キョン「ペルソナァッ!」 クマ「ザ・ゴールデンクマ!」 (172)

はじめに。
このSSは、
キョン「ペルソナァッ!」
キョン「ペルソナァッ!!」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/news4ssnip/kako/1402/14026/1402668189.html)
というスレのリメイクとなっておるクマ。

また、
キョン「ペルソナ!」 アイギス「FESであります!」
キョン「ペルソナ!」 アイギス「FESであります!」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1420016403/)
というスレのSSの続編になるクマ。

今回も、二日に分けて投下する予定クマよー
連投規制と戦いながら頑張るクマー

注意点
前作と合わせて見たときに、作品単位の時系列が乱れているのは仕様クマ。
登場するペルソナの傾向が偏っているのは趣味クマ。
好きな食べ物は血の滴るレアステーキとのり塩ポテチクマ。

ほいじゃ、始まり始まり~

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1420621202


時は、十月の終わり。

秋の心地よい空気が、学校中から溢れ出し、街全体、広くはこの国全域を包み込んでいた。開け放たれた窓の向こうから、部活動に勤しむ生徒たちや、野生を生きる鳥や虫、そんな無数の生命の営みが、ざわめきやせせらぎとなって、室内に流れ込んでくる。

その窓の辺に、分厚いハードカバーを抱え、刻まれた文面を几帳面そうに目で追っている、寡黙な少女が一人。
更に、部屋の中央あたりに位置する会議用の長机に向かい、こちらはいくらかカジュアルな体裁の文庫本のページを、気だるそうに目で攫っている、少女がもう一人。
その少女の向かいでは、日頃から笑顔を怠らない、俺に言わせてもらえば芯のない表情を年中浮かべている男が、机の上に広げられた碁盤を前に、珍しく難しい顔をしながら唸っている。
窓からもっとも遠い位置に置かれた小さなテーブルのそばには、こちらもまた難しい顔をしながら、手の中で、香り高い茶葉を混合する作業に没頭している少女が一人。

そして、主のいない団長席に腰をかけ、特に熱中するわけでもなく、ディスプレイに表示されたJ-POPのPVを眺めている、俺。

とある日の放課後。ご存知、SOS団の部室には、五つの色とりどりの沈黙が転がっていた。
五人それぞれが、お互いの行動に干渉することなく、ただ本能のおもむくままに、各々の興味の先に意識を集中させている。
平和。そんな言葉がもっともふさわしい、気だるく、温かな時間の中に、俺たち五人は居た。

「ね、なに観てるの?」

不意に。五人それぞれ別々の方角を示していた羅針盤のうちの一つが、何とはなしに俺とぶつかる。
先程まで文庫本のページを捲っていた少女……SOS団、団員その五、朝倉涼子が、手元の媒体に飽きたのか、興味の先を俺へとぶつけてきたのだ。

「PV。プロモーションビデオだよ」

耳に突っ込んだイヤホンの片方を外しながら、俺はなんとなく投げかけられた質問に対して、なんとなく返事をした。
俺の視線の向いていたディスプレイには、今年の頭、休止していた芸能活動に復帰したばかりの、若い、俺と同い年ほどのアイドルが、歌って踊る姿が映し出されている。

「なんだ、エッチな動画とかじゃないんだ」

学校の備品でエッチな動画を見る馬鹿がいるものか。仮にいたとしても、自分のほかに四人もの人間がいるこの空間で、そんな荒業をやってのける奴などいるはずもない。
いたとしても、会って見たいとも思わない。そいつは、間違いなく変態だ。


「ふうん」

どうやら、俺の返答は、朝倉の興味を引いたらしい。パイプ椅子から腰を上げた朝倉が、机を離れ、団長席の内側に回りこみ、ディスプレイを覗き込んで来た。石鹸の香りがして、思わずドキっとすると同時に、諸事情があって、一瞬ヒヤッともする。

「久慈川りせか。あなた、こういうの好きなの?」

「別に。ま、別に嫌いじゃあないけどな。」

件のアイドルについて、俺は特に意見を持たない。好きで観ていたわけでもない。ただ、ネット上に表示されたバナーにマウスカーソルをあわせたら、いきなり動画が流れ出したのだ。最近の広告ってのはよく出来ているもんだ。若干のうざったさも感じるが。

「何か色気のない返事ね。ちゃんと自分の意見、持ってる?」

朝倉はつまらなそうに目を細め、ぷい。と音を立てながら、ディスプレイから視線を外した。心配されなくとも、俺は言いたいことがあったら言うタイプだと自負しているよ。

「ふーん……ね、ところで、涼宮さん、遅いわね」

朝倉は、興味を失ったことを隠す素振りも見せず、すたすたと元いた位置へと戻り、椅子に腰をかけた。もう文庫本を読むつもりはないらしい。椅子の背に体をあずけ、ぐいと伸びをしながら、思い出したように、現在不在の団長の名を口にした。

「ハルヒなら掃除当番だ」

「知ってるわよ、同じクラスなんだから。でも、それにしても遅いじゃない。いつもの涼宮さんなら、掃除当番なんて光の速さで終わらせて、部室にやってくるのに」

朝倉の言葉に、はて。と、俺は時計を見る。 既にHRが終わってから、一時間近くが経とうとしている。 たしかに、ハルヒにしては遅い。一時間も時間があれば、この俺でさえ、教室の掃除を終わらせられる。
あの手際がよく、薄ノロいのが嫌いなハルヒなら、もう三十分は早いはずだ。それでいて仕事が雑なわけでもないのが、あいつの不思議なところでもある。

「涼宮ハルヒは渡り廊下にいる」

窓辺から発せられた声に、俺と朝倉は揃ってそちらに視線を向ける。 ハードカバーとの格闘を繰り広げていた新月色の眼が、俺たちに向けられていた。
団員ナンバーその二、長門有希。朝倉ともども、ちょっぴり宇宙人なところが個性の文学少女である。


「こちらへ向かっている途中」

「いまさら? 涼宮さんがこんなに掃除に時間をかけるなんて」

長門の言葉を受けた朝倉が、むむ。と、顎に指を当て、唸る。

「掃除中に何かあったのかしら」

「考えすぎだろ」

「私は委員長よ? クラスで何か問題でもあったなら、解決しなくちゃ」

お次は腰に手を当て、一本指を立てながら、そう言い放つ朝倉。まったく、責任感のお強いことで。

「長門さん」

口を挟んだのは、団員その四。先程まで碁盤を見つめていた眼で、窓辺の長門を射抜いている、超能力者・古泉一樹。
長門は、す。と視線を古泉に合わせると、ゆっくりと目を閉じ、二回、首を横に振った。

「情報統合思念体の観測できる範囲で、彼女についての異常は確認されていない」

と、やや早口に述べた。

「安心しました。我々のほうでも、涼宮さんの精神状態については注視していますが、いまのところ大きな問題はありません」

長門の言葉を受け、古泉はユルい微笑みを携え、一息をつくように言った。 そして、その直後、

「大きな問題は……ね」 と、いかにも意味深に、口中に留める程度の音量で呟いた。


「それって……小さな問題はある。っていう事ですか?」

俺が口にしようとした言葉を、ほぼそのまま奪い取っていったのは、未来人にして、SOS団専属のマスコット、団員ナンバーその三・朝比奈みくるさん。年齢は禁則事項。 いつのまにか、茶葉を混合する作業を中断し、俺たちの会話に耳を傾けていた。

「いえ、問題というほどのことでもないのかもしれません。ただ……少しばかり、疲労がたまっているらしいという報告だけ、受けています」

古泉は、両の手のひらを肩ほどまでに上げ、そう述べた。
疲労。あの、勝利の雄叫び実装疑惑のある、ハルヒが? このところのハルヒの言動について、俺は記憶を探ってみたが、特に表立って変わった点はなかった。と、思う。

「ご心配なく、ほんのわずかに、です。一般的に、人が時折抱え込む程度の規模の疲労ですよ。 このところ、就寝時間が遅めなようです。おそらく、軽い寝不足かなにかでしょう。」

寝不足。俺はその言葉を空中に浮かべ、しばらく眺め回してみる。 涼宮ハルヒという人間が、単なる寝不足などで、おとなしくなってしまうものなのだろうか。
参考資料として自分の経験を持ち出してみようと思い至るが、そもそも俺は万年寝不足といっても良い。
これでは比較材料にならない。

……と、言うか……正直こういったやりとりは……
予定調和だ……これまでに何度、ハルヒの機嫌や体調について、古泉や長門と、似たような協議を行ったことか……

「いつものように、何もないだろ」

「そうですか? 僕はむしろ、こう考えてしまうのですが…… 『いつものように、何かあるのではないだろうか』と」

……言い負かされてしまった。


ああ、もうこの際だ、今のうちに言っておこう。
涼宮ハルヒが不調。
それはつまり、これから、俺たちの前に、何かが立ちはだかるであろう合図なのだ。 そして……結果から言えば、今回ももれなく、その法則から逃れることはできなかった。
頭の痛いことにな……




………

その日。ハルヒが部室にやってくることはなかった……なんてことはない。 いつもよりも小一時間も遅い登場だったが、ハルヒは俺たちの前に、ちゃんと姿を現した。

しかし、その姿はなんと表現するべきか。普段のハルヒと比較するならば、最盛期のアトラスと現在のアトラスを見比べているかのようで……

結論から言えば、ハルヒは元気がなかった。こういった騒動の冒頭にありがちなように、機嫌が悪かっただとか、気を病んでいただとかいうことはまるでない。

ドアを破裂させるかのような勢いもなく、かと言って、目を見れば呪い殺されそうなまでの邪気もなく、穴を開けられてしまったアドバルーンのような、火力の足りなかった気球のような様子で、俺たちの前に現れた。

そして……平和に満ちていた部室の様子を、表面上は何一つ荒立てることなく、やがて去っていった。 ―――その裏では、古泉や朝倉が、何か悪いことの予兆ではないかと危惧したりと、あまり平穏ではなかったが―――

とにかく、あいつは柔らかく、そして濡れているかのように、静かに現れ、去っていった。
嵐の前の静けさだ。
そう睨んでしまう俺の心は、弄れていたのだろうか?


そして、その夜。
事態は早くも、勢いよく動き始めた。





………


「ここは……」

浅く、きめの細かい眠りと、ぼやけた現実の間を漂っているような、奇妙な感覚がして、俺は目覚めた。視界の中に、いつもの天井はない。星もない、灰色の夜空が、でかいドーム球場の天井のように、俺の視界を覆っていた。
体を起こすと、周囲の空気が冷え切っていることに気づき、小さく身震いする。
寝巻き替わりのTシャツを着込んでいたはずの体は、見慣れた、着慣れた、北校の制服をまとっていた。

……閉鎖空間、か?
脳裏に、かつて、ハルヒとともに訪れたことのある、あの灰色の空の下が思い浮かぶ。
しかし。それと同時に。俺はもうひとつの選択肢……以前、経験したことのある、現状によく似た異常事態を思い出していた。

影時間。

ほんの二ヶ月ほど前のこと……にしては、随分と遠い昔のことのように思える。
俺が体験した、夜毎に訪れる、冷たい空気に満ちた、薄暗い時間。俺はその時間の中で、いくつかの……いくつもの非現実的現象を目にし、その現象の中に身を置き、体感したのだ。
意識よりも、感覚が強く記憶している。
体の奥底から、青白い光が湧いてきて、全身が包み込まれるように、力に溢れる感覚。ペルソナカードの手触り。そして、自分の中から、もうひとりの自分が現れる瞬間の……言葉では説明しにくい、あの感覚。

まさか、また?
頭の中で、思考というパズルのピースを合わせてゆく。しかし、それを遮るように―――

「危ないクマー!」

遮るように……聞こえたのは、男か、女か、判断に困るような、甲高い叫び声。そして、その声がした直後、俺は、全身が粟立つかのような感覚に襲われ、即座に体を起こし、飛び退いた。
ドシャァ。といったような、重みのある音とともに、俺の体があった場所に、何かが飛び込んでくる。古いゴミ袋のように黒く、寒気がするほどに大きい。全長は、子供の背丈くらいはあるだろうか?
そして、人間が通常生活するにあたっては、まず目にすることのないであろう、禍々しい形相。
髑髏。
俺の貧弱なボキャブラリーから、そんな在り来たりの単語が呼び起こされる。
そいつは、夜の闇よりも黒い布切れのようなものを巻きつけられた、首から下のない髑髏だった。
そんな髑髏が、冷たい大地の上で、わずかにバウンドをしながら、俺の眼前、ほんの数十メートルの位置に、転がり込んできたのだ。


「逃げてっ!」

目の前の状況を把握しようとする俺の意識の中に、新たに飛び込んできたのは、女性の声だった。その声を受けたかのようにして、床に転がった髑髏が、グルリと回転し、その落ち窪んだ眼窩で、俺を見た。
その視線と、俺の視線が、真正面からぶつかり合う。何だ―――これは。何が起きているんだ?

「逃げるクマーっ!」

三度目の声。俺はその声の内容を把握するよりも早く、再び大地を足で蹴り、その場から飛び退いた。直後、髑髏の眼窩から、何かロープのような―――やはり、黒い―――ひも状の物体が、高速でこちらへと伸びてくる。
俺の目には、触手のように見えたその物体が、一瞬前まで俺の頭部があった空間を引っ掻いた。体が―――意識が勝手に、次に取るべき回避行動を探している。手前に逃げては、髑髏が突っ込んでくる……逸れなければ。
逸れなければ……やられる。

「クマァッ!」

髑髏から伸びた触手がわずかに縮み、再び俺へと放たれようとした―――次の瞬間、目の前のその光景に、不似合いな何かが飛び込んできた。同時に、叫び声……いや、鳴き声? ともかく、その何か―――髑髏の怪物と同程度の大きさの、物体だ―――が、俺の視界の右端から現れ、髑髏を弾き飛ばした。
ガランガランとけたたましい音を上げながら、髑髏が地上を転がり、吹き飛んでゆく。回避行動を取ろうとしていた俺の体が静止する。と、言うより、現れた者の姿を見て、、俺の体は固まってしまったのだ。
流星の如く現れ、髑髏を吹き飛ばしたのは……

……クマだった。
大きさは、ほぼ髑髏の怪物と同程度。体の上側、三分の一程度を大きな頭部が占めており、大きな瞳と、耳らしき突起物がピコピコと揺れている。首は……ない。頭部から直結した体は、どこかのネコ型ロボットのようにデフォルメが効いており、丸々としている。

「お、おごごごごご……」

髑髏を弾き飛ばした体勢のまま、地面に落ちたその物体……いや、生き物は、起き上がろうとしているのか、しきりに体を横に転がしている。手を貸そうか……と、俺が動きかけた直後、クマ(仮)がやってきた方向から、誰かが姿を現した。

「クマっ! 大丈夫?」

なんと今度は、美少女である。
セーラー服で、メガネをかけた、美少女である。身長は、クマ(仮)の体長よりもやや高い。闇の中でも映えて見えるやや赤みがかったウェーブの長髪を、高い位置で二つにくくっている。
年は俺と同じくらいだろうか。クマ(仮)に駆け寄り、体を起こすのを手伝う姿が、俺にはまるでテレビの向こう側の映像のように見えた。セーラー服の上からでも見て取れるほどに華奢な体つき……

……あれ? 何かが引っかかる。
この少女には……以前、会ったことがあるような気がする。いや、気がするというよりも、この感じは、最近。非常に最近に……

「あ、ありがとリセチャン。クマ、ちょっとガンバった……」

少女の手を借りて体を起こしたクマ(仮)が、頭を左右に振りながら、その名前を口にする。
あ、そうだ……この少女は。メガネのせいで、一瞬はわからなかったが……一度思い出せば、確実だ。
たしかそう、名前は……

「久慈川……りせ?」

「あっ……あの、あなたも、大丈夫?」

最近どころではない。つい七~八時間前に目にした姿。そして、その名前。
俺の目の前に、アイドルがいた。
ディスプレイの中で、歌い、踊っていたアイドルが、俺の目の前にいて、目と目がバッチリ合っていた。

「あっ……キミィ! 今、危なかったクマ! 何でこんなトコで寝てたクマ? リセチャンが見つけてくれてなかったら、今頃シャドウのお腹の中だったクマよ!」

一瞬、遠い彼方へと吹っ飛びかけていた俺の意識を引き戻す、何度目かに聞く奇妙な声。声を発しているのは……やはり、クマだった。大きな望遠レンズのような二つの瞳が、俺の瞳と……バッチリ合ってしまっている。

「シャドウだって? ……その、なんだ、お前らは一体」

「クマはクマクマ。ほいで、こっちはリセチャン。って、それよりもキミ! 助けてもらったらアリガトウでしょうがぁ!」

大きな瞳を釣り上げて、俺を叱責するクマ。いや……正直、訳がわかりません。俺は、助かった……のか?

「あ、それより、キミ、何でこんなとこでおネンネしとったんか教えんしゃい! ……モシヤ。キミがクマの世界と、このヘンテコな世界を繋げた張本人クマ!?」

「ちょっと、クマってば! あんた、ただでさえワケわかんない存在なんだから、もうちょっと控えなさいって!」

呆然とする俺を他所に、目の前の奇妙な二人組は、俺を賑やかに責め立てる。
なぜこんなところにいるのか。
ようやく、クマの言葉の意味が、俺の脳に染み込んでくる。イコール、知らん。俺が聞きたいくらいだ。なぜ、俺はこんなところにいるのか? いや、それよりも……むしろ。

「お前たちこそ、どうして閉鎖空間の中にいるんだ?」

「ヘイサクウカン? それ、どういう―――」

こてん。と、頭を傾げた後、クマの視線がふと、俺の背後の空間に逸れる……そして、その表情が驚愕に染まった。

「あ、あわわわわわ!! キミ、後ろー!」

「きゃあっ!?」

「なっ……!」

同時に、少女……久慈川りせの声。やはりこちらも、驚愕の表情。慌てて振り返ると、そこにいたのは―――さっきの、髑髏だ。
どこまで弾き飛ばされていっていたのかは知らないが、いつの間にか、俺に再接近してきていたそいつが、今にも俺の身体に食いつこうと言わんばかりに、冷たい空気の中、かなりのスピードで、こちらへ向って突進してきている。

―――何故だろうか。その瞬間、俺の意識は鮮明に研ぎ澄まされており、精神は、奇妙なほどに落ち着いていた。
体が勝手に動く。回避行動ではない。自分の意思とは別に、体が髑髏のほうを向き、左手が持ち上がってゆく。
左手は、頭のすぐ側面で止まり……人差し指を突き出し、左のこめかみを指した。

「避けてーっ!」

「クマーっ!」

久慈川りせと、クマの声が、背後から聞こえる。しかし、俺は髑髏の突進を回避しようとしない。
それどころか、逆に、俺の精神は―――目の前の光景に立ち向かっているのだ。

俺の体から溢れ出した、青白い光が、視界を埋め尽くし、髑髏の姿をぼやけさせる。光に染まった視界の中に、一枚のカードが現れた。

『0』と刻まれたカード。

タロットカードによく似たそのカードには、俺の記憶の中でそうだったのと同じ様に、赤黒い肌の、巨大な羽ペンを携えた男の姿が映っていた。

この、すべての感覚の名を、俺は知っている。


「ペ」

記憶のそこから、言葉が勝手に沸き上がってくる。

「ル」

右手で、ブレザーのボタンを外す。

「ソ」

こめかみに当てた人差し指を、引く。

「ナ」


いつか聞いたような音が、再び、俺の鼓膜に届いた。何かが弾け飛び、割れ砕けるかのような音だった。


「……ダンテ!!」



―――我は汝、汝は我……


「う、うそっ……こ、これって……!」


―――我は汝の心の海より出でし物……


「ペッ……ペルソナ……クマっ!?」


―――神曲の綴り手、ダンテなり……!


頭の中で、いつか聞いたような声が、いつか聞いたような文句を並べる―――ああ、もうこんな感覚は……忘れちまおうと思っていたっていうのに。
もう、すべてを思い出せちまった。
……俺の中で、眠りについていた物が、再び解き放たれてしまった。

俺の、ペルソナだ。

「やっちまえ―――っ!」

俺は―――『ダンテ』は。背に携えた、背丈ほどある巨大な羽ペンを抜き、上段に振りかぶる。そして、迫り来る髑髏の顔面に向けて、そいつを振り下ろした。ぶつかり合う瞬間。両手に重たい感触が伝わって来る。
―――暑い。俺は、ブレザーを脱ぎ捨てながら、羽ペンを食らった髑髏へと視線を注ぐ。髑髏は後方へと吹き飛びながら、アスファルトらしき大地に叩きつけられ、一度大きくバウンドをした。
しかし、浅い。髑髏は再び宙に浮かび上がり、再度突進してくる。ダンテは、その眉間に狙いを定め、羽ペンを右手に構えた。先端に左手を添え、意識を集中させる。
次の瞬間、放つ。猛獣的スピードで向かってきたドクロの額に、渾身の一撃が文字通り突き刺さり、ドクロの双眸周辺に亀裂が入った。


「は、入ったクマッ!」

「まだよ、生きてる……何か来るよっ!」

再び、背後で、久慈川りせとクマの声。何か来る。俺がその言葉に、身をひこうとした瞬間、割れかけたドクロの眼窩から、例の触手が飛び出し、ダンテの羽ペンに絡みついてきた。
よく見ると、それは触手ではない。まるで髑髏に寄生し、その内部に住んでいるかのように身を潜めていた、真っ黒い蛇だった。その牙が、羽ペンを這い上がり、ダンテの腕に食らいつこうとしている。

「させるかよ」

ペンを髑髏から引き抜くと、それに釣られるように、蛇の細長い体が、空中へと引きずり出された。―――本体はこっちの蛇ってことかい。

「やれっ!」

俺が力み、声を上げると、それに呼応するかのように、羽ペンが閃光を帯び始める。這い上がってきていた蛇の体の大半が、熱をはらんだ閃光によって焼かれ、俺自身が驚く程の速度で燃え尽き、炭となり、地に落ちる。やがてそれらは、黒い瘴気となって、空中に霧散していった。

「待って……まだ、まだ来る! 攻撃をやめないで!」

霧となった蛇の体を見送り、振り返ろうとした俺に向かって、久慈川りせが叫ぶ。言われるがままに、再び髑髏のいたほうに視線を向ける……髑髏はまだ、消えていなかった。
ひび割れた双眸を食い破るようにして、現れたのは、やはり、蛇。それも、無数の、だ。
そもそも、髑髏の外殻そのものが、無数の蛇によって編まれた生地のようになっていたのだ。それが一度に解き放たれ、俺の背中……ダンテの背中へと差し迫ってくる。

「……やれやれだ」

言われるまでもない。攻撃は、続いているーーー羽ペンの閃光は、まだ消えていない。髑髏に背を向けかけた体を、再び正面に向ける……山吹色に煌くペンを、振り払いながら。
羽ペンが大気を薙ぐとともに、閃光が横一文字に走り、蛇の群れの先頭を掠める。その一点から、炎が燃え広がった。蛇の群れを炎が埋め尽くし、集えば子供の背丈ほどもあった、髑髏のなれ果てどもを焼く。
やがて、燃え尽きたものから煙となり、瘴気となり、空中に放たれ、暗黒の空の色と混じってゆく……。

……三ヶ月ぶりの実戦の割には、いい戦績だったんじゃないだろうか? そんなことを思っていると、やがて、ダンテの姿が半透明となり、俺の体へと還って来た。
そして、その直後。空間全体がひび割れるかのような音が、頭上から聞こえた。見上げると、空に亀裂が走っている……閉鎖空間が、消滅しようとしているのだ。


「えっ、何っ?」

久慈川りせが、声を上げながら空を見上げる。隣で慌てふためくクマ……で、いいのか? 結局。こいつは。

「安心しろよ。この空間が消えるだけだ」

二人の視線が、天空から、俺の顔へと映る。

「ちょっとしたスペクタクルだ」

この際だ。俺はどこぞのどちらさんかの台詞を口にし、キザに笑いながら、二人の前で、頭上を指し示してみせた。
それと同時に、空が割れ、世界は暗転した。



………

―――現実と非現実の狭間で、俺は思う。

たった今経験した閉鎖空間は、一体、なぜ発生し、なぜ消滅したのだろうか?

そして、俺が呼び込まれた理由は?
ハルヒも、あの世界のどこかにいたのだろうか。いつかの春のように……

そもそも、あれは本当に閉鎖空間だったのか。
俺に再びダンテ……ペルソナが発現したのは、なぜか?
そして、あの奇妙な二人組と、あの髑髏の怪物の正体は……

……明日、あいつらに聞いてみるとするかね。




………

俺が、次に目を覚ましたのは、安心安全の保障された、自室の天井の下だった。ベッドから上半身を起こし、深くため息をつく。

……まさか、ただの夢……じゃ、ないよな?
夢だったとしたら、あまりにもリアルな夢だ。髑髏を殴り飛ばし、蛇を薙ぎ払った、その感覚を、両手がしっかりと記憶している。
そして、ペルソナを呼ぶ、その感覚も……


―――ザー………ザザ……ザ…


……ふと、異音を聞き取り、俺は室内を見渡す。見ると、明かりの落とされた室内の一部が、薄く光を発する何かによって、照らされていた。

ベッドから体を起こし、近づいてみると……テレビだった。親に頼み込んで買い換えてもらったばかりの、プラズマテレビが、砂嵐を映し出し、あたりを灰色に照らしていた。
消し忘れたのだろうか。奇妙に思いながら、画面を覗き込む……すると、砂嵐の向こうに、何かが映りこんできた。
目があり、鼻があり、口がある。どうやらそれは、人間の顔面のようだった。映像は少しづつ鮮明になって行き、やがて、誰であるかを判別できるほどになった。

「……ハルヒ……?」

画面に映っているのは……見間違えるはずもない、涼宮ハルヒ、その人だった。ハルヒの顔が、大画面のテレビいっぱいに映し出されていた。
テレビの中のハルヒは、荒く息をつきながら、こちらに向かって、何かを叫んでいる。音声は聞こえない。しかし、口の動きから、ハルヒの口にしている単語が読み取れた。


「たすけて」




………

俺がいつもの面々と顔を会わせられたのは、翌日の昼休みになってからだった。
できれば朝一番に、古泉と連絡を取りたかったが、上手く都合が付かず、こんな時間になってしまったのだ。谷口と国木田に、先に昼食をとっていてくれと断り、部室への道を早足で歩く。渡り廊下に差し掛かったところで、丁度、古泉と会った。

「丁度いい、いくつか話がある。時間はあるか?」

「ええ、こちらもお訊ねしたい事があります。部室に長門さんもいらっしゃるでしょうから、そこで話を聞きましょう」

いつもの微笑みが、今日は、少しぎこちなく見える。俺たちは特に会話もせず、渡り廊下を渡り、部室棟の階段を上った。
その間、俺はずっと、昨日の出来事を、どこから話すべきか、思考を巡らせていた。話しておくべきであろうことは、いくつもある。閉鎖空間に呼ばれたこと。閉鎖空間内で出会った、奇妙な怪物のこと。あの二人組のこと……そして。

「ペルソナが……使えた」

「……ペルソナ?」

部室のドアの前までたどり着いたところで、俺はその単語を口にした。
その発言は、古泉にとっても意外であったらしく、細い目を珍しく丸くし、俺の言葉を復唱する。
呆けた表情の古泉を他所に、俺はドアをノックする。……返事はないが、鍵は空いている。

「長門。いてくれたか」

いつもの定位置に、長門の姿があった。普段はハードカバーに注がれている視線が、現れた俺たちを真正面から射抜いている。おそらく、俺たちがやってくるのを、待っていたのだろう。

「昨晩あったことについて、説明を求める」

ドアの前での俺の言葉が聞こえていたのだろうか。長門は黒く透き通った瞳で、俺たち二人の顔を見比べながら、抑揚なくそう言った。


「……順序を追って話す」

制服のシャツのボタンをひとつ外しながら、古泉とともに、会議用の机に向かい合って腰を掛ける。
さて、最初に話すべきことは……と、数秒考えてしまう。俺は聞き手専門で、語るのは慣れていないんだ。
ようやく、俺はノロノロと話し始めた。記憶にある限りを、言語で表現できる限りで。

「まず。昨晩、閉鎖空間に行った。俺の知っている閉鎖空間とは、いささか様子が違ったが。どう違ったのかというと……まず、俺が目覚めたのは、学校でもなければ、自室でもなかった」

ぼやけた記憶をたどりながら、言葉を並べてゆく。
そう、昨晩のあの場所は……俺の記憶の限りでは、どこか、空の下であった。そして、地面の感触がアスファルトのようであったことから、どこかしら、屋外であったように思う。

「そこで、俺は髑髏のような怪物に襲われた」

「怪物、ですか」

古泉がピクリと眉を動かし、俺の言葉を復唱した。

「ああ、怪物だ。……あれは、そう。『シャドウ』のようでもあった」

恐々と、俺はその単語を口にする。
そう。三ヶ月前に起きた事件で、俺たちが、異界化した学校内で対峙した怪物……俺たちが『シャドウ』と呼んでいた、怪物たちの姿を思い出しながら、俺は言葉を紡ぐ。
しかし、あの髑髏は、俺の考えが及ぶ限りで、シャドウとは違う性質を持ったものであるような気がしていた。あの髑髏は、シャドウたちよりもずっと禍々しく、また、悪意や敵意に満ちていたように思えるのだ。

「シャドウ……なるほど、そして、『ペルソナ』ですか」

「ああ」

俺は大きく頷きながら、目頭に指を当て、昨晩の感覚を思い出した。
以前とまったく同じ。左手の人差し指で、こめかみを撃ち抜くイメージを迸らせる。そして、あの、何かが割れるような音。全身を包む青い光と、湧き上がってくる力。


「俺は、ペルソナでその髑髏を倒したんだ。以前と同じ、『ダンテ』でな」

「閉鎖空間内に、シャドウが……?」

腕を組み、何やら考え込んでいる古泉。
と、そこまで話した俺は、昨晩から気になり続けていたことを思い出し、古泉に訊ね掛ける。

「古泉、昨晩、閉鎖空間が現れて、消えたのは、お前らも分かったのか?」

は。と、古泉が顔を上げる。

「はい。確かに、昨夜の十一時ごろ、閉鎖空間が発生しました。しかし、その閉鎖空間は、我々機関の面々では侵入することのできないものでした」

「いつかの春のように、か」

「ええ。しかし、以前のように、涼宮さんが閉鎖空間の中に閉じこもってしまった訳ではありませんでした。閉鎖空間が発生している間も、彼女は自室で床に着いていたことが確認されています」

あの世界に、ハルヒはいなかったのか。しかし、そうすると、なぜ俺が閉鎖空間内に呼ばれたのか、ますますわからない。
そう、それに……

「俺と怪物の他に、妙な二人組がいたんだ」

そのうちの片方は、人としてカウントして良いのか難しいところだったが、構わずに俺は話した。

「二人組……ですか? あなたの他に、人がいたのですか?」

「ああ、そいつらは……何と言うべきか」

……笑うなよ?


「久慈川りせ、だった」

「……久慈川りせ?」

古泉は、意表をつかれたといった間の抜けた表情で、今日何度目か、俺の言葉を復唱した。
……夢でも見ていたんではないでしょうか? などと言われるかと思ったが、意外にも古泉は、俺の言葉をまるっと飲み込み、

「……なるほど。だいたいのお話は分かりました。あなたは昨夜、閉鎖空間に呼ばれ、現れた怪物を、ペルソナ能力で撃退した。そして、そこにはあなたの他に、涼宮さんとは関連性のない人物が、二人居た……その一方は、『久慈川りせ』だったと」

と、俺ののらりくらりとした語り草を、短く、簡潔に纏めてくれた。

「ああ。俺が怪物を倒したら、閉鎖空間も消滅した。いつだったかのように、空にヒビが入ってな」

そこまで言って、もう一つ。話すべきことがあったことを思い出す。眠りと眠りの間の出来事で、正直、こいつは本当に俺の夢だったんじゃないかとも思うことなんだが……

「閉鎖空間が消えたあと、部屋のテレビに、ハルヒが映ったんだ」

俺がその言葉を発すると、古泉と長門の視線が、同時に俺に向けられる。テレビ? 無言のふたりの表情から、クエスチョンマークが発せられている。

「初めは砂嵐だったんだが、途中で映像が切り替わって……ハルヒの顔のドアップが映ったんだ。その様子は、どうも、こちらに向かって、助けを求めているようだった」

「涼宮さんが、助けを……ですか」

俺の言葉を受けた古泉が、顎に指を当て、神妙に沈黙する。数秒その体制で止まったあとで、古泉は人差し指を立て、口を開いた。

「あなたが呼ばれたという閉鎖空間が消滅したあと、現在までの間に、断続的に閉鎖空間が出現しています」

何だって?
俺がそう呟く暇もくれず、古泉は矢継ぎ早に話した。


「いずれも、我々が侵入することのできない、イレギュラーなタイプの閉鎖空間です。現在確認されている限りで、一時間にひとつほどのペースで、現れては消え、現れては消えを繰り返しています。そして、いずれもかなり大規模なものです」

「……ハルヒの様子がおかしいことに関係しているのか」

「おそらく。しかし、今回出現している閉鎖空間には、いずれも神人の存在は確認されていません」

「侵入できなくとも、神人の有無はわかるものなのか」

「ええ、それが僕らの能力ですから。いつもどおり、彼女の精神がストレスのはけ口としての目的で閉鎖空間を創り出しているとしたら、神人の発生を伴っていないのはおかしい……」

つぶやくような音量で、ブツブツと思考を巡らせる古泉。
神人が暴れまわるわけでもなく、現れては消えてゆく閉鎖空間。ハルヒの精神に、一体何が起きているというのだろうか。
そして、昨晩のテレビの映像……

「……涼宮ハルヒは」

俺と古泉、ふたり分の沈黙を破ったのは、これまで黙って話を聞いていた長門の声だった。ふたり分の視線を受けながら、長門は何かを話そうとした。しかし、それを遮るかのように―――

バン。

勢いよく、部室のドアが開いた。破裂音にも似た音がした方を見ると、現れたのは……

「朝倉?」

我がクラスの委員長、朝倉涼子だった。朝倉は、何やら余裕のない表情で、俺たち三人の顔を順番に見た後で、

「涼宮さんが倒れたわ」

と、普段よりも幾分か低い声で告げた。




………

俺たちは、午後の授業をボイコットし、ハルヒの搬送された病院へと向かった。以前、俺が入院したのと同じ病院、古泉ら、『機関』の息のかかった病院だ。そして、かつて俺に割り当てられていたのと同じ病室の、俺と同じベッドの上に、ハルヒは目を閉じて横たわっていた。

「原因は」

「わからないそうよ」

両手を肩ほどまで上げ、朝倉が首を横に振る。

「お昼ご飯の後、突然意識を失って倒れたの。心肺機能も脳波も正常、健康そのもの。だけど、目を覚ます気配は今のところなし、外傷もないし、ホントに原因不明」

「涼宮さん……どうしちゃったんですか」

ベッドの脇の丸椅子に腰をかけた朝比奈さんが、ハルヒの閉ざされたまぶたにかかった前髪を、指で梳く。

「……古泉、閉鎖空間は?」

俺が訊ねると、古泉は少し考えるように視線を泳がせたあと

「一時間半ほど前に消滅して以降は、発生していません。最後のものが消滅した時間は、涼宮さんが意識を失った時間と一致します」

と、表情を強ばらせながら言った。

「……涼宮ハルヒは、今、何らかの脅威に曝されている」

次に口を開いたのは、長門だった。


「そして、昨夜あなたが見たという映像のとおりならば、涼宮ハルヒはあなたに助けを求めている」

「俺に、か」

長門や古泉ならまだしも、なぜあえて、俺に助けを求めるというのか。俺が三ヶ月前にペルソナ能力に目覚めたことなどは、あの事件についての記憶を失っているハルヒには知る由もないことだろう。
しかし……現実に、俺は昨夜、閉鎖空間に呼ばれ、そこであの髑髏の怪物と戦ったのだ。

「ハルヒは……俺に、戦えと言っているのか?」

「あなたが再びペルソナ能力を手にしたことから、そう推察できる」

そこまで話すと、長門はベッドの上のハルヒを見て、わずかに目を伏せた。
……ハルヒ。一体どんな脅威が、お前に及ぼうとしているんだ。
ベッドの上のハルヒは、何かにうなされる事もなく、静かに眠り続けている。昨夜、砂嵐のテレビに映り込んだ、こちらに助けを求めるハルヒの表情とは程遠い、平穏な寝顔だった。



………

「……涼宮さんの様態や、精神状態に変化があったら、連絡します」

日が陰り始めた頃、古泉のその言葉を最後に、俺たちは各々の帰路についた。家に帰り着いた俺は、食事と、入浴と、通り一遍の時間を漫然と過ごし、気がつくと、時計の針は午後九時を回っていた。
自室のベッドの上に体を投げ出し、天井を見つめながら、思考を繰らせる。思い浮かぶのは、ハルヒのことばかりだった。あれ以降、古泉からの連絡はない。ハルヒはあのまま、病院の一室で眠り続けているのだろう。
耳に残っているのは、長門の言葉。

―――ハルヒが、何らかの脅威に曝されている。

脅威。という単語から、俺は昨夜対峙した、髑髏の怪物を思い出す。
そして、両手に染み付いてしまっている、ダンテの羽ペンの先を、髑髏の額に突き刺した時の、鈍い感触を、思い出す。

ハルヒを脅かそうとしている脅威とやらは、あの髑髏の怪物のようなもののことなのだろうか。
そもそも、奴はどこからやってきて、どのようにして閉鎖空間の中に現れたのか。
俺はまた、三ヶ月前の事件のように、ハルヒの力に目をつけた何者かと戦うことになるのだろうか。

そして、あの二人。アイドル、久慈川りせと、クマ。
あの二人は、少なくとも、髑髏の怪物の味方ではなかったようだが……


―――ザー………ザザ……ザ…


いつの間にか、部屋の電気は落ち、聞き覚えのあるノイズ音が、俺の耳をくすぐっていた。思考に耽っているうちに、眠ってしまっていたらしい。机の上のデジタル時計の表示は、二十三時五十九分を指していた。
眠りから覚めたばかりの耳に届く雑音。このシチュエーションは、昨夜も体験した。ハッと気がつき、室内を見回す……ノイズの発生源は、砂嵐を映した、プラズマテレビの画面だ。

「同じだ……昨日と!」

慌ててベッドから降り、画面を覗き込む。砂嵐が徐々に透き通ってゆき、その向こう側に、見覚えのある顔が映し出される……

「ハルヒ!」

昨日と同じだ。ハルヒは荒く呼吸をしながら、画面のこちら側に向かって、口をパクパクと動かしている。

―――ザザ……ザ……けて……キョ……

その時。垂れ流しになっていたノイズの中に、一瞬、耳に馴染んだ声が混じって聞こえた。ハルヒの声だ。聞き違えるはずもない。砂嵐は徐々に晴れてゆき、音声も、ノイズ混じりの状態から、途切れ途切れではあるが、徐々に鮮明になってゆく。

―――すけて、キョン……ルソナ……ファ……あくま

あくま。
音声がその単語を発した瞬間。画面が暗転した。次に映ったのは、ハルヒではない……長い金髪を携えた、男か女かわからない、見知らぬ後ろ姿。そいつがゆっくりとこちらを振り向く……その途中で、何度も画面が移り変わり、ハルヒの顔の映像と入り混じる。


「ハルヒ!」

画面のハルヒは、昨日と同様、助けを求めているらしく、必死でこちらへ向けて、手を伸ばしている……不意に、ポケットに入っていた携帯電話が鳴り出した。ポケットから取り出し、ディスプレイを見る……古泉からの着信だ。

「古泉!」

「もしもし、聴こえますか? たった今、大規模な閉鎖空間が発生しました」

耳元で、古泉が早口に言葉を並べる。片手で携帯を耳に当てながら、俺はもう一方の手を、テレビ画面の中のハルヒに向かって差し伸べた。

「やはり、我々の侵入できないタイプです。あなたのほうでは、何か変わった事はありませんか?」

「……テレビだ。テレビの中にハルヒがいる!」

古泉に向かってそう言いながら、俺は伸ばした指先で、ハルヒの映った画面に触れる……その瞬間。水面に波紋が広がるように、映像が滲む。

「なっ……!?」

「もしもし? テレビの中とは、一体……」

古泉の言葉は、最後までは俺の耳に届かなかった。
突如、テレビ画面から、二本の白い腕が飛び出してきた。そして、俺の手首を掴み。画面の中へ誘うように引っ張りはじめたのだ。
突然の出来事に、俺は手の中から携帯を取り落としてしまう。

「て、テレビの中に……入っ……!?」

白い腕は、俺の手首から先をテレビ画面の中に引きずり込むと、次は俺の二の腕をつかみ、肩までを引っ張り込もうとする。その直後、もう一本の白い腕が俺の首を引っ掴んだ。眼前にテレビの光が迫り……

やがて、すぽん。といったような音がして、俺の視界は、意識とともに暗転した。




………

意識を失う回数が、ここ半年位で、これまでの数倍に跳ね上がっている気がする。俺が目覚めたのは、うっすらと薬品の匂いがする、白い部屋の中だった。俺は冷たい床の上に腰を下ろし、片膝を抱えていた。
背後には、清潔そうなベッドが横たわっている……ここは、病院か?
俺は確か……そうだ。テレビ画面にハルヒが映って……

「……ここは……テレビの、中……なのか?」

そう。俺はハルヒの映ったテレビ画面を覗き込んでいた―――そして、突然画面から伸びてきた白い腕に掴まれ、俺の記憶が確かならば、テレビ画面の中へと引きずり込まれてしまったのだ。

冷たくなった腰を上げ、立ち上がり、周囲を見回す。ホコリの積もった薬品棚や、締め切られていない布のカーテンなどが目に入って来て、やはりここは、どこかの病院の一室らしい。締め切られた窓の向こうに、灰色の空が広がっているのが見えた。
そうだ、テレビの中に引きずり込まれる直前、古泉が、閉鎖空間が発生したと口にしていた。ここは、その閉鎖空間の中なのだろうか?
数歩歩みを進め、窓枠に触れる。窓を、開けてみようか……
などと、考えていた時。

どんがらがっしゃーん。

古典的な擬音を用いるなら、そんなところだろうか。
窓とは反対側の壁、締め切られたドアの向こう側から、けたたましい音が聞こえてきて、俺の心臓は、いつかのように飛び上がりかけた。

……何かが、いるのか?

……ほんの十数秒ほど待ってみたが、それ以上、ドアの向こうで、物音がすることはなかった。しかし、今しがた聞いた物音は聞き違いではない。少なくとも、俺以外の何か……もしくは、誰かが、この空間内にいるということは確からしい。
意を決して、俺は室内にたった一つのドアに近づき、恐る恐る、ノブを回した。ドアを開けた先には、明かりの灯っていない廊下が続いていた。俺のいた部屋は突き当たりの位置にあり、両側の壁には、病室に繋がっているらしいドアが点在している。
廊下に一歩踏み出し、耳を澄ませる。……物音は、しな―――

ズシン。と、静寂で満たされていた空間に、爆薬を放り込んだかのような轟音が、俺のすぐそばで鳴り響いた。

音は、先程まで俺が居た部屋の中から聞こえてきた。開けたままのドアをから、室内の様子を伺う。先ほどから変わった点は、一見、無いように見えたが、次の瞬間、再び、破壊音に近い物音とともに、とんでもない光景が、俺の目に飛び込んできた。

ドゴン。

空間全体に響き渡るような音とともに、部屋の天井に、巨大な穴が空いたのだ。そして、天井の残骸とともに、室内に舞い降りてくる、人の背丈ほどの影。

……雪だるまだった。
天井を貫通し、室内に現れたのは、手足のある雪だるまだった。青い、角の生えた帽子のようなものをかぶり、同じく青い、長靴と手袋を身にまとっている。
雪だるまは、コテン。といったように、床に頭をから落ち、リノリウムの床の上を転がり、やがて壁に当たった。両手をバタつかせながら、体を起こそうと必死になっている姿が、昨晩見た、あの謎のクマの姿と重なって見える。

……クマと髑髏の次は、雪だるまかよ。

誰にともなく、心中で呟く。
何これ? 何の祭り?

「はああっ!」

そして、その直後。ぽっかりと穴の空いた天井から、威勢のいい叫び声が聞こえてきた。その声とともに、室内に舞い降りたのは―――
女の子だった。
緑色のジャージと、セーラー服のスカートに身をつつみ、黄色い縁のメガネをかけた、茶髪で、ボブカットの少女が、室内に舞い降りてきたのだ。
降り立った少女は、天井の残骸で散らかった部屋の床で、一歩、ステップを踏んだ直後、

「せいっ!」

足腰のバネを最大限に活かした跳躍を見せ、雪だるまに向けて、飛び蹴りを放った。雪だるまの頭部についた、黒く丸い瞳が、少女を見る。
次の瞬間、雪だるまはぐるぐると腕を回したかと思うと、手袋に包まれた右の拳を、少女に向かって放った。雪だるまの拳と、少女の放った蹴りとがぶつかり合う。

「くっ」

弾かれたのは、少女の方だった。雪だるまは、等身こそ小さいものの、背丈は少女よりいくらか高く、体躯もかなり大きい。少女は特別小柄ではないが、雪だるまと比べれば、体重も軽いのだろう。

雪だるまは、弾き飛ばされた少女を見て、一息、鼻で笑うように呼吸をした。少女は壁に向かって吹き飛ばされ、叩きつけられる―――ことは、なく。
ズダン。と重い音を立てながら、両足の裏で壁を踏み、体勢を立て直した。そして、その直後……ジャージの上着のポケットから、一枚のカードを取り出し、

「ペルソナぁー!」

そう、叫んだ。
同時に、少女の体から、ペルソナの召喚に伴って発生する、青い光が溢れ出す。
兜と鎧、そして、黄色い全身スーツに身を包んだ、女性型のビジョン。それが、少女が召喚したペルソナだった。具足に包まれた両脚が、少女の代わりに壁を蹴り、少女の身体は再び、雪だるまに向かって突進する。

「はあっ!」

その声は、少女のものだったか、あるいは、少女のペルソナが放った声だったか。ともかく、声とともに、少女は右手を握り締め、雪だるまに向かって、右腕を振るった。
同時に、少女のペルソナが動く。いつどこから取り出したのか、少女のペルソナの右手には、長い棍のような柄モノが握られている。そして、その柄モノが空中を切り、雪だるまに向けて振るわれる!

しかし、その一撃は、空を切った。
雪だるまが、ふわりと、空中に飛び上がったのだ。そして、ポッカリと穴の空いた天井に、吸い込まれるように消えてゆく。少女が、すた。と軽い音を立てて、天井の残骸で散らかった床に降り立つ……
その傍らに、ペルソナ。―――俺はこの辺で、ようやく、目の前の状況を理解した。
昨日、クマが口にしていた文句が脳裏をよぎる。

―――……モシヤ。キミがクマの世界と、このヘンテコな世界を繋げた張本人クマ!?

目の前の見知らぬ少女は、おそらく、昨日の久慈川りせとクマと同じ、理由は分からないが、この閉鎖空間に迷い込んでしまった闖入者というわけだ。
そして、少女はペルソナ使い。俺や古泉、朝倉たち以外のペルソナ使いと出会うのは、初めてではないので、すんなりと受け入れることができた。
そして、またまた理由は分からないが、昨晩、閉鎖空間内に現れたあの髑髏の怪物。先ほどの雪だるまが、あの髑髏に相当する存在というわけだ。
閉鎖空間に巣食う化け物。やはり、そいつらこそが、長門が言っていたところの、ハルヒに及んでいる脅威なのだろうか?

「逃したかっ……」

少女が、雪だるまの消えていった天井を見上げ、呟く―――そこでようやく、少女は俺の存在を認識したらしい。視線を俺に向け、一瞬何やら考えた後、口を開いた。


「え……キミは、誰?」

雪だるまを追おうとしていたらしい、跳躍のために整えた姿勢を解きながら、少女は俺に訊ねた。
この場合、どう答えるべきか。俺の意識は、昨日、クマに同じ質問を投げかけられた時と比べれば、天と地の差というほどにはっきりしている。
考える間をほとんど置かずに、俺は答えた。

「通りすがりのペルソナ使いだ」

そして、間を置かずに

「今のやつを追うんだな?」

散らかり尽くした室内に移動しながら、俺は少女に確認を取った。
同時に、天井を見上げる。廊下からは見て取れなかったが、どうやら上階は屋上になっているらしい。ポッカリと空いた穴から、濃い灰色の空が見えた。

「え……あ、キミってもしかして」

少女はハッと、何かを思い出したかのように目を見開いたあとで

「君……『キョンくん』? だよね?」

少女の問いかけに、俺は無言で頷いた。
―――待て。なぜキョンという名前が、この少女に知れている? いや、そんな事を考えている暇はない。

「ほかに仲間はいるのか?」

「う、うん。ふたり……花村と、雪子。この病院のどっかに」

少女はすこし動揺しながら、俺の問いかけに答える。ほかに聞いておくことというと……『少女』のままでは、呼び方に困るか。


「名前は?」

「あ……あたし? あたしは、里中千枝」

少女……里中は、自分の顔を指で示しながら、名乗った。俺の名前は……ええい、この際『キョンくん』でいい。

「よし、追おう」

「あ、うん。跳べる?」

「あー……多分な」

天井に空いた穴を見上げる…………まあ、なんとかなる―――か?



………

「ほい、掴まって」

「ああ……面目ない」

はい、ごめんなさい。跳びきれませんでした。
先に屋上へ上がった里中が、ペルソナの腕を伸ばし、俺を引っ張り上げてくれる。
灰色の空の下。屋上は思っていたよりも広く、別棟の屋上へも続いているらしかった。その構造を見て、俺はようやく、この建物に見覚えがあることに気づく。そこは、以前の冬、長門と向かい合ったあの屋上だった。そして現在、ハルヒが入院している、あの病院である。

「さっきのやつは、あっちに行ったのかな」

別棟の屋上の、階段へと続く扉が開け放たれているのを見て、里中が呟く。


「別棟には、雪子がいるから。やるなら挟み撃ちだね。どっかに花村も潜んでるだろうし」

と、両手の拳を胸の前で合わせながら言う里中。

「そいつらも、ペルソナ使いなんだな」

「そ。天城雪子と、花村陽介。詳しいことは、あとで話すよ。今はあの雪だるま」

言うが早いか、駆け出す里中。しかし、別棟の屋上までは、少なく見積もっても八メートル程は開いているが……

「ほっ」

里中は軽々と、別棟の屋上へと飛び移ってみせた。……ペルソナ能力のおかげだよな?



「これ……あの雪だるまがやったんだよね、多分」

別棟の屋上に飛び移り、二階ほど階段を下りたところで。階段の踊り場の床や壁が、氷の膜によって覆われていることに気づき、里中が呟いた。

「マズいかも……雪子、氷には弱いんだよね」

と、心配そうに目を伏せる。敵が氷結タイプなのは、見た目から容易に想像できる。俺の脳裏に、朝倉の顔が思い浮かんだ。そして自慢ではないが、俺のダンテも、冷ややかなのはあまり得意な方ではない。

「逆に、あっちも炎に弱いかもしれないな」

「うーん、どうだろう……りせちゃんがいたらなあ」

腕を組み、むむ。と眉を顰める里中。


「久慈川りせになら、わかるのか?」

「うん、それがりせちゃんのペルソナの能力だから」

なるほど、久慈川りせはナビ系か。俺は朝倉や朝比奈さんのペルソナ、そして、以前出会った、山岸さんのペルソナを思い浮かべる。だとすると、久慈川りせも、例のあの博打のような技を使うのだろうか? ……などと、俺の思考が逸れ始めた、その時。

「っ! ……雪子の声だ! キョンくん、こっち!」

突然、里中が、下階に向かって駆け出した。俺は慌ててその背中を追い、階段を一段飛ばしで駆け下りる。

「……こっち!」

たどり着いたのは一階。ロビーの一角から繋がっている、病院の中庭。そこを中心に、強烈なエネルギーのぶつかり合いが生じているのが、遠くからでも感じられる。

「雪子っ!」

中庭への戸を引き破るように開き、里中がその名前を呼んだ。開け放たれた戸から、中庭へと踏み入る……そこには、異様な光景が広がっていた。
地面や病棟の壁まで、天空を除くあらゆる面に、銀色の氷の膜が張られている―――その中枢、中庭の中心に、雪だるまがいた。しかし、その姿は、先ほど見かけたときとは異なっている。
まず、デカイ。そして、青い角の生えた帽子をかぶっていたあたりに、くるくると巻かれた金髪のカツラのようなものをかぶり、手には杖を持っている。王様のつもりなんだろうか。

そして、こちらに背を向けて、雪だるまと向かい合い、周囲に赤い炎を迸らせている、黒い長髪の少女が一人。

「千枝……!」

雪子と呼ばれた少女……天城雪子が、肩ごしにこちらを振り返り、一瞬、俺たちと目を合わせる―――しかし、すぐに正面に向き直る。その全身からは、間欠泉のように、ペルソナの光が溢れ出し続けている。

「こいつ……燃やしつくせない……!!」

と、呟きながら、天城は体を震わせ、雪だるまに向け、両手を突き出す。


「もっとよ……『コノハナサクヤ』っ!」

天城の傍らに、赤い光に身を包んだ、女性型のペルソナが姿を現す。現れたペルソナが、両手に携えた扇のような羽を戦慄かせると、天城の両腕から発せられる炎が、より一層強まる。
しかし、雪だるまの下までは、炎は届かない。巨大な雪だるまは、強まった火力に対抗するかのように、両手を高くかざした。同時に、俺たちのいる空間に、冷たい旋風が巻き起こる。

「ああ……っ!」

天城が吠え、炎はさらに強まる―――しかし、足りない。雪だるまの魔力は、既に中庭の空間全体を包み込んでいた。

「あいつを叩けばいいんだよねっ! 任せて!」

すぐさま、里中が天城のとなりの空間を駆け抜け、雪だるまに向かって駆け出した。同時に、その全身から、青い光が迸る。

「行くよ、『トモエ』!」

現れた里中のペルソナが、棍を手の中で回転させながら、空中を駆ける。

「待って、千枝……近づいたら、ダメ……」

放たれたペルソナの背に向けて、天城が叫んだ。その次の瞬間、里中のペルソナが、突進をやめる……いや、やめさせられたのだ。
凍りついた地面から伸びた、氷の足かせが、里中のペルソナの両足を捕縛していた。

「里中!」

「しまっ……このぉぉぉ!!」

動きを封じられた里中は、ならば、と、棍を投擲する。しかし、その棍までもが、空中で何かに遮られ、推進力を失い、カラカラと音を立てながら、冷たい大地に落ちる。
雪だるまを覆っているのは、氷の壁のようだった。何者も通すことのない、絶対零度の防壁。強い。ダンテの羽ペンを燃やしても、雪だるまの下まで攻撃は届くかどうかは怪しい。
せめて、あの氷の壁を溶かすことができれば……


「来い、ダンテ!」

里中と天城に続き、俺は青い光を放ち、赤い肌のペルソナを召喚する。
里中ほど雪だるまに近い位置でなくていい。僅かに前進し、熱を氷の壁にたたき込めればいい。燃える羽ペンを携えたダンテとともに、雪だるまにに接近する……―――しかし。

「なっ……足かせ!? この位置で、既に!?」

俺の足は、気づかぬうちに、里中の足と同様、地面に繋ぎとめられていた……本体が捕縛されれば、ペルソナであるダンテも動きを封じられてしまう。

「このままじゃ……私が、火力を弱めたら……みんな、凍らされてしまう……確実にっ」

炎の威力を強めながら、天城が叫ぶ。しかし、その精神力が尽きるのも時間の問題だ。ちくしょう。誰か、なんとかできるやつはいないのか――……


―――……ペルソナァッ!


不意に、天空から、声が降り注いできた。里中や天城の声ではない……男の声だ。同時に、ペルソナの気配を感じる―――雪だるまを含めた、その場の全員が、空を仰ぐ。

「……花村っ!」

里中が、その名を叫ぶ。灰色の空を背に、天空から真っ直ぐに降りてくる……
青い光に包まれた、その男の名前を。
雪だるまの頭部が、自分めがけて降りてくる男……花村と呼ばれた男―――逆光で黒く染まった、その姿を見上げる。

「くらえっ―――『ジライヤ』!」

真上からの攻撃に対しては、氷の壁によるガードをしていなかったらしい。雪だるまは、身をかわそうとするが、わずかに遅く、花村のペルソナの放った攻撃は、雪だるまの脳天へと叩き込まれた。


ゆらり。

空間がぼやけ、次の瞬間。中庭中を覆っていた氷の膜が、溶け出した。氷の壁も、失われている―――その一瞬を、見逃すわけもない。

「コノハナサクヤ―――乱れ舞え!」

天城が一閃、その場で体を翻し、炎に包まれた右手を、雪だるまに向けて開く。直後、中庭のあちらこちらで、爆発が起きた。
同時に、炎上。爆発は次々と起こり、雪だるまに、息をつく間さえも与えない。
白い巨体が、苦痛に身をよじる。どうやら、俺の読み。火炎に弱いというのは、図星だったらしい。

「ペルソナァッ!」

追い討ちをかけるため、俺はペルソナを召喚する。すぐさま青い光に包まれた視界に、いつか、影時間の中で幾度か見たように、一枚のカードが現れる。
『Ⅴ』という数字の刻まれた、新たなペルソナカード。
俺は何もためらわず、目の前のカードに手を伸ばし、一息に握りつぶした。カードが割れ砕けると同時に、全身が、新たな力で満たされたような感覚。
それは、自分でも忘れかけていた、俺の力……『ワイルド』の力。


「……行け、『ケルベロス』!」


俺の体から、獅子のように巨大な体躯を持った、獣の姿のペルソナ―――ケルベロスが放たれ、燃え盛る大地を駆けた。耳の近くまで裂けた巨大な口を限界まで開き、一瞬の昏迷の中にある雪だるまの体に食らいつく。すぐさま、雪だるまが我に返り、苦痛に体を震わせる。

「コノハナサクヤっ!」

天城もまた、攻撃を休めることはない。両腕を舞うかのように振るう度、熱を帯びた爆裂が、雪だるまを襲う。天城のペルソナの炎の温度を近くに感じながら、ケルベロスは唸り、喉の奥から、灼熱の炎を噴き出した。
焼かれながら食われ、食われながら焼かれるというのは、はたしてどんな思いなんだろうか。俺が一瞬、瑣末な思考に意識を向けていたうちに、雪だるまの体は、煙となり、昨晩の髑髏同様、黒い瘴気に変わり始めた。
……跡形もなく消え去った雪だるまから視線を外すと、天城雪子が、一仕事を終えた舞いの姫のように、どこからか取り出した扇で顔を仰いでるのが目に入った。
風にふわふわと揺れる、首筋の髪の毛が、妙に色っぽく見えて、慌てて視線をあさっての方向に逸らす、俺だった。




………

「里中よー、受け止めてくれるのはいいけど、今度からはもう少し優ーしく頼むぜ」

「受け止めてあげただけありがたく思いなさいって。ったく、カッコつけて高いとこまで登っちゃってさ」

軽口を叩きつつ、痛むのか、右手で腰をさすりながら、花村陽介という名の少年は、視線を俺に向けた。

「えーっと……あ、もしかしてアレか。お前がりせとクマの言ってた、『キョンくん』ってやつなのか?」

……俺のあだ名は、既に久慈川りせを通じて、里中らの面々には通じているようで。つーか、さっきも言ったが、なぜ俺のあだ名が、久慈川りせとクマに知れているのだ。身に覚えがないぞ。

「……あ、りせちゃんの言ってたペルソナ使いって、この人のことだったんだ。へぇー」

……こちらはこちらで、今更感のある感想を述べている、赤のカチューシャが眩しい天城雪子嬢。なんだ。口には出さないが、あなたは一度ポニーテールにしてみると、非常にいいと思うぞ。おもに俺への印象が。

「そ。でも、ペルソナが使えるってのはりせちゃんから聞いてたけどさ。まさかワイルドだなんて、あたしらも聞いてなかったっすよ」

と、頬を膨らませつつ、里中が俺を見る。
ワイルド―――そう、目の前に広がる日常感で、一瞬、忘れそうになるが、俺はついさっき、ダンテではない、新たに発現したペルソナを使役し、あの雪だるまを撃破することに貢献したのだ。
ケルベロス。無意識のうちに、俺はその名を、声に出して呼んでいた。三ヶ月前もそうだったっけな。俺は無意識のうちに、新たなペルソナを召喚し、その度周りを驚かせた。まったく、人騒がせな能力だと、他人事のように思う。

「……俺も無意識だったんだ。ペルソナを使うのは久しぶりだったんでな」

「ま、そりゃあたしたちもそーだけどさ」

里中が肩をすくめる。


「なあ……俺たちってさ、もしかして、ちょっと情報交換とか、そういう事しといたほうがいいんじゃないか?」

との言葉は、花村の口から飛び出した。

「なんつーか、お互いによくわかってないだろ? お前にとっての俺たちのことも、俺たちにとってのお前の事もさ。俺たち、ここが一体どこなのかも分かってないんだよ」

いつもなら、ここで古泉あたりに語り部の役割を委ねるのだが、あいにくこの場には、こちら側の人間は俺しかいない。ガラじゃないが、俺が説明するしかない、か。
それに、俺としても、この三人がどういった経緯で、この閉鎖空間へやってきたのかは気になるところだ。察するに、彼らは、おそらく俺よりも、ペルソナに関する経験は豊富であるようだしな。目的が一致していれば、協力を乞いたいところだ。
渋々とだが、俺はまず、この場所が、どういった性質の物なのか、というあたりから話し始めた。



………

俺が三人に話したのは、三ヶ月前に、ハルヒの力をめぐり、繰り広げてきた戦いのざっくりとした概要。そして、この度、そのハルヒの力にまつわる新たな案件として、この度の、クマいわく『ヘンテコな世界』が発生したのだということの説明。
俺がたった三ヶ月前にペルソナに目覚めたばかりなのだと話すと、三人は妙に納得したように見えた。なんだ、俺は見るからにヒヨッコだってのか?

「……あたしたちはね、クマさんとりせちゃんが、テレビの中のパトロール中に、おかしな世界に迷い込んだっていう話を聞いて来たの」

俺がずっと引っかかっていた、久慈川りせ・クマの二人組と、この三人の関係については、天城が説明してくれた。ようするに、あの二人は、天城たちの仲間であるらしい。
彼らは、なにやら、殺人事件を解決しただとか、街が霧に飲まれるのを阻止しただとかという、実績のあるペルソナ使いであるとか。

「クマさんいわく、昨日、テレビの中の世界に、今まで見たことないような『歪(ひずみ)』が出来てて……その歪に飲み込まれて、気がついたら、この世界に来ていて、そこには『シャドウ』のような怪物がいて……あなた、『キョンくん』と出会ったんだって聞いたの」

「で、その歪が発生した原因について、俺たちが調査しようと、テレビの中に入ったら、問答無用で歪に飲まれて、気が付いたらこの世界にいたってわけだ。おまけに、りせやクマと離ればなれになっちまうしな」

天城の説明を、花村が引き継ぐ。

「えっと……つまり、キミの言ってることをまとめると」と、腕を組み、難しそうに眉を顰めながら、里中が口を開いた。


「涼宮さんっていう、強力なエネルギーを持った人がいて、その人が、不満やイライラをぶつけるために創り出した世界が、この、今あたしたちがいる世界だっていうこと?」

俺のざっくりとした説明は、概ね俺の意図通りに伝わったらしい。もうすこし正確に現状を説明するには、もう少しハルヒについて踏み込んだ説明をしなくてはいけないからな。俺にはこのくらいで手一杯だ。

「んー……いまいちよくわかんないけど、要するに、さっきみたいなシャドウ? を倒していけば、この世界……クマくんの言っていた、あたしたちの世界にできた歪も、消すことができるってこと?

「今のところ、そう考えるしかないな」

それに加えて、古泉や森さんといった機関の面々ですら、この世界に侵入することは難しいというじゃないか。現状で、俺にとって、戦線を共にしてくれる仲間と出会えたことは、非常に貴重なことなのだ。

「シャドウを倒せば、俺たちの世界も元通りになるってんなら、協力しないわけにはいかねーよな。俺たちも、こうしてその……ヘイサクウカン? とやらにに来ちまったわけだし」

首をぽきぽきと鳴らしながら、花村。

「ま、乗りかかった船ってやつだ。俺たちも体が鈍ってたところだったしな」

ウィンクが眩しいね。

「ね、でもさ。キョンくんには、三ヶ月前に一緒に戦った仲間がいるんだよね? その人たちは、どうしてこの世界には来れないのさ?」

里中から訊ねられて、俺は返事につまってしまう。
確かに、以前は、古泉や朝倉、朝比奈さんといった面々も、俺とともにペルソナ使いとなり、事件の解決に貢献してくれたはずだった。なぜ今回に限っては、俺のみがこの世界に入れてしまったのか。
この世界にやってきたいきさつを、もう一度、一つ一つ、頭の中で順序を立てて解析してみる。俺は昨日の晩、閉鎖空間に呼ばれ、そこでシャドウ(怪物?)を倒し……問題は、その次だ。
俺がこの世界に来た、直接的な方法。それは……そう。

「テレビの中に……引きずり込まれた?」

花村が、俺の発言を聞き、再び怪訝そうに眉を顰める。
そう。俺は、深夜零時に、テレビ画面に映ったハルヒへと手を伸ばして……その画面に触れた直後、テレビから飛び出してきた白い腕に、引きずり込また。そして、気が付いたら、この病院に居た。


「……ハハ、そりゃ寝オチ確定……と、言いたいところだけどな」

花村が、引きつった愛想笑いを浮かべる。

「テレビに引きずり込まれた……って、新しいね……テレビに突き落とされた、ならわかるんだけど」

何やら神妙な顔つきで、天城がぼそぼそと言葉を放つ。俺はどうやら、この三人の、あまり思い出したくない過去を突っついてしまったらしい。

「で、でもさ。つまり、キョンくんと同じ方法でなら、その仲間たちも、この世界に来られる、ってことなんじゃないの?」

訪れた妙な雰囲気をかき消すように、里中が口を開いた。

「同じ方法?」

里中の言葉が、俺の中に引っかかる。それはつまり……古泉や朝倉が、俺と同様に、テレビを通じて、この世界にやって来られる可能性がある、ということか?

「そう、そういうこと。あ、でも……キョンくんがその方法でこの世界に来たことを、誰かに伝えられないんじゃ、ダメか……」

「あっ―――」

―――里中の発言と、ほぼ同時に。俺の視界、里中の背後に。いつかの春に見たような……人型を模した、赤い光の塊が現れ、俺は小さく声を上げた。
待ってたぜ、ちくしょう。



「あなたが閉鎖空間内に侵入できたことは、我々にも観測できました。それと同時に、我々の介入を阻害する力がわずかに弱まり、このような形でですが、この空間内に侵入することができました」

赤い人影は、淡々と言葉を並べてゆく。あまり時間に余裕がないらしく、いつもよりも早口だが、それは間違いなく古泉の声だった。


「それにしても……やはり、『ペルソナ』ですか」

「ああ。昨日、この世界に来てすぐ、ペルソナが使えるようになった。俺が出来たんだ、きっとお前や朝倉もそうなるんじゃないか」

「なるほど、あなたがそちらへ向かう以前に話していたことが現実で、長門さんの言う、涼宮さんが脅威に曝されているという推察が正しいのなら……テレビを介してのみ侵入できる閉鎖空間。ありえないことではないでしょう。……なぜテレビなのかは、謎ですが」

古泉はそこまで話したあと、すこし考え込むように沈黙し

「分かりました。僕と朝倉さんで、この空間に介入することができないか通常とは異なった方法でアプローチをしてみます。あなたの言った方法も試してみましょう」

「ああ、助かる」

「いつもの恩返しですよ」

と、赤い人型は、くすくすと笑ったようだった。

「ただし、僕らがこの空間に侵入することができたとしても直ちにあなたと合流できるかどうかはわかりません、未知数です」

「あ、ああ」

「あくまで、僕らは追加戦力。そう考えてください」

古泉の語調に、あまり余裕が感じられない。状況が、あまり芳しくないということが、俺の目にも透けて見えた。

「……涼宮さんは、今、苦しんでおられます。そして、彼女は、ほかならぬあなたに助けを求めた。あなたが彼女の背中を支えることができなければ……世界はいとも簡単に崩れるでしょう」

「……あまり、俺を脅かしてくれるなよ」

「最悪の可能性を述べたまでです」

だから、それが心臓に悪いんだっつーの。
何しろ俺は、たった二度か三度ほど、お前らの力を借りて、世界を救っただけの、単なる一般人なんだからな。今は、ペルソナなどというものを背負わされているが。

「あなたを信じていますよ、僕は」

古泉が笑う。表情を見て取ることができなくとも、それを感じ取ることはとても容易かった。

「では、また会うときは、もうすこし体の良い形でお会いしましょう」

ああ、そう願ってるよ。ふ。と、最後に微笑みの気配を残して、赤い人型は、俺の前から消え去った。
……古泉との連絡も取れて、俺は病院の中庭から見える灰色の空を見上げ、ため息をひとつ付いた。一瞬の黄昏。そのあとで視線を地上に戻すと、つい先ほど出会ったばかりの三人のペルソナ使いたちの視線を、俺は一手に引き受けていた。

「今のが、キミの仲間……なのかな?」

俺と古泉の会話を、黙って見ていた、里中が口を挟む。

「ああ。どうやら、俺たちとの合流を試みてくれるそうだ」

「そりゃ、良かったじゃん。俺らも仲間は多い方が心強いしな」

花村がウィンクする。癖なのだろうか?

「……あのさ、なんか、話がまとまってきたところで、悪いんだけどさ」

ふと、里中が口を挟む。それと同時に……


ぐ~~~~

……と、気の抜ける音が、俺にも聞こえるほどの音量で、あたりの空間に響き渡った。

「あ、あたしたちさ、もう八時間かそこらぐらい、この世界を彷徨ってたもんで……なんつーか、ちょっと……疲れたっていうか、ネムいっていうか……お、お腹もすいたし、さ? 休憩しようよ! ね、休憩!」

……ぷっ。
と、思わず吹き出した俺たちを見て、里中が目を釣り上げる。

「わ、笑っちゃダメだよ、キョンくん、花村くん。わ、私も疲れたし……で、でも、千枝、ぐ~~~って……ぷふっ」

口に出した内容とは裏腹に、腹を抱えて笑いだしたのは、天城。お前、フォローする気、全くないだろう。

「うっさいな! こら、雪子! 笑わない! 初対面のキョンくんの前!」

「で、でも……今のはさすがに……くく、あっはっはっはっは!」

「始まったよ」

花村が肩をすくめ、ふっと笑う。

「ま、いつまで続く仲だかわかんねーけど、仲良くしようぜ、キョン」

「ああ、よろしくな」

騒ぎ立てるふたりを他所に、差し伸べられた手を握り返す。


赤いきつねと、緑のたぬき。
そんなフレーズが、脳裏をよぎった。

ああ、俺も腹減ってんのかな。




………

「失礼しま……ひゃっ」

『彼』が、テレビを介して、涼宮ハルヒの作り出した世界へと向かった、翌日の放課後。SOS団の部室を訪れた朝比奈みくるは、長門有希が既にそこにいた事に驚き、小さく声を上げる羽目になった。

「な、長門さん……いらしてたんですか」

「……」

長門は、何も言葉を発さない。いつものように、書物を抱え、その文面に視線を落としているわけでもない。ただ、透き通った瞳で、目の前の空間を見つめたまま、長門は、西日の差し込む窓辺の席に着いていた。てっきり、涼宮ハルヒのもとに居るのだろうと思っていたのだが……

「……」

長門が何も言葉を発さない以上、みくるにも、それ以上の言葉を口にする機会は与えられなかった。そもそも、なぜみくるは、ハルヒのもとへ向かわず、部室を訪れたのか。理由は、今朝がた、みくるを目覚めさせた一本の電話にあった。その着信元は、古泉一樹。電話の内容は、以下のようなものだった。

「これから僕は、彼と同様、テレビを介し、涼宮さんの作り出した空間への介入を試みます。それが成功した場合、おそらく、僕から、朝比奈さんや長門さんへのメッセージの発信は不可能になるでしょう。
 その時のために、あらかじめお話をしておきます。以後、連絡が途絶えた場合、僕は閉鎖空間に向かったと考えてください」

そのメッセージは、みくるにとって、あまりにも唐突なものだった。一体、それを伝えられたとして、みくるはどうすればよいのか。
それについて、古泉はこう告げた。

「僕がこれから向かう空間では、『ペルソナ能力』が大きな意味を持っていると考えられます。そして、それは朝比奈さん。あなたにとっても、縁遠い概念ではなかったはずです」

「ペルソナ能力……って、あの、三ヶ月前の事件の……ですか?」

電話口の向こうで、古泉が頷くのが感じられた。


「あなたの持つペルソナ能力は、三ヶ月前、僕たちの戦いをサポートしてくれました。その能力が、今回も必要になる可能性が高いんです」

「で、でも。あの事件は、長門さんたちの力で、発生する以前まで巻き戻されたんですよね……?」

「ええ。ですが……先日、彼のもとに、再びペルソナ能力が宿った。それはつまり、我々の記憶の中の出来事でしかなかったペルソナという概念が、今回の事件を解決するにあたって、再び意味を持ち始めたということです」

「意味……?」

「難しいことではありません。あなたはただ、以前のように、『意識』をしてくれれば良いのです。僕はこれから閉鎖空間へ向かいますが、そちらにはまだ、朝倉さんに残っていただきます。彼女のペルソナは、あなたがペルソナに近い能力を持っています。あなたが力を取り戻すにあたって、あなたの助けになってくれるでしょう」

「あの、やっぱり、言っていることが、よく……」

「時間です。……意識することは、時に、とても強い力をもたらします。あなたの力を信じていますよ。では、これにて失礼します」

……以上が、古泉がみくるに残したメッセージの全容だ。正直なところ、朝比奈みくるにとって、そのメッセージはあまりにも難解で、理解し難いものだった。
『意識』。……古泉のメッセージの中にあったその単語について、みくるは放課後までの時間、ずっと考えを巡らせていた。
みくるが意識することで、力を持ち始める概念。
……やはり、みくるにはわからない。
みくるは、そのメッセージの真意が、古泉が『みくるの助けになり得る』とほのめかした朝倉になら理解できるのではないかと、淡い期待を持って、この部室にやってきたのだ。
しかし、待っていたのは、ただ沈黙の使徒であり続ける長門のみ。みくるは、彼女のことが苦手だった。……かといって、朝倉のことが苦手でないわけでもないのだが。

「……」

居心地の悪さを感じながら、みくるはゆっくりと、足音をしのばせるように、窓辺から遠い場所に移動し、パイプ椅子に腰を下ろした。部室を後にしなかったのは、これから病院へ行ったのでは、面会時間を過ぎてしまうことと、これから朝倉が部室へやって来る可能性があることの、二つの理由からだった。
長門はみくるに何も干渉しないが、逆に、彼女がみくるの行動を阻害することも、めったにない。このところ、みくるは長門との付き合い方について、一種の諦観のような考えを持っていた。
つまり、みくるにとって、長門はどんな存在でもないのだ。みくるが彼女を意識しなければ、みくると彼女の間に、なんのエネルギーも生まれない。

「……意識?」

ふと。自分の思考の中から浮かび上がった、聞き馴染みのあるその単語の存在に気づく。

古泉がみくるに投げかけたメッセージの中にも存在した、その単語。
『意識することは時折、強い力をもたらす』。
それは、たった今みくるが考え浮かべたことと、同じ仕組みのものなのではないだろうか?

「……あ、あの、長門さ―――」

「来た」

みくるが長門に声をかけようとしたのと、ほぼ時を同じくして。呟くほどの音量の発言とともに、長門の視線が、廊下へと続く扉の方へと向けられた。

「へ……?」

みくるは呆けた声を上げながら、長門の視線の先を、一瞬遅れて目で追う。その直後。ノックの音。

「有希……っと、居たわね」

扉が開かれ、やってきたのは、朝倉涼子だった。まずはじめに、彼女の視線は長門に注がれ、その後、みくるの方へも向けられた。

「朝比奈さんもいたのね。ちょうど良かったわ」

一言、朝倉が呟く。と、同時に、朝倉が扉の脇へと身を除ける。すると、みくるにとっては―――そしておそらく、長門にとっても―――見知らぬ、二人の人物が、SOS団の部室内に足を踏み入れてきた。

「失礼します」

「……ウス」

現れたのは……まず、小柄な、みくるほどの体躯の、帽子を目深にかぶった、学生服の少年。
続いて、小柄な少年の斜め後ろに。ほとんど色素の残っていない、脱色しきられた短髪が印象的な、学生服を肩にかけた、大柄な少年。
……一瞬の間を置いたあと。先立って現れた小柄な少年が、室内に存在した、長門とみくるの視線を一挙に浴び、二人の顔を注意深く見比べた後、ゆっくりと口を開いた。


「『SOS団、団員その一、キョンくん』という少年の所属する部活動は、こちらで間違いありませんか?」

とても落ち着いた口調だった。それ故に、その発言の内容を、みくるが理解するまで、だいぶ時間を要した。

「このふたりが、長門有希さんと、朝比奈みくるさん。二人とも、こちらは……」

みくるの思考を遮るように、二人を連れてきた朝倉が、自己紹介を促す。催促を受けた学生服の少年が、まず、帽子を脱ぎ、頭を下げた。

「白鐘直斗と申します」

つづいて、やや猫背な大柄の少年が、ちょい。と頭を下げ、

「……巽完二っス」

と、無愛想に述べた。
二人の会釈に対して、みくるはほとんど条件反射的に、頭を下げる……しかし、目の前のふたりが一体何者なのか、理解が追いついていない。
白鐘…と名乗った少年は、先ほど、なんと言っただろうか。
『SOS団、団員その一、キョンくん』?

突然の出来事に呆けたみくるの前で、帽子の少年……白鐘直斗が、脇に抱えたボストンバッグから、みくる達にとっては見慣れたデザインのブレザーを取り出した。中くらいのサイズの、北校指定の冬季用学生服のブレザーだ。
白鐘はその襟を指で示し、普段は隠れている、生地の内側を裏返してみせる。
見ると、そこには幼い小学生の衣類に付けられているような類の、所属と、氏名を記すべき、布札が縫い付けられていた。そしてその札に、決して消えないタイプのボールペンで、先ほど白鐘が口走ったのと同じ文句が記されている。

「一昨日の深夜、八十稲羽市のテレビの中の世界に、別の空間へと続く時空の歪の発生が確認されました。このブレザーは、その歪の先で、僕らの友人が出会った少年が残していったとされる、遺留品です」

少年の話す内容が、みくるの頭には入ってこない。八十稲羽。聞いたこともない地名だ。
みくるに構うことなく、少年は言葉を続ける。

「『SOS団』について、勝手ながら、調査させていただきました。―――ご安心を。僕らは皆さんの活動内容について言及するつもりはありません」

活動内容を調査した。
つまり、SOS団の、これまでの所業を調べたという事だろうか。だとしたら、SOS団の活動の中には、みくるにとって、見ず知らずの誰かにはそうそう知られたくない要素も含まれており、突然、調べました。と言われても、対応に困る。
白鐘は、みくるが思い浮かべている事など何ら気にすることなく、少し間を置いたあとで、話を続けた。

「僕らが捜査しているのは……先ほど述べた、八十稲葉市内のテレビの世界に発生した、『時空の歪』についてです。昨日の夕方から、僕らの仲間数名が直接調査に向かったまま、連絡が取れなくなっています。……その前日の深夜、その時空の歪の第一発見者が、時空の歪の先で、このブレザーの持ち主に出会ったと証言しています。僕らは『探偵』です。この事件について、皆さんにお話を伺うために来ました」

探偵。随分と仰々しい単語が飛び出した。みくるは白鐘をまじまじと見つめてみる。学生服を着ている事もあり、歳は、長門やみくると変わらない、むしろ年下だろうと思われる。そんな白鐘が、探偵?
みくるが、困ったように朝倉に視線を向けると、朝倉は、やれやれ。とでも言うかのように首を横に振り

「隠すだけ、無駄みたいよ」

と、諦めたような口調で言った。

「私より、長門さんから説明してもらったほうが、彼女にとってはわかりやすいかと思って」

「なっ……!」

朝倉の言葉に、ぼん。と音を立てて、白鐘の表情がこわばる。朝倉はわざとらしく白鐘の顔を覗き込み……

「あら、隠してるつもりだった? ごめんなさい」

と、含み笑い混じりに言った。
一体何を隠しているのだろう。みくるには、なんの見当も付かなかった。

「そ、率直にお訊ねします。皆さんは、この時空の歪について、何らかの情報を持っていらっしゃいますね?」

白鐘は、取り繕うにように、視線を宙に泳がせながら、やや強い口調で言った。
みくるは考える。この白鐘という少年の口にした事は、テレビの世界だの、時空の歪だのと、今ひとつ何を言っているのかわからない。しかし、要するに、この二人は……
『涼宮ハルヒの力によって、どこぞで迷惑をかけられ、その落とし前を付けに、SOS団に殴り込んできた、鉄砲玉』……というわけだろうか。

ようやく現状を把握できてきたみくるが、どう説明をすれば良いかと、思考を巡らせ始めた時、

「あなたの言う時空の歪が発生した原因は不明。その時空の歪によって、あなたたちの知る世界は、現在、涼宮ハルヒという存在が発生させている、局地的な異空間の内部へとリンクしている」

……と、身も蓋もなく、ありのままの真実を、長門有希が口走った。

「現在、その異空間内で有効な力を持つものが、涼宮ハルヒが空間を発生させた原因を究明し、除去するため、空間内で行動している。あなたの言う、連絡の途絶えた数名のものたちも、同空間内に逗留していると思われる」

念仏のような長門の説明を受け、銀は少し、考えるように、帽子の鍔を指で弄った。

「……その空間と、僕らの知るテレビの世界とがリンクした原因は?」

「原因は不明と先に述べた。ただ、推測は可能。時空の歪に巻き込まれたものたちは、涼宮ハルヒの創り出した異空間内にて有効な力と極めて近い能力を持っていたため、互いの波長が重なり合い、リンクするに至ったものと思われる」

「……その、有効な力というのは」

その次に発せられる単語は、みくるにも予想できた。

「『ペルソナ』と総称される能力のことと考えて良いでしょうか」

「そう」

……しばし、沈黙が訪れた。
長門との会話を経て、白鐘は何らかの手応えを感じたのか、顎に指を当てて、何かを考えている。
一方、長門は、視線を白鐘に向けたまま、沈黙。

「涼宮ハルヒさんが空間を『創り出した』というのは、言葉通りに受け取っていいのでしょうか」

「そう。涼宮ハルヒの持つ能力のうちの一つ。この世界に近接した次元上に、現実と酷似した、閉鎖空間と呼ばれる異空間を作り出す能力。しかし、現在発生している閉鎖空間は、通常彼女が発生させるものとは異なる性質を持っており、内部へ侵入することは、非常に限定的な方法でしか成功していない」


「ついでに、内部の様子を探ることも難しくて、閉鎖空間内で何が起きているのか、私たちにも完全には把握できていないの。わかってるのは、閉鎖空間の中に、『SOS団団員その一』と、その他に、数人の闖入者がいるらしいということ。多分、その闖入者が、あなたの仲間たちなんじゃないかしら。そして、閉鎖空間の大きさが、大体この街と同じくらいの規模だっていうことだけ」

長門の言葉を、朝倉が引き継ぐ。白鐘は、やはり黙ったまま、二人の述べた言葉を元に、何やら推理でも働かせているようだった。

「……涼宮ハルヒさんについては、『キョンくん』という方の所属する、『SOS団』の団長であるいうことで、我々もいくらか調査させていただきました」

十数秒ほど沈黙が続いただろうか。はじめに口を開いたのは、白鐘だった。

「と、言っても、僕らの得た情報は、涼宮ハルヒという人物の人柄や、これまでに彼女と、皆さんの行ってきた活動の内容の一部などです。いずれも、今回の事件との関連性は無いと考えていましたが……」

そこまで話したあと、帽子の鍔をくい、と上げながら、白鐘は長門を見た。

「あなたが言うように、涼宮ハルヒさんの創り出したという空間内に、僕らの仲間が留まらされているとするなら。僕らもその空間の発生源の究明、除去に力を貸さなければなりませんね。しかし……」

再び、顎に指を当てる白鐘。癖なのだろうか?

「別次元に、異空間を作り出す能力……有り得ないことだとは思いません。僕らは、ペルソナ能力という特殊能力を持っていますし、別世界という概念にも馴染みがありますから。しかし、たった一人の人間が、街一つほどもの大きさの空間を発生させ、こうも長く持続しているとは……」

「涼宮さんが、いったい何者なのか。って訊きたそうね」

口を開いたのは、朝倉だった。ドアの脇から、主を失った団長席へと歩みを進め、回転する椅子の上に腰を下ろす朝倉。

「とりあえず、あなたたちも座ったら? 一から十まで説明するのは面倒だから、重要なところだけかいつまんで説明するわ」

そう言って、朝倉涼子は語り始めた。



………

十数分程の時間をかけて、朝倉は、白鐘と巽に、涼宮ハルヒという存在について語った。
彼女の持つ、世界を改変する能力のこと。また、長門や朝倉、みくるらが、各々の理由で、涼宮ハルヒのもとに集った存在であること。そして、現在、涼宮ハルヒは、意識を失ったままでいるということ。
普段は、古泉が着いている席に座った白鐘は、時折朝倉に質問を返しながら、朝倉の語りの聞き手となった。
その向かいの席についた巽という少年は、朝倉の説明を理解していないのか、はたまた、始めからする気がないのか、居心地悪げに、時々室内を見回しながら、朝倉の説明が終わり、白鐘が一連の話を飲み込むのを待っていた。

「なるほど。だいたいの話は分かりました。世界を改変する力の持ち主……いや、むしろ、世界の均整ををとっている張本人だと考えたほうが良いのでしょうか」

白鐘は、朝倉の話のスケールに、すこし面食らった様子を見せながらも、涼宮ハルヒという存在の概要を理解したようだった。理解が早いものだと、みくるは口には出さずに思った。

「涼宮さんが均整のとれた人かどうかはわからないけど、だいたいそんな感じね」

話すのに少し疲れたのか、朝倉は、回転椅子の背に体をあずけ、少し伸びをしたあとで、

「理解してくれたなら、私たちに協力してくれるかしら? 閉鎖空間を消滅させなければ、あなたの仲間も戻ってこれないわよ」

「仕方ありません。いいですよね、巽君」

「あ? ……あー、ああ、いいんじゃねえか」

突然話を振られ、船を漕いでいた巽完二は、ハッと我に返ったようだった。やはり、朝倉の話を理解してはいなかったらしい。なんとなくだが、みくるは、この少年となら、自分でもうまくやっていけそうな気がした。

「それじゃあ、まず最初に。あなたたちに聞きたいことがあるのよ」

ぎ。と、椅子を鳴らしながら、朝倉が立ち上がる。そして、直後、

「ペルソナ」

パキン。と、みくるにも聞き覚えのある音が、室内に響き渡った。
同時に、朝倉の体から吹き出す青い光。そして、朝倉の体からズレるようにして、青白い肌の女性型の像が現れる。
突然の出来事に、みくるは言葉を失い、目を丸くすることを余儀なくされた。


「……て、テレビの中でもねえのに、ペルソナを……」

同じく、不意を突かれたらしい巽が、椅子からわずかに体を持ち上げながら呟く。

「あなたたちと接触したおかげかしら。私も、改めて、ペルソナ能力を『意識』することができたみたい」

朝倉は、左手で、肩にかかった髪の毛を梳きながら言った。

「これは私のペルソナ。基本的には戦闘タイプだけど、『ナビ』も少しなら出来るわ白鐘くん、閉鎖空間の中にいるあなたの仲間に、ナビ能力を持ったペルソナ使いはいないかしら?」

「ナビ、ですか……? ええ、久慈川さんがいます」

「良かったわ。これから、『実験』するわよ。ナビ能力を持つペルソナ同士なら、閉鎖空間の中と外でも、通信ができるかもしれない。それに、空間内の様子も探れるかも……朝比奈さん、あなたも手伝ってくれる?」

「へ……わ、私ですか?」

唐突に、朝倉は、みくるのほうを向き、そう言った。

「そうよ。忘れたの? あなたもナビタイプのペルソナ使いでしょ。私や山岸さんよりも遠くまで、通信出来ていたじゃない」

みくるの脳裏に、三ヶ月前、影時間の中での出来事が思い浮かぶ。

「あ、あの時みたいに……ですか?でも、私、またペルソナを呼ぶなんて、出来るかどうか……なんで朝倉さんは、またペルソナが使えてるんですか……?」

「言ったでしょ? 白鐘くんたちと接触して、ペルソナを意識出来たって。ペルソナを出すときの感覚を思い出して、強く『意識』すればいいのよ」

意識。その単語を聞き、古泉からのメッセージが、記憶の中から浮かび上がってくる。

 ―――……意識することは、時に、とても強い力をもたらします。

みくるは、以前、初めてペルソナを召喚した際の感覚を思い出した。
自分の眼前に突きつけられた銃口が、乾いた音を立てた瞬間、体の奥底から、熱いとも、冷たいともわからない、昂ぶりが沸き上がってくる感覚。
自分の頭の中に、自分の声が聞こえる感覚。その感覚を、自分の中から呼び起こす。今度は、誰の手も借りず、一人で。

「ペルソナ……うーん……」

……やはり、無理だ。そう思って、目を開いたときには、みくるの視界はもう、青白い光で染まっていた。自分の手を見ると、そこにはみくるの手ではなく、金色に包まれた手がある。手を握り締めることを意識すると、金色の手が、それに答えるように動いた。

「……やればできるじゃない」

朝倉の声がする。

「私のペルソナ……『カミルラ』」

みくるは、湧き上がる昂ぶりを弾けさせるように、脳裏に浮かんだ、その名を口にする。違和感が無いわけではないが、一度覚えれば、召喚を行うことは、難しいことではないように思えた。

みくるは、自分の意識の中に現れた、新たな感覚に、ただただ驚いていたこれまで見えていた世界の中に、全く新しい要素が加わったような感覚。
自分の視界と、みくるよりわずかに背の高い、ペルソナの視界とが、重なり合う。三ヶ月前にペルソナを召喚した際には、これほど鮮明には感じなかった、新しい世界が、目の前に広がっていた。

「閉鎖空間のある次元の座標は、有希が教えてくれるわ」

朝倉が言うと、長門はすこし視線を動かし、みくるの顔を見て、小さく頷いた。

「座標に照準を合わせるのは、有機生命体には少し難しいから、私に任せて。朝比奈さんは、私が閉鎖空間を見つけたあと、そこに向かって神経を集中させてくれればいいわ」

「わ、わかりました」

頷いた後、みくるは、視線を白鐘と巽に向ける。二人の視線は、まっすぐにみくるへと向けられている……やりづらい。
感じる視線を振り払いながら、みくるは、覚醒したばかりの、自分のペルソナに意識を集中した。自身のペルソナの、黄金色の頭髪。その一本一本に、精神力を注ぎ、感覚を研ぎ澄ませる。
準備は、出来た。


「それじゃ行くわよ……『ベアトリーチェ』」

朝倉が、改めてペルソナを召喚し、青い光が増幅する。

「―――」

長門が、早口で何かを呟く。その直後、キイン。と、高い音が室内に響き渡り、朝倉が閉じていた目を開いた。

「見つけたわ……この位相ね。古泉くんの言っていた通り、かなり大規模だわ」

やがて、照準とやらを合わせ終えたらしい朝倉が、そう口にした。

「ベアトリーチェの精神力を、閉鎖空間のある位相に集中させるわ。朝比奈さんもそれに続いて」

朝倉の言葉に、みくるは目を閉じ、感覚を、朝倉のペルソナへと向ける。みくるのペルソナの黄金の手と、朝倉のペルソナの青い手とが重なり、指を絡ませる。
カミルラの手越しに、みくるの体に、朝倉の精神力の形が流れ込んでくる。その流れが、一点に向かって集中している……その軌道を、みくるは辿る。

「……見つけました……とても、大きな……空間、です。……閉鎖空間です」

みくるはゆっくりと目を開き、捉えたばかりの閉鎖空間の輪郭を伝い、空間中に、ペルソナのエネルギーを行き渡らせる。

「感じます……キョンくんと、古泉くん……それと、誰だかは分からないけど……一、二……五人の、知らない誰かが、閉鎖空間の中にいます」

「五人……おそらく、僕らの仲間でしょう」

「あーっと……花村センパイ、里中センパイ、天城センパイ……あと、りせと、クマ公か?」

白鐘と巽が、小声で言う。みくるは、さらに、ペルソナを研ぎ澄ませた。みくるの意識の先にぼんやりと浮かぶ閉鎖空間の中に、いくつかの、負のエネルギーの塊を見つけ出す。


「これは……とてもよくないものが、一つ、二つ……多分、全部で七つも…………『シャドウ』とよく似てますが、違います……これは、『悪魔』……?」

そこまで話し、みくるはひとつ息をつく。

「それと……おかしいです、こんなこと、ありえないのに……閉鎖空間の中に、涼宮さんがいる……?」

みくるがそう呟くと、朝倉がこてん。と首を傾げた。

「涼宮さん……? 確かに、おかしいわね。彼女は今も、この世界の病院にいるはず―――」

と、そこまで言い、朝倉は、口を噤む。

「……まさか、涼宮さんの意識が戻らないのは……」

「彼女の精神も、閉鎖空間の中に捕らわれているから」

朝倉の言葉を引き継ぐように、長門が口を開いた。

「有希……涼宮さんが、自分で創り出した閉鎖空間の中に、捕らわれてるっていうの?」

「閉鎖空間内に涼宮ハルヒの反応がある。しかし、涼宮ハルヒは、現在もこの世界に存在している。肉体と精神が分離した状態にあると考えられる」

「その原因は……」

「わからない」

朝倉が、小さくため息をつき、首を横に振る。

「しかし、推測は可能」と、長門は言葉を続けた。


「……涼宮ハルヒは、今、何らかの脅威に曝されている」

脅威。その単語を、長門は昨日も口にした。

「……何かからの攻撃を察知した涼宮ハルヒさんが、身を守るため、自分の精神と肉体を分離させた……そういうことですか?」

「そう」

長門の言葉を拾い上げたのは、白鐘だった。室内に、沈黙が訪れる。
『何らかの驚異』。その正体は、先ほど、みくるが発見した、負のエネルギーの事なのだろうか?

「朝比奈さん、ほかに何か感じられるものはある?」

「いえ……これ以上は、わかりません……すみません」

朝倉の言葉に、みくるは首を横に振る。直後、みくるは体から力が抜けるのを感じ、床に膝をついた。

「お、オイ、大丈夫かよ?」

「す、すみません……めまいが」

「急にペルソナを酷使しすぎたんでしょう。巽くん」

白鐘と巽が、床に落ちたみくるに駆け寄ってくる。巽は、みくるの腕を取ると、ぐい。と、強すぎない力で、みくるの体を立ち上げた。そして、自分が座っていた椅子を引き寄せ、みくるに腰を下ろさせる。

「あ、ありがとうございます」

みくるが礼を述べると、巽はほんの少し顔を赤くし、どうということはない。とでも言うように、みくるから視線を逸らした。思わず、可愛らしさを感じてしまったみくるは、疲れているのだろうか。


「……朝倉さん。久慈川さんとの通信については?」

「さっきから試してるわ……久慈川さんの座標が不安定なの。多分、移動してるのね。……あと少し……あ、つながりそう……」

朝倉のペルソナが、電波を求めるアンテナのように、あちらこちらに向き直る。数秒ほどそんな動作を繰り返したあとで、朝倉のペルソナが、左手を、窓のある一点に向けた体制で、留まった。

 ―――……誰……? ……誰なの…………?

「……繋がったわ」

朝倉が呟くと同時に、室内に、細い声が降り注いできた。みくるにも、テレビやラジオで、聞いた覚えのある声。

「久慈川さんの声です」

白鐘が言う。

「聞こえてるかしら? あなたは、久慈川りせさんで間違いないわね?」

 ―――誰なの……私を知ってるの……? 近くにいるの……?

「私は朝倉涼子……あなたのお友達、白鐘直斗くんと、巽完二くんの協力者と思ってくれればいいわ。悪いけれど、近くにいるわけじゃない……離れた場所から、あなたのペルソナに語りかけているの」

 ―――……直斗に、完二……?たすけて……シャドウに、襲われてるの……私一人じゃ、勝てない……

「襲われている……? あなた、一人なの?」

「まずいですね。久慈川さんに、戦闘能力はありません。センパイたちや、クマくんともはぐれてしまったのか……」

腕を組みながら、白鐘が呟く。


 ―――……また、来た……逃げなくちゃ……誰か……助け……

「久慈川さん? ……通信が途絶えたわ。察するに、絶体絶命ね」

「クソっ、どうすりゃいいんだよ!」

巽が声を荒げる。

「久慈川さんのいる座標は記憶したわ。こうなったら、私たちのうちの誰かが助けに行くしかないわね」

「可能なんですか?」

「テレビの中に入ればいいのよ。私たちの仲間も、その方法で閉鎖空間の中に入ったの」

「それをサッサと言えよ! 直斗、行くぞっ!」

「待って」

聞くが早いか、白鐘の手を引いて、ドアに向かってゆく巽を、長門が呼び止める。

「閉鎖空間につながっているテレビは、この街に一つだけ。そして、閉鎖空間に侵入すれば、既に捕らわれているもの同様、閉鎖空間からの脱出は不可能となる」

長門の言葉に、巽は「チッ」と小さく口を鳴らしながら、ドアノブに差し掛けた手を引き、室内に向き直った。

「僕が行きます。時間が惜しい、朝倉さん、そのテレビのところへ案内してください」

「一人で行かせるわけにいくかよ! 俺もついていくぜ」

「久慈川さんの座標を記憶してるのは、私のベアトリーチェだけよ。あなたたちが行ったって、ミイラ取りがミイラになるだけだわ」

と、挑発するかのように言い放つ朝倉。このあたりは、性格なのだろう。

「……なら、朝倉さんとともに、僕も行きます」

そう言いながら、白鐘は巽を振り返る。

「巽くん、朝比奈さんと長門さんのことは任せるよ」

「直斗! りせが危ねえって時に、黙って待っていられるかよ!」

「落ち着いてください!」

……叫んだのは、みくるだった。
朝倉、白鐘、巽、長門。四人の視線がみくるに集中し、室内に一瞬、水を打ったような沈黙が訪れる。
みくるは……自分の頭の中に浮かび上がった、その『意識』を伝える。みくるにはわかる、自分のペルソナにしかない能力。

「へ……閉鎖空間の中で、これから起きることは、カミルラが察知することができます。久慈川さんは……閉鎖空間の中の、駅前の公園に向かうはずです。すぐ近くに、強力な、シャドウのようなもの……『悪魔』がいる……でも、悪魔はまだ、久慈川さんを見つけられません……」

視界の中に、灰色の世界を捉えながら、みくるは言葉を紡ぐ。
みくるのペルソナの目にしか見えない、その光景は―――まさしく、これから発生する出来事。

「察知できるって……未来予知ってことかよ?」

「は、はい、そうです……それに、もう一つ……これは、誰なんだろう……男の子と、古泉くん……それに、おかしな生き物が、悪魔に襲われてる……とても、狭い場所で」

「男の子と……おかしな生き物……! きっと、花村先輩とクマくんです」

「おいおい、ダブルでかよ……おい、朝倉さん……だっけ? やっぱり、俺も行くぜ。あんた一人じゃ、両方は助けられねえだろ」

巽が言うと、朝倉は、少し困ったように眉を顰めた。


「あなたに片方任せて、大丈夫かしら……」

「オイ! どういう意味だコラっ!?」

「―――いいわ。この際、仕方ないもの……有希、あの娘の件だけど、問題ないわね?」

不意に、頭を横に振りながら、朝倉が、長門に訊ねかける。それを受け、長門は一瞬、沈黙した後、

「問題ない。彼女は有能な端末」

と、短く答えた。みくるには、その言葉の意味がわからない。しかし、彼女たちの間で、何かしらの確認が済んだようだった。

「いいわ、巽くん。あなたにも来てもらう。ただし、私たちの用意した人員と一緒に、という条件付きよ」

朝倉の言葉に、巽は、頭上に疑問符を浮かべる。

「ま、あなたは特に、考えなくていいわ。言われたとおりに動いてくれるなら、それで」

「やっぱアンタ俺を馬鹿にしてんだろ!」

「巽くん、この場は彼女たちの判断に任せようよ。向こうの世界……閉鎖空間の中のことは、僕たちよりも彼女たちが詳しいんだ」

「そりゃ……まあ、そうか……? まあ、オマエが言うならいいけどよ……」

と、白鐘の提言に、あっという間に丸くさせられる巽。この二人の力関係が伺える。

「時間が惜しいわ。私たちはすぐに出るわよ。それと、朝比奈さんと通信するのは、恐らくあなたには無理だから。私たちの用意した、仲間を介してやりとりして」

朝倉の言葉に、黙って頷く巽。


「朝比奈さん」

「は、はい」

朝倉に真正面から視線を投げられ、一瞬、みくるは吃る。

「あなたは、この場所から、出来る限りで、私たちをナビゲートして。私のペルソナとあなたのペルソナなら、通信ができるはず」

「わ、分かりました」

「じゃ、有希。彼女の準備は?」

「もう終わった。ペルソナ能力の付与も、問題なく完了した。校門前に待機させてある」

「……相変わらずの仕事の速さね。じゃ、もしもの時は頼むわよ」

「わかった」

長門との会話を切り上げると、朝倉は、巽を連れ、部室を去っていった。みくるは、自分の中に芽生えた新たな力が、そこにあることを確認するかのように、手のひらから青い光を滲ませてみる。

「心配はいらない」

不意に、長門の声が、みくるに向けて発せられた。

「ペルソナは、盾。あなたを傷つけはしないし、あなたを超えもしない」

長門の言葉は、やはり、みくるに理解できる内容のものではなかった。しかし、不思議な心強さが感じられた。
ペルソナ。カミルラ。みくる以外には、不可能な役割。
みくるは、戦う者たちの道しるべになろうとしている。それこそが、みくるにとっての戦いなのだ―――。




………

夜が明け、朝がやってきて、太陽が天に登る。そんな当たり前の現象が、この閉鎖空間の中では、当たり前に起こってくれないのだから敵わない。
ともかく、俺たち―――花村、里中、天城の三名と、俺だ―――は、灰色の病院の病室で、順番に見張りを立てながら、仮眠を取り、簡単な食事を摂った。
花村の腕時計が狂っていなければ、俺たちが病院を出たのは、午前十時。それから、実に四時間もの間、俺たちはあてもなく、閉鎖空間の中を彷徨った。
そして―――現在、北校とは、駅を挟んで反対側に位置する、アーケード街のど真ん中で。俺たちは……アーケード街のど真ん中にいてはいけないフォルムの『悪魔』から、ひたすら逃げ回っていた。

「きゃああああっ!」

「うわわわわわっ!」

不意に、花村と里中の叫び声が右斜め後ろから聞こえ、俺は走りながらそちらを振り返る。俺と併走していたはずのふたりは、いつのまにか走るのをやめ、たった今まで駆け抜けてきた道を振り返り、逆走しようと体勢を立て直している。
何事かと首をひねった直後に、気づく。背後から俺たちに差し迫っていたはずの―――巨大なアレの姿がない。

「キョン、上、上―――!」

花村が、そう叫びながら、里中とともに駆け出す。上。……嫌な予感を覚えながら、俺は頭上を仰いだ、その視界に。アーケード街の天井をなぎ払いながら、こちらへと落下してくる、ご立派な体躯を持った御方の姿があった。

「やばい、回り込まれた!?」

すぐさま、前進するのをやめ、花村と里中が駆けていった方向へと向き直り、走り出す……が、一瞬遅い。

がっしゃーん。

轟音を立てながら地面のタイルを砕き、ご立派様を乗せた滑車が着地した。
下敷きは免れたが、弾き飛ばされたタイルの欠片と、悪魔から発せられる衝撃波が、俺の背中に襲いかかる。


「ぬわ――ッ!」

たまらず転倒する俺。受身の取り方など学んだことがない。ざらついたタイルの床に、顔面から落ちる。は、ハナが……前歯が……
顔中にほとばしる痛みをこらえ、体を起こしながら、背後を振り返り、敵の状況を確認する。
荒々しく着地した巨大なナニが、グルリと俺の方を向いたかと思うと……その先端に位置する、もはやアカンとしか言いようのない箇所についた口から、灼熱の炎を吐き出したではないか。炎が、俺の背中へと差し掛かる―――ヤバイ。

「くそ―――ケルベロスッ!」

困ったときはペルソナ様。背後の御仁ほどではないが、こちらもなかなかに巨大な体躯を持ったペルソナが、俺の体を背で持ち上げるように現れる。そして、そのまま俺を乗せ、疾風のようにアーケード街を駆け出した。
ご立派様の放った炎が俺の背に届くよりも一瞬早く、俺の体は安全圏へと運び出される。疾駆するケルベロス。その前方に、俺よりわずかに早く退却を始めていた、花村と里中の姿が。

「乗れ、里中っ!」

「うひゃっ!」

「ちょっ、俺は!?」

許せ、花村―――たまたま里中には手が届いたのだ。
十分にご立派様との距離をとった後、ケルベロスは振り返る。これ以上逃げても、また先回りされかねんからな。
敵の御仁は、周囲に炎をまき散らしながら、グワラグワラと音を立てつつ迫ってくる。どこかの店内に身を隠したのか、花村の姿はない。―――ちなみに天城は、最初にこのイチモツ様と対面した瞬間、顔を真っ赤にして逃げ去ってしまって以降、姿を見せていない。

「これ以上逃げててもしょーがないって、戦うよ!」

ケルベロスの背の上で、膝を立てながら、里中が言い放つ。しかし、敵の能力は炎。俺のペルソナであるケルベロスは、同じく炎使いだ。有効打を与えられるかどうかは怪しい。となれば―――残るは物理攻撃か。
策はある。俺のケルベロスなら、あいつのスピードについていける。

「で、あたしが叩くんだね?」

里中の言葉に、俺は無言で頷く。理解が早くて助かるぜ。できれば花村の協力も仰ぎたいが、ケルベロスが素早く移動できるのは、せいぜい人間ふたりを乗せた状態までだ。花村と里中を乗せる、という手もあるが、その場合俺が危ない。


「よっしゃ、行くよぉーッ!」

ついにはケルベロスの背に両足を付いて立ち上がり、里中が吠えた。迫り来る巨根に向かって、勇ましくファイティングポーズを取る。やってやろうじゃねえか。里中に釣られるように、俺の心中にも闘志が滾る。

「ケルベロス!」

コールとともに、ケルベロスがタイルの床を蹴り、跳躍する。炎を孕んだ魔羅の頭上を飛び越える……その途上で、里中がケルベロスの上から、牙を剥く。

「トモエ!」

里中の拳が黄金色に光輝き、縦一文字を描きながら、ビッグダディの先端へと振り下ろされる―――。

ゴオオ。

「なっ―――!?」

里中の一撃を迎えるように、ナニが天に向かってそそり立った。そして、その先端から、炎。炎は物理法則に従い、上へと流れる。

「里中、避けろッ!」

「きゃっ!」

思わず、里中の肩を掴み、引き戻す。攻撃は中断され、里中は、ケルベロスの背の上に尻餅をついた。直後に、ケルベロスの体を、下から炙る炎の渦。クソ、上はダメか―――。ドン、と重たい音を立て、ケルベロスがタイルの床を踏む。

「ちょ、ちょっと、キョンくん、今のは大丈夫なのっ!?」

「問題ない、ケルベロスは火に強いんだ」

「そ、そっか」と、俺の言葉をまるっと飲み込み、頷く里中。しかし、どこから攻撃を仕掛けようとしても、立ちはだかるは炎、炎、炎の壁。こうなったら―――多少危険でも、炎を無視するしかない。

俺は里中とともに、ケルベロスの背から、地面に降りる。
ケルベロスの耐性ならば、炎を無視して攻撃を仕掛けることができる。しかし、一気に勝負をつけなければ、奴さんとのパワー比べに突入して、最悪返り討ちだ。

「ちょっと、キミ、どうする気よ?」

「下がってろ、里中!」

敵も方向転換を済ませ、こちらに向かって、突撃の準備行動に入っている……今しかない。

「ケルベロス!」

大地を蹴り、ケルベロスが牙を剥きながら、巨大な竿へに襲いかかる。放たれる炎は、ケルベロスにとって敵ではない。炎の壁を突き破り、ケルベロスが、魔羅の中程へと牙を立てた!

「ペルソナァ――ーッ!」

全精神力をケルベロスの顎に集中させ、裏スジを食い破らんと、ただただ奥歯に力を込める。しかし、さすがに筋張っている……

「え……! ちょ、きょ、キョンくん!」

何故だか顔を真っ赤にした、里中の声が、俺にかけられる。しかし、構っている暇はない。ケルベロスがさらに深く、アレに食いつこうとした、その時―――。

ぐいん。

と言ったような音を立てんとする勢いで―――悪魔の竿の根元が、『伸びた』―――。

「なっ―――!?」

ブン。と、リーチの伸びた、その身体を振るう悪魔。その遠心力に負け、ケルベロスの顎が、悪魔の身体から離れる。
ガシャン。と、音を立て、アーケード街の店先に叩きつけられたケルベロスの全身に、傷が走り。その痛みが、俺へとフィードバックする。


「ぐっ!」

背中に刃物を突き刺されたかのような、痛烈な感覚。しかし、それだけでは収まらない―――敵は、打ち捨てられたケルベロスに向かって、己の先端を、ハンマーのように叩きつけ始めたのだ。

「うげあっ!」

全身に衝撃が走り、たまらず、俺は後方に向かって吹き飛ぶ。
それも、一度ではない。亀頭は二度、三度と、ケルベロスの体をすり潰さんばかりに、幾度も突進を重ねてくる!!

「キョンくん!」

里中が、ペルソナを召喚する……が、魔王の周囲では、依然変わりなく炎の壁が燃え続けている。攻撃を遮る手段が、ない。
度重なるピストン運動(やかましい)の果てに、俺の意識が飛びかける―――せめて、誰か……『飛び道具』でも撃てる奴は、いないのか―――


「叫べ―――『ウェルギリウス』!」


薄れ始めた意識の隅で。背後に、そんな声を聞いたような気がした。―――次の瞬間。

ドォォン。

爆発のような音とともに、俺の体にのしかかり続けていた強大な重量が、ふっと軽くなる。飛びかけた意識が、現実に戻される……
視界の中では、先程まで、ケルベロスに、終わりのなき突進運動を繰り返していたご立派様が、わずかに後方へ吹き飛んでいる。
今、攻撃を放ったのは、誰だ―――?

「ご無事で、なによりです」

……後方へと倒れかけた俺の背中を支えた、そいつが、いつも通りの緩い声で、そう囁いた。


「あとは任せてください」

―――バカ野郎。何を今更。
俺は最初から、お前に任せて置きたかったんだよ。

「ウェルギリウス!」

俺の周囲の空間を引き裂いて、前方へと、赤く輝く、小さな光の矢が突き抜けてゆく。
ズドドドドド。と、音を立てながら、無数の赤い矢に体を穿たれたご立派様が、身をよじり、苦痛に足掻く。その直後、炎の壁の火力が薄れる―――その瞬間を、見逃さないヤツがいた。

「ソニック―――パーンチ!」

声とともに現れたのは―――奇襲専用員、花村陽介。いつの間にやら、俺のケルベロスが叩きつけられた店の三階部分に潜んでいたそいつが、音速の鉄拳を、イチモツの先端へと叩きつける。悪魔の巨体が怯み、炎の壁が完全に途絶えた―――瞬間。


「クマァ―――ッ!」


ドヒュン。手応えの重い風切り音とともに、俺の背後からナニへと放たれた、古泉のものよりも大きな、一発の弾丸。見ると、それは、ミサイルのようだった。突如現れたミサイルは、ドシュウウ。と大きな音を立てながら、ひるんだ魔羅のもとへと届いた。声を上げながら、亀頭が、その先端に取り付けられた口をいっぱいに開き、再び炎を迸らせようとする。
しかし―――それを遮るように。


ご立派様の口に、ミサイルの先端がねじ込まれた。


「伏せるクマ―――!」


直後に、大爆発。爆風とともに、タイルのかけらか何かが俺の顎を蹴り上げていき、その一撃がトドメとなり、俺は意識を失った―――。




………

 ―――だから、クマくんの声に気がついて、呼びに行ってたんだって、ホントだよ?

 ―――嘘おっしゃい! カンっペキに逃げてたでしょーがッ!!

……眠りと覚醒の間で、何やら姦しい言い争いの声を聞き、俺の意識は、現実へと舞い戻った。
いつの間にか、俺は誰かの腕の中にいた。後頭部にはタオルのようなものが宛てがわれており、体制としては、俗に言う『ひざまくら』の形態である。俺は、気を失ってたのか―――ぼんやりとした意識の中、俺は自分の体を抱く人物の顔を見上げる。

「やあ、お目覚めですか?」

「……お前かよ」

いや、分かっちゃいたがね。俺はそもそも、ここで天城や里中に抱えられているほど、いい運勢のもとには生まれていないのさ。

「助けに来いというから参上したというのに、わがままなお方だ」

いつものように、肩をすくめ、両手の平を天に向けながら、古泉一樹は、小さく笑ってみせた。

「お、キョン。起きたのか」

声をかけられた方向を見ると、アーケード街の残骸である瓦礫の上に腰を下ろした、花村の姿があった。そして、その隣には―――

「やほ! キョンくん、きのうぶりクマね! あれ、一昨日だっけ?」

……クマだった。
いつかの夜と同じように、望遠レンズのように丸い瞳が、俺に向けられていた。がば。と、体を起こし、もう一度クマに向き直る。


「ん? どったの?」

「いや……今の今まで、お前と会ったことは、夢ではなかったのかと考えてた」

「……なんかヒドイ……」

俺の言葉に、クマはひどく落胆した様子で、眉をハの字にし、口をへの字に結んだ。だって仕方ないだろう。これまで、巨大なカマドウマだの、光の巨人だのとは出会ってきたが、正体不明のクマなどと出会ったことはなかったのだから。

「クマ、リセチャンとはぐれちゃって、困ってたところで、イツキと会ったクマよ。キョンくんのことを知ってるみたいだから、きっとワルイヤツじゃないと、クマの直感がピーンと来たクマね」

なるほど。コイツは古泉と一緒に行動してたってわけか。

「もう体はダイジョーブクマ?」

「ん? ああ……そういえば」

言われてみれば、俺の体は、つい先ほどあの情熱的なピストン運動(やかましい)を食らった割に、痛みや傷はなく、問題なく起き上がることができた。

「ちなみに、キョンくんを治してあげたのはクマです。えへへ。ホメてホメて」

「ああ、そりゃどうも、ありがとうな」

擦り寄るクマを適当にあしらいながら、

「こっちに来たのは、お前だけか」

と、古泉に訊ねる。

「朝比奈さんと朝倉さんには、現実世界で控えてもらっています。もしものことがあれば、彼女たちもこちらへやってくる可能性はありますが」


「そいつは頼もしいな。朝比奈さんはどうかわからんが、少なくとも朝倉は」

「朝比奈さんはとても優秀なペルソナ使いですよ? 彼女の協力を仰げれば、僕らの戦況はだいぶよくなるでしょう」

真面目なのか洒落なのかわからない笑顔で、古泉が言う。ところで、俺はどれくらい寝ていたんだ?

「二時間ほど、ですね。現実世界なら、そろそろ放課後です」

今となっては退屈な授業が恋しいね。肩をすくめながら、古泉合いの手を返す。

「里中、天城ー! キョンが目ぇ覚ましたぞー!」

「あ、オッケー。……とにかく、今度から逃げるのとかナシだからね!」

「うんうん」

先程まで戦火の中にあったとは思えない、平穏な空気を身にまといながら、二人の少女が、呼ばれるがままにこちらへ歩いてくる。

「では、作戦会議と行きますか」

「ああ―――」

古泉に誘われるがままに、焼け野原と化した、アーケード街の中央へと歩みを進める……
その、途中で。

「どうかなさいましたか?」

古泉が、急に静止した、俺に声をかける。
……俺の視線の先に、まるで、もともとそこにあったかのように、整然と立っている、奇妙な、片開きのドアがあった。

全体の色が青で統一されていて、まるでそのドア自体が、うっすらと光っているかのように見える。
このドアは……前に、見たことがある。あれはたしか、そう……三ヶ月前の、影時間の中で。

「どした、キョン?」

古泉に続いて、花村の声が聞こえた。そちらへ振り向こうかとも思ったが、俺の体は、そんな考えとは裏腹に、青いドアの立っている位置へと歩みを進め始める。
まるで、そのドアが、俺のことを呼んでいるような、そんな感覚。やがて、ドアの前までたどり着いた俺は、うっすらと光るそのドアノブに手を触れた―――



………

「ようこそ、ベルベットルームへ」

一瞬の光の後。以前にも聞いたことのある、嗄れた声が、俺を出迎えた。
……気づいたときには、俺はリムジンのような、狭っ苦しい空間の中にいた。目の前に、やはりどこかで見た覚えのある、大きな瞳が印象的な老人と……その脇の、どこかエキゾチックな風を纏った、整った顔立ちの、金髪の女性とが、感触の良さそうなソファに腰をあずけ、俺を見つめていた。

「お客人とお会いするのはこれが二度目になりますな……わたくし共のこと、覚えていらっしゃいますかな?」

老人は、含むような笑顔で、俺の顔を睨(ね)めまわしながら、喉の奥で煮えるような声でそう述べたあと

「念のため、改めて自己紹介をさせていただきます。私はこのベルベットルームの主、イゴールと申します」

と、やはり聞いた覚えのある名乗り文句で、自らの名を述べた。

「そして、彼女は」

「マーガレットとお呼び下さい」

うっすらと笑顔の張り付いた顔で、そう名乗る女性。こちらの女性には……見覚えがない。そう、たしか、以前に俺がこの老人に会った時は、もうすこし年の若い、プラチナブロンドを持った、ボブカットの少女が居たはずだ。


「記憶に留めておいていただけたようで、ありがたい」

イゴールと名乗った老人が、喉の奥だけを使って笑う。

「ベルベットルームは、ペルソナを使う者たちの道しるべにございます……どうやら、時を経て、あなたの持つ『コミュ』……絆の力が、あなた自身の戦う力へと変わりはじめたようですな」

コミュ。イゴールは、いつかと同じ言葉を口にする。そして、胸元から、何やらカードの束を取り出し、俺の前で広げて見せた。

「あなたの力となる『絆』が……私には見えます。既にあなたの力となった絆もあるようですな……どれ、改めて、覗いてみましょう」

イゴールは、広げたカードの束から、五枚のカードを選び、それを目の前のテーブルの上に、十字を描くように、伏せて並べた。そして、イゴールから見て、手前のカードをめくる。

「『法王』」

続けて、イゴールから見て、右側のカード。

「『月』」

さらに、今度は、左側のカード。

「『太陽』」

次は、奥のカード

「『女帝』」

四枚のカードを表にし、最後に、中央の、五枚目のカードをめくる。

「そして、『世界』のアルカナ……あなたからは、やはり、とても強力な絆の力を感じます。その絆の先にいるのは……とても強く、そして儚い者……まるで、生きる者の『業』を表したかのようだ」

勿体つけた、いやらしい語調。しかし、俺は不思議と、イゴールの言葉を不快には感じなかった。

「おや……どこか別の場所でも、あなた様を呼ぶ声がするようですな」

ふ。と、俺の背後へ、イゴールの視線が逸れる。それに吊られて振り返ると、俺の視界を、真っ白い光が埋め尽くした。

「私共は、あなたさまの旅のお共にございます……『絆』の力を糧に……いかなる時も、決して、ご自分の選択を見誤りませぬよう……」



………

最後に、意識の奥底で、イゴールの声が聞こえた。
そして、次に光が晴れたとき……俺は、あの焼け野原のアーケード街ではなく、見知った光景の中にいた。

「ここは……」

一瞬、人気がなく、しんとした印象のせいで、俺はそこがどこなのか、判断できなかった。しかし、少し周囲を見回せば、そこが俺にとって、とても身近な場所であることがわかる。

「ここは、あの店……だよな」

そこは、我々SOS団が、毎週土曜の昼に訪れる、喫茶店の中だった。……はて、俺は確か、古泉や花村たちとともにいたはずではなかっただろうか。
そう。そこで、俺はあの青い扉を見つけて……


「―――生きる者の『業』を表したかのよう、か。皮肉な言葉だな」


不意に。俺の死角から、声がした。声のした方向を振り返ると…‥そこに、どこかで見たことのある、奇妙な風貌の男の姿があった。
男は、他に誰も存在しない店内の一角、窓際の席に腰をかけ、やや斜に構えた視線で、俺の顔面を射抜いていた。金色の長髪を、オールバックにした男。俺はその男から、どこか、先ほど出会ったイゴールに似た雰囲気を感じた。


「そう睨むな。私はただ、お前と話をしに来たのだ」

男は、いつのまにかテーブルの上に置いてあったティーカップを手に取り、す。と、それに口をつけた。ティーカップから漂うコーヒーの匂いが、少し離れた場所にいる俺のところまで届く。
……何だ。今度は一体、何が現れたって言うんだ?カチリ。と音を立て、男はテーブルの上にティーカップを戻す。

「私の見立てに狂いはなかったようだ。お前は私の見込み通り、『キングフロスト』と『マーラ』を倒す程の力を見せた」

キングフロストとマーラ。どちらも聞いたことのない単語だ。男の言葉を、俺が理解しようと試みるよりも早く、男は次の言葉を紡ぐ。

「私はお前の力に興味がある。神なるものの絶対的意志へ立ち向かうことのできる、絶対的な再生の力。本来ならば、それはあらゆるニンゲンが持つべき、全てに平等な力だ。しかし、今、世界は中庸であることを見失い始めている。一部の強きものの支配のもとに、ニンゲンはニンゲンであることを見失い始めている」

男の言葉は、ただそこにある大気のように、淡々と、俺のいる空間に降り注ぎ続ける。

「私は常に、ニンゲンの営みを見続けてきた。当然、お前や、お前の知る者たちのことも。……お前は『鍵』だ。神に反旗を翻し、ニンゲンである証明を示し得る希望なのだ。……私もまた、お前の旅の共なのだ」

「鍵……?」

その単語を聞き、俺の中で、ある記憶が首をもたげる。あれは、三か月前、初めて影時間を訪れた時の事だ。階段を降りかけていた俺に、階上から掛けられた、男の声。

「あんたは……もしかして、あの時の?」

「覚えていてくれたようで、光栄だ」

男は笑い、ティーカップに口をつける。

「まだ話したい事はあるが、お前にはまだ、これから立ち向かわなくてはならないものが残ってる。『ベルフェゴール』に、『ゴモリー』、『リリス』に『ルキフグス』、そして『ベリアル』と『ベルゼブブ』……私の眷属たちだ。お前の健闘を祈ろう……『輝く者』よ」

俺が次に瞬きをした瞬間、男は元からそこに存在しなかったかのように、姿を消していた。後に残されたティーカップが、ゆらゆらと湯気を立てている。


「一体、なんだってんだ……」

誰にともなく、呟く。
何故、今更になって、あの時の男が現れたのだろうか。『鍵』―――俺のことをそう呼んだのは、長門、古泉、朝比奈さんに続いて、四人目になる。……それに、輝く者だって?

「……誰ッ!?」

と、再び死角から声をかけられ、俺は振り返った。視界に入ったのは……小刻みに体を震わせながら、ディナーナイフを握り締め、俺を睨みつける、小柄な体躯。俺は、その姿に、見覚えがあった。

「あ、あなたは……」

一昨日の晩、クマとともに、俺の前に現れた少女。そう、名前は……

「久慈川りせ……か」

「あなた……『キョンくん』……?」

……ええい、もう突っ込まんぞ、俺は。誰になんと呼ばれようと。ああ、もう突っ込まんとも。

カラン、カラン。

室内に、扉が軋む音と、ドアベルの音が転がり込んでくる。音がしたのは、入口の方だ……そちらに視線を振ると

「久慈川さん、おまたせ。誰も来なかった? ……あら」

「……お前も来てたのか」

現れたのは、我らがクラスの委員長、朝倉涼子だった。
……やれやれ。ようやく馴染んだ顔に会えて、ホッとしたやらそうでないやら。




………

「……ハルヒの反応が、こっちに?」

「そう」

俺が復唱すると、朝倉は、やれやれ。とでも言いたげに、右手の平を天井に向け、をすくめてみせた。なんだ、古泉ともども、俺のキャラでも奪おうってのか?

「朝比奈さんのペルソナの能力で、それがわかったのよ。ついでに、久慈川さんが絶体絶命だっていうこともね。それで、私が来たっていうわけ」

久慈川はついでかよ。俺と朝倉の視線を受け、久慈川は、とことん運が悪い。とでも言いたげに目を伏せ

「はぐれたちゃったクマを探してたら……あの女……『悪魔』に見つかっちゃったの」

「その悪魔は、どうしたんだ?」

俺が朝倉に訊ねると、朝倉は少しバツが悪そうに、こちらもまた目を伏せ

「……取り逃したわ」

「っていうより、返り討ちにあっちゃったんですけど……」

ボソッとこぼれた朝倉の言葉に、久慈川が言葉を被せる。返り討ち。ってのは、どういうことだ? 朝倉も久慈川も、特に怪我とかしてないじゃないか。

「こういうことよ」

溜息とともに、朝倉が左手をこちらに向ける。


「こりゃ……どういうことだ」

目の前の光景に、俺は一瞬、言葉を失う。朝倉の白く透き通っていた左手が、まるで石の表面のような鈍色を帯びている。ついでに、質感にもハリがない。

「見ての通り、石にされちゃったってわけ。これのおかげで、戦うのもままならないし、朝比奈さんとの通信もできなくなっちゃったしね」

戦うのはまだしも、通信が取れなくなったってのはどういうことだ?

「私のベアトリーチェは、左腕にナビの機能を持っているペルソナなの。アンテナをもぎ取られちゃったようなものっていえば分かりがいいかしら」

なるほど。俺はテーブルに両肘を突き、しばし頭を抱えた。イゴールの言っていた、どこかで俺を呼ぶ声、というのは、この二人からのSOSコールだったんだろうか。
しかし、よりによって、助けに駆けつけたのが俺では、二人共不安だろう。ついでに、二人を助けなきゃいけない状況となった俺の胸中にも、不安が実っている。

「しばらくは大丈夫よ、悪魔から離れることだけは必死になってやったから。私も久慈川さんも、ペルソナの気配を消しているし、見つかることはないはずよ」

多分ね。と、最後に付け加え、石となった左手で頭を抱える朝倉。ペルソナの気配? 何から何まで訊き返してばかりで悪いが、そりゃ一体どういうことだ?

「あなた、知らないの? ペルソナのオーラを遮断して、気配を消すのよ。……ねえ、それじゃあなた、今もペルソナのオーラをを垂れ流しにしているっていうこと?」

へ?
……一瞬の間の後。俺は、自分がやらかしてしまったかもしれないことの重大さに気づき、口を押さえた―――その、直後だった。

がっしゃーん。

「見つかった!?」

「あなたのせいでしょうが!」

立ち上がり、音のした方向へ視線をやる。音は、出入り口のガラス戸を吹き飛ばすようにして、室内に転がり込んできた。弾き飛ばされたドアベルが、天井にぶつかり、地面に落ち、カラカラと音を立てる。

現れたのは、女だった。ウェーブのかかった長い髪を携えた、俺の知る人間という生物よりも、いくらか巨大な体躯を持った女。
二頭の巨大な蛇を、体に絡みつかせたその姿は、まさに『悪魔』という表現が似合った。女の首と、蛇の頭が、室内をぐるぐると見回した後、俺たち三人に視線を合わせ、止まる。
女の目が、不気味に光る。

「あの目に見られちゃダメ……! 石にされる!」

久慈川が叫ぶとともに、俺たちは立ち上がり、その場から立ち退いた。間一髪、女の眼光から逃れた俺たちは、店内に散る。

「ペルソナ!」

先陣を切って声を発したのは、俺と朝倉の二人。現れた各々のペルソナが、炎と冷気を発生させ、女に攻撃を仕掛ける。
しかし。

キィン。

朝倉の攻撃が女に差し迫ったところで、女が、右の手を朝倉に、左の手を俺に向け、一瞬、強く目を見開いた。同時に、女の身体が半透明の壁に包まれる。ケルベロスの炎と、朝倉のペルソナの冷気が、その壁に食らいつく。相反する二つのエネルギーが、女の身体を包み込んだ……かのように見えた。
しかし、次の瞬間、ドシュウ。と音を立て、炎と冷気が霧散する。女の発生させた半透明の壁が、俺たちの攻撃をかき消したのだ。

「……やっぱりか」

朝倉が舌打ち混じりに呟く。

『ダメよ、魔法は通じない!』

と、不意に、俺の脳内に久慈川の声が響いた。いつの間にやら、久慈川は、背後に赤い女性型のペルソナを背負い、俺たちのバックアップに回っている。

「ヒミコは、あの悪魔の性質を視ることができるの……こいつに有効なのは……物理攻撃だけだよ!」

久慈川のペルソナは、どうやらナビタイプらしい。となると、戦闘には向いてない可能性が高いか。


「久慈川、厨房に隠れてろ! ……コイツはどうだ!」

ならば。と、俺は女に接近しながら、ダンテの羽ペンを振るう。しかし、ダンテの攻撃が女を捉えるより一瞬早く、女の視線が俺の方を向き、再びギラリと光る……まずい。

「見られたらダメだって言ってるでしょうッ」

「げふっ!」

俺の身体を蹴り飛ばしたのは、朝倉だった。いつぞやの長門の膝蹴りほどではないが、俺を吹き飛ばすには、十分すぎる威力を持った蹴り。同時に、ダンテの体も吹き飛び、女の眼光から、再び間一髪逃れる。しかし、俺を蹴り飛ばした朝倉は、俺と入れ替わるように、女の視界に入ってしまった。

「く……」

何かが急激に凍りついていくかのような音を立てて、朝倉の右足が鈍色の呪縛に侵される。そのまま、朝倉の体は地面に落ちた。

「朝倉!」

「私に構わないで、あなたは、やつの隙を狙って」

首を僅かにこちらに向け、そう言った後、朝倉は寝そべった体勢のまま、ペルソナを召喚する。

「ベアトリーチェ!」

本体同様、左腕と右足に疾患を抱えた、朝倉のペルソナが現れる―――その瞬間、室内の温度が、一気に冷えるのが感じられた。懐かしい感覚だ。朝倉を中心に、冷気が床を伝い、空間全体へと広がってゆく。ぴきぴき。と音を立てながら、凍りついてゆく店内。

「今度は、どうかしら」

右手を床につき、上半身を僅かに起こしながら、朝倉が言う。

「喰らいなさい……絶対零度(アブソリュート・ゼロ)!」

冷気と、朝倉の精神力とがひとつとなり、女悪魔へと向かってゆくのが感じられた。その直後。女悪魔の立つ地面から、巨大な氷の槍が突き出し、女を襲う。
かろうじて身をかわし、女悪魔は氷の槍の直撃を免れた。しかし、氷の槍は、続けざまに女に襲いかかる。
一本、二本、三本。ベアトリーチェの冷気に侵食された店内の床や壁は、もはや朝倉の支配下にあるようだった。いたるところから氷の槍が突き出し、女を追い詰める。朝倉の能力、前より攻撃的になってないか?
女悪魔はしぶとく回避を繰り返すが、次第に退路は無くなっていく。やがて、氷の槍は、女悪魔の体を幽閉するかのように、女悪魔の周囲を埋め尽くした。

「これで……終わりよ!」

最後の一撃を放とうと、朝倉が叫ぶ。女の足元から、最後の氷の槍を発生させようとした―――その、直前。

ばき。

硬い何かが砕けるような破壊音が、店内に響き渡った。女が、自分を囲う氷の槍を、砕いたのだ。砕かれた氷の槍の破片……その先端部分が、矢のように空中を走り、朝倉のペルソナの右肩に突き刺さる。

「ううっ!」

ペルソナへのダメージに反応し、床に寝そべった朝倉の右肩に、赤い血の染みが発生する。その瞬間、朝倉のペルソナのオーラが弱まり、店内の温度がわずかに上昇した。

「まずいよ、朝倉さんは動けない! 石化したまま、悪魔の攻撃を食らったら……!」

頭の中に響く声。久慈川の声だ。石化したまま攻撃されたら……どんなひどい有様になるかは、俺にも容易に想像できる。ひた、ひたと、朝倉の方へ歩み寄る女悪魔……凍りついた床の上だというのに、冷たくはないのだろうか。などと、現実逃避にも似た瑣末な思考が、俺の脳裏によぎる。

「ベアトリーチェ……絶対零度!」

右肩からの出血を、石化した左手で押さえながら、朝倉はなおもペルソナのオーラを強めた。再び、室内の温度が下がる……しかし、先ほどよりも、冷却の速度は弱い。女悪魔の足元から、先程よりも小ぶりな氷の槍が突き出す。しかし、女悪魔はそれを容易く回避し、片手で粉砕してみせた。
ニヤリ。と、女悪魔が口の端を上げる。

「くそ……ダンテ!」

女悪魔の攻撃の矛先を、朝倉から逸らさなければ。俺はダンテを召喚し、既に、手が届くほど、朝倉に接近していた女悪魔に、羽ペンを構え、斬りかかった。女悪魔は、ちらり。とこちらを見たあと―――


ガギ。

「なっ―――」

なんと、片手で、ダンテの攻撃を受け止めやがった。同時に、女の目が光る。

「危ない、離れて! あなたまで石にされたら、本当にどうしようもなくなっちゃうよ!」

久慈川の声がそう告げる。しかし、一瞬遅く、女悪魔から石化の眼光が放たれる。ぴきぴきぴき。と音を立てて石化したのは……

「―――」

女悪魔の表情がこわばるのが、透明な物質越しに見て取れた。蛇を巻きつけたその体が、足元から、鈍色を帯びてゆく。

「お前の自慢の眼光……跳ね返させてもらったぜ」

俺は、先ほど、ダンテの腕で拾い上げておいた、冷たい氷の塊を、床に投げ捨てる。
朝倉が発生させた、氷の槍の群れを、女悪魔が壊して回ったことで、店内には、ちょうど手のひらサイズの、氷のかけらがばらまかれていた。
そいつを、ちょっとした『鏡』代わりに使わせてもらったのだ。
とっさの思いつきだったんで成功するかは怪しかったが……どうやら何とかなったようだ。

「朝倉。お前、始めから、これを狙って、氷の槍を繰り出していたのか?」

床に倒れた朝倉に視線を送ると、朝倉は、小さく笑顔を作り、さて、どうかしらね。とでも言いたげに首を傾けた。―――女悪魔は、もはや胸のあたりまで石になっている。

「石になったお前の体の強度がどんなもんだか分からんから、全力でやらせてもらうぜ」

俺の体を、青い光が包む……視界の中に、一枚のペルソナカードが浮かんでいる。
刻まれているのは、『ⅩⅧ』のナンバー―――『月』のアルカナだ。我が手を取れ。と、頭の中に響く声に従い、俺は目の前のカードに手を伸ばし―――そのカードを手に取った。

聴き慣れた、カードが弾け飛ぶ音とともに、俺の体から、三体目のペルソナが放たれる。


「来い、『オオマガツヒ』!」


ドン。と、俺の視界の端から、前方に向けて、鉄拳が繰り出され、女悪魔の胸に打ち込まれる。さらに、もうひとつ。今度は反対の拳が、女の肩のあたりに。さらに、もう一発。続けて、もう一発。さらにさらに、もう一発……
拳が繰り出される間隔が、徐々に短くなっていき―――やがて、目にも留まらぬ速さの、拳の雨となる。……こういう時、何と言ったらいいのか―――俺は知ってる。


「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ」


俺の新たなペルソナ―――オオマガツヒの拳から伝わって来る感触で、女の身体が粉砕されていくのが分かった。俺は、振り返り、背後に立ったペルソナの姿を見る。
屈強な肉体、黒い肌、武将の兜を模したらしき頭部。なるほど、脳筋というやつだ。

「オラァッ!」

最後に一撃。オオマガツヒの握り拳が、顔面を捉え……女悪魔の体は、粉塵となり、やがて黒い瘴気へと変わっていった。



………

『あ、朝倉さん。聞こえますか? 朝比奈です』

聞こえてきた声に、俺は胸の内で、ほっとため息をついた。姿は見えないものの、馴染みのある声が、戦いに疲れた俺の精神に優しく染み込んでくる。

「聞こえてるわ。ごめんね、ちょっと予定外のことが起きて……でも、悪魔は倒したわ。それに、彼とも合流できたの」


『あ、キョンくん……ですよね?』

はい、あなたのキョンです。

『無事で良かった……何度か通信を取ろうとしたんですが、うまくいかなくて。突然、キョンくんがいなくなってしまったって、古泉くんから聞いたから。このままキョンくんがいなくなったら、どうしようって……』

朝比奈さんが胸をなで下ろす姿が頭に浮かぶ。古泉。そうだ、考えてみれば、俺はアーケード街で、あの青い扉を見つけて……ベルベットルームから出たときには、この喫茶店にいたのだから、古泉たちからどう見えたかは分からないが、とにかく、あいつらの前から、突然姿を消した形になるわけだ。

「古泉くんたちとは通信できたのね?」

『はい。古泉くんたちは、今、学校に向かっている途中です。近くに悪魔の反応とかはありません、今のところ、安全です』

学校。その言葉で、俺はふと思い出す。そうだ、俺はさっき、あの女悪魔と戦う前から、ずっと気になっていたことがあったのを、突然の敵襲に見舞われて失念していた。

「……朝倉。ハルヒがこちらに来ているってことは、この空間のどこかにいるかもしれないって事なんだよな?」

俺が訊ねると、朝倉は少し考えように首を傾げた後、

「可能性はあるわね。でも、朝比奈さんの能力でも、涼宮さんの反応の座標を特定することはできないの。彼女の肉体は今も現実世界にある。こっちに来ているのは、あくまで精神だけ。だから、私たちみたいに完全な状態ではないはずだけど……どこでどのような状態で存在しているのか、正確なところはわからないわ」

「じゃあ、ハルヒが悪魔どもに襲われるって線は」

「微妙ね。実体がないということは、少なくても、物理的な干渉を受けることはないとも考えられるわ」

しかし、相手は悪魔だ。どんな方法で、どんな形で人を攻撃してくるか、見当もつかない。

「確かにね。でも、逆を言えば。私たちが涼宮さんの状態や、居場所を掴むことができれば……」

護る事もできる、ってか。


『古泉くんも、同じことを言っていました……それで、学校へ行くって』

朝比奈さんが口を挟む。
この街で、ハルヒがいそうな場所と言って、まず最初に浮かぶのは、やはり学校だろう。

「どうする? 私たちは別をあたってみる?」

と、笑う朝倉。
冗談はよしてくれ。俺は一刻も早く古泉たちと合流したい。

「私も、みんなと合流したほうがいいと思う……今のままじゃ、戦力的に限界だし」

ここまで、黙って俺たちの話を聞いていた久慈川が、低いトーンで言う。
耳が痛い言葉だが、同意する。いつ、またさっきのような悪魔が現れるかわからないんだからな。

「じゃ、決まりね。ここから学校までは……一時間もあれば歩けるかしら」

朝倉の言葉に、俺は花村から渡された、予備の腕時計を見る。
時刻は午後六時。なんだかんだで、そろそろ二日目の終盤に差し掛かってきたのか。

『それじゃ、古泉くんたちに、そう伝えます。でもそうすると、またしばらく、キョンくんたちと通信できるかどうかわからないんですが……』

「大丈夫、私、ナビは得意だから」

久慈川が言う。今度は、いくらか声のトーンが高い。


「さっきは一人だったし……精神力を使いすぎてたから、悪魔に見つかったけど、今度は、もう大丈夫。近く敵が出たら、すぐわかると思う」

と、俺と朝倉の顔を見た後、

「でも、もしものときは……守ってね?」

一千万ジンバブエドルの笑顔。
思わず、ドキリとしたね。
こういった表情や仕草は、さすが本職である。


なんてったってアイドル。







つづく

ほいや! 前編はここまでクマー
今日はコピペ部分が多かったけど、後編はゴールデン要素満載になるから、楽しみにしておくがよいクマ。
明日も同じくらいの時間から投下し始めるクマよ!
ほいでは御免。

クマクマ。
レスがいっぱいでクマうれしい。
それでは後編を投下しちゃうクマよー




………

「キョンのやつ、どこ行っちまったんだろうな」

階段を上りながら、ぼそ。と、花村が呟いた。一歩前を歩いていた古泉は、肩ごしに花村を振り返る。そこには、どこかそわそわと体を動かしながら、チューインソウルを噛む花村の姿がある。
花村の発言は、先ほど、古泉たちの目の前で、煙のように姿を消してしまった、彼のことを心配しての物だろうか。それについては、古泉も心配に思っていた。彼は、事あるごとに姿を消すことについては、定評がある。

「彼なら大丈夫でしょう。普段の彼なら少々心配ですが、今はペルソナがあります」

「まーな。運悪く、悪魔にでも当たってないといいけど」

「キョンくんは、奇襲センモンのヨースケと違って、強いからきっとだいじょーぶクマよ」

と、花村のさらに後ろの、奇妙奇天烈な姿をしたクマが口を挟む。

「うるせーよクマ。それに、あいつ、食料も何も持たずに消えちまっただろ? どこ行ったか知らねーけど、早いとこ合流したいよな」

古泉たちは、彼が姿を消した後、ミーティングの末、行き先を北高に定めて、移動する事にした。古泉は、閉鎖空間に入る前に、朝倉と、もしもの場合の合流地点を、北高に定めていた。そして、みくるがペルソナを取り戻した場合の、ナビゲートの拠点としても、やはり北高を指定するように約束したのだ。
この街の中で、古泉らにとっての道しるべとなる場所として、北高はうってつけだ。
そう言った訳で、学校を目指し、歩き始めてから三十分ほどが経っていた。今、古泉たちは、諸用があり、駅前のデパートに立ち寄っていた。その諸用とは、

「それにしても、ヨースケはおトイレ大好きクマね」

「好きじゃねーよ! 生理現象なんだからしゃーねーだろ!」

……と、言うわけだ。
このデパートは、階段の踊り場にトイレがあり、三階が紳士用、二階が女性用と分かれている。そのため、しばし、里中と天城の二人とは別行動を取っていた。


「おっ、トイレここか。んじゃ、悪いけどちょっと待っててくれ」

目的地に到着し、花村が一言を残し、狭い空間へと入ってゆく。

「ちゃんと最後まで振るクマよー」

「だーってろ!」

年季の入ったコンビだ。と、古泉は思い、苦笑する。古泉は、閉鎖空間に入ってから、アーケード街に辿り着くまで、クマと行動を共にしていたので、些細だが、クマという生き物の人物像を把握している。見た目も中身も、これまでに出会った事のない、新鮮なキャラだった。

「イツキは行かんでよいクマ?」

「ええ、大丈夫です。クマさんは?」

「クマはおトイレ行かないの。アイドルだから」

そう言って、ニコニコと笑うクマ。アイドルだから、というよりも、どこぞのネコ型ロボットがトイレに行かないのと、同じメカニズムではないだろうか。見た目も声色も似ている。

「ヨースケのおトイレにかける情熱はすごいクマよ。この間も―――」

「ぎゃああああっ!」

突如、クマの言葉を遮り、叫び声が聞こえた。トイレの中から発せられたそれは、花村の声だ。

「何事クマ―――もしかして、チカン!?」

丸い目をさらに丸くし、トイレの方へと視線を投げるクマ。一瞬遅れて、古泉も、視線をトイレの入口へ向ける。程なくして、再び、花村の声が聞こえてくる。

「あ、あく、あく、悪魔、悪魔―――!」

悪魔が出たのだ。
運が悪い。と、古泉は思った。ちょうど、女性陣と離ればなれになっているという時に。

「よよよ、ヨースケ! 今行くクマ!」

トイレのドアを目指して、駆け出す、古泉とクマ。ドアを開け放つと、個室のトイレの向かい側の壁に背を預け、床に尻餅をついた、花村の姿があった。指先で、目の前の個室を示している。

「花村さん!」

声を掛けながら、花村へと駆け寄り、指で示された先を見ると……洋式の便器の上に腰をかけた、人型の悪魔がいた。紫がかった、暗い色の肌と、頭部から伸びた、二本の角が印象的だ。
悪魔は、ニヤニヤと口の端を歪めながら、膝の上に頬杖をつき、驚いた花村を、楽しむような目で見つめている。

「ウェルギリウス!」

すぐさま、古泉はペルソナを召喚する。しかし、古泉のペルソナは、攻撃を発するまでに、わずかだが時間が必要だ。その短い隙を突くかのように、悪魔が、右手をこちらへと向けて差し出した。直後、その右手から、白く光る何かが放たれる。亀裂のように、不規則に折れ曲がった光の帯―――。

「えっ、ちょっ、電撃はヤバ―――」

ペルソナを召喚する事すら忘れ、花村が声を上げる。よりによって、電撃か。と、古泉は歯噛みした。古泉のペルソナは、電撃には強くないのだ。
バチバチと音を立てながら、あたりの空間を電流が迸る。

「くっ!」

「うげっ!」

古泉と花村、二人分の声が、狭苦しい空間に響く。電流の衝撃が、体中を打つ。後にも残存する、宿命的な痺れが、古泉の体を襲った。

「ヨースケ、イツキ! むむ……こうなったら、クマにおまかせクマ!」

と、電撃を免れたらしいクマが、その体から、青白い光を発する。同時に現れる、クマとよく似た、丸っこいビジョン。


「ゴー! 『キントキドウジ』!」

クマのペルソナが、どこからか、体躯の半分ほどもある、トマホークミサイルを取り出し、それを頭上に掲げる。

「ちょ、この狭い中でそんなもん撃てるか、馬鹿!」

「ぬ? ……たっ、確かにそうクマ!」

目を白黒させながら、ペルソナを解除するクマ。危ないところだった。トイレと爆破心中というのは、古泉としても免れたい死に方だ。
そうこうしている間に、古泉の攻撃の準備は整った。体に痺れは残っているが、矢を放つくらいなら可能だ。

「撃ちます!」

掛け声と共に、古泉のペルソナの手の中から、赤い光の矢が放たれ、悪魔の体表を襲う。それを受け、悪魔はわずかに身を捩った。ダメージは入っているようだ。しかし、浅い。

「くそっ、行けジライヤ!」

ようやく、ダウン状態から復帰した花村が、変身ヒーローを思わせる姿のペルソナを召喚し、その握り拳で、悪魔の体に殴りかかった。悪魔は、花村のペルソナの接近を目視すると、頬杖をついていた手を持ち上げ、迫り来る拳に向けて突き出した。
花村の放った拳と、悪魔の手とがぶつかり合う。その直後、再び、悪魔の手から、電流が走った。接触している花村のペルソナの拳を伝って、再び、花村を、電撃が襲う。

「うぎゃーっ!」

感電しながら、声を上げる花村。それを見た悪魔が、ニヤ。と、醜く笑う。悪魔は、体表から電流を発生させる能力を持っているらしい。肉弾戦を挑むのは無謀だ。となれば、あとは、古泉の矢しか、攻撃手段はない。
一度退き、里中たちと合流するしかない。悪魔が、再び電流を走らせる前に、撤退しようと試みる古泉。しかし―――先の電撃のせいで、体がうまく動かない。おそらく、花村も同じなのだろう。

「クマさん、里中さんと天城さんを、呼んで来てください!」

古泉の言葉を受け、クマがあたふたと体をバタつかせながら、トイレの出口へと駆ける。それとほぼ同時に、バリバリと、チープな音を立てながら、再び、悪魔が、古泉たちに向けて、電流を放った。
来るであろうダメージを予測し、古泉が目を閉じた―――その瞬間。



「おうおう、随分賑やかじゃねーか」


と、聞き覚えのない声が、古泉の鼓膜に届いた。声は、トイレの出入口から発せられている。一体、誰が現れたのかと、古泉が目を開けると……悪魔と古泉たちとの間に、黒く、岩石のような肌を持った、巨大な、人型の何かが立っていた。
直後に、悪魔が電流を放つ音が、辺りに響き渡る―――しかし、電流は、古泉たちの体を打ち付けることはなく、古泉の目の前の巨体に弾かれ、辺りへと飛び散っていった。

「へっ、ヌルイ電撃だぜ」

再び聞こえた声に、古泉はようやく、出口へと視線を向ける―――そこに立っていたのは。

「かっ―――カンジっ!?」

古泉にとっては、見覚えのないその男の名を、クマが叫ぶ。カンジと呼ばれた、学ランを羽織った男は、目の前のクマの体を押しのけて、のっしのっしと、古泉たちに歩み寄ってくる。
そして、

「行け、『タケミカヅチ』!」

と、一言叫んだ。それに呼応し、古泉の眼前の巨体が、動く。それが、カンジと呼ばれた男のペルソナである、ということに、古泉はようやく気づいた。
カンジのペルソナは、右手の中に、稲妻によく似た形の武器を携えていた。その武器が、天井近くまで振りかぶられ、次の瞬間、悪魔に向けて振り下ろされる。ブン。と、風を切る、重い音がした。
悪魔が、花村の拳に向けてそうしたように、手を掲げ、迫り来る武器を受け止める。バチバチと音を立て、電流がカンジのペルソナへと流れ込む。しかし、ペルソナがダメージを受けている気配はない。

「ぶっ潰れやがれっ!」

怒声と共に、カンジのペルソナが、腕に更に力を込めた。攻撃を受け止めていた悪魔の手が、徐々に圧されて行く。やがて、悪魔の腕は、力尽きたかのように、抵抗することをやめた。稲妻型の武器が、悪魔の体へと食い込み、悪魔が声を上げる。

「トドメだ!」

三度、カンジが叫ぶと、今度はカンジのペルソナの方が、悪魔のそれよりも巨大な音を立てながら、電流を発した。先ほどとは真逆に、接触している部分から、悪魔の方へと流れてゆく電流。悪魔の体表に食い込んだ柄モノを伝い、電流は、悪魔の体内にも流されていったようだ。

やがて、悪魔はブスブスと音を立てながら、体の端から順に、黒い煙へと変わり始めた。

「完二、オマエ、直斗と一緒に、西宮に行ったはずじゃ……」

残存した電流に、まだ体をヒクつかせながら、花村が言った。すると、完二は、人差し指で鼻の下を擦り、

「ちょっと事情が変わったんすよ。センパイたちが、ここで悪魔に襲われるって分かってたんで。でも、駆けつけて正解でしたね。フルボッコじゃないっすか」

面目ない。と、古泉は苦笑する。どうやら、この完二という男は、花村たちの仲間らしい。脱色された髪と、体格から、年齢がわかりにくいが、花村を先輩と呼ぶからには、古泉と同じか、それよりも年下なのだろう。

「助かりました。あなたのお陰で、トイレと心中は免れられました」

と、古泉の言葉に、完二はキョトンとした表情を浮かべ、

「あー、なんだ、そこのあんたは、朝倉さんの仲間なんだよな?」

一瞬考えた後、そう口にした。

「ええ、古泉一樹という者です」

「俺は巽完二。まあ、そこの花村センパイと、こっちの、クマ公の仲間で……朝倉さんに言われて、あんたらを助けに来たんだよ」

と、頬を掻きながら、巽は言う。先ほどの花村の発言と合わせて鑑みるに、どうやら現実の方でも、八十稲羽組とSOS団が接触したらしい。

「カンジ、どーしてクマたちが襲われるってわかったクマ?」

不思議そうに目を丸めながら、クマが訊ねると、巽は少し考えるような素振りを見せ、

「あー、それはな……俺よりも、里中先輩たちの方に行ってるやつに、聞いたほうがいいぜ」

里中たちの方へ言った者? 古泉は、珍しく疑問符を浮かべる。
と、その直後、

「花村っ、クマ君、大丈夫っ!?」

と、開け放たれた出入り口の向こうから、里中の声がした。見ると、里中と天城、そして、もう一人、古泉にも覚えのある―――しかし、その人物が、今ここにいる事は意外な―――女性の姿があった。

「問題ないっすよ、センパイ方。俺がヤキ入れてやりましたから」

女性陣を振り返り、腰に手を当て、笑みを浮かべる巽。里中は、壁を背に座り込んだ花村と、膝をついた古泉とを見た後、

「そっか、よかった。こっちも大変だったよ、いきなり、ラクダに乗った女が出てきてさ」

どうやら、女性陣は女性陣で、戦いを繰り広げていたらしい。里中は、そこまで話すと、チラ、と傍らに立つ女性に視線を送り、

「この人が来てくれなかったら、マジでやばかったよ」

すると、示された女性は、

「みなさんが無事で何よりです。駆け付けた甲斐がありました」

と、微笑みと共に言い、その後、気がついたように、花村とクマを見て、

「申し遅れました。私は、喜緑江美里と申します」

ゆったりとした口調でそう述べ、丁寧に頭を下げた。



………

閉鎖空間内との通信は、何の前触れもなく、突然途切れた。みくるは、何が起こったのかわからず、一瞬言葉を失ってしまう。

「どうかしたんですか?」

白鐘の言葉で、はっと我に返り、すぐに、ペルソナへ意識を集中させ、もう一度、閉鎖空間内と通信を試みる。しかし……できない。通信はおろか、いくらペルソナの神経を研ぎ澄ませても、閉鎖空間の感知すらできないのだ。みくるの精神力が尽きてしまったわけでもない。

「閉鎖空間が……見つからないんです」

思わず、声が、涙で滲む。みくるの言葉を耳にした白鐘は、怪訝そうに眉を顰めた。まさか、みくるのペルソナが、力を失ってしまったというのだろうか。突然の事態に、みくるの頭がパニック状態に陥りかけた時。

「たった今、閉鎖空間の消滅を確認した」

言葉を発したのは、長門だった。みくる、白鐘と、長門の間に、数秒程の沈黙が舞い降りる。やがて、みくるは気づく。長門の言葉の意味が、頭に染み込む。みくるの意識の先に、つい先程まで存在した閉鎖空間の手応えが、跡形もなく消滅しているのだ。
つまり……どういうことか? みくるは、考える。みくるの意識が確かなら、たった今まで、閉鎖空間内では、『彼』と、喜緑江美里。そして、里中千枝という少女とが、悪魔との戦いを繰り広げていたはずだった。

「消滅した……? つまり、先輩たちは、解放されたんですか?」

白鐘が、長門を見ながら言う。長門は、言葉を発さずに、小さく頷いてみせた。

「閉鎖空間内に逗留していた者たちは、全員、この世界に帰還した。ただし、『悪魔』はまだ消滅していない」

「悪魔は、消滅していない……? 朝比奈さん、先程まで、里中先輩たちをナビゲートしていましたよね? 何があったか、わかりませんか?」

「は、いえ……あの、確か、キョンくんたちは……悪魔を倒したと、思います。でも、悪魔の反応が消えた直後に、突然閉鎖空間が消滅して……」

「まさか……悪魔が、こちらの世界に?」

「! ちょ、ちょっと待ってください」

白鐘の言葉を聴き、みくるは再度、ペルソナを召喚する。そして、先程まで別次元へと向けていたカミルラの神経を、みくる達のいる、この世界へと移動させ、再び意識を集中する。

反応は―――探すまでもなく、すぐ近くで見つかった。

「こ、これは……白鐘さんの言うとおり、悪魔が、こちらの世界に……それに、キョンくんたちもいます。場所は―――校庭です! でも、もっと近くに、悪魔が……これは、中庭です。中庭に、悪魔が!」

「やはり……すぐに向かいましょう。僕らが何とかするしかない……朝比奈さん、ナビをお願いできますか?」

「は、はい」

みくるの言葉を聴き、白鐘は目つきを鋭くし、椅子から立ち上がり、ドアへと向かって行く。

「待って」

それを呼び止めたのは、長門だった。ホロスコープの瞳で、白鐘をちらり、と見た後、窓辺の椅子から腰を上げ、いつもよりもやや早歩きで、白鐘に近づいた。

「私も行く」

「しかし、長門さんはペルソナを使えないのでは……」

「たった今、ダウンロードが完了した。それに、あなたは、こちら側の世界で、ペルソナを召喚した経験はないはず。一人では危険。だから、私も行く」

ダウンロード。ペルソナ能力とは、そんなに手軽なものなのだろうか。と、みくるは思った。それに答えるように、長門の視線が、みくるに移される。

「ペルソナ能力の解析が、先ほど完了した。その結果、精神の形を持たない私には、ペルソナ能力は付与できないと判明した。よって、情報統合思念体は、解析したペルソナの情報を元に、ビジョンを伴った擬似ペルソナプログラムを作成し、私に付与した」

擬似ペルソナプログラム。また、みくるの理解が及びそうにない単語が飛び出した。

「擬似ペルソナプログラムは、直接的な攻撃手段は持たない。しかし、他のペルソナや悪魔に対して、情報操作に近い処置を行うことが可能」

「……わかりました、共に行きましょう。朝比奈さん、中庭へ案内してください」

白鐘の言葉に、みくるは頷き、椅子から腰を上げる。長門が先陣を切り、三人は、夜の校内を歩き出した。時刻は、既に午後八時を回っている。明かりの落とされた廊下を、足を取られぬよう注意しながら進み、渡り廊下を渡る。階段を二階分降りれば、中庭へと出られる。


人のいない、中庭の大地。その中心に、赤いボロ切れに身をまとった、人型の何者かが立っている。暗がりの中を、目を細めてよく見ると、それは肉を持たない、骨だけで構成された体を持った悪魔だった。

「ネビロス」

と、短く、長門が呟く。それが、この悪魔の名前なのだろうか。ネビロスは、現れたみくるたちの姿を、わずかに光る双眸で見受けると、右手にぶら下げた、、炎の灯された、ランプのようなものを、くい。と持ち上げた。
同時に、低い弦楽器を出鱈目に鳴らしたかのような、奇妙な音が、中庭の大気に響き渡る。すると、中庭のあちらこちらの地面に、黒い渦のようなものが発生したのが、みくるの目に辛うじて映った。
みくるは、ペルソナを召喚し、辺りに起きている現象の正体を探る。

「これは……あ、悪魔が、たくさん……地面から、出てきてます」

黒い渦の中から現れたのは―――様々な姿を持った、大小を問わぬ、悪魔たちの群れだった。人型のもの、鳥のような姿のもの、獣型のもの、数にして、およそ十数体。それらは、生まれたばかりの赤子のように、辺りを見回した後、やがて、本能に従うかのように、みくるたちに迫ってきた。

「こ、こんなにいっぱい……」

「大丈夫です。数を減らすのは、僕の得意分野ですから」

みくるが思わずこぼした声に、白鐘が、ペルソナカードを取り出しながら言葉をかける。

「行くよ……『スクナヒコナ』!」

青白い光とともに、小柄な白鐘の体躯から飛び出したのは、更に小柄な、剣を携えたペルソナだった。背中についた、昆虫の羽のような翼を煌めかせながら、白鐘のペルソナは、蠢く悪魔の群れの中に、真っ直ぐ突っ込んでいった。
その手の中の剣が振るわれると、群れの先頭を切っていた数体の悪魔の体が切り刻まれ、すぐさま霧散してゆく。素早く、確実な攻撃だ。

「すごい、どんどん倒せてます……あっ、でも、また次が……」

己のペルソナの神経が、また新たに現れようとしている悪魔たちの気配を察知し、みくるはそれを言葉にする。中庭の大地を埋め尽くさんばかりの勢いで、数を増やしてゆく悪魔の群れ。白鐘が剣を振るう事をやめれば、本当に中庭が、悪魔で溢れてしまいそうだ。

「一気に行きます……二人共、少し下がっていてください」

ペルソナを傍らまで引き戻し、白鐘は、長門とみくるにそう告げた。そして、帽子の鍔を直しながら、再び悪魔の群れに向き直る。その体を包む青い光が一層強くなると同時に、白鐘のペルソナは、高くへと飛び上がり、その直後、中庭中を乱れ舞った。
暗い空間に、光の帯を残しながら、悪魔たちの首を次々と斬り捨てて行く、白鐘のペルソナ。やがて、群れの半数ほどが霧散し、その向こうに、ネビロスの姿が見えた。その一筋の道を、白鐘のペルソナは、剣を構え直しながら突き進んでゆく。

「喰らえ!」

一閃。白鐘の剣が、ネビロスの痩せたシルエットと重なり合う―――しかし、剣が、ネビロスを傷つける事はなかった。接触の瞬間、ネビロスの体を、薄い光の膜のようなものが覆ったのだ。

「これは……防壁?」

白鐘が眉を顰め、呟く。何度となく力を込めているようだが、白鐘の剣は、その膜によって止められてしまい、それ以上食い入ることができなかった。歯噛みしながら、ペルソナを引き戻す白鐘。

「えっと……あの防壁は、物理攻撃を遮断する……ものだと思います」

みくるは、ペルソナを通じて、頭の中に浮かび上がってきた情報を、そのまま読み上げる。

「まずいな……僕のペルソナは、剣の攻撃以外は……」

表情を曇らせる白鐘。そうこうしている内に、再び悪魔の群れが、ネビロスの体を覆い隠す。三度、白鐘のペルソナが剣を振るう―――しかし、これでは堂々巡りだ。

「く……」

やがて、白鐘の立ち姿が、徐々に弱々しくなってゆく。現実でペルソナを召喚し慣れていないせいで、精神力が消耗しているのだ。
このままではまずい―――そこまで考えたあと、みくるはようやく、長門の存在を思い出す。

「な、長門さ―――」

「―――」

この状況を、何とかできはしないのか。と、みくるが視線を向けると……長門は、音にはならないほどの小声で、何かを呟いていた。呪文を唱えているようにも見える。


「く……スクナ―――」

「待って」

両足で地面に食らいつき、ペルソナを繰り出そうとする白鐘を、長門の声が制した。

「擬似ペルソナ召喚プログラム、起動」

ようやく、長門が、みくるにも理解できる言葉を発した。

「召喚、『ヴェルトロ』」

長門の体からは、みくるや白鐘がペルソナを呼ぶ時のように、青い光が発せられることはなかった。長門のペルソナは、音も気配も発さずに、静かに現れた。
長門の髪の色に似た、うっすらと白んだグレーの体毛に包まれた、犬。大きさは、ちょうど、三か月前に会ったペルソナ使い、コロマルの体躯くらいだろうか。ペルソナとしては、白鐘のそれに負けないくらい、小柄なビジョンだった。
長門は、そのビジョンが問題なく現れたことを確認するように、一つ頷くと、白鐘に向け、

「屈んで」

と、短く告げた。

「屈む? 一体、何を―――」

「いいから、屈んで」

疑問符を頭上に浮かべていた白鐘だったが、やがて、長門の言葉のとおり、体を折り、その場にわずかに屈んでみせた。もともと小柄な白鐘が身を竦めると、その姿は、みくるには、まるで少女のようにも見えた。長門は、屈んだ白鐘の元へと、自身のペルソナを走らせた。そして、

ぺろっ

「わっ」

白鐘が、わずかに声を上げた。長門のペルソナが、白鐘の顔へと首を伸ばしたかと思うと、次の瞬間、真っ白な舌を出し、その頬をちょん、と舐めたのだ。

「完了した」

直後に、長門がそう呟く。

「今のは―――」

「戦って」

長門のその言葉に、白鐘は、はっと、悪魔の群れに視線を向ける。一連のやり取りをしている間に、中庭は悪魔の群れで満たされつつあった。

「す、スクナヒコナ!」

一度解除していたペルソナを、再び放つ白鐘。その小柄なビジョンが、再び空中を飛び回る。悪魔の群れの先頭集団が、その剣閃に切り裂かれ、空へと消えてゆく。と、その時、

「これは……スクナヒコナの、剣が……」

白鐘がそう呟いた。同時に、みくるのペルソナの感覚の中に、先程まではなかった、新たな情報が浮かび上がってくる。

「え、なに、これ……白鐘さんのペルソナの、攻撃が……なんでしょう、物理でも、魔法でもなくて……」

「物理でも、魔法でもない? ……もしかして、長門さん」

みくると白鐘が、同時に長門を見つめる。長門は、傍らに、犬の姿のペルソナを携えながら、二人の顔を順番に見つめ、やがて、

「白鐘直斗のペルソナに、攻撃万能化ナノマシンを付着させた。一時的なものに過ぎないが―――あれらを片付けるくらいなら、十分」

そう言い放った。
その言葉を受けた白鐘は、悪魔の群れを振り返り、ペルソナのオーラを一層強める。白鐘のペルソナが、手の中の剣を一直線、前に突き出しながら、悪魔の群れへと突進した。


「突き破れ―――スクナヒコナ!」

白鐘のペルソナを、わずかに白みがかった光が包み込んでいる。その光に触れた悪魔が、片っ端から気体へと変わり、夜の中庭の大気に混じってゆく。やがて、白鐘の剣は、悪魔の群れを文字通り突き破り、その先に立つネビロスのもとへとたどり着いた。
一閃。白鐘の剣は、ネビロスの体を覆う光を突き破り、その灰色がかった体を、横一文字に切り裂いた。ネビロスの手の中のランプが砕け散り、炎が火の粉となって、あたりに散らばった。上半身と下半身を分けられたネビロスは、再び、あの不協和音的念動音を立てながら、その場に崩れ、徐々に霧散してゆく。
同時に、悪魔の群れもまた、召喚主の消滅に伴い、姿を消していったようだ。

「……処理、完了」

それを見届け、ペルソナを解除しながら、呟く白鐘。
―――と、その体が、がく。と、大地に崩れ落ちる。

「だっ、大丈夫ですか、白鐘さん!」

みくるは、白鐘のもとへ駆け寄り、その体を助け起こす。見た目通り、その身体は軽かった。

「大丈夫です……すこし、精神力を使いすぎてしまった……」

「無理はしないほうがいい」

と、言う長門の言葉とともに、白鐘の瞼が落ちる。

「白鐘直斗の精神の回復を促すため、眠らせた」

みくるの腕の中で、寝息を立て始めた白鐘を見つめ、長門が呟くほどの音量で告げる。

「私たちも、校庭へ向かうべき」

と、その長門の言葉を切っ掛けに、みくるは、先ほど、中庭のネビロスとは別に、校庭に悪魔の反応が有った事を思い出す。


「そうだ、急がなきゃ……あっ、でも、戦闘はもう、終わっているみたいです……人の反応が、全部で八つ……あれ、さっきより少ない?」

「校庭から、彼の反応が消滅している」

みくるが、失われた反応が誰のものであるかをサーチしようとするよりも早く、短くそう言った。そもそも、閉鎖空間内の出来事に限らなければ、長門は、みくる以上に精密な情報解析能力を持っているのだ。

「彼って……キョンくんですか? どうして―――えっ!?」

と、そこまで言いかけた、その瞬間だった。みくるのペルソナの感覚の中に、禍々しく、余りにも巨大な反応が、突如、現れたのだ。それは、知らないうちに近づいてきた、だとか、そう言った現れ方ではなく、中庭の大地から、植物が生えてくるかのように、何の前触れもなく現れた。

「何っ、なんですか、これっ!」

「……うかつだった。ネビロスが召喚した悪魔の、残党がいた」

慌てて、中庭を見渡すみくる―――その視線が、一点を指し、止まる。先ほど、ネビロスが立っていた場所に、今まさに、大地から這い出してきたらしい、その悪魔の姿があった。
包帯とも、ベルトともつかない、奇妙な帯状の物体が巻きつけられた、頭部。体は、黒いボロ切れに包まれており、胸のあたりから、鎖が二本、垂れている。足はなく、両手の中には、異様に長い銃身を持つ、リボルバー式の拳銃が握られていた。
その姿は、言わば死神。鎌を拳銃に持ち替えた、死神が、その場に浮遊していた。

「ふ、ふえええ! 長門さん、悪魔、悪魔がっ!」

「先に述べたとおり、私のペルソナは、攻撃手段を持っていない」

「はぇ!? それじゃ、どうしたら……」

「撤退する。校庭まで辿りつけば、古泉一樹や、朝倉涼子たちがいる」

撤退。それ以外に選択肢はなかった。しかし、眠りについた白鐘を背負い、敵の攻撃を受けずに、校庭まで辿り着くというのは、そうそう容易な事ではないように思える。
それに、校庭へ辿り着いたところで、果たして、この悪魔を、古泉らが倒せるだろうか? それほどまでに、その悪魔の反応は強大だった。


「白鐘直斗は私が背負う。あなたは先に逃げて」

長門に促され、校庭を目指し、みくるが駆け出した、その時―――。どん。と、音を立てて、みくるの顔面が、何かにぶつかった。

「ふにゃっ」

「おっと」

思わず、後方に吹き飛び、尻餅をつくみくる。同時に、頭上から、聞き慣れない声がした。誰かしらの男性の声であるようだったが、誰のものであるかは判断できない。夜の闇の中で、その姿を見上げる……北高のブレザーを身に纏った少年が、そこに立っていた。

「ごめん、大丈夫か?」

「だ、大丈夫……はっ! に、逃げてください! 悪魔が、死神がっ!」

気が動転してゆくのが、自分自身でも分かった。目の前に現れたのは、一体誰なのだろう。校庭にいる八人ではない。服装からして、北高に籍を置く人物なのだろうか。一般の生徒だとしたら、かなりまずい事になる。明日から、北高の七不思議がひとつ増えてしまう事に成りかねない。

「落ち着け」

少年は、奇妙なほど落ち着いた声で、みくるに手を差し伸べながら、そう言った。その手を、思わず取るみくる。ぐい、と、体が優しく引っ張られ、みくるは再び大地に足を着く。

「あっ、ありがとうございます……で、でも、早く逃げてください!」

「ふむ」

少年の視線が、みくるを見た後、中庭に広がる光景へと向けられる。慌てるみくる。無表情の長門。その背中で、眠る白鐘。そして、背後に―――死神。


「……―――大体、わかった!」

大体、わかった?
一体、何を分かったというのだろう。この少年は、目の前に広がっている非現実的光景に、違和感を覚えることはないのだろうか。それに、自分が命の危険に晒されていることも、気に留める様子すらない。
混沌とした光景を前にした少年は、ブレザーの胸元から、何かを取り出す―――それは、黒縁の眼鏡のようだった―――。それを装着し、少年は、レンズの向こうで、どこかぼんやりしていた目つきを、鋭いものへと替えた。


「久々に……みなぎってきた!」


その言葉と同時に。少年の体から―――青白い光が噴き出す。みくるにとっても、もう見慣れた、あの、ペルソナのオーラだ。

「ここは俺に任せろ」

少年は、そう短く告げると、その傍らに、薙刀を携え、学ランのような衣装に身を纏ったペルソナのビジョンを浮かばせた。みくるは、それを見受け、さらに混乱する。やはり、この少年も、白鐘らの仲間だったのだろうか? しかし、着ている制服は北高のものだし―――
思考の嵐に見舞われるみくるを他所に、少年は、死神に向かって、駆け出す。

「行くぞ―――ッ!」

咆哮とともに、稲光の音が降り注ぐ―――少年のペルソナが、中庭の上空に、雷雲を呼び寄せたのだ。ゴロゴロと、虎の唸り声のような音が、数秒ほど鳴り響いた後、薄い金属を引き破ったかのような轟音が、中庭の大気を震わせた。

「ひゃああっ!」

思わず、目を閉じるみくる。瞼が降りる寸前、死神の体に、雷が落ちる光景が見えた。

「朝比奈みくる、急いで。ここは、彼に任せる」

と、いつの間にか、みくるへと追いついていた、白鐘を背負った長門が、混迷の中にあるみくるの意識を、現実へと引き戻す。

「ペルソナァーッ!」

少年は、さらに攻撃を繰り出すべく、高々と吠える。みくるはようやく、中庭を脱出し、校庭へ向かうという目的を思い出し、謎の少年の登場に、後ろ髪を引かれながらも、長門とともに駆け出した。




………

時は、わずかに前後する。長門とみくるが、閉鎖空間の消滅を確認する、その一時間ほど前。閉鎖空間内の、北校にて。



………

「やあ、ご無事でしたか」

「おかげさんでな」

校門に背中を預け、腕を組んだ男が、こちらを見て、声をかけてくる。一時間ほどの時間をかけ、学校にたどり着いた俺達を迎えたのは例にもよって例のごとく、笑顔を浮かべる、古泉一樹だった。

「朝倉さんも、ご無事で何よりです」

「ええ、ちょっと石になったりもしたけど……私は元気よ」

癖のように髪をかきあげながら、朝倉。最後に、古泉は、俺と朝倉の背後に居た、久慈川に視線を送り

「はじめまして。そして、ご心配なく。あなたのお仲間も、皆、ご無事です」

と、微笑みかけた。



………

てっきり、部室に案内されると思っていた俺は、校庭の中心に集まっている花村たちを見つけ、すこし驚かされた。

「これほどの人数になりますと、部室は狭いですから。それに、周囲が見渡せたほうが安心できます」

理由を述べられて、なるほどといった気分だ。
花村たちは、古泉に連れられてやってきた俺達を見つけると、手を振って出迎えてくれた。

「おう、キョンにりせ! ……えっと、あと、そっちの娘は……?」

「朝倉涼子よ。ま、彼の保護者みたいなものよ」

おい、初耳だぞ。保護者に刺されたことのある被保護者など、そうそういてたまるものか。
校庭に集まった面々の顔を順番に見てみると、何やら、二人ほど増えている……男のほうは、花村たちの仲間だと考えるとして、もう一人のほうは、何故ここに。

「き、喜緑さん? まさか、あなたも」

「お久しぶりです。ええ、そのまさかです。私も、皆さんに加勢しようと思いまして」

北高のセーラー服に身を包んだ、喜緑江美里さんが、そこに居て、柔和な微笑みを揺蕩わせていた。正直、俺はこの人の事をよくわかっていない。ただ、長門や朝倉と同じ、情報なんたら思念体の作り出した端末で、長門の監視役を担っている、という事しか知らない。あと、前にSOS団に相談に来たこともあったっけな。もう一年も前のことだ。
ともかく、この場に集まったペルソナ使いは、実に十人。いつぞやの影時間事件の時と並んでしまった。朝比奈さんを入れたら十一人になっちまう。雪だるまのように大きくなった事態に、俺は軽い頭痛を覚える。

「キョンくん、どこ行ってたクマ? クマ心配してたのよー」

と、クマに言われて、俺は、古泉たちと別れた後、遭遇したいくつかの出来事を思い出す。ベルベットルームを訪れたことや、謎の金髪の男に出会ったことなど……
前者については、どうも、あの部屋の中で話されたことを考える限り、他人に説明するようなことではない気がする。そして、後者もまた……

「……そうだ。古泉、みんな。ひとつ、とあるやつから、聞かされたことがあるんだ」

俺の言葉に、全員が俺に視線を定め、頭上にクエスチョンマークを浮かべる。『ニンゲンの持つべき力』だの、『輝く者』だの、意味のわからんことばかりを並べていた男の言葉の中に、一つだけ、俺たちにとって有益な情報になりうるかも知れないものがあった。
あの男いわく、俺がこれから『立ち向かわなくてはならない』ものの情報。名前を正確に覚えているわけではないが、男が挙げた名前が、全部で六つだったことくらいは覚えている。


「そいつらが、私たちの敵の名前……ってことなの?」

「ああ、多分な」

そして、その話を聞いたあとで、俺たちは悪魔を一体倒した。あの、女悪魔だ。おそらく、それが、その六体のうちのどいつかに該当するんだろう。
聞けば、古泉たちもまた、二体の悪魔を倒したのだという。俺と朝倉が倒したのと合わせて、三体。つまり、残る悪魔の数もまた、三体ということになる。
俺の報告を聞き、顔を見合わせ、首をかしげる里中たち。ふと、その中で、思い出したかのように、天城が口を開いた。

「あ、その名前……全部じゃないけど、聞いたことあるかも。私」

続けて、久慈川が、

「……そういえば、私も……その、『ベルゼブブ』っていうのって、たしかセンパイのペルソ―――」


ズン。


それは、突然、校庭に襲いかかった。
久慈川の言葉を遮るようにして……俺たちの立つ大地が、揺れ動いたのだ。

「な、ななな、何事クマっ!?」

「じっ、地震!?」

クマと里中が、俺の胸中に走った内容と、ほぼ同様の感想を述べてくれた。ペルソナ絡みの事件には付き物となりつつある、足元が不安定になる感覚。
何かが、校庭を揺さぶっている。それも、立っていることすら難しい激しさだ。そして、同時に、轟音。

「な、なんかやばい、散れっ!」と、鼓膜に届いた花村の声に、皆が震動する大地を蹴り、その場から飛び退く。

次の瞬間。
俺たちの集っていた校庭の大地に、ドデカイ亀裂が走った。もはや地割れと呼ぶべきか。現れた隙間は音を立てながら口を開いてゆく。そうして発生した巨大な地割れによって、俺たち十人は、その場の立ち位置に応じて、三つに分かれさせられてしまった。
揺れ動いていた地面が静寂を取り戻すのを待ってから、周囲を見回し、状況把握に徹する。俺のいるブロックに残ったのは、俺と、里中、そして喜緑さんの三人のみだった。大地を分割した地割れの幅は、少なく見積もっても十数メートルほどもある。こいつを飛び越えて、向こう側に行くことは難しそうだ。

『きっ、聞こえますかっ、キョンくん!』

不意に、天の声―――朝比奈さんだ。

『皆さんのいる地点に、悪魔の反応が見つかりました―――み、三つです!』

朝比奈さんがそう告げるのと、ほぼ同時に、俺の背後で、稲光の走るような音がして、俺はそちらを振り返った。そこには……体長は三メートルほどもあるだろうか? ローブを身に纏い、右手に書物を手に携えた、禍々しいオーラを放つ、悪魔の姿がある。

「魔界の宰相、ルキフグス」

現れた悪魔を前に、喜緑さんが、うわごとのように呟く―――あの男が口にしたのと、同じ名前だ。

「さ、三体いっぺんに来るって……でも、ここで勝ったら、私たちの株、上がりまくりだよねっ、キョンくん!」

里中の思考回路は、ちょっとばかり映画やゲームに引っ張られすぎだと、前から思っていたが、流石に、この状況でワクワクできるほどサイヤ人地味た奴だとは思っていなかった。あまり寝てないからハイになっているんだろうか。
とにかく、こうして、敵が現れてしまった以上、戦う以外に選択肢はない。何しろ、地面はもはや、足場程度の役割しか果たしていないし、校舎なんぞは、地割れに飲み込まれて半壊状態だ。ここが閉鎖空間でよかったと心底思う。

「先手必勝……行くよ、トモエ!」

立ち位置的に、一番、悪魔……ルキフグスに近い位置にいた、最高にハイな里中が、先陣を切ってペルソナを召喚した。手の中の棍を振り回し、ルキフグスへと駆け寄る、里中のペルソナ。それを見受け、悪魔のほうも動き出した。
悪魔は、書物を持った右手を動かさないまま、首と左手だけを里中の方へと向け、その指先から、何かを放った。古泉の放つ赤い矢に似た、何らかの射撃攻撃であるように見えた。放たれたその弾丸が、里中のペルソナの体表へと降り注ぐ。
里中のペルソナは、棍を振り回し、それを盾のように、前方へと突き出す事で、放たれた攻撃を迎え撃とうとした。―――しかし、その直後。ペルソナの手の中にあった棍が、突然、忽然と、掻き消えてしまった。

「うえっ?」

意表をつかれたのか、奇妙な声を上げ、目を丸くする里中。そして、さらにその次の瞬間。今度は、里中のペルソナ、そのものが消えてしまった。同時に、里中の体を包んでいたペルソナの光も止む。里中が、ペルソナを解除したのだろうか?


「あれ? と、トモエ!」

再び、里中がペルソナの名を呼ぶ。しかし、里中の手の中に、ペルソナカードは現れない。

『み、皆さん! 今、カミルラの目に、新しい未来が……皆さんのペルソナカードが、なんだろう……銃で撃たれるみたいに、弾け飛ぶのが、見えましたっ!』

俺、里中、喜緑さんの三人が、頭上に疑問符を浮かべた頃、頭の中に、朝比奈さんの声ば響き渡った。未来? そう言えば、朝倉が、朝比奈さんのペルソナは、未来がどうこうとか言っていた気がする。……カードが撃たれるだと?

「う、嘘、トモエが出ないよっ!?」

里中の言葉を耳に受け、俺はようやく理解する―――それが、ルキフグスの能力って事か? ペルソナを封じる能力。これまで、ありそうでなかったやり方だ。しかし、ペルソナを出せないとなると、俺たちは、あまり寝てない、やや疲れ気味の、一般的な高校生でしかないわけで。その状態で、悪魔と戦え? 冗談にもならん。

「さ、里中! とりあえず、そいつから離れろ!」

「えっ、う、うんっ!」

俺の言葉の通り、俺と、喜緑さんの近くへと、退避してくる里中。バックステップで八メートルぐらい跳んだ気がしたが、気のせいだろう。ルキフグスは、最初の位置から一切動く様子を見せず、俺たちをぼんやりと眺めている。いや、こいつは楽しんでいるのか? ペルソナを封じられて、てんやわんやする俺たちを見て。だとしたら、腹立たしい。まさに悪魔だ。

「うー、これじゃ何もできないじゃん……」

頬に一筋の汗を垂らしながら、里中が歯噛みする。ペルソナはまだ出せないようだ。一体、どれほどの時間があれば回復するんだろうか。まさか、一生呼べなくなったわけじゃあるまいな。

「安心してください、精神力の形が元通りになれば、また呼べるようになります」

と、落ち着いた口調で、里中に声をかける、喜緑さん。その表情からは、緊迫した様子は一切見受けられない。こっちはこっちで、何を考えているんだろうか。しかし、何やら、俺たちにはわからない事をわかっているらしい、という事はわかった。

「そ、そうなんだ。喜緑さんが言うなら、そうなんだね」

と、喜緑さんの言葉をまるっと飲み込み、頷く里中。喜緑さんのどんな一面を見たのか知らんが、里中は、やたらと喜緑さんを信用しているようだった。コイツは将来詐欺に合わないように気をつけたほうがいいと思う。


「どうします?」

と、喜緑さんが、俺に訊ねかけてきた。何故俺に言うんですか。現状をまともに理解してるのは、どっちかっていうとあなたの方なんじゃないんですか。

『あっ、悪魔が、動きます! 気をつけてください、まだ、里中さんのゲージは、半分位しか回復してません!』

朝比奈さんの声が降り注ぐ。ゲージって何だ。朝比奈さんの目には、里中の、精神力の形とやらの回復度が、ゲージ制で見えてるのか。それ、俺にも見せてくれませんか。
それはともかくとして、実際、敵は動き始めた。大地を踏んでいた両足を、交互に前に差し出しながら、のっそりと俺たちの方へと歩いてくる。―――あの、射撃攻撃の射程内に、俺たちを捉えようとしているんだな。直感で、そう理解する。

「く……ペルソナさえ出せれば……」

迫り来る巨体と距離をとりながら、里中がそう漏らす。だが、状況は、里中が言うよりもシビアに思えた。何しろ、こちらがペルソナを出し、敵の射程範囲に入れば、問答無用でペルソナカードを破壊されてしまうのだ。迂闊に攻撃はできない。かと言って、敵が接近してくるのも困る。

「……では、私が行きましょう」

と、あちらを立てればこちらが立たず、といった具合の思考を繰り返す、俺の耳に、届いてきたのは、喜緑さんの声だった。迫り来るルキフグスに向かい、真正面から、ペルソナのオーラを放つ喜緑さん。

「後は、任せます」

と、最後に、俺と目を合わせ、そう呟いた直後、喜緑さんは駆け出した。俺の目にも、おそらく、里中の目にも止まらないほどのスピードだった。やはり、彼女も、長門や朝倉と同じ、ヒューマノイド・インターフェースだった、という訳か。
とにかく、彼女は凸凹の発生した校庭の大地を駆けた。傍らに、巨大な鎌を持った、女性型のペルソナのビジョンを滲ませながら。

「行きなさい―――『ジェンマ』!」

俺がこれまで生き、見てきた中で、喜緑さんが、言葉の語尾にエクスクラメーションマークを付けたのは、今回が初めてだった。
喜緑さんの肉体から放たれたペルソナは、手の中の鎌で空中を二度、三度ほど掻き乱した後、その柄モノを上段に構え、ルキフグスへと接近した。ルキフグスが、迫り来る喜緑さんのペルソナに向けて、左手を突き出す―――それと同時に、喜緑さんのペルソナは、突如、体中から、紫色の煙を吐き出した。
一瞬で、靄の中へと飲み込まれる、ルキフグス。それは、まるで煙幕のように、俺、里中の二人と、ルキフグスの間に広がる空間を、紫色に染めた。
そこで、俺はようやく気づく。
喜緑さんは―――囮になったんだ。


「喜緑さん!」

ぐぐぐ。と、煙幕の向こうで、悪魔が声を上げる―――攻撃が入ったのか、はたまた、喜緑さんが攻撃を食らったのか。どちらなのかは、立ち込める紫の煙に邪魔をされて、見届けることはできなかった。しかし、今なら―――俺たちも、接近できる。

「里中、ペルソナは!」

「うん、もう大丈夫―――行って、キョンくん!」

里中の返答を受けると同時に、俺は大地を駆け始めた―――照準を、立ち込める煙幕の向こうへと定めて。
煙幕が晴れるに連れて、ルキフグスは、俺の接近に気づいたらしく、まだボヤつく景色の中で、俺へと向け、左手を突き出したようだった。しかし、弾丸の発射を許さない者がいた。

「チャージ完了―――トモエっ!」

里中千枝だ。
里中は、現れたペルソナの拳を黄金色に輝かせ、その拳で、ボコボコになった地面を、強く打ち付けた。同時に、俺たちの立つ大地に震動が走り、ルキフグスの足下を揺るがせる。一瞬、バランスを失い、ルキフグスの放った弾丸が、上方へと逸れる。

「ペルソナァッ!」

目を白黒させながら、再び俺へと照準を合わせようとするルキフグスに向けて、俺は叫んだ。体の中から、新たな力が湧き出す感覚。もう迷わない―――視界の中に、待望のペルソナカードが現れる。
ナンバーは、『ⅩⅨ』。それは、『太陽』のカードだ。手を伸ばし、握りつぶすと、俺の体から、想像をはるかに下回る、小さなビジョンが飛び出した。
猫だ。新たなペルソナの姿は、猫。一般的に猫と称される生き物たちと、何ら変わりのないように見える、黒い毛並みを持ったそのビジョンは、俺をちらりと見ると、天を仰ぎ見て、一度、声を発した。
同時に、俺の視界を、ペルソナのオーラとは別の、青い光が包み込む―――その光こそが、俺の新たなペルソナの能力だった。


「―――『ゴウトドウジ』!」


叫んだ瞬間、俺の体は、現実から離れてしまったかのように、軽くなった。自分の両足が、自分の両足ではありえない程の速度で地を蹴り、体が、脳の許容レベルを超えた速度で前進する。その素早さの前では、放たれたルキフグスの弾丸を避ける事など、容易なことだった。
あっという間に、俺は、喜緑さんが張った煙幕の中へと突っ込む。まだ晴れきっていないその霧の中を泳ぎ、ルキフグスの背後へと回り込む―――格ゲーでいうところの、『めくり』というやつだ。

やがて、ルキフグスは、俺の接近に気づき、振り返った―――しかし、弾丸を発射する隙など、許すわけもない。俺は、視界の中のカードが、まだ消えていないことに気づき、再び、右手を前方へと突き出した。
俺の眼前に浮かぶ、もう一枚のカード……ナンバーは、『Ⅲ』―――『女帝』のカードだ。
それを一息に握りつぶすと、太陽のペルソナ―――ゴウトドウジの姿が消え、俺の背後に、新たなペルソナのビジョンが現れる。


「やれ―――『マザーハーロット』!」


俺がその名を呼ぶと同時に―――現れた、巨大な、七つの首を持つ龍が、ルキフグスの体表へと、文字通り、牙を剥いた。耳まで裂けた巨大な口の一つ一つが、ルキフグスの体を、啄み始めたのだ。
まずは、突き出された左手を。次に、その腕の中程まで食らいつき、更に、龍の頭は、書物を携えたルキフグスの右手を、その書物ごと飲み込み、歯を立てた。その後も、次々と、龍の首は、俺の背後から伸び、ルキフグスの肉体を食らう―――さながら鳥葬の如き惨劇。
声にすらならない、地鳴りのような音を上げながら、マザーハーロットの龍の身体の中へと収まって行く、ルキフグス。

「キョンくん!」

程なくして、周囲に張られた、喜緑さんの煙幕が晴れ、あたりの光景が鮮明になってゆく。煙の向こうには、俺に向かって駆けてくる里中と、喜緑さんの姿が見て取れた。ありがとうな、と、まずは、駆け寄ってきた里中に声をかける。お前の機転が無けりゃ、俺のペルソナは封じられていたよ。

「あはは、なーに、どうってこと無いっすよ。私も、ほら、実績ある、ペルソナ戦士だし?」

と、鼻の下をこすりながら、言い放つ里中。こいつのメンタルの強さは、俺も見習いたいところだ。

「ふふ……あなたに任せて、正解でした」

と、次に駆け寄ってきた、喜緑さんが、俺に向かって声をかけてくる。あなたには、感謝しきれないくらいです、はい。何しろ、俺がどう出るかも予測がつかない状態で、囮になるなんて暴挙に出てくれたわけで。あ、これ、褒めてるからな。

『あっ、キョンくん、大丈夫ですか? 今、悪魔の反応が、消えました……えっと、キョンくんが、倒したの?』

続いて、頭の中に響き渡るのは、朝比奈さんの声。今回は、彼女にも助けられた。朝比奈さんが、敵の能力のヒントをくれなかったら、俺のペルソナカードもまた、破壊されていたかもしれない。
要するに―――俺はみんなに助けられて、ルキフグスを倒せたってわけだ。一人じゃ、どうにもならなかっただろう。皆の機転と、たまたま目覚めた、新たなペルソナのおかげで、こうして生きているわけだ。生きているどころか、腹部には微妙な膨満感すら覚える
―――まさか、ルキフグスが、本当に俺の腹に収まってるわけじゃないだろうな?


「あっ! そうだ、みんなは? たしか、悪魔は三体……だったよね?」

と、里中の言葉で、俺たちはついさっき、戦力を三分割されてしまっていた事を思い出す。俺が立っている以外の大地でも、おそらく、戦いが起こっているのだろう―――俺は、割れた大地の向こう側へと視線を移した。



………

古泉が、その悪魔の出現に気づいたとき。あたりは既に、火の海となっていた。そこには、紅と、漆黒以外の色彩は存在せず、大地は、灼熱ただ一色に染められている。

「ななな、なんじゃこりゃあっ!?」

近くで、クマの声がする。どうやら、古泉たちの立つ地表に割り振られたのは、古泉とクマ、そして―――

「んだこりゃあ……前が見えもしねえぞ!」

古泉の傍らに立ち、同じように、眼前に広がる炎の海を前に、目を丸くしている、巽を加えた、三人のみのようだ。

「悪魔が現れたようですね……おそらく、彼の言っていた、『ベリアル』という悪魔でしょう」

古泉は、先ほどの彼の発言の中にあった、その名前を口にする。
炎から産まれ出でし堕天使、ベリアル。ソロモン王に封じられた、七十二柱の悪魔の一柱だ。

「ベリアルだぁ……? おい、クマ公! そのベリアルってのぁ、どこだ!?」

「く、クマに訊くクマ!?」

炎の向こう側で、クマが狼狽える。


「む、むむむ……ぬぬ……さ、さっぱりわからんクマ! 炎が強すぎて、鼻が利かぬクマ……」

クマの鼻が利かないと言うのも、無理はない。炎の海から発せられる、一歩歩み入ることも難しいほどの熱と、熱せられた大気の臭いで、視界だけでなく、触覚と嗅覚までもが、炎に埋め尽くされてしまっているのだ。

「ちっ、りせや朝比奈さんは居ねえのか、おい!」

虚空に向かって、巽が叫ぶ。しかし、おそらく、久慈川は、古泉らとは別の大地に割り振られてしまっており、みくるのペルソナの声を受信できる能力は、この場にいる三人は持っていない。閉鎖空間の外にいる彼女と、通信を行えるのは、ワイルドである彼と、朝倉、喜緑、そして久慈川の四人のみだ。

「くそ……これじゃ一歩も進めねえ」

奥歯を噛み締めながら、巽が言う。しかし、悪魔は一体、何を思って、この炎の要塞を作り出したのだろうか。と、古泉は考える。攻撃らしい攻撃が放たれる様子はない。悪魔がこちらへ近づいて来るのが見えることもない。これでは、まるで籠城だ。
いや、或いは。既に悪魔は、古泉たちに、攻撃を仕掛けているのか―――?
と、古泉が思考を巡らせていると。不意に―――目の前の炎が、ゆらりと、奇妙な揺れ方をした。不規則な炎の揺らぎとは別の、渦を巻くような動きだ。そして、その直後。
ボボボ、と炎が音を立て、そこから―――真紅の肌を持った、悪魔の上半身が、ぬお。と現れたのだ

「うわっ!?」

突然の出来事に、思わず、古泉は声を上げる。
炎の中から、なんの前触れもなく現れた、その悪魔は、手に、三叉の槍のようなものを携えており、天を仰ぎながら一つ吠えると、その槍を、古泉の体に向け、突き出してきた。

「危ねえっ!」

ドン。と、音を立て、古泉の体が、左方向へと弾き飛ばされる。そばに立っていた巽が、悪魔の攻撃に気づき、古泉を突き飛ばしたのだ。古泉の体が、大地へと投げ出される。直後、ヴ。と、風を切る音を立てながら、悪魔の槍が、虚空を貫く。

「出やがったな―――行け、タケミカヅチ!」

巽がペルソナを呼び、現れた漆黒の巨体を操り、槍を突き出した体勢のベリアルに向けて、手の中の柄モノを振るう。ベリアルは、落ち窪んだ目で、巽のペルソナを、じろり。と睨みつけると、体を後退させ、巽の攻撃を回避した。そして、そのまま、再び炎の中へと帰ってゆく。
いや―――ただ、炎の中へ帰ったのではない。ベリアルの体は、炎に触れた瞬間、まるで、炎の中に溶けていくかのように、消え去ってしまったのだ。
巽が、振り下ろした柄モノを握り直し、たった今、ベリアルが消えていったあたりの炎を薙ぎ払う。しかし、攻撃が、ベリアルの体に触れた様子はない―――古泉はようやく、理解する。これこそが、この悪魔、ベリアルの能力なのだ。


「分かりました……敵は、炎と同化している」

「あっ?」

古泉が呟くと、巽が、眉を顰めながら、古泉の顔を見た。

「この炎の要塞と、奴の体とは、一つなんです。この炎のどこからでも、やつは現れることが出来、去ることが出来る……」

「んだ、そりゃあ! 炎を殴れってのか!?」

「いえ、おそらく、攻撃を食らわせられるのは、奴が炎から体を出した瞬間のみです」

古泉は、傍らにペルソナを召喚しながら、自分が解釈した、ベリアルという悪魔の性質を述べる。

「クマさん、あなたもこちらへ来てください!」

「さ、さっきから、行こうとはしとるクマよ! でも、炎がぶ厚くて……」

と、クマが言ったそばから、火力はさらに高まった。見ると、炎の海の中心で、ベリアルが、口から業火を溢れさせ、あたりの空間へとばらまいている。

「ウェルギリウス!」

炎のカーテン越しに、ベリアルに向けて、光の矢を放つ古泉。しかし、攻撃が、ベリアルのもとまで辿り着くことはなく、空中で、熱に負け、霧散してゆく。ベリアルは、ペルソナを召喚した古泉を、ちらりと睨むと、再び、炎の中へと、体を溶け込ませた。攻撃を仕掛けてくるつもりなのだ。

「き、キントキドウジ! 迎え撃つクマよ!」

「くそ熱っついんだよ、ちくしょうっ!」

クマと巽が吠え、各々のペルソナを身構えさせる。ベリアルが姿を見せた瞬間、カウンター攻撃を叩き込む以外に、ダメージを与える手段はない。

数秒、古泉たちは沈黙し、ベリアルが姿を現す瞬間を待った。やがて、クマの目前の炎が揺れ動く。

「き、来たクマッ! キントキド―――」

と、クマが、己のペルソナを戦慄かせる。しかし、炎の中から現れたのは―――ベリアルの、右腕のみだった。瞬きをすれば見失ってしまいそうな素早さで、突き出された腕が、クマのペルソナの体表を掴み―――そのまま、炎の中へと引きずり込んでしまった。

「クマママッ!?」

声を上げながら、本体であるクマ自身の体も、炎の海へと飲み込まれてゆく。ベリアル同様、溶け込むような形でだ。古泉の頬に、一筋の汗が伝う。

「ら、拉致られちまった……この野郎、セコイ真似ばっかしやがって!」

猛りながら、あたりの炎を、ペルソナの武器で振り払う巽。揺れる炎の向こう側、炎の海の中心に、再び、ベリアルが現れる。その手の中には、クマの姿。ペルソナも拘束されており、完全に人質、いや、クマ質だ。

「ちくしょう……あそこまで行けさえすりゃ……」

「行けさえすれば、あとは任せられますか?」

と、巽の呟きに、古泉が聞き返すと、巽はキョトンとした表情を浮かべ、古泉を見た。

「奴の元にあなたを連れて行くことなら―――出来るかもしれません」

そう告げ、古泉は、自らのペルソナを召喚する。青白い、ペルソナの光と同時に、赤みを帯びた、別のエネルギーが、古泉の体を包み込んだ。

「あ? 何をしようってんだよ」

「この炎の要塞を、空襲します」

と、古泉が言うと、巽は、頭上に浮かべた疑問符を二つほど増やした。古泉の準備は、既に整いつつある。青と赤、二つのオーラが混ざり合い、球体のような輪郭を型どり、古泉と、傍らの巽の体とを包み込んでいた。


「な、何だこりゃあ……」

突然、光に体を包み込まれ、巽が狼狽える。古泉は、自身の中に宿った、二つの力を、同時に行使する、その感覚を見失わぬよう、心を落ち着かせるよう努めた。
ペルソナの力と、超能力者としての力。二つの力の歯車を、噛み合わせるような感覚。

「……行きます」

その言葉と同時に、古泉と巽の体は、空中へと浮かび上がり始めた。突然、大地を失った巽が、目を白黒させながら、辺りを見回す。

「こ、これもお前のペルソナの力かよ?」

「ええ、そんな所です」

詳しく説明している余裕はない。巽の質問に、短く返答すると、古泉はさらに高い位置を目指し、ペルソナのオーラを強める。やがて、古泉たちの体は、地上から三十メートルほどの高さへと辿り着いた。

「狙うのは、炎の海の中心、ベリアルの頭上です。僕のペルソナは、接近戦では非力なペルソナですから、あなたのペルソナに任せます」

古泉がそう言うと、ようやく浮遊感に慣れてきたらしい巽は、

「なるほどな……やってやろうじゃねえか」

と、右手で握り拳を作り、左手のひらで、それを叩いた。

「行きますよ、巽さん」

「おうよっ!」

巽の掛け声と同時に、古泉は、ベリアルの立つ、要塞の中心に向けて、さながらジェットコースターのごとく急降下した。ベリアルの目が、ジロリと、古泉たちを睨む。
直後、ベリアルは攻撃の気配を悟ったのか、腕の中のクマを解放し、再び、あたりの炎の中へと身を溶け込ませようとする様子を見せた―――しかし、それを許さぬ者がいた。


「キントキドウジぃーっ!」

ベリアルの捕縛から解放された瞬間、クマが、ペルソナの頭上に携えた、トマホークミサイルを放ったのだ。炎の要塞の中心で、爆発が起きる―――しかし、それはただの爆発ではない。

「ふっふっふ、冷たいクマ? 熱いクマ? クマ特製、液体窒素トマホーククマ―――っ!」

冷気と熱気が、混ざり合いながら、大地から立ち上る。ミサイルの爆風と、辺りにばら蒔かれた冷気とが重なって、ベリアルの周囲の炎が、僅かにだが掻き消されたのだ。それは本当に僅かにしか作用しなかったが、ベリアルが炎の中に遁れるのを、一秒ほど遅らせた。その一秒に、古泉と巽が牙を剥く。

「今だ、巽さん!」

ベリアルの脳天をめがけ、急降下の速度を速めながら、古泉は叫んだ。同時に、巽がペルソナを召喚する。

「行け、タケミカヅチ! ぶち砕けっ!」

巽のペルソナが、両手で柄モノを振り上げ、全身から電流を迸らせる。ベリアルが炎に逃げ込むよりも、一瞬早く、巽の攻撃が、ベリアルの体を打ち付けた。
ベリアルの肩へと食らいついた巽の武器は、ベリアルの体内に電流を流し込みながら、さらに深く、胸のあたりまで到達した。
鳴き声ともうめき声ともつかない、低く禍々しい声を上げ、ベリアルの体が、黒い霧へと変わり始める。

「へへっ、やってやったぜ!」

鼻の下を擦りながら、地上へ降り立つ、巽。僅かに遅れて、古泉が大地を踏む―――と、同時に、古泉はめまいを覚え、その場にうずくまった。

「イツキ! ダイジョーブクマ? エナジーシャワー浴びる?」

と、駆け寄ってくるのは、自分の放ったトマホークの爆風で、吹き飛んでいた、クマ。

「ええ、大丈夫です……すこし疲れただけですよ」

古泉が微笑みを作ると、クマと巽は安心したらしく、表情を和らげた。古泉自身、ペルソナと、超能力の両方を、同時に行使したことなどなく、どれほど消耗するかは未知数だったが、思っていたよりも、体や精神への負荷は少なかった。


「クマさんこそ、大丈夫ですか? その……かなり、何というか、ボロボロですが」

「クマ?」

と、首をかしげた後、自分の体を眺め回すクマ。先の炎と、自身のペルソナの爆風を受けたクマの体表は、あちこちが焦げており、泥やホコリにまみれている。

「……クマーっ!」

と、何やら、クマが吠えた。その直後―――

ぱか。

クマの首が、音を立てながら、開いた。

「うわっ!?」

思わず、声を発する古泉。目の前で、まるで玩具の缶詰のように開いたクマの中から、華奢なシルエットの、金髪碧眼の少年が現れたのだ。

「うん、洗濯すれば問題ないクマね」

胸元に花を携えた、クマの中から現れた少年が、抜け殻となったクマ本体の体表を撫でながら、言う。

「あ、でも色が落ちてきとるクマ。カンジー、今度また染めてくれんクマ?」

「あー、今度な、今度」

どうやら、古泉が驚かされた、突然のクマのパージは、巽にとっては当たり前の光景であるようだ。何一つとして、驚いた様子を見せない。おそらく、彼らの仲間たちにとっても、そうなのだろう。
と、そこで、古泉は、この場の三人以外の仲間たちも、おそらく、悪魔と対峙しているだろう、ということを思い出す。


「他の皆さんは……」

呟きながら、辺りを見回す古泉。ベリアルが倒されたことによって、炎の要塞は、既に完全に掻き消えていた。三人は、その向こう、割れた大地の向こう側へと、視線を向けた。



………

大地が震動するのをやめた直後、朝倉はまず、こちら側に誰がいるか、という点に気を払った。周囲を見渡し、朝倉の近くにいた数名の姿を確認する。できれば、『彼』が居てほしいと、朝倉は思った。
しかし、朝倉の周囲に、彼の姿はなく、大地に発生した地割れよりこちら側にいるのは、久慈川と、久慈川と同じ制服を身にまとった、赤いカチューシャの少女。そして、肩ほどまでの髪の毛をブラウンに染めた、学ラン姿の男子生徒の三人だった。
不運だ。朝倉は思う。何しろ、朝倉はたったいま合流したばかりの少年と少女の、名前すら知らないのだ。

「いてて……お、おいおいおいおい! ちょっと待て、あいつ、見たことあんぞ!?」

声を上げたのは、茶髪の青年……たしか、『彼』が、協力者の中に、花村という少年がいる、と口走っていた。おそらく、花村という名なのであろう、その少年が、朝倉の背後の空間に視線を向け、絵に描いたように狼狽する。朝倉は、強力な悪魔の気配を感じながら、ゆっくりと振り返った。

―――気持ち悪い。まず、最初にそう思った。
朝倉の背後に、全長三メートル程の体躯を持った、巨大な蠅が立っていたのだ。

「こいつ……やっぱり! センパイの中にいた、あいつだよ……たしか、名前は『ベルゼブブ』!」

花村の声に呼応するように、久慈川が言葉を放つ。どうやら、花村と久慈川……そして、おそらくもうひとりの少女も含めて、朝倉の眼前の悪魔に見覚えがあるらしい。
悪魔……ベルゼブブは、巨大な複眼で、朝倉、花村、久慈川、そして、カチューシャの少女の四人を、順番に見たあとで、ぐぐぐ。と、虫の羽音とも、笑い声ともつかない音を放った。

「おいおいおい、ちょっと無理ゲーすぎんだろ、これ!」

「確かに、難しいけど……戦うしかないよ!」

ば。と、肩にかかった髪を振り払いながら、カチューシャの少女が言い放つ。


「うん、やるしかない……大丈夫、やれるよ、私たちなら!」

「天城! りせ! マジでやるのか!?」

「大丈夫、花村くん。言うじゃない、『飛んで火にいる夏の虫』って」

天城と呼ばれたその少女の言葉は、的を射ているのか、外しているのか。ともかく、久慈川と天城は胎を決めたようだ。二人が、同時に、各々のペルソナを召喚する。僅かに遅れて、朝倉もペルソナを召喚―――する前に、肩ごしに、花村を振り返り、

「別に、逃げてもいいのよ」

と、言葉をかけた。その言葉に、花村が、う。と、言葉を詰まらせる。

「くそ……逃げれるわけねーだろ、この状況で!」

渋々といった様子で、三人に続き、ペルソナを召喚する花村。久慈川を加えて四対一。決して勝てない勝負ではないはずだ。

「ヒミコ!」

最初に、久慈川がペルソナの名を叫び、ベルゼブブの体から発せられる、禍々しい魔力に触れ、解析を始める。その完了を待たずして、ベルゼブブは動き出した。複数あるベルゼブブの肢のうちの一本の先に、ズア。と、棍棒と杖の間ほどの大きさの柄モノが現れる。
ベルゼブブが翅を奮わせ、地を蹴ると、巨体が空を切る音が、グラウンドに響き渡った。浮き上がった後、滑空するベルゼブブ。その軌道の先にいたのは、天城だ。

「コノハナサクヤ!」

天城が取ったのは、退避ではなく、迎撃の姿勢だった。青い光とともに、天城の体から、赤く光る肢体が飛び出し、扇の如き羽を振るう。ベルゼブブの体表で、いくつかの爆発が起き、閉鎖空間の大地を、数度、瞬間的な光が照らした。
しかし、ベルゼブブの進撃は止まらない。巨大な影が天城に差し迫り、柄モノが振るわれる。

「させるかよっ!」

叫び、猛ったのは、花村のペルソナだった。関節のない両腕が空を引っ掻くと同時に、突風が巻き起こり、ベルゼブブに、強烈な向かい風として襲いかかった。ベルゼブブの体表に、いくつかの小さな切り傷が発生する。花村が、突風の中に、真空の刃を潜ませていたのだ。ベルゼブブが、ぶわ。と、翅を震わせ、わずかに後退する。


「爆ぜろ!」

天城の声とともに、一際大きな爆発が、ベルゼブブを襲う。しかし、数回にわたる爆撃を受けた後も、ベルゼブブは怯まなかった。一度後退した軌道を再び突き進み、棍を振りかぶる。

「きゃあっ!」

一閃、袈裟斬りが天城を襲った。天城の両腕に、一文字の傷が刻まれる。しかし、ペルソナの腕で防御を行ったため、傷は浅い。

「天城っ!」

「大丈夫……まだやれる」

わずかに後退したが、天城は怯まずに、

「花村くん、風をちょうだい!」

と、叫びながら、再び、ペルソナの体を戦慄かせた。

「おうよ!」

同時に、花村が、天城と並んで、右手を前方に突き出す。

「乱れ舞え、コノハナサクヤ!」

「吠えろ、ジライヤ!」

二体のペルソナが、同時に攻撃を放つ。天城のペルソナの両手から迸った炎を、花村のペルソナが呼び起こした旋風が煽り、熱を持った真空波が、グラウンドの空中に吹き荒れた。空中に留まっていたベルゼブブの体が、熱風に煽られ、後方へと押し戻される。

「解析、完了したよッ!」ペルソナのオーラを強めるふたりの背中に、久慈川の声がかけられる。


「弱点は……ない! こいつ、ほとんど万能だよ! それと、こいつの攻撃、詳しくはわからないけど、なにか隠されてる! まともに食らったらダメ、何かされる!」

「何かって……何だよ!?」

花村が、炎を煽る風の威力を強めながら、久慈川に訊ね返す。

「ごめん、わからない……でも、とてもよくないなにか……えっ、天城センパイ、攻撃を食らっちゃったの!?」

「うん……でも、大丈夫! 今のところは……まだ戦える!」

言葉を発しながら、天城が再び炎を滾らせる……天城のペルソナが、さらに高く両手をかざした―――その、瞬間。

ぼろっ

「えっ……?」

天城が、呆気にとられたように、声を上げる。ベルゼブブへと向けられていた、天城の……


―――両腕が、地に墜ちた。


「なっ……えっ……?」

戦場の真ん中であること忘れ、天城は、自分の身に起きた出来事に、言葉を失った。たった今まで、炎を繰り出していた、その腕が、肘の先程から、突然、まるで果実か腐り落ちるかのように、ぼろりと崩れ、大地の上に、どしゃ。と音を立てながら、墜ちたのだ。

「……いやあああっ!」

悲鳴は、久慈川と天城、二人分のものだった。花村は、視界の中で発生した現象が理解できないのか、となりに立つ天城に視線を向けたまま、ただ唖然と、口を開けっ放しにしている。

当然のように、ベルゼブブを扇いでいた炎の渦が、火力と風力の両方を失い、消滅する。そして、その隙を逃す訳もなく、ベルゼブブが再び―――今度は、花村に向かって、突進してきた。

「なっ……うわああっ!?」

ペルソナを解除した花村は、たった今、目の前で発生した事象の不可解さが、恐怖と、混乱へ変わり、迫り来る禍々しい姿から遠ざかろうと、疾駆した。ベルゼブブが、それを追って、羽音を立てながら滑空してゆく。

「天城さん!」

ベルゼブブの矛先が花村へと向いている間に、朝倉は天城に駆け寄った。天城は、朝倉の顔を見ると、真っ青に染まった顔で、自分の両腕と、朝倉の顔とを見比べる。

「これ……何なの……私の体、どうしちゃったの……!?」

天城の心中もまた、恐怖と、混乱に染まっている。朝倉は、天城の二の腕を掴むと、セーラー服の袖を捲り上げ……そこに発生している現象を目にし、息を飲んだ。

「『蛆』……!」

朝倉が呟くと、天城は涙ぐんだ目で、朝倉の顔を見た。その後で、自らの腕の先を見る……

「い、いやあああっ! これっ……これっ!」

天城の腕の、切り口とは呼びにくい、いびつな断面で、親指の先ほどもある、巨大な蛆が、無数に蠢いていた。おそらく、先ほどの攻撃の際に、卵を産み付けられたのだろう。そして、その蛆の群れは、掘り進めるかのように、天城の腕の肉を食らっている。

「痛い……痛いぃっ!」

天城が痛みに悶える……朝倉は、蛆を取り除く方法はないかと、思考を巡らせる。しかし、それは同時に、天城の傷口を抉ることにもつながる。その場合のダメージは計り知れない。
だが、こうしている間にも、蛆は天城の腕を食い進める―――早急にケリをつけるしかない。朝倉は、心中でそう呟いた後、天城の腕を放し、ベルゼブブのほうへ視線を向けた。花村とベルゼブブは、朝倉と天城、久慈川のもとから、百メートルほど離れた場所にいた。

『朝倉さん! 花村センパイが、ベルゼブブと戦ってるの! 手を貸して!』

脳裏に響き渡る、久慈川の声。朝倉は、さきほど、花村と天城がベルゼブブを攻撃している間に、己のペルソナのの冷気を、周囲の大地に張り巡らせていた。攻撃の準備は出来ている。朝倉は、ベルゼブブの背をめがけて駆け出した。


「天城の腕の敵だ、ハエ野郎!」

朝倉から見て、ベルゼブブを挟んだ向こう側で、花村がペルソナを召喚した。青い光に包まれた腕で空中を薙ぎ払いながら、花村が猛る。直後に、強烈な旋風が巻き起こされた。その風に乗って、ベルゼブブ急接近した、花村のペルソナが、拳を振るい、ベルゼブブの左の複眼を殴りつけた。
ヴヴヴ。と、鈍く重い声とともに、ベルゼブブが後退する。距離をとれば、あの棍による攻撃が来る。花村は、風の勢いを止めず、そのままベルゼブブの懐に突っ込んだ。

「ジライヤ―――!」

ゼロ距離での、ソニックパンチの連打が、ベルゼブブの体に食い込む。四発、拳を叩き込んだところで、もう一度、ベルゼブブが声を上げた。

「吹っ飛べッ!」

五発目、花村のペルソナがアッパーカットを放つと同時に、再び旋風が発生し、上方へと向かって吹き上がった。その風が、ベルゼブブの体を持ち上げる。

「行きなさい、ベアトリーチェ!」

接近してきた朝倉が、旋風の中に氷の粒を打ち込む。花村の起こした旋風は、冷気を帯びた竜巻となり、ベルゼブブの巨体を煽ぎ始めた。ピキピキ。と音を立てながら、ベルゼブブの体表が凍りつく。しかし、その次の瞬間。空気を引き破ったかのような音と共に、ベルゼブブの体から、光が放たれた。

「何だッ!?」

花村が顔をしかめながら叫ぶ。

『電流だよ! まずい、避けて!』

久慈川の声がそう告げる……しかし、二人が回避行動を取るよりも、わずかに早く、ベルゼブブの放った電撃が、朝倉と花村の体に食い込み、炸裂した。

「ぐあっ!」

声を上げる花村と、黙ったまま痛みを堪える朝倉。
電撃を受けた衝撃で、絶対零度の竜巻が霧散する。まずい、身をかわさなくては。朝倉は思った。しかし―――


「くっ……体が痺れて……」

朝倉と花村を穿った電撃は、まだ、二人の体に残存しており、思うように体を動かすことができない。その隙を目ざとく捉えて、朝倉の目の前に、ベルゼブブが降り立った。ベルゼブブが手の中の棍を振り上げる……

「ベアトリーチェッ!」

朝倉が、冷気を放つ。しかし、ベルゼブブの攻撃を阻止することはできない。

ざく。

肉を切る生々しい音とともに、朝倉の胸が、斜めに切り裂かれた。

「あっ……朝倉さん!」

ベルゼブブの向こう側から、花村の声がする。朝倉は、胸に刻まれた傷口が、痛むよりも早く、奇妙なむず痒さを帯びてゆくのを感じた。傷口に卵を産み付けられた感覚。そして、その痒みが、徐々に、痛みへと変わってゆく。やがて―――

ぶわっ。

朝倉の傷口から、黒い煙のようなものが吹き上がった。一瞬、煙に見えたそれは、よく注視してみると、無数の『小蝿』でだった。煙と見紛うほどに密集した小蝿が、朝倉の胸を食い破り、飛び出してきたのだ。それに伴って、血液が溢れ出し、朝倉のセーラー服を汚す。

『いやあああ! 朝倉さん!』

久慈川の声が、朝倉の名を呼ぶ―――そして、一瞬後に

『花村センパイ、逃げてっ!』

と、叫んだ。ベルゼブブが、花村へと向き直り、棍を振りかざしているのだ。しかし、花村の体は、まだ自由には動かない―――

―――ざく。

粘り気のある音とともに、ベルゼブブの振るった棍は、学ランとシャツの生地を貫き、花村の肌へと達し、肉を切り裂いた。

『センパ……いやああああっ!』

久慈川の悲鳴に応えるかのように、ベルゼブブは花村から視線を逸らし、百メートルほど離れた位置にいる、りせの方向を向いた。既に、天城、朝倉、花村の三人が、卵を産み付けられた。最後に残った久慈川に、ベルゼブブの矛先が向けられたのだ。

「嫌……こ、来ないで!」

久慈川が、恐怖の声を上げる。

「ベアト…リーチェ……!」

朝倉は、胸から止めど無く噴出し続ける虫たちを振り払いながら、かろうじて残っていたペルソナのオーラを、冷気に変え、ベルゼブブへと放った。しかし、ダメージはない。冷気はベルゼブブの両脇の空間を吹き抜け、後方へと流れていった。
直後、どさ。と、音を立てながら、朝倉の体が、大地に投げ出される。

「誰か……誰かっ!」

ベルゼブブの羽が震え、巨体が空中に持ち上がる……そして、久慈川めがけて、滑空し始めた―――その、瞬間。


「ジライヤぁっ!」


声を発したのは―――花村だった。ベルゼブブが、は。と、声がした背後を振り返る。その目前には、花村のペルソナのビジョンが立ちはだかっている―――直後、ベルゼブブの体を、突風が襲う。
突然の奇襲に、ベルゼブブは防御行動を取れずに、花村の突風をもろに食らい、ズン。と、大地を震わせながら、わずかに後退した。

『は、花村センパイ…?』

久慈川が、呆然と、その名を呟く。花村の体に産み付けられた卵は、既に孵化し、蛆か小蝿へと成長しているはずだ。しかし、花村の体には、その形跡がない……ベルゼブブが、複眼を白黒させ、狼狽えたような様子を見せる。
花村は、ペルソナのオーラを集中させながら、にや。と、口の端を上げ、


「お前の攻撃を食らった時は、マジでダメかと思ったぜ。ジライヤがこうして動けてるのは、朝倉さんのおかげだ……朝倉さんが、最後に、ペルソナの冷気で、俺を『攻撃』してくれたおかげだ!」

花村の学ランの胸に刻まれた、一文字の傷。その傷口から広がるようにして……花村の体が、凍っているのだ。

「凍った卵は孵らないし、凍った傷からは血も出ない―――そして! たとえ体が凍っていても、お前を攻撃する方法はあるぜ!」

花村の言葉とともに、ペルソナの身体の周囲に、光の輪が発生した。それが回転し始め、やがて、それは、鋭利な刃のリングとなる。

「ジライヤ!」

怒号とともに、ベルゼブブに向けて、刃のリングが放たれる。ベルゼブブは、棍を振りかざし、迫り来る刃のリングに向けて振り下ろす―――しかし、花村の刃は、すり抜けるかのように、ベルゼブブの棍を切り裂き……ベルゼブブの胴体へ襲いかかった。

「俺の奥の手、『ブレイブザッパー』だっ!」

猛々しく吠えた、花村のその声とともに。ベルゼブブの体が―――上下に二分された。うめき声とともに、シュウシュウと音を立てながら、ベルゼブブの体が、黒い霧に変わってゆく。それと同時に、朝倉の胸の小蝿や、天城の腕の傷口に這っていた蛆の群れもまた、消滅していったようだった。

「天城センパイ! 花村センパイ、朝倉さん!」

久慈川の声が聞こえると同時に、花村が大地に膝をつく。朝倉がベアトリーチェを解除したため、体を縛っていた冷気が消滅したのだ。それとともに、胸に受けた傷が痛み出したのだろう。

「大丈夫? 花村くん」

と、朝倉が声をかけると、花村は、痛みを堪えながら、

「ああ、なんとか……朝倉さんこそ、大丈夫なのかよ」

と、訊ね返してきた。地面に寝そべる体勢となっている、朝倉の胸部もまた、ベルゼブブの産んだ小蝿に食い破られ、痛々しく傷ついている。

「心臓までは達してないから大丈夫よ。左肺には穴があいてるけどこれくらいなら活動停止しないわ」


「そ、そっか」

花村の方も、胸の傷は致命傷ではないようだ。割れた校庭のどこかには居るであろう、クマと合流し、治療を受ければ、問題はないだろう。しかし、天城は……

「天城のアレ、クマに治せるのか……?」

朝倉と花村は、目の前で、天城の両腕が崩れ落ちた、その光景を思い出す。

「ここが閉鎖空間のなかでさえなかったら、私が治してあげられたんだけど」

と、朝倉が呟くと、花村は目を丸くし、

「治すって……出来るのか?」

「ええ、くっつけてあげるんでも、生やすんでもね」

クスクスと笑いながら、朝倉が言うと、花村は、困ったような表情を浮かべた。朝倉の言葉が、本当なのかどうか、判断しかねているのだろう。

「他のみんなも、終わったみたい……とにかく、クマさんに、私たちの傷だけでも治してもらいましょう」

「あ、そうだな―――」

花村が、地割れの向こうへ視線を移した―――その直後。

ピシッ

「……ぴし?」

突然、頭上から降り注いだ音に、花村が首をかしげ、空を見上げる。


「一体何の音……う、うわ、今度はなんだっ!?」

花村の視線を追って、朝倉も天を仰ぐ……その視線の先で、灰色の空に、白い、まるで稲妻のような、亀裂が入り始めたのだ。
直後、オーロラにも似た光が、朝倉たちのいる大地に降り注ぎ、世界を包み込んでいった。



………

閉鎖空間が消滅し、気がつくと、俺は、夜の闇に包まれた、学校の校庭に立っていた。
一瞬、その薄暗さに、自分がまだ閉鎖空間の中にいるような錯覚を起こす。が、先程まであったはずの地割れが、跡形もなく消え去っており、校庭の隅の街灯には、明かりが灯っている。そこは紛れもない現実世界だった。

「うう……何が……あったの……?」

背後で声がして、俺は振り返る。そこには、今、眠りから覚めたばかり。といった様子で、地面に両膝と片手を着き、頭を押さえる里中の姿があった。
周囲を見回すと……同じように、花村や天城。クマに、りせ。巽に、喜緑さん。そして、古泉と朝倉―――先程まで閉鎖空間の中にいたものたちが、校庭内に散在している。

「現実……? 僕たちは、戻ってこれた……のか?」

立ち上がりながらつぶやいたのは、古泉。

「いてて……なんだってんだよ、次から次へと……あれっ? 傷が……ない?」

と、発言したのは、花村。自分の胸のあたりを手で探りながら、狐につままれたような顔をしている。

「あ……あれ? 腕、ある!」

続いて、天城。
その二人だけではない。その場の全員の体から、悪魔との戦いで負ったはずの、傷や、ダメージが消滅しているのだ。


「どういうことだ……あっ。古泉、ハルヒは?」

「涼宮さんは、まだ病院のベッドにいるみたい……目覚めていないわ」

俺が古泉に投げかけた質問を、朝倉がキャッチし、投げ返してきた。

「あなたの言っていた、男の言葉が本当ならば。僕らはすべての悪魔を倒し、閉鎖空間を消滅させることに成功した……と、考えられます。しかし、涼宮さんはまだ目覚めていない……?」

俺は、長門の言葉を思い出す。ハルヒが、何らかの脅威にさらされている―――その脅威とは、あの悪魔どものことではなかったのか?
そして、ハルヒが目覚めていない……ハルヒの精神は、俺たちと同様に、閉鎖空間の中にあった。その閉鎖空間が消滅した今、ハルヒの精神はどこにいるというんだ?
俺が、まとまらない思考の渦に巻き込まれそうになった、その時。


パン、パン、パン


手拍子……いや、拍手か? とにかく、誰かが手を鳴らす音が、俺の背後から聞こえてきた。慌てて振り返る……そこにいたのは。


「見事だ。君は私の眷属たちを退け、すべての試練を乗り越えてみせた」


……あの男だった。長い金髪のオールバックが、夜の闇の中で揺れている。

「だ、誰……?」

「お前たちが知るべきことではない」

男は、里中の細い声に対して、やけに突っ慳貪な口調で言葉を返し、視線を俺に向けた。


「……さて、輝く者よ。私はお前を、最後の選択に誘うために来た」

男の視線は、先程から俺に注がれ続けている。最後の選択だと?

「お前が私の眷属となるに値するニンゲンか、否か……それを試すにあたって、君を私の根城に招待しよう」

男が、ゆっくりと、俺に近づいてくる。

「キョン! 気をつけろ、そいつも悪魔かもしれねえ!」

花村の声が、背後から聞こえてくる。

「りせ、こいつが何者か……」

「もう、解析し始めてるよ……わからない、正体が見えないの。でも、力の大きさだけはわかる……こんな大きな力、見たことない!」

久慈川が言う……その、力の大きさとやらを、俺は先程から、ずっと感じ続けている。目の前の男から発せられる、漆黒のオーラ。
これまでに倒してきた連中の比ではない、その異常なまでの……禍々しさ。こいつは、悪魔なんて代物じゃない。それ以上の存在だとしか、考えられない。

「安心したまえ、邪魔者どもの介入は許さない」

ふ。と、俺に注がれ続けていた男の視線が、俺の背後へと移る―――その、直後。

ぶわ。と、身体の奥底から、ペルソナのオーラが溢れ出してきた。無意識のうちに、ペルソナを召喚していたのだろうか?いや、違う……俺の中から、ペルソナが引きずり出されているのだ。おそらく、目の前の男によって。

「私がかつて、お前の中に宿した、私の衛兵の一人だ」

俺の体から現れたペルソナが、俺の背後、古泉や花村たちの前に立ちはだかる。
その姿は―――見覚えがある。そいつは……三か月前。俺の中にいた、タトゥーのペルソナ。



「相手をしてやれ……人修羅よ」


人修羅。
その名を男が呟くと、タトゥーのペルソナはわずかに頷き、目の前のペルソナ使いたちに向けて、右手を突き出した。



………

『彼』が、謎の男とともに姿を消したのと、時を同じくして、目の前の悪魔……『人修羅』は、動いた。
人修羅は、まず、突き出した右手の中に、剣のような形状の光を創り出し、それを古泉たちに向けて振るった。同時に、旋風とともに、衝撃波が、古泉たちを襲う。

「うっ!」

その圧倒的な威力に、古泉は、思わず声を漏らす。ペルソナを召喚し、身を守ったにも関わらず、たった一撃で、体が後方へと吹き飛ばされてしまった。空中で体勢を立て直し、両足で大地を削る。見ると、周囲の仲間たちもまた、古泉同様に吹き飛ばされたようだった。

「なんてパワーだッ……りせー!」

『もう解析してるよ! だけど……こいつも、何も見えない……違う、これは……この耐性は……』

「ウェルギリウス!」

花村と久慈川の会話を遮るように、古泉はその名を呼ぶ。ウェルギリウスの手の中に真紅の球体が現れ、そこから光の矢が放たれる。

「ベアトリーチェ!」

同時に、朝倉。四本の氷の矢を空中に浮かべ、一直線に、人修羅へと注ぎ込んだ。

二人の攻撃を前に、人修羅は―――回避行動をとらない。剣状の光を振り抜いた体勢のまま、迫り来る攻撃に、ちら。と視線を向けた後、防御する素振りさえ見せずに、迫り来る攻撃を一身に浴びた。

「入った!」

人修羅が、二種類の矢を受けたことを目にし、里中が快哉の声を上げる。が―――

『ダメ、全然効いてない!』

久慈川の声が、攻撃の失敗を告げる。……攻撃の衝撃による土埃が晴れた先に、毅然たる無表情を浮かべたまま、仁王立ちする人修羅の姿があった。
―――防御しなかったんじゃない。する必要がなかったんだ。古泉は意識の隅でそう呟く。

「これならどうだぁっ!」

次に地を蹴ったのは、里中だった。数歩ほど、駆け足で人修羅に接近すると、跳躍し、放物線を描きながら、人修羅のいる地点へと降りてゆく。

「必殺……ゴッドハンドォ!」

空中で、里中のペルソナが現れ、その右手が、光って唸る。ゴォォ。と、風を引き裂く音を放ちながら、光に包まれた拳が人修羅の脳天へ落ちる!

ギィン。

ペルソナのの拳は、人修羅に触れる一寸手前で、透明な防壁によって遮断された。

「うぐっ……たああああっ!」

押し返されそうになった拳を、さらに強く握り締め、突き出す里中。しかし、次の瞬間、人修羅の右腕が、その鉄拳をなぎ払った。同時に、里中は後方へと弾き飛ばされる。

「キントキドウジー! やったれー!」

次に吠えたのは、クマ。天高く翳したペルソナの手の中に、トマホークが現れ、すぐさま放たれる。里中の辿った軌道とは別の放物線を描きつつ、人修羅の体に……その目前の、透明な防壁に牙を剥く。その場の全員が、訪れるであろう爆発に備え、目や耳を防御する。


爆音。

先程よりも濃い土埃が、人修羅の姿をぼやかした。爆発の光が去った後、全員の視線が、その土埃の先へ注がれる。しかし……

「……無傷……!」

古泉が、憮然とつぶやく。……その頬を、一筋の冷や汗が伝った。

『こいつ……効かない! ……何も、効かない……うそでしょ、そんなの!』

久慈川が、絶望的言葉を口にする。馬鹿な―――そんな者がいるはずがない。
『無敵の悪魔』。古泉は、頭に浮かんだそのフレーズを振り払うように、頭を横に振った。

その、直後。

『何か来る……! みんな、逃げてッ! こんな……こんなエネルギー、ありえない!』

久慈川の声が震え、古泉たちの脳へと届く。

『こんなのに、触れてしまったら―――みんな、死んじゃうよ!』

久慈川の言葉とほぼ同時に、人修羅が、その場にうずくまった。ダメージを受けたわけではない……古泉は、直後に訪れるであろう、悪夢の気配を感じ取った。

「散るんだ―――ッ!」

喉を震わせ、叫ぶ。古泉の視界のなかで、人修羅が、体を震わせながら、天を仰ぎ、咆哮する。そして。


大地が、割れた。




………

光が去った後、人修羅の前に、立つ者は、誰ひとり、何一つとして存在しなかった。無人となった空間を見回した後、人修羅は頭上を見上げた。

そこには空があり、天があり、星があり、宇宙がある。人修羅がもともといた世界から失われてしまったすべてが、人修羅の目の前に存在していた。
そこに、一筋の懐かしさを感じ、人修羅は、目頭に熱を感じる。だが、涙は出ない。悪魔は、涙など流しはしないのだ。

「……あなたは」

不意に、背後から発せられた声に、人修羅は振り向いた。そこに、先ほど人修羅の前に存在した集団の中にいた、赤いカチューシャの少女の姿があった。少女は、衣服のあちこちに傷を負っているが……立っている。
『地母の晩餐』を受けきったのか。あるいは、どこかに身を隠したのか。人修羅は、考える。

「……あなたは、悪魔……まるで人間のようだけど、違う。あなたは……悪魔なんだね」

少女は、傷ついた肩口を抑えながら、人修羅の考えを遮るように、言葉を紡いだ。

「私は、さっき……あなたと同じ、悪魔と戦って……そして、負けた。結果的に、私たちは勝ったけど……『私』は負けた」

一言一言を、空気に染み込ませるかのように、少女……天城雪子は、語る。

「私が今生きているのは、仲間たちのおかげ……千枝に、花村くん……りせちゃんにクマさん。それに、キョンくん……古泉くんと、朝倉さん……喜緑さん。彼らがいたから、私は生きてる。私は……戦うこと、諦めたのに」

その言葉の直後、天城の体が、青い光に包まれ、人修羅は、咄嗟に構えを取った。天城の頭上に現れる、真紅のビジョン……ペルソナ。

「恩返ししなきゃ……私を生かしてくれたみんなに、心の底からありがとうって言わなきゃ……だから私は……もう負けない。たとえ、腕がもげたって、足が吹き飛んだって……もう、みんなの為に戦うことをやめたりしない……私は、勝つまで……燃え続ける!」

そう言葉を発した後、少女は、全身から、炎が迸らせた。

炎の帯が、龍のようにうねりながら、少女と、人修羅のいる、その空間中に広がってゆく。
燃え盛る大地。その中心に立つ、天城雪子。

「乱れ……華焔!」

その肉体から放たれた、真紅に輝く像が、人修羅に襲いかかった。人修羅は、眼前で両手を重ね、それを受け止める。同時に、人修羅の眼前に防壁が発生する。
―――不可侵の障壁、マサカドゥス。
天城のペルソナの猛攻は、それを破るだけのエネルギーを持ってはいなかったが、伸し掛る強大な圧力に、防壁は、人修羅の体ごと、わずかに後退しはじめた。

「はああああっ!」

天城が吠え、天城のペルソナの突進は、より力を増す。同時に、ゼロ距離での爆発。
ズズズ。と、音を立てながら、人修羅の体が後方へとすり動かされてゆく。
そして、人修羅が、もともと立っていた位置から、五メートルほど移動させられた時。

「花村くんっ!」

声とともに、天城の姿が、人修羅の眼前から消え去った。―――次の瞬間。

「おりゃああああっ!」

声が発せられたのは……人修羅の足元からだった。視線を向けた先に、先ほどの『地母の晩餐』によって生じた大地の割れ目があった。その間から……ペルソナを携えた、花村が、飛び出してきたのだ。
人修羅が、マサカドゥスの防壁を、花村の方向へと向け直す……しかし、意表をつかれた人修羅の行動は、花村の攻撃よりも、一歩、遅かった。

「ジライヤぁっ!」

花村のペルソナの腕から、空気を貫きながらの、強烈なアッパーカットが放たれる。その拳めがけて、人修羅は、右の拳をぶつかり合わせた。
衝突。

「うぐっ―――」

バキ。と、鈍い音を立てて―――花村のペルソナの拳に、亀裂が入った。花村の一撃は軽かった。先ほどの地母の晩餐のダメージが、全身に宿命的ダメージを残しているせいだ。しかし、拳を破壊されながらも、花村は引かない。

「……吹っ飛び……やがれぇー!」

残されたもう一方の拳を、渾身の力を込め、マサカドゥスの防壁へと叩き込む。それと同時に、花村のペルソナの能力によって、周囲の空気が圧縮され、炸裂する。
エネルギーを、攻撃に向けすぎたためだろうか、爆風に煽られた人修羅の体は、ぶわ。と、いとも容易く、炎に包まれた大地の上空へ吹き上げられた。
そして、直後。

「クマァー!」

炎の中から、赤い光に全身を包んだ、古泉―――その傍らに、クマ―――が飛び出してきた。人修羅は、またも意表を突かれる。天城が張り巡らせた炎の海が、視界の障壁となり、攻撃を予測できないのだ。
地上から飛び出してきたクマと古泉は、人修羅の体のある高さを越え、足元に人修羅を見下ろせるほどの高さまで上昇した後、停止した。

「キントキドウジー!」

空中に留まったクマが、ペルソナを召喚する。現れたペルソナの手の中に、トマホークミサイル。それが、眼下の人修羅へと、叩きつけられる。

轟音。

先ほどと似たような音を立てて、トマホークが爆ぜた。再び、人修羅の体が煽られ、後方へと吹き飛びながら、地上に向けて落下する。ドザァ。と、音を立て、地面を削り、土埃を立てながら、人修羅は、大地に叩きつけられた。マサカドゥスの防壁が、軋むように音を放つ……

「クマァァァ~~~……」

頭上から降り注いだ声に、人修羅は、たった今、自分が落下してきた軌道を見上げる。トマホークの爆風で、自らも吹き飛んだのであろう、クマの体が、遠くへと吹き飛ばされていくのが見えた。
その光景を前に、人修羅は違和感を覚える。
視界のなかにあるべき、何かが足りない―――そうだ……先ほど、クマとともに空中へと飛び上がってきた、古泉の姿がないのだ。

「こっちだ!」

声は、人修羅の真上から降り注いできた。天を仰ぐ、人修羅の頭上―――その視線の先に、こちらへ向け、ペルソナの両手を突き出した、古泉の姿がある。


「ウェルギリウス……アローシャワ―――!」

直後、古泉のペルソナが弾け、無数の矢となり、人修羅の体に降り注ぐ。迫り来る光の矢の雨に向けて、人修羅は両手を突き出し、その手の中から、古泉のものと似た、しかし、それより幾らか大振りな、無数の光の槍を放った。古泉の矢と、人修羅の槍がすれ違い、お互いの標的へと注ぎ込まれる。
マサカドゥスの防壁を頭上へ向け、古泉の矢を受け止める人修羅。そして、人修羅が放った光の槍もまた、古泉を包む赤い光によって遮断されたようだった。

古泉は、攻撃をやめない。何度となく、赤い光の矢の雨を、人修羅の頭上へと降らせ続ける。
それに対抗し、再び、光の槍を放とうと試みる人修羅―――しかし、それを遮るように。

「巽さん!」

「おうよっ!」

どこからか、巽の声が聞こえた。その直後、夜空が唸り声を上げる。巽が、稲妻を呼んだのだ。

「歯ぁ食いしばれよ、古泉ぃ!」

再び、巽の声。それと同時に、天空から、一筋の稲光が降り注いだ。落雷に打たれたのは―――空中の、古泉だった。

「これで―――どうだ!」

古泉は、赤い光を解除しないまま、落雷の衝撃を受ける。そして、そのまま人修羅の防壁へと、垂直な突進を試みたのだ。人修羅の両手―――マサカドゥスの防壁と、古泉を包む赤い光の壁とが、ぶつかり合い、音を立てる。
その突進を受け―――度重なる攻撃に、根を上げたかのように。人修羅の眼前で……マサカドゥスに、亀裂が入った。

ガシャン。

次の瞬間、音を立てながら、人修羅を覆っていた防壁が、粉々に砕け散った。そして、そのまま、人修羅の体に、電流を帯びた古泉の体当たりが叩き込まれる。
ついに、ダメージを受けた人修羅は、まとわりつく痛みを跳ね除けるように、目の前の古泉に向けて廻し蹴りを放った。


「うう―――!」

吹き飛び、地面を転がりながら、炎の海の中へと、古泉の体が消えてゆく―――次は、何だ? 人修羅は、辺りを見回す。

「やっと、壊れてくれたか」

古泉のうめき声が聞こえた後、入れ替わるようにして、人修羅のすぐそばで、凛とした声が発せられた。
炎の海の中を、長い髪を揺らしながら、こちらへ向かって歩いてくるのは……朝倉涼子だ。その手の中に、刃渡り、二十センチメートルほどのアーミーナイフが握られている。ビュン。と、乾いた音を立て、ナイフの刃が空を切る。

「これで、ようやく対等にやりあえるわね。もう、思い通りには動かせてあげないわよ」

次の瞬間、朝倉が地を蹴り、人修羅との間合いを一気に詰めてきた。マサカドゥスの防壁は、もう存在しない。人修羅は、自らの格闘能力で、迫り来るナイフの刃に抵抗した。
ナイフを持った左手が、人修羅の顔面を向けて迫り来る。膝を折り、体を落として、その攻撃を回避する。直後、人修羅の腹部に、朝倉涼子の放った前蹴りが直撃した。
息を詰まらせ、飛び退く人修羅。その目の前の空間を、朝倉が薙いだナイフの刃が切り裂いた。
朝倉と、人修羅との間に、五メートルほどの距離が発生する。人修羅はひと呼吸を置いた後、朝倉に向け、拳を放った。しかし、その拳は、朝倉の左手によって受け止められる。
ギリギリと音を立てながら、力が拮抗する。

「江美里の情報操作で、身体能力を上げさせてもらったわ……あなたに対抗できるくらいまで、ね」

ブン。と、音を立て、人修羅の腕が、朝倉に引き寄せられる。迫り来る、朝倉の右手のナイフの刃。人修羅は、朝倉に腕を捕縛されたまま、体を九十度ほどよじり、その刃を回避した。そして、朝倉に掴まれた腕を振り上げ、朝倉の軽い肉体を釣り上げた。一瞬、朝倉の体を空中で静止させた後、地面へ叩きつける。
しかし、大地と接触するよりも一瞬早く、朝倉は人修羅の拳から手を放し、空中で回転しながら、人修羅からやや遠い位置に降りた。

「―――」

朝倉が攻撃態勢に入るよりも早く、人修羅は手の中に魔力の剣を作り出し、朝倉に突進した。しかし、その突進は、突如、目の前に現れた、深い紫色の霧によって阻まれる。

「ジェンマの霧は、深いですよ」

朝倉の背後の炎の中に、喜緑が潜んでいたのだ。視覚と嗅覚を突き刺す刺激に、人修羅の動きが止まる。


「里中さん、今です」

直後、喜緑が、囁くような音量でそう口にする。同時に、右側から気配。

「チェストぉぉ―――!」

炎の中から、ペルソナを携えて現れたのは、里中だ。

「さっきの……お返しだぁっ!」

里中が吼え、それと共に、里中のペルソナの手の中に、棍が現れ、人修羅に向かって振るわれる。

ギィン。

里中の攻撃に合わせ、人修羅が、手の中の光の剣を放つ。ぶつかり合う、武器と武器。発生した衝撃波が、あたりの空気を震わせる。
バチィ。と、電流が流れるような音と共に、人修羅と里中が、お互いを弾き飛ばし合う。

「はああああ!」

お互いが距離を詰め、再び、剣撃が重なり合う。弾き返されたのは―――里中の方だった。人修羅の剣を受けた、里中のペルソナの棍が、中程からへし折れる。そして、里中の胴体に、人修羅の剣が食い込んだ。

「あうっ……ぐっ……」

里中が、うめき声とともに、わずかに血を吐いた。内蔵を負傷したのかもしれない。人修羅は、そのまま、里中の上半身を斬り飛ばすほどの勢いで、剣に力を込めようとした。

「ベアトリーチェ!」

それを阻む、朝倉の声。直後、足元に冷気を感じ、人修羅は跳躍する。次の瞬間、人修羅の立っていた地面から、氷の槍が突き上げられた。紙一重、それを回避した人修羅は、空中で、朝倉に視線を投げる。青白い肌の像を携えた朝倉が、人修羅に向けて、四本の氷の矢の先端を向けている―――それが、放たれる。
人修羅は、重力に従って落下しながら、迫り来る氷の矢を、拳で弾き飛ばした。一本、二本、三本。そして最後に、三本目と同じ軌道で放たれた、四本目が迫り来る。最後の矢に向けて、人修羅は右の手の平を突き出した。矢の先端が、人修羅の手のひらを貫通し、停止する。

ブン。と、音を立て、右手を振るう人修羅。突き刺さった氷の矢が、カランカランと音を立てながら、地面に転がった。

「……掛かったわね」

朝倉が、笑う。それと同時に―――人修羅は、右手の中に、痛みとは別の感覚があることに気づいた。
人修羅の右手が―――凍っている。

「氷の矢の中に、私のナイフを忍ばせた……あなたが右手で受け止めた、四本目がそれよ。そして、そのナイフには、私が構成したプログラムが込められている。無敵に近いあなたの体を、『内側から凍らせる』プログラム」

ベアトリーチェの像を解除しながら、朝倉が言う。人修羅が、先ほど投げ捨てた氷の矢が落ちた位置を見ると……そこに、朝倉の手にしていた、あの、アーミーナイフが転がっていた。

「でも、いくら綿密にプログラムを組んでも、あなたの体に届かないんじゃ、意味がない。防護フィールドの破壊と、私と江美里がプログラムの構成を済ませるまでの、時間稼ぎ。みんなよくやりきってくれたわ……私はいい仲間に恵まれたわね」

人修羅の腕は、みるみる内に凍りついてゆく……さらに、腕を伝い、肩へ、胴体へと、温度のない氷は、這い上がってくる。

「私と江美里を、情報統合思念体とリンクできる、現実世界に連れてきてしまったことが、あなたの敗因」

朝倉が言う……それと同時に、人修羅の背後で、声がする。

「さっきは……よくも……」

人修羅の体は動かない―――既に、頭を残した全身が、凍結しているのだ。振り返ることはできない……しかし、感じる。背後にいるのは―――里中千枝だ。

「よくも……やってくれたなぁぁぁっ!」

里中が咆哮しながら、凍りついた人修羅へと迫る。

「トモエっ!」

現れた、里中のペルソナの、右手……いや、違う。握り締められた、『両方』の拳が、黄金色の光に包まれる―――。



「必殺―――ゴッドハンドぉぉぉ!」


ドグシャァ。と、音を立て、放たれた拳が、凍りついた人修羅の体に食らいつく。半秒遅れて、もう一方の拳。
さらに、もう半秒後に―――再び、拳。
そして、もう一撃、二撃、三撃―――


「はああああああ!」


拳、拳、拳、拳、拳―――
黄金色の拳の雨が、人修羅の体に、何度も、何度も、歯を立てる。


「わなっふううううううううううううううううううゥゥ―――!」


―――息をつく間さえも与えない、里中の……トモエの、ゴッドハンドの連打(ラッシュ)。果たして、何度目の鉄拳が、人修羅の体を粉砕したのだろうか。
砕かれた人修羅の体は、やがて、黒い靄へと変わり……うっすらと星の浮かんだ、夜の空に消えていった。



………

「これは……!」

校庭にたどり着いたみくるは、目の前の光景に息を飲んだ。焼け焦げた大地と、そこに刻まれた、深い亀裂。そこには、みくるの目に映る限り、八名の姿があり、そのうちのいくつかは、みくるの知った顔だった。


「古泉くん……朝倉さん!」

名を呼ばれた朝倉が、少し肩を上下させながら、みくるの方を見る。そして、古泉はというと……校庭の中央あたりで、力なく大地に体を投げ出していた。

「な、長門さん!」

みくるは、背後を振り返り、長門の名を呼ぶ。

「まかせて」

みくるの言葉を待つことなく、長門は小走りで、倒れ付した古泉のもとへと駆けてゆく。
校庭には、古泉同様、体を地に預けているものが、二人いた。緑色のジャージを着た少女と、赤いカーデガンを纏った少女。そして、緑の少女の傍らにしゃがみ込んでいる少女と、少年……その二人は、みくるにとっても見覚えがある。久慈川りせと、巽完二だ。

「巽さんに、久慈川さん! あの、ご無事ですか……?」

「朝比奈さんに、長門か……ああ、俺は大丈夫だけどよ……あの二人は」

「天城センパイは、気を失ってるわ……ペルソナを使いすぎたんだと思う、里中センパイは、内蔵を怪我したかもしれない。クマは、どこかに飛んでっちゃったし……」

「なんで肝心な時にいねえんだよ、クマ公!」

「だ、大丈夫です……長門さんの力なら、すぐ治せると……」

「可能」

と、既に、古泉の治療を終えたらしい長門が、少女……里中のもとへ駆け、

「パーソナルネーム、里中千枝の肉体を修復」と、呟いた。

一瞬、里中の体が光に包まれ、閉じていた瞼が開く。

「センパイ! 大丈夫っすか?」

「りせちゃん……完二くん……私、気を失ってたんだ……」

体を起こした里中が、周囲を見回し、呟く。そこに、花村と朝倉が駆け寄ってくる。

「無事か、里中!」

「あ、うん、大丈夫。……えっと、あなたが治してくれたの?」

「そう」

里中が、長門に声をかけると、長門はわずかに頷きながら、最低限の音量で返答した。そして、

「パーソナルネーム、花村陽介の肉体を修復」

と、呟くと、

「へ? ……お、おおっ? 手が……」

人修羅への攻撃で破壊された、花村の右手が光り、傷が消滅する。

「あなたも」

「私は、結構よ」

と、長門が投げかけた言葉を、朝倉が払いのける。傍らで、柔和な表情を浮かべている、喜緑もまた、傷を負ってはいないようだった。
そして、みくるは、気づく。


「あれ……あの、朝倉さん。キョンくんは、どこに……?」

「……連れて行かれちゃったわ」

肩をすくめながら、朝倉が言う。

「連れて行かれたって……どこへ、ですか?」

朝倉は、少し考えるような素振りを見せたあと

「彼が消える直前、ベアトリーチェで、彼の反応を追跡したの。彼が連れて行かれた先は……『魔界』のようね」

魔界。その単語に、みくるが目を丸くする。

「ずっと気になっていた……今回の、『悪魔』たちが、どこから来たのか。その謎が解けたわ……悪魔の反応で、埋め尽くされた世界。こんな世界が、こんなに近い次元に存在していたなんて……」

「彼を連れて行ったあの男が……悪魔たちを差し向けていた、総元締めということでしょうか」

口を挟んだのは、古泉だった。

「魔界の宰相、ルキフグスに、堕天使ベリアル、悪霊の君主ベルゼブブ……それらを眷属として、我々のもとへと送り込むことのできる『悪魔』。……いえ、『魔王』と呼ぶべきでしょう」

「魔王……」

古泉が口にした単語を、みくるが復唱する。

「そんなやつのところに、キョンはひとりで連れて行かれちまったのかよ……!」

花村が拳を握り、呟く。その言葉に、みくるは、は。と気づき、


「あ、朝倉さん。キョンくんが連れて行かれた世界の座標を、教えてください!」

朝倉は、無言で頷き、ペルソナを呼ぶ。一瞬遅れて、みくるもペルソナを呼び、目を閉じ、神経を、朝倉のペルソナのオーラへと集中させた。
十秒ほどの、沈黙。

「……見つけました、キョンくんの反応です……そして、悪魔……いえ、とても強い……これが、『魔王』の反応なんでしょうか……」

みくるが、閉じていた目を開いたとき、みくるのペルソナの感覚が、もう一つの反応を見つけ出す。
それは、『彼』と同じ座標から発せられている、みくるがよく知る、覚えのある反応。
そして、先程まで、閉鎖空間の中のどこかから発せられていた―――

「これは……キョンくんのもとに……涼宮さんが……!」

古泉と朝倉が、は。と、顔を見合わせる。みくるがどれほど、閉鎖空間の中を探っても、見つけることのできなかった、ハルヒの居場所。精神の在り処。
それは―――『彼』のもと。

涼宮ハルヒは、『彼』のなかに存在していた―――。

「えっと……つまり、キョンくんは……どうなるっていうの……?」

「わかりません」

里中の言葉に、みくるは頭を横に振る。みくるが感じ取ったのは、『魔界』に、彼と涼宮ハルヒの反応があるということだけだ。そこで何が起きているかまでは、感じ取ることも、見ることもできない。

「全ては……彼らに託された」

虚空を見上げ、長門が呟いた。

「二人は、帰ってくる―――私は信じる」




………

「私は古来より、神々との戦争を繰り返してきた」

ぼやけた俺の脳に、男の言葉が染み込んでくる。俺は……見知らぬ空の下にいた。星や、月は見当たらない。ただ、漆黒の闇色の空が、どこまでも広がっている。
その漆黒の空を背負って……金髪の男が、俺を見つめていた。俺はその光景に、いつか、モナドの塔の頂上で、俺たちの前に立ちはだかった、ハルヒの姿を思い出す。

「神とは、いつ、どこの世でも、醜悪な思想の持ち主だ。時に、ニンゲンを羊のように飼い慣らすことを正義と呼び、時に、自らの虚栄心のために、罪なきものに向けて矢を射る。そして、自らの思想にそぐわない意志を、堕落と呼び、悪魔と呼ぶ」

男は胸に手を当て、まるで音楽を奏でるかのように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「正義とは、常に、悪と紙一重であり、表裏一体なものなのだ。神はその事実に気づかず、また、決して受け入れようとしない。自らの手の中で、創造し、破壊し、再生する……ただそれを繰り返し続ける。決して、ニンゲンや、悪魔の自立を許すことはない」

男が両手を開き、俺に背を向ける。

「神とともに在る限り、ニンゲンは、悪魔は、永遠にその束縛から逃れることはできない……そんな造りものの如き時代は、終わらなければならないのだ。ニンゲンには、悪魔には。自由を手にする、その権利がある」

男の言葉は、以前、影時間の中で、ニャルラトホテプの口から聞かされたものと、対象的な内容だった。人に、滅び以外の未来がないと断言したものがいたかと思えば、人の未来を開放したがるやつがいる。世の中は、複雑なものだ。

「生きるものは、『再生』しなければならない……強権による束縛から逃れ、神に調律された世界を、あるべき姿へと再生させなければならない。……お前には、その『力』があるのだ……私の言うことがわかるな? 輝く者よ」

背を向けたまま、男はそこまで話したあと、俺の返答を待つかのように、沈黙した。
こいつの言っていることは……正直、半分ほどしかわからない。しかし、こいつが『神』と呼ぶものが、一体何のことなのか、それは理解することができた。

「ハルヒのことを言っているのか」

男が、俺を振り返る。


「お前はこの世界で、唯一……神に。涼宮ハルヒの持つ力を凌ぐ……普遍であり続ける力を持っている。この世界が、これから再生の道をたどるか、神の玩具であり続けるか……その『鍵』を握っているのが、お前なのだ」

俺の目の前で、少しづつ。男の姿が変わってゆく。腰ほどまでの長さのあった金髪が、角のように強張り、背には、コウモリのような羽が、三対も生えている。

「私はお前が、私の衛兵となるにふさわしい者か否か、我が眷属たちをお前に差し向け、それを試した。そして、お前は見事、私の眷属たちを倒し、試練に打ち勝った。……輝く者よ。私の衛兵となれ。そして、私とともに……神との戦争に勝利するのだ」

再び、男が沈黙する。禍々しいものへと変わりつつある、男の体は、今度は、徐々にだが、巨大化し始めた。

「……俺は、巻き込まれたんでなく、初めから、あの悪魔どもは、俺を狙ってたってことか」

「涼宮ハルヒが、お前に助けを求めたのは、私にとっても好都合だった」

紫色の唇が動き、男の声が、俺の脳内に直接響き渡る。

「あの異次元空間……閉鎖空間とやらの中でならお前の力も存分に発揮できただろう。余計なものの介入も許してしまったがな」

古泉や、花村たちのことだろうか。あいつらは俺のとばっちりを食らったってわけだ。いくら謝っても謝り足りんレベルだぞ、そりゃ。

「……俺がどう答えるかなんて、お前はとっくにご存知なんじゃないか?」

少し考えた末、俺は目の前の悪魔……『魔王』に向かって、言う。
質問を質問で返した形になっちまった。これでは、テストが零点になってしまう。

「……私は、お前を聡明な人間だと考えている。その考えが正しければ……お前の言うとおり。答えはわかりきっている」

「ははっ」

思わず、笑っちまったね。

そうかいそうかい。
だとしたら……俺のことを聡明な人間だと思っている、お前も、そう思われている俺も。
どっちも、とんでもない大馬鹿者ってことになるな。

「悪いが……俺の役職は、とっくの昔に決まってる。そして転職する気もない……俺はな―――」

たっぷりと、見せつけるようにほくそ笑みながら、俺はその一言を放つ。




「『SOS団』の団員……その一なんだよ」




……俺の言葉を最後に、その場に沈黙が訪れた。闇から闇へと、音もなく、風が吹き抜けてゆく。
魔王は、しばらくの間、一切動く様子を見せなかったが、やがて、全身から、負のオーラをまき散らしながら、口を開いた。

「お前は知っているはずだ……お前の世界の神……涼宮ハルヒが、幼稚な思想を持った、滅ぶべき暴君であることを。お前の世界が、涼宮ハルヒの思想と、能力によって、歪に模られた、不条理な世界であることを」

歪か―――確かにそうかもしれんな。
あいつは、宇宙人だの、未来人だの、超能力者だのと、厄介なものを求めすぎていた。
その結果……あいつを取り巻く環境は、ほんの少しの力が加わっただけで、崩れ落ちるような、危ういものになっちまったんだ

「そして、お前は知っているはずだ……自分が神であることを認識した、涼宮ハルヒが、最後に、そんな無意識な暴君でありつづける道を選択した事実を」

三か月前のことを言っているんだろうか。
俺の脳裏に、三か月前の影時間の中で聞いた、ハルヒの言葉が蘇ってくる。



 ―――戻りたい!


 ―――私、戻りたい!


 ―――消えたくない―――また、みんなと一緒に過ごしたいよ、キョン!


「涼宮ハルヒという柱の、悍ましい正体を知りながら……お前は、自らを、その腹心だと言うのか」

魔王の声のトーンは、下がり続ける。まるでせり上がってくる地鳴りのような、背筋に寒気を感じる声。押し負けないよう、俺は声を大にして、次の言葉を紡いだ。

「誤解するなよ。俺は自分を、ハルヒの腹心なんぞだという気はない。俺は……いわば、あいつの、保護者なんだ」

古泉や朝倉の癖が移ったのか、俺は自然と肩をすくめてしまう。

「もしお前が言うように……俺に、ハルヒの力に対抗する力なんてものがあるとしたら。それはきっと、あいつのそばで、あいつが生きて行く……その、手助けをしてやるためにあるんだろうよ」

言葉とともに、思わず、ため息。……俺はなんとも、面倒くさい道を進もうとしているんだな。

「あいつは、強い。けど、儚いんだ。ちょっと押したら、崩れちまいそうなくらい。だから……あいつには、必要なんだ。……あいつが見失っちまった道を、照らしてやる奴が」

俺は、三か月前、決めたんだ。
ハルヒのそばに、ずっと居てやるってことを。

「あいつが壊しちまったものを、もう一度、一緒に、最初から作り直してやるやつが。あいつには……―――」



 ―――俺が。

 ―――俺たちが、必要なんだ。


「……命絶えるまで、神の束縛のもとに置かれることを、望むというのか……愚かな……」

束縛。
違うね……俺たちは。集った理由は違えど、あいつが好きだから、あいつのそばにいるのさ。

あいつは―――


「ハルヒは……俺の、『生きがい』なんだ。俺の目が黒いうちは……ハルヒをどうこうなんざ、させない!」


目の前の男は、既に、人間の姿ではなくなっていた。禍々しく青黒い肌。赤い瞳。その、余りにも巨大な体躯。
俺の、目の前に―――魔王が立っていた。
こいつが―――ハルヒに及んでいる、『脅威』の正体か。


「お前の中に、輝きを見出した、私の目は、狂っていたのか……よかろう……お前の意志は、理解した」


魔王が、両腕と、三対の翼を広げる。


「もはや話すことはない……お前は『鍵』だ……お前の力は、私が求める再生の妨げとなる。この大魔王ルシファーが……お前の力を。その命を、摘み取ってくれる」

―――恐怖はあった。しかし、それ以上に、俺の心中には、闘志があった。俺の中のペルソナが疼き、頭の中に、声が響き渡る。


『あなたを信じていますよ、僕は』
古泉。法王―――ケルベロス。


『つれないわね。一緒に戦った仲間じゃない』
朝倉。月―――オオマガツヒ。


『このままキョンくんがいなくなったら、どうしようって……』
朝比奈さん。太陽―――ゴウトドウジ。


『ふふ……あなたに任せて、正解でした』
喜緑さん。女帝―――マザーハーロット。


イゴールが口にしていた、『絆の力』という言葉を、俺はようやく、理解した。俺の中に目覚めたペルソナは、皆、SOS団の仲間たちとの絆の結晶だったのだ。
そして―――眼前に浮かぶ、最後のペルソナカード。


「ペルソナァッ!」


声とともに、そのカードを握りつぶす。そのアルカナは……―――『世界』。


「俺に力をくれ―――ハルヒ!」

俺の体から現れたペルソナは―――あまりにも、巨大だった。そして、いつか、閉鎖空間の中で見た光の巨人と、とても良く似ていた。
それは、ハルヒの力の結晶。

涼宮ハルヒの力が―――今、俺の中にある。


「やっちまえ―――!」


俺の声とともに、巨人が腕を振るい上げ、ルシファーに向けて振り下ろす。ルシファーが、それを受け止めると、巨大な腕と腕が、空中でぶつかり合い、衝撃波が生じる―――巨人の腕が、一瞬、赤く色を帯びたように見えた。
そして、次の瞬間―――ルシファーの皮膚を破り、巨人の腕が食い込んだ。

『忌わしき……力を持つ者よ……』

ぶん。と、ルシファーが腕を振るい、巨人とルシファーの体が、互いに互いを弾いた。直後、ルシファーが両手を胸の前で合わせ……古泉のペルソナのように、手の中に球体を発生させた。その球体が爆ぜ、巨人の体を爆風が襲う。

俺が念じると、巨人は眼前に防壁のようなものを作り出し、前方から迫る爆風を受け流した。そして、その防壁ごと、ルシファーに突進する。音を立てながら、ルシファーの体に、巨人の体重が伸し掛る。

巨人はさらに、追い打ちをかけるように、防壁の内側を、両の拳で殴りつけた。爆音に似た音を立てながら、ルシファーの体が、後方へとすり動かされてゆく。ルシファーが、耐え兼ねたかのように顔を歪め、両腕を振り払うと、巨人はわずかに怯み、同時に、俺の体に衝撃が走った。
瞬間、ルシファーは再び光の塊を作り出し、それを細長い剣のような形状へと変え、眼前の防壁に向けて振るった。音を立てながら、巨人の防壁が削り取られる。

ほどなくして、防壁が消滅した。再び、ルシファーと巨人は、己の体と体をぶつかり合わせる。
巨人の拳と、ルシファーの拳が、同時に突き出され、正面から衝突した。


轟音。


圧し勝ったのは―――巨人だった。
ビキ。と、破裂音にも似た音を立てながら、ルシファーの拳に、亀裂が入ったのだ。

俺が意識すると、巨人はそれに呼応し、さらに拳突き進めた。そして、亀裂は見る見るうちに、ルシファーの腕を伝い、肉体へと及んでゆく。やがて、大魔王の体は……ボロボロと砕け始めた。


『忌わしくも、輝けるものよ……』


頭の中に、ルシファーの声が響き渡る……



『この先……何が起きようとも……たとえ……お前の世界を、悪夢が飲み込もうとも……全ては、お前が選択したことであると……決して……忘れるな……』



ルシファーの、最期の言葉。
それを受けて、俺は心中でつぶやいた。



―――そん時は、そん時さ。



俺の目の前で、大魔王は消えた。
やがて、俺の立つ大地が揺れ始め……視界が、暗転した。



………



「ルシファーは、ずっと昔から、私……『涼宮ハルヒ』のことを見ていたの」


魔王のいた世界から、現実へと帰る途中―――世界と世界の狭間で、俺は、『そいつ』と対面した。

「多分、涼宮ハルヒが力に目覚めた、四年前のあの日から、ずっと……涼宮ハルヒが、閉鎖空間を作り出す能力を身につけたのは、きっと、いつか来るであろう、ルシファーとの戦いに備えてのことだった」

俺に背を向けたまま、淡々と話す―――その、見慣れた後ろ姿。そして、たった今、その背中が発した言葉から、俺はある考えに思い至る。

「……お前は、三か月前の……影時間の中にいた、ハルヒなのか……?」

「人格としては、そう」

俺に背中を向けたままで、そいつは言う。

「涼宮ハルヒの中から、三か月前の記憶は抹消された。だけど、痕跡は残った。それが、『私』……『私』は、三か月前に生まれた、涼宮ハルヒの『影』。涼宮ハルヒが、ペルソナに目覚めて、同時に、自分の持つ能力を意識した際に発生した、精神の分身」

くる。と、振り返ったその顔は、紛れもなく、ハルヒだった。しかし、それはハルヒではない……ハルヒ以上に、己を知った存在。

「……ルシファーは、ついに、涼宮ハルヒに攻撃を仕掛けようとしていた。だから私は、閉鎖空間を作り出して、涼宮ハルヒから、神としての力と、精神を切り離した。そして……あんたを閉鎖空間に呼んだのよ。テレビを介して。……あんたに、『選択』してもらうために」

「選択……?」

「『私』は、わからなかったの。ルシファーの考えが、正しいのか、間違っているのか……涼宮ハルヒが、この世界に存在していいものなのか、そうでないのか」

そこまで話すと、ハルヒは……ハルヒの影は、自嘲するように、口元に笑顔を浮かべた。

「何も知らない頃は、ずっとずっと、こんな時間がすぎればいいと思ってた。でも、知ってしまった『私』は……あんたや、古泉くん。有希に、みくるちゃん、涼子……みんなが、私がいるせいで、苦しんでるんじゃないか……この先も、苦しみ続けるんじゃないかって、また、思った」


「そんなの……」

「バカみたいでしょ? 私は、答えたのに……影時間のなかで、あんたに、どうしたいかって訊かれて……『戻りたい』って、答えたのに。すぐにまた、自分が……みんなの気持ちが、みえなくなっちゃった」

ハルヒは真っ直ぐに俺の目を見ながら、確かめるように、一言一言、言葉を紡いでゆく。

「ずっとみんなでいたい、でも、みんなを苦しめたくない。両方が、私の中にあった……だから、私はあんたを呼んだ。あんたが選んだ結果なら、私は、どんな未来でも、受け入れられると思ったから」

そんな無茶な。と、喉から溢れかけたのを、慌てて拾い上げる―――ハルヒは、真剣なんだ。

「……あんたを信じて良かった」

ぽつり。と、ハルヒが呟く。

「……信じて、いいんだよね? あんたの言葉」

「ああ……もちろんだ」

俺は微笑みながら、ハルヒの……自嘲ではない、安息からの微笑みに、言葉を返す。

「私も……涼宮ハルヒも、あんたたちが……みんなが、生きがい。―――私たち、一緒だね……キョン」

「ああ」

数秒。俺たちは視線を重ね合わせたが、やがて、ハルヒのほうから、視線を逸らしてくる。

「もう、時間……還らなきゃ」

「還るって……元の世界に、か?」俺が訊ねると、ハルヒは首を横に振った。


「ううん。私は、『涼宮ハルヒ』の中に還るの。私は、『影』……『涼宮ハルヒ』のペルソナ能力が創り出した、別人格だから」

目を合わせずに、ハルヒが言う。

「でもね、キョン。私は、ハルヒの中に帰るけど。人の心は、皆、普遍的無意識の海で、いつも繋がっている」

ハルヒはそう言うと、少し照れくさそうに笑った後、

「いつもあんたを見てるから。……忘れないで。私が、あんたを好きだったこと……そして、『涼宮ハルヒ』も、あんたのことを想っていること」

ふわり。と、ハルヒの姿が、空気に溶けるように滲みだした。
俺たちのいる空間が、消えようとしているのだ。それはつまり、もう二度と、目の前にいる『ハルヒ』とは、会えないという事。

「ずっと、いつでも、見てるから……」

ハルヒの目から、大粒の涙がこぼれ出す。その姿が、霞んで見えるのは、俺もまた、涙を流しているからだろう。

「ああ―――忘れない。忘れられるもんか」

思わず、ハルヒに手を伸ばす―――しかし、ハルヒの体に触れることは許されなかった。
パァン。と、瑞々しい音を立てながら―――ハルヒの影が、光の粒となり、俺の目の前で消えてゆく。

「俺も、好きだから―――お前の事が。ハルヒの事が、好きだから―――」

だから―――


続けて、言葉を紡ごうとした俺の視界を、明るく、澄んだ光が埋め尽くした。
この光の向こう側には―――きっと、俺たちのいるべき世界が待っているのだろう。




………

それからのことを、少しだけ話そうと思う。


ハルヒの閉鎖空間が消滅して、一日を挟んだ、今日。
俺たち―――古泉と、朝比奈さん。長門と、喜緑さん、朝倉。そして俺の六人―――は、西宮の駅前にいた。そして、目の前には、遥か八十稲羽からやってきた、七人のペルソナ使いの姿がある。

「短い間だったけど、けっこう充実してたぜ」

ウィンクとともにそう言い、俺に握手を求めてきたのは、花村。

「また会おうね。来年、無事に大学生になれたら、きっと遊びに来るから」

続いて、天城。なんと、俺が特に根拠もなく、横柄に接してきた花村たちは、俺たちの一つ上の学年だったようで。

「来年の今頃は、キョンくんたちが大変なことになってたりしてね」

笑ったのは里中。いや、それ冗談になってないから。

「……皆さんのおかげで、貴重な体験をさせていただきました。閉鎖空間や、悪魔……僕自身の見聞を広げるいい機会になりました。感謝します」

と、帽子を取って頭を下げたのは、朝比奈さんや長門たちと共に居たという、白鐘という少年。

「今度、俺らの街にも来いよ。案内してやっから」

続けて、白鐘の斜め後ろの、巽。


「私は今度、お忍びで遊びに来るから」

そして、久慈川。
以上の三名は、俺たちと同い年。

「クマも一緒に来るぅー! その時は、ナナチャンも連れてくるクマ」

最後に、年齢不詳のマスコットが言葉を放つ。思うに、クマを連れて歩いていたら、それだけでお忍びの意味がなくなるんじゃないだろうか。周囲の注目浴びすぎだろ、お前。

「……僕らは以前、テレビの中の世界で、自分自身の『影』と向き合いました」

別れ際。唐突に、俺に向かって、白鐘が言った。

「そして、それに打ち勝つことで、ペルソナ能力を得た……影とペルソナは、表裏一体のものなんです。あなたが涼宮さんの『影』と向き合った……それは、構造として、僕らが経験してきた現象と同じ。自分自身と向き合う……その行為の暗示だったのではないでしょうか」

暗示? 俺は、空中に疑問符を浮かべながら、その単語を復唱する。

「あの男……ルシファーの言っていたということが、真理ならば。あなたは、もともと、涼宮さんとともに、『神』という、一つの存在だった。それが、『改変』と『再生』に別れ……涼宮さんとあなたという、それぞれの個体となった」

……お前は古泉か。と、突っ込みたくなるような、SF的発想、

「だとすれば」

噂をすれば、影。俺の背後で、白鐘の言葉を聞いていたらしい古泉が、口を挟む。

「離ればなれになった『改変』と『再生』は再び向かい合い……晴れて、完全なる存在となった。この世界は、今後安定してゆく……そう考えられますね」

安定だと?
この、かくも脆く、危うき世界が、か?


「涼宮さんのそばに、あなたがいる。……たったそれだけのことで、世界の均整は保たれるのかもしれません」

と、白鐘。なんだ。お前ら、フィーリングが似てるな。

「ほんの憶測ですよ。僕も、SFは嫌いではないので……一番は推理小説、ですが」

ふ。と笑顔を浮かべ、目を閉じる白鐘。その背中に、白鐘の仲間たちが呼ぶ声がかかる。

そうして、閉鎖空間に迷い込んだペルソナ使いたちは、遥か八十稲羽へと帰っていった。
……最後に白鐘が言い残した言葉が、俺の頭の中に残る。
ルシファーも口走っていた、『再生』という単語。
……俺は果たして、この世界において、本当に、『一般人』なのだろうか?


……ええい、やめだやめだ。俺の脳で考えたところで、答えなど出るわけもない。と、俺は頭を降った。


「あなたは、この世界に必要な存在」

走り去る電車を見届けながら、長門が呟く。

「……この世界は、あなたが裁定したもの。あなたが選択したから、私たちの世界は今、こうして続いている」

長門は、視線を俺に移し、

「……私は、あなたになら、すべてを任せられる。あなたの選んだ道なら、すべて信じることができる」

と、少しばかり、恥ずかしくなるような文句を述べた。
……それは少し、買いかぶり過ぎではないだろうか。俺はいつも、長門や朝倉、古泉たちを頼ってばかりいるってのに。


「あなた、ホントに鈍感ね」

と、背後で、朝倉の声。

「長門さんは、信じていたんです。あなたと、涼宮さんのことを……もちろん、私だって。ふたりのこと、信じてました」

その隣で、クスクスと笑う朝比奈さん。

……信じてもらえるってのは、とても有難いことだ。しかし、少しばかり、荷が重くもあるな。
照れ隠しのように俺が言うと、朝倉と朝比奈さん、喜緑さんと、古泉と―――長門までもが、わずかに笑ったような気がした。



………

ひとつ、気になることがあって、俺は、八十稲羽組を送り返した帰り道に、その人に声をかけた。

「なんですか、話って? 私、アルバイトがあるのですが」

どこから食ってかかっても食い切れなさそうな笑顔を浮かべる喜緑さんに、俺は勇気を持って訊ねた。

「その……率直に言って、喜緑さん。あなた、どうして閉鎖空間の中に?」

「どうして、と言われても……皆さんに加勢するため、という答えでは、足りませんか?

「いえ、それはそうと分かっているんですが……」

やはり、この人は苦手だと、思い知らされる。しかし、それでも、俺には納得できないことがあった。


「いまいち、腑に落ちないんです。あなたは、長門の監視のために、この地球に留まっているんですよね? それなのに、何故、長門の傍を離れてまで、俺たちの戦いに介入してきたのか……それが、わからないんです」

俺がそう言うと、一瞬、喜緑さんは、キョトン。としたような顔を浮かべた後、菩薩のような微笑を浮かべ、

「ふふ……あなたは、鈍感なのか敏感なのか、分かり兼ねる面がありますね」

と、呟いた。

「私は、あなたを試したかったんです。あなたに、長門さんという……情報統合思念体の端末としての存在意義を超えた、『長門有希』という、一人の個体……人格を、任せられるか」

「俺に、長門を任せる……?」

「長門さんが、あなたに対して絶対的な信頼を持っている事実が、存在していいのかどうかを、です。その答えを得るために、私はあなたの戦う姿を見てみたかった……そして、言ったでしょう? 私は、『あなたに任せて、良かった』と。それが答えです。それ以上を聞くのは、野暮というものですよ―――」

そこまで言った後、喜緑さんは、ぽつり。と、俺の、有名になりすぎてしまったあだ名を呟き、


「―――私も、あなたを信じることにしたんです」


と、もう一度、天使のようであり、悪魔のようでもある微笑みを浮かべた。
それ以上、この人に食って掛かることは―――ー流石の俺でも、できなかったさ。



………

第二次ペルソナ大戦(命名、俺)から、一週間と一日が経過した、土曜日の朝。
元気を取り戻したハルヒは、笑顔で俺たちの前に現れた。


「やっほー! みんな、揃ってるわね」

既にその場に揃っていた、俺たち五人の顔を見回し、はつらつと声を上げるハルヒ。
俺の記憶違いだろうか。たしかこの集いには、最も遅く現れた者が、飲食代を持つという制度が定められていたような気がするんだが……

「みんな、お腹は……すいてないわよね。じゃ、今日はスタートダッシュで、みんなで廻りましょうか!」

はぐらかす素振りすら見せずに、ハルヒはそう言い放ち、歩き出した。
その背中を前に―――俺は、一瞬。あの世界の狭間で見た、ハルヒの表情と、その言葉を思い出す。


―――いつもあんたを見てるから。……忘れないで。―――


―――私が、あんたを好きだったこと……―――


と、俺の視線に反応するかのように、ハルヒが、背後を振り返り、俺の顔を、じ。と見つめる。
俺は、その顔を見て―――記憶の中のハルヒが、その次に口にした言葉を思い出した。


―――そして、『涼宮ハルヒ』も、あんたのことを想っていること―――


「……ね、キョン」

「ん?」

ハルヒは、最後尾を歩いていた俺に近寄り、顔を覗き込むように、体を屈めた後―――



「……―――ありがと、ね」


そう、うっすらと頬を染めながら、口にした。


「ハルヒ―――?」


俺が、言葉を返そうとすると、ハルヒは、何事もなかったかのように、駆け足で再び先頭に立った。

そして、俺の胸を過ぎった、柄にもなくメランコリックな気持ちを吹き飛ばすかのように―――


「さ、今日も行くわよ、SOS団!」


と、意気揚々に声を上げ、拳を空中へと突き出したのだった。







END

よいしょー
と、いうわけで、ハルヒとペルソナの物語はここでおしまいクマ。
読んでくれた人に愛を込めて花束をー
誤字脱字いっぱいいっぱいだけど、許して欲しいクマ。

またどこかで会えたら会うクマよ~

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