東郷あい「ピースの匂いがする」 (60)

「タバコの匂いがするな」

 あいさんは助手席に座ると、物珍しそうに僕を見た。
 仕事など、彼女と一緒の時は吸わないようにしているのだけど、
 さっき時間をもて余していたものだからつい吸ってしまった。

「ピースだろ?」

「よくわかりますね」

「私も、前に吸ってたからね。ピース」

 あいさんはピース、と手でピースサインを作った。つい笑ってしまう。

「意外だな。あいさんが吸ってたなんて」

「大学生の時にね。とっくにやめたが」

「なんでやめたんですか?」

「恋人が嫌がってね」

 何気ない質問に、予想外の答えが返ってきた。
 僕は僅かなショックを隠せなかった。

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「恋人、いらしたんですか」

「すぐ別れてしまったけどね。いらしたんですよ?」

 あいさんはくつくつと笑った。僕は乾いた笑いをなんとか絞り出した。

「タバコより、恋人の方が意外だったかな?」

「いやぁ、なんというか……そういう話、今までしなかったので」

「まあ、そうだね」

 窓の縁に頬杖をついて、あいさんは物憂げに微笑した。
 僕は止まった頭を動かすように、エンジンキーを回した。
 車が咳き込み、アクセルを踏むと低く唸って駐車場を這い出ていった。

 あいさんとタバコは、意外な組み合わせだと思った。
 あいさんと恋人は、意外ではないとは思っていたけど、実際に聞くと僕の心は細波立つ。

「どうしたんだい。ぼんやりしているようだが」

「あ……すみません」

 妙な気分だ。今まで鳴っていた音が、急に途切れてしまったみたいに。
 ホルダーに居残ったぬるい缶コーヒーを取って、飲む。

「あいさんは、恋人……が居たんですよね」

「ああ、大学の先輩だった」

「好きだったんですか」

「好きだから付き合ったんだよ」

 あいさんはぷっと吹き出した。恋人ってそういうものだろう、と。

「今は?」

「今? さあ。目の前に来られて、好きだと囁かれたら……まあ、断るね」

「そうですか」

「ほっとしたかい?」

「いいえ?」

 ちょっとした強がりのつもりだった。あいさんは見透かしたように笑った。

「それは、プロデューサーとしてどうなんだろうね?」

「アイドルだから断るんですか?」

「いいや。違うよ」

 それきりお互い口をつぐんでしまって、事務所に帰るまでカーステレオだけ一人、歌っていた。

――――

 あいさんは今をときめくアイドルだ。と言っても一般的なアイドル像とは少し違う。
 端麗な容姿から、写真や映像の仕事が多い。
 ライブもしたことはあるが数えるくらいで、他のアイドルと比べればかなり少ない。

 僕は彼女の専属プロデューサー。一緒に仕事をし始めてから、もう一年以上経つ。
 そこそこ、仲の良い方だと思っていたんだけどな。
 僕は自身のネクタイをそっと撫でた。

 プロデュース一周年の記念にと、あいさんからプレゼントされた物だ。
 タバコを吸う度、あいさんが誰かを好きだったということを思い出す。過去に恋人が居たことを話す義務なんかないし、仲が良いから知ってなくちゃならないことでもない。ただ、僕の喉の奥でちりちりとした感情が静かに燻っていた。

 あいさんのことが好きなのか、と言われたら、僕は否定も肯定もしない。
 なんというか、あいさんが他人を好きになるというのがいまいち信じられなかった。

 変化を感じないほどに緩やかな毎日を僕は過ごしていた。
 小さな引っかかりが、その緩やかさに微かな傷をつけてしまった。

「お疲れ様でした。今日も綺麗でした」

 仕事終わりのお決まり台詞。
 いつもなら片手を上げて微笑んでくれるのだが、あいさんは怪訝そうな顔をして僕を覗きこんだ。

「……疲れているのは君の方じゃないか? 撮影中もボーっとして」

「そうですか?」

「そう見える。なにかあったのか?」

 なにかあったのに違いはないけど、自分自身、なにかがなんなのかは、まだよく分かっていなかった。

「疲れてるわけじゃないです」

「なら、いいんだが」

 あいさんはふっと一呼吸したあと、指を立ててタバコのジェスチャーをした。

「吸わなくていいのか」

「平気です。ヘヴィスモーカーじゃないですから」

「タバコなら、気にせず吸っていいからね」

「お気遣いどうも。でも、やめようかとも思ってて」

「どうして? まあ、それはそれでいいことだろうけどね」

「やっぱり、お金もバカにならないですし。それに臭いし」

 ピースを吸う度あいさんのことを考えてしまうから、とは言えなかった。

「私は好きだけどね」

 くん、と鼻を鳴らして、あいさんは微笑んだ。

「……あいさんの恋人は、タバコが嫌いだったんでしょう」

 あいさんは急になんだい、と微笑を少し苦く歪めた。

「嫌いだったみたいだ。それに、彼は真面目な人だったしね……」

「どうして別れたんです?」

「どうして君に言う必要がある?」

「……すみません」

 踏み込み過ぎたと気付いた。不用意に彼女の内側へ踏み入ってしまった。

「……いや……私こそすまない。ごめん、きつく当たった。謝るよ」

「あ、その、俺もずけずけとすみません」

「……君は、気になるのか?」

 あいさんの顔から、笑みが消えていた。
 冷めたような、僕を責めるような、印象的な表情だった。

「思っていたのと、違ったってさ」

 あいさんは鼻で笑った。自嘲的な笑みだった。
 そして、今までに彼女が見せた笑みと全く同じだということを僕は悟った。

「君は……どう思う?」

「どうって、僕は……」

「人の言う私と、私とが、全然違うのかもしれない。
 君もね、私をどういう人間と思っているか知らないけど」

 そう言って、ふっとため息をついたあいさんがなぜだか傷だらけに見えた。

「僕は、あいさんを誤解していたんでしょうか」

「さあね。どうだっていいさ」

 あいさんはうつろで、投げやりで、少女のような顔をした。
 きっとこの瞬間から、僕は彼女を好きになっていたんだと思う。

 僕はこの頃、あいさんのことをよく考える。
 彼女は異様に冷めていて、誰のことも好きじゃないみたいだった。
 僕はなぜだか、彼女に惹かれ始めていた。以前とは違う惹かれ方だ。

「好きなんだけどな」

 撮影の様子を遠目に見ながら、呟いた。
 プロデューサーと言う立場が、今は鬱陶しかった。
 人はステレオタイプが好きだ。

 あいさんの本当を表現できるように、僕が張り切ったところで売れるわけじゃない。
 まあ、僕もあいさんの本当を知らないのだけど。

 撮影を終えたあと、二人でファミレスに立ち寄った。
 正午をすでに二時間も回ったところで、店は空いていた。

「例えば、私がお子様ランチを注文したら、君は驚くだろう」

 メニューをぱらぱらとめくりながら、あいさんは例の微笑を浮かべた。

「はあ、まあ、そうっすね」

「君は私がなにを注文するか、分かるかい?」

「……さあ」

「そうだろう。でも、お子様ランチを注文したら驚くだろう?」

「まあ、そうですね」

「逆に、君がお子様ランチを注文したら、私は驚くだろうから……人にとやかくは言えないけどね」

 あいさんはメニューを閉じると、僕に手渡した。

「どうせ、たらこスパだろ」

「お子様ランチでも頼んでみましょうか?」

「頼めるものなら、是非に」

 あいさんは笑った。ただ、面白がっているようだった。僕はなぜだか嬉しくなった。
 店員を呼び出して、僕はたらこスパを、あいさんはハンバーグセットを注文した。

「たらこスパ以外にも食べてみたらいいのに」

「お子様ランチとかですか?」

「なんだっていいさ」

 運ばれてきたたらこスパとハンバーグセットをそれぞれ食べ終えると、あいさんは席を立ちかけた。

 お花でも摘みに行くのかと思って、僕は座ったままでいた。
 あいさんは怪訝そうに振り返った。

「出ないのかい」

「あれ、もう少しゆっくりしないんですか」

「や……タバコ、吸うかと思って」

 なるほど、食後の一服まで気を回してくれたんだな。
 ここのファミレスは全席禁煙で、外にこじんまりとした喫煙スペースが設けられている。
 吸わなくても平気です。そう言おうと思ったが、お言葉に甘えることにした。

「じゃ、すみません。出ましょうか」

 会計を済ませてから、外へ出た。
 もう季節は秋だ。暫く引きずっていた夏の匂いも、もう跡形もなく消えてしまった。

「ライター、貸してごらん」

 僕がタバコをくわえると、あいさんは手のひらを出した。
 ライターを渡すと、彼女はピースに火を点けてくれた。

 一口、吸い込んで吐き出す。

「おいしいかい」

「おいしいかと言われれば、別に」

 僕とあいさんの間を煙が妨げた。

「ところで、君は恋人は?」

「居ませんよ?」

「以前はどうだったんだい」

「……学生の時に、一人」

「ふぅん」

 フワフワと煙がたゆたって、あいさんの髪に触れると柔らかく捻れた。

「その人は、タバコは嫌いじゃなかったのか」

「その頃は吸ってなかったので」

「どうして、別れたんだい」

 あいさんが訊くので一生懸命に思い出そうとしたが、
 記憶は煙のように揺らいで、ふっと吹いたら消えてしまった。

「覚えてないです」

「……そういうものか?」

「さあ」

「好きだったんだろう?」

「好きだから付き合ったんです」

 いつかのお返しというつもりではないが僕が笑いかけると、あいさんは皮肉っぽく笑い返してくれた。

「おかしな話だ」

「そうでしょうか」

「好きだったのに覚えてないなんて」

「あいさんは覚えてますか?」

「前に話しただろう」

「……ああ、ええ、はい、そういえば」

 思っていたのと違った。
 あいさんの恋人がどんな気持ちで別れの言葉を言ったのか、僕は知る由もない。
 ただ、そう言われてあいさんがなにを感じたかは、なんとなく想像できた。

「僕も、似たような理由で別れたような気がします」

「君は言われた側?」

「ええ、はい。たぶん」

「……そっか」

「恋は盲目ってやつでしょうか」

「ショックじゃなかったか?」

「その時は、まあ……」

 なんとなく気恥ずかしくて、僕は肩をすくめた。
 伸びたタバコの灰を灰皿に落として、もう一口吸った。ため息代わりに煙を吐く。

「よく覚えてないですけどね」

「おかしな話だ」

 粘つく煙が糸のように、あいさんの顔の傍を掠めて消えた。

――――

 プロダクションのビル、その屋上へ続く扉はリウマチ持ちだ。
 錆びついた蝶番がギシギシと鳴っていて、微かに歪んだ隙間から風が通るので、
 扉から内側はとても寒い。

 猫の額のような屋上のフェンスにもたれて、僕はタバコを吹かしていた。

 ギギィーと、扉が例のうめき声を上げるのでそちらを見ると、あいさんが片手を上げて挨拶をした。

「やあ」

「はあ」

 あいさんが傍へ来て、同じくフェンスにもたれても、ピースの火は消さない。
 この頃は、あいさんの一緒の時でも遠慮せず吸っている。

「バカと煙は高いところが好きらしいが」

「煙と高いところが好きなので、僕は筋金入りのバカなんでしょう」

 そう言うと、あいさんはくすりと笑った。

「他に吸えるところ、なかったっけ」

「どこもかしこも禁煙ですから」

 一口吸うと、もう根本まで灰が伸びていて、ジジと音がした。
 ポケットから携帯灰皿を出して、吸い殻を投げ込んだ。

「追いやられてるな」

「虐げられてますね」

 お互いに顔を見合わせて、からからと笑った。
 ふと、風が撫で斬りにするように屋上に吹きつけた。

「ここは寒いな」

「もう秋ですから」

「夏は暑かっただろう?」

「まあ、悪くないですよ。ここ……」

 まばらに散らばった空と雲を指さすと、あいさんは静かに頷いた。
 風がまた一つ通り過ぎた。

「鱗雲だ」

「秋の空ですから」

「青い空だな」

「昼下がりでもあります」

「晴れている」

「風が吹くと寒いですが、割と暖かいです」

「そしてこれから仕事だ」

「行きましょうか」

「うん。行きましょうか?」

 屋上を降りて、デスクから荷物を取って、車へ乗り込んだ。
 助手席でシートベルトを締めたあいさんの横顔を、僕は盗み見た。

 彼女とは軽口を叩き合うくらいに、打ち解けているはずだった。
 以前から、打ち解けていると思っていた。

 気のせいかもしれない。最近、あいさんと話していてなにか隔たりを感じる。
 前の方へ顔を向き直すと、視界の底で見慣れたネクタイの模様が沈んでいた。
 青と紺のストライプ。あいさんからのプレゼントだ。
 特別な理由がない限り、毎朝、僕はこのネクタイを選ぶ。

「ラジオ、つけてもいいかな」

「あ……どうぞ」

 狭い車内が寒いほどに静かなのが気詰まりだったのか、
 あいさんはカチリとカーラジオの電源を入れた。

 色々チューニングを変えて、いつもの番組に落ち着いた。
 ちょうどリクエストの曲が終わったところで、その曲とバンドについて解説していた。

「この番組は、同じバンドばかりかけるな」

「ファンなんでしょう」

「でもリクエストだろう」

「じゃあ、ファンが良く聴くんでしょう」

「意味あるのかな。ファンなら聴いてて当然だろうに」

「みんなで聴くのが楽しいんじゃないですか」

「……なるほど」

 納得したのかしていないのか、あいさんはふっとため息をついた。

「あいさんは好きですか?」

「……なにがだい」

「このバンド」

 ラジオは長々とした解説と雑談が済んで、ようやく次の曲に移った。
 また同じバンドだった。

「好きってほど、好きじゃない。嫌いではないけど」

「僕は好きです」

「そうか」

 だからなんだ、なんて言わないところが僕は好きだった。
 以前は。今は違った。

「そうなんです」

 距離を取られているのが、僕にも分かった。
 これ以上は入り込まない――だから、これ以上は入り込まないでほしい。
 そういう意思が薄っすらと、僕とあいさんの間にカーテンのように引かれていた。

 あいさんとは短くない付き合いだ。
 どうして今になって、それが意識されるようになったのだろう。

 曲が終わり、長々とした解説と雑談のあと、また次の曲が始まって終わる頃、車は目的地へ着いた。
 駐車場に停めて、二人で車を降りた。

 昼下がりの蕩けるような太陽が、アスファルトにぼたぼたと日を落としていた。
 僕らの他に人は居なくて、鮮やかでグロテスクな秋の陽があいさんの姿を写している。

「あいさん」

 僕は反射的に、あいさんの背中に呼びかけた。

「好きです」

――――

 秋はいつの間にか始まって、いつの間にか終わるものらしい。
 十一月ともなると、雪は降らないまでも乾いた風は斬りつけるような冷たさだ。
 もうじき冬が来る。

 僕ははっきり、あいさんのことが好きだと自覚した。
 好きだと言ってから自覚するのもおかしな話だが、ともかく、僕はあいさんが好きだ。

 恋と言うと少し幼いような気もするが、彼女のことを考えればまぶたの裏側はほんのり温かで、
 舌の根は不安げに冷たい。

 そして、ピースの煙を吸い込んで、意識を吹き飛ばしてばかりだ。
 僕は代わり映えのしない風景の中に居て、ただ場面が流れているのに身を任せていた。

 あいさんのことを好きだと言った時も、彼女が立ち止まって、また歩き出したのを追った。
 追っただけだ。その後はお互いにまるでなにもなかったみたいにしていた。

 あれ以来、一度もあいさんに好きだと言っていない。
 もしかしたら、僕が彼女を好きだということも、伝わっていないのかもしれない。

 もう一度言う勇気はある。本当だ。
 本当だが、あいさんに何度言っても伝わらないと、不思議と確信を持っていた。

 アイドルとプロデューサーだから、今は仕事でいっぱいいっぱいだから、とか、
 表面的な理由ですり抜けて行く予感がした。

 秋の終わり、夕暮れの土手の道を歩いている。
 空は血が滲んだような赤紫で、映る物全てを影絵に変えていた。
 燻る雲と対照的に空気は冷たく、風に身震いしてしまうほどだ。

 高架の下をくぐり抜けて行ったところで、僕は足を止めた。
 どこからか音が聞こえた。草がなびく音、遠くの車の音、高架を伝わる振動の他に、音が聞こえた。

 今にも消えそうな楽器の音。

 踵を返し、高架下の土手を覗きこんだ。
 誰かが土手に腰を下ろして、サックスを吹いていた。
 あいさんだとすぐに分かった。

 彼女の丸められた背中と同じく、サックスの音は弱々しくて今にも消えそうだった。
 高架の上を電車が通ると、その轟音に彼女ごと埋もれてしまうような気さえした。
 音の隙間をかろうじて通り抜け、弱々しくサックスの音が高架下で響いた。
 あいさんの表情は見えなかった。

 僕はなぜだか居た堪れない気持ちになって、その場を足早に去った。

 土手を歩いているうちに、早送りの太陽が地平の裏へ転げて見えなくなった。
 空はまぶたを閉じて、暴力的な赤を失い、夜へと翻った。

 僕はこの夜にあいさんが取り残されているのが怖かった。
 冷たい空気が指先を濡らすので、僕は高架下へ戻ることにした。

 徒歩が急ぎ足に、小走りから全力疾走へ。踵が鳴る。
 あの弱々しい音が聞こえてきた。

 土手の途中で立ち止まると、サックスの音が止んだ。
 代わりに、僕の息切れがざらざらと頭に響いた。

 土手の下、あいさんはアルトサックスを手に、僕を見ていた。
 のっぽの外灯が僕らを右から照らす。

「いつも、ここでサックスを吹いているんですか」

 ようやく息切れが収まって、僕は言った。

「君は……その、なにしてるんだ」

 あいさんは怪訝そうに言った。気まずかった。

「いや、その……ランニング、です」

「……そうか」

「たまたま、通りがかって」

 僕は高架下の土手を降りて、あいさんの隣に腰を下ろした。
 はあと大きくため息をつくと、頬を汗が伝った。

「寒いッスね」

「暑そうに見える」

 そう言うあいさんはジーンズにシャツ、それにカーディガンだけで寒そうに見えた。
 僕は上着を脱いで、彼女の肩にかけた。

「寒そうです」

「結構、平気なんだけどな」

 あいさんは困ったように笑った。

「あいさんはいつもサックスを?」

「君はいつもランニングを?」

 あ、いや、と返事に詰まるのを見て、
 あいさんは意地悪そうな表情のままごめんごめん、と謝った。

「たまにね。ここにサックスを吹きにくる。夕方とか、夜とか。雰囲気あるだろう?」

「寒くないですか」

「平気さ。夏は蚊が出るからもうちょっと向こうで吹くんだが、秋から冬は高架下で」

 楽しいよ、とサックスを二、三度試すように吹いた。
 僕がなにも言わないのを見て、あいさんは一呼吸のあと曲を吹き始めた。

 最初はそれが曲かも分からなかった。
 冷たい水の底のような夜に怯えるような音。
 高架の上を電車が通ると、もうなにも聞こえなくなった。

 それでもあいさんは構わず続けた。
 途切れ途切れの、亡き王女のためのパヴァーヌ。
 隣に居る僕が耳を澄ませるくらいの、掠れたアルトサックスの響き。
 なぜだか、泣きそうになった。

 最後の一音を伸ばし、消すと、あいさんはサックスから口を離した。
 さらさらと風が鳴った。

「素敵でした」

「君が居たから、緊張した」

 あいさんはカチャカチャとサックスを分解して、布で菅の中を拭くと、ケースにしまった。

「いいところだろう。ここ」

「そうかも、しれないです」

 曖昧な返事に、あいさんはくすりと笑った。

「私だけの孤独だよ」

「……今日は僕も一緒でした」

「そうだね」

 あいさんはケースを抱えて、さっと立ち上がった。
 夜を振り払うようにくるりと向き直って、冷たく僕を見下ろした。

「また、聴く?」

「ええ、また、聴きたいです」

「じゃあ、その……練習してくる」

「さっきの、練習じゃないんですか?」

「……あれは私が、一人で好きに吹いてるだけだから」

「いいですよ。ただ好きに吹いてるのを、隣で聴いてるだけで」

 あいさんは二、三度まばたきをしたあと、さっと土手を登っていった。
 あいさんの後ろ姿が見えなくなって、目を夜空に戻すと、堪えていた涙がじわりと溢れてきた。

 愛しさが思考をバラバラに切り裂いて、手を伸ばしても届かないなにかに届いたような気がした。
 僕は一人で泣いていた。孤独だった。
 でも、本当は自分とあいさんとの孤独が半分ずつだった。

 涙が乾いてすぐに、立ち上がりかけてやめた。
 僕はポケットからピースを取り出して、くわえた。
 火を点けて一口吸うと、先端でジュッと灰が伸びた。

 宙に煙を吐き出すと、雲のように揺らいだ。紫煙の香りにあいさんの影を想った。

――――

 仕事の終わりや、オフの日。
 太陽が半分ほど隠れる時間に、例の高架下へ二人で座り込んだ。

 秋の風は冷たくて、震えながらアルトサックスの音で暖を取った。
 十一月の風景の中に座り込んで、枯れ葉が落ちていくのを見つめた。

 一日、一日、気温が下がっていった。
 僕とあいさんは、寒いからと暗黙の言い訳をしながら、徐々に互いの座る距離を縮めた。
 ほんの数十センチの違いなのに、互いに寄り添うと体温や呼吸、気持ちさえ驚くほど間近に感じた。

 高架下のサックス吹きはフォーレのシチリアーナや、
 アルルの女第二組曲のメヌエットを吹いてくれた。

 相変わらず消え入りそうな掠れた音で。

「今日はなにを吹いてくれるんですか」

 その夕暮れのあいさんは少し、ぼんやりとしているようだった。
 サックスを組み終えても、キーをパタパタいじるだけで、マウスピースに口を付けなかった。

「連絡が来たんだ」

「誰から?」

「前の恋人」

「会いたい、とか?」

「そう。久々に会いたいって。どう思う?」

「どう思ったんです?」

 訊くと、ためらうようにマウスピースの金具を緩めたり締めたりした。

「……私がちょっとばかり有名になったから、かな」

「人のことなんで、よく分かんないですけど、
 会いたくないなら会わなくていいんじゃないですか」

「君ならそう言うと思ったよ」

 肩の力を抜くようにふっと笑って、あいさんはようやくマウスピースを口にくわえた。
 久しぶりの『亡き王女のためのパヴァーヌ』だった。音が口元に滲む。

 前に聴いたのと同じように弱々しくって、消え入りそうで――淋しげなメロディの中に微かな光を灯していた。

 もうすぐ、十一月が終わる。秋が終わる。

「雪が降り始めたら、しばらくサックスもお休みだね」

 あいさんは薄闇の中呟いた。
 彼女の吐息は白く、外灯の灯りを受けて柔らかく光った。

「雪が降ったら終わりですか」

「指が動かないし、楽器にも悪い」

「……そうですね」

「春になったら、また始めるよ」

 あいさんはアルトサックスをケースにしまうと、僕の左肩に頭をそっと乗せた。
 それはほんの少しの間だった。すぐに、身体を離すと、ため息を一つ。

 僕が彼女を見たのと、彼女が僕を見たのと、同時だった。
 互いの目と目を覗き合い、その奥底に横たわるなにかを透かすように。

 どちらからか、定かでない。唇に体温を感じた。
 蕩けた氷が黒く染まるように凍る夜の中で、それは一層暖かかった。

 唇を離すと、あいさんは立って、逃げるように土手を登っていった。

 僕はすぐに後を追った。

 高架下の歩道をあいさんは急ぎ足に突っ切って行くところだった。
 僕は彼女の前に立った。互いの吐く息が白く浮かんだ。

「好きです」

「私は……ダメだ」

「どうしてキスをしたんです」

「好きだからだよ」

「どうして逃げるんですか」

「好きだからだよ」

 あいさんの目から、涙が落ちた。

「好きだから嫌なんだよ」

 ――僕は失望しない、なんて言ってどうする?
 だいたい、失望しないと宣言することは期待しないと宣言することに等しい。
 そもそも、あいさんは期待されることに疲れたのか。それは違うと思う。

「孤独は、二人で分け合ってちょうどいいじゃないですか……」

 僕はあいさんの好きに吹いたサックスが好きだった。
 あんな風に自由で、弱々しくって、消えそうな姿を僕に見せてほしい。

 それだけで幸福じゃないか――。
 あいさんは鼻をすすった。

「こんな、ところ、ファンに見られたら幻滅するだろうな」

「まあ、こんなところは……。でも、いいじゃないですか。
 寂しくなったら僕と居ましょうよ」

「フッ、そうさせてもらうよ……」

 そう言って、あいさんはゴシゴシと涙を拭いた。
 僕の抱いた温もりは、誰も知らない孤独だった。

 冬の間、僕らはなにをして過ごすのだろう。
 あいさんのサックスを聴けないなら、どこか遠いところまで――。


「ピースの匂いがする」

 あいさんは痛いくらいに僕を抱きしめた。

以上です。読んでいただきありがとうございました。
東郷あいさん、SRおめでとう。

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