脱衣場
カサカサカサカサカサ
男「はは、今日も元気そうだな、音で分かる」
男は宇宙服のような防護スーツを着込んだ。スズメバチの大群からも身を守れるシロモノだ。
そしてテープで脱衣場と廊下を隔てるドアの隙間を丁寧に目張りする。
次に男は浴室の扉の隙間を目張りしているテープを剥がした。
超強力殺虫装置を準備している事を確認すると、男は浴室の扉を開いた。
ガラッ
サササササ
男「あらら、やっぱりこれぐらいの数は出ちゃうよな」
男「よいしょっと、重たいなぁ」
脱衣場に置いていたエサを抱え、浴室のタイルの上に丁寧に置く。
男「さーて、どんな様子かな?」
浴槽を塞いでいる分厚い金属製の蓋に頭を近付け、耳を澄ますと
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
まるでマグマが地中を移動しているような音が聞こえてきた。
男「よしよし、今日も元気だね」
男はタイルの上に置いていたエサを抱え上げると、大きく深呼吸をした。
男(……これからが難しい)
エサを金属製の蓋の上に乗せ、壁にぴったりと付くようにずらす。
蓋のロックを外す、蓋が少し浮いたため数匹の黒い物体が飛び出てきた。
男「……やるぞ」
気合を入れ、蓋の一部分だけをずらして開ける。
それと同時にエサを動かしてエサ自身で蓋をするように押し込める。
男「……っ」
黒い物体がどんどん溢れてくる。視界をいくつかの黒い物体が塞ぐ。
男「ていっ!」
体重をエサにかけて浴槽に押し込む。ほぼ同時に蓋を戻して浴室を完全に塞ぐ。
男「だいぶ出たな……まあ許容範囲内だ」
蓋に再びロックをかけ、浴室の中を見渡す。
壁に塗っておいた粘着液が黒い物体を捕らえ、白一色だった浴室の壁にはところどころ模様ができていた。
タイルの上にいる黒い物体をできる限り足で踏み潰すと、男は浴室の扉を開け脱衣場に戻った。
浴室の扉を閉めテープで丁寧に目張りをする。
男「……やはりこれくらいはこちらに来てしまうか」
脱衣場の中をいくつかの黒い物体が這いずりまわっている。
壁に塗っておいた殺虫液の効果で大半は死んでいるが、まだ残って動いているものがある。
男「……」
男が超強力殺虫装置のスイッチを押すと、脱衣場に殺虫成分が散布された。
一週間後
脱衣場
男「さて、今日もペットのゴキブリちゃんにエサをやるかな」
カササササササササカササササ
男「よしよし、元気な音だ」
男「よいしょっと、意外と思いのな」
エサを脱衣場に引きずって入れ、ドアを閉める。
男は前回のように宇宙服のような防護スーツに着込んだ。床には潰れた黒い物体が転がっていた。
脱衣場のドアを丁寧に目張りし、超強力殺虫装置の確認をする。
浴室の目張りを剥がすと、黒い物体が何匹が飛び出てきた。
男「はは、こればっかりはしょうがないな」
浴室の扉を開く。黒い物体が脱衣場に出てくる。
男「……ふんっ!」
エサを引きずり浴室に入れようとするが、段差に引っ掛かってしまい上手くいかない。
男「やっぱこうなったか」
男は脱衣場に戻り、金属の太い棒を手に取る。
そしてエサと段差の間にその棒を差し込み、てこの原理を利用してエサを浴室に向って押し込んでいく。
男「うし、うし」
完全に押し込んで浴室の扉を閉め、少し休憩を取る。浴室の床や壁には黒いまだらな模様ができている。
男「……やるぞ」
男「おお……ぐっ!」
エサを浴槽の蓋の上に乗せようとするが上手くいかない。
一気に上げるのは諦め、まずは一部を蓋の上に乗せ、先ほどの金属の棒を使って少しずつ上げていく事にした。
まだらな模様の浴室の中で格闘する事10分、ようやくエサを蓋の上に乗せる事に成功した。
男「はあ……はあ……」
喜んではいられない、肝心なのはここからなのだ。
浴室の蓋の上に腰掛け、エサを眺める。綺麗なエサだ。
男「……やるか」
気合を入れ、エサを押してずらしていく。
男「難しいな……」
エサを動かす事30分、ようやくどう浴室に入れたらいいのかが分かってきた。
エサの先端を持ち上げ、蓋の一部をずらして開ける。黒いのが出てくるが細かい事に構っていられない。
エサを器用に押し畳みながら浴室の壁に立てかける。この状態で蓋を大きくずらすとエサは自らの重みで浴槽に入っていくはずだ。
男「……はっ!」
蓋を大きくずらす、エサが落下を始める。鈍い音と何かが潰れる音がする。
男「しまった!」
エサは半分だけ浴槽に入ったが、もう半分は浴槽からはみ出たままだ。
黒い物体がどんどん溢れてくる。エサに全体重をかけて押す、駄目だ、入らない。
男「……チッ」
舌打ちをし蓋を全て開ける、黒い物体が爆発したようにあふれ出て、浴室を黒く染める。
足で押し込んでエサが全て浴槽に収まるようにする。
男「できた」
浴槽と浴室の違いは無くなっていたと言っても良かった。浴室中を黒い物体が這いずりまわり、視界は所々が暗かった。
壁に塗ってあった粘着液は効果を発していたが、焼け石に水だった。
男「予想が甘かったか……」
浴槽の蓋を閉め、少し開けた状態で手ですくって黒い物体を浴槽の中に放り込む。
全てを綺麗い入れる事は不可能だ。男はきりのいいところで諦め、脱衣場に戻った。
脱衣場にも大量の黒い物体が這いずりまわってしまっていた。浴室から流れてきたのだ。
壁に塗っておいた殺虫液で多少は死んでいるが相変わらず視界は黒いのが動いていた。
男「勿体ない……」
男は落胆すると、超強力殺虫装置のスイッチを押した。
殺虫成分が脱衣場に散布され、黒い物体が次々と落ちていく。
男「こりゃ時間がかかりそうだな」
足元が黒い物体で埋まっていくのを見ながら、諦めたように呟いた。
カサカサカサカサカサ
「……ん?」
男が目を覚ますと、見なれない部屋にいた。
シャワーと蛇口があるし、変わった蓋のされている浴槽らしきものもある。
浴室だと頭は判断する。だが妙な違和感が同時に湧き上がってくる。
壁は黒だと思った、でもよく見れば所々が白い。
「……」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!?」
少しの間を置いてから肺から空気がなくなるまで叫んだ。
壁は元々黒かったのではなく、貼り付けられたものによって黒くなったのだ。
自分の足元を見てさらに絶望した。浴室のタイルを埋め尽くさんばかりの黒いものが転がっていたのだ。
体を動かしてこの惨劇の場から逃げようとする。でも体を動かない。立ち上がれない。
自分は椅子に縛り付けられている。それに気づいた。しかも金属製の椅子に太い鎖でだ。
『目が覚めた?』
なに者かの声が浴室に響く。見たくないのを我慢して目を走らせると、壁の一角に小さなスピーカーがついているのを発見した。
「助けてくれ!助けてくれ!」
ジャラジャラと鎖を鳴らしながら叫んだ。
『あはは、あんたが俺に助けを求めるとはな』
驚いている様子など微塵もない。
「助けてくれ!ここはどこだ!?助けてくれ!」
『ここはどこか……か、ここはとある一軒家の地下室にある浴室、分かった?』
「ち、地下室!?」
『そう、助けをいくら呼ぼうと誰にも聞こえない地下室』
「な、なんで!?」
『俺があんたをそこに運んできたからだよ』
「お前が!?そうか!」
自分はいきなり気を失って気がついたらここにいた。この声の主がそれをしたのか。
『大変だったよ、重くてさ、ま、あんたの家族に比べたら軽かったけど』
「家族!?俺の家族を知っているのか!?」
『知ってる、今どこにいるか知りたい?』
「どこだ!お前が誘拐したのか!?今どこにいる!」
『……』
返事はなかった。だがその代わり目の前にある浴槽に変化が生じた。
何かのロックが外れる音がし、蓋がゆっくりと開いていった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
浴槽から爆発したように黒い物体が飛び出てくる。見るもおぞましい。普段は一匹見るだけで不快になるもの。
それが数えきれない程流れてきて、体にまとわりついてきているのだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!……あ?」
黒い物体は浴室を埋め尽くさんばかりに出てきている。しかし自分の意識は浴槽の中に集約された。
「え……」
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
黒く蠢く浴槽の中、その中に愛する人を発見した。
『あんたの奥さんと子供、分かるかな?』
いるのは妻だけだと思った、だが目を凝らしてみると確かに黒いものの中に小さな頭だったものがあった。
『子供の方はほとんどが食われちゃってるけど奥さんはまだ奥さんだと分かるね』
『思ったより小食なんだ、でもそのおかげで奥さんだと分かるんだ、偶然のラッキーだね』
声は出なかった。視界はぼんやりとしている。気を失いそうだ。
意識がまどろんでいく。引っ張られるように意識が戻る。
「……!?」
痛い。
「……!?……!?」
痛い。痛い。
体にたかっている黒い物体が自分の体を食っている。
生きたまま。
何度も理由を聞いた。何故俺にこんな仕打ちをしているのかと。
でも声の主は何も答えてくれなかった。返事はなかったが、楽しそうな鼻歌は聞こえてきた。
耐えきれない痛みの中、俺はなかなか希望を捨てられずにいた。
今警察か誰かが助けにきてくれればまだ何とかなる。
今救出されればまだ生きていける。
だが目が見えなくなり、喉を通って入ってこられた時、俺は全てを諦めた。
耳はとっくに聞こえなくなっており、鼻歌はもう聞こえなかった。
おわり
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