ありす「ありすクロニクル」 (69)
※地の文あり
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これは、御伽噺。
これは、もう一つの可能性。
これは、彼と彼女の、出会いの物語。
20××年 7月31日
私が生まれた。
親は何を思ったか、私に「ありす」と名付けた。
特に意味はなかったのかもしれない。気まぐれだったのかもしれない。
ただそこから、「橘ありす」が始まった事は確かだ。
物語の中に産み落とされた。
そう、喋るうさぎを追いかけて穴に落ちた時のように。
20×○年 A月U日
父は、母の金に目が眩んだだけの、不細工な大人だった。
父は幼い頃から私に家庭教師をつけた。
きっと私に母のような教養無しにはなって欲しくないと思ったのだろう。
そんな母は我が侭で子供の私から見ても子供のような人だった。
私が彼女の気に食わない事をすれば、容赦なく怒られた。
そして何よりも褒める事をしない。いい成績を取っても、自分の過去と比べてなのか不機嫌になるだけだ。
彼女は言う、「私に褒められるぐらいの事をしなさい」と。
私は両親が嫌いだった。
理不尽で、傲慢な、ハートの女王。
歌うばかりでろくな教養を与えてくれやしない、代用ウミガメ。
20×□年 R月W日
小学校では、まず真っ先に名前の事で男子からかわれた。
些細な事だ。気にしていない。
私がからかいを無視し続けていると、だんだんと私をからかう男子はいなくなっていった。
数ヶ月立つと、私に話しかけてくる女子がぼちぼちと現れるようになった。
だが私はどうもその女子が母と同種に見えて、好きになれなかった。
特に親しげに私の事を名前で呼ぶのが、不快だった。
結果、友達と呼べる人間は一人もいないまま。
それでいい。
アリスが信じていた、アリスを信じていた動物は、不思議の国にはただの一匹もいないのだから。
20○△年 D月S日
小学校高学年になって。それでも何も変わらない日々が続いている。
周りの女子や男子は、まだどこか子供っぽい。
話す気にはなれなかった。
しかし、その日は突然訪れた。
猫のない笑みを浮かべたチェシャ猫が、突然頭だけを空中から出現させるように。
あなたは現れた。
「君、ちょっといいかな」
「……」
知らない人に話しかけられた。
無視する事にした。
「ちょ、君、そこの君だ。待ってくれ!」
「……っ」
私は軽い苛立ちを覚えた。
下校途中、私以外のほぼ全ての生徒が私と彼を奇異の視線で見ている。
不快だった。
「やっと止まってくれた……少し、時間いいかな?」
「警察を呼びます。それ以上近づかないでください」
スマートフォンを耳にあて、振り向く。
スーツ姿の若い男の人だった。20代前半といったところだろうか。
「け、決して怪しいものじゃなくて、こういう者なんだけど!」
さっと彼はスーツから名刺入れを取り出し、私に名刺を1枚差し出した。
346プロダクション プロデューサー P。
「……」
なんて胡散臭い名刺。
なんて胡散臭い肩書き。
「……貴方が怪しいものかそうでないかは別として、私に何か用ですか?」
「君、アイドルに興味はある?」
ふむ。
アイドルと来たか。
やはり警察に連絡した方がよいのだろうか。
「興味ありません。さようなら」
もしこれで追いかけてきたなら本当に警察に連絡しよう。
そう思い、踵を返し、下校した。
「……」
彼は追ってこない。
それどころか、私とは逆の方向に歩き出した。
諦めたのだろうか。
ほっとしたのも束の間、彼はなんと別の女子に話しかけ始めたではないか。
「……もしもし、警察ですか。不審者が出没しまして」
警察に学校の住所、彼の特徴を伝え、電話を切った。
それが、彼と私のファーストコンタクト。
プロローグの終わり。
20○△年 D月V日
「……」
おかしい。
どうしてあの日の彼が、学校の前に立っているのだろう。
そしてどうして親しげに先生と話し込んでいるのだろう。
私は少し躊躇しながらも、できるだけ彼と顔を合わせないように校門から一歩踏み出した。
「あ、君!ストップ!」
……見つかった。
「こんにちは、橘さん」
どうして私の苗字を知っているのだろう。
先生と話し込んでいた事。今刑務所ではなくここにいる事から、少なくとも犯罪者の類ではない事はわかったが。
「ごめん。名前、先生に聞いてさ」
先生から聞きだしたのか。
よく見れば、先ほどまで彼と親しげに話していた先生は私のクラスの担任だった。
「……そうですか。では私はこれで」
「待って!せめて、話だけでも聞いていってくれないか?!」
ばっと私の前に体を大の字にして立ち塞がる彼。
……やはり不審者じゃないんだろうか。
「アイドル、興味ありませんから」
「そ、そうか……わかった。すまなかった」
やはり根はいい人なのだろう。私の発言を聞き届けると、素直にその場所を退いた。
そんな彼を見て、私には当然とも言える一つの疑問が湧いた。
「少しだけ、聞かせてください」
「なんだい?」
「どうして私なんですか?」
周りを見れば、他の女子も沢山下校している。
その中に、当たり前だが、私よりお洒落で可愛い子なんて探せばいくらでもいる。
どうしてこんな―――小さな、小さな、アリスを。
「君は他の人とは違う、そう思ったからだよ」
「……」
よく、わからない。
家柄の事だろうか。それとも、本当に私が他の人とは違うと思っているのだろうか。
「……すみません。それでは失礼します」
「ああ。もし興味が湧いたら名刺に書いてある場所に電話してきてくれ」
そそくさと校門を後にする。
「……」
家に帰って、自室のパソコンの電源をつける。
数分の後、ブルースクリーンが目の前に表示される。
すぐさま検索エンジンを開き、『346プロダクション』と検索ワードを入力する。
そして一番上に表示された、プロダクションの公式ホームページと思わしき場所を開く。
「……本当に、アイドルのプロダクションなんだ」
調べてみる今の今まで、実在するかどうかも疑っていた。
そして担当プロデューサーのページには、彼の顔写真とプロフィールが乗っている。
本当に、彼はアイドルのプロダクションのプロデューサーだったんだ……
「あれ……この人達知ってる……」
そして出身アイドルの欄。私でも名前を聞いた事のあるアイドルグループが表示されていた。
ニュージェネレーションズ。
クラスの男子が、騒いでたっけ。
「……」
少しだけ。
明日も、もし彼がいたら少しだけ、話を聞いてみようかなと。
そう、思った。
20○△年 D月W日
「あ……」
いた。
今日もまた、彼は校門で待っていた。
しかもなんだか、他の女子達と楽しそうに話している。
……少し腹が立ったのは何故だろうか。
「……」
やはり私は他の人となんら変わりはない。
昨日のやり取りはきっと、彼がとっさに思いついた言い訳で繕っていただけなのだろう。
そう思い、校門を―――
「あ、橘さん。こんにちは」
くぐろうと思った矢先、声をかけられた。
彼が私の苗字を呼んだ途端、彼の周りにいた女子達はばつが悪そうな顔をした後、そそくさと帰路についた。
「ごめん。興味ないって言われたけど、どうしても諦めきれなくて」
「……そうですか」
「もし時間があるなら、話だけでもそこの喫茶店でどうかな?」
彼が指差した喫茶店。『ワンダーランド』。
……これも何かの偶然なのだろうか。
「……構いません。話だけなら」
「本当かい!?」
瞬間、目を見開いて笑顔を浮かべる彼。
なんだかその笑顔が子供のようで、微笑ましいと感じたのは何故だろう。
ありす イン ワンダーランド。
喫茶店ですが。
「それで……えっと、何から話したらいいかな」
「その前に少しいいですか」
書類が入っているのであろうファイルを取り出した彼の言葉を制し、こちらから質問を投げかける。
「なんだい?」
「女子達と……何を話していたんですか?」
どうして私はそんな事を聞いたのだろう。
今まで、周りの女子など、気にした事がなかったのに。
「アイドルのプロデューサーをやってるって話を、少しね」
苦笑気味に答える彼。
「ならあの子達のうち、誰かを私と同じようにスカウトしたんですか?」
「いや、してない」
即答だった。
驚いて私が彼の顔を見ると、彼は真面目な顔をして言った。
「あの学校では橘さんしかしてない。橘さん以上、いや、橘さんと同じくらいの輝きを感じられる子はいなかったからね」
「……そう、ですか」
少し安心した。
……安心?どうして。私はアイドルになる気なんてないのに。
「それじゃあ話を始めていいかな?」
「はい。お願いします」
「まず346プロダクションについてなんだけども―――」
「っと、もうこんな時間か」
腕時計を見て彼が言った。
私も釣られて喫茶店内の時計を見ると、時刻は午後5時を回っていた。
「ごめん。遅くなっちゃったね」
「いいえ、構いません」
家で部屋に引きこもってインターネットをしているよりは、遥かに有意義な時間を送れたから。
ほんの少し、アイドルに興味を持てたから。
「料金はもちろんこっちで全部持つから。それじゃあ俺はこれで」
レシートを持ってレジに向かおうとする彼。
「待ってください」
私はそんな彼を引き止めた。
もう少し話を聞いていたいと思ったのは確かだが、引き止めてどうしようというのか。
「もう遅いです。小学生の女子の一人歩きは危険ですから、家まで送っていってくれませんか」
……何を言っているんだ私は。
見ろ、彼もびっくりしているじゃないか。
「わかった。送っていこう」
しかし彼は嫌な顔一つせず、了承してくれた。
「えっと……」
「……」
お互い、気まずい空気を保ったまま私の家へ向かって歩く。
もう少し話を聞いていたいと思った私はどこへいったのやら。
「何か、話そうか。聞きたい事はある?」
流石、大人というところだろうか。
彼から話を切り出してきた。
「……私の家の事、知っていますか」
なので私は今まで一番聞きたかった事を尋ねた。
もしかしてこの人は、私の家の事を知っていてこうしてスカウトしにきてるのではないかと思っていたから。
「いいや。知らない」
そんな私の疑念を断ち切るように、彼はきっぱりと言い張った。
「そうですか」
「俺は家柄や人種関係なく、気になった子をスカウトしてるだけだからな。そのせいで何度か酷い目にあったけど」
ははは、と苦笑を浮かべる彼。
「……聞かせてください。その、酷い目というのを」
「聞いてもあまり面白くない話だと思うぞ?俺がじたばたもがいてただけの話だからな」
「それでもいいんです。聞いてみたいんです。あなたの……Pさんの話を」
いつからだろう。
私はPさんに心を開き始めていた。
子供のように笑う、だけどどこか苦労している大人な雰囲気を醸し出す彼に。
不思議の国の中には、そんな動物も、物も、人もアリスにいなかったハズなのに。
「……橘さんってさ」
「何ですか?」
「結構、家、お金持ちだったりするの?」
私の自宅について、Pさんの始めての言葉がそれだった。
本当に私の家柄については知らないらしい。
「母方がそれなりに資産のある人だそうです」
「……もう桃華の時みたいなのは嫌なんだけどなぁ」
彼の言葉から見慣れない名前が聞こえた。
確か、桃華といったか。後で調べておこう。
すみません。ちょっと出かけてきます。
更新は帰ってきたらすぐに。
ただいま戻りました。続き投下します。
「それでは、私はこれで。今日はありがとうございました」
「いや。こちらこそ話を聞いてくれてありがとう。連絡、いつでも待ってるから」
「……失礼します」
彼に一礼し、家の門をくぐる。
ふと視線を感じ、二階の窓を見上げると、母がしかめ面をしてこちらを見ていた。
……どうやら今日は、すぐには自室に引きこもれそうにないらしい。
「貴方と一緒に家まで来ていた殿方はどなた?」
夕食の時間。
母がシェフに無理を言って毎日作らせている夕食に手をつけようとしていた時、彼女は口を開いた。
帰ってきてから何も言ってこなかったと思ったら、父もいるこの場で話させるつもりだったのか。
上等です。
「アイドルのプロデューサーだそうです」
「まぁ、アイドルの!」
わざとらしく驚く母。
そしてそんな母を気にも止めず、黙々と食事を取り続ける父。
やはりこの二人を繋ぎあっているものはお金しかないのだろう。
「スカウトされたのでしょう。流石私の娘ね!」
「はい……」
少なくとも貴方のおかげでは、ない。
あの人は私の向こう側にいる母ではなく、私を見てスカウトしてくれたのだ……と思う。
「だけど、残念ながら諦めなさい。貴方は私の跡継ぎになるのですから」
「……そう、ですね」
……そうだ。どうして気付かなかったのだろう。
母という存在がある限り、橘家という家系がある限り。
私がアイドルを夢見ることなど、滑稽な話だという事に。
ヒントをくれるチェシャ猫も、イモムシもどこにもいない。
たった一人の、アリス。
20○△年 D月X日
「こんにちは。橘さん」
「……こんにちは」
校門の前。いつもの場所。
彼はそこに立っている。
「今日も話を―――」
「ごめんなさい」
今日も彼はそう来るだろうと思っていたから、私は先手を取った。
彼に先手を取られたら、きっと昨日のような思いが再び現れてしまうから。
「え……」
「私はどうも、橘家の跡取りにならなくてはならないようですので」
一方的な言葉の暴力。
三月ウサギと帽子屋とネムリネズミのティーパーティー。
「アイドルになる事は、できません」
「……そう、か」
ただ違ったのは、相手の反応。
アリスのように憤慨するでもなく、彼はただ呆然としている様子だった。
ズキリと心が痛む。だけど、この痛みは気のせいで終わらせなければならない。
「ごめんなさい……Pさん」
アリスはまた不思議の国へと落ちていく。
次に転がり落ちた先に待っているのは、一体なんだろうか。
20○△年 D月Y日
今日は雨が降っていた。
濡れる靴下。湿気の不快感。
憂鬱な放課後がやってくる。
「……」
「……っ!?」
ぎょっとした。
雨降りの校門。傘もささないで。
貴方は立っていた。
どうして。昨日、アイドルの事は断ったはずなのに。
「……」
できるだけ目線を合わせず、気付かないフリをしてそそくさと校門を出る。
「……?」
おかしい。
声を、かけてこない。
「……」
ぴたりと足を止め、振り返る。
彼は銅像のように、一歩も動かず止まっていた。
もしかして、本当に気付いていない?
「……」
好都合だ。気付かれて声をかけられる前に帰ってしまおう。
そんな思いとは裏腹に、足は彼へと伸びていた。
「風邪、引きますよ」
「……やっぱり?」
身長差のせいで傘は届かない。
だから、傘を盾にして彼に話しかけた。
私の視界は、傘の黄色で埋め尽くされている。
彼の視界も、きっとそうだろう。
お互いにお互いの表情はわからないハズだ。ハズなのに。
私は彼があの子供のような笑顔でいるような気がした。
「……私の家に来て下さい。まずは体を温めましょう」
何故喫茶店ではなく、私は彼を家に誘ったのだろう。
よくよく考えてみれば簡単な話だ。
あそこは、ワンダーランド、だから。
「いいのか?俺みたいなのが橘さんの家に行っても」
「……何とか説得します」
どうか母がいない事を祈ろう。一番説得するのが面倒くさいのがあの人だから。
「ならお呼ばれさせてもらおうかな」
そう言って彼は鞄から折りたたみ傘を取り出した。
……この人。
「最初から持っていたならさせばよかったじゃないですか」
「こうした方が、橘さんの気を惹けると思ったからね」
どうやら私は彼の思った通りの行動を取ってしまったようだ。
だがどうしてだろう、悔しい気持ちよりも、笑ってしまう気持ちの方が大きかったのは。
「それじゃあ、行きましょうか」
雨が降る通学路を、二人で帰宅する。
憂鬱だった気分が、少し晴れた気がした。
「……橘さんって」
「なんですか?」
私の部屋。お風呂あがりの彼と二人で過ごす。
母がいなくてよかった。彼女がいたら大浴場どころか家にまでまず入らせてもらえなかっただろう。
「言う時は言う子だったんだね。びっくりした」
「こういう時だけです」
使用人やメイド達の意見は全て論破した。
私が橘家の娘という事もあるのだろうが、今や家の中に彼を追い出そうと思っている人間はいないだろう。
「お風呂まで借りちゃって、なんだか悪いな」
「いつまでも水びたしのままでは私の部屋にこられた時に困ってしまいます」
「そりゃそうだ」
Pさんは今、父の古着を着ている。
彼のスーツはすぐに洗濯して乾燥させるようにメイド達に指示したから数十分後には私の部屋に届くだろう。
「それで……どうして今日も、校門で待っていたんですか?」
「諦め切れなかったから」
真面目な表情で、聞きようによっては情けない台詞を吐く彼。
だけど彼の目には決意が宿っていた。
「……そんなに私がいいんですか」
「君がいい」
「私のどこをそんなに……」
私がそう言うと、彼は少し考え込むように唸ってから答えた。
「笑顔、かな」
「……私、貴方の前で笑ったことありましたっけ」
少なくとも、私の記憶の中には
「さっき。傘の下からチラッと見えた笑顔に、なんだか惹かれるものがあったんだ」
さっきの私が、笑っていた?
何かの勘違いだろう。
……勘違い、なのか?
思い返してみる。もしかして私、今日彼に初めて話しかけた時―――
『風邪、引きますよ』
……笑っていた、かもしれない。
「そ、そうですか」
そう思うと、なんだか照れてきた。
自分では笑う事が少ない人間だと思っていたのに、まさかそんな事で笑顔を見せてしまうとは。
「だからあの時改めて、俺は橘さんをアイドルにしたいって思ったんだ」
「……それは、無理だと思います」
「さっきの家系云々の話か」
「……はい」
そう。私は鎖に繋がれている。
家系という名の、決して外す事ができない鎖に。
「橘さんはどう思ってるんだ?」
「私が、ですか」
私はアイドルになる事自体には、どう思ってるんだろう。
少なくとも悪い気はしない。
歌や音楽を仕事にしたいと思っていたし……。
「……少なくとも、嫌、じゃないです」
「正直な気持ち、ありがとう。嫌ではないんだな?」
「はい」
「そうか。今日はそれが聞けただけで十分だ」
そう言って彼は笑った。
だけどその笑顔は、いつもの子供のような笑みじゃない、大人の微笑みだった。
少しドキっとしてしまったのは内緒だ。
「お嬢様。お客様のスーツをお持ちしました」
コンコン、とノックの音と共にほぼノータイムでメイドが部屋に上がりこんできた。
私とPさんが何かしていたらどうするつもりだったのか。
……何かってなんですか。
「ありがとうございます。それじゃあ俺は着替えて帰るから」
「えっ、も、もう少しいても……」
私が彼の手を引こうとした瞬間、鋭い目つきでメイドが睨んできた。
どうも私に身元も知れぬ男を近づけさせたくないらしい。
確かに問題が起これば、被害を受けるのは彼女達ですからね。
「ごめんな。やる事ができたからさ」
そう言って彼はスーツを持ったメイドと共に、私の部屋から出て行った。
また、アリスは一人。
「……寂しくなんて、ないですから」
そう、いつもの事のハズなのに。
雨音がやたらと、大きく聞こえた。
20○△年 D月Z日
「どうして私に黙ってあの男を家に入れたの!!」
「……」
休日だというのに、ここまで気分が優れない朝は始めてだ。
朝目覚めてすぐ、母が私の部屋へ入り込んできた。
メイドか執事の誰かが母に言ったのだろう。
ハートの女王の仮面を剥がし、ジャバウォックのように怒り狂う。
私には、彼女が何を言っているのか理解しようとも思えないけれど。
「一体何を話したの」だとか「どうして嘘をついたの」だとか。
今の私には、届かない。
あの人は今、どこで何をしているのだろう―――
たった一日会えないだけで、頭の中は、彼の事で一杯だった。
20○△年 E月A日
「ありす……ちょっと、いいかな」
「……なんでしょうか」
学園から帰宅直後。父に声をかけられる。
今日はあの人は校門にはいなかった。
それだけで、校門はいくらか色褪せてしまったかのように見えた。
「あの彼……P、と言ったか。彼は、君をアイドルにしたいと思っていたらしいじゃないか」
「……それが、どうかしましたか?」
どこからその話が漏れたのだろう。
まさかこの人まで、Pさんを否定するつもりなのか。
醜悪で、役立たずな代用ウミガメまでもが。
「君は……どう、思っているんだい?」
「どう……とは?」
だが、ウミガメから放たれた言葉は思いもよらぬものだった。
「アイドルになりたいと……思っているのかい?」
「……え?」
どうしてこの人は、そんな事を聞くのだろう。
聞いた上で否定する?いや、この人はそんな人じゃない。
「どうしてそんな事を私に聞くんですか?」
「いや……ちょっとね……」
もしかして今更、娘の事が気になりだしたのか。
今更、父親気取りをするつもりなのか。
「……私は、アイドルになりたいです。あの人と一緒に、歩んでいきたいです」
だから、私は彼が一番望んでいないだろう答えを出した。
貴方には力にもなれないでしょうね―――そんな皮肉も込めて。
「……そうか」
父は表情を変えず、そのまま後ろを向いて自室へ去っていった。
いつもとは逆ですね。歌っているウミガメを残して去っていくのは、アリスのはずなのに。
20○△年 E月G日
一週間が経った。
ちょうど、あの雨の日から一週間。
私の日常は、元に戻りつつあった。
『だからあの時改めて、俺は橘さんをアイドルにしたいって思ったんだ』
あの言葉が嘘のように溶けていく。
いや、本当に嘘だったのかもしれない。
あの人にとっては、私は世界に幾多といる原石の一人だっただけで……
「ありす。ちょっといいかい」
「……なんですか」
また。まただ。
最近どうしてか父がよく私に話しかけてくる。
そしてその度に、アイドルについての私の意志を確認してくるのだ。
「まだ、アイドルになりたいと思っているのか?」と。
私は毎日「はい。あの人と一緒に」と答えるだけ。
ただ、今日に限ってはそうはいかないかもしれない。あの人を疑い始めた、今日に限っては。
「ありす。君はまだアイドルになりたいと思っているのかい?」
きた。いつもの質問だ。
「私は―――」
だが、思うよりも早く。
私の口は、答えを紡ぎだしていた。
「アイドルに、なりたいです。あの人と一緒に」
……どうして?
考えてみてもわからない。私はそこまでアイドルやあの人に固執していただろうか。
疑っても尚、信じたいと思っているのか。
「……そうか。わかった」
父は表情を変えないまま―――私の手を、掴んだ。
「なっ、何ですかいきなり!」
必死に振りほどこうとするが、子供の私が父の力に敵うはずがない。
もしかして私、このままPさんに二度と会えないように監禁されてしまうんじゃ。
「母さんのところに、行こう」
「母に何を言う気ですか!私を、監禁でもする気ですか!」
強く言ったつもりが、声が震えている。
なんと情けない。
「母さんに……君がアイドルになりたがっていると、言いに行く」
「……え?」
ふっ、と腕の力が抜ける。
父が?どうして?なんでわざわざ?
疑問が頭の中をぐるぐると回る。父がこんな事をする理由が分からない。
母に反旗を翻したとしても、捨てられるのは父のハズなのに。
「……一週間前。彼が私の会社を訪ねてきた」
「彼って……まさか、Pさんが……?」
「……ああ」
母の自室に向かう廊下を父に連れられながら歩いていく。
「ありすがアイドルをやるという話……最初は真に受けなかった。すぐにお帰りいただいた」
「……当たり前、ですよね」
「だけどその日から毎日彼は私のところにやってきては、言うんだ。『彼女をアイドルにしたい』と」
まさか。
雨の日から校門にいなかったのは……父に会いに行っていたから……?
「だから私も確認しようと思った。ありすの意思はどうなのか」
「だから毎日私に質問を……?」
「ああ。そして、一週間も続けて……そして、君の意思の強さはわかったつもりだ。だからこそ、ここで最後の質問をしたい」
母の自室の扉の前、父は私の目を見て言った。
その目には、あの人と同じ、覚悟が宿っていた。
だけど、その覚悟はPさんよりも脆かった。誰かが背中を押してあげなければ、崩れてしまいそうだった。
「君は……もしこの生活を失くしても……もしこれから先、困難が待っていても……アイドルに、なりたいと思うかい?」
「私、は」
今までの生活を思い出す。
なに不自由ない暮らし。豪華な食事。母に買い与えられた物。
学園での孤独。家庭内での孤独。突然現れたあの人と過ごした二人の日々。
天秤にかけるまでもない。本当に私が欲しかったのは
「アイドルに―――なりたい、です」
孤独な不思議の国でも、歪な鏡の国でもない。
困った時に私の手を引いてくれる、王子様だったんだ。
20○△年 E月I日
「よ、久しぶり。橘さん」
「……久しぶり、です」
やはり前触れもなく。
Pさんはいつものように、校門で私を待っていた。
「また少し話をしていかないか?」
彼は校門前の喫茶店を指差す。
名前は、『ワンダーランド』。
「はい。私からも尋ねたい事がありましたから」
ありす イン ワンダーランド。
ううん。
ありす アンド P イン ワンダーランド。
こっちのほうが、正しいですね。
「よく父を説得できましたね」
Pさんはコーヒー。私はココアを頼み、話を切り出した。
「ちょっと強引かもしれなかったけどな。結果はどうだった?」
「……勝手にしなさい、だそうです」
「そうか……ははっ。何とかなるもんだな」
「とてもびっくりしました」
店員が運んできたココアを一口飲んで、一息つく。
「橘さんのお父様にか?」
「それもあります。あの人が、あそこまで母に言うなんて思ってませんでした」
「橘さんの親だからな。もしかしたら橘さんが饒舌なのも、父親譲りかもしれないぞ?」
あの日。
父は母の自室に入るやいなや、母に向かってこう言ったのだ。
「私は、彼女をアイドルにしたいと思っている」
それを聞いた母は少しの間ポカーンとしていたが……やがて、ジャバウォックは牙を剝いた。
私には理解不能な言語を撒き散らし、父に詰め寄る。
「彼女が橘家の跡取りだからという理由でアイドルができないのなら、私は君と離婚し、ありすと一緒に暮らすつもりだ」
しかし父はジャバウォックの首を一刀両断した。
私も耳を疑った。あの父にここまで言わせるなんて、Pさんはどうやって説得したんだと。
首を撥ねられたジャバウォックはうめき声をあげた後、静かに椅子に沈みこんだ。
「……すぐには決められない。少し話をしましょう」
掠れた声で彼女は言葉を搾り出した。
父は了承の意を見せると、私を部屋の外へと追いやった。
その後、二人がどんな会話をしていたのかは知らない。
だが次の日、母は私に「勝手にしなさい」とだけ言ってきた。
最初は何を言われたのか理解できなかった私も、徐々にそれがアイドル活動の事を勝手にすればいいと言われたのだとわかった。
朝食、誰もいない母の席を見ながら食事をしていると、隣から父に声をかけられた。
「……ありす」
「……お父さん」
「やっと……そう、呼んでくれたね」
反射的に口から出てしまった言葉を、父ははっきり聞いていたようで。
彼は何だか疲れているようだったが、顔には笑顔を浮かべていた。
「君は好きにやりなさい。これが、私ができる……一番父親らしいことだと思うから」
「……はい」
私は未だ、父の事をあまり認めていない。お金目的で母と結婚した事は事実だからだ。
だが、この一件で父の印象が変わったのは明らかだった。
「私が驚いたのは、そこだけじゃありません」
コツ、とソーサーの上にカップを戻す。
「私がアイドルになりたいと思っている事を……どうして私より先に、知っていたんですか」
そう。
そもそもあの説得は、私がアイドルになりたがっていないと成立しない説得だったはず。
ただ「嫌ではない」と言ったぐらいで、そこまで私を信じられるものなのか?
……いや、これは愚問かもしれない。
「信じてたからさ。橘さんを」
一週間、Pさんに会えなかったのにも関わらず。
彼を信じていたのはどこの誰だったか。
私だって、同じじゃないか。
「……そう、ですか」
「な、何かくさい事言ったな俺。忘れてくれ」
照れ隠しにそっぽを向く彼が何だか微笑ましい。
「いいえ、忘れません」
「そんな……」
「私も―――Pさんを、信じてましたから」
そして、私を信じさせてくれましたから。
精一杯の笑顔を、貴方に見せたい。
貴方が褒めてくれた、この笑顔を。
20○△年 F月L日
これは、エピローグ。
一人の少女が迎えた、一つの終幕。
「えへへ……Pさん。見てください、この衣装」
私がアイドルになってから一ヶ月が過ぎ。
初めてのライブが、すぐ30分後まで迫った楽屋で。
「流石橘さんだ。似合うね」
「ありがとうござます……」
私は、Pさんと二人きりでいた。
「……あの」
「ん?」
ライブの流れの書類の最終チェックを行っていたPさんがこちらを向く。
この際だから、私は最初から気になっていた事を尋ねてみる事にした。
「どうして、下の名前で呼んでくれないんですか?」
「……嫌じゃないかと思ってさ。いきなり名前で呼ばれたら」
苦笑する彼。
確かに私は私の名前が嫌いだった。母は何を思って私に「ありす」と名付けたのだろうか。
……でも、少なくともPさんには
「Pさんなら……いいです」
「え?」
「私の事……名前で呼んで、ください」
母の事を連想させるような、ありふれた苗字ではなく、
私自身の名前を、呼んで欲しかった。
「いいのか?」
「はい」
「……ありす」
「……はい」
心地よさと気恥ずかしさが胸を埋めていく。
でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「橘さーん!出番でーす!」
廊下からスタッフさんの声が聞こえてくる。
これが私の初めてのステージ。
「よし、行ってこい……ありす!」
「……はい、Pさん!」
私はアリスじゃなくて、ありすだから。
不思議の国も、鏡の国にも、もう迷い込む事はない。
だって私の傍にはいつも―――王子様が、いてくれるから。
20☆□年 7月31日
これは御伽噺の後のお話。
決して語られる事はない、後日譚。
「なぁありす。本当に俺でよかったのか?」
「今更何を言っているんですか。母も父も説得したクセに」
「そうなんだけどさ……こんな一般市民の俺がさぁ……」
「Pさん」
「なんだ……ん……」
「んんぅ……ふ……はっ」
「……お前な」
「私はお嬢様でも、橘家でもありません。ありすです。Pさんが一般市民だろうと、関係ありません」
「……そうだったな。ありす」
「そうですよ、Pさん。そもそも『待てますか?』って聞いたのは私なんですから」
「それで実際待った俺も俺なんだけどな」
「いいじゃないですか。私はPさんのそういう所が好きなんですよ」
「ありがとさん……それじゃ、そろそろ行こう。みんなが待ってる」
「……はい」
純白のドレス。聖なる十字架の下で。
二人は見つめあい、永遠を誓う。
教会から一歩踏み出せば、幸せの鐘が鳴り響く。
二人を祝福する声は、止む事はない。
王子様と結ばれたありすは。
それはそれは、幸せに暮らしましたとさ。
おわり
これにて、本当の終幕。
本当のありすママは、ありすがアイドルになる事をはしゃいで喜んじゃうくらい可愛い人ですヨ
では、ありがとうございました。
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