飛ばしても、一時間はかかるかもしれない。
「はい、大丈夫ですよ! 一時間くらいあれば着けると思います」
「本当!? 流石宅急便ね、普通なら三時間はかかるわよ? まあ、業者に頼めば、荷札だのなんだのって面倒なことばっかりで、日を跨いじゃうんだけどね」
それから女性は、穂むらでパンを一斤買って家に帰っていった。
一見地味な雰囲気なのに所作は美しくて、どことなく貴婦人という言葉が似合いそうだった。


「ごめんなあ……お店手伝えんくて」
「あはは、希ちゃんにとってはこっちが本業だもん。気にしなくてもいいよ」
「うん、ありがとう。ほな」
「行ってらっしゃーい!」
力を込めて、重力に逆らう。
青物の詰まったバスケットに重心を取られて、箒が少し前傾する。
そもそも重力に逆らって浮いていくなんてのは物理法則に従っていないのに、浮いた途端こんな風に物理法則も関わってくるのは不思議だ。
これで箒に乗せる荷物の重さまで0になるなら、掛け値なしに便利な魔法だと言い張れるのだけれど。
高度を上げるにつれて、上昇気流の影響なのか少しずつ籠の重さも楽になっていく。
今日もこの街は雲一つない快晴で、ウチの上にはだだっ広い青天井。
太陽に近づくにつれ、ジリジリとウチの肌を焼く紫外線を感じながらも、警察官に邪魔をされたくないので、さらにさらに上へ上へ上っていく。
ある程度の高さまで上ると気温は下がって涼しくなるものの、それを感じることができるのはせいぜいとんがり帽子のつばの影で隠れる顔周辺くらいだ。
それ以外の、例えば腕や太ももなんかは逆にヒリヒリしてくるんよ。
あ、そういえば、今朝ラジオで飛行船の建造に着手とかなんとかっていうニュースを耳にした。
近い将来はこの空もウチだけのものとは呼べなくなってしまうのかもなあ。




だいぶ長く飛び続けて、疲れてきてしまった頃。
眼下には、とても広い森が見える。
村と村、そして街を繋ぐ道路はあるとはいえ、街中の舗装されたものとは全く違う、地面そのものだから、車だとしてもここまで来ないといけない運送業者の人は大変そうだ。
特に森の中を走る道は、木が時たまの風雨で倒れたりなんかすると簡単に分断されてしまう。
そういう時はどうするんかな。

ウチもそろそろ休憩したいのに、休めそうな場所は見当たらない。
「はあ……」
小さく溜息をついた後、
「きゃっ!?」
ひゅーっと遠くの方から音を響かせてやってきたのは強烈な突風だった。
疲労もあって、ウチは簡単にバランスを崩してしまった。
「あっ、ダメっ!」
箒が傾いて、引っ掛けていたバスケットの持ち手が滑っていく。
ウチは飛ばされていったとんがり帽子を気にする暇もなく、手をバスケットに伸ばすも――あと4センチだけ届かなかった。
バスケットはくるくる回りながら落ちていく。
バスケットには布が覆いかぶせてあって、さらにその上から紐で括ってあるので、中身がこぼれることはなかった。
やってはならない失敗を犯してしまった。
とにかくバスケットを追いかけようと、ほとんど垂直に急降下する。
「はあ……はあ……」
目の焦点が定まらない。息を吸っても吸った心地がしない。自分の精神力の弱さに泣きそうになる。
そんな時、再び突風が吹き荒れた。
「わっ……!?」
ウチはまた、体勢を崩される。
意識がはっきりとしていないことに、手汗のせいで箒の柄をうまく掴めないのも相まって、ウチは抵抗することもできず箒から落ちた。

「あ――」
天高く、真っ逆さまになって風を切りながら落ちていく。
上には魔法の力を失ってしまったただの箒が、ウチを追いかけるようにして落ちているのが見えた。
本当はこんなはずじゃなかったんよ。
ウチ、死ぬんかな……。
誰か、誰か助けて……!

落ちるまでのわずかな時間、最後に頭の中で呟いたのは、そんなやり場の無い救難信号だった。





箒とお届け物のバスケットを失ったウチ。
為す術無く自由落下していって、緑一面の風景に飲み込まれて……それからウチは、どうなったんやっけ。

「んん……」
真っ暗の視界が、だんだんと霧が晴れていくように明るくなっていく。
そんなウチが最初に見たのは、夕日に照らされてオレンジ色に染まった木製の天井。
その後、ウチの体を包み込むふわふわした感触のおかげで、自分がベッドの上に仰向けになっていることに気づいた。
「………………」
意識が無くなる寸前、あんな高所から落下して、死さえ覚悟したのに、それでもまだ生きているという現実に実感がわかない。
もしかするとここが死後の世界なのかもしれない、なんて思ってしまいそうなほどには現実感がない。
そんな感じで、ぼけっと天井を眺めていたウチも、やがて記憶の整理が進んでいって。
「あっ!? 荷物は!?」
落としてしまったお届け物の存在を思い出した。
「いっ……!?」
仰向けから一気に体を上げたため、落ちた時に打ったのであろう腰やら肩やらがズキッと痛んだ。
しばらくその痛みに悶絶して、呼吸を止めて目をぎゅっと閉じる。
そして数秒後、痛みが少しだけ和らいだので、目を開けて家の中を見回した。

家の中は、部屋割りもなく、寝室・リビング・ダイニング・キッチン、全てが一室に揃っていた。
唯一トイレは見当たらなかった。
ひらけた部屋のテーブルには、野菜と果物が今にも崩れ落ちそうなほどうず高く山積みになっている。
トマト、レモン、ピーマン、その他諸々……カラフルなそれらはまるで美しい絵画のように見えた。


ウチがそんな現実離れした景色に見とれていると。

ガチャリ。
と、家の扉が開いた。

「よい、しょっ……よいしょ……」

ウチの視界に飛び込んできたのは人……ではなく、白菜。
正確には、大きな白菜を持っている小柄な女の子。
女の子の背丈とは少し不釣合いなその大きな白菜に顔が隠れてしまっている。

「う~、こんなに大きかったら一ヶ月くらいは食べれちゃいそう……」

独り言を呟きながら、女の子はキッチンに白菜を置いた。
女の子が、反動を使って白菜を置いたのと、白菜そのものの重さが相まって、鈍く大きな音が響いた。

「あ……大丈夫ですか?」
ウチに気づいた女の子の瞳と目が合った。

その女の子はふわふわした茶色の髪の毛で、少しゆるめのベージュ色のワンピースを着ていた。
お腹の部分を細めの麻ひもで巻いていて、だらしない印象は受けない。
おまけにワンピースの下半分には薄い赤色のレース模様が描かれていて、少なくともウチの真っ黒な衣装よりは可愛い。
全体的に淡い色彩で、少し地味めかと思えば、そうでもなかったりする。
というのも、頭に巻いた花冠が華やかさを加えているからだ。

「あ、あの……」
ついついじーっと見つめてしまって、返答するのを忘れていた。
「あっ、ご、ごめんね! ウチを助けてくれたんは君?」
「えっ、いやそんな、助けただなんて大げさなことはしてないですけど……」
女の子はもじもじしながらウチの方へ近づいてくる。

女の子はウチが眠っていたベッドの傍の棚から、何やら色のついた液体の入った瓶を取り出した。
「これ、飲んでください」
「えっ、飲むん……?」
濃い緑色の謎の液体は、飲み物としては、どうも飲んでしまったが最後、泡を吹いて倒れてしまいそうな怪しさがある。

「大丈夫ですよ、私のお手製のお薬です」
渡された小瓶の口を覗きながら、飲むのを渋っていると、そんなことを言ってきた。
助けてもらった恩はあるけれど、流石にこの毒々しさ……ウチに限らずとも誰だって躊躇しちゃうでしょ。

結局、女の子の純粋な視線に耐え切れず、清水の舞台から飛び降りる気持ちで液体を飲み込んだ。

「にっがぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

「あははっ、ですよね」
「で、ですよねって……」
「でもこれで傷は癒えたと思います」
「え?」
女の子に言われて、ウチは腰をひねり肩を回し……あるはずの痛みがなかった。
いくら薬とはいえ、飲んだ途端に効くなんていう超即効性のものは聞いたことがない。
「あれっ、えっ!?」
「えへへ、良かったです」
屈託なく笑う女の子。
でもウチには、その笑みがやたらミステリアスに見えてしまった。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年04月02日 (木) 13:28:13   ID: qlbbOpPq

ええやん

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