貴音「月光Cage」 (545)

ミステリSS
オリキャラ多いのでご注意を
長いです
よろしくお願いします

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――気が付くとわたくしは、暗闇に包まれておりました。

暗く、狭く、固い……箱の中でした。

手足を伸ばすこともできないほどの密閉された空間。箱の蓋は固く閉じられ、内側からはとても開くことができませんでした。

もちろん、助けを呼びました。声も出なくなるほど、泣き叫びました。

しかし……助けは来ませんでした。

どれほどの時間、その中にいたのかはわかりません。数十分か、あるいは数時間か……。

泣き疲れたのと、箱の中の空気が薄くなっていたのでしょう、段々と息が苦しくなってきました。

そして意識も朦朧としてきた頃……箱の外から音が。かちゃり……と、鍵の開く音でした。

恐る恐る箱の蓋を上へと押し開けたわたくしは、そこで初めて、自分が閉じ込められていたのが旅行鞄であると知りました。

周囲には見覚えのない光景が広がっていました。木々が生い茂り、土の地面が広がっていて……おそらく、祭り会場からも離れた森の奥だったように思います。

――誰が鍵を開けてくれたのだろう? その『誰か』はすぐそばに立っていて、わたくしは目を上げました。

夜の闇の中で、月の光に照らされたその姿、今でも目に浮かびます。

……そこにいたのは、『鬼』でした。

――2月某日

P「はぁ。寒……」

事務所への階段を昇りながら一人つぶやく。立春はとうに過ぎたというのに、寒さはまったく衰える様子を見せない。近頃は異常気象のニュースもよく耳にするが、これ以上寒くなるのだけは勘弁してもらいたい。

――『765プロダクション』

いつもどおり、社名の入った扉を開けて、

P「おはようございまーす……」

小鳥「あ、おはようございます。プロデューサーさん」

いつもどおりの挨拶を交わす。

雪歩「おはようございます、プロデューサー」

P「おはよう。今日は早いんだな、雪歩」

雪歩「はい」

雪歩はどこか憂いを帯びたような表情で頷いた。

P「何か、元気ないな?」

雪歩「い、いえ、そういうわけじゃないんですけど……もう、一週間になるんだなぁって、考えてたんです」

P「ああ……そういうことか」

雪歩が視線を向ける先にあるのは、壁にかけられたコルクボード。事務所の皆で撮った写真で埋め尽くされたようになったその中に、今はもうここにはいない『彼女』の姿を見て懐かしんでいるのだろう。

彼女……四条貴音がアイドルを辞めてから、一週間が経っていた。

一週間前の朝、事務所の扉に一通の手紙が挟み込まれているのに気がついたのは、たまたま一番早くに出社してきていた俺だった。

手紙には、彼女がアイドルを辞めるということと、それをその時が来るまで黙っていたことへの謝罪の言葉が綴られていた。謝っても許されないことは承知の上だが、それでも謝ることしか出来ない、ということも。

その日以来、貴音は765プロからその姿を消してしまった。いや、それどころではない。事務所に記録されているマンションからは既に彼女は退居しており、携帯電話も通じなくなっていた。

つまり、貴音は事実上失踪してしまったことになる。誰も、その行方を知らないのだ。

雪歩「あの日から何度も考えるんです……四条さんがどうしていなくなってしまったのかってこと」

P「俺だってそうだよ」

多分、事務所の全員がそうだ。

P「でもわからない」

手紙にはアイドルを辞める理由も、行方をくらませる理由も、何も書かれていなかったから。

小鳥「……きっと、なにか事情があったんだと思いますよ。深い事情が」

P「俺達にも相談できないような?」

小鳥「そうです。貴音ちゃんじゃなくても、女の子には秘密の一つや二つあるものなんですから」

小鳥さんは努めて明るく振る舞うように言うが、貴音に何らかの秘密があったというのは間違いないと思う。

思い返してみれば、貴音が俺たちに彼女自身のプライベートなことを話してくれたことなんて殆どなかった。でもそれが貴音のらしさでもあるとか、そんな考えでいたのが甘かったのかもしれないと思い始めていた。

無理矢理にでも貴音の秘密を聞き出していれば、また違った結末もあったのかもしれないと。

……しかし、後悔してももう遅い。貴音は、いなくなってしまったのだから。

こんこん、とノックの音がした。

「すみません」

入り口の扉が開いて、声の主が姿を現す。男だ。

ボサボサの頭に乗ったハンチング帽、無精髭の生えたその顔はややほっそりとしている。年齢はぱっと見で30過ぎくらい。雪歩がさっと俺の背後に隠れた。

「やぁどうも、初めまして。自分は黒田という者でして」

ジャケットの胸ポケットから名刺入れを取り出し、その中から一枚を差し出す。

P「フリーライターの……黒田九里太(くろだ くりた)さん?」

黒田「ええまぁ、どうぞよろしく」

薄笑いを浮かべながら、帽子に手をかけて頭をひょいと下げる。

小鳥「あの……何のご用でしょうか?」

黒田「あぁそうそう。あんた方、今、話していただろう? 四条貴音の失踪についてさ」

P「ッ……!」

小鳥「……聞いていたんですね。扉の外で」

黒田「ああ怒らないでください。偶然ですって、悪気はなかったんだ」

そう言いながらも、悪びれた様子はまったく見せない。

小鳥「……ご用件はなんでしょう?」

黒田「だからさ、ちょっとその話に混ぜてほしいんだけど」

小鳥「え……?」

小鳥さんが困惑したようにこちらへ視線を向ける。いや、そんな助けを求めるように見られても困るのだが……。それより、何を言ってるんだこの男は?

P「あの、申し訳ないんですが……」

黒田「まぁまぁ、聞きなよ。俺は『四条貴音の行方を知ってる』……って言ったら、どうする?」

小鳥「……え?」

P「い、今なんて――」

黒田「俺は四条貴音の行方を知ってるって言ってるんだ。それでもここから追い出すってのかい?」

P「……その話、詳しく聞かせていただけますか?」

黒田「へへ、もちろん。そのために来たんだからさ。あー……そっちの部屋を使っても?」

黒田は隣の休憩室を指差す。

小鳥「あ……はい、どうぞ」

黒田「オーケー、じゃあゆっくりじっくり、話そうじゃないの」

小鳥「お茶です、どうぞ」

P「ありがとうございます」

黒田「お、どーも」

小鳥さんが二人分のお茶を運んでくれる。部屋の外側で雪歩が心配そうにこちらを見つめているので、「大丈夫」と言うように頷いてみせる。

テーブルを挟む形で黒田と向かい合ってソファに座る。

小鳥「隣、いいですか?」

P「ええ、どうぞ」

小鳥さんも黒田の話に興味が有るのだろう。

黒田「さぁて、と……何から話したもんか」

向かいに座る男は呑気に茶を啜っている。

P「貴音は今、どこにいるんです? それに、あなたはどうしてそれを知ってるんですか?」

黒田「まぁまぁ。そう焦りなさんな。順番に話そう」

小鳥「そんなこと言って、嘘……じゃないでしょうね?」

小鳥さんが黒田へ訝しげな視線を送りつつ言う。

黒田「嘘だって?」

黒田は片眉をつり上げて小鳥さんの方を見た。

小鳥「正直に言って、あなたを信用できる根拠がありませんもの」

たしかに、いかにも怪しげな、しかも初対面のこの男を信じろというのも無茶な話だ。

黒田「なるほど。それももっともなご意見だ。でも、信用するかどうかの判断はとりあえず俺の話を聞いてからでも遅くはない……そうだろう?」

小鳥「……わかりました。遮ってしまってすみません。話していただけますか?」

黒田「オーケー。まずは四条貴音が今どこにいるかって話だが……俺の読みでは、彼女は今、実家にいる」

P「……実家?」

俺と小鳥さんは思わず顔を見合わせる。

黒田「そう、実家。……その様子だと、やっぱりあんたたちも知らないんだね。四条貴音の実家の場所は」

P「……あなたは、知ってるんですか?」

黒田「知ってる」

P「どうして?」

黒田「記者だから」

P「真面目に答えてくださいよ」

黒田「真面目だよ。彼女のもとに手紙が届いていた。その数日後、彼女は大きな荷物を持ってマンションの前に迎えに来ていた高級車に乗り込んだ。俺はそれを見てたってだけさ」

P「……?」

黒田「手紙の差出人の住所にはとある村の名前があった。珍しい場所だったから記録しておいたんだ。後で調べてみたら、ドンピシャだ。その村には四条家という名家が存在していたのさ。となると、そこが彼女の実家で、手紙は里帰りを促すものだったと推測できやしないかね?」

P「ち、ちょっと待ってくれ、そもそもなんであんたが貴音宛の手紙を……」

小鳥「……貴音ちゃんのマンション、たしか集合ポストでしたよね?」

P「まさか、投函物を盗み見たのか!?」

黒田「なにも中身まで開けて見たってんじゃないさ」

P「……それでも立派な犯罪だ!」

黒田「あーそうかい、だったらこの場で俺を警察に突き出すか? とはいえ、俺がそうしたっていう証拠は残っちゃいないだろうし、あんたらは四条貴音の行方についての手がかりを失うことになるけどなぁ」

P「…………」

小鳥「プロデューサーさん……」

悔しいが、この男の言うとおりだった。ここで黒田を告発したところで、なんの解決にもならない。

落ち着いて考えるためにもひとまず頭を整理する。

要するにこの男は貴音の身辺情報を探っていたのだ。貴音はようやくアイドルとしての軌道に乗り始めたというところだった。そのアイドルの、謎に包まれた過去……なるほど、そういった類の記者にとっては格好のネタだろう。

黒田「まぁ絶対、というわけじゃないが……俺の読みでは十中八九、彼女はその村に帰ってるね」

P「……どうしてそんなことを俺たちに教えたんだ?」

黒田「うん?」

P「あんたが俺たちにその情報を教えて、いったい何になる?」

黒田は短く口笛を吹いた。

黒田「なかなか目ざといね。話が早いや。交換条件ってやつだよ」

P「交換条件?」

黒田「こちらはあんたに村の情報を教える。いや、なんなら一緒に村まで連れて行ってやってもいい。代わりにあんたから、四条家の人間に口をきいてほしいのさ」

P「仲介役をしろってことか?」

黒田「調べてみたら、四条家というのはその村の元締めのような役割をしているらしい。俺みたいな人間が一人で行ったところで追い返されるのが関の山だろうと思ってね」

P「……なるほど」

そこで聞いた話を記事にしようという考えか。

黒田「なぁに、別にあれこれと騒ぎ立てるようなスクープを書こうってんじゃない。むしろ、俺としては早めに記事にしてしまったほうが彼女のためでもあると考えてる」

P「それは、どういう意味だ?」

黒田「四条貴音は誰もが知ってるトップアイドル……ってほどではなかったにしろ、まぁそこそこ人気の出かかってた将来有望のアイドルだったよな。それが突如の失踪!なんてことが発覚してみろ、世間様はどういう憶測をしてくださるかわかったもんじゃないぜ」

P「…………」

黒田「戒厳令しいて隠すのにも限界ってもんがあるだろう。あることないこと噂されたら、この事務所全体のイメージダウンにだって繋がりかねない。……そう思わないか?」

P「……あんたが失踪の真相を記事にすることで、それを防ぐと?」

黒田「そういうこと」

黒田は人差し指をこちらへ向けて頷いた。たしかに、この男の言うことにも一理ある。貴音のことは今のところ社外秘で、高木社長の尽力もあってマスコミにも――この男を除いては――嗅ぎつけられている様子もない。

しかし、いつまでも隠し通せるわけではない。黒田の言うとおりのような事態が起こらないという保証はないのだ。

黒田「……で、どうだ? あんたにとっても悪い話じゃないだろう?」

P「…………」

小鳥「プロデューサーさん……どうするんですか?」

P「……どうするのが一番いいのか、正直なところ俺にはわかりません。要求を呑んで、この男を貴音に近づけることが結果的に貴音に迷惑をかけてしまうかもしれない」

小鳥「…………」

P「でも俺は……貴音に会いたいです。この機会を逃したら、本当に一生会えないかもしれないから」

そんなことになったら、絶対に後悔することになるから。

小鳥「……わぉ」

黒田「へぇ、なんなの? あんたらそういう関係だったの?」

P「……違うよ。そんなんじゃない」

黒田「ふーん。ま、そういうことにしといてやらぁ」

小鳥「私も、それでいいと思います」

P「小鳥さん」

小鳥「私だって知りたいですから、どうして貴音ちゃんがいなくなってしまったのかってこと。貴音ちゃんは隠しておきたかったのかもしれないけど、それでも……理由も聞かされないままお別れなんて、悲しすぎます」  

俺は頷く。そうだ。こんな形での別れなんて、納得できるはずがない。

黒田「……じゃ、要求は呑んでくれるんだな?」

P「ああ」

黒田「じゃ、ひとまず交渉成立ってことで」

P「なぁ黒田さん」

黒田「ん?」

P「あんた言ったよな、村まで連れて行ってやってもいい、って」

黒田「……ああ、言ったな」

P「『今すぐ』、行くことはできるのか?」

小鳥「はぁ!?」

黒田「へへ……俺は別に構わんよ?」

小鳥「ちょっと……! いくらなんでも急じゃないですか?」

P「なんていうか、その……居ても立ってもいられなくて……」

小鳥「えぇー……」

P「すみません小鳥さん。社長に伝えておいてくれませんか。それに後で来た皆にも」

小鳥「うぅ~ん……?」

P「お願いします、小鳥さん!」

小鳥「…………」

P「…………」

小鳥「………………はぁ~……いいですかプロデューサーさん?」

P「は、はい」

小鳥「あなたが急に現場を空けるなんてことになったら、どれっっっ……だけ迷惑がかかるか、わかってるんですか?」

P「う……」

思わず目線を下げる。考えてみれば当然だ。勢いで言ってしまったものの、勢いだけでどうにかなる問題ではない。

小鳥「…………これは、大きな貸しにしておきますからね」

P「…………?」

顔を上げると、小鳥さんは微笑んで俺の肩に手をかけた。

小鳥「私だって、貴音ちゃんのことは心配なんですから。……行ってあげてください」

P「……ありがとうございます!」

黒田「それじゃあ一時間後に出発だ。それまでに準備しといてくれよ」

P「待ってくれ。まだ重要な事を聞かせてもらってないぞ」

黒田「あ?」

P「貴音の実家があるっていうその村……俺達が向かう村の名前は、なんていうんだ?」

黒田「ああ……そういやまだ言ってなかったな」

黒田はゆっくりとその名前を口にした。

黒田「その村の名は……暁月村(あかつきむら)だ」

事務所の人間で貴音と最後に話をしたのは、たぶん自分だ。

あれは、貴音がいなくなってしまう前日の夜だった。

――仕事を終え戻ってきていた彼女は、事務所の屋上で手すりに身を寄せながら月を眺めていた。

P「こんなところにいたのか」

背後から声をかける。

貴音「!……プロデューサー」

いつもなら俺の気配を察して、「くせ者!」とでも言って振り返るところなのだろうが、その時は声をかけられるまで気がつかなかったようだ。

P「夜は冷えるんだし、風邪ひくぞ」

貴音「そうですね。もう少ししたら、下へ戻ります」

そう言ってまた月を眺め始める。俺は彼女の横に移動して、

P「……俺も、ここで少し休憩していってもいいかな?」

貴音「ええ、もちろん」

P「最近、少し元気が無いみたいだけど」

貴音「……わたくしが、ですか?」

P「ああ」

貴音「そうでしょうか……わたくしはいつもどおり、ですよ?」

そう言って、やや疲れたような微笑みを返す。

P「……そうか? 俺の気のせいならそれでいいんだけど。困ったこととかあったら遠慮なく相談してくれよ?」

貴音「心配していただき、ありがとうございます」

貴音は丁寧に頭を下げる。今度は視線をビル下の街並みへと移して、言葉を続けた。

貴音「……もうじき、一年になります」

P「一年……?」

一瞬何のことだかわからなかったが、すぐに思い当たる。

P「あ、そうか。もうすぐ貴音のデビューから一年か。早いなぁ。もうそんなに経つんだな」

実は内緒で記念パーティの準備を進めていたりもするのだが、今はまだ黙っておこう。

貴音「まこと、密度の濃い一年でした。経験する何もかもが、未知のきらめきに満ちていて……」

P「楽しかったか?」

貴音は深くゆっくりと頷いた。

貴音「言葉では言い尽くせぬほどです。きっと、生涯忘れることのない一年……」

懐かしむような、それでいてどこか寂しそうな声。

P「でも満足するのはまだ早いぞ。貴音はまだまだ上を目指せるんだから。これからも頑張って――」

貴音が袖で目元を拭う。

P「――貴音?」

貴音「すみません。目にごみが……」

そう言って小さく笑う。その目にはうっすらと涙が滲んでいた。

貴音「――そろそろ、わたくしは失礼させていただきます」

P「帰るのか?」

貴音「ええ、プロデューサーはまだお仕事が?」

P「あともう一仕事かな。もうちょっと風に当ってから戻るよ」

貴音「ご無理なさいませんように」

P「そっちも気をつけて帰れよ。お疲れさん」

下へ降りる階段の方へ五、六歩ほど歩いたところで貴音が立ち止まる。

貴音「……プロデューサー」

彼女はこちらを振り向かずに言った。

P「うん?」

貴音「先ほど言ったこと……あれは、間違いなく、わたくしの本心からの言葉です。この一年間は、わたくしにとって生涯の宝です」

P「……どうしたんだよ、急に?」

貴音「そして何より……」

貴音は俺の言葉には応えずに続けた。

貴音「765プロの皆と共に、その輝かしい時を共に過ごせたということ……それが、わたくしにとって至上の喜びであったということは……どうか、忘れないでいてください」

俺は言葉に詰まってしまう。貴音がなにを伝えようとしているのかがわからなかった。いや、言葉の意味ならばもちろんわかるが。でも、どうして急にそんなことを言い出したのか? その真意が掴めなかった。

貴音が歩みを再開する。

P「あっ……」

なんと声をかけたらいいかわからず、

P「また、明日な!」

そんな他愛のない言葉しか出てこなかった。

貴音は返事も、振り返ることもしないまま屋上を出て行った。

――黒田の車で移動を始めてから数時間が経っていた。

P「……まだ着かないのか」

黒田「それ訊くのさっきから何度目だぁ? ……もうすぐのはずだけどな」

車道は鬱蒼とした山の中に入り、随分前からすれ違う車もない。

P「……今更言うことではないかもしれないけど、約束を果たせるとは限らないからな」

黒田「あ? どういうこったそりゃ」

P「仲介役をするとは言ったけど、俺だって向こうからしたらよそ者には違いない。まともに取り合ってはもらえないかもしれないぞ」

黒田「あんたから四条貴音に頼めばどうにかなるだろ」

P「…………」

黒田「こっちは必要な情報は提供したんだ。いまさら契約不履行は困る」

P「わかってるよ」

黒田「……とはいえ、その暁月村に四条貴音がいるって確証があるわけじゃないけどな」

まずは情報収集する必要があるかもしれない。考えたくはないが、はずれ……すなわち貴音はこの村にはいない、ということも充分あり得ることだ。

黒田「……どうやら着いたみたいだぜ」

車が停まった。

ひとまず車から降りて周囲を眺め見る。

田んぼや畑ばかりが目立つ。電柱の住所表示からここが目的地の暁月村であることには違いない。とりあえず誰か村の人に話を聞きたいところだが……

黒田「人口約1000人。三方を山に囲まれたさびれた村……そう聞いちゃあいたが、予想以上に寂しいところだな」

P「……向こうの……広場かな? あっちに人が集まってるみたいだ」

目の前の坂を下った先に人だかりができていた。よく見ると、提灯や集会用のテントなどもある。

P「祭りの準備でもしてるのか……?」

黒田「そうかもなぁ。お前さん、ちょっと行って聞いてきてくれ」

P「え?」

黒田はいつの間にか再び車に乗り込んでいた。

黒田「ついでに四条家のことについてもな。俺はちょっと村をひと通り周ってみるよ」

車のエンジンがかかる。

P「お、おいおい!」

黒田「二時間くらい経ったらまたここに集合な。じゃ!」

黒田の乗った車はあっという間に行ってしまった。

……かくして黒田としばらくの間、別行動を取ることになったわけだ。

仕方なく歩いて広場へと向かうことにする。

道のりの途中、焼き魚だろうか、食欲をそそられる匂いに導かれ定食屋へと立ち寄ることにする。

昼はなにも腹に入れていなかったので、とにかくなにか食べたい気分だった。

店員「あらいらっしゃい」

おばちゃんの店員がにこやかに声をかけてくる。

P「どうも」

店員「村の人じゃないわよね?」

P「ええ、まぁ……」

店員「珍しいわねぇ、やっぱりあなたも十年祭(じゅうねんさい)を見に?」

P「十年祭?」

店員「あら、違った? そこの学生さん達は十年祭を見学しに来たみたいだけど」

店の中には俺の他に客が3人いた。座敷席に男二人に女一人の3人組。

その3人組がおばちゃんの言う学生さんらしく、目が合うと3人揃ってぺこりと頭を下げた。

――折角なのでこの村について話を聞きたいと思い、相席させてもらう。

料理を待つ間、互いに自己紹介をした。

三人は大学で同じゼミをとっている間柄で、今回は教授に連れられ民俗学の研究のためこの村にやってきているのだという。

朱袮「――ええっ!? じゃあやっぱり、四条家ってあの四条貴音の実家なんですか!?」

白河「四条貴音……って誰や?」

青山「ウソでしょ、白川さん。知らないんすか?」

白河「知らん」

朱袮「白河さん全然テレビ見ないですもんね~」

彼女は七瀬朱袮(ななせ あかね)。大学二年生。セミロングの黒髪にくっきりとした目鼻立ち、ピンク色のカーディガンがよく似合っていた。こんな旅でなければスカウトをかけたいくらいの美人だ。

青山「先輩、芸能人なんてほとんど知らないんじゃないっすか?」

彼は青山和一(あおやま かずいち)。同じく大学二年生。茶髪で童顔の、いかにも今どきの学生といった感じの青年。小柄な体格で変声期前のような甲高い声の持ち主だった。

白河「そうかもしれんな」

そう言いながら煙草を灰皿に押し付けたのは、他二人より一年先輩だという白河竜二(しらかわ りゅうじ)。物腰、風貌どちらにしても大学生にしては随分と老成した雰囲気があった。それと関西の出身なのか、言葉に独特の訛りがあるのが特徴だった。

P「勘違いしてるようだけど、その四条家がうちのアイドルである四条貴音と関係があるかっていうのは、俺にもまだわからないんだ。それを確かめにきたっていうのが正しい」

青山「はぁ、そうなんすか……それにしても知らなかったな。まさか四条貴音が失踪だなんて……」

P「あ、今の話はくれぐれも他言無用に頼むよ」

青山「あ、すんません……」

店員「はい、お待ちどう様」

おばちゃんが皿に山盛りの料理を運んできてくれた。

朱袮「あっ、そうだ。店員さん」

店員「はい?」

朱袮「四条貴音……って人、知ってます?」

店員「ええ、もちろん知ってますとも」

P「え……」

なんてこった。

P「それって、こう……銀色の髪をした女の子ですか?」

店員「ええ! 四条様のところの貴音お嬢様でしょう? 一週間ほど前に村にお戻りになられたんですよ」

P「はぁ、貴音お嬢様……」

やや違和感のある響きだが、どうやら間違いないらしい。

朱袮「わぁ! よかったですねPさん! 早速見つかったじゃないですか!」

朱袮さんはまるで自分のことのように喜んで言った。

P「あ、ありがとう」

拍子抜けするほどあっさりと解決してしまった。

P「ええと、それで店員さん――」

白河「……まぁ、Pさん。積もる話は飯の後にしませんか。せっかくの料理が冷めてしまう」

青山「そうっすよー。いやー俺今日は朝食抜いてきちゃったんでもう腹が減って減って……」

白河くんの言うとおりだ。別に急ぐ必要があるわけでもない。まずは目の前の皿を平らげてしまおう。

朝、家を出る時にパンを一枚胃の中に入れたっきりで空腹だったせいもあり、あっという間に完食してしまった。

白河「……ところで、おばちゃん」

白河くんが切り出した。

店員「はーい?」

白河「四条家といえば、この村にとっては特別な存在ですよね。たしか……『神宿り』、でしたか?」

店員「あら、よくご存知なのね」

P「すいません。神宿り……ってなんですか?」

聞いたことのない単語だ。

白河「この村における四条家の別名のようなものです。霊能力を持つとされる一族、それが神宿り」

霊能力だって? 今そう言ったのか?

P「霊能力って……そんなまさか」

本気で言っているのか? テレビの特番じゃないんだぞ?

店員「お客さん」

それまでとうってかわってぴりっとした声だった。

P「はい?」

店員「悪いことは言いませんから、今のようなこと、他ではおっしゃらないほうがいいですよ」

P「え……」

店員「この村で神宿り様のことを疑うようなことを言ってはなりません。無事に村から帰りたいのであれば」

P「…………」

ひやりとしたものが背中を通り過ぎる。

店員「――なんて、それはちょっと言い過ぎですけどね」

おばちゃんはまたにこやかな顔に戻る。

店員「ただ、神宿り様はこの村にとって、とてもとても大切なお方なんです。ですから気をつけてくださいね」

P「ど、どうもすいませんでした……」

朱袮「え、ええと……あ、そうだ!」

微妙に緊張した空気を変えようとしてくれたのか、変に明るい声で朱袮さんが言った。

朱袮「そういえばこの村には、神宿りの方たちだけじゃなくて、他にも村のまとめ役をしてる人たちがいるんでしたよね?」

青山「ああ、そういやぁそんな話だったな。ええと、なんて言ったっけ。……三井家と後藤家?」

白河「三船(みふね)家と五道(ごどう)家やな」

青山「あ、それですそれです。さすが先輩」

白河「この暁月村は代々、神宿りである四条家の力によって厄災から守られてきたと言われている。三船家と五道家はその四条家に準ずる村の有力者で、この三家が村の中心的存在である……合ってます?」

白河くんが確認するようにおばちゃんへ尋ねた。

店員「え、ええ、ほんとに詳しいのね。驚いちゃったわ」

白河「よかった。ここへ来る前にちょっと予習してきたので」

朱袮「ひゃ~先輩まじめ~」

青山「ほんとほんと」

白河「こんなん真面目でもなんでもない。お前らのほうこそ、この旅が研究の一環てこと忘れてんとちゃうやろな?」

青山「そんなまさか。俺達ほど向学心に溢れた学生もそういませんって」

朱袮「ほんとほんと」

白河「まったく……」

勘定を済ませ店から出る。

しかし、あの店員さんの話からすると、俺一人で四条家に向かったところで会わせてもらえるかはなんとも微妙だな……。

もしかしたら、怪しい者扱いされて門前払いということもあり得る。

思案していると、同じく勘定を済ませて出てきた青山くんが言った。

青山「Pさんも僕らと一緒に行きませんか?」

P「行くって、どこに?」

青山「もちろん、四条家ですよ!」

P「君たちも四条家に?」

朱袮「そうですよ。さっきも話しましたけど、私達この村の伝承について調べるためにやってきたんです。そのテーマの一つが十年祭! 四条家の方たちがそのことで色々と協力してくださるみたいなんです」

P「十年祭……そういえば向こうの広場で祭りの準備をしているようだったけど」

朱袮「まさにそれですよ! 私達――」

白河「まぁ待てよ朱袮。そもそも十年祭がどういう祭りかってとこから説明せなあかんのとちゃうか?」

P「そうだね。お願いするよ」

朱袮「お願いします、先輩!」

白河「なんやもう、しゃあないな……」

無責任にバトンを放り投げられた白河くんは困ったように笑う。

白河「とりあえずPさんも一緒に祭り会場の広場へ向かいませんか? 歩きながら説明しますよ」

広場には既に人が集まり始めており、それぞれ祭りの準備に追われているようだった。

入り口には『十年祭』と大きく書かれた木の門が建っている。

白河「――十年祭というのは文字通り、この村で10年に一度行われる祭りです」

P「10年に一度の祭り……それが今日?」

白河「そうです。これを逃せばまた10年後になります」

P「なるほど。民俗学の研究という上でも貴重な機会なわけだ。それで君たちもここへ来たんだね」

白河「その通りです」


「――神宿り様が村に直接お出でになるなんて、いつぶりだろうな」

「さぁなぁ……。村まで来ることは滅多にないからな」


雑踏の中から漏れ聞こえてくる話し声だった。

P「この祭りには神宿りも来るんだね」

白河「はい。神宿りは村の外れに住んでいて、村の中に姿を現すことは殆ど無いそうです。それだけこの祭りが特別なものであるという証ですね」

P「そうなんだ……」


「――そう、お子さんが……大変でしたのね。それで神宿り様のところへ?」

「ええ、あんなにひどい病気とは思わなかったわ。でも神宿り様のお陰でほんとに助かったわ。一時はもう駄目かと――」


ふと気になる立ち話が聞こえてくる。主婦らしい二人の会話。……病気?

白河「どうかしました?」

P「あ、いや、なんでもないよ。続けてくれるかな」

白河「はい。この祭りは10年の間に村に溜まった厄を祓う目的で始められたとか。そのメインイベントとなるのが神宿り……つまり四条家の人間による『浄(きよ)めの儀式』というものです」

P「浄めの儀式? それはなにをするんだい?」

白河「あー……」

P「どうかした?」

白河「すみません、実は僕も完全には頭に入ってなくて。そのあたりは先生から聞いたほうがわかりやすいかと思います」

P「先生っていうと、君たちの?」

白河「ええ、飯の後で祭り会場の広場で落ち合うことになってるんですが――」

青山「あ、いたいた! おーい先生ー!」

青山くんが手を振る。その先に灰色のニットベストを着た男性が立っていた。俺達に気が付くと手を振り返し、こちらへ歩いてくる。

白河「先生、さっき定食屋で知り合ったPさんです。Pさん、こちらが僕達の先生、千家教授です」

そう紹介されたのは紳士風の男性で、体格は中肉中背。年齢は50半ばほどだろうか、髪の毛には白髪がだいぶ交じっていた。

千家「どうもはじめまして。千家藍之助(せんけ あいのすけ)と申します」

千家さんはにこやかに笑って手を差し出した。俺もそれに応えて握手をする。

P「はじめまして」

ここに来た事情をかいつまんで説明する。

千家「――それはそれは。大変でしたね。私はアイドル事情には詳しくないのでどうとも言えませんが……よろしければこの後我々とご一緒しませんか? 研究のために協力いただいておりまして、特別に四条家の屋敷に招かれているのです」

P「い、いいんですか?」

千家「もちろんです」

P「ありがとうございます!」

ふと黒田との待ち合わせの約束が脳裏をよぎったが、一瞬で忘れ去った。知るかあんなやつ。

P「ところで四条家というのは、ここから遠いんでしょうか?」

千家「車があるのでそう時間はかかりませんが、トンネルを一つ抜けなければなりません。予定では、ええと、ちょっとすいませんね」

そう言うと千家さんはズボンのポケットから茶色の革製手帳を取り出し、ページを捲って何かを確認する。すると今度は右手首の腕時計を見て、

千家「……うん。先方との約束の時間まではまだ少し余裕があるようですね」

また手帳をポケットへしまう。

千家「よろしければこの十年祭についてお話しても?」

P「あー……ええ、ぜひお願いします」

正直に言うとそこまで興味があるわけではなかったが、お世話になる以上は少し交友を深めておきたい。

青山「あのー、俺達もその話聞かなきゃだめっすか?」

千家「そういえばもう始めてる出店もあったみたいだよ。見てきたらどうだい? 珍しいものもあるかもしれないぞ」

青山「やった! 俺行ってきます!」

朱袮「ん……じゃ、私もー!」

青山くんと朱袮さんはあっという間に広場の人混みの中に紛れていった。

千家「君は行かないでいいのかい、白河君?」

白河「僕は先生の話に興味があるので」

遠目からではわからなかったが、祭り会場の奥は神社になっていた。くすんだ色の鳥居が立っている。

千家「十年祭の最後には、あの神社の前で篝火(かがりび)を焚くんですよ。大きな篝火をね」

P「もしかしてそれが浄めの儀式というやつですか?」

千家「おや、ご存知でしたか」

P「先ほど白河くんから。内容まではまだでしたが」

千家「そうでしたか。浄めの儀式……その目的は村を守る霊刀を浄めることにあります」

P「れいとう……刀、ですか?」

千家「ええ、『暁月(あかつき)』という名前の刀がありましてね。この村を刀の霊力で災いから守ってくれる、いわゆる護り刀というやつです。大昔、この村が出来たばかりの頃からある刀で、村の名前の元にもなっています」

白河「鬼退治の刀ですね」

P「鬼退治、というのは?」

千家「逸話が残ってるんですよ。『洞(ほら)の鬼伝説』といいましてね。大昔、この地に鬼が住み着き、村を荒らし回っていたのを、ある霊能力者がその力を注いだ刀で退治し、ある洞窟の中に封印した……そういう内容の、この村だけに伝わるお伽話です」

P「その刀が、先ほどの暁月?」

千家「ええ。そしてその暁月を操り、村を救った霊能力者の末裔が今の四条家だと言われています」

なるほど、そこに繋がってくるわけか……。

千家「浄めの儀式は篝火を焚き、そこで祈りを捧げることで、10年の間で消耗した暁月の霊力を回復させるためのものなんです」

P「浄めの儀式を執り行うのは四条家だそうですね」

千家「霊力を持つとされる神宿りによる祈り、ですね。今、霊刀暁月は四条家のすぐ側にある洞窟の中に奉納されています。逸話の中で鬼が封印された洞窟です」

P「洞窟の中にですか?」

千家「ええ、元々はそこの神社に奉納してあったそうですけどね。それも随分昔の話で、後継者不足で神主不在になったために場所を移されたとか。浄めの儀式は大きく分けて二つの工程があります。一つが今お話した『篝火の儀』。もう一つが……白河君、憶えているかな?」

白河「たしか……『奉納の儀』、ですね?」

千家「そう、奉納の儀」

千家さんは頷き、またこちらへ向かって話を続けだす。

千家「浄めの儀式の際には一度洞窟から暁月を運び出し、この神社で篝火の儀を行います。それを終えた後、また元の洞窟へ戻すわけですが……その際、洞窟の中に神宿りが一人で残り、夜通し祈りを捧げ続ける……これが奉納の儀になります」

P「一人で夜通し? それは……大変そうですね」

千家「この最後の祈りが最も大切だとのことです。集中し、精神を研ぎ澄ました上で祈りを捧げなければならないと」

話を聞く限り、この十年祭において四条家は欠かすことのできない存在らしい。

ということは、貴音が急に村へ帰ることになったのもそこに理由があるのだろうか?

青山「千家先生!」

青山くんと朱袮さんが戻ってきたようだ。

千家「なんだ、君たち出店回りはもういいのかい?」

朱袮「思ってたよりふつーのお祭りって感じですね~」

青山「そうそう、特に面白そうなものもなかったっていうか」

白河「まだ開いとらん店も多いやろうしな。――で、お前ら何飲んどるんや?」

青山くんと朱袮さんはそれぞれ片手に大きな紙コップを持っていた。

朱袮「さっき向こうの店で売ってました。特産品の林檎ジュースだそうです。なかなかいけますよ」

青山「なんなら先輩たちの分も買ってきましょうか?」

白河「いや、いらん。甘い飲み物は好かんわ」

青山「あ、そうだ。ちょっと珍しいもの見つけたんですよ」

青山くんが手の平ほどのサイズの小さな赤い紙袋からなにか取り出す。

白河「……なんや? ガラス球か?」

輪っか状に紐が結ばれており、上部には安全ピン、下部には透明の小さな涙型のガラス球が付いていた。紐の部分は白と青の細い糸が綺麗に編まれている。

朱袮「鬼よけのお守りらしいです」

朱袮さんは笑って白い歯を見せる。

朱袮「へへー、付けてあげますよ先輩!」

青山くんからお守りを受け取ると、それを半ば強引に白河くんのシャツの左胸部分にピンを留めてしまった。

白河「鬼よけって……水晶とかならともかく、こんなちゃちなガラス球で効果があるんかいな」

人差し指の先でガラス球をつつきながら言う。

朱袮「あはは、まぁまぁ、こういうのは信じてないとご利益がなくなっちゃいますから」

青山「あ、先生の分もありますよ!」

千家「いや、私はいいよ……」

朱袮「えー遠慮しないでくださいよ! ていうか、折角買ったんだから付けてください、ね?」

千家「はは、わかったわかった」

苦笑いして千家さんは同じお守りを受け取り、同じく胸元に付けた。

白河「……ん? お前らの分は買うてないんか?」

青山「同じものは最後の二つだったんですよ。ていうか、俺は鬼とかそーゆーのは信じてませんし」

朱袮「私もー」

やれやれ、といった風に白河くんがため息をついた。

白河「参ったな、お揃いやなんてこれじゃ先生と仲良しみたいや」

千家「そりゃひどいな」

一同に笑いが起こる。千家さんは時計を見て、

千家「――さぁ、そろそろ時間だ。車の場所まで行くぞー。Pさんも付いてきてください」

広場から少し離れた場所に停めてあったワゴン車に乗り込む。

……いよいよ、いや、ようやくと言った方が正しいだろうか、目的の四条家へ向かう時が来たのだ。

――千家さんが運転する車中、窓の外を村の風景が次々と過ぎ去ってゆく。

白河「……ところで、Pさんはお一人でこの村へ?」

助手席に座る白河くんが後ろを向いて言った。

P「ん……ま、まぁね」

青山「よく一人で来れましたね、こんな奥地の村に」

朱袮「私達は来る時にだいぶ迷っちゃいましたもんね~先生?」

千家「はっは、すまんすまん。昔から方向音痴でね」

青山「もー頼みますよ、村へ行くのは二度目だから安心してくれって言ってたじゃないっすか」

P「千家さんはこの村へ来たことが?」

千家「ええ、ちょうど10年前に」

P「10年前というと、やっぱり前回の十年祭のときに?」

千家「ええ、先方もそのときのことを憶えてくださっていたようで、今回の交渉はスムーズに進みました」

P「……ところで、気になっていたんですが」

千家「なにがです?」

P「神宿りは霊能力者の一族だと聞きました。……本当じゃないですよね?」

千家「信じる気にはなれませんか。まぁ、そうでしょうね。誰だって普通はそう思う」

朱袮「一昔前にテレビで流行りましたよね、霊能力者。透視したり、何もない場所から火を起こしたり!」

青山「あんなの全部インチキに決まってら。番組とグルになってんだ」

朱袮「えーそうとは限らないでしょー」

青山「あれ、そういうの信じるタイプだっけ?」

朱袮「そういうわけじゃないけど、そうやってなんでも決めつけて視野を狭くするのは良くないって言ってるのよ」

青山「はいはいわかったよ。……で、先生。神宿りっていうのはずばり、本物の霊能力者なんですか?」

千家「霊能力……というのが正しい表現になるかはわからないが、神宿りの一族が持つ祈りにはたしかに力がある。それは認めてもいいと思うよ」

白河「少し村を歩きまわっただけでも神宿りを信望している村人が大半だと感じましたね」

千家「数は少ないが、神宿りの不思議な力について記述してある文献も見つかっているんだよ。最も古くが200年前、干ばつに陥った村に雨をもたらしたというのが始まりだね」

P「洞の鬼伝説というのもその一つですか?」

千家「いや、あれはあくまでお伽話ですよ。ですがまったくの作り話というわけでもない」

P「どういう意味です?」

千家「『鬼』ですよ。神宿りが鬼を退治する。その物語にはモチーフが存在するんです」

P「お伽話にもその原型があると?」

千家「はい。実は鬼というのは、ある病気のことを示しているんです」

白河「鬼病というやつですね」

千家「ああ。珍しい病に冒され様子がおかしくなった者を、鬼に憑かれたと表現されることが昔はあった」

P「へぇ……」

千家「実際、この村には昔から珍しい風土病があるんです」

P「え? そうなんですか?」

千家「ええ、『鬼憑き病』と呼ばれています。突然に高熱を発症する病で、症状がひどいと気をおかしくしたり、死ぬ者も出るほどだとか。今のところ発症する原因、治療の方法すらもわかっていません。医者には治せない病気なんです」

朱袮「そ、それってめちゃくちゃ怖いじゃないですか!」

千家「まぁ今は昔と比べると発症する確率はだいぶ下がっているという話だよ」

朱袮「そんなの聞いても全然安心できませんけど」

青山「でも病気って言っても熱が出るだけなんでしょ? 風邪みたいなもんだ。だったらそんなに心配しなくても――」

千家「50年ほど前までは、この村の人間の死亡理由の大半がその鬼憑き病だったと言われているよ」

青山「……ヤバイじゃないっすか!? 帰ったほうがよくないすか!?」

P「いや……50年ほど前までは、ってことは今ではそうじゃないんですね?」

千家「はい。その50年ほど前に、神宿りは鬼憑き病を治癒できるようになったんです」

朱袮「お医者さんでも治せない病気なのに?」

千家「鬼憑き病を発症した村人は私達が今向かっている四条家に運ばれ、そこで神宿りが直接病人を診るんだそうだ。神宿りが治療を施すと、たちまちのうちに病気は治ってしまうとか。これこそ彼らが霊能力、あるいは奇跡の力を持つと言われるゆえんの一つだろうね。民俗学でいうところの呪術医、シャーマンドクターが近い」

朱袮「なるほど……」

千家「しかも、治療に関しては無償で行っているらしい」

青山「へー……随分と立派な御方なんすねぇ」

P「それじゃあ、お伽話と同じで、神宿りが村を救ったというのは事実なんですね」

千家「ええ、そこから段々と話が転じていって洞の鬼伝説というものが生まれたんでしょうね」

朱袮「先生、トークに熱入りすぎですよ~」

千家「おっと、すいませんね。つい……」

P「いえ、興味深い話でした」

そこで一度話題が途切れたが、またすぐに朱袮さんが話しかけてきた。

朱袮「あ、そうだ。ねぇPさん、貴音さんに会えたら最初になんて言います?」

P「え?」

朱袮「なにか考えてないんですか?」

P「……まったく考えてなかった」

朱袮「気の利いた台詞の一つでも言ってあげたら喜んでくれるかもしれませんよ~?」

P「参ったな、そういうのは苦手なんだよなぁ……」

朱袮「あはは、考えてみたらどうです?」

朱袮さんが笑って言う。彼女はドアのポケット部に置いてあった林檎ジュースの紙コップを取って飲んだ。

青山「なんだ、まだ飲み終わってなかったのかよ」

朱袮「だってこんな大きなコップいっぱいに入ってたんだもん」

車はトンネルに入ったところだった。

千家「このトンネルを抜けた先の一帯は全部四条家の敷地になってるんだよ」

……もうすぐだ。

朱袮「きゃぁ!?」

一度ガタンと車が揺れ、朱袮さんの叫び声が車内に響く。

白河「朱袮? どうした?」

白河くんが助手席から振り向いて尋ねる。

朱袮「や~ん……もうっ! ジュースこぼしちゃいました……」

千家「すまないね。石か何かに乗り上げたかな?」

朱袮「はぁ、ついてないな。後で着替えなきゃ……」

泣き出しそうな声でハンカチでカーディガンの胸元に広がったシミを拭きとっている。

千家「……おっ。ほら、見えてきたぞ」

トンネルを抜けた先にあった景色、最初に目に映ったのは馬鹿でかい屋敷だった。

青山「でっけー……あれが全部、四条家の?」

千家「ああ、四条の邸宅だ」

朱袮「すっごぉい……」

白河「…………」

白河くんは無言で窓の外を見つめていた。彼も驚いているのだろうか。ここに来て会った人々の中で彼だけは何を考えているのかいまいち読めないところがある。

P「……それにしても、山ばかりなんですね。この辺りは」

千家「ええ、ぐるっと山に囲まれた地形になってますよ」

山にはまだ残雪もある。雪解けに合わせて雪崩なんかが起きなければいいのだが。

車を降り、鉄製の門を抜けて屋敷の玄関へと歩く。屋敷は明治時代の華族の邸宅を思わせる洋館風の建物だった。

玄関の扉には中央部にステンドグラスの飾りが取り付けられていた。模様となっているのは満月を取り囲む花、だろうか?

千家さんが玄関横のチャイムを鳴らし、到着を知らせる。間もなく扉が開き、老年の男性が姿を現した。

「皆様、ここまでご足労頂きありがとうございます。お待ちしておりました。私、この家の執事を任されております、灰崎万造(はいざき まんぞう)と申します」

どこか安心感のある穏やかな声でそう言って頭を下げる。上下黒のスーツ、白髪頭で口の上には同じく白い髭が生えている。物語の中から抜け出してきたかのような、イメージ通りの老執事だった。

P「あの……ちょっとよろしいですか?」

灰崎「はい、なんでございましょう?」

P「私はこういう者なんですが……」

名刺を差し出す。灰崎さんはそれを見て少し思案する様子を見せたが、すぐにこう言った。

灰崎「お客様のご用件はわかっております。……中へご案内します」

玄関から入ってすぐのところで廊下は左右と正面の三方へ分かれており、俺達は灰崎さんに案内されるまま右手方向の廊下を進む。

そうして連れて来られたのは、談話室、というのだろうか。ゆったりとした雰囲気の部屋だ。薄橙色のタイル床、そして一人がけのソファチェアが長方形の大きなテーブルを中心にいくつも並んでいる。

テーブルには綿製の白いクロスが引いてあり、真鍮の燭台が置かれていた。

入った扉から見て向かい側は一面の窓になっており、綺麗に整美された中庭が見える。右手側の壁には風景画のようなものが飾られ、左手側の壁には純白の磁器でできた暖炉があった。

灰崎「お掛けになってお待ちください。当家の主人と、お嬢様を呼んでまいります」

灰崎さんが部屋を出る。言われたとおりひとかたまりにソファに腰掛ける。

青山「なんか落ち着かないな。こんな家入るの初めてで……」

朱袮「わ、私も……白河さんは平気ですか?」

白河「……ん? ああ、せやな。緊張する」

千家「……十年ぶりだが、屋敷の中は変わりないようだ。十年間、彼も大変だったろうな」

千家さんが誰ともなく呟いた。

P「彼、とは?」

千家「今の四条家の主人さ。十年前に四条家当主の座を預かることになった、ね」

P「十年前……? それって」

部屋の外、廊下から何やら騒々しい足音が聞こえ、言葉を途中で引っ込める。

その足音は扉のすぐ前で停止し、やがてその両開きの扉が勢い良く開け放たれた。

一同の視線が、扉を開いた人物に向けられた。

一際目を引くのは美しい銀髪。屋敷の中を走ってきたのか、彼女は肩で息をしていた。

「…………あ……」

彼女は俺を視線に捉えると、口をぽっかりと驚きの表情を浮かべた。……まぁ、当然だろう。

P「………………元気だったか?」

咄嗟にそんな言葉が飛び出す。何言ってんだ俺は。やっぱり気の利いた台詞の一つでも考えておくべきだったか。

貴音「プロデューサー……? なぜ、ここに……?」

今日はここで中断します
ありがとうございました

朱袮「わ……ぁ……すごい。本当にアイドルの四条貴音さんだ……」

貴音「…………」

P「貴音……」

「貴音? どうしたんだ急に走って行ったりして」

貴音「あっ……申し訳ありません。叔父様……」

貴音の後ろに深緑色の着物を着た背の高い男性が立っていた。

その両眼には剃刀を思わせる鋭さがあり、細身の体型ではあるがその佇まいは威圧感さえ感じさせる。

その男性は貴音の横を抜けて部屋に入ると会釈して言った。

松葉「皆様、遠路はるばるよくおいでくださいました。私が四条家当主を務めております、四条松葉(しじょう まつば)と申します。こちらが、姪の貴音です」

貴音「先ほどは失礼しました。四条貴音と申します」

叔父……この人が、貴音の……。

松葉さんと貴音もソファに座り、執事の灰崎さんがサービスワゴンに載せて運んできた紅茶を淹れてくれる。それを待つ間こちら側も自己紹介をすることになり……。

松葉「――そうですか、あなたがPさんでしたか。貴音がお世話になっております。貴音からの手紙であなたのことはよく聞いていますよ」

P「そ、それはどうも……」

よく聞いてるって、どういう意味だ……? 何か悪い印象を持たれてるんじゃないだろうな……?

松葉「……さて、では簡単に確認をしておきましょう」

紅茶が全員に行き渡ったのを確かめて松葉さんが言った。

松葉「今日はこの暁月村にとって最も大事な一日、十年祭です。千家教授及びその学生のみなさんは民俗学の研究のためここへいらっしゃった。そうでしたね?」

千家「そうです。前回の十年祭に引き続きご協力いただければありがたい」

松葉「私達としても学問の発展に貢献できるのであれば本意です。そのためであれば協力は惜しみません」

千家「ありがとうございます」

松葉「皆様がお泊りになる部屋もこちらで用意しておきました。後で執事の灰崎より鍵を受け取ってください。……ああ、Pさんの分の部屋もありますよ、ご心配なく」

にこりともせずに言った。

P「ど、どうも……」

松葉「千家教授には不要でしょうが、他の方のためにも改めて説明しておきましょう。十年祭の最後に行われる、浄めの儀式についてですが……儀式で扱う刀のことはご存知でしょうか?」

白河「暁月のことですね?」

松葉「そうです、霊刀暁月。その刀は今、この屋敷のちょうど裏手の方向にある『月光洞(げっこうどう)』と呼ばれる洞窟の最深部に奉納されています」

松葉さんはテーブルから紅茶の入ったカップを取り、一口啜る。

松葉「この村で一番の宝と言ってよいでしょう。村人であっても洞窟内に立ち入ることは禁じられています。もちろんそれだけでなく、刀の奉納されている場所……『月明かりの間』には厳重な封印が施されているため、普段は物理的に、入ること自体が不可能となっていますが」

白河「私達はそこに入れるのでしょうか?」

松葉「申し訳ありません。残念ながら、皆様を月明かりの間にお通しすることはできません。神宿り以外の人間を入れてはならぬというしきたりなのです。……ですが、月明かりの間の前までならば特別に許可しましょう」

白河「わかりました。ありがとうございます」

松葉「18時頃には月光洞へ向かおうと思いますので、お立ち会いになるのであればそれまでに準備をお願いします。篝火の儀はその後20時から村の神社前広場にて行う予定です」

千家「わかりました、松葉さん」

松葉「それと軽食の用意ならありますので、空腹であれば灰崎にお申し付けください。さて……では、他に何か質問があればどうぞ」

一人の手が上がる。

青山「あ……いいっすか?」

松葉「どうぞ」

青山「松葉さんと貴音さんは、叔父と姪という関係なんですよね? じゃあ……その……他の方は?」

朱袮「ちょ、ちょっと青山くん!」

青山くんの隣に座っていた朱袮さんが小声で注意する。

松葉「構いませんよ。要するに、私と貴音以外の四条家の人間……例えば、貴音の両親や祖父母はどうしたのか、と、お聞きになりたいのでしょう?」

青山「え、ええ、まぁ……」

松葉「皆、死にました」

青山「……え?」

貴音「…………」

松葉「貴音の祖父母が死去したのはもう20年以上前……彼女が生まれるよりも前のことです。そして彼女の両親――つまり私にとっての兄夫婦、それと私にも妻がいましたが、それらもまた死にました。四条家に残ったのは、私と貴音だけなのです」

松葉さんは不気味なくらいに淡々と喋った。

松葉「他に質問のある方…………いらっしゃらないようですね。では一度解散としましょう。……ああそうだ、Pさんはお残りください。お話したいことがあります」

静まり返った談話室内には俺と松葉さん、そして……貴音。

松葉「……貴音も席を外してくれ。Pさんと二人きりで話がしたい」

貴音「……嫌です。私もご一緒します」

松葉「貴音。……席を外してくれ」

有無を言わせない雰囲気があった。

貴音「…………」

貴音は黙って部屋を出て行った。沈黙。松葉さんはテーブルのどこかを見つめたまま口を開かない。

間が持たず目の前のカップを取って口をつける。爽やかな林檎の香りが口に広がった。もう冷めかけではあったがなかなか良い味だ。アップルティーというやつだろうか。欲を言うなら、もっと落ち着いて味わいたかったが……。

さて……こちらから何か切り出すべきだろうか、と思ったところ、

松葉「……貴音は、少しわがままになったように思います」

P「え?」

松葉「以前は私の言葉に反抗するなど考えられなかった」

P「……ご不満、ですか?」

松葉「そういうわけではありません。人は変わっていくものです。灰崎も、貴音は以前よりも明るくなったと話していました。おそらくそれは……悪い変化ではない。きっと、あなたの影響が大きいのでしょうね」

相変わらず冷淡な口調だった。感情を表に出さないというよりも、感情そのものをどこかへ置き忘れてきたかのような、そんな印象を受ける。

P「お聞きしたいことがあります」

松葉「なんでしょう?」

P「今回私がこちらをお訪ねしたのは、貴音さんのことが心配だったからです。何の連絡もなしにいなくなってしまったので……」

松葉「……そうでしたか。それは、申し訳ありません。あの子のせいで大変なご迷惑をかけてしまったようですね」

P「あ……それはいいんです。いや、よくはないけど……で、お聞きしたいことというのはですね。どうして彼女がそんなことをしたのか、ということなんです」

松葉「貴音があなた方に黙って村へ戻った理由、ですか?」

P「そうです」

松葉「私から彼女へ手紙を出しました。帰ってくるように、と」

P「やっぱり……」

黒田が暁月村の手がかりを見出した手紙のことだろう。

松葉「彼女ももう子どもではありませんから、周囲との区切りの付け方は本人に任せようと思っていたのですが……上手くはいかなかったようですね」

P「……貴音さんを村に呼び戻したのは、十年祭のためですか?」

松葉「それも、あります」

P「他に何か理由が?」

松葉「……一年前の話です。貴音がこの村を出たのは」

松葉さんは唐突に昔話を始めた。

松葉「……あの子は外の世界を夢見たのです。本来ならば、許すべきことではないのでしょう。しかし、あまりに一生懸命に懇願されたものですから、私もついに折れてしまった。……しかしまさかアイドルになってしまうとは、さすがに予想外でしたが」

P「貴音のことをテレビで見たことは?」

松葉「ありますよ。……テレビで見る彼女は、私の知らない貴音でした」

P「あなたの、知らない?」

松葉「貴音のことは彼女の幼い頃から知っていますが……まるで別人のようだと思いました。あんなに楽しそうに笑っている貴音を、私は見たことがなかった」

P「…………」

松葉「……そして、私は確信したのです」

P「…………?」

松葉「貴音を外の世界へ出したのは、間違いであったと」

P「間違い……?」

何を言ってるんだ、この人は……?

松葉「……ひとたび籠から抜けだし、自由を得た鳥は、もう二度と籠の中に戻ろうとはしないでしょう? それと同じです」

P「…………わかりませんね。どういう意味ですか?」

松葉「貴音にはアイドルを辞めてもらいます」

P「は……?」

心に風穴を開けられたような衝撃だった。

P「なぜ、ですか?」

松葉「もとより、そういう約束だったのです。一年間の自由。そしてその一年間が終われば、村に戻ると。約束の期限は、もう過ぎています」

P「そんな……!」

そんな話、貴音からは一度だって聞いたことがなかった。

松葉「先ほどもお話したとおり、四条家の跡取りとなりうるのは貴音しかおりません。私が死ねば、貴音が最後の神宿りとなる。神宿りの血を絶やすわけにはいかない。貴音には村に残り、子を成し血を存続させてもらわねばなりません」

……無茶苦茶だ。そんな馬鹿な話があってたまるか!

P「じゃあこの先一生……貴音はこの村の中で生きなきゃならないってことですか?」

松葉「そのとおりです」

P「そんな……神宿りの血って、そんなに大切なものですか!? それだけのために人の……貴音の人生を捧げろっていうんですか!?」

松葉「歴代の神宿りも、皆そうしてきたのです。貴音だけ例外というのはおかしいでしょう」

P「だからって……」

松葉「あなたはなにもわかっていない」

P「っ……!」

松葉「この村は神宿りへの信仰心で成り立っているのです。これは、一種の宗教と言ってもいい。共通の心の拠り所があるからこそ、村人たちは穏やかに暮らすことができる」

P「村の安寧のためには、神宿りは必要だと……?」

松葉「『偶像』であり続けることが、四条家に生まれた者のさだめなのです」

P「……わかりません。俺には」

松葉「残念です。よそ者のあなたには、ご理解していただけなくても当然かもしれませんが」

P「…………失礼します」

部屋を出るとすぐに灰崎さんに呼び止められる。待っていたのだろうか。

灰崎「……お部屋の鍵でございます。部屋はこの先の突き当たりに」

鍵を受け取る。真鍮製で持ち手の部分に装飾のあるレトロなデザインだ。

P「どうも。お茶、美味しかったです」

灰崎「それはようございました。この日のために取り寄せた高級茶葉ですので」

灰崎さんは優しい笑みを浮かべた。

P「……灰崎さん」

灰崎「なんでしょう?」

P「灰崎さんはどうお考えですか。灰崎さんも、貴音はアイドルを辞め、神宿りとしてこの村に居続けるべきだと思いますか?」

灰崎「…………難しい問題でございます。非常に、難しい」

P「…………」

灰崎「旦那様のお考えは、正しいと思います。神宿り様は、村人たちにとっての精神的支柱となっています。それを失うことは、大きな損失となるでしょう」

P「では……」

灰崎「あなたは、どうお考えになりますか?」

P「……俺は、反対です」

灰崎「……神宿りとして村に残るということ、それはすなわち、お嬢様の人生を村のために捧げるということでもあります。お嬢様が外の世界へお出になり、そこで得てきた多くのものを全て犠牲にするということです。……あなたのお考えは、それもまた正しいのだと思います」

P「……じゃあ、灰崎さん自身はどう思っているんです?」

灰崎「……申し訳ございません。わたくしには、お答えできかねます」

灰崎さんは痛みをこらえるように言った。そうか……この人も辛い思いをしているんだ。

P「……いや、いいんです。こちらこそ、すみませんでした」

酷な質問をしてしまったと思う。とりあえず今は部屋に行こう。少し、頭を冷やさなければ。

灰崎さんの言ったとおりに廊下の突き当たりの扉に鍵を差し込み、部屋へ入る。

部屋は簡素ではあるが全体として落ち着いた高級感があった。

床には灰色の絨毯。

入り口扉の向かいの壁に引き違い式の窓が付いており、屋敷裏の山の木々が見える。

部屋の隅には引き出し付きのデスク、その反対側にはベッドが二つ並んでいた。トイレや浴室は部屋には付いていないようだ。

靴も脱がぬままベッドに身を投げ出し、仰向けになってため息をついた。

……貴音はどう考えているのだろうか?

松葉さんはああ言っていたが、彼女自身の気持ちはどうなのだろう。そういえば、せっかく再会出来たというのにまだまともに言葉を交わしていないことに気がついた。

コンコン、とノックの音。

P「はい」

ベッドから身を起こして、扉を開けると、そこにいたのは……。

貴音「……プロデューサー。今、少しよろしいですか?」

とりあえず、デスクに備え付きの椅子を引っ張って来て、貴音を座らせる。

貴音「――申し訳ありませんでした」

P「……なにが?」

貴音「まさか、プロデューサーがこのようなところにまで来てくださるとは……そこまでご心配をおかけしてしまったこと、申し訳ない気持ちで一杯です」

P「あんな手紙だけ残していなくなってしまったら、そりゃ心配するさ。俺だけじゃない、小鳥さんや社長、雪歩に春香に千早に……皆心配してたぞ」

貴音「…………」

貴音の眼に寂しげな影が宿る。

P「大体の事情は松葉さんから聞いたよ」

貴音「……そうですか」

P「でも、どうして話してくれなかったんだ? それに、どうして行き先を教えてくれなかった?」

貴音「行き先については、叔父から口止めをされていたのです」

P「松葉さんから?」

貴音「アイドルとして活動をする代わりに、この村の出身であることを誰にも話してはならないと……そういう約束を、していました」

P「えっ……どうして話しちゃいけないんだ?」

貴音「わたくしも、詳しくは教えていただけませんでした。ただ、叔父はこの村に外部の人間が入ることを嫌がるようですから……」

P「……そうなのか?」

そのわりには、よそ者である千家さん達を迎え入れているようだが……。

P「まぁ、それはわかったよ。でも、やっぱり前もって話しておいてほしかったな」

貴音「……ずっと、いつかは話さなくてはならないと思い続けておりました。しかし結局、最後の最後まで、それはできなかったのです」

目を合わせまいとするように、うつむきがちになって彼女は答えた。

P「どうして?」

貴音「それは……」

P「……別れが辛かったから、か?」

貴音はゆっくりと頷く。

貴音「……全ては、わたくしの弱さが原因です。弁明のしようもありません」

P「……貴音が別れの言葉を言えなかった気持ちはわかるよ。俺も似たような経験があるから」

貴音「プロデューサーも……?」

P「俺さ、小学校から中学校くらいまでは、親の転勤がちょくちょくあって転校を繰り返しててな。せっかく友達になったのに、ちゃんと別れも言わないままそれっきりっていうのが何人かいるよ」

貴音「……そうですか。それは……悲しい、ですね」

P「ああ。いつどんな時でも別れっていうのは悲しいし、辛いものだ。別れの言葉は、言いたくてもなかなか言えない。それが親密な相手であればあるほど、な」

貴音「……はい」

P「それでも、やっぱり言うべきなんだと思う。互いに痛みを伴うことがわかっていても、逃げちゃ駄目なんだ。逃げたら、いつか絶対に後悔する時が来るから」

貴音「…………」

P「――なんだか、説教みたいになっちゃったな。そんなつもりじゃなかったんだけど……」

貴音は首を横に振った。

貴音「いいえ……プロデューサーの言うとおりだと思います。やはり、改めて事務所の皆には伝えようと思います。その……電話でもよいものでしょうか?」

P「構わないさ。貴音の言葉で伝えるのが大切なんだから」

貴音「それと……もう一つ気になっていることがあるのですが……」

貴音は手の指の背を口元に持っていき、不安げな面持ちになる。

P「どうした?」

貴音「事務所の皆は……わたくしのことを怒ってはおりませんでしたか?」

P「……ぷっ」

貴音「なっ……なぜ笑うのです!?」

貴音は顔を紅潮させて言った。

P「ごめんごめん、深刻そうに何を言うのかと思ったら……大丈夫、誰も怒っちゃいないよ。心配はしてたけどな」

貴音「そ、そうですか……」

安堵するその表情を見ると、ずっと気に病んでいたのだろう。

P「……なぁ。貴音はどう考えてるんだ?」

貴音「どう、とは?」

P「この先も、この村にずっといるつもりなのか? 本当に、アイドルを辞めてしまうのか?」

貴音は言いづらそうに口を動かしてから、言葉を発した。

貴音「……鬼憑き病という病のことはご存知ですか?」

P「この村の風土病だって聞いたな」

貴音「昔、暁月村はその病によって死に瀕しました。多くの村人が原因不明の高熱によって命を絶たれたのです。そして今、その病気を治療できる唯一の方法が、わたくしの祖父の代から伝わる『秘術』なのです」

P「秘術……?」

貴音「ええ、神宿りの一族にしか用いることのできないとされる治療法です」

貴音はそこで少しだけ笑って、

貴音「――とはいえ、その秘術がどのようなものかというのは、わたくしもまだ知らないのです。『時機が来たら教える』と、叔父には言われているのですが……」

そこまで言うと、貴音はまた深刻な面持ちになる。

貴音「……ともかく、わたくしが神宿りを継がない限り、その秘術は絶たれてしまうことになります」

P「そうなってしまうと、鬼憑き病を治療できる人はいなくなる……?」

貴音「……村は再び、死の病に侵されてしまうでしょう」

P「……村のために神宿りを継ぐってことか」

貴音「……この村に戻ってから、ずっと考えていました。きっと、それが一番よい選択なのだと思います。神宿りとしての四条貴音に、代わりは存在しませんから」

P「…………そうか」

貴音「……怒らない、のですか?」

P「……怒れるわけない。村は見捨ててアイドルを続けろなんて言えないよ。それに……一番つらいのは、貴音だろう?」

貴音「……プロデューサーはやはり、優しいのですね」

貴音はふっと穏やかに笑った。

……きっと、想像もできないくらいに悩んだ末の選択だったのだろうと思う。

だから言いたかったことも、彼女を苦悩させるだけだと思ってあえて言わなかった。

神宿りとしての四条貴音に代わりは存在しない……それと同じように、アイドルとしての四条貴音にも、代わりなんて存在しないってことを。

P「そういえば、俺のことをプロデューサーって呼ぶのもおかしいんじゃないか?」

貴音「たしかに……わたくしはもうアイドルではないわけですからね。ですが、なんとお呼びすればよいやら」

P「いや、別に好きなように呼べばいいと思うけど」

貴音「それなら……今しばらくは、『プロデューサー』のままでも?」

P「……わかったよ。ここにいる間は、お前のプロデューサーのままでいてやるさ」

貴音「……ありがとうございます」

貴音はどこか嬉しそうにそう言った。

貴音「もうじき日も暮れます。せっかくですから、ぜひ十年祭を見ていってください。帰るのは明日でも遅くはありませんよね?」

P「ああ、そうする。貴音はその、浄めの儀式とやらには出るのか?」

貴音「いいえ。わたくしはまだ儀式に参加することは出来ません。浄めの儀式は篝火の儀、奉納の儀ともに叔父が務めます」

P「そうなのか」

貴音「……では、そうですね……祭りまでにはまだ時間もあることですし、屋敷の中をご案内いたしましょうか?」

P「頼むよ」

貴音に連れられ、屋敷の中をぐるりと一周りする。屋敷は真上から見下ろしたとすると四角形のように見える造りになっており、南側に玄関があって、東側と北側には客室が並んでいる。

玄関からすぐのところに屋敷の中央部を貫くように細い廊下があり、その左右に四条家の人間の部屋、つまり貴音と松葉さんの部屋がある。四つの部屋が並んでいるが、そのうちの二部屋は今は使われていないらしい。

中央の廊下を境界として、屋敷の東西には二箇所の中庭がある。先ほど談話室の窓から見えたのは、その東側の中庭だ。

貴音「――そしてここが、じいやの部屋です」

玄関からすぐ、中央廊下の左側にある部屋だった。

P「じいやっていうと、灰崎さんの?」

貴音「ええ、祖父の代から四条家に仕えてくれています。わたくしにとっては、親にも等しい存在ですね」

P「へぇ……」

そういえば、前にも貴音の言う『じいや』の話は聞いたことがある。心配症で、頻繁に手紙を送ってくるから返事を書くのも大変だと言っていたっけ。

玄関の角には白木のチェストがあり、その上に古めかしい黒電話が置かれていた。それを見てふと思い出す。

P「そういえば、ここって携帯電話は通じるのか?」

貴音「いいえ、この辺りでは使えませんね。村の方へ降りなければ……」

ポケットから携帯を取り出して確認してみるが、やはりアンテナマークは付いていなかった。

P「ちょっと、電話借りてもいいかな? 一応事務所に連絡を入れておきたいんだ」

貴音「ええ、もちろん」

携帯のアドレス帳を頼りに番号を確認しながら事務所にかけた電話は、ちょうど3コール目で応答があった。

高木「はぁいお電話ありがとうございます! こちらは765プロダクションでございます」

妙な抑揚をつけた挨拶に思わず吹き出しそうになってしまう。

P「しゃ、社長!?」

高木「おや、その声は……キミかね!?」

とりあえず、こちらに来てからわかった色々なことを要点だけかいつまんで社長に伝える。

高木「――なるほど。そういう事情だったのか」

P「……社長、今の説明でほんとにわかりました?」

俺なら多分無理だ。

高木「うん? うっ、ま、まぁ大体は……いやともかく、四条君が無事なようでこちらとしては一安心だ」

P「ところで、他のみんなはどうしてます?」

高木「ああ、今はみんな仕事中だ。キミのかわりに音無君が引率役をやってくれているよ。帰ってきたら彼女に食事の一つでもおごってあげたまえ」

P「いやほんと、小鳥さんにもですけど、ご迷惑おかけしてすみません」

高木「別に構わないさ。私だってキミの立場だったら同じことをしていただろうしね」

P「ありがとうございます……あ」

貴音が受話器を持つジェスチャーをする。代わってほしいということだろう。

P「社長、今貴音に代わります」

貴音は社長と5分ほど話をしてから電話を切った。

P「――で、なんだって?」

貴音「全てを、というわけではありませんが、ひと通りのことは伝えたつもりです。積もる話はまた、皆がいるときに改めてということに」

貴音は少しほっとしたような様子だ。

P「あ……」

中央廊下の奥から人が歩いてくるのが見えた。

灰崎「おや、お嬢様にP様。どうかいたしましたか?」

灰崎さんに電話を借りたことを話す。

P「勝手にお借りしてしまってすみません」

灰崎「いえいえ、遠慮無く使って頂いて結構ですよ。――ああ、よろしければお茶はいかかでしょう? コーヒーでも淹れようかと思っていたところなのですが」

灰崎さんからのお誘いを受けて部屋に招かれる。

灰崎「――狭くるしいところで申し訳ございません。そちらのテーブルにおかけください」

P「はい」

返事はしたもののすぐに言われたとおり座ることはせず、部屋の中を見てみる。

茶棚のガラス戸の中には様々な種類のコーヒーや紅茶の瓶缶が並んでおり、そのことについて尋ねてみると、

灰崎「恥ずかしながら、そういったものを集めるのが趣味みたいなところがありまして……」

灰崎さんは部屋の入り口から右側にある小さなキッチンに立ってコーヒーの準備をしながら、照れたように笑って答える。

食堂の横には厨房があったが、先ほども見たサービスワゴンがここに置かれていることからも客に出すお茶などはこちらの方で作られているのだろう。

部屋の隅にはテレビとDVDレコーダー、その脇に置かれた小さめの棚にはDVDのケースが並んでいる。

P「あっ……すごいなこれ……」

手にとって見てみると、今までの貴音の出演番組を録画したものだとわかった。ケースにマジックペンで日付と番組名が書かれており、それがゆうに20枚以上はある。

貴音「全部、わたくしの……?」

隣に立つ貴音が呟く。彼女も知らなかったらしい。

灰崎「見つかってしまいましたか」

P「すみません、勝手に見てしまって」

貴音「ふふ、驚きました。じいやはわたくしと同じで、こういう機械類は苦手だと思っていたのですが」

灰崎「お嬢様のご活躍とあれば、記録しておかない手はございませんとも。しかしまぁ……使い始めの頃は勝手がわからず随分と難儀をしましたが」

そう言って苦笑する。

P「しかしすごい数ですね。出演した番組殆ど録画されてるんじゃ……」

灰崎「毎日チェックしておりましたから、おおよそは揃っているかと」

灰崎さんは「それに」と少し声を抑えて続けた。

灰崎「ここだけの話でございますが……旦那様も時折ここから持ち出してお部屋でご鑑賞なさっているのですよ」

貴音「叔父様が?」

灰崎「ええ、ですがこれはくれぐれも、とっぷしぃくれっと、ということでよろしくお願いしますよ」

そう言いながら人差し指を口元で立てる。貴音の真似なのだろうが、妙に様になっているのがおかしかった。

その後、他愛無い世間話をしながらコーヒーを一杯と少しの茶菓子をいただいて部屋を辞した。

P「いい人じゃないか。あんな熱心なファンはそうはいないよ」

貴音「ええ。ありがたいことです。……それにしても、叔父のことは驚きました」

P「たしかに意外だったな。あ……」

扉の開く音。見ると、玄関側から見て中央廊下の右側の部屋から松葉さん、その後ろから千家さんが出てくるところだった。

松葉「おや……? 貴音に、Pさん。どうしました?」

千家「では、私はこれで……約束の件、頼みましたよ」

松葉「あ、ええ。お任せください」

千家さんはそのまま部屋に戻っていく。約束って、なんだろう?

貴音「プロデューサーに屋敷の案内をしていたところです」

松葉さんに向かって言う。

松葉「そうか。……Pさん、先ほどは失礼しました。少し、言葉が過ぎたと反省しております」

P「いえ……こちらこそ。すみませんでした」

松葉「どうぞごゆっくりとお過ごしください。それでは……」

松葉さんは会釈すると中央の廊下を進んで部屋へと戻っていった。

貴音「……叔父は、厳しい人だと思われますか?」

P「え? ……まぁ、そうだな。厳格って感じだ」

貴音「……そうでしょうね。昔は違いました。もっと人当たりのよい、優しい叔父でした」

P「そうなのか?」

貴音「今のようになられたのは、おそらく……叔母が亡くなった時からです」

P「松葉さんの奥さんが?」

貴音「ええ、もう9年になりましょうか。わたくしにもよくしてくださっていた、優しく、美しい方でした」

そう語る貴音の目には、寂しさの色が見えた。

P「……なんで、亡くなったんだ?」

貴音「病気だったそうです。鬼憑き病とはまた別の、治療の難しい病気です。叔父はその治療法を求めて尽力していましたが、ようやくその目処が立ったというところで……」

P「…………」

貴音「それ以来、叔父は一人で、既に両親を亡くしていたわたくしを育ててくださいました。たしかに厳しい方に見えるでしょうが、内面は昔のままの優しい叔父であると、わたくしは思っております」

P「……わかったよ。貴音が松葉さんのことを大切に思ってるっていうのは伝わってきた。多分、松葉さんも同じように貴音のことを大切に思ってるんだというのは、俺にもわかるよ」

だって……愛情を注げない子どもを一人で育てるなんてことは、できないと思うから。

貴音「ふふっ、そうですか?」

貴音は少しだけ、嬉しそうに笑った。

P「それに、さっきの灰崎さんの話もある。なんだかんだで、貴音が都会にいる間も心配してくれていたんじゃないのかな」

貴音「……そうですね。そうかもしれません」

P「――ところで、松葉さんたちの出てきたこの部屋は?」

貴音「書斎ですね。中を見てみますか?」

……書斎、というよりは、これはもはやちょっとした図書館だ。

扉から見て向かいの壁には窓が取り付けられている。ちょうど正面の位置にあるものと、部屋のやや奥の方にある二箇所。その二つの窓の間と、左手側の壁に並び立つ幾つもの本棚には、いずれもぎっしりと中身が詰め込まれていた。

P「すごいな……何冊くらいあるんだ?」

貴音「さて……? 2万冊以上はあると聞いたことがありますが、詳細には把握していませんね」

P「一生かけてもとても読みきれないな……」

部屋の中央には円形のテーブルと木製の椅子が二脚、右手側の壁際には小さなスタンドライト付きの机と椅子が置かれていた。こういうところで黙々と読書というのもなかなか惹かれるものがある。

貴音「……?」

貴音が何かに気づいて、視線を窓のある方へ向ける。

P「どうかしたか?」

貴音「あれは……」

部屋の入口から見て奥側の窓へ近寄っていく。

貴音「窓が、開いていますね……」

引き違い式の小さな窓であるが、数センチの隙間ができていた。カーテンの陰になっていて注視しなければ気が付かないだろう。

P「ほんとだ。向こうの部屋は……さっきの談話室か」

中庭を挟んで、先ほどの談話室の大きな窓が見える。今はカーテンがかかっていて部屋の中までは見えない。

貴音が窓を閉め、鍵をかける。

貴音「閉め忘れ……? 窓を開けておくにはまだ肌寒い時期のように思いますが……」

と、そこで甲高いチャイム音が鳴り響いた。玄関の呼び鈴だ。

貴音「客人でしょうか?」

P「行ってみるか」

玄関扉には既に灰崎さんが立っており、訪問してきた誰かの応対を始めていた。

灰崎「はぁ、P様のお連れ様で……? そのようなお話は伺っておりませんが……」

「あーもう! とりあえず、あいつを連れてきてくれよ。そしたらちゃんと――」

この粗暴な口調は聞き覚えがあった。今最も再会したくなかった男。

……しまった。そりゃあ四条家の場所だけなら村の誰かに聞けばすぐにわかる。やつがここへ訪ねてくるのは当然というものだ。

P「……黒田」

黒田「よぉ! ちょうどよかったぜPちゃん! ひでぇなぁ、俺を置いて一人だけ行っちまうなんてよ」

貴音「……お知り合いの方ですか?」

P「……まぁ、少し」

灰崎「本当にP様のお連れ様でしたか。大変失礼いたしました」

黒田「ああ、いいってことよー」

灰崎さんの肩をぽんぽんと叩いて言う。失礼なやつだ。

黒田「――で、あなたが四条貴音さんだね? よろしく、黒田です」

貴音「…………」

貴音は黙ったまま会釈を返した。

灰崎「ですが、いささか困りましたね。もう客室に空き部屋がないのですが……」

黒田「なんだって? そりゃ参ったな」

P「たしか客室の数は……」

灰崎「東側に3部屋、北側に4部屋の計7部屋でございます」

ちなみに、俺の部屋は北西の角の位置にある。

P「千家さん、白河くんに青山くん、朱袮さん、そして俺で5人ですけど、あとの2人は?」

灰崎「三船家の牡丹(ぼたん)様と、五道家の金明(かねあき)様でございます。つい先ほど、お二方ともご到着なさいました」

それは気が付かなかった。松葉さんや貴音と話していた間のことだったのだろう。

青山「あれ? どうかしたんすか?」

東側の廊下から青山くんと白河くんの二人が歩いてきたところだった。

灰崎「ええ、実は――」

灰崎さんが事情をひと通り説明する。

白河「――なるほど。そういうことなら……青山」

青山「はい?」

白河「お前、俺の部屋に来い。それなら一部屋空くやろ」

青山「はぁ、俺は構いませんけど、先輩は大丈夫なんすか? 俺いびきうるさいってよく言われますけど」

白河「別にええよ、かわいい後輩への愛情でもって我慢したるわ。同じベッドで寝るわけやないしな」

黒田は両手をぽんと打ち合わせた。

黒田「おお! 感謝するよー、お二人さん!」

白河「ところで、黒田さんは何をしにここへ?」

黒田「俺かい? 俺は記者でね」

ハンチング帽に手をかけ、貴音に向け嫌らしい笑みを浮かべる。

黒田「あの四条貴音の故郷だ、現地取材に来たってわけさ。ま、ここへ来るまで確証はなかったがね」

貴音「……この村とわたくしの繋がりをどこで?」

黒田「さぁて、どこだったかな?」

貴音「近頃、付け回されているような気配を感じることがありましたが……もしやあなたが?」

黒田「知らないねぇ。なんのことだかさっぱりだ」

貴音「……なんにせよ、ご苦労なことです」

黒田「正直、ここに来るまで確証はなかったし、不安もあったが……これで安心したぜ。俺の読みは当たっていたようだ」

青山「あのー……取材ってことは記事に書くってことっすよね?」

黒田「もちろん。こんなところまでわざわざ来たんだ。手ぶらじゃ帰れないぜ」

貴音「…………」

「お待ちください」

背後から聞こえた冷淡な声。振り向くと、そこにいたのは松葉さんだった。

黒田「あんたは?」

松葉「この四条家の当主、四条松葉と申します。貴音の叔父でもあります」

黒田「ほう、それはそれは。俺に何か用ですかい?」

黒田は図々しく言ってのけた。

松葉「あなたにお話したいことが。できれば、二人きりで」

黒田「……ふぅん。ま、いいだろ。場所は?」

松葉「そちらの書斎でいかがでしょう?」

松葉さんは扉を手で示しながら言った。

黒田「わかったよ」

松葉「灰崎、二人分の茶を頼む」

灰崎「かしこまりました」

灰崎さんが深く礼をする。松葉さんと黒田は二人で書斎へと入っていった。

白河「……松葉さん、どういうつもりなんでしょう?」

意見を求めるように白河くんが言った。

P「……さぁ、わからないな」

貴音「…………」

灰崎「……ところで、白河様と青山様はなにか御用がおありだったのでは?」

白河「ああ、そうでした。なにか、風邪薬みたいなものはありますか?」

P「風邪をひいたのかい?」

白河「いや、俺じゃなくて、こいつが」

青山「あはは、なんかちょっと熱っぽくて」

青山くんが額に手を当てながら言った。

白河「部屋で話してたらそんなこと言い出すんで連れてきたんです」

灰崎「市販の解熱剤でよろしければ?」

青山「ああ、いいっすそれで」

灰崎「談話室の戸棚の中にあったはずです。後でお持ちしましょう」

白河「自分で取りに行きますよ。灰崎さんはお茶の用意もあるでしょう」

灰崎「そうですか。お気遣い感謝します」

青山「……あ、黒田さんに部屋の鍵を渡しておかないと」

白河「ああ、せやったな」

白河くんは少し思案してから灰崎さんに言った。

白河「それなら……談話室で待ってます、と、黒田さんにお伝え願えますか?」

灰崎「かしこまりました」

灰崎さんは一礼してから部屋に戻っていった。

白河「青山、これ」

白河くんがズボンのポケットから鍵を取り出して渡す。

白河「部屋の鍵。先に荷物運んどきや。俺は談話室に行ってるから」

青山「わかりました。じゃあお先に」

鍵を片手に青山くんも部屋に戻っていく。

ふと貴音の方を見やると、白河くんの顔をまじまじと見つめていた。

白河「……なにか?」

背の高い彼は自然と貴音を見下ろすような形になる。

貴音「……いえ。よろしければ、お薬を探すのをお手伝いしましょうか?」

白河「え? いや、いいですよ。手伝ってもらうほどのことでは」

P「気にしないでいいよ。こっちも時間を持て余してたところだから」

白河「……そうですか? では、お願いします」

白河くんが談話室へ向かうのについて行きながら、貴音にそっと尋ねてみる。

P「さっき白河くんのことずっと見てなかったか?」

貴音「……それがなにか?」

P「……なんとなく気になったというか」

貴音「…………見覚えがある気がしたのです」

P「見覚え?」

白河「なんの話ですか?」

白河くんが振り向いて尋ねる。

P「あ、いや、なんでもないよ」

慌てて手を振って誤魔化す。見覚えって……どこで?

千家「やぁ、どうも」

P「どうも」

談話室の中には千家さんの他にもう二人、見知らぬ顔があった。

一人は黒地に緋色の装飾の入った着物を着た女性だった。病的なほど白い肌、それと対照的な艶のある黒髪を後ろに玉かんざしでまとめあげている。

切れ長の、アンニュイな気配を含んだ眼がこちらを見据える。

「あら……貴音ちゃん。元気してた?」

貴音「はい。おかげさまで」

牡丹「そちらの二人は初めましてかしら? 三船牡丹(みふね ぼたん)よ。よろしく」

P「初めまして――」

簡単に自己紹介をする。次に後ろにいた白河くんが前へ出て、

白河「……白河竜二です」

牡丹「……っ!」

牡丹さんは白河くんの姿を認めると、なにか驚いたような表情を浮かべた。

白河「……どうかしましたか?」

牡丹「い、いえ……なんでもないわ」

もう一人は中年の男性。灰のスーツを着ていて小柄だ。髪はやや薄く、いかにも気難しそうな眼をしている。初対面の人に大変失礼なこととは思うのだが、一言でその風貌を表すなら、『青びょうたん』。

ひょこひょこと頭を下げつつ、

五道「やぁ、どうも。私は……五道金明(ごどう かねあき)という者だ。一応……医者をやってる」

P「医者の先生で?」

五道「ああ……五道医院という小さな診療所を営んでおるよ……」

貴音「五道殿はこの村で唯一のお医者様なのですよ。三船殿は――」

貴音の言葉を牡丹さんが先取る。

牡丹「私は暁月村の村長をやっているわ。三船家は代々が村長の家系でね」

女性の村長とはまた珍しい。それに若い。見た目には30代前半……いや、50前後と言われればそのようにも見える……か?

年齢不詳ではあるが、綺麗な人であることには違いない。

牡丹「ふふ……あまり人の顔をじろじろと見るものではないわよ?」

P「あ……失礼しました」

ふと横を見ると、貴音から冷ややかな視線を送られていたので慌てて取り繕う。

P「ええと……貴音は牡丹さんと五道さんとは付き合いが長そうだな?」

貴音「ええ、わたくしがまだ幼少の頃からお二人ともよくうちにお見えになっていましたから。わたくしがこちらへ戻ってきてからも、お会いするのはもう3度目になります」

千家「昔からこの暁月村は、祭事に重きを置いていました。神宿りである四条家、そして村の有力者である三船家、五道家の三家が中心となって祭事における取り決めなどを行ってきたのですよ」

五道「そうか……君が白河くんか。千家の教え子……だそうだね?」

五道さんがよたよたとした足取りで白河くんに近寄る。

白河「はい。五道さんは千家先生のお知り合いで?」

千家「私と五道とは高校時代の同級生だったんだ。実は前回の十年祭の時にも、彼から四条家の方に口を利いてもらって、こうして研究の参考にさせてもらっているんだよ」

白河「そうでしたか」

五道「ゆっくりこの十年祭を楽しんでいくといい。あっ……まぁ……別に楽しいものでもないかもしれないが……そのときは……その……なんというかな……すまんな……」

白河「ええっと……」

白河くんは困ったように笑って、千家さんへ助けを求めるように視線を送る。

千家「はっはっは! 昔からこういうやつなんだ。気にしないでやってくれ」

五道「そう……私のことなんて……道端の埃程度に思っていてくれたまえ……ふふふ…………」

P「変わった人だね……」

白河「え、ええ……」

千家「五道とも三船さんとも前回の十年祭以来だったからね。こうして久しぶりに話していたところだよ」

牡丹「千家さんって変わった方だわ。わざわざこんな山奥の村によく何度も足を運ぶ気になるものねぇ」

千家「いえいえ、私にとっては興味の尽きない場所ですよ、ここは」

牡丹「そう? 私は変化に乏しい、つまらない場所としか思えないわ」

村長自らそんなこと言っていいものだろうか……。

牡丹「『村長自らそんなこと言っていいのか?』って顔してるわね?」

P「え? いや、あの」

牡丹「許してちょうだいな。私だって好きで村長なんて役割担いでるわけじゃないわ。家系がそうだっていうだけで、人生を決定付けられた哀れな女なんだもの。そこの貴音ちゃんだって、似たようなものでしょう?」

貴音「…………」

千家「……そういえば何か用事があってきたんじゃないのかい?」

白河「そうでした。青山のやつが熱を出したので、解熱剤を探してるんです。灰崎さんから談話室にあると聞いたんですが……」

五道「熱……? それなら……私が診てみようか?」

白河「そこまでしていただくこともないと思います。大したことの無い微熱ですので……」

そのとき扉が開かれて、一同の視線がそちらへ向けられた。青山くんだ。

白河「おう、青山。荷物はもう運んだんか?」

青山「……あ、はい」

白河「……青山?」

糸が切れたかのようにガクッと青山くんの体が崩れ落ちる。

白河「青山ッ!?」

千家「お、おい! どうしたんだ青山君!?」

倒れた青山くんへ白河くんと千家さんが駆け寄る。

白河「青山! しっかりしろ!」

白河くんが呼びかけるが、青山くんは意識も朦朧としているようで眼の焦点が定まっていない。

五道「……どいてくれ。私が診よう」

五道さんは青山くんの首や手首を触り、半開きの目を指で開いて覗きこむと、やがて言った。

五道「…………鬼憑き病だ」

千家「鬼憑き病って……まさか……本当に?」

五道「鬼憑き病の症状は高熱、意識の混濁……そして最も特徴的なものが、微熱から始まり僅かな時間で急激に症状が悪化すること。……まず、間違いない」

白河「……鬼憑き病は、この村だけの風土病って話でしたよね? まだこの村に来て半日も経ってないのに、発病することがあるんですか?」

五道「原因は不明だ……ない、とは言い切れない……」

貴音「……叔父を呼んでまいります」

五道「……頼むよ、貴音ちゃん」

貴音は早足で部屋を出て行った。

P「たしか……神宿りである松葉さんなら鬼憑き病は治療できるはずでしたよね?」

千家「ええ、そのはずですが……」

白河「青山、耐えろよ。もうしばらくの辛抱や」

青山「は………て……」

白河「……どうした?」

青山「離れて…………ください…………伝染ったら……やばい……」

五道「それなら心配しなくていい……少なくとも人から人への感染はないということだけはわかっている」

松葉「――鬼憑き病、ですね」

白河くんの部屋から出てきた松葉さんが言った。どうやら、彼の見立てでも鬼憑き病の症状に間違いないらしい。

青山くんはひとまず兼用することになっていた白河くんの部屋へと皆で運び込み、各部屋二つずつあるベッドの片方に寝かせた。

松葉「幸い発症してから時間はまだ浅い。すぐに治療すれば命に関わるということもないでしょう」

朱袮「よかった……」

騒ぎを聞きつけて心配していた朱袮さんもほっと胸を撫で下ろす。彼女は先ほど林檎ジュースで汚したカーディガンから薄手のセーターに着替えていた。

松葉「すぐに治療を始めます。しかし、この治療はお見せすることは出来ませんので、皆さんは別の場所でお待ちください」

朱袮「どうして見ちゃダメなんですか?」

松葉「……この秘術は、集中力を要しますので。どうかご理解いただきたい」

朱袮「わ、わかりました。青山くんのこと、よろしくお願いします!」

朱袮さんは深く頭を下げた。

松葉「……心配いりません。必ず治します。……では、また後で」

松葉さんが部屋の中へ戻る。すぐに内側から鍵がかけられる音が聞こえた。

白河「大丈夫。あいつのことや、案外数時間後にはけろりとしとるかもしれん」

朱袮「……そうですよね!」

千家「それにしても浄めの儀式が始まってしまう前でよかった。儀式の最中であれば松葉さんにこうして治療をお願いするわけにはいかなかっただろうからな」

談話室へ戻ると、あいつがいた。

黒田「よう。なんだか大変なことになったらしいな。あの坊主の容態はどうなんだ?」

牡丹「あら、あなたは?」

黒田「へへ、記者の黒田ってもんです。どうぞよろしく」

牡丹「記者さん?」

黒田「あなたは、この村の村長の三船さんですね? そんで、そちらはお医者の五道先生」

五道「私の事まで知っているのか……」

黒田「ええと……そっちのお嬢ちゃんと御仁は、まだだったかな?」

朱袮「あ、どうも――」

朱袮さんと千家さんが順番に自己紹介し、千家さんたちが民俗学の研究のためにここへ来たということも合わせて説明する。

黒田「なるほどねぇ。部屋を譲ってくれたあの坊主といい、どうしてこう若い連中がこんな場所にいるのかと思ったら、そういうわけかい」

貴音「…………」

黒田「へっへ、そう睨まないでくれよ、四条貴音さん。俺ぁもう記事のことは諦めたからよ」

貴音「……今、なんと?」

黒田「諦めたって言ったんだ。この村とあんたの繋がりも綺麗すっぱり忘れることにしたよ」

P「そんな……おかしいじゃないか。どうして急に」

黒田「ああーもうPちゃんはうるせぇなぁ。いいじゃねえかよぉ、もう書かないって言ってんだから。謝ればいいのか、はいはい申し訳のうございましたっと」

P「子供かよ……」

白河「そうだ、黒田さん。これを」

白河くんがポケットからなにか取り出す。

黒田「あ?」

白河「部屋の鍵です。青山から預かりました」

黒田「お、悪いね。サンキュー」

白河「ここを出て右端の部屋です」

黒田「そんじゃあ、荷物もあるし、みなさんお先に失礼」

黒田はバッグを持ち、空いた手をひらひら振って談話室を出て行く。

P「いったいどういう風の吹き回しだか……」

貴音「おそらく、叔父の差し金だと思います」

P「松葉さんが?」

貴音「……あの黒田という人物にとって、記事を書くよりも得だと思える条件を提示されたのでしょう」

P「…………」

つまり……買収したということか。

P「すまない。この村のことを教えてもらう代わりに、あいつをここへ連れてきたのは俺なんだ」

貴音「……そうでしたか。いいえ、元はといえばわたくしが悪いのです。お気になさらないでください」

朱袮「あの~、貴音さん」

貴音「なんでしょうか?」

朱袮「松葉さんがおっしゃっていた……秘術? のことなんですけど。あれ、どんなことしてるんですか? あ、いや、教えられないなら別にそれでもいいんですけど……」

貴音「申し訳ありません。わたくしも治療の秘術については何も知らされていないのです」

朱袮「そうなんですか?」

貴音「ええ、叔父が言うには、わたくしにはまだ早いと」

朱袮「え、え、やだ、ほんとにどんな方法なんだろう……」

白河「お前の考えとるような方法じゃないことはたしかやろな」

朱袮「ちょっと! 別に、変なこと考えてたわけじゃありませんからっ!」

朱袮さんが赤面で白河くんへ抗議する。それを気にもせず白河くんは貴音に向かって質問を投げかけた。

白河「あの執事の灰崎さんという方は随分ここで長く働いていらっしゃるようですが、あの方も治療の秘術については何も知らないのでしょうか?」

貴音「ええ、そのはずです。今、鬼憑き病を治療できるのは叔父だけ、ということですね」

牡丹「それにしても、まだこの村に来たばかりだったんでしょう? 運の悪い子ね」

千家「ええ、まさか鬼憑き病がこんなに早く発症するものだとは思いませんでしたよ」

牡丹「近頃は発症する人も少なかったんでしょう、五道くん?」

五道「それは……たしかにそうだが」

牡丹さんと五道さんはやはり付き合いが長いのか、名前の呼び方もどこか親しげだ。

千家「ふむ……どうだろう、五道。この村の住人は鬼憑き病への抗体のようなものができているとは考えられないか?」

五道さんは頷く。

五道「あり得ることだとは思う。実際……同じ患者が二度以上発症するケースは極端に少ないんだ。それならばむしろ……他所から来た者のほうが発症しやすいということになるだろうが……」

そこまで言って今度は頭を横に振る。

五道「……いや、断定はできんがな?」

牡丹「私も小さい時に一度かかって以来だものねぇ」

P「牡丹さんも鬼憑き病にかかったことがあるんですか?」

牡丹「ええ、もう大昔の話だけれどね。そのときは先々代の神宿り様……つまり、貴音ちゃんのお祖父様に治していただいたわ」

先々代がお祖父さんだとすると、先代は貴音の父親、ということになるのだろうか。

五道「ああ、あったなぁ……そんなことが。お前、最初はうちの医院に運び込まれてきたんだ」

五道さんはそこで笑って、

五道「私もまだ子供だったが……お前が熱でうなされながら『死ぬ~死ぬ~』ってみっともなくわめいていたのは今でもよく覚えとるよ」

牡丹「私もよく覚えてるわ。根暗そうな子供が物陰からジロジロこっちを見てきて、熱が悪化しそうだったもの」

五道「……ふふっ!」

牡丹「……あはは!」

二人は同時に笑った。何がおもしろかったのだろうか……。

朱袮「あ、あの」

朱袮さんが恐る恐るといった様子で尋ねる。

朱袮「三船さんはその時に当時の神宿りから鬼憑き病の治療を受けたんですよね。どんな治療だったのか、覚えてませんか?」

牡丹「さぁねぇ。熱で意識が朦朧となっていたから。鬼憑き病の患者はみんなそうなのよ。だから神宿り様の秘術がどういうものなのか、治療を受けた患者ですらわからないの」

朱袮「はぁ、そういうものなんですか……」

忘れてた…今更ですが屋敷の見取り図になります
http://i.imgur.com/bPM0sU7.png

その後、30分ほどが経過してから部屋の扉が開いた。

千家「おや」

最初に千家さんが入り口へ視線を向ける。

千家「灰崎さん、どうしたんです?」

灰崎さんは会釈をしてからこう言った。

灰崎「旦那様から伝達です。鬼憑き病の治療は終了したとのことですので、容態の気になる方は部屋までお越しくださいとのことです」

何人かで連れ立って部屋へ向かうと、松葉さんが扉の前に立っていた。

松葉「お待たせしました。治療は施しました。時間とともに回復していくことでしょう」

白河「彼は今、どんな?」

松葉「寝ています。今はまだ起こさないでおいた方が良いでしょう。熱で体力を消耗していますから」

千家「いや、助かりました。青山くんに代わってお礼申し上げます」

松葉「……お気になさらないでください。これは私の役目ですから。――灰崎、今何時だ?」

灰崎さんは左手首の腕時計を確認する。

灰崎「17時40分でございます」

松葉「……そろそろ浄めの儀式の準備をしなければなりません。私はこれで」

頭を下げてから松葉さんは廊下の奥へ歩いて行った。

朱袮「準備ってことは、あれですよね。月光洞、でしたっけ? そこに奉納されている刀を取りに行くんでしたよね?」

千家「ああ、村の護り刀、霊刀暁月だね。私達も特別に見せてもらえることになっている。でも、青山くんは無理そうだな」

白河「残念ですが、仕方ありませんね。しかし青山を一人にするのもまずいんじゃないでしょうか?」

白河くんは青山くんの眠る部屋の扉を見つめながら言った。

灰崎「それならば、ご心配はいりません。浄めの儀式の最中は私が屋敷に残りますので」

千家「ありがとうございます灰崎さん。それなら安心だ」

朱袮「Pさんたちも一緒に行きますよね?」

P「そうだね。珍しい機会みたいだし、せっかくだから」

貴音「わたくしは……遠慮しておきます」

P「えっ? 行かないのか?」

貴音「はい……。あの場所は、その……苦手ですので」

P「そうなのか……わかったよ。じゃあまた後でな」

貴音「ええ、また後で」

貴音が去った後で千家さんが言った。

千家「……彼女の父親の話は、もうお聞きになりましたか?」

P「貴音の父親の? ……いいえ」

千家「名前は常磐(ときわ)さんといって、心優しい方でした。……前回の十年祭のときに亡くなったんです。我々が今から向かう月光洞、その最深部である月明かりの間で」

P「え……?」

千家「前回、浄めの儀式を行ったのは先代神宿り……当時の四条家当主である常磐さんでした。月光洞の中で奉納の儀を行っている最中に、彼は亡くなったのです」

P「……死因は何だったんです?」

千家「心臓発作でした。月明かりの間は誰にも立ち入ることの出来ない場所です。奉納の儀が終わる夜明けになってから、亡くなっているのが発見されました。おそらく、その時のことを思い出してしまうので、貴音さんは月光洞に行きたくないのでしょう」

P「そんなことが……」

ここへ来てからというものの、俺は貴音のことをまったく知らなかったのだと散々に思い知らされている。

その度に、心の何処かに小さな痛みを感じるのだった。

月光洞に向かったのは、千家さん、朱袮さん、白河くんの大学ゼミチーム。そして松葉さん、牡丹さん、五道さん……と、俺の合わせて7人。

月光洞は屋敷を出て東側にある小道を進んだ先にある。途中に二又の分かれ道があり、月光洞方面の反対側には山道が続いているらしい。

分かれ道から少し下った先に山すそに岩の裂け目があり、そこが入り口となっていた。

屋敷から洞窟の入り口までは歩いて5分ほどだろうか。思ったより近いところにあるという印象だった。

洞窟の中は明かりがない。出かけの際に灰崎さんから渡されていた懐中電灯を各々手に持ち、中へ入っていく。

白河「足元注意しろよ朱袮。湿ってるからよくすべ――」

朱袮「きゃあっ!?」

ずるっと水気の混じった音がして、朱袮さんが体勢を崩す――が、すんでのところで白川くんのシャツにしがみついて事なきを得たようだ。

白河「言うてるそばからこれや」

朱袮「す、すいません。助かりました」

白河「感謝せぇよ、俺が裸族やったら転んでたとこや」

何人かがその様子を見て笑った。

外の気温は肌寒いという程度だったが、岩窟の中は予想以上にひんやりとしていて、もっと厚着してこなかったことを後悔した。

内部はひたすら一本道が続いており、2,3分ほど歩いて奥へ進むと、扉が目の前に現れた。くすんだ黒鉄色をした、二枚の鉄板によって造られた巨大な鉄扉だった。

松葉「この奥が最深部、月明かりの間です」

白河「……ここに、暁月が?」

松葉「そうです」

牡丹「一応この村の宝物ってことだからねぇ、こうして厳重に管理しているのよ」

五道「この扉には…………鍵が二つ、ついてる」

見ると、たしかに二枚扉の中心部に上下に連なるように二つの掛けがねがあり、それぞれに南京錠が取り付けられていた。

上の錠には『三』、下の錠には『五』と字が彫り込まれている。

五道「上の錠は三船の持つ鍵……下の錠は私の持つ鍵でなければ開けることが出来ない」

なるほど、錠に刻まれた文字は三船の『三』と、五道の『五』というわけか。

牡丹「鍵は普段はそれぞれの所有者の家で金庫に入れて保管。月明かりの間に入るだけでも、少なくとも私と五道くんの二人の協力が不可欠ってことね」

松葉「では鍵をお願いします」

牡丹さんと五道さんが頷く。

最初に牡丹さんが扉へ近寄り、着物の帯の前部分からキーケースのようなものを取り出す。そこから鍵を一本取り出し、南京錠へ差し込む。ゴトッと鈍い音がして、上の錠が外れた。

それを確認すると、次は五道さんもズボンのポケットから鍵を取り出して、残った南京錠を外す。……これで扉の封印は解けた。

松葉「……ありがとうございます。皆さん、少しお下がりください」

松葉さんが一歩前に出て、鉄扉の中央部にあるくぼみに手をかける。扉は相当な重さのようで、地響きのような大きな音を立てながらゆっくりと手前側へ開かれていった。

P「ここが……月明かりの間?」

朱袮「すごい……」

洞窟の中は一切の明かりがなく、まっすぐの道のりとはいえ懐中電灯なしでは歩くのもままならないだろう。だがここだけは違った。

上から日の光が中に差し込み、円形の広間を柔らかく照らし出している。それはどこか幻想的な趣を放っていた。

中に入ってしまわぬように気をつけて、入口付近から覗きこむように見上げる。10メートルはあるだろうというかなり高いところに、広間と同じく円形の天井部が見えた。

どうやら天井には外気に繋がる小さな穴が網目のようにぽつぽつと空いていて、そこから明かりが漏れだしているようだ。

――なるほど、それで『月明かりの間』か。夜になり月が昇れば、ここには日の光に代わって月の光が差し込んでくるのだろう。

広間の中心部には高さが50センチほど、直径が2メートルほどの広さを持つ台座状の岩が鎮座している。

更に奥には小さな祠があった。壁に埋め込まれている形で胸ぐらいの高さに小さな両開きの黒い扉が付いている。祠の上には左右対称になるように壁へ杭が打ち込まれており、その杭の双方を一本のしめ縄が繋いでいた。

松葉「では、皆様はここでお待ちください」

松葉さんが広間へ入っていく。中央の岩を右側から迂回して祠の小扉の前に立つ。

P「あれは?」

五道「あそこに……暁月が仕舞われているんだ」

牡丹「あの小さな扉にも南京錠がかかっていてね。あっちは四条家の当主が持つ鍵がないと開けられないようになっているわ」

広間の松葉さんは着物のたもとから鍵を取り出すと、数秒の後に南京錠の外れたらしい金属音が響いた。

両開きの扉が手前へ開かれる。そこには刀掛けの台に置かれた一本の刀があった。

松葉さんはそれをゆっくりとした動きで取り出し、また扉を閉めて鍵をかける。

そして刀を両手でしっかりと握りしめながら慎重に広間の入り口へ戻ってきた。

千家「おお……10年ぶりに見るが、やはり素晴らしい……!」

千家さんが刀を目の当たりにして興奮したように言った。

朱袮「先生、刀の良さが分かるんですか?」

千家「いや、そういうわけではないが……村の宝というだけあって、立派なものだというのはひと目で分かるだろう?」

刃渡りは70センチ程度、刃を覆う鞘は漆で塗ったような綺麗な黒色をしていた。見た目に派手さはなく、静かで凛とした美しい刀だ。

白河「……たしかに、美しい刀ですね。気を抜けば魅了されてしまいそうな……」

思わずその言葉に頷く。言葉では表現しづらいが、目に見えない力……波動のようなものをこの刀からは感じるのだ。まるでこの刀そのものが生きていて、この場にいる人間の心に何かを訴えかけているのでは……そんな気さえしてくる。

月明かりの間入り口の鉄扉は再び閉められ、牡丹さんと五堂さんによって南京錠の封印が施される。

暁月が持ちだされているとはいえ、ここが神聖な場所には違いなく、神宿り以外の者の無断の立ち入りを禁ずるためだという。

洞窟を出たところで松葉さんが言った。

松葉「これから私は篝火の儀の準備のために神社へ向かいますが……よろしければ、Pさんも同行して頂けませんか?」

P「俺がですか?」

松葉「この先、私は儀式のために明日の朝まで自由な時間がありません。その前にあなたとはもう一度ゆっくりとお話をしたいと思いまして」

P「……わかりました」

松葉「ありがとうございます」

千家「私達は後で向かいますよ。青山くんの容態も確認しておきたいので」

朱袮「Pさん、また後で!」

P「ああ、また後で」

村までは、屋敷の傍らのガレージに停めてあった車で向かうとのことだ。

そこには黒塗りのいかにもな高級車があった。俺と松葉さんは、車の後部座席に乗り込む。運転席に座るのは、灰崎さんだ。

P「青山くんの容態はどうなんです?」

灰崎「ええ、もう熱も下がり始め、だいぶ良くなっているようです」

灰崎さんが出払っている間は白川くんが代わりに彼の看病を務めることになっていた。

松葉「では出してくれ」

灰崎「はい」

車のエンジンがかかり、ゆっくりと前へ進みだした。

松葉「――車もない時代には、わざわざ徒歩で暁月を村まで運んでいたそうです。……そのほうが儀式らしいといえば、らしいのかもしれませんがね」

今、暁月は桐製の箱に仕舞った上でトランクの中に入れられている。

松葉「……貴音とは、もう話をしましたか」

松葉さんは窓から外の景色を眺めながら話す。

P「はい」

松葉「そういえば、先ほども一緒にいたのでしたね。それでは、あの子がこの先どうしようと考えているのかも、お聞きになりましたか」

P「ええ……この村に残るつもりだと言っていました」

松葉「……納得して、いただけたでしょうか?」

P「納得はしてません、今でも。たとえ百回同じ話をされたとしても納得なんてできない。でも貴音がそう決めたと言うのなら、俺は引き下がるしかありませんから」

松葉「……あなたが理解のある方でよかった。わざわざこのような辺鄙な場所まで来ていただいたというのに、申し訳ない」

P「謝ったりなんか、しないでください」

その後、長く沈黙が続いた。

松葉「――貴音の母親は、あの子を産むと同時に亡くなりました」

沈黙を破ったのは松葉さんだった。

P「え?」

松葉「だからあの子は母親を知らないのです。写真を見たり、人づてにどのような人だったかを聞くくらいで」

亡くなったとは聞いていたが、そんなに早くにとは……。

松葉「……思えば、四条家の女は不幸になるという宿命でもあるかのようです」

自嘲めいた笑いを浮かべて松葉さんが言う。

P「……どういうことです」

松葉「貴音の母親は貴音を産む際に、私の妻は9年前に病で、共に早死しております。そして貴音はというと、外の輝かしい世界を知った上で再び、この村の中に……時の止まったこの村に閉じ込められるという残酷な運命を生きねばならない。……まるで、呪いだ」

P「……その呪いの名前は、神宿りというのではありませんか?」

松葉「……どうでしょうね」

捻り出した精一杯の皮肉のつもりだった。みっともない。松葉さんにあたってもどうにもならないというのに。

松葉「……それにしても不思議です」

P「……?」

松葉「……どうしてこのようなことをあなたにお話したのか、自分でもよくわからないのです。なぜでしょうか?」

P「そんなこと、俺はもっとわかりませんよ」

松葉「ふふ、ごもっとも」

……初めてこの人がちゃんと笑ったところを見た気がする。

松葉「強いて理由を挙げるとするなら……あなたが似ていたからかもしれません」

P「似ている? 誰に?」

松葉「私の兄に、です」

P「常盤さんに?」

松葉「容貌はまったく違いますが……雰囲気、と言いましょうか、そういう何かが、兄の若い頃に近い気がしたのです。だから私は無自覚のうちにあなたに親近感を覚え、つい饒舌になってしまった……のかもしれません」

P「はぁ……そう、ですか」

松葉さんはまた黙りこむ。

P「……常磐さんって、どういう方だったんです?」

松葉「…………頭の良い人でしたね。昔から本ばかり読んでいた印象があります。それになにより……優しかった」

心優しい人。たしか千家さんもそう言っていたっけ。

松葉「ですが、その優しさは逆に言うなら……甘さ、とも表現できる。人を疑うということを知らない人でした。だから……」

松葉さんはそこまで言ってからはっとする。

松葉「ふっ……戯言を申しました。忘れてください」

松葉さんは苦笑して言った。……一体、何を言いかけたのだろうか。

そこで、それまで黙っていた灰崎さんが口を開いた。

灰崎「――到着しました」

駐車場には既に祭りの運営側らしい人たちが数人待機しており、松葉さんの姿を見ると深々とお辞儀をした。

松葉「ご丁寧なことだ」

彼らを見て松葉さんが呟く。

松葉「私と暁月に何かあってはことだから……と、ああやって『お供の者』がずっとくっついてくるんです。……嫌になります」

愚痴っぽく言う。それだけ大切に扱われているということなのだろうが、本人にとってはありがた迷惑らしい。

祭りの車を降りて、トランクの中から暁月の入った桐箱を取り出しながら松葉さんが言った。

松葉「お付き合いしていただきありがとうございました。私はこれより神社へ向かい儀式の準備へとりかかります。まだ時間には余裕がありますので、祭りを見物していかれては? もっとも、そう面白いものもないでしょうが」

P「そうさせていただきます」

松葉「では」

松葉さんと軽く会釈をして別れる。彼は桐箱を大切そうに抱え、待機していた数人の関係者とともに神社へ向かっていった。

P「灰崎さんはもう屋敷へ戻られるんですか?」

車の中の老執事に尋ねる。

灰崎「ええ、篝火の儀式が終わる頃にまた旦那様を迎えに参りますので」

P「なるほど」

灰崎「それでは、失礼します」

P「ありがとうございました」

車が走り去っていく。

さて、千家さんたちや牡丹さんたちが来るまで時間があるだろうし、少しぶらついてみようか。

夕日は落ち、空はもう暗くなっていた。祭りらしさを演出している提灯や電飾の朱色の灯りが暖かい。

広場は昼間に来た時よりもずいぶんと賑やかで、村の人間すべてがここへ集まっているかのようだった。

腹が減ってきたので屋台で焼きそばでも買おうか、と店を探して辺りを見回しながら歩く。

P「……なんだ、あれ」

目についたのは、妙な存在感を放つ、芝生の上に風呂敷を広げた露天商だった。広場の片隅、賑わいからぷつりと切り離されたような、静かで薄暗い場所だった。下を向いているため顔は分からないが、短髪のところを見るとおそらく男だろう。低木の前に片膝を立てて座っている。

近くの祭り客たちは、誰もその露天商の存在に気がついていないように思えた。アレが見えているのは、俺だけなのではないか――なぜか、そんな考えが脳裏をよぎる。

あんな場所で何を売っているのだろう? 好奇心が湧いた。しかし、俺の中の何かが、アレは危険であると警告を発しているのもたしかなのだ。そんな曖昧な感覚を「たしか」というのはおかしい気もするが、そうとしか言いようがない。

――気が付くと俺はその露店へ向かって足を進めていた。

「……いらっしゃい」

湿ったような男の声だった。青年のようでもあるし、老人のようでもある、不思議な印象を受ける声。店主が顔を上げる。

P「うわっ……!?」

店主は仮面を被っていた。真っ白で無表情な、とても不気味な仮面だった。仮面の両目の部分に空いた穴から、血走った視線が覗いた。

「どれにするかい……?」

店主は目の前に広げた風呂敷を眺めて言った。風呂敷の上には、仮面がいくつも並んでいた。

商品のラインナップは、お世辞にもいい趣味をしているとはいえなかった。それらはおよそ楽しい祭り会場で売りに出すような代物ではなく、どれもこれもホラー映画の殺人鬼なんかが着けていそうな不気味な仮面ばかりである。

悪魔、亡霊、ピエロ、狐……豚のモチーフなんてものもある。しかもこれらの仮面はどうやら全て木彫らしい。祭り会場でよく見るちゃちなプラスチック面とはまったく違う、本格的なものだ。

「いい出来だろう?」

P「え、ええ……」

「私が彫ったんだ」

静かな口調ではあるが、自作に大きな自信を抱いていることは伝わってくる。……とても買おうという気にはなれないが。

P「せっかくですけど、また次の――」

機会に、と言おうとしたところで、風呂敷の上のある仮面が目に留まった。

P「……これ……」

額から突き出た二つの角に、大きく見開いた両目、鋭い牙の生えた口元……鬼の仮面だった。

鬼の面といえば、有名なものでは般若の面というものがある。あれはたしか、嫉妬や恨みを抱えた女、すなわち鬼女の表情をかたどったものだったはずだ。この仮面もくすんだような黒色をしているというだけで、造形はそれに近い。

しかし、この仮面からはそれだけでは言い表せない、激しい情念のようなものを感じる。こうして見ると商品の中でも明らかに異質な存在感を放っている……ような気がする。

「それか。いいものを選んだな」

P「いいもの、なんですか?」

「ああ、自信作だ」

P「はぁ、自信作……」

「この村には、鬼の伝説があるそうじゃないか。それならぴったりだ」

鬼の伝説……洞の鬼伝説のことか。

P「……あれ? 『あるそうじゃないか』って……あなた、村の人じゃないんですか?」

「どうするんだ」

P「え?」

「買うのか、買わないのか」

P「ええっと……いや、やめときます」

興味を惹かれはしたものの、こんな不気味な仮面をその場の勢いで買ってしまうほど酔狂ではない。なによりこんな本格的なものならそれなりの値段をふっかけられそうで恐ろしい。

「ちっ、なんだよ。冷やかしならさっさと消えな」

露骨に興ざめして言う。手をシッシッと振るので仕方なく退散する。

再び賑わいの中へ戻ると、前方の人混みの中から声がした。

「プロデューサー」

ひょこっと白い狐が――正確には白狐の面を被った誰かが――目の前に飛び出してくる。

P「わぁっっ!??」

思わず悲鳴とともに後ろへ飛び跳ねてしまう。周囲の怪訝そうな視線が刺さる。

「申し訳ありません……よもや、それほどまでに驚かせてしまうとは」

プラスチックの白狐の面を少しだけずらして顔を覗かせる。見慣れた瞳がそこにあった。

P「たか――」

貴音「しっ……あまり騒ぐといけませんよ」

口の前に人差し指を立てて言う。貴音は黒いつば広の帽子をかぶっていた。いつもなら変装もへったくれもない目立ちまくりの銀髪もまとめて帽子の陰に隠れるようにしている。これならこの村の中でくらいなら、アイドルであることを隠せていけそうだ。

貴音「それにしても、ふふっ。先ほどのプロデューサーの慌てようといったら……」

俺の驚きっぷりがあまりに見事で貴音のツボにはまってしまったらしい。

P「……一応弁明させてもらうとだな。ついさっきまでそこの不気味なお面屋を覗いてたんだ。そこへお前がそんなもん付けて飛び出してくるから――」

貴音「お面屋?」

P「ああ、向こうに――」

後ろを振り向いて、唖然とする。……いない。たしかに、あの低木の前に座っていたはずなのに。まるで初めからそこには何もなかったかのように、商品を載せた風呂敷まで綺麗さっぱりとなくなっていた。

P「そんな……」

貴音「……何も、ないようですが?」

店を離れてからせいぜい1分か2分というところだ。そんな短い時間で商品を片付けて何処かへ消えてしまったとでも言うのか?

そのとき、最初にあの店を見た時に感じたことを思い出す。

P「……まさか、本当に俺だけにしか見えてなかったわけじゃないよな」

貴音「なにをおっしゃっているのです?」

P「いや、なんでもない。うん、なんでもないんだ」

貴音「そうですか? それならばよいのですが」

忘れよう。悪い夢を見ていたんだろう。そうに違いない。

P「――それにしても、いつの間にこっちへ来てたんだ?」

貴音「三船殿と五道殿が乗る車に同乗させていただきました」

P「その二人は?」

貴音「神社へ、篝火の儀式の準備をしに」

P「ああ、そりゃそうか」

あの二人は儀式の準備に関しては中心にいる人物なのだから当然だ。

貴音「千家殿たちも今頃こちらへ向かっていることかと」

P「そっか」

青山くんは……無理だろうな、さすがに。

貴音「……これから、どうなさるおつもりですか?」

P「浄めの儀式とやらも気になるけど、まだ準備に時間がかかるみたいだからな。……少し一緒に祭り見物でもしてみるか」

貴音「……ご一緒して、よろしいのですか?」

P「何言ってるんだ。当たり前だろ?」

貴音「…………」

P「どうした? ……もしかして、俺とじゃ嫌か?」

貴音はふるふると首を振る。

貴音「……嬉しいのです。とても」

P「それならよかった。じゃ、行くか」

貴音「あの」

P「うん?」

貴音「……手を、繋いでも……よろしいでしょうか?」

P「…………」

貴音「あっ、その……」

そっと彼女の手を取る。

P「……はぐれると、いけないからな?」

貴音「……はい!」

P「じゃあ、どこ行くかな……あ、腹減ってないか?」

貴音「……はらぺこです!」

P「じゃあラーメン……はさすがにないだろうから、焼きそばでも買って食うか」

貴音「ふふっ、楽しみです……!」

今日はここで中断します
明日からは話が大きく動き出す…予定
ありがとうございました

――貴音との祭り見物もとい、屋台食べ歩きで財布の中身は手痛いダメージを被ることとなったが、この村へ来てから初めて彼女が楽しそうにしているのを見ることができたので、まぁよしとしよう。

貴音「会場に来たのはこれが初めてでしたが……十年祭がこのような楽しいものになるとは、思ってもみませんでした。」

P「前回の十年祭は――」

と言い出してから、貴音の父親がその時に亡くなっていることを思い出して言い留まる。

P「あ……いや、なんでもない」

貴音「よいのです。気になさらないでください」

貴音は少し物憂げに笑って言った。

貴音「……実は、わたくしもその時のことはよく覚えていないのです」

P「……覚えていない?」

貴音「ええ。月明かりの間で父が倒れて、亡くなっていた……その時の光景は、今でも目に浮かぶのですが……それより前の記憶が、ぽっかりと穴が空いてしまったかのように思い出せないのです」

それは一体、どういうことだろう? 

強い心的ストレスで記憶障害に陥るという話は聞いたことがある。

だが『父親の死』がそのストレスの原因だと考えると、父親が倒れていたという光景は思い出せるのにそれよりも前の記憶が消えているというのは、おかしな話じゃないか? 

もちろん、俺はそういう精神医学の方面にはまったく詳しくないので、そういうこともあるのかもしれないが……。

貴音「叔父やじいやにそのことを話しても、思い出さないほうがよいと言われるばかりで……」

P「……無関係の俺がどうこう言うべきではないんだろうけど……思い出せないなら、無理に思い出すこともないと思うけどな」

貴音が頷く。

貴音「昔はよく悩んでおりましたが……今ではわたくしも、そう思うようにしております。ただ……」

P「ただ?」

貴音「とても、大切なことを忘れてしまっている気がするのです。それが……どうにも気持ちが悪いというか……」

P「そうか……どうにかできればいいんだけどな……」

貴音「あっ……申し訳ありません。このようなこと、話しても仕方がありませんね」

P「そんなことないさ。俺はお前のプロデューサーなんだから、なんだって相談してくれていいんだ」

貴音「……そうでしたね。プロデューサー」

P「――っと、もう8時になるな」

松葉さんの話では、篝火の儀は20時からということだった。

P「そろそろ神社へ向かうとするか」

貴音「……なんだか、名残惜しいですね」

P「屋台がか? あれだけ食ってよく言うよ」

貴音「ふふ……違いますよ。さっ、まいりましょうか」

広場から石段を上り、古びた鳥居をくぐった先が神社の境内となっている。

P「予想はしてたけど、すごい人の数だな」

境内中、余すところなく人で埋め尽くされていた。「神宿り様」は普段村人の前に姿を現すことは殆ど無いらしいから、ひと目見ようと訪れる客も多いのだろう。

千家さんや白川くん達もこの中のどこかにいるのだろうか。

背伸びして前を見ると、広い砂地の奥に小さな拝殿があるのがわかった。古いせいもあるだろうが、普段からあまり手入れはされていないように見えた。神主は不在らしいからこんなものだろうか。

拝殿から少し手前には、丸太で組まれた井桁(いげた)の中に薪の山が積まれていた。あれを篝火として燃やすのだろう。一般の祭り客が入れないように周囲をしめ縄で囲ってある。

貴音「始まるようですよ」

儀式用の装束だろうか、白袴を着た松葉さんが拝殿のわきから姿を現した。両手を前に差し出すようにして、暁月を持っている。他の祭り客たちもその姿を認めると、先ほどまでのざわつきも嘘のように静まり返った。

ゆっくりとした歩みでしめ縄で囲まれた中へ入ると、何か台のようなものが置かれた手前に正座をする。松葉さんがその台の上に暁月を置くところを見ると、あれは刀掛けのようなものらしい。

今度はまた別の人がしめ縄の中へ入る。巫女服のようなものを着ているが、あれは牡丹さんだ。手には松明が握られていた。牡丹さんはその松明を井桁の中の薪の山へ放り込むと、すぐに拝殿のわきへと消えていった。

火はたちまちのうちに猛火と呼ぶに相応しい火勢になり、30メートルは離れた位置であるはずのここにまでパチパチと薪の爆ぜる音が聞こえる。

貴音「叔父はあそこで祈りの言葉を唱えているのです。ここからではよくわかりませんが」

P「なるほど……ああやって護り刀である暁月を浄めているってわけか」

周りの様子をちらと窺ってみると、他の祭り客は真面目に儀式の様子を眺めているか、一緒になって祈りあげているかのどちらかだった。

篝火の儀は、その後30分ほど続いた。

朱袮「あっ、Pさーん! 貴音さーん! こっちです! こっちー!」

篝火の儀を終えてから再び広場へ降りると、朱袮さんが手を振りつつこちらに声をかけてくれた。隣には千家さん、白川くんもいる。

千家「篝火の儀はご覧になられましたか」

P「ええ、なんというか、思っていたより静かなものでしたね」

千家「はは、キャンプファイヤーみたいに篝火を囲んでみんなで踊り狂うようなのを想像していましたか」

P「いやそこまでは……」

踊り狂うってなんだ。

白河「僕らはこれから車で四条さんの屋敷へ戻ってから奉納の儀に立ち会う予定なんです」

千家「Pさん達も一緒に乗って行きませんか?」

P「よろしいんですか?」

千家「もちろん」

P「それならお言葉に甘えて」

貴音「感謝いたします」

P「……奉納の儀っていうと、暁月をまたあの洞窟に戻す儀式だったね?」

白河「ええ。そしてあの月明かりの間で明日の朝まで祈りを捧げる、というやつですね」

千家「もちろん、松葉さんが月明かりの間に入ってしまわれてはそんなに長い時間を外で待っとるわけにもいきませんから、その後は屋敷へ戻りますよ」

昼間に乗った時と同じように千家さんが運転席に、白河くんが助手席へ座り、残りは後部座席に乗り込むことになった。

千家「じゃあPさんもどうぞ乗ってください」

P「はい」

千家さんが運転席側のドアを開けて車へ乗り込むと、その拍子になにかが地面へ落ちた。

P「なにか落としましたよ」

それは手帳だった。茶色の革製の手帳で、そこそこの厚みがある。そういえば千家さんと初めてこの広場で会った時にも、予定の確認をする際に見ていたのを思い出す。

拾い上げてみるとそれはかなり古いものであるように思えた。車の窓越しに千家さんに手帳を渡す。

千家「ああ、どうもすみません。ありがとう」

P「随分長く使ってらっしゃるみたいですね、その手帳」

千家「ええ、親父の形見なんです。失くしたら大変なところでした」

P「気がついてよかった」

後部座席のドアを開き、車に乗る。俺は右端、中央に貴音、左端に朱袮さんが座っていた。

その後、車で15分ほどの道のりを経て、四条の屋敷へ戻った。

屋敷へ戻り、松葉さんたちとの合流を待ってから、再び月光洞へと向かう。

貴音はやはり行きたくないと言うので屋敷で留守番していてもらうことになった。

最初に行ったときにはまだ夕日があったが、今は完全に夜の闇に包まれてしまっている。月は出ているようだが、月光洞への道のりはちょっとした林道となっており、木々がちょうど陰になっているせいで月の光はここまで届かない。

当然、街灯などもないわけで、頼りとなるのは各々手に持った懐中電灯のみである。

白河「朱袮、今度は転ぶなよ」

朱袮「は、はい。あの、先輩」

白河「なんや?」

朱袮「……またシャツ、掴んでていいですか? それなら転んでも大丈夫です!」

白河「転ぶのは前提か? ……まぁ、ええけど」

途中大学生コンビがそんな会話をしているのを聞きながら、月光洞へ到着する。

洞窟の中を2、3分ほど歩いて月明かりの間の大きな鉄扉の前まで来た。幸いなことに、今度は朱袮さんは足を滑らせることはなかった。

松葉「では三船さん、五道さん、お願いします」

牡丹さんと五道さんが頷く。松葉さんは依然として篝火の儀の際に着ていた白袴のままだが、牡丹さんの服装は最初に会った時と同じ黒地に緋色の装飾が入った着物に戻っていた。

それぞれの持つ鍵を使って、上下二つの掛けがねにかかった南京錠を外す。

扉が手前側へ開かれ、月明かりの間が眼前に広がる。今日は月がよく出ているらしく、天井から降り注ぐ淡い光のシャワーは夕方に見たそれより幾倍も美しく見えた。

朱袮「綺麗……」

近くにいた朱袮さんが誰ともなく呟くのが聞こえる。

松葉「……ああ、そうだ。五道さん、三船さん」

何かを思い出したように言った。

松葉「例のあれなんですが……やっぱり、やめていただくことはできませんか?」

五道「お気持はわかります……ですが我々としても……もう二度と十年前のようなことを繰り返させるわけにはいかないのです」

牡丹「私は、松葉様がどうしてもとおっしゃるならやめるのは一向に構いませんけど、それならそれで五道さんが一人で全部やってしまうでしょうし……」

五道「どうかご理解ください、松葉様……万が一ということがあります。私も一応医者ですので……また、神宿り様をなくすわけにはいかないのです」

松葉「……ふむ」

五道「絶対に儀式の邪魔はいたしませんので……ええ、絶対に」

松葉「わかった。ただし約束はきっちりと守っていただく」

五道「ありがとうございます……!」

松葉「……今は何時です?」

牡丹「10時ちょうどですわ」

牡丹さんが左手の腕時計を見て言う。つられるように自分の腕時計を見ると、たしかに『22:00』となっていた。

松葉「……では、これより暁月を奉納します」

松葉さんが手に持った暁月を持ち上げて一同に見せた後、広間へ入っていった。奥の祠の前まで行くと、装束の左の袂(たもと)から鍵を取り出して、祠の扉に付いた南京錠を外す。再び、鍵を左の袂に戻す。

観音開きになっている祠の扉を開き、内部にある刀掛けに暁月をそっと置く。

ゆっくりと扉を閉め、掛けがねに南京錠を取り付ける。カチッと音がした。

松葉「それでは……私は明日の朝日が昇るまでの間、ここで祈りを捧げ続けることになります。後のことは灰崎に任せてありますので」

千家「ありがとうございました、松葉さん。また明日、お会いしましょう」

松葉「ええ、また。そうだ……Pさん」

P「はい?」

松葉「…………貴音に伝えておいてくれませんか」

P「……なんと?」

松葉「…………いえ、やっぱり、結構です」

P「はぁ、そうですか……」

松葉「では三船さん、五道さん、扉を閉めていただけますか」

松葉さんの指示に従い、牡丹さんが左側の扉を、五道さんが右側の扉を閉める。松葉さんの姿がだんだんと扉に阻まれ見えなくなる。やがて、がちゃん、と大きな音を立てて鉄扉は完全に閉じられた。

牡丹さんと五道さんがそれぞれ南京錠を扉に付ける。……これで、松葉さんは自分の意志でここから出ることすらできなくなった。こんなところへ閉じ込められて一晩中祈り続けるだなんて、自分なら到底無理だろうな、と思う。

それにしても……最後に見た、松葉さんの思いつめたような表情がどこか気にかかった。

P「――さっき松葉さんとお話されていたのは、なんだったんです?」

月光洞からの帰り際、五道さん達に訊いてみた。

五道「十年前……神宿り様があの月光洞の中で亡くなられたというのは、ご存知で?」

P「ええ、聞きました。貴音の父親の……常磐さん、でしたよね」

牡丹「十年前も私と五道くんは四条の屋敷にいてね。常磐様の死因は心臓発作だったのだけれど……五道くんは、あのときもっと早く気がついていれば常磐様を助けられたかもしれなかったのに……って、今でもずっと後悔してるのよ」

常盤さんが亡くなっているのが発見されたのは、朝になってからだったという話だった。

五道「松葉様と比べるわけではないが……常磐様は本当に……素晴らしいお人だった。あの方を亡くしたのはこの村にとってとてつもなく……大きな損失だった。あの悲劇を防くことができたかもしれない立場にいた身としては、この十年……ただただ後悔するばかり……」

牡丹「だからね、五道くんは前もって松葉様に一つ提案していたのよ」

P「提案、ですか?」

五道「そう……『2時間ごとに、松葉様の様子を確認させていただきたい』、と」

P「は……? 確認って、どうやって?」

五道「あの洞窟の扉は……完全に密閉されているわけではない。二枚の鉄板の間には……わずかに隙間ができているんだ」

P「じゃあ、まさか……」

牡丹「そこから覗きこんで、月明かりの間の中の様子を見させてほしいって頼んでたのよ、五道くんは」

五道「2時間に一回、物音など立てないようにするなら……という条件で、お許しをいただいた。始めは1時間ごとにということでお願いしていたのだが」

先ほども土壇場で断ろうとしていたのを考えると、松葉さんとしてはまったく乗り気ではなかったようだ……。

五道「そこで、松葉様が奉納の儀に入られてからきっかり2時間ごとに……私と三船が交互に様子を見に行くことになっている」

牡丹「正直、私としてはそこまでやる必要あるのか疑問なんだけどねぇ……」

五道「そんな……約束したじゃないか……」

牡丹「別にやらないとは言ってないわよ。安心して」

きっかり2時間ごと……松葉さんが月明かりの間に入ったのが10時ちょうどだったから……次は、0時か。五道さんと牡丹さんも大変だな。

屋敷に戻ると、いきなり粗暴な声が聞こえた。執事室――灰崎さんの部屋に黒田が押しかけていたのだ。

黒田「おいおいおいおい、冗談だろ? ほんっっっとに一本たりとも置いてないってのかよ!?」

灰崎「申し訳ございません」

千家「いったいどうしたんです? 黒田さん」

黒田「ああ聞いてくれよおっさん」

千家「千家です」

黒田「聞いてくれよ千家サンよ。ここには一本も酒の類が置いてないらしい」

千家「あー……そういえば、松葉さんは酒を飲まない人でしたか」

灰崎「ええ、それでいつもアルコールは置いていないのですが……お客様が来ることを考えて、用意しておくのを忘れていた私のミスです。申し訳ございません」

黒田「あーもう……酒でも飲まなきゃ退屈で死にそうだってのに、そりゃないぜ」

千家「うーむ……なんなら、私が買いに行ってきましょうか?」

黒田「おお!? マジかよおっさん!」

千家「千家です」

黒田「マジかよ千家さん!」

千家「私も夜くらい一杯やりたいと思っていましたからね。昼間、村の中で一軒だけコンビニを見かけたので、そこでいくつか見繕ってきましょう」

灰崎「それならば少々お待ちください。代金の方を……」

千家「ああいいんですいいんです! 私が勝手に酒を買って、それを黒田くんにおごるというだけなんですから」

その後、申し訳ないからと粘る灰崎さんと断る千家さんの押し問答がしばらく続き、やがて千家さんが押し切って終わった。

黒田「そんじゃ千家さん、頼んだぜ」

黒田はズボンのポケットに手をつっこんだまま廊下の奥へ消えていく。部屋に戻るのだろう。

牡丹「村のコンビニって一軒しかないから、千家さんが見かけたっていうのはそこのことだと思うんだけど……ここからだと結構遠いわよ? 車でも30分くらいかかるんじゃないかしら?」

五道「そうだな。村の端のほうだからそれくらいかかるだろう」

千家「まぁ大丈夫だろ。それじゃちょっと出て――あ」

千家さんが何か思い出したようにはっとする。

五道「どうした?」

千家「あー……五道、村のガソリンスタンドは何時までだ?」

五道「夜10時で閉まったはずだ」

千家「うぅん……しまったな」

五道「……なんだ、ガス欠か?」

千家「メーターが残り僅かだったのを今思い出した……」

朱袮「そうだったんですか? まぁ……村へ来るまでに相当うろうろしてましたからね」

そういえば千家さんのせいで暁月村に来るまでに道に迷ったと話していたっけ。

白河「どうするんです? もう10時回ってますけど……」

白河くんが壁に掛けられた時計に目をやりながら言った。

千家「いやぁ、明日帰り際に入れておけばいいかと思ってたんだがな……。さすがに屋敷とコンビニを往復するのは厳しそうだ。五道、悪いんだが車を貸してくれないか?」

五道「え……」

千家さんの要望は予想外だったようで、ぽかんと口を開けている。

千家「ん、ダメか?」

五道「い、いや……ちょっと待て、車内を片付けてくるから」

千家「別に散らかってても気にしないぞ」

五道「私が気にするんだ」

灰崎「おお、そうでした。お待ちください千家様」

灰崎さんが嬉しそうに千家さんを呼び止めた。

灰崎「ガレージの中にガソリンの携行缶がありますので、それを入れていただければ」

千家「え? ……いや、そんな悪いですよ」

灰崎「どうかお気にになさらず。こちらの不手際のお詫びということで……」

千家「そうですか? まぁ……それなら遠慮無く使わせてもらいましょうか」

灰崎「私もお手伝いします。なに、10分もかかりませんよ」

千家「それじゃお願いします。……あ、そうだ」

次に千家さんは周りの人たちに向かって言った。

千家「みなさんも、他になにか必要な物があれば買ってきますが」

牡丹「それじゃあ、ちょっとついでにお願いしてもいいかしら?」

牡丹さんが片手を上げて言った。

千家「いいですよ。なんです?」

牡丹「煙草。キャメルのブラック」

P「牡丹さん煙草、吸われるんですね」

少し意外だ。

五道「かなりのヘビースモーカーだぞ」

P「そうなんですか?」

五道「こいつのせいで、村のコンビニは煙草ばっかりやたら品揃えが充実しとる」

牡丹「あら、権力の有効活用と言ってほしいわね」

牡丹さんはからかうような笑みで言った。

その後千家さんは灰崎さんと共に玄関を出ていった。それを契機としたかのようにその他の面々もばらばらになった。

俺はというと、祭りで歩きまわった疲れもあり自室へ戻っていた。また靴のままベッドに身を投げ出す。

色々と考えるべきことがあったような気もしたが、横になっていると段々とうつらうつらとしてきて、どうでもよくなった。

俺はそのまま、瞼を閉じてしまった。

――夢を見た。

少女が泣いている夢だ。

たぶん、7歳とか、8歳とか、そのくらいだろう。

嗚咽を混じらせながらも、必死に声を殺して泣いていた。

――どうして泣いているの?

少女は答えてくれず、泣くばかり。

俺はどうしてその子が泣いているのかもわからず、ただただあたふたとしていた。

どうしてか、その子が泣いているのを見ていると自分もたまらなく悲しくなった。

一緒に泣き出してしまいたいくらいだった。

ふと、その子が俺の知る誰かに似ている気がした。

それは――

部屋の外からなにか大きな音……声?――がして、目が覚めた。

左手首の時計を見てみると、0時10分になったところだった。なんとなしに部屋の掛け時計と見比べてみるが、誤差はない。一時間半ほど眠ったようだ。

廊下へ出ると、ちょうど隣の部屋の牡丹さんも出てきたところらしかった。

牡丹「あら、眠そうな顔しちゃって」

俺の顔を見て笑う。

P「なにか騒がしいみたいですけど……」

牡丹「さぁ? 玄関のほうだったみたいね。行ってみましょうか」

玄関には既に人が集まっており、俺と牡丹さんは出遅れたほうらしい。

一同の中に青山くんの顔があった。

P「あれ? 青山くん。もう大丈夫なのかい?」

青山「……あ、はい。俺はもう大丈夫っす。でも……」

どこか浮かない顔をしている。

白河「――これで全員集まりましたね」

P「あの、なにが……」

……全員? その言葉にどこか違和感を覚えて、一人ずつ確認する。

青山くん、白河くん、朱袮さん、牡丹さん、灰崎さん、五道さん、それに黒田。

松葉さんは奉納の儀の最中だし、千家さんはまだ買い物から戻っていないんだろう。

あれ……貴音がいない?

白河「……Pさん。それに三船さん」

白河くんは目を合わせまいとするかのように伏し目がちになって言った。

P「え?」

白河「……五道さんがこの様子なので、代わりに僕が伝えます」

五道さんは、顔面蒼白、体中に汗をかき、がくがくと顎を震わせていた。ひと目で、異常な状態だとわかる。

五道さんだけじゃない。俺と牡丹さん以外のみんな、どこか怯えたような、あるいは苛ついたような表情をしていた。

体の奥底を冷たいものが通り抜けていくような、そんな感覚がした。

……なんだ、これ。

白河「どうか、落ち着いて、聞いてください」

……嫌だ。聞きたくない。

白河「松葉さんが、亡くなったかもしれません」

牡丹「ちょ、ちょっと……どういうことよ……?」

白河「僕もついさっき、月光洞から帰ってきた五道さんの話を聞いたばかりです。他の皆さんも同じです」

黒田「ひとつ聞いとくが、こりゃ芝居かなにかってんじゃないだろうな?」

朱袮「そんなわけないじゃないですか。五道さんがこんな……」

たしかに、五道さんの様子からしてなにかの演技とはとても思えない。

灰崎「そ、それよりも、洞窟へ急ぎましょう! 旦那様もですが、お嬢様も……!」

P「貴音も月光洞に!?」

朱袮「五道さんの話を聞いてすぐに飛び出して行ってしまったんです」

白河「そうですね。僕達も急いで洞窟へ行きましょう」

玄関の棚から取り出した懐中電灯を各々が持ち、屋敷から出たところで、千家さんが帰ってくるのに出くわした。手には酒瓶が数本入ったレジ袋を提げている。

千家「おや、みんな揃ってどうし――」

白河「月光洞で異変があったみたいなんです。詳しく説明してる時間はありません、ついてきてください!」

千家「あっ……おい、ちょっと!」

千家さんは戸惑いながらも事態の緊迫を察したようで、玄関脇にレジ袋を置いてから一団の後ろについた。

先頭に白河くんが立ち、それを追うように後の者が続いた。夜道を走り抜け、月光洞の入り口に差し掛かる。

白河「中は滑りやすい。ここからは歩いていきましょう」

洞窟の中を、それでも早歩きで進んでいった。誰も、何も話さなかった。

そして、月明かりの間の前……鉄扉にすがりつくように座り込んだ人影が見えた。

P「貴音ッ!!」

思わず駆け寄り、彼女の体を抱き起こす。

貴音「……ぁ……プロデュ……サー……?」

貴音は呆けたような顔でこちらを見る。

P「大丈夫か?」

よく見ると、服や髪のあちこちに泥汚れが付いていた。ここへ来るまでに何度も転んだのだろう。近くの地面には同じく泥のついた懐中電灯。そして、『五』と刻まれた南京錠が落ちていた。

貴音「叔父様……ああ……叔父様が…………!」

貴音は扉の向こうへ手を伸ばそうとする。

P「灰崎さん、貴音をお願いします……!」

灰崎「は、はい」

貴音をひとまず灰崎さんに預け、鉄扉から遠ざける。

鉄板の扉の境目……五道さんが言っていたとおり、たしかに、そこには1センチにも満たないほどの小さな隙間があった。

覗きこんでみると、月明かりに照らされた広間が見える。

中央の台座状の岩に、点々と赤いものが付着しているのがわかった。

そして……台座岩の右側、その下に、こちらへ足を向けて横に寝そべるように倒れている人の姿が見えた。顔はここからでは陰になっていて見えない。その周囲には、赤いものが広がっているのがわかる。

P「そんな……松葉さん! 松葉さんッ!!」

呼びかけてもまったく反応はなかった。

白河「三船さん、鍵です! 早く!」

牡丹「あ……え、ええ!」

扉を見ると、既に五道さんの分の南京錠は外れている。地面に落ちている錠はそれだったのだ。

牡丹さんが残る一つの南京錠を開け、何人かで一緒になって扉を一気に引き開ける。

月明かりの間が開けると同時に、錆びた鉄のような臭いが鼻をついた。……血の臭いだ。

灰崎「だ、旦那様……!」

広間の外で貴音を介抱していた灰崎さんも、倒れた松葉さんの姿を見て愕然とする。

白河「五道さん……お願いします」

五道「あ、ああ……」

医師である五道さんが倒れた松葉さんに近寄る。だが、彼はすぐに何かを悟ったようだった。……あるいは、最初に扉越しに見た時からわかっていたのかもしれない。

P「……五道さん?」

五道「…………駄目だ。もう……亡くなられている」

朱袮「嘘……!」

青山「ほ、ほんとに……? 死んでる……?」

黒田「マジかよ……勘弁してくれよ……」

黒田までもが、あまりの事態に困惑を隠せないでいる。

貴音「叔父様……そんな、どうして……! どうして叔父様が!!」

貴音は震えた声を絞り出しながら、ふらふらと松葉さんの遺体に近寄ろうとする。だが、体に思うように力が入らないのだろうか、途中で地面に手をついてしまう。

灰崎「お嬢様!」

慌てて灰崎さんが貴音に寄り添う。

貴音「うぅ……じいや……あぁっ……!!」

彼女のむせび泣く声が洞窟の中にこだました。

なんで……なんでこんなことに…………。

千家「五道……。その……死因はいったい?」

五道さんは遺体を傾けてその背中を見せるようにする。

五道「……刺されている」

見ると、松葉さんの背中のほぼ中央部分に刃物で刺されたような、3センチから4センチほどの大きさの傷があり、そこから流れ出した血が白装束を朱く染め上げていた。

千家「刺されている、だって?」

千家さんがオウム返しに問いかける。

五道「ああ……おそらく、これは……一撃で心臓に達している」

千家「馬鹿な……じゃあ……これは、『殺人』だっていうのか?」

一同の視線が、千家さんへ向けられた。

牡丹「ちょっと……冗談じゃないわよ……!」

灰崎「旦那様が……こ、殺された……?」

千家「背中を刺されているんです。信じ難いことですが、そう考えるしか……」

白河「待ってください、先生」

千家「なんだい、白河君?」

白河「……凶器は?」

千家「え?」

白河「ここには……凶器が見当たりません」

P「……本当だ」

辺りを見渡すかぎり、刃物のようなものは見当たらない。

千家「それならつまり、こういうことだろう。何者かが松葉さんを刺殺し、その凶器は犯人によって持ち去られたんだ」

白河「……そうですね。僕もそう思います。でも、そんなことは大した問題じゃない」

千家「なに?」

白河「一番の問題は――『犯人は松葉さんをどうやって殺害したのか?』ということなんです」

そうなのだ。松葉さんの死、それが突然の出来事過ぎてなかなか事態を呑み込めずにいた。だが少し落ち着いて考えてみると、今まで頭が回らなかったのが不思議なくらいに、それはあまりに大きな問題であるように思えた。

青山「どうやってって……あっ!? そうか、鍵!」

白河くんが頷く。

白河「ああ。この月明かりの間には厳重な封印が施されとったはずや。二つの南京錠による、封印がな。……五道さん」

五道「……なんだ?」

白河「最初に異変に気がついたのは五道さんでしたね。そのときのことを詳しく話していただけますか?」

五道さんは渋々といった様子で、話し始めた。

五道「私は……約束通り、0時きっかりに松葉様の様子を確認しに来たんだ。入り口の扉の前で腕時計を確認して……0時ちょうどだったのを覚えている」

五道さんが思い出すように左手首につけた腕時計を見つめる。

五道「そして扉の隙間から覗きこんだら……この有り様だ。私は声をかけたが……松葉様は返事をされなかった。あの時にはもう……亡くなっていたのだろう」

白河「確認したいのですが……その時、扉に鍵はかかっていましたか?」

五道「もちろんだ……南京錠は二つともかかっていた。私はそのとき慌ててしまっていて……松葉様を助けようと、所持していた鍵で南京錠の一つを開けた。……すぐに、それではなんの意味も無いと気がついたが」

五道さんの持つ鍵では、『五』と書かれた方の南京錠しか開くことはできないのだ。残る一方の『三』の南京錠が残る限り、扉は開かない。

五道「……とにかく、このことを知らせなければ、と……そう考え、急いで屋敷へ戻った」

白河「屋敷へ戻った後は、僕らの知るとおりですね。屋敷と月光洞の間を行き来する際に、変わったことはありませんでしたか?」

五道「いや……なにもなかったと思う」

朱袮「ねぇ、先輩……とにかく警察へ連絡しないと……早く、出ましょう?」

朱袮さんも相当ショックを受けているようで、顔色が悪い。

白河「……わかった。警察に連絡、それが第一やな。でも……すまんがもう少し待ってくれ。もう一つだけ気になってることがあるんや」

青山「気になってること? ……なんなんすか?」

白河「……そこ」

白河くんが指さした先には、暁月が奉納されている祠があった。

白河「あん中のもんを確かめておきたい」

朱袮「でも、鍵がかかってますよ?」

五道「待て……松葉様が持っとるかもしれん」

五道さんが松葉さんの着ている装束を探る。最初に右の袂へ手を突っ込み調べる。

五道「こっちか……?」

次に左の袂を調べ、そこから鍵を取り出した。

五道「あっ、あったぞ……ほら」

白河くんは鍵を受け取ると、祠へ近づき、その扉の掛けがねを閉じている南京錠に鍵を差し込む。ゴトッと音がして、錠が外れた。

白河「Pさん。これ、持っておいてもらえますか」

P「わ、わかった」

南京錠を受け取る。そこには、入り口の扉にかかっていたものと同じように文字が刻印されていた。『四』とある。四条の四、ということだろう。

祠の扉は観音開きになっており、白河くんは中央の取っ手を掴んでそれを開いた。

朱袮「あっ……!」

まず朱袮さんが驚きの声を上げた。

白河「……嫌な予感が当たってしもうたな」

祠の中には、黒い刀掛け台が残されているばかりだった。

千家「刀が……暁月が……ない……」

牡丹「まさか、盗まれたの……!?」

白河「ここにないってことは……そういうことなんでしょう」

青山「そ、それじゃあ……犯人は松葉さんを殺して、刀を奪っていったってことっすか!?」

白河「それが一番しっくりくるな。犯人以外の人間が刀を盗んだとは考えにくい」

P「……犯人の目的は暁月だったってことかい? そのために松葉さんを?」

白河「……どうでしょうか。そこまではわからない。Pさん、南京錠を」

白河くんは南京錠を受け取ると、祠の扉を閉じてまた元の状態に戻す。

黒田「それならよぉ」

長い間黙っていた黒田が口を開いた。

黒田「訊いてみりゃあいいんじゃねえか? 犯人に」

朱袮「犯人に、って……」

黒田「この中にいるんじゃねぇのかよ? 尊き神宿りサマを殺した犯人がよ」

千家「黒田くん、それは……」

黒田「じゃ、挙手制でいくか。ずばり聞くぜ……誰がやったんだ?」

……長い沈黙。誰も手は挙げない。

黒田「……まー正直に答えるわけもねぇか。へへっ」

そう言って両手を頭の後ろに回す。始めからこの結果になるとわかっていたのだろう。

白河「まだわからないことが多すぎる……この中に犯人がいると決めつけるのは早計だと思いますよ」

黒田「おお、そうかいそうかい」

この状況でもこんなふざけた態度がとれるとは……もはや尊敬に値する。

五道「鬼……」

五道さんが誰ともなしに言った。

千家「鬼? 五道、今、鬼って言ったのか?」

五道「い、いや……すまない、気にしないでくれ」

白河「鬼というのは……もしかして、洞の鬼伝説の鬼ですか?」

五道「……ああ。どうしてかな、自分でも馬鹿げた話だと思うんだが……まるで伝説の鬼が復活して松葉様を手にかけたように思えてしまってな……」

牡丹「ちょっと……そりゃいくらなんでも馬鹿げすぎてるわよ、五道くん。あんなお伽話の鬼が実在するわけ――」

五道「だ、だが! 犯人が人だったならば、いったいどうやってこの密室の中の松葉様を殺し、暁月を盗み出したと言うんだ!?」

牡丹「それは…………」

五道「鬼の呪いなんじゃないのか!? そうでも考えないと、こんなこと無理だ!!」

千家「落ち着け、五道。きっとなにか方法があったはずなんだ」

五道「方法だと!? じゃあ教えてくれ!! 私には……わからない……!」

五道さんの顔を両手で覆う。その手は震えていた。

白河「……やめましょう」

白河くんが場の荒れた雰囲気を断ち切るように言った。

白河「……僕個人の意見としては、犯人はやはり人だと思います。しかし密室殺人のトリックを見破るのも、犯人を見つけ出すのも、僕らの役目じゃない。今は屋敷へ戻って警察へ連絡を入れましょう」

P「……そうだね。俺も、それに賛成だ」

何人かが頷いて、ひとまず屋敷へ戻ることになった。

牡丹「また、神宿り様を喪うことになるなんて……村の人達にどう説明すればいいのかしら……」

牡丹さんは手で額を抑えつつ言った

五道「そ、それも……今回は殺しだ…………きっと大きな騒ぎになる…………」

牡丹「ほんとに…………悪夢だわ。鬼だの呪いだのと言いたくなる気持ちもわかるわね……」

千家「松葉さんの遺体はどうする?」

白河「……気の毒ですが、そのままにしておいたほうがいいと思います。月明かりの間も、元通り封印しておきましょう」

千家「そうだな……警察が来るまでは現場保全しておかなければな」

寒々しい洞窟の奥に遺体をそのままにしておくというのは気が引けたが、仕方のない事だと納得するしかない。

灰崎「……お嬢様、立てますか?」

貴音「……すみません、じいや」

灰崎さんに肩を支えられながら貴音がよろよろと立ち上がる。憔悴しきった顔をしていた。……彼女のあんな顔を見るのは初めてだった。

朱袮「貴音さん、かわいそうですね……松葉さんが唯一の肉親だったのに」

朱袮さんが俺にだけ聞こえるような小さな声で話しかけてきた。

P「……うん」

今の俺には、貴音になんと言葉をかければよいのかわからなかった。

朱袮「……行きましょう。後のことは警察に全部任せちゃえばいいんですよ」

P「そうだね……」

朱袮「ほら、先輩も。帰りましょう」

白河「ん……ああ」

一人、月明かりの間の奥の方にいた白河くんが返事をする。

俺はそのとき、彼がズボンのポケットに何かをしまいこむのを見た気がした。

白河「……どうかしましたか?」

P「あ、いや……なんでもないよ」

気のせい……か?

月明かりの間へ通じる鉄扉を二つの南京錠で再び封印してから、揃って月光洞を出る。

屋敷へ戻って警察へ連絡、後は事態が解決するのを待つだけ……そうなると思っていたのだが……。

千家「――……やっぱりダメだな」

千家さんが首を振りつつ電話の受話器を下ろす。先ほどから何度繰り返してもこの調子だった。

青山「電話が通じないって……どうして!?」

灰崎「わかりません。どこかで電話線が断線しているのかもしれません……」

灰崎さんは申し訳無さそうな面持ちである。

貴音には部屋に戻ってもらっている。先ほどの様子からしても、今の彼女には休息が必要だ。

牡丹「ここの電話が使えないっていうんじゃ、どうするのよ……ここは携帯電話も圏外だし……」

そう、ここは村からも外れた山の中。電波は通じていない。

千家「…………そうなると、誰かが村へ降りてこのことを知らせに行かねばなりませんね」

五道「私が……行こう」

牡丹「それじゃ私も一緒に行かせてもらうわ。五道くん一人じゃ、なんだか心配だし」

五道「む……たしかに、三船のほうが話すのも上手いか。……頼む」

P「村へはお二人に向かってもらうとして……僕たちはどうします?」

白河「どこか一箇所に集まっておいたほうがよいのでは?」

灰崎「それでは談話室をお使いください。お茶を用意いたします」

談話室へ移動してしばらくして、灰崎さんがサービスワゴンにお茶を載せてやってきた。

大半の人はテーブルを囲うように配置されたソファに座ってその茶を飲んでいたが、白河くんだけが茶に手を付けず、何か考え事をした様子で部屋をうろうろとしていた。

扉が開いて、二人の人物が談話室へ入ってきた。

千家「五道? それに三船さん。ずいぶん早かったですね?」

五道さんも牡丹さんも、言いづらいことを抱え込んだかのような表情をしていた。

千家「……なにかあったのか?」

五道「千家……それに他のみんなも……落ち着いて、聞いてほしいんだが……」

五道さんのその報告は、俺達全員を戦慄とさせるのに十分な破壊力を持っていた。

五道「雪崩が……起きたらしい。村へのトンネルが雪で塞がっていて……村へは行けなかった」

灰崎「な、雪崩が……?」

朱袮「そんな……冗談、ですよね?」

牡丹「信じられないのも無理ないけど、残念ながら本当よ。そんなに気になるなら自分で見に行けばいいわ」

白河「……山の残雪が溶け始めていたんでしょう。それにしても、最悪のタイミングだ」

青山「よ、良かったっすね、先生。買い物から帰ってくるタイミングがもう少しずれてたら雪崩に巻き込まれるところだったじゃないですか」

千家「あ、ああ……あまり助かったという実感もないが……」

青山「って……あれ? 村へはトンネルを通るしか道はないんすよね? じゃあ、俺達、閉じ込められた……ってことなんじゃ?」

白河「今気づいたんか。にぶいぞ」

青山「もしかして……松葉さんを殺した犯人も一緒に?」

白河「……せやから、最悪のタイミング言うたんや」

青山「なんてこった…………」

千家「……電話が繋がらなかったのはそういうわけだったんだな。雪崩で電話線がやられたんだろう」

朱袮「電話もできない、村へも行けないって……私達、いつまでここに閉じ込められてなきゃいけないんですか?」

灰崎「少なくとも、明日……明るくなるまではどうにもならないかと」

千家「明日中に助けが来ればまだ良い方でしょうね。3日くらいは覚悟しておく必要があるかもしれない……」

朱袮「み、3日も……」

外部犯なら、戸締まりをしっかりとして耐えればいい。3日くらいなら、食料の問題もなんとかなるだろう。

だが、問題は……内部犯、つまり……この屋敷の中にいる、誰かが犯人だった場合……そのときは……。

扉の開く音がして、思考が途切れた。

P「……貴音?」

灰崎「お嬢様! なりません、部屋でお休みになられていないと……」

貴音は服を着替え、泥のついていた髪や顔も綺麗にしていた。

貴音「よいのです、じいや。部屋でじっとしているよりは、誰かと話でもしているほうが落ち着きますから……」

朱袮「あっ、ここどうぞ。座ってください、貴音さん」

俺の右隣の席に座っていた朱袮さんが席を譲る。

貴音「……ありがとうございます。七瀬殿」

貴音がその席に座り、朱袮さんは外側の余っていた席に移動する。

貴音はいつものすましたような表情ではあるが、泣き腫らした眼はそうそう隠せるものではない。

P「……ほんとに大丈夫なのか?」

貴音「ええ、ご心配していただきありがとうございます。……もう、大丈夫ですから」

それが強がりであることはさすがに俺にもわかる。でも、なにか別のことに関心を向けていたほうが気が紛れるというのなら、ある程度彼女の好きなようにさせたほうがいいのかもしれない。

貴音「ところで、先ほどまで何をお話になっていたのです? ざわついていたようですが……」

雪崩の件を貴音に説明する。

貴音「――なるほど。そのようなことになっていたとは……」

牡丹「しかし参っちゃうわね。助けが来るまで、私達ここでじっとしてなきゃならないってことでしょう?」

五道「……参った……本当に……」

灰崎さんが遅れてやってきた五道さん、牡丹さん、貴音の分のお茶を用意する。

牡丹「ああ、ごめんなさい灰崎さん。私、アップルティーは苦手なのよ」

灰崎「これはこれは、失礼いたしました。代わりのお茶を用意しましょう」

灰崎さんが牡丹さんのお茶を下げながら言った。

牡丹「別にいいわ、手間でしょ。後でいただくわ」

灰崎「そうですか……かしこまりました」

灰崎さんは下げたお茶をサービスワゴンの上に置いてから、席についた。

白河「……ちょっと、提案させてもらってもいいですか?」

千家「なんだ、白河君?」

一人立っていた白河くんは、空席になっている長テーブルの端に移動して話し始めた。まるで会議の議長かなにかだ。

白河「事件の整理をしておきたいんです。突然の出来事でしたし、さっきは僕も含めおそらく全員が混乱していた。今ならいくらか落ち着いて話せるだろうし、記憶にも新しい。……多分、今がベストタイミングなんです。互いの情報をつき合わせて確認するには」

千家「……ふむ。たしかに、警察が来た時に話す内容をまとめておくという意味でも大切なことかもしれないな」

白河「ただ、事件のことを話すのが嫌だという方もいるかもしれません。そうであれば、この話はしません。どうでしょうか?」

白河くんは意見を求めるようにみんなを見回した。

牡丹「……私は賛成よ。別に、嫌というならここから出て自分の部屋にでも戻っていればいいんじゃないかしら?」

黒田「面白そうだ。俺は構わねぇよ」

青山「俺も、大丈夫っす」

五道「私も…………構わない」

灰崎「必要なことであれば、私は協力させていただきます」

朱袮「は、はい! 私もいいと思います!」

千家「もちろん賛成だ」

P「……俺も賛成する」

残ったのは、一人。

白河「貴音さんは、どうされますか?」

貴音「…………問題ありません。やりましょう」

白河「ありがとうございます。これで全員の賛同が得られました。では早速始めましょう、事件の検証を」

こうして、白河くんの発議によって改めて事件の経緯を確認することとなった。

白河「まずは……そうですね。最後に松葉さんの生きた姿を確認したのは10時ちょうどでした。そして、五道さんが遺体を発見したのが0時ちょうど。その間の皆さんの動きを確認させてください」

黒田「アリバイ確認か。いよいよ刑事ドラマめいてきたな」

五道「黒田さん……真面目にやりましょう……」

黒田「はいはい、っと……」

白河「ではPさんから、お願いできますか?」

P「俺は……寝ていたよ。10時過ぎに月光洞から戻った後、部屋へ戻って居眠りしていた」

白河「目が覚めたのは、0時過ぎに騒ぎが起こってからですか?」

P「そうだよ。その時間は一度も部屋からは出ていない」

要するに、俺にはアリバイがないってことだ。

白河「――では他に、Pさんと同じようにずっと自室にいたという方はいますか?」

牡丹「私も部屋にいたわ」

牡丹さんが手を挙げて言った。

白河「何をされていたかお聞きしても?」

牡丹「持ち込んできた仕事よ。こう見えても村長だから、書類の確認とかで結構忙しいのよね」

白河「わかりました。……他には?」

貴音「わたくしもです。10時から0時までは部屋に。もっとも、わたくしは月光洞へ行きませんでしたから、10時よりも前からになりますが」

白河「そうでしたね。貴音さんは暁月を奉納する際に同行していませんでした」

貴音「部屋にいた間、特別何かをしていたというわけではありませんが……強いて言うなら、考え事を少々」

白河「ありがとう。その内容までは訊かないでおきます。他には……」

青山「あの……俺もそれに入りますよね? ずっと自室にいたっていう……」

青山くんが恐る恐る手を挙げる。

白河「ああ」

白河くんが頷く。

白河「お前はその時間、部屋で寝とったからな。いや、あの時はもう起きてたか?」

青山「ええ、先輩と話してました」

P「そうか、青山くんと白河くんは部屋が同じだから……」

白河「月光洞から戻ってきた五道さんの声が聞こえて、二人で様子を見に行くまで部屋は出ていません。……まぁ、身内同士ですからこれでアリバイを主張しようと思ってはいませんが。それで、他にずっと自室にいたという方……いませんか? いませんね?」

千家「じゃあ次は私の番かな。私は村のコンビニまで買い物に行っていたんだ。酒を買いにね」

白河「そういえば、随分時間がかかりましたね? ガソリンを入れてから出たんでしたっけ」

千家「ああ、灰崎さんに手伝ってもらってね。その作業自体はすぐに終わった。だが……コンビニに着いて、買い物を済ませたはいいものの、買い忘れに気がついて一度Uターンしたんだ」

千家さんはそう言って苦笑する。

朱袮「買い忘れって?」

千家「三船さんに頼まれていた煙草だな」

牡丹「……あら、それは悪かったわね」

牡丹さんは今になって煙草を頼んでいたことを思い出したといった様子で言った。煙草の買い物を頼んだ時には、まさかこんな事態になるとは想像もつかなかっただろう。

千家「いやいや、私がうっかりしていただけですので。こちらこそすみません」

千家さんは片手をひらひら上げて言った。

白河「なるほど。そこで買い物を済ませて、その後は?」

千家「寄り道せず屋敷へ戻ってきたよ。そうしたら全員で月光洞へ行くところだった、というわけさ。……あ、そういえば黒田くん。酒はどうする? 今は私の部屋に置いてあるが……」

黒田「……ふん。さすがにそんな気分じゃねーよ」

黒田が手をひらひら振り答えた。

千家「ま、それもそうか」

千家さんは黒田が常識のほんの一欠片でも持ち合わせていたことに安堵したように言った。

千家「ああ、三船さんの煙草は後でお渡ししますよ。キャメルのブラックでよろしかったですね?」

牡丹「あ、ええ、ありがとう千家さん……」

牡丹さんはどこかぎこちないお礼を言った。

白河「先生、その……買い物をした時の、レシートかなにかお持ちじゃありませんか?」

千家「あー……しまったな。もう捨ててしまった。ええと……どこで捨てたかな……」

白河「いや、それならそれでいいんです。ありがとうございます、先生」

たしか村のコンビニまでは車で30分くらいかかるという話があったはずだ。レシートがあれば千家さんの証言の裏付けだけでなく、少なくともそこに記録されてある時間の前後30分はアリバイが確保されることになる。

そのレシートがないということは、千家さんにもはっきりとしたアリバイがあるとは言えないわけだ。

白河「じゃあ次は……朱袮、頼む」

朱袮「私は書斎にいました……その、あんな大きな書斎、珍しくって。珍しい本もあるんだろうなって思ったので」

白河「一人でか?」

朱袮「そうです。あっ、途中で黒田さんが」

白河「書斎に入ったんですか、黒田さん?」

黒田「俺ぁその時間、屋敷の中を見物がてらあちこち歩いて回ってたのよ。やることも酒もないし、暇だったのさ。書斎にも入った。まぁでも、ぐるっと本棚を眺めて回っただけだ。そのねえちゃんとは挨拶くらいしか話してねえよ。あんな薄暗い部屋でよく本なんて読めるなと思ったな」

白河「薄暗い?」

朱袮「あの書斎には蛍光灯が二つあるんですけど、そのうちの片方が途中で消えちゃったんです」

灰崎さんが驚いた様子を見せた。

灰崎「それは失礼いたしました。お知らせしてくださればすぐに取り替えましたのに」

朱袮「い、いえ、私は机のスタンドライトを使ったので明るさは問題なかったんです」

白河「机の上で読書をしてたんやな」

朱袮「黒田さんが書斎に来て5分くらい経ってからだったかな……? 五道さんが玄関で『誰か来てくれ!』って叫んでるのが聞こえて、黒田さんと一緒に書斎を出たんです」

白河「五道さんが松葉さんの異変を確認して、月光洞から戻ってきた時やな?」

朱袮「そうです。灰崎さんも部屋を出てきたところだったみたいです。そのあと少しして先輩たちが来ました」

白河「ありがとう朱袮。黒田さんの動きもこれでわかりましたね。じゃあ次は……灰崎さんはどうでした?」

灰崎さんは咳払いを一つしてから話し始めた。

灰崎「私は、千家様のお車にガソリンを入れる手伝いをしておりました。村のガソリンスタンドまでは距離がありますもので、ガレージに予備としてガソリンの携行缶を置いてあるのです」

白河「先ほど、先生はすぐに終わったとおっしゃいましたが、具体的にはどのくらいの時間がかかりましたか?」

千家「そうだな……7,8分ってところか。10分以上はかかってないはずだよ」

灰崎「私もそのくらいだったかと思います。外から戻った時に時計を見ましたが、10時半を少し過ぎた頃でした」

白河「わかりました。では、その後はどうしました?」

灰崎「屋敷へ戻ってすぐ、五道様からのお申し付けで軽食を用意し、お部屋までお運びいたしました」

白河「五道さん、間違いありませんか?」

五道さんは頷いて答えた。

五道「ああ……小腹が空いていたから、なにか適当なものをと頼んだ……」

灰崎「サンドイッチをご用意させていただきました。予め作りおきにしてあったものがありましたので」

白河「五道さんにそれを届けて、その後はどうしました?」

灰崎「部屋に戻りました。五道様が0時に月光洞へ行かれることは把握しておりましたので、戻ってこられる頃にお皿を回収しに行こうと考えつつ待機しておりました。しばらくして玄関から五道様の声が……それで部屋を出ました。七瀬様のおっしゃいます通り、そのときに七瀬様と黒田様が書斎から出てくるのを見ました」

白河「わかりました。ありがとうございます、灰崎さん」

白河くんが次に話を促したのは五道さんだった。

五道「暁月の奉納を見届け……10時過ぎに屋敷へ戻った。自室で少し過ごした後……灰崎さんの部屋を訪ねた」

白河「食べ物を頼むために」

五道「そうだ……その後はトイレへ行って……それから部屋へ戻って本を読んで待っていた。少しして灰崎さんが部屋へ来た……」

白河「サンドイッチを届けに来たんですね。その後はどうしました?」

五道「それを食べ終わった後は……また本を読んで時間を潰していた。それからしばらくして月光洞へ向かった。そうだな、11時50分には屋敷を出ていたかな……」

予定時刻である0時まで10分しか余裕が無い、というのは少し出発がギリギリすぎやしないだろうか? ……と、思ったが、月光洞の月明かりの間までの道のりはゆっくり歩いても7、8分ほどしかかからないことを考えると、妥当なようにも思える。

この地方の夜は特に冷えるだろうし、0時までの待ち時間を作って外に長居はしたくないと考えるのもまた自然なことだろう。

五道「そうだ……灰崎さん。皿は後で取りに来るという話だったから……まだ部屋に置きっぱなしだ」

灰崎さんははっとして、

灰崎「そうでございました。後で回収に向かわせていただきます」

五道「わかった」

白河「……さて、これで全員……終わりましたね」

これで全員の10時から0時までの動きが出揃ったわけだが、ここから何かが見えてくるだろうか?

白河「……これは、『外部犯の可能性がまだ残っている』、ということを承知の上で言わせていただくんですが……この中に、明確なアリバイを持つ人はいないようですね」

たしかに、白河くんと青山くんを除けば全員、一人きりの時間がある程度は存在したことになる。

朱袮「え? でも、先輩と青山くんはずっと一緒にいたなら……」

白河「さっきも言うたやないか、朱袮。たしかに俺と青山は一緒の部屋におったから、お互いが犯人じゃないってことを確信し合えてる。でも身内の人間同士でそう言うてるだけなのを、他の人にも信じろと無理強いはできん」

朱袮「あっ、なるほど……」

千家「まぁアリバイがちゃんと成立するなんて状況、滅多にあるものじゃないだろう。話を次へ進めようじゃないか」

千家さんは胸元につけたガラス球のお守りを手で弄りながら言った。

白河「たしかに、そうですね」

朱袮「じゃあ次は、何を話しますか?」

青山「俺はやっぱり、松葉さんがどうやって殺されたのかが気になりますね。だってあんなの、どう考えても無理っすよ」

白河「……ああ、それについては俺も話しておきたいと思とったんや」

そう……犯人はどうやって密室の中の松葉さんを殺害したというのだろうか? それこそがこの事件の一番の謎だった。

議長っぷりがいよいよ板についてきた白河くんは五道さんに尋ねる。

白河「月光洞の中で確認したことの繰り返しになりますが……五道さんは0時ちょうどに、松葉さんが月明かりの間で倒れているのを目撃したんでしたね?」

五道「ああ」

白河「その時、持っていた鍵で南京錠の一つを解錠した?」

五道「そうだ……もちろん、それだけでは扉は開かないが……取り乱していたんだ」

白河「外した南京錠はそのままにして屋敷へ?」

五道「……そうだったと思う。地面に置きっぱなしにいていた」

P「それは俺も見たよ。『五』って刻まれた南京錠が地面に置いてあった」

白河くんは頷いて、

白河「ええ、僕も見ました」

五道「じゃあそれで間違いない……あそこの南京錠は、それぞれ対応する鍵を持つ家の名の一文字が刻まれているから……そうだな、三船?」

牡丹「そうよ。三船家の『三』、四条家の『四』、五道家の『五』といった具合にね」

白河「……ところで五道さんは、南京錠の鍵をどこに持っていますか?」

五道「ズボンのポケットの中だ」

そう言って右側のポケットから鍵を取り出してみせる。

白河「三船さんは?」

牡丹「……ここよ」

着物の帯の前部分から、挟んであった革製のキーケースを取り出す。

白河「お二人とも、今までに鍵を誰かに貸した、といったことはありませんか? あるいは、失くしたことは?」

五道「どちらも一度もない」

牡丹「ないわ。普段はずっと金庫の中にしまっているし、一応それなりの責任は持って預かってるつもりよ」

白河「では、鍵の複製があったという可能性はどうでしょう?」

牡丹「ありえないわね。この南京錠自体、特注のものだし」

白河「特注?」

五道「前回の十年祭の時、付け替えたんだよ……前のは古くなっていたし、セキュリティ面でも不安があったから……」

牡丹「鍵とそれに対応する錠には同じシリアルナンバーが入っていてね。対応するもの同士でないと当然錠は外れないし、ピッキングや切断も無理っていう代物よ」

新しい情報だ。前回の十年祭……というと、貴音の父親である常磐さんが亡くなった時だ。それが鍵と関係があるとも思えないが。

白河「……となると、何者かがコピーの鍵を使って南京錠を外し、扉の向こうの松葉さんを殺害したというのはなさそうですね」

千家「しかしそれがダメなら一体どうやって……」

二つの南京錠によって封印された扉。牡丹さんと五道さんの持つ二つの鍵がない限り、中にいた松葉さんですらその扉を開くことはできなかった。

逆に言えば、これほど安全な場所もないはずなのだ。外界からシャットアウトされた、最も安全なはずの神聖の広間は、松葉さんにとっての死の檻と化してしまった。

黒田「……簡単じゃねーか」

黒田があっけらかんと言った。

黒田「その二人が共犯なら何も不思議なことはねぇだろ?」

牡丹さんと五道さんを指さして言う。

五道「なっ……!?」

牡丹「ふざけないで。そんなはずないでしょう?」

黒田「別にふざけちゃいねぇよ。そうとしか考えられないって話さ」

青山「……五道さんか三船さんのどちらかが、もう片方の鍵を譲り受けたらそれだけであの扉を開けられるってことですもんね。それならたしかに犯行は可能ですよ」

牡丹さんが青山くんを無言で睨みつけた。

青山「い、いや、あくまで可能性としてありうるって話で、僕がそう思っているわけでは……」

青山くんは慌てて手を振って釈明しているが、俺も密かにその可能性については考えていた。

例えばこうだ。五道さんが松葉さんの様子を確認するという名目で月光洞へ向かった時、彼は実は牡丹さんから『三』の錠を外すための鍵を預かっていたのではないだろうか?

そして、月明かりの間に侵入した五道さんは松葉さんを刃物で殺害した。暁月は祠から盗みだした上でどこかに隠しておき、その後屋敷へ戻った。混乱のどさくさに紛れて五道さんが牡丹さんに鍵を返すのはそう難しいことではないだろう。

貴音「それは……ありえないと思います」

黙って話を聞いていた貴音が突如言った。

白河「そうですね。僕もそう思います」

白河くんもそれに同調する。……どういうことだ?

黒田「ありえないって……どうしてだよ?」

白河「僕達が見た現場の状況から考えて、ありえないんですよ」

黒田「ああん……?」

貴音「叔父は……背中を刺されていました」

黒田「それなら俺も見たぜ。それがなによ?」

白河「松葉さんの体に争ったような形跡はありませんでした。ということはつまり、松葉さんは不意を突かれて背中を刺された……ということにならないでしょうか?」

黒田「まぁ……そうかもな」

白河「そう考えると、あの重たい扉が問題なんですよ」

黒田「扉ぁ?」

引き継ぐように貴音が続ける。

貴音「月明かりの間の入り口……あの扉は非常に重く、ゆっくりとしか開くことはできませんし、それになにより、大きな音がするのです。広間の内部にいた叔父が、その音に気が付かないはずはありません」

千家「なるほど……たしかにおかしい。侵入者に気がついたのなら、その相手に背中を見せ続けているというのは不自然極まりないな」

黒田「……ちっ、なんだよ。それならたとえコピーの鍵があったとしても、あの扉を開ける必要がある以上、犯行は無理ってことじゃねえか」

白河「少なくとも今のところは、そうですね」

白河くんは改めて全員を見回しながら言った。

白河「……とにかく、冷静に、じっくり考えましょう。……この状況です、結論を急いで無実の人間に冤罪を押し付けてしまうなんてことになったら…………全員、破滅しかねない」

そのとおりだ。雪崩で外界と隔絶されているという、その時点で一種の極限状態なのだ。平常ならありえないようなことでも起こってしまうかもしれない。無実の人間同士で疑い合って、罪を押し付けあって……その果てにあるのは……悲劇しかない。

P「でも……扉を開けることなく中にいた松葉さんを殺害するなんて、尚更無理なように思えるけど……」

青山「そういえば、あの月明かりの間ってとこには天井に穴が空いてましたよね? あそこから何とかして入れないっすかね?」

白河くんがため息をつく。

白河「お前ちゃんと見とらんかったんか? たしかに幾つも穴が空いとったが、あんな小さな穴から人が出入りできるわけあらへんやろ」

青山「あれ、そんな小さかったっすか? すんません、俺あんまり目ぇよくないんで……」

青山くんは苦笑して言う。

朱袮「青山くん、いつもは眼鏡かけてるんです。今日はうっかり持ってくるの忘れちゃったみたいですけど」

朱袮さんが口横に手を添えてこっそりと補足するように話してくれた。

青山「朱袮、余計なことは言うなよな」

小声で注意するように言った。

白河「お前の目はともかく、高さがあったから多少のズレはあるやろうが……天井の穴は大きくてもせいぜいが直径10センチ、ってなもんやったぞ」

朱袮「まぁ、青山くんはさっき見たのが初めてだったわけだし、記憶があやふやなんじゃない?」

たしかにあの騒動の中では無理もないことだろう。

千家「そもそも、どうやってあんな高い場所に登るんだね? 10メートルはあったぞ。洞窟の外側はかなり急な岩の崖だったし、よじ登るのは不可能だろう」

青山「うぅん……打つ手なしかぁ……」

朱袮「…………あっ」

白河「なんや朱袮。何か思いついたんか?」

朱袮「あ、えと……いや、多分違うと思うんですけど……」

白河「かまへん。言うてみい」

朱袮「そ、それじゃあ……」

朱袮さんは咳払いしてから恐る恐るといった様子で話し始めた。

朱袮「……月明かりの間の扉には隙間があったんですよね、覗き見ができるくらいの。そこから刃物を通して松葉さんを殺害した……っていうのは? それなら犯人は扉を開ける必要も、鍵を持っている必要もありませんし……どうでしょう?」

白河くんは首を横に振る。

白河「……いいや、それも違うな」

朱袮「どうして?」

白河「その方法で松葉さんを殺害したとして……犯人はどうやって暁月を盗み出すんや?」

朱袮「あ……!」

P「無理だ……祠の鍵は松葉さんが持っていたんだし、それに犯人が扉を開けられないんじゃ……あ、でも……」

……それなら、一つだけ方法があるんじゃないのか?

白河「……犯人が扉の鍵を持っていれば、松葉さんを殺害後に月明かりの間に入ることはできたでしょうね」

青山くんがぱちんと手を打つ。

青山「それですよ! 殺害した後なら、いくら物音を立てても平気なんですし。暁月も盗み出せます」

鍵のコピーが存在する可能性は限りなく低く、また、誰かが鍵を盗みだすということも考えづらいとなると……牡丹さんと五道さんの共犯説がまた息を吹き返すか……?

白河「……いいや、ちゃうんや青山。その推理が間違いである根拠がある」

青山「なんですか?」

白河「そのトリックのためには、松葉さんが扉の近くにおるっちゅうのが第一条件になる。祈りに集中しとったはずの松葉さんをどうやって扉の前まで誘導するか……まぁいくらでも方法はあるやろう。妙な物音を立てて気を引く、とかな。そこはいいとしよう。せやけど実際の松葉さんの遺体が月明かりの間のどのあたりにあったか、覚えとるか?」

青山「ええと…………」

白河「松葉さんは入り口から見て中央部の台座から右横にそれたところに倒れとった。扉からは少し距離がありすぎるんや。刺された後で松葉さんがよろけて移動したとか、犯人が後で遺体を動かしたとも考えられん。血痕は扉周辺には残っとらんかったしな」

たしかに、血液は遺体の周辺が血溜まりになっている他は、台座の上に点々と残っている程度で、拭き取られたような痕跡もなかった。

青山「扉越しに凶器を刺した後、凶器ごと松葉さんの体を押せば、凶器は刺さったまま扉の向こうに入っていきますよね。……で、犯人は扉を開けた後で遺体を動かして、それから凶器を抜いたんじゃないですかね?」

白河「……何のためにそんなことをする必要があるんや? 犯人がわざわざ遺体を動かすメリットがどこにある?」

青山「扉の開け閉めの邪魔になったとか……」

白河「あの鉄扉は手前に開くようになってるから、遺体は扉の開閉の邪魔にはならんはずや。それに凶器を刺したままって簡単に言ってくれるが……刃の部分だけならともかく、扉の小さな隙間から凶器まるごとを広間側に通すゆうのは無理があると思うけどな」

青山「なるほど……たしかにそのとおりっすね……」

朱袮「やっぱり違ったかぁ……」

朱袮さんはしゅんとして言った。

青山「……あっ、それならボウガンみたいなもので射殺したっていうのはどうです? それなら距離が離れていても大丈夫だし、矢は扉を開けてから回収すればいい」

白河「……なかなか面白い意見やな。でも、それもちゃうと思う」

青山「どっかおかしいことあります?」

白河「矢で殺されたにしては、傷口が広すぎる。あれは幅のあるナイフとか包丁の類の傷やったように思う。あれだけの傷ができるほどゴツい矢を使ったんやとしたら、狭い扉の隙間から撃つなんて芸当は不可能やろう」

五道「そうだな……私も、そう思う」

五道さんが同意の声を上げる。

五道「それなりに刃幅のある凶器だろう……3センチか、4センチといったところの」

そう言いながら親指と人差し指で大体の長さを示す。

白河「五道さん。洞窟の中でおっしゃっていましたが、松葉さんの背中の傷は心臓にまで達していたんですよね?」

五道「ああ……だが、あれだけ深くまで刺さっていれば心臓を避けていたとしても、失血死は免れなかっただろう」

ということは、それだけ犯人は力いっぱいに凶器を突き立てた、ということだろうか。

千家「どうやらまだ答えは出せそうにないな……」

結局これだけ話し合っても、ピンとくるような解決法は得られなかった。

灰崎「そもそも…………」

それまで口数の少なかった灰崎さんが言った。

灰崎「どうして……旦那様は殺されたのでしょうか? ……私にとってはそれが一番、不可解にございます……」

牡丹「……暁月を盗み出すため、じゃないかしら」

青山「刀一本盗み出すためだけに、人を殺したって言うんすか!?」

牡丹「ありえない話じゃないと思うわ。村の護り刀である前に、暁月が相当な名刀であることには違いないのだし。それに盗み出す機会があるとすれば、月明かりの間が開放されるこの十年祭の時くらい……」

暁月を盗み出すためには、月明かりの間入り口の二つの鍵、そして内部の祠の鍵と合計3つの封印を突破する必要がある。鍵は普段三船家、四条家、五道家のそれぞれが各自の家で厳重に保管しているという話だった。

たしかに、万が一にも盗むチャンスがあるとすれば、この十年祭のタイミングでしかないようにも思えた。

千家「それはどうかな。もしかしたら、暁月を盗んだのはあくまでついで……もしくは、『暁月を盗むのが目的』であると誤認させるためかもしれない」

牡丹「松葉様を殺害することが犯人の主たる目的だった、とおっしゃるんですの?」

千家「ええ、それが犯人にとっての何らかの利益を狙ってのものか、あるいは怨恨を動機とするものなのかはわかりませんがね」

五道「馬鹿な……松葉様を殺して利益を得る者などおらんだろう…………」

朱袮「なら……怨恨?」

五道さんが首を横にふる。

五道「それも考えられないな……神宿りという立場上のことではあるが、他者との交流を殆ど行っていなかった方だ。厳格な性格ではあったが、誰かに恨みを持たれていたとも思えない」

灰崎「そのとおりでございます……旦那様に、殺される理由など……」

白河「……そうでしょうか?」

白河くんが発した言葉に、場の空気がぴたりと静止した気がした。

白河「動機や心情なんて、その当人にしかわからないものです。だからあくまで可能性の一つとしてですが……僕はこう思います。松葉さんが殺された理由……それは、彼が四条松葉であったことより、彼が神宿りであったことに関係しているのではないでしょうか?」

灰崎「それは……どういう意味なのでしょう?」

白河「この村の住人は、その殆どが神宿りを信奉しています。その神宿りが死去した……それも殺されたなどということが村に広まれば、大変な騒ぎになる。そうではありませんか?」

五道さんがゆっくり頷く。

五道「……ああ。十年前、常磐様が亡くなられた時にもそれはすごい騒動になったものだ……弟の松葉様がすぐに神宿りを引き継いで騒ぎを鎮めてくださったからよかったものの…………」

白河「今度また、神宿りが死んだとなれば、村人らの悲しみや落胆、あるいは怒りは十年前の比ではない……そう思いませんか?」

牡丹「あ、あなた、何を言おうとしているの……?」

白河「……一番の問題は、鬼憑き病のことです。松葉さんが亡くなってしまったことで、神宿りだけが治すことができた鬼憑き病は、正真正銘の不治の病となってしまったのでは? 灰崎さんも治療の秘術については何も御存知ないのですよね?」

灰崎「……ええ」

灰崎さんはゆっくりと頷いた。

五道「なんてことだ……恐るべき事態だ」

白河「それもこれも全て、村への害意と考えることは出来ないでしょうか」

五道「村への……害意?」

白河「僕が思う犯人像は、この『暁月村そのものに強烈な恨みを抱いている人物』です。村の護り刀である暁月を盗んだのも、それが理由だ。村人たちの心の拠り所である神宿りと護り刀を同時に奪い去り、絶望へと追いやることこそ、犯人の目的なのではないでしょうか? そう考えることはできませんか?」

と、そこまで言ってから白河くんは付け加えるように言った。

白河「……最初に言ったとおり、これはあくまで僕個人の考えです。実際の動機は犯人のみぞ知るということです」

あまりにも思いがけない話ではあるが……説得力はあるように思えた。まさか本当に、犯人の動機は村そのものへの復讐だと言うのか?

しかし、村に対してそこまで激しい恨みを持つことになる事情とはなんだろう? 犯人をこの犯罪に突き動かした、根幹にあるものは……。

灰崎「……皆様、お話の途中ではございますが、ここらでご休憩を取られてはいかがでしょう?」

灰崎さんがゆったりとした声で言った。それを契機に場の緊張がいくらか軟化したようだ。

牡丹「そうね……灰崎さん、やっぱり私もお茶をいただけるかしら?」

灰崎「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」

そう言って灰崎さんが立ち上がる。

白河「……いや、休憩と言わず、もう終わりにしましょう。これ以上話していても事態の進展は見込めませんし」

千家「君がそう言うなら、それでも構わないが……」

白河「……僕はもう一度、月光洞に行ってみようと思います」

五道「なにか……気になることでもあったのか……?」

白河「そういうわけではありませんが……もう一度見たら何かに気がつくかもしれません」

灰崎「それでしたら、玄関の鍵をお持ちください。今は状況が状況ですので、戸締まりをしっかりしておかなくては……」

灰崎さんが白河くんに鍵を渡す。

五道「それならついでに……山道の様子を見てきてくれないか?」

白河「山道……というと、分かれ道を月光洞と逆に行った先の?」

五道「ああ……分かれ道の先に吊り橋があって、その先の山道を行けば、いずれ街にたどり着けるはずなんだ。私は実際にはその道を通ったことはないが……そのはずだったな、灰崎さん?」

灰崎「え、ええ、たしかにそうですが……危険ですのでおやめになったほうがよろしいかと。長らく、ろくな整備もされていない道ですので……」

牡丹「無茶よ。登山用に整備されてるってわけでもない山を一つ越えていかないといけないのよ? 万が一山を降りられたとしても、人の住んでる場所まではそれからも相当な道のりでしょうに」

五道「だ、だが……もしも救助が遅れて、3日も4日もここに閉じ込められたらと思うと……私には堪らないんだよ」

五道さんは本気で山を越えて脱出することを考えているようだった。

白河「……わかりました。山道の入口辺りまでは様子を見てきましょう。実際に山を越えるかどうかは、明日以降に考えるとして」

五道「頼むよ」

白河「あ、それと、五道さんと三船さんにお願いしたいことが」

牡丹「なに?」

白河「南京錠の鍵を貸して欲しいんです。それがないと月明かりの間に入れません」

牡丹「別に好きにすればいいわ。暁月もなくなってしまったんだし。鍵なんてもう意味無いもの」

まず牡丹さんがキーケースから鍵を取り出して渡し、次に五道さんがポケットから取り出した鍵を差し出した。

千家「しかし一人でか? 外にはまだ犯人がいるかもしれないんだぞ? 日も落ちて暗いし、危険すぎる」

白河「それなら……」

白河くんは何人か順番に見た後、こちらを向いて言った。

白河「Pさん、同行していただけませんか?」

P「えっ……お、俺がかい!?」

白河「僕も容疑者の一人ですから、そういう意味でも事件現場へ一人で行くべきじゃない。だからお互いに妙なことはしないように見張り合う、ということでどうでしょう?」

P「は、はぁ……」

だから身内の青山くんや朱袮さんじゃなく、俺なのか……?

白河「もちろん無理にとは言いませんが――」

P「い、いや、行くよ。俺も現場はもう一度見ておきたいと思ってたんだ」

白河くんの言うとおり、あの時は気が付かなかったことでも落ち着いて見直してみることでなにか発見があるかもしれない。

白河「ありがとうございます。すぐにでも大丈夫ですか?」

P「ああ、大丈夫――」

そう言って立ち上がろうと机に手をついた時、その右手を上から押さえる別の手があった。

貴音「わたくしも、同行させてください」

P「貴音……」

灰崎「お嬢様……!? なりません! 本当ならまだお休みになられていなければならないのに――」

貴音「じいや。心配してくださるのはありがたいのですが、今は黙っていてください」

灰崎「お嬢様……」

白河「僕は別にかまいませんよ。……先に玄関に出ときますんで」

白河くんは席を立って談話室を出て行く。

貴音「プロデューサー、お願いします……!」

懇願する貴音は真剣な面持ちで、手は痛いくらいに強く握りしめられている。

俺はその手をそっとどけた。

P「……駄目だ貴音。部屋で休んでなきゃ」

貴音「わたくしはもう大丈夫だと言ったはずです!」

P「いいや大丈夫なはずがない。お前は無理してる」

貴音「無理など……!」

P「わかってるのか? 月光洞に行くってことは……」

もう一度、松葉さんの遺体を間近に見なくてはならないということだ。

貴音「……全て承知の上です。わたくしは……! 一刻も早く叔父の死の真相を突き止めたいのです! お願いします……プロデューサー……!」

耐え切れず俺は彼女から目線をそらす。

P「……駄目と言ったら、駄目だ」

貴音「どうして……ッ!?」

貴音は勢い良く立ち上がる。その拍子に彼女の腕が机の上のカップに当たって、床に落ちた。カップは割れ、その中身を床にぶちまけた。

朱袮「っ……!」

朱袮さんが驚いて短い悲鳴を上げた。

貴音「あっ……」

貴音は屈んで割れたカップに手を伸ばそうとする。

灰崎「ああ、危のうございますから、おやめくださいお嬢様。じいやが片付けておきますゆえ」

貴音「すみません……」

手を引っ込めると、こちらへ向き直る。

貴音「……残念です。プロデューサー……あなたなら、わかってくださると思っていたのですが…………」

そっと彼女の顔へ視線を戻すと、彼女の眼には涙が滲んでいたように見えた。

P「貴音……」

貴音「……もう、結構です」

貴音は勢い良く席を立つと、足早に扉へ向かう。

灰崎「お嬢様、どちらへ……?」

貴音「……部屋に戻っております」

灰崎「……ありがとうございます」

灰崎さんは、床に散らばったカップの破片を丁寧に拾い集めながら言った。

P「……どうしてお礼なんて」

灰崎「お嬢様を引き止めてくださいました。私が申し上げたところでお嬢様は聞き入れてはくださらなかったでしょう」

お茶を運んだサービスワゴンの下部には緑色のナイロン製の袋が口を開いた形で取り付けられており、灰崎さんは集めたカップの破片をその袋に捨てた。

P「……俺はお礼なんて言われるようなこと、してはいませんよ」

少しつらく当たってしまったようだが、この事件で一番苦しい思いをしているはずの貴音に、これ以上負担をかける訳にはいかない。

彼女を安心させるためにも、早く事件を解決できればいいのだが……。

本日分ここまでです
ありがとうございました

P「――待たせたね」

白河くんは屋敷の玄関を出たすぐのところで煙草を吸っていた。声をかけたことでこちらに気がつくと、ズボンのポケットから煙草の箱を取り出してこちらへ差し出す。銘柄はキャビンだった。

白河「吸います?」

P「いや、煙草はやらないんだ」

白河くんはそのまま箱をポケットに戻す。

白河「……結局、彼女はついてこなかったんですか?」

P「ああ」

白河「……そうですか。まぁ、僕はどちらでもかまわなかったので」

そう言って筒型の携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し込むと、傍らに置いてあったものを抱え上げる。毛布だ。

P「それは?」

白河「松葉さんをあのままにしておくのはあんまりだと思ったので、部屋から持ってきました。後で代わりのものを灰崎さんからもらわなきゃ」

そこまで気が回るとは、素直に感心する。

白河くんは玄関に灰崎さんから受け取っていた鍵で戸締まりを済ませると、向き直って言った。

白河「じゃ、行きましょうか」

空いた手で持った懐中電灯の灯りをつける。俺の持つ懐中電灯と合わせて二つ、夜の闇の中に頼りない光が浮かぶ。

歩き始めて数十秒と経たないうちに、なにかを踏みつけた感触で歩みを止める。

P「ん、なんか踏んづけた……」

足をどけて見てみると、白い紙のようなものが丸まったものだった。まだ新しいものに見える。屈んで拾い上げる。

白河「なんです、それ?」

P「……あっ、これ……レシートだ」

2枚のレシートがひとまとめにくしゃくしゃに丸められていたのだ。開いてみるとどちらも同じコンビニの名前が記載されている。

白河「見せてくれますか?」

白河くんは二つのレシートを手に取って上から下まで注意深く見てから、返しつつ言った。

白河「……千家先生の落としたレシートでしょうね。多分、買い物から帰ってきた時かな。あの時は慌てていたから……」

P「ということは、これは千家さんのアリバイを説明する証拠になる?」

白河「そうですね。Pさん、保管しておいてもらえますか?」

P「わかった」

落としてしまわないように、財布の空いたスペースに挟み込んでおく。

行軍を再開させてまもなく、白河くんが言った。

白河「それにしても、あなたはお人好しですね」

P「え?」

白河「普通はついてきませんよ。こんな夜中に二人っきりで殺人現場にもう一度行こうなんて言う相手に。それも今日知り合ったばかりの人間に」

おどけたような口調で彼は言う。

P「……そう言われると自分でも大したお人好しな気がしてくるよ」

白河「もし僕が犯人だったらどうしよう、とか考えませんでしたか?」

P「……犯人に俺を殺す理由があるとは思えないし。そもそも二人きりで出かけて俺だけ死んだら、残ったほうは疑われるに決まってる」

白河「わかりませんよ。犯人は見境なく殺してしまうサイコ野郎かもしれないんですから」

P「白河くんが犯人とは思えないよ。犯人だったらわざわざあんな、先陣きって犯人を見つけ出そうとするような真似はしないだろ」

白河「信頼してくれるんですね。ありがとうございます」

P「逆に、白河くんはなんで俺を同行相手に選んだんだ? 他にも候補はいただろうに」

白河「……直感、としか言いようがありませんね。身内以外で一番犯人である可能性が低そうな……低そうに見えた相手を選んだだけです。『平和の国の使者』って感じじゃないですか、Pさん」

P「そ、そう……」

それは喜んで良いものかどうか。暗に脳天気そうな顔をしていると馬鹿にされてはいないか。

月光洞へ入り、月明かりの間の鉄扉の前に辿り着く。

白河くんは鉄扉の中心辺りに懐中電灯の光を当てて、上から下までを注意深く見ている。

白河「……何らかのトリックを仕掛けるとするなら、この隙間が怪しいと思ったんですが……特におかしな痕跡はありませんね。Pさんも確認してくれますか」

促されるまま同じように上から下まで見てみるが、目立った傷や汚れは見つからなかった。

白河「あと考えられそうなことは……鍵のすり替え、でしょうか」

扉に付けられた上下に並ぶ二つの南京錠に目をやりながら言う。

白河「この南京錠がもしもすり替えられていたとしたら……犯人は自分の持つ鍵で扉を開けられたことになります。三船さんたちの話では、鍵と錠のそれぞれにシリアルナンバーが入っているとのことでしたが……お、あった」

シリアルナンバーと思しき番号の羅列は錠の『三』、『五』と書かれた横に小さな文字で刻まれていた。注意して見ないと気が付かないだろう。

白河くんは牡丹さんと五道さんから借りてきた鍵のナンバーと見比べている。

白河「……一致しているようです。Pさんも確かめてみてください」

二本の鍵を渡される。こちらでもそれぞれの錠と対応する鍵を確認してみるが、やはり両方ともナンバーは一致していた。他にも目立った傷や違和感を覚えるような部分はない。

P「変な部分はなさそうだ。すり替えられてはいないみたいだよ」

鍵を白河くんに返す。

白河「……やはり考えすぎだったようです。そもそも、外された後ならともかく、掛けがねにかかった状態の南京錠をすり替えるなんて不可能ですからね」

白河くんは上の掛けがねに付いた南京錠に鍵を差し込もうとするが、どうしたことか鍵穴に鍵が入らない。

P「あれ? どうして?」

白河「いや、入らなくて当然なんです。これは『三』の南京錠で、鍵は『五』の錠を開けるものですから。『三』の錠用の鍵は、こっち」

もう一つの鍵を取り出して差し込む。すると今度はあっけなく錠が開く。

白河「もしかしたら五道さんたちの話が嘘で、別の鍵でも開いてしまうんじゃないか――なんてことも考えてみたんですが……やっぱり違った」

苦笑しながら言う。徹底した検証だ。

下の掛けがねにかかった『五』の錠も同じような検証を試した後で解錠する。

鉄扉を二人で開いて、月明かりの間へと足を踏み入れると、依然残ったままの血の臭いが鼻をつく。

二人ほぼ同時に懐中電灯のスイッチを切る。この中ばかりは月の光があるおかげで電灯の明かりに頼る必要はないのだ。

内部は先ほどと変わった様子はない。もちろん、松葉さんの遺体もそのままだ。白河くんが持ってきていた毛布をそっとかける。

白河「……ひとまずのところは、これで我慢していただきましょう」

村の人ですら入れない神聖な場所のはずが、まるで遺体安置所だ。

松葉さん……あなたの身にいったい何が起きたんです? 誰があなたを殺したんです? ……そう訊けたらどんなに楽なことか。

P「残るは祠の鍵か」

白河「念の為にそっちも見ておきましょう」

白河くんは台座状の岩の上に置いてあった鍵を手に取る。松葉さんの遺体発見時、祠の南京錠を開けた後で彼がそこへ鍵を置いていくのを確認している。

白河「……そういえば」

ふと思い出したかのように言った。

白河「最初、鍵は松葉さんの袖の袂に入っていましたよね?」

P「ああ、それがどうかしたのかい?」

白河「…………少し、気になりますね。どうして犯人は暁月を盗みだした後でわざわざ鍵を袂に入れ直したんでしょう? こんな風に出しっぱなしにしておいても問題なかったと思うんですが」

P「……暁月が盗まれたと発覚するのを遅らせるため、とか?」

白河「それなら鍵を持ち去ってしまわないと意味がありませんよ。実際、すぐに発覚したじゃないですか。隠そうとする意思がないなら、手間をかけて袂に入れなおすことはなかったように思うんです」

P「……でも、そういうこともあるんじゃないかな? 特に意味なく、袂の中に戻したってことも」

白河「……たしかに、そういうこともあるかもしれませんが」

その後調べてみたが、祠の扉にかかった『四』の南京錠と松葉さんの持っていた鍵のシリアルナンバーも一致した。

P「……やっぱりわからないな。どうやって松葉さんが殺されたのか検討もつかない」

白河「――血痕の付着具合からして、おそらく松葉さんは、この台座の上に座っていたのだと思います」

白河くんが台座を指差して話す。たしかに広間中心にある台座岩には点々と血痕が付着している。特に台座の中心部近くは血痕の量が多い。

白河「犯人はなんらかの方法で月明かりの間に侵入し……この中心部で松葉さんの背中を凶器――おそらくそれなりの大きさのある刃物――で突き刺した。松葉さんは刺されたショックで台座の右端から落ち、そのまま倒れた……というところでしょうか」

白河くんは顎に手を当てたまましばらく考えていたようだが、やがてかぶりを振った。

白河「……ダメや。さっぱりわからん。なにか見落としていることでもあるんやろうか……?」

独り言のように呟いた。

P「……五道さんがここで言っていたこと、覚えてるかい?」

気になっていたことを尋ねてみる。五道さんが恐怖に打ち震えながら言っていたあの言葉について。

白河「鬼がどうの、という話ですか?」

P「ああ。白河くんはどう思う?」

白河「どう思う……というのは、鬼が松葉さんを殺したという話を信じているか?……という意味でしょうか? それなら『ノー』です」

そう答えるだろうとは思っていたが、こうまで断言してしまうとは。

白河「鬼だの、幽霊だの……正直に言って、馬鹿げているとすら思っています。不可解な謎を前にして、それをオカルトや超自然的な存在に押し付けて思考を放棄してしまうのは、愚かな行為です。できればあの状況であんな発言はやめてほしかった。皆の余計な不安を煽りますから」

そこまで言って、白河くんははっとする。

白河「あ……すみません。つい……」

P「い、いや、いいんだ、気にしないで」

白河「別に、五道さんのことを嫌っているとかそういうわけではないんです。あれだけの事態に遭遇すれば、取り乱すのも無理ないとも思ってます。……ダメだな、どうやら僕も冷静じゃないらしい」

白河くんはため息をついて頭を掻いた。

P「……そういえば、白河くんさ。松葉さんの遺体を見つけた時、出かけになにか拾ってなかったかい?」

彼にしては珍しく驚いたようで、白河くんは一瞬目を見開いた。

白河「……見ていたんですか」

少し躊躇するような様子を見せて、

白河「……仕方ないか」

彼は観念するかのように言うと、

白河「これを拾ったんです」

ズボンのポケットから取り出したものを見せる。それは、薄汚れたビー玉のアクセサリーだった。

ビー玉には小さな丸輪の金具が取り付けられており、そこへ藍色の麻紐が通してあって輪っかの形を作るように結ばれていた。ブレスレット……だろうか。

結び目となっている部分の周辺だけ少し藍色が他より濃く見えたが、どうやらその部分だけ別の紐を継ぎ足してあるらしい。大きさを調整したのだろうか。

ビー玉は磁器製で、白地にピンクの花のような模様が描かれていた。元は綺麗だったのかもしれないが、だいぶ長い間放置されていたようで砂埃がこびり付いてしまっている。

P「そんなものがここに?」

白河「……ええ。隅のほうで砂に埋もれていたので誰も気が付かなったようです。しかし……事件と直接関係があるとわかるまでは、このことは黙っておきたいんです。Pさんも、他の人には話さないでおいてもらえませんか?」

そう言って彼はビー玉の腕飾りをまたポケットの中に戻す。

P「どうして?」

白河「すみません。今はまだ……話せないんです」

P「……わかった」

白河くんは意外そうな顔をした。

白河「……随分あっさりと引き下がってくれるんですね」

P「君のことだからなにか考えがあってのことなんだろう。それに、しらを切ろうと思えばそうできたはずだ。だのにそうしなかったのは、俺のことを少しは信頼してくれている証拠だろう? ――なんて思ったんだけど、違ったかな?」

白河「いいえ……ありがとう。機会が来たら、ちゃんとお話しますから」

P「ああ、そうしてくれ」

白河「――Pさんがついてきてくれたおかげで調査ができました。感謝しています」

P「少しでも事件が早く解決する可能性があるなら、俺はなんだって協力するつもりだよ」

白河「それは……貴音さんのために、でしょうか?」

P「……一番はね。もうあの子のつらそうな顔は見たくない」

白河「……貴音さんが同行したいと頼んできたのを断ったのは、そのためですか?」

P「ああ。あの子がこれ以上苦しむ必要はないんだ、だから――」

白河「苦しむ必要はない……ですか。本当に、そうでしょうか?」

P「え?」

白河「失礼を承知で言わせていただくと……僕は、あなたが言い訳をしているように聞こえます」

P「……それは、どういうこと?」

白河「貴音さんの事情は関係ない。『Pさんが』彼女の苦しむ姿をこれ以上見たくないだけなんじゃないですか? だから、彼女を事件から遠ざけようとしている。……違いますか?」

P「!…………」

たしかに、そうなのかもしれない。いや……そうなのだ。

貴音のためを思ってのことと、都合の良い建前を並べて自分を納得させていたが……結局、俺は俺のために彼女を拒絶してしまっていたのだ。

白河「親代わりだった松葉さんを喪った。貴音さんにとってどれほどの悲しみか、想像もつきません。その深い悲しみを乗り越えるためには、ある程度の痛みは伴われて当然なのだと思います」

白河くんは俺の顔をまっすぐと見据えて言った。

白河「Pさん、あなたが本当に彼女のことを大切に思っているのなら……あなたにとって重要なことは、彼女に目を背けさせることじゃなく、背中を支えてあげることなんじゃないでしょうか?」

P「…………参ったな。年下の君に諭されるなんて」

白河「すみません。出すぎたことを言いました」

P「いや……ありがとう。おかげで、決心がついた気がする」

白河「……それならよかった」

間違っていた。彼女と過ごしたこの一年間、辛い時、苦しい時はたくさんあった。それでも一緒に支え合って乗り越えてきたじゃないか。今回だって、その例外じゃない。

白河「さぁ……そろそろ出ましょうか。帰りに山道の様子を見ていきましょう」

月光洞の中を戻る途中、白河くんのほうから話しかけてきた。

白河「……少し事件とは関係のない話をしてもいいですか?」

P「なんだい?」

白河「貴音さんはアイドル……なんですよね? 僕は普段テレビを見ないので今日まで知らなかったんですけど」

P「ああ、そうだよ」

もっとも、今となってはアイドル『だった』と言ったほうが正しいのかもしれないが。

白河「詳しくないんですが……アイドルっていうと、やっぱり歌とか?」

P「ああ、歌にダンスに、あとはバラエティ番組にも出てたよ。食べ歩きの番組」

白河「食べ歩き……」

一瞬きょとんとしてから、その光景を想像したのか破顔する。

白河「ははっ、それはちょっと意外やったなぁ」

そう言って笑う彼の表情には、まるで妹の活躍を伝え聞いて喜ぶ兄のような印象を受けた。

P「……逆にこちらから質問させてもらってもいいかな」

白河「どうぞ」

P「君がここまで事件解決に積極的に動く理由は?」

白河「……大した理由はありませんよ。後輩たちやお世話になった人たちを出来るだけ早く、精神的に解放してやりたい……そのために自分にできることがあれば、なんだってやっておきたい……そんなところですかね」

お世話になった人たち……一人は千家教授として、他にもいるような言い方をしたのが少し気になったが、そこまで尋ねることはしなかった。

月光洞からの帰りの途中にある二又の分かれ道。屋敷の方向から見た場合、左方向へ行くと月光洞へ、右方向へ行くと山道へと繋がっている。

右の道はなだらかな斜面になっており、それを登っていくとちょっとした高台のようになった場所へと出た。その高台の先は切り立った崖になっており、およそ15メートルほど先にもう一つの崖が見える。その先が山道へと繋がっているという話だった。

白河「…………どうゆうことや、これは」

白河くんがその光景を見て一人呟く。

彼が驚くのも無理はない。本来ならば二つの崖を繋ぐ吊り橋がかかっているはず……なのだが、今、その吊り橋は見るも無惨な状態になっていた。

P「橋が……落ちてる」

脳で理解するために見える光景をそのまま口に出してしまう。支えとなるロープが切れたらしく、板木で作られた古めかしい吊り橋は向こう側の崖にだらりとぶら下がっていた。他に道はなく、これではとても向こう側へ渡ることはできない。

白河くんは崖際へ近寄っていく。

P「危ないぞ」

白河くんは橋を支えるロープの支柱近くに座り込み、なにかを注意深く見ている。

白河「…………Pさん。これを見てください」

差し出されたのは、支柱に繋がったロープの先端だった。

P「え……? まさかこれって……!」

その先端は、刃物か何かで切断されたかのような綺麗な断面をしていた。

白河「こっちもです」

そう言ってもう一方の支柱につながったロープの先端も差し出す。

P「そんな……それじゃあ、これはやっぱり……」

白河「……そうです。この橋は、何者かによって意図的に落とされたんです。切断面の真新しさからして、おそらく、今日」

P「松葉さんを殺した犯人がやったんだろうか?」

白河「無関係の人物がやったただのイタズラと考えるよりは、そのほうがいくらか現実的ですね」

P「でも、なんのために?」

白河「…………」

P「…………白河くん?」

白河「…………Pさん。ここで解散しましょう」

P「え? ど、どうして?」

白河「ちょっと、一人で考えたいことがあるんです。申し訳ありませんが、先に屋敷に帰っておいてくれますか」

そう言いながら何かを差し出す。受け取ってみてみると、それは屋敷の玄関の鍵だった。

P「……本当に大丈夫? それなら先に帰っておくけど……」

白河「すみません。僕なら大丈夫です。これがありますから」

と、おどけたように言うと、シャツの胸に留められたピンから紐でぶら下がったガラス球を指でつついて揺らす。朱袮さんたちから付けることを強制されていた鬼避けのお守りだ。

冗談を言う余裕があるなら大丈夫だとは思うが……しかし、急にどうしたのだろうか? 

屋敷へと一人帰る。受け取った鍵を使って玄関から中へ入ると、廊下は静かなもので、人の気配はなかった。

内側から鍵をかけておくことにする。もしも外部の犯人が屋敷に紛れ込んだら大変なことだし、白河くんが戻ってきた時にはこちら側から開けてあげればすむことだ。

……しかし、白河くんを置いてきて本当に良かったのだろうか? やっぱり外で一人というのは危険すぎるのではないか?

……まぁとにかく、こうして帰ってきてしまった以上は橋の一件を五道さん達に伝えておかなくてはなるまい。

五道さん達はまだ談話室にいるだろうか? あれから結構時間が経っているからもう部屋に帰っているかもしれない。

P「あれ……?」

とりあえず談話室を見てみようと、正面の廊下を通っていこうとすると、右手側にある引き戸がわずかに開いているのに気がついた。中は明かりが点いているようで、隙間から光が廊下に漏れ出ている。

誰か居るのか……? 引き戸を右へスライドさせて中へ足を踏み入れる。

埃の臭いがする。天井には白熱灯がむき出しのケーブルからぶら下がっており、やや薄暗さがある。

収納用の箱やタンス、工具箱のようなものが置かれているところを見ると、この部屋は物置のようだ。隅の方にはハシゴやロープの束などもある。

「誰だ?」

声が聞こえた奥のほうで人影が動く。やはり人がいたのだ。

黒田「びっくりさせやがって……お前かよ」

P「黒田……? こんなところでなにしてるんだ?」

奥には漆塗りの長持が置かれてあり、黒田はその前に屈んでいた。

黒田「さっき扉の外にいたのもお前か?」

P「いや、俺は今戻ってきたところだけど。外には誰もいなかったぞ」

黒田「そうか? 誰かいたような気がしたんだがな」

黒田は長持の中を覗き込みながら話す。

黒田「俺もお前も、災難だったよなぁ。たった一日、たまたまこの村に来ただけだってのに殺人事件に巻き込まれちまうなんて」

P「偶然この村に来たって言うなら、千家さんたちだって同じだろ」

黒田「まぁなぁ……」

P「……で、何してるんだ? まさか……盗みじゃないだろうな?」

黒田「ち、ちげーよ…………まぁ、物色してたのはそのとおりだけどよ。なんか面白いもんないかなーってな」

……そんなの「これから盗みます」って言っているようなものじゃないか。よくも抜け抜けと。

黒田「ま、ま、ま……それよりよぉ、すげーもん見つけたんだよ……!」

P「すげーもん?」

黒田「正直、とんでもないぜ、これは……俺としたことが、ゾクゾクきちまった」

黒田はぎらついた笑みを浮かべた。

P「なんだよ……なにを見つけたんだよ?」

そこまで言われると、咎めるより前に興味が湧いてきてしまう。腰を持ち上げて黒田に近寄る。

黒田「これだ」

黒田はノートのようなものを手にとって見せる。表紙の色は元々黄土色だったようだが、随分古いもののようで退色してしまっている。

表紙の中央には、黒い筆字でなにか書かれている。頭の『六原』と書かれた部分は分かったが、それよりあとはかすれていて読めない。

P「なんだ……六原(ろくはら)……?」

黒田「この長持の中に入ってたんだけどな。内容からして多分……先々代の四条家当主が残したものだ」

先々代の当主っていうと……貴音にとっての祖父?

黒田「……これにはとんでもない秘密が書かれていた」

P「秘密?」

黒田「ああ、実はこれ――…………」

黒田は急に言葉をつまらせる。見ると、その顔は驚愕の表情を浮かべており、呆然と俺を……いや、俺の背後にいる『なにか』を見ていた。

ゾッとする気配を感じて、入り口方向を見ようと左回りで振り返る。

物置の入り口は俺が入った時に開けっ放しにしていたので、誰かが入ってきたことにも気が付かなかったのだ。

P「……え?」

――入り口に、鬼が立っていた。

墨色の着物を着流しており、両腕に軍手、足には足袋、そして……その顔は、鬼の仮面によって隠されていた。

黒い般若の面……祭り会場で会ったあの不思議なお面屋が売っていたものにそっくりだった。

頭には着物と同じく墨色の頭巾をかぶっており、体中地肌の露出が全くない。異様な格好としか言いようがなかった。

黒田「……ははっ! なんだぁアンタ? 妙な仮装しちゃって」

黒田は笑いながら『鬼』に近づいていく。

……黒田はわかっていないのだ。そいつは余興か何かでそんな格好をしているんじゃない。そういう気配ではない。

黒田「ははぁ、『洞の鬼』ってか? その面よくできてるね、どこで買ったんだ?」

鬼は黒田の言葉に一切反応を見せない。

P「あっ……!」

俺のいる位置は入り口から見て右側奥、対角線上で陰になっていたので始めは気が付かなかったが……鬼の腰元、その左側に付いているものは……!

P「そいつから離れろッ!」

黒田「ああ? なに言って――」

あっという間の出来事だった。

黒田が顔だけをこちらに振り向かせたその瞬間……鬼は右手で左の腰元に付けた『刀』の柄を握ると、凄まじい速さでそれを引き抜いた。

黒田「――あらっ?」

素っ頓狂な声が飛び出る。黒田の体が一瞬ぐらついたかと思うと、紅い飛沫が鬼の仮面と着物を汚した。

鬼の右腕は宙へまっすぐ伸ばされ、その先には……血塗れの刀が握られていた。ぽたぽたと紅い雫が床を濡らす。

黒田「うっ……ぁ……!?」

黒田が斬られた胸を手で押さえ、こもったうめき声をあげて倒れようとする……が、鬼はそれを許さなかった。すかさず右手の刀を腰だめに構え直し、突進するようにして腹部へ突き刺す。

その勢いは猛烈だった。黒田は後ずさるように物置の奥まで押し込まれ、背中を貫き、飛び出した刃が壁に突き刺さる。

黒田「……に……すんだ…………お前……誰だよぉ……ッ!!」

黒田は無我夢中といった様子で右手をズボンのポケットに入れた後、何かを取り出しながら勢い良くその手を鬼の顔面へ振りぬく。

「……!」

思わぬ反撃に鬼は一瞬だけ驚いたような反応を見せた。

その手にはボールペンが握られていた。記者である黒田はいつも持ち歩いていたのだろう。……だが、そのペン先は仮面の頬部にほんの少しの傷をつけただけだった。黒田の右手から力が抜け、だらりと落ちる。ペンが床に転がった。

鬼は両手に刀の柄を持ち直した。

黒田の腹から刀が引き抜かれると同時に、勢い良く血飛沫が舞う。

黒田は前のめりに倒れ……最後にわずかに痙攣して、そして、まったく動かなくなった。

P「なんだよ……これ……」

なにが起きた? 目の前で起きた光景に、脳の理解が追い付いていなかった。

黒田は、死んだのか? ……殺された? 

…………そうだ、目の前で殺された! さっきまで話していた黒田は、刀で無惨に斬り殺されたのだ。俺の目の前にいる、この……鬼に! 
「…………」

鬼は俺を一瞥しただけで、傍らに落ちていたノートを、刀を持つ手とは逆の手で拾い上げる。黒田が長持の中から見つけたという先々代当主のノート。

それを着物の帯の中に挟み込むと、鬼は右手に持った刀の切っ先をこちらに向ける。

呼吸は乱れ、腰はとうに抜け、立ち上がって逃げることなどできるはずもない。

P「うぁ……!」

必死にもがき後ろへ下がるも、物置の隅へとじりじりと追い詰められていくだけだった。

殺される……! こんな、訳の分からない状況で、殺される理由も、殺される相手もわからないまま、この刀で……!

P「刀……?」

その時、頭のなかに一つの推測が浮かび上がる。

見ると、やはり鬼の左腰、帯の間に差されている鞘は美しい漆で塗ったような黒色をしており、月光洞の中で見た記憶に一致する。

この刀は……暁月なのだ。

ということは……ということは……こいつが……松葉さんを殺し、暁月を盗み出した……犯人!!

P「誰なんだ……アンタ一体……?」

「…………」

鬼は答えない。刀を俺の心臓へ向けたまま、ゆっくりと力を込めるように腕を後ろへ引いていく。

――万事休す。自分が刀に突き刺される姿を想像し、固く目を瞑った。

「――やめなさい!」

入り口方向から声が飛ぶ。目を開けると、刀の切っ先はまだ宙にある。鬼は背後からの声に動きを止めていた。

鬼が刀を持つ右腕の下から、部屋の入り口に人が立っているのが見えた。

P「……貴音?」

貴音の部屋はこの物置から廊下を挟んですぐのところにある。おそらく騒ぎを聞きつけて来たのだろう。

彼女の手には短いナイフのようなものが握られており、その刃は2、3メートル先に立つ鬼の背中へと向けられていた。

貴音「その方を傷つけるというなら、刺し違えてでもあなたを止めます……!」

P「だ……だめだ貴音! 俺のことなんていいから逃げろ!!」

貴音は俺の言葉には反応せず、鬼の持つ刀に目をやってから、

貴音「……何をしているのです! 早く『それ』を下ろしなさい! わたくしは……本気です……!」

ここからでも、彼女のナイフを握る手が震えているのがわかる。彼女は、いともたやすく人を殺したこの鬼を前にして、恐怖を必死の思いで押し殺しながら……俺を助けようとしてくれているのだ。

でも……駄目だ、無茶だ。お願いだから……逃げてくれ……!

「…………」

P「……え?」

鬼は貴音の言葉を聞き入れたのか、ゆっくりと刀を下ろす。そして、貴音の立つ入り口方向へ振り向いた。

貴音「――ッ!?」

貴音が鬼の仮面をはっきりと見たその瞬間、彼女は何か信じられないものを見たかのように短い叫びをあげた。

その眼には、驚愕と恐怖の感情だけが映っていた。

彼女の手からナイフが滑り落ちる。こつん、と床をナイフの柄が打った。

「……!」

鬼はその隙を逃さず、貴音の方向へ向かって走りだす。

P「危ない!」

貴音「あっ……!」

鬼は貴音をはねのけて、物置を飛び出す。

逃げた……のか?

P「貴音、大丈夫か!?」

鬼に突き飛ばされて壁際に座り込んでいた貴音に近づき、声をかける。

P「……貴音?」

貴音はうつむき、何かをぼそぼそと呟いていた。

P「おい、貴音……どうしたんだ?」

……明らかに様子がおかしい。

貴音「……した」

P「え?」

貴音「思い出した…………思い出した…………」

P「思い出したって……何を?」

貴音「…………十年前……」

P「十年前って……もしかして……前の十年祭の時の無くなってた記憶が、戻ったってことなのか?」

でもどうして急に? はね飛ばされた時に頭を打った様子もなかったが……。

貴音「……わたくしは……わたくしは……ああっ!」

両手で髪を掻き乱し、眼からは大粒の涙が零れ落ちる。その怯えようはもはや異常と言ってもいいほどだ。

俺は彼女の両手を取る。

貴音「あっ……」

P「貴音。まずは落ち着いて、話してみてくれ……大丈夫だ。何があっても俺はお前の味方なんだから」

貴音「プロデューサー……」

P「……いったい、何を思い出したんだ?」

貴音「…………わたくしは…………十年前の……あの日…………」

嗚咽を混じらせながら、彼女は口にした。封印されていた十年前の記憶を。

貴音「…………人を……殺めたのです……」

――十年前の、罪の記憶を。

ちょいと短いですがここで中断します
問題編残り二日分の予定です
ありがとうございました

入り口の方で足音がした。

灰崎「こ、これはいったい……」

灰崎さんは物置の中の惨状を目にして唖然とする。その背後から五道さんも姿を現した。

五道「なんてことだ……! 一体、何があった!?」

灰崎「そちらの方は……」

灰崎さんが奥のほうを見て言う。

五道「誰、なんだ?」

事情を知らない二人でも、奥でうつ伏せに倒れた彼の姿を見て察したようだった。
 
P「黒田です。もう……死んでます。……殺されました」

五道「こ、殺された、って……」

P「とにかく、詳しいことは後でお話するので……貴音を部屋に……」

貴音「あっ……」

貴音が立とうとする俺の袖をつかむ。

P「大丈夫、後で二人で話そう……」

小声で言うと、貴音は小さく頷いた。

P「立てるか?」

貴音「は、はい……」

五道「手伝おう」

五道さんにも肩を支えてもらいつつ、ひとまず貴音を部屋まで連れて行って休ませることにした。

その後、段々と騒ぎを聞きつけて物置の前に人が集まり、やがて全員が揃った。その中には、白河くんの姿もあった。

P「白河くん、いつの間に……」

玄関の戸にはたしかに内側から鍵をかけた。外にいた白河くんが入ってくるにはチャイムを鳴らすなり、呼びかけるなりして中から扉を開けてもらわなければならなかったはずだ。

青山「ああ、ついさっき部屋の窓の外から声かけられたんで、窓から入ってもらったんです」

白河「わざわざ玄関の鍵を開けに来てもらうのも申し訳なかったので……。驚きました。帰ってきたらまさかこんな……」

なるほど、そういうことか。同室の青山くんがいたからこその方法というわけだ。

白河「千家さん、三船さん、南京錠の鍵をお返ししときます。ありがとうございました。調査のことはまた後ほど」

五道「ああ……」

五道さんが鍵を受け取ると、三船さんも黙って自分の鍵を受け取った。

白河「――で、話していただけますか? Pさん、あなたがここで……何を見たのか」

P「わかった……」

新たな惨劇の舞台となったこの物置。ここであったことを皆に話さなければならない。しかし、先ほどの貴音の不穏な発言だけは省略しておかなければ。

話の途中、朱袮さんが恐怖に耐えるように両目を瞑ったり、千家さんが「まさか」と呟いたりはしたものの、みんなは話が終わるまで傾聴に徹してくれていた。

話を終え、ひとまず物置から廊下に出る。しっかりと引き戸を閉めておく。血を見るのも、臭いを嗅ぐのももうごめんだ。

牡丹「そんな……」

俺の話についてまずリアクションを起こしたのは牡丹さんだった。

牡丹「そんな話を信じろっていうの……? 鬼が現れて、人を殺しただなんて……!」

P「俺は嘘は言っていません。見たままのことを話しました」

千家「うむ……私は信じるよ。さすがにこの状況でそんな嘘をつくはずもないだろう」

青山「で、でも……不気味すぎますよ。どうして犯人は鬼の扮装なんてしてたんすか?」

白河「多分……鬼であることに意味は無いんやと思う」

朱袮「白河さん、それってどういう……」

白河「犯人は鬼の扮装で全身を覆い隠していた。自分の姿を見られたくなかったんやろう。あとは……返り血を防ぐため、とかな。せやから、変装するモチーフは別に鬼でも天狗でも、なんでもよかったはずや」

牡丹「……それで、そいつはどこへ逃げたの?」

P「わかりません。物置を飛び出していったきりで……」

千家「廊下のどちら側へ逃げたのかもわかりませんか?」

黙って首を横に振る。あの時は、突き飛ばされた貴音のほうに気を取られてそこまで注意が回らなかった。

P「……お二人は何も見ませんでしたか?」

灰崎さんと五道さんに向けて問う。この二人が一番最初にここへ駆けつけてきたので、もしかしたら犯人の姿を見ているかもしれない。

灰崎「いいえ、私は見ておりませんが……」

五道「私もだ……もう逃げ去った後だったのだろう」

たしかに、犯人が逃げてから二人が来るまでには少しの間があったから、目撃していないのも不思議ではないか……。

白河「お二人は、どうして物置へ?」

灰崎「私は自室にいたのですが、何やら騒々しい音がするので部屋の外の様子を見てこようと。それで……」

白河「では、五道さんは?」

五道「……トイレへ行こうと部屋を出たところだった。廊下の奥で……妙な気配がしたので行ってみたら、この有り様だ」

白河「妙な気配?」

五道「……なにか不穏な気配を感じたのだ。そうとしか言いようがない」

千家「それにしても、わからないな……犯人の目的は一体何なんだ? どうして黒田くんを殺す必要がある?」

話題が転換した。殺害動機の問題だ。

白河「気になるのは、犯人が持ち去ったというノートですね」

千家「ああ、『六原なんとか』と書かれていたというやつか」

白河「物置の長持の中に入っていたとのことですが、灰崎さんはなにかご存知じゃありませんか?」

灰崎さんは申し訳無さそうな顔をして、

灰崎「いいえ。たしかにあの長持の中には先代や先々代の遺品がしまわれております。しかし私も、先々代がそのようなものを書き残していたとは知らなかったのです……」

白河「では、六原という言葉に聞き覚えはありませんか? 人の名前かなにかだと思うのですが」

灰崎「いいえ、それも……お役に立てず、申し訳ございません」

そう言って頭を下げる。

P「そういえば」

ふと思い出して、話を付け加える。

P「俺が物置に入るよりも前に、黒田は何者かの気配を物置の外に感じていたようでした」

千家「まさか、それが犯人だったのでは?」

白河「仮に犯人の目的をそのノートだとすれば、黒田さんがそれを手に取り、『ノートに書かれた何らかの秘密を黒田さんが知ってしまった』ために殺害されたと考えることもできますね」

朱袮「で、でもおかしくないですか? 灰崎さんですらその存在を知らなかったノートなんですよね。どうして犯人はそれを知っていたんでしょう?」

白河「……さぁな。そこまではわからん」

白河くんは右手で髪を触った。

白河「例えば……そうやな。もし犯人がノートの存在を知らんかったとしても、黒田さんはノートを見つけて読んだ時にその内容を思わず口に出してしまっていたのかもしれん」

ノートの内容を話そうとしていたあの時の黒田の興奮した様子からしても、それは十分考えられそうなことだった。

朱袮「それを犯人は物置の外で盗み聞きしていた?」

白河「あくまで可能性の話や、確証はない。ノートが殺害の動機っちゅうのも、根拠と言えるのは犯人がノートを持ち去ったゆうことだけやしな」

千家「これ以上は考えようがないな。犯人がどうして松葉さんや黒田君を殺害したのか、そして、これ以上の殺人を続ける意思があるのか……何もわからない」

これ以上の殺人……? そんな……まだ殺人が続く可能性があるというのか。

P「あ……?」

ふと、嫌な想像が脳裏に浮かんだ。犯人があの吊り橋を落とした理由だ。どうしてあんなことをしたのかわからなかったが、もしかしたら……。

五道「なんだ……どうかしたのか……?」

白河くんと一緒に調べに行ったところ、吊り橋が落とされていたことを伝える。

五道「……間違いないのか?」

そう白河くんに向けて尋ねると、彼は黙って頷いた。

青山「待ってくださいよ。どうして犯人はそんなことをしたんです?」

千家「逃げ道を塞ぐため……か」

千家さんが俺の考えていたことと同じことを言った。

五道「……どういう意味だ、千家」

千家「雪崩でトンネルが塞がれ村へは降りれず、山の吊り橋は落とされて隣町へ行くこともできない。多分、犯人は我々をこの屋敷に留まらせておきたいんだろう」

五道「それはつまり……まだ犯人は殺人を続けるつもりだということか?」

千家「そうだ、と断言はできないが……用心はしておくべきだろう」

朱袮「そんな……」

朱袮さんが小さな声で呟いた。

朱袮「犯人って、まだ屋敷の中にいるんでしょうか……?」

不安げな彼女の声に、白河くんが答えた。

白河「さっき確かめたけど、玄関の鍵はかかっとった。Pさんが帰ってきたときに閉めたっきりやとすると、少なくとも犯人は玄関から出てはいないな。まだ中にいると考えたほうが良さそうや」

朱袮「犯人がまだ……屋敷の中に……」

白河「……皆さん、少し確認させてください」

白河くんが提案するように言った。

白河「部屋を出るときに、鍵はかけてきましたか?」

その質問にそれぞれ答えていく。全員、鍵をかけてから部屋を出たらしい。俺の部屋も鍵はかけていたはずだ。

白河「――なるほど。では灰崎さん。この屋敷にマスターキー……つまりどの部屋でもその一本さえあれば錠の開け閉めができるというような鍵はあるのでしょうか?」

灰崎さんは首を横に振った。

灰崎「いいえ。この屋敷の鍵は基本的に全て私が管理しておりますが、そういったものはございません」

白河「マスターキーはないんですね。では他の部屋の鍵……」

そこまで言って、思い出したように付け加えた。

白河「そういえば、松葉さんは部屋の鍵をお持ちでなかったようですが、灰崎さんが?」

灰崎「ええ、旦那様が月光洞へ向かわれる前に私が預からせていただいております。他に談話室の鍵と書斎の鍵――普段から開けっ放しにしているのでこの二つは滅多に使うことはありませんが――それと今は使用されていない亡くなった奥様と先代の旦那様の部屋の鍵が私の部屋にございます」

白河「ちなみに、鍵の保管はどのように?」

灰崎「私の部屋にキーボックスがありまして、その中に保管しております。そのキーボックスを開けるのにも専用の鍵が必要で、それは私が普段から持ち歩いております」

白河「わかりました。ありがとうございます」

五道「……ということは、今、屋敷内に犯人が隠れているとすれば……それは鍵がかけられていない場所のいずれか……ということになるな」

千家「ふむ……この際だ、その『鬼』とやらを探してみませんか?」

千家さんが全員を見渡すようにしながら提案した。

白河「僕も同じことを考えていました」

白河くんが賛同する。

灰崎「ま、まさか我々でその犯人を捕まえようというのですか?」

千家「そうです」

白河「このまま何も行動を起こさず、びくびくしているよりはマシだと思いませんか?」

五道「……そうだな。このままじゃあ満足に寝ることもできん」

青山「よし……わかりました! やりましょう鬼探し!」

朱袮「でも、大丈夫かなぁ……」

白河「何人かはここに残ってもらいたいな。もしかしたら犯人がまた貴音さんを狙ってくるかもしれないし、あまり大人数で動きまわるのもいざという時に混乱しかねない。それと何かちょっとした武器のようなものがあれば――」

――こうして編成された『鬼捜索隊』は、白河くん、千家さん、五道さん、青山くん、そして俺の計5人となった。

体力的な問題も考慮され牡丹さん、朱袮さん、灰崎さんの3人はこのまま貴音の部屋の前の廊下で待機しておいてもらうことに。

それと護身のためにそれぞれが短めのほうきや果物ナイフなどを持つことになった。いずれも物置内から取り出してきたものだ。包丁やのこぎりなどの大きな刃物もあったが、かえって危険だということで却下された。

千家「五道、お前たしか学生の頃は剣道部だったよな。頼りにしてるぞ」

五道「学生の頃はって、何年前の話だと思ってるんだ……それに、これでどう剣道の腕を発揮しろと言うんだ?」

そう言って手に持ったほうきの柄をひょいと振る。

……刀を持っている相手に、なんとも頼りないことだ。5人もいれば返り討ちということはない……とは思う……思いたい。

白河「――じゃあ、開けますよ?」

白河くんがドアノブを掴みながら小声で問いかける。後ろにいた俺たち4人は揃って頷く。手に持ったほうきを握りしめて構える。

一気に扉が奥のほうへ開け放たれた。

その小部屋の中は入ってすぐ右側に小さな手洗い場があり、その上に鏡が取り付けられていた。そして奥へ一メートルほどゆったりと間隔をとった位置に、よく掃除されているらしい綺麗な洋式便器があった。

……それだけで、鬼の姿はどこにもなかった。

五道「また……はずれか」

ここと同じ作りの南側のトイレから始まり、書斎、食堂、台所、洗面所および浴室、談話室と犯人の隠れられそうな場所を捜し回ったが、成果はまったくの皆無であった。

見落としがあったとは思えない。テーブルの下やバスタブの中、カーテンの裏まで徹底して捜したつもりだ。それに広い部屋へ入るときには犯人が入れ違いに逃げ出さないように、常に二人は出入口で待機するようにしていた。

千家「他にどこかあったかな?」

白河「中庭がまだですね」

青山「暗いし広いしで面倒ですねぇ……」

青山くんはうなだれる。青山くんに限ったことではないが、捜索を続けるうちに慣れてきたのか緊張感は抜け始めていた。

白河「しんどいなら休んでてもええぞ。病み上がりなんやから無理すんな」

青山「ああいや、そういうわけじゃないんです。大丈夫です、自分でも何時間か前にぶっ倒れたとは思えないくらい元気ですから」

そう言って拳を上げるポーズをする。

白河「ほぉ。松葉さんの治療は確かなもんやったらしいな」

青山「はい。もうお礼を言うこともできないのが残念ですけど……」

五道「そういえば……君は治療の間のことは覚えているのか?」

青山「ええっと……そうっすね」

青山くんは手を顎に当てて少し考えた後、

青山「熱でぼうっとしてたからよくわかんねっすけど……何か飲まされたような気がしますね」

五道「それは……薬か何かか?」

青山「多分、そうだったんじゃないかと」

五道「なるほど……やはり……」

P「五道さん、やはりって?」

五道「いや……かねてから治療を受けた者から似たような話は何度か聞いていてね。私も考えたことがある。鬼憑き病を治す秘術とは、民間療法の中でも超自然的な力を用いる祈祷や呪術のような類ではなく……もっと現実的な……例えば独自の薬物療法なのではないか、とね」

千家「とすれば、その薬の製造方法がわかれば鬼憑き病を治療できるようになるな。屋敷のどこかにはそれを記した書物なんかもあるんじゃないか?」

五道「どうかな……確証はないし、もしもそうだとして、今までの神宿り様たちがなぜそれを秘術扱いにしてきたのかがわからん」

五道さんは顎に手をやって考えこむ。

青山「薬の製造方法に秘密があるんすかね?」

五道「うぅむ…………」

千家「まぁ、そんなことを今考えても仕方あるまい? それより中庭の捜索をさっさとしてしまおうじゃないか」

千家さんに促されて、まずは東側の中庭に入る。懐中電灯を照らして隅から隅まで捜したが、鬼の影も形もなかった。

西側の中庭も同様に探索を行ったが、徒労に終わる結果となった。

牡丹さんたちが待つ中央廊下へ戻り、結果を報告する。

朱袮「――やっぱりもう逃げてしまったんじゃないでしょうか?」

白河「その可能性もあるな。玄関に鍵がかかっていたのは、窓から出て行ったからなのかもしれない」

捜索を行う途中で確かめたことなのだが、屋敷の東側と西側の廊下にはそれぞれ一箇所ずつ鍵のかかっていない窓があった。どちらも外に面した窓なので、そこから屋敷を脱出することは不可能ではなかっただろう。

もちろん、確認を終えたらその窓の鍵は閉めておいた。

牡丹「それで今は屋敷の中にいなかったとしても、また戻ってくる可能性はあるわけでしょう?」

五道「それはそうだ。いくら鍵をかけているとはいえ……窓を割られてしまえばどうしようもない」

青山「そもそも……本当に俺ら以外に人がいたんですかね?」

青山くんの言葉がその場にいた全員の注意を引いた。

青山「やっぱり……この中の誰か……ってことも、あり得るんすよね?」

彼の質問には誰も答えようとしなかった。重い空気が場を呑み込む。

犯人が物置から逃走し、その後別の場所で扮装を解いてから再びこの場に現れた……時間的には誰もが充分可能だった。……いや、ついさっき戻ってきたという白河くんは除外されるか?

それに松葉さんの時とは違い、今度は屋敷の中で殺人が行われた。今となっては、外部犯と考えるよりは……そちらのほうが可能性は高いかもしれない。

誰もがその考えには至っていたのだろう。それでも互いに疑い合うようなことは避けたくて、口に出していなかっただけなのだ。

牡丹「……ふん。誰だか知らないけど、もしこの中に犯人がいるのなら……そして、私を殺したいなら……殺しに来るといいわ」

五道「三船……!」

牡丹「ただし、それなりの代償を払う覚悟はしておくことね」

静かでありながらも迫力のある声でそう言ってのけると、後ろへ振り向いて歩き出す。

五道「どこへ行く?」

牡丹「もう休むわ。おやすみなさい」

付け加えるようにして、手を振りながら言った。

牡丹「皆さんも、お気をつけて」

千家「……他の皆さんも、もうお休みになられてはどうでしょう? 時間ももう遅い……」

千家さんが右手首の腕時計を見る。釣られるように自分の時計を確認すると、もう2時半だった。

五道「そうだな……あまりに色々なことが起きすぎた。さすがに……疲れた」

五道さんはそう言って部屋に戻っていく。

青山「――じゃあ俺達も部屋に戻りましょうか。……先輩? どうかしたんすか?」

白河くんははっとして、

白河「ん……ああ、すまん。考え事しとった……あ、先生」

部屋へ戻りかけていた千家さんに呼びかける。

千家「なんだい?」

白河「ちょっとご相談したいことが」

千家「構わないよ」

白河「灰崎さん、書斎を使わせてもらってもいいですか?」

灰崎「ええ、もちろん結構でございますよ。あ……しかし、まだ蛍光灯の取替が済んでおりませんが」

白河「多少の薄暗さは問題ありません」

灰崎「左様でございますか」

白河「すまんな青山。先に部屋に戻っといてくれ」

青山「わかりました。じゃあPさん、おやすみなさい」

P「おやすみ」

白河くん、千家さんとも同様に挨拶をして別れる。

灰崎「黒田様は……お気の毒でございました。この日、ここへ居合わせてしまったばかりに、このような目に遭われたのかと思うと……」

たしかに……不幸だったのかもしれない。いけ好かない人間ではあったけど、殺されるほど悪人でもなかったはずだ。彼に対しても哀れみの感情を持たずにはいられない。

黒田「……しかし、お嬢様とP様がご無事で何よりでございました」

朱袮「そ、そうですよ!」

朱袮さんが力強く同意する。

朱袮「みんな犯人のことばかり気にしてましたけど、まずはそれを喜ぶべきです」

P「はは……ありがとう」

朱袮「あっ、でも……貴音さんは大丈夫でしょうか? 心配です」

灰崎「先ほどは、ご気分が優れないようでしたが……いえ、P様のおっしゃるとおりのことが物置の中であったのなら、そうなるのも当然ではあるのですが……どうもそれだけではないような……」

灰崎さんはさすがだ。俺が話の中であえて伏せていたこと……貴音がショックを受けていたのは、黒田の死を目の当たりにしただけが理由ではないということに気がつきかけている。

P「俺が様子を見てきますよ」

彼女と直接話さなければならないこともある。

灰崎「それでは、お茶を持ってまいりましょうか?」

P「いや、必要ないです。灰崎さんもお休みになってください」

灰崎「左様でございますか。お気遣い感謝いたします」

灰崎さんは丁寧に頭を下げた。

灰崎「私からこのようなことを申し上げるのも、おかしな話だとは思うのですが……あなたがここへ来てくださっていて本当によかった」

P「え?」

灰崎「あなたがいてくださるおかげで、お嬢様はだいぶ救われている面があると思うのです。お嬢様の芯の強さは私もよく知っているつもりですが、今回はことがことでしたので……」

灰崎さんはまた一礼して、

灰崎「――それでは、P様、七瀬様、おやすみなさいませ」

朱袮「おやすみなさい灰崎さん。Pさんも」

それぞれに就寝の挨拶を返してから、貴音の部屋に向かった。

P「貴音、入っていいか?」

貴音「どうぞ」

貴音は、天蓋のついたベッドに身を起こしていた。

薄いカーテン越しに見える姿は儚さに似た美しさがあり、写真に収めておきたい欲求に駆られるが、残念ながらカメラは手元にないし呑気に撮影会をしている場合でもない。

P「少しは落ち着いたか?」

カーテンを開けて彼女の顔を覗きこむ。

貴音「……ええ」

貴音はぎこちない微笑みを返した。

近くにあった椅子をベッドの横まで引っ張ってきて、座る。

P「……ありがとう」

貴音「……?」

P「さっき貴音が来てくれてなきゃ、俺は……殺されていたかもしれない」

貴音「……あの時は、無我夢中でしたから。プロデューサーがご無事でよかった……」

P「あのナイフはどうしたんだ?」

貴音「部屋にあったものです。物置の方から妙な物音が聞こえたので様子を見に行こうとしたのですが、嫌な気配がしたので念のためと思って……そしたら」

あの場面だったというわけか。

P「それで……さっき貴音が言ってたことなんだけど……」

貴音は黙って頷いた。

P「どういうことだか説明してくれるか?」

貴音「10年前の記憶が欠如していたことについては、前にお話したとおりです。今なら……その理由がわかります」

P「なんだ?」

貴音「自分を守るためです。わたくしは、きっと自分で犯した罪に耐えられなくなり……自ら、それを忘れたのです」

P「……どうして今になって思い出したんだ?」

貴音「あの時……犯人の被っていた鬼の面を見た瞬間に」

P「鬼の面で……?」

貴音「10年前のあの日も……わたくしは、『鬼』を見たのです。物置であの鬼を見て瞬間的に、その光景が重なって見えて……それがきっかけだったのだろうと思います」

P「なんだって……!? それ、どういうことなんだ!?」

貴音は、何か考え悩むように視線を下げた。

P「あ……話すのが辛いなら、無理にとは言わないけど」

貴音「話したく……ありません。誰にも……話したくない……!」

貴音は呟くように言葉を発した。右手でこめかみを押さえ、苦痛に顔を歪ませる。

貴音「でも……わたくしには……抱えきれない……! 恐ろしいのです……このままでは、自分の記憶に押し潰されてしまいそうで……」

痛みに耐えながら押し出したような、震えた声だった。

P「……だったら、話してくれないか」

貴音「…………!」

P「一人で抱え込むのが辛いなら、俺も手伝うから」

貴音「プロデューサー…………」

彼女は目を閉じ、数秒の間黙り込んだ。そしてゆっくりと目を開くと、こちらをまっすぐと見つめて、言った。

貴音「…………聞いて、いただけるでしょうか?」

俺はゆっくりと頷く。

P「……もちろんだ」

――十年前。その日は、十年祭の開催当日でした。

父は祭りの準備で連日忙しそうにしていたのを覚えています。

叔父もその手伝いのためにしばらく前から屋敷に滞在しておりました。ええ、当時、叔父は遠い別の町で病身の叔母と共に暮らしていましたから。叔母は体調が優れないせいもあって叔父は一人で村へ戻ってきていました。

昼を過ぎた頃だったでしょうか、屋敷に客人がやってきたのです。

「こんにちわー」

よく通る声の挨拶。村でただ一人の駐在巡査、八塚銀志郎(やつか ぎんしろう)という方でした。

貴音「あっ! ぎんしろー!」

八塚「よぉ、お嬢! 今日も元気だな」

銀志郎は当時、わたくしの唯一の遊び相手となってくれていた方でした。わたくしがもっと幼い頃から、いつも巡回のついでには屋敷へ寄り、楽しいお話を聞かせていただいたり、時には他愛無きごっこ遊びの相手を務めてくださったりもしました。

身近にいる大人の中では比較的年齢が近いこともあり、わたくしにとっては、兄のような存在……だったのかもしれません。

八塚「足の怪我はどうだ? まだ痛むのか?」

貴音「まだ少し……」

八塚「そっか。ちゃんと治るまでは無理するなよー?」

彼はわたくしの頭をくしゃりと撫でると、もう一人の人物に気がついて挨拶をしました。

八塚「灰崎さん、こんにちわ」

灰崎「これはこれは、八塚様。ようこそいらっしゃいました。何か御用で?」

八塚「ちょっと伝言を頼まれまして。巡回ついでに寄らせてもらいました」

灰崎「伝言でございますか」

八塚「常磐様はご在宅ですか?」

「私に用でしょうか?」

廊下の奥から声が。父が眼鏡を着物の袖で拭きながらひょこひょことした足取りで歩いてきました。

常磐「やぁ、こんにちわ八塚君。今日はどうしました?」

八塚「こんにちわ。新しい村長さんから伝言を頼まれてます」

常磐「ほう、伝言」

父は眼鏡をかけ直します。

常磐「何でしょう?」

八塚「儀式の準備で忙しく、こちらへの到着が少し遅れそうとのことです」

常磐「なんだ、そんなことですか」

父は笑って、

常磐「儀式の予定にはある程度ゆとりをとってますから、特に問題はないでしょう。三船さんにはそうお伝えしておいてくれますか」

八塚「わかりました」

常磐「しかし彼女も大変でしょうねぇ……。前々からご病気だったとはいえ、お父様が亡くなって急に村長を継ぐ羽目になり、十年祭がその初仕事だなんて」

八塚「でも牡丹さん、充分うまくやれてると思いますよ。――なんて、偉そうな言い方でしたかね?」

常磐「いや、私もそう思いますよ。彼女はとても頑張ってます。……一昨日の葬儀の時は、どうなることかと思いましたが」

父は苦笑しました。

八塚「ああ、あれですか……。すごかったですよね、牡丹さんと妹さんとの喧嘩。妹さんは都会のほうで暮らしてらっしゃるんでしたっけ?」

常磐「ええ、久々に帰ってきたのだからもう少し仲良くできないものかと思うんですけどね。彼女らが子供だった頃から見知っている立場の人間としては、心憂い思いをしています」

八塚「昔は仲よかったんですか?」

常磐「儀式の準備などでたまに会う程度でしたが、少なくとも今より険悪ではありませんでしたね。何か不仲になるきっかけがあったのかもしれません。万造は何があったか知らないかい?」

父は、じいやのことを親しみを込めて下の名で呼んでいました。

灰崎「いいえ。私も存じておりません」

常磐「……ま、人の家庭事情にとやかく口を出すのもよくありませんね。このへんにしておきましょう」

八塚「そうですね」

常磐「おっと、そうだ万造。そろそろ客人の来る時間だったな。……はて、なんという人だったかな?」

灰崎「千家様という方ですね」

八塚「千家さん? 村の人じゃありませんね?」

常磐「都会の大学で民俗学の研究をしている方だそうです。十年祭に興味を持たれたようでして」

八塚「へぇ、珍しいですね。この村に外から人が来るなんて」

常磐「ええ、私も楽しみなんですよ。村の外の話なんて、滅多に聞けませんから」

その時、玄関のチャイムが鳴りました。

常磐「おやおや。噂をすれば影ですねぇ」

千家「どうもこんにちは。私は――」

千家殿がやって来て、父たちと挨拶を交わしました。千家殿はわたくしを見ると、

千家「これはこれは、随分と可愛らしいお子さんだ」

常磐「はは、そうでしょう?」

千家「お名前はなんというのかな?」

千家殿はわたくしの前に屈みこんで言いました。

貴音「四条……貴音、です。……こんにちわ」

千家「こんにちわ。貴音ちゃんか。よろしくね」

千家殿はにこやかに微笑みかけてくださいましたが、わたくしはなんだか気恥ずかしく、近くにいた銀志郎の足元に隠れてしまいました。

千家「あらら」

常磐「すみません。初めての人と話す機会というものがなかなかなくて、慣れていないんです」

千家「いやぁ、この年くらいの子ならこういうものですよ」

常磐「あ、そうだ八塚君」

八塚「はい?」

常磐「私は千家さんと色々とお話することがありますので、よければその間、貴音を散歩にでも連れて行ってくれると嬉しいんですが……」

八塚「ああ、いいですよ」

銀志郎は簡単に引き受けました。

常磐「すみませんねぇ。一人にしておくと、またお転婆を発揮して怪我をしないとも限りませんから」

貴音「もう、お父さま!」

常磐「はっはっは。じゃ、頼みましたよ、八塚君」

八塚「よし、それじゃ行くかお嬢?」

貴音「はい!」

八塚「――お嬢も重くなったよなぁ」

外の庭でわたくしを肩車してくれていた銀志郎が、突然言いました。

貴音「……わたくし、太ってしまいましたか?」

八塚「いや。初めてお嬢をこうしておぶってやったときはさ、子猫みたいな重さだったのに……俺がここに赴任してきた時だから、あれからもう3年か。そりゃあ重くなるはずだよな」

貴音「どういう意味ですか?」

八塚「いや、色々とこうね、過ごした年月というかそういうのを噛み締めていたのよ」

貴音「……? わかりません……」

八塚「ま、お子様にはわかんねーか」

貴音「むぅ……」

八塚「お嬢は十年祭は見に行けるんだろ?」

貴音「はい。じいやといっしょに色々見て回るつもりです」

八塚「そりゃよかったなぁ」

貴音「村に行くのは久しぶりだから、楽しみです」

八塚「お嬢が羨ましいよ。俺なんて会場の警備があるから退屈で仕方ねぇや」

そのような話をしばらくした後、銀志郎が思い出したように言いました。

八塚「――あ、そだ。話は変わるけど、この前はどこ行ってたんだ?」

貴音「この前?」

八塚「ほれ、一昨日に右足首、捻挫したって。あの日は村長の葬儀でみんな出かけていただろうし、その間にまた屋敷を抜けだしたんだろ?」

貴音「あー……」

八塚「この辺りで普通に遊んでてそんな怪我するとは思えないし、どっか慣れない場所を歩いたんじゃないかって思ってな」

貴音「……お父さまには秘密、ですよ?」

八塚「おう。わかった」

貴音「裏の山へ行っていました」

八塚「裏の山って……もしかして、あの吊り橋の先にある山か!?」

わたくしは頷きました。

八塚「なんでまたそんな危ない場所に……」

貴音「だって……ぎんしろーが、前に『あの山の先には町がある』って言ってたから……」

八塚「いや……どう考えてもお嬢には無理だって。その思いついたら即実行な行動力は素晴らしいと思うけど……常磐様からも危険だからあそこには入っちゃダメだって言われてたろ?」

貴音「……だから、黙ってました」

八塚「やれやれ……そうしてくれてないと、俺まで常磐様に怒られちまうよ。俺の言葉が発端みたいだしな……。ていうか、もうそんな危ないことはやめてくれよ?」

貴音「はい……ごめんなさい……」

八塚「なぁお嬢。そんなにしてまで町に行きたかったか?」

銀志郎は急に真面目な口調になって尋ねてきました。

貴音「……村から出てみたかっただけです」

八塚「この村は嫌いか?」

貴音「そうではありません」

八塚「じゃあなんで?」

貴音「……わたくしはずっとこの村から出ることはできないのでしょう?」

八塚「…………」

貴音「神宿りは村にとって大切な人だから、いなくなったら沢山の人が困るって」

八塚「……まぁ、そうだな」

貴音「わたくしは村の外がどのようになっているか見てみたいと思いました。でも、お父さまやじいやに話しても許してはくれません……だから一人で……」

八塚「……なるほど。そういうわけか」

貴音「でももう、あのようなことはいたしません。お父さまやじいやに心配をかけるのは、よくないことですから」

銀志郎はわたくしを肩に乗せたまましばらく黙りこんでしまいました。

貴音「……ぎんしろー?」

八塚「……よぉし、決めた!」

貴音「……?」

八塚「外出の許可もらえないか、俺からも常磐様に話してみるよ」

貴音「えっ……ほ、本当に?」

八塚「おう、ただし、保護者として俺が付いてきてもいいならだけどな」

貴音「ぎんしろーが?」

八塚「さすがにお嬢一人でっていうわけにはいかないだろうし、かといって常磐様や灰崎さんに保護者役をお願いするのも悪い、というか多分無理だ。他に適役がいるとするなら、そりゃあ俺しかいないだろ?」

貴音「ああ……! わたくし、今とても幸せな気持ちです!」

憧れていた村の外の景色が見れる……それだけでなく、そこまで気にかけてくれる銀志郎の気持ちが嬉しいと思えました。

八塚「おいおい、まだそうと決まったわけじゃないんだぞ? 常磐様に話してみないと――」

貴音「それでっ、いつ頃になりましょうか?」

八塚「人の話聞いてる? ……まぁそうだな、来週末あたりにでも」

すっかり浮かれはしゃぐわたくしに、銀志郎は少し困ったように笑っていました。

父も今は忙しいだろうとのことで、村からの外出について話をするのは十年祭を終えた後でと約束をしたのを覚えています。

銀志郎とはその後、祭りの準備を手伝いに戻らなければならないということで別れました。

それからしばらくして、五道殿と、少し遅れて三船殿が屋敷へやってきたのです。父たちは月光洞へ暁月を取りに行った後で、村の祭り会場へと移動しました。もちろん、わたくしもそれに付いていきました。

篝火の儀を前にして、神社の広場では祭りの運営委員の方々が慌ただしく準備をしている姿がよく目についたように思います。

わたくしと父は神社の脇に建てられた『ぷれはぶ小屋』の中にいました。そこは神社で何らかの儀式が行われる際にいつも待機所として使われている場所で、その日も神宿りのために用意がされていました。

常磐「――さて、私は篝火の儀の打ち合わせがあるのでもう行きますが、貴音はここで待っているんですよ? すぐに万造が迎えに来る手はずになっていますから」

貴音「わかりました、お父さま」

常磐「また勝手に一人で出歩いてはいけませんよ? ま、ここは山の中とは違いますから、怪我の危険性は低いでしょうけど」

驚きました。どうして父が、わたくしが『山の中で』足を怪我したということを知っていたのでしょう。

常磐「おや、意外そうな顔をしていますね。わからないとでも思いましたか? 私はあなたの父親なんですよ? あなたの隠し事なんて、手に取るようにわかりますとも」

貴音「……ご、ごめんなさい」

父は咎めるようにじっとわたくしのことを見つめていましたが、やがてぷっと吹き出して笑いました。

常磐「――なんて、種明かしをすると、靴の泥を見たからわかったんですけどね。屋敷の周辺でああいう泥の付き方がするのは、あの辺りしかないと思ったんです」

父がわたくしの頭を撫でてそう言ったので、どうやら父はわたくしが山に入ったことを怒ってはいないようだと思いました。

常磐「……あなたがそんなことをした理由は、わかっているつもりですよ」

声の調子を落として父は言いました。

貴音「……お父さま?」

常磐「最近になって、よく考えることがあるんです。『はたして、このままで良いのだろうか』、と」

父はわたくしに話しかけるというよりは、どこか……そう、独白するような雰囲気を持っていました。

常磐「四条家に生まれた者としてのさだめ、と言ってしまえば簡単ですが……近頃の私は、これに疑念を抱かずにはいられなくなってきている」

貴音「…………」

言わんとすることはよくわかりませんでしたが、いつになく真剣な調子で話す父の姿は深く印象に残っています。

常磐「私は神宿りとしてではなく、一人の人間……あなたの父親として、あなたが将来幸せになれる選択をしたいと思うんです。しかし、その選択を私がしてしまえば、とても大きな代償を払うことになるかもしれない……」

貴音「…………」

常磐「それでも、このままでいるよりはずっと良いと思うんです。すぐには無理でも……きっといつかは、あなたも普通の女の子として過ごせる日が来るはずですから」

貴音「普通の……?」

常磐「ええ。そうなったら、もうこの村に留まっている必要もありません。あなたのしたいことを、好きにすればいい。そうやって過ごしていくうちに心を許し合える友人や、素敵な恋人だってできるかもしれませんね。私はあなたのそういう未来を見たい」

父は、最後に付け加えるように言いました。

常磐「――そのためであれば、私はどんな決断でもしましょう。たとえそれが、『神宿りの禁忌』であっても」

父は急に振り返って、小屋の入り口戸の方向を向いて言いました。

常磐「……誰かいるんですか?」

返事はありませんでした。

常磐「ふむ。気のせい……かな?」

貴音「お父さま、今のお話は……」

常磐「……ああ、すみません。少し難しい話でしたね。あまり気にしないでください」

父は笑いかけて、またわたくしの頭を撫でました。

常磐「じゃあ、万造が来るまでここで待っているんですよ」

父が小屋を出ていくのを、わたくしは不思議な感情で眺めていました。

父の言葉からは、わたくしの将来の幸せを願ってくれているという暖かな気持ちが充分に伝わってきましたし、それはとても嬉しく思いました。しかし同時に……言い知れぬ不安を感じずにはいられなかったのです。

その小屋の中でじいやが来るのをじっと待っていました。5分ほどしてから、こんこん、と小屋の扉を手で叩く音が聞こえました。

わたくしは何の疑問を持つこともなく、その扉を開けました。

……そこで、わたくしの記憶は一度途切れます。

――気が付くとわたくしは、暗闇に包まれておりました。

暗く、狭く、固い……箱の中でした。

手足を伸ばすこともできないほどの密閉された空間。箱の蓋は固く閉じられ、内側からはとても開くことができませんでした。

もちろん、助けを呼びました。声も出なくなるほど、泣き叫びました。

しかし……助けは来ませんでした。

どれほどの時間、その中にいたのかはわかりません。数十分か、あるいは数時間か……。

泣き疲れたのと、箱の中の空気が薄くなっていたのでしょう、段々と息が苦しくなってきました。

そして意識も朦朧としてきた頃……箱の外から音が。かちゃり……と、鍵の開く音でした。

恐る恐る箱の蓋を上へと押し開けたわたくしは、そこで初めて、自分が閉じ込められていたのが旅行鞄であると知りました。

周囲には見覚えのない光景が広がっていました。木々が生い茂り、土の地面が広がっていて……おそらく、祭り会場からも離れた森の奥だったように思います。

――誰が鍵を開けてくれたのだろう? その『誰か』はすぐそばに立っていて、わたくしは目を上げました。

夜の闇の中で、月の光に照らされたその姿、今でも目に浮かびます。

……そこにいたのは、『鬼』でした。

その人物は黒い外套のようなもので全身を覆っていて、暗闇の中でその『鬼の仮面』だけがぼうっと浮かんでいるようにも見えました。

鬼は屈み込み、愕然とするわたくしの顔を、愉快そうにゆらゆらと首を揺らしながら見ていました。

……不気味でした。笑っていたのです。

もちろん仮面の向こう側を見透かすことなどできません。しかしその鬼は、怯えるわたくしの様子を見て楽しんでいた……そのように、感じたのです。

鬼は、黒い革手袋をはめた左手を伸ばしてきました。わたくしは思わず身を縮め、両手を顔の前に上げてそれを拒もうとしたのです。

しかし、鬼はその手を払いのけて……自分の身に何が起きたか、一瞬わかりませんでした。

頭が揺れて、閉じ込められていた鞄の縁の固く出っ張った部分で左の頬を強く打ちました。どうしてだか、右頬の方にも熱くじりじりとした痛みが。

ああ、殴られたのだ……と、ようやく理解しました。

貴音「あっ……!」

鬼はわたくしの髪を乱暴に掴み上げ、無理矢理体を引き起こすとそのまま反対側へ放り投げるように手を放しました。咄嗟に鞄の底に手をつくことができ、顔を打つことはなんとか免れました。

自分の身に何が起きたのか、目の前にいる鬼は何者で、なぜ自分に危害を加えようとするのか……混乱と恐怖とで意識は埋め尽くされ、逃げようにも体は緊張しきって言うことを聞いてくれませんでした。

動悸は加速度的に激しくなり、歯の根も合わなくなるほどで……それでも恐怖心を押し殺して、どうにかこの危難から逃れなければ……そう思いました。

貴音「……れかぁ……」

助けを呼ぼうとしましたが……自分でも驚くほど、掠れた声しか出てこなかったのです。もう一度、喉を振り絞って叫びました。

貴音「だれかっ……! だれかたすけ――ぁぐっ……!」

鬼によって喉元に手をかけられ、声は遮られてしまいました。そのまま鞄の縁との間で首を挟み込むようにして仰向けに押さえつけられると、それだけで一切の身動きはできなくなりました。

貴音「あっ……がっ…………」

両手で喉に食いつく手を引き剥がそうとしましたが、子どもの非力な力ではそれは到底不可能なことでした。

鬼は身を動かして、手に更に体重をかけるようにしました。首にかけられる力はだんだんと強くなり、呼吸もままならず意識が朦朧としてきて……わたくしを押さえつけていた鬼は、尚も笑っているように見えました。

そのときでした。ふと、視界の端……鞄の外の地面にあるものが転がっているのが見えたのです。

『それ』は以前に銀志郎から見せてもらったことがあり、触らせてもらうことこそできませんでしたが、どのように使うかという知識はありました。

どうしてそこにそんなものが転がっていたのか……理由はわかりません。しかしその時のわたくしにはそんなことを考えている余裕はなく……無我夢中で、それを手に取ったのです。



――ぱん、と乾いた音が森の中に響きました。

首にかかっていた力がすっと抜けたのがわかりました。鬼は仮面の奥でくぐもったうめき声を上げて、胸のあたりを手で押さえながらよたよたと後ろへ下がっていって……ふっと姿が消えました。

その先は急な坂になっていたらしく、鬼は足を滑らせてそこから落下したのです。草木が騒々しく鳴り立てる音……それが鳴り止むまでの長さから、姿は見えねど、鬼は結構な高さから落ちたのだとわかりました。

貴音「……?」

そこで改めて自分が右手に持っているものを見て、気が付きました。……そうです、わたくしが握っていたものは、『拳銃』だったのです。

その時になってようやく、手の中にある黒く、硬く、冷たいその感触が、とても恐ろしく思えてきて……。

貴音「ひっ……!」

それを地面に投げ捨てました。あたりには火薬の臭いが漂っていて、わたくしは段々と、自分が何をしたのか……『何をしてしまったのか』を理解していきました。

月明かりを頼りに、鬼が滑り落ちていった坂の下を恐る恐る覗きこんでみると、その坂はかなり傾斜がきつく、どちらかというと崖と呼ぶほうが相応しいように思えました。

その崖の下――10めぇとるはあったでしょうか――に、鬼が横にうずくまるように倒れていました。暗く、はっきりとは見えませんでしたが……鬼はまったく動きませんでした。

次にわたくしは、崖を下りて鬼に近づいていきました。

頭の中では理解できていたのです。それでも、それを否定してくれるなにかを期待せずにはいられず……「もしかしたら、自分の勘違いかもしれない」、などと淡く、愚かな考えもあって…………。

しかしその行為によってわたくしは、より深い絶望へと身を落とすことになったのです。

鬼を近くで見てみると、外套の胸のあたりから血が染み出しているのがわかりました。流れ出た血液は体の下の草を赤く染め、地面を濡らしていました。

幼いわたくしにも、それがどのような状態なのかはわかりました。

『この人は死んでいるのだ』と。

……『私が殺したのだ』と。

鬼の仮面は外れかかっていました。崖から落ちた時の衝撃のせいでしょうか。そもそもその仮面というのも、落ち着いて近くで見てみると、縁日の売り物にあるような質素なものでした。

わたくしは手を伸ばして、その鬼の仮面を外したのです。

理由は唯一つ。自分が知っている人物かどうかを確かめたかったからです。

そして……その仮面の下にあった顔は…………

貴音「…………え?」

……わたくしの、よく知る顔でした。

貴音「どう……して……? なんで…………なんでぇ…………ッ!?」

わたくしが命を奪ってしまった相手……それは……『八塚銀志郎』だったのです。

――それからどれくらいの時間が経っていたのでしょうか。わたくしには動く気力も、泣く気力すらなく、ただ銀志郎の遺体の側でじっと座り込んでいたのです。

まだ寒さの残る時季でしたので、場所もわからないまま無闇に歩きまわるよりは賢明だったのかもしれません。

「……貴音?」

顔を上げると、父が少し先の木の傍に立っていました。儀式用の装束姿だったことを考えると、篝火の儀式を終えた後だったのでしょうか。父の手には懐中電灯が握られており、わたくしのいる場所を照らしました。

貴音「おとう……さま……」

父は安堵したような顔をして、こちらへ駆け寄ってきました。もう片方の手には一つの紙袋を提げており、中には何か重そうなものが入っているようでした。

常磐「貴音、無事で――!? これは…………」

父は、近寄ってくる途中で私の隣にあった銀志郎の遺体に気がついたようでした。父は数秒の間立ち尽くした後、彼の遺体を検めてその死を確認しました。

常磐「……貴音。なにがあったか、話してくれますか?」

わたくしは、小屋の中でじいやを待つうちに何者かが訪ねてきたこと、気がついたら旅行鞄の中に閉じ込められていたこと、そして『鬼』のこと…………全てを話しました。

父は黙ってその話を聞いていました。やがてわたくしが全てを話し終えると、父はわたくしを優しく抱き寄せました。

常磐「……辛い思いをしましたね」

貴音「お父さま……教えてください……どうしてぎんしろーが…………」

常磐「それは……私にもわかりません。あなたと同じように、私もわからないことだらけなんです。でも……あなたが無事で本当に……本当によかった。今はそれだけで、充分だ……」

父はわたくしを抱きながら、頭を撫でました。その手つきは優しくて、少しだけ安心した気持ちになれたのです。

常磐「……あとのことは、私に任せなさい」

貴音「え……?」

常磐「今夜のことは、誰にも話してはいけませんよ。松葉や万造にもです」

貴音「ど、どうして……ですか?」

父はその問いにはちゃんと答えてはくれず、ただ首を横に振るばかりでした。

常磐「あなたも忘れたほうが良い。悪い夢を見た……そう思いなさい。もっとも、忘れろと言って忘れることができるのならば、この世に悲劇なんて存在しないのでしょうけどね……」

貴音「…………」

常磐「……さぁ、帰りましょう。万造がとても心配していましたよ。足はまだ痛みますか? ――なら、こうしましょう」

父はわたくしを背中におぶってくれました。

父の背中は暖かく、緊張した心が解きほぐされていくようでした。そのせいか、疲れが一気に押し寄せてきました。父に訊きたいことは沢山あったはずなのですが…………いつのまにか、わたくしは眠ってしまったのです。

――次に目が覚めると、わたくしは屋敷の自分の部屋……つまり、ここにいたのです。おそらく、父に連れ帰られた後でそのままべっどに寝かされていたのでしょう。

窓のかーてんの隙間からは既に明かりが差し込んでいました。あれから一晩もの間、一度も目覚めることなく眠り続けていたのです。

昨日の出来事は夢だったのでは? 一瞬、そのような考えが脳裏をよぎりました。そっと、頬を触ってみました。

貴音「いたっ……」

殴られた側の頬は熱を持って腫れていました。痛みが、嫌でも昨晩の悪夢が現実であったと知らせてくれました。

貴音「……?」

部屋の外から話し声が聞こえ、気になって部屋を出ました。

声が聞こえた方向を見やると、何人かの人が玄関から出て行くところでした。その中には、じいやや叔父の姿も見えました。わたくしのことには誰も気が付かなかったようで、そのまま外へ出て行ってしまいました。

聞こえてきた話し声の中からは、『月光洞』、『常磐様』、『お迎え』といった単語を聞き取ることができました。そこでわたくしは、前に父から聞かされていた奉納の儀について思い当たります。

十年祭で神宿りが行う二つの儀式、一つは篝火の儀、そしてもう一つが奉納の儀。奉納の儀では神宿りが月光洞の奥に留まり、一晩の間祈りを捧げる……つまり、今玄関を出て行った人々は、祈りを終えた父を月光洞へ迎えに行ったのだ、と。

……なにか、嫌な予感がしました。

わたくしは、出て行った大人たちをすぐに追いかけても屋敷へ追い返されるだけなのでは、と考え、少しだけ時間を置いて月光洞へ向かうことにしました。今思い返してみると、父を迎えに行くだけなのだからそんなことまで気にする必要はなかったのかもしれません。

月光洞の場所だけは知っていました。もちろん、立ち入りは禁じられていたためにそれまで中へ入ったことはありませんでしたが……。

懐中電灯を手に洞窟までの道のりを早足で歩きました。時々右足の怪我がずきりとしましたが、気にはなりませんでした。

いつのまにか外は曇り始めていて、一雨来そうな気配が漂い始めていました。

洞窟の入り口に着くと、懐中電灯を点けて中を進んでいきました。内部はひんやりと、そしてじめじめとしていて、あまり居心地の良いものではありませんでした。

しばらく歩いていくと、洞窟へ足を踏み入れてからそれまで自分の足音だけしか聞こえなかった耳に、なにか大きな音が飛び込んできました。

地響きを思わせるような轟音。足取りを早めて先へ進むと、ちょうど先ほど出ていった大人たちが月明かりの間に繋がる大きな鉄の扉を開ける瞬間だったのです。

その場にいたのは、じいや、叔父、五道殿、三船殿、千家殿の五人でした。

灰崎「お、お嬢様!? どうしてここに……」

まず、じいやがわたくしの存在に気が付きました。しかし、すぐにその注意は別のものへと向けられます。

松葉「様子がおかしい……!」

叔父がそう言うのが聞こえ、じいやもわたくしも月明かりの間へと視線を移動させました。

そこには、台座の上に座った父の姿が見えました。奉納の儀の祈りとは、台座の中心で祈りの姿勢をとったまま動いてはならないのだと父から聞かされたことがありました。

不思議なことに、父は祈りの姿勢をとったまま、動こうとしません。

……いいえ、祈りの姿勢というのは、正座に頭を台座の上で額づくようにするものです。父は正座こそしていましたが、両腕はだらりと力が抜け、頭も横を向いていました。

わたくしと同じ違和感を覚えたのでしょう、叔父が父のもとへ駆け寄り……そして、父が亡くなっていることが確認されました。

貴音「――その後、父の死のことで村は大騒ぎになったのですが……その騒動の間のことは、今でもよく思い出せないのです。父を喪った悲しみで長い間塞ぎこんでいたことだけ、覚えています。誘拐されたという記憶を封じ込めてしまったのも、おそらくはその間のことだったのでしょう……」

貴音はそこで息を一つついて、

貴音「……これで、わたくしの昔話は終わりです」

全てを語り終え、彼女はどこかほっとしたような面持ちになっていた。

貴音「……ありがとうございました。プロデューサーに聞いて頂いて……なんだか、少しすっきりとした気持ちがいたします」

P「……ああ」

貴音「どう……思われたでしょうか?」

そう尋ねる貴音の目には不安の色が見える。

貴音「結果的にとはいえ、わたくしは人の命を奪ってしまい、そしてそれを……今まで忘れていたのです。自己防衛のため……そんな身勝手な理由で、です。……さぞや幻滅されたことでしょう。それも仕方のな――」

P「しないよ」

貴音「え……?」

P「そんなことで幻滅するほど、俺は貴音のことを見損なっていたつもりはないからな」

貴音「…………そうですか」

P「辛かっただろうな……それでも話してくれたことを、俺は嬉しく思う。…………貴音」

貴音「はい……?」

P「よく……頑張ったな」

貴音「っ!…………」

貴音は、思いもつかぬようなことを言われたかのようにはっとした。

貴音「……おかしなことを、おっしゃるのですね」

気の抜けたような、安心した声だった。

P「そうか?」

貴音は指の背で目に溜まった涙を拭くと、穏やかに微笑んだ。

貴音「でも……プロデューサーにお話することができて、良かった」

貴音の過去……それは衝撃的で、そして悲しいものだった。ただ、聞いていて浮かんだいくつかの疑問もあった。

P「――要するに、さっき物置に現れた鬼は、貴音が10年前に関わったその鬼とは無関係だと考えていいってことだよな?」

貴音「ええ、10年前にわたくしを誘拐した鬼……その正体は八塚銀志郎で、既に亡くなっているはずですから」

P「さっきの鬼は別人……偶然の一致……考えられなくもない……か?」

貴音「恰好や鬼の仮面もまったくの別物でしたし、ただ単に洞の鬼伝説を真似ただけではないでしょうか。姿を隠し、そして返り血を防ぐためにあのような扮装をしていたと考えれば……」

P「同じことを白河くんが言っていたな」

貴音「白川殿……」

貴音は口元に指をあて、考える素振りをする。

P「白河くんのことで何か気になることでも?」

貴音「……いいえ、話を戻しましょう」

貴音は話を切り替えた。そういえば、前にも白河くんのことを見覚えがあるとか言っていたっけ。……どこかで偶然会ったことがある? あり得ないことではないだろうが……。

貴音「プロデューサー? なにか?」

P「あ、ごめん。話を続けよう」

貴音「プロデューサーはどうお考えでしょう? 10年前の事件と、今回の事件……何らかの関わりがあると思われますか?」

P「そう、だな…………関わりがある、と断言はできないけど……その10年前の事件っていうのも、何かおかしな感じがするんだよな」

貴音「おかしな?」

P「ああ、なんていうのかな……こう、作為的っていうかさ……そうだ、拳銃!」

思わず手をぱんと打つ。

貴音「……拳銃?」

P「そうだよ、拳銃。おかしいじゃないか。どうして森の中に、それも都合よく貴音の手の届く位置に拳銃が落ちてたりしたんだ?」

貴音「あの拳銃はおそらく……銀志郎の持ち物だったのだろうと思います」

P「まぁ、そうだろうな。この村の中で銃を持ってるとしたら駐在であるその八塚さんぐらいのはずだ。だとして、どうしてしっかり身につけておかなかったんだ?」

貴音「落とした……というのも不自然な話ですね」

P「ああ、普通はそういうのって腰元のホルスターに収めておいて、ちょっとやそっとじゃ外れたり落としたりするものじゃないだろ」

貴音「……たしかに、言われてみれば妙ですね」

P「そもそもの問題として、八塚さんがそんなことをした理由がわからない。話を聞く限り、貴音にはいつも優しくしてくれていた人だったんだろう?」

貴音「ええ……それがわたくしにとっては一番不可解なことで」

P「……気を悪くしたらすまないんだけど、金銭目的の誘拐ってことは考えられないか?」

貴音「……ありえたかもしれません。神宿りとして村での祭事を取り仕切ることでの報酬や祈祷料、それに村民からの寄付金で我が家は裕福であると言えたでしょう。それに……」

P「それに?」

貴音「森の中で父がわたくしを見つけてくれた時……父は手に袋のようなものを持っていました。もしかしたらあの中身は……」

P「お金だったかもしれない?」

貴音は頷いた。

それならば疑問の一つは解決する。10年前に貴音が誘拐された時、どうして常盤さんが森の中に現れたのかという疑問だ。

おそらく、常磐さんが誘拐犯である八塚銀志郎に呼び出されたのだろう。常盤さんは要求された金額を用意して、犯人に指定された場所へ一人で交渉に赴いた……そんなところだろうか。

貴音「しかし……どうしても信じられません。銀志郎が、そんなことをしたとは……。信じたくない、と言ったほうが正しいのかもしれませんが」

P「……八塚さんのことで、その後わかったことって何にもないのか?」

貴音「……どうでしょうか。わたくしは存じておりませんが、当時を知る方ならば何か憶えていらっしゃるかもしれません」

P「だったら、憶えてそうな人に話を――って、さすがに皆寝てるか」

もう午前4時をまわろうとしていた。

P「ところで、貴音が誘拐されたことを知ってる人って誰がいるんだ?」

貴音「父の他には、叔父とじいやだけかと」

P「それだけか?」

貴音「……どうやら、大きな騒ぎにはなっていなかったようなのです。父がそう取り計らったのか、あるいは犯人の意図したものだったのかはわかりませんが」

たしかに、理由は違えどどちらとしても無闇に騒ぎ立てたくはないと考えるのは自然に思える。

貴音「わたくしがそのことを忘れてからは、不意に思い出させぬように叔父もじいやも気を遣ってくれていたのでしょうね」

こんな事件が起きなければ、貴音はこの先ずっと過去のトラウマを忘れたままでいられたのだろうか? それが良いことなのか、悪いことなのかは俺には判別できなかった。

貴音「――そういえば、白河殿と月光洞へ行かれたのでしたね。何か新しい発見はありましたか?」

P「大したことはわからなかったよ」

月光洞での調査、それと山道への橋が落とされていたことなどを話す。

白河くんが見せてくれたビー玉のアクセサリーについては、彼から口止めされていたことを思い出し黙っていた。

貴音「橋が、落とされていたのですか?」

貴音はその部分に妙に食いついた。

P「ああ、ロープが刃物で切られたみたいになってたな。それに――」

橋について先ほど廊下で話した内容も付け加える。

貴音「そうですか。そんなことが……」

P「ところで、さっきの……黒田が殺されたことについてなんだけど……」

ショッキングな光景を思い出させるのも気が引けたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。彼女も重要な証人なのだ。

P「犯人が持ち去ったノートに、心当たりはないか?」

それが表紙に六原云々と書かれており、黒田の言では貴音の祖父が残したものらしいということも合わせて伝える。

貴音「祖父の……? 申し訳ありません。わたくしにはそれが何なのか検討もつきません。六原、というのも初めて聞く名前です」

P「そうか……。黒田のあの興奮ぶりから察するに、そのノートには何か大きな秘密が書いてあったんだと思う。村の……あるいは、四条家についての秘密、とか」

貴音「四条家の……秘密……」

不安そうな表情で言葉を繰り返した。余計なことを言ってしまっただろうか。

貴音「もしかしたら……」

P「何か思い当たることがあるのか?」

貴音「父の言っていた『神宿りの禁忌』……そのことなのかもしれません」

そういえばそういう話も出ていたな。常盤さんはその禁忌とやらを近いうちに公表するつもりであったような……そんな印象を受けた。

貴音「今となっては、確かめようもありませんが……」

貴音はまた暗い表情になってしまう。

P「そういえば、貴音のお祖父さんって、どういう人だったんだ?」

話題を変えることにする。

貴音「さて……わたくしが生まれる頃には、既に祖父は他界していたものですから……」

P「そっか……」

貴音「それに……存命の頃の父は、祖父のことをあまり話そうとしませんでした。じいやも、『良き主人でした』などと当たり障りの無いようなことを言うだけで」

P「……あまり仲良くなかったのかな?」

貴音「じいやはどうかわかりませんが、父に関してはどうやらそのようでしたね。父は一度だけ話して聞かせてくれたことがあります。祖父は……『狂人』だったと」

P「狂人……?」

子が親を評するのに使う言葉とは思えない。

貴音「父はそれ以上のことは話しませんでしたが……やはり祖父のことを嫌悪していた……いいえ、嫌悪というよりは……何か異形の存在のように捉えていたのではないか、と。そう思うのです」

P「……なにか深い事情があったのかもしれないな」

しかし、それほどまでの事情となると一体どういうものなのか想像もつかない。

あくびが出た。

P「――まぁ、続きは朝になってからにしよう。それまでに少しでも休んでおいたほうがいい」

貴音「わかりました。……お休みなさいませ、プロデューサー」

P「ああ、お休み」

貴音の部屋を出て、自室へ戻る間に考える。

10年前の誘拐事件、そして常磐さんの死……やはり何かがひっかかる。今回の事件とも無関係とは思えない。

とはいえ、そのひっかかりはもやもやとしたままでどうにも気持ちが悪い。

一人で考えていても仕方がない。さっさと休んでしまおう――そう思って自室の扉に手をかけたところ、

「今から休むところ?」

P「うわっ……!」

背後から声をかけられて卒倒しかける。振り向くとそこに立っていたのは、年齢不詳気味の女村長。

牡丹「あ、ごめんなさい? 驚かせちゃったわね」

面白がるように言う。

P「そりゃ驚きますよ……」

牡丹「悪かったわ。でも……背後にはもっと気をつけたほうがいいんじゃなくて? 殺人鬼がうろついているかもしれないんだもの。さくっとやられちゃっても知らないわよ?」

P「はぁ、気をつけます……」

キツい冗談だ。

P「牡丹さんのほうこそどうしたんです? もうとっくに寝てしまったかと」

牡丹さんは寝間着に着替えているでもなく着物姿のままだった。気だるそうな表情で答える。

牡丹「村に戻ってからのことを考えてたら、こんな時間になっちゃった。寝る前にちょっと台所へ水を飲みに行っていたの」

P「大変でしょうね。松葉さんのこと……」

牡丹「ええ、先のことを考えると頭痛がする思いよ。神宿りが殺された、だなんてどんな顔して村民たちに伝えればいいんだか……」

牡丹さんはややわざとらしげに溜め息を一つついた。

牡丹「ごめんなさいね。あなたに愚痴っても仕方ないわよね」

P「いえ……」

牡丹「……外の人にはわからないでしょうけど、神宿りっていうのは、この村にとって……そうね、『火』みたいなものなのよ」

P「火、ですか?」

牡丹「古の時代から、ヒトは暖を取るため、獣から身を守るため、暗い夜の闇を照らすために火を用いてきた……火を失って、この村はどうなっていくのかしらね?」

牡丹さんはどこか他人事のように言う。

牡丹「――いけない、これ以上無駄話に付き合わせちゃ悪いわね。じゃあ、お休みなさい」

P「あっ……! ちょっと待って下さい!」

牡丹「え?」

P「もしよろしければ、なんですけど……もう少しだけ無駄話をさせてくれませんか? 牡丹さんにお訊きしたいことがあるんです」

突然のことではあったものの、牡丹さんは快諾してくれた。

せっかくだからと思い、つい先ほど就寝の挨拶を交わしたばかりではあるが貴音も呼んで、談話室にて話をすることにした。

牡丹「煙草、吸っても大丈夫?」

そう尋ねられたので了承して、3人で談話室の奥の方の席に陣取る。ここならば窓から煙を外に逃がせるからという牡丹さんの提案だった。

談話室の窓は客室のそれとは違って足元から頭上までの高さがある大きなもので、それらが部屋の一面を覆うように横に三つ並んでいる。右端の一つを、鍵を開けて10センチばかりスライドしておく。少し冷たい風が部屋に入り込んだ。

牡丹「――八塚銀志郎?」

俺が問いかけた質問に、牡丹さんは少し関心を持ったように言葉を返した。

彼女は椅子の上でまだ新しいキャメルの黒いパッケージ――千家さんに買ってきてもらったものだろう――から取り出した煙草に火をつける。それから手に持っていた細身の上品なシルバーのライターを懐に入れなおした。

P「ええ、憶えていらっしゃいますか?」

牡丹「そりゃあ、もちろん憶えていますとも」

長テーブルの上に置かれていたガラス製の灰皿を近くに移動させながら彼女は続けた。

牡丹「常磐様が亡くなったのと同時だったせいで割を食っていたけど、あれだってこの村では充分珍しい事件だったわよ」

貴音「……事件?」

牡丹「……貴音ちゃんは憶えてなくても仕方ないわね。10年前、つまり前回の十年祭の後以来……『八塚銀志郎は行方不明になってる』のよ」

P「ゆ、行方不明……ですか?」

牡丹「彼がいなくなっていると判明したのは、十年祭の翌日の朝。毎朝駐在所に挨拶していくおばあちゃんがいたんだけどね、その人が最初に気がついたみたい。駐在所の中は荒らされた様子もなく荷物類はそのまま。最後に目撃証言があったのは十年祭の篝火の儀の最中、彼が祈祷場の警備をしていたときね」

P「捜索はされたんですか?」

牡丹「その日のうちに村の青年団が中心になって捜したわよ。少し外れた森や、山の中までね。数日の間捜索は続けられたけど、でも結局見つからなかった。真面目で村民たちからの信頼もある駐在さんだったから、悲しがっていた人も多かったわね」

P「遺留品の一つも見つからなかったんですか?」

牡丹「ええ。本当に不思議なくらい、ぱったりと消えてしまったのよ」

牡丹さんは灰皿にとんとんと煙草の灰を落とす。

牡丹「――で、あなた達、どうしてそんなことを訊くの? まさか、10年前に行方不明になったきりの八塚銀志郎が、この事件に関係している……なんて言わないでしょうね?」

P「ええと……」

答えあぐねていると、横に座っていた貴音がふっと笑って、

貴音「まさか。……プロデューサーに昔話をしていたのですが、なにぶん幼い頃の話で記憶が定かでなかったものですから」

牡丹「それで私にも話を?」

貴音「そういうことになります」

貴音は誘拐の事実については隠しておくつもりらしい。少々無理がある言い訳に聞こえたが。

だが実際、八塚銀志郎の一件が今回の事件と関わりがあるという根拠はないわけで、それを正直に話して怪訝に思われるよりは無難で適切な判断に思えた。

牡丹「ふぅん……」

牡丹さんは俺と貴音を交互に品定めするように眺める。

牡丹「……ま、そういうことにしておきましょう」

一応納得してもらえたようだ。

牡丹「――じゃあ、私はそろそろ部屋に戻らせてもらうわね」

P「どうもありがとうございました」

貴音も合わせて礼を言う。

牡丹さんは煙草を灰皿に押し付けながら席を立った。ちょうど煙草一本吸い終わったところだったようだ。

牡丹「……そうだ。ついでに教えておいてあげる」

P「なんです?」

牡丹「八塚銀志郎と五道くんって、兄弟なのよ」

P「えっ……!?」

まるで予想外の繋がりだった。貴音もぽかんと驚いた表情をしているところを見ると、初めて知る情報だったようだ。

P「でも、名前が……」

牡丹「ちょっとワケありでね。五道くんの母親が早死して、その後で五道医院の院長である父と看護婦の間に産まれたのが八塚なのよ」

P「……腹違いの兄弟ってことですね」

牡丹「その相手の看護婦は周囲の目を気にして、結婚はせずに子供だけ連れて村を出て行ってしまったの。それでも院長は相手に経済的な援助は欠かさなかったそうよ。巡り合わせかしらね、その子どもが警官になって村に戻ってきたのは……。残念なことに、その頃にはもう彼の父親は病気で亡くなっていたのだけれど」

P「五道さんと八塚さんの仲はどうだったんです?」

牡丹「そうね……私の主観では特別仲良くも、悪くもなかったって感じかしら。そもそも私がこのことを知ったのも、八塚が失踪した後で五道くんが話してくれたからだしね。そうじゃなきゃ兄弟だなんて思いもしなかったでしょうよ」

牡丹さんは「ただ」と繋ぐ。

牡丹「彼自身は、相当ショックを受けていたみたいね。辛気臭い顔してるのはいつものことだけど、あの頃はそれに輪をかけてひどかったもの」

P「五道さんが……」

牡丹「それも当然といえば当然かもね。両親とも既に他界していた彼にとっては、母親が違うとはいえ唯一の肉親だったわけだし」

なるほど……五道さんも10年前に肉親を失っていたのか……。

牡丹「――じゃ、話はもうおしまい。あなたたちも早く休んだほうがいいわよ」

挨拶を交わして、牡丹さんが談話室を出て行くのを見送った。

牡丹さんが出て行ってからも、俺と貴音は席を立とうとしなかった。

P「貴音。今俺が考えていること、わかるか?」

貴音「……わたくしが今考えていることと同じ、でしょうね」

P「ああ……『どうして八塚さんの遺体は見つかってないんだ』?」

貴音「村の外れまで捜索されたというなら、あの遺体は当然見つけられたはず……」

P「遺体が見つかってないから今でも行方不明扱いってことだもんな。どう考えてもおかしい」

貴音「見つかってない…………見つけられなかった……? あっ……!」

貴音ははっとして顔を上げた。

貴音「……『誰かが、隠した』?」

P「隠した……って、遺体を? 誰が? まさか……常盤さんが?」

それならばあり得るかもしれない。常盤さんが貴音のことを思っての行動だったとするならば。

八塚さんの死が――正当防衛によって引き起こされたものとはいえ――殺人であると発覚していれば、貴音は村の人々からどう思われただろうか?

常盤さんは、八塚さんの遺体を隠すことで全てをなかったことにしようとしたのかもしれない。想像にすぎないが、その気持ちは理解できる。

しかし貴音はその考えを否定した。

貴音「父……ではないでしょうね。あの後、父にそんなことをしている時間があったとは思えません」

……言われてみればそうだった。貴音が森の中で常盤さんと再会した時には、もうとっくに夜になっていたという話だった。奉納の儀を前にした常盤さんには、八塚さんの遺体を見つからないように隠すなど不可能だ。

P「それじゃあ……常磐さんが松葉さんや灰崎さんに頼んだってことは……いや、それもありえないな」

貴音「はい。父はあの出来事について叔父やじいやにも話してはならぬと言っておりましたから」

常盤さんは貴音が誘拐されたことを知っている松葉さんや灰崎さんにも、八塚銀志郎が関わっていることは秘密にするつもりだったはずだ。

P「そういえば遺留品も見つかってないって言ってたな。拳銃も同じように隠されたってことか……?」

貴音「そう考えられそうですね。しかし……何のために……?」

体の芯の部分に悪寒が走る。死体を隠すという行動に倫理的な嫌悪を感じただけではない、その正体と意図がまったく見えてこないことからの不気味さがあった。

P「……朝になって他の人が起きてきたら、また話を聞いてみようか」

貴音「わかりま……っくしゅん!」

貴音は手で鼻と口元を押さえくしゃみをした。

P「あー、窓開けっぱなしだったからな」

牡丹さんが煙草を吸うというので数センチ開けていた窓だ。ちょっと外気で冷えすぎたのかもしれない。窓を閉めようと椅子から腰を上げる。

貴音「失礼しま……」

もう一発くるか? と思ったがどうやらくしゃみではないらしい。

貴音の視線の先で「ぎぃ」と音がした。扉が開かれたのだ。牡丹さんが戻ってきたのだろうかと思い、顔を右に向けてそちらを見た。

談話室へ入ってきたのは、物置の中で見たあの姿と同じ――血で汚れた着物と鬼の仮面を身につけた人物だった。

鬼は俺と貴音を視界に捉えたかと思うと、こちらへ向かって駆け出してきた。その動きはかなり速く、左手が右腰元に差された刀の柄に伸びているのに気がつけたのは幸いだった。

咄嗟に理解した。奴の意識が向けられているのは、俺ではなく――

P「危ないッ!」

驚き硬直していたらしい貴音を、俺は椅子から突き飛ばすように左手で押す。

貴音「あっ……!」

貴音はテーブルのクロスを咄嗟に掴んで床に倒れこむ。直後、左肩に激烈な痛みが走った。

P「痛っ……!」

実際、痛いどころではすまない問題だった。貴音を狙って突き出された刀身は、俺の左肩を紙のようにやすやすと貫いていたのだ。

しかし痛みはこの際問題ではない。恐ろしいのは、鬼は一切の迷いなく……『貴音の首の位置を狙ってきた』ということだ。

刀はその先端部が椅子の背に刺さるほど強く突き出されていた。躊躇いなど一切ない、百パーセントの殺意を込めた攻撃行為だった。

「……!」

鬼は力任せに刀を引き抜くと、肩から血の飛沫が周囲に飛び散った。腕が落ちてしまったのではないかという激痛がまた走る――まだ肩にくっついたままであることを目で見て確認する。

鬼はそのまま奴から見て左側――つまり俺の方へ向かって刀を振りかぶっていた。

P「ひっ……!」

こうした修羅場をいくつもくぐり抜けてきた歴戦の猛者というなら話は別であるが、大抵の人間はこういう場面に遭遇したら……真っ向から殺意を向けられたら、恐怖心で動けなくなるものだと思う。もちろんそれは俺も例外ではない。

だからこれは偶然、あるいは幸運としか言いようがない。肩を刺された際の衝撃と痛みでバランスを崩していた俺は、椅子ごと後ろへ倒れこみ、薙ぎ払うように振られた刀をすんでのところで避ける事ができたのだった。

貴音「プロデュ……サー……」

貴音は床に倒れ手をついたまま呆然としていた。

傷口を火箸でほじくられているのではないかと錯覚するほど痛む肩を右手で押さえ、喉を振り絞って叫ぶ。

P「逃げろっ! 早く!!」

貴音「逃げ……? あっ……」

鬼が貴音のほうへゆっくりと歩き始める。仕留め損なった俺に止めを刺そうとはしなかった。憐憫の情を向けられたからではない、始めから奴にとっての最優先は貴音だったのだろう。

貴音「う……くっ……!」

貴音は腰が抜けて立つことが出来ないようだった。なんとか鬼から距離を取ろうとしてはいるが、その緩慢な動きでは到底逃げることなどできない。

それどころか、鬼はそれを楽しむかのように貴音をゆっくりとじわりじわりと壁際へ追い詰めていく。

貴音「何者……なのです……」

鬼の動きが止まった。

貴音「何者なのです……何のために……こんな……っ!」

涙声になりながらも、彼女は必死だった。まだ彼女の心は折れてはいない、目の前の恐怖と対峙しようとしているのだ。

貴音が奴の気を引いている今のうちに、どうにか背後から不意打ちを食らわせてやることはできないか……と考えたが、それは無理なようだった。

肩の傷は想像以上に深刻らしく、左腕の感覚はないし、出血のせいか頭もぼんやりとして、もう立ち上がることすらできなくなっていた。

貴音「答えなさい……! どうして――」

鬼は刀を貴音の喉元へ向けて発言を遮った。刀を握る左手がまた動く。

貴音「っ……!」

貴音はもう逃げられないと判断したのか、まるで注射をされる直前の子どものように目と口を閉じた。

「やめろ」と叫びたくても、喉からはカエルを踏み潰したような声しか出てこない。どうすればいい、どうすればいい……!

どうにか立ち上がることさえできれば……そのまま奴にしがみついて貴音が逃げられるくらいの時間は確保できるかもしれない。

息も絶え絶えに体を起こそうと右腕を動かす、するとその手が何かに触れた。

どうして『それ』がここにあるのかはぼんやりした頭でもなんとか理解できた。先ほど貴音がテーブルクロスを掴んで倒れた時に床に転がったのだろう。

鬼は刀を振り上げたところだった。その切っ先が貴音に振り下ろされるまでもう僅かな時間もない。一か八か、右手に掴んだ『ガラス製の灰皿』を鬼に向けて渾身の力で投げつける。

掴むときに床をこすった音が相手にも聞こえたのだろう、鬼が左回りにこちらを向きかけた。

「ッ……!」

その振り向きざまに、灰皿が刀の刃先に命中して甲高い音を立てる。この攻撃は鬼にとって完全に予想外のものだったらしく、一瞬の狼狽が見えた。

灰皿がそれなりに重いものであったためか、刀は鬼の手から弾き飛ばされて窓際に転がっていく。それと同時に灰皿が相当な騒音を立てながら床へ着地した。

失敗した。

少しの時間稼ぎはできただろうが、これでは何の解決にもならない。刀の落ちた位置は座った状態の貴音には遠すぎたのだ。

当然、鬼はすぐに刀を拾い上げる。……所詮、無駄なあがきだったようだ。

鬼はその刀で、思いのままその殺意を振りまく――かと思ったが、鬼の動きが止まる。その視線は扉の方を向いていた。

「なにしてんだ!」

扉の方向から声がした。テーブルが邪魔で見えないが、これはたしか青山くんの声だ。騒ぎを聞きつけて来てくれたのだろうか?

鬼は身を翻すと、開きっぱなしにしてあった窓を更に大きく開いて中庭に飛び出した。

青山「おい待て!」

青山くんが鬼の出ていった窓に駆け寄る。しかし闇夜のせいもあって見失ったのか、「くそっ」と吐き出すように言った。

青山「貴音さん、大丈夫ですか?」

貴音「は、はい……それより、プロデューサーが……!」

貴音がこちらを指差す。

青山「え? Pさん?」

不思議そうに言ってから振り向いてこちらを見る。

青山「うわっ!? すみません、テーブルに隠れてて見えなかった……だ、大丈夫ですか?」

P「ちょっと大丈夫そうじゃないから人を呼んできてくれるかな……」

青山「わ、わかりました! あっ……戻ってはこないと思いますけど……一応、そこの窓閉めておきますね!」

青山くんは開いていた窓に鍵をかけてから扉の方へ早足で向かっていった。

貴音「プロデューサー……」

貴音が近寄ってきて傍らに座り込む。

貴音「怪我は……その……痛みますか……?」

戸惑うように尋ねる。

P「まぁ、少しな」

本当はすぐにでも泣きだしてしまいたいくらいの激痛だったが、見栄を張る。

P「そっちはどこにも怪我はないか?」

貴音「わたくしは大丈夫ですが……」

P「それならよかった」

貴音「……プロデューサーは……馬鹿です……!」

P「ええ?」

貴音「ご自分がこんな状態のときに、人の心配などしないでください……!」

思わず苦笑する。

P「……それもそうだな。でも貴音が無事なら体を張った甲斐も――いてて……」

貴音「プロデューサー!?」

P「だ、大丈夫、ちょっとズキッとしただけだ」

貴音「血が……どうすれば……あっ……」

P「うん……?」

貴音は肩の傷口に両手を重ねて当てた。

P「……手、汚れるぞ」

貴音「わたくしの手では傷を癒やすことはできませんが……出血を抑えるくらいならば少しは役に立つかと思います」

P「……少し痛みが引いた気がする。ありがとう」

貴音はゆっくり首を横に振った。

貴音「……いけずです。それを言うべきなのは、わたくしの方なのに……」

彼女は目に涙を浮かべて、それでも微笑みながら言った。

貴音「ありがとうございました……プロデューサー」

五道「――よし。ひとまずはこれで大丈夫だろう」

肩に包帯を巻き終わり五道さんが言った。

ここは五道さんの部屋だった。あの後、青山くんと彼が連れてきてくれた五道さんと二人によって部屋に運び込まれて治療を受けていたというわけだ。

「治療の邪魔になるといけないから」と青山くんは自分から部屋を出ていった。彼には感謝してもしきれない。今、彼には貴音と一緒に各部屋を廻って皆に警戒を呼びかけてもらっている。

P「ありがとうございます。すみません、お休みになっていたところを起こしてしまって」

五道「馬鹿を言うな……そんなことがあったのに起こされないほうがよっぽど困る」

テーブルに広げた薬品類を片付けながら、

五道「それより……施すことができたのは応急処置にすぎないからちゃんと病院には行ったほうが良いぞ。なるべく早くな。それに無理せず寝ていることだ」

P「わかりました」

扉をノックする音が聞こえた。

灰崎「灰崎でございます。青山様とお嬢様から事情はお伺いしました。着替えのワイシャツをお持ちしたのですが……」

先ほど俺が青山くんらに頼んでおいたものだった。

灰崎「――まさかそのようなことが……私からも感謝申し上げます。お嬢様を守っていただき、ありがとうございました」

灰崎さんは丁寧に頭を下げる。

P「やめてくださいよ。ほんとに……助かったのは運が良かっただけなんです」

ワイシャツにボタンをとめながら言う。

灰崎「それでも、P様がいらっしゃらなければどうなっていたことか……想像したくもございません」

P「お礼なら、青山くんに言ってください。あの時彼が来てくれなければ、多分あのまま……」

死んでいただろう、とまでは口に出来なかった。

P「――ところでお二人にお訊きしたいことがあるんですが」

やや唐突ではあるものの、話題を転換する。

五道「なんだ?」

P「10年前……つまり前回の十年祭の時のことなんですけど」

灰崎「それが、なにか?」

貴音の誘拐については少なくとも灰崎さんは知っているはず、しかし五道さんもいるこの場では伏せておきたい。

とすると、どういった質問を投げかけるべきだろうか? 少し考えてから、続けた。

P「貴音の父親……常磐さんについてなんですが、いつもと違ったようなこととか、ありませんでしたか?」

常盤さんは貴音の誘拐、そしてその犯人が八塚銀志郎であったことを知っていた。その事実が八塚さんの遺体が消失したことと何かしら関係しているのではないかと俺は考えていた。

ざっくりとした質問ではあるが、なにが手がかりになるかわからない現状ではかえって効果的ではないかと思ったのだ。

灰崎「どうしてそのようなことをお尋ねになるのです?」

P「まだはっきりとしたわけではないのですが……もしかしたら、10年前のことが今回の事件にも関係しているかもしれないんです」

五道「なに……? それは本当なのか?」

慌てて訂正する。

P「あ、いや、何か根拠があるというわけではないんです。ただ俺がそうではないか、と思っているだけで……」

五道「なんだそれは……」

灰崎「かしこまりました。お嬢様を助けていただいた御恩もございます。なんでもお答えさせていただきますとも」

五道「……まぁ、質問くらい答えてやってもいいが」

P「ありがとうございます」

五道「しかし十年祭の時の常磐様か……。そういえば……珍しく落ち着きが無いように見えた気はするな」

P「いつ、そう感じましたか?」

五道「篝火の儀の前あたりだったかな……漠然とそう感じたというだけだが」

ちょうど貴音の誘拐が発覚した頃だろうか。

灰崎「…………」

灰崎さんは気まずそうに黙っていた。

五道「それと……篝火の儀が終わった後に、ふらっとどこかへ出かけていたな。そう長い時間のことではなかったが……急にいなくなったから不思議に思った。そういうことは予め連絡してくれる人だったからな」

なるほど……多分その時、常磐さんは森にいたんだ。そこで貴音と、八塚さんの遺体を見つけた……。

P「その後の奉納の儀は問題なく進んだんですね?」

五道「ああ……常磐様と一緒に月光洞へ行ったのは私と三船、千家と……その時は灰崎さんも一緒だったな。そうでしたね灰崎さん?」

灰崎「え、ええ。たしかに私も奉納の儀に立ち会わせていただきました」

P「……篝火の儀を終えてから奉納の儀の間までは、何も変わったことはありませんでしたか?」

五道「……なかったと思うが?」

P「灰崎さんは?」

灰崎「……私も、特にはなかったかと」

……ここらで少し視点を変えてみようか。

P「では、祭りの始まる前はどうでしたか? 五道さんはその日、最初に常盤さんに会ったのはいつです?」

五道「ええっと……午前中だな」

灰崎「ええ、十年祭の準備もありましたし、それとお薬を取りに行かれていたはずです」

五道「灰崎さん」

灰崎さんは「しまった」と言うように口を押さえる。当然、その発言を聞き逃したりはしなかった。

P「『薬』……っておっしゃいましたね? 常盤さんは何か薬を飲んでいたんですか?」

灰崎「それは……その……」

温和なご老人を問い詰めるのは気が引けるが、状況が状況なので割りきらせてもらう。

P「……薬を飲んでいたんですね?」

灰崎さんは観念したように頷いた。

P「何の薬だったんです?」

灰崎「常磐様は……心臓病でございました」

P「心臓病……それって、貴音も知らないことですよね?」

灰崎「ご存じないはずです」

P「どうして隠していたんです?」

灰崎「常磐様のご意思でした。村民たちに余計な不安を抱かせたくないと。それと同じ理由でお嬢様にも伏せておられたのでしょう」

灰崎さんは五道さんの方へ顔を向け、

灰崎「そのために五道様にもご協力をいただき、休診日を利用して人目につかないように診察していただいておりました」

五道「発作にさえ気をつければ……危険性は低い病だった。その発作を抑えるための薬を渡していたというわけだ。いつも薬を切らす三日前までには取りに来てもらうことになっていた」

P「……待ってください」

頭の中で、点と点が合わさり線になったような気がした。

P「……隠しているのはそれだけではありませんね?」

五道さんと灰崎さんは、どちらも肯定とも否定とも取れぬ微妙な反応を示した。それならば、切り込んでみるしかない。

P「『常盤さんの死は……その心臓病が原因だった』のではありませんか?」

十秒ほどの沈黙の後、五道さんが言った。

五道「……そうだ。常磐様はおそらく、奉納の儀の最中に発作を起こされそのまま亡くなったのだろう」

P「薬があれば大丈夫なはずでは? そんなにひどい発作だったんでしょうか?」

五道「常磐様は……薬をお持ちでなかったのだ」

P「まさか……薬を持たずに月明かりの間に入ったんですか?」

五道「そういうことになる」

灰崎「おいたわしいことです……発作を起こされ、助けを求めることもできずに亡くなられたかと思うと……」

灰崎さんが右手で顔を覆った。その手はわずかに震えていて、当時のことを思い出し悲しんでいることは容易に見て取れた。

P「……でも、そんな大切な薬を持ち忘れるということがあるでしょうか?」

五道「ないとは言い切れん……いや、実際お持ちでなかったのだ。そう考えるしか……あるまい」

灰崎「不幸中の幸い……と言うべきかはわかりませんが、常磐様はご自分の病気のことでもしものことがあった場合を考え、前々から弟の松葉様に神宿りとしてのお役目を引き継ぐ準備をなさっていました。そのおかげで混乱は最小限で済んだというところもあるのです」

P「前々からというと、どのくらい?」

灰崎「常磐様が亡くなられる半年ほど前からお手紙でそういったやりとりをなさっていたようです」

P「そういえば、松葉さんはそれまで別の街に住まわれていたんでしたよね?」

灰崎「ええ、早くに村を出られたので、この村で過ごされた年月よりも外での生活のほうが長かったことになります。季節の折り目となる行事や村にとって重要な祭事のある日には、大抵お戻りになられていましたが」

P「松葉さんの奥さんもご一緒だったんですか?」

灰崎「はい、千歳(ちとせ)奥様がお元気な頃は必ずお二人でしたね。仲の良いご夫婦でした。病気を原因に奥様が入院されてからは松葉様お一人でいらっしゃるようになりましたが……」

聞きながら、松葉さんの奥さんが病気で亡くなったのは9年前のことだと貴音が言っていたのを思い出していた。名前は千歳というらしい。

灰崎「……ご存知のこととは思いますが、貴音お嬢様には母親との思い出がございません」

灰崎さんの言葉には並々ならぬ思いが込められているようだった。

灰崎「また、松葉様と千歳奥様の間にお子がいらっしゃらないということもあってか、奥様はお嬢様のことを大変可愛がられておりました。おそらくは……その……お体が病弱でしたので、子どもを持つということに一種の憧れのようなものがあったのではないかと」

P「じゃあ、貴音と千歳さんは仲が良かったんですね」

灰崎「幼いお嬢様も奥様にはよく懐いておられました。お二人がお会いになる頻度はそう多くはありませんでしたが……それでもその時ばかりは……そう、本当の母娘のようであられました」

母を知らない娘と母になることに憧れた女性……それが神の示した巡り合わせとするなら、なんと優しく、そして残酷なんだろうか。

その別離が、9年前の貴音に深い悲しみをもたらしたであろうことは想像に難くなかった。

灰崎「……申し訳ございません。訊かれてもいないことをべらべらと」

灰崎さんが頭を下げる。

P「いえ、そんなことは……」

五道「それで……まだなにか訊きたいことというのはあるのか?」

P「そうですね――」

また新たな質問を考えようとしたところ、扉の外でどたどたと騒々しい足音が響いた。続いて扉が激しくノックされる。

青山「青山ですっ! たっ……大変なんです……!」

喘ぐような声だった。何らかの異常事態が起こったらしい。――またか。唾を吐き捨てたい気持ちだった。

五道さんが扉を開けて青山くんを中に入れる。走ってきたのだろう、彼は肩で息をしていた。

五道「何があったんだ?」

青山「し……死んでるんです……しょく……食堂で……!」

嗚咽をこらえながら彼は言った。その目から大粒の涙がこぼれた。

P「死んでるって……誰が!?」

青山「うっ……うあぁ……ッ!」

青山くんはその場に泣き崩れてしまう。

ざわざわとした嫌な感覚が胸を襲ってくる。なぜだか、この村に来て、今までで一番不快な気分だった。

俺は屈んで彼の肩を右手で掴んだ。

P「教えてくれ! 誰が死んでたんだ!?」

青山「……――が……」

一瞬、頭の中が真っ白になった。

灰崎「い、今なんと……?」

五道「聞こえなかったぞ。もう一度言ってくれ!」

そんな馬鹿な……!

俺は3人を置いて部屋を飛び出していた。

走ると振動が傷口に響いたが、そんなことを気にしてはいられなかった。

青山くんの言っていた食堂の前に辿り着く。

両開きの扉は開けっ放しになっていて、中は不気味なくらいにしんと静まり返っていた。

P「貴音……?」

小さな声で言った。大きな長テーブルの脇のところに貴音が座り込んでいた。

貴音「プロデューサー……お怪我は、大丈夫なのですか……?」

P「……ああ、五道さんが治療してくれたよ」

貴音「そうですか……よかった……」

貴音は安心したように言ったが、その表情は重く暗い影がかかっているように見えた。

P「それより、貴音……」

貴音の傍らに誰かが倒れていた。

貴音「彼女は、無事です」

朱袮さんだった。だが、見る限り怪我をしている様子はない。どうやら気を失っているだけのようだ。

貴音「…………」

貴音は黙ってテーブルの更に奥のほうを見た。そっちを見ろ、ということか?

テーブルの下、椅子の間から靴が見えた。朱袮さんと同じく、仰向けに横たわっている。

その誰かは、テーブルの向こう側、厨房スペースへと繋がったところの前あたりに倒れていた。回りこんで、それが誰なのかを確認する。

P「……嘘だろ……なんでだよ…………ッ!?」

なんで君が死ななきゃならないんだ?

――そこにあったのは……胸にナイフを突き立てられた……白河竜二の死体だった。

今日の分終了です
明日で問題編の終わりまで、二日ほどインターバル置いてから解決編とエピローグ投下を予定してます
ありがとうございました

乙です

明日問題編の最後を投稿して2日あけるのでしょうか

>>326
そうですー解決編は月曜の夜あたりになるかと思います

貴音「……最初に白河殿を見つけたのは、七瀬殿だったのでしょう」

背後で貴音が言った。

貴音「悲鳴が聞こえて青山殿と一緒に駆けつけたのです。そしたら……」

P「朱袮さんが……倒れていた?」

貴音は黙って頷く。

P「朱袮さんは怪我をしているわけではないんだな?」

貴音「はい。気絶しているだけのようです」

白河くんの遺体を見つけたショックで気を失った、というところか……。

白河くんの首にそっと触れてみると、もう体温は失われ始めていた。亡くなってから時間が経っているようだ。それが30分程度なのか、1時間、あるいは2時間なのかは医学の知識を持たない俺には判別のできないところであった。

左胸部に深々と突き刺さったナイフは折りたたみ式の小さなものだった。白いシャツにそこだけ赤色が滲んでいる。その他に目立った傷は見られなかった。

目は何かに驚いたように見開かれたままになっていた。彼は死の直前に一体何を見たのだろうか……。痛ましくなって手でそっとその瞼を閉じてやる。

部屋の入口のほうで気配を感じたので見てみると、青山くん、五道さん、灰崎さん、そして後ろの方に牡丹さんと千家さんが揃って立っていた。皆不安そうな顔をしていた。後ろの二人は青山くん達が連れてきたのだろうか。

牡丹「嘘……」

牡丹さんがふらふらと頼りない足取りで白河くんの遺体に近寄っていく。

牡丹「っ……!」

遺体を見て、牡丹さんは引きつった声を上げた。

五道「あっ、おい!」

牡丹さんはよろけ、五道さんが慌ててそれを支えた。牡丹さんの顔は蒼白で、相当なショックを受けたらしいことがわかる。

牡丹「ごめんなさい……わ、私……部屋に戻るわ……」

千家「ちょっと……大丈夫なんですか三船さん!?」

牡丹さんは額を手で押さえながら、千家さんの声などまるで聞こえなかったのように皆の間をすり抜け食堂を出ていった。

五道「一体どうしたんだあいつ……」

たしかに、不自然な反応だった。人の死を目の当たりにしたのだからショックを受けるのも当然ではある。

だが、それにしたって松葉さんや黒田の時とは反応が違いすぎた。

P「……白河くんと牡丹さんって、面識はなかったはずですよね?」

千家「そのはずだが……」

あの態度はとてもそうは見えなかった。そういえば、この屋敷で初めに牡丹さんと会った時も白河くんのことを見て驚いていたような……もしかして、俺達が知らないだけで二人には何らかの繋がりがあったのだろうか?

そうだとしても、だ。それを二人して他人同士のように振る舞って隠していたのはなぜだ……?

青山「くそがっ……! ふざけんなよ……ッ!」

青山くんが壁を手で激しく打った。

青山「なんで……なんで白河さんが死ななきゃならないんだよ……ッ!」

悲しみと怒りとでわけがわからなくなっているというような様子だった。千家さんが近寄って彼の肩に手を置いた。

千家「彼のことは……残念だった。不運だったんだ」

青山「不運って……そんな……!」

千家「きっと、さっきPさんたちを襲ったという犯人がここへ逃げ込んだんだ。白河くんはたまたまそれを目撃し、殺されてしまったんだろう……」

五道「いや……ちょっと待て」

五道さんはいつのまにか白河くんの遺体を調べ始めていた。

五道「……見つけた時、目は開いていたか?」

P「え? あ、はい。俺が閉じました。……まずかったですか?」

五道「いや……それならついさっきまでは開いていたというわけだな。それがわかればいい」

五道さんは遺体の目を開いて覗きこむ。

五道「……ほんの少しだが角膜に曇りが現れ始めている。それに死後硬直も僅かではあるが見られる……死後1時間半から2時間半というところだな」

それを聞いて腕時計を確認する。今は4時55分だった。

千家「……ということは、さっき君らが談話室で襲われたのよりも前に、白河君は殺害されていたということか?」

P「……そうなりますね」

肩の傷の治療で少し時間はかかったが、それでもあれからまだ40~50分というところだろう。死亡推定時刻には俺は貴音の部屋にいたことになる。

P「……?」

何か引っかかるものを感じた。何かが食い違っているような……だが、それが何なのか思い出せそうで思い出せない。

灰崎「P様、大丈夫でございますか? ご気分が優れないようならば、何かお飲み物でも……?」

灰崎さんが心配そうに言ったので記憶の点検作業を中断する。そんなに暗い表情になっていたのだろうか。

P「あ、いや……なんでもありません。大丈夫です」

不要な心配をさせても悪いのでやんわりと断る。

千家「彼と最後に話をしたのは多分私だろうな……もちろん、犯人を除いてだが」

P「何を話したんです?」

千家「いや、何ということもない。ただ救助が来てここから出られたらどうするかという話をしただけだよ。その後はてっきり部屋に戻ったのだろうと思っていたのだが……」

「しかし」と繋いでから千家さんが続ける。

千家「……七瀬君はどうしたものかな。ここで目が覚めるまで待っているというわけにもいかんだろう」

青山「……朱袮は俺が部屋に運んできます」

千家「そうか……悪いが頼んだよ」

青山「はい。あっ……そうだ、Pさん」

P「うん?」

青山「それと貴音さん」

貴音「なんでしょう?」

青山「ちょっとついてきてくれますか? お二人に話しておきたいことがあるんです」

青山くんが朱袮さんをおぶって、俺と貴音はそれについていく形で朱袮さんの部屋の前まで来た。

青山「貴音さん。朱袮の部屋の鍵を出してもらえますか。多分ズボンのポケットとかに入れてると思います」

貴音「承知しました」

貴音は「失礼」と言ってから朱袮さんのスウェットのポケットをまさぐる。

貴音「……ありました。今開けますね」

青山「お願いします」

鍵を開け、部屋に入ると青山くんはベッドの上に朱袮さんを降ろして布団をかけた。

青山「これでよし……あ、どうも」

貴音から鍵を受け取る。

P「それで……話したいことっていうのは?」

青山「ちょっと待ってくださいね」

青山くんはそう言ってから扉の前まで歩いて内鍵をかけた。

青山「一応、念の為に」

青山くんは二脚ある椅子に座るように俺と貴音に促したが、青山くんだけ立たせて話すのも気が引けたので断った。

青山「……なんで白河さんは殺されたんだと思いますか?」

思い切ったように青山くんが言った。

P「……わからない」

青山「貴音さんは?」

貴音は黙って首を横に振った。

青山「俺も、白河さんが殺される理由なんて思い当たりません。誰かの恨みを買ったりするような人ではなかったし……でも、一つだけ思いついたことがあるんです」

P「それは?」

青山「もしかしたら白河さんは……『犯人の正体に気がついていたんじゃないでしょうか?』 それを犯人に知られて……」

P「口封じ、ということかい?」

青山「そうです。白河さんは犯人を見つけ出そうと積極的でした。それに、俺なんかよりずっと頭がよかった。だから他の誰もが気がついていないことに一人だけ辿り着いていたのかもしれない」

考えてみる。

白河くんは犯人の正体に気がついたが、それを犯人に察知され、口封じに殺された。……あるいは自首を促そうと彼自身から犯人にそのことを告げたのかもしれない。しかし犯人にその思いは届かず、逆に殺されてしまった。

そのどちらも、充分有り得そうなことに思えた。

P「君の言いたいことはわかったけど、どうしてそれを俺達だけに話そうと思ったんだ?」

青山くんは少しだけ口元をゆるめて笑う。

青山「わかりませんか? お二人だけは犯人ではあり得ないからです」

青山くんは寝ている朱袮さんの方を見て、

青山「それと、朱袮も」

P「……どういうこと?」

青山「犯人はここにいる4人を除いた、さっき食堂に集まったうちの誰かですよ」

P「根拠があるのかい?」

青山「あります」

はっきりと答えた。

青山「黒田さんが殺害された後、犯人がどこかに隠れていないか皆で屋敷の中を捜し回ったじゃないですか」

貴音「……そうなのですか?」

こちらを見て貴音が尋ねた。

P「ああ、そういえば貴音には話してなかったな」

青山「――で、結局犯人は見つかりませんでした。あの時は、犯人はもう屋敷の中にいなかった……黒田さんを殺した後で外に逃げ出したんじゃないかって考えることもできました。まぁ、あの時点で俺は、まず間違いなく俺らの中の誰かだろうなとは思っていましたけどね」

そういえば、内部犯の可能性を切り出したのも青山くんだったのを思い出す。

青山「……でも、根拠があるわけではないし、そこまで強くは言いませんでした。正直言って、あの時はまだどこか他人事みたいな感覚があったんです。殺人が起きたと言っても、殺された二人は俺にとってはよく知らない人でしたから」

そこまで言ってから青山くんははっとして、

青山「あっ……すみません。貴音さん。俺、そういうつもりじゃなくて……」

青山くんにとっては二人とも他人だったのだろうが、貴音にとってはその内の一人は育ての親ともいうべき叔父だったのだ。青山くんは頭を下げて謝罪した。

貴音「お気になさらないでください。……続きを、話していただけますか?」

青山くんは咳払いをしてから続けた。

青山「……話を戻します。あの調査の時、西側と東側の廊下で一箇所ずつ窓の鍵が開いていたのを見つけましたよね?」

P「ああ、玄関の扉には鍵がかかっていたから、犯人が逃げ出したとするならその二つの窓のどちらかからだろうって」

青山「その施錠されていない二つの窓も、見つけた時にちゃんと鍵をかけておいたのをPさんも覚えていますよね?」

P「覚えてる」

青山「外に面した窓は、客室の中にあるものを除けば玄関両脇、そして西側東側の廊下の窓だけです。さっき見てみたんですけど、それらの窓は割られてはいませんでした」

P「鍵は?」

青山「全部は確認してません。遠目から見ただけのものもあるので。ただ、あの後で誰かが中から鍵を開けたというのも不自然じゃないですか? 外の犯人を招き入れるようなものじゃないですか。玄関の鍵についても同じです」

P「……なるほど、たしかに」

青山「ですから、犯人は屋敷に戻れたはずがないんです。なのにPさんと貴音さんは襲われ、また殺人が……白河さんまで殺されてしまった。ということは最初から外に逃げ出した犯人なんて存在しない、俺らの中の誰かが犯人って事になりませんか?」

P「……それはわかった。じゃあさっき言っていた、俺と貴音、そして朱袮さんが犯人ではないと君が考えた理由は?」

青山くんは気の抜けたように笑った。

青山「それこそわかりきったことじゃないですか。さっきの談話室での一件。『あの場に犯人である鬼と一緒にいた』、それこそが最も強力な『犯人ではない』という証明になるでしょう?」

P「たしかに君は、俺と貴音と犯人とが一緒にいるところを見たわけだけど……」

青山「実はあの時、朱袮もすぐ近くにいたんですよ」

P「朱袮さんも?」

青山「そもそもあんな時間に俺が談話室での騒ぎに気がつくことができたのは、朱袮の付き添いで部屋のすぐ外にいたからなんです」

P「付き添いって……?」

青山くんは朱袮さんの方をちらっと見てから、

青山「俺が教えたこと、本人には言わないでくださいよ? 寝てたところをノックで起こされて、最初は白河さんが戻ってきたんだろうって思ったんです。でも扉の外にいたのは朱袮で、何の用かと聞いたら……『怖いからトイレに付き添って欲しい』だなんて言うんですよ? 真剣な顔して言うもんだから思わず笑っちゃいそうになりましたよ。真夜中だったから我慢しましたけどね」

朱袮さんにとっては青山くんか白河くんぐらいしかそんなことを頼める人はいなかったのだろう。千家さんでは歳が離れすぎる。

青山「まぁ、殺人鬼がうろついているかもしれないと怖がる気持ちは理解できたので、引き受けました。部屋出てすぐ右側にあるトイレに朱袮が入ってる間、外で待っていることにしたんです。トイレからすぐのところで待ってるのもなんかアレかなと思ったんで、談話室の前あたりに移動しようとしました。そしたら中から騒ぎが聞こえたので……」

P「談話室の中に入ったら、俺と貴音と、犯人がいた?」

青山「そういうことです」

話を聞く限り、青山くんの言うとおりここにいる4人は犯人候補から除外してもよさそうだった。そうなると五道さんか、牡丹さんか、灰崎さんが犯人ということになってしまうのだが……。

貴音はどう考えているのか気になって横を見てみると、彼女は黙ったまま形の良い唇を右手の親指でなぞっていた。

貴音「……?」

こちらの視線に気がついて不思議そうに眉を上げる。なんとなく彼女の思考の邪魔をしてはならないような気がして、慌てて目線をそらす。

P「と、ところで、五道さんはどうなんだい? あの人も犯人からは除外されるんじゃ?」

五道さんの部屋は談話室の扉から廊下を挟んだほぼ真向かいの位置にある。犯人は扉とは反対側の窓から逃げていったので、青山くんが呼びに行った時に部屋にいたということは、五道さんは犯人ではあり得ないように思えるのだ。

青山「五道さんですか? あの人、部屋にいなかったんですよ」

P「えっ……そうなのか?」

青山「談話室を出るとちょうど朱袮もトイレから出てきたところだったみたいで、説明は後にとりあえず部屋へ戻らせました。それから五道さんの部屋に行ったんですけど、ノックしても反応がなかったんですよね。そしたら後ろから声をかけられたんで、振り向いたら五道さんがいたんです」

P「五道さんは部屋の外で何を?」

青山「さぁ? でも中央の廊下を歩いてきたようでした。だからもしかしたら、談話室の窓から逃げ出した後、中庭を通って反対側の廊下に出てからまた素知らぬ顔をして戻ってきたとも考えられませんか? あの時は慌てていてそこまで気が付きませんでしたけどね」

青山くんは興奮気味に話した。

P「でも犯人は鬼の扮装をしていたんだよ? 五道さんはそれらしい荷物を持っていたのかい?」

青山「あ……」

青山くんは思わぬところを突かれた、というように一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐに持ち直してこう言った。

青山「い、いや……あんなものどうにだってなりますよ。中に服を着ていたのなら脱ぐだけでいいんだから時間はかからないでしょ? 途中の中庭や、物置の中にでも置き去っていけばいいんです」

一応は筋が通っている。青山くんが見た時に五道さんが手ぶらの状態でもそれならばおかしくない。

青山「でも、そうだとしたらしまったな……重要な証拠を押さえるチャンスだったかもしれないのに。さすがにもう回収されているだろうな……」

青山くんは腕を組んでそう言うと、小さく舌打ちをした。

P「……たしかにそうかもしれないけど……部屋にいなかったというのは、五道さんを疑う根拠としては弱すぎると思う」

青山「そうですか? あんな時間に部屋にいなかったというのはそれだけで充分怪しいでしょう?」

P「部屋にいなかったのなら俺達だって同じさ」

青山くんは鼻で笑って答えた。

青山「少し、甘いんじゃありませんか? 僅かでも疑わしい要素があるなら信用なんてできません。油断したらこっちが殺されるかもしれないんですよ? こちらから犯人を狩り出してやるくらいの気概でいるべきだと、俺は思いますけどね」

P「その論法だと……君は、千家さんでさえも信用できないっていうのか?」

青山「できません」

即答だった。

青山「先生とはいえ、俺はあの人の全てを知っているわけではありませんから。というか、自分のこと話さないんですよ、あの人。……人と人とがある程度仲良くなったら、自分の昔話の一つでも相手に話したりするものでしょう? あの人はそういうの、全然しないんです。聞かれてもいつもはぐらかすんですよ。どこで育ったとか、家族は何人いるかとか、ゼミ内の生徒でも誰も知りません」

青山くんは段々と饒舌になっていた。少し前までの彼と同じ人物とは思えないほどだ。

青山「講義はしっかりするし、ゼミの飲み会にもちゃんと参加してくれるから評判の良い先生ではあります。でもどんなに『良い人』でも……それでも、人を殺さない理由にはならないでしょう?」

彼の言っていることは間違ってはいないのだろう。しかし……どうしても釈然としない気持ちを拭いきることはできなかった。

貴音「……青山殿」

それまで黙っていた貴音が口を開いた。

青山「……なんです、貴音さん?」

貴音「お話は、それで全てですか?」

彼は不意を突かれたような顔になったが、やがて短く溜め息をついて言った。

青山「…………ええ、もう終わりです」

貴音「それでは、わたくしたちはもう戻らせていただいてもよろしいでしょうか?」

青山「もちろんです」

青山くんはこちらの方を見て、

青山「……すみませんでした。さっきはつい失礼な言い方をしてしまいました」

P「別に気にしてないよ。ところで、君はこのあとどうするんだい?」

青山「とりあえず、朱袮が目を覚ますまではここにいようと思います。起きて一人だったら不安だろうし……」

P「それがいいと思うよ」

青山「あっ……貴音さん!」

部屋を出ようとしかけたところで、青山くんが思い出したように言った。

貴音「……どうかなさいましたか?」

青山「いや……今、どうでもいいようなこと訊いても大丈夫ですか?」

貴音「なんでしょう? なんでもおっしゃってください」

青山「貴音さんって……前に白河さんと会ったことあります?」

貴音「え……?」

青山「いや、この屋敷についてすぐ、白河さんの部屋で話していたんですけどね……」

――――

青山「……どうしたんすか? なんかぼーっとしてません?」

白河「……あのご令嬢、前に一度会ったことがあるんや」

青山「は? 貴音さんとですか? アイドルなんて知らないって言ってたじゃないですか」

白河「嘘は言っとらん。アイドルなんてろくに知らんし、そもそも会ったことがあるゆうのも、ついさっき再会するまですっかり忘れとった」

青山「いつ会ったんですか? どこの街です?」

白河「さぁな。まぁ、向こうはさすがに俺のことなんて憶えとらんのやろうけど」

青山「――ってことがあったんです。……憶えてませんか?」

貴音は目を細め脳内でじっくりと記憶を辿ったようだが、やがて言った。

貴音「…………残念ながら、思い出せませんね」

青山「そうっすか……。いや、すみません。なんというか……あの時の白河さん、妙に感傷深げだったので気になっちゃって」

貴音「……それでは、わたくしたちはこれで」

青山「あ、はい。また後で」

部屋を出てすぐに貴音が言った。

貴音「……食堂へ戻りましょう。なにか犯人の手がかりが残っているかもしれません」

食堂へ戻りながら話す。

P「白河くんのこと、心当たりないのか?」

貴音「……わたくしにもよくわからないのです」

貴音自身も記憶の何処かに引っかかるものがあるのだろう。それをはっきりと思い出せず、苛ついているようだった。

とりあえず、話題を変えよう。

P「……そうだ。貴音は俺よりも前に食堂へ来ていたわけだけど、その時の状況を話してくれないか? どうもそのあたりがはっきりしないせいで頭の中がごちゃごちゃするんだよな」

貴音「……かしこまりました」

貴音は軽く咳払いして話し始めた。

貴音「御存知の通り、プロデューサーが五道殿のお部屋で治療を受けていらっしゃる間、わたくしと青山殿は各部屋を廻って犯人への警戒を呼びかけておりました。最初に訪ねたのはじいやの部屋です」

P「着替えを頼んでくれたんだったな」

貴音「それほど長く話したわけではありませんが、怪我はないかと四度も聞かれてしまいました……じいやも、プロデューサーには大変感謝していたようです」

P「ああ、着替えを持ってきてくれた時に直接言われたよ」

貴音「その次に千家殿を訪ねました。深く寝入っておられたようで、部屋を出てくるまでには少し時間がかかりました。話はしっかりと聞いていただけたようですが」

P「並びからすると、次は白河くんの部屋か。そのときには部屋にいなかったんだよな?」

貴音は頷く。それより随分前に白河くんは亡くなっていたはずなのだ。

貴音「白河殿は部屋に戻っておられなかったようなので、ひとまずとばして七瀬殿の部屋へ向かいました。しかし、七瀬殿も部屋を留守になさっていたのです」

P「彼女はどうして部屋を出ていたんだろう? 青山くんの話では、犯人が恐ろしくてトイレの付き添いを頼むほどだったのに」

貴音「おそらく、ですが……白河殿のことを心配して一人で捜していたのかもしれません。ですがやはり、七瀬殿が目を覚ましたら訊いておいたほうがよさそうですね。……話を戻します」

P「ん、遮ってすまん」

貴音「仕方がないので七瀬殿の部屋もとばして、三船殿を訪ね、犯人の襲撃について話しました。ご自分が談話室を辞した直後のことだったので、大変驚かれていたようです」

P「そういえばそうだったな」

貴音「それから青山殿が、姿を消した白河殿と七瀬殿のことが心配だからと彼らを捜すことを提案しました。ちょうどその話を廊下でしていた時、七瀬殿の悲鳴が聞こえたのです」

P「悲鳴の元を辿って来てみたら、白河くんの遺体と、朱袮さんの気絶していた姿があったというわけか……それから青山くんは俺達のところに知らせに来てくれたんだな」

貴音「はい。……このようなところでしょうか」

P「ありがとう、おおよそは把握できた。……こっちも貴音に話しておきたいことがあったんだ」

貴音「なんでしょう?」

首を少し傾けて言う。

P「常盤さんのことなんだけど……」

五道さんと灰崎さんから訊き出した『常盤さんは心臓病を患っており、その発作を抑える薬を奉納の儀に持ち込んでいなかった』という事実を貴音に伝える。

貴音「父が……心臓病を……?」

P「やっぱり、知らなかったんだな」

貴音「……わたくしに心配をかけないように隠していたのかもしれません」

P「灰崎さんもそう言っていたよ」

貴音「しかし……」

貴音はそこで言いよどむ。

P「奉納の儀の時に常盤さんが薬を持ってなかった……ってところが引っかかってる?」

貴音「ええ……」

食堂の扉を前にする。

貴音「――ですが、ひとまずは食堂の調査を終えてしまいましょう」

食堂へと戻ってきた。人の姿がなくなっている以外に先ほどと変わった様子はなかった。白河くんの遺体もそのままだ。

貴音「……誰かいます」

厨房の方で食器棚か何かを閉める音が聞こえた。

「誰かいるのか?」

控えめな声が厨房から届いた。この声は……

P「五道さんですか? 俺です」

厨房との出入口から五道さんが出てくる。右手には薄い緑色の瓶、左手にはグラスが握られていた。

五道さんは俺と貴音を交互に見て、

五道「貴音ちゃんまで…………何しに来た?」

貴音「少し調べたいことがありましたもので」

五道「そうか……」

P「五道さんは何を?」

五道「……ちょいと飲み物を取りに来ただけだ」

そう言って右手の瓶をひょいと上げる。林檎のイラストが描かれたラベルがちらっと見えた。林檎ジュースかなにかだろうか。

P「五道さん。ちょっとお訊きしたいことが」

五道「またか?」

P「何度もすみません」

五道「まぁいい……なんだ?」

P「俺の怪我のことで青山くんが五道さんを呼びに行ったとき、部屋にいなかったそうですね? どこに行っていたんですか?」

五道さんは驚いたようで、喉の詰まったような声を出した。

五道「べ、別にどこに行っていようが……いいだろうが」

P「それはそうですけど……」

五道さんは溜め息をついて、

五道「変に疑われるのも気分が悪いから正直に言ってやる……私はな、物置にいたんだ」

P「物置……? そんなところで何を?」

五道「……犯人を捜す途中で、鬼憑き病の話になったのを覚えとるか?」

P「覚えてます。鬼憑き病の治療の秘術とは薬の製造法のことじゃないか、って話でしたね」

五道「その製造法を記した書物がどこかにあるんじゃないか、とも話した」

P「まさか、それを探しに物置に?」

五道「……危険かもしれないとは思ったが、それでも好奇心を抑えられなかった」

だが、もしもそういう書物が存在するとしたら物置の中に仕舞われていたとしてもおかしくないかもしれない。灰崎さんですら中にあるものの全てを把握しているというわけではないようだし……。

五道「ちゃんと探そうとするなら松葉様の部屋も見てみるべきなのだろうが、鍵がかかっとるし……何より気が進まんかったからな」

P「それで、物置で何か見つかりました?」

五道さんはつまらなそうに首を振った。

五道「何も。というより……血の臭いがひどくて探しものどころじゃなかった。30分も保たんかったよ」

そうか、物置には黒田の無惨な遺体がそのままにしてあるのだ……そうなってしまうのも当然だろう。

P「物置から戻ってきたところで、青山くんに会ったんですね?」

五道「そういうことだ」

それが五道さんが部屋にいなかった理由というわけか。

五道「ところで……貴音ちゃんに訊いておきたいことがあったんだ」

貴音「なんでしょう?」

五道「鬼憑き病の治療法……本当に、何も心当たりはないかな?」

貴音「……いいえ」

五道「そうか……わかりきったことを聞いてすまないね。まぁ……気をつけてな」

五道さんはそのまま俺たちを通りすぎて、後ろの扉から出ていってしまった。

予想外の先客がいたわけだが、気を取り直して食堂の調査を始める。

貴音「……持ち物を確認してみましょう」

貴音はそう言うと遺体の側に屈みこんでズボンのポケットを探り始めた。

取り出されたのは、中身が数本残ったキャビンの箱、携帯灰皿、百円ライター、10円玉……そして、

貴音「これ……」

ビー玉のアクセサリーだった。月明かりの間の調査の際、白河くんが見せてくれたものだ。

彼がなぜ、このちゃちな飾りについて黙っていてほしいと言ったのか、その理由が彼自信の口から明かされる機会は永遠に失われてしまったことを今更ながらに理解する。

P「その飾りのことなんだけどな――」

口止めされてはいたものの、こうなってしまっては話さずにはいられなかった。

聞き終えると貴音は、飾りを哀しげに見つめながら言った。

貴音「……そう、だったのですね。ようやく、合点がいきました」

P「……なんだって?」

貴音「ずっと気にかかっていたのです。先ほど青山殿から問われた際には、はっきりと思い出せなかったためあのように答えましたが……わたくしは、やはり過去に白河殿と会ったことがあるのです」

驚きと、やっぱりかという納得とが半分ずつだった。

貴音「どこかで会ったことがある……そんなおぼろげな記憶でしたので、気のせいかとも思ったのですが……」

P「彼はお前がアイドルだってこと知らなかったそうだから……となると、仕事中じゃないな。プライベートのどこかで?」

貴音「初めはわたくしもそうではないかと思っておりました。しかしどうしてもどこで会ったのか思い出せませんでした。それもそのはずなのです。わたくしはその場所を最初にありえないと決めつけ、無意識に選択肢から除外してしまっていたのですから」

P「……まさか」

貴音「そうです。わたくしと白河殿が会った場所というのは、『ここ』なのです。それも……10年も前のことです」

――10年前、わたくしが無謀な試みをしたということはお話しましたね。ええ、裏手の山を越えて隣町へ行こうとしたことです。一度でいいから、村以外の景色を見てみたい……そう思っての行動でした。

隣町とはいえ、子供一人ではとても越えられるような距離ではないのに……今思えば、馬鹿なことをしたものです。

長年ろくな整備もされていない山道は歩きづらいのはもちろん、あちらこちらへと曲がりくねっており、歩いても歩いても先に進んでいる気がしませんでした。

屋敷を抜けだして30分は歩いていたでしょうか……息は上がっているのに、目的地へ辿り着く気配すらありません。諦めて帰ってしまおうか……そう思った時のことでした。

貴音「あっ……!」

慣れない道というだけでなく、前日の雨で地面は濡れておりました。そのため、湿った枯れ葉に足を取られて前のめりに転んでしまったのです。

服を汚してしまったから怒られるだろうな、などと考えながら立ち上がると、右足に痛みを覚えました。足首に捻挫を起こしていたのです。

この時点で計画は諦めざるを得ませんでした。ところが来た道を振り返ると、帰りの道順もわからなくなっていることに気が付いたのです。

途方に暮れるとは、ああいうことを言うのでしょうね。どうしていいかわからなくなってしまい、その場に座り込みました。

この先どうなってしまうのかという不安と、自分の愚かさ、失敗への情けなさで涙をこらえることができませんでした。泣いたところで、誰かが助けてくれるわけもないのに……しかし、その時だけは違ったのです。

「――おい。こんなところでなにしてるんや」

声の主は、わたくしのことを見下ろしていました。背が高く、見た目は12、3歳くらい、わたくしより少し年上に見えました。

どうしてこんなところに人がいるのでしょうか。たまに父に付いて行く程度でしたが、村でも見た覚えのない少年でした。

「どうした。口が利けんのか?」

困惑しながらも、一連の事情をその少年に話しました。

「……ふぅん。アホみたいやな。いや、アホや」

見知らぬ相手からそんなことを言われたら当然怒りたくもなります。しかし、そんな元気もありませんでした。

貴音「……『あほう』なのは百も承知です。……放っておいてください」

「たくましいな。それじゃこのまま置いて帰ってええんやな?」

貴音「…………」

「……お前の行動はアホそのものや。せやけど、気持ちは理解できる。自由を求めて行動を起こしたその勇気も賞賛する」

少年は屈みこんで、こちらに背を向けました。

「おぶったるわ。歩けないんやろ?」

貴音「……背中、汚れてしまいます」

「ええからはよ乗れ」

その少年に背負われ山道を戻る途中、尋ねました。

貴音「ここへ何をしにきたのですか?」

「何をしにということもない。せっかくやからこの村一番のお屋敷を見てやろう思うて来てみたら、一人で山の方に入っていく女の子が見えたから、なんとなく追いかけてきただけや」

貴音「わたくしを追いかけて……?」

「雨上がりで地面がぬかるんでてよかった。お前の残した足跡を見ながら歩いてたらすぐやった。帰りもこれで問題無いやろ」

足跡を辿るというのは思いもつきませんでした。素直に感心したものです。

「……少し休憩や。降りてくれ」

山道の途中、日のよく照った崖の近くでした。乾いた大きな岩が幾つか並んでいたので、二人ともそこに腰掛けました。

「道のりはあと半分ってところかな。……ところでお前、四条のとこの?」

貴音「そうですが……」

「ふぅん。名家のお嬢様ってのも、そない楽しいもんでもなさそうやな」

彼は足元の小石を拾っては崖の向こうへ投げるというのを繰り返していました。その行為に意味があるとは思えませんでしたが、彼はどこか自暴自棄になっているようにも見えました。

小石を弄ぶ少年の左手首には一風変わった腕飾りが見えました。

貴音「……それ」

「ん……? これか?」

彼はよく見えるように左手を出しました。白地に桃色の花が描かれたびー玉を藍色の紐で結びつけた飾りでした。

貴音「綺麗ですね」

「……欲しければやる」

貴音「え? い、いえ……そんなつもりでは……」

彼は乱暴にその飾りを手首から外すと、わたくしに差し出しました。

「俺にはもういらんもんや。ほら」

貴音「……受け取れません」

「……そうか」

そう言うと崖の向こうを見て、

貴音「あっ!」

彼はそれを崖下へ投げ捨てたのです。

貴音「ど、どうして……? 何も捨てなくても……」

「気にすんな。これは俺にとっての過去との決別みたいなもんなんや。お前には関係ない」

彼は飾りのなくなった左手首を右手で触りながら、苦笑混じりに言いました。

「いっつも付けてたから、なくなると少し気持ち悪いな」

貴音「過去との……けつべつ? どういう意味ですか?」

「……ある人との思い出の品やった。俺はその人に裏切られた。それだけや。もうええやろ、お前には関係ない。知る必要もない」

触れられたくないようでしたので、それ以上は訊きませんでした。しばらくの沈黙の後、彼が言いました。

「……お前には大切な人っているか?」

貴音「……います。お父さまにじいやに、おばさま、おじさま、それにぎんしろーと……」

彼は途中で笑って、

「いっぱいおるなぁ。まぁ……ええことやろ、多分。そういう人らのためにも、こんなアホな真似は二度とせんことや」

貴音「わ、わかっています……」

「そんならええ。さぁて……そろそろ休憩終わりや」

再び少年に背負われて山を降っていき、とうとう屋敷の前まで戻ることが出来たのです。

「怪我と服の汚れは自分でなんとか誤魔化せよ。そこまでは面倒見きれん」

貴音「あの……ありがとうございました……」

「どういたしまして。お嬢様でも礼の言い方くらいは知っとるんやな」

貴音「当たり前です」

「悪かったよ。怒るな。……そろそろ葬儀が終わる頃やな、戻らんと」

それでわかりました。その日は前村長の葬儀が行われていて、村の外からも親戚関係者が集まっていました。おそらくその少年はそういう人々のうちの一人で、葬儀場から抜けだして来ていたのだろう……と。

そしてその時になってようやく、未だ互いに名前も名乗っていないことに気がついたのです。

貴音「……お名前はなんというのですか?」

「もう二度と会わん相手の名前を覚えてもしゃあないやろ」

素っ気ない言い方でした。

「この村には二度と来ない、そう決めた。この屋敷を見に来たのだって、その記念みたいなもんや」

貴音「あなたを裏切ったという人のせいですか?」

「まぁな。俺は多分、あの人のことを許せない。この先ずっと」

貴音「では……いつになってもかまいません。もしもその人のことを許せるかもしれない、と思えるようになったら……また、この村に来てください」

「……?」

貴音「その時には、忘れずこの屋敷にも来てください。今日のことのお礼と、自己紹介をしましょう?」

「……おもろいことを言うやつやな。あり得そうにないけど……まぁ、記憶の片隅くらいには置いとくわ」

貴音「――それが、前回の十年祭の二日前のことです」

まさかとは思っていたが、過去にそんな出来事があったとは……。

P「でも、貴音を助けてくれたその少年が白河くんだというのは本当に間違いないのか? さっきも説明したけど、白河くんは月明かりの間でその飾りを拾ったというだけなんだ。それが二人を同一人物だとする証拠にはならないだろ?」

貴音「そうではありません。この腕飾りは、思い出すきっかけとなったにすぎないのです。間違いなく、あの時わたくしを助けてくださったのは白河殿です。今にして思えば、風貌も口調もそっくりでしたから」

たしかに白河くんのほうでも貴音のことは覚えていたようだから、二人は同一人物……そう考えるのが自然か。

そうなると彼が村へ来たということの意味も少し違ってくるのではないか? 白河くんはゼミの研究のために村へ来たと言っていたが、彼は村へは二度と来ないつもりだと言っていたはずだ。

どうしても断れない事情があったのか、それとも……白河くんが彼を裏切った人のことを許せるようになったということなのだろうか? その人物に関して「もしかしたら」という人は頭の中に思い浮かんでいるのだが、確かな根拠はないし、本人に訊いてもちゃんと教えてくれるかは怪しいところだ。

貴音「しかし白河殿はどうして、教えてくださらなかったのでしょう……」

P「……それはわかる気がする。青山くんの話にもあっただろ、貴音のほうは覚えていないだろうと思ったから黙っていたんだ」

二人で月光洞の調査をしている間に話したことを思い出す。今思えばあれは、彼なりに貴音のことを心配していたことの表れだったのかもしれない。

P「それに彼は自分がこの村に関わりのある者だということを隠していたからな。どうしてだかはわからないけど」

貴音「わたくしがもう少し早く思い出せていれば……あの日のお礼だけでも伝えられたかもしれないのに……」

P「…………今からでも、伝えればいいんじゃないか?」

貴音「今からでも……?」

P「ああ、遅すぎるってことはないと思うけどな」

貴音「…………そう、ですね」

貴音はビー玉の腕飾りを手に握りしめ、白河くんの遺体に向かって静かに語りかけ始めた。

貴音「……ここまで、あまりに長い時間がかかってしまいました。そして……今となっては全てが手遅れなのでしょうね」

無念さを押し殺すように目を閉じて、またゆっくりと開いた。

貴音「約束を果たすには遅くなりすぎましたが……あの日のご恩はお返しします。必ず、犯人は見つけ出します。ですから……どうか安らかに、お眠りください」

沈黙が数秒続く。

P「……済んだか?」

貴音は頷いた。

貴音「ええ、一刻も早く犯人を探し出しましょう。これ以上の犠牲者を出さないためにも」

事件の話に戻す。気になっていたことを尋ねてみた。

P「そういえば……おかしくないか? 崖の下に捨てられたはずの腕飾りが、どうして月明かりの間で見つかったんだ?」

貴音「それは、おそらく……」

貴音はそこで言葉を切った。白河くんの遺体の傷痕のあたりを凝視する。

P「どうした?」

貴音「……これは……なんでしょう?」

ナイフの刺さった胸の傷口……よりも少し喉元に近い位置を指さして言った。

よく見てみると、シャツに安全ピンが付いている。それ自体が小さい上に、ちょうど血で染まった部分だったためすぐ近くのナイフに気が取られて今まで気が付かなかった。ピンには2センチ程度の紐が結ばれていて、それにも血が染み込んでいる。

P「これ……ガラス球のお守りだ」

記憶にある形とは少々違ってしまっているが、間違いない。彼はたしかに青山くんと朱袮さんからもらった鬼避けのお守りをこの位置に付けていた。

……そして『記憶にある形と違う』ことがここでは重要になる。

貴音「がらす球……? そういえば、そんなものを付けていらした記憶はありますね。しかし、その肝心のがらす球が欠けてしまっているようです」

P「千切れた……いや、そうじゃないな。ナイフを刺された時に切断されたんだ」

紐の切断面は刃物で切られているように見えた。

P「でもそうだとすると……この辺りに切られたガラス球が転がってるはずなんだが……」

床に右手をついて周囲をテーブルの下まで注意深く見てみるが、それらしきものは見つからない。

貴音「無理な体勢をすると怪我に響くのでは……」

後ろから声をかけられる。

P「ああ大丈夫、このぐらいじゃ平気だから」

貴音「……あの、プロデューサー」

まだ何かあるのか。できれば今は邪魔しないでほしいのだが。

P「なんだ?」

貴音「先ほどから気になっていたのですが……白河殿は、何かを手に握っているように見えるのです」

P「……え?」

振り向いて確かめてみると、たしかに白河くんの右手はしっかりと何かを握りこんでいるようにも見える。

P「開いてみるか」

死後硬直のせいか閉じた指はかなり固かった。こじ開けていくのにはかなり手こずったが、なんとかその手の中に握られているものが何なのかがわかる程度には開くことができた。

P「ここにあったか……」

遺体の手の中には、透明な涙型のガラス球があった。ガラス球に付いた紐は1センチにも満たないほどだ。

貴音「白河殿は死の寸前に、紐から切断されたこのガラス球を握りこんだ……ということでしょうか?」

P「そんなところだろうな……」

特に進展はなし、か。とはいえ、ちゃんとガラス球が見つかってよかった。もし見つからなかったら……。

……待てよ。もし見つからなかったらどういうことになっていたんだ?

…………この感覚はさっきも感じた。あれはたしか、五道さんが死亡推定時刻を出した時だ。

あの時の時刻は5時直前だった。ということは五道さんの言う死後1時間半から2時間半という見通しを当てはめると、死亡推定時刻は2時半から3時半の間ということになる。

その時間、俺は何をしていた? それはわかりきっている。貴音の部屋にいて、彼女から話を聞いていたのだ。 

彼女と話を終え、もう休もうということになり部屋を出たのが……そう、4時直前だった。

貴音の部屋を出た俺は、自室に戻る途中で牡丹さんに会って……。

P「そうか……! わかった…………かもしれない!」

貴音「え? な、なにがですか?」

でも、本当にそうか? どこか見落としていないか? 

貴音「あの、プロデューサー?」

P「そうだ、ちょっと待て!」

俺は白河くんの手の中にあるガラス球をもう一度よく見てみる。白と青の糸で編み込まれた紐は無理やり千切られたようなほつれができていた。

P「やっぱりだ……!」

貴音「どういうことなのです?」

P「見てくれ。白河くんが握っているガラス球は、紐から千切り取られているんだ」

貴音「……たしかに」

P「でも、胸のピンに残ったお守りの紐は……刃物で切られたような綺麗な切断面をしている。これがどういう意味か、わかるか?」

貴音「……まさか、『白河殿の胸元に残されたものと、手の中にあるものとでは、違うお守り』だというのですか?」

P「ああ、犯人もお守りを身につけていたんだ。二つのお守りはまったく同じものだった。だけど、その『切られ方』だけが違った」

貴音「待ってください。同じお守りを身につけていたということは……」

P「まぁ待ってくれ。整理するという意味でも、順番に話そう」

話しているうちに、この推理が正しいはずだという自信が湧いてくるような気がした。

P「……犯人は白河くんの胸にナイフを突き立てた、だがその際に白河くんに自分の身につけていたガラス球をもぎとられてしまったんだ」

貴音「犯人は自分のがらす球が奪われたことに気が付かなかったのでしょうか?」

P「それは考えづらい。紐が千切れるほどの力でもぎとられたんだから犯人だってさすがに気付いたはずだ。このガラス球は犯人にとって、致命的、決定的な証拠になる。それなのに犯人がこのガラス球を回収しなかったのはなぜか? いくら強く握りこまれていたとしても、こじ開けられないほどではないし、いざとなれば刃物で指を切断してしまってもよかったはずだ。犯人は刀を持っているし、隣の厨房には包丁もあるんだからな」

貴音「では、なぜ?」

P「『犯人は自分のガラス球を回収したと思い込んでいた』としたらどうだろう。白河くんの身につけていたガラス球と、自分のガラス球とを取り違えてしまったんだよ」

正直言って、ガラス球を取り違えたという部分については推測にすぎない。考えられる経緯の中で一番あり得そうなことを選ぶとこうなるというだけのことだ。

P「犯人は白河くんの胸をナイフで刺した。その時同時に彼のお守りを切り落としてしまったことには気が付かなかったんだ。その直後に白河くんに自分のガラス球を奪われた犯人は、床に落ちていた白河くんのガラス球を自分のものと勘違いして拾ってしまった……お守りは同じものだからな。だから白河くんの手の中にガラス球が残っているとは思いもしなかった。これでどうだ?」

貴音「たしかに筋は通りますが……」

P「もう一つ勘違いをした要因があった。『その現場は暗かったんだ』。蛍光灯が壊れていたからな」

貴音「……待ってください。蛍光灯が壊れていた……ということは、その現場というのはもしや……」

そう、その場所の蛍光灯が壊れているという事実は、議論を行った時の朱袮さんと黒田の証言によって明らかになっている。

P「ああ、本当の犯行現場は書斎のはずだ。遺体が動かされたという根拠もある。牡丹さんの発言だ」

貴音「三船殿の?」

P「4時直前に俺は貴音の部屋を出て、自分の部屋に戻ろうとしていた。その時に牡丹さんと会ったんだけど、その時に彼女は『台所へ水を飲みに行っていた』と言ったんだよ。台所っていうのはつまりこの食堂の隣にある厨房のことだよな。白河くんの遺体は位置的に、厨房からは丸見えになるはずなんだ」

貴音「三船殿は遺体を既に見ていたということですか?」

P「それなのに、さっき白河くんの遺体を見た時の牡丹さんの驚き方はとても演技には見えなかった。そもそも、演技をするならもっと俺達にとって自然に思えるような驚き方をするはずだよな」

貴音「たしかに、あの驚かれようはいささか不自然ではありましたね」

P「牡丹さんと白河くんの間にどういう関係があったかはともかくとして、彼女の驚きは本物だった。ということは、『牡丹さんは4時直前の時点では遺体を見ていない』ということになる。その時間、遺体は別の場所にあったんだ」

貴音「それが……書斎」

P「ではなぜ犯人は遺体を動かしたのか? もちろん、現場が書斎だとばれるとまずい理由があったからだ。貴音はその時部屋にいたから知らないだろうけど、俺を含む多くの人が『白河くんとある人物とが書斎で話をする』ということを耳にしていた」

犯人の捜索を終えて廊下で解散した時のことだ。白河くんは「相談したいことがある」と言ってその人物を書斎へ呼び出した。

P「書斎で遺体が見つかれば、当然疑いの目はその人物へ向かうことになる」

貴音「ということは、その人物こそが……犯人なのですね?」

俺は頷いた。

P「白河くんと同じお守りを身につけていて、彼と書斎で話をしていた人物……千家藍之助、あの人こそがこの一連の事件の犯人……鬼の正体だ」

貴音は考えこむようにしばらく黙りこんだが、やがて言った。

貴音「千家殿の胸にもそのお守りがあったことは、わたくしも覚えています。千家殿が……信じ難いことですが、今のお話を聞く限り、そうとしか考えられませんね……」

それにしても、なんという皮肉だろうか。鬼よけのお守りが、結果的には鬼の正体を暴いてしまったのだ。代償に、白河くんの命を犠牲にして。

貴音「千家殿が犯人だと考えれば、先ほど談話室に鬼が現れた理由もわかりますね」

P「そうだな。あの時間、普通はとっくに部屋に戻って休んでいるはずだと考えるだろう。なのにあのタイミングで談話室に犯人が現れたということは……俺達が談話室にいると知っていたんだ」

貴音「書斎の窓からならば、談話室の様子を確認することができたでしょうからね」

……それにしても、どうして千家さんが自分の教え子である白河くんを殺す必要があったのだろうか?
 
P「千家さんの部屋に行こう。全部が明らかになったわけじゃない。……本人から話してもらおう」

貴音は手に持ったビー玉の腕飾りをぎゅっと握り締めると、力強く頷いた。

貴音「ええ……参りましょう」

食堂を出る。廊下にはどこか冷え冷えとした雰囲気が漂っていた。

P「あれ……?」

千家さんの部屋の前に誰かがいる。それはついさっきも見た姿。その人物はこちらに気がつくと手を上げて言った。

青山「Pさん、貴音さん」

P「青山くん? 何をしているんだい?」

彼は少し緊張したような表情だった。

青山「いや、それが……落ち着いて聞いてくださいね?」

周囲を気にして他に誰も居ないことを確認してから、彼は小さな声で続けた。

青山「……犯人は、千家なんです」

P「え……?」

貴音「どういうことだが、説明していただけますか?」

青山くんは頷いた。

青山「実はPさんと貴音さんが出ていってすぐ、朱袮が目を覚ましましたんです。それで彼女が言ったんです。『鬼の恰好をした犯人が、この部屋――つまり千家の部屋に入ったのを見た』って」

P「ちょっと待って。それって、いつのこと?」

青山「俺が談話室に駆け込んだ時、犯人は窓の外へ逃げ出しましたよね。朱袮がその時トイレにいたということはお話したとおりです。実はその時、朱袮は一度トイレから出てきていたらしいんですよ。その際に、それを目撃したと言っています。驚いてすぐに隠れるようにトイレに戻ったそうです」

P「……でも、それならそうと朱袮さんはどうしてすぐに教えてくれなかったんだろう?」

青山くんは苦笑しながら首を横に振る。

青山「その辺りはまだ俺も……後で本人から直接聞いてください」

青山くんは「それにしても」と言ってから俺たちを改めて見て、

青山「助かりました。実は待っていたんです、誰か来ないかって。朱袮は怯えているからとても連れて来れなかったし、かといって、その……さすがに一人じゃ俺も恐ろしかったんで。――ところで、お二人は何をしていたんです?」

P「……実は、俺達も千家さんが犯人じゃないかと思ったんだ。……長くなるからその詳細は省くけど」

青山くんは心底驚いたように大きく口を開けて、

青山「ほんとですか!?」

あくまで声を抑えたままそう言った。

青山「いや、でも……安心しました。朱袮はかなり混乱しているみたいでしたから、もしかしたら見間違いなんてこともあるんじゃないか……なんて思っていたんですけど」

青山くんは落ち着こうとするように深く呼吸をした。

青山「……それじゃあ、行きましょうか。まず俺が声をかけます。この中では俺が一番怪しまれないでしょうから」

P「わかった」

貴音「お願いします」

青山くんは扉の前に立って、右手でノックをした。

青山「先生? ちょっとお話したいことがあるんですけど」

……………………返答はない。青山くんが不審そうにこちらへ目配せをした。彼はドアノブに手をかけ、ゆっくりとひねる。扉が少し動く。

青山「……鍵はかかってないみたいです」

こちらに向かって小声で言った。

青山「……先生? 開けますよ?」

その言葉とともに扉がゆっくりと開かれた。

P「うっ……!」

扉が半ばまで開かれたところで気がついたのは、その『異様なにおい』だった。部屋の中にこもっていたものが扉の開かれた瞬間に流れだしたのだろう。貴音も青山くんも、その異常にすぐに気がついたようだった。

青山「酒……?」

ノブを掴んだのとは逆の手で鼻を覆うようにしながら、青山くんが小さく呟くのが聞こえた。たしかに、この臭いはアルコールだ。それも色んなものを混ぜたような……いや、違う。アルコールだけではない。吐き気をもよおす、腐臭のような……そんな臭いが混ざっていた。

扉が完全に開かれた。

青山「あっ……」

最初に声を出したのは青山くんだ。それはまさに凄惨としか言いようのない光景だった。

……『赤い』。赤の絵の具を床や壁のあちこちにぶち撒けたようになっているのだ。

部屋の構造は一見して今までに入った自分の部屋や五道さんの部屋、朱袮さんの部屋とまったく同じだ。それだけにこの部屋の異常さは際立って見えた。

その赤い部屋のほぼ真ん中の位置……扉から3メートルほどのところで、千家さんが足をこちら側に向け仰向けに倒れていた。腹部のあたりを中心に大量の出血をしているのが見える。……亡くなっているのはすぐに理解できた。

恐る恐る部屋に足を踏み入れると、後ろから貴音もついてきた。青山くんは扉のあたりで呆然と突っ立っている。

赤く濡れた部分を踏まないように遺体に近寄っていく。

P「そんな……どうして……」

千家さんの遺体をじっと見る。口と目は大きく開かれ、苦痛と驚愕とがないまぜになったような壮絶な表情を浮かべている。

……犯人は千家さんのはずじゃなかったのか? まさか、間違えた? そんな……。

貴音「……プロデューサー、あれを」

貴音が遺体を指差す。

貴音「千家殿の、右手です」

遺体は右手、左手ともに体の横に投げ出されるようになっている。その右手には、抜き身の刀が握られていた。いや……その指は力なく開かれているので、握られているというよりは手の平の上にあると言ったほうがよいだろうか。

刀身は血で真っ赤に染まっており、傍らの床上には鞘が転がっている。

近くで見て気がついたことだが、その両手には血が付着していないようだった。

遺体を見ていて、ある考えが脳裏をよぎる。

青山「…………もしかして、自殺?」

後ろのほうで鼻を手で押さえながら、俺の考えと同じことを青山くんが口にした。だが、それを本格的に考えだすのは今はやめておこう。

P「……とにかく、まずはこのことを皆に知らせないと」

青山「お、俺、他の人達を呼んできます!」

青山くんが駆け足で去っていく。彼が手を離したことで扉が閉まった。

部屋の様子を確認する。

どうもこの部屋のあちこちにある赤い染みは血ではないようだ。腹部の傷痕を見る限り相当な出血があったことは間違いないだろうが、それにしたってこの赤い染みが全部血だとすると、量が多すぎる。血と、なにか別のものだろう。

二つのベッドは布団にところどころ赤い染みができている以外にはおかしな点はなく、特に使われた形跡もない。

床や机の上を見ても物が散乱しているとか、そういった荒らされ方はしていないようだった。

P「それにしても、なんだこの臭い……」

アルコールと血とその他体液をごちゃ混ぜにした、生きる希望も何もかも奪い去っていくかのような悪臭だった。

換気をしようと窓へ寄る。鍵はかかっていないようなので右手をガラスについてスライドさせようとしたが、窓は10センチほど開いたところで引っかかってそれ以上開かなくなってしまった。

見ると、下のレールが錆びついてしまっているようだ。変色具合からして、もう随分前からそうなっているのだろう。

貴音「客室を使うこと自体、珍しいものですから……」

その様子を見ていた貴音が後ろのほうで言った。なるほど、手入れ不足も致し方なしというわけか。密閉しておくよりはましだと思い、窓はそのまま少しだけ開いておく。

貴音「この臭いの原因は……」

貴音は部屋を見回して、ある一点に目を留めた。

貴音「……プロデューサー、あれを」

部屋の入口から左側の角を指さす。いくつかの瓶や缶が雑に積み上げられていた。近くに寄って確認してみると、赤ワインが二本、柑橘系のリキュールが一本、ウイスキーが二本、350mlの缶ビール五本があった。

全てが空になっていて、その山の下にコンビニの名前の入ったレジ袋が挟まっている。

P「これ……多分、千家さんが村のコンビニで買ってきたお酒だな」

貴音「それらの中身がこの部屋に撒かれた……ということでしょうか?」

P「……そうなんだろうな、きっと」

壁や床の絨毯、ベッドの布団などあちらこちらが赤く染まっているのはこの赤ワインが撒かれたせいだったのだ。それ以外のアルコールも色という目立った形で残されてはいないものの、それらの臭いを微かにではあるが感じ取ることができた。

P「でも部屋に酒を撒くだなんて、なんでそんなこと……」

貴音「千家殿が自分でやったことでしょうか?」

P「……わからん」

その後、青山くんが他の人達を連れてきてくれた。その中には朱袮さんの姿もあった。部屋は全員が入りきるには狭いし、何よりこの臭いもあるので後から来た人たちには扉の外から見てもらう。

誰もがこの部屋の惨状と異常さに愕然とした様子だったが、やがて青山くんが言った。

青山「自殺……じゃないですかね? 少なくとも俺には、そう見えるんですけど」

朱袮「じ、自殺……?」

朱袮さんが怯えたような声を出した。他の面々も驚いたように青山くんを見る。

青山「だってほら、刀を握っているじゃないですか。あれで自分を突き刺したんですよ」

五道「だが……犯人が偽装工作で死後に握らせたとも考えられないか?」

青山「そうは思いませんね。俺、さっき見ましたよ。あの人、右手に刀を持ってましたけど、その手には血が付いてなかったんです。それってつまり、あの人が死ぬまでの間ずっと刀を握りしめていたってことじゃないですか?」

青山くんの意見に同意することはできなかった。たしかに、刀を握ったままであれば、手の平に血が付着することはない。もしあの手が血で汚れていたとしたら、千家さんが刀を握っていたのは犯人による偽装工作と見てよいだろう。

だが、手に血が付着していないという理由だけで偽装工作が行われていない、つまり自殺であるとは判断できないはずだ。たまたまその部分に血が付かなかっただけとも考えられるのだから。

牡丹「……わけがわからないわ」

牡丹さんが右手で頭を押さえながら言った。

青山「……どこかおかしかったですかね?」

牡丹「違う、そうじゃなくて……どうして千家さんが自殺しなきゃならないのよ? それに、なんで暁月が彼の手に……?」

そこまで言ってからはっと何かに気がつく。

牡丹「まさか……?」

五道「……千家が犯人だったのか?」

千家さんと旧来の友人であった五道さんは、冷静に言った。表面上そう見えてはいるものの、内心がどうなのかは知る由もない。

P「……俺は、千家さんが犯人だと考えてました。千家さんが犯人だとしたら……罪悪感に耐えかねて自殺したということもあるかもしれません」

千家さんが犯人だと考えた過程を皆にも話す。皆、納得してくれたようで反論してくる人はいなかった。

その話が終わると、朱袮さんが突如として言った。

朱袮「私の……私のせいなんです……っ!」

彼女は両手で顔を覆い、床に膝をついた。

P「朱袮さん……?」

朱袮「私……先生が犯人だってこと、知ってました……なのに、黙ってて……もっと早く話してれば、こんなことにはならなかったのに……!」

五道「犯人だと知っていたって、おい……それはどういうことだ?」

五道さんが驚いたように言った。

朱袮「談話室での騒動があった時、私……先生の部屋に犯人が入っていくのを見たんです。だから……先生が犯人だって……」

先ほど青山くんから聞いた話だ。

五道「……どうしてそれをすぐに話さなかったんだ!」

五道さんが朱袮さんの肩を掴んで言った。

牡丹「ちょっと……」

牡丹さんが制止する。

朱袮「私……信じられなくて……先生が犯人だなんて……それに……怖くて……ごめんなさい……ごめんなさい……」

泣き崩れる朱袮さんを見て、五道さんもばつが悪そうにして引き下がった。

青山「朱袮はなんにも悪くない……だからそんなに泣くなって……」

青山くんが朱袮さんのことを慰めている。それを黙って見つめていた五道さんがこちらを向いて言った。

五道「……少し、遺体を見ても?」

P「もちろん。お願いします」

五道さんは部屋に入って千家さんの遺体の側に屈みこんだ。遺体を見つめる彼の目は、寂しそうに見えた。

貴音「……じいや?」

横で貴音が言った。

貴音「顔色が優れないようですが……体調が悪いのであれば、部屋で休んで――」

貴音に心配された灰崎さんは慌ててぎこちない笑みを浮かべた。

灰崎「い、いえ。私は平気でございます。ただ……まさか千家様が犯人だったとは……いいえ、他の誰が犯人であったとしても、信じられないことだと思ったのでしょうけれど……」

灰崎さんも突然の展開にかなり動揺しているようだ。

しばらくして遺体を確認していた五道さんが深く息をついた。それを見て一段落ついたところなのだと思い、尋ねてみる。

P「……どう思いますか?」

漠然とした質問だったが、五道さんはそれを予期していたのかあらかじめ用意された答えを暗誦するようにすらすらと答えた。

五道「腹部から流れ出した血は乾き始めといったところ……死後10分から30分、というところだろうな。傷口を見る限り、この刀で刺されたものと見てまず間違いない」

そう言って右手の中にある暁月を指差す。

五道「傷口は腹部から背中にかけて突き刺された一箇所のみ……」

五道さんは遺体を少しだけ起こして背中を見せる。そこにも血液による赤い染みができていたが、腹部側と比較するとまだおとなしい。

五道「見ての通り、腹部に比べて背中の方は出血が少ない。刀は腹部側から突き刺され、引きぬかれた……その際に、太い動脈を傷つけたらしい……おそらく、失血死だろうな」

P「自殺……なんでしょうか?」

五道さんは顎に手を当て考えこむように黙って、しばらくして言った。

五道「一見して……他殺であると判断できる要素はないな。無論、だから自殺であると断言できるわけでもないが……」

P「この部屋には酒が撒かれているようなんですが、その点についてはどう考えます?」

五道「自殺であるという前提で考えるなら……彼は錯乱状態にあったのかもしれない」

P「気が狂ってこんなことをしたっていうんですか?」

五道「信じ難いか? だが充分考えられる。さっき、彼の両手を触ってみたんだが……少し濡れていたんだ」

P「濡れていた?」

五道「それで気になって近くで臭いを嗅いでみた……自分で確かめてみるといい」

そう言われて、五道さんは遺体の左手を取って俺の鼻先に近づける。

P「あ……酒の臭いだ」

一番濃いのがビールの臭い、ほのかに柑橘系の香りもした。

五道「滅茶苦茶に酒をばら撒いたから、その手にもいくらか付着したのだろうな。ちなみに口に酒を含んだ様子はないな。臭いがしなかった」

P「じゃあ、本当に自殺……」

そう自分で呟いてから、あることに気がついた。

P「そうだ……あれは……あれは、どこだ?」

部屋をぐるっと見回すが、それらしいものは見当たらない。

五道「どうした?」

P「千家さんが自殺だったら、ここになきゃいけないものが……」

貴音「これでしょうか?」

貴音の声が聞こえた。先ほどからベッドのあたりをごそごそと何か探していたようだったが。彼女は入り口に近い方にあるベッドと床の隙間から何かを取り出し、掲げてみせた。

P「あっ……」

どうやら貴音も俺と同じことを考えていたらしい。彼女の手には、血で汚れた墨色の着物と鬼の仮面があった。

P「……見せてくれるか?」

貴音「どうぞ」

貴音から仮面を受け取る。素材は木で、耳の横あたりから出ている紐で固定するようになっている。祭り会場で怪しげな露天商が売っていたものによく似ているが、同じものなのかは判別しようがない。

黒田を殺害した時や、談話室での襲撃の時と同じ位置に血液による汚れがあった。着物の方も同様であるが、付着した血痕は時間が経過したせいか黒っぽい色合いになっている。

近くでじっくりと見て初めてわかったことだが、左の頬の部分には黒い線のようなものが走っている。すぐに思い当たる、これは黒田が死の際にボールペンで反撃を行った時の傷だ。

やはり間違いない。これは犯人の被っていた仮面だ。

貴音「仮面はこの着物の中に包まれておりました。他に、足袋と頭巾などもあります」

ベッドの上の汚れていない部分に着物を置いて広げる。

P「どれも犯人が付けていたものだ」

なるほど、考えてみればこんなものがすぐに目につくような場所に置いてあるはずもない。突然部屋を訪ねてきた誰かに見られでもしたら、すぐに犯人だとばれてしまうのだから。

P「……あれ?」

着物の胸の部分あたりに白い粒状のものがいくつか付着していた。右手でその粒の付いたあたりを撫でて触ってみると、ザラザラとした感触があった。粒は固く尖っている。大きさは不揃いだが、平均して3~4ミリほどだろうか。

何だろうこれ?

貴音がその粒をいくつか手に取る。

貴音「これは……」

牡丹「ところで――」

貴音がなにか言いかけたところを、部屋の外側にいた牡丹さんの声が遮った。

牡丹「……遺書はないのかしら?」

P「遺書は……見当たりませんね。まだ全部を探したわけではないですけど……」

机の上には部屋に備え付けになっているスタンドライトとメモ帳、ペンなどがある以外には、千家さんの付けていた腕時計くらいしか置かれていない。

牡丹「そう……見つからなければ、彼がどうしてこんなことをしたのかは謎のまま、ってことね……」

たしかに、それは非常に気になるところではある。千家さんが三人もの人間を殺した理由は何だったのだろうか……。

青山「でも、もう終わったわけでしょう? これ以上殺人は起きないんです。ひとまずは安心してもいいんじゃないですか?」

牡丹「そうね……終わった。終わったのよ」

牡丹さんは自分に言い聞かせるように言った。

P「あの……朱袮さんは、大丈夫ですか?」

依然として廊下の床に膝をついたままの朱袮さんに声をかけてみる。

朱袮「あ……はい。大丈夫、です。心配かけてごめんなさい」

彼女は手で涙を拭いながら立ち上がった。

P「その……怖くて言い出せなかったという気持ちはよく理解できます。あなたが気に病むようなことじゃないですよ」

朱袮さんはかぶりを振った。

朱袮「私のせいです……千家先生も……私が臆病なせいで……ちゃんと自分の見たことを話せていたら、助けられたかもしれないのに……」

たしかにそうかもしれないが……そんなことを後悔してもどうにもならないのだ。残された者は、前を向いて生き続けるしかない。

朱袮「……ごめんなさい。後悔してもどうにもならない……そうですよね?」

P「……はい」

朱袮「あの……さっきのお話では、白河さんは私が犯人を目撃した時には既に亡くなっていた……ということでしたよね?」

P「ええ、そのはずです」

朱袮「それを聞いて……少しだけ、ほっとしたんです。私、あの時白河さんの遺体を見つけて、咄嗟に自分のせいだって思ってしまったんです。私が千家先生を犯人として告発できなかったから、次の被害者が出てしまったんじゃないかって」

白河くんの遺体を見つけたというだけでなく、そのショックも合わさって気絶してしまったのかもしれない。

P「……そうでしたか。五道さんが出した死亡推定時刻だからその点は確かだと思います。安心してください」

朱袮さんは黙って頷いた。

P「……そういえば、白河くんの遺体を見つけた時、どうして部屋を一人で出ていたんですか?」

朱袮「ずっと白河さんの姿が見えなかったので、心配になったんです。青山くんに……その、付き添いを頼んだ時にも、部屋にいませんでしたから」

P「それで一人で捜しに?」

朱袮「はい」

この点についてはおおよそ予想通りといったところか。

P「その後朱袮さんはしばらく気を失っていたわけですけど……もちろんその間のことは何も覚えてませんよね?」

朱袮「はい……。あ、そういえば私が目覚める直前までPさんたちがいらっしゃったそうですね。ご心配をおかけしました」

P「いえ、そんな。俺達は何もしてませんよ」

青山「しかし驚きましたよ」

青山くんが思い出した様に言う。

青山「やっと目を覚ましたかと思えば、泣き出しながらあんなこと言うんだから」

P「あんなことって、犯人を目撃したっていう話?」

朱袮「そうです。……きっと、あの時の先生は相当慌てていたんだろうと思います。廊下の端のほうにいたとはいえ、私にも全然気が付かなかったみたいですから」

……たしかに、部屋を出るときならばともかく、部屋に入るときには周囲に誰かがいないか確認することはできる。貴音と俺の殺害に失敗して逃げ出したというあの状況、そんなことにも気が回らないくらいに慌てるのも無理はないように思えた。

青山「俺、犯人の話を聞いてすぐこの部屋に向かおうとしたんです。でも、危ないからって朱袮に止められて……せめて誰かもう一人連れて行ったほうがいいって言われて。だから、ああして誰かが通りかかるのを待ってたんです」

なるほど。そこへ俺と貴音が来た、と。

青山「あ、でも、お二人が来てくれて安心したのは本当ですよ」

P「どれくらい廊下で待ってたの?」

青山「あー、そうだな。4,5分ってところでしたかね。そのくらいだよな?」

隣の朱袮さんに確認する。

朱袮「うん。そうだったと思う」

朱袮さんは左手首の腕時計を見ながら言った。

P「その間、ずっとあの廊下に? 誰か呼びに行こうとか思わなかったの?」

青山「それでもよかったんですけど、ちょっと考えたいこともあってあのへんをうろちょろ歩いてました」

P「考えたいことって?」

青山「ええっと……ほら」

青山くんは少し考えてから、隣にいる朱袮さんには聞こえないように少し前に出ながら小声で言った。

青山「最初は興奮してしまいましたけど、よく考えてみると千家が犯人というのは朱袮が言ってるってだけでしたからね。彼女のことを疑うわけではありませんけど、もし何かの間違いだったらと思って。少し決心が鈍ってたんです」

……なるほど。とにかく、その間あの辺りを通りかかったのは俺達だけだったということか。

朱袮「でも……どうして千家先生がこんなことを……本当にわからないんです」

朱袮さんは疲れきった声で言った。

青山「……狂ってやがったのさ。この部屋の有り様を見ればわかるだろ? 表面ばっかり優しそうにした、イカれた殺人鬼だったんだ」

朱袮「そんな風に言うこと――」

青山「『ないだろう』ってか? 本気で言ってるのかよ? だって……白河さんを殺した男だぞ? 許せるわけないだろ!」

朱袮「それは、わかってる……わかってるけど……いい先生だったのも、本当だよ……」

青山くんはそれ以上何も言わず、溜め息と同時に髪の毛をかき乱した。

牡丹「――とにかく、事件は終わったとしてもここから出られないことには何の解決にもならないわね。……後でトンネルの様子を見に行ってこようかしら。何も変わっちゃいないとは思うけど」

五道「そうだな……さすがに村の者から雪崩の連絡くらい入ってるとは思いたいが……」

青山「今日中に救助が来ますかね?」

五道「わからん……」

もう日は昇り始めている。トンネルを塞いだ雪を一日で除雪できるとは思えないし、助けが来るとしたらヘリだろうか?

灰崎「……これから、どうなるのでしょうか」

灰崎さんが誰ともなしに呟く。誰もそれに答えようとはしなかった。

五道「そうだ、灰崎さん」

灰崎「はい。どうかなさいましたか?」

五道「あー……こんな時に言うことでもないようで申し訳ないんだが、実はさっきグラスを一つ割ってしまってね。もし高価なものだったら――」

灰崎「いえいえ、お気になさらないでください。グラスの一つや二つくらい、大したことではございませんよ」

五道「そうか……すまないね」

P「グラスって……もしかしてさっき厨房から持ちだしてたやつですか?」

あれは……たしか30分ほど前だったか。

五道「うむ。自分の部屋に入ろうと扉を開けた時に手を滑らせてしまった。――ああ、ちゃんと片付けておきましたから大丈夫です」

後半は何か言い出そうとした灰崎さんへ向けた言葉だった。

牡丹「そういえば、外でがちゃんと何か音がしたような……。その音だったのね」

牡丹さんは一人で納得したように言った。

五道「すまんな、驚かせたか? てっきり様子を見に部屋から出てくるんじゃないかとも思ったんだが」

牡丹「幻聴か何かと思って聞き流してたわよ」

牡丹さんは髪を触りながら言った。

灰崎「あの……お嬢様? そろそろ部屋をお出になられてはいかがでしょうか?」

灰崎さんが心配するように言った。

貴音「すみません、じいや。もう少しだけ、調べておきたいことが……」

貴音はどこか事件の結末に納得がいっていないようだった。先ほどからずっと黙ったまま何かを考えこんでいる。

灰崎「はぁ、左様でございますか……」

貴音は灰崎さんのほうをちらと見て何かに気がついたようで、彼の方へ近寄っていく。

灰崎「お嬢様?」

貴音「ここ……染みが」

指で指し示す。灰崎さんの胸元、黒スーツの間から覗く白いシャツに10円玉ほどの大きさの茶色の染みができていた。

灰崎「おや? ……ああ、これは恥ずかしいところをお見せしてしまいました。先ほどまでコーヒーを飲んでおりましたので、おそらくその時にこぼしてしまったのでしょう」

貴音「珍しいことですね。じいやがそのような粗相をするなど」

貴音は少し緊張が緩んだように笑って言った。

灰崎「はは……私も年を取ってしまいました」

貴音「早めに、染み抜きをしてしまったほうがよいでしょう」

灰崎「わざわざ教えていただきありがとうございます」

そう言って丁寧に礼をする。

P「灰崎さん。俺も一緒に残りますんで、貴音のことは心配しないでください」

灰崎「左様でございますか。それならば……」

今度は他の人たちにも向かって言う。

P「他の皆さんも、もう戻っていただいて大丈夫です」

俺と貴音以外の人たちは部屋を出ていった。黙ったままの貴音に声をかける。

P「何か気になってることがあるのか?」

貴音「……本当に、自殺でしょうか?」

P「いや、でも……」

貴音「……もう一つ、この部屋になくてはならないものがあるということ、お気づきですか?」

P「……?」

貴音「黒田殿が殺害された時に、犯人が奪っていったものがありましたね?」

P「あっ……ノートか!」

例の六原云々と書かれたあれだ。

貴音「そうです。この屋敷内で処分ができたとは思えません。その帳面がこの部屋で見つからなければ、自殺の線は疑わしくなってきませんか?」

P「……探してみよう」

机の下、引き出しの中、ベッドの陰など隈なく探すが、あのノートは見当たらない。

P「あとは……そうだ、千家さんの荷物の中も見てみよう」

奥のベッド脇に置かれていた大きな革製の黒い鞄だった。

貴音「わたくしが確認します」

片腕しか使えない俺を気遣ってくれているらしい。代わりに貴音が鞄の中身を取り出していく。

中に入っていたのは綺麗に畳まれた着替えと研究用らしい資料のファイルやノートに筆記用具……鞄の中にはそれ以外に変わったものは見つからなかった。

貴音「……見つかりませんでしたね」

P「あっ、ちょっと待った。そこにポケットがあるぞ」

鞄の内側にチャックで閉じられたポケットを開けてみると、やはりそこにはノートは入っていなかった。しかし、別の、それも見覚えのあるものが入っていたのだ。

一つは、紐の切れたガラス球。切断面が綺麗であることからも、白河くんの胸にあったものに違いない。

貴音「プロデューサーの推理は正しかったようですね」

俺は頷く。今はそれよりも、もう一つの発見が気になった。

そのもう一つとは茶色の革の手帳。千家さんが持ち歩いていたものだ。

貴音「この手帳……随分と古いもののようです」

P「たしか、親父さんの形見だとか言っていたかな」

貴音「なるほど……」

そう言いながら貴音は何気ない手つきでその手帳を開く。

貴音「……!」

その目が驚くように見開かれた。

P「どうした?」

貴音「この手帳……始めの部分以外は使われていないようです」

貴音は手帳のページを次々と捲りながら言った。たしかに何も書かれていないページばかりだ。

貴音「それに……ここを、御覧ください」

貴音は手帳の表紙を開いたところを見せた。手帳は横書き式で一ページ目には時間と場所が雑多に書きなぐられていてよくわからないが、予定を記したものであるとわかる。

貴音「そちらではなく、こっちです」

表紙の裏側の隅っこを指で示す。そこには筆で書かれたような字で――少々かすれてはいるものの――こう読むことが出来た。

『六原藍之助』

P「藍之助って……千家さんと同じ名前だ……それに六原って……」

……あのノートに書かれていた名前。

貴音「……プロデューサー」

貴音は痛みを押し殺したような声で言った。

貴音「……思い違いをしていたようです。千家殿は……わたくしたちが予想もしていないほど、途方もなく大きな……悪意のもとに行動していたのかもしれません」

貴音は手帳の2ページ目、つまり予定を記してあるページの裏側を見せるようにする。そこにはボールペンを使ったような字でページいっぱいに書きなぐられている。字はいびつで、ところどころ右にこすったようなインクの滲みができていた。

その字のせいもあってか、その文面はまるで……冷たく刺すような怨念が込められているかのようだった。

『この時をどれだけ待ち焦がれただろう

この日のためだけに生きてきた 復讐のためだけに

ただ殺すだけでは意味が無い だからこそ十年待ったのだ

十年前は予想外の邪魔が入って失敗したが今回は逆にあの男に役立ってもらう 十年前の常磐と同じ役目を常磐を裏切ったあいつに あいつを殺すのは最後にとっておくことにする あいつがそれを知る頃には全てが手遅れなのだ

あの日私たちを地獄に追いやった悪鬼どもへ復讐を 恐怖と死の絶望を』

P「…………」

すぐには言葉が出てこなかった。書かれてある内容の全てを理解できたわけではない。だが、そこに込められた深い憎悪に心を侵略されたような気持ちだった。

唾を飲み込んでから言った。

P「どういう意味だろう……これ」

貴音「おそらく千家殿は……復讐のために殺人を計画していたのです。民俗学の研究などというのも、ここへ来るため、復讐のための建前にすぎなかったのでしょう。そして十年前に村へ来た時にもその計画を実行しようした。しかし、失敗した……」

そこまで言ってからこう付け加えた。

貴音「――わたくしは、そう解釈しましたが」

P「十年前は誰かの邪魔が入った……ってあるな。でも、今回はその人物を逆に利用しようとした」

そして、千家さんはその人物すらも最後には殺すつもりだったらしい。

P「常磐さんを裏切った男……って、誰のことだろう?」

貴音「……一人、心当たりはあります。そう考えれば、色々な辻褄が合ってきます」

P「誰だ?」

貴音「……それは、また後で」

思いつめたような表情で言った。

貴音「――それより、この部分なのですが」

貴音は人差し指でその部分をなぞる。

P「悪鬼ども……これが復讐の対象ってことだよな。『ども』って言うからには複数いるんだろう」

貴音「ええ、その中にはわたくしも含まれているはずです」

P「……どうして?」

貴音「談話室で襲われた時、犯人……千家殿の狙いは間違いなくわたくしにありました。であれば、当然わたくしもその『悪鬼ども』の中に含まれているのでしょう」

P「ありえないよ。なんで貴音が千家さんにそこまで恨まれることがあるんだ?」

貴音「……わかりません。でも、もしかしたら…………」

そこで言いよどんでしまう。

P「もしかしたら?」

貴音「……いいえ。やめましょう。推測に過ぎません。……結局、帳面は見つかりませんでしたね」

貴音は話題を切り上げるように言った。

P「ノートが見つからないとなると……殺人の可能性があるってことか」

貴音「問題は、『千家殿の部屋から誰かが帳面を奪った』のか、それとも『元々この部屋になかったのか』……ですね」

P「待ってくれ。元々なかっただって? ということは……」

貴音「それがどういう経緯であったのかは今は置いておくとして、白河殿を殺害したのは千家殿だと思います。しかし、その前の二件の殺人についてはどうでしょう。特に……最初の殺人。つまり叔父の殺害についてなのですが……千家殿に可能だったでしょうか?」

P「可能だったでしょうか、って……」

千家さん以外にあり得るのか? 記憶を辿って考えてみる。

P「千家さんはたしかあの時……村のコンビニで買い物を――あっ」

今になってやっと思い出した。俺は……『千家さんのアリバイを証明する証拠を持っていた』じゃないか!

ズボンのポケットから財布を取り出し、そこに挟んであった2枚のレシートを見せる。

P「これ……屋敷の外に落ちていたんだ。千家さんが落としたものだと思う。ほら……酒の種類、本数……それに、こっちは牡丹さんから頼まれていた煙草だ。買い忘れて一度戻ったって話してた。全部一致してる」

一枚目のレシートには酒類、二枚目のレシートには煙草が一品だけ書かれてある。

P「たしかコンビニまでは車で30分近くかかるんだよ。牡丹さんと五道さんがそう話してたのを覚えてる」

貴音「ということは、ここに記されてある時間の前後30分、千家殿には犯行は不可能だったということになりますね」

P「千家さんが屋敷を出たのが……ええと……」

貴音「じいやが千家殿の車にがそりんを入れるのを手伝ったと話していました。それが終わったのが10時半を過ぎた頃だったと言っていましたね」

そう、各人のアリバイを確認していた時に出た話だ。

改めてレシートに記載されてある時間を確認する。一枚目のレシートには23時08分、二枚目のレシートには23時30分とあった。

P「10時半に出発して、30分ほどの道のりを行って11時08分にコンビニで買い物をした。帰りかけたが、買い忘れた煙草のことを思い出してUターンした。それで煙草を買えたのが11時30分。そこから戻るまでまた30分ほどかかると考えると……」

貴音「千家殿には犯行のために使えた時間がほぼ存在しない事になりますね」

P「ああ。月光洞への往復にかかる時間も考えると、千家さんには犯行はまず不可能だったことになる」

これがなんらかのアリバイトリックである可能性は無視していいだろう。そうであればレシートをあんなところに捨てておくはずがないし、自分が後で見つける予定だった、誰かに見つけてもらう予定だったとも考えられない。そんな迂遠な手順を踏む意味が無いから。

P「……松葉さんを殺した犯人は、千家さんじゃない」

貴音「そして……確実に自分のありばいを証明できる証拠をむざむざと捨ててしまっているということは、『千家殿はその時間に殺人が起こるとは予想もしていなかった』とは考えられないでしょうか? 要するに、共犯者がいるということもあり得ないわけです」

P「なるほど。自分はアリバイを作っておき、共犯者に松葉さんを殺させた……というのはなさそうだな」

貴音「更に言うなら、千家殿本人は『悪鬼ども』への復讐――殺人を犯すつもりだったとしても、まさか『自分以外に殺人を企図している者がいるなどとは思いもしなかった』ということになります」

P「殺人を計画している人間が、ここに偶然二人もいたということなのか?」

貴音「偶然……なのでしょうか。どうにも引っかかるものを感じるのですが……」

貴音は記憶を辿ろうとするように、こめかみを右手の人差し指で押さえながら言う。

貴音「それに、気になっていることがもう一つ」

貴音は人差し指を立てて言った。

貴音「黒田殿が殺害された時と、談話室でわたくし達が襲われた時……鬼の扮装をした犯人の凶行という点では同じですが、それらには奇妙な差異があったのです」

P「差異? 差異って?」

貴音「それは――っ……!」

一瞬、貴音の体がぐらりと揺れる。危うく倒れるのではないかと思ったが、うまく踏みとどまったようだ。

P「おい、大丈夫か?」

貴音「……すみません。少し、くらっときてしまいました」

P「多分、この臭いのせいだろうな。一度出よう」

昨日からろくに休んでいないので、その疲れもあるのだろう。事件のことなど放っておいて、今は休んだほうがいいのだろうとは思う。だが、それを言ったところで彼女が素直に聞き入れるとも思えないのだった。

廊下に出て、扉を閉めて一息つく。

P「……無理はするなよ」

貴音「……ご心配なく。プロデューサーのほうこそ」

そう言って気取ったように微笑む。

貴音「――今までのこと、整理してみましょう」

貴音は扉に寄りかかるようにして言った。

貴音「まず……叔父が殺された事件。二つの南京錠に厚い鉄の扉という、厳重な封印が施されていた月明かりの間の中で、叔父は亡くなっていました。それに、祠からは村の護り刀である暁月が盗み出されていた……」

最初の事件。そしてそれが一番厄介なように思えた。

P「犯人はどうやって密室殺人を……」

貴音「密室の謎は、既に解けています」

貴音はあっさりと答えた。

P「ほ……本当かよ?」

貴音「はい。プロデューサーと白河殿の調査のお話、そして……これのおかげで」

貴音はスカートのポケットから何かを取り出す。それは、例のビー玉の飾りだった。

P「……それが?」

貴音「先ほどプロデューサーはおっしゃいましたよね。『十年前に崖下に投げ捨てられたはずの腕飾りが、どうして月明かりの間で見つかったのか』、と」

P「ああ」

貴音「極めて単純な問題なのです。素直にこの事実を解釈して……あとは、少しばかりの発想の羽ばたき。そうすれば自ずと答えは見えてきます」

P「うぅむ……?」

そう言われても、残念なことに俺にはさっぱりだった。

貴音「次は黒田殿の殺害についてです。犯人の持ち去った『六原』の文字が入っていたという帳面、おそらくは犯人の動機に関わっているものと思われます」

P「黒田はそのノートの中身を知ってしまったために、殺された?」

貴音は頷いて肯定する。

P「……黒田を殺した犯人は、千家さんだよな? だって鬼の恰好をしていたわけだし……でも奪っていったノートが部屋になかったってことは……」

あれ? なんだか混乱してきた。なにか間違ったこと言ってるか?

貴音「そのあたり、先ほど申し上げた『差異』が重要な手がかりになるはずです」

説明を請おうとした時には貴音はもう次の話に移ってしまっていた。

貴音「次の白河殿の事件については、プロデューサーの推理通りでほぼ間違いないと思います」

P「でも、結局どうして千家さんが彼を殺したのかはわからずじまいだ。まさか、白河くんも千家さんの復讐の対象だったんだろうか?」

貴音「……それも、考えられますね。しかし、千家殿が殺されてしまった以上、確認するすべはありません」

P「で、最後に千家さんが殺された……か。一体誰が犯人なんだ……?」

貴音「それが問題ですね。千家殿の事件が発覚してから、どうやら嘘をついているらしい人物ならいたのですが……」

P「嘘……?」

全然気が付かなかった。

貴音「しかし、後もう一歩が足りないのです」

貴音は右手を口元に持って行き、考えこむ……かと思いきや、ぱっとその手を口から離した。

P「どうした?」

貴音は自分の右手を驚いたような目で見つめている。

貴音「……プロデューサー、これを」

そう言って右手を顔の前に差し出す。一体この手をどうしろというのか?

貴音「嗅いでみてください」

P「は?」

貴音「いいから! お願いします!」

P「わ、わかった」

困惑しながらも差し出されたその手に鼻を近づけ、嗅いでみる。

微かにではあるが、爽やかな香りが残っている。これは……

P「……林檎?」

貴音は左手を顔へ近づけて、

貴音「……左手も同じ匂いがします。先ほどまではこのような匂いはしませんでした。きっと、部屋の中のものを触った時に……」

P「部屋の中のものから匂いが移ったってことか? そんな匂いがしそうなものはなかったけど……」

酒にしたって林檎を含むものはなかったはずだし……そんなことを考えながら何気なく右手を顎に持っていこうとした、その時だった。

林檎の香りがした。

P「――あれ?」

貴音「……どうなさいました?」

P「おかしいな……俺の手にも同じ香りが移ってるみたいだ」

貴音「しかし、プロデューサーは……」

そう、俺があの部屋で触ったものといえば……。

貴音「…………プロデューサー。一つ、お訊きしたいことがあるのですが」

P「何だ?」

貴音「……とても、重要な事です。よく思い出して答えてください」

貴音は俺の目をまっすぐと見て、一つ一つ念を押すように言った。

P「……わかった」

貴音がその質問を口にする。その内容は『どうしてそんなことを?』と思ってしまうようなことだった。たしかに、彼女はその場面にいなかったのだが……。

P「――ああ、たしかにそうだったけど、それが一体……」

貴音「…………」

貴音は右手で髪の毛を掻き上げるようにしたまま、時間が停止してしまったかのように動かなかった。

P「貴音?」

やがて彼女は目を閉じ、静かに言った。

貴音「……犯人が、わかったかもしれません」

驚いた。まさかさっきの質問で? だが、彼女はちっとも嬉しそうではない。むしろ……その逆だ。

P「……本当に?」

貴音は頷いた。そして、そのまま黙りこんでしまう。

P「貴音? 大丈夫か?」

彼女の目がゆっくりと開かれる。その目は、悲しみの色を浮かべながらも強い意思が宿っていることを感じさせた。

貴音「……どうか、この先はわたくしにお任せください。この呪縛は……わたくし自身の手で、断ち切ります」

読者への挑戦

まずはこの長い長いお話をここまで読んでいただきありがとうございます。

ようやく物語は最終章の手前までやってきました。
次章において未だ明かされていない謎の全て――つまり、密室殺人の謎や犯人の正体、そして暁月村と十年祭にまつわる事件の全貌が明かされることとなります。

解決編の前に読者の皆様に指摘していただきたい謎は三つ。
一、『犯人が四条松葉を殺害するにあたって用いた方法とは?』
二、『黒田九里太殺害と談話室襲撃事件における奇妙な差異とは何か? また、そこからわかる事実とは?』
三、『犯人が千家藍之助を殺害するにあたってとった一連の行動と、そこからわかる犯人の正体とは?』

これらについては唯一無二の解答があり、既にそれに至るために必要なデータは提示してあります。(もちろんこれら以外の謎の考察も大歓迎です)
一つの戯れとして挑戦していただければ嬉しく思います。

では最後までどうかもう少しばかりお付き合いいただけますように。

月曜夜ごろに解決編開始を予定してますーありがとうございました

よっしゃ読み返してくる

ところでこの話は前作までとは別の物なのかな?
まあ特に繋がってる必要はないけども

>>423
繋がってないですー
前のも読んでくださってる!ありがとうございます!

乙です
前作とやらを教えていただけると嬉しいです

>>425貴音のは偶然全部リアルタイムで読んでたり

>>426
スレタイだけだけど
貴音「くおど、えらと、でもんすとらんだむ」
貴音「月光島葬送曲」
貴音「天使の罪咎は」

僭越だが推理の先陣切らせてもらうわ
念のため改行入れる、説明の都合上第二の謎から


















・第二の謎
奇妙な差異とは鬼の利き腕と貴音に対する殺意の有無を示す
黒田を殺害した鬼は右利きで貴音に殺意は無い、一方で談話室を襲撃した鬼は左利きで貴音に対し明確な殺意がある
このことから鬼の正体は二人いることが分かる
自分の考えでは前者が白河で後者は千家
・第一の謎
犯人は白河
ビー玉のブレスレットが月明かりの間で見つかったことは回想でビー玉のブレスレットを投げ捨てた崖の真下に月明かりの間の天井があることを意味する
つまり殺害方法についてはその崖から暁月をロープで結んで重りを括り付けた上で月明かりの間に投げ入れ、松葉を刺殺した
その前提として白河は松葉から天井のロープ伝いに暁月を受け取っている必要がある
よって白河と松葉は協力関係にあった(理由は後述)
祠の鍵が松葉の装束の袂に入っていたのは暁月を祠から取り出したのが他ならぬ松葉だから
取り出した後に鍵を袂に入れるのは自然な流れ
その後白河は吊り橋を落とす訳だが、目的は犯行現場である崖へ行けないようにして証拠隠滅を図るため
殺害時点で雪崩の情報が無い以上、クローズドサークルになったのはあくまで偶然
・第三の謎
千家を殺したのは五道
貴音が指摘した嘘とは「部屋に入る時にグラスを割ってしまった」こと
これが本当ならジュースを一口も飲んでいない五道は代わりのグラスを取りに再び食堂もしくは厨房を訪れるはずだがPも貴音もそんな気配や物音に気づいていない
よってこれが嘘となる
五道は食堂をでた後千家の部屋を訪れ、そこでジュースを飲もうとした
鬼の正体が千家であることに気づいていたのか偶然鬼の衣装や暁月を見つけたのかは不明だが、五道は暁月で千家を刺殺
その際にグラスが割れ、リンゴジュースがぶちまけられる
鬼の衣装についていた白い粒とはグラスの破片
グラスを片付けた五道は換気をしようとするが窓が開かず、この時窓枠にリンゴジュースが付着する
苦肉の策としてアルコールを撒き散らして匂いを消そうとした
千家の殺人については個人的に灰崎も怪しいが嘘らしい嘘を五道の発言からしか見つけられなかったこと、灰崎は窓の欠陥について熟知している可能性があることから五道を犯人とした





続き


















白河の目的は「貴音を守り、村から解放する」こと
白河は千家の殺意に気づいており、それを止めるために村に来た
松葉に対し千家から貴音を守るために祈りの儀の最中に千家を暁月で殺害するという一見鬼の祟りに見えそうな不可能犯罪を提案し、松葉を協力者に引き入れる
よって本来の計画では松葉から暁月を受け取って千家を殺害し、消えた凶器の演出をする筋書きだったと思われる
犯行時間のアリバイについては青山にそう証言するように依頼していた
だが白河は松葉を裏切り殺害する
次にPと月明かりの間を調査し終えた千家はP分かれた後

途中送信してしまった
再び改行



















Pと別れた白河は今度こそ千家を殺害するため鬼の扮装をして屋敷に戻るのだが、そこで黒田が神宿りの秘密について気づいたことを知り、黒田を殺害、ノートを奪取する
そして再び千家を殺害するべく書斎に呼び寄せるが、逆に千家に殺されてしまう
この時、鬼の装束や暁月が千家の手に渡った
松葉や黒田を殺害した理由については、神宿りについての情報を完全に断絶しなければ貴音が新たな神宿りとして村に縛り付けられてしまうからと思われる

こんな感じでどうだろう
他の人の意見も聞きたい一心で書き込んだので拙い推理なのは目をつぶって下さればありがたい

余計かもしれませんが第三の謎についてのちょっとしたヒントを
『あってはならなかったもの なくてはならなかったもの』

ダメだ…全く分からんし、ここに来て自分の考えがかなりガタガタになって来た
そもそも最初の二つの事件は千家以外は大体の人間が可能にしか思えないんだよなぁ…
その中でも時間的に厳しい方の白河を敢て犯人としたのは
・Pと共にレシートを発見している以上、千家が犯人でないと分かっている白河が千家を書斎に呼んだ理由は何なのか(犯人を問い詰めようとしたのではないかという青山の推測は成り立たない)
・第一の鬼から第二の鬼(千家)に装束や暁月がどのようにして渡ったのか
という疑問を解消できるからだったんだが…やっぱり千家殺害犯と同一の人物なんだろうか

そして第三の謎については重大な見落としをしてたわ
犯人は千家の右手に暁月を持たせた(

>>436
ご推察のとおり最初二つの事件だけでは犯人の特定は多分無理ですね
ただ余計な混乱を招くのもちょっとあれかなと思ったので言わせていただくと
白河殺害以外は全て同じ人物の犯行で、いずれも単独犯です

たぶん10時あたりから解決編始めますーちょっと長いのでエピローグとは分割して謎解きの部分だけやります

あとヒントの単独犯ってのが気になる…
暁月を手に入れるためには松葉の協力が不可欠だと思うんだけど、それはノーカウントなんだろうか
一応別の刃物で上から殺した後なら、入口さえ通れればどうにでもなるんだけど

で、ひとつ思い付いたのが牡丹犯人説
月明かりの間入口の扉は、五道が錠前を開けた後なら自分の鍵を使って中に入れる
なので、五道が皆に知らせに行った直後に中に入り、松葉の持つ鍵を使って暁月を手に入れ、三の錠前を閉めて家に戻る
牡丹の部屋は家の裏側なので、窓から入って何食わぬ顔でPと会う…みたいな

貴音の言う嘘っていうのは、五道がグラスを割った音を聞いた、ってことじゃないかと
ただ何故それが嘘だとわかるのかというのと、ひとつ目の推理も時間的にかなり無理があるんじゃないかという…五道が偶然鍵開けないと中に入れないわけだしね

>>447
殺害に関しては単独犯という意味なのです
わかりづらくて申し訳ありません

――書斎に、ノックの音が響いた。

P「どうぞ」

扉が開いて、その人物が姿を現す。

貴音「……座ってください。わたくし達は立ったままで結構です」

貴音が円形のテーブル横に配置された椅子に座るよう促す。

俺と貴音は立ったまま、その人物が椅子に腰を下ろすのを見ていた。

「それで……お話とはいったい?」

落ち着いた、ゆっくりとした声でその人が言った。

貴音「事件について、色々とわかってきたことがあります。それをお話しようと思いました」

「……他の方は?」

貴音「お呼びしたのはあなただけです。そのわけについては、後ほど話します」

その理由を俺は知っている。この人が――『鬼』なのだ。

外は明るくなりかけているが、カーテンは閉めきってある。

そして書斎内の二つあるうちの蛍光灯の片方は壊れているため、その人の顔は陰になっており、どんな表情をしているのかがわかりづらい。だが、一見して随分と落ち着いているようだ。

貴音「千家殿が亡くなり、彼の自殺ということで事件には決着がついた……そのように思われました。しかし、違うのです。……千家殿は殺されたのです。それも、この屋敷にいる誰かに」

「そんな馬鹿な」

貴音「いいえ。その証拠に、黒田殿が殺害されたときに犯人が奪っていった帳面を、千家殿は持っていませんでした。しかし、これは千家殿を殺害した何者かが、その際に部屋から盗みだしたということではないのです」

「……どういうことでしょう?」

貴音「初めから、千家殿の部屋にその帳面はなかったのです。『黒田殿を殺害した鬼と、千家殿は別人』です」

その人は黙っていた。貴音が次に何を言い出すのかじっと様子をうかがっているようにも見えた。

貴音「わたくしがそう判断した根拠は、『千家殿が左利きである』ということなのです。千家殿は腕時計を右手首に付けていましたし、それに……千家殿の持っていた手帳。そこに書いてあった文章は、左手に筆を持つ者の特徴がありました。……実際に見ていただいたほうがよいでしょう」

貴音は茶色の革の手帳をテーブルの上に置き、該当のページを開いて示す。あの復讐計画の文面。

「…………!」

それを見てさすがに驚いたようだった。さすがに、千家さんがそんなものまで残していたとは思わなかったのだろう。

貴音「おわかりいただけましたか? 『字の右側にいんくが擦れている』というのがそれです」

左手で文字を書くと、どうしても小指側が紙に触れてしまう。だから気をつけないとペンのインクが乾く前に擦って字を滲ませてしまうのだ。

貴音「千家殿は左利き、それは間違いありません。そして……『わたくしとプロデューサーを談話室で襲ってきた鬼も、刀を左手に持っていた』のです。あの襲撃については、千家殿が犯人だったと考えてよいでしょう。しかし、『黒田殿を殺害した鬼は違いました。あの鬼は刀を右手に持っていた』のです」

そう……黒田が殺された時、談話室で襲われた時、どちらも緊迫した状況にあったからそんな明確な違いにも気がつくことができなかった。

千家さんは刀を利き手、つまり左手で持っていたのだ。剣道では剣を右手に持つものだと教わるようだが、彼は剣道経験者でもないようだったからそれを知らなくても不思議はない。

貴音「そしてもう一つ。談話室で襲ってきた鬼は、始めからわたくしを殺すつもりでいたと思われます。対して物置に現れた鬼はわたくしの姿を見るなり、逃走した……物置でもわたくしを殺そうと思えば鬼には容易くそれができたはずです。では、それをしなかった理由は何でしょう?」

鬼はあの時点で俺も貴音もまとめて殺すことができたはずだ。そうしなかったのは、あの鬼は俺達に対しては殺意を持っていなかったからとしか考えられない。

その後で行われた談話室襲撃は、青山くんが来てくれなければ間違いなく俺達は鬼に殺されていたことだろう。物置に現れた鬼と、談話室に現れた鬼とでは決定的なまでの殺意の差があるのだ。

貴音「刀を持つ手の左右の差異。そしてわたくしに対する殺意の有無の差異。それが鬼が二人いるという事実を示しています。黒田殿を殺害し、帳面を奪っていった犯人は千家殿以外の誰か……。では、どうして千家殿が、黒田殿を殺害した鬼と同じ恰好をしてわたくし達の前に現れたか……その経緯については想像でしか語ることができません。千家殿が装束の隠し場所を偶然発見したのか、あるいは犯人の正体に気がついて、脅すか、あるいは証拠を隠滅するのを手伝うなどと言って直接受け取ったのか……」

貴音は軽く咳払いをする。

貴音「二人の鬼についてはひとまずここまで。時間を前に戻し、最初の事件の話をしましょう」

一呼吸置いてから続ける。

貴音「最初の事件、つまり叔父が殺害された時のことです。千家殿には、叔父が殺害された時間のありばいがありました。プロデューサーが屋敷の外へ出た時、偶然に拾ったれしぃとがその証拠です」

貴音は二枚のレシートをポケットから取り出してテーブルの上に置いた。

貴音「つまり、叔父を殺害した犯人も千家殿ではないのです。おそらく、その犯人は黒田殿を殺害した者と同一人物でしょう。叔父が殺害された時に同時に祠から奪われた暁月を持っていたのが、その根拠です」

「……なるほど」

呟くようにそう言って小さく頷く。

「ですが、その人物はいったいどうやってあの月明かりの間で……密室殺人をやってのけたと?」

貴音「……現場は、二つの南京錠によって封印された厚い鉄の扉の奥。いったい、犯人はどのようにして月明かりの間に侵入したのか。それが最大の問題でした」

貴音はそう言いながら後ろの本棚に寄りかかる。

貴音「犯人が乗り越えるべき障害はそれだけではありませんでした。たとえ二つの南京錠を外すことができたとしても、あの重い扉を開ければ、その音で間違いなく内部の者に気づかれるはずでした」

「しかし」と言い繋ぐ。

貴音「叔父の傷痕は、背中の一箇所のみ。犯人はまるで音もなく忍び寄り、背後から刃物を突き刺したかのよう……」

「検討もつきません。人の所業とは思えない……」

貴音はそれを聞いて、首を振って否定する。

貴音「わたくしにはわかります。これが人の手による殺人であるということが。洞の鬼など……いないのです」

「……では、いったいどうやって?」

答えられるはずがない。そう挑戦するかのような言い方だった。

貴音「月明かりの間には、正面の鉄扉以外にももう一つ、外と繋がっている部分があるのはご承知でしょうね」

「…………」

貴音をじっと見つめたまま、何も言わない。

貴音「月光の差し込む天井……月明かりの間という、その名の由来でもあります」

「しかし、あそこは……」

貴音「そう。光が差し込んでくるとは言っても、網目状に穴が開いているだけで、人の出入りはできません」

「それではやはり、殺人など――」

貴音「人の出入りはできません。……ですが、『物の出入りならばできる』」

「…………」

その人の表情がわずかに緊張したように見えた。

貴音「……天井の穴の大きさより小さいものであれば、出入りは可能なのです。例えば……そう、こういったものです」

貴音が取り出して見せたものは、ビー玉の腕飾り。

「……それは?」

貴音「月明かりの間に落ちていたのを、ある人物が見つけていたものです。そして、わたくしはこれと同じものを10年前にも見ているのです」

「10年前?」

貴音「しかしその時、この腕飾りは裏手の山道から崖下へと投げ込まれたはずなのです。それがなぜ月明かりの間で見つかったのでしょうか?」

「…………」

その人が何か言おうとしたようだったが、途中で口を閉じた。

貴音「……ここでもう一つ、別の方向から謎の検証をしてみようと思います。わたくしがプロデューサーから聞かされた話の中で、一つ違和感を覚えるものがありました。それは、山道への吊り橋が落とされていたということです」

貴音は淡々と話を進めていく。

貴音「犯人はまだ殺人を続けるつもりであり、対象を逃すことのないよう、予め逃げ道を塞ぐために橋を落としたのではないか……そういった話がされたようですが、わたくしはそれは考えづらいことだと思いました。なぜならば、そもそもここに孤立する羽目になったのは、雪崩によって村への道が塞がれるという偶然の出来事が原因だからです」

「要領を得ませんね。どういうことです?」

貴音「橋が落とされていたということは、事件についての議論を終えた直後、プロデューサーと白河殿の行った調査によって判明しました。犯人は、二人が調査に出かけた後、先回りをして橋を落としたのでしょうか? それはあり得ません。橋を落としたりすれば相当大きな音がするはずで、二人に気づかれる恐れがあるばかりか、途中で鉢合わせにでもなれば言い訳のしようがありません。橋を落とすならわざわざそんな危険な時に実行する必要はない、皆が寝静まった後でもよかったはずです。――それなのに橋は落とされていた。『二人の調査が行われるよりも前に』落とされていたということです」

「それのどこがおかしいと?」

貴音「雪崩が起きたと考えられる時間は、千家殿が村から戻ってきてから、五道殿と三船殿が二人で確認してきてくれるまでの間。この間は叔父の事件が発覚した騒動のために、事件についての議論を終えるまで全員が一緒におりました。……五道殿と三船殿が共犯というわけでもない限り、『雪崩が判明した以後は、誰にも橋を落とすことができなかった』わけです」

「…………なるほど」

その人はようやく貴音の言わんとする事を察したようだった。

貴音「つまり犯人は……『雪崩が起きるよりも前に橋を落とした』という推論が成り立つのです。ではもしも雪崩が起きなかったら、犯人はどうするつもりだったのでしょう? それとも、犯人は予知能力者で雪崩によって道が塞がれることを察知できたのでしょうか? そんなはずはありません。考えられるとすれば、二つ」

貴音は指を二本立てて言った。

貴音「一つは、犯人が予めとんねるを塞ぐ何らかの手段を用意していたということ。それならば先に吊り橋を落としたということにも納得がいきます。しかしそうとなると、とんねるそのものを爆破でもしない限りは不可能でしょう。それはいささか非現実的な考えなように思われました。よってわたくしは、もう一つの可能性のほうを検討すべきだと考えました」

立てる指が一本となる。

貴音「それは『犯人は山道に見られたくないものがあり、それを隠蔽するために吊り橋を落とした』というものです」

「見られたくないもの?」

貴音「それではここで、先ほどお話した『山道の崖下へと投げ捨てられた腕飾りがなぜ月明かりの間で見つかったのか』、そして『犯人が隠したがった山道にあるものとはなにか』……二つの謎を結びつける、ある仮説をお話しましょう」

貴音は力を込めて言った。

貴音「『腕飾りの投げ捨てられた山道の崖下には、ちょうど月明かりの間の天井部分がある』……としたら、どうでしょう?」

一瞬の静寂が訪れた。貴音は更に続ける。

貴音「たしかに、山道と月光洞への道のりは途中の二又路で分かれてはいます。しかし山道は曲がりくねっており、月光洞の入り口も山すそにあって、そこから更に奥へ進んだところに月明かりの間が位置しているとすると……可能性はあるはずです」

「そうだとして、何だと言うのです?」

貴音「……『犯人は山道の崖の上から、月明かりの間にいた叔父を殺害した』という推理が成り立ちます」

「まさか、そんな……」

悪い冗談だ、とでも言うように笑う。

貴音「笑い飛ばせるものならそうしていただきましょう。わたくしの振る刀が鈍らであるというのなら、反論でもってその刃を叩き折っていただいても構いません。……できるものならば」

「それでは……反論させていただきましょう」

その人は静かに言った。まだ余裕の感じられる声だった。

貴音「なんでしょう?」

「仮に……その通りだったとしましょう。しかし、犯人はそこからどうやって殺人を行ったというのです? 刃物か何かを投げつけたのでしょうか? 現場にはそんなものはなかったはずです」

貴音「縄を使ったのです」

貴音は即座に返した。

貴音「長い縄の先端に、ある刃物を結びつけておき、それを崖の上から天井の中心部にある穴に目がけて落とした――そして、叔父の命を奪った後、縄を引き上げて凶器を回収したのです」

「しかし、傷痕は背中にあったはずですが」

貴音「叔父は奉納の儀の祈りの最中でした。しきたりでは、『神宿りは月明かりの間の台座の中心で、正座に額づくような姿勢で祈りを捧げなければなりません。犯人もそれを知っていたのでしょう』。そしてこう考えたのです。『崖の上からで標的の姿がはっきりと見えなかったとしても、天井の中心部を狙って落としさえすればちょうど凶器は背中に突き刺さる形になり、殺害は可能である』……と」

そして、犯人はそれを実行したのだ。

「…………それは、おかしい」

はっきりと否定する。おそらく、自分がここに呼ばれた理由には薄々感づいている。様子を見つつ、少しでも貴音が隙を見せたら、その推理を食い破り追及から逃れようとしているのだ。

まだ、鬼を追い詰めたというには程遠い。

「現場で起こったことは殺人事件だけではなかったはずですよ」

貴音「暁月の盗難のことを言っているのですね?」

「ええ。犯人はいったいどうやって暁月を盗み出したというのです?」

貴音「たしかに、犯人は月明かりの間に入ることはできませんし、暁月の奉納されていた祠には鍵がかかっていました」

「そう。不可能です」

貴音は首を振った。

貴音「それが、可能なのです。『協力者がいれば』」

「きょう……りょくしゃ?」

素知らぬふりをしてはいるが、少しずつ動揺を見せ始めていた。

貴音「そう。『祠から暁月を取り出してくれる協力者』がいれば、暁月の奪取は容易だったはずです」

「何を言っているか……わかっているのですか?」

貴音「……残念ながら、誰よりもわかっているつもりです」

貴音はまっすぐ相手を見て言った。

貴音「その可能性を示す証拠は、先ほどお見せした……これです」

千家さんの手帳に書かれた文面を指し示す。

貴音「――要するに」

彼女にとっては認めたくなかったであろう事実……貴音はそれを口にする。

貴音「この事件は……『千家殿と叔父の共犯による暁月盗難計画が、それを知った犯人によって殺人に利用された』というものなのです」

「……馬鹿な!! そんなはずが……ッ!!」

テーブルを強く叩き、声を荒らげる。しかし、犯人である『彼』はそれを知っていたはずではないのか? その怒りが演技とはどうしても思えなかった。

貴音「千家殿は事件の起こる前に、叔父と二人きりで話していました。そう、この書斎で。わたくしとプロデューサーは部屋から出てくる二人を見ています」

『約束の件、頼みましたよ』

あの時、千家さんは松葉さんにこう言ったのだ。今ならば、その意味がわかる。

貴音「あの時二人は、暁月盗難についての段取りを話していたのです。そして、『その話を何者かが盗み聞きしていたという痕跡もありました。書斎の窓がほんの少しだけ開いていたのです』。おそらく犯人は中庭側から、開いた窓を通してその話を聞いていたのではないかと」

貴音は今度は手帳を指して言った。

貴音「『ただ殺すだけでは意味が無い だからこそ十年待ったのだ』……この部分から、千家殿には殺人以外の目的があったということが読み取れます。それこそが暁月の奪取だったのです。十年に一度、神宿りだけが月明かりの間に入れる。逆に言うなら、神宿りの協力を得られさえすれば、十年祭を待つだけで暁月は手に入る」

「そんなのは……妄想にすぎない……!」

そう言って手帳を見ようともしない。

貴音「では、もう少しばかり妄言にお付き合いください。最後には納得していただけるはずです」

貴音は相手の発言など意に介さずといった様子で、淡々と話を続けた。

貴音「叔父がどういった経緯で千家殿に協力をすることになったのか、それは後でお話するとして……次は、犯人がどのような手順で犯行を行ったかを説明しましょう」

貴音は一気に追い詰めていく。

貴音「まず、犯人は千家殿が村へ買い物に行くのを確認してから行動を開始しました。崖上から月明かりの間の下にまで届くような長い縄を用意し――縄は物置を探せばすぐに見つかったことでしょう――それを山道の崖へと運びました。まず、犯人が崖上から縄を月明かりの間の天井部を通して下ろしていきます。広間内部にいた叔父には、崖の上に立つ者の姿は見えなかったことでしょう。本来の協力者である千家殿以外の人間がそこに立っていたとしても、わからなかったのです」

松葉さんは、まさかその人物が自分の殺害を企図しているとは思いもしなかったのだ。

貴音「その縄が下がってくるのを合図として、祠の鍵を開き、取り出した暁月を縄に結びつけた……もちろん天井の穴を通り抜けられるよう、刀がまっすぐぶら下がるように。そして犯人はそれを上に引き上げて回収した――本来の計画であれば、ここで終わっていたはずなのです。しかし、犯人はただの盗難計画を殺人計画へと塗り替えてしまった」

貴音は深呼吸をしてから、更に続ける。

貴音「叔父は暁月が回収されるのを見届けた後、祠の南京錠を閉めて鍵を袂に仕舞いました」

そう、あの時に白河くんも疑問に感じていた『犯人が暁月を盗みだした後で鍵を袂に入れ直した理由』は、そういうことだったのだ。祠の中身を検められでもしない限り、盗難は発覚しない。松葉さんはそのために、外見上は何も異変がないように祠に鍵をかけ直したのだ。白河くんの疑問は、正しい方向を向いていた。

貴音「『暁月がなくとも、叔父には祈りを続ける必要がありました』。見られるとわかっていたからです。2時間ごとに五道殿、あるいは三船殿が確認に来ることを知っていたため、少なくともその時間には祈りの最中であるかのように見せなければならない。しかも、叔父は『時計を持ちこんでいませんでした』。そのため細かい時間がわからず、いつ扉の外に人が来てもいいように祈りの姿勢だけはとっておく必要があったのです」

松葉さんは腕時計もしておらず、近くにいた灰崎さんや牡丹さんに時間を確認していたのを思い出す。

貴音「犯人は叔父が台座の中心で祈りの姿勢を取り直すのを待ちました。そして……頃合いを見計らって、引き上げた刀を鞘から抜き、天井の中心部に向かってゆっくりと下ろしていき……穴を通りかけたというところで――落とした。刀は落下による加速を得、叔父の背中に深く突き刺さった――叔父は台座から落ちて絶命……。そして、犯人は刀を引き上げて凶器を回収したのです。縄は放置しておいても問題ありません。山道から屋敷へ戻る際に、刀で吊り橋を支える縄を切断すればもう誰も山道へ入ることはできないのですから」

台座に残された血痕は中心部に多かった。引き上げるまでに、刀に付着した血液が垂れ落ちたのだろう。

貴音は疲れ果てたように息を吐いた。

貴音「これが……あの月明かりの密室で起きたことの全てです」

長い長い沈黙があった。貴音は本棚の横に背を預けながら視線を下げている。表情にこそ出さないが、かなり疲労しているようだ。

彼女は半ば、自分のためにその刃を振るっている。自分自身で、この事件との決着をつけるために。この家の抱える、目を背けたくなるような陰惨な過去と向き合うために。

だが、その刃は確実に彼女自身をも傷つけている。俺には、彼女の流す血が視える。

「…………」

彼はどうだろうか。貴音をまっすぐ見つめたまま一言も話そうとしない彼は、何を考えているのだろう。

貴音「最後の……千家殿が殺害された事件について話をしましょう」

貴音が顔を上げて言った。最後……そう、これで最後なのだ。探偵は銀色の髪を一度掻き上げると、本棚にもたれかかるのをやめ、最後の刃を振るいにかかった。

貴音「千家殿が亡くなっているのを発見したのは、わたくしとプロデューサー、そして青山殿でした。現場には千家殿が村で買ってきた酒類が撒き散らかされており、床や布団、壁などあちこちに『赤わいん』による赤い染みが残されていました。千家殿の遺体の右手には刀があり、手に血が残されていないことからも自殺……のように見えました」

「しかし」と続ける。

貴音「先ほども説明したとおり、これは自殺のようにみせかけられただけの殺人なのです」

「物置から奪われたノートが部屋にない、というのは別の人物が持っていたからなのでしょう? では、自殺でもおかしくはないのでは?」

貴音は首を振る。

貴音「いいえ。ある証拠が殺人であることを物語っています」

「……証拠?」

貴音「ところで――」

貴音はあえて疑問を無視するように続ける。

貴音「わたくしはあの事件が発覚し、皆様の話を聞くうちに……一人だけ、嘘をついている人物がいることに気が付きました」

「一体誰が、どんな嘘をついていたと言うのです?」

貴音「……その人物は、『刀を握っていた手に血液が付着していない』ことを指摘し、一同に千家殿の自殺説を主張しました」

「それは……」

貴音「そう。『嘘をついていた人物というのは青山殿のこと』なのです」

「なぜそれが嘘だと?」

貴音「青山殿は千家殿の遺体を発見した際に、部屋の中に入ってないで、扉の近くからその様子を見ていたのです。遺体は部屋の中心あたりにあり、扉からは少し距離がある……それなのに、右手に血が付着していないことがどうしてわかったのでしょうか?」

俺もそのことに気がついたのは遺体にだいぶ近寄ってからのことだった。

「…………」

貴音「それに、『視力が低い』と青山殿本人もそう言っていたはず。よって、わたくし達と一緒に千家殿の遺体を見つけた時に、青山殿が遺体の手に血が付着していないと知ることができたとは思えないのです。では、いつ知ることができたのか? 『わたくし達と会うよりも前に、青山殿は千家殿の遺体を見ていた』のではないかとわたくしは考えました」

貴音はゆっくりと息を吐く。

貴音「遺体を見ていた、つまり……青山殿が千家殿を殺害した犯人なのではないか……そう思いました」

「…………そうですか。彼が……犯人なのですね?」

貴音は彼をじっと見据えて、首を振る。

貴音「……いいえ。たしかに、青山殿は嘘をついていました。しかし、それはおそらく……七瀬殿から千家殿が犯人だという話を聞いて、思わずあの部屋に飛び込んでしまったからだと思います。その時には、千家殿は既に亡くなっていた。部屋の中へ入り、遺体を観察するとそれがどうやら自殺らしいことには気がついたものの、期せずして第一発見者となってしまった彼は、自分が殺人犯だと疑われてしまうことを恐れた。それで……わたくし達が来るのを廊下で待っていたのです。そして、遺体を初めて発見するような素振りをしてみせた……彼が行ったことは、それだけだと思います」

貴音は彼に一歩近づく。

貴音「わたくしがそう考えなおすことにしたのは、先ほども言ったある証拠のせいなのです。『その証拠が、千家殿を殺害した犯人を教えてくれています』」

そう言いながらまた一歩、近づく。

「……どうか、そう勿体ぶらずに、そろそろ教えてはいただけないでしょうか?」

また、一歩。

「……なぜ、私一人をここに呼んだのです?」

貴音「それは…………っ」

彼女は言葉を詰まらせる。それを口にすることが、彼女にとってどれだけの苦しみか、俺には想像することもできない。

「……さぁ、あともう少しです。頑張ってください…………………………お嬢様」

その老人は、子どもに語りかけるような優しい口調で言った。貴音の眼から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

貴音「じいや…………あなたが……犯人だからです」

今にも泣き出しそうな、それでもはっきりとした声で……貴音は彼を、灰崎万造を犯人として告発した。

灰崎「…………私が、犯人……ですか」

灰崎さんは不思議なくらいに落ち着いているようだった。大きく息を吐いて、椅子に深く座り直す。

灰崎「お嬢様がそうお考えになったわけを……訊かせていただけますか?」

先ほどまで彼が纏っていた緊張や警戒はどこかに消え去ったようだった。もう、追及から逃れようとする気配は感じられない。

貴音「証拠というのは……あの鬼が着ていた着物のことなのです」

灰崎「それが、なぜ?」

貴音「あの着物には、白い粒状のものが点々と付着しており……そして、林檎の香りがしていたのです」

そう、千家さんの部屋を出た後、俺と貴音は手に林檎の香りが移っていることに気がついた。そして、俺があの部屋で触ったものといえば、窓ガラスとあの着物だけだった。貴音は窓には触れていないから、その時点で彼女は着物に林檎の香りが付着していることに気がついたのだ。もちろん、その後でちゃんと確認もしている。

灰崎「…………それがなぜ、私が犯人だという証拠になるのでしょうか?」

貴音「順を追って話しましょう。まずは、あの部屋で酒が撒かれていた理由から」

灰崎「それも私がやったことだとおっしゃるのですか?」

貴音「……そうです。あなたは、千家殿が自殺をしたように見せかけるために、『あってはならないものを消し、なくてはならないものを大胆な偽装を施すことによって気付かれないようにしたのです』」

灰崎さんは黙って貴音の話を聞くつもりのようだ。

貴音「五道殿は、千家殿の遺体の手に酒が付着していることが彼が自分で酒を撒いたことの根拠であるとおっしゃっていましたが、それだと、手にだけ赤わいんが付着していないのは不自然です。他の酒類と同様に赤わいんも派手に部屋で撒かれていたはず。つまり、酒を部屋に撒いたのも、遺体の手に付着させたのも犯人の仕業だと考えられます。そして犯人の意図の一つは……『遺体の手に付着していた血液を洗い流すため』だと思われます」

刀を握っていたのなら、血液は付着しない。だから、血液のついた手に刀を握らせたらすぐに自殺が偽装されたものだと発覚してしまう。犯人は遺体の手についた血液を洗い落とす必要があった。しかし……『あの部屋には水道がない』。長く放置すれば血液は凝固し、落とすのが困難になる。そこで……手近にあった水分、つまり『酒』を用いることを考えたのだ。

貴音「あってはならないものとは、遺体の手に付着した血液。それを消すために犯人は……あなたは、酒を使ったのです」

灰崎「……なるほど。筋は通りますが……それだけでは、私が犯人だということにはなりませんね」

貴音「……酒を撒いた、もう一つの理由を考えていくと、あなたに辿り着きます」

灰崎「もう一息、というわけですね。では……聞かせていただきましょう」

灰崎さんはそう言ってまた口を閉じた。ただ、貴音の姿を目に焼き付けようとするかのように、彼女から目を離そうとしない。

貴音「犯人は千家殿の部屋を訪れ……そこでどういうやりとりがあったのかは知れませんが、結果的に、犯人は部屋にあった暁月で千家殿を刺し貫き、殺害しました。五道殿の見立てでは、太い動脈を傷つけられたことによる失血死だと。さぞや、大量に出血をしたのでしょう。黒田殿の遺体もそうでした」

黒田が殺された時の光景が思い出される。最初に胸を横に斬られ、次は腹部を刺し貫かれた。刀を振るうたびに、鬼の着物に、仮面に、返り血がかかった。

貴音「あの鬼の扮装は……犯人が自分の正体を隠すため、というだけではなく……『返り血を防ぐ』、という役目もあったはずなのです。しかし……千家殿の部屋で発見された『装束にも仮面にも、新しい血は付着していなかった』。それもそのはずです。犯人が千家殿を殺害するとして、千家殿を前にしながらその部屋にあった衣装にのんびりと着替えているような余裕があるはずはありませんから。他に、あの部屋に返り血を防げたようなものもない。そして、凶器の大きさからして返り血を浴びないように背後から腹部に突き刺すようなことも不可能。要するに……『犯人は、千家殿を殺害した際に大量の返り血を浴びた』と考えられます」

貴音は少し舌を休ませるように数秒黙ってから、また口を開いた。

貴音「犯人は千家殿を殺害し、大量の返り血を浴びた……それによって、自殺とは思えない状況が出来上がってしまいました。『床に、犯人が体で受け止めてしまった分の返り血が残らなかった』。血の跡が何かで遮られたような状態になってしまったということです。『なくてはならないもの』とは『返り血の跡』のことなのです。このままでは、『千家殿の前に何者かが立っていた』ということがすぐに発覚してしまう……そこで、犯人はある大胆な偽装を施すことを思いつきました。それが……『大量の赤わいんを部屋に撒くことで、血の跡を覆い隠してしまう』ことだったのです。赤わいんだけを撒けば偽装の意図が読まれてしまうかもしれないし、先ほど言ったように手に付着した血液を落とすために色のない酒も使う必要が有るため、それらもまとめて部屋に撒いたのです」

ふと、貴音が目を閉じた。それが溢れ出しそうになる涙をこらえようとしてのことだとわかった。

灰崎「……大丈夫ですか?」

灰崎さんはいつも彼女に向かって言うように言葉を発した。貴音のこととなると心配性になるという彼は、きっと今までにも何百回、何千回と同じ言葉を彼女に向けて言ってきたのだろう。そして、今でさえも。

貴音は目元を袖で拭って、頷く。

貴音「ご心配なく……あと、もう少しで……終わりますから」

灰崎さんもそれを聞いて、ゆっくりと頷いた。

貴音「次に犯人に降りかかった問題は、『どうやって部屋から脱出するか』ということでした。千家殿の返り血を浴びてしまったからです。遺体の手と同じように酒を使って洗い落とすには血液の量が多すぎた。部屋を出る際に、もしも血に汚れた姿を誰かに見られでもしたら言い逃れのしようがありません」

部屋に入るときにはともかく、部屋を出るときには外に誰もいないか確認することができない。部屋を出て一気に自分の部屋まで走り抜けてしまえば、物の十秒もかからないことではある。しかし……そんな一か八かが、その状況でできる人間はそうはいないだろう。

貴音「見られないように部屋を出るにはどうすればいいか。犯人は必死に考えました。窓は下枠が錆びていて少ししか開かないためにそこから出ることはできない。そもそも玄関には鍵がかかっているため屋敷へ入れなくなる。部屋には千家殿の着替えがありました。しかし、いつもと違う恰好をしているのを見られたらそれだけで怪しいというのは言わずもがな、血液は顔にもかかっていたでしょうからそれだけでは隠しきれません。犯人に残された手は、一つだけでした。それが『鬼の扮装をして、部屋を出る』ということだったのです。着物で服を、仮面で顔を隠せるその扮装は、最悪部屋を出る際に目撃されたとしても自分の正体だけは隠せる。その場合、千家殿が自殺であるように見せることはできなくなりますが、致命傷だけは防げる。犯人がその選択をするのは必然と言えました」

結果的に、犯人は鬼の扮装をして廊下に出た際に誰にも目撃されることはなかった。

貴音「部屋に帰り着いた犯人は……着替えを行い、自室にある水道で顔や手についた血液を洗い落としました」

灰崎さんの部屋にはお茶を淹れるための小さなキッチンがあったし、今着ているのと同じようなスーツが複数あっても不思議ではない。

貴音「そして……最後の行程。千家殿の部屋から持ちだした鬼の装束と仮面を戻しに行かねばなりません。先ほどとは違って予め周囲に人がいないことを確認しておけるため、危険度は低いでしょう。しかし、一瞬であっても部屋に入って鬼の衣装を隠さなければならない以上、部屋を出る際に目撃される可能性がないとは言えません。それに衣装をそのまま持って運ぶわけにもいかず、袋のようなものが必要です。たとえその場合に誰かに見られたとしても、既に自分の体の血は落としているので即座に犯人だと疑われるような事態にはならないでしょう。しかし、袋を持っていたことが不審に思われるきっかけとなる可能性はある。つまり『千家殿の部屋を尋ね、かつ衣装の入れ物となる物を持っていても不審に思われないような理由』が必要……だったのです」

貴音の声は段々と震えが混ざってきていた。しかし、彼女は話すのをやめようとしなかった。

貴音「そのために犯人は……『珈琲を淹れました』。もしも部屋を出る際に誰かに目撃された場合は『千家殿に頼まれ、珈琲を運んだ。部屋を訪ねても反応がなく、扉を開けたら中で死んでいた』……などと話すために。鬼の衣装はわごんの下部、袋の中に入れておけばすぐに取り出せる上に途中で誰かに見られても怪しく思われることはまずないでしょう。しかし……念には念を入れてとったのであろうその行動が……犯人の正体を示す証拠を生み出してしまったのです」

灰崎さんは黙ったまま貴音の話に耳を傾けていた。その表情は相変わらず穏やかだった。

貴音「『着物に残されていた白い粒……あれは、割れたてぃーかっぷの破片』です。そして『林檎の香りの正体は紅茶……あっぷるてぃー』。この二つが着物に付着していたのは、『鬼の衣装がわごん下部の袋に入れられ運ばれたから』としか考えられません。では、なぜ千家殿の部屋にあったはずの衣装を一度持ち出し、そしてまた戻す必要があったのかを考えていった結果……先ほどお話した、返り血の偽装に思い当たったのです」

貴音が談話室で割ってしまったティーカップ。その破片を灰崎さんはサービスワゴンの下に付いた袋の中に入れていた。当然、部屋に戻ってから灰崎さんはその始末をしたのだろうが、おそらくその時にカップに入れられていたアップルティーと、小さな破片が袋の底に残ってしまっていたのだ。それが鬼の衣装に付着した。

千家さんの部屋を出て、貴音が最後に俺に質問をしたのは、『割れたティーカップを灰崎さんはどうやって回収したのか』ということだった。彼女はその寸前に部屋を飛び出していたから。

貴音「そして、この一連の動きができたのは…………」

貴音ははっきりと告げた。

貴音「じいや、あなただけです」

灰崎さんは貴音の目を見て深く頷くと、静かに言った。

灰崎「その優しく、それでいて強い意志を感じさせる目……常磐様にそっくりでございます。お嬢様」

そして、座ったまま深々と礼をする。

灰崎「……………………お見事でございました」

…………彼が自分の犯行を認めた瞬間だった。

区切りが良いので今日はここまでにさせてください!
続きはまた明日投下します!

すみません今日は時間が取れそうにないので
明日まとめて最後まで投下しようと思います
申し訳ありません…

貴音「……千家殿の殺害だけでなく、叔父や黒田殿を殺害したのも、あなたですか?」

灰崎「その通りでございます」

誰かを庇って嘘をついているとは思えなかった。彼は真実を話している。

貴音「どうして……このようなことを?」

灰崎「お嬢様のおっしゃるとおり、私は……旦那様と千家様が書斎で話しているところを窓の向こうから立ち聞きしてしまったのです。掃除の際に窓を締め忘れていたのでしょう。趣味の悪いことだとすぐに立ち去ろうともしたのですが……聞こえてきた内容がどうしても気になり、そのまま立ち聞きを続けてしまいました」

貴音「そこで暁月の盗難計画を聞いたのですね。そして……『叔父が父を殺した』ことも、知ったのですか?」

灰崎さんは心底驚いたような表情をした。

灰崎「ど、どうして……それを?」

貴音「やはり……そうだったのですね」

貴音の目に悲しみの色が灯る。

貴音「……そもそもどうして叔父が盗難などに手を貸すことになったのかということを考えた時、その可能性に思い至ったのです。おそらく、叔父には千家殿に協力せざるを得ない事情があった。千家殿の手帳には、それを示唆するような内容が書かれていました」

貴音が指でその部分を示す。

『十年前は予想外の邪魔が入って失敗したが今回は逆にあの男に役立ってもらう 十年前の常磐と同じ役目を常磐を裏切ったあの男に』

貴音「ここにある『あの男』が叔父、『役立ってもらう』というのが暁月の奪取のことだと考えれば――全ての辻褄が合ってきます」

灰崎さんは深い溜め息をつくと、やがて言った。

灰崎「……お嬢様のお察しのとおりでございます。十年前のあの日……常磐様は、松葉様によって命を奪われたのです」

――五道様と三船様をお迎えし、ひとまずやることもなくなった私は軽く掃除でもしようかと中庭へ出たのです。

「今更、断るなんてことはしませんよね?」

すると、書斎の窓から誰かの話し声が。すぐに、それが旦那様と……あの男であると気が付きました。

松葉「……約束は守りましょう」

千家「賢明な判断です。それなら私も黙っておきますとも。神宿りが人殺しだなんて、村民を深く失望させてしまうでしょうから」

耳を疑う言葉でした。今まで抱いていた千家という男の印象とはまるで違う、冷たく下卑た口調。そして、人殺しとはなんのことなのか。私は思わず窓の側に身を寄せ、話に聞き入っておりました。

千家「とんでもないことですよ。実の兄を殺すだなんて」

松葉「……もうお話することはありません」

千家「まぁ待ってくださいよ。……せっかく十年ぶりに会ったんです。昔話の一つでもしようじゃないですか」

松葉「昔話……?」

千家「そう、昔話。今でも思い出せますよ、あの日のことは。月明かりの間で常盤さんの遺体を発見した時、あなたは一番最初に遺体に近寄った。そして他の人に気付かれないように、こっそりと『薬のケースを奪った』。私は偶然それを見てしまったわけですが……そんなことをした理由はすぐにピンときました。あなたが『ケースに偽物の薬を入れていた』んだということに」

松葉「……そんな話を今する必要はないでしょう」

千家「この際だから教えてくれませんかね? あなた、なんで常盤さんを殺したんです?」

松葉「……あなたには関係のないことだ」

千家「奥さんのためだったんじゃないですか?」

松葉「……ッ!」

千家「そうですか。やっぱりそうだったんですね。いやね、勝手ながら私も色々調べさせてもらったんです。十年前、あなたの奥さん……千歳さん、でしたっけ? たいそう難儀なご病気だったとかで。治療費の工面も大変だったそうじゃないですか。……神宿りというお立場は、お金で苦労することがなさそうでいいですねぇ?」

松葉「……黙れ。下衆が」

千家「はっ、下衆はどっちだか。ねぇ、本当に殺す必要がありましたか? 常盤さんに正直に事情を話せば、いくらか融通してくれたのではないですか? まぁ……どちらにしろ無駄なことですか。治療の甲斐なく千歳さんは亡くなってしまったんですから。それとも……あなたに対する天罰ですかね?」

松葉「黙れッ!!」

千家「……そんなに恐ろしい顔をしないでください。まるで……人殺しのようじゃないですか」

松葉「これ以上余計な話をするなと言っている!」

千家「……はは。ええ、わかりました。終わりです、終わり。じゃあ、そうですね。計画の手順についてお話しましょうか――」

私は、暁月を盗み出す計画のおおよそを聞き出してから、中庭を出ました。信じられない気持ちでした。旦那様が……松葉様が常磐様を殺したなどと。

――――

P「もしかして、俺と貴音が灰崎さんの部屋に行った時は……」

灰崎「ええ、ちょうど中庭から戻ってきたところでした」

驚く。灰崎さんにそんな様子はまったくなかったから。

灰崎「廊下からお嬢様の姿を拝見し、しばらくは見聞きしたことを忘れようと務めました。そのようなことをお嬢様に知らせる訳にはいかないと……」

貴音は哀しげな表情で灰崎さんの話に耳を傾けていた。彼女の心中は察するに余りある。

灰崎「そのような話を実際に耳にしても尚……私は半信半疑でありました。松葉様へ直接問い尋ねることもできずにいたのです。そうしたまま奉納の儀が始まり……そこへ、あの男が村へ買い物に行くと言い出しました」

千家さんのことだ。

灰崎「私はそれを契機と思い、ある考えを持ちました。そのためにあの男がちゃんと買い物に行くのを見届けようとガソリンの給油を手伝ったのです。それから五道様に軽食を届けた後、あの男が買い物から戻ってこないうちに……盗み聞きをしたあの話が本当であるかを確かめに向かったのです」

貴音「千家殿の振りをして、叔父が盗難計画に乗ってくるかを試した……ということですか?」

灰崎「左様でございます。松葉様が何の反応もしてこなければ、あれは何かの間違いであったと信じられる……そうであって欲しかった。しかし……私の思うようにはなりませんでした」

貴音「叔父は暁月を取り出し、縄に結びつけた……」

灰崎「……私は松葉様が常磐様を死に追いやったのだということをようやく確信したのです。たちまちのうちに、私の中にどす黒い感情が渦巻いていくのを感じました。あれはまさしく……松葉様に対する憎悪でした。気がついた時には……私は……この手で松葉様を……」

灰崎さんは手で目元を覆い、打ち震えるように言った。

どうして灰崎さんが松葉さんを殺すことになったのか。それが灰崎さんを犯人だと考える上で一番の謎だったが……そういう事情があったと考えれば、理解できるかもしれない。

灰崎さんにとって、常磐さんと松葉さんは立場としては同じ、仕える主人だった。しかし、松葉さんは若くして家を出たという話だったから一緒の時間を過ごした年数は二人でまるで違ったはず。

貴音の祖父の代からこの家で働いているという灰崎さんにとっては、常磐さんは主人でありながら息子のような存在でもあったのではないだろうか。それを奪われたと知ったら、たとえその相手が今の主人……松葉さんであっても、殺意を抱いてしまうかもしれない。

貴音「……じいや。よく聞いてください」

貴音が灰崎さんに向かって言った。

貴音「父は、神宿りを廃止することを考えていたようでした。叔父は……それを知って追い詰められていたのかもしれません」

灰崎「神宿りを……廃止? それは、いったい?」

灰崎さんは初めて聞く話だったようだ。貴音が言っていることの意味を掴みかねている。

貴音「十年前、父は私に話しました。『神宿りの禁忌』を皆に話して伝える……そうすれば、普通の生活ができるようになると。それはつまり、神宿りを廃止するという意味ではありませんか?」

灰崎「常磐様が……そのようなことを?」

貴音「それが前回の十年祭。あのぷれはぶ小屋で父が話してくれたことです。あの時、たしか……誰かが扉の外にいたように思います。それが叔父だったのではないでしょうか」

灰崎「しかし……ということは……」

貴音「叔父はそれを聞いて、追い詰められてしまった。神宿りが廃止されれば、当然四条家の財力も以前通りというわけにはいかないでしょう。そのまま放っておけば、叔母様の治療費について相談することもできなくなってしまう……もちろん、父は話せばわかってくれたと思いますが……しかし焦った叔父は、そんな簡単なことにも気が付けなかった。だから……」

常盤さんが余計なことをしないうちに、口を塞いでしまった……?

貴音「根拠は何一つありません。そうではないか……と、わたくしが思っただけなのです」

これは……あくまで俺個人の考えなのだが。もしかしたら、松葉さんは常磐さんに相談するという事自体に躊躇いがあったんじゃないだろうかと思う。

同じ親のもとに産まれた兄弟であっても、神宿りとしての役目を押し付けられ、村に束縛されている兄に頼るというのは、松葉さんにとって色々な感情が許さなかったのかもしれない。

もちろん、だからといって松葉さんのやったことが許されるわけではないが……以前は温和な人間だったという松葉さんが、感情を欠落させたようになった一因は、自分の行いをこの十年悔い続けてきたからではないか…………そんな気がする。

灰崎「……お待ちください、お嬢様。十年前のプレハブ小屋……ということはまさか、その時のことを思い出されたので?」

灰崎さんは驚いたように言った。貴音は頷く。

貴音「……ええ、あの日の出来事は思い出しました。わたくしが誘拐をされたということも」

灰崎「それは……八塚銀志郎のことも、ですか?」

今度は貴音が驚く番だった。

貴音「なぜ……じいやがそれを?」

あの事件に八塚銀志郎が関わっていることを知っていたのは、貴音と常磐さんだけではなかったのか?

灰崎「ああ…………何からお話すればよいのでしょうか……」

灰崎さんはしばらく考えこんで、やがてこう言った。

灰崎「……わかりました。全て……お話しましょう。常磐様がお話しようとしていた『神宿りの禁忌』。そしてあの誘拐事件の真相……私の知る限りの全てを」

――事の始まりは……今から五十年も前になります。

当時、村には原因不明の病である鬼憑き病が蔓延し、その猛威を振るっていました。

一日に複数の病死者が出ることが当たり前になり、村はまさに死に瀕しておりました。

村で唯一の診療所である五道医院は鬼憑き病の患者でいっぱいになり、それでも手の施しようがないため、一度鬼憑き病で入院した患者が退院することはまずありませんでした。

外部の医療機関に調査の要請を出してもいましたが、成果はありませんでした。

鬼憑き病を恐れ、村から出ていってしまう村民も多く……このままでは村が滅びるのは時間の問題……だったのです。

しかし……ある場所で『鬼憑き病が治癒した』という噂が流れたのです。そこは村の外れのほうにあり、貧しい者たちが生活する区域でした。

そこには、ある薬師(くすし)が住んでいたのです。病院へ行く金も持たない者達が体調を崩した際には必ずその薬師を頼ったそうです。

その薬師の名前は、六原紫流(ろくはら しりゅう)と言いました。

調査を行った結果、その薬師が鬼憑き病の特効薬を調合したという話は本当だとわかりました。

なぜ、医者や研究者たちが躍起になって取り組んでも不可能だったことがその薬師にできたのかはわかりません。しかし、今の時代でも科学的に原理が明らかにされていないことでもその効力を認めざるを得ない事例というのは稀にあるそうなのです。きっと、あれもその内の一つだったのでしょう。

当時の四条家は、今よりももっと強大な権力でもって村を統治しておりました。私はその頃成人を迎えたばかりで、5人いた四条家の使用人達の中で一番若かった。

そして当時の神宿り――先々代、つまりお嬢様にとってのお祖父様でございます。先々代は六原のことを知り、彼を鬼憑き病の特効薬を調合した村の救世主だとして褒美を取らせるようにしました。

そう、ここまでは何の問題もありませんでした。六原に褒美を取らせ、薬の調合方法を広めて医院でもその特効薬を投薬できるようになれば村は救われます。希望が見えてきた、と私もそう思っていました。

しかし、先々代はそのようなことは考えていなかったのです。

六原への褒美の授与式は、不自然なほど人の少ないものでした。立ち会うのは六原の他には先々代と当時の三船家、五道家の当主のみ。

そしてその褒美というのが……村の護り刀である暁月だったのです。

六原は慎み深い性格の男でした。始めは拒否したのです。しかし、先々代からの半ば圧力にも近い説得を受け、褒美として暁月を受け取ることを了承しました。

今と同じく、暁月は月光洞の奥、月明かりの間で保管されていました。三船家の当主と五道家の当主が鉄扉の鍵を開け、月明かりの間の中へ六原を招きます。

そして……そこで、世にも恐ろしい所業が行われました。

六原は不意に後頭部を殴打され、その場に昏倒したのです。彼が次に目を覚ました時……月明かりの間の鉄扉は閉じられていました。彼はさぞや混乱したことでしょう。自分がなぜ殴られたのか、なぜ月明かりの間に閉じ込められていたのか、理解できたはずもありません。

先々代が何をお考えになったか、おわかりになりますか?

六原が特効薬を調合したことが広まれば、村民たちにとっての救世主として扱われることは間違いない。それによって、四条家の権威が危ぶまれることを恐れたのです。今より影響力の強かった四条家には、三船家も五道家もおとなしく従うしかありませんでした。

先々代のそれはもはや、妄執といっても良いほどでした。四条家の権力を維持するということに、取り憑かれていたのです。

先々代は月明かりの間の外から、六原に向かって語りかけました。

「薬の調合法を記したものはどこにある?」と。

答えなければここを出してもらえないと悟った六原は、悩みながらも正直に答えました。家の寝室、枕元にそれを記したノートがあると。

……ところで、私がどうしてこんなことを知っているのか疑問には思いませんでしたか?

授与式に立ち会ったのは、三家の当主と六原だけなのに、なぜ私がこれほど詳しく話せるのか、不思議に思われたことでしょう。

私は、先々代からある役目を引き受けたのです。そのために、月明かりの間で何があったのかはおおよそ聞かされました。

その役目というのは……六原の家から調合法を記したノートを奪い、そして…………『六原の家族を始末せよ』というものでした。

私が選ばれた理由は、若いおかげで体力的に余裕があるというだけでなく、他に身寄りがないために、どんな汚い仕事でもやり遂げるだろうと判断されてのことでした。

事実、私には断ることなどできませんでした。断れば、私のような瑣末な存在など簡単に消してしまえるほどの力が先々代にはあった。私はその役目を引き受けなければ、そして成功しなければ、生きられなかったのです。

六原の家族は、母親が昔に亡くなっていて、今は妻と父親だけだという話でした。つまり私は、二人の人間を殺さなければならなかったのです。

私が六原の家を訪れた時、妻は外出していたようで、奥の部屋で布団に寝たきりの父親がいるだけでした。

……父親の殺害は、驚くほど簡単でした。近くにあった手ぬぐいで首を絞めると、ろくな抵抗もないままに息絶えてしまいました。死んだということに気がつくのが遅れてしまったほどです。

六原の妻が帰ってくる前に、ノートを回収してしまおうと思いました。六原の寝室を探すとそれはすぐに見つかり、鬼憑き病の特効薬についての記述らしいものを確認してから、私はそれを懐に収めました。

その時、背後から悲鳴が聞こえたのです。六原の妻でした。いつの間にか帰ってきていたようです。床に買い物袋が落ちていました。

彼女は逃げました。逃してはならない――それだけが頭の中にありました。

寝室を抜け、台所にあった包丁を掴むと、恐怖から腰を抜かし倒れこんだ彼女の背に向けて……彼女の苦痛の叫びを聞きながら何度も……包丁を振り下ろしました。彼女が動かなくなってからも、数回刺した気がします。

興奮状態にあったのだろうと思います。あの時の私こそ……本物の鬼でした。

……彼女を殺し終えた私は、その場に嘔吐しました。

しばらく、呆然とその場に座り込んでいました。動く気力が湧きませんでした。血と胃液の臭いにも慣れてきたという頃、玄関で音がしました。

やって来たのは、二人の子どもでした。大きい方が12、3歳くらいの女の子。小さい方はまだ5歳くらいの男の子でした。

「……子どもがいたのか」

完全な誤算でした。事前の情報では子どもがいるなどという話は聞かされていなかった。それも、二人もだなんて。

血に塗れた私と、もう動かなくなった母親を見て、姉の方は事情を察したようでした。恐怖心はもちろんあったでしょう。それよりも……弟を守らなければ、という意思が大きかったのだろうと思います。

姉は即座に弟の手を引いて家を出ようとしましたが、私は思わず弟の手を掴んでいました。

「痛っ!」

弟が泣き出しそうな声を上げました。

「離してっ!」

姉が叫びました。私はこれ以上叫ばれて人が集まってくるのを恐れました。いいえ、それよりもなによりも……この子どもたちをどうすべきかを必死に考えていました。

私がその決断を下すまで、時間にして10秒ほどだったでしょうか。

私はズボンから財布を取り出し、姉の方へ押し付けました。

「村から出るんだ。すぐに」

財布の中身は大したものではありませんでしたが、ないよりはマシだろうと思ってのことでした。

私はなるべく子どもでも理解ができるように、彼女らが置かれた状況を説明しました。

このまま村にいても四条家の力から逃れることはできない、いずれは殺されてしまうということ。警察に頼ったとしても、村の権力者が関わっている以上もみ潰されることは間違いなく、それはまったく無意味だということ。生き延びるには、すぐに村から出て別の場所で生活をするしかないということ。

姉は賢い子どものようでした。私の説明をひと通り聞いて理解し、弟を連れてすぐに家を出て行きました。

私は二人の遠ざかる背を見ながら、尚も迷っていました。これでよかったのだろうか、と。

それから、殺人など諸々の証拠を隠滅するために私は六原の家に火をつけ、その場を後にしました。

六原……ですか? 先々代が、彼を生かしておくと思いますか?

――――

灰崎「――これが、神宿りの禁忌。四条家と六原家にまつわる血塗られた過去……というわけです」

貴音も俺も、あまりに衝撃的なその内容に何も言えなくなっていた。

五十年前に神宿りが鬼憑き病の治療を始めたという話は聞いていたが……その裏にそんな事情があっただなんて。

貴音「では父は……そのことを告げようとしていたのですね。おそらくは、鬼憑き病の治療法についても」

灰崎「その通りでございます。鬼憑き病の治療法が神宿りにだけ伝わる秘術とされているのは……もちろん、四条家の権威を守るため……ただそれだけなのです」

貴音「父が……祖父のことを狂人だと言っていた理由がわかった気がします」

灰崎「常磐様は……晩年の先々代を忌避されていたようです。それも当然ではあります。常磐様のような方が、先々代の所業を許せるはずがない……優しいお方でしたから」

灰崎さんは懐かしむように言う。

灰崎「六原の一件で私は一時、精神を病みました。私がしたことは他の使用人仲間たちにも知れ、私は孤立していきました。それも当然のことだと受け入れるつもりではありましたが……私は、段々と死を選ぶことを考えるようにもなっていきました。しかし、そんな時に私に構ってくれた唯一の相手が、まだ幼かった常磐様でした。時折遊び相手を務めるくらいでしたが……それでも、私の心は癒やされていったのです。そして……この方のためならば、生きても良いか……と、そう思いました」

常盤さんのことを語る灰崎さんの表情は特に穏やかに見えた。

貴音「……物置にあった帳面は、その出来事を記したものだったのでしょうか?」

灰崎さんは頷いた。

灰崎「そうです。私自身、あのようなものが残されているとは把握しておりませんでした。ですから、黒田様があれを見つけたのを扉の外から知った時には、心底驚きました。そして……殺害を決意するまでに時間はかかりませんでした。自分でも驚きましたが……それも当然です。なにしろ、私は……それまでに3人も殺していた殺人鬼なのですから」

貴音「……そのような言い方はやめてください」

貴音が耐えかねたように言った。

貴音「じいやは……わたくしのために、黒田殿を殺したのではありませんか?」

黒田がその情報を元に何か良からぬことを企む可能性は充分に考えられただろう。松葉さんも亡くなった今、それで一番の被害を受けるのは貴音だ。

灰崎さんはしばらく口篭ってから言った。

灰崎「それは……お嬢様の考え過ぎというものです。あのノートには、私の過去の殺人も記述されていました。私はその露見を恐れて、黒田様を殺害したのです。それ以上のことは、何もございません」

灰崎さんはそう言ったが、俺にはそれが本心からの言葉だとは思えなかった。

灰崎「……続きを、お話しましょう」

灰崎さんは咳払いをして言った。

灰崎「全ての因縁は、五十年前に始まりました。そう、あの男との因縁も」

貴音「……千家殿のことですね?」

灰崎さんは頷く。

灰崎「……夜中に部屋を尋ねてきたのです」

P「え? 千家さんが?」

灰崎「彼は部屋に入るなり、私が松葉様と黒田様を殺害した犯人であることを指摘しました」

P「千家さんはあなたが犯人であることに気がついていたんですか?」

灰崎「彼は……白河様からその話を聞いたそうなのです」

貴音「白河殿から……?」

灰崎「実は白河様は……部屋の窓から、私がロープを持って屋敷の裏手へ向かうのを目撃していたそうなのです。それで私が松葉様を殺害した犯人であるとお気づきになられていた」

……そうだったのか。彼がそれを事件のアリバイ確認の時に指摘しなかった理由はわかる気がする。灰崎さんがはっきり犯人だとわかるまではそれを黙っておくつもりだったのだ。彼は無実の人間に疑いをかけることをなにより恐れていたから。

そしておそらく……あの時、橋が落とされていたことを確認した時に、貴音と同じように月明かりの間と山道の位置関係に気が付き、松葉さん殺害のトリックを知った。そのトリックにはロープ状のものが必須であるから、灰崎さんが犯人だということにも気がついたのだ。

P「……ということは、白河くんは千家さんにそのことを話したわけですね?」

灰崎「そうです。白河様は、書斎へあの男を呼び出し、ご自身の推理をお話になられたそうです」

そうか……白河くんが千家さんを呼び出した理由がやっとわかった。彼は俺と同じくあのレシートを発見していたために、『千家さんが犯人ではない』という確証を持っていた。

だからこそ彼は千家さんのことを信用して、自分の推理を聞いてもらい、それが本当に正しいかを確認してもらおうと思ったのだ。

P「でもわからない……なんでそこで千家さんが白河くんを殺さなきゃならないんです?」

灰崎「あの男は白河様を殺害したことも私に告げました。それを……私への手助けだとも」

P「手助け?」

灰崎「そうです。私を犯人だと知る白河様を殺害することが私への手助けだと。そして……証拠隠滅の協力をも、申し出てきました」

貴音「……暁月と鬼の衣装のことですね?」

灰崎「ええ。私は書斎での松葉様とあの男の会話を思い出していました。それで私は、『この男の目的は暁月にあるのだ』と思いました。白河様を殺害したことも、私と秘密裏に交渉するためだったのだと納得したのです。それならそれでこちらとしても都合が良いと思い……私は、素直に暁月と鬼の衣装を渡してしまいました。まさか、それが……あのような使い方をされるとは思いもしなかったのです……!」

千家さんは第二の鬼になりすまし、貴音と俺を襲撃した……。

灰崎「白河様の遺体が発見され……その後、私はすぐにあの男の部屋に向かいました。もちろん、あのような真似をした理由を問いただすつもりでした。しかし……そこであの男から聞かされたのは、私の想像を遥かに越えたものでした」

――――

千家「――なぜあんなことを……と、申されましても。私の目的は始めから一つですから」

私を見て面白がるようにあの男は言いました。

灰崎「目的……?」

千家「復讐ですよ。お恥ずかしいことに、油断して先ほどは失敗してしまいましたが」

そう言ってふざけたように苦笑しました。

灰崎「馬鹿な! あなたがどうしてお嬢様に復讐など!?」

千家「……別にご本人が私に何をしたというわけではありません」

薄ら笑いが消え失せ、真顔になりました。

千家「私が恨んでいるのはね……四条家そのものなんです」

ぞっとするような、冷たい声でした。

灰崎「な……」

千家「もっと言うなら、四条家だけでなく、三船家、五道家もまとめてぶち殺してやりたいと思っています。全員、残らず」

灰崎「なにを……」

千家「そのために、酒を買ってきたんですよ。皆酔っ払えば、少しでもやりやすくなるかなって」

灰崎「何を言っている……?」

千家「そして暁月も手にする。元々は私の父のものになるはずだった。……五十年もかかったが、ようやく手に入れた」

それを聞いて、目眩を覚えました。まさか、そんなことがあってよいものでしょうか?

灰崎「あ、あなたは……?」

「おや? まだお気づきになられませんか? ……まぁ、当然でしょうね。五十年前に会った子どもの顔なんて、覚えてはいないでしょう」

私は、最も恐ろしい想像が具現化して目の前に現れたような気持ちでした。

六原「改めて自己紹介しましょう。千家というのは母方の名前……本名は六原藍之助と申します。あなた方四条家が無惨に殺した、あの六原家の生き残りです」

灰崎「馬鹿な……そんなことが……!」

六原「あなたのことも覚えていますよ、灰崎さん。……私の祖父と母を殺した男」

灰崎「…………!」

六原「あの時名乗らなかったはずなのに、なぜ名前を知っているか不思議ですか? あなたがくれた財布の中に免許証やらなんやら入っていましたよ」

灰崎「本当に……あの時の子どもなのか?」

六原「だからそう言ってるじゃないですか」

灰崎「姉がいたはずだな……あの子はどうした?」

六原「……もう随分前に亡くなりました。村を出た私たちは、やっとの思いで遠縁の親戚の家まで辿り着きました。そこも決して裕福な家庭とはいえず、私たちは除け者に近い扱いを受けていました。姉は生活費を捻出するために、若い頃から身を削りながら私のために働いてくれていました。そのおかげで私はなんとか大学にまで進学することができたんです。もちろん、別に支援は必要でしたよ。そのためには学業で優秀な成績を残さなければなりませんでしたから大変でしたね、姉ほどではありませんが。……おっと、話がそれてしまった」

六原は部屋をうろうろと歩きながら話を続けました。

六原「姉が亡くなったのは、前回の十年祭の少し前でした。姉は最期まで、あの日のことを思い出しながら死んだんです。それから私は、今まで抱えていた四条家と、それに連なる三船家、五道家への恨みをどう晴らすかということを考えていくようになりました。そこで、まずは高校時代に知り合った五道を利用して村を訪ねようと思いました。私はそういう時がいつか来ると思って、当時からずっと五道との交流を行っていたのです、胸中では復讐心を燻らせながらね。五道は、私の正体が六原家の者だとは思いもしなかったようでした。いや、そもそもあいつは六原のことなど知らされていなかったのでしょうね。あんな悪魔の所業、どの家でもタブー扱いになっていることは想像に難くない。――ともかく、五道の紹介を受け、十年祭の調査という名目で私は簡単に四条の屋敷を訪れることができました。それが十年前のことです」

――――

なんて皮肉な運命だろうか。灰崎さんが五十年前に生かした子どもが、復讐のために戻って来たのだ。

P「千家さ……六原は、十年前にも何かをしていたんですか?」

灰崎「六原の目的はまず、暁月を手にすることでした。そのために何が必要かは、お嬢様も、P様も、既にご承知のはずです」

P「まさか……」

貴音「六原は父を……脅迫していたのですか?」

灰崎さんは頷いた。『常磐と同じ役目』……手帳に書かれてあるとおりなら、松葉さんと常盤さんは同じことをするはずだった。つまり同じ役目とは、暁月を取り出して崖上から降ろされたロープに結びつけるという役目のことだ。

常盤さんの協力を得るために、六原は常盤さんを脅迫したのだ。

貴音「しかし……父は六原の一件を話すつもりだったはずです。はたしてそれが脅迫の材料になるのでしょうか?」

灰崎「…………そう。おそらく六原のことだけであれば、常磐様は協力を引き受けようとはしなかったでしょう」

貴音「では、なぜ…………あっ……!」

貴音は何かに気がついて口元を手で押さえる。

灰崎「……お嬢様。私は、八塚銀志郎の一件については常磐様からは何も聞かされておりませんでした。しかし……あの誘拐事件以降、彼がぱったりと姿を消してしまったという話を聞いて、私にはおおよそ何が起こったのかという想像がつきました。それは深く知るべきことではないと思い、私もなるべく忘れようと努めていたのです。しかし、あの誘拐事件は実際はもっと複雑で、深い陰謀が根本にあったのです」

貴音は放心してしまったかのように青白い表情になっていた。

貴音「父は……父は私が……銀志郎を殺したことで……脅迫されていたのですか……?」

灰崎「……六原は、森の中でお嬢様を背中におぶった常磐様に会ったのです。その時にはお嬢様は眠っておられたようです。六原は誘拐事件の果てにお嬢様が八塚銀志郎を殺害してしまったことの黙秘、そして『八塚の遺体を隠すこと』の引き換えとして、常磐様に暁月を差し出すように言いました」

貴音「そんな…………」

貴音は悲痛の声を上げ、頭を手で押さえた。

貴音が悪いんじゃない。それは本当のことだし、言うだけならば簡単だが、そんな言葉が何になるだろう?

彼女にかける言葉が見つからなかった。

灰崎「…………お嬢様」

灰崎さんが静かに言った。

灰崎「よく、お聞きください」

貴音「…………?」

灰崎「お嬢様は、人殺しなどなさっておりません」

貴音「え……?」

灰崎「……全てはあの男の、恐るべき計略だったのです」

――――

灰崎「そんな……お嬢様が、八塚様を殺した……?」

六原「そう思っているでしょうね。彼女自身は」

妙な言い方をするな、と思いました。不思議がる私の顔を見て、六原は愉快そうに笑ったのです。

六原「灰崎さん。おわかりになりませんか? 『十年前のあの誘拐事件……全部、私の仕業なんです』」

灰崎「何を……言って……?」

六原「八塚銀志郎が金銭目的に四条貴音を誘拐するも、思わぬ反撃にあって死亡、そして私がそれを目撃していたとして常盤さんを脅迫した……それが表向きの筋書き。実はこれ、私が八塚銀志郎を殺すついでに常盤さんを脅す材料を得ようと一芝居打ったものなんです」

灰崎「な、なぜ八塚様を殺す必要が!?」

六原「言ったでしょう? 四条家も三船家も五道家も、一人残らず殺すつもりだって。……おや? もしかして御存知なかったですか? 八塚銀志郎は五道家の血縁者なんですよ」

その時に初めて知りました。八塚様と五道様が腹違いのご兄弟であったということを。

六原「その様子だと、白河君が三船家の血縁だということも御存知ないのでしょうね?」

私はただただ驚くばかりでした。二人が親戚であるなどとは予想もしていませんでした。

六原「三船牡丹の妹の子が、白河君なんですよ。だから私も、心置きなく彼を殺すことができました」

狂っている。私は目の前に立っている男が人間とは思えませんでした。

六原「――で、せっかく殺すんだから、せいぜい役に立ってもらわないと勿体無いじゃないですか。だから八塚君には誘拐事件の犯人として死んでもらうことにしたんです」

平然とした様子で六原は語りました。

六原「まず、あのプレハブ小屋の中にいた四条貴音を誘拐しました。薬で眠らせ、鞄の中に入れて森まで運んだんです。それから八塚を呼び出し、殺すつもりだったんですが……驚きました。彼、私の後をつけて来ていたんです。大きな鞄を持って森に入っていくところを見られたようで。しかしかえって都合が良かった。呼び出す手間が省けましたからね。彼は鞄の中身を見せるように言ってきました。私はそれに従うふりをして、鞄を検めようとした彼の後頭部を力いっぱいに懐中電灯で殴りつけました。痛みにもだえ苦しむ彼の腰元から拳銃を奪い、胸に向け一発撃ちました。思ったよりもすんなりとうまくいった、というのが私の感想です」

六原は更に続けて話しました。

六原「あとは八塚に『鬼のお面と衣装』を身につけさせました。あなたが黒田を殺すときに着たあれと同じようなものです。ああ、着物と暁月は今もそこのベッドの下にありますよ」

私の横にあるベッドを指さして言いました。見ると、ベッドの下から不用心にも暁月の柄の部分が飛び出しているのが見えました。

六原「八塚の遺体を所定の位置に隠しておき、次は常磐さんに誘拐のことを告げる手紙を送りました。これは顔を隠して適当な祭りの役員をつかまえ、常盤さんに手紙を渡すように頼めば問題なくできました。これで常磐さんを森へ呼び出すことに成功しました。さぁ、ここからが本番ですよ」

興が乗ってきたようで、六原は身振り手振りを混ぜながら話を続けました。

六原「私は八塚に着せておいたのと同じような恰好をして、四条貴音を入れた鞄の鍵を開けました。恐る恐るといった様子で鞄から出てきた彼女は、怯えたような目で私を見ていましたよ。そして私は、軽く彼女を殴りつけました。もちろん、傍にあった拳銃で反撃をさせるためです。しかし、これ見よがしに置いてあるというのに彼女はなかなか気付いてくれませんでした。勢い余って殺してしまうところでしたよ。しかし、なんとか彼女に拳銃を撃たせることに成功しました。もちろん、偽物ですよ? 子どもに、しかも薄暗い森の中で銃が本物かどうかだなんて区別がつくはずがありません。空砲に合わせて私は胸を撃たれた振りをして、崖下に転落しました。すぐに彼女が崖の上から覗きこんでくるのが見えました。彼女が崖をそのまま下りてくることはないと知っていました。あの足の怪我ではとても無理です。だから崖下に来るには大きく回りこんで来なければならない。それだけの時間があれば、近くに隠してあった八塚の遺体を代わりに置いて、自分が退散するには充分でした」

「そして」と六原が続けます。

六原「私は常磐さんが来るのを待って、交渉を持ちかけました。八塚の件に関しては黙秘するし、遺体も処理する。その代わりに、暁月を盗み出す計画に協力してほしいと。遺体を処理するのは、自分のためでもありました。後頭部の傷や、偽物の拳銃が見つかれば偽装事件だったことがバレてしまうかもしれませんからね。奉納の儀で常盤さんが月明かりの間に篭った後、私はゆっくり遺体を地面深くに埋めました。偽物の拳銃と一緒にね。それから暁月を受け取りに行こうと例の山道の崖まで赴いたんですが……ここで予想外の事態が起こってしまった。あなたも御存知ですよね? 常盤さんは月明かりの間で亡くなっていたんです。私は暁月を手に入れることができなくなってしまった」

やれやれ、というように首を振りました。

六原「このせいで計画は十年先送りです。私にとって、暁月の奪取は最優先事項でしたから。……でもまぁ、この十年、あなた方があの悲劇をずっと引き摺っていたと確認できただけでも先送りにした意味はあったと思えます。非常に楽しかったですよ。特に、松葉さんとのお話とか」

私の脳内には、様々な考えが浮かんでは消えていました。

この男の受けた境遇は、四条家に復讐を考えるのも当然である。

しかし六原の事件に関わった者は既に死亡しており、今でも生きているのは私だけだ。

そしてこの男が四条家に厄災を振りまくのは、五十年前に非情に徹しきれなかった私の責任である。

では私は、どうやってこの責任を取ればよいのだろう?

灰崎「……頼む」

六原「はい?」

灰崎「君の父親を殺し、君たち姉弟が村にいられなくなった原因は先々代にある。しかし、先々代はもう亡くなっているのだ。しかし、母親と祖父の仇ならば残っている。殺したのは私だ。だから、私だけを殺せばいい。今は私以外には誰も六原の事件のことなど知らないのだ……! だから……頼む……私だけを殺してくれ!」

私は、六原にすがりついて頼みました。必死に。しかし……六原は笑ったのです。

六原「それはできませんよ。実は私、灰崎さんだけには生きてもらおうと思っていたんです」

灰崎「は……?」

六原「あなたは祖父と母の仇だ。でも、あなたに助けてもらったから、姉も私も生き延びることができました。そのご恩は返そうと思うんです。あなただけは殺さないでおいてあげますよ」

灰崎「そんな……!? 私のことなどどうでもいい! 代わりに殺してくれ! ……せめてお嬢様だけでも助けてはくれないか!」

六原「馬鹿な。四条家の血は必ず絶やします。……次は失敗しません。絶対に殺します」

これ以上話しても無駄だと思いました。この男は復讐心に取り憑かれてしまっている。虚栄心か復讐心かの違いというだけで、先々代と同じように狂っている。

私は彼にすがりつくのをやめ、そのまま足元に見えていた暁月に手を伸ばしました。

――――

灰崎「あとは……お嬢様の知るとおりでございます」

灰崎さんは六原を殺し、自殺に見せかけるトリックを行った……。

灰崎「……返り血を洗い落とそうと、自室にあった手鏡で顔を見ました。私は、血塗れの顔で笑っていたのです。……後悔はありませんでした。自分自身の過去への因縁へ片をつけたということ、そして、四条家に仇なす敵を討てた……お嬢様をお守りできたということ……ただ、達成感だけがありました」

貴音「……っ!」

貴音がとうとうこらえ切れずに涙を流す。袖で目元を拭うが、涙は止まらない。嗚咽を漏らしながら、彼女は言った。

貴音「わたくしには……わかりません……わたくしは、どこで……道を誤ったのでしょうか……?」

灰崎さんは椅子から立ち上がり、貴音の背をそっと抱いた。

灰崎「お嬢様は、何も間違えてなどおりません。私のせいなのです。私のせいでこのような目に遭わせてしまい……本当に申し訳ありません」

貴音「違う! 違う……! じいやは……悪くない…………悪くないからぁ……!」

貴音の目からは止めどなく涙が溢れていた。灰崎さんの胸に抱きつき、なおも泣く。灰崎さんは貴音をあやすように背中をさすって、

灰崎「……ありがとうございます。お嬢様にそう言っていただけるだけで、私の気持ちは随分と軽くなります。私は……お嬢様に犯人であると見ぬかれた時、嬉しかったのです。感謝しております。他の誰でもなく、相手がお嬢様だったからこそ、全てを認め、何もかも打ち明けることができたのです」

灰崎さんの目からも涙がこぼれた。

灰崎「私は、この人生に何一つ後悔しておりません。常磐様に、そして……お嬢様に出会えたことが、最上の喜びでございました」

灰崎さんはゆっくり貴音を引き離すと、ハンカチを取り出して彼女の目元を拭いた。次に、こちらへ振り向いて、

灰崎「P様。お嬢様の今後のこと……どうか、よろしくお願い致します」

深々と頭を下げた。

P「……はい」

灰崎さんは頭を上げ、穏やかに笑って頷いた。

灰崎「……さて、少し、部屋に戻らせていただいてもよろしいでしょうか? 六原事件についてのノートを取ってまいります」

P「ノートを?」

灰崎「ええ、あれには鬼憑き病の治療法の写しも書かれています。今後、必要になることでしょう」

P「……わかりました」

灰崎さんは今度は貴音に向かって言った。

灰崎「では、お嬢様。……行ってまいります」

貴音「…………はい」

灰崎さんは頷き、書斎を出ていった。

それから十分、十五分が過ぎても、灰崎さんは戻ってこなかった。俺は貴音をその場に残して灰崎さんの部屋に向かった。

扉を開けようとした時だった。

P「……歌?」

部屋の中から、歌が聞こえる。その声は――

P「あ…………」

扉を開けると、貴音の歌声がはっきりと聞こえてきた。そして、少し焦げ臭いにおいもあった。

部屋のテレビには、貴音がデビュー曲を歌っている映像が流されていた。たしか、テレビ初出演の時の映像だ。

テーブル近くの椅子には、灰崎さんが腰掛けていた。その顔はとても安らかで、まるで眠ったように……亡くなっていた。

テーブルの上には、小さな薬瓶が置かれてあった。灰崎さんは、毒をあおったのだ。

そして……最期の瞬間に貴音の姿を見ながら、亡くなった。

テーブルの上には薬瓶の他にノートのページを破いたものもあった。見てみると、そこには鬼憑き病の特効薬の調合法が書かれてあるらしい。

ノートの他のページは見当たらなかった。キッチンのガスコンロ近くに紙を燃やした跡があった。灰崎さんはきっと、六原事件についての記録を完全に抹消するためにノートを燃やしたのだ。

貴音「プロデューサー……」

部屋の入口に貴音が立っていた。彼女は灰崎さんの姿を見て、その場に崩れ落ちた。

俺は彼女が泣き止むまで、黙って側にいてやることにした。

ちゃんと彼女のことを支えてやらなければならない。それは、灰崎さんからの頼みでもあるから。

――それからのこと。俺は一つだけ確かめておきたいことがあって、一人である人物の部屋を訪れた。

牡丹「――そうよ。竜二は私の甥」

牡丹さんは隠すようなこともせず、素直に話してくれた。

牡丹「妹と……私の昔の恋人の、子ども」

P「そう……だったんですか」

牡丹「滑稽じゃない。男に捨てられるだけならともかく、妹に取られるだなんて」

牡丹さんは自嘲めいた笑いを浮かべる。

牡丹「だから、始めはあの子の顔を見るのも嫌だった。でもね……妹夫婦が仕事で一年間家を空けなきゃいけないことになって、仕方なく私のところの実家で竜二を預かることになったの。竜二がまだ7歳の頃だった。竜二はなぜか一緒にいた母や父より私に懐いてくれた。段々、私も竜二と遊んだり勉強したりすることが楽しくなって……いつしか、あの子のことを自分の子どもみたいに思っていくようになった」

そう話す牡丹さんの目は、本当に母親のように優しかった。

牡丹「一年が過ぎて竜二と別れなければならなくなった時、私は記念としてビー玉のブレスレットを作って渡したの。牡丹……自分の名前と同じ花の描かれたビー玉。笑っちゃうわよね。恋する乙女じゃあるまいし」

そう言いながらも牡丹さんは楽しげに見えた。

牡丹「それから五年、その間、私と竜二は一度も会わなかった。再会したのが父の葬儀の時だった。そんな時なのに、私はやっぱり竜二に会えるのが楽しみで仕方がなかった。でも……私は……」

牡丹さんは急に表情を曇らせた。

牡丹「再会した時、竜二は12歳で、驚くくらいに成長していた。そして……あの子の父親にそっくりになっていた。竜二は私のことを見るなり駆け寄ってきて……嬉しそうに話し始めた。でも私は……竜二にあの男の面影を見るのが辛くてたまらなかった。だから思わず……いえ、気がついた時には……私は竜二を打っていたわ」

P「…………それから、どうしたんです?」

牡丹「竜二は突然打たれて何が何だかわからないというような顔をしていた。私もわけがわからなくなってた。だから勢いに任せて……ひどいことを言ってしまった……あんなこと、絶対に言っちゃ駄目だったのに……!」

牡丹さんは涙を流して言った。

牡丹「その場にいた妹と喧嘩になって……いつのまにか、竜二はいなくなってた。それからずっと……会うことはなかったわ。昨日までは」

これでわかった……。白河くんが言っていた、裏切りを受けたということはこのことだったんだ。

P「牡丹さん。これ……覚えてますよね?」

ポケットから取り出したビー玉のブレスレットを見せる。

牡丹「あ……あなた、それをどこで……!?」

P「最初は、白河くんが月明かりの間で見つけたものなんです。事件解決の大きな手がかりになりました」

牡丹「竜二が……?」

P「彼は、十年前に崖の上からこのブレスレットを捨てました。それは、あなたが彼にしたことが原因です」

牡丹「そう……だったの」

P「牡丹さん。彼がどれだけあなたのことを大切に思っていたのか、これを見ればわかります。ここ……紐を継ぎ足してあるのがわかりますか? 彼は7歳の時にもらったブレスレットを、12歳になってもまだ付けていたんですよ。あなたのことを忘れたことなんてなかったんだと思います」

牡丹さんは口元を押さえ、嗚咽を漏らしながら泣きだした。

牡丹「そんな……私……それなのに……あんなひどいこと……」

P「でも牡丹さん、聞いてください。彼は、あなたのことを許そうと思ってここに来たんだと思います」

牡丹「え……?」

P「十年前、白河くんは偶然出会った貴音と話をしているんです。そこで彼はもう村へは来ないと言いました。しかし、白河くんが、彼を裏切った人のことを許せるようになったら……また来るかもしれない、とも話していたんです。白河くんがまたこの村に来ていたということは、あなたのことを許せるようになったから……じゃないでしょうか?」

きっと、お互いに一歩が踏み出せなかったというだけなのだ。

牡丹「…………」

P「……白河くんは月明かりの間でこのブレスレットを見つけた時、一人で隠し持つようにしていました。俺がそのことを指摘したら素直に見せてくれましたけど、それでも他の人には話さないように口止めされました。その理由、今ならわかる気がします」

牡丹「……なに?」

P「あなたに疑いをかけたくなかったからです。牡丹の花が描かれたビー玉が殺人現場で見つかったとすれば、それが犯人を示すダイイングメッセージだと受け取られるかもしれない。不用意にそのブレスレットのことを話して、あなたが疑われることがないようにしたんだと思います」

牡丹「……馬鹿だわ、あの子」

牡丹さんは呟くように言った。そして両手で顔を覆い、さめざめと泣きながら言った。

牡丹「そんなに優しいから……殺されるのよ……っ!」

――数時間後、談話室に全員が集まった。

最初の頃に比べて、随分と数が減ってしまったと思う。

五道「外の様子を見てきたが、トンネルはまだ塞がったままだ」

五道さんは椅子に腰掛けながら言った。

朱袮「あの……貴音さん」

貴音「……なんでしょう?」

朱袮「その……貴音さんは、これからどうするおつもりですか?」

それは、俺も気になっていたところだった。今回の事件で、貴音はあまりにも多くのものを失った。元通りの生活ができるのだろうか……。

朱袮「またアイドル……は、できませんよね……」

青山「そりゃあ……そうだろうよ」

隣にいた青山くんが頷いて言う。

貴音「……しばらくは、色々なことを考えるための時間がほしいと思います」

牡丹「貴音ちゃん」

牡丹さんが輪の外から声をかけた。

牡丹「良かったら、うちに来なさい。こんな大きな屋敷に一人っきりじゃ、あなたおかしくなっちゃうわ」

貴音「……よろしいのですか?」

牡丹「当たり前よ。こう見えて村長なんだから。居候一人ぐらい養えるわ」

きっとそれが一番いい。どれだけの時間がかかるかはわからないが、貴音の心を癒やすには静かな時間が必要だと思う。それに村の中だったらいつでも気が向いた時に屋敷に行くことはできるだろう。

P「ありがとうございます、牡丹さん」

牡丹さんが笑う。

牡丹「どうしてあなたがお礼を言うのよ」

朱袮「私も……なんとか立ち直れるように頑張ろうと思います。白河さんや、千家先生が亡くなったことはとても悲しいことだけど……いつまでもそれを引きずってたら、亡くなった方たちに申し訳ないから」

他の人達には、千家さんの正体については話していない。忘れるべき出来事というものもある。六原の事件はそれなのだ。神宿りももう存在する必要はない。

青山「……帰ったら、もっと寂しくなるかもな」

朱袮さんはその言葉に黙って頷いた。

五道さんは鬼憑き病の特効薬の調合法を記したページを手にとって読んでいた。そのページについても、松葉さんの部屋から見つかったものだと説明をしている。

P「……わかりますか?」

五道「漢方や本草学は専門じゃないからな……難しい。だが、それならその方面に詳しい知り合いに頼めばいいだけだ。これさえあれば鬼憑き病の治療は問題なく行えるだろう」

五道さんがいい笑顔でそう言うので、安心する。

P「よかった……」

安心したら視界がぐらついた。頭がぼうっとする。

五道「おい、どうした?」

……どうしよう、ふらふらする。椅子に座ってられない。そのまま床に倒れこんでしまう。

五道「まさか傷が――」

目の前にいる五道さんの声もはっきりと聞こえない。皆が近寄ってくるのがわかった。口々に誰かが、なにか言っているのがうっすらと聞こえる。

「プロデューサー!」

――ああ、これだけは誰の声かわかるな。

――気が付くと、俺は見たことのない部屋に寝かされていた。部屋の外は夜だった。窓から月の青白い光が差し込んでいて、なんだか幻想的な雰囲気だ。……満月だろうか。

そこは病院の一室のようだった。右腕から伸びたチューブの先には点滴台がある。

左腕の方はというと、傷のある肩口のあたりにしっかりと包帯が巻かれていた。

部屋の扉が開けられた。入ってきたのは看護師……ではなく、貴音だった。

P「貴音……?」

貴音は声をかけると、安心したような表情で微笑んだ。

貴音「プロデューサー……よかった……」

P「ここは……?」

貴音「プロデューサーが倒れられてから、へりこぷたーで救助が来たのです。プロデューサーはすぐにこの病院へ運ばれました」

なるほど、どうやら街の病院らしい。

貴音「痛みは、ありますか?」

貴音はベッド横の椅子に座って言った。

P「痛くは……ないな。麻酔が効いてるのかな。それとも、夢だったりして」

貴音はくすっと笑う。

貴音「おそらく……夢、なのではないでしょうか」

P「そっか、夢か……でも、覚めなくてもいいかなって思ってるよ」

貴音「……わたくしもです」

P「……なぁ、貴音」

貴音「なんでしょう?」

P「いつかは…………戻ってこいよな」

貴音「…………」

P「その……皆、貴音に会いたがってるからさ」

貴音「…………」

P「それになにより……」

貴音「……?」

P「俺が、貴音に会いたい」

貴音「っ……!」

貴音は立ち上がり、俺のすぐ近くに顔を寄せてきた。

貴音「プロデューサー……いえ、この呼び方は昨日限りでしたか」

P「いや、別にそんなことは――」

貴音が人差し指で俺の口を塞いだ。

貴音「ではこうお呼びしましょう――あなた様」

P「……くすぐったいな」

貴音がまた笑う。……よかった。この子は今でもこんなに自然に笑える。

貴音「あなた様? ……よいですか? これは……夢、なのですよ?」

P「へ……?」

貴音が手を俺の頬に添えた。貴音の髪の毛が顔にかかる。……彼女の匂いがした。

俺は、霞がかったような脳内でこんなことを考えていた。

ああ……夢よ、二度と覚めるな。

完結です
読んでいただいた方、本当にありがとうございました

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