ちなつ「blueはどこへ消えた?」 (65)
夏休みの、ある日の午後。
あかり「じゃ、じゃあ課外頑張ってきてねー」
ちなつ「うん」
私はあかりちゃんの笑顔に手を振って応え、ごらく部の部室を後にした。
今日は英語の補習授業。
ちょっと赤点取っちゃったからって、なにも貴重な夏休みを削って特別授業なんてしなくてもいいと思う。
宿題の量をちょっと増やすとか、そういう感じで。
それならごらく部のみんなに教えてもらえるから。
ごらく部は今日は休みのはずだったけど、私が補習授業を受けることを聞いて、今日を活動日にしてくれた。
私が帰って来るまで、部室で待っていてくれるのだ。
みんなの優しさに感謝。
私は補習教室に入って教科書とノートを広げた。
真面目に授業を受ける気は、当然なかった。
夏休みの宿題のことを考えていた。
今年は量が特に多いので、考えただけでイライラする。私はなにも手を付けてないし、ごらく部のみんなもペンを走らせている様子はなかった。
みんなで解こう。
特に、結衣先輩に教えてもらいたいな。
先輩の隣で、先輩の香りを楽しんで、いや、そんな、後ろから覆いかぶさるようなポジショニングなんて……頭がフットーしちゃいそう――。
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先生「はいここ、吉川さん」
当てられたことに気付くまで少し時間がかかって、突然気付いた時の感覚は、目覚まし時計をふと見たら起きる予定の時間をものすごくオーバーしていた時の感覚と似ている。
ちなつ「きゃっ、あ、はい」
きゃっ、とかわいらしい声を出してしまい、クラス中に苦笑の雨が降る。
先生「ボーっとしてちゃいけないでしょ。ほら黒板のここ、和訳してみなさい」
先生が教鞭でさした先には「I fell the blues.」と書かれていた。
ちなつ「あ、ええと、私は青を感じています」
本日二度目の苦笑。
先生「誰か分かる人」
クラスメイトの一人が手を挙げた。私は憂鬱です。
先生「そうね。吉川さん、blueの単語の意味をしっかり復習しておくこと、あと、授業に集中しなさい」
ちなつ「はーい……」
先生に注意されるし、そう言えば今朝は寝坊しかけたし、災難続きの日だなあ。
ちくしょーと口の中でぼやきながら、私は英和辞典を開く。
『blue』……えーとなになに、青。これはいいわね――。
あった。憂鬱な、って意味。
ふーんと思って、さっさと私は英和辞典を閉じる。
時計を見ると60分の授業時間の半分を過ぎたところだった。
帰ったら結衣先輩に「お疲れ様」って言葉をかけてもらっちゃったりして。
私にとって特別な存在に想いを馳せていたら、授業中であることを忘れていく。
この教室にいることすら忘れていく。
完全に脳内の世界に入り浸る。
私の、好きな人。
結衣先輩――。
早く、会いたいな。
私は結衣先輩に好きという感情を抱いているから。
時は思ったより早く進んでしまうんだ。
私の脳内で、結衣先輩とラブラブちゅっちゅな展開を思い浮かべていたら、授業時間なんてあっという間。
ほら、今チャイムが鳴った。先生が教卓の荷物をまとめ始める。
出席番号が一番若い子が起立、礼の号令をかけた。
私はさっさと教室を出る。
ごらく部へまっしぐらだ。
ちなつ「ちょ、京子先輩!」
京子「ごく、ごく……いやあ、美味いねえ、結衣の唾液の混じった麦茶は」
結衣「そんな風に言うな」
京子先輩は一息でコップを空にしてしまった。
結衣先輩との間接キス、したかったな……。
でも、意識しすぎちゃって、どうしても行動に移せない。
大好きな先輩。
女の子同士だからおかしいとか思われるのかな。
私はおかしいのかな。
でも好きなものは好きなので仕方がない。
私は京子先輩みたいに、結衣先輩との間接キスだということを気にせずに飲んでしまうことはできない。
でもその状況、飲むことを断る瞬間に芽生える、ああ、やっぱり好きなんだ、という感情。
これは何とも言えない。
あかり「ちなつちゃん、おつかれさまー!」
ちなつ「うん、ありがと」
それからあかりちゃんと二人でちょっとしたガールズトークをした。
戸を開け放った茶道部室に青い青い空が溶け込んでくるようだった。
その青さの中で、太陽は一段と遠くにあり、だからこそ映えて見えた。
おしゃべりをしている間にどんどんその太陽の高度は落ちてきて、心なしか寂しさを覚える。
なぜだかわからなかった。
涼しくなるのに。
そして十数分もすると、夕方の日の光が部室に差し込んできた。
京子「あれ、もうこんな時間じゃん」
ちなつ「みなさん今日は私のために学校まで来てくれて、ありがとうございました」
私はできるだけしおらしくみえるように頭を下げる。
結衣「そんなに丁寧にお礼言ってもらわなくていいよ。私たちも暇だったし」
あかり「そうだよぉ。私のおうちへ行こっ」
あかりちゃんとおしゃべりをしている時に、夕食をあかりちゃんの家で食べさせてもらうという約束をした。
ごらく部が解散した後、私はあかりちゃんの後をついていった。
あかりちゃんの家では既にあかねさんが凝った料理を作ってくれていた。
ちなつ「あの、ありがとうございます」
あかね「いえいえ、それよりも、いつもあかりと仲良くしてくれてありがとうね」
ちなつ「そんな」
私たちは料理を食べ始めた。
あかりちゃんが笑顔で、
あかり「ちなつちゃん、結衣ちゃんとはどこまで進んだの?」
と聞いてくるものだから口の中のご飯を噴き出しそうになった。
ちなつ「い、いきなりその話、する? しかもあかねさんの前で……」
あかねさんは微笑を崩さない。
あかね「あら、私は席を外した方がいいかしら」
ちなつ「いえ、そんなこと、していただかなくても……いやでもちょっと……よろしくお願いします!」
あかね「あらあら」
あかねさんは茶碗のお米を素早く平らげると、居間を出ていった。
詮索されずに済んで助かった。
あかり「で、どこまで進んだの?」
あかりちゃんは目をくりくりさせて問いかけてくる。私はあかりちゃんから目を逸らしたくなった。
ちなつ「……ごめんあかりちゃん! まだ結衣先輩に、好きだってことも伝えられないの……」
私は両手を広げた。
無意識のうちにそうしていた。
ちなつ「私、こんなに、こーんなに結衣先輩のことが好きなのに、たった二文字の言葉を発することができずにいるの。おかしいよね」
沈黙が流れた。
しばらく二人は料理に箸を着けることに夢中になっていた。
あかねさんの作った料理で、それまでは美味しく感じていたはずなのに、今は味を少しも感じない。
あかり「……でも、きっとチャンスは巡って来るよぉ。今はまだその時じゃないのかも知れないよ?」
ちなつ「うん……ありがと」
自分の問題だ。
あかりちゃんに心配してもらうようなことじゃない。
それを分かっていながら、私は一か月前、あかりちゃんに結衣先輩への想いを打ち明けた。
相談したところで何の解決にもならないし、いらない心配や迷惑をあかりちゃんにかけてしまうのに。
確かに打ち明けた当初は、永い間背負っていた重荷を下ろしたように気分爽快になった。
でも徐々に、埃みたいな小さなもやもやが、心の中に積もって来るのを感じていた。
あかり「私はずっと、ちなつちゃんのことを応援してるからね」
ちなつ「うん……」
あかりちゃんは優しい。
きっと私のことをうっとうしく思ったりなど全然してなくて、心の底から私を気遣い励ましてくれているのだ。
その事実がまた、私の胸をちくりと刺す。
私は弱い人間なんだ。
でも期待されている。
期待には、応えないといけない。
ちなつ「私、決めたよ。明日結衣先輩に告白する」
あかりちゃんの目がきらりと輝く。
あかり「うん、頑張ってねっ! でも焦っちゃダメだよぉ、無理だと思ったら、やめた方がいいよぉ。別に一回きりしか機会がない訳じゃないんだから」
私は頷きを返すことぐらいしか出来なくて――気付けばテーブルに涙を落していた。
あかり「ど、どうしたのちなつちゃん」
ちなつ「うん。あかりちゃんがそんなに私のこと、応援してくれるなんて――」
その時私のなかに新しく、温かな感情が芽生えた。
あかりちゃんとは仲のいい友達。
もしかすると、私はそれ以上を望んでいるのかもしれない――。
と、その考えはすぐに振り払った。
私は結衣先輩一筋だ。
あかりちゃんにまで恋心を抱いちゃいけない。
時計を見ると八時を回っていた。
思いのほか時間が過ぎていた。
私はそれから黙ってあかねさんの料理を食べ続けた。
食事を平らげ、あかりちゃんの部屋で話をした後、家に帰った。
家にはあらかじめあかりちゃんの家で晩ご飯を食べてくると連絡を入れてあった。
私が家に入りリビングに行くと、お姉ちゃんはもうお風呂に入っていた。
ともこ「お帰り、ちなつ。遅かったわね」
お姉ちゃんは少し起こった様子で私に声をかけた。
ちなつ「うん、ごめんなさい」
ともこ「いいなあちなつ、赤座さんのところへ簡単に遊びに行けて。しかもあかねちゃんのお料理食べたんでしょ!? 私も食べたことないのにぃ……」
お姉ちゃんの言葉は半ば愚痴だったので聞き流してもよかった。
でも、なぜだか私は聞き返していた。
お姉ちゃんの雰囲気が、なぜか私と同じに感じられたからかもしれない。
ちなつ「お姉ちゃんてもしかしてさ、あかねさんのこと好きなの?」
一瞬沈黙が降りた。
その後、お姉ちゃんの顔は茹でダコみたいな真っ赤になった。
ともこ「……それは」
ちなつ「友達としての好き、って意味だよ、もしかして、恋愛対象だとでも思ってるの?」
ともこ「……」
ちなつ「女の子同士って、ありだと思う? お姉ちゃん」
お姉ちゃんの顔は茹でダコのまま、ただこくりとうなずいた。
ちなつ「そうだよね。うん、私たちって姉妹だなって思った」
ともこ「もしかして、いつも話してる、先輩のことを?」
ちなつ「……うん」
人に恋心を打ち明けることが、こんなに恥ずかしいと知ったのは、あかりちゃんに私の想いを伝えた時だけれど、そう簡単に慣れるものじゃない。
私は顔が熱くなった。
ちなつ「お姉ちゃんも、あかねさんのこと……」
お姉ちゃんは観念したような口調で、
ともこ「そうね。私もあかねちゃんのことが好き。恋愛対象として。あかねちゃんのことを考えてたら、時折胸が締め付けられるように痛むの」
ちなつ「私も一緒だ」
ふたりで決まり悪く笑いあった。
これは血筋なのかもしれない。
私たちは、女の子を好きになっちゃうのだ。
それから私は黙った。
胸の内で、これは競争だと意気込んだ。
どちらが早く想いを伝えられるかの勝負だ。
その勝負は私の勝ちも同然だった。
なぜなら明日告白するのだから。
ともこ「実はね、私明日告白しようと思ってるの」
ちなつ「――そうなんだ」
これは、これは面白くなってきた。
ちなつ「お姉ちゃんに、できるの?」
私の口から思いがけず声が出た。
これは自分自身への問いかけでもある。
私に、できるの?
ともこ「ええ、きっとやって見せるわ」
お姉ちゃんはそれから、冷蔵庫から牛乳を取り出して飲んだ。
飲み終わると二階の自分の部屋へと上がっていった。
私はお風呂に入り、石鹸で丁寧に全身を洗ってから、湯冷めしないうちにベッドに入った。
これは勝負だ。
目を覚ますと十一時を回っていた。
昨夜はなかなか寝付けずにいて、なんとか眠りに入ったのは五時くらいだと思う。
それも仕方がない。
だって今日は、結衣先輩に想いを伝える日なんだから。
ごらく部は今日は休みだったので、直接結衣先輩の家に押し掛けるしかない。
私は結衣先輩の携帯にメールを送った。
『今日、先輩のおうちへ遊びに行ってもいいですか?』たったそれだけの文面を、打ち始めてから送信するまでに十分かかった。
何度も操作ミスをした。
携帯を持つ手に汗が滲んでいた。
返信はすぐに帰って来た。
『別にいいよ』と。
こういう男らしい飾らなさも、胸をときめかせる。
私は『二時くらいに遊びに行きます』と返信して、携帯電話を閉じる。
そわそわしながら過ごした。
お昼ごはんを少しだけ食べて、私は家を出た。
結衣先輩の家にたどり着いた。
私は緊張しながら、心臓をバクバク言わせながらインターホンを押した。
結衣『入っていいよ』
結衣先輩のクールな声が返ってきた。
玄関のドアの鍵は開いていた。
部屋に入った途端、肺が結衣先輩のにおいで満たされる。
私の大好きなにおい。
結衣「いらっしゃい、ちなつちゃん」
結衣先輩はやっていたゲームをポーズ画面に切り替え、玄関まで来て、私を出迎えてくれた。
ちなつ「あ、こんにちは、結衣先輩」
結衣「あれ」
結衣先輩は首をかしげた。
ちなつ「どうかしたんですか?」
結衣「いつもだったら私の顔を見るなり、腕に抱きついてくるところなのにな……と思ってさ」
私の脳みそは沸騰しそうだった。
確かにそうかもしれないけれど、今日の状況でそんなことは――できやしない。
私は返す言葉もなく、ただ顔を赤くしてうつむいた。
結衣「……まあ、入ってよ。今日は一人だよね」
ちなつ「あ、はい」
結衣「なにか相談でもあるのかな」
私は部屋の中へと招き入れられる。
普段どこか眠そうな表情でいることの多い結衣先輩だけど、そういうところは鋭い。
ちなつ「あはは、そうなんですけど……話すべき時になったら話しますね」
と、この場は濁すしかなかった。
結衣「なにそれ……まあいいよ、分かった」
なんとか話題を変えることができて、私は胸をなでおろす。
結衣「あ、そうだ」
ちなつ「どうしたんですか?」
結衣「ちなつちゃん、お昼ごはん食べた? 実は私ゲームに夢中になっててまだ食べてないんだ」
ちなつ「ダメじゃないですか! しっかり規則正しい生活をしないと体調崩しますよ!」
結衣先輩は頭を掻いた。
結衣「うん、そうだよね。ありがとう、心配してくれて」
ちなつ「いえ、そんな……」
私の大切な結衣先輩ですから、とは言えなかった。
結衣「オムライスでも作ろうっと」
そう言うと、ゲームのコントローラーを持ってセーブポイントでセーブをしてから、結衣先輩は台所に立った。
私はしばらく迷った後、
ちなつ「実は、私も食べてないんです」
結衣「もう、人のこと言えないじゃないか」
ちなつ「えへへ……ごめんなさい」
胃袋は満たされていなかった。
むしろ空腹感すら覚えていた。
結衣先輩の手料理が食べられるチャンスなのだ。
ここは嘘をついてでも食べなきゃいけない。
結衣「私作るから、まあゆっくりしててよ」
ちなつ「私も手伝います!」
結衣「大丈夫大丈夫、一人で作れるよ……あはは」
私は言われたとおりにしていることができなかった。
結衣先輩の力にならなければ。
ちなつ「私、先輩を少しでもお手伝いしたいと思います!」
結衣「うん、じゃあそこで応援しててくれるかな」
ちなつ「わかりました! フレーフレー! 結、衣、先、輩!」
私が応援している間に、チキンライスが出来上がり、後は卵を巻くだけの段階になった。
せめてケチャップ塗りくらいは手伝いたい。
けれどこれも結衣先輩に断られた。
どうしてだろう。
部屋のテーブルにオムライスの乗ったお皿が二つ。
私たちは同時に頂きますと言って、スプーンをオムライスに入れる。
とても美味しかった。
その後、二人で居間でゆっくりした。
私は漫画を読んで、結衣先輩はゲームの続きをやっていた。
しばらくその時間が続くと、私は時計が気になってきた。
午後四時だった。
さすがに二日連続で外で食事をしてくるのはまずかった。
早いうちに決着をつけなければ。
しかしもうこの部屋にはだらだらムードが漂っていて、話を切り出せるような状況ではなかった。
それでも。
私は言うって決めたんだから。
あかりちゃんも、応援してくれてるし、お姉ちゃんに負けるのは癪だから。
ちなつ「あの、結衣先輩、大切な話が」
緊張で耳のあたりの血管がしんしんとうずくように痛んでくる。
汗が体中から噴き出す。
結衣「なに?」
私の状況など全く知らないであろう結衣先輩は、ゲーム画面を見ながらいつも通り平坦な声を返してくる。
言わなきゃ、言わなきゃだめよ、ちなつ。
勇気を出して――
ちなつ「あの、結衣先輩は私のこと、どう思ってますか?」
結衣「どうって……とっても仲のいい後輩だと思ってるよ」
結衣先輩はそう言って笑う。
その笑顔じゃ、足りないんだ。
ちなつ「私は……私は……」
喉のところで引っかかる、二文字の言葉。
それを吐き出すようにして私は言った。
ちなつ「好き、なんです」
結衣「え……」
ちなつ「先輩のこと、ずっと前から好きでした。一目ぼれに近かったんです。しかも私に優しく接してくれて、私、堪らない気持ちになるんです……時折結衣先輩と、一線を越えてみたいと思うんです」
一言言った後は、ダムが決壊したみたいに言葉がどんどん出てきた。
ちなつ「だから、私、結衣先輩と付き合いたいんです。仲のいい友達以上の、新しいステップを一緒に踏みたいんです」
結衣先輩はコントローラーを取り落とした。
それから私の方に向き直り、姿勢をただした。
結衣「今のままじゃ、どうしてもダメなの?」
私にはその言葉の本意が理解できなかった。
私は結衣先輩と恋人同士になって、これまでできなかったいろんなことをしたい。
ちなつ「はい、ダメです」
結衣「……」
二人の間に沈黙が降りる。
結衣先輩はゲームをセーブせずに切った。
結衣「……ごめん!」
ちなつ「……」
結衣「ちなつちゃんが私のこと、そういう風に思ってくれてることは嬉しいんだけど……でも、どうしても私はちなつちゃんを恋人としては見られないや」
ちなつ「そうですか……」
なぜか、振られたという実感がわかなかった。
振られた事実そのものというより、結衣先輩の口から否定的な言葉が出た、そのことにショックを受けていた。
結衣「でも、ホントに気持ちは嬉しいから。これまで通り、仲良しでいようよ」
ちなつ「……はい」
心がどこか遠くへ放り投げられたような感覚だった。
結衣先輩の気遣いにも上の空の返事を返してしまう。
結衣「お菓子食べる? 昨日クッキー焼いた残りがあるんだけど」
ちなつ「あ、頂きます……」
ジワリジワリと、振られた事実にも苦しめられてくる。
結衣先輩がクッキーを取りに行っている間に、私は足ががくがくと震えるのを必死で抑えた。
結衣「ちなつちゃん……?」
ちなつ「はい?」
結衣「……ホントに、ごめんね」
結衣先輩はそう言って私の頬に伝う涙を指でぬぐってくれた。
やっと、自分が泣いているのだと気付いた。
意識した途端、私の涙腺はさらに緩くなった。
私は結衣先輩の胸の中で泣いた。
やさしく、ゆったりとしたテンポで、背中を叩いてくれた。
私は少しほっこりとした気分になったがしかし、結衣先輩のその行動は心の底までは暖めてくれなかった。
その後、どんな顔をして結衣先輩の家を出たのだろう。
はっきりと覚えていないが、笑っていなかったことだけは確かだった。
なぜなら、心がこんなに塞いでいるのだから。
家に帰るとお姉ちゃんは既に大学から帰っていた。
居間で紅茶を飲んでいた。
お姉ちゃんは普段通りだった。
しばらく、質問をするための勇気を振り絞っていた。
もう、お姉ちゃんとの勝負に勝つことはできないと分かっていたからだ。
こんなこと思っちゃいけないけれど、少しだけ、お姉ちゃんも振られてますように、と祈る自分がいた。
私も紅茶を淹れてしばらくくつろいだ。
意を決して私は尋ねた。
ちなつ「告白は、したの」
ともこ「……まだ、してないわ」
予想もしない返答に、私は戸惑った。
ちなつ「どうして?」
お姉ちゃんは慎重に、言葉を選ぶように言った。
ともこ「一緒に学食を食べてた時にね、いい雰囲気になったんだけど、まだその時じゃないなって思ったの。いや、違うわね。伝えたら、そこで終わってしまう気がするの。もちろん相手が了承してくれたら私たちは恋人同士になれる。でも、恋人同士であることにこだわる必要を、今のところ感じないのよね」
私には意味が分からなかった。
ちなつ「でも、恋人同士になったら、ほら、あんなことや、こんなこと……」
自分で言っていて恥ずかしいが、言葉を紡いでいく。
ちなつ「今までにない体験だってできるはずでしょ」
ともこ「その必要性を感じないのよ……今まで通りが続けばいい。そう思ったの。まあここは、私たちの価値観の違いなのかしらね」
お姉ちゃんは紅茶を飲み干すと、
ともこ「酷い顔、してるわよ。残念だったわね」
それ以上お姉ちゃんと顔を合わせていられなかった。
私は自分の部屋へ急いで入った。
涙でぐじゅぐじゅになった顔面なんて、誰にも見られたくない。
部屋に戻って、ふと気づいて携帯電話を開いた。
結衣先輩にメールをして以来見ていなかった。
新着メールが一件。
あかりちゃんからだった。
『告白、頑張って。応援してるよ』。
たったこれだけの短い文面に、私は再び涙がこみ上げてくるのを感じた。
涙と鼻水でべとべとになった手で、気づくと夢中になって返信メールを打っていた。
『ごめん。振られちゃった。応援してくれてたのに、ホントにごめん。私涙が止まらないの。でもなんで泣いているのか分からない気がする。結衣先輩はこれまで通り仲のいい友達でいようって言ってくれたのに、それだけでも今は満足するべきなのに……。おかしいよね。ごめんね。変なメールになっちゃって。』
すぐに携帯電話のバイブレーションが鳴った。
あかりちゃんが電話をかけてくれたのだ。
あかり「もしもしちなつちゃん?」
ちなつ「……もしもし」
喉がつっかえてまともに声が出ず、自分でもそのしわがれ具合に驚いた。
あかり「……ちなつちゃん、よく頑張ったよぉ……」
あかりちゃんの声にも、こちらに対する気遣いの色が感じられた。
あかり「残念だったね……」
ちなつ「ぐすっ……あかりちゃん……ありがとうね、本当にありがとう」
その後、言葉が思い浮かばなかった。
あかりちゃんも同じだったのだろう、無言が続いた。
ただ、薄暗い、寒い冷たい私の心の中に、あかりちゃんが私を心配して電話をかけてくれたという事実が、ろうそくの火のように染みわたっていくのを感じていた。
通話時間が十分に達した頃だった。
あかりちゃんが声を発した。
あかり「また明日、ごらく部で会おう。これまでどおり、仲良くだらだらと過ごそうよぉ」
ちなつ「うん……うん」
あかり「じゃあ、電話切るね」
ちなつ「あ、ちょっと待って」
自分の頭の中で言葉を編み出す前に、とっさに口を開いていた。
あかり「……どうしたの?」
ちなつ「私、あかりちゃんのことが好きなのかもしれない」
あかり「……それは、友達として? それとも……」
ちなつ「あかりちゃんは私の大好きな、親友だよ。本当にありがとう。それだけ」
電話が切れた。
もしかするとこれは、あかりちゃんに対する恋愛感情なのかもしれない。
けれどその事実を認めたくなかったし、認めたとしても迷惑なだけだった。
あかりちゃんに迷惑はこれ以上かけられなかった。
次の日、私はいつものように、ごらく部の皆みんなに熱いお茶を淹れていた。
体は習慣になじんでいるけれど、心はここにあらずという調子だった。
京子「ちなちゅ、今日のお茶はちょっと濃い目だね」
ちなつ「え、そうですか?」
茶葉も湯も同じ量を使っていたはずだし、淹れ方を変えた訳でもなかった。
結衣「そうだね……でも、これはこれで美味しいよ」
ちなつ「結衣先輩にほめてもらえて、私嬉しいです」
結衣先輩は黙ってお茶をすすった。
外は雨が降っていて、夏にしては涼しかった。
庭に通じる戸は閉め切られており、時折強い風が吹いてがたりと揺れる。
私たちは思い思いに過ごしていた。
京子先輩は寝そべりながら漫画を読み、結衣先輩は夏休みの宿題に取り組んでいた。
私も一応宿題を持ってきてはいたが、なんだか結衣先輩と同じことをするのが気まずかった。
家を出る時には、まだ結衣先輩とこれまで通り接することができるという、期待感を持っていたのかもしれない。
けれど顔を合わせた瞬間に、昨日の件で向こうもこちらを気遣っていることに気がついて、決まりが悪くなった。
私はあかりちゃんと他愛もない話をして、お茶を飲んだ。
つい顔をしかめてしまうほど、味が濃かった。
京子先輩と結衣先輩にはお世辞を言わせてしまったな。
私にしかできない仕事だから、それを代わりにする人はいないから、私を立てているんだろうな。
自分の存在はそういうもの。
崩壊を招いていないから、それでいいのだ。
日が暮れるまでは長く、1分が1時間、1時間が10時間に感じられた。
私たちは帰り支度を始めた。
下駄箱で靴を履き替え、傘を差す。
京子「いや……実は今日傘持ってきてないんだよね」
四人で、傘が三本。
ということは、一つの傘を二人で使う組が一つできるわけだ。
京子「いやさ、家出た時はそれほど振ってなかったじゃん? でも今はこんなに降ってて……なんの恨みがあるってんだ! ちくしょう! ちなちゅー、傘入れてー」
京子先輩は私の腕に抱きついてきた。
あかり「いや、京子ちゃん、ちなつちゃんの傘は小さいから二人で入ったら肩が濡れちゃうよぉ。私の傘も小さいし……」
四人の視線が、結衣先輩の大きな青い傘に注がれる。
京子「まあ結衣と相合傘するのなんて、私しかいないでしょ」
私は黙っていることしかできなかった。
京子「……あれ、ちなちゅが絡んでこない」
ちなつ「ちなちゅ言わないでください」
言葉を発して、自分でも、自分の声の重苦しい雰囲気に驚いた。
京子「いや、そんなに怒らなくても……わかったよ、ちなつちゃんが入ればいいでしょ」
ぶっきらぼうにそう言って結衣先輩のそばから離れる京子先輩。
ああ私、また気を遣わせちゃった。
私は結衣先輩の差す傘に入った。
京子先輩には私の傘を貸してあげた。
傘の中には気まずい空気が流れていた。
青い雨がぱたぱたと傘を叩く。
憂鬱を表す、ブルー。
その音が、気まずさを後押しする。
なにか話をしなきゃ。
――思い浮かばなかった。
次の日も、また次の日もごらく部は活動していたが、私の調子は変わらなかった。
いや、少しずつ、気分が塞いでいっているような気もする。
このままだと、私、どうなっちゃうのかな――。
その日も私はお茶を淹れ、机に突っ伏していた。
宿題なんて、一つも手をつけられていなかった。
私は濁りに濁った意識の中で、考え事をしていた。
忘れること。
恋をした人に振られた時は、そうすることが一番だとよく言われる。
しかし私にそんなことはできなかった。
なぜなら意中の存在は――すぐ近くにいる。
ごらく部にいる限り、結衣先輩と距離を置くことはできなかった。
――ごらく部を、やめる。
私はどぶの底から引きずり出したようなそのひらめきを、必死に殺そうと努力した。
私がいなくなったらみんなが迷惑する。
たとえば――。
私のごらく部での役割を考えてみた。
これが、笑ってしまうほど少ないのだ。
お茶を入れることぐらい。
私がごらく部に存在していなければならない理由は、それくらい。
結衣「あのさ、ちなつちゃん」
ちなつ「あ、はい」
結衣「ちょっと、ほかのみんなは部室から出ていてくれる?」
京子「まさか、愛の告白……」
結衣「違う」
京子先輩はにやにやしながら出て行った。
あかりちゃんは、その場を後にするのをためらっていた。
あかり「うん……」
ゆっくりと立ち上がり、京子先輩の後についていった。
ちなつ「どうしたんですか……」
結衣「あのさ、ちなつちゃん」
結衣先輩は真剣な表情だったのでこちらも居住まいを正した。
結衣「ちょっとごらく部を休部してみない?」
ちなつ「え……そんなの、嫌です」
そんなことをしたら――結衣先輩と会えなくなる、いや。
さっき結論を出しかけたじゃないか。
ごらく部をやめると、結衣先輩と距離を置くと。
結衣「じゃあさ、その、早く私と仲直りしようよ。みんな心配してるんだよ、ちなつちゃんの様子がおかしいってこと。いつもどおりに、早く戻ってほしいんだ」
ちなつ「じゃあ、先輩。私の想いを受け取ってください。私と付き合ってください。そうしないと、私は私じゃなくなってしまいそうになるんです」
結衣「……それは、できないんだ!」
結衣先輩は語気を荒げて言った。
結衣「どうしても、ちなつちゃんを恋愛対象だと思えないんだ……」
ちなつ「……ごめんなさい、私、勝手なことを言いました」
結衣「……そうだね。ちなつちゃんは勝手だ」
思ってもみない結衣先輩の言葉に、頭を金づちで殴られたような衝撃を受けた。
結衣「せっかくのごらく部の楽しい時間が、ちなつちゃんのぶすっとした顔で台無しになるんだよ。ちょっと考えたことある? ここにいるとき、自分がどんな顔をしてるのか」
結衣先輩は自分の鞄から手鏡を取り出し、私に押しつけるように手渡した。
――あはは。私、すっごいひどい顔してる。
結衣「これで分かった? きっとこのままちなつちゃんがごらく部に居続けるのは、ちなつちゃんにとっても良くないと思うんだ。いったん、休部してもらえないかな」
ちなつ「――わかりました。でも、少しだけ考える時間をください」
今日は金曜日だった。土日は活動は休みなので、次の活動日は月曜日だった。
ちなつ「月曜日に、答えを出してきます。――あの先輩、今日はもう帰りますね」
結衣「……うん」
私は荷物をまとめて帰った。
戸をあけるとそこには、私の憂鬱な気持ちと裏腹に、抜けるような青空が広がっていた。
太陽がまぶしくて目を細めないと見ることができなかった。
どうぞ、私を焼き尽くしてください。
私は弱い人間で、迷惑をかけて回る人間です。
邪悪な魂を、醜い下心を、焼き尽くしてください。
祈りは届かなかった。
翌朝、お姉ちゃんに揺さぶられて目が覚めた。
九時だった。
ちなつ「もう何よ、お姉ちゃん」
ともこ「ちなつ、私あかねちゃんと今日一緒に遊びに行くんだけど、ちなつも一緒に来ないかって誘いがきたのよ」
正直なところ、行きたくはなかった。
気分が悪くてずっと寝ていたかった。
しかし、せっかくの誘いを断るわけにはいかなかった。
もう私は、誰にも迷惑をかけてはいけない。
期待には、応えないといけない。
待ち合わせは九時半に駅前。
私は急いで身支度を整え、お姉ちゃんと一緒に家を出た。
ちなつ「でも、どうして私を連れて行ってくれるんだろう」
ともこ「さあね……私も今日の朝、急に誘うよう言われたのよ。詳しいことは分からないわ」
私たちは少し早足に駅を目指した。
駅にはすでにあかねさんの姿があった。
こちらに気づくと、元気に飛び跳ねて手を振ってくれた。
すいません寝ます
続きは明日の朝から昼ごろに
あかね「じゃあ、行こう!」
あかねさんはいつにもましてテンションが高いようだった。
おそらくお姉ちゃんと一緒に遊びに出掛けることが楽しいのだろう。
しかしそれなら、私を呼ぶ必要はない。
むしろいらない存在だろう。
あかね「ちなつちゃん、今日はよろしくね! いっぱい楽しもうね」
ちなつ「は、はい」
私は笑ったつもりだったが、うまく笑えていたかどうか分からなかった。
私たちは駅から五分ほど歩いたところにある喫茶店に入った。
お腹がすいていた。
あかねさんはサンドイッチと紅茶、お姉ちゃんは朝食に目玉焼きトーストと、コーヒーを頼んだ。
私もお姉ちゃんと同じものを頼む。
あかね「……さて」
あかねさんが仕切り直すように言った。
それまでのお気楽ムードが、がらりと変わった。
あかね「私がちなつちゃんを呼んだ理由を説明する前に、謝らなくちゃいけないことがあるの。私、あかりからちなつちゃんがこの前何をして、今どういう状況なのかをすべて聞いたの」
私は口をぽかんとあけたまま、あかねさんの話を聞く。
恥ずかしさは後からやってきた。
ちなつ「それってつまり、私が結衣先輩に告白して、振られて、落ち込んでるっていうことを全部知ってるってことですか……」
あかね「ええ、あかりが今日の朝になって、全部教えてくれたの。話しちゃいけないことだから、ちなつちゃんには絶対に内緒だって言われたけどね」
約束を破られたことに対する怒りは感じなかった。
約束を破られるような存在なのだ。
ちなつ「なんで私に話したんですか」
あかね「ちなつちゃん。あかりはちなつちゃんのことをすごく心配してるのよ。あかりだけじゃないと思うわ。ごらく部のみんな、ちなつちゃんのことを心配してる」
ふいに冷たい感情が私の中に満ちた。
私を、心配する?
やめておいたほうがいい。
心配して、元に戻ってくれるだろうと期待してくれているのなら、それは買いかぶりだ。
ちなつ「私がそのことを聞いて元気になるなんて思ってるなら、大間違いですよ」
あかね「もちろんよ。――でも、ちなつちゃん、ちなつちゃんは大切なことを沢山忘れていると思うの。――いや、目をそむけている、とも言えるかしら」
ちなつ「目を、そむけている? なににですか」
あかね「あなたが結衣ちゃんと過ごした日常、出来事、すべてからよ」
ちなつ「――それは仕方がないじゃないですか。今は思い出に浸る気分じゃないことぐらい、あかねさんにも分かるでしょ?」
私はいら立ってきていた。
私はふと、お姉ちゃんの方を向いた。
お姉ちゃんは姿勢良く座ったまま黙って話を聞いていたけれど、私の視線に気づくと、「なに?」と首をかしげて見せる。
目をそむけているのは、お姉ちゃんだ。
ちなつ「――お姉ちゃん」
ともこ「え?」
私は現状況下から逃避したい気持ちにかられていた。
いらいらして、あかねさんの結衣先輩についての話を聞きたくない気分になっていた。
そこに、ちょうどいい話題転換の機会を手に入れた。
ちなつ「お姉ちゃんは、あかねさんのことが好きなんだよね?」
お姉ちゃんをいじめることに快感を感じた。
あかね「知ってたわ。恋愛対象としてでしょう?」
お姉ちゃんの顔は、しかしながら赤く染まらなかった。
どうして。
私はお姉ちゃんをいじめたいのに。
あかね「この前学食を食べてたとき、てっきり告白されるのかと思ったけど、やっぱり思いとどまったのに気付いたわ。そうよね?」
お姉ちゃんは小さくうなずいた。
ともこ「……私の恋心に、気づいていたのね」
あかね「でも、それを伝えなかったのはどうして? 関係が壊れるのを、恐れたから?」
ともこ「そうじゃないわ! ただ、今まで通りでも満足いくかかわりができてるなって気付いたのよ。お泊まりまでしちゃったし……」
お泊まり。
私ははっと思い浮かんだ。
私も、結衣先輩の家に二人きりでお泊りをしたことがある。
――それだけじゃない。
二人きりで遊びに行った。
一度おでこに、キスをしてもらっちゃったりした。
私の中で、世界が開けたような心地がした。
お姉ちゃんの言っていることが、わかった。
ともこ「ちなつ」
お姉ちゃんの顔は怒りに歪んで――はいなかった。
柔和な笑みを浮かべている。
ともこ「わかったかしら」
私は頷きを返した。
ともこ「ちなつから、切り出されるとは思ってなかったけれど」
あかねさんとお姉ちゃんは声を合わせて笑った。
ともこ「ごめんねちなつ。今日二人でちなつを遊びに誘おうって決めたの、私なの」
頭が混乱してきた。
どういうこと?
あかね「わざと、私たちのような関係を見せつけたかったのよ。仲のいい友達同士の、私たちを。そして気付いてほしかった。あかりから聞いたの。『私、ちなつちゃんが結衣ちゃんの家に泊まった時のこと、聞いちゃったんだ』って言うのを」
私はもう、言葉もなかった。
あかね「それだけの仲になるのなんて、男女のカップルでも難しいわよ。私はその話を聞いたとき、思った。ちなつちゃんと結衣ちゃんは、恋人以上の友達なんだって」
恋人以上の、友達――。
そこで注文が運ばれてきた。
ともこ「私とあかねちゃんも、恋人以上の友達だよね!」
お姉ちゃんはためらいなくトーストを小さくちぎり、
ともこ「はい、あーん」
あかねさんに食べるのを促した。私はいてもたっても居られなかった。
早く謝らなきゃ、そしてこれまで通り、仲良く接しなきゃ。
恋人以上の友達として。
ちなつ「ねえ、お姉ちゃん、私の分も食べておいて」
ともこ「えぇー、太っちゃうわ」
そう言いながら、私のお皿を自分の手元に引き寄せてくれた。
ともこ「でも、食べさせあいっこが沢山出来るからいいや」
あかね「それじゃ私も太るじゃないの」
二人は笑っていた。
もう、二人の邪魔をしてはいられなかったし、私にはすぐにすることがあった。
私は喫茶店を後にし、結衣先輩の家へ向かった。
インターホンを鳴らした。
この前のように緊張することは、もうなかった。
結衣『はい……ってあれ、ちなつちゃん!?』
ちなつ「そうです。来ちゃいました。今後の予定が決まったので」
結衣先輩は少し黙ったあと、玄関のカギをあけ、私を家の中に連れ込んだ。
結衣「決めるなら、早い方がいいもんね。ちなつちゃん、休部――」
結衣先輩の言葉が終わる前に、私はその腕にしがみついた。
ちなつ「ああー、結衣先輩のぬくもりー」
結衣「ちなつちゃん?」
私はしばらく結衣先輩を堪能した。
長い間触れていなかったせいだろう、結衣先輩の皮膚は余計に張りがあって、それでいて女の子らしい柔らかさもあるように感じられる――絶妙だった。
結衣「――無理しなくていいんだよ」
ちなつ「無理なんて、してません」
結衣「これまで通り接するなんて、ちなつちゃんにはできないこと、分かってるから――私はちなつちゃんが無理してるの、悲しいな」
ちなつ「無理なんて、してませんてばぁ!」
私は声を荒げる。
ちなつ「私は結衣先輩が好きです! お互い恋愛感情をもちあっていたら、もっと先のことが先輩とできると思ってました」
言葉は頭で考える前に、どんどんと出てくる。
ちなつ「でも、そうじゃなくても、私、結衣先輩と十分すぎるほど親密な関係だったんだって気付いたんです! お泊まりもしたし、き、キスだってしてくれたじゃないですか!」
私は最後の言葉を紡ぐ。
ちなつ「私たち、恋人以上の友達です、そうですよね?」
しばらく沈黙が続いた。
結衣「ちなつちゃん……ほんとに、信じていいんだね」
結衣先輩の目がきらきらと輝いていた。それは涙がそう見せていた。結衣先輩は、私を強く抱きしめてくれた。
結衣「仲直りできて、本当に嬉しいよ……本当に」
ちなつ「ちょっと、長いですって……」
結衣「元のちなつちゃんに戻った……その事実を、こうして確かめたいんだ」
なおも私は抱きしめられ続けていた。
のぼせあがってしまいそうな幸福感が、私の全身に駆け巡り、心は羽のように軽かった。
結衣「私も、いきなり休部をすすめるなんてどうかしてたよ……ごめん。ちなつちゃんは、私の思っていたより強い人だったんだね」
ちなつ「そんな……」
長い長い抱擁は、私のお腹の音で終わった。
ちなつ「えへへ……朝ごはん、作ってくれませんか?」
月曜日はすがすがしい晴れだった。
青空がどこまでも広がっていて、太陽はカンカンに照っていた。
私は太陽に近づいた気がしていた。
自分でもなにを考えているのか、よく分からなかったけど、とにかく自分は太陽に照らされていて、暑さよりもさわやかさの方が勝っていた。
心のどこからか、太陽に感謝したい気持ちすら沸いていた。
私たちはいよいよ一緒に宿題を教え合っていた。
私の苦手な英語の課題を、結衣先輩が教えてくれた。
結衣「ここのblueは、憂鬱っていう意味なんだよ」
そういえば、そんなことを夏季補修で聞いた気がする。
いつの間にか忘れていた。
ちなつ「へえ、そうなんですか」
あかり「あかりはそこ、わかったよぉ!」
結衣「おお、あかりは偉いな」
あかり「えへへー」
結衣「で、京子」
京子「なに?」
京子先輩は、相変わらず寝そべって漫画を読んでいた。
結衣先輩が課題のテキストを京子に見せる。
京子「ああそれ、そんなの夏休み最終日に全部やっちゃえばいいんだよ。てか夏休みは休みなんだから、休まなきゃだめっしょ。苦しむのは一日だけでいいって」
結衣「やれやれ……」
いつも通りの日常、それが戻ってきた。
私はごらく部の部室に入ったとき、まずみんなに謝った。
これまでぶすっとした態度をとっていたこと、そのせいで部全体の雰囲気が損なわれていたこと。
あかりちゃんは笑って許してくれたし、京子先輩はそもそもそんなことを気にしていない風だった。
私はその後、あかりちゃんに話をした。
ちなつ「あかりちゃん、あかねさんに私の秘密ばらしてくれてありがとね」
あかり「……え? 私、そのことで謝らなきゃいけないと思ってたところだよぉ。どうして?」
ちなつ「いいの……でも、とにかくあかりちゃんのおかげで、私は元気になれたんだよ」
あかり「……? なんだか良く分からないけど、役に立てたならなによりだよぉ」
そう、私はいろいろな人に感謝をしなければいけない。
ごらく部のみんなにも、あかねさんにも、お姉ちゃんにも。
みんな私のために、行動を起こしてくれたんだ。
助け合いっていうのかな。
京子「ちなちゅー、お茶淹れてー!」
ちなつ「ちなちゅ言わないでください……分かりましたよ」
そう、これも立派な、助け合い。
私に任された役割。
私はいつも以上に気合を入れてお茶を淹れた。
結衣「うん、おいしい!」
ああ、結衣先輩に褒められた。
それだけで、心があったかくなる。
京子「そんなことよりさ!」
京子先輩は重そうな鞄から、何やら取り出した。
京子「今日は天気がいいし、これやろうよ、これ!」
結衣「先にお茶飲めよ。京子が淹れてって言ったんだろ」
京子「いやでもさ、これ、絶対楽しいって」
京子先輩の手にあるものは――シャボン玉だった。
シャボン液が4つ、吹き口が……3つ。
京子「いやさ、一本なくしちゃったんだよねー」
どうしてそんな器用ななくし方ができるのだろうか。
ちなつ「はいはい! 私結衣先輩と同じ吹き口使いたいでーす!」
京子「え? いつもなら、『結衣先輩と間接キスだなんて……キャー!』って言ってそのまま妄想の世界に旅たって結局やらないパターンじゃん」
ちなつ「でも先輩、友達同士なんだから、これくらい普通じゃないですか? あとものまね似てないです」
結衣「……私は、別にいいよ」
私のお茶は後回しにして、私たちは中庭に出た。
ちなつ「ほら先輩、交代で吹きましょう!」
結衣「うん……じゃあ、私から」
結衣先輩がシャボン玉を吹いた。
ちなつ「次、私です」
私は何のためらいもなく、吹き口をくわえ、シャボン玉を吹いた。
京子先輩とあかりちゃんも、がんばって沢山のシャボン玉を吹く。
勢いよく飛ばされたシャボン玉の円形が、太陽の光に照らされて虹色に輝いた。
風が吹いていなかったので、青い空に吸い込まれるように上昇していく。
校舎の屋根まで届いたシャボン玉の群れは、消えていく最後の瞬間に美しい白いきらめきを残した。
おわり
読んでいただきありがとうございます。
これはひとつの提案として書いたものです。賛否あると思います。
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