絵里「これは」にこ「恋ではない」 (19)
高校を卒業してから、三年が過ぎ、五年が過ぎ。
そして十年の月日が流れた。
私の大学入学直後から始まった恋人関係は拍子抜けするほど順風満帆で。
それ故に次のステップに進むことの出来ない現実が、やり場のない苛立ちを生む。
どんなに愛し愛されようと、世間は私達に恋人以上の関係を与えてはくれなった。
残酷なまでの永遠不変。私とにこの関係とは、そういうものだった。
閉塞しきった関係性に変化をもたらそうと、生活に支障の出ない範囲でやれることは何でもやった。
今も左手の薬指にはお揃いの指輪をはめていたし、親しい友人や家族を招いて結婚式の真似事もやった。
けれどそれでも私達は、変化もなく立ち止まったまま。
相変わらず人前ではキスは愚か、手を繋ぐことさえ躊躇われた。
人前で堂々と愛し合えないことは、十年前のあの日から。
初めから分かっていたつもりでいたけど。
それでも誰からも認めてもらえない私達の生き方は、愛があったとしてもあまりに耐え難い哀しみに覆われていた。
お互いだけが居ればそれで良いと。そう信じて愛し合っていた日々は何処へ消えてしまったのだろう。
これは恋などではなく、ましてや愛でもない。ただの痛み。痛みでしかない。
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大学卒業後に入社した今の会社は、それなりに規模のある旅行事業を取り扱う企業で。
やりがいのある仕事と頼もしい仲間達に囲まれて、私はそれなりに充実した日々を送っていた。
そしてそれは、にこも同じ。
高校を卒業後、アルバイトの傍らアイドルを目指して努力し続けた彼女は。
しかし私の目から見ても凡才の域を出なかった。
スクールアイドルμ‘Sの確固たる地位を築いた立役者のひとりとはいえ、特別に秀でた才能があるわけでもない。
はっきり言ってしまえば、プロとして生きていけるとは到底思えなかった。
けれど、どうやらそれは私の見込み違いだったらしい。
小さな画面の向こうで躍動する彼女の姿は、もはや凡才でも凡人でもない。
一昨年アイドルを引退して、本格的に女優としての道を歩み始めた矢澤にこ。
あの子の発するパワーは既にひとりの人間としての影響力を超越して、大勢の人々に笑顔と幸福を分け与える巨大な存在として頂点に君臨しつつあった。
そんな彼女と恋人関係にある私は、本当なら世界中の誰よりも幸せであって然るべき筈なのに。
それなのに、泣いてばかりいるのは何故だろう。
彼女の前ですら、上手に微笑むことが出来なくなったのは何故だろう。
私達が女性同士であるせいか。
それとも私があまりに弱すぎた、そのせいか。
「愛しているわ」
そう口にすることさえ、もはや憚れた。痛みの方が、ずっと強くなっていたから。
「絵里、愛してるわ」
無言のまま泣き出した私を助手席に乗せて、夜のドライブはしばらく続いた。
不馴れなにこの運転は少し危なっかしくて。
だけどそこだけが、アイドルとして有名になる前と変わらない少女の面影を残しているようで、いとおしく感じた。
女性のままで愛し合うには、私達は少し歳を取りすぎて。
そしてあまりに幼かったのかもしれない。
まだ失うものが何も無かった時代。
あの頃の私は確かに矢澤にこを愛していて。
夢をまっすぐ見つめた、キラキラと輝く瞳。
ちいさな両肩にのしかかる重みを覗かせながら、しかし決して褪せない笑顔。
私はそれに恋をして。
そして彼女は夢を叶えた。
夢の終わりには、現実が続いている。
あの頃の私は、まだそれを知らずにいた。
絵里が泣き止むのを待つこともなく、車は彼女の自宅前に停まった。
いつから変わっていったのだろう。考え込むまでもなく、答えはすぐ傍に。
私がアイドルとして夢を叶えたその時から、きっと少しずつおかしくなってしまったのだ。
それまでの私達の関係は決して冷えきったものではなく、むしろ互いを情熱的に愛し合っていた。
もちろんそれは、今でも変わらない。
けれど互いにもう一歩、踏み込めなくなったことも事実だった。
私達の生き方が、誰からも祝福をされないものだと気が付いた時から。
お互いがお互いに、気を遣うようになった。
「もう……だめなのかもしれないね」
車の扉を閉める間際にそう零して、此方を振り返ることもせずに絵里は去った。
彼女の指定席だった筈の助手席で、空虚に漂う残り香。
次第に薄まっていく彼女の芳香は、私を奮い立たせるには十分な威力を秘めていた。
慌てて車を飛び降りて、折れそうなヒールにも構わずに私は駆ける。
背後から思い切り抱き締めた彼女の肩は怯えるように震えて。
どうすればこの震えを止めてあげられるのか。それだけを考えて、ただ強く抱き続けた。
お昼過ぎのニュース番組は、しかしいつもと様子が違う。
画面の向こうは慌ただしく、黒い文字で張り出されたテロップだけが事態を物語っている。
『矢澤にこ、緊急会見』
息が詰まりそうになるほどの鼓動の高まりを感じて。
私は一心不乱に画面を見つめる。
焚かれる無数のフラッシュ。珍しく緊張した面持ちのにこ。
『この度はお忙しい中───』
彼女の隣でマネージャーと思わしき男性が、挨拶代わりの口上を述べる。
どこか追い詰められたようなその男性の表情は、きっと見間違いではなく。
これからにこが話そうとしている事、その片鱗が垣間見えたようだった。
「……結婚かな?」
いつの間にか、事務所のテレビの前を同僚たちが囲っていた。
「出来婚かもよ」
嬉々としてそれを語る人。
さして興味のなさそうな人。
落胆し肩を落とす人。
数多くの好奇の目の前に、自ら晒された彼女は。
『婚約することに、なりました』
思ったよりもリラックスした声色で、そう告げた。
なだれ込むように押し寄せるフラッシュの嵐。
彼女から表情さえも奪い取るような乱暴さに、僅かな苛立ちを覚える。
『正式な結婚の日にちは』
『今後のお仕事は』
『ご妊娠は』
無遠慮な質問にも、彼女はひとつひとつ丁寧に淀みなく回答していく。
そして。
『旦那様とは、どういったご縁で』
そこで初めて、言葉が止まる。少し困った顔で、微笑んで。
『高校時代の同級生で、お付き合いをして十年になります』
今度は記者たちが、言葉をつぐんだ。
彼女の経歴に記載されていた音ノ木坂学院は、十年たった今でも女子校のままだった。
『相手の方は、女性です』
水をうったように静まり返った会見会場で、拡声器を通したにこの声だけが反響する。
『私は、同性愛者なんです』
そう言って微笑む姿は、痛々しいだけだった。
傷つけられていく彼女を、これ以上見続けることは出来ないと思った。
自身二度目の結婚式。隣には前回と同じく、純白のドレスに身を包んだにこが居た。
「……綺麗よ」
私と同じ柄の特注品は、彼女の華奢な外見に見事なほどの彩りを与えた。
「絵里も、よく似合ってるわ」
にこが所属する芸能事務所が費用を捻出した披露宴。
会場にカメラを設置して生中継でお茶の間に放映されると聞かされた時は仰天したけれど。
それでもにこと一緒なら──。そう思って快諾した。同性愛者であることを公表した今でも、矢澤にこはお茶の間の人気者だった。
『それでは、ふたりの花嫁の入場です』
司会を務める有名俳優の落ち着いた声が会場にこだまして、ゆっくりと扉が開かれる。
と同時に浴びせられるのは、途切れることのないフラッシュの雨。
招待客の人数を聞かされた時もめまいがしたけれど、この光もなかなか堪える。
カメラのフラッシュで彩られたアーチを、にこの手に引かれて抜け出して。
足下がややふらつくけど、にこが歩調を合わせてくれるお陰で転ぶことはない。
そうして自分達の席に辿り着くと、式は滞ることなく進められた。
家族や親しい友人から、優しい祝福の言葉が投げ掛けられて。それを見つめるのは私と、私の知らない大勢の人々。
この光景を、みんなは何を思って見ているだろう。
無数の視線の元、私とにこは愛の言葉を交わし合う。
指輪をはめて、そして瞳を閉じれば。
少し背伸びをして、あなたは控えめな口付けを私に。
会場が歓声と祝福の言葉に包まれた事に気が付いて。
そうして私が流したひとすじの涙を、にこはもう一度くちづけして掬い取った。
一ヶ月が経過して、周りもようやく落ち着いた。
町を歩けば未だに指を指されることもあるけど。
しかしそれは喜ばしいことだと思った。
矢澤にこの正式なパートナーとして、私が認められつつあることの証明なのだから。
『絵里、お願いよ。愛してるって……そう言って』
彼女が私に縋った夜。不安に駆られていたのが自分ひとりだけでないことに気付かされた。
にこも私と同様に、答えの見つからない問いかけを延々と繰り返していたのだと知った時。
私は長らく喪失していた矢澤にこの実体に、再び触れることが出来たのだった。
だから。
『私の夢にはまだ、続きがある』
にこのその言葉に、なにより心を踊らせた。
『絵里と幸せになりたいの』
例え道程は違っても、同じ想いに辿り着くことが出来たことが幸せだった。
何も知らず、純粋無垢で。
なによりも強かったあの頃。
あなたさえ居れば生きていける。
本気でそう思ったあの頃。
十年たって、歳を取って。
嘘も少しだけ上手になった私。
あの頃と変わらず、あなたさえ居れば──なんて。
そこまで無鉄砲な言葉、今は口にしないけど。
けれど今だから断言できることも、あるにはある。
仲良しだったふたりは、共に過ごして。ぶつかり合い、混ざり合い。
そうして少しずつ、ひとつになっていったの。
あなたは少しずつ私になって。
私は少しずつ、あなたになっていく。
痛みも悲しみも、喜びも。いつしか同じになっていく。
どこに居ても互いを感じられる。
だから、今は幸せ。同じものを見て、同じように感じて。
離れていても、あなたを傍に感じられる。
それを誰かに咎められることは、もう永遠にないのだから。
おわり。
始めに思っていたよりも長くなりました。
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