地下鉄の車内は満員であった。
車内の空調では夏の暑さと人混みからくる熱を和らげきれず、高校へ向かう彼はだらだらと汗を流している。
右手には鞄を提げ、左手は吊革に掴まっている為、ハンカチで顔を拭くのも一苦労であった。
おまけに、周りと密着しているせいで、手を顔の前に持って行くのも容易ではない。
彼は苛立っていた。
彼の傍には香水だか制汗剤だか分からない匂いを強烈に放つ女が立っており、それが苛立ちに拍車をかける。
だが、何よりもいま彼の憎悪の対象となっていたのは、対面の椅子に座る連中だった。
六人掛けであるはずのその長椅子には、五人しか腰掛けていない。
主犯は中央に足を広げて座る背広を着た初老の男であったが、他の四人もまたその犯行を利用し、席を詰めようという努力を放棄していた。
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彼にはそれが許せなかった。
この五人組のせいで一人分車内が窮屈になっているという実害に対する怒りではなく、ルールが破られていることそのものへの言わば公的な怒りであった。
しかし、長椅子と彼との間にはいくらか距離があり、五人に注意することは難しい。
せめてもと主犯格へ向けて憎悪を込めた視線を送るが、男は目をつぶっている為、それも届くことはない。
彼の中で暗い炎がますます強く燃え上がる。
他人様へ迷惑をかけておきながら、一体どうしてそんな平気な顔をして座っていられるのか。
男の眉間の皺を目がけて、思い切り殴りつけたい衝動に駆られていた。
実現することはないと知っていながら。
彼の怒りは、五人の傍に立つ者達にさえ向けられる。
なぜ、誰も奴らに注意しようとはしないのか。
これほどあからさまに衆人環視の中でルールが破られているというのに、なぜ皆それを見過ごすのか。
解っている。
保身の為だ。
面倒に巻き込まれたくない。いや、恥をかきたくない。
そんな見当外れの羞恥心の為に、彼らはみな、見て見ぬふりをしている。
誰も彼も下らない。あっさりとルールを破り、そしてそれを咎める勇気を持たない。
彼は大人達を憎んだ。世間というものを憎んだ。
こうやって人混みに紛れながら、ただ、決まった仕事をこなし、そして、また人混みに紛れながら帰宅する。
だが、そこに正義はない。
彼らは大勢の他人を隠れ蓑に、むしろその一部となって、この世に蔓延る悪から目を逸らして生きている。
いや、そうではない。その歪で卑しい集合体こそが悪を内包しているのだ。
あれほど情熱に満ちていたはずの少年達の多くが、大人になれば輝きを失いこの集合体に取り込まれる。
彼は嫌悪した。
悪をなす五人組にも、悪を黙認する不正義なその他大勢にも、彼はなりたくはなかった。
彼は人混みをこそ憎んでいた。
何とか自分を落ち着かそうと試みる。
こんなひどい気分のまま学校へ行きたくはない。
窓の方に目をやる。
暗いトンネルの景色しか見えずとも、人間以外のものに目を向けていれば、そのうち落ち着いてくるだろう。
その時、妙な感覚を抱いた。
何か、あるはずのないものを目に入れた。そんな感覚である。
彼の目線はゆっくりと、いま辿ってきた道を引き返す。
見つけた。
彼とは二人分隔てたドアの脇。
自分と同じ高校の制服を着た女生徒が立っている。
うつむかせた顔は髪に隠れている為、よく見えない。
しかし、問題は彼女ではなく、彼女の後ろに立つ男の方にあった。
それは痴漢であった。
三十代半ばと思える、例によって背広を着たその男は、女生徒に背後から異様なほど密着していた。
その手が、ゆっくりとだが、女生徒の臀部の上で動くのが、人混みの隙間から確かに彼の目に映った。
心臓が早鐘を打つ。
汗が止まらない。
ポケットからハンカチを取り出そうとするが、上手くいかない。
そのうち額から垂れた汗が目の中に入り、酷くしみた。
落ち着く為に、ふうと息を吐き出すが、すぐに胸が苦しくなり、大きく息を吸う羽目になった。
しかし、それでも十分に酸素を取り込めた気がしない。息苦しさが変わらずに続く。
(止めさせなければ)
散り散りとなっていた思考がようやく纏まり、当然の結論に辿り着く。
いま、目前に行われていることは、五人組による椅子の占拠とは比べものにならぬ悪行であり、絶対に咎められる必要がある。
彼は声を出そうとした。
が、そこで思い直す。
(待てよ)
(あれは本当に痴漢なのか?)
たしかに、男の手は女生徒の臀部を触っているように見える。
しかし、それは人混みの隙間から僅かに見えるだけで、しかも時々隠れがちなのも事実である。
(もしかしたら、何かの見間違いということはないだろうか)
何しろ車内はこれだけ混んでいる。
前の人間とある程度密着してしまうことは避けられないし、腕だってそう自由には動かせない。
男の手は、その意志とは無関係に女生徒の臀部に押しつけられてしまい、男はただそこから脱しようとしているだけ、という可能性はないだろうか?
おそらくは、そうではない。しかし、確信は持てない。
痴漢冤罪の怖さは、彼も報道などで知っている。
不用意に彼を痴漢として告発し、もし男が無実だったならば、一人の人間の人生を台無しにしてしまうかもしれない。
(いや、それ以前にそもそもどうやって奴を告発するのだ?)
彼と男との間には、数人分の距離がある。
テレビでよく見る、痴漢の手を捕らえ掲げるような告発の仕方は、物理的に不可能なのだ。
(では、この場から大声で周囲に男を告発するか?)
だが、それでは現行犯を捕らえたという心理的な強みがない。
男が否認すればそれで終わってしまう。
(とはいえ、痴漢行為を止めさせることは出来る。せめてそれだけでも良しとするか?)
しかし、これにも問題はある。
彼が大声で男を告発すれば、当然、男はそれを否定し、彼に食ってかかるだろう。
その時に彼が頼れるのは、被害者である女生徒の証言だけだ。
では、彼女は本当のことを証言してくれるだろうか?
自分が声を掛ければ、周囲の目は彼女に向くだろう。
そして男は否定し、反論する。それも激しく、口早に。
そんな状況で、彼女に本当のことを言う勇気が果たしてあるのか?
はい、私は痴漢されていました。彼女がそう言うと、断言できるか?
もし、女生徒が気恥ずかしさから偽りの証言をしたら?
犯人はここぞとばかりに彼を嘘つき呼ばわりし、逆に告発するだろう。
彼は周りから白い目で見られ、大恥をかいて終わることになる。
そうならないと、一体誰が保証してくれる?
痴漢を裁くことは出来ない。逆にこちらが汚名を被ることになりかねない。
そもそも、本当に痴漢かどうかも確信を持てない。
自分は声をあげるべきなのか? 本当にそうしなければならないのか?
(もう少し、様子を見よう。そうだ、何とか彼らに近づくんだ)
本当に痴漢だと確信を持てるまで下手なことは出来ない。
その間に、痴漢の方に近づいて行けば良い。
(もう少し。もう少しだ)
(もう、あと少しだから……)
『賀川―、賀川―』
駅への到着を告げるアナウンスが流れる。
それを聞いた彼は、じっと男の手元に向けられていた視線をあげた。
彼と、そして女生徒の目的の駅にもうすぐ着くのだ。
(終わった)
彼は思わず息を吐いた。
電車が止まり、ドアが開く。
パッと女生徒が飛び出して行った。
彼も、残された男の方を見ないようにしながら電車を降りる。
扉から少し離れた場所まで来ると、もう一度彼は息を吐いた。
と、改札口への昇り階段の傍に女学生がまだ立っているのが目に入った。
何をするでもなく、ただ、階段を見上げている。
唐突に、彼女がこちらを向いた。
彼と目が合う。知らない顔だった。
だが、すぐに彼女は顔を戻すと、今度こそ階段を昇り始めた。
彼は動けなかった。
女生徒の目の中に、確かに侮蔑の色を見て取ったからである。
この場合、彼女が本当に彼を侮蔑していたかどうかは関係ない。
女生徒の目の中に、言いようのない侮蔑が映っていたと、彼がそう感じたことだけが問題であった。
彼は呆然と立ちつくした。
つい先刻、電車内で起きたことを、思い起こさない訳にはいかなかった。
男が、女生徒の臀部を触っていたこと。
彼女がそれに苦しんでいるであろうということを、彼は解っていたこと。
そして、目的地が迫っているのに気づかないふりをしながら、慎重に、慎重に、どう対処すべきかの思案に暮れていたこと。
それらの事実がいっぺんに、彼の心を容赦なく責め立てた。
彼は歩き出した。
いつの間にか、ホームに残っているのは彼だけになり、他の乗客はみな階段を昇っている。
彼はその人混みに加わろうとした。
ほんの十数分前まで、あれほど憎んでいたはずの人混みが、今では懐かしく、安心感すら与えてくれた。
まるで母親の胸の中へ飛び込んでいく赤子のように、彼は早足で人混みに向かった。
しかし、またしても彼の歩みは止まる。
人混みと、彼との間に、大きな断崖が存在するのを発見したからであった。
先を急ぐ彼らの背中は、明確に彼のことを拒絶していた。
人混みは彼を同胞とは認めなかった。
そこには、赦しを与える寛容も、罪悪感を分け合う下賤な仲間意識すらも見あたらなかった。
彼はただ、徐々に人混みが高く、高く遠ざかっていくのを、途方に暮れたように、地の底から見上げ続けるしかなかった。
おわり
お付き合い頂きありがとうございました。
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