俺「こりゃ余震ですな……」(15)
「余震て、何の?」
「この前の震災ですよ」
上司が俺の顔を不思議そうに見ている。書類棚が乾いた音を立て、舞い上がった埃が西日の中で踊っている。やがて揺れは峠を越し、静かになった。
「この前って、大正の大震災か?」
「ええ」
信じられん、とでも言いたげに上司は目を細め、額に皺を寄せてから、取り繕ったような笑顔を窓に向けた。
「関東大震災っていったら君、もう22、3年経ってるじゃないか」
「いやぁ、23年なんて大した昔じゃないですよ。地球の歴史から見たらほんの一瞬ですから」
「そりゃ確かにそうだけど…… 全然ピンと来ないね」
流山の生家で震災に遭った時、俺は7歳だった。自分の立ってる地面が別段固いものじゃないという実感がその時、俺の体に刻み込まれた。
以来、成長するにつれて地震に対する俺の感覚は研ぎ澄まされていった。
ちょっとした揺れでも、縦揺れと横揺れの組み合わせで震源地と最大震度がおおよそ特定できる。後で新聞を見ると外れていたことがない。
窓の外に目をやると、日が沈みかかっていた。
米軍の爆撃ですっかり平らにならされた東京の見晴らしのよさは格別だ。黄色く染まる空を背景に、ところどころ刃が欠けた鋸みたいなシルエットが浮かび上がっている。
「間が抜けてるな。戦争に負けてから神風が吹くみたいに。……どうだい君。傷は最近になっても痛むの」
上司は俺が北支で貰った右肩の貫通銃創のことを尋ねている。
「まだ時々痛みますね。寒くなってからが辛いんですよ」
「大変だな」
「とんでもない。腕が二本ともついてるんですから。文句言ったら罰当たりもんです」
「ハハハ、そりゃそうだわ」
「じゃ、今日は少し早いですがこれで」
「うん、お疲れさん」
……8カ月前に復員してきて、まだこの会社があったのには俺も驚いた。
中支から北支と丸3年半転戦して、終戦三月前に銃弾を食らい伍長で帰還。大森の焼け残ったビルを冗談半分に覗いてみたら、出征前に俺が勤めていた会社の看板がそのまま掛かっていた。
「おう、君か。お疲れさん。いつ出社できる?」
ドアを開けて出てきた社長はこともなげにそう言った。
もともと従業員20人足らずの小さな会社だったし、社長も俺の壮行会に出てきて万歳の音頭を取り、俺の手を握り締めて「お国のために立派に働いてきてくれ!」と涙を流したのはよく覚えている。今考えると、何で泣いたりしたのかよく分からない。
俺の生還を誰かから聞いて知っていたのかどうか。それはともかく、満足に傷も癒えていない復員兵に向かって「いつ出社できる?」には面食らった。
今日明日というわけにはまいりません、家族に会ってから考えますと答えると、社長はうん分かったとだけ言って事務所に引き返した。
俺の出征中に父は亡くなり、母親は川崎の親戚の家に身を寄せていた。
出迎えた母親との間ではお約束の愁嘆場があり、憔悴と安堵と今後の不安がごちゃ混ぜになったような親戚たちのいたわりを受けながら、俺は1カ月ほど魂の抜けたような日々を過ごした。
そして傷の癒え具合を見計らって会社に顔を出し、現在に至っている。
今はまだ親戚の家に母親と二人で居候しているような格好だが、いつまでも厄介になっているわけにはいかない。
岐阜の山奥に親父の実家がある。「お前は跡取りになれる」そう遺言を俺に宛てて残し、親父は死んだ。
母親を連れてそちらに引っ込むとなれば…… 今の務め先との関係は当然考えなくてはならない。
会社を出てそんなことを思いめぐらしつつ歩いているうちに、多摩川のほとりに近づいてきた。もうすっかり夜になっている。
今日はまだ帰る気になれない。少し蒲田の辺りをふらついて行こうと思った。
それにしてもこの数日冷え込んできた……
終戦から1年数カ月が経ち、この辺もぼつぼつ活気が戻り始めている。
焼け野原だったところにバラックが軒を並べるようになって、少しずつ人々の顔も穏やかになっているように見える。もちろん、俺の目にそう見えるだけだ。
屋台で焼酎でもひっかけていくか……
危なっかしい酒でも出されたら災難だ。店を選ばないと。
思案しながら歩いていた矢先、赤い絣の着物に進駐軍払い下げのコートを羽織った女がバラックの軒下から歩み寄ってきた。
「お兄さん遊んで行かない?」
「生憎だね。今はそっちよりこっちの方だ」
コップをあおる真似をしてから、俺の視線は女の顔の上で止まった。
女の方も俺と同時に気が付いたらしく、真顔になって俺を見ている。
「あらお久し振り。あなた生きてたの」
「申し訳ないがお互い様だな。お前さんまだこんな商売やってたのか」
「憚り様だね。老けただろあたし」
「いいや。前よりずっといい女になったよ」
「おや、口は達者になったのね。どう? 遊んでいく?」
「またにするよ。そう金回りがよくねえもんでな」
「そう。じゃ、あたしが奢るから一杯飲んでかない?」
奢ると言われて断る筋合いは何もない。俺と女はおでんの屋台に腰を据えた。
5年前に確か二度、この女の客になった。アメリカとの戦争が始まる前の話だ。
その頃は、遅かれ早かれ召集されるという自暴自棄に任せて遊び回っていたから、格別印象に残るような相手がいたわけでもなかった。
第一、入営してから特定の女のことばかり考えて夜な夜な涙にくれるなんてのは一番俺の性に合わない。
それは絶対に願い下げだという勢いも手伝って、娑婆っ気をとことんまで抜いてしまうことだけ考えていた。
それにしても、この女を一目見て思い出したのはどういうわけなんだろう。赤い絣に桐生の帯も、5年前の記憶が鮮明に蘇ってくるとは。
お互いの生存を祝してビールで乾杯してから、着物と帯のことを聞いてみた。
「これ? ああ、戦争中は着られなかったし、大事にしてたから空襲でも焼けなかったの」
「偉いもんだな。大抵は米にでも換えて影も形もなくなるのに」
「何度換えようと思ったかって。でもね、そのたんびに、他に換えるものがあったの」
「他に? 何が」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「……言いたくなきゃいいよ」
「でも、よく弾に当たらなかったわね」
「当たったよ。ここ」
俺は右肩を指差した。
「おかげで死なずに済んだんだよ」
「当たりどころがよかったんだ?」
「馬鹿言いやがれ」
少し酔いが回ってきた。女の顔にも赤みが差している。
「ねえ。今誰か女の人と暮らしてるの?」
「いいや。母親とね」
「……誰かいい人いるんでしょ」
「特に」
「悪い病気でも貰った?」
「貰ったかもだぜ。実際、向こうで淋病やってるし」
「治ったの?」
「そりゃ治ったさ」
「梅毒持ちにでも当たったらおおごとだよ。気ぃ付けな」
「今だってケジラミの一匹ぐらいはいるかもな。自分じゃ分からねえだけで」
「嫌ァだ」
「何気取ってんだ。お前だって見たことぐらいあるだろ」
「そりゃ、あるけどね」
「……ところでお前知ってるか。俺たちが普通に見るケジラミってのは、ありゃ幼虫なんだよ」
「何それ?」
「トンボみたいな翅が生えて、股ぐらから空に飛び立つんだ。それが成虫」
「また、馬鹿みたいなこと」
「いや、俺も戦地に行くまで知らなかったんだけど」
それはある中国人娼婦から聞いた話だった。
ケジラミは人間の血を吸って栄養を蓄えてから、ある日いっせいに脱皮して宙へ舞い上がる。
その姿は人間の目には見えない。しかし自分は見たのだと、その娼婦は言った。
透明な翅と体をした成虫が空いちめんを覆い尽くし、彼方の夕日が陽炎のように揺らめくほど乱舞するさまを。
ケジラミの成虫はこうして一夜の結婚飛行をする。人間の股ぐらで過ごした幼虫時代のすべてを、この一夜のうちに燃焼して死に絶える。
そして翌朝には、成虫の死骸が真っ白い雪のように地面と言わず屋根と言わず降り積もる。
故郷にいた時、自分はそんな死骸の山を踏みしめながら畑仕事に出て行ったことがある。
明らかな栄養失調でやせ細り、ほとんど気が触れかけている様子でそう語るのを、俺は黙って聞いていた。俺は後で食おうと思っていた饅頭を置いてその場を去った。
「でも…… たいがいは翅が生えない前に死んじゃうのよ、きっと」
「そうかもな」
「でなきゃ、どこもかしこもシラミだらけだよ。……ねえ。うちに来て飲み直さない? とっておきの焼酎があるんだけど」
「本当か? 偽物飲ませやがったら化けて出るぞ」
「怖いこと言わないでよ。間違いないから…… あら」
「揺れてるな」
コップがカタカタ鳴り、屋台の親父が口をヘの字に曲げて外に目をやる。だが大したことはない…… じきに揺れは収まった。
「けっこう地震多いわよね。このごろ」
「関東大震災の余震さ」
「ええ? また嘘ばっかり」
嘘、か。
この世界に本当のことなんてあるんだろうか。
俺たちは何年も何年も、嘘だけ聞かされて生きてきた。嘘以外は、耳に入れることも許されなかった。これから先も…… 多分そうなんだろう。
別にどうだっていい。とりあえず今、俺は少しいい気分で、この女はまあまあそこそこ。本当のことなんてそれくらいで十分だ。
それに何より、めっきり冷え込んできた。屋根のある場所で飲み直したいと切実に思う。これ以上に本当の何があるってんだ。
「じゃあ行くか」
「行きましょうか。大将お勘定。ごちそうさま」
終わり
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